ザ・シネマ 村山章
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COLUMN/コラム2020.05.21
ハチャメチャな驚愕映像からエモーションが立ちのぼる快作!『スイス・アーミー・マン』
『スイス・アーミー・マン』は、予告編にもほぼまるごと収められていた冒頭のシーンで世の中の度肝を抜いた。ポール・ダノ扮する無人島の遭難者ハンクは、自殺を試みるも失敗し、ダニエル・ラドクリフ演じる水死体を発見する。死体にはガスが溜まっているからか、繁盛にオナラをする。オナラが推進力になると気づいたハンクは生きる希望を見出し、死体にまたがって大海原へと乗り出すのだ。オナラはさしずめジェットエンジンであり、大海原を突き進む超カッコいい絵面にタイトルが重なる。「スイス・アーミー・マン」と! 「スイス・アーミー・マン」とは「スイス・アーミー・ナイフ」をもじった造語。十徳ナイフとも呼ばれるスイス軍御用達の多機能ナイフみたいに、いろんな用途で役に立ってくれる死体のことを意味している。やがてハンクは死体を“マニー”と名付け、マニーは愛する女性サラのもとを目指すサバイバルジャーニーの良き相棒になっていく。 監督は、ミュージックビデオ界から頭角を現した名コンビ、ダニエル・シャイナートとダニエル・クワン(通称“ダニエルズ”)。ふたりの長編映画デビュー作となった『スイス・アーミー・マン』は、奇想天外なアイデアを次々とビジュアル化しまくった怪作だ。“ダニエルズ”の得意技は、合成映像の素材を人力で撮ってしまう力技。冒頭のオナラ噴射で海を渡る名シーンも、ダニエル・ラドクリフが実際にポール・ダノを背中に乗せて、本当にワイヤーで引っ張られているのだからスゴい。全編を貫くこの手作り感が、ありえない設定に奇妙な説得力と温かみをもたらしているのだ。 ハンクとマニーを導くのは、死体だけど勃起するマニーのイチモツだ。ハンクが語るサラへの想いに呼応してか、死んでいるはずのマニーのイチモツはコンパスのようにある方角を指し示す。ハンクはそれが愛するサラのもとへと導いてくれると信じて、人里離れた森の中を、死体のマニーを担いで進んでいくのである。 控えめに言って、この映画はどうかしている。設定もプロットもどうかしているし、ビジュアルもどうかしていて、しかもすべての要素が下ネタ系のギャグに繋がっている。サンダンス映画祭でお披露目された際に、ついていけないと退場する観客が何名もいたという話も意外ではない。ただし、その場限りのふざけたギャグを売りにした映画では決してない。どうかしている描写が積み重なることで、いつのまにか切ない感動すら呼び覚ましてしまうウルトラCこそが本作の神髄なのだ。 そもそもダニエルズはミュージックビデオ時代から、奇想天外なビジュアルにえもいわれぬ情感を醸し出す名人だった。例えばアジア系の男(ダニエル・クワンが演じている)の股間が暴れ出してビルの天井を突き破るDJ Snake & Lil Johnの「Turn Down For What」も、森の中で全裸で戯れる男女の一団がハンターの銃で撃たれると強制的に衣服を着せられていくジョイウェイヴの「Tangue」も、本作の音楽を担当したアンディ・ハルとロバート・マクダウェルが所属するバンド、マンチェスター・オーケストラの「Simple Math」も、驚愕映像を眺めているうちに、不思議と心の奥を掴まれてしまう。同じ胸の痛みを知る者同士のようなシンパシーを覚えてしまうマジックが、“ダニエルズ”の作品には宿っているのである。 つまり『スイス・アーミー・マン』は“ダニエルズ”の長編映画第一作であり、ミュージックビデオや短編作品で探求してきた「バカバカしいけどエモーショナル」というアプローチを進化発展させた第一期の集大成的な作品でもあるのだ。ただ、あまりにもビジュアルセンスが突出しているせいで、サンダンス映画祭の例のように観る側の戸惑いを誘発してしまうこともある。尖鋭化した才能が諸刃の剣になっているとも言える。 もしかするとその危険性は、当人たちが一番理解していたのではないかと思わせるのが、ダニエル・シャイナートの単独監督となった第二作『The Death of Dick Long』だ。「Dick」はイチモツの俗語なので「チンコ・デカイさんの死」とでも訳すべきだろうか。シャイナートの故郷アラバマ州で撮影されたこの犯罪コメディで、シャイナートは得意の合成テクニックを敢えて封印。奇妙な変死体をめぐって名もない田舎者たちが巻き起こす珍騒動を、あくまでも現実主義的な表現のみで描き切っている。 とはいえ“ダニエルズ”らしい刻印はしっかりと押されている。ネタバレは避けたいが、タイトルに象徴されているように、こちらの作品も壮大な下ネタが仕込まれたバカ話なのは共通している。しかしこれもまた、バカな人間たちの愚行三昧を、ひねりのある共感と優しさをもって描いているのだ。 『The Death of Dick Long』にダニエル・クワンは参加していないが、『スイス・アーミー・マン』と組み合わせて観ると、映画作家としてのエモーショナルな持ち味と、その持ち味を発揮する対象の特異性が明快に浮かび上がる。『The Death of Dick Long』はおそらく日本でも劇場公開されるはずなので、まずは『スイス・アーミー・マン』を楽しみながら心待ちにしていただきたい。 そして2020年完成予定の最新作『Everything Everywhere All at Once』は、再びシャイナートとクワンがタッグを組む“ダニルズ”としての長編映画第二作。内容は「55歳の中国系女性が税金を払おうとするSFアクション」だそうで、まったく意味がわからないけれど、興味をそそられずにいられないではないですか!■ 『スイス・アーミー・マン』©2016 Ironworks Productions, LLC.
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COLUMN/コラム2020.04.10
正義の代償がデカすぎる!訴訟の裏側を暴く地味だけど豪華な名作 『シビル・アクション』
日本では2000年に劇場公開された(アメリカでは1998年)『シビル・アクション』は、ロバート・デュヴァルがアカデミー賞の助演男優賞に、コンラッド・L・ホールが撮影賞にノミネートされるなど非常に高い評価を得た。しかしながらアメリカでも日本でもヒットしたとは言いがたく、そのクオリティに見合う評価を得られているとは思えない。一体なぜなのか?本作は、1980年代のとある環境汚染訴訟を描いたノンフィクションを原作にしている。プロットはシンプルだ。個人事務所の弁護士が、大企業と大手弁護士事務所を相手に戦いを挑む。奇しくも同年に日本公開された『エリン・ブロコビッチ』(2000)にも似ているが、胸のすくような痛快作だった『エリン・ブロコビッチ』とは対照的に、なんとも苦い後味を残す。決して虚しい敗北を描いた映画ではないのだが、やるせなさの度が過ぎているのだ!(翻って、現実の厳しさをこれでもかとばかりに描ききった傑作ということでもある) ジョン・トラヴォルタ演じる主人公のジャン・シュリクマンは、巨額の和解金をもぎ取る剛腕が売りの民事弁護士。メディアに出る機会も多く、“ボストンで一番結婚したい男”に選ばれた人気者だ。ある日ラジオ番組で法律相談をしていると、ジャン宛てにクレームの電話が入る。白血病で息子を亡くした母親が、土壌汚染の責任を追求して欲しいと連絡したのに、事務所から無視されているというのだ。 実際ジャンは「カネにならない仕事だ」と断るつもりだったのだが、汚染の原因が大企業傘下の皮革工場と知って考えを変える。相手がデカければ和解金もデカい。野心満々で請けた仕事だったが、訴訟相手のベテラン弁護士からタカリのように扱われ、侮蔑を感じたことから訴訟への本気度を増していく。訴訟費用が膨らみ続ける一方、ジャンは取り憑かれたように全面勝訴を求めるようになり、事務所も財産も失っていく……。 弁護士の仕事を描いた映画は山程あるが、これほど「理想と現実」のギャップに注視した作品も珍しい。民事訴訟は有罪を立証するが目的ではなく、和解金のために駆け引きをするもので、弁護士たちは彼らのルールに従ってゲームをしている。そしてゲームの勝敗より正義を求めようとすると、システム全体が牙を向いて襲いかかってくるのである。 “正義を求める”と言っても、ジャンが強欲弁護士から正義の番人に転じたという単純な話ではない。おそらくジャン自身も、どうしてこの訴訟にこだわるのかわかっていない。プライドを傷つけられたからか、被害者を思いやる心が芽生えたか、単に引っ込みがつかなくなったのか。何度妥協点が見つかりそうになってもジャンは首を横に振り続ける。仲間たちもジャンの変貌に戸惑うばかりだ。 この飛びぬけてどんよりした物語に(映像的にもみごとに曇天の場面ばかりだ)不思議と惹き込まれてしまうのは、いぶし銀の撮影と名優のアンサンブルに拠るところが大きい。前述したように撮影監督はコンラッド・L・ホール。60年代には『冷血』(1967)や『明日に向かって撃て!』(1969)で天才ぶりを遺憾なく発揮し、本作の翌年にはサム・メンデスの『アメリカン・ビューティー』(1999)で老いても衰えぬセンスの冴えを見せつけた男だ。本作でも緊張感と格調の高さを兼ね備えた映像が素晴らしく、地味なのにゴージャスという得難い魅力を作り出している。 そして20年以上を経た今になって観直すと、実力派をそろえた超豪華な顔ぶれであることに驚く。主演のトラボルタ、老獪なライバル弁護士を怪演したロバート・デュヴァルに加えて、事務所の経理担当にウィリアム・H・メイシー、皮革工場で働く告発者の一人にジェームズ・ガンドルフィーニ、裁判の判事にジョン・リスゴーとキャシー・ベイツ、企業重役にシドニー・ポラック。原告の女性の痛みと決意をみごとに演じたキャスリーン・クインランもオスカー候補経験者であり、映画ファンなら溜息が出るような面々なのだ。 超一流のスタッフとキャストを監督として束ねたのは、デヴィッド・フィンチャー、マーティン・スコセッシ、リドリー・スコットらの信頼も厚い名脚本家として知られるスティーヴ・ザイリアン。監督作は三本と少ないが、本作を観れば演出の手腕は明らか。改めて、この地味シブな逸品に再評価の光が当たってくれることを願うばかりである。■ 『シビル・アクション』© Paramount Pictures. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2020.02.04
11人の名監督は“NY同時多発テロの悲劇”をどう描いたか?『11’09’’01/セプテンバー11』
●「11分9秒1コマ」で描かれる11のエピソード 『11'09''01/セプテンバー11』は、2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロ事件をモチーフにした短編映画を、11人の映画監督が競作したオムニバスだ。 参加したのは、イギリスからケン・ローチ、フランスからクロード・ルルーシュ、メキシコはアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ、アメリカはショーン・ペン、日本からは今は亡き今村昌平ら、そうそうたる顔ぶれ。彼らに課せられたルールは、9・11をテーマにすること、そして11分9秒1コマぴったりに収めること。「11.09.01(2001年9月11日)」の日付にちなんで決められた時間である。 同じルールの上で創作上の自由を与えられた11人の監督たちは、それぞれの立場や作家性を明確に打ち出すことで、世界を震撼さえた大事件に対して11人11様の見方があることを提示してみせた。 短編オムニバスは、参加した映画作家の力量が横並びで陳列されるため、どうしてもクオリティやテイストのバラツキが目立ち、散漫になることが多い。だが『セプテンバー11』は、企画の意図がはっきりしていること、11分強という縛りによって観る側が退屈する前に次のエピソードに切り替わっていくこと、ほとんどの監督が11分でできることにフォーカスして創意工夫を懲らしていることなどから、企画物の短編オムニバスとしてかなりの水準にある。 ここで11作すべてについて解説すると、再現なく文字数を消費してしまうのでやめておく。代わりに、あくまでも筆者の個人的な基準から、特筆すべきだと思う作品をいくつか紹介しておきたい。 ●テロ事件からわずか1年の間に制作された意義と意味 冒頭を飾るのはイランの国民的映画監督モフセン・マフマルバフの長女で、20歳の時に『ブラックボード 背負う人』でカンヌ映画祭審査員特別賞に輝いたサミラ・マフマルバフ。舞台はアフガニスタンとイランの国境近く。アフガニスタンからの難民たちが、米軍の攻撃に供えてシェルターを作ろうと煉瓦を焼いている。そこに学校の先生が現れて、子供たちに呼びかける。「NYで悲惨な事件が起きました、犠牲者に黙祷しましょう」と。しかし外の世界のことを何一つ知らない子供たちには一切響かないのだ。 イギリスきっての社会派として知られる巨匠、ケン・ローチのエッジの立たせ方も凄まじい。ローチは1970年代にチリからロンドンに逃げてきた政治難民の男性(本物)を登場させて、1973年の9月11日にチリで起きたクーデターについて語らせる。ローチが『レディバード・レディバード』でも主演として起用したこと、ミュージシャンのウラジミール・ヴェガである(ヴェガは脚本と音楽も担当している)。 チリでは1970年に国民投票でサルバドール・アジェンデが大統領に選ばれたが、社会主義的な新政権を嫌ったアメリカの後押しを受けて軍部がクーデター起こした。大統領は死に、国中に左派弾圧の嵐が吹き荒れて3万人ものチリ国民が殺されたことを、ヴェガは悲しみを湛えながら静かに語るのだ。ヴェガとローチは、「9・11は決してアメリカだけの“悲劇の日”ではない」という現実を突きつけているのである。 アメリカ代表の監督として参加したショーン・ペンの作品は風変わりで切ないファンタジーだ。アーネスト・ボーグナイン演じる孤独な老人を主人公に、NYの片隅の日常を一種の映像詩に仕上げている。ネタバレを避けるために詳細は書かないが、テロそのものを描くことはせず、非常にパーソナルな物語を通じて社会から見捨てられた底辺の階層に目を向けている。ペンは演技の天才というだけでなく映画作家としても非常に才能のある人物であり、この短編ではあふれる才気と美しい詩情がみごとに融合している。 もしかすると、ショーン・ペンが真正面から9・11を描くことをから逃げたと考える人がいるかも知れない。しかし『セプテンバー11』が発表されたのは2002年の9月11日。つまりニューヨークのツインタワーが倒壊したあの衝撃からわずか一年しか経っておらず、記憶も極めて生々しい時期だった。ペンがあえて視線を市井の一市民に向けたことは、逆説的な意味で非常に政治的だったとも言える。つまりショーン・ペンは、アメリカが9・11の復讐をお題目にしてアフガンに侵攻している最中に、外に敵を求めることよりも、国内の格差社会の歪みを描くことを選択したと考えられるのだ(実際、アメリカがアフガンに続いてイラクに侵攻した際に、ペンほど正面から米政府を非難したハリウッドスターもいない)。 ●アメリカ以外の視点から9・11を相対化 同様に『セプテンバー11』が「ニューヨーク同時多発テロから一年以内に作られた」事実を改めて考えると、前述のケン・ローチやサミラ・マフマルバフらを含む監督陣が、いかに9・11を相対化しようとしていたかが伺い知れる。9・11の同時多発テロが「世界を震撼させた未曾有の悲劇」であったことは間違いない。だが彼らはあくまでも、自分たちの立っている位置から9・11がどう見えるかにこだわったのだ。 その結果、イスラエルのアモス・ギタイも(旧)、ボスニア・ヘルツェゴビナのダニス・タノヴィッチも、ブルキナファソのイドリッサ・ウエドラオゴも、9・11を特別視しようとはせずに、自分たちの抱えている問題と並列させている。同時多発ゼロ事件の直後にアンチ・アメリカ中心主義なアプローチを選択した覚悟と勇気は、20年近く経った今だからこそより冷静に理解できることができるはずだ。 そして11本のどれもがある種の問題作である中で、最大の問題作と呼ぶべきなのは今村昌平が手がけた日本編である。というのも、今回の企画意図を最も拡大解釈したのが今村昌平だったからだ。今村が描いたのは、太平洋戦争で両腕を失った元兵士と、彼を取り巻く家族や村人たちのいびつなブラックコメディであり、9・11と絡めることすらしていないのである。 “日本編”の評価は、観る者によって大きく分かれるだろう。映画作家・今村昌平の自分を押し通すアクの強さに戸惑う人もいるだろうし、逆に日本の歴史と風土を追求することによって普遍性を獲得したという批評も成り立つ。興味深いのは、製作陣が“日本編”を11本の最後に持ってきたこと。この野心的なプロジェクトのトリを務めるのが相応しいと判断されたからか、それとも全体からあまりにも逸脱していて最後に持ってくるしか選択肢がなかったのか。ぜひ本作を観て、それぞれに答えを出してみていただきたい。■ 参考:【筆者の極私的『セプテンバー11』ランキング】 1位 アメリカ(ショーン・ペン監督)上映順:⑩ 2位 イギリス(ケン・ローチ監督)上映順:⑥ 3位 イラン(サミラ・マフマルバフ監督)上映順:① 4位 イスラエル(アモス・ギタイ監督)上映順:⑧ 5位 インド(ミーラー・ナーイル監督)上映順:⑨ 6位 ブルキナファソ(イドリッサ・ウエドラオゴ監督)上映順:⑤ 7位 フランス(クロード・ルルーシュ監督)上映順:② 8位 ボスニア・ヘルツェゴビナ(ダニス・タノヴィッチ監督)上映順:④ 9位 エジプト(ユーセフ・シャヒーン監督)上映順:③ 10位 日本(今村昌平監督)上映順:⑪ 11位 メキシコ(アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督)上映順:⑦ 『11’09”01/セプテンバー11』© 2002 STUDIO CANAL FRANCE -ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2019.12.26
なぜハル・ハートリーはクラウドファンディングをするのか? ~新作プロジェクト『WHERE TO LAND』に寄せて~
ハル・ハートリーが現在、2014年の『ネッド・ライフル』以来となる新作長編プロジェクト『WHERE TO LAND』を立ち上げて、クラウドファンディングを募っている。『ネッド・ライフル』もクラファンで製作費を集めた作品であり、つまりハートリーは2作続けて、映画ファン個人の出資によって新作を届けようとしているのだ。まさに“インディペンデントの権化”の通り名(勝手に付けた)に偽りなしである。 今年でデビュー30周年、還暦も迎えたハートリーだが、大手スタジオにファイナルカット(最終編集権)を明け渡す気がさらさらないのは1989年のデビュー作『アンビリーバブル・トゥルース』の時から変わっていない。『アンビリーバブル~』はミラマックス社が全米配給し、悪名高きハーヴェイ・ワインスタインから「お色気シーンを増やせ」と要求されたが、ハートリーは断って皿を投げつけられたらしい。 実は2000年頃、ハートリーが最も大手スタジオと接近したことがある。ユナイテッド・アーティスツの製作で『No Such Thing』(01、日本未公開)を監督したのだ。主演は当時注目の若手だったサラ・ポーリー。ジュリー・クリスティやヘレン・ミレンのような大女優も参加し、ハートリーにとって間違いなく大きな飛躍のチャンスだった。 しかしユナイテッド・アーティスツ側はもっとキャッチーな作品に手直しするようにと再編集を要求し、ハートリーはまたもはねつけた。結果、映画は一年間お蔵入りにされた後、ろくに宣伝もされず申し訳程度に限定上映されて、実質的に葬られた。ハートリー自身は「でも監督料はちゃんともらえたよ」と冗談めかして語っているが。 ハートリーが『No Such Thing』の顛末についてはらわたが煮えくり返るような怒りを表明したりはしていない。しかし以降のハートリーは、ファイナンスも含めて自分自身でコントロールできる範囲で活動するようになる(例外的に、旧知の仲であるグレゴリー・ジェイコブズがクリエイターを務めた青春ドラマ「レッド・オークス」ではエピソード監督は引き受けている)。 もちろん、自分が書きたいように脚本を書き、撮りたいように撮り、自分が望む形に仕上げるというフィルムメイカーにとっては夢のような状況は簡単に実現したりはしない。ハートリーはあくまでもそれが実現可能な規模で映画作りができればいいと腹をくくり、直接ひとりひとりの観客と繋がるクラウドファンディングを始めたのだ。 インディーズ映画というカテゴリーの中でも非常に小さな商いだが、少なくとも創作の自由は確保できる。今回『WHERE TO LAND』のために集めようとしている目標額3300万円についても、「予算は多いに超したことはないけれど、“いい映画”を作るには十分な額だよ」と語っている。いじらしい理想主義者と取るべきか、頑固な偏屈者と取るべきか。 “理想主義を掲げる偏屈者”は、ハートリーの映画にしばしば登場するおなじみの人物像でもある。ハートリーの作品も、どれも理想と現実との軋轢を描いていると言える。そしてハートリーは、年齢を重ねて現実と折り合いをつけながらも、決して理想を手放すまいとしているように見えるのだ。 前置きが長くなったが、新作プロジェクトの『WHERE TO LAND』は、理想と現実に間で揺れながら、魂は売り渡すまいと踏ん張ってきたハートリーのキャリアの総括のような作品になる。断言できるのは、いち早く脚本を読む機会を得たからなのだが、ハートリーがいかに成熟を遂げ、それでいて30年前と同じ純粋さを失っていないことを、軽やかなコメディとして伝えてくれる120%ハートリー印の作品ができるはずだ。 すでに出演を表明しているのは『シンプルメン』のビル・セイジ、ロバート・ジョン・バーク、エリナ・レーヴェンソン、《ヘンリー・フール・トリロジー》のパーカー・ポージーらで、ファンには旧知の顔ぶれが再結集することになる。ただし最大の難関は、低予算のインディーズ映画とはいえ一般人の有志だけで3300万円を集めるのは容易ではないこと。正直、この原稿を書いている時点で募集金額の達成にはまだ遠い。 しかし「ハル・ハートリーの新作」が実現することは、ただファンのためだけでなく、インディペンデントムービー全体にとっても大きな勝利であるはずだ。なにせハートリーは“インディペンデントの権化”なのだから。■ 主演のビル・セイジ 2019年11月撮影/Bill Sage at Possible Films, Nov. 2019 ©POSSIBLE FILMS, LLC
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COLUMN/コラム2019.05.28
ひとたびハマると、その多層的な魅力に惹き込まれて何回ともなく観てしまう 。“観る者の心を平静ではいさせてくれない”作品
広告代理店で働くサム(ビリー・クラダップ)のもとに飛び込んだ突然の悲報。大学生の息子ジョシュがキャンパス内で発生した銃乱射事件で死亡してしまったのだ。二年後、酒びたりの暮らしを送っていたサムは、ジョシュが自作の曲を書きためていたことを知り、息子の曲を地元のバーで弾き語る。そしてサムの演奏を聴いた若者クエンティン(アントン・イェルチン)から、一緒にバンドをやろうと持ちかけられるのだが……。 “埋もれた名作”とは、紛うことなくこの映画のことである。実際のところ、『君が生きた証』(2014年)は本国アメリカでも日本でもさしてヒットしておらず、知名度も高くない。しかし、ひとたびこの映画にハマってしまうと、その多層的な魅力に惹き込まれて何回ともなく観てしまうのだ。 また作品そのもの評価とはズレるが、主演のひとりのアントン・イェルチンが2016年に不幸な事故で亡くなったことで、物語と絡み合ったさらなるレイヤーが生まれてしまったという事情もある。本作は、もはや“観る者の心を平静ではいさせてくれない作品”と言っていい。 多層的、と書いたように、本作をひとつのジャンルで括ることは困難だ。孤独な中年男と若者が織りなす音楽映画であり、(中年男にも青春を許すならば)純度の高い青春映画であり、また「いったい死んだ息子はどんな人間だったのか?」をめぐるミステリーでもある。ネタバレを避けようとすると何も言えなくなってしまうのだが、二度目にはまったく異なる視点から観ることになり、演出と演技の細密さと繊細さに、嘆息せずにいられない。 監督と共同脚本を務めたのはウィリアム・H・メイシー。コーエン兄弟、ポール・トーマス・アンダーソン、デヴィッド・R・エリスら才能あふれる映画監督たちに重宝されてきた名優であり、捨てられた犬みたいな困り顔がトレードマークのベテランである。 そのメイシーが監督業に挑戦したいと考えていたところに、たまたま送られてきたのが本作の脚本だった。オクラホマ在住の無名コンビ、ケイシー・トゥウェンターとジェフ・ロビソンが書いた物語に可能性を見出したメイシーは、二人と共同で一年以上かけて改稿を重ね、“遺族である父親の再生”という当初の構想よりも、はるかに複雑なテーマを含んだ決定稿を完成させた。 メイシーが本作を選んだ理由のひとつに“音楽”があった。メイシーは実は大の音楽好きで、ギターやピアノを嗜み、撮影現場では出演者みんなにウクレレをプレゼントしたという。 メイシーが関わる以前に『ナッシュビル』(1975年)のキース・キャラダインとシンガーソングライターのベン・クウェラーが主演する話が進んでいたこともあったらしいが(キャラダインも俳優兼ミュージシャンだ)、サム役には『あの頃ペニー・レインと』(2000年)でロックスターを演じたビリー・クラダップに、クエンティン役は『スター・トレック』(2009年)でロシア系の操縦士チェコフを演じていたアントン・イェルチンに決まる。 主人公サム役のクラダップには『あの頃ペニー・レインと』の時にギターを猛特訓した経験があったが、今回はギターだけでなく本格的に歌に挑戦することになった。イェルチンは私生活でバンド活動をしており、歌にもギターにも心得があった。ドラマー役のライアン・ディーンはイェルチンのバンド仲間。そして一時はクエンティン役の候補だったミュージシャンのベン・クウェラーが、ベーシストのウィリー役で参加。この四人は実際に劇中のバンド“ラダレス(Rudderless)”として演奏を担当することになる。 クラダップとイェルチンの心を震わせる歌声、サポート役に徹したクウェラーの巧みなコーラス、そして四人の演奏が一体となったライブシーンは本作のハイライトだ。ジョシュが遺した楽曲はシンプルで味わい深い名曲ぞろいだが、歌詞にはどこかしらに孤独や不安感が宿っている。しかし四人が演奏することで楽曲は喜びの翼を与えられ、劇中でも“ラダレス”は地元で評判の存在へとなっていく(この「地元で評判」という匙加減の絶妙さも、本作に得難い説得力を与えている)。 この映画のミステリーが「死んだ息子はどんな人間だったのか?」であるということは先にも書いた。ジョシュは映画の冒頭で亡くなってしまい、回想シーンは一切ない。したがってミステリーを解くカギは“ラダレス”が演奏する曲の中にしかない。 ストーリーの主軸はサムとクエンティンが育む疑似親子的な絆へと移っていき、ジョシュの“謎”がはっきりと明かされることはない。だからこそ、歌の行間を読もうとして、何度も観て、聴いてしまう。そして咀嚼しようとすればするほど、新しい解釈が浮かび上がってくる。観賞を重ねるごとに豊かさを増すエンドレスな映画体験。筆者などは何度観返したかもはや思い出せないが、ラストの暗転後にこみあげる涙の理由を、いまだに測り兼ねているのである。 追記:2019年3月12日に、メイシーの実生活の妻で、『君が生きた証』ではサムの元妻を演じていた女優のフェリシティ・ハフマンがFBIに逮捕されたとのニュース速報が駆け巡った。娘を名門大学に入学させるために、大量裏口入学事件に関わった容疑で起訴されたのだ。メイシーもある程度は関与していたようだが、現時点で起訴には至っていない。いずれにせよ、この不名誉な事態のせいで『君が生きた証』がさらに“埋もれた”存在になってしまう可能性が大いにある。そもそも『気が生きた証』が「親は子供に対してどうあるべきか?」というテーマを含んでいることを思うと大きな皮肉を感じるほかないが、作品の価値や俳優陣の演技の素晴らしさが損なわれるものではないので、「親バカがバカなことしやがって!」という叱咤の気持ちを抱えつつ、平静に今後の展開を注視していこうと思っています。(2019年3月15日)■
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COLUMN/コラム2019.05.28
『君が生きた証』:映画ライター・村山章氏によるちょっと引くほど詳細な全曲紹介
まずはこちらから ひとたびハマると、その多層的な魅力に惹き込まれて何回ともなく観てしまう 。“観る者の心を平静ではいさせてくれない”作品 『君が生きた証』全47曲解説 〇はじめに音楽映画『君が生きた証』(2014年)で流れる楽曲すべてについて、映画の冒頭から順番に可能な限り解説します。もともとは2016年6月にアントン・イェルチンが急逝した際に個人的にまとめたものですが、その後の経過や新たに判明したことも含めてアップデートしてみました。『君が生きた証』をご覧いなっていない方にはほぼ意味をなさないと思いますので、ネタバレ御免でお届けいたします。 M01:ASSHOLEWritten by Simon Steadman & Charlton PettusPerformed by Ben LimpicProduced by SolidStateCourtesy of Nakatomi Plaza Publishing/Margerine Music映画の冒頭を飾るアコギ一本の弾き語り。主人公サム(ビリー・クラダップ)の息子ジョシュ(マイルズ・ハイザー)のオリジナル曲という設定。「Home」と同じく、劇中歌の作詞作曲を担当したコンビ「ソリッドステート」がストックしていた曲で、監督のウィリアム・H・メイシーがこの2曲を聴いて「いかにもジョシュが書きそう」と感じたことが起用の決め手となった。ジョシュを演じたのは若手俳優のマイルズ・ハイザーだが、歌声を担当したのはサンディエゴ在住のミュージシャン、ベン・リンピック(https://benlimpic.bandcamp.com/)。余談だが、ソリッドステートの版権を管理している会社の名義は「ナカトミ・プラザ・パブリッシング」。『ダイ・ハード』由来のふざけた名前である。 M02:SING ALONG Josh versionWritten by Simon Steadman & Charlton PettusPerformed by Ben LimpicProduced by SolidStateCourtesy of Nakatomi Plaza Publishing/Margerine Music未完成のまま遺されたジョシュの最期のレコーディング。この時点ではサビのパートが存在しておらず、まだタイトルも付いていない。ジョシュの曲はどれも鬱屈、混乱、孤独が感じられると同時に、シニカルなユーモアが宿っているのだが、この曲だけは、ネガティブな気持ちをストレートに吐き出している。ジョシュが曲作りに行き詰ったのも当然だったのかも知れない。 M03:(曲名不明)Written and produced by Eef Barzleyジョシュの葬式の後、サムがジョシュの部屋にいるシーンで流れるピアノ曲。『君が生きた証』の音楽(劇伴)はオルタナカントリーバンド、クレム・スナイドのイーフ・バーズレイが手がけているが、この曲はサントラには収録されておらず、詳細不明。哀しい旋律を持ち、楽器の編成を増やした別バージョンも存在する。『君が生きた証』には胸が苦しくなるような悲壮なシーンも少なくないが、実はマイナー調のBGMはこの一曲だけ。 M04:SAM SPIRALSWritten and produced by Eef Barzleyシンプルなギターとコーラスが印象的な、本作のスコアを代表する軽妙なタッチの一曲。ジョシュの死を受け入れられず、マスコミに追い回されて混乱しているサムの姿を追ったモンタージュのバックで流れる。メイシー曰く、編集が上手くいかずに悩んでいたが、イーフ・バーズレイが書いた曲を乗せたとたんにシーンがまとまって見えて驚いたという。サントラCDに収録されているバージョンとは微妙にアレンジが異なる。 M05:TWO YEARS HUNG OVERWritten and produced by Eef Barzleyジョシュの死から2年後。広告代理店の仕事を失い(クビになったのか退職したのかは不明)、湖に停泊させたヨットで暮らすサムの姿にかぶるBGM。イーフ・バーズレイらしい、ウクレレの音色で情景をスケッチしたような小曲。ロケ撮影が行われたのはオクラホマシティ郊外にあるヘフナー湖。少女がサムの立小便を目撃して笑うレストランは撮影のために建てられた仮設のセットで、現実には存在しない。 M06:(曲名不明)Written and produced by Eef Barzley映画の序盤、サムが自転車で通勤する時に流れるBGM。後半に登場するM32「A DAYS ON THE WATER」のコーラスパートがない別バージョン。サントラCDには未収録。 M07 :WHORE IN THE MORNINGWritten by Kate MicucciPerformed by Kate Micucci (as Peaches)Produced by SolidState監督のメイシーが店主を演じたライブバー「トリル・タヴァーン」のオープンマイク(飛び入りステージ)のシーンで、最初に登場する“ピーチズ”と名乗る女性が、自分を裏切った浮気男への怒りと呪詛をエレキウクレレで弾き語る。やさぐれたビッチ風にピーチズを怪演したのは女優、ミュージシャン、コメディアンのケイト・ミクーチ。メイシーとは旧知の友人同士で、2人でウクレレデュエットを披露したこともある(https://youtu.be/-zJHMad1ZsM)。女優仲間のリキ・リンドホーム(『ミリオンダラー・ベイビー』『アンダー・ザ・シルバーレイク』)を相方にして「ガーファンクル&オーツ」(https://www.garfunkelandoates.com/)というコミックソングコンビでも活動している。コンビ名は有名デュオの“じゃない方”2人を足したもの。 〇サムの小ネタ、ジョン・ゴッティとは?トリルの店でクイック(ペンキ塗装の仕事仲間のヒゲの男、ただし劇中で名前を呼ばれるシーンはない)から素性を訪ねられ、サムは「マフィアを密告して証人保護下にある」と答えている。原語では「マフィア」とは言っておらず、「ゴッティを密告して」と説明している。ゴッティとは、2002年に獄中で亡くなったイタリアンマフィア、ジョン・ゴッティのこと。ジョン・ゴッティは1990年に逮捕され、手下の密告によって終身刑を言い渡された。ゴッティを密告したサミー・グラヴァーノは、実際に1994年から1995年までFBIの証人保護プログラムに入っていた。 M08:SHOULDER TO THE WHEELWritten and Performed by Travis Linville (as Nick Harvard)Produced by Brad Heinrichsトリル・タヴァーンのオープンマイクで、ニック・ハーヴァードと紹介される青年がバンジョーとハーモニカで弾き語る。カントリーブルース調の名曲だが、Aメロの最初の一節しか流れないのが残念。演奏と歌はオクラホマ州タルサのミュージシャン、トラヴィス・リンヴィル(http://www.travislinvillemusic.com/)。本人が映画に出演した経緯を語っているライブ映像があるのでリンクを貼っておきます(https://youtu.be/kwvta3LL-lg)。劇中ではメガネをかけたオタクっぽい風貌だったが、実際はそこそこイケメン。 M09:SOME THING CAN’T BE THROWN AWAYWritten and produced by Eef Barzleyサムが、元妻エミリー(フェリシティ・ハフマン)が置いて行ったジョシュの遺品を前にして、逡巡するシーンで流れるBGM。曲のタイトルがいちいちシーンの説明になっていてわかりやすいのはサントラならでは。スコアを手がけたイーフ・バーズレイについて、メイシーは「天才だよ、彼が曲を付けてくれたことで映画の完成形が見えたんだ」と絶賛しているが、曲のアイデアをウクレレと鼻歌だけで送ってくるので、どんな曲に仕上がるのかが想像できずに戸惑ったとも語っている。「でもイーフは「大丈夫、レコーディングしたらオーケストラみたいに聴こえるからさ」って言うんだよ(笑)」。(※あと凡ミスを指摘すると、このシーンでサムがジョシュに贈るはずだった誕生日プレゼントの箱を捨てようとするのだが、後に中身がマーシャルのギターアンプだと判明するので、あんなに軽々と持ち上げるのは不可能だと思う) M10:STAY WITH YOU Josh versionWritten by Simon Steadman & Charlton PettusPerformed by Ben LimpicProduced by SolidStateCourtesy of Nakatomi Plaza Publishing/Margerine Musicサムが最初に聴いたジョシュのデモ音源。後にバンド“ラダレス”のレパートリーになる。アッパーでキャッチーな名曲なのだが、サムはわりと簡単に見切ったのか、曲が終わる前に再生をやめてしまっている。ここで流れるのはサントラ未収録のベン・リンピックが歌うバージョン。コーラスパートはリンピックによるオーバーダビングだろうか。 M11:HOME Josh versionWritten by Simon Steadman & Charlton PettusPerformed by Ben LimpicProduced by SolidStateCourtesy of Nakatomi Plaza Publishing/Margerine Musicサムが最初に歌うことになるジョシュのデモ音源。生ギターと打ち込みドラムの宅録仕上げ。「家に帰りたいけれど帰れない」と孤独や郷愁を歌った内容で、サムが「STAY WITH YOU」より強く反応したのは、こちらの方がジョシュの心の内を覗く手がかりになると直感したからかも知れない。前述したように、映画のために書き下ろされたオリジナルではなく、もともとソリッドステートの2人がストックしていた曲だが、歌詞も含めて本作で非常に重要な役割を果たしている。ベン・リンピックが歌っている本バージョンはサントラCDには未収録。 M12:I DON'T GIVE A DAMNWritten and Performed by Matthew Stratton (as Bryan)Produced by Brad Heinrichsサムが初めてオープンマイクに出演するシーンで、会社員と思しきスーツ姿の常連客ブライアンが歌っていたカントリー風の失恋ソング。ブライアンを演じたのは、撮影が行われたオクラホマ在住のミュージシャン、マシュー・ストラットン(http://matthewstratton.com/)で、作詞作曲も彼自身が手がけている。 M13:GOT A LOT OF NERVEWritten by Chelsey CopePerformed by Chelsey Cope and Tara Dillard (as Tolly and Tina)Produced by Brad Heinrichsオープンマイクのシーンで「トリーとティナ」という女性デュオが歌っていた曲。トリーを演じたミュージシャン、チェルシー・コープ(https://www.facebook.com/ChelseyCopeMusic/)のオリジナル(https://youtu.be/Im9RWPN3MJ4)。デュエットしているタラ・ディラード(https://www.facebook.com/Tara.Dillard.Music/)もオクラホマシティ在住のミュージシャンで、地元のライブハウスで共演している音楽仲間。サムの最初の演奏に反応したのはクエンティン(アントン・イェルチン)1人だけだったように勘違いしがちだが、トリーもサムの歌を耳にして好意的な視線をステージに向けている。ちなみにトリーはエイケンの彼女的な立ち位置で、後のシーンに再登場。 M14 :HOMEWritten by Simon Steadman & Charlton PettusPerformed by Billy CrudupProduced by SolidStateCourtesy of Nakatomi Plaza Publishing/Margerine Musicサムがオープンマイクに出場し、人前で初めて披露するジョシュの曲。この時は、湖の神経質な管理人アレアドを皮肉って“アラード・ディック”という名義でエントリーしている。サム役のビリー・クラダップは『あの頃ペニー・レインと』(2000年・米)でロックバンドのギタリスト役を演じた際、ロックギタリストであるピーター・フランプトンのコーチを受けてエレキギターを猛特訓した。『あの頃ペニー・レインと』のキャメロン・クロウ監督は、「撮影後もビリーから電話がかかってきて「こんなフレーズが弾けるようになったんだ!」と電話越しに聴かされたよ(笑)」と同作のDVDコメンタリーで回想していた。サントラCDに収録されている「HOME」は、M11に近いバックトラックにクラダップのボーカルを乗せた別バージョン。 ◇ジョシュのギターの話サムが弾いているアコースティックギターはジョシュの遺品であるエピフォン製のアコギ、DR-100(色はビンテージサンバースト)。ボディには王冠のマークが付いているが、カッティングシートを使った手製のもの。自分のギターに王様の印を貼りつけていたジョシュの意図は劇中では語られることがないが、ジョシュという若者の一面を覗く手がかりのひとつかも知れない。ちなみに映画後半に楽器屋のデルがサムに「あの古いエピフォンはどうした?(Thought you played that old Epiphone.)」と訊ねているのはこのDR-100のこと。(字幕では「エレキギターは(やめたのか)?」となっているが意訳でありエレキの話はしていない) M15:REAL FRIENDS Josh versionWritten by Simon Steadman & Charlton PettusPerformed by Ben limpicProduced by SolidStateCourtesy of Nakatomi Plaza Publishing/Margerine Musicクエンティンに「ほかの曲もあるでしょう?」と問われたサムが、ジョシュのデモ音源を漁るように聴き込むきっかけになる曲。ジョシュの歌声を担当したベン・リンピックのフォーキーな歌唱に味わいがあるのだが、残念ながらこのバージョンもサントラCD未収録。明るい曲調ながらもブラックな諧謔に満ちた歌詞で、ユーモアと不穏さが共存しているのがいい。 M16:HOME sessionWritten by Simon Steadman & Charlton PettusPerformed by Billy Crudup and Anton YelchinProduced by SolidStateCourtesy of Nakatomi Plaza Publishing/Margerine Musicサムが歌った「Home」に魅せられたクエンティンが、サムのヨットに押しかけて初めてセッションをするシーンでのバージョン。「派手じゃなくシンプルにコーラスを入れるべき」と主張するクエンティンがさらりと重ねてみせるハーモニーはサムならずともグッとくる。まさにサムが「誰かと演奏する喜び」に目覚めた瞬間なのだろう。このシーン一度きりしか聴けないのがもったいない。 M17:BE BY YOUWritten by Minna Biggs & Drava MillvojevicPerformed by Honkey Tonk StepChildProduced by Brad Heinrichsサムとクエンティンが一緒に組んでオープンマイクに出場した夜に、先に演奏していた夫婦風デュオの曲。演奏はウッドベースとバイオリン。コンビを組んでいるのはオクラホマシティのカントリーデュオ、ホンキー・トンク・ステップチャイルド。“ケイシー&ミナ”(Casey & Minna)という別名義でも活動中。 M18:REAL FRIENDSWritten by Simon Steadman & Charlton PettusPerformed by Billy Crudup, Anton and Ryan DeanProduced by SolidStateCourtesy of Nakatomi Plaza Publishing/Margerine Musicサムとクエンティンが初めて一緒にステージに立ったシーンの楽曲。クエンティンの仕込みでドラムのエイケンも途中から参加。メインボーカルはサム(クラダップ)で、コーラスはクエンティン(イェルチン)。エイケン役のライアン・ディーンはイェルチンのバンド「The Hammerheads」にも参加していた本職のミュージシャンで、9歳でアメリカ国内のヨーヨーチャンピオンになったというヘンな経歴の持ち主。サントラCDに収録されているバージョンは、イェルチンが弾くエレキギターが大きく異なっており、よりスタジオ録音風に仕上がっている。 ◇ラダレス(Rudderless)の楽曲について劇中で結成されるバンド“ラダレス”の演奏は、基本的にはメンバーを演じた出演者4人が実際に楽器を演奏し、歌っている。プロデュースは楽曲のほとんどを作詞作曲したサイモン・ステッドマンとチャールトン・ペッタスのコンビ「ソリッドステート」。当初メイシーは役者たちに実際にライブ演奏させながら撮影しようと考えていたが、ステッドマンとペッタスが強硬に反対した。「前にも経験があるが、絶対に先にレコーディングしてあて振りをするべき、例えローリング・ストーンズをキャスティングできたとしてもライブ撮影はやめた方がいい」とメイシーを説得したという。演奏の間違いやアドリブ風の部分も事前にスタジオで録音されており、スカイウォーカーサウンドの敏腕音響スタッフがライブの演奏に聞こえるように、ギターのスクラッチノイズなどを足しながら最終ミックスを行った。 M19:DEVIL EYESWritten and Performed by Gary Michael Schultz and Brad HeinrichsProduced by Brad Heinrichs劇中で姿が映らないが、サムとクエンティンが「Real Friends」を披露した後にステージに立ったミュージシャンが演奏しているブルース曲。クレジットによるとパフォーマンスしているのは本作の共同プロデューサーで映画監督でもあるゲイリー・マイケル・シュルツと、本作の脚本家コンビが監督したインディーズ映画『ランニング・マン』(原題The Jogger/2013・米、日本未公開)で音楽を担当していたブラッド・ハインリクス。ハインリクスはトリルの店に出演したミュージシャン全般のプロデュースも担当している。 M20:OVER YOUR SHOULDERWritten by Finian Greenall (FINK)Performed by RudderlessProduced by SolidStateCourtesy of Tenyor Music (BMI)「天使と悪魔に挟まれている」と歌う出だしから如実に表れているように、作曲者であるジョシュの引き裂かれた内面を象徴している曲。ラダレスが演奏する曲では例外的にソリッドステートの2人ではなくイギリスのシンガーソングライターFINKのペンによるもの。メインボーカルはクエンティン(イェルチン)で、サムはアコギではなくエレキギター(クエンティン所有のメーカー不明のレスポール)を弾いている。映画では、この曲からベーシストのウィリー(ベン・クウェラー https://benkweller.com/)が参加し、メロディアスなベースとコーラスで大活躍する。本職がシンガーソングライター/ギタリストであるクウェラーは、脚本を書いたケイシー・トゥウェンターとジェフ・ロビンソンのコンビから早い段階でアプローチを受け、メイシーが企画に関わる前から本作への参加を快諾していた。一時はキース・キャラダインがサム役で主演、クウェラーがクエンティンを演じる案もあったという。劇中ではジョシュが歌うバージョンが出てこないので、ベン・リンピックの声で録音されたバージョンは存在しない可能性が高い。 M21:STAY WITH YOUWritten by Simon Steadman & Charlton PettusPerformed by RudderlessProduced by SolidStateCourtesy of Nakatomi Plaza Publishing/Margerine Musicラダレスの曲では唯一、サムもクエンティンもアコギで演奏する楽曲。メインボーカルがクエンティン(イェルチン)、コーラスのメインはウィリー(クウェラー)だが、2回目のAメロのみ2人の役割が入れ替わっているように聴こえる。 M22:GIRLS THOUGHTSWritten by Fancois RousseauPerformed by CircCourtesy of Extreme Musicバンド名“ラダレス”の名義で初ライブを成功させた後に、トリルの店でかかっているクラブミュージック。劇中では目立たない曲だが、奥手すぎて女の子に声をかけられないクエンティンの戸惑いが曲名とシンクロしているのが可笑しい。 M23:HOLD ON Josh and Kate versionWritten by Simon Steadman & Charlton PettusPerformed by Ben Limpic and Selena GomezProduced by SolidStateCourtesy of Nakatomi Plaza Publishing/Margerine Music仕事中のサムがウォークマンで聴いているジョシュのデモ音源。ジョシュと恋人だったケイト(セレーナ・ゴメス https://www.selenagomez.com/)のデュエットで、ベン・リンピックとセレーナ・ゴメスが歌っている。ただしサントラCDに収録されているのは、リンピックではなくウィリー役のベン・クゥエラーがジョシュのパートを受け持った別バージョン。ドラムとしてエイケン役のライアン・ディーンが、キーボードとコーラスでウィリアム・H・メイシーが参加し、メイシーが監督・出演したミュージックビデオ(https://youtu.be/labx-Bn5GWA)も制作された。またネット上には微妙に歌詞が異なる初期バージョンと思しき音源も出回っていて、歌う前にセレーナ・ゴメスとベン・クウェラーのふざけたやり取りが聴けるのが微笑ましい。 M24:(曲名不明)デル(ローレンス・フィッシュバーン)が経営する楽器屋で、デルとサムが会話しているバックに1人でギターを試し引きしている客がいる。IMDBでキャストのリストを見る限り、ザッカリー・ターナーという俳優ではないかと推察されるが、実際に撮影現場で演奏していたのか後にオーバーダビングされた音なのかは不明。 M25:BEAUTIFUL MESS (インストゥルメンタル)Written by Simon Steadman & Charlton PettusPerformed by QuentinProduced by SolidStateCourtesy of Nakatomi Plaza Publishing/Margerine Musicクエンティンが自宅で宅録しているデモ曲。クエンティンはバイオリンを演奏しているが、演じるアントン・イェルチンはバイオリンが弾けないので、音源に合わせてフリをしている。しかしクエンティンは一時はホームレス同然の生活を送っていたりバイオリンの素養があったりと、生い立ちに謎が多い。 M26 :LA POMME DE LAMO(推測)Written by Jim BlakeCourtesy of Extreme Music音楽クレジットから推察するに、サムとクエンティンがショッピングモールにやってきたシーンでモール側が流しているBGMと思われる。インディーズレーベルのコンピレーションCDに収録されていた曲らしいが、入手が難しく確認はできなかった。映画のクレジットでは「LA POMME DE LAMO」と表記されているが、誤記であり、「LA POMME DE L’AMORE(愛の林檎)」が正式タイトルだと思われる。ちなみにショッピングモールのシーンが撮影されたのはオクラホマシティ郊外にあるQuail Springs Mall(住所:2501 W Memorial Road, Oklahoma City)。 M27 :SUNRISE(推測)Written by Peter AxelradPerformed by DJ AXELCourtesy of Holden Records Inc.おそらくショッピングモールのアパレルショップでかかっているクラブ風BGMと推測されるのだが、DJ AXELの「SUNRISE」をネット上で聴いてみたところ、どうも同じ曲のようには聞こえない。別バージョンなのか、それともミックスのせいで違って聞こえるのか、そもそも別の曲ではないのか、情報が少なくてよくわからない。 M28:WHEELS ON THE BUSTraditionalPerformed by RudderlessArrangement by Charlton Pettus & Simon SteadmanProduced by SolidStateサムによる「クエンティンに彼女を作ってやろう」作戦のために、美人の客のリクエストに応えて演奏した童謡のカバー。まんまとクエンティンの彼女になるリジーを演じたゾーイ・グラハムはリチャード・リンクレーター監督作『6才のぼくが、大人になるまで』でもヒロインを演じていた。メインボーカルはサム(クラダップ)、部分的にウィリー(クウェラー)。サントラCDで聴くと、店主トリル(メイシー)の掛け声「Drain your glass!!(グラスを飲み干せ!)」が入っていない。サム、クエンティンともにエレキギターを演奏している。 M29 :(曲名不明)Written and produced by Eef Barzleyケイトから改めてジョシュの事件の真相を突き付けられたサムの苦悩を反映したような曲で、ライブ後の打ち上げ的なホームパーティのシーンで流れるBGM。序盤の葬式のシーンのBGMの別バージョンであり、編成はピアノ、エレキギター、アコギ、チェロ、ドラム。前述の通り、イーフ・バーズレイが本作のために手がけたスコアの中で、唯一暗い印象を持った曲だ。しかしこのパーティではクエンティンもエイケンもガールフレンドを膝の上に載せているのだが、アメリカではカップルの標準的なポジションなのだろうか。サントラCDには未収録。 M30 :(曲名不明)Written and produced by Eef Barzleyジョシュの誕生日に墓参に来たサムと元妻のエミリーが墓を掃除するときのBGM。短いギター(もしくはウクレレ)の曲で、サントラCDには未収録。 M31:ELLA ARRESTOWritten by Daniel Guzman Loyzaga & Osnel Odit BavastroArranged by Loyzaga & BavastroCourtesy of Extreme Musicサムがペンキ塗りの仕事を辞めるシーンで、ラテン系の仕事仲間カルロスが聴いていたサルサ。クレジット上ではパフォーマーの記載がなく、詳細不明。 M32:A DAY ON THE WATERWritten and produced by Eef BarzleyM06とほぼ同じ曲で、コーラス等が追加されている。ラダレスのバンドメンバーとガールフレンドたちがヨットクルーズに出るシーンのBGM。 M33:(曲名不明)Performed by Chelsey Copeヨットのシーンでトリー役のチェルシー・コープがギターで爪弾いている曲。曲というよりもその場でのアドリブか。 M34:DON'T YOU WORRYWritten by Ben KwellerPerformed by Willie and Friends演者の名義は「ウィリー&フレンズ」となっているが、ヨットの上でウィリーとトリーが2人でハモっている小曲。作曲はウィリー役のベン・クウェラーで、クウェラーはウクレレを弾いている。(※ちなみにトリーは最初エイケン(ドラム)のガールフレンドとして登場するのに、ホームパーティのシーン辺りからウィリーに鞍替えしており、エイケンにはまた別の恋人(リジーの職場仲間のエイプリル)ができている。表立っては語られないが、水面下ではいかにもバンドマンらしい恋愛劇がちゃっかりと繰り広げられていたようである) M35:SOFTLY (LIKE SWINE)(推測)Written by Holter & StandalCourtesy of Extreme Musicサムがデルから「なぜフェスに出たくないのか?」と質問される時に楽器店で流れているBGM。小さい音量なのでよくわからないが、フリージャズ風味。これもクレジットからの推測であり、曲の正体がつかめていないので間違っていたらごめんなさい。 M36:BEAUTIFUL MESSWritten by Simon Steadman & Charlton PettusPerformed by RudderlessProduced by SolidStateCourtesy of Nakatomi Plaza Publishing/Margerine Music劇中で唯一、ジョシュではなくクエンティンが作曲した楽曲。ジョシュの曲がどれもアコギで作ったように聞こえるのと対照的に、エレキギターのリフが曲の軸になっている。歌詞の多幸感や弾けるようなノリのよさも他のラダレスの曲とは一線を画しており、ソリッドステートの2人の職人技が効いている。クエンティンとサムはどちらもエレキギターを弾いている。 M37 :UN RATICOWritten by Fonesca & NinoCourtesy of Extreme Musicフェス会場のBGMとして流れているラテン曲。同じくサルサ調の「ELLA ARRESTO」などと権利を持っているレーベルが同じなので、まとめて安く使えた音源なのかも知れない。『君が生きた証』のような低予算映画だと、有名曲は使用料がバカにならない。 M38: THE GIG IS OFFWritten and produced by Eef Barzleyケイト=アンの告発でフェス出演を取りやめるシーンで流れるBGM。イーフ・バーズレイが演奏していると思しきレイドバックしたウクレレにペダルスティールが絡む。サントラCG収録のバージョンは、なぜか唐突に終わる。 M39:THE WASHINGTON POSTWritten by John Philip SousaPerformed by Boulevard Brass Quintetヨットレースでブラスバンドが演奏している行進曲。誰もがどこかで耳にしたことがある有名曲その1。 M40: STARS AND STRIPES FOREVERWritten by John Philip SousaPerformed by Boulevard Brass Quintetヨットレースでブラスバンドが演奏している行進曲。誰もがどこかで耳にしたことがある有名曲その2。 M41:1812年序曲(1812 OVERTURE)Written by TchaikovskyPerformed by Charlton Pettusチャイコフスキーが1880年に作曲したオーケストラ用の序曲。1812という年号はナポレオンのロシア遠征の年を示しているらしい。サムがヨットの舳先にギターアンプを固定して、ヨットレースをぶち壊すべく掻き鳴らすエレキギターの演奏はこの序曲のアレンジ。実際に弾いているのはビリー・クラダップではなく、劇中曲の作詞作曲とプロデュースを担当したソリッドステートの1人、チャールトン・ペッタス。 M42:(曲名不明)サムが銃乱射事件の現場を訪れ、慰霊碑の前で崩れ落ちるシーンのBGM。アコギ、コーラス、スライドギターなどを重ねながら「Sing Along」のコード進行を繰り返しており、ジョシュのことを想うサムの心情と繋がっている。クラダップのエモーショナルな演技も素晴らしいが、感傷をセンチメンタルに煽り立てるのではなく、優しく包み込むような曲をのせたイーフ・バーズレイ&メイシーにも拍手。 M43:ALREADY THEREWritten and Performed by George ByrneCourtesy of Extreme Musicクエンティンがバイトをしているドーナツ店「Buck's Space Age Donuts」で流れているBGM。オーストラリア出身、LA在住のミュージシャン、ジョージ・バーンの曲。内省的なシンガーソングライター然とした曲調はクエンティンの趣味なのかも知れない。これも権利元がExtreme Music。また、劇中では「Buck's Space Age Donuts」のスタッフTシャツを着る女性ファンたちが登場する。ぜひ販売して欲しいアイテム。 M44:SING ALONGWritten by Simon Steadman & Charlton PettusPerformed by Billy CrudupProduced by SolidStateCourtesy of Nakatomi Plaza Publishing/Margerine Music映画のラストシーンを飾る、最重要曲。ジョシュの未完成曲(M02)に、サムがサビのメロディと追加の歌詞をつけて完成させたもの。基本的にはサムの弾き語りだが、後半からはエレキギター、ベース、ドラム、キーボード、ストリングが加わる。曲と物語があまりにも密接に繋がっているので、ここで多くを語ることはしないが、歌声と表情の説得力だけでクライマックスを成立させてしまったクラダップの演技+演奏が本当に素晴らしい。サムが弾くギターは、デルの店で購入した中古のアコギに代わっている。※ネタバレ注意このシーンで、客が泣いている姿をインサートした演出を、お涙頂戴の誘導だと批判する意見がある。しかし、実は客席で涙ぐんでいるのは、サムの仕事仲間だったクイック(Joey Bicicchi)と店員の女性(Cacky Poarch)だけであり、どちらもサムのことをずっと見ていた人物であることは指摘しておきたい。一方で店長のトリル(メイシー)が終始厳しい表情を崩さない描写も、この複雑なテーマを扱った作品が安易な結論に走っていない証拠だろう。客席でクイックと座っている黒髪の女性は、ラダレスのファンだという妹かも知れないし、テーブルの上で手を繋いでいるのでガールフレンドの可能性もある) M45:ALWAYS GOLDWritten by Benjamin CooperPerformed by Radical FacePublished by Penny Farthing Music obo Roy Berry Works At Planet RadioCourtesy of Bear Machine LLCアメリカのシンガーソングライター、ベン・クーパーがソロユニット「ラジカル・フェイス」(http://www.radicalface.com/)名義で発表した楽曲。大切な誰かとの絆と別れを歌った詞もエンドクレジットの余韻にピタリとハマり、作品のエンディングテーマ的な役割を果たしている。 M46:OVER YOUR SHOULDERエンドクレジットの2曲目はラダレスの曲のリプライズ。「僕を見張って、見守っていて」という詞が、2度目にはまた違った感慨を持って響いてくる。 M47:SAM SPIRALSエンドクレジットの最後の曲は、イーフ・バーズレイのスコアからM04を再び。微妙にアレンジが違う別バージョンの可能性あり。この曲だけでなく、『君が生きた証』の曲は、映画とサントラCDでアレンジやミックスが違っていたり、劇中ではジョシュ(ベン・リンピック)が歌っているデモバージョンがほぼ収録されていなかったりするので、いつか「完全版サントラCD」が発売されて欲しい。 以下、余談。 ◇映画のロケ地・本作のロケは、脚本を執筆したケイシー・トゥウェンターとジェフ・ロビソンのホームタウンであるオクラホマ州オクラホマシティと、その北部にあるガスリーという街で行われた。サムがヨット暮らしをしているヘフナー湖も、オクラホマシティの北西に実際にある湖で、撮影に使われたヨットハーバーも実在する。・劇中でオーナー役をウィリアム・H・メイシーが演じていたライブバー「トリル・タヴァーン」はガスリーという町のダウンタウンの空き物件に作られた撮影用のセット(住所は202 W Harrison Ave, Guthrie, OK 73044)。・しかし本作の公開後に、ガスリーで“Trill Tavern”という名前のライブスペースとしてオープン。ネットで写真を検索すると天井やレンガの壁や映画と同じに見えるので、残されていたロケ用のセットを再利用した可能性が高い。ただ、2016年以降、営業している情報がなく、Twitterアカウントも怪しげなサングラスのセールス会社に乗っ取られてしまった模様。・ローレンス・フィッシュバーン演じるデルの楽器店も、トリルの店のロケ地から歩いてすぐの場所にある(住所は100-198 N 2nd St, Guthrie, OK 73044)。ただし楽器店なのは映画だけの話で、実際には中古車ディーラー。デルがキャンピングカーの運転に四苦八苦した路地も、ロケ地の建物の真裏にある。・サムが働いていた広告代理店は、オクラホマシティにあるFunnel Design Groupという事務所の外観を使っている。所在地はオクラホマシティ(17 NW 6th St、Oklahoma City, OK 73102) ◇ジョシュとクエンティンが貼っていたポスタージョシュの実家の部屋と、クエンティンの家のガレージに貼ってあったポスターは、ニューヨーク州シラキュースで毎年行われているイベント「The Great New York State Fair」の一環で、2006年9月1日にウィーン、フレイミング・リップス、ソニックユース、ザ・マジック・ナンバーズが出演したライブイベントの宣伝ポスター。(ちなみに2011年のNew York State Fairにはケイト役のセレーナ・ゴメスが出演している)。目を止めたサムに、クエンティンが「リップス好き?」と訊くシーンがあるが、リップスとはフレイミング・リップスのこと。リップスと名乗るバンドはベルリンやブルックリン、東京にも存在しているようだが本件との関連はない。 ◇ラダレスのメンバーが弾く楽器の話・本作に登場するギターはギブソン系が多く、クエンティンに至っては完全にギブソン派だと言っていい。クエンティンが憧れる緑のエレキギターは、劇中のセリフによると「1978年製のレスポール、ローズウッドのソリッドボディ、ピックアップはゴールドプレートのハムバッカーで、指板に埋まっているインレイはパール製」とのこと。・クエンティン所有のサンバーストのアコースティックギターもギブソン製。ロゴが現在とは違う古いもので、ヘッドに「ONLY A GIBSON IS GOOD ENOUGH」と書かれたバナーが入っている。このタイプは第二次大戦中に男性が戦地に行って人手不足となり、代わりにミシガン州カラマズーにあったギブソンのギター工場で働いた女性たちによって作られたモデル。1942~1945年の限られた期間にしか生産されていない珍しいものなので、もしかするとクエンティンが憧れる緑のレスポールよりもはるかに高価なのではないか(ただし1995年に発売された復刻版の可能性もある)。戦時中にミシガン州カラマズーにあったギブソン工場で働いた女性たちの実話については「Kalamazoo Gals」という書籍が2013年に出版されている(http://kalamazoogals.com/)。・ラダレスのベース、ウィリー(ベン・クウェラー)が使っているのもギブソン社製のSGベース。本来ベーシストではないからか、指引きではなくピック弾き。・クエンティンが「Real Friends」などで弾いている白いエレキギターはエピフォン製。「Real Friends」のシーンで判別できたエフェクター類は、ERNIEBALLのボリュームペダル「VP JUNIOR 250K」、IBANEZの「STEREO CHORUS CS9」、BOSSの「Digital Delay DD-3」。下段の3つはよくわからないのだが、スチール製のエフェクターボードはペダルトレイン社の「PEDALTRAIN-2」。・リハーサルやラダレスのステージでサムが使っているエレキギターは黒のレスポールタイプだが、ロゴが判読できずメーカーがわからない。これはクエンティンのガレージに置いてあったクエンティンの私物であり、サムはエレキが必要な時だけ借りて使っている模様。ヘッドのロゴはハートマークをあしらったちょっと気恥ずかしいデザイン。・サムがヨットレースをぶち壊すシーンで弾いているのはグレッチの廉価版シリーズ、エレクトロマチックのPro Jet with Bigsby。劇中でのこのギターの由来は不明。もともとサムが持っていて、ヨットの中にずっと置いていたのだろうか。キャンピングカーを動かす賭けに勝ったことでデルからせしめたのかも知れない。・エピフォンのギターを失ったサムがラストシーンで弾いているアコースティックギターはデルの店で入手した中古。「X」に似たロゴマーク。このギターも含めて、どうもサムは黒いギターが好きなようである。 ◇「Rudderless」という曲のことエヴァン・ダンド率いるオルタナロックバンド、レモンヘッズが1992年に「Rudderless」という曲をリリースしている。劇中で言及されることはないが、レモンヘッズはアメリカのインディロックシーンでは重要な存在で、クエンティンが聴いていないはずがない。またジャンルや歌詞が映画の世界観と通じるものがあるので、映画のタイトルに影響は与えている可能性は高い。ちなみにエヴァン・ダンドとウィリー役のベン・クウェラーは一緒にツアーを回るなど以前から交流がある。■
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COLUMN/コラム2019.04.26
【ロッキー一挙放送記念コラム:村山章さん】スタローンが”本気”の幕引きを見せた「理想の続編」~『ロッキー・ザ・ファイナル』
『ロッキー』シリーズは、ほぼスタローンのものだと言っていい。多くの映画は、プロデューサーだったり脚本家だったりのアイデアから始まり、長い企画開発を経て監督や主演俳優が決まっていく。しかし『ロッキー』は、無名時代のスタローンが脚本を書き上げ、あくまでも「自分が主演すること」を条件にして売り込んだ。そのせいで、一時は36万ドルの値が付いた脚本料が2万ドルに下げられたのは有名な話だ。 『ロッキー』で大ブレイクを果たしたスタローンは、二作目以降は監督も兼ね、未曽有の成功を手にする。しかし『ロッキー3』をシリーズ完結編にするはずが、四作目、五作目とシリーズが延長されるにつれ、劇中でセレブ化していくロッキーと現実の大スターとなったスタローンの慢心とが重なり、シリーズの評判も下降線をたどる。個人的には熱血指数120%の『ロッキー3』やエンタメ嗜好の『ロッキー4』も大好きだが、「やっぱり一作目が一番」というシリーズ物が陥りがちな轍を踏んでいたことは否定できない。 傍目で見ていたり、実際に取材で会った印象でしかないが、スタローンという人は追い風が吹くと調子に乗り、キャリアが低迷すると逆風をバネに名作をものにする傾向があると思う。『ランボー/最後の戦場』はその典型パターンで、もはや「あの人は今」状態の時に、世間が「なんで今さらランボー?」と戸惑う中で放たれた硬派な傑作だった。しかしその勢いでロッキーまで復活させると知った筆者は、「また調子に乗りやがって、バカか!」と笑い半分、呆れ半分で聞いてしまった。しかし完成品を観て、スタローンを笑ったことを心から悔いることになる。『ロッキー・ザ・ファイナル』は非の打ちどころなく、『ロッキー』の理想的な続編だったからだ。 50歳になったロッキーは、亡き妻エイドリアンの名前を付けたレストランを経営し、客相手にボクサー時代の昔話を披露する気のいいオヤジになっている。この描写で思い出したのは、ロッキーは若い時は、つまらないギャグを飛ばすお喋りキャラだったこと。スタローンは、いつの間にか偉くなって寡黙に見えてしまっていたロッキーを、本来の人物像に引き戻したのだ。 もうひとつ、『ザ・ファイナル』が一作目に直結していると感じるのは、ロッキーがエイドリアンの命日になると義兄ポーリーを連れて一作目のデートの場所をめぐり歩いているという設定。初デートで訪れたスケートリンクの跡地で思い出を語り、ポーリーに「去年も同じ話をしたぞ」と呆れられるくだりは、シリーズ30年の歩みと人生の重みにしみじみとせずにいられない。 そんな50歳のロッキーが、エキシビションマッチとはいえ若きチャンプとガチ試合する内容については、誰もが「年寄りの冷や水」と思ったはず。実際、劇中でもロッキーは息子から「みんなの笑いものだ」と非難される。『ザ・ファイナル』は、そんなことは百も承知のロッキー=スタローンが、全力で世間の先入観を覆そうとする物語なのだ。ロッキーを笑っていたのは劇中の大衆だけではない。現実の世界にいるわれわれ自身だったそうだった。そして最後には、まんまとロッキーの生き様に感動させられる奇跡が起きるのである。 『クリード』二作の良さは、『ロッキー・ザ・ファイナル』で有終の美を飾ったスタローンが、ちゃんと若手にバトンを渡そうとしていることだと思っている。ロッキーの人生は続くが、もはや主人公ではない。そんな立場をロッキー=スタローンが“わきまえている”からこそ、老いたロッキーの滋味が増す。これも、『ザ・ファイナル』で満足な幕引きができていなければ、つい「もっとオレに見せ場を!」なんて考えてしまったのではないだろうか。だってスタローンなんだもの。 特集の記事はコチラ番組を視聴するにはこちら © 2006 METRO-GOLDWYN-MAYER PICTURES INC, COLUMBIA PICTURES INDUSTRIES, INC. AND REVOLUTION STUDIOS DISTRIBUTION COMPANY, LLC.. All Rights Reserved © 2015 METRO-GOLDWYN-MAYER PICTURES INC. AND WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2017.05.03
今ハリウッドが最も注目する映画監督、ドゥニ・ヴィルヌーヴとその作品。最新作『メッセージ』に至る彼の映画とは。
※ヴィルヌーヴ監督の過去作のネタバレが含まれます。未見の方はご注意ください。 ドゥニ・ヴィルヌーヴが『メッセージ』という、変則的ではあれどポジティブなメッセージを持った映画を撮った。ただそれだけのことが大事件に思えるのが、ヴィルヌーヴという才気と野心に満ちた映画監督の作家性と言える。それほどまでにヴィルヌーヴは、強烈で、苛酷で、風変りな映画を作り続けてきたのだ。 『灼熱の魂』で自ら命を絶った母親の苛酷すぎる人生、『複製する男』の迷宮の如き精神世界、『プリズナーズ』でヒュー・ジャックマンが見せた狂気じみた暴走、『ボーダーライン』の法律などお構いなしの歪んだ正義。映画を観てスカッとしたい、ロマンチックな展開にキュンとしたい、腹を抱えて笑いたいなんて気持ちは鉄槌で粉々にされるのがオチだ。もちろんそんな目的でヴィルヌーヴ作品を選ぶ時点で、取り返しのつかない間違いを犯してしまっているわけだが。 とはいえ、ヴィルヌーヴを“わかっている”顔で語るのは危険極まりないことでもある。このカナダ人監督は、観客に解釈の余地を残すタイプの映画作家で、スト―リーを理解する上で重要な要素さえも韜晦のベールに包んでしまう。もはや“よくわからない”ことすらトレードマークになっているにも関わらず、最注目の気鋭監督としてハリウッドで受け入れられている現状は“奇跡”と呼んでいいだろう。 ではヴィルヌーヴの作品はなぜ、どこか観客を突き放したような印象を受けるのか。本人の発言を追ってみると「何度観ても考えさせられ、それでも答えがわからない『2001年宇宙の旅』が大好きだ」と言っていて、乱暴に言えば結論を提示しないオープンエンディングを好む監督ということになる。一方で「どんな題材でも観客に身近な物語として感じて欲しい」とも発言している。 過去作に当てはめてみると、精神的に極限まで追い詰められるような状況を描き、あなたにも起こることかも知れませんよと観客に物語への参加を促しつつ、「すべての答えは風の中さ」と嘯くような作風……いや、かなり歪曲しているのは承知の上ですが、当たらずとも遠からず、ではないだろうか。 もうひとつ、一般的な作劇と異なる要素として、ヴィルヌーヴの映画は主人公が一定しないケースが非常に多い。『灼熱の魂』の主人公は誰かと問われれば、2人の子供に遺書を残した母親と、その遺言によって見知らぬ兄と父を探す旅に出る子供たち、ということになる。しかし物語が終わってみると、冒頭にだけ登場した小さな刺青のある少年こそが、誰よりも重要な人物だったとわかる。 『プリズナーズ』の主人公はヒュー・ジャックマン扮する、娘を誘拐された父親だ。父親は釈放された容疑者の青年を拉致監禁して、娘の居場所を聞き出そうと苛酷な拷問にかける。しかしこの事件は、娘を想うがゆえの常軌を逸した暴力とは別のところで、別の刑事がひょっこり解決してしまう。 『プリズナーズ』はジャンルとしてミステリーの形式を取っていて、『灼熱の魂』は精神的な意味でのミステリーだ。そしてどちらの映画も、複雑に絡み合った糸を解きほぐし、ひとつの筋道にたどり着く類の作品ではない。ヴィルヌーヴの映画に明快な解はない。観終わった時に「これって誰の物語だったのだろう?」と思考を促され、検証すればするほど語られていない物の大きさに愕然とするのである。 『複製された男』は、同じ流れにありながらとんでもない変化球だ。ある大学講師が自分と瓜二つの見た目の役者が存在していることを知り、興味を持って接触しようとする。しかし役者の方が性質の悪い男で、大学講師は美しい恋人を差し出すように脅迫を受けるのだ。 単純化を試みると、『複製された男』は物語自体が「妻(もしくは恋人)には文句ないけど浮気もしてみたい!」という分裂した気持ちのメタファーである。ミもフタもない言い方だが、2人の男は分裂したひとつの人格で、劇中で描かれるストーリーは男の精神世界か妄想ということになる。われわれは見たものすべてを疑ってかからなくてはならない類の作品なのだ。 そしてやっかいなことに、随所に挿入される空撮の目線が誰なのかがよくわからない。神、と言ってしまうのは短絡的すぎる。原作小説に登場する3人目の自分なのかも知れないが、とにかくこの痴話じみた葛藤の物語を、まったく第三者の目線から見下ろしている何者かがいる。ここでも「じゃあこれは誰の物語か?」という疑問が頭をもたげてくるのだ。 前作『ボーダーライン』でヴィルヌーヴと主演のベニチオ・デル・トロは、デル・トロが演じたアレハンドロという男のセリフを9割がた削除した。このアレハンドロこそが原題でもある「SICARIO」であることが終盤で明らかになるのだが、物語の形式上の主人公はエイミー・ブラント扮するFBI捜査官ケイトであり、アレハンドロは登場する分量も少なければ、セリフに至ってはほんのわずか。しかし最も尺を割いているケイトは最後まで傍観者以上の役割を与えられない異様さが、作品のテーマにも繋がってくる仕掛けだ。 ヴィルヌーヴはアレハンドロをまるで脇役であるかのように描写し、クラマイックスで一気に主役交代を成し遂げる。得意の主人公のかく乱だ。ちなみにアレハンドロが愛する妻と娘を亡くしているという設定は実は序盤で示唆されている。メキシコの街フアレスで、車に乗っているアレハンドロの顔から町の壁に貼られている「行方不明者」の張り紙にフォーカスが移動する。共演者のジェフリー・ドノヴァンによると、その行方不明者こそがアレハンドロの妻なのだという。 この伏線に気づく観客はほとんどいないだろうし、気づくにしても2度目以上の鑑賞でなければ不可能に近い。そして気づいたとしても、アレハンドロは貼り紙に一瞥もくれていない。視界の端に入っていて、表情を押し殺して苦悶に耐えているのだ、と想像することはできるが、これも想像でしかない。こういう小さな要素を繋ぎ合わせ、自分なりの答えを探り当てることがヴィルヌーヴ作品の鑑賞法なのである。 そんなヴィルヌーヴが「ダークな作品が続いてさすがに疲れた」と言って撮った『メッセージ』も、素直にハッピーな映画などではない。謎の宇宙船が地球に現れ、未知の地球外生物の言葉を解析しようとする言語学者の物語であると同時に、大切な人を亡くした喪失感にまつわるとてもパーソナルなヒューマンドラマでもある。ただし自分の感情に折り合いをつける方法が「宇宙人の言語体系を通じて既成概念を転換させる」ことなので、やはりゴリゴリの知的SFと呼ぶべきかも知れない。 『メッセージ』の主人公は明確にヒロインのルイーズであり、珍しく単独主人公の作品になっている。が、敢えて言うとこの映画の主人公は「言語」と「概念」である。ついに人間だけでなく概念が主人公になってしまった。この概念と『スローターハウス5』との相似は映画ファンには気にならずにはいられないところだが、ヴィルヌーヴは筆者とのインタビューで「その映画は知らない」と明言したし、原作者のテッド・チャンは小説を執筆してから『スローターハウス5』を知ったというから、偶然の一致以上の答えが出ないのはいささか残念ではある。 そしてヴィルヌーヴの次回作はかの『ブレードランナー』の続編、『ブレードランナー2049』。『ラ・ラ・ランド』のライアン・ゴズリングが主演を務めるだけでなく、前作からデッカード役のハリソン・フォードも再登場する。つい短絡的に「また主人公が複数いる!」と飛びつきそうになるが、そこはヴィルヌーヴ。こちらの予想など鼻で笑うような斜め上をいく怪作に仕上がることを期待したい。■ 『メッセージ』5月19日(金)TOHOシネマズ六本木ヒルズほか全国ロードショー配給:ソニー・ピクチャーズ
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COLUMN/コラム2016.11.26
【本邦初公開】ジョックスとナードを自在に行き来する男リンクレイターは、どこの国も変わらぬ“地方の若者のどん詰まり”をいかにして描いたか。〜『サバービア』〜
リンクレイターの実質的デビュー作『スラッカー』(1991)が日本の映画祭で上映され、処女長編『It's Impossible to Learn to Plow by Reading Books』(1988)もYouTubeで観られてしまう現在。『サバ―ビア』は日本唯一の“幻のリンクレイター作品”だった。『ビフォア・サンライズ 恋人までの距離』(1995)の大成功直後だったにも関わらず日本では劇場未公開のまま捨て置かれ、今回のザ・シネマの放送が本邦初公開なのである。 リチャード・リンクレイターはオタク気質の監督と思われがちだが、ゴリゴリの体育会系出身者である。哲学性と諧謔のある会話劇を得意とし、フィリップ・K・ディックのようなSF作家への憧憬を標榜し、ロック音楽の造詣も深いなど文化系ナード感があふれているのに、野球のスポーツ推薦で大学に入るような典型的なアスリート系=「ジョックス」の一員だった。 リンクレイターの出世作『バッド・チューニング』(1993)は一地方の高校の夏休みが始まる一日の狂騒を膨大なキャラを配して描いた群像劇で、主演格に“ピンク”というアメフト部員が登場する。苗字がフロイドなので“ピンク(フロイド)”と呼ばれているという設定からして、リンクレイターのジョックスとナードに引き裂かれた二面性が顕れていると言っていい。 映画のラストで“ピンク”は支配的なアメフト部のコーチに反抗し、スクールカーストでは下位に属するボンクラどもと“エアロスミス”のチケットを買いに行く。リンクレイター自身が“ピンク”が一番高校時代の自分を投影しているキャラクターだと公言しているもの当然だろう。 リンクレイターはあるインタビューで、ジョックス時代の自分について「周りの人間は僕をクールなヤツだとチヤホヤしていたけれど、実際のところクソみたいな気分だった」と語っている。「僕が疎外感を感じているなら、他のみんなはどうなのか。(思春期の)普遍的な悩みだとわかっていたけど、早く歳を取って混乱の泥沼から抜け出したいとばかり考えていたよ」 リンクレイターの最新作『エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に』は大学の名門野球チームに入った新入生の3日間を描いた『バッド・チューニング』の続編的内容だが、スポーツ推薦で入学した主人公は演劇を専攻する女生徒と恋に落ちる。これまたふたつの世界に片足ずつ突っ込んだリンクレイターの分身である。 リンクレイターはキャリアを通して「ドラマチックなことが起きない等身大の青春」にこだわり続けてきた。年齢を経るに従い「ドラマチックではないが山あり谷ありの人生」にシフトしつつあるのは『ビフォア』三部作を観れば明らかだが、その際の強みになっているのがジョックスでありナードでもある、つまりはクラスタを限定しない共感力だ。 例えば『ビフォア』三部作の主人公ジェシーは元バックパッカーから作家になる文学青年だったが、息子がサッカーを続けることが精神鍛錬になると信じるスポーツマッチョでもある。クリエイターの多くが自伝的キャラクターを描くときに陥りがちな繊細なアート系というくびきからあらかじめ逃れているのだ。 さて、前置きが長くなったが『サバ―ビア』の話だ。 『サバ―ビア』とは「郊外」のことで、そのまま日本の「地方」と置き換えても構わない。車社会で、街道沿いにチェーン店が並び、町の中心にはもはや活気がなく、繁華街はわずかな飲み屋を除けばシャッターが下ろされている。日本もアメリカも変わらない、というより、アメリカの地方がたどった道を日本が追いかけているのが実情である。 主人公はそんなサバ―ビアに育ち、20歳を過ぎても実家でうだうだしている若者たち。誰ひとり自動車すら持っておらず、夜な夜な近所のコンビニの駐車場で酔っぱらったりハッパをキメながらダベるしかない。そんな退屈な毎日に今日ばかりは新鮮な風が吹く。地元を飛び出してロックスターになった幼なじみのポニー(ジェイス・バートック)が凱旋コンサートで帰郷し、いつものコンビニに顔を出すというのだ。 傷を舐め合い、足を引っ張り合い、こいつより自分の方がマシだと考えることでかろうじて自尊心を保っていた彼らのバランスが、ポニーがリムジンに乗ってやってきたことで壊れ始める。かつてポニーと音楽をやっていたジェフ(ジョバンニ・リビシ)、ジェフの彼女でパンクス女子のスーズ(エイミー・キャレイ)、軍隊を除隊したティム(ニッキー・カット)、お気楽でお調子者のバフ(スティーブ・ザーン)。さらに情緒不安定な女の子ビービー(ディナ・スパイベイ)やパキスタン系のコンビニ店長、ポニーのパブリシスト・エリカ(パーカー・ポージー)が絡み、いつもと変わらないはずの夜が思わぬ方へと転がっていく……。 まるで『バッド・チューニング』のニート版だが、リンクレイターにとってデビュー以来初めてオリジナル企画ではない原作物である。もとになっているのは『トーク・レディオ』(1988)の原作・主演で知られるエリック・ボゴシアンが書いた同名の舞台劇だ。 『サバービア』の舞台を観劇したリンクレイターは「まるで自分自身の物語のように感じた」という。鬱屈と不満を持て余すジェフも、アート系をこじらせたビービーも、夢を掴んでも郷愁が捨てられないポニーも、全員がリンクレイターの一部だった。ちなみにポニーに扮したバートックの外見が驚くほどリンクレイターに似ていると感じるのは自分だけではあるまい。 脚色はボゴシアン自身が手がけたが、ボゴシアンの地元であるボストン郊外からリンクレイターのお膝元、テキサス州オースティンへと変更された。とはいえ映し出されるのはアメリカ中のどこに行っても変わらない街道沿いの無味乾燥な景色。場所の変更は作品がもともと備えていた普遍性をより強固にしたに過ぎない。 リンクレイターはかねてから『アメリカン・グラフティ』やジョン・ヒューズ作品のようなドラマチックな青春など神話に過ぎないと公言していたが、『サバービア』ではコメディから悲劇へと転調するメリハリのあるドラマツルギーを取り入れている。延々と続くダベりや、ストーリーの向かう先を定めない語り口などリンクレイター初期の特徴は完璧に押さえている。が、原作通りとはいえ『サバービア』では緩慢な日常をぶち壊すある「事件」が起きるのだ。 普通の映画であれば当たり前の展開も、映画から「映画的事件」を引き剥がすことに腐心してきたリンクレイターにとっては大きな変化だった。結果として『サバービア』は、ボゴシアンのシニカルで毒々しい社会批評と、リンクレイターらしい等身大の青春要素が一体となり、倦怠と危なっかしい笑いとヘビーな悲劇が折り重なった問題作に仕上がった。 ちなみに当時のオルタナロックのスターが揃ったサントラ盤はオルタナという音楽シーンが“地方”の閉塞感のはけ口だったことをよく表していて時代の資料としても興味深い。ただし冒頭に流れるのはジーン・ピットニーの1961年のヒット曲「非情の街」。1960年生まれのリンクレイターにとって完全に親世代のオールディーズだが、若者らしい自意識過剰で自己憐憫的な詞が印象的なロック歌謡だ。「非情の街」が醸す青臭いセンチメントは、「バーンフィールド(焼け野原)」という架空の町名も相まって、結局いつの時代も青春なんてどん詰まりなのだと宣言しているのである。■ TM & © Warner Bros. Entertainment Inc.
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COLUMN/コラム2016.11.07
【未DVD化】天才ピアニストのリストがロケットに乗ってナチスと戦う! ケン・ラッセル屈指の珍作『リストマニア』は伝記映画が否か?
いくら真剣に話しても「そんなわけないでしょう」と一笑に付される映画がある。そんな代表例がケン・ラッセルの1975年作『リストマニア』だ。詳細に説明すればするほどにウソくさく、じゃあ実際に観てみてくれよと懇願しても、日本では劇場未公開でVHSビデオがリリースされたきり。ほとんど視聴する方法がなかったのだ。そんなカルト中のカルト映画がザ・シネマにお目見えするというから、いくら感謝しても足りないくらいである。 「リストマニア」とは19世紀の音楽家フランス・リストの熱狂的ファンを指す言葉。長身のイケメンで超絶技巧の天才ピアニストだったリストのコンサートでは、詰めかけた女性客が失神し(時にはリスト自身も失神し)、リストマニアたちがわれ先にステージに突進して贈り物を投げ与え、リストが使った後の風呂の湯を飲もうとした不届き者までいたという。言うなればリストは19世紀のロックスターで、世界初のアイドルでもあった。ビートルズ全盛期のファンの狂騒を「ビートルマニア」と呼ぶのも「リストマニア」から派生したバリエーションである。 そんなリストの生涯を鬼才ケン・ラッセルが映画化――と言うは易いが、完成した作品は伝記映画のカテゴリーに入れるにはあまりにもブッ飛び過ぎている。主演はラッセルの前作でもあるロックオペラ『トミー』(1975)に主演したザ・フーのボーカリスト、ロジャー・ダルトリー。音楽はプログレバンド、イエスのキーボーディストだったリック・ウェイクマンが担当。この時点で正統派のクラシック音楽に寄せる気がなかったのは明白だろう(ただし劇中曲の大半はリストやワーグナーの楽曲のアレンジ)。 舞台は19世紀のヨーロッパ。人気絶頂のピアニスト・リストは伯爵夫人マリー(フィオナ・ルイス)の間男になり伯爵に殺されかけるが、マリーと一緒に出奔して3人の子供に恵まれる。やがて倦怠期が訪れ、ロシア貴族のカロライン(サラ・ケッスルマン)に鞍替えするも、ローマ教皇(リンゴ・スター)に結婚を阻まれてしまう。一方リストの舎弟だったワーグナー(ポール・ニコラス)はリストの娘コジマ(ヴェロニカ・キリガン)を略奪婚して新興宗教の教祖に成り上がる。カギ十字マークの武装軍団を結成して世界征服に乗り出したワーグナーとコジマをリストは“愛の力”で止めることができるのか? 文字にすると本当にバカげている。でもふざけているわけでも盛っているわけでもないのだ。本当にこれが『リストマニア』のストーリーなのだ。もうちょっと簡潔にすると「セックス三昧のモテモテ音楽家リストが、悪の権化ワーグナーに戦いを挑む壮大なコント」ということになるだろうか。 もちろんナチスの台頭は20世紀なのでリストともワーグナーとも直接の繋がりはない。ただしヒトラーがワーグナーの音楽に心酔し、ワーグナーの遺族を援助したことは事実なので、ワーグナーとヒトラーを同一視したトンデモ描写を歴史への皮肉と解釈することはできる。しかしチョビ髭を付けたワーグナーがエレキギター型マシンガンで暴れまくるクライマックスを観て歴史の教訓を読み取ることは常人には至難の業だろう。 ケン・ラッセルのやりたい放題はまだまだある。ラッセルは『恋人たちの曲/悲愴』(1970)や『マーラー』(1974)でも音楽家の生涯を独自のスキャンダラスな解釈で描いているが、『リストマニア』では冒頭からメトロノームに合わせて伯爵夫人マリーのおっぱいを吸う下ネタギャグで幕を開ける。突然チャップリンの無声映画を完コピしたり、新興宗教の制服がスーパーマンのコスチュームだったり、ワーグナーが狼男とドラキュラとフランケンシュタインになってみたり、ジャンルの壁を飛び越えまくるアバンギャルド精神が尋常じゃない。 前作『トミー』では原作者であるピート・タウンゼントがラッセルの過剰な演出に不満を唱えていたと聞くが、自ら脚本も書いた『リストマニア』は『トミー』なんて目じゃないほどにイカレている。猥雑でデタラメでぶっ壊れていて、ある意味では作家主義の行きつく果てを教えてくれる啓示のような作品なのだ。 と、いかに『リストマニア』がムチャクチャかについて書いてみたが、リストの生涯や19世紀の音楽シーンを知るうちにデタラメな中にもラッセルなりの裏付けがあることがわかってきた。例えば映画の序盤に文化人でごった返すパリのサロンが登場する。そこにはなぜか男声で吹き替えられているSMの女王がいて、Mっ気のある男がすがりついている。この2人は誰あろう。天才音楽家フレデリック・ショパンと、ショパンの恋人で女性作家のジョルジュ・サンドなのだ。 ジョルジュ・サンドは男装で社交界に出入りしたゴリゴリのフェミニストとして知られ、ショパンは初めて彼女に会った時の印象を「男のような女」と書き残している。そういった史実をラッセルのけばけばしいフィルターを通すと、前述のようなSMカップルができあがるのだ。 また同じサロンのシーンで、ワーグナーがメンデルスゾーンのことを「金で音楽を作る男」と揶揄するセリフにも根拠がある。ワーグナーはユダヤ系のメンデルスゾーンを嫌っており、「音楽におけるユダヤ性」という論文で名指しで攻撃したことさえあるのだ。ヨーロッパにはユダヤ人を守銭奴扱いする伝統があり、その傾向が最も過剰な形を取ったのがナチスドイツによるホロコーストだったわけだが、この何気ないセリフの背景にはワーグナーからヒトラーへと繋がっていく反ユダヤ思想が横たわっているのである。 リストの伝記映画としても実はポイントポイントをちゃんと押さえている。リストが最初に不倫する伯爵夫人はパリの社交界の華だったマリー・ダグーで、リストとの間に3人の子供が生まれ、コジマ以外の2人が早世したのも史実の通りだし、カロラインとの結婚がバチカンに認められずに破局したのも現実そのまま。娘のコジマがリストの弟子で指揮者のハンス・フォン・ビューローと結婚していたのにワーグナーに奔ったドラマティックなエピソードはクラシック通以外にもよく知られた話だ。 ケン・ラッセルは前述したようにリスト、マーラー、チャイコフスキー、エドワード・エルガーと19世紀に活躍した音楽家の伝記ものを多く手がけており、当時の音楽事情にもっとも通じている映画監督だったろう。19世紀はブルジョワ階級が台頭し、サロン文化が花開いた。新しい価値観が現れて旧来の常識が良くも悪くも覆されていく。そんな世相や時代の空気を最もケン・ラッセル色を強めて映像化してみせたのが『リストマニア』ではなかったか。 本人が生きていれば深読みのし過ぎだと笑い飛ばすかも知れない。大好きな不謹慎ネタで歴史を混ぜっ返したかっただけかも知れない。しかしながら長らく底抜けのバカ映画だと信じてきた『リストマニア』が、実はアカデミックな教養と理解に裏打ちされた、もっと多角的に掘り下げられるべき作品であることは大きな発見だった。とにもかくにもこの貴重な機会を逃す手はない。未見の方には「こんな珍奇な映画には人生でも滅多に出会えない」という一点においてだけでも、ザ・シネマでの放送を目撃していただきたい。■ TM & © Warner Bros. Entertainment Inc.