記念すべき第1作目『ロッキー』(’76)の誕生から、既に43年の歳月が経つ。売れない無名の3流ボクサー、ロッキー・バルボアが、苦悩と葛藤の末に悲願の成功を手に掴む。まさしくサクセス・ストーリーの王道と呼ぶべき本作が、なぜ今もなお世代を超えて熱烈に愛され、数々の続編やスピンオフが製作されるほどの人気を獲得しているのか。それは本作が根本的に、いつの時代も色褪せることのない「持たざる者たちへの応援歌」だからに他ならないのではないかと思う。

物語の冒頭、ボクサーとしてそれなりの才能がありながらも実力を伸ばせず、ヤクザな高利貸しの用心棒として生計を立てる自分を「ゴロツキ」と自嘲するロッキー。なぜなら、恵まれない環境に育った自分自身を、その程度の価値しかない人間と思い込んでいるからだ。それはなにもロッキーだけに限ったことではない。恋人エイドリアンも親友ポーリーも、さらに言えばコーチのミッキーもそうだ。貧しいスラム街の惨めな生活に慣れてしまった彼らは、どうせ財産もコネも学歴もない凡人の自分に明るい未来など望めないと諦めている。

しかし、そこで世界ヘビー級王者アポロ・クリードとの対戦という千載一遇のチャンスに恵まれたロッキーは、その途方もないプレッシャーと格闘する過程で大切なことに気付いていく。たとえ負け犬であっても、この世になんの価値もない人間などいない。人生の困難を打ち破って前へ進むためには、まずは自分が自分の価値を信じなくてはいけないのだと。そして、勝負において本当に重要なのは勝敗の結果ではなく、戦いを通して自分の弱さや欠点を克服し、選手としても人間としても更なる高みを目指すこと。つまり、真の敵はライバルでなく常に自分自身なのだと。この謙虚な姿勢とチャレンジ精神、そして負け犬ならではの意地がこれでもかと観客の共感を呼び、心地よいカタルシスと生きる勇気を与えてくれる。そう、ロッキーは全ての持たざる者たちの仲間であり、お手本にするべき英雄なのだ。

こうしたロッキーの確固たる信念は、以降のシリーズ作でもブレることなく貫かれていく。セレブの仲間入りですっかり勘違いしてしまった『ロッキー3』(’82)では、妻エイドリアンやミッキーに叱咤激励されたロッキーがいま一度初心に帰り、親友アポロの死という悲劇に見舞われた『ロッキー4/炎の友情』(’85)では、殺人マシンのごとく育成されたソ連人選手ドラゴまでもがロッキーの熱い闘志に感化される。ポーリーの大チョンボでロッキーが全財産を失った『ロッキー5/最後のドラマ』(’90)では、過去の栄光や成功体験に囚われることの愚かさ、最終的に人生で最も大切な宝は家族と友人であることを学ぶのだ。

 

そして、『ロッキー・ザ・ファイナル』(’06)では引退してレストラン店主となった初老のロッキーが、道に迷う一人息子ジュニアやスラム街の若者たちのために、体を張って自らの生きざまを示して見せる。と同時に、シリーズと共に年齢を重ねてきたファンへ向けて、たとえ肉体は衰えてもチャレンジ精神だけは失うな!年を取っても若い頃の初心を忘れるな!と喝を入れてくれる。言うなれば、ファンとロッキーは共に人生を歩んできた同志のようなもの。それだけに、筆者のようなアラフィフ以上の世代であれば、いま改めてシリーズを見直すことで、若い頃とはまた違った印象を受けるはずだ。

そんな『ロッキー』シリーズのDNAを確実に受け継いだのが、アポロの遺児アドニスを主人公に据えた『クリード チャンプを継ぐ男』(’15)。複雑な出自から己のアイデンティティに確信が持てず、人生の目標を見失いかけた若者アドニスを、年老いたロッキーが亡き親友アポロに代わって教え導いていく。誰もがそこに、かつてのロッキーと恩師ミッキーの姿を重ね合わせることだろう。もはやここまで来ると、スポーツ映画というよりは叙事詩的な大河ドラマ。その興奮と感動と男のロマンを、今回の一挙放送で存分に味わって欲しい。

 

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