COLUMN & NEWS
コラム・ニュース一覧
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COLUMN/コラム2019.04.24
【ロッキー一挙放送記念!コラム:なかざわひでゆきさん】ファンと共に成長してきた『ロッキー』シリーズ40年の歩みを振り返れ!
記念すべき第1作目『ロッキー』(’76)の誕生から、既に43年の歳月が経つ。売れない無名の3流ボクサー、ロッキー・バルボアが、苦悩と葛藤の末に悲願の成功を手に掴む。まさしくサクセス・ストーリーの王道と呼ぶべき本作が、なぜ今もなお世代を超えて熱烈に愛され、数々の続編やスピンオフが製作されるほどの人気を獲得しているのか。それは本作が根本的に、いつの時代も色褪せることのない「持たざる者たちへの応援歌」だからに他ならないのではないかと思う。 物語の冒頭、ボクサーとしてそれなりの才能がありながらも実力を伸ばせず、ヤクザな高利貸しの用心棒として生計を立てる自分を「ゴロツキ」と自嘲するロッキー。なぜなら、恵まれない環境に育った自分自身を、その程度の価値しかない人間と思い込んでいるからだ。それはなにもロッキーだけに限ったことではない。恋人エイドリアンも親友ポーリーも、さらに言えばコーチのミッキーもそうだ。貧しいスラム街の惨めな生活に慣れてしまった彼らは、どうせ財産もコネも学歴もない凡人の自分に明るい未来など望めないと諦めている。
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COLUMN/コラム2019.04.24
【ロッキー一挙放送記念コラム:松崎まことさん】「もういいよ~」を乗り越えて… 『ロッキー』シリーズの40年余
「もういいよ~」を乗り越えて… 『ロッキー』シリーズの40年余 「もういいよ〜」 そのニュースを耳にして、思わず口に出してしまった。『ロッキー』シリーズの続編というかスピンオフとして、『クリード』という作品の製作が報じられた時だ。 主役が、アポロの息子!? ロッキーのライバルであり親友だった、あのアポロ・クリードの息子が主人公で、しかもロッキーも登場するって…。うわ、そんな蛇足みたいな話やっても、面白くなるわけないじゃん。やめてよ~と、心の底から思った。 思えば『ロッキー』(1976)と出会ったのは、シリーズ第1作が日本公開された、1977年の4月。私は中学に入学したばかりで、映画を猛然と見始めた頃だった。 主人公は、30代になっても芽が出ない、三流ボクサーのロッキー・バルボア。しかし偶然の成り行きから、偉大なるチャンピオンとして君臨する、アポロへの挑戦権を得る。 お馴染み「ロッキーのテーマ」に乗っての特訓やアポロとの壮絶なファイトなど、燃えるシーンも多々あるが、私が忘れられないのは戦いの前夜、ロッキーが恋人のエイドリアンに、訥々と語る“想い”。 「もし最終15ラウンドまでリングの上に立っていられたら、自分がただのゴロツキではないことが証明できる」 イジめに遭うなど暗い小学生時代を経て、中学という新しいステージに立ったばかりの自分に、このセリフはいたく響いた。自らシナリオを書いた『ロッキー』で、それまでの無名の存在から一気にスターダムを駆け上がった、シルベスター・スタローンのリアルストーリーも重なって、生きていく上で大切な何かを教えられた気がした。 それからの『ロッキー』シリーズは、『ロッキー2』(1979)『ロッキー3』(1982)…と、ほぼリアルタイムで追い続けたが、実は『クリード』以前にも、「もういいよ~」という思いを抱いたことがある。第1作から、ちょうど30年後の2007年4月に日本公開となった第6作、『ロッキー・ザ・ファイナル』(2006)のストーリーを聞いた時だ。既に60代に突入していたスタローンが演じる50代のロッキーが、カムバックを決意。現役の世界チャンピオンと戦う…。 現実世界では1990年代中盤に、ジョージ・フォアマンが45歳で世界チャンピオンの座を奪い、48歳まで現役を続けたというケースがある。しかしいくら何でも、“50代”のロッキーのファイトなんて…。 だが、観ねばなるまい。『ロッキー4/炎の友情』(1985)『ロッキー5/最後のドラマ』(1990)の2作に正直辟易する部分が多かったこともあって、そんな義務感込みの醒めた気持ちで、16年ぶりのシリーズ最新作『…ファイナル』を迎えた。ところが、この作品が素晴らしかった!シリーズのお約束を踏襲しながらも、最愛の妻エイドリアンを亡くし、ひとり息子とも疎遠になっているロッキーが、“50代”にして戦う意味を明確に打ち出している。 元世界チャンピオンの偉大な父親にコンプレックスを抱き続けている息子に、ロッキーが言う。 「人生ほど重いパンチはない。それでも、どんなに強く打たれてもずっと前に進み続けることだ。そうすれば勝てる」 鑑賞時40代前半になっていた私は、ちょうど“放送作家”という、長年の稼業の曲がり角に近づきつつあった頃。『…ファイナル』には、中坊の時に第1作を観た時と同じく、いやそれ以上に大きく感情を揺さぶられた。改めて、スタローンに打ちのめされてしまったのである。 さて、それから更に9年を経ての『クリード チャンプを継ぐ男』(2015)。アポロの血を継いで闘いの炎を燃やすアドニスと、そんなかつての親友の息子の師匠となったロッキーの物語。それぞれに孤独を抱えた同士が、力を合わせてファイトに望んでいく中で、徐々に“家族”のような絆で結ばれていく…。 嬉しいことに『クリード』は、『…ファイナル』に続いて、またこちらの予想を大きく裏切ってくれた!ほぼ無名の新人だったライアン・クーグラー監督が持ち込んだ企画を、スタローンが受け入れたことからスタートしたこの作品で、クーグラー監督と主演のマイケル・B・ジョーダンは、ハリウッドで大注目の存在になった。そんな展開も第1作を彷彿とさせ、10代から50代になるまで、このシリーズを観続けてきた私の心をギュッと掴んだ。 改めてスタローンのキャリアを振り返ると、『ロッキー』以外にも、『ランボー』や『エクスペンダブルズ』のようなヒット作はある。でも結局は、40年以上に渡って演じ続けている“ロッキー”なのである!『クリード 炎の宿敵』(2018)も大ヒットを収めた今、こうなったらいのちの炎を燃やし続ける限りは、スタローンにはロッキー・バルボアを演じ続けて欲しいと、熱烈に希望する! 特集の記事はコチラ番組を視聴するにはこちら © 2015 METRO-GOLDWYN-MAYER PICTURES INC. AND WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2019.04.24
【ロッキー一挙放送記念コラム:長谷川町蔵さん】「やれるまでやる」スタローンはそう教えてくれた。
小学校のころ入っていたブラスバンド部で、『ロッキー』のテーマを練習させられたことがある。担当は太鼓だった。なぜトランペットを選ばなかったのか覚えていないけど、ビル・コンティによる勇壮な曲調に釣られてテンションを上げまくって、ドカドカと叩きまくった記憶がある。 当時はまだ『ロッキー2』までしか公開されていなかった頃だから、トレンドに相当敏感な選曲ではある。でも『ロッキー』のテーマは小学生に人気があったし、演奏映えがするから楽譜が全国に出回っていたのだろう。『ロッキー』が教育的観点から支持されていた可能性もあるかもしれない。たとえ倒れても立ち上がるロッキーのネバー・ギブアップ精神は、部活を運営する側にとっても都合がいいからだ。 やれるまでやる。部活の顧問でもないのにシルベスター・スタローン=ロッキー・バルボアはこうした教えを40年以上にわたって僕らに説き続けてきた。 そもそも生まれつき顔の左側が麻痺して表情や発音が万全とは言い難い人物が、俳優を志すだろうか? 身長が170センチ代半ばにもかかわらずヘビー級ボクサー役を自ら演じて世に出ようとするだろうか? でもスタローンはやってみせた。製作会社からスター俳優を起用すればヒット間違いなしと勧められても、主演に拘って低予算で『ロッキー』を作り上げたのだ。 同作の大成功によってスター俳優になったスタローンは、『ロッキー2』『ロッキー3』『ロッキー4/炎の友情』とリングで戦い続け、製作費と興行収入は膨れあがっていった。その一方で作品の評価が下降線を描いていったのも事実だ。 「俺と戦った時のお前は“虎の眼”をしていた」 『ロッキー3』でアポロがロッキーに語るこうしたセリフは、スタローンによる自分への問いかけだったかもしれない。かくして完結篇として構想された『ロッキー5/最後のドラマ』でスタローンはロッキーにフィラデルフィアの街角で若手ボクサーとストリート・ファイトをさせた。原点回帰だ。だがこの決着は観客に支持されないまま、シリーズは幕を閉じることになる。普通の人間ならここで諦めるところだろう。 しかしスタローンは諦めなかった。26年後の『ロッキー・ザ・ファイナル』で老齢にさしかかったロッキーに第一作と同じような練習やファイトをさせることによって、別の原点回帰を行なわせたのだ。結果、同作は執念が生んだ偉大なる完結編として絶賛された。 これで終わり。誰もがそう思って久しかった頃、スピンオフ作『クリード チャンプを継ぐ男』への出演がスタローンの魂に再び火を付けた。『ロッキー3』のラストでは描かれなかったロッキーとアポロふたりだけの試合の結果を重要なモチーフに掲げた同作の成功は、彼に正統な評価を得られなかった過去作のリベンジを行うアイデアをもたらしたのだ。 かくしてスタローンが脚本家に復帰した『クリード 炎の宿敵』は、『ロッキー4/炎の友情』の後日談をベースにしながら、『ロッキー2』における妻の出産や『ロッキー3』における持久戦に弱いライバルの存在など、過去作のモチーフを積極的にリサイクル。加えて『クリード』では影が薄かったロッキー・ジュニアまで再登場、『ロッキー・ザ・ファイナル』で十分に書き込めなかった父子の物語にケリをつけている。この傑作によって、ロッキーシリーズの全作品は映画ファンに肯定されるものになった。 スタローンがインタビューで「『クリード 炎の宿敵』の続編が製作されてもロッキーは登場しないだろう」で語っているのは、<やれるまでやる>を貫いてやり遂げた自分に達成感を感じているからにちがいない……いや、またやる気になっても、それはそれでオッケーなんだけど。 特集の記事はコチラ番組を視聴するにはこちら © 1985 METRO-GOLDWYN-MAYER STUDIOS INC.. All Rights Reserved© 1990 METRO-GOLDWYN-MAYER STUDIOS INC.. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2019.04.23
ファンキーな音楽とデカい車とピカピカの銃と暴力とエロで描く70年代のブラックムービー
スパイク・リーが『ブラック・クランズマン』の脚色でようやくアカデミー賞を獲得しましたが、彼には師匠がいます。『ドゥ・ザ・ライト・シング』など、スパイク・リーの映画に何本か出演している黒人の老人で、オシー・デイヴィスという俳優です。デイヴィスは、ハリウッドの黒人監督の草分けなんです。 今回紹介するオシー・デイヴィス監督作『ロールスロイスに銀の銃』は、70年代黒人アクション映画のブームを巻き起こしたヒット作です。 主人公は、ニューヨークの黒人街ハーレムの警察署に勤める黒人刑事コンビ、その名も墓掘りジョーンズと棺桶エド。2人は捜査が荒っぽくて、悪い奴らを地獄に送ってしまうことも多く、そんな不吉なニックネームで呼ばれています。 原作はチェスター・ハイムズ。アメリカ生まれの黒人作家で、若い頃、強盗で刑務所に入りますが、獄中で小説を書き始めました。自分の体験を活かした、暴力と犯罪とセックスと皮肉なジョークに満ちた世界です。 しかし、1950年代はまだ南部で人種隔離が続いていた時代ですから、ハイムズの小説はアメリカには受け入れられませんでした。失意のハイムズはフランスに移住し、そこでセリ・ノワール(暗黒小説)として墓掘りジョーンズと棺桶エド・シリーズを書き、ベストセラーになります。60年代にはアメリカでも公民権運動で黒人の地位が向上して、ハイムズの本も売れまして、1970年、ブラックパワーのなかで映画化された第1作が『ロールスロイスに銀の銃』です。 タイトル通り、映画はピカピカのロールスロイスがハーレムに入ってくるところから始まります。貧しい黒人が住むハーレムに高級車ロールスロイスが入ってくれば、乗っているのはギャングのボスだろうと思うと、車を降りたのはオマリーというハンサムな牧師さんです。彼は当時盛り上がっていたアフリカ回帰運動を掲げて、アフリカ行きの客船を買うために黒人から金を集めています。 その金をめぐって、イタリア系のマフィアやブラックパンサーのような黒人過激派、それに墓掘りジョーンズと棺桶エドが加わってのアクションが展開します。 タイトルの「銀の銃」は、棺桶エドが撃つコルト・パイソン357マグナムを意味します。パイソンが出た最も初期の映画ですね。相棒の墓掘りジョーンズが使うのはなんと信号銃です。これで照明弾を敵に向かって水平撃ちするのは映画史上でも珍しい戦い方ですね。 エド(レイモン・サン・ジャック)は眼光鋭く、タフで悪への怒りに燃える男。逆にジョーンズ(ゴッドフリー・ケンブリッジ)は眠そうな目でダルそうに皮肉なジョークばかり言ってるキャラです。だから、これは『バッドボーイズ』みたいなハードなアクションとコメディの合体によるバディ・ムービーの元祖です。『フリービーとビーン/大乱戦』(74年)よりも4年も古い画期的な映画です。 70年代の黒人アクション映画は一般的には『黒いジャガー』(71 年)と『スイート・スイートバック』(71年)が始まりだとされますが、『ロールスロイスに銀の銃』はそれより早くヒットし、のちにブラックスプロイテーションと呼ばれるジャンルの「型」を作りました。つまり、セクシーで賢い黒人、ダサくてマヌケな白人、ファンキーな音楽とイカしたファッションとデカい車とピカピカの銃と暴力とエロです。 オシー・デイヴィス監督はもともと俳優で、シドニー・ポラック監督の西部劇『インディアン狩り』(68年)で、デイヴィス扮する南部からの脱走奴隷が、白人のバート・ランカスターと友情で結ばれていく、これもバディ・ムービーでした。デイヴィスはハリウッド俳優として働きながら公民権運動に参加し、マルコムXの葬儀でも、キング牧師の葬儀でも弔辞を読み上げました。つまり映画と社会運動の革命家だったから、スパイク・リーからリスペクトされたんですね。 というわけで『ブラック・クランズマン』の原点をお楽しみください!■ (文/町山智浩) MORE★INFO. ●原作は邦訳もあるチェスター・ハイムズの“墓掘りジョーンズと棺桶エド”シリーズの第6作『ロールスロイスに銀の銃』(文庫化改題『聖者が街にやってくる』)。●原作にはロールスロイスは登場しない。●俳優オシー・デイヴィスの監督デビュー作。●“ブラクスプロイテーション映画”の最初期の1本で、70年代にハリウッドで作られた黒人映画で最も興行的に成功した映画だった。●メルバ・ムーアの歌う主題歌“Ain't Now But It's Gonna Be”の作詞もデイヴィスが担当。●本作と同じくケンブリッジ&サン・ジャックの主演の続編『ハーレム愚連隊』(72年)もハイムズの『夜の熱気の中で』が原作。原作シリーズでは他にも『イマベルへの愛』が『レイジ・イン・ハーレム』(' 91 年)として映画化されている。 COTTON COMES TO HARLEM © 1970 SAMUEL GOLDWYN JR.. All Rights Reserved
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NEWS/ニュース2019.04.23
竹原慎二さん特番放送へのコメント到着!動画あり! 「ロッキーから勇気や希望をもらうんじゃないですかね」 番組「『クリード チャンプを継ぐ男』「ロッキー」放送記念:竹原慎二の選択」 ザ・シネマにてGW最終日5/6(火・休)放送! 竹原慎二さんの格言付き直筆サイン入り色紙をプレゼント!
洋画専門CS放送ザ・シネマとBS4K放送ザ・シネマ4Kは、令和元年のゴールデンウィーク最終日に、 「ロッキー」シリーズ全6作品とCSベーシック初放送の『クリード チャンプを継ぐ男』を一挙放送いたします。放送にあわせ元ボクサー・竹原慎二さんのインタビュー特別番組の放送が決定! この度、特別番組の放送を記念し竹原慎二さんにインタビューを行いました。 山あり谷ありロッキーさながらの人生を過ごしてきた、竹原さんが語る自身の半生と、『ロッキー』への熱い想いがこもったインタビューとなりました。 そして竹原さんの格言付き直筆サイン入り色紙をプレゼントキャンペーンも実施します。 「ロッキー」シリーズと『クリード チャンプを継ぐ男』の一挙放送とあわせてお楽しみください! ■元WBA世界ミドル級王者・竹原慎二、「『ロッキー』は勇気や希望をもらえる作品」 ★ 竹原慎二さんインタビュー!特別番組「『クリード チャンプを継ぐ男』「ロッキー」放送記念:竹原慎二の選択」 40年以上もの間、多くの人に勇気と希望を与えてきたシルヴェスター・スタローン主演の映画「ロッキー」シリーズ。ザ・シネマとザ・シネマ4Kでは、その「ロッキー」シリーズ全6作と、ロッキーのライバルであり親友だったアポロの息子アドニス・クリードを主人公にした新章「クリード」シリーズの第一弾『クリード チャンプを継ぐ男』(CSベーシック初放送)を5月6日に一挙放送する。この放送にあわせて、元WBA世界ミドル級王者・竹原慎二さんが自身の半生について大いに語った特別番組「『クリード チャンプを継ぐ男』「ロッキー」放送記念:竹原慎二の選択」も放送される。少年時代から、ボクシングとの出会いで人生を変えて世界王者になった竹原氏。人生を変えた父の言葉。上京。世界戦への挑戦。また、近年は癌との過酷な戦いなど……。数々の困難にも、不屈の精神で立ち向かってきた竹原氏は、まさにリアル・ロッキーとも言うべき存在だ。竹原氏自身はその言葉に「単に不良だったとか出来損ないだった、という点が一緒だというだけでしょ」と笑ってみせるが、それでも氏の言葉は多くの人の心を揺さぶるハズだ。 ★竹原慎二さんコメント 「ロッキー」シリーズは、幼少時からビデオや映画館などで観てきたという竹原氏。 <竹原さん> 「現役の時も、試合前に自分を奮い立たせるために『ロッキー』を観ていました。本当に感動や夢、すべてをくれる映画。僕の場合は高校にも行けなくて。夢も希望もなかったんですけど、そういう僕みたいな奴らが『ロッキー』や「あしたのジョー」なんかを観て、夢を抱いていたんです。ボクサーになれば、この現状を変えられるかもしれないと。今の子はどうか分からないですが、僕らの頃は、ほとんどのボクサーが『ロッキー』を観て感動していたと思いますよ」。 しかし今回の企画に挑むにあたり、改めて「ロッキー」シリーズを鑑賞し直してみたところ、その印象に変化があったという。 ■『クリード チャンプを継ぐ男』&「ロッキー」シリーズ特別番組情報 『クリード チャンプを継ぐ男』「ロッキー」放送記念:竹原慎二の選択放送日:5月6日(月・休) 20:45~/5月18日(土) 20:45~元ボクシング世界王者・竹原慎二氏。リアル・ロッキーが「ロッキー」シリーズと自身の半生を語り尽くす! 番組情報はコチラ 番組を視聴するにはこちら ■「『クリード チャンプを継ぐ男』「ロッキー」放送記念:竹原慎二の選択」 放送記念プレゼントキャンペーン! ★竹原慎二さん格言付き直筆サイン入り色紙を3名様にプレゼント! ザ・シネマのWEBサイトプレゼントページより応募ください。※ザ・シネマの会員「ザ・シネマメンバーズ」へ会員登録(無料)が必要です。応募期間:2019年4月23日(火)~2019年5月31日(金) プレゼント応募先ページはコチラ 番組を視聴するにはこちら
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NEWS/ニュース2019.04.17
『町山智浩のVIDEO SHOP UFO』で 4月『ロールスロイスに銀の銃』、5月『ビーチレッド戦記』の放送が決定! LAから!町山智浩さん直筆サイン入りトートバックをプレゼント!
ザ・シネマの人気オリジナル番組『町山智浩のVIDEO SHOP UFO』は、ビデオショップ店長に扮したLA在住の映画評論家・町山智浩さんが激レア作品を厳選し、映画本編とその前後に町山さんの圧倒的な知識量による徹底解説がつく番組をLAからザ・シネマがお届けしています! また放送にあわせ、番組ロケ現場であるロサンゼルスにあるビデオショップのトートバッグ(町山さんのイラストの直筆サイン入り)を10名様にプレゼントします。 プレゼント応募先ページはコチラ ■4月5月の『町山智浩のVIDEO SHOP UFO)』番組詳細 4月~『ロールスロイスに銀の銃【町山智浩撰】』放送日: 4月29日(月)深夜03:15~/5月9日(木)深夜01:30~黒人監督の先駆者による刑事ものブラックスプロイテーションは『バッドボーイズ』の原点か?番組情報はコチラ 『ビーチレッド戦記 【町山智浩撰】』© 1967 METRO-GOLDWYN-MAYER STUDIOS INC.. All Rights Reserved ---------------------------------------------- ■ザ・シネマ『町山智浩のVIDEO SHOP UFO』の4月、5月放送にあわせてプレゼントキャンペーン実施! 番組ロケ現場であるロサンゼルスにあるビデオショップのトートバッグ(町山さんの可愛いイラストの直筆サイン入り)を10名様にプレゼント!A4サイズも入ります。※デザインはお選びいただけません。 ザ・シネマのWEBサイトプレゼントページより応募ください。 ※ザ・シネマの会員「ザ・シネマメンバーズ」へ会員登録(無料)が必要です。 応募期間:2019年4月17日(水)~2019年5月31日(金) プレゼント応募先ページはコチラ 番組を視聴するにはこちら
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COLUMN/コラム2019.04.02
アメリカの現実を投影したディストピア世界を描く低予算B級ホラー・アクション・シリーズ
‘13年の夏、アメリカで一本の低予算ホラー・アクション映画が予想外の大ヒットを記録する。タイトルは『パージ』。バジェット300万ドルに対して、公開週末の興行収入はナンバー・ワンの2500万ドル。最終的な世界興収は8900万ドル以上に達した。以降もシリーズ化されて人気を博し、スピンオフ的なテレビシリーズまで作られることに。B級ホラー映画を得意とする制作会社ブラムハウス・プロダクションにとって、『パラノーマル・アクティビティ』(’09)や『インシディアス』(’10)に続く看板シリーズとなった。 シリーズ全作に共通する基本設定は下記の通りである。 経済悪化や犯罪率の上昇などで社会が混乱した近未来のアメリカ。この機に乗じて政権を掌握した「新しい建国の父」なる政治組織が全体主義的な統治支配を行い、大衆の不満の捌け口としてパージ(粛正)法を施行する。これは年に一度、3月21日の夜7時から翌朝7時までの12時間だけ、殺人や強盗、レイプなどの凶悪犯罪を合法化するというもの。その間、警察も病院も消防署も一切機能しない。ただし、政府要人などランク10以上の特権階級はパージの対象外で、もし彼らに危害を加えたら重罰に処せられる。よって、広範囲に被害が及ぶ可能性のある爆弾や細菌兵器などの使用は不可。このパージ法によって失業率は1%にまで低下し、犯罪率も過去最低を更新。かくして、アメリカは暴力のほぼ存在しない平和で安定した社会を実現した…というわけだ。 「人間はもともと暴力的な生き物。内なる攻撃性を解き放つことで、国民の精神を健全化する」というのがパージ法の目的なのだが、しかしそれはあくまでも表向きの大義名分に過ぎない。アメリカ政府の本当の狙いは、富裕層による富の独占と国民の分断だ。パージへの参加・不参加は個人の自由。参加者はおのおの武器を手にして殺人や略奪などの「狩り」に出かけ、不参加者は屋内に立て籠もって朝が来るのを待つ。おのずと武器やセキュリティシステム、各種保険などの必需品が毎年飛ぶように売れ、特定の企業や業界が莫大な利益を上げ、権力者たちも多額の政治献金によって懐が潤うことになる。 その一方で、十分な武器やセキュリティを確保できない中流以下の庶民は当然ながら命の危険に晒される確率が高く、中でも無防備にならざるを得ない貧困層は格好のターゲットにされる。ではなぜ民衆はパージ法反対のために立ち上がらないのか?これは、今回残念ながらザ・シネマでは放送されないシリーズ第3弾『パージ:大統領令』(’16)で明らかにされるのだが、実は「新しい建国の父」のバックに保守系キリスト教団体が付いており、「宗教」と「愛国」を盾にしたプロパガンダで国民を洗脳し抑圧している。それゆえ、ナチ政権下のドイツの如く、反政府レジスタンスは表立った活動ができないのだ。いずれにせよ、一般の庶民同志に殺し合いをさせて支配層への不満をガス抜きし、ついでに貧困層の人口を減らすことで社会福祉予算を大幅に削減できる。まさに一石二鳥のシステムと言えるだろう。 さながら、21世紀アメリカの現実を投影したかのようなディストピア。監督・脚本を手掛けたのは『交渉人』(’98)や『アサルト13 要塞警察』(’05)などアクション映画の脚本家として知られるジェームズ・デモナコだ。1作目の初稿を書き上げた当初、彼は周囲から「こんな反米的な内容の暴力映画、絶対に受けるはずがない」と猛反対されたという。自身も本シリーズを「反米的」と認める監督は、しかし「僕は自分の国を愛している。でも今の我々は狂っている」と1作目公開当時のインタビューで告白している。 「ウォールストリートを占拠せよ」の抗議運動によって不公平な富の再分配や経済格差の拡大が大きな社会問題となり、バージニア工科大学やサンディフック小学校など全米各地で発生する銃乱射事件の頻度が増す一方だった1作目公開時のアメリカ。もともと銃規制賛成派でリベラル寄りのデモナコ監督は、そんなアメリカ社会の在り方に強い憤りを覚えていた。また、’05年にハリケーン・カトリーナが米南東部を襲った際の、アメリカ政府のあまりに杜撰で不十分な対応にも怒りを禁じえなかったという。そうした権力や社会への不信感が『パージ』シリーズ制作の原動力になっているようだ。 第一弾『パージ』の舞台は富裕層が暮らす高級住宅街。主人公はセキュリティ会社のエリート・セールスマン一家。言ってみれば、パージ法の恩恵に与って財を成した搾取側の人々だ。最新のセキュリティシステムを完備した大豪邸に暮らす彼らにとって、パージの夜の虐殺も略奪も対岸の火事。自分たちには直接関係がないものと高をくくっているのだが、しかしふとした出来事から暴力集団の家宅侵入を許してしまい、絶体絶命の危機に陥ることとなる。 さらに本作では、富裕層の中にもあるヒエラルキーに着目し、高級住宅街における隣近所の格差に由来する憎悪と嫉妬を浮き彫りにしていく。いったんパージ法のような権力の理不尽を許してしまえば、たとえ支配者側についていても身の安全は保障できないし、いつ自分たちが弱者へ転落して犠牲を強いられることになるかも分からない。「今がよければ」「自分さえよければ」という浅はかで利己的な考え方は、いずれブーメランとなって我が身に返ってくる。暴力と憎悪の蔓延する世界では、誰もがそれと無関係ではいられないのだ。 続く第2弾『パージ:アナーキー』では、舞台が貧困層の人々が暮らす下町へと移り、パージの晩に逃げ場を失った貧しい男女5人のサバイバルが描かれる。1作目の主人公が白人一家であったのに対し、こちらは白人・黒人・ヒスパニックの多人種構成(母娘役のカーメン・イジョゴとゾーイ・ソウルは肌の色が薄いもののアフリカ系)。あくまでもテーマの焦点は人種問題ではなく階級問題なのだが、しかしデモナコ監督自身も「結果的に人種と階級は切り離せない」と語るように、貧困層になればなるほど人種的マイノリティが増えることは避けられない。 ウォルター・ヒル監督の『ウォリアーズ』(’79)からインスピレーションを得たという『パージ:アナーキー』。お互いに助け合いながら、獲物を探すパージャー(パージ参加者)たちがうごめく真夜中のスラム街を駆け抜ける主人公たち。そんな彼らが中盤で武装集団に拉致され、とある場所へと連れていかれる。そこは、なんと白人富裕層たちが人間狩りを楽しむ狩猟場だった…! というわけで、あからさまに分かりやすい超格差社会のメタファーに、少なからず苦笑いさせられることは否めないが、この下世話なくらいにベタな社会風刺こそが『パージ』シリーズの醍醐味でもある。そもそも、シリーズの基本姿勢は低予算のエクスプロイテーション映画。デモナコ監督は古いハリウッドB級娯楽映画の伝統に倣ったと語っている。かつて、ドン・シーゲルやサミュエル・フラーといった職人監督たちは、生活のためと割り切って低予算B級映画の仕事を引き受けたわけだが、実のところ西部劇やアクション活劇といった純然たる娯楽映画を撮りつつ、その中に政治的なメッセージや社会的なテーマを盛り込むことが少なくなかった。『パージ』シリーズもその延長線上に存在するというわけだ。 映画とは時代を映す鏡でもある。「願わくは、(『パージ』シリーズが)『ソイレント・グリーン』のように、まるで荒唐無稽な話だと受け止められるような社会であって欲しい。それが理想だけれども、悲しいことに現実はそうでない」とも語っているデモナコ監督。その後も、まるでトランプ大統領の出現を予感したかのような第3弾『パージ:大統領令』(2020年大統領選へ向けたトランプ陣営のスローガン「Keep America Great(米国を偉大なままに)」まで登場する)、パージ法の始まりを描いた前日譚『パージ:エクスペリメント』(‘18・’19年6月に日本公開予定)と続き、より人間ドラマにフォーカスしたテレビシリーズ『パージ』(’18~)も登場。監督は公開時期未定の次回作映画でシリーズに終止符を打つと公言しているが、果たしてそれまでにアメリカ社会はどのような変化を遂げているのだろうか。■ ▼放送情報はコチラから。 『パージ』 (2013年公開) 『パージ:アナーキー』 (2014年公開) 『パージ:大統領令』(2016年公開) ▼関連情報 映画『パージ:エクスペリメント』6/14公開記念、 ザ・シネマで6/5(水)、6/14(金)、6/29(土)に 「パージ」シリーズ一挙放送!プレゼントキャンペーンも実施!
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COLUMN/コラム2019.03.30
『弁護人』で“韓国の至宝”ソン・ガンホが演じた元大統領の軌跡
“民主主義”を標榜するような国でも、時の政権によって“政府の敵”と見なされた者たちを標的に、“ブラックリスト”が作られることは、往々にしてある。 有名なのは、ウォーターゲート事件により辞任に追い込まれ、「史上最低の大統領」という評価もある、アメリカの第37代大統領リチャード・ニクソン(任期:1969~74)が作った、「政敵リスト」。そこには政治家やジャーナリストと並んで、ベトナム反戦や公民権運動などに熱心だったハリウッドスターたち、ポール・ニューマンやジェーン・フォンダなどの名前が挙げられていた。 ニクソンはこうした“リスト”に載せた人物たちを、「税務調査」などの手段で締め上げて、圧力を掛けることを目論んだとされる。結局は国税庁のTOPが拒んだため、調査が実施されることはなかったと言われるが。 こうした“映画人”をもターゲットにした“ブラックリスト”という意味で、近年大きなニュースが報じられたのは、韓国。2016年10月に全国紙「韓国日報」によって、その前年=15年5月に、当時朴槿恵(パク・クネ)大統領を頂く韓国政府が、“文化芸術界”の検閲すべき9,473人の名簿を作成し、関係省庁へと送ったことが明らかになった。「この“リスト”に載せたタレントや文化人は、干せ!」と、政府が暗に指示したわけである。 リストアップされたのは、大統領選挙やソウル市長選で、朴陣営に敵対する候補を支持した者や、2014年4月に発生した「セウォル号沈没事件」に関して、政府やその関係者を批判した者など。ご存知の方が多いと思うが、修学旅行中だった高校生250人を含む、300人以上の死者・行方不明者を出したこの大事故では、政府の対応の遅れや不手際が強く非難され、朴政権に大きな打撃を与えていた。 では具体的に、韓国政府の“ブラックリスト”に挙げられた“映画人”とは、どんな顔触れだったのか?『オールド・ボーイ』(03)『お嬢さん』(16)などのパク・チャヌク監督、『悪魔を見た』(10)『密偵』(16) などのキム・ジウン監督、『10人の泥棒たち』(13)などに出演する女優のキム・ヘスといった、一流どころの名前が並ぶ。そして、本作『弁護人』の主演俳優であるソン・ガンホの名も、その“リスト”に挙げられていた。 韓国映画界には、かつての“韓流四天王”=ヨン様やチャン・ドンゴンなどのイケメン系とは別に、エラが張った巨顔ですんぐりむっくりな体形の人気スター達が居る。私は“ジャガイモ系”と呼んでいるが、『哀しき獣』(10)のキム・ユンソクや『新感染 ファイナル・エクスプレス』(16)のマ・ドンソク、『容疑者X 天才数学者のアリバイ』(12)のチョ・ジヌン、本作にも“カタキ役”で出演しているクァク・ドウォンといった面々が、それである。 ソン・ガンホは、そんな“ジャガイモ系”の先駆け且つ代表的な存在として、『シュリ』(1999)『JSA』(2000)『殺人の追憶』(03)『グエムル 漢江の怪物』(06)といった、韓国映画史に残る数多のヒット作や名作に次々と出演。“国民俳優”“韓国の至宝”の名を恣にし、日本でも高い人気を誇る。名実ともに、韓国映画界きってのTOPスターである。 そんな“韓国の至宝”が、政府に睨まれる直接の原因となったのは、「セウォル号事件」の問題で署名活動に参加したこととされる。しかし2013年に製作された本作に主演したことも、その遠因になっていることは、容易に想像できる。ガンホが演じた本作の主人公=ソン・ウソクのモデルは、廬武鉉(ノ・ムヒョン)元大統領だからである。 本作では、1978年から87年頃までの韓国・釜山を舞台に、ソン・ウソク≒政治の世界に進む前の廬武鉉の姿が描かれる。もちろん映画向けに創作された部分もあるが、大筋では事実をほぼ正確に描いているという。 では、廬武鉉の歩んだ道を、簡単にまとめてみたい。それは即ち、本作の内容の紹介になるし、主演俳優のガンホが、朴政権に目を付けられた理由の説明にも繋がる。 1946年、釜山の貧しい農家に生まれた廬武鉉。頭脳は優秀ながら、お金がなかったため大学に行けず、アルバイトをしながら司法試験の勉強を始めた。 途中3年間の徴兵期間を経て、75年=29歳の時に、司法試験に合格。裁判官を経て弁護士となる。本作ではこの辺りからが、描かれる。 廬武鉉は、弁護士事務所の開業からしばらくは、税務を専門とし、お金儲けに邁進した。本作の中で、豊かになった主人公が、苦学時代に食い逃げした食堂にお金を返しに行くエピソードが登場するが、これも実話が基になっているという。 転機が訪れたのは、81年。同僚弁護士に頼まれ、「釜林(プリム)事件」の被害者の弁護を担当したことだった。この事件では、釜山でマルクス主義などの本の読書会をしていた、学生や教師、サラリーマンなど22人が、令状もなく突然逮捕された。彼らは2カ月もの間不法監禁され、過酷な拷問を受けていた。 当時の全斗煥(チョン・ドファン)政権は、軍事クーデターと不正選挙で権力の座に就いたこともあって、“民主化”を目指す者たちを敵視していた。そのため思想的な背景が深いとは言えない、読書会のような集まりにも目を付けて、「国家保安法」の名の下で、“アカ=共産主義者”“北朝鮮のスパイ”扱いをして摘発。徹底的な弾圧を加えていた。 それまではノンポリで、“民主化運動”などにも関心がなかった廬武鉉だが、弁護をする若者の身体に拷問の痕を見付け、強い衝撃を受ける。それがきっかけとなって彼は、金儲けの得意な弁護士から、180度の変身を遂げる。 この事件の弁護を、まるで「家族のように」献身的な姿勢で行ったのをはじめ、貧しい人々のために、“無料”で法律相談に乗ったり弁護を引き受けるなど、いわゆる“人権派弁護士”となったのである。 このような活動を邪魔に思った政権側は、検察を使って彼を拘束したり、弁護士資格を停止したりした。映画『弁護人』で描かれるのは、この辺りまでである。
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COLUMN/コラム2019.03.28
「エンスラポイド作戦」映画化作品4本の全容~『ハイドリヒを撃て!「ナチの野獣」暗殺作戦』~
1942年5月17日、ナチス・ドイツのSS=親衛隊大将ラインハルト・ハイドリヒが、チェコスロバキアのプラハで襲撃されて重傷を負い、8日後の6月4日に死亡した。レジスタンスの力を借りて、ハイドリヒの暗殺計画「エンスラポイド(類人猿)作戦」を実行したのは、亡命チェコスロバキア軍人たち。亡命先のイギリスから、母国に潜入しての決行だった。 この顛末は確認出来る限りで、今までに4回映画化されている。フリッツ・ラング監督の『死刑執行人もまた死す』(1943)、ルイス・ギルバート監督による『暁の七人』(75)、そして本作、ショーン・エリス監督の『ハイドリヒを撃て!「ナチの野獣」暗殺作戦』(2016)、更に今年1月には、セドリック・ヒメネス監督の『ナチス第三の男』(17)が日本公開されている。 この“暗殺作戦”が、かくも欧米のフィルムメーカーたちを惹き付けるのは、なぜであろうか?まずは、ナチの中でハイドリヒが占めていた位置がポイントと思われる。 ドイツ近現代史研究者の増田好純氏が著すところによれば、ハイドリヒは「ナチズムの暗面を象徴する存在」だったという。親衛隊のTOPであるハインリヒ・ヒムラーの片腕として、ゲシュタポ=秘密国家警察を含む警察組織を掌中に収め、アドルフ・ヒトラー総統の“敵”を、徹底的に排除することに努めた。それは時には、ナチ内部の粛清にも及んだ。 そんな中で、人種的・社会的マイノリティの迫害やユダヤ人の大虐殺にも大きく関与。それが、「絞首人」や「死刑執行人」、「若き死神」「金髪の野獣」など、様々な異名を取る所以である。 1941年9月には、ハイドリヒは、ドイツの支配下だったチェコスロバキアの事実上の総督に就任。当時高まりを見せていた抵抗運動の撲滅を図って、全土に戒厳令を布告し、弾圧を強化していった。 そんな「ナチズムの暗面を象徴する存在」の暗殺が、成功したわけである。ナチが席捲していたヨーロッパでは無理でも、既にドイツと交戦状態にあったアメリカで、すぐにそれを題材にした作品が作られたのも、むべなるかな。反ナチ・レジスタンスのプロバガンダ作品として、正に打ってつけのネタであったのだ。 そうして、“暗殺”の翌年にアメリカで公開されたのが、『死刑執行人もまた死す』である。当時のハリウッドには、このニュースを映画化するのに、格好の人材が揃っていた。 監督のフリッツ・ラングは、戦前のドイツ映画界きっての巨匠。ナチスの台頭後にアメリカに渡って、活躍していた。 原案・脚本は、やはりドイツからアメリカに亡命中だった、ベルナルド・ブレヒト。20世紀最大の戯曲家のひとりで、「三文オペラ」や「肝っ玉お母とその子供たち」などを著した、あのブレヒトである。音楽はブレヒトと亡命仲間の同志である、ハンス・アイクラ―が担当した。 『死刑執行人も…』は、実際にあった“暗殺”の顛末を、事細かに描いた作品ではない。この作品で“死刑執行人”ハインリヒを暗殺するのは、レジスタンスの闘士フランツ。架空の人物である。フランツは逃走中に、マーシャという女性に救われ、匿われる。 暗殺犯の行方をつかめないゲシュタポは、犯人を密告するか自首させないと、事件とは無関係な市民たちを無差別に殺していくと宣言し、弾圧を強める。匿ってくれたマーシャの老父も連れ去られ、フランツは苦悩するが…。 連行された市民たちが、毅然とした態度で処刑されていく描写。ドイツ軍と通じている裏切り者の男を、市民たちが一丸となって罠には嵌め、暗殺犯に仕立て上げていくサスペンスなど、見事な出来栄えである。 エンディングでは、「The End」ならぬ「NOT……The End」」という文字が画面に映し出され、今は戦時中で、自由を得るためのナチスとの戦いが、これからも続いていくことが表される。普遍的にも、素晴らしい作品と言える。 とはいえこれはやはり、戦争中にハリウッドのセットで撮られた、プロバガンダ作品。戦後しばらくすると、同じ“ハイドリヒ暗殺”の映画化でも、現実の舞台だったプラハでのロケを敢行した、ぐっとリアルな描写が施されるようになる。 先にフィルムメーカー達が、この題材に惹かれる理由として、ナチの中でハイドリヒが占めていた位置を挙げたが、ここでもう一つのポイントが浮上する。実際に行われた「エンスラポイド作戦」が、あまりにも壮絶で、悲劇的な色彩を帯びている点である。 戦後30年経って映画化された『暁の七人』では、暗殺を実行するのは史実通りに、イギリスに亡命していたチェコスロバキア軍人のヤン軍曹(演:ティモシー・ボトムズ)とヨゼフ曹長(アンソニー・アンドリュース)ら。 彼らはパラシュートで母国に潜入すると、レジスタンスと合流。潜伏生活の中で暗殺計画を練り、試行錯誤の上で、ハイドリヒが車で司令部に向かう道中を待ち伏せて襲うという、大胆な作戦を決行する。 ハイドリヒの殺害は見事に成功したものの、ナチは厳重な捜査網を敷いて、レジスタンスを血祭りに上げていく。そして更に、一般のチェコスロバキア国民に対する報復行為に踏み切る。標的となったのは、リディスという田舎町。男という男は、すべて銃殺刑に処され、女性や子どもは強制収容所へと送還され、町は全滅に至った。 一方、暗殺に成功したヤンとヨゼフら7人は、協力者である教会に隠れ、脱出の日を待っていた。しかし裏切り者の密告などで、ナチに包囲されてしまう。700人もの親衛隊と、壮絶な銃撃戦を行う7人だったが、1人また1人と倒れていく。最後に地下室に逃げ込んだヤンとヨゼフは、ナチの水攻めの中で、覚悟の自決を遂げるのだった…。 『暁の七人』から30余年を経て、改めて「エンスラポイド作戦」の全容を描いたのはが、本作『ハイドリヒを撃て!「ナチの野獣」暗殺作戦』である。史実に基づく以上大筋は変えようがないが、『暁の七人』にはまだあった、戦争映画特有の作戦遂行までのワクワク感や成功後のカタルシスが、本作では大幅に削ぎ落されている。 ハイドリヒ暗殺に成功してしまえば、ナチの追及が強まり、無関係な市民への虐殺が行われるのは、あらかじめわかっている。そのためレジスタンスのメンバーの中には、ヤンとヨゼフへの協力に躊躇する者も出てくる。 また本作では、暗殺実行後の部隊が国外脱出することの困難さが、はじめから強調されている。ハイドリヒ暗殺が“片道切符の特攻作戦”の色が強かったことが、示唆されているわけだ。 様々なリスクを想定し、それが現実のものになるのを目の当たりにした上で、それでも実行すべき作戦だったのか? 『ハイドリヒを撃て!』では、観る者も問われていく。
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COLUMN/コラム2019.03.27
さながらアントニオーニかゴダールか、ハリウッドスターの監督作という色眼鏡を外して見て欲しい佳作
舞台は’70年代初頭の南フランス、地中海に面した入江の高級ホテル。シボレーのコンバーチブルに乗ったアメリカ人の中年夫婦が到着する。夫ローランド(ブラッド・ピット)は創作に行き詰まったアル中の流行作家、妻ヴァネッサ(アンジェリーナ・ジョリー)は情緒不安定で不愛想な元ダンサー。会話の節々に愛情の片鱗が垣間見える2人だが、しかし夫婦仲は冷え切っているも同然だ。不器用ながらも関係の修復を試みるローランド。一方のヴァネッサは、彼が自分の体に指一本触れることも許さない。 かくして、夫は午前中からバーに入り浸って酒をあおり、妻はホテルの部屋に閉じこもってバルコニーから入江を眺めて過ごす。だが、そんなある日、隣の部屋にハネムーンの若い新婚夫婦フランソワ(メルヴィル・プポー)とリア(メラニー・ロラン)がチェックインしたことから、ローランドとヴァネッサの関係に奇妙な変化が生じる…。 当時、交際9年目で正式に結婚したばかりだったハリウッド最強のパワーカップル、ブラッド・ピットとアンジェリーナ・ジョリーが、2人の出会いとなった大ヒット作『Mr. & Mrs.スミス』(’05)以来2度目の共演ということで話題を呼んだ『白い帽子の女』(’15)。しかも、妻アンジーが監督と脚本を手掛け、夫婦揃ってプロデュースにも名を連ねるという夢のブランジェリーナ・プロジェクトだ。当然、配給会社ユニバーサルは興行的な成功を期待したはずだが、しかし結果はまさかの大赤字。批評家からもこき下ろされてしまった。さらに追い打ちをかけるかの如く、本作の公開から約1年後にブラピとアンジーは離婚。ある意味、呪われた一本となってしまったのである。 オープニングとエンディングでカーラジオから流れてくる、ショパンをモチーフにしたジェーン・バーキンの名曲「ジェーンB.~わたしという女」の気だるい歌声とメロディが、ミケランジェロ・アントニオーニさながらの退廃的なアンニュイ・ムードを漂わせる本作。それはまるで、’60~’70年代初頭のヨーロッパ映画のような趣きだ。ビジュアルのイメージはジャン=リュック・ゴダールの『軽蔑』(’63)、作家とその妻のすれ違いを描くストーリーはアントニオーニの『夜』(’61)を彷彿とさせる。 さらに、ある理由で精神を病んでしまった妻が次第に壊れていく様子は、アメリカン・インディーズ映画の父ジョン・カサヴェネテスの『こわれゆく女』(’74)をも連想させるだろう。実際、カサヴェテスを崇拝するブラピとアンジーは、夫婦二人三脚で映画を作り続けたカサヴェテスとジーナ・ローランズを、自分たち夫婦関係のロールモデルとしていた。いずれにせよ、これは完全にアートシアター向きの小ぢんまりとした芸術映画。なるほど、ブランジェリーナ夫婦を目当てに映画館へ足を運んだミーハーな観客が、なんじゃこりゃ!?と戸惑ってそっぽを向いてしまったとしても全く不思議ではない。初めから需要と供給が噛み合っていないのだ。 そもそも映画監督としてのアンジェリーナ・ジョリーは、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を題材にした長編処女作『最愛の大地』(’11)から、一貫して「非ハリウッド」の姿勢を貫いてきたと言えよう。太平洋戦争で日本軍捕虜となった米兵の実話を描いた『不屈の男 アンブロークン』(’14)は、そのストーリーこそ米国大衆好みの戦争英雄譚だったが、しかしあえてハリウッド映画的なヒロイズムを排除することによって、熱心な人権活動家という側面を持つアンジーらしい人道主義的な視点を備えた反戦映画として仕上がった。 クメール・ルージュ時代のカンボジアの混沌と恐怖を、家族とともに集団農場送りとなった少女の視点から見つめた最新作『最初に父が殺された』(’17)に至っては、もちろんカンボジアとの合作だからという理由もあるが、全編に渡ってカンボジア人キャストがカンボジア語で演じるという徹底ぶり。日常の延長線上にあるジェノサイドの不条理を丹念に描くリアリズムにも説得力がある。この一般受けをものともしないアンジーの映画作りへの取り組みは、ハリウッド屈指の高額ギャラを稼ぐ大女優なればこその余裕かもしれないが、それでもなおその我が道を行く作家性には強く関心を寄せずにはいられない。 振り返って、この『白い帽子の女』で描かれるのは、人間誰しもが人生で一度は向き合うことになるであろう「喪失感」だ。’07年に最愛の母親を卵巣腫瘍で亡くしたアンジーは、どうしようもなく深い喪失感から抜け出ることの出来ない時期が続いたという。彼女の母親は元女優ミシェリーヌ・ベルトラン。夫ジョン・ヴォイトの浮気が原因で離婚したミシェリーヌは、女優としての夢を諦めて息子ジェームズと娘アンジーの子育てに人生を捧げた。10代の頃にイジメが原因で鬱状態に陥り、自傷行為やドラッグに溺れた経験を持つアンジーは、そんなどん底の時期を支えてくれた母親に対して、人一倍の強い愛情と絆を感じていたのである。苦労の連続だった母親がなぜ56歳という若さで逝かねばならなかったのか。そのやり場のない悲しみと憤りが、ある出来事が原因で深い喪失感を抱えた主人公ローランドとヴァネッサの夫婦関係に、さらに言えば妻ヴァネッサの不安定な心理状態に投影されていると言えるだろう。 そんな2人がホテルの隣室に宿泊する若い新婚夫婦と親しくなるわけだが、ここからストーリーは思いがけない方向へと展開していく。幸せの絶頂にある若夫婦の寝室を、ローランドとヴァネッサは壁の穴からこっそりと覗き見するのだ。かつては私たちもあんな風に愛し合っていた。いけないことだと重々承知しつつ、壁穴の向こうの光景から目を逸らすことの出来ないヴァネッサ。その行為を当初は咎めたローランドだが、しかしやがて共犯関係へと転じる。あらゆることに無関心・無気力だった妻が、久しぶりに見せる強い好奇心。そこに、彼は夫婦関係改善の手がかりを感じ取ったのだ。 実際、この「共通の趣味」をきっかけにローランドとヴァネッサは、お互いにかつての愛情を取り戻していくかのように見える。しかし、ことはそれほど単純ではなかった。やがてヴァネッサの若夫婦に寄せる関心は度を越えた執着へと変わり、やがて彼女の心に潜む深い喪失感が詳らかになっていく。明るい兆しのように思えたヴァネッサの変化は、実のところギリギリで持ちこたえていた彼女の精神がバランスを失った瞬間、つまり崩壊の序曲のようなものだったのだ。 監督アンジェリーナ・ジョリーの視線は、まるで作り手である彼女自身が主人公たちと一緒になって手探りで答えを見つけ出そうとするかの如く、壊れかけた夫婦の苦悩と葛藤、そして再生までの道程をどこまでも丹念に見つめていく。これは、彼女のほかの作品でも同様だ。『最愛の大地』にしろ、『不屈の男 アンブロークン』にしろ、『最初に父が殺された』にしろ、戦争や内乱といったドラマチックなシチュエーションよりも、その渦中に置かれた人々の心理や感情の変化と成長を細やかにくみ取ろうとする。それゆえに、どうしても彼女の作品は長尺になってしまうのだが、しかし同時にそれが醍醐味でもあるのだ。 一方で、ほかの作品では空撮によるロングショットを多用することで、被写体と一定の距離感を保とうとするアンジーだが、ここではいつもと違って全体的に寄りの画が多く、本作が彼女にとって極めてパーソナルなテーマを扱った映画であることがよく分かる。よくよく考えれば、恋愛映画というジャンル自体が映像作家アンジェリーナ・ジョリーにとっては異質。そういう意味でも、とても興味深い作品だと思う。 もちろん、古いヨーロッパ映画の雰囲気をどこまでもリアルに再現した映像の美しさも素晴らしい。母ミシェリーヌがこの時代のヨーロッパ映画が大好きで、アンジー自身も少なからぬ影響を受けたらしい。撮影監督はミヒャエル・ハネケとのコラボレーションンで有名なクリスティアン・ベルガー。照明の代わりに自然光を反射鏡で使った独特の風合いが、時代の空気を見事なくらいに蘇らせている。タイプライターやルイヴィトンの旅行鞄など、ヴィンテージな小道具の使い方も洒落ている。 オープニングとエンディングを飾るジェーン・バーキンを筆頭に、フランス・ギャルやシャンタル・ゴヤのようなイエイエアイドルから、シャルル・トレネやシャルル・アズナヴールのような王道シャンソンまで、全編に散りばめられた懐メロ・フレンチポップスの数々もレトロな情緒を演出する。まるで、あの時代に本当に迷い込んでしまったような感覚が心地いい。『ベティ・ブルー』(’86)や『カミーユ・クローデル』(’88)の作曲家ガブリエル・ヤレドによる音楽スコアも甘美でノスタルジックだ。ちなみに、劇中で使用される楽曲の大半は’60年代のものだが、しかしイエイエを卒業したシェイラの’74年のヒット曲「Tu Es Le Soleil」や、やはり元イエイエアイドルのジャクリーヌ・タイエブが’79年にリリースした「Petite Fille Amour」が含まれているので、選曲の時代考証はわりとざっくりしているようだ。 とりあえず、ハリウッドのメガスター、アンジェリーナ・ジョリーの監督作という色眼鏡を外して見て頂きたい佳作。当時アメリカの批評で、「所詮は意識高い系セレブの自己満足映画」という論調が多かったのもそのせいだろう。結局、我々は人生の光も影もありのままに受け入れるしかない、痛みも悲しみも人生の一部として付き合っていくしかない。そんな風に感じさせる穏やかで静かな幕引きがとても好きだ。■ 参考資料:「『白い帽子の女』メイキング」(‘15年制作・ビデオ作品)/『偉大なるミューズ:ジーナ・ローランズ』(‘15年制作・ビデオ作品)/「Angelina Jolie on 'By the Sea', Her Wedding and the Sony Hack」(‘15年インタビュー記事・Harper’s Bazaar掲載)/「By the Sea DGA Q&A with Angelina Jolie Pitt and Marc Levin」(‘15年全米監督協会制作・ビデオ作品)