『ロッキー』シリーズは、ほぼスタローンのものだと言っていい。多くの映画は、プロデューサーだったり脚本家だったりのアイデアから始まり、長い企画開発を経て監督や主演俳優が決まっていく。しかし『ロッキー』は、無名時代のスタローンが脚本を書き上げ、あくまでも「自分が主演すること」を条件にして売り込んだ。そのせいで、一時は36万ドルの値が付いた脚本料が2万ドルに下げられたのは有名な話だ。

 『ロッキー』で大ブレイクを果たしたスタローンは、二作目以降は監督も兼ね、未曽有の成功を手にする。しかし『ロッキー3』をシリーズ完結編にするはずが、四作目、五作目とシリーズが延長されるにつれ、劇中でセレブ化していくロッキーと現実の大スターとなったスタローンの慢心とが重なり、シリーズの評判も下降線をたどる。個人的には熱血指数120%の『ロッキー3』やエンタメ嗜好の『ロッキー4』も大好きだが、「やっぱり一作目が一番」というシリーズ物が陥りがちな轍を踏んでいたことは否定できない。

 傍目で見ていたり、実際に取材で会った印象でしかないが、スタローンという人は追い風が吹くと調子に乗り、キャリアが低迷すると逆風をバネに名作をものにする傾向があると思う。『ランボー/最後の戦場』はその典型パターンで、もはや「あの人は今」状態の時に、世間が「なんで今さらランボー?」と戸惑う中で放たれた硬派な傑作だった。しかしその勢いでロッキーまで復活させると知った筆者は、「また調子に乗りやがって、バカか!」と笑い半分、呆れ半分で聞いてしまった。しかし完成品を観て、スタローンを笑ったことを心から悔いることになる。『ロッキー・ザ・ファイナル』は非の打ちどころなく、『ロッキー』の理想的な続編だったからだ。

 50歳になったロッキーは、亡き妻エイドリアンの名前を付けたレストランを経営し、客相手にボクサー時代の昔話を披露する気のいいオヤジになっている。この描写で思い出したのは、ロッキーは若い時は、つまらないギャグを飛ばすお喋りキャラだったこと。スタローンは、いつの間にか偉くなって寡黙に見えてしまっていたロッキーを、本来の人物像に引き戻したのだ。

 もうひとつ、『ザ・ファイナル』が一作目に直結していると感じるのは、ロッキーがエイドリアンの命日になると義兄ポーリーを連れて一作目のデートの場所をめぐり歩いているという設定。初デートで訪れたスケートリンクの跡地で思い出を語り、ポーリーに「去年も同じ話をしたぞ」と呆れられるくだりは、シリーズ30年の歩みと人生の重みにしみじみとせずにいられない。

 そんな50歳のロッキーが、エキシビションマッチとはいえ若きチャンプとガチ試合する内容については、誰もが「年寄りの冷や水」と思ったはず。実際、劇中でもロッキーは息子から「みんなの笑いものだ」と非難される。『ザ・ファイナル』は、そんなことは百も承知のロッキー=スタローンが、全力で世間の先入観を覆そうとする物語なのだ。ロッキーを笑っていたのは劇中の大衆だけではない。現実の世界にいるわれわれ自身だったそうだった。そして最後には、まんまとロッキーの生き様に感動させられる奇跡が起きるのである。

 『クリード』二作の良さは、『ロッキー・ザ・ファイナル』で有終の美を飾ったスタローンが、ちゃんと若手にバトンを渡そうとしていることだと思っている。ロッキーの人生は続くが、もはや主人公ではない。そんな立場をロッキー=スタローンが“わきまえている”からこそ、老いたロッキーの滋味が増す。これも、『ザ・ファイナル』で満足な幕引きができていなければ、つい「もっとオレに見せ場を!」なんて考えてしまったのではないだろうか。だってスタローンなんだもの。

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