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COLUMN/コラム2022.12.14
こだわりの“色彩”に映える、グリーナウェイの反骨と諧謔精神『コックと泥棒、その妻と愛人』
1942年イギリスのウェールズに生まれた、ピーター・グリーナウェイ。「最初に恋した芸術は絵画だった」という彼は、画家になりたくて美術学校に通うが、その在学中、スウェーデンの巨匠イングマル・ベルイマン監督の『第七の封印』(1957)を観て、「人生が変わった」。それはグリーナウェイ、17歳の時だった。 強く映画に惹かれながらも、卒業後は絵を描いて暮らそうと考えた。しかし生活が成り立たなかったため、映画の編集の仕事をすることに。そこで様々な、カメラテクニックを学んだという。 66年に、5分の実験映画を製作。それ以降は、数字やアルファベットをコラージュした幾何学的な実験映画を次々と製作し、次第に評判となっていく。 初めての劇映画は、『英国式庭園殺人事件』。この作品は82年、グリーナウェイ40歳の時に公開され、ヨーロッパでは、カルト映画として熱狂的に支持される。 因みに日本では、続く『ZOO』(86)『建築家の腹』(87)『数に溺れて』(88)等々の作品を、先に公開。『英国式…』は、91年まで待たなければならなかった。 グリーナウェイはかつて撮った実験映画をバージョンアップするかのように、『ZOO』ではアルファベット、『数に溺れて』では数字に過剰にこだわった演出を見せた。その作風や様式美は、日本でも熱烈なシンパを生み出したが、その時点ではまだ、“カルト映画”の範疇に過ぎなかった。 そうした作家性を損なうことなく、それでいて、ストーリー自体はわかり易く展開。知的なエンタメとして楽しめることを実現し、多くの映画ファンの支持を集めたと言えるのが、本作『コックと泥棒、その妻と愛人』(89)である。 ***** 高級フランス料理店「ル・オランデーズ」。一流シェフであるリチャード(演:リシャール・ポーランジェ)を擁するこの店に、毎夜オーナー気取りで訪れるのは、泥棒のアルバート(演:マイケル・ガンボン)と、その妻ジョージーナ(演:ヘレン・ミレン)。そしてアルバートの手下ミッチェル(演:ティム・ロス)ら。 盗んだ金で贅沢三昧。傍若無人な態度で、他の客にも迷惑を掛けまくるアルバートに、リチャードはうんざりしながらも、追い出すことはできない。ジョージーナも夫の卑しさに辟易しながら、彼の凶暴さをよく知ってるため、逃げ出せなかった。 そんなある時ジョージーナは、常連客の紳士マイケル(演:アラン・ハワード)と目が合い、何かを感じた。示し合わせたようにトイレの個室に向かい、愛し合おうとする2人。 その日は妻の戻りが遅いと、アルバートが追ってきて、未遂に終わる。しかしそれからは毎夜店を訪れる度、ジョージーナとマイケルはリチャードの計らいで、厨房の奥や食材庫などで、情事に耽るようになる。 アルバートが妻の不貞に、遂に気付く。愛し合う2人は、マイケル宅へと逃げのびた。 誰に憚ることなく抱き合い、リチャードの差し入れを食しながら、幸せに震える2人。しかし至福の時は、あっという間に終わる。 隠れ家を、アルバートが発見。マイケルは、残忍な方法で殺害された。 涙を流すジョージーナは、夫への復讐を誓い、リチャードの協力を求める。彼女が実行した、世にもおぞましいその方法とは? ***** 映画が製作された80年代終わりは、飽食の時代と盛んに言われた頃。グリーナウェイは、消費社会のメタファーとして、“レストラン”という舞台を選んだ。 彼曰く、「人はそこで、豪華なものを食べ、食べているところを見られ、見られるから着飾り、マナーに従い、スノッブな会話を楽しむ。自己PRの場としてのレストランは、突き詰めれば悪の根源でもあるのだ」 グリーナウェイは本作を、自分のフィルモグラフィーで、唯一の政治的な映画かも知れないとも語っている。そもそも本作の企画をスタートさせたのは、時のイギリス首相マーガレット・サッチャーによる、新自由主義に基づいた政策“サッチャリズム”への非難からだった。 凶悪な泥棒のアルバートは、富裕層と貧困層の格差を広げる、“サッチャリズム”を信奉する者を表している。その傲慢さや無神経さ、貪欲ぶりを、「絶対的な悪」として描くのが、本作のモチーフのひとつであった。 ではグリーナウェイはそうしたことを、どんな手法を用いて描いたのだろうか? 元は画家志望だった彼は、「カメラを使って絵を描いている」と言われるように、画作りに於いて、“シンメトリー=左右対称”にこだわる。そしてこのシンメトリーは、キャラ設定などにも及ぶ。 本作の場合は、1人の女を巡る、2人の男というシンメトリー。その1人は、野卑な泥棒であり、もう1人は、学者で教養人という、対照的な2人である。 グリーナウェイは、文学にも惹かれ、言語そのものにも大いなる興味を持っている。結果的に絵画や文学など、西欧文化の古典からの引用が、頻繁に為されることとなる。そもそも『コックと泥棒、その妻と愛人』というタイトル自体、イギリスの伝承童謡である、「マザー・グース」からの引用だという。 グリーナウェイは自らを、フィルムメーカーとは思っていない。「映画という媒体に身をおいた画家であり、また、小説家」だと、自負しているのだ。 「映画という媒体に身をおいた画家」としては、“オランダ・バロック美術”への傾倒がよく知られる。本作ではレストランと店外に、17世紀の画家ハルスによる、「聖ゲオルギウス射手組合の士官たちの会食」が飾られている。まさに“オランダ・バロック”の特徴のひとつである、写実的な「集団の肖像画」だ。12人もの士官たちが、各々くつろぎ、生き生きとした表情で描かれている。 そしてこの絵画で士官たちが着る服が、レストランに集う、泥棒たちの衣装のモデルとなっているのである。本作は、世界的なデザイナーである、ジャン=ポール・ゴルチエが、初めて映画の衣裳を担当した作品でもある。 絵画的という意味では、本作で最も特徴的なのが、“色彩”である。登場する部屋ごとに、象徴的な色で統一を行っているのだ。レストランは“赤”、厨房は“緑”、トイレは“白”等々といった具合に。ジョージーナがレストランからトイレに入る時には、ドレスの色が赤から白に変わったりする。 こうした色にはそれぞれ意味合いがあり、例えばレストランの“赤”は、暴力の場であることを表す。厨房の“緑”は、神聖な場という意味。そこでは食べ物が生み出され、また、人が逃げて潜むことができる。そしてトイレの“白”は、天国を表現。ジョージーナとその愛人マイケルにとっては、初めての逢瀬の場であった。 本作では他にも、“青”“白”“黄”“金”といった色が使われている。かのピカソは、「色は物から離れて、自由になることができる」と考えて、自らの作品で実践した。グリーナウェイは、それと同じ野心的なチャレンジを行い、色は非常に装飾的な上、そこに感情を盛り込めることを、示そうとしたのだ。 こうした、グリーナウェイの用意したステージの上で踊った俳優陣も、見事である。特に「悪の化身」とでも言うべき、泥棒アルバート役のマイケル・ガンボン。グリーナウェイ言うところの、「どんな魅力もない絶対的な悪人」に対して、観客は不快感を募らせつつも、その存在感が圧倒的で、目が離せない。 妻のジョージーナ役は、今や名優の名を恣にしているヘレン・ミレン。当時40代半ばに差し掛かろうという頃だが、愛人役のアラン・ハワードと共に、全裸で画面内を右往左往し続ける。 本作は公開時から、典型的な「ポスト・モダン」だと言われた。「ポスト・モダン」を簡単に説明すると、芸術・文化の諸分野で、モダニズム=近代主義の行き詰まりを打ち破ろうとする動きである。建築やデザインに於いては、装飾の比重が高まり、過去の様式が自由に取り入れられるところに特色がある。 先にも記したことだが、グリーナウェイ作品は、西欧文化の古典からの引用が頻繁に成されるのが、特徴のひとつ。“色彩”で装飾的な試みを行ったことも含めて、まさに「ポスト・モダン」と合致している。 それ故に本作は、鑑賞しただけですべてがわかるような映画ではない。多岐に亙るサブテキストを学習しなくては、理解を深めることが困難な代物とも言える。 そんな作品が、日本でも大きな注目を集めた。それはまさに、“時代”の賜物と言える。 1980年代中盤から2000年代はじめ頃まで、日本の映画興行には、「ミニシアターの時代」があった。単館興行でロングランし、1億から2億もの興行収入を叩き出すような作品も珍しくなかった。 そんな中で「シネマライズ」という映画館は、86年にオープン。渋谷のミニシアター文化の中核を担った。 デヴィッド・リンチの『ブルーベルベット』(86製作/87日本公開)、レオス・カラックスの『ポンヌフの恋人』(91製作/92日本公開)、ダニー・ボイルの『トレインスポッティング』(96製作/同年日本公開)や、テーマ曲「コーリング・ユー」が印象的な『バグダッド・カフェ』(87製作/89日本公開)、マサラ映画人気に火を点けた『ムトゥ 踊るマハラジャ』(95製作/98日本公開)等々、「シネマライズ」は数々のヒット作をリリースした。『コックと泥棒、その妻と愛人』は、興行に於いて、それらに連なる存在感を放った作品なのである。 1990年の8月4日に公開し、11月30日まで、ほぼ4カ月のロングラン。流行の最先端を発信する街に集う、いわゆる“渋谷系”の若者たちも、多く集客した。 若者の映画離れが懸念されて久しい今となっては、まさに隔世の感である。その舞台となった「シネマライズ」も、2016年に閉館。30年の歴史に、ピリオドを打った。「ポスト・モダン」に関して、「ただの流行りものだった」と、後に辛辣な批評も行われている。では『コックと泥棒…』やグリーナウェイの集めた注目も、その時期の「流行りもの」に過ぎなかったのか? そんなことは、ないだろう。些か古びた部分はあれど、グリーナウェイの試みは、いま観ても十分に刺激的で、鮮烈な魅力が溢れている。『コックと泥棒、その妻と愛人』は、“サッチャリズム”から30~40年も遅れて、今更新自由主義に傾倒。深刻な格差を生み出している我が国に於いては、シャレにならない作品とも言える。 泥棒アルバートのような輩が横行しているのを、我々の多くは今まさに、目の当たりにしている筈だ。■ 『コックと泥棒、その妻と愛人』© NBC Universal All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2022.12.09
1980年代韓国の“闇”を斬り裂いた!№1監督ポン・ジュノの出世作!!『殺人の追憶』
1960年代生まれで、80年代に大学で民主化運動の担い手となり、90年代に30代を迎えた者たちを、韓国では“683世代”と呼んだ。そしてこの世代は、政治経済から文化まで、その後の韓国社会をリードしていく存在となる。『パラサイト 半地下の家族』(2019)で、「カンヌ国際映画祭」のパルム・ドールと「アカデミー賞」の作品賞・監督賞などを受賞するという快挙を成し遂げた、韓国№1監督ポン・ジュノも、まさにこの世代。本人は69年生まれで、88年に大学に入ったので、あまり実感がなく、その分け方自体が「好きではない」というが。 確かに90年代、“韓国映画ルネッサンス”と言われる潮流が起こった時、彼はまだ長編監督作品を、ものしてなかった。そして2000年になって完成した第1作『ほえる犬は噛まない』は、一部で高い評価を得ながらも、興行的には振るわない結果に終わっている。 しかしプロデューサーのチャ・スンジェは、『ほえる…』の失敗をものともせず、ポン・ジュノに続けてチャンスを与えた。彼が取り掛かった長編第2作が、本作『殺人の追憶』(2003)である。 題材は、“華城(ファソン)連続殺人事件”。86年から91年に掛け、ソウルから南に50㌔ほど離れた華城郡台安村の半径2㌔以内で起こった、10件に及ぶ連続強姦殺人事件である。180万人の警察官が動員され、3,000人の容疑者が取り調べを受けたが、犯人は捕まらないまま、10年余の歳月が流れていた。 この事件はすでに演劇の題材となっており、「私に会いに来て」というタイトルで、1996年に上演されていた。ポン・ジュノはこの演劇を原作としながら、事件を担当した刑事や取材した記者、現場近隣の住民に会って話を聞き、関連資料を読み込んだ。 そして自分なりに事件を整理してみたところ、「…自然と事件を時代背景と共に考えるようになった」という。この作業に半年掛けた後、脚本の執筆は、1人で行った。 因みに63年生まれで、ポン・ジュノよりは6歳ほど年長ながら、同じ“386世代”で、すでに『JSA』(00)でヒットを飛ばしていたパク・チャヌク監督も、「私に会いに来て」の映画化を考えていた。しかしポン・ジュノが取り組んでいることを知って、あきらめたという。 “華城連続殺人事件”には、“386”の代表的な監督たちの興味を強く引く、“何か”があったのだ。 未解決の連続殺人事件を映画化するということで、スタッフとキャスト全員で追悼式を行ってからクランクインした本作。事件から10数年経って、華城は当時の農村風景が残る環境とはかなり様相が変わっており、また住民の感情も考慮して、事件現場よりも更に南部の全羅道でロケが行われた。 製作費は、30億ウォン=3億円。通常の韓国映画より、少し高い程度のバジェットであった。 ***** 1986年、華城の農村で連続猟奇殺人が発生する。被害者の若い女性は、手足を拘束され、頭部にガードルを被せられたまま、用水路などに放置されていた。 担当のパク・トゥマン刑事(演:ソン・ガンホ)は、「俺は人を見る目がある」と豪語するが、捜査は進まない。そんなある日、頭の弱い男クァンホが、被害者の1人に付きまとっていたという情報を得る。トゥマンは相棒のヨング刑事と共に、拷問や証拠の捏造まで行って、クァンホを犯人にしようとするが、うまくいかない。 そんな時にソウルから、ソ・テユン刑事(演:キム・サンギュン)が派遣されてくる。テユンは、「書類は嘘をつかない」と言い、各事件の共通性として「雨の日に発生した」こと、「被害者は赤い服を着ていた」ことを見つけ出す。更に彼の指摘通り、失踪していた女性が、死体となって発見される。 やり方が正反対のトゥマンとテユンは、対立しながら、捜査を進める。しかし有力な手掛かりは見つからず、犠牲者は増えていく。 雨で犯行の起こる日、必ずラジオ番組に「憂鬱な手紙」という曲をリクエストしてくる男がいることがわかる。その男ヒョンギュ(演:パク・ヘイル)は、連続殺人が起こり始めた頃から、村で働き始めていた。 有力な容疑者と目星を付け、現場に残された精液とヒョンギュのDNAが一致するか検査を行うことになる。しかし当時の韓国には装備がなく、アメリカに送って鑑定が返ってくるまで、数週間待たねばならない。 一日千秋の思いで結果を待つ刑事たちだったが、その間にまた犯行が起きて…。 ***** 本作の内容は、事件の実際と、それを基にした演劇と、更にはポン・ジュノの想像を合わせたものだという。例えば、被害者の陰部から、切り分けた桃のかけらが幾つも見付かったことや、捜査に行き詰まった刑事たちが霊媒師を訪ねたこと、頭の弱い容疑者が、尋問後に列車に飛び込み自殺したことなどは、“事実”を採り入れている。 有力な容疑者のDNA鑑定は、実際には、日本に検体を送って行われた。これをアメリカに変更したのは、当時の米韓の対比を描きたかったからだという。 容疑者がラジオ番組に歌をリクエストするというのは、まったくのフィクション。この設定は、原作の演劇にもあったが、その曲はモーツァルトの「レクイエム」であった。ポン・ジュノはそれを、「1980年代の雰囲気が重要」と、当時の歌謡曲である「憂鬱な手紙」に変えたのである。 因みに原作の「私に会いに来て」で、主人公の相棒の暴力刑事を演じたキム・レハと、頭の弱い容疑者役だったパク・レシクは、そのまま本作で、同じ役どころを与えられている。 本作を、典型的な“連続殺人事件もの”として作ったり、最初はいがみ合っている刑事たちが、やがて力を合わして捜査に取り組んでいく、“バディもの”として描くことも可能であった。しかし先に記した通り、「…自然と事件を時代背景と共に考えるようになった」というポン・ジュノは、韓国社会が通ってきた80年代の暗部を描くのを、メインテーマとした。 事件当時の新聞には、88年に開催が迫った「ソウルオリンピック」が大見出しとなっている下に、「華城でまた死体発見」という小さな記事が載っている。ポン・ジュノはそれを見て、妙な気がした。そして「…これは不条理ではないかと思った」という。「華城事件」で10人の女性が殺された86年から91年は、ちょうど全斗煥大統領による軍事政権に対する民主化要求運動が、全国的な広がりを見せた時代である。そしてこの頃の警察は、ド田舎の村の人々を守ることよりも、政権を守るためにデモを鎮圧することの方を、重視していた。 本作の中では、機動隊がデモ隊を取り締まるために出動している間に、事件が起こる描写がある。また夜道を歩いていた女子学生が犯人に襲われる場面は、政府の灯火管制により、村のあちこちで消灯したり、シャッターが下ろされたりして、人為的に暗闇が訪れていくのと、執拗にカットバックされる。政府が作り出した暗闇が、罪のない女子学生の命を奪う犯人を、サポートしてしまうのだ。 これぞポン・ジュノ言うところの「不条理」。「時代の暗黒が殺人事件の暗黒を覆う…」わけである。 高度成長期でもあるこの時期、稲田や畑ばかりだった農村に、工場が建てられる。それまでは村全体が一つの大家族のような繋がりだったのに、縁もゆかりもない、見も知らぬ労働者が大挙して移り住んでくることによって、“事件”が起こるという構図も、まさに時代が生んだ殺人事件と言える。 因みに我が国でも、64年の東京オリンピック前年には、5人連続殺人の“西口彰事件”や、4歳の子どもを営利誘拐目的で殺害した“吉展ちゃん事件”などが起きている。奇しくも日韓共に、五輪が象徴する時代の転換期には、猟奇的な事件が発生しているわけだ。 “西口彰事件”については、それをモデルにした、今村昌平監督の『復讐するは我にあり』(79)という有名な邦画がある。本作の演出に当たってポン・ジュノは、この作品を非常に参考にしたという。 本作の邦題『殺人の追憶』は、原題の直訳だ。これはデビュー作『ほえる犬は噛まない』で、「フランダースの犬」(原題)という意に沿わぬタイトルを映画会社に付けられてしまい、結果的に内容と合わないことも、興行の失敗に繋がったという反省から、ポン・ジュノ自らが付けたもの。「殺人」の「追憶」という連なりには、組合せの妙を感じる。「追憶」という言葉を使ったのは、80年代の韓国、その“暗黒”を、積極的に振り返るという、ポン・ジュノの想いが籠められているのである。 そうした想いを、具現化していくための演出も、半端なことはしない。この規模の作品では、通常3~4ヶ月の撮影期間となるが、本作は半年間。これは「冒頭とラストだけ晴で、後は曇りでなくてはダメ」という、監督のこだわりによって掛かった。特に件の女子学生が犠牲になるシーンでは、理想的な曇天を待つために、1か月を要したという。 本作は先に挙げたように、“連続殺人事件もの”“バディもの”といった、ジャンル映画に括られることから逃れているのも、特徴だ。ポン・ジュノは毎作品、「ジャンルの解体」を目指しているという。 これに関しては、『岬の兄弟』(2019)『さがす』(22)などの作品で注目を集めた片山晋三監督が、興味深い証言をしている。片山は『TOKYO!/シェイキング東京』(08)『母なる証明』(09)という2作で、日本人ながら、ポン・ジュノ監督作品の助監督を務めている。「…ジャンルを意識しないで一カット、一カットごとに映画の見え方がホラーだったりコメディだったりサスペンスだったりに変わっても成立すること、むしろその方が面白いと気づいたのが僕にとっての収穫です」 この言から、片山の『さがす』も、確かに「ジャンルの解体」を目指した作風になっていることに思い当たる。 さてここで、ポン・ジュノの期待に応えた、本作の出演者についても、触れねばなるまい。本作に続いて、『グエムル‐漢江の怪物‐』(06)『スノーピアサー』(13)そして『パラサイト 半地下の家族』(19)といったポン・ジュノ作品に主演。「最も偉大な俳優であり、同伴者」と、ポン・ジュノが称賛を惜しまない存在となっている、ソン・ガンホも、本作のトゥマン刑事役が、初顔合わせ。『反則王』(00)『JSA』(00)といった主演作で大ヒットを飛ばし、すでにスター俳優だった彼が、駆け出しの監督の作品に主演したのは、『ほえる犬は噛まない』を観て、笑い転げたことに始まる。「ポン監督に自分から電話をかけて関心を示した情熱が買われ、キャスティングされた」のだという。いち早く監督の才能を、見抜いていたわけだ。またガンホが無名時代にオーディションに落ちた際、その作品の助監督だった、ポン・ジュノに励まされたというエピソードもある。 いざクランクインし、序盤の数シーンを撮ってみると、アドリブも多いガンホに対して監督は、「野生の馬」という印象を抱く。そして彼をコントロールする方法としては、「ただ垣根を広く張り巡らしておいて、思いっきり駆け回れるようにしたうえで、放しておこう」という考えに至った。「…優れた感性と創造力、作品に対する理解力を持ち合わせている」芸術家と、認めてのことだった。 キム・サンギョンを起用したのは、ホン・サンス監督の『気まぐれな唇』(02)を観てのこと。サンギョンは本作の脚本を読んで、テユン刑事に感情移入。「同じ気持ちになって猛烈に腹が立った」という。 有力な容疑者として追及されるヒョンギュ役は、パク・ヘイル。ポン・ジュノは脚本の段階から、彼の特徴的な顔を、思い浮かべていた。 ラスト、未解決に終わった事件から歳月が経ち、今や刑事を辞めて営業マンになったトゥマンが、殺人のあった現場を訪れ、自分の少し前に犯人らしき男が、同じ場所を訪れていたことを、その場に居た女の子から聞いて愕然とする。そして観客を睨みつけるような彼の顔のアップとなって、終幕となる。 これは「俺は人を見る目がある」「目を見れば、わかる」などと、本作の中で容疑者の肩を摑んでは、その顔を見つめる行為を続けてきた、トゥマンの最後の睨みである。ポン・ジュノの、「観客として映画を見るかもしれない真犯人の顔を俳優の目でにらみつけたかった」という想いから、こうしたラストになった。 実はこのシーンは、クランクインから間もなく撮られたもので、監督はガンホに、「射精の直前で我慢しているような表情でやってほしい」と演出を行った。監督曰く、ガンホは本当にあきれた顔を向けたというが、実際は何度も耳打ちで注文してはリテイクする監督を見て、「この人はこのシーンに勝負をかけているんだな」と理解。渾身の力を、注ぎ込んだという。 さて本作は公開されると、韓国内で560万人を動員。2003年の№1ヒット作となり、数多の賞も受賞した。紛れもなくポン・ジュノの出世作であり、国際的な評価も高い。20年近く経った今でも、彼の「最高傑作」であると、主張する向きが少なくない。 ここで“華城事件”の終幕についても、触れたい。2019年になって、真犯人が浮上した。その時56歳になっていた、イ・チュンジェという男。 94年に、妻の妹を強姦殺害した罪で、無期懲役が確定し、24年もの間服役中だった。改めてのDNA鑑定の結果、彼が真犯人であることが確定したが、一連の事件はすべて「時効」が成立していた。 ここで改めて注目されたのが、警察の杜撰な捜査。容疑者の中には自殺者が居たことも記したが、特に酷かったのは、10件の殺人の内、1件の犯人として逮捕され、20年もの間収監されていた男性が居たことである。 本作『殺人の追憶』が、事件の解決には役立ったのかどうかは、明言できない。しかし、あの時代の“闇”を、紛れもなく斬り裂いていたのだ。■ 『殺人の追憶』© 2003 CJ E&M CORPORATION, ALL 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COLUMN/コラム2022.12.06
『ジェイソン・ボーン』シリーズより先行した多動的カメラワークとカオス編集『マイ・ボディガード』
「メキシコでは1時間に1件の誘拐事件が発生し、人質の70%は生還されず殺される」 2004年にトニー・スコット監督、デンゼル・ワシントン主演で発表された映画『マイ・ボディガード』は、このラテンアメリカでの誘拐に関する当時の実情を示して幕を開ける。本作の主人公であるクリーシー(ワシントン)は引退したCIAの対テロ工作員で、彼は自身のキャリアを血塗られたものとして後悔している。そんな彼の陰鬱な感情をはらおうと、元同僚のレイバーン(クリストファー・ウォーケン)は、クリーシーにピタ(ダコタ・ファニング)という少女のボディガードとして、メキシコシティで仕事をするようはからう。 警護にあたった当初は、クリーシーはピタとの感情的な壁を取り去ることができずにいたが、次第に二人は父娘にも似た絆を形成していく。そして映画は、少女の無垢な愛情が、一人の男を心の闇から解放する過程を表現豊かに捉えていくのだ。 しかし物語は予期せぬ事態によって、クリーシーは自らのささやさな幸福を破壊した者に対し、忌まわしいと捨て去ったスキルを用いることになる——。 原作はバイオレンス小説を過半とするイギリスの大家、A・J・クィネルが1980年に発表した「燃える男」。監督のトニー・スコットは吸血鬼伝説をモダンにアレンジした劇場長編デビュー作『ハンガー』(83) に次ぎ、出版ほどなくベストセラーとなった同作を手がけるつもりだった。もともとクィネルのファンだったスコットは、『ハンガー』公開後に早くも映画化の予算を獲得しようと動いたのである。しかし当時、彼はまだ兄リドリー・スコットの会社のCMディレクターだったために資金を確保できず、代わりにジェリー・ブラッカイマーより打診のあった『トップガン』(86) に着手する。 いっぽう「燃える男」は1987年にプロデューサーのアーノン・ミルチャンとロバート・ベンムッサが仏伊米合作で映画化を果たし、俳優陣についてはスコット・グレンがクリーシーを、ジョー・ペシが彼の友人でありパートナーのデヴィッドに扮し、ジェイド・マルが少女サマンサ役で出演した。アメリカでは同年10月9日に178の劇場で公開され、わずか519,000ドルの興行収入しか得られず、ビデオやテレビ放送などの二次収益に頼るしかなかった。 奇しくも『マイ・ボディガード』企画の再浮上は、この『マン・オン・ファイア』の二次収益媒体が大きく関与する。後年、ミルチャンがテレビで本作を見たとき、彼は翌朝トニーに電話し、自分がまだ「燃える男」の権利を持っており、再映画化に興味があるかどうか、そして『マン・オン・ファイア』が示したものより多くの可能性があるかどうかを訊いた。スコットは今なら「燃える男」を壮大で理想的な自身の作品として世に送り出せる自信があり、クィネルへの再アクセスはいつでも可能であることをミルチャンに示したのだ。 同時にスコットは脚本家にあたりをつけ、シルベスター・スタローンとアントニオ・バンデラス共演のアクションスリラー『暗殺者』(95) や、ジェームズ・エルロイ原作の犯罪サスペンス『L.A.コンフィデンシャル』(97) で注目中のブライアン・ヘルゲランドに依頼した。 スコットは彼が脚本を手がけた『ミスティック・リバー』(03) を気に入っており、偶然にもヘルゲランドは『マン・オン・ファイア』の存在を熟知していた。1989年、カリフォルニア州マンハッタンビーチで、彼は地元のレンタルビデオ店をよく訪れ、おすすめを尋ねていた。そこでクエンティン・タランティーノ(!)という脚本家志望の店員が同作のビデオを勧めてくれたのだという。オファー当時、ヘルゲランドは監督業に移行しようとしていたことから乗り気ではなかったが、スコットに代わって自分が同作の監督をやる可能性をミルチャンに示唆され、依頼を受けた。 ヘルゲランドの脚色は原作から多くのセリフを引用し、クィネルへのリスペクトを示したが、クライマックスを原作とは異なるものにした。小説は実際に起こった2つの誘拐事件からインスパイアされ、そのためクィネルは事件と同じような結末を維持したが、映画では独自の展開が用意されている。それはピタによって人間的感情を取り戻したクリーシーの贖罪といえるもので、彼とピタとの友情をパイプにしたエモーショナルな改変である。 しかし舞台となるイタリアが、映画製作時には小説執筆時の頃よりも犯罪率が低下していたため、製作サイドは物語の信憑性を損ねることを懸念。彼らは映画の舞台となる場所を変更することにした。前掲の「メキシコでは1時間に1件の誘拐事件」は、こうした経緯を抜きには語れぬ重要なリードなのだ。 また劇中における俳優たちのパフォーマンスも、この映画を観る者との感情の同期に貢献している。たとえば物語の当初、クリーシーがピタのボディガードを引き受けたことを後悔していたとき、実際にデンゼル・ワシントンはセットでファニングと距離を保ち、積極的にコンタクトをとることを避けたという。そして物語の過程でクリーシーがピタに親しみを覚えると、ワシントンは舞台裏で同じように接したのだ。ワシントンとファニングはお互いに見事なボレーを交わし、彼らの即興演出は対話に迫真性をもたらしたのである。 だが最も作品において効果的に貢献したのは、監督トニー・スコットによる多動的カメラワークとカオスに満ちた編集だろう。きめ細かなグラデーションフィルターの選択や大胆なジャンプカット、あるいはクイックズームに可変速度効果など、これらはクリーシーの感情に合わせて変化していく。加えて本作ではキャプションを活かしたタイポグラフィも目を引くが、これはスコットがBMWのPVを演出したとき、ジェームズ・ブラウンのセリフをスタリュシュに加工した効果を適応させたもので、映画の中でもひときわ強い印象を残す。 James Brown - Beat The Devil (2002) しかし、こうした効果が評論家の目には装飾的にしか映らず、その頃はむしろ批判の対象として捉えられる傾向にあったようだ。映画評論の権威ロジャー・エバートは本作を評し「この映画には、長さとスタイルを正当化するための深みが必要だ」と断じたが、これなどはその短絡的な解釈の顕著な例だろう。 だが『マイ・ボディガード』の映像的・あるいは編集に見られる傾向は、そのスタイルがドラマや登場人物の推移を巧みに視覚化したものとして再評価の機会が待たれる。何より本作の公開は、あの多動的表現でアクション映画の気流を変えた『ボーン・スプレマシー』(04) より公開が3ヶ月早く、その先進性を改めて問うべきだろう。なにより『マイ・ボディガード』は日本公開時、全体的によく編集された印象のある劇場用パンフレットにも、最大の貢献者であるトニー・スコットに関する記述が少なく、そこも画竜点睛を欠く口惜しさは否めなかった。本作を叩き台に、監督への言及が活発化することを望みたい。■ 『マイ・ボディガード(2004)』© 2004 Twentieth Century Fox Film Corporation and Monarchy Enterprises S.a.r.l. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2022.12.02
ジョン・ヒューズ監督が高校生たちの忘れられない1日を描いた青春群像劇『ブレックファスト・クラブ』
土曜日の補習授業で何かが起こる…? 処女作『すてきな片想い』(’84)で16歳の誕生日を迎えた女子高生の1日を通して、思春期の少女とその友達の揺れ動く多感な心情や自我の目覚めを鮮やかに浮き彫りにしたジョン・ヒューズが、今度は土曜日の補習授業に呼び出された高校生たちの1日を描いた監督2作目である。青春映画の黄金期と呼ばれる’80年代において、まさに時代の象徴的な存在だった巨匠ジョン・ヒューズ。特に本作と『フェリスはある朝突然に』(’86)の2本は、’80年代青春映画を語るうえでも絶対に外すことの出来ない傑作と言えよう。 それは1984年3月24日の土曜日のこと。イリノイ州のシャーマー高校では、ひとけのない閑散とした校舎に5名の生徒たちが集まってくる。レスリング部の花形選手である体育会系のアンドリュー(エミリオ・エステベス)、お高くとまった金持ちのお嬢さまクレア(モリー・リングウォルド)、成績はトップだが見た目の冴えないガリ勉くんブライアン(アンソニー・マイケル・ホール)、奇行を繰り返して周囲をドン引きさせる不思議ちゃんアリソン(アリー・シーディ)、そして口が悪くて反抗的な不良少年ベンダー(ジャッド・ネルソン)。普段の学校生活では決して交わることのない彼らは、それぞれ問題行動を起こした罰として、休日の朝7時から補習授業を受けることになったのだ。 学校の図書館に集まった生徒たちを待ち受けていたのは、口うるさくて厳しい副校長のヴァーノン先生(ポール・グリーソン)。勝手に喋るな、席を移動するな、居眠りをするなと注意された彼らは、午後4時までに作文を書き上げるよう指示される。テーマは「自分とは何か」。ウンザリとした表情を浮かべる生徒たち。仕方なしに作文を書こうとするものの、みんな一向にペンが進まない。図書館に漂う沈黙と退屈。口火を切ったのは、ルール無視など日常茶飯事のベンダーだ。ほかの4人がなぜ補修の罰を受けたのか、しつこく聞き出そうとするベンダー。その無神経な態度にはじめは苛ついていたアンドリューたちだったが、しかしこれをきっかけに段々と打ち解けるようになる。 ヴァーノン先生がトイレに行った隙を見計らって、こっそり図書館を抜け出す生徒たち。ベンダーはロッカーに隠していたマリファナを回収する。ところが、図書館への帰り道を間違えて危機一髪。ヴァーノン先生に見つかったら大目玉を食らってしまう。そこで言い出しっぺのベンダーが先生の注意を惹きつけ、仲間を救って自分だけが罰を受けることに。反省するまで物置に閉じ込められたベンダーだが、性懲りもなく通気口から逃げ出して図書館へ無事に帰還。物音に気付いたヴァーノン先生が駆け込んでくるものの、4人はベンダーを匿って守り通す。ささやかな友情の絆が芽生え始めた生徒たち。マリファナを吸って解放感に浸った彼らは、やがてそれぞれが学校や家庭で抱える悩みや不安、怒りや不満などの本音を打ち明けるのだった…。 ハリウッドで初めてスクールカーストを真正面から描いた作品 前作『すてきな片想い』に続いて、ヒューズ監督の故郷であるイリノイ州を舞台にした本作。主人公たちにとって「忘れられない1日」の出来事を描くというプロットは、『すてきな片想い』だけでなく『フェリスはある朝突然に』とも共通した点だが、しかし高校の図書館という限定された空間をメインにして展開する会話劇スタイルは、それこそヨーロッパ映画やインディーズ映画を彷彿とさせるものがあり、当時のハリウッド産青春映画においては画期的な手法だったと言えよう。中でも、当時の若者特有のスラングを盛り込んだ活きの良いセリフがユニーク。大人が作った青春映画にありがちな不自然さがないのだ。 実は『すてきな片想い』よりも前に脚本が出来上がっていたという本作だが、しかしアート映画的な実験性の強い内容ゆえなのか資金がなかなか集まらず、そのため後回しにされたという経緯があったらしい。ヒューズ監督が真っ先にやったのは、メインの若手キャストを集めたリハーサル。ハリウッドだと事前の準備は会議室での読み合わせ程度、リハーサルは現場で撮影と並行しながらというケースも少なくないが、本作の場合は1週間以上に渡ってみっちりとリハーサルを重ね、物語の進行とお互いのキャラクターの特徴を頭に叩き込んだという。そのうえで、撮影に入るとヒューズ監督は若い役者たちの好きなように演じさせたのだそうだ。ノリに応じてセリフやリアクションを変えるなどのアドリブもオッケー。本作の会話劇に噓がないのは、このように若い俳優たちの主体性を尊重した演出の賜物だったのかもしれない。 だが、この映画が劇場公開時において最も画期的だったのは、アメリカの学園生活を構成するクリーク、すなわち日本で言いうところの「スクールカースト」の存在をテーマに据えたことであろう。ジョックス(体育会系)のアンドリュー、ミーン・ガールズ(女王様集団)のクレア、ナード(オタク)のブライアン、ゴス系(もしくはエモ・キッズ)のアリソン、グリーザーズ(ヤンキー系)のベンダーと、本作に登場する5人の高校生たちは、そのいずれもがスクールカーストの代表的な集団を象徴している。 同じ学校に通いながらもそれぞれ別の集団に所属し、お互いに相手のことをバカにしたり敬遠したり無視したり。普段なら決して相交わることのない彼らが、いざ腹を割って話をしてみると、親からのプレッシャーや将来への不安など、みんな同じような悩みを抱えていることを知り、お互いに友情や親近感を覚えるようになる。いつもは「キャラ」という名の鎧を身にまとっている彼らも、一皮むけばどこにでもいる普通の高校生なのだ。それまでも学園内のスクールカーストを背景にした青春映画は存在したものの、それをメインテーマとして扱った作品は恐らくこれが初めて。なおかつ、社会の縮図とも言えるその集団構造を通して、今も昔も変わらぬ等身大のティーンエージャー像を描く。それこそが、本作の持つ揺るぎない普遍性であり、その後のハリウッド産青春映画および青春ドラマに多大な影響を及ぼした理由であろう。 かつて子供だった大人と、いずれ大人になる子供 加えて、本作ではそこに大人たちの視点もさらりと盛り込まれる。最近の子供たちは不真面目で弛んでいる、昔の学生とはすっかり変わってしまった!と嘆く副校長ヴァーノン先生に、いや、変わってしまったのはお前だよ、自分が16歳の頃を思い出してみろと釘をさす用務員のカール(ジョン・カペロス)。今の子供は理解できないと大人から言われた子供が、大人になると全く同じことを子供に言う。いつの時代も変わらぬ光景だ。それは逆もまた然り。大人を自分とは別の生き物みたいに思って、なにかと反抗したりバカにしたりする子供たちも、いずれ自分もその大人になってしまうことを分かっていない。冒頭で校内に掲げられた歴代の優等卒業生写真の中央に、溌溂とした笑顔で映っている人気者の若者が、実は高校生時代のカールであることに、果たしてどれだけの学生が気付いているだろうか。 また、’90年代のグランジ・ルックを先取りしたようなベンダーのファッション、青白い顔に黒のアイラインを強調したゴス系のルーツみたいなアリソンの個性的なメイクなども興味深いところ。本作の時代を先駆けた先見性はもちろんのこと、トレンドというものがある日突然出現するのではなく、時間をかけて徐々に浸透・拡大していくものだということが分かるだろう。 トレンドといえば、ジョン・ヒューズ監督作品に欠かせないのがポップ・ミュージック。前作『すてきな片想い』ではトレンドのヒットソングをこれでもかと詰め込んでいたが、本作では曲数を最小限に絞り込んでいる。中でも印象的なのは、全米チャートでナンバーワンに輝いたシンプル・マインズのテーマ曲「ドント・ユー?」。挿入曲の大半を手掛けたソングライターのキース・フォーシーは、ジョルジオ・モロダーの重要ブレーンとしてドナ・サマーやアイリーン・キャラ、スリー・ディグリーズなどのヒット曲を書いた人で、本作では音楽スコアも担当している。『フラッシュダンス』(’83)や『ネバーエンディング・ストーリー』(’84)、『ビバリーヒルズ・コップ』(’84)などのテーマ曲も彼の仕事だ。 主人公の高校生役を演じているのは、ブラット・パック(悪ガキ集団)と呼ばれた当時の青春映画スターたち。『すてきな片想い』に引き続いて起用されたモリー・リングウォルドとアンソニー・マイケル・ホールは、実際に撮影時16歳の高校生だったが、それ以外の3人はいずれも20代(最年長は25歳のジャッド・ネルソン)である。最初にオファーされたのは、ヒューズ監督が自分の分身として贔屓にしていたアンソニー。モリーは当初アリソン役に予定されていたそうだが、本人の希望でクレア役を演じることになった。エミリオももともとはベンダー役だったが、キャスティングに難航したアンドリュー役を与えられることに。その代わりとして、オーディションで役になりきって臨んだジャッドがベンダー役を任された。ジャッドとアリソン役のアリー・シーディは、その後も『セント・エルモス・ファイアー』(’85)や『ブルー・シティ/非情の街』(’86)でも共演している。それぞれの役柄に自身の一部を投影したというヒューズ監督だが、見ている観客も5人のうち誰かに自分を重ねることが出来るというのも本作の魅力だろう。 ヴァーノン先生役のポール・グリーソンは、『ダイ・ハード』(’88)の居丈高なロス市警副本部長役でもお馴染み。用務員カールを演じているジョン・カペロスは、ロケ地でもあるシカゴの有名な即興喜劇集団セカンド・シティ(出身者はジョン・ベルーシ、ダン・エイクロイド、ジョン・キャンディ、マイク・マイヤーズ、キャサリン・オハラなど)のメンバーで、当時は同郷の仲間であるヒューズ監督作品の常連俳優だった。ちなみに、クレアの父親が運転しているBMWはヒューズ監督の私物。ラストシーンではブライアンの父親役として、ヒューズ監督がチラリと顔を見せている。■ 『ブレックファスト・クラブ』© 1985 Universal City Studios, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2022.11.30
ジョン・カーペンターが西部劇にオマージュを捧げたヴァンパイア・アクション!『ヴァンパイア/最期の聖戦』
大の西部劇ファンだったカーペンター 『ハロウィン』(’78)や『遊星からの物体X』(’82)などで知られるホラー&SF映画の巨匠ジョン・カーペンター。幼少期に映画館で見たSFホラー『遊星よりの物体X』(’51)に強い衝撃を受け、自分もああいう映画を作ってみたい!と感化されて映画監督を目指したという彼は、しかしその一方でサスペンスからコメディまで幅広いジャンルの映画をどん欲に吸収して育ったシネフィルでもあり、中でも「映画監督になった本当の理由は西部劇を撮ること」と発言したこともあるほど大の西部劇映画ファンだった。 実際、例えば『ジョン・カーペンターの要塞警察』(’76)がハワード・ホークス監督作『リオ・ブラボー』(’59)へのオマージュであることは有名な逸話だし、『ニューヨーク1997』(’81)や『ゴースト・ハンターズ』(’86)などでも西部劇映画からの影響が随所に散見される。ただ、本人が「誰も自分に西部劇を撮らせてくれない」とぼやいて(?)いたように、ホラー映画やSF映画のエキスパートというイメージが災いしたせいか、カーペンターに西部劇を撮らせようと考えるプロデューサーがついぞ現れなかったのである。もちろん、彼が頭角を現した’70年代末~’80年代の当時、既に西部劇というジャンル自体が衰退の一途を辿っていたという事情もあろう。そんな西部劇マニアのカーペンター監督が、十八番であるホラー映画に西部劇テイストを融合させてしまった作品。それがこの『ヴァンパイア/最後の聖戦』(’98)だった。 舞台はアメリカ南部のニューメキシコ州。とある寂れた田舎のあばら屋に、武器を手にした屈強な男たちが集まってくる。彼らの正体は吸血鬼ハンターの傭兵部隊。両親を吸血鬼に殺されたリーダーのジャック・クロウ(ジェームズ・ウッズ)は、バチカンが秘かに支援する吸血鬼ハンター組織スレイヤーズのメンバーとなり、部下を率いて全米各地の吸血鬼を討伐していたのである。あばら屋に潜んでいた吸血鬼集団を全滅させたスレイヤーズ。吸血鬼の巣窟に必ずいるはずのボスが不在なのは気になったものの、ひと仕事を終えた彼らはモーテルに娼婦たちを呼んで祝杯をあげる。 ところが、そこへ吸血鬼のボス、ヴァレック(トーマス・イアン・ハンター)が乱入。これまで見たこともないほど強力なパワーを持つヴァレクは、予期せぬ敵の来襲に混乱するスレイヤーズと娼婦たちを片っ端から皆殺しにしてしまう。辛うじて生き残ったのは、ジャックとその右腕トニー(ダニエル・ボールドウィン)、そしてヴァレックに血を吸われた娼婦カトリーナ(シェリル・リー)の3人だけだ。血を吸われた人間と吸血鬼はテレパシーでお互いに繋がる。仲間を殺された復讐に燃えるジャックは、ヴァレックをおびき寄せるエサとしてカトリーナを連れて脱出するのだった。 バチカン側の窓口であるアルバ枢機卿(マクシミリアン・シェル)と合流したジャックたち。そこで彼らは、スレイヤーズのヨーロッパ支部が全滅したことを知らされる。犯人はヴァレック。14世紀にプラハで生まれた彼は全ての吸血鬼のルーツ、つまり史上最初にして最強のヴァンパイアだったのだ。その彼がなぜ今、アメリカに出現したのか。カトリーナにヴァレックの動向を透視させたジャックは、彼がバチカンによって隠された伝説の十字架を探し求めていることを知る。アルバ枢機卿にチームの監視役を任されたアダム神父(ティム・ギニー)によると、その十字架を儀式に用いることで、明るい昼間でも吸血鬼が外を歩けるようになるらしい。そうなれば、ヴァレックは文字通り無敵となってしまう。なんとしてでも阻止せねばならない。すぐさま敵の行方を追うジャックだったが、しかし時すでに遅く、ヴァレックは十字架の隠し場所を突き止めていた…。 あのフランク・ダラボン監督もカメオ出演!? 原作はジョン・スティークレイの小説「ヴァンパイア・バスターズ」。トビー・フーパー監督の『スペースバンパイア』(’85)や『スペースインベーダー』(’86)で知られ、カーペンターがプロデュースした『フィラデルフィア・エクスペリメント』(’84)の原案にも参加したドン・ジャコビーが脚本を手掛けているが、主人公ジャックのキャラや基本設定のほかはだいぶ脚色されている。もともと本作は『ハイランダー 悪魔の戦士』(’86)のラッセル・マルケイ監督が演出する予定で、ドルフ・ラングレンも主演に決まっていたが、製作会社との対立でマルケイがプロジェクトを降板したことから、ジョン・カーペンターに白羽の矢が立ったという。ちなみに、マルケイ監督とラングレンは本作の代わりに『スナイパー/狙撃』(’96)でタッグを組んでいる。 当時のカーペンターは興行的な失敗が続いて、本人も引退を考えるほどキャリアに行き詰まっていた時期。起死回生として挑んだ『ニューヨーク1997』の続編『エスケープ・フロム・L.A.』(’96)も、莫大な予算をかけたにも関わらず結果はパッとしなかった。ただ、予てから西部劇とホラーの融合に興味を持っていた彼は、舞台がアメリカ南部で主人公は殺し屋という、まるで西部劇みたいな本作の設定に創作意欲を掻き立てられたようだ。結果的にこの目論見は大当たり。具体的な世界興収の数字は不明だが、本作はカーペンター監督にとって久々のヒット作となる。 あばら屋の前にスレイヤーズが集結する冒頭シーンの、ジャックとあばら屋の扉を交互に接写していく演出は、クローズアップ・ショットがトレードマークだったセルジオ・レオーネ監督作品へのオマージュ。口より先に手が出る粗暴なタフガイ・ヒーロー、ジャックのキャラクターは、ハワード・ホークス作品におけるジョン・ウェインをイメージしたという。主人公たちの別れを描いたクライマックスは、ホークス監督×ウェイン主演の名作『赤い河』(’48)にインスパイアされたそうだ。さらに、カーペンター監督自身の手掛けた音楽スコアは、いかにもアメリカ南部らしいカントリー&ウェスタンやブルースを基調としつつ、一部では『リオ・ブラボー』のディミトリ・ティオムキンの音楽も参考にしている。 ただし、映画全体としてはサム・ペキンパーの『ワイルド・バンチ』(’69)からの影響が濃厚。赤褐色を基調としたカラートーンやスタイリッシュなカメラワーク、ハードなバイオレンス描写はもちろんのこと、モーテルでのスレイヤーズ虐殺シーンをあえてスローモーションで見せるあたりなども『ワイルド・バンチ』っぽい。なお、通常の映画フィルムが毎秒24コマで再生されるのに対し、スローモーションは60コマとか72コマあたりが一般的なのだが、本作は34~36コマというイレギュラーなフレーム数を採用。この微妙なサジ加減が、大殺戮のパニックとアクションを際立たせている。ちなみに、娼婦役のエキストラにはロケ地ニューメキシコでスカウトしたストリッパーたちが混じっているそうだ。 吸血鬼ハンターと最強吸血鬼のバトルを軸としたプロットは非常にシンプル。残念ながら十字架もニンニクも全く効果なし、吸血鬼を殺すならば太陽のもとへ晒さねばならない、なので陽が沈んだ夜は非常に危険!という基本設定も単純明快で、古き良きB級西部劇映画のごとくアクションとガンプレイにフォーカスしたカーペンター監督の演出が活きている。ホラー映画ならではの血しぶき描写は控えめであるものの、ここぞという場面ではしっかりと人体破壊スプラッターも披露。吸血鬼がウィルス感染するという設定については、リチャード・マシスンの小説「アイ・アム・レジェンド」を元ネタにしたそうだ。カーペンター作品としては、全盛期だった80年代のような冴えこそ影を潜めているものの、それでも理屈抜きに楽しめるアクション・エンターテインメントに仕上がっている。 主人公ジャック・クロウを演じているのは、予てよりアクション映画のヒーローをやってみたかったというジェームズ・ウッズ。相棒トニーには当初アレック・ボールドウィンが指名されていたが、諸事情で出演が叶わなかったことから、本人から弟ダニエルを推薦されたらしい。ヒロインの娼婦カトリーナにはテレビ『ツイン・ピークス』のシェリル・リー。次第に吸血鬼へと変貌していく過程で、徐々に野獣本能に目覚めていく芝居がとても巧い。アルバ枢機卿にはオスカー俳優マクシミリアン・シェル。最強吸血鬼ヴァレック役のトーマス・イアン・グリフィスのロングヘア―はエクステンションだったそうだ。モーテルで殺されるスレイヤーズの中には、日系人俳優ケリー・ヒロユキ・タガワも含まれている。 ちなみに、モーテルを脱出したジャックたちは、たまたま通りがかったキャデラックを奪って逃走を続けるわけだが、このキャデラックのドライバー役で顔を出しているのがフランク・ダラボン。そう、『ショーシャンクの空に』(’94)や『グリーンマイル』(’99)の監督である。もともとホラー映画畑出身のダラボン監督はカーペンター監督とも親しく、どうしても本作に出演したいと懇願されたのだそうだ。■ 『ヴァンパイア/最期の聖戦』© 1998 LARGO ENTERTAINMENT., INC. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2022.11.09
ジョン・マルコヴィッチしか考えられなかった…。“カルト映画”の傑作『マルコヴィッチの穴』
本作『マルコヴィッチの穴』(1999)の原題は、“Being John Malkovich”。当代の名優とも怪優とも評される、ジョン・マルコヴィッチがタイトルロールを…というか、マルコヴィッチ自身を演じる。 日本ではアメリカから遅れること、ちょうど1年。2000年9月の公開となった。私はその頃、TBSラジオで「伊集院光/日曜日の秘密基地」という番組の構成を担当していたが、パーソナリティの伊集院氏がこの作品のことを、生放送前後の打合せや雑談などで、よく話題にしていたことを思い出す。かなりのお気に入りで、翌10月から始まった新コーナーに、「ヒミツキッチの穴」というタイトルを付けたほどだった。「ジョン・マルコヴィッチってのが、良いんだよな~」と、伊集院氏は言っていた。そして、「日本の俳優でやるとしたら、誰なんだろう?“大地康雄の穴”とかになるのかな」とも。 この例え、当時個人的には「絶妙」だと思った。今となっては、まあわかりにくいかも知れないが…。 私的にはそんな思い出がある『マルコヴィッチの穴』とは、どんな作品か?まずはストーリーを紹介しよう。 ***** 才能がありながらも認められない、人形使いのグレイグ(演:ジョン・キューザック)は、妻のロッテ(演:キャメロン・ディアス)から言われ、やむなく定職を求める。 新聞の求人欄から彼が見付けたのは、小さな会社の文書整理係。そのオフィスは、ビルのエレベーターの緊急停止ボタンを押してから、ドアをバールでこじ開けないと降りられない、7と1/2階に在った。そしてそこは、かがまないと歩けないほど天井が低い、奇妙なフロアーだった。 書類の整理に勤しむグレイグは、ある日書類棚の裏側に、小さなドアがあるのを見付ける。興味本位でドアを開け、その中の穴に潜り込むと、突然奥へと吸い込まれる。 気付くとグレイグは、著名な俳優ジョン・マルコヴィッチの脳内へと入り、彼になっていった。しかし15分経つとグレッグに戻って、近くの高速道路の脇の草っ原へと放り出される。 興奮した彼は、同じフロアーの別の会社のOLで、一目惚れしながらも相手にされなかったマキシン(演:キャスリーン・キーナー)に、この秘密を話す。マルコヴィッチ自体を知らなかった彼女だが、この体験=穴に入ってマルコヴィッチに15分間なる=を、1回200㌦でセールスすることを提案。グレイグと共にビジネスを始めると、深夜の7と1/2階には、行列が出来るようになる。 しかしこれはまだ、グレイグ&ロッテ夫妻とマキシーン、そして俳優ジョン・マルコヴィッチを巡る、不可思議な物語の入口に過ぎなかった…。 ****** ジョン・マルコヴィッチ。1953年12月、アメリカ・イリノイ州生まれで、間もなく69歳になる。『マルコヴィッチの穴』の頃は、40代半ばといったところ。 若き日に、仲間のゲイリー・シニーズらと立ち上げた劇団で評判を取り、やがてブロードウェイに進出。『True West』や『セールスマンの死』などに出演し、オビー賞など数々の賞を手にした。 映画初出演は、ロバート・ベントン監督の『プレイス・イン・ザ・ハート』(84)。主演のサリー・フィールドに2度目のオスカーをもたらしたこの作品で、盲目の下宿人を演じたマルコヴィッチは、いきなりアカデミー賞助演男優賞にノミネートされた。 以降は、主役から脇役まで幅広い役柄で、数多くの作品に出演。悪役やサイコパス役に定評があり、またヨーロッパのアート作品にも、度々出演している。 演技も風貌も、いわゆる「クセの強い」俳優であるが、プライベートでの言動や行動も、そのイメージを裏付ける。今ではその発言自体を否定しているが、「一般大衆に認識されているものはクソだ。彼らの考えにも吐き気がする。映画は金のためだけにやっている」などと、言い放ったことがある。 また、ニューヨークの街角で絡んできたホームレスに激怒し、大型のボウイナイフで脅したり、オーダーメードのシャツの出来上がりが遅れたテーラーに怒鳴り込んだり、バスが停車しなかったことに腹を立て、窓を叩き割る等々の、暴力的な振舞いが度々伝えられた。 その一方で、映画デビュー作の共演者サリー・フィールドが、「ただただ彼を敬愛している」と言うのをはじめ、共演者たちの多くからは称賛されている。初めてブロードウェイの舞台に立った『セールスマンの死』の共演者である名優ダスティン・ホフマンは、「彼との仕事は、私のキャリアの中でも貴重な経験だった」としている。 そんなマルコヴィッチをネタにした、摩訶不思議な本作のストーリーを書いたのは、チャーリー・カウフマンという男。それまでTVのシットコムの脚本を生業としていた彼にとっては、映画化に至った、初の長編脚本である。 本作の脚本は、「特に戦略を持たずに書き始めた」ということで、最初は「既婚者の男が恋をする」というアイディアだけだった。そこに後から、「穴を通って別人の脳内に入る」という発想が加わって、他者になりすまして名声を得たり、生き長らえようとする者たちや、逆にそうした者たちに自由を奪われて、己を失っていく者が登場する物語になったのである。『マルコヴィッチの穴』は、誰が観ても、「アイデンティティがテーマ」の作品だと、理解される。しかしカウフマンが書き始めた当初は、そんなことは考えてもいなかったわけである。 脳内に入られる人物に関しては、「マルコヴィッチ以外に考えられなかった…」という。マルコヴィッチがブロードウェイの舞台に立った時のビデオを観て衝撃を受けたというカウフマン。曰く、「彼がステージに立つと目が離せない」ようになった。そして本作の物語を編んでいくに際して、「彼は不可知な存在で、作品にフィットすると思った」と語っている。「マルコヴィッチ以外に考えられなかった…」のは、その「微妙な知名度」も、ポイントだったように思われる。映画・演劇業界の周辺では、誰も知る実力の持ち主であるが、万人にとってのスーパースターというわけではない。本作の中でマキシンが、マルコヴィッチと聞いても、誰かわからなかったり、タクシーの運転手が、マルコヴィッチ本人がやってもいない役柄で「見た」と話しかけてきたりするシーンがわざわざ設けられていることからも、作り手のそうした意図が、読み取れる。 因みにマルコヴィッチ自身は8歳の頃、“トニー”という名のもうひとりの自分を作り出していたという。その“トニー”とは、クロアチア系の父親とスコットランド及びドイツ系の母親から生まれたマルコヴィッチとは違って、スリムなイタリア人。至極人当たりがよく、首にスカーフを巻くなど、おしゃれで粋なキャラだった。 マルコヴィッチが“トニー”になっている時は、大抵ひとりぼっちだった。しかしある時はなりきったまま、野球の試合でピッチャーマウンドに上がったこともあったという。 そのことに関してマルコヴィッチは、「…たぶん多くの人が今とは別の人生を送りたいと願っているだろう…」と語っている。カウフマンが執筆当時、そんなことまで知っていたとは思えないが、そうした意味でも、本作の題材にマルコヴィッチをフィーチャーしたのは、正解だったかも知れない。役柄的には、逆の立場であるが…。 しかし、カウフマンの書いた『マルコヴィッチの穴』の脚本は、業界内で非常に評判になりながらも、なかなか映画化には至らなかった。内容が特殊且つ、エッジが立ち過ぎていたからだろう。 ジョン・マルコヴィッチ本人も、その脚本の完成度には唸ったものの、こんな形で俎上に載せられるのには臆したか、「自分を題材にしないことを条件に監督やプロデューサーを引き受ける」とカウフマンに提案。話がまとまらなかった。 もはや映画化は、不可能か?カウフマンも諦めかかった頃に、本作の監督に名乗りを上げる者が現れる。それが他ならぬ、スパイク・ジョーンズだった。 当時ジョーンズは、ビースティ・ボーイズやビョーク、ダフト・パンクなど数多の人気ミュージシャンのMVを演出した他、CMでも国際的な賞を受賞。写真家としても成功を収め、まさに時代の寵児だった。映画監督としては、短編を何本か手掛けて、やはり好評を博しており、長編デビューの機会を窺っていた。 そんな彼が「…とにかく、脚本が本当に良かった」という理由で、『マルコヴィッチの穴』に挑むことになったのである。当時の彼の妻ソフィア・コッポラの父、『ゴッドファーザー』シリーズなどのフランシス・フォード・コッポラ監督の後押しもあったと言われる。 その後ジョーンズとカウフマンで、映画化に向けての作業が進められる中で、件の経緯もあったせいか、ホントに“ジョン・マルコヴィッチ”が適切であるかどうか、2人の間で迷いが生じることもあった。このタイミングだったかどうか定かではないが、トム・クルーズの名が挙がったりもしたという。 しかし結局は、他の人物では満足できず、マルコヴィッチで行きたいということになった。マルコヴィッチの方も、スパイク・ジョーンズという希有な才能に惹かれたということか、「…あまりに途方もなくとんでもないストーリーだから、自分の目で見届けたくなった…」と、出演がOKになったのである。 完成した『マルコヴィッチの穴』は、「ヴェネツィア国際映画祭」で国際批評家連盟賞を受賞したのをはじめ、内外の映画祭や映画賞を席捲。一般公開と共に“カルトムービー”として人気を博し、アカデミー賞でも、監督賞、脚本賞、助演女優賞の3部門でノミネートされた。 この時はオスカーを逃したカウフマンとジョーンズだったが、2人とも本作が高く評価されたことから、監督、脚本家、プロデューサーとして地位を築いていくことになる。後にカウフマンは『エターナル・サンシャイン』(04)で、ジョーンズは『her/世界でひとつの彼女』(13)で、それぞれアカデミー賞脚本賞を受賞している。 因みにジョン・マルコヴィッチに関しては2010年、その軌跡を振り返る試みを、映画批評サイトの「Rotten Tomatoes」が実施。「ジョン・マルコヴィッチの傑作映画」という、ベスト10を発表した。 その際、第1位に輝いたのは、デビュー作の『プレイス・イン・ザ・ハート』。そこに、ポルトガルの巨匠マノエル・ド・オリヴェイラ監督の『家路』(01)、盟友ゲイニー・シニーズの監督・主演作『二十日鼠と人間』(92)等々が続く。そんな中で本作『マルコヴィッチの穴』(99)は、堂々(!?)第6位にランクインしている。 しかしこのベスト10以上に、本作のインパクトが、大きく残っていることを感じさせる出来事が、2012年にあった。それはマルコヴィッチが出演した、iPhone 4SのCM。この中で「マルコヴィッチ、マルコヴィッチ、マルコヴィッチ…」というセリフが繰り返されるのだが、これは『マルコヴィッチの穴』に登場する、最もヴィジュアルイメージが強烈なシーンを、明らかに模したもの。 ではその元ネタとなったのは、果してどんな場面なのか?それはこれから観る方のために、この稿では伏せておこう。 「マルコヴィッチ、マルコヴィッチ、マルコヴィッチ…」■ 『マルコヴィッチの穴』© 1999 Universal City Studios Productions LLLP. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2022.11.04
華やかなスウィンギン・ロンドンの光と影を映し出すフリー・シネマの名作『ダーリング』
刹那的な時代の世相を切り取った名匠ジョン・シュレシンジャー 当サイトで以前にご紹介したイギリス映画『ナック』(’65)が、スウィンギン・ロンドン時代の自由な空気を明るくポジティブに活写していたのに対し、こちらはその光と影をシニカルなタッチで見つめた作品である。第二次世界大戦後の荒廃と再建を経て、高度経済成長期に突入した’60年代半ばのイギリス。その中心地であるロンドンではベビーブーマー世代の若者文化が花開き、長らくイギリスを支配した保守的な風土へ反発するようにリベラルな価値観が広まり、経済の活性化によって本格的な消費社会が到来する。いわゆるスウィンギン(イケている)・ロンドン時代の幕開けだ。 そんな世相の申し子的な若くて美しい自由奔放な女性が、好奇心と欲望の赴くままにリッチな男性たちを渡り歩き、華やかな上流階級の世界で刹那的な快楽に身を委ねるも、その刺激的で享楽的な日々の中で虚無感と孤独に苛まれていく。さながらイギリス版『甘い生活』(’60)。それがアカデミー作品賞を含む5部門にノミネートされ、主演女優賞など3部門に輝いた名作『ダーリング』(’65)である。 監督はトニー・リチャードソンやリンゼイ・アンダーソンと並ぶ英国フリー・シネマの旗手ジョン・シュレシンジャー。BBCテレビのドキュメンタリーで頭角を現したシュレシンジャーは、劇映画処女作『ある種の愛情』(’62)でベルリン国際映画祭グランプリ(金熊賞)に輝いて注目されたばかりだった。2作目『Billy Liar』(’63)を撮り終えた彼は、同作にカメオ出演した人気ラジオDJ、ゴッドフリー・ウィンから興味深い話を聞く。それはウィンの知人だった若い女性モデルのこと。社交界の名士たちと浮名を流していた彼女は、複数の愛人男性から籠の中の鳥のように扱われ、与えられた高級アパートのバルコニーから投身自殺してしまったというのだ。 これは映画の題材に適していると考えたシュレシンジャーと同席した製作者ジョセフ・ジャンニは、新進気鋭の脚本家フレデリク・ラファエルに脚色を依頼するものの、出来上がった脚本は全くリアリティのない代物だったという。そこで製作者のジャンニが提案をする。最後に自殺を選んでしまう女性の話ではなく、なんの決断をすることも出来ない優柔不断な女性、もっといいことがあるんじゃないかと期待して男から男へ渡り歩いてしまう女性の話にすべきだと。劇中でも「最近は楽をして何かを得ようとする人間ばかりだ」というセリフが出てくるが、そのような浮ついた時代の空気を象徴するようなヒロイン像を描こうというのだ。 ジャンニには心当たりがあった。それが、贅沢な暮らしを求めて裕福な銀行家と結婚した知人女性。その女性を紹介してもらったシュレシンジャーとラファエルは、彼女の案内で上流階級御用達の高級レストランやパーティなどを訪れ、ジェットセッターたちの豪奢なライフスタイルの赤裸々な裏側を垣間見ていく。それが最終的に映画『ダーリング』のベースとなったわけだ。ただし、脚本の執筆途中でその女性が旦那から離縁を突きつけられ、協議で不利になる恐れがあるという理由から、彼女の私生活をモデルにした部分の書き直しを迫られたという。とはいえ、本作がスウィンギン・ロンドン時代のリアルな舞台裏を切り取った映画であることに間違いはないだろう。 刺激を求めて快楽に溺れ、孤独を深めていくヒロイン 舞台は現代の大都会ロンドン。アフリカの飢餓問題を訴える意見広告が、美しい女性モデルの微笑むラジオ番組「Ideal Woman(理想の女性)」のポスターに貼り変えられる。その女性モデルの名前はダイアナ・スコット(ジュリー・クリスティ)。物語はラジオのインタビューに答える彼女のフラッシュバックとして描かれていく。幼い頃から愛くるしい容姿と社交的な性格で周囲に「Darling(かわいい子)」と呼ばれて愛され、どこにいても目立つ美しい女性へと成長したダイアナ。保守的なアッパーミドル・クラス出身の彼女は、年の離れた姉と同じように若くして結婚したものの、しかし子供じみた旦那との生活は退屈そのものだった。 そんなある日、テレビの街頭インタビューを受けた彼女は、番組の司会を務める有名ジャーナリスト、ロバート(ダーク・ボガード)と親しくなり、彼の取材先へ同行するようになる。教養があって落ち着いた大人の男性ロバートに惹かれ、彼の友人であるマスコミ関係者や芸術家などのインテリ・コミュニティに刺激を受けるダイアナ。やがてお互いに愛し合うようになった既婚者の2人は、ロンドンの高級住宅街のアパートで同居するようになった。自身もモデルとして活動を始めたダイアナは、大手化粧品会社のキャンペーンガールに起用され、同社宣伝部の責任者マイルズ(ローレンス・ハーヴェイ)の紹介で映画デビューまで果たす。 こうして華やかな社交界に足を踏み入れたわけだが、しかしそれゆえ真面目なロバートとの安定した生活に飽きてしまったダイアナは、彼に隠れてプレイボーイのマイルズと浮気をするように。さらに、映画のオーディションを偽ってマイルズとパリへ出かけ、パーティ三昧の享楽的な生活にうつつを抜かす。だが、この浮気旅行はすぐにバレてしまい、憤慨したロバートはアパートを出て行ってしまった。すっかり気落ちしたダイアナは親友となったゲイの写真家マルコム(ローランド・カラム)に慰められ、テレビCM撮影のついでにイタリアでバカンスを過ごすことに。そこで彼女は、中世の時代にローマ法王を輩出したこともある名門貴族のプリンス、チェザーレ(ホセ・ルイス・デ・ヴィラロンガ)に見初められる。 妻に先立たれた男やもめのチェザーレは7人の子持ち。まだ結婚して家庭に入るつもりなどなかったダイアナは、彼からのプロポーズを断ってロンドンへ戻るものの、パーティとセックスに明け暮れるだけの生活に嫌気がさしてしまう。今さえ楽しければそれでいいと考えていた彼女だが、しかしそれだけでは心が満たされなかったのだ。結局、チェザーレのプロポーズを受け入れ、めでたく結婚することとなったダイアナ。「イギリス出身のイタリアン・プリンセス」としてマスコミに騒がれ、現地でも大歓迎された彼女だったが、しかし外からは華やかに見えるイタリア貴族の生活も、実際は伝統としきたりに縛られて非常に窮屈なものだった。夫のチェザーレは仕事で出張することが多く、広い大豪邸の中で孤独を深めていくダイアナ。やはり私のことを本当に愛してくれるのはロバートだけ。ようやく気付いた彼女は、ロバートと会うため着の身着のままでロンドンへ向かうのだが…。 アメリカでは大好評、モスクワでは大ブーイング? 恵まれない人々のための慈善活動をお題目に掲げながら、宮廷召使いの格好をした黒人の子供たちに給仕をさせ、豪華に着飾った金持ちの紳士淑女が贅沢なグルメや下世話なゴシップを楽しむチャリティー・イベント。絵画の芸術的な価値など分からない富裕層が、有り余る金にものを言わせて愛好家を気取るアート・ギャラリー。パリの怪しげな娼館でセックスを実演する生板ショーを鑑賞し、ジャズのビートに乗せて半裸の男女が踊り狂うジェットセッターたちの乱痴気パーティ。そんな虚飾と虚栄と偽善に満ちた狂乱の上流社会を、快楽と刺激と贅沢を求める自由気ままな現代娘ダイアナが、若さと美貌だけを武器に男たちを利用して闊歩する。 といっても、恵まれた中産階級の家庭に育った彼女には、男を踏み台にしてのし上がろうなどという野心は微塵もない。気の向くまま足の向くまま、もっと面白いことがないかとフラフラしているだけ。飽きっぽくて移り気な彼女は、人生の目的など何もない空っぽな根無し草だ。まさに、華やかで享楽的なスウィンギン・ロンドンが生み出した新人類と言えるだろう。ただただ楽しい時間を過ごしたいがため、男から男へ、パーティからパーティへ渡り歩いていくわけだが、しかし刹那的な快楽に溺れれば溺れるほど、虚しさと孤独が募っていく。周囲の人々が彼女に求めるのは若さと美貌とセックスだけ。綺麗なお人形さんの中身など誰も気にかけない。恐らくシュレシンジャーとラファエルは、その混沌と狂騒と軽薄の中に時代の実相を見出そうとしたのだろう。 そんなスウィンギン・ロンドン時代のミューズ、ダイアナを演じるジュリー・クリスティが素晴らしい。本作が映画初主演だった彼女は、このダイアナ役で見事にアカデミー主演女優賞を獲得し、たちまち世界的なトップスターへと躍り出る。シュレシンジャーの前作『Billy Liar』にも小さな役で出ていたクリスティ。製作会社はこのダイアナ役にシャーリー・マクレーンを推したそうだが、しかしシュレシンジャーは最初からクリスティを念頭に置いていた。当時の彼女はシェイクスピア劇の公演ツアーで渡米しており、シュレシンジャーはフィラデルフィアまで行って出演を交渉したという。その際に彼はニューヨークまで足を延ばし、モンゴメリー・クリフトやポール・ニューマン、クリフ・ロバートソンにロバート役をオファーしたが、いずれも断られてしまったらしい。また、アメリカの映画会社に出資を相談したものの、脚本の内容が不道徳だとして一蹴されたそうだ。 結局、ロバート役に起用されたのは、二枚目のマチネー・アイドルからジョセフ・ロージー監督の『召使』(’63)で性格俳優として開花したイギリスのトップスター、ダーク・ボガード。ハンサムでナルシストなプレイボーイのマイルズには、『年上の女』(’58)でアカデミー主演男優賞候補となったローレンス・ハーヴェイが決まり、英国人キャストばかりの本作にとってアメリカ市場でのセールス・ポイントとなった。 また、ストーリー後半のイタリア・ロケでは、『ティファニーで朝食を』(’61)の南米大富豪役や『魂のジュリエッタ』(’65)のハンサムな友人役で知られるスペイン俳優ホセ・ルイス・デ・ヴィラロンガがイタリア貴族チェザーレ役で登場。実は彼自身もスペインの由緒正しい貴族の御曹司だった。その長男役には『ガラスの部屋』(’69)で日本でもブレイクするレイモンド・ラヴロック、長女役には後にラヴロックと『バニシング』(’76)で共演するイタリアのセックス・シンボル、シルヴィア・ディオニジオ、秘書役には『歓びの毒牙』(’69)などのイタリアン・ホラーで知られるウンベルト・ラホーも顔を出している。そういえば、パリでの乱痴気パーティ・シーンには『遠い夜明け』(’87)の黒人俳優ゼイクス・モカエ、アート・ギャラリー・シーンには『007/私を愛したスパイ』(’77)のヴァーノン・ドブチェフと、無名時代の名脇役俳優たちの姿を確認することもできる。 先述したように、ハリウッドの映画会社からは「不道徳だ」として出資を断られた本作だが、蓋を開けてみればイギリスよりもアメリカで大ヒットを記録。モスクワ国際映画祭にも出品されたが、ソヴィエトのマスコミや批評家からは大不評だったそうだ。ただし、アメリカでもロシアでも本編の同じ個所が不適切だとしてカットされたらしく、シュレシンジャー本人は潔癖な点において両国は似ているとも話している。ダイアナ役でオスカーに輝いたジュリー・クリスティは、本作を見たデヴィッド・リーン監督から『ドクトル・ジバゴ』(’65)のララ役に起用され、押しも押されもせぬ大女優へと成長。惜しくも監督賞の受賞を逃したシュレシンジャーも、本作および再度クリスティと組んだ『遥か群衆を離れて』(’67)で名匠の地位を確立し、アメリカで撮った『真夜中のカーボーイ』(’69)で念願のオスカーを手にする。■ 『ダーリング』© 1965 STUDIOCANAL
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COLUMN/コラム2022.11.04
スピルバーグ、最初にして最後の“ディレクターズ・カット”―『未知との遭遇【ファイナル・カット版】』―
「この映画には多くの美徳がある。ほとんどのハリウッド作品やパルプSFとは異なり、人間と地球外生命体との接触は、主に平和的であると考えられていることだ」カール・セーガン(天文学者・作家) 「スピルバーグが描く異星人には自然の善良さが表れており、生や死を超えた善なるものが感じられる」ドゥニ・ヴィルヌーヴ(『メッセージ』(16)『DUNE/デューン 砂の惑星』(21)監督) スティーヴン・スピルバーグの壮大なSF叙事詩『未知との遭遇』は、人類と地球外知的生命体とのコンタクトを真摯に、そして迫真的に描いた嚆矢の商業長編映画で、一般市民や科学者、軍などそれぞれの視点から捉えたサスペンスフルな異常事態が、やがて友好的なエイリアン・コンタクトの輪郭をあらわにしていく実録調の構成をとり、この種のジャンルの語り口や目的を一新させた。なによりスピルバーグ自身、フィルモグラフィで単独脚本を兼ねた唯一の監督作として特別な思いを抱いており、そのため過去に二度も手を加え、完成度を極限にまで高めている。 ◆悔いを残した「オリジナル劇場版」 1977年11月16日、『未知との遭遇』はニューヨークのジーグフェルド・シアターとハリウッドのシネラマドームで限定公開され、連日ヒットを記録。そして1か月後には全米272館の劇場で拡大公開され、翌年の夏に上映が終了するまで全米総収入1億1639万5460ドルを稼ぎ出し、配給元であるコロンビア・ピクチャーズの過去最高となる売上を叩き出した。さらには海外における公開によって、1億7100万ドルが追加計上された。当時コロンビアは株価が下落して経営難の状態にあり、スピルバーグはメジャースタジオを倒産の危機から救い出したのた。 だが、こうした好転を得るために、コロンビアはクリスマス興行を必要とし、本来の予定よりも7週間も早い公開をスピルバーグに要求。ひとまずの完成を急務としたため、彼は自身が望んでいたように作品に仕上げることができなかったのである(以下、当バージョンを「オリジナル劇場版」と呼称)。 スピルバーグの不満は、主人公であるロイ・ニアリー(リチャード・ドレイファス)のエピソードと、第三種接近遭遇を調査するラコーム博士(フランソワ・トリュフォー)とメイフラワー・プロジェクトのエピソードとの並置にあり、さらにはいくつかのシーンの削除と、省略したシーンの追加を望んでいた。加えてバミューダ三角海域にて消息を絶った輸送船コトパクシ号が、海岸から500kmも離れたゴビ砂漠で発見されるシーンを撮影できなかったことにも不満を抱いていた。 そこで1978年の夏、本作が劇場公開を終えたタイミングで、スピルバーグはコロンビアに「自分が望む形で映画を完成させるため、予算を与えることは可能か?」と訊ねた。そこでコロンビアは、暫定的に計画を立てていた同作のリバイバル公開を条件に、追加撮影をほどこした更新バージョンをリリースする機会をスピルバーグに持ちかけたのだ。 ただし映画への再アクセスにはマーケティング戦略上、マザーシップ内部を見せる撮影が必要だとコロンビアは提示してきたのだ。多くの批評家や観客が、ロイが巨大な宇宙船に乗った後に起こったことを見たいという願望を表明していたからだ。 スピルバーグは「オリジナル劇場版」に調整を加え、作品に統一感を持たせたいと感じており、最終的には自身の作品をアップデートさせるという希求にあらがえず、提示された条件を承諾したのである。 コロンビアはスピルバーグに再撮影の製作費200万ドル(150万ドルという説あり)と7週間の期間を与え(撮影は結果的に16〜19週間を要した)、『未知との遭遇/特別編』(以下「特別編」)の製作へと至ったのである。ただこの時期、すでに監督は次回作となる戦争スペクタクルコメディ『1941』(79)の撮影に入っており、その間に「特別編」の制作チームの再編成を着々と進めた。 ◆理想に近づいた「特別編」 多くのスタッフ、ならびにキャストはこの意欲的なプロジェクトへの再登板を表明したが、ラコーム博士を演じたフランソワ・トリュフォーは監督作『終電車』(80)の撮影に入っており、また撮影監督のビルモス・ジグモンドはライティングに対するコロンビアの無理解が溝となって身を引き、デイブ・スチュワートが代わりを担当することになった。視覚効果スーパーバイザーのダグラス・トランブルと視覚効果撮影監督のリチャード・ユリシッチは、パラマウントで『スター・トレック』(79)に取り組んでいたことと、トランブルは契約上の解釈から無報酬が懸念されたことで参入を見送り、代わりにアニメーション監督のロバート・スウォースが、前者の薦めにより視覚効果の指揮をとることになった。そして命題ともいえるマザーシップ内部は『スター・ウォーズ』(77)『エイリアン』(79)などでコンセプト・アーティストを務めたロン・コッブがデザインし、モデル作成はちょうど『1941』のミニチュア制作に参加していたグレッグ ジーンが続投した。 ミニチュア制作の作業は1979年の夏に始まったが、スピルバーグは『1941』の撮影が終わるまで同作に集中するつもりでいた。しかしロイ役のリチャード・ドレイファスが多忙だったため、1979年2月に1日だけ空いた彼のスケジュールを利用し、先行して一部撮影に踏み切った。そしてドレイファスが新たに建設された、マザーシップへのランプを上っていく様子が撮影された。ハッチ内部の両方の壁に並び、ロイを船内に迎え入れる小さなエイリアンたちは、多くの女の子をエキストラで配役している。「特別編」ではロイがランプをのぼり、密閉されたボールルームに入ると、天井が突然上向きに浮揚し始め、コッブの設計した小型のUFOが飛行して脱着する壮大なドッキングエリアへと移動するが、ドッキングエリアの一部がランプとハッチの内部としてセットで建造され、残りはミニチュアと視覚効果を駆使して表現された。 スピルバーグは『1941』の劇場公開から数週間後の1980年1月より本格的な作業を開始し、手始めにゴビ砂漠のシーンに着手。20世紀フォックスの裏庭に置かれていた古い船の模型をジーンが改造し、カリフォルニア州デスバレーの近くで撮影した。特別な撮影機材やポストプロダクションでのエフェクト効果に頼らず、強制遠近法を用いて同シーンに挑んでいる。コトパクシ号の模型を前景に置き、俳優や車両を含むすべての要素を約200ヤード離れたバックグラウンドに配置して、あたかも実物大のコトパクシ号が目の前にあるかのように演出したのである(一説によれば、同シーンの撮影は後に『E.T.』(82)『太陽の帝国』(87)でスピルバーグと組む、シネマトグラファーのアレン・ダヴィオーが手がけたという)。 これらの撮り下ろし映像が揃うと、スピルバーグとエディターのマイケル・カーンは「特別編」の編集を開始。まずは不必要だと判断した多くのシーンを削除することから始めた。もっとも顕著なのは、ロイがデビルズタワーの模型を作るために、近所から破壊したものを家に持ち込むシーケンスだ。空軍の記者会見シーンも削除され、ロイが電力会社で原因不明の停電について話し合う冒頭のシーンなどもオミットされた。逆に「オリジナル劇場版」制作時に撮影したが使わなかった、ロイがシャワーで感情を崩壊させるシーンが差し戻され、妻ロニー(テリー・ガー)が彼のもとを離れる動機を明確にしている。加えて会話の小さな断片が各所で削除され、結果としてオリジナル劇場版から16分を削除し、以前にカットした7分を復元。さらに新たに撮影した6分のフッテージを追加し、「特別編」は「オリジナル劇場版」より3分短かくなった。 また音楽面でも改変をおこなった。それは最後のクレジットで、ジョン・ウィリアムズ作曲によるエンドタイトルを流していたものを、「特別編」ではディズニーの長編アニメーション『ピノキオ』(40)の歌曲「星に願いを」のメロディを挿入したインストゥルメンタルに変更した。これは劇中、ロイの家で鉄道模型の卓上に置かれていた、ピノキオのオルゴールを受けての伏線回収でもあり、映画のテーマに同期する曲としてスピルバーグは使用を熱望したのだ。もともとはクリフ・エドワーズが歌うオリジナル曲を引用していたのだが、1977年10月19日におこなわれたダラスの試写では観客の反応が悪かったために代えた経緯があり、インスト版を用いることにした。 この「特別編」は1980年7月31日にビバリーヒルズの映画芸術科学アカデミー本部のサミュエル・ゴールドウィン・シアターでマスコミ向けに上映され、同年8月1日に北米750館の劇場で一般公開。その後すぐに海外での公開がおこなわれた。そして1600万ドルの収益を上げ、コロンビアは再びその投資から、リバイバルとしては悪くない利益を得た。 批評家と観客の反応はまちまちで、変更がより焦点を絞り、まとまりをもたらしたと称賛する者もいれば、改ざんの必要性を問い批判する者もいた。なによりも誤算だったのは、あれだけこだわったマザーシップ内部の描写に、あまり賞賛を得られなかったことだろう。 スピルバーグ自身も、この件に関しては後悔の念を強く抱き、後年「オリジナル劇場版」と「特別編」の両方が観られる初のレーザーディスクを米クライテリオン・コレクションでリリースするにあたり、VFX専門誌「シネフェックス」当時の編集長ドン・シェイのおこなったインタビューで心情を吐露している。 「理想的な『未知との遭遇/特別編』は「オリジナル劇場版」のエンディングで終わることだったね。リチャード(・ドレイファス)がマザーシップの内部に入って、あたりを見回し、 ハイテク器機や蜂の巣のようなスペースシップを眺めることはなかったんだ。映像はきれいだったし、想像力に溢れていてよくできていると思う。でもオリジナルのエンディングのほうがずっと好きだ」 ◆究極の『未知との遭遇』〜「ファイナル・カット版」 『未知との遭遇/ファイナル・カット版』(以下「ファイナル・カット版)は、こうした経緯を経て2種類となった『未知との遭遇』の決定版とするべく、スピルバーグが承認した最終バージョンである。叩き台になったのは1981年1月15日にABCテレビネットワークで放送された143分のもので、これは「劇場オリジナル版」と「特別編」がひとつに統合され、多くのカットシーンが残されていた(スピルバーグは後に脚本に協力したハル・バーウッドに「すべての要素を含んだお気に入りのバージョンだ」と語っている)。このABCテレビ放送版に沿う形で、両バージョンの要素を組み合わせながら、いくつかのシーンを短くし、あるいは長くするなどの調整をしたものである。 「ファイナル・カット版」における最大の特徴は、ロイがマザーシップ内部に入り込むクライマックスが完全にオミットされている。そして「星に願いを」のインスト版が「オリジナル劇場版」のエンドタイトルに戻された。前者に関しては、『未知との遭遇』4K UHD Blu-rayソフトに収録された特典インタビュー“Steven Spielberg 30 Years of CLOSE ENCOUNTERS“(『スティーヴン・スピルバーグ 30年前を振り返って』)の中で、スピルバーグは以下のように語っている。 「船内の様子は、観客の想像の中だけに存在するべきと考えたんだ」 同バージョンで初めて『未知との遭遇』に接する若い世代は、はたしてマザーシップの向こう側に、どのような光景を想像するのだろうか? ちなみにこの「ファイナル・カット版』、正式な呼称は”The Definitive Director's Version“で、スピルバーグは本作をフィルモグラフィにおいて唯一の“ディレクターズ・カット”だと位置付け、以後、自作の改変はしないといった意向を示している。まさに文字どおりのファイナルであり、そういう意味においても希少なバージョンといえるかもしれない。■ 『未知との遭遇【ファイナル・カット版】』© 1977, renewed 2005, © 1980, 1998 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2022.11.02
1人の男の情熱が、“インドへの道”を開いた!『ムトゥ 踊るマハラジャ』
あなたは“インド映画”と聞くと、どんなイメージが湧くだろうか? アクション、コメディ、ロマンス、そして歌って踊ってのミュージカル!3時間に迫る長尺の中に、こうしたエンタメのオールジャンル、ありとあらゆる娯楽の要素がぶち込まれて、これでもか!これでもか!!と迫ってくる。インド料理で使用する、複数のスパイスを混ぜ合わせたものを“マサラ”と言うが、それに因んで、「マサラ・ムービー」と呼ばれるような作品を、思い浮かべる方が、多いのではないだろうか? だが日本に於いて、“インド映画”がこのようなイメージで捉えられるようになったのは、1990年代も終わりに近づいてから。それ以前、日本でかの国の映画と言えば、ほぼイコールで、サダジット・レイ監督(1921~92)の作品を指していた。 レイは、フランスの巨匠ジャン・ルノワールとの出会いや、イタリアのヴィットリオ・デ・シーカの『自転車泥棒』(48)を観た衝撃で、映画監督になることを決意した。『大地のうた』(1955)『大河のうた』(56)『大樹のうた』(59)の「オプー三部作」などで、カンヌ、ヴェネチア、ベルリンの3大映画祭を席捲。国際舞台で高く評価され、最晩年にはアメリカのアカデミー賞で、名誉賞まで贈られている。 そんなレイの諸作は、日本ではATG系や岩波ホールで上映された、いわゆる“アート・フィルム”。これが即ち、日本に於ける“インド映画”のパブリック・イメージとなっていたわけである。 それを一気に覆して、件の「エンタメてんこ盛り」の“マサラ・ムービー”のイメージを日本人に植え付け、“インド映画”ブームを巻き起こしたのが本作、K・S・ラヴィクマール監督による『ムトゥ 踊るマハラジャ』(95)!そしてその主演、“スーパースター”ラジニカーントである。 ***** 大地主のラージャに仕えるムトゥ(演:ラジニカーント)は、親の顔も知らない、天涯孤独の身の上ながら、いつも明るく頼りになる男。主人の信望が厚く、屋敷の使用人たちのリーダー的存在であり、また近隣住民からの人気も高かった。 ある日ラージャのお供で旅回りの一座の芝居を観に行ったムトゥは、退屈で居眠りをし、大きなくしゃみを何発もして、一座の看板女優ランガ(演:ミーナ)の怒りを買う。その一方でそんなランガの美貌に、ラージャが心を奪われる。 数日後、再びランガたちの芝居を観に行ったラージャとムトゥは、公演の邪魔をしに来た地元の顔役一味と、大乱闘。ラージャの指示で、ランガと馬車で脱出したムトゥは、激しい馬車チェイスの末、何とか逃げ切る。 しかしまったく知らない土地に迷い込んでしまい、言葉も通じないため、ムトゥは困惑。そんな時にランガのイタズラ心がきっかけで、2人は熱いキスを交わし、激しい恋に落ちる。もちろんご主人様のラージャの、ランガへの想いなど、つゆも知らず…。 ムトゥは屋敷にランガを連れ帰り、ラージャに彼女も雇ってくれと頼む。自分のプロポーズが受け入れられたと勘違いしたラージャは、大喜びでランガを受け入れる。 そんなこんなで、恋愛関係は混戦模様。その一方でラージャの悪辣な叔父が、甥の財産を乗っ取ろうと、恐ろしい計画を進める。 危険が、刻一刻と近づく。そんな中でムトゥ本人も知らなかった、彼の出生の秘密が明かされる…。 ***** 映画の開巻間もなく、「スーパースター・ラジニ」と文字が画面いっぱいに広がって仰天する。これは『007』シリーズのオープニングを意識して作成された“先付けタイトル”。本作ではタイトルロールのムトゥを演じた、ラジニカーント(1950~ )主演作の多くで、使用されているものだ。 日本ではとても主役になることはない濃さを感じるラジニカーントであるが、貧しい家の出でバスの車掌出身という親しみ易さもあって、“インド映画界”では、紛れもないスーパースター。いやもっと厳密に言えば、“タミル語映画界”で主演作が次々と大ヒットとなった、押しも押されぬスーパースターである。 広大で人口も多いインドでは、地域ごとに言語も違っている。本作でムトゥが知らない村に着いたら、言葉が通じないというのは、決して誇張された表現ではない。 公用語だけでも20前後あるインドでは、各地域ごとにその地域の言葉を使って、映画が製作されている。年間の製作本数は、多い年では長編だけで1,000本近くと、アメリカを楽々と上回るが、それはこうした各地域で作られているすべての作品をトータルした本数である。 “インド映画界”を表すのには、よくハリウッドをもじった、「ボリウッド」という言葉が言われる。これは正確には、インドで最も話者人口が多い、ヒンディー語で製作される映画の拠点である、ムンバイ(旧名ボンベイ)のことを指す。 ムンバイが、インド№1の映画都市であり、“インド映画”全般のトレンドリーダーなのは間違いないが、本作『ムトゥ』のような“タミル語映画”は、それに次ぐ規模で製作されている。その拠点は、南インドの都市マドラスに在る、コーダムバッカムという地区。そのためこちらは、「ボリウッド」ならぬ「コリウッド」などとも言われている。 ラジニカーントは、そんな“タミル語映画界=コリウッド”の大スターというわけである。 ラジニカーントのムトゥの相手役ランガを演じたのは、本作製作当時は19歳だった、ミーナ(1976~ )。目がパッチリした、ポッチャリめの美女である彼女は、子役出身で、本作の頃は、1年間に7~8本もの作品に出演する、超売れっ子だった。活動の中心は“タミル語映画”だが、他にもマラヤーラム語、テルグ語、カンナダ語が話せるため、それぞれの言語を使った作品からオファーされ、出演していた。 ラジニカーントとミーナの年齢差は、実に26歳であるが、『ムトゥ』以外にも、何度も共演している。 さて、そんな2人が軸で繰り広げられる、大娯楽絵巻!ムトゥは、首に巻いた手ぬぐいや馬車用のムチを、まるでブルース・リーのヌンチャクの如く使いこなす。彼に叩きのめされた敵は、空中を回転したり、壁をぶち抜いたりしながら、次々と倒されていく。追いつ追われつの激しい馬車チェイスでは、追っ手の人間、馬、馬車が、壮絶にコケては吹っ飛んでいく。一体何人のスタントマンが、怪我を負ったことか? この映画世界では、ガチのキスシーンは、御法度。その代わりに、川でずぶ濡れになりながら、ムトゥとランガの恋の炎は燃え上がる。 そして、ことあるごとに大々的に展開される、群舞のミュージカルシーン。大人数のダンサーを従えたムトゥとラーガは、目も鮮やかな衣装を取っ替え引っ替えしながら、歌い、そして踊りまくる。因みに“インド映画”の常で、2人の歌声は、“プレイバックシンガー”と呼ばれる、専門のプロ歌手によって吹き替えられているのであるが。 忘れてならないのは、音楽を担当した、A・R・ラフマーン。当時すでに海外からも注目される存在だったが、この後にダニー・ボイル監督の『スラムドッグ$ミリオネア』(2008)の音楽で、アカデミー賞の音楽賞に輝き、世界的な存在になっている。 こうした、典型的且つド派手な“マサラ・ムービー”である本作は、95年に本国でヒットを飛ばしてから3年後、98年6月に、東京・渋谷の今はなきシネマライズで、まずは単館公開。これが半年近くのロングランとなり、興行収入が2億円を突破した。 評判が評判を呼び、最終的に本作は全国で100以上の映画館で上映。先陣を切ったシネマライズを含めて、トータルの観客動員数は25万人、累計興行収入は、4億円にも達す、堂々たる大ヒットとなった。 その後発売された映像ソフト=VHS・レーザーディスク・DVDの販売本数は、6万枚を突破!これまた、異例の大当たりと言える。 それにしても、本国では絶大なる人気を博しながら。それまでまったく日本に紹介されることがなかった、“マサラ・ムービー”である。一体どういった経緯で、突然上映されることになったのか? それは、ひとりの“映画評論家”の家族旅行がきっかけだった。その男、江戸木純氏がプライベートでシンガポールを訪れたのは、1996年の6月。 散歩がてら、インド人街を歩いていた時に、何の気なしにビデオとCDを売るお店へと立ち寄った。そこに並ぶ、観たことのない“インド映画”のパッケージに興味を持った彼は、店員に「今一番人気のあるスターの映画は?」と尋ねた。その時に薦められて購入したのが、ラジニカーントであり、その主演作『ムトゥ』であった。 お店で一部を観ただけで大いに心惹かれた江戸木氏だったが、その際に購入した『ムトゥ』のソフトを、帰国してから全編観て、大いにハマってしまった。そして毎日のように、本作の歌と踊りのシーンを観る内に、「これを映画館の大画面で見たい」という想いを抱き、遂には日本での上映権の購入に至った。 その後江戸木氏は、公開に向かって手を挙げてくれた配給・宣伝会社と連携。公開の戦略を練った結果、まずは「東京国際ファンタスティック映画祭」で『ムトゥ』を上映し、爆笑と拍手の渦をかっ攫った。 この大評判から、多くの問い合わせを受け、新たな提携も得たことから、劇場公開に向かって、大いに前進。遂には『ムトゥ』と出会ってからちょうど2年後の98年6月に、シネマライズでの上映を実現させたわけである。 そして沸き起こった、“第1次インド映画ブーム”!続々と“インド映画”の輸入・公開が続いたが、こちらはかの地の映画会社との契約の難しさなどでトラブルが続出し、ブームは早々にしぼんでしまう。 しかしこの時に、“インドへの道”が開けたのは、確かであろう。『ムトゥ』が起こしたムーブメントがなければ、その後の“インド映画”の紹介は、ずっと難しかった可能性がある。『きっと、うまくいく』(09)や、『バーフバリ』シリーズ(15~17)などの成功も、『ムトゥ』あってこそと言って、差し支えないだろう。 因みにラジニカーントは、齢七十を超えた今も、“タミル語映画界=コリウッド”の輝けるスーパースターである。■ 『ムトゥ 踊るマハラジャ【デジタルリマスター版】』(C) 1995/2018 KAVITHALAYAA PRODUCTIONS PVT LTD. & EDEN ENTERTAINMENT INC.
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COLUMN/コラム2022.11.02
あなたもまんまと騙される!? 詐欺師たちの逆転リベンジを描いた痛快な傑作コメディ『スティング』
詐欺師コンビによる大胆不敵なハッタリ計画とは? 創業から110年の歴史を誇るハリウッドで最古のメジャー映画スタジオ、ユニバーサル。主に低予算のB級映画を量産していた同社は、それまでに幾度となく浮き沈みを経験してきたわけだが、’50年代に入ってスタジオシステムが崩壊すると倒産寸前の経営危機に陥り、大手タレント・エージェントから総合エンタメ企業へと成長したMCAに買収される。このMCAによるテコ入れで事業を拡大したユニバーサルだが、しかし本業の映画部門は20世紀フォックスやパラマウントなどの他社に後れを取ってしまい、主に『ヒッチコック劇場』や『ララミー牧場』、『刑事コロンボ』といったテレビ・ドラマで稼ぐようになる。 そんな老舗ユニバーサルに『西部戦線異状なし』(’30)以来の43年ぶりとなるアカデミー作品賞(合計7部門獲得)をもたらし、同年に公開されたジョージ・ルーカスの『アメリカン・グラフィティ』(’73)と共に興行的にも大ヒットを記録。ユニバーサル映画部門の本格的な復興に一役買うことになった名作が、痛快軽妙に詐欺師の世界を描いた傑作コメディ『スティング』(’73)だった。 舞台は1936年9月、米国民が未曽有の経済不況に喘いだ大恐慌下のシカゴ。詐欺で日銭を稼ぐ貧しい若者ジョニー・フッカー(ロバート・レッドフォード)は、師匠であるベテラン詐欺師のルーサー(ロバート・アール・ジョーンズ)と組んで、違法賭博の売上金をまんまと騙し取ることに成功する。これまで見たことのない大金を手にして浮かれるフッカー。恋人のストリッパー、クリスタル(サリー・カークランド)を誘って意気揚々と夜遊びに出かけたフッカーだが、しかし欲を出して場末のカジノでひと儲けようとしたところ、騙されて有り金を全てスってしまう。 その帰り道、天敵である悪徳刑事スナイダー(チャールズ・ダーニング)から、違法賭博の元締めがドイル・ロネガン(ロバート・ショー)だと知らされる。表向きは裕福な銀行家のロネガンだが、その裏の顔は裏社会を牛耳る冷酷非情な大物ギャング。これはヤバイ!と慌てるも時すでに遅く、師匠ルーサーはロネガンの差し向けた殺し屋に殺害され、自らも命を狙われるフッカーは逃亡せねばならなくなる。 そんなフッカーが転がり込んだのは、ルーサーの古い仲間ヘンリー・ゴンドーフ(ポール・ニューマン)。その世界では名の知られた伝説的な凄腕詐欺師だったが、ある事件でヘマをしたことから一線を退き、今は遊園地や酒場を経営する女性ビリー(アイリーン・ブレナン)のヒモをしていた。なんとしてでもロネガンに復讐し、ルーサーの仇を取りたいと鼻息を荒くするフッカー。その心意気を買ったゴンドーフは、ロネガンを騙して大金を巻き上げるべくひと肌脱ぐことにする。 すぐさま詐欺計画のブレインを招集したゴンドーフ。業界に顔の広い策略家キッド・ツイスト(ハロルド・グールド)に裏社会の情報収集に長けたJ.J.(レイ・ウォルストン)、普段は銀行員として働くエディ(ジョン・ヘフマン)が集まり、大勢の詐欺師仲間を動員した大規模な劇場型のイカサマを計画することとなる。その一方、事件の匂いを嗅ぎつけたFBI捜査官ポーク(ダナ・エルカー)がスナイダー刑事と組んで、ゴンドーフとフッカーの周辺を探り始める。果たして、一世一代の詐欺計画は成功するのだろうか…!? 実在した詐欺師たちからヒントを得たストーリー 才能はずば抜けているものの人間的に未熟な駆け出しの詐欺師と、頭脳明晰で手練手管に長けたベテラン詐欺師がコンビを組み、悪事の限りを尽くす強欲な大物ギャングから大金を巻き上げてギャフンと言わせるというお話。軽妙洒脱でユーモラスなジョージ・ロイ・ヒル監督の職人技的な演出も然ることながら、細部まで入念に計算されたデヴィッド・S・ウォードの脚本が文句なしに素晴らしく、悪漢ロネガンばかりか観客までもがまんまと騙されてしまう。社会のはみ出し者である詐欺師たちが力を合わせ、大物ギャングや警察など権力者たちの鼻を明かすという筋書きもスッキリ爽快。この負け犬の意地を賭けた逆転勝負というのは、監督・脚本を兼ねた『メジャーリーグ』(’89)にも通じるウォードの持ち味だが、中でも本作はアカデミー脚本賞に輝いたのも大いに納得の見事な出来栄えである。 そのウォードが本作のアイディアを思いついたのは、処女作『Steelyard Blues』(’73)の脚本を書くためのリサーチをしていた時のこと。同作で描かれるスリ犯罪について調べていた彼は、資料の中に出てくる実在した往年の詐欺師たちに魅了されたという。暴力もせず盗みを働くわけでもない詐欺師は、カモ自身の金銭欲を逆手に取って金をかすめ取る。彼らの多くは貧困層の出身で、騙す相手は基本的に金持ちばかりだ。まるでロビン・フッドみたいじゃないか!とウォードは考えた。 中でも、’30~’40年代に活躍した詐欺師たちは、大金を騙すために偽の証券取引所や賭博場などを実際に作ってしまい、綿密に練られたシナリオのもとで組織的に役割分担をしてターゲットを信用させ、相手が騙されたことにすら気付かないうちに大金を巻き上げるという、なんとも大掛かりで大胆な手段を用いていた。これを映画にすれば絶対に面白いはず!そう確信したウォードは、およそ1年がかりで書き上げた脚本を、俳優からプロデューサーに転身したばかりの友人トニー・ビルのもとに持ち込み、そのビルがマイケルとジュリアのフィリップス夫妻に声をかける。 本作のオスカー受賞でプロデューサーとしての地位を築き、マーティン・スコセッシの『タクシー・ドライバー』(’76)やスティーブン・スピルバーグの『未知との遭遇』(’77)を世に送り出すフィリップス夫妻。当時まだ無名の映画製作者だった2人は、ロサンゼルス西部マリブのビーチハウスに居を構えていたのだが、そこでたまたま隣人だった女優マーゴット・キダーとジェニファー・ソルトの2人と意気投合し、やがて彼らの周囲にはスコセッシやスピルバーグ、フランシス・フォード・コッポラ、ブライアン・デ・パルマ、ロバート・デ・ニーロ、ハーヴェイ・カイテルといった当時の若い才能が集まり、ハリウッドで燻っている無名や駆け出しの映画人たちの社交場と化していく。トニー・ビルやデヴィッド・S・ウォードもそこに出入りしていたのである。 そのビルから紹介された『スティング』の脚本を気に入ったフィリップス夫妻は、彼と3人で本作のプロデュースを手掛けることに同意。エージェント事務所に送られたウォードの脚本は、当時の事務所スタッフで後に映画監督となるロブ・コーエン(『ワイルド・スピード』)の目に留まり、大手スタジオのユニバーサルに売り込まれたというわけだ。 ニューマン演じるゴンドーフは「くたびれた大柄の中年男」だった!? ポール・ニューマンにロバート・レッドフォードが主演、監督はジョージ・ロイ・ヒルという『明日に向って撃て』の黄金トリオが再集結したことでも話題となった本作だが、当初はもっと小規模な映画になるはずだったという。製作陣が最初に声をかけたのはレッドフォード。というのも、ウォードは彼を念頭に置いて主人公フッカーのキャラを描いていたからだ。脚本の面白さに興味を惹かれたレッドフォードだったが、しかし脚本家のウォードが監督を兼ねる予定だと聞いて躊躇する。これだけ込み入った内容の脚本を映像化するには、ベテラン監督の職人技が求められるからだ。すると、それからほどなくしてレッドフォードはジョージ・ロイ・ヒル監督から連絡を受ける。当時、ユニバーサルで『スローターハウス5』(’72)を撮っていたヒル監督は、たまたま見かけて読んだ『スティング』の脚本を気に入り、次回作としてレッドフォード主演で監督したいという。こうして、本作の企画が本格始動することになったのだが、しかしこの時点ではまだニューマンは関わっていなかった。 かつて『明日に向って撃て』の撮影中、ニューマンがビバリーヒルズに所有する邸宅に滞在していたヒル監督。『スティング』の制作に取り掛かるにあたって、またあの屋敷を貸してもらおうと考えたヒル監督は、その交渉のためにニューマンへ連絡したところ、反対に「自分に出来るような役はないのか?」と尋ねられたという。そこで彼のもとへ脚本を送ったところ、若干の紆余曲折を経ながらもベテラン詐欺師ゴンドーフを演じることに。ただし、当初の脚本におけるゴンドーフは「くたびれた大柄の中年男」という設定で、なおかつ脇役のひとりに過ぎなかった。そのため、ヒル監督とウォードはニューマンの個性に合わせてキャラ設定を変更し、なおかつレッドフォードとの二枚看板となるよう役割も大きくしたのである。 それだけでなく、当初は全体的にシリアスなトーンだったストーリーのタッチも、一転して明るくてユーモラスなものへと変更。ロネガン役にはニューマンの推薦でロバート・ショーが起用され、レイ・ウォルストンやチャールズ・ダーニング、アイリーン・ブレナン、ハロルド・グールドといった名脇役俳優たちがキャスティングされた。フッカーといい仲になるダイナーのウェイトレス、ロレッタ役には、当時まだ無名だったディミトラ・アーリスを抜擢。ある重大な秘密を隠したロレッタを演じる女優が、顔や名前の知れた有名人だと観客が先入観を持ってしまうからという理由だったそうだ。スタジオ側は「もっと綺麗な女優を」と難色を示したそうだが、ヒル監督は頑として譲らなかったという。なぜなら、そんな目立つ美人が場末のダイナーなんかで働いているはずがないから。これは確かに正しい。そういえば、アイリーン・ブレナンにしろ、サリー・カークランドにしろ、本作に登場する女優たちは、いずれも色っぽいけど美人過ぎない。いかにも、いかがわしい酒場やストリップ小屋にいそうな、それらしいリアルな存在感を醸し出しているのがいい。 さらに、’30年代のシカゴを舞台にした本作を映像化するにあたって、ヒル監督は当時の街並みや風俗を忠実に再現するだけでなく、作品そのものの演出にも’30年代の犯罪映画のスタイルを取り入れることに。オープニングに出てくるユニバーサルの社名ロゴからして、’30年代当時の古いものを使用している。撮影監督のロバート・サーティーズと美術監督のヘンリー・バムステッドは、作品全体のカラー・トーンや照明を工夫することで、’30年代のモノクロ映画に近いような雰囲気を再現。’30年代当時から活躍するイーディス・ヘッドが衣装デザインを手掛け、イラストレーターのヤロスラフ・ゲブルが’30年代に人気だった雑誌「サタデー・イヴニング・ポスト」の表紙を真似たタイトルカードのイラストを描いた。そのスタイリッシュなビジュアルがまた大変魅力的だ。 また、本作はかつてアメリカの大衆に愛された音楽ジャンル、ラグタイムを’70年代に復活させたことでも話題を呼んだ。実際にラグタイムが流行ったのは20世紀初頭であるため、’30年代を舞台にした本作で使うのは時代考証的に間違いなのだが、ヒル監督は「そんなことに気付く観客なんていない」と一笑に付したという。使用されている楽曲の数々は、「ラグタイムの王様」として活躍した黒人作曲家スコット・ジョプリンのもの。息子とその従兄弟が自宅のピアノで演奏していたジョプリンの楽曲を聞いたヒル監督は、その軽快で陽気なタッチが『スティング』の雰囲気にピッタリだと考えたらしい。友人でもある作曲家マーヴィン・ハムリッシュに映画用のアレンジを依頼。テーマ曲となった「ジ・エンターテイナー」はビルボードの全米シングル・チャートで4位をマークし、サントラ・アルバムも全米ナンバー・ワンに輝いた。’17年に48歳の若さで死去したジョプリンは、ラグタイムの衰退と共に忘れ去られていたものの、本作をきっかけに再評価の気運が高まり、’76年にはその功績に対してピューリッツァー賞を授与されている。■ 『スティング』© 1973 Universal Pictures. All Rights Reserved.