ザ・シネマ 飯森盛良
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COLUMN/コラム2018.10.30
悪魔が作らせたのか?97年の予言的映画『ディアボロス/悪魔の扉』が的中させた、21世紀のモラルハザード①
当チャンネルでの放映予定は当面ないが、ジョニー・デップの『フロム・ヘル』をご記憶だろうか?“切り裂きジャック”の真犯人探しモノで、19世紀末ヴィクトリア朝ロンドンの深い闇と、酸鼻きわめる猟奇描写と、あっと驚く“切り裂きジャック”の正体が見どころの、出来の良いスリラーだった。 クライマックスでついに正体を現したその人物は、傲然とこう言い放つ。「後世の人々は語るだろう、20世紀を生んだのは私だと」 まさしくそうだ。 あれは「猟奇殺人」であり、「快楽殺人」でもあったかもしれず(映画では別の犯行動機があるという話になっていたが)、そして何よりも、犯人がマスメディア(当時は新聞)に犯行声明文を送り付け、そのメディアが発信するどぎついタブロイド的・ワイドショー的情報を大量消費した資本主義社会の都市住民が、恐怖しながらも興奮した「劇場型犯罪」だった。 マスメディアを通じてそうした類いの犯罪に触れた20世紀の大衆は、それを、生理的に恐怖し嫌悪しつつ、道徳的には怒り悲しみつつも、同時にまた、それを旺盛に消費もした。猟奇事件や未解決事件を扱うドキュメンタリーやノンフィクションに恐いもの見たさの好奇心から触れて、深淵を覗き込んでしまった覚えは、誰にだってあるはずだ。20世紀、それは大衆に消費されるコンテンツの一つになった。 『フロム・ヘル』は、19世紀末のロンドンにおいて“先行配信”された20世紀型モラルハザード※のコンテンツが、悪魔の扉を開いた、という物語なのだ。 ※「モラルハザード」という言葉の本来の意味は違う。誤用が広まっている。ここでは誤用と承知で使うが正確な国語的語義は各自でおググりあれ。 そして、本稿で取り上げる1997年の映画『ディアボロス/悪魔の扉』。こちらは、90年代末のNYに存在する社会の歪みが、21世紀型モラルハザードを先取りしており、それが悪魔の扉を開くだろう、と予言した物語で、そして、実際その通りになってしまったのである。そのことを、本稿では恨み節調に書いていきたい。 まず、あらすじから始めよう。冒頭の舞台はフロリダの田舎町だ。主人公(キアヌ・リーヴス扮演)は負け知らずの若手弁護士。いま抱えているのは、被告の男性教諭が原告の女子中学生に強制猥褻をしたという裁判だ。依頼人の教師が“黒”である真相が、我々観客とキアヌの二者にだけ明かされる。女生徒が検察の質問に答えて被害の詳細を勇敢に証言している最中、依頼人は、じっとりと汗ばんだ左手で犯行時と同じ動作を、なでるような、もむような、挿入するような指の動きを、無意識のうちに再現しており、あまつさえ、反対の右手を膨らんできた己の股間にまでこっそり持っていく始末なのだ、デスクの下で。そこは誰の目からも死角。唯一、隣に座っている弁護士キアヌ・リーヴスからのみ、そこは死角ではない。その卑猥な指の動きに気づいてしまった彼は、自分の依頼人が“黒”だと悟る。たちまち生理的嫌悪が湧き上がる。が、弁護士が被告の弁護を放り出すわけにもいかない。周到に練り上げてきた法廷戦術にのっとり、彼は、女生徒が教諭の陰口を叩いていた事実、教諭を嫌い、教諭も彼女をしばしば叱っていた事実、さらには、女生徒が同級生たちと少々エッチな秘密の遊びをしていた事実を、原告の少女本人に向かい声を荒げて突きつけ、動揺させ、泣かせ、被害者であるこの女子中学生が、問題児であり、色ガキであり、先生を逆恨みしているかのように陪審員の印象を操作することに成功する。今回も彼の勝ちだった。無罪評決だ。 この裁判を傍聴していた男から、祝勝会で声をかけられる。彼はNYの法律事務所の人間で、ぜひヘッドハントしたいと言う。条件は破格だ。詳しい話を聞きにNYまで行ってみると、職場環境も社宅も申し分ない。人生の成功者の暮らしだ。事務所はワールドトレードセンターのほど近く(倒壊4年前のツインタワーが映し出される)。オフィスビルの最上階で、モダンインテリアで統一された最先端のデザイナーズオフィスだ。住環境の方は、『ローズマリーの赤ちゃん』のダコタハウスや『ゴーストバスターズ』の高層マンションを思い出させる、19世紀末築のクラシカル&クラッシーな歴史的建築物。法律事務所の代表がその不動産を丸ごと一棟所有していてスタッフを各階に住まわせているのだ。無論本人はペントハウスに君臨し、上層階から下層階へと事務所でのヒエラルキー順にフロアが割り当てられているのである。 この初老の代表がジョン・ミルトン(すごい名前だ!アル・パチーノ扮演)。家父長的なカリスマ性を発散し、確固たる成功哲学を持ち、時にそれを雄弁に語り、夜ごとパーティーを催し、若い美女たちをはべらせ、部下にもそのオコボレを与え、事務所スタッフを完全に支配しているのである。主人公は、このミルトンにまず感謝し、次いで心酔し、その下で働けることを光栄に思う。 …が、しかし。 この『ディアボロス/悪魔の扉』には原作が存在する。1990年に書かれた小説『悪魔の弁護人』がそれで、映画化時に邦訳も出たことがある。主人公がフロリダではなく元々NY郊外に暮らしていたり、ペドフィリア教員がキモでぶハゲおやじではなくレズ女教師だったりと、多少の違いはあるが、ここまではおおむね映画版も原作も同じ展開をたどる。途中から違いが広がっていき、最後には全く別の結末にそれぞれたどり着くのだが、最大の相違は何かと言えば、まず端的に、主人公の妻のキャラクター造形であり、より根本的には、そもそものモチーフとなっているもの、テーマが違うのである。 映画版で奥さんを演じるのはシャーリーズ・セロンだ。中学教諭の強制猥褻裁判でも夫を応援し、勝訴が決まれば誰より喜ぶ。野心も強く、NYでのセレブ新生活に大興奮する。気っ風の良い田舎の元ヤン若妻みたいな辣腕カーディーラーの女性だった。しかし、そんな彼女がNYで次第に精神に変調をきたし、泣きじゃくりながら被害妄想と神経衰弱の症状に陥っていく。 一方、原作小説の方では真逆のキャラクターとして描かれている。NY郊外の弁護士家庭という中の上クラスの生活に満足している専業主婦で、その地域社会に愛着も抱いており、上を目指して別の生活に飛び込もうという気はさらさら無い。夫が強制猥褻容疑の被告の弁護を担当し原告の女子中学生を人格攻撃したことも恥じている。そんな彼女が、マンハッタンに移って豪華な暮らしを始めると、カネと消費の亡者に豹変するのだ。 要は、どちらも中盤で奥さんのキャラクターがガラリと一変してしまうのである。そのトリガーとなるのが「悪魔」という本作のキーワードだ。 映画版では、奥さんシャーリーズ・セロンが、この、人も羨む勝ち組ライフのふとした瞬間に、何か禍々しい、悪魔的な存在をチラチラ垣間見るようになり、フロリダではあれほど明朗快活だった彼女が、オカルト的な影に怯えて田舎に戻りたいと泣いて懇願しだす。主人公キアヌには悪魔の影など見えないのだが、妻の方は妄想なのか何なのか、不吉な気配を繰り返し感じるようになる。 「妄想なのか何なのか」と書いたが、これはつまり、いわゆる「ニューロティック・スリラー」的展開だ。この映画は、慣れない贅沢暮らしでノイローゼになり追い詰められていく心を病んだ庶民女性の物語なのか?それとも、本当に悪魔は実在するのに、それを旦那を含む誰からも信じてもらえない孤立した女性の物語なのか?どちらなのか!? それでクライマックスまで興味を持続させるのがニューロティック・スリラーというジャンルである。 一方、原作の方もニューロティックなのだが、悪魔が実在するのか妄想なのか、どちらなのかで読者を翻弄するのは、こちらでは主人公である旦那の方だ。ミルトン代表から殺人者の弁護を任され、良心の呵責に苦しむのみならず、ミルトンこそ実は本物の悪魔ではないのか!?と疑いだす。疑うほどに、逆に妻の方は、夫のことを精神異常あつかいしつつ、自身は浪費に明け暮れていく。悪魔に取り込まれつつあるのか? ヒロインである奥さんが、このように原作と映画化版とで正反対に描かれるのだが、より重要なのは、そもそもモチーフが違う、テーマが違う、ということの方だ。次回はそこに触れていきたい。 (つづき② 原題「悪魔の弁護人(Devil's Advocate)」は慣用句。その意味を知っているか?) © Warner Bros. Productions Limited, Monarchy Enterprises B.V., Regency Entertainment (USA), Inc. 保存保存 保存保存
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COLUMN/コラム2018.07.27
『ホビット 思いがけない冒険』オレのクリスマスは今年から、いとしいしと、マーイプレシャースなピージャク神を崇め奉る行事になった件について
視聴者の皆様、謹んでメリクリ申し上げます。ワタクシ、普段はザ・シネマの吹き替え担当をやっている者です。トールキニアン歴25年ということで、何故かこのたび筆をとることになりました。 さて、「『ホビット 思いがけない冒険』ジャパン・ホビット・デー ジャパン・プレミア イベント レッド・カーペットご観覧ご招待」という、当チャンネル史上もっとも長い名称の(多分)プレゼントを10組20名様に差し上げましたが、12月1日のそのイベントに当選された方、ホビット・デーはいかがでしたか? 六本木ヒルズにお越しいただけましたでしょうか? お楽しみいただけました? そうですか。それは何よりです。 その『ホビット 思いがけない冒険』が、いよいよ今日から公開されました! もう、待ちに待った、という感じですね。以前、当チャンネルで『ロード・オブ・ザ・リング』略して『LotR』を三部作一挙放送した際、このブログにもガッツリ長文を書いてヘロヘロになったもんですが、あっという間にあれから4年…。 そのブログ中でも『ホビットの冒険』映画化については言及しましたが、4年たってフタを開けてみればタイトルは『ホビット』。『LotR』と同じく三部作となり(これが最初の一発目で、以降、毎年公開予定)、さらに監督も、すったもんだがありました、で結局変わらず神ピーター・ジャクソンのまま、ということになりました。前作ファンにとってはまさにベストな形で落ち着いてくれて一安心。この間、紆余曲折ありましたからねぇ…。 この作品、『LotR』も『ホビット』も、熱狂的ファンがたくさんいます。映画版だけでなく原作からのファンも多い。また、RPGの原点ともされているため、ゲームから本作に興味を持ったというファンも少なくないはず。昨今の映画で人気大河シリーズは数あれど、映画版、原作、さらにはゲームの影響と、三方から各ファンが大量に結集してきているような超・超人気シリーズは、本作ぐらいではないでしょうか。 ワタクシも中1以来、ゲーム→原作→映画というルートを歩んできたファンで、もう四半世紀近くファンを続けてるんですが、それでもこの作品の場合は新参者・若輩者です。それぐらいファン層が厚い。この奥深さ、まさしく一生モノなのです。こういう場でワタクシごとき豎子が駄文を披露するのは、諸先輩がたに申し訳ない気持ちでいっぱいであります、ハイ。 さて、そんな作品だけに、『ホビットの冒険』を映画化した今作『ホビット 思いがけない冒険』には、原作ファンならではの心配事というのも、実はありました。 『ホビット』は『LotR』のプリクエルなんですね。プリクエル、つまり前日譚です。原作だと、先に『ホビットの冒険』の方がトールキンによって書かれました。しかも、児童文学として。実際、日本でも岩波少年文庫などから出ていますが、ボリュームも、文字の大きさも、漢字の割合も、続編『指輪物語』こと『LotR』と比べて明らかに子ども向けの小説です。『LotR』のような歴史や言語の創造という領域にまで踏み込んだ、壮大な叙事詩というより、ちょっとしたフィンタジーアドベンチャー小説といった気軽さです。私が中1にして人生初読破した小説が、この『ホビットの冒険』上下巻でした。 それが、心配事です。あの『LotR』の壮大なスケールに大感動し、号泣し、この映画が人生ベストだ!と断言して回っているような人種(オレ)にとって、その前日譚で児童文学の『ホビットの冒険』は、スケールダウンしたように映っちゃうのでは…? で、観ました。杞憂でした! 全国のトールキニアンの皆様、ご安心ください! もう、凄いことになっちゃってます!! 4年前のブログにも書きましたが、ピージャック神、この人は原作ファンにとっては神です! 昨今「お前、原作を全っ然わかってねぇーな!」という文化冒涜事件が多発しておりますここ日本ですが、そういうことが神には皆無です。神自身が原作マニア。原作を愛し抜いているマニアの中の真性どマニアが、原作を最大限リスペクトしながら、愛を込めて、原作に付け足したり原作から差し引いたりして使った、映画版。よくぞ!よくぞと言う他に言葉がありません!よくぞやってくれたという出来です!! まず、なにをどうやったらこうなるのか、『ホビットの冒険』が大人向けになっちゃってます! しかも、原作の魅力もまったく損なわれていない! 『LotR』のテンションで『ホビットの冒険』を映画にしているのです。これ凄くないですか? 神は、またも奇蹟を見せてくれました。これによって、原作を知らない映画から参入組のファンは、『LotR』と同水準の超ハイクオリティな物語を、期待通りに楽しめます。かつ、原作からどっぷりファンという層も、大人として『ホビットの冒険』を楽しめるという予想だにしなかった体験をすることができるのです。もう、全員が得してる!これぞまさしくWin-Win関係! さて、この物語は、『LotR』にも出てきたホビット族のおじいちゃん、ビルボ・バギンズの若かりし日々のお話です。バギンズ家(『LotR』でフロドが継いだ家)に、ある晩、ガンダルフに導かれた、トーリンをリーダーとする13人のドワーフ族が押しかけてきます。そして、ドラゴンに奪われた祖国とそこに眠る財宝を奪回しに行こう、という話になり、何故か、初対面でしかもノンビリ系のビルボ・バギンズまでが、“忍びの者”というポジションでそのメンバーに加わることになっちゃって、壮大な冒険に身を投じていくのです。その道中で、ビルボ・バギンズは、例の指輪を手に入れることになります。あの、ゴラムから…。 「ドラゴンに奪われた祖国と財宝」と書きましたけど、原作の児童文学の方では、どちらかというと「財宝奪還」の方がメイン。しかしこの映画版だと「祖国の再興」の方に重点が移っている印象です。ドワーフ族は、祖国を失い、異種族の土地に流れて行き、各地に分散して小集団で暮らす「流浪の民族」として、かなり判りやすくメタファー的な描かれ方をしています。 ドワーフ族と言えばゲームでもお馴染み。見た目はお約束的に、長いヒゲを伸ばしている年老いた頑固な小人、というステレオタイプがあって(白雪姫の例の7人も実はドワーフです)、『LotR』三部作のギムリなんかはまさにそのステレオタイプ通りのキャラでした。でも、今作ではイケメン・ドワーフやヤング・ドワーフなども出てきて、ピージャック神はあえてお約束を崩しにかかっているようにワタクシは見受けました。 『ホビットの冒険』という子ども向け小説を、流浪の民族の物語に、宿命に立ち向かって失われし祖国を再興しようという漢どもの熱きドラマに再構築する。しかも『LotR』水準の壮大なスケールで、大人の観客に滂沱たる大号泣をさせるクオリティで映画として再構築するためには、この手しかありません。ステレオタイプを脱し、彼らドワーフ族を人間的に描くしかありません。そうでなければ深いレベルでの感情移入ができない。ピージャック超アタマいいな!こんなところに神の奇蹟が顕現しています。 さて、今作で我々は、原作にも登場してくる灰色のガンダルフ(『LotR』1作目のようにまだ灰色です)と、裂け谷のエルロンド卿、そしてあのゴラムは言うまでもなく、さらにはガラドリエルの奥方や、白のサルマン、イアン・ホルム演じる老いたビルボ、そしてフロドとまで再会を果たすことになります。これは原作ファンにとっても予期せぬ再会。泣くしかない! さらに、『LotR』で何度も観た、牧歌的なホビット庄や、この世ならぬ幽邃美に満ちた裂け谷といった、懐かしい土地を、我々は今作でまた再訪することになります。もう泣くしかない! 加えてサントラです。『LotR』を愛する者の耳に残って一生離れることはないであろう、魂の旋律の数々。ホビット庄のライトモチーフ。エルフ族のライトモチーフ。そして、あの、ひとつの指輪のライトモチーフが今作でも流れ、懐かしさと同時に、ファンならイントロを聞いただけで、今スクリーンで何が描かれているのか、たちどころに理解できてしまうことでしょう。もはやほとんどワーグナー!本当に泣くしかない! おまけに、映画としての『LotR』にたった一つだけ欠けていた魅力、3D、ということまでも、今作からは加わったのですから、もはや泣かない理由がありません。 嗚呼、神よ感謝します。以下、突然ではありますが、去る12月1日、レッドカーペットの前に開かれた来日記者会見の席にて発せられた、ピージャック神のありがたい御言葉をこの場を借りて伝えますので、どうか心してお読みいただき、明日の心の糧としてください。 「この物語は、『LotR』の60年前という設定です。本作での行動がこの後どういう結果を招いたかということを、観客の皆さんは『LotR』を観てすでにご存知のことでしょう。今作の劇中で、ビルボにはゴラムを殺す機会があります。だが、ビルボは哀れみを見せる。正義感から彼がそこでゴラムを殺さなかったために、この物語は『LotR』の火山にまでつながっていくことになるのです。今作は『LotR』の様々な出来事の序章となっていますが、今、『LotR』から十年以上が経ち、このことは私にとっても大変感慨深く迫ってきます」 そしてこの作品、1秒48フレームという高い描画速度で3D撮影されておりまして、一部劇場ではHFR3D(ハイフレームレート3D)版で公開されておりますが、そんなテクニカル天上界語が難しすぎてアワアワしていた我ら人間界の迷える衆生に対し、神は、噛んで含めるようにして、易しくその神意を説いてくださったのでした。 「1927年、トーキーが誕生して映画に音が付くまで、撮影は手回しで行われていました。手動ですからフレームのスピードが一定ではなかった。しかし、やがてフィルムに音も同時に録音できるようになると、手回しでは音が安定しなくなった。では24フレームに決めよう、という基準がそこで作られたのです。これなら録音は安定する。当時35mmフィルムは高価だったため、24というフレーム数になったのです。 (筆者注:1秒間を24コマで撮影するということ。倍の48コマで1秒とするなら、画はなめらかな動きになるが、フィルムを倍の長さ消費することになり、当然フィルム代が倍かかることになる。逆に1秒12コマに減らせばフィルムは長さ半分、半額で済むが、絵がカクカク動くことに) 以降85年間、それがずっとスタンダードであり続けました。何千台もの映写機やキャメラが作られてしまい、今さら変えようがなかったからです。しかし近年デジタル化が進んで、映写機もキャメラも、フレームレートを変更可能になりました。 では、24から48にフレームレートを増やすことで、何がどう変わるか? 世界にリアリティが生まれるのです。本物の世界により近づけるのです。つまり3Dとハイフレームの融合は、実に素晴らしいコンビネーションだと言えるでしょう。本物の世界観を観客に見せられる。 さらに、映画館に行く動機にしてもらいたいという願いもありました。iPhoneやiPadで映画が観られるご時世です。この『ホビット』のような大作を、新しいテクノロジーで映画館で観て欲しい。人々を映画館に取り戻したい、という想いを、私はこの48フレームに込めました」 動いている対象を1秒間に24枚パシャパシャパシャパシャっと連続撮影し、その写真24枚を1秒間に等間隔でパラパラパラパラっとパラパラ漫画にすると、それは動いているように見える。1秒間の映像になります。これが映画の原理です。お金もないし面倒だから1秒間の動きを8枚の絵に描き、その8枚を1秒かけてパラパラ漫画にする、それが日本のアニメの原理です(スイマセン、かなり強引に単純化して話してます)。 で、このたび最高神は、神の持つ天地創造の御力により、1秒間を48に分割し、その48枚の静止画を1秒間に等間隔でパラパラ漫画にする、という、時間と世界の作り替えをおやりになられた、ということなのです。嗚呼、奇蹟だ! つまり、理論上は絵が倍なめらかに動くようになった訳です。しかも3D! これは『アバター』ショック以降の映画史において最大級のセカンド・インパクトではないでしょうか? まさに我々観客は、映画『ホビット 思いがけない冒険』を観ている間中ずっと、オレ中つ国に迷い込んじゃった!オレそこにいるわ!というアンビリバボーな奇跡体験をすることになるのです! 人類は、ここまできたか! 映画は、ここまでのことをできるようになったか! オレがこの歳まで映画を観続けてきたのは、すべてこれを体験するためだったのか! 泣くしかない。ただ黙って泣くしかない。もう本当に、冗談ではなく泣くしかない。ワタクシなんか170分間常時涙目、時に号泣でしたわ!皆さん、これは観ましょう。■ ©2012 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND METRO-GOLDWYN-MAYER PICTURES INC.
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COLUMN/コラム2018.07.11
『ロッキーの英雄・伝説絶ゆる時』と『荒野を歩け』に出てくるテックス・メックス料理「チリコンカン」のレシピに挑む!!!
写真/studio louise 今回のレシピは当企画史上最簡単。でもその前に、まずそもそもチリコンカンとは何ぞや!?ですが、これは“豆入りミートソース”と説明するのが、知らない日本人に対しては一番解りやすい。作り方もスパゲティ・ミートソースのミートソースとそうは違わんのですが、ただし、決定的に大違いなのが「チリパウダー」と呼ばれるスパイスが味の決め手となっている点。なんか赤唐辛子の粉末みたいな鬼のような響きですけれど、全く違います。辛くはありません。これのおかげでミートソースとは全然違う味です。 ウチは貧乏子沢山で子供が多いのですが、入園前の幼児の頃から全員の大好物。子供の味覚は兄弟姉妹間では遺伝しないものらしく各自バラバラで、満場一致で好きな食べ物など滅多に無くて、こっちが好きなものはあっちが嫌い、あっちの好物はこっちが口つけずと、作る親としては「いいから出されたもんは文句言わずに黙って残さず食え!」と毎回叱ってはみるものの、子供相手には詮無きこと。しかしこのチリコンカンは、カレーだとかコロッケだとか並ぶ、例外的な全員の好物です。つまり、お子様向け・万人向けの、割とわっかりやすい味だということ。だから辛くない。少々スパイシーではありますけど。 かく言う父親のワタクシ当年とって43歳も、小学生の頃に金曜ロードショーで「刑事コロンボ」見ててその存在を知り(コロンボの大好物という設定)、そんなに美味いんだったら喰ってみたい!と子供ながらに思ったものの母親はそんな得体の知れんものは作らず肉ジャガとか作ってる。夢が叶ったのはもちろん、皆さんご存知ウェンディーズで、でした。当時は「ウェンディーズチリ」こそが日本にいて一番容易に食べられるチリコンカンだったのです。そして「この世にこんな美味いものがあるのか!」と感動したのがワタクシとチリコンカンの最初の出会いでした。確か所は@地元ららぽーとTOKYO-BAYじゃなかったかな?80年代後半の話です。そこにウェンディーズが入ってたのです(森永LOVEもあったな)。ちなみに、その頃の初期ららぽーと、当時の東洋一のショッピングモール(日本にはモール自体なくアメリカの匂いがした)の威容は、菊池桃子主演の『テラ戦士Ψ(サイ)BOY』という日本映画に記録されていて、何らかファストフード店も映ったような記憶があるのですが、ウェンディーズだったかな?覚えてないや。もう一度見たい!が、なんと未DVD化で中古VHSがAmazonで¥7,500もするのかよ!?くそ〜邦画じゃなかったらウチの「シネマ解放区」でオレがやるんだけどなぁ! まぁそれはいいや。次に「テックス・メックス料理」とは何ぞや!?ですが、単にテキサス&メキシコ料理という意味です。伝統的なメキシコ料理では決してなくて、テキサスでアメリカナイズされた、なんちゃってメキシカンフード。日本の洋食が本場の西洋料理とは似て非なるものであるのと同じ。これが、あんまし上等な食い物じゃないんだ、エンチラーダとかブリトーとか。でも、どんな上等な食い物よりここらへんは美味いっすね!少なくとも個人的にはブッチギリ好みですわ。 上等な食い物じゃない、というポジションを踏まえた上で、このチリコンカンが登場する前出2本の映画での扱いにご注目いただきたい。 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ まずは、1972年の『ロッキーの英雄・伝説絶ゆる時』。これはVHS含め過去に一度もソフト化されたことがない(はず)掛け値無しのお宝作品で、ワタクシ、映画ライターなかざわひでゆきさんと過去にガッツリ語り合ってもおりますので、詳しくはその対談をご笑覧ください。ここでは簡単にあらすじだけ。 親を亡くし独り山中で暮らすネイティヴ・アメリカンの野生児ブラック・ブルは、文明暮らしに馴染めないまま成長した。彼には荒馬を乗りこなす才能があり、ある日それが老ロデオコーチの目に留まり、引き取られ訓練を積みロデオ乗りとして成功する。この老人はブラック・ブルにとって足を向けては寝られない恩人であり、酒場で絡んできた白人レイシストを殴り倒すなど親身になってくれ、育ての親とも慕う存在なのだが、しかし… でもって映画前半、老ロデオコーチの馬場で猛特訓を積み、特訓を終えるとメシの時間で、元選手でケガで引退した住み込みのオッサンが1人おり、そいつが作る絶品チリコンカンを3人でドカ食いする。「どんどん食え、筋肉を付けろ」などと老コーチから主人公は指導されますから、米国版ちゃんこですなこれは。これが、見るっからに美味そうなんです!住み込みのオッサンはレッドホットソースを振りかけて食ってる。ワタクシの場合は緑タバスコと決めていますが。チリコンカン自体は全く辛くないので、辛いもの好きにはホットソースは不可欠です。 とにかく、どちらかと言うとガテンな感じの食い物なのです。そもそもカウボーイが荒野で野宿しながらダッヂオーブンで作ってたぐらいのものなので。そして、ちゃんこ替わりにロデオライダーが体作り目的で喰うのがこれなので。お上品な食い物では全然ないのです。 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 2本目の映画、1962年の『荒野を歩け』。こちらは隠れた名作なのにウチのチャンネル内でもあまり大々的に宣伝してこなかったので、この場を借りて若干長めに語らせといてください。レシピしばしお待ちを。 監督は名匠エドワード・ドミトリク(代表作は54年『ケイン号の叛乱』、56年『山』、59年『ワーロック』など)、主演がローレンス・ハーヴェイで、ウチのチャンネル的には超有名作『アラモ』(60年)と超無名作『肉体のすきま風』(61年。でも傑作です!)でおなじみ。実は『ドミノ』(05年)でキーラ・ナイトレイが演じた実在の女賞金稼ぎドミノ・ハーヴェイの父親だったりもします。クールな父娘だぜ! さて、時は大恐慌の時代1930年代初頭。主人公ローレンス・ハーヴェイはカウボーイ・デニム・スタイルで上下キメてる流れ者のテキサン(テキサスっ子)。上が明らかに「Lee101J」で、下は「Leeカウボーイ」でしょう。LEVI'Sはこの当時ゴールドラッシュの金鉱掘り坑夫が履くようなダボっとした作業ズボン風シルエットだったのですが、Leeはカウボーイ専用ジーンズとして「Leeカウボーイ」というラインを1924年に発表。今に続く「Leeライダース」の原点です。これが、年々タイトな若々しいシルエットに細まっていき、作業着の実用性よりファッション性に重きを置いていき、それが革命的だったのです。ジージャン「Lee101J」の方もタイトだった。1926年には社会の窓ジッパー化もいち早く成し遂げており、デニム業界の最先端をLeeは走っていました(Leeの歴史)。劇中のローレンス・ハーヴェイはそれを着ているはず。考証的に30年代初頭にしては細すぎるシルエットですが、細身で苦み走ったシャープな二枚目の彼に実にお似合いです。 で大不況下のイケメン浮浪者ローレンス・ハーヴェイが一夜の野宿の寝床にと空き地の土管にもぐり込もうとすると、先客ジェーン・フォンダが寝てた。彼女は1960年のデビュー作カレッジ・ラブコメ『のっぽ物語』に続いての映画出演ですが、2作目にしていきなりのとんでもないビッチ汚れ役!ニンフォマニアな未成年で、ローレンス・ハーヴェイに迫るものの「愛する女が待ってるから」とフラれ、2人してホーボーとなって無賃乗車したり(ホーボーとは何ぞや!?はこの秋放送の『北国の帝王』を見よ)、或る夜の出来事式色じかけヒッチハイクをしたりして(或る夜の出来事式色じかけヒッチハイクとは何ぞや!?は放送中の『或る夜の出来事』を見よ)、その運命の女がいるはずのニューオリンズを目指します。 ニューオリンズの手前にて、いよいよチリコンカンが登場。2人は街道沿いのホコリっぽいおんぼろダイナーの前を通りかかり、「いい匂いだ」とローレンス・ハーヴェイが引き寄せられて店に入る。そこの女将が大女優①アン・バクスター。メキシコ系テキサス女性で、ローレンス・ハーヴェイとはテックス・メックス風メニューあれこれのグルメトークで盛り上がってすぐに意気投合。「どれも美味そうだがとにかく今はチリコンカンが喰いたい」と彼はオーダーします。連れのジェーン・フォンダは焼きもちから「まともなアメリカ料理の方がアタイの口には合うね。この料理の名前は一体何語さ?ちゃんとした英語でお書きよ!ここはアメリカだよ!」などとネトウヨのようなヘイトスピーチを吐きちらかす。大女優①アン・バクスターは困った人への大人の対応で受け流すが、ローレンス・ハーヴェイは彼女の人品骨柄の卑しさに愛想を尽かし、2人で会話もなく黙々と不味そうにチリコンカンを喰う羽目に。美味そうに見せるシーンじゃないのとモノクロ映画なのと監督が食に興味ないのかも、とのトリプル理由から、この映画では全然チリコンカンが美味そうには見えず、そもそもどんな食い物か映しもしません。が、チリコンカンがどんなポジションの食い物かは一番よく解る映画です。 その後、ビッチにもほどがあるジェーン・フォンダと縁を切り、大女優①アン・バクスターの場末ダイナーで肉体労働住み込みバイトをしながらニューオリンズの運命の女の居場所を探し続けるローレンス・ハーヴェイ。アン・バクスター女将に惚れられてしまったりもしますが、ついに運命の女の所在が判った!ということでニューオリンズに行ってみると…運命の女ことキャプシーヌは、大女優②バーバラ・スタンウィックが女楼主として君臨する高級娼館のトップ娼婦として苦界に身を沈めていた…。 と、ここから先は実際にご覧になっていただくとして、一言で言うと“SEXワーカーと付き合う問題”について描いた映画なのですが、それより皆さん、ジェーン・フォンダにアン・バクスターにキャプシーヌにバーバラ・スタンウィックですよ!凄くないですか!? この映画、DVDはおろかVHS時代含め未ソフト化らしいのですが(多分)、チリコンカンはともかくとしてこのメンツだけでも見るに値します。あとこの大女優4人の中では、個人的にはやっぱジェーン・フォンダっすね!ヒロインのキャプシーヌはさすがに運命の女役だけあり、人間離れして彫刻的に美しく、ウエストもコルセットでもしているように細くて凄いスタイルで、神々しいばかりなんですが、ジェーン・フォンダはムッチムチ!そして若い!バ〜ン!と言うかドスコ〜イ!と言うかドレスからハミ出る勢いの圧倒的な肉体の説得力で、下流でビッチなナチュラル・ボーン・フッカー役に挑んでいます。『コールガール』(71年)の頃よりか一回り太い。ただし、ヘイズコード撤廃前なのでヌードはありません。そちらがお目当の殿方は当チャンネルで絶賛放送中の『バーバレラ』(67年)の方もあわせてご覧ください。 あとニューオリンズのフレンチクォーターなのかな?の娼館のセットも素敵。インテリアのお手本にしたい。コロニアルな魅力の『プリティ・ベビー』(78年)娼館を越えてますね。 ちょっと映画の話で長くなりすぎたな。いい加減レシピ紹介を始めます。これ、作るの簡単すぎて、余談で引っ張らないとすぐに記事終わっちゃうから。 【材料(2人分)】 ・タマネギ×3/4個・ニンニク×1片・牛ひき肉×400g(合挽きでも全然OK)・トマト缶×1缶・レッドキドニービーンズ缶×1缶・クミンシード×小さじ1・オレガノシード×小さじ1・コンソメ×1個・チリパウダー×小さじ2 ※以下はお好みで・スライス・ハラペーニョ・タバスコ緑・タマネギ×1/4個・溶けるチェダーチーズ・サワークリーム 【作り方】 ① 鍋にサラダ油(材料外)を引きタマネギ3/4個分みじん切りを中火で炒め(1/4個分みじん切りは取っておく)、しんなりしたらニンニクみじん切りを加え1分。続いて牛ひき肉を投下。赤味がなくなって色が変わるまで炒める。 ② トマト缶とレッドキドニービーンズ缶の中身を入れる。そして、具材がヒタヒタになるまで水を足す。空になったトマト缶に水を入れ、その水を空のビーンズ缶に移し、それを鍋に入れると、缶に残留物を残さず鍋に注げてモッタイナイお化けが出ないで済む。 ③ クミンシードとオレガノシードをすり鉢で擦って鍋へ。 ④ 最後にコンソメ1個とチリパウダーを入れて終了。あとはただ煮込むだけ。30分以上。なお、書き忘れたのではなく本当に塩は一粒も使わないでOK。これだけでちゃんと濃い味がする。 ⑤ この状態まで(水分がほとんど無くなり、汁物というよりどちらかと言うとホロホロの固形物に近くなるまで)汁気を飛ばして完成。30分煮込んでも汁気がまだ無くならなかったら、無くなるまで煮込んでください。 【実食】 はぁ〜、こいつを皿いっぱい喰える、この至福ときたら!肉ジャガ喰ってたガキの頃には夢にも思わなかったぜ。ウェンディーズではLサイズでもこのボリュームには満たない。スーパーカップぐらいの容器に入ってますが、足りないよ!こっちはドカ喰いしたいんだよ!『ロッキーの英雄』のアメリカンちゃんこみたいに。 え〜今回は純然たるお仕事ということで、材料代は経費で落とします。なので牛ひき肉200gパック×2と大奮発しましたが(奮発も何もオレの金じゃないがな)、自腹切る時は全然合挽き300gで作ってます。でもやっぱ牛肉はいいね!ワンランク上な味がする。 あと各種お好み材料も経費で買ったのですが、このうちマジで必需品なのは、ワタクシにとっては緑タバスコだけ。まぁ本物のスライス・ハラペーニョもあればさらにシャープな辛さになって夏にピッタリに。取りよけておいたタマネギみじん切り1/4個分を、ここで生のままパラパラと振りかけ、ネギっ臭さを加味してもまた良し。まず子供は喰えなくなりますが。 なお、溶けるチェダーチーズだのサワークリームだのは、それとは逆に、マッタリとクリーミィーかつ濃厚な味になり、シャープな辛さや生タマネギの青臭さとは真逆の、お子様好みな味が加わっていきます。でも、それもまた良し。 それらを“全部のせ”にするのであれば、よくかき混ぜてから食べてください。 最後に、普段我が家では、クラフトのマカロニ&チーズも同時に作ります。これはインスタント食品みたいなもので作るのは箱の説明書きに従えば超簡単。カルディとかで売ってます。それを“ライス”に見立て、チリコンカンを“カレールー”のように見立てて上からかけ流し、カレーライスならぬ「チリコンカンマカロニチーズ」として食べています。ここまでやれば立派な一食として分量に不足なし。コーンブレッドというブレッドとは名ばかりの南部の主食スポンジケーキみたいなものとも相性が良く、それも作るのは簡単。さらに言えば分量問題は豆を2缶に増やしても解決できます。とにかく超簡単なので、チリコンカン、映画のお供に一度お試しあれ。■ 『ロッキーの英雄・伝説絶ゆる時』© 1972 Twentieth Century Fox Film Corporation. Renewed 2000 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved. 『荒野を歩け』© 1962, renewed 1990 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved. 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存
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COLUMN/コラム2018.05.24
『クリムゾン・ピーク』⑥(完) 6/30(土)字幕、 7/1(日)吹き替え
ミア・ワシコウスカとジェシカ・チャステイン、そしてトム・ヒドルストンのこと ミア・ワシコウスカは映画『イノセント・ガーデン』(2013年)にも娘役で主演している。母親役はニコール・キッドマン。一族の呪われた秘密、恐ろしい狂人、おぞましい近親相姦(の一歩手前)が盛り込まれたスリラーだ。この母娘を描く上で、パク・チャヌク監督は「おとぎ話の女王と王女として、ゴシック調の城に閉じ込められているイメージを抱いていた」と明言している。そしてニコール・キッドマンは『アザーズ』(2001年)というアレハンドロ・アメナーバル監督のゴシック風心霊ホラーにも主演していて、そちらで描かれるのはお屋敷に閉じ込められたニコール・キッドマンと、夜ごとの心霊現象、一族の呪われた(アッと驚く)秘密なのだ。 ここではニコール・キッドマンのことはいい。ミア・ワシコウスカである。『ジェーン・エア』に、『イノセント・ガーデン』に、そして『クリムゾン・ピーク』に主演した彼女こそが、当代においてはゴシック/ゴスを体現する女優なのだ。ひと昔前ならヘレナ・ボナム=カーターかウィノナ・ライダーが担っていたポジションである。ミアの、青白いとさえ言える肌の白さ。破顔一笑とは決していかない抑えた感情表現。ハの字眉はいつも困ったように眉根が寄せられている。薄幸そうで儚なげなそのM的ルックスは、まさにゴスのために用意された道具立てとしか思えない。よって当然、デル・トロと並ぶゴス偏愛監督の双璧ティム・バートンもまた、彼女のことを起用せずにはいられない。『アリス・イン・ワンダーランド』(2010年)である(そういえばティム・バートンもまた、フランケンシュタインに魅入られたゴス教祖だ。『シザーハンズ』や『フランケンウィニー』を見れば明らかな通り)。 しかし、演技者たるもの、同じような役ばかり何度も演じていたのではチャレンジにならない、という考え方もあっていい。それを公言する、あまつさえこの『クリムゾン・ピーク』のプロモーション活動中に誰憚ることなく言い放つ、という、関係者が凍りつくようなマウンティングに出たのが、誰あろうジェシカ・チャステインである。恐い女である。つまり、最高だ! 実は当初、ヒロインのイーディス・カッシング役は彼女がオファーされていたのだ。「でも、イーディスと似たようなキャラクターは以前演じたことがあると感じたの。そして、一度も演じたことがないキャラクターを見つけた。演じる上で最大のチャレンジとなる役。そう、ルシールよ」と、公式書籍『ギレルモ・デル・トロ クリムゾン・ピーク アート・オブ・ダークネス』(DU BOOKS出版刊)の中で、彼女はこの、“誰かさん”への当てこすりとも取れる豪語をしている(ゲスの勘ぐりだろうか?)。この発言、ジェシカのクールでS的な美貌とも相まって、一部の男性ファンにはある意味で堪らないものがあるだろう。最高だ!が、さらに、彼女が演じることになったルシール役のイメージとも見事に重なるのである。すなわちサディストの「怪人めいた(女)主人」という、つまりはゴシックロマンスにおいて一番美味しい役どころだ。結果的に本人もいたく満足し、役に入れ込んだ旨の発言を同書の中でしている。 ミアのM的な魅力と、ジェシカのS的な魅力。この2つを本作でデル・トロ監督は具体的に、蝶と蛾の対比的イメージに託している。2人(が演じたキャラクター)は、美しい蝶と、それを捕食する肉食の蛾だ、と監督は語っている(“肉食の蛾”なるものを寡聞にして知らないが)。そして蝶と蛾のモチーフは時に歴然と、時に隠れキャラのようにして、本作の映像の中に頻繁に描きこまれているのである。 なお、ジェシカ・チャステインが「イーディスと似たような役を以前演じたことがある」と言っているのは、おそらくは、日本未公開・未ソフト化の彼女の映画デビュー作『JOLENE』(2008年)のことをさしているのではないかと睨んでいるのだが、はたしてどうか?我が国では見る手段が現状ない幻の映画なので、以下、再々の脱線にはなるが、オチまで含め『JOLENE』について余談ながら詳しく書き残しておこう。 不幸な生い立ちの孤児ジョリーン。愛に飢えていて、メガネのヒョロヒョロへなちょこダサ男君と16歳女子高生の身空で学生結婚。ダサ男君の叔父夫婦の家に居候するが、ダンディーちょいワル叔父と2人きりの時に関係を迫られ、愛され願望の強い彼女は喜んでそれに応じてしまい、以降、叔母と旦那の目を盗んで暇さえあれば義理の叔父とヤリまくる。しかし、事の最中に叔母に踏み込まれて修羅場に。旦那のダサ男君は衝動的に自殺。叔父は相手が16歳ということで和姦であっても未成年者強姦罪で逮捕され実刑となり、一家離散に。これを皮切りにその後も、他者依存体質の彼女が、援交ヒッチハイクをしながら“アメリカ流れ者”となってどこかの土地に流れ着き、誰かとくっついてはさんざん翻弄され関係破綻し、また次の愛を求めて全米をさまよう、というパターンが繰り返されていく。精神科少年院(『17歳のカルテ』的な)のレズ看守長、ロマンチストで優しくて妻ジョリーン以外の女にも全部そう接するチャラ男のタトゥー屋ヤク売人、抗争まっただ中のベガスの組長、バイブルベルトの原理主義トゥルーリッチマンなど。彼女はわらしべ長者的に、前の相手との短い結婚生活で学んだ経験をもとに毎回少しずつ成長し、最後にはグラフィック・ノベル画家として自活を実現。25歳の自立した大人の一女性としてLAの目抜き通りをスクリーンの奥へと去っていき、そこで映画の幕は閉じる。 ジョリーンは、男どもに依存し庇護されないと1人では何もできない無力な少女だったが、やがて自ら考え状況を切り拓く思考力と勇気を獲得していく。彼女には唯一、絵を描く才能だけはあり、最初はただの手すさびだったものが、最後には筆一本で食っていくところまでいって、この、少女の成長と自立の物語は終わる。『クリムゾン・ピーク』ヒロインのイーディス・カッシングと確かに被るのだ。イーディスもまた、成金の父や英国貴族の夫などに庇護される、自分では何一つできない世慣れぬ若妻のアマチュア小説家であり、しかし次第に、事態を自己解決できるたくましさを身につけ、やがては自立した女として、おそらくはペンで身を立てていくことになるのだろう。 ジェシカ・チャステインは、16歳の女子高生から25歳社会人までのジョリーンを演じきるのだが、これがスクリーンデビューとは思えぬその演技の幅に驚かされる(実年齢は当時30歳)。特に冒頭からしばらく続く16歳時のエピソードでは、アラサー女優が高1を演じるという年齢的な無理、しかも決して童顔ではない彼女がそれを演じるという苦しさをいささかも感じさせない(無論25歳の方は25歳にちゃんと見える)。この16歳パート、おそらく、芸名「マリリン・モンロー」になる前の十代の頃のモンロー、つまりノーマ・ジーンを参考に役作りしたのではと睨んでいるのだが、この見立て、はたして当たっているだろうか?赤い巻き毛に赤いリボン、真っ赤な口紅。頭が弱く、性にだらしがない。俗に言う“サセ子”のイメージだ。ノーマ・ジーン=後のモンローもまた、不幸な生い立ちの孤児であり、そのため愛に飢え、生涯に3度結婚。相手は無名の整備工(16歳で!)から国民的大リーグ選手、高名な劇作家まで。さらには司法長官や合衆国大統領とも不倫関係だったことは周知の通りである。ジョリーンはモンローとも大いに重なるのだ。30歳のジェシカ・チャステインはピンナップやエロ写真の中の幼いノーマ・ジーンそっくりに外見を仕立てることでこの役を作っていったのではないだろうか。 また、16歳女子高生おさな妻と義理の叔父が同じ屋根の下で繰り広げる愛欲の日々、というのは完全にロリータ映画の展開だが、そのタブー感を強調するためにか、映画『JOLENE』ではかのバルテュスの絵画が何度か引用される。これは絵の才能だけは持って生まれたヒロインの人物造形ともリンクしてくる。まず、タイトルバックで「本作の主人公はこの絵に描かれている少女です」とでも宣言せんばかりに全画面にバーン!と映し出される絵画からして、バルテュスの作品なのだ。具体的には「横たわるオダリスク(Odalisque allongée)」という一幅。19世紀に流行った伝統的かつ官能的な画題を、バルテュス流の筆致で、気だるく背徳的に描いた画家晩年の佳作だ。その絵姿はジョリーンに瓜二つ。さらに、ジョリーン自身が自らを描いた自画像までもが、どこかバルテュス風なのである。十代前半の少女たちがモデルを務めたバルテュスの絵画。本人たちに判断力は備わっていないが、画家の求めに応じエロチックなポーズをとらされ、倒錯的な絵に描かれた。そのことと、愛が欲しいあまり、言われるがまま男の要求に応じ続けた十代のジョリーンの姿も、どこか重ならないだろうか? …余談が長くなりすぎた。いい加減『クリムゾン・ピーク』に戻らねばならない。最後にもう一人、トム・ヒドルストンにも言及しないわけにはいかないのだから。 ヒドルストンは、名目上は屋敷の当主でありながら、実質的な主である恐るべき姉にコントロールされ、それでも善の心をまだ完全には失いきっておらず、人間性を取り戻そう、呪われた一族から脱け出そうとあらがう貴族(正確には世界史の教科書に出てくる「郷紳」、ジェントリ階級)トーマス・シャープ準男爵役を演じる。トム・ヒドルストン自身もジェントリの血を引き、イートン校→ケンブリッジ大へと進んだ本物のジェントルマンで、この学歴は奇しくもゴシックロマンスの元祖である18世紀の貴族作家ウォルポールと同じだ。別の映画でロキを演じる時にも見せてくれる彼のあの貴公子っぷりは、実はほとんど素なのではないだろうか。プロモーション時のインタビューではゴシックロマンスに関する見識も言葉の端々に覗かせている。インテリであることが隠しきれないほどに教養あふれる演技者なのである。 本作は登場人物が多くはなく、中心となるのは以上の3人だが、3人を演じる俳優三者が三様に本来的に備えている資質を最大限に引き出し、魅力的で実在感あるキャラクターを創造しえたことは、本作の大きな成功点だ。すべからく映画とはそうあるべきだが、多くの凡作では実現できていない。最悪ミスキャストという駄作も多い。そして、彼らがまとう惚れ惚れする衣装、ゴシック館をセットで丸々一軒建ててしまう大がかりな美術、それらを通貫する徹底的に設計された色彩美は、これぞまさしく映画だ。その上、過去の偉大なる文学的遺産ともリンケージする豊かな間テクスト性については、ここまで縷々書き連ねてきたとおりである。本来であればさらにここで、文学だけでなく19世紀の画壇、ロマン主義絵画や「挿絵の黄金時代」の画家たちによるイラストレーションと本作との視覚的リンクについても言及せねば片手落ちになるのだが、さすがに紙幅も尽きてきた。そろそろまとめに入らねばならない。 デル・トロ監督の、溢れる奇想のイマジネーションと、汲めども尽きぬ文学・芸術分野の教養、その2つが緻密な計算に基づき込められ、150年も前に流行し、やがて廃れた文芸ジャンルを美しくも恐ろしく現代の映画として蘇らせた本作。かくも豊かな映画、これぞ映画、これこそが映画、文字通りの「ザ・シネマ」を撮れてしまうクリエイターは、当然、アカデミー監督賞にこの上もなく相応しいし、彼のクリエイトした映画芸術がアカデミー作品賞を獲るのもまた、早晩必至だったのだ。 2018年の今年、「プラチナ・シネマ」最終回を飾るのに相応しい映画、もとい、身に余るほどの傑作、それが『クリムゾン・ピーク』である。■ © 2015 Legendary Pictures and Gothic Manor US, LLC. All Rights Reserved. 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存
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COLUMN/コラム2018.05.24
『クリムゾン・ピーク』⑤ 6/30(土)字幕、 7/1(日)吹き替え
イーディス・ウォートンとブロンテ姉妹 イーディス・ウォートンは『エイジ・オブ・イノセンス』(1921年)で知られるが、実は短編怪奇小説の名手でもあり、「祈りの公爵夫人」(1900年)や「小間使いを呼ぶベル」(1902年)などの初期短編は典型的なゴシックロマンスである。そして、本作の作家志望のヒロイン、イーディス・カッシングと、その実在の小説家イーディス・ウォートンは、ほとんど同世代の同じ米国女性のはずだ。イーディス・ウォートンは1899年に小説家デビューし上記の初期短編を物した。一方、本作『クリムゾン・ピーク』は1901年という時代設定で、我らがヒロインのイーディス・カッシングは冒頭、怪奇小説の原稿を出版社に持ち込んでボツにされ、後に映画を通して描かれていくその年の冬の恐怖体験を『クリムゾン・ピーク』という長編小説に仕立てて上梓する、という設定なのだから(劇中劇と解釈する余地も大いにあるが…)、両者は完全に被っているのである。 ヒロインのイーディス・カッシングは、デビュー作を「女なんだから恋愛小説を書くべきだ」との理由で男性編集者にボツにされた後、タイプライターで原稿を打ち直す。手書きだと女の筆跡というだけで偏見にさらされ、まともに作品を評価してもらえないと感じたからだ。実在のイーディス・ウォートンもフェミニズムの先駆的な作家だと位置付けられているのだが、実際問題その時点からさかのぼること約1世紀前の作家ではあるものの、例のジェーン・オースティンもメアリー・シェリーも、前者はby a ladyとして匿名で、後者は女であることさえ伏せて、作品を発表していたのである。さらにはかのブロンテ姉妹ですら、1901年のほぼ半世紀前という時代になってもまだ、男性名のペンネームで男として執筆した。姉の『ジェーン・エア』(1847年)も妹の『嵐が丘』(同年)もそうだ。 そして、『ジェーン・エア』も『嵐が丘』も、実はゴシックロマンスをベースにしたノベルなのである。ジェーン・オースティンがゴシックロマンスをパロディとしてイジり倒して純文学に到達したのに対し、ブロンテ姉妹は決してパロディにはしなかった。姉はジェーン・オースティンの作風を「彼女が描いた紳士淑女たちと一緒に、あのエレガントな屋敷に引きこもって暮らしたい、なんて私には全然思えない」、「激情というものを彼女はからっきし理解してない」と、何度も酷評している。姉妹は、ゴシックロマンスのフォーマットである「貴族のお屋敷に閉じ込められた純真無垢なお嬢様が、夜ごとの心霊現象、秘密の地下室と屋根裏部屋、怪人めいた当主、恐ろしい狂人、忌まわしい婚礼、一族の呪われた秘密、おぞましい近親相姦といった、建物に染み付いた深い闇に怯える」という“お約束”を踏襲しつつも、同時に“人間を深く描き”、通俗的読み物としての怪奇小説には着地させずに、不滅の文学的価値をも獲得したのである。 ところで、ミア・ワシコウスカは、2011年にイギリス・アメリカ合作の文芸映画『ジェーン・エア』にて、ジェーン・エア役も演じたことがある。不遇な孤児ジェーン・エアが成長し家庭教師として住み込むことになったお屋敷には狷介な貴族の当主(怪人めいた主人)がいて、やがてそんな彼に見そめられ結婚しかけるが(忌まわしい婚礼)、次第に心霊(っぽい)現象、秘密の屋根裏部屋、恐ろしい狂人、一族の呪われた秘密(同時にもう一つの忌まわしい婚礼でもある)が明かされていき、その一方でジェーン・エアは従兄からのしつこい求愛も受けるのだ。(続く) <次ページ『クリムゾン・ピーク』(完)~ミア・ワシコウスカとジェシカ・チャステイン、そしてトム・ヒドルストンのこと~> © 2015 Legendary Pictures and Gothic Manor US, LLC. All Rights Reserved. 保存保存 保存保存 保存保存
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COLUMN/コラム2018.05.24
『クリムゾン・ピーク』④ 6/30(土)字幕、 7/1(日)吹き替え
メアリー・シェリー作『フランケンシュタイン』(1818年) 弱冠20歳にも満たないメアリー・シェリーが書いた『フランケンシュタイン』は、ゴシックロマンスの原点『オトラント城奇譚』同様、作者がある晩に見た「マッドサイエンティストがおぞましい人造人間を作ってしまって後悔し、後悔しながらもまどろんでハッと目が醒めると、その怪物がベッド脇でこっちを見下ろし立っていた!」という悪夢がインスピレーションとなってシュールレアリスティックに執筆された物語だ。しかし重要なのは、この作品がゴシックロマンスの到達点にして最高傑作と評されている、もしくは、ゴシックロマンス50年の成果の上により普遍的なテーマを打ち立て、ゴシックロマンスの枠を超えた不朽の名作へと深化したと評されている、という点だ。『クリムゾン・ピーク』のヒロインがジェーン・オースティンよりもメアリー・シェリー(どちらもヒロインと同じ二十歳前後で傑作小説を物した)の方が好きだと言い切るのは、それが理由だろう。下らない、子供じみた、人間が全然描けてない、低俗な娯楽だとレッテルを貼られてきたジャンルを極限まで磨き上げ、永久に色褪せぬ芸術の域にまで昇華させたような作品を、私は作りたいんだ!という決意表明である。 そんな決意を本当に達成してしまった実在の偉大なクリエイターが、メアリー・シェリー以外に少なくとももう1人いる。その人物は、少女が迷い込む妖精地底王国だの、デーモン族vs悪魔の力身につけた正義のヒーロー(赤)だの、汎用人型決戦兵器vsカイジューの特撮バトルだの等々、荒唐無稽なファンタジーやSFのジャンルムービーばかりを撮ってきた、いい歳したヲタクの映画監督であり、いわゆる“人間が描けている”、“上質なヒューマンドラマ”的な作品が評価されがちなアカデミー賞において、ついに監督賞と作品賞を勝ちとった男である。それも、半魚人映画で! なお、メアリー・シェリーについては、エル・ファニング主演の伝記映画の公開が2018年内に控えている。ここでは詳述しないが、ロリ略奪婚など波乱万丈のドラマチックな人生を駆け抜けた女性で、本作ヒロインが憧れ、目標とする女流作家がどのような人物だったのかを知るために、『クリムゾン・ピーク』を見た人ならあわせて必見の映画となりそうだ。期待しよう。 それはさておき、小説『フランケンシュタイン』は、科学が好奇心の赴くままに弄んだ生命(ひいてはテクノロジー)が暴走し、コントロール不能に陥る恐怖、という、優れて今日的な主題で、SFジャンルの“種の起源”として評価されることが多いが、もう一つのテーマである、異形者の救いなき疎外感、「望んでこの状態で生まれてきた訳ではないのに、そのせいで自分は孤独だ。誰かの愛が欲しい」という、怪物が抱く絶望的孤独の方が、永遠のヲタク少年デル・トロにとっては重要だろう。そちらの方こそ、彼が自作の中で繰り返し描き続けてきたテーマなのだから。その孤独がついに癒され救済される。そんなロマンティックを、どれだけ表面上バイオレントでもグロでも、彼の映画はしばしば見せてくれた。デル・トロはハッピーエンドの『フランケンシュタイン』を撮り続けている作り手なのだ。 本作においては、ヒロインの「メアリー・シェリーの方が好き」の台詞に加え、デル・トロはヒロインの名前を通じても『フランケンシュタイン』に重ねてオマージュを捧げている。ヒロインの名前はイーディス・カッシング。ラストネームの「カッシング」はピーター・カッシングから採ったのだろう。1957年のハマー映画『フランケンシュタインの逆襲』でタイトルロールのフランケンシュタイン博士を演じたホラー俳優だ。 前述した彼の怪奇屋敷風アトリア「荒涼館」には、人の背丈ほどもある巨大なお面や、等身大のリアルなスタチューなど、フランケンシュタインの怪物のオブジェが複数飾られてもいる。コレクションの目玉扱いだ。いかに『フランケンシュタイン』が彼にとって重要か! ところで、ファーストネームの「イーディス」の方は何からかというと、米国の女流作家イーディス・ウォートンからの引用である。(続く) <次ページ『クリムゾン・ピーク』④~イーディス・ウォートンとブロンテ姉妹~> © 2015 Legendary Pictures and Gothic Manor US, LLC. All Rights Reserved. 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存
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COLUMN/コラム2018.05.24
『クリムゾン・ピーク』③ 6/30(土)字幕、 7/1(日)吹き替え
ジェーン・オースティン作『ノーサンガー・アビー』(1817年)『ノーサンガー・アビー』の「アビー」とは、ご存知ドラマ『ダウントン・アビー』のアビーと同じで「僧院」の意。元修道院だった建物が払い下げられ富裕層の住居として転用されるという特殊な住宅事情が英国にはあった。16世紀宗教改革期にローマ教会と対立したヘンリーVIII世が1536~39年にかけ強行した大修道院解散法の結果だ。築数百年の宏壮な元僧院の現住宅というだけで不気味なイメージが付きまとい、いかにもゴシックロマンスの舞台にはうってつけである。『ノーサンガー・アビー』のヒロインは、ゴシックロマンスにハマっている、いわばラノベヲタクの少女である。本物の中世の古城だと信じ込んで最近建てられたゴシック風テーマパーク城の聖地巡礼に胸ときめかすような無邪気な娘が、複雑な同性・異性の友人関係に悩まされながら精神的成長をとげていく。 物語後半でノーサンガー僧院に招待され長逗留することになり、そこの息子であるゴシックロマンスヲタク男子とも話が合って意気投合、恋心を抱く。お話に出てくるようなオカルト現象やドラマチックすぎる展開がこの館で我が身にも訪れてくれるのではと彼女は期待する。そう期待するようヲタク男子が煽るからだ。がしかし、ことごとく「思ってたんと違う」式もしくは「幽霊の、正体見たり、枯れ尾花」式に期待は裏切られていく。終いには、思い込みが激しすぎて館の当主を“怪人めいた主人”=極悪人だと早合点。尻尾を掴もうと人の家をコソコソ嗅ぎ回っている現場を押さえられてしまい…というのが『ノーサンガー・アビー』のあらすじだ。つまりこのノベル、ゴシックロマンスのパロディであり、ゴシックロマンスあるあるでもある。 illustration of Nothhanger Abbey, Artist Unknown, 1833 Bentley Edition of Jane Austen's Novels またも脱線するが、人生に夢を見すぎて平凡な現実との落差に苦しむ心理状態のことを「ボヴァリスム」と呼ぶ。フランスのノベル『ボヴァリー夫人』(1856年)がその語源だ。ヒロインのボヴァリー夫人はロマン主義の時代を生きる女性で、人生に劇的な出来事の訪れを夢見、ロマンティックな結婚生活に期待を膨らませるが、結婚後のあまりにも退屈な日常に失望して不倫と浪費を繰り返し、最期は身の破滅を招く。この小説が元となって「ボヴァリスム」という言葉が生まれたのだが、『ノーサンガー・アビー』のヒロインもまた、軽度のボヴァリスム症状と言える。 ところで、ミア・ワシコウスカは、2014年にドイツ・ベルギー・アメリカ合作の文芸映画『ボヴァリー夫人』にて、マダム・ボヴァリー役を演じたことがある。ロマンティックな夢が全て破れ、森のぬかるんだ泥道で毒をあおって孤独に野垂れ死ぬ場面からその映画は始まる。 話を『ノーサンガー・アビー』に戻そう。こちらのヒロインはジェーン・オースティンのノベルらしく、野垂れ死になどはせずにハッピーエンドに無事たどり着くのだが、作中、例の家捜しがバレてヒロインが大恥をかくくだりの直後、作者オースティン自身の言葉として、ゴシックロマンスは魅力的ではあるが「おそらく、そういった小説の中には、人間の性質などは求めるべきではないのだろう」との一文がある。「人間が描けていない」という、よくある批判だ。いつだって通俗小説や娯楽映画はこの手の批判にさらされてきた。 実はこの『ノーサンガー・アビー』、ゴシックロマンス流行期に書き上げられていたのだが、作者がまだ無名だったため版元に原稿を死蔵され、ようやく世に出たのは20年後のブームも末期の頃で、名が売れた作者の死後だった(執筆時は二十代前半)。決定打となるこのパロディ小説の刊行により、ゴシックロマンスとその愛読者は“イジられる”対象となってしまい、ブームは下火へと向かっていく。この中では、子供っぽい厨二病的空想よりも、現実の恋愛を知り、そこに大人として人生の本物の喜びを見出すこと、つまりは、少女時代からの卒業が、リアリズムをもって描かれた。 ジェーン・オースティンは「田舎の村の三つか四つの家族というのは格好の題材です」「細かい毛筆を使って、どんなに手間をかけても効果がほとんど目に見えないものを描いた小さな(二インチ幅の)象牙のような私の作品」との言葉を残している。彼女のノベルはどれも、田舎の狭いソサエティを舞台に、上流社会に触れた中産階級女子の心の機微が、ブリジット・ジョーンズ的な恋のから騒ぎの中でユーモラスに活写される。等身大の近代女子の内面をリアルに描出する(=人間が描けている)ことで普遍性を持ち、近代文学・純文学として不動の地位を獲得したのである。ロマンスからノベルへ。18世紀の通俗小説から19世紀の純文学へ。しかし、そのための踏み台にゴシックロマンスはされてしまったと言えなくもない。 映画『クリムゾン・ピーク』の開始早々、ミア・ワシコウスカ演じる怪奇作家志望のヒロインが、「まるで現代のジェーン・オースティン気取りね」と、周囲の、着飾るばかりで能のない、夢は玉の輿に乗ることというレベルの同性たちから揶揄されるシーンが出てくる。彼女らは、英国から渡米してきた貴族の殿方とお近付きになりたいわ、舞踏会でお相手してほしいの、求婚されたらどうしましょ、などとキャピキャピやっているのだが、この雰囲気、ダンスやプロポーズがどうしただの、玉の輿に乗るだの乗らないだのは、きわめてジェーン・オースティン的であり、彼女のノベルではお馴染みの女子トークであり、そして『クリムゾン・ピーク』のヒロインが心底どうでもいいと思っていそうなことである。彼女はそういう作品を書きたいわけではないのだ。それ以上に、ゴシックロマンスや怪奇小説を愛し、そのジャンルの物書きになりたいと夢見ているヒロインとしては、それのパロディを書きイジり倒してブームを終わらせてしまった作家になぞらえられて気分が良かろうはずがない。 そこで彼女はこう切り返す。「ありがと。でも私どちらかと言うとメアリー・シェリーの方が好きなの」 そう言われても、玉の輿狙いのパリピ女どもに、この当意即妙のウィットは通じたかどうか。(続く) <次ページ『クリムゾン・ピーク』④~メアリー・シェリー作『フランケンシュタイン』(1818年)~> © 2015 Legendary Pictures and Gothic Manor US, LLC. All Rights Reserved. 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存
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COLUMN/コラム2018.05.24
『クリムゾン・ピーク』② 6/30(土)字幕、 7/1(日)吹き替え
~大脱線~ 宮崎駿『カリオストロの城』の話、他 以下しばらく余談が続く。デル・トロ監督のアトリエ「荒涼館」も、改築を繰り返し、古風なインテリアにしつらえられており、そこに、グロテスクなコレクションが所狭しと陳列されている(YouTube動画「ギレルモ・デル・トロ - 荒涼館へようこそ」参照)。自作に登場した小道具まで、制作費を監督自身が一部負担することで、撮影後に貰い受け、そこに飾っているのだ。元祖ウォルポールと同じ普請道楽と蒐集癖にデル・トロもまた血道を上げているのである。自作をそこで創造している点も同じ。趣味人の道楽が創作意欲へとつながり、偉大な仕事として結実している。 余談、其の二。『オトラント城奇譚』は、作者ウォルポールがくだんのレプリカ城にてある明け方に見た夢をもとに、寝食も忘れ一気呵成に書き上げた、シュールレアリスムの萌芽のようなお話。怪人めいた城主の息子に異国の姫が輿入れする当日、天から自動車ほどもある巨大な兜が落ちてきて(シュール!)、新郎が下敷きになり圧死するところから物語は始まる(忌まわしい婚礼)。怪人城主は、不肖の息子は死んでも惜しくないが跡取りが途絶えるのは御家の一大事と、自分が妻と離縁して義理の娘と再婚し子作りに励むと言い出す。城内に閉じ込められそうになった姫は、舅とのおぞましい近親婚を忌避して秘密の地下室から辛くも脱走し、その後の展開で、城主一族の呪われた秘密、超巨大ヘルメットの謎が明かされていく、という因縁譚である。 これを素材に、チェコの魔術的ストップモーションアニメの作り手ヤン・シュヴァンクマイエルが、1973~79年にかけて(制作が難航した)20分弱のショートフィルム『オトラントの城』を監督している。歴史家が『オトラント城奇譚』は実話に基づいているとのトンデモ学説を実写パートで解説するフェイクドキュメンタリーで、『オトラント城奇譚』のあらすじ紹介パートはアニメで描かれる。『オトラント城奇譚』の古書から切り抜かれコラージュされた銅版画挿絵がカクカク動くその映像は、悪夢じみていてトラウマ的だ(彼の作品は全てそうだが)。手っ取り早く『オトラント城奇譚』の梗概に触れたい向きにはうってつけの短編映画である。シュヴァンクマイエル監督は実際シュールレアリストなのだから、題材との相性は良い。 そもそも、大雑把に言うと「夢の中のヴィジョンの再現を試みた芸術運動」となるシュールレアリスムと、その具体的実践法として、心に浮かんだことを滅茶苦茶に一心不乱に書きつけて意識下を形にとどめようというオートマティスムは、1924年に詩人ブルトンが、夢から着想を得たウォルポールの『オトラント城奇譚』執筆という160年前の故事に倣って創始したものなのである。整理すると、作家ウォルポールによる1764年の文芸創作→詩人ブルトンによる1924年のシュールレアリスム宣言→シュールレアリスト監督シュヴァンクマイエルによる1973~79年のウォルポール作品映像化、の順で連関しているわけだ。ゴシックロマンスと『オトラント城奇譚』を知ると、シュールレアリスムの源流にたどり着く。 さらに余談。アニメつながりで言えば、ご存知『カリオストロの城』(1979年)もまた、宮崎駿が意図したものか偶然かは定かではないが、実はゴシックロマンスなのである。何世代も増改築が繰り返され迷路と化した古城(ゴシック様式の特徴も部分的に見受けられる。モデルは1952年のフランスのアニメ『やぶにらみの暴君』だが)、秘密の地下室と屋根裏部屋、閉じ込められたお姫様、怪人めいた城主、一族の呪われた秘密、忌まわしい婚礼、おぞましい近親相姦(クラリスと伯爵は親戚)…全てゴシックロマンスの定石どおりだと分かるだろう。ただ、およそこのジャンルには似つかわしくないルパンが、アクションで軽口まじりの大立ち回りをコミカルに演じるせいと、決してダークすぎに描いてはいない絵づらの匙加減のせいと、TVシリーズからも盛大に流用された大野雄二のお馴染みの劇伴の印象のせいで(“っぽい”BGMは唯一、地下の華燭の典で流れるパイプオルガンの調べ、バッハのパストラーレ ヘ長調 BWV590だけだ)、まさかあれがゴシックロマンスだとは一見して気づきづらいのだが、完全にこのジャンルのフォーマットを換骨奪胎しているのである。そう考えると、「ゴート札」、「死滅したゴート文字」、「古いゴートの血が流れている」といったセリフも、実はヒントだったのかもしれない。中世の城に隠された宝は、蛮族ゴート人が滅ぼした古典古代のローマの美そのものだ(アルセーヌ・リュパン・シリーズ小説『緑の目の令嬢』からの引用でもあるが)。もう一つ、怪人めいた主人が城内の私設印刷所で大規模な凸版印刷事業を営んでいる点は、元祖ウォルポールへと繋がる別の手がかりだったのかもしれない。 ようやく閑話休題。嚆矢とされる1764年の『オトラント城奇譚』以降、ゴシックロマンスは半世紀にわたって流行し続け、あまたのエピゴーネンが現れ、ブームは英国から海を渡り欧州本土やアメリカにまで飛び火した。ブームの最後の頃に本家英国で発表された重要な2作品が、ジェーン・オースティンによる『ノーサンガー・アビー』(1817年)と、メアリー・シェリーのお馴染み『フランケンシュタイン』(1818年)である。(続く) <次ページ『クリムゾン・ピーク』③~ジェーン・オースティン作『ノーサンガー・アビー』(1817年)~> © 2015 Legendary Pictures and Gothic Manor US, LLC. All Rights Reserved. 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存
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COLUMN/コラム2018.05.24
『クリムゾン・ピーク』① 6/30(土)字幕、 7/1(日)吹き替え
日本の漫画・アニメ・特撮をこよなく愛するヲタク監督ギレルモ・デル・トロ。サブカル愛あふれるジャンル映画しか作らない男の『シェイプ・オブ・ウォーター』が今年(2017年度)、アカデミー作品賞・監督賞ほかに見事輝いた。そんなデル・トロが、この『クリムゾン・ピーク』(2015年)では怪奇映画愛を炸裂させている。 「プラチナ・シネマ」は第1回がタランティーノの『ジャンゴ 繋がれざる者』だったが、このギレルモ・デル・トロの『クリムゾン・ピーク』なら、最終回に相応しいだろう。 6月「プラチナ・シネマ」について何か書く、ということで他に4作について書いてきたが、最後となる本稿は、他の倍以上の長さとなってしまいそうだ。個人的に好きだからではなく、書くべきことが膨大にあるからだ。つまりこの映画、奥が深い! だがその前に、まずはあらすじから。 20世紀元年の米国。ゼネコン成金の令嬢で、怪奇小説家志望のうら若き女性イーディス・カッシング(ミア・ワシコウスカ)は、作家としての芽が出ず行き詰まっていた。そんな彼女の前に、英国貴族シャープ姉弟が現れる。シャープ家領地で採土される深紅(クリムゾン)色の赤粘土は王室御用達の上質な赤レンガの材料であり、姉弟は掘削設備の新規導入に投資してくれる出資者を募るためにはるばる渡米してきたのだった。弟のトーマス・シャープ準男爵(トム・ヒドルストン)はイーディスの父に出資を打診するが色よい返事は得られない。しかしイーディスと準男爵が恋に落ち、やがて結婚の運びとなる。シャープ夫人の座に収まったイーディスは渡英し、赤土の丘に建つ古い屋敷で共に暮らし始めるが、そこで、恐ろしい義姉ルシール・シャープ(ジェシカ・チャステイン)と同居することに。吹雪が吹きすさび、積もる雪に溶け出た赤土が血のように滲んで、辺り一面が「クリムゾン・ピーク(深紅の丘)」と化す時、イーディスの恐怖と危機もピークに達するのだった。 デル・トロ監督は言う。 「ハロウィンの時期に公開されたからホラーとして宣伝されたが、実際は違う。ホラー映画の様式とはかけ離れていて、おとぎ話の空気が漂うゴシックロマンスだ」 監督は本作で、「ゴシックロマンス」という18世紀後半~19世紀初めにかけて流行った文芸ジャンルの再生と進化を図ろうとしているのである。 ゴシックロマンスとは何か あるブームがピークに達した後、次にその反動が来るのは世の常。中世の迷妄を恥じギリシア・ローマの古典古代を鑑とした17~18世紀の古典主義、啓蒙思想、近代合理精神や理性崇拝。それらが広まりきったなら、次の時代には必ずその揺り戻しが来る。人間本来の激情や恋愛を賛美し、滅び去った神秘や迷信に代わるオカルト趣味を偏愛し、中世を再評価し懐かしむようなカウンタームーブメントが現れたことは、歴史の必然だった。それが大きくは「ロマン主義」であり(古典主義⇔ロマン主義は対概念)、その中の下位分類として、特にオカルト趣味に偏った文芸運動がゴシックロマンスだ。 「ゴシック」+「ロマンス」、2つの語を足して、ゴシックロマンス。「古城や貴族のお屋敷に閉じ込められた純真無垢なお嬢様が、夜ごとの心霊現象、秘密の地下室と屋根裏部屋、怪人めいた当主、恐ろしい狂人、忌まわしい婚礼、一族の呪われた秘密、おぞましい近親相姦といった、建物に染み付いた深い闇に怯える」という怪奇ジャンルである。はたして本作『クリムゾン・ピーク』には、このうち幾つが当てはまるのか、または当てはまらないのか、ぜひカウントしてみていただきたい。 ゴシックロマンスの「ロマンス」は、現代語のロマンスというニュアンスではなく、「物語」とか「お話」といった広義の意味であって、狭義の恋愛モノには必ずしも限定されない(それも一要素だが)。おとぎ話的な性格の強い娯楽読み物を指す。それに対し、キャラクターの内奥を掘り下げて人物描写するリアリズムのフィクションが、次の時代にさらなるカウンターとして登場し流行った「ノベル」なのだと、近代文学史では区別されている。ロマンス⇔ノベルも対立概念であり、「通俗小説」⇔「純文学」の違いに近い(「通俗小説」が悪いと言っているわけではない)。 『イギリスの老男爵』(1777年)という初期のゴシックロマンスで知られる女流作家クララ・リーヴは、「ロマンスは、伝説上の人物や出来事を扱うヒロイックな寓話。ノベルは、現実の生活と習慣、そして執筆時点の同時代を写実的に描くもの。またロマンスは、高尚で格調高い文体で、かつて起こったこともなく、今後も起こりそうにないことを描く。対してノベルは、我々の目の前で我々自身や我々の友の身に日々起きている出来事を描く」と定義している。 さて、ゴシックロマンスのもう一方「ゴシック」は、高校世界史の文化史ページで習う建築・美術用語であり、中世ヨーロッパで流行した。ゴシックロマンスの読み物が英国で流行したのは18世紀後半なので、ゴシックはその時点から500年も昔の建築様式であり、当時は即「廃墟」、「荒城」、「遺棄された僧院」といったイメージと結びついた。 ゲルマン民族大移動により西ローマ帝国が滅亡。古代が終わり中世が始まるが、そのゲルマン民族の有力な一派に「ゴート族」があり、現スペインに西ゴート王国、現イタリアに東ゴート王国を建国するなど一時は強勢を誇った。「ゴシック」とは「ゴートチック」、すなわち本来は「ゴート的な」という語義であり、ただちに中世を連想させる形容詞だった。 日本の民放の旅番組などではよく「中世ヨーロッパの息吹きを今に伝える古都ホニャララ」のようにポジティブなイメージで使われるが、当のヨーロッパの歴史観においては「中世」とは本来、ダークでネガティブなイメージが基礎となる。ローマが確立した古典古代の美と知性と秩序が、蛮族の侵冦によって崩壊。光は失われ、続く混乱と殺戮、その後の教会支配による狂信によって覆われた、永き闇の時代。それが中世だと認識されているのだ。ゆえに別名「暗黒時代」。その記憶はまさに怪奇モノのモチーフに相応しい。ローマ=古典古代⇔ゴート=中世もまた対概念だ。 そこから発して「ゴシック」の語は今日では「ゴス」と略され、ほぼ「ダークテイストな貴族風の」といった程度の気軽なニュアンスで日常的に用いられ、80年代にはロックのいちジャンルとなり、さらにティーンファッションの一派を形成。それが我が国にも輸入されてアニメ文化と混淆し日本語の「ゴスロリ」となって、今度はそれが欧米にクールジャパンなkawaiiカルチャーとして逆輸入され、新たな興隆を見せているのである(ゴスの歴史をたったの5分でサクッと学べるTED動画もあるので、そちらもご参照いただきたい)。 さて、ゴシックロマンスの舞台は、建て増しに建て増しを繰り返し迷宮化した先祖伝来の城館、と相場が決まっている。中世の冷気がまだ暗がりに残留していそうな古い建物。ゴシックロマンスの元祖『オトラント城奇譚』(1764年)の作者で、大英帝国初代首相の息子であるホレス・ウォルポール自身が、中世のダークな浪漫と大昔のゴシック建築に惹かれ、憑かれたように別荘をゴシック風に何十年もかけ改装した。このレプリカ建築が最初の「ゴシック・リヴァイヴァル様式」となった。 ウォルポールによるゴシック風レプリカ城 本作『クリムゾン・ピーク』の幽霊屋敷もこの様式だ。かの有名なロンドン観光2大名所、ロンドン橋と勘違いされがちなタワーブリッジの二つの塔と、時計塔ビッグベンまで含むウエストミンスター宮殿(=英国国会議事堂)もまたこの様式なのだから(お隣のウエストミンスター寺院は本物の中世ゴシック建築だが)、日本人が英国建築と聞いてまず真っ先にイメージするのがこのゴシック・リヴァイヴァル様式ではないだろうか。 本作『クリムゾン・ピーク』の幽霊屋敷 タワーブリッジの二つの塔 時計塔ビッグベンまで含むウエストミンスター宮殿 貴族作家ウォルポールは、そのこだわりの元祖ゴシック・リヴァイヴァル建築の館内に、珍奇な文物や浩瀚な稀覯本を蒐集し陳列してアトラクション化したのだが、それだけでは飽き足らず、夢想してやまない中世の古城を舞台にした怪奇物語『オトラント城奇譚』を執筆し、このジャンルの祖となったのである。さらには城内に印刷所も併設して、そこで自著の印刷出版まで行った。(続く) <『クリムゾン・ピーク』②~大脱線~ 宮崎駿『カリオストロの城』の話、他> © 2015 Legendary Pictures and Gothic Manor US, LLC. All Rights Reserved. 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存
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COLUMN/コラム2018.05.23
『ツーリスト』6/23(土)字幕、24(日)吹き替え
アンジー×ジョニデの大型共演が話題を呼んだ本作。アンジーが企画を主導しドイツ人監督に白羽の矢を立て、その監督が、アンジーと吊り合う相方にはブラピを除けばもうハリウッドにはジョニデしか存在しないと切望してジョニデに打診したのだ。しかし、ジョニデの『パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉』撮入時期との兼ね合いで、脚本を起稿してからジョニデの撮影を終えるまで5ヶ月間、編集して映画を完成させるまででもトータル11ヶ月間しか制作期間がなかったという。ものすごい早撮りで作られた映画だ。 以下、あらすじ。 パリでスコットランドヤードの監視対象となっているエリーズ(アンジェリーナ・ジョリー)。超大物犯罪者の情婦だからだ。大物を警察も追っているしマフィアも追っている。大物は整形して今どんな顔なのか誰も知らないので、エリーズを張っていればそのうち接触してくると警察は踏んでいる。その通りの展開になり、「ヴェネチアに向かえ、俺と背格好が似た男に接近して警察の目をくらませ」との秘密指示を受けたエリーズは、ヴェネチア行きの特急の中で米国人ツーリストの平凡な男フランク(ジョニー・デップ)に接近。2人してヴェネチアに向かうのだが、その後を警察とマフィアも追ってくる。 アンジーとジョニデの初共演を華麗に彩るのが、普段はティム・バートン組のコスチューム・デザイナー(ジョニデが連れてきた?)コリーン・アトウッドによる衣装だ。ゴージャス!特にアンジーは大物犯罪者の情婦役にもかかわらず、なぜかハリウッド黄金期の大女優か、あるいは往年のヘップバーンもかくやというハイファッションに身を包んでいる。芝居も極端なハイソ女の演技で、仕草も過剰に優雅。ディスっているのではない。これは確信犯でわざとやっているのだ。 一方のジョニデは数学教師の冴えない男ということで、ファッションは、冒頭はカジュアルなジャケットスタイル。ジョニデの超カッコいいジャケットカジュアルスタイルといえば、知的色気がダダ漏れの稀覯本専門古書店オーナー役を演じた『ナインスゲート』を思い出すが、本作もあの衣装の雰囲気と似ている。そちらではラッキーストライクを口角でくわえタバコしていて、それも大変カッコよかったが、本作では先端がLEDで赤く光る電子タバコで禁煙しており、ちょっと滑稽。 ジョニデがスッピンで出ているというのも珍しい。ジョニデが男子がアイライナーを引くブームを始め「ガイライナー」という言葉まで生んだ。最近も日本のビールのCMでアイメイクばりばりでギターを弾いていたが、しかし!本作でも結局いつの間にか、なし崩し的にほんのりアイラインを下まぶただけ引きはじめるのである!それがいつの瞬間かを見極めていただきたい。本作ではアンジーの方もアイメイクは尋常じゃない濃さだが、実はそれは、地味な中年男性数学教師の旅人がなぜかアイメイクし始める不自然さから目をそらすための陽動作戦ではないのか?なお、同じくなし崩し的に、滑稽電子タバコから本物のタバコに戻す瞬間にも注目である。もちろんこれも確信犯でやっている。 なぜ確信犯と分かるかというと、本作が確信犯的にコメディ映画として作られているからだが、それについては後述する。 キャストは他も豪華で、開始早々、ルーファス・シーウェル(ヴェネチア舞台の歴史映画『娼婦ベロニカ』にも出ていた)とポール・ベタニーという『ROCK YOU!』コンビが出てきて、さらにティモシー・ダルトンまで出てきて(この映画の観光映画っぽさは007を彷彿させる。ヴェネツィアは007でも何度か舞台になっているし)、並々ならぬオールスター映画感がみなぎる。これら主演スター級の脇役が、はたしてどういう活躍を見せるのか?(あるいは見せないのか?)にもご注目いただきたい。 しかし、この映画の主役は何と言っても、やはりヴェネツィアの街だろう。スター映画であると同時にヴェネツィアを舞台にした観光映画でもあるのだ。わざわざこんな↓宣材写真まで撮ってきているほど。こういう単なる風景写真が宣材として用意されていることは極めて異例。 本作は、ソフィー・マルソーとイヴァン・アタル共演のフランス映画『アントニー・ジマー』(2005)のわずか数年後のリメイクだ。それを、豪華絢爛に盛って盛って盛りまくり、オリジナルとはだいぶ趣きを異にする映画に仕上げている。スタッフが、とにかくゴージャス方向に作った、とインタビューで語っている。わざとなのだ。 フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク監督に至っては「この映画を作るからには、美の極みを目指すしかない!」とまで豪語している。「美の極み」というのもまた凄い言葉だ。監督は、初の長編監督作であるドイツ映画の大傑作『善き人のためのソナタ』で、33歳にしてアカデミー外国語映画賞を受賞した天才。貴族の名家の出身でもある。ヴィスコンティもそうだが、本物の貴族が描くと映画でリアルな貴族趣味と高級感を再現できているような気がするのは庶民の引け目だろうか? オリジナル『アントニー・ジマー』も南仏ニースが舞台の観光映画ではあったが、本作よりは地に足のついたリアルな情景。一方の本作は、絵になる観光絵葉書的なヴェネツィアの風景だけをつないだリッチさが1シーンたりとも途切れることがない。『アントニー・ジマー』ではありふれた地下駐車場で悪漢の乗用車に追われていたチェイスシーンも、本作になるとヴェネツィアの水路でのモーターボートを使ったチェイスに置き換えられていたり。それにソフィー・マルソーも良い女だったが、本作のアンジーほどハイソ感は漂わせていなかったし、衣装も常識的レベルのゴージャスさだった。本作は、わざと意図的に浮世離れさせている。なにせ美の極みなので! オリジナルの方は真剣なサスペンスだったのだが、本作の方は、どこまでが本気でどこからが狙いかわからないコミカルさも魅力だ。本作の制作スタンスはコミカル&ゴージャス。どちらもわざと、確信犯でやっているのだと重ねて強調しておきたい。監督は、とにかく軽い映画にしたいとも心がけ、時に“ミスディレクション”して(『善き人のためのソナタ』ばりに)真面目モードで撮ってしまった時もあるが、そういう場合にはわざわざ撮り直しまでした、とも語っている。 しかし、そもそもが上質で重い人間ドラマ『善き人のためのソナタ』で評判を得た監督で、名家の出なのである。本作にまつわるインタビューでは真面目な人柄が隠そうにもにじみ出ていて、口数も少なく、朴訥な印象の人だ。そんな、いいとこのおぼっちゃまの高学歴の超優等生が、面白い奴と証明しようと無理しておチャラけている、という、若干の無理も感じられ、それが滑稽さにつながり、アメリカン・コメディの爆笑とはまた違うたぐいの、えも言われぬ独特のぬるたい味わいが生まれている。 ということで、本作は見事、ゴールデングローブ賞のコメディ部門に、作品賞、主演男優賞、主演女優賞でノミネートされ、授賞式当日も司会者に大きく取り上げられて大変な話題となった。軽い気持ちで、街の美しさ、スターの華やかさに見とれるという見方が正解で、大真面目なサスペンス・スリラーを期待してはいけない。公開時にはボタンのかけ違いで「サスペンス・スリラーだと思って見に来たのに!」といった声も聞かれたが、最初から、コミカル&ゴージャスの2点が見どころなんだと思って、まったり見ていただきたい。 最後に。スコットランドヤードの警部役ポール・ベタニーは、劇中ではあまりジョニデとの絡みはないものの、プロモーションでは漫才コンビのような好相性を見せ、後に『トランセンデンス』と『チャーリー・モルデカイ 華麗なる名画の秘密』でも再共演を果たす。特にジョニデがプロデュースしベタニーに自らお声がけしたという『チャーリー・モルデカイ』の方は、この2人の軽妙な掛け合いがメインディッシュとなっているほど。むしろジョニデ×アンジーよりもジョニデ×ベタニーのBLカップリングのケミストリーを生み出したことの方が、本作『ツーリスト』の功績ではなかっただろうか。今後も、このコンビでどんどん映画を作っていってもらいたい。■ © 2010 GK Films, LLC. All Rights Reserved. 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存