しょっぱなから私ごとで恐縮だが、自分(尾崎)は『ロッキー』シリーズへの入り込みが遅かった。世代的な事情もあるが、第1作目の『ロッキー』(76)から『ロッキー3』(82)はテレビ放送で我が身に摂り入れ、封切り時に劇場で観たのは『ロッキー4/炎の友情』(85)からである。なので思い出の一本を問われれば同作に尽きる。いや思い出のみならず、シリーズ最高傑作を挙げろと言われても『4』が毅然として頂点に位置するのだ。後年『エクスペンダブルズ』(10)の取材でドルフ・ラングレンに会ったとき、仕事もそっちのけで自分がいかに『4』を愛しているかを熱く伝え、先方にドン引きされたものだ。
 
 そう、本作はそのドルフ演じるロシアの超人イワン・ドラゴこそが、じつに憎々しい敵として圧倒的な魅力を放つ。科学トレーニングで造り上げた鉄の拳でアポロを撲殺し、ロッキーを苦境に立たせるシリーズ最強のヒールだ。ところが第1作目の原理主義者と『4』について話すと、自分の評価との温度差を感じることが多かった。「シリーズもあそこまでキワモノ化するとおしまいだな」とでも言いたげな先方の態度が、露骨に自分へと向けられるのである。
 たしかに、当時ロッキーを演じたシルベスター・スタローンのマッチョな容姿は、強国アメリカを体現しすぎて滑稽の域に達しているし、米ソ新冷戦時代を露骨に意識したストーリーなど、随所で醸し出される微妙な空気が本作には漂っている。冒頭の星条旗とツチカマ旗をあしらったグローブがぶつかり合って爆発するオープニングに至っては、地に足のついた「ボクシング人情劇」である1作目との決別宣言ともとれたのだ。
 
 だがロッキーとアポロ、かつては敵どうしだった相手が友となり、その友がリングの上でサイボーグのような敵に倒される少年マンガのような展開に、はたして冷笑を浴びせられる男がいるだろうか? なによりアポロの仇を討つため、単身ロシアに渡ってドラゴとのリベンジマッチに挑む。そんな「満身創痍」や「孤立無援」を体現したロッキーの姿は、芸大受験で浪人中だった自分と重なり、不安定だった青春期の大きな支えとなっていたのだ。サバイバーが歌う主題歌『バーニング・ハート』は起床時のBGMとしてオレを奮い立たせ、長い時間をデッサンに費やす孤独な日々を、極寒の敵地でトレーニングに励むロッキーとダブらせた。それだけに『4』を否定されることは、イコールで自分の人生を否定されているように思えてならず、そんなけしからん否定派に出会うたび、オレは心の奥底でロッキー式のナマ肉パンチを浴びせて憎悪を示した。いや冷静になって思えば、その姿はロッキーというより、会見の席でロシア側の抑圧的な自国体制を罵倒し「オレは沈黙しない大衆だ!」とケンカ腰になるポーリー(バート・ヤング)のほうだったかもしれないが。
 
 
 しかしそんな『4』も、ロッキー新章の嚆矢ともいうべき『クリード チャンプを継ぐ男』(15)により、大仰な笑える珍作から、再評価すべき古典として風向きが変わったように感じられてならない。アポロの遺児であるアドニス・クリードが、ロッキーの教えを経て全米チャンプの道を歩む同作。そんなプロットの性質上、ドラゴとアポロ、そしてロッキーとの因縁は避けて通れないものとなり、今やロッキー神話を語るうえで重要な位置づけを示している。そして昨年公開された続編『クリード 炎の宿敵』(17)において、クリードがドラゴの息子と戦うという、激アツな展開へと誘導していったのだ。
 人生、何事かを信じ続けていれば形勢が変わり、逆転をもたらすこともある。それは図らずも『4』と自分とをめぐる関係であり、ひいてはロッキー・バルボアというキャラクターのファイティング・スピリットを体現している。ああ『4』の初公開時に戻れるものならば、同作を支持し続けてきたオレを決して間違っていなかったのだと褒めてやりたい。ついでに当時好んで着ていた『ロッキー4』のパチモンTシャツ。ドラゴをあしらった図柄には、併せてロシア語で「ランボー」と書かれていたことを伝え、識らずしてかいていた大恥をついでに回避しておきたい。

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