ザ・シネマ 飯森盛良
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COLUMN/コラム2017.02.11
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2017年3月】飯森盛良
ベトナム戦争真っ最中68年公開作。南北戦争時代の西部劇にかこつけた社会風刺。主人公七人のヤングガンは長髪でこぎたない格好。自由気ままで世間知らず。好きな馬を駆り戦場で大冒険ができると田舎から出てきたイージー☆ライダーたちだが、そこには知らなかった凄絶な黒人奴隷差別の問題や、“個”を抑圧する軍隊の理不尽が待ち受けていた。軍では、髪切れ、制服着ろ、口の利き方がなっとらん、馬には乗せん歩兵として戦えなど、冒険する暇もなく彼らは命を散らせていく…青春戦争ドラマの哀愁も漂う激レア西部劇。4:3トリミングSD版だがそれでも見逃すなかれ! © 1968 Universal City Studios, Inc. Copyright Renewed. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2017.01.24
トランプさんの演説が『ダークナイト ライジング』のベインのアジ演説と激似の件について
ここ数日来、この件でネット上がちょっとザワザワしていますね。今なら以下の各ニュースサイトのリンクがまだ生きているはず。 http://www.nikkansports.com/entertainment/news/1768238.html https://www.businessinsider.jp/post-458 http://news.livedoor.com/article/detail/12572697/ https://www.buzzfeed.com/bfjapannews/people-cant-get-over-how-much-trump-sounded-like?utm_term=.ewGQwJa1l#.wjRM1O0rx でもこういうリンクはすぐに切れちゃうものなんで、経緯を簡単にワタクシの方でも記しときましょう。 去る2017年1月20日の大統領就任式で、トランプさんは15分という短尺の就任演説をブったのですが、この中で、 “we are not merely transferring power from one administration to another, or from one party to another - but we are transferring power from Washington, D.C. and giving it back to you, the people.” 「(前略)我々は、ある政権から別の政権へ、またはある政党から別の党へ、ただ権力の移行をしているのではない。我々は、権力をワシントンD.C.から移譲させ、お前たち人民に取り戻してやるのである!」 とおっしゃられました。この “and giving it back to you, the people.” の部分が、『ダークナイト ライジング』劇中におけるベインのアジ演説のワンフレーズ “and we give it back to you... the people.” というくだりを丸パクリしたんじゃないの!?との疑惑が出てネット界隈がザワついてるのです。 ここ、全文ですと、 “We take Gotham from the corrupt! The rich! The oppressors of generations who have kept you down with myths of opportunity, and we give it back to you... the people. Gotham is yours.” 「我々が腐敗からゴッサムを奪い返すのだ!金持ちの手から!迫害者どもはチャンスという言葉をチラつかせ、長らく我々を搾取してきた。ゴッサムを奪い返すのだ、市民の手に。街は市民のものだ」 と言ってるんですな。ベインがゴッサム市庁舎の前でブつ大演説からの一節であります。 ワンフレーズだけ見ると確かにほとんど100%同じですが、こうして前後の文脈ごと読み比べてみると、全体としては当然、2人はまるで違うことを言ってる。でも、実はベインもトランプさんも、ある決定的に同じことを“口実”にすることによって、一部の層から人気を博して権力を握ったので、やっぱり最も根本的な根っこの部分ではこの2人、モロにやってることとキャラがかぶっているのです(2人とも、あくまでそれは“口実”にしてるにすぎないところまで同じ)。 それは何かと言うと、格差社会批判です。 当チャンネルの土日メイン作品枠「プラチナ・シネマ」でも、昨年末から立て続けに『ウルフ・オブ・ウォールストリート』や『パワー・ゲーム』、来月も『アップサイドダウン』をお送りしますが、まさに、今の時代に映画が描き、糾弾している、現代最大の社会悪こそが“格差”ではないでしょうか? ■ ■ ■ ベインはゴッサム版ウォール街のような証券取引所を襲い、ゴッサム市民の前にはじめてその姿を現します。後に革命軍みたいな連中を率いて「我々は解放者だ!」と叫びながらゴッサムのアリーナに現れ、さらに先の市庁舎前演説では、 「刑務所にいる抑圧された者たちを解放する」「今より市民軍を結成する。志願する者は前に出ろ」「金持ちの権力者どもを豪華な住まいから引きずり出せ」「今まで我々が味わってきた冷酷な世界に放り出すのだ」「我々の手で裁きを下す」「贅沢は皆で分け合え」 などともアジ演説をブち続けます。言っとることはまさしく「革命」ですな。 『ダークナイト ライジング』の『ライジング』とは「立ち上がる」、「蜂起する」、「蹶起する」といった意味。つまりは「革命」です。この映画、革命のイメージに満ち溢れておりまして、 ①ベイン革命軍は真っ赤なスカーフを巻いており、まるで文革の時の紅衛兵みたい。 ②人民法廷に資本家や旧体制の官憲が引き出され、上訴なしの即決裁判で死刑判決を受けるシーンがあるが、あの絵ヅラは世界史の教科書で見覚えがある。フランス革命のルイ16世の裁判↓か、 もしくは、「球戯場の誓い」のページに載っていた挿絵↓にソックリ。被告席の椅子もなんだかとってもヴェルサイユ風だし。 ちなみに「球戯場の誓い」とは、フランス革命の直接原因となった事件。税金を払わされている圧倒的多数の平民が「一握りの特権階級が税金を免除されているのはおかしい!」、「三部会で特権階級の主張ばかりが通るのはおかしい!」と訴え、自分たちこそが国民の真の代表なんだと立ち上がった出来事。 さらにこのシーン、判事席(裁判官はスケアクロウ!)は、机や椅子などを雑然とうず高く積み上げたもので、『レミゼ』の六月暴動やパリコミューンにおける「バリケード」を連想させる。「バリケード」はかつて革命市民軍にとって基本戦術だった(普通選挙が広まると、革命勢力は選挙による政権奪取を目指すようになり、エンゲルスが亡き同志マルクス著『フランスにおける階級闘争』1895年版に寄せた序文で「あの旧式な反乱、つまり1848年までどこでも最後の勝敗をきめたバリケードによる市街戦は、はなはだしく時代おくれとなっていた。」と批判し、バリケード戦術は廃れていった…かと思いきや日本では昭和40年代の大学紛争においてもまだまだバリバリ現役だったけど)。 ③その革命裁判で死刑を宣告されると凍った川を渡らされ、途中で氷が割れて死んでしまう。これは原作コミック『バットマン:ノーマンズ・ランド』の中ですでに描かれているイメージだが、この映画ではさらに、ロシア革命の時に赤軍に追われた人々が凍結したバイカル湖を渡ろうとして沈んだ歴史的悲劇“バイカル湖の悲劇”をも想起させる。 ④ベイン率いる革命軍とバットマン率いる警官隊が衝突するシーンでは、バットマンは珍しくなぜだか日中に戦う。そのシーン、晴れた日で粉雪が舞っている昼間なのだが、ここはロシア革命の導火線となった「血の日曜日事件」の光景を彷彿させる。雪の積もる晴れた日の出来事だった。 こうした革命のイメージの数々に、さらに9.11のNYのイメージや(ベインがテロを仕掛けるシーンではグラウンドゼロをわかりやすく空撮してます)、そしてコミック『バットマン:ノーマンズ・ランド』のイメージを掛け合わせ、見てると心臓に若干のプレッッシャーすら覚えるような、凄まじいまでに圧迫感のあるリアリズムを漂わせながら、このまま理不尽な格差社会が是正されないと遠からず現実になるかもしれない革命と混乱の様相を『ダークナイト ライジング』という映画は生々しく描出しているのです。 ■ ■ ■ つい数年前の“ウォール街を占拠せよ”運動というのをご記憶でしょう。正確には2011年の出来事です。この『ダークナイト ライジング』のまさに撮影中に全米を揺るがしていた社会運動で、特にウォール街があるためロケ地ニューヨークがかなり騒然としていた様を、ワタクシもニュースで連夜見ていた記憶があります。 アメリカは、上位1%の富裕層がケタちがいの富を独占している格差社会とよく言われます。しかもその1%が2008年リーマンショックを起こして世界を経済危機に陥れ、99%の中からは失業する人もおおぜい出たのに、1%は税金で救済され、挙げ句の果てにその公的資金を自分たちのボーナスに回したということで、99%側の人たちの間で「フザけんじゃねえ!」という機運が高まり、”We are the 99%”をスローガンにデモを行ったのが“ウォール街を占拠せよ”運動でした。 この運動とちょうど同時期に撮影・公開されたため、当時から『ダークナイト ライジング』はこれと結び付けられて論じられるケースが多くて、実際、ベインと彼の革命軍の姿と“ウォール街を占拠せよ”運動の様子はものすごくオーバーラップします。一時は実際のデモの模様をノーラン隊が撮影し、劇中にそのフッテージを使うのではという噂まで流れていたぐらい。 ノーラン監督自身は「この映画に政治的な意図はない」、「モデルはフランス革命だ」と語っており、他の制作陣も「ベインと“ウォール街を占拠せよ”運動が似ているのは単なる偶然」と言ってはいますけれど、その言葉を鵜呑みにはできません。たまたま似ちゃったのか、炎上沙汰にならないようしらばっくれているのか定かではありませんが、しかし、意図してやってはいないとしても、時代が感じとっている理不尽感をこの映画が生々しく撮らえていることは間違いありません。 そして今、2017年、格差社会を徹底的に攻撃し、貧しき人びとの“味方”を自称して大統領選を勝ち抜いてきたトランプさん就任に際して、再びこの『ダークナイト ライジング』と時事・世相がシンクロしたのです。 映画史に残る文句なしの傑作『ダークナイト』と、ヒース・レジャーが命をかけて演じたジョーカーは、誰もが、全員が全員、高く評価するところでしょう。それに比べて毀誉褒貶あることは否めない『ダークナイト ライジング』ですけれども、ジョーカーというヴィランが「正義とは何か」という普遍的かつ哲学的な問題提起をしてくるのに対し、ベインの主張は逆に、きわめてタイムリーかつアクチュアル。トランプさんと同じ、“ウォール街を占拠せよ”運動とも同じ、格差社会批判です。 格差社会、暴走するマネー資本主義。こんなのおかしい!こんなの理不尽だ!という至極ごもっともな鬱積した怒りが、昨年2016年には、数年前なら想像すらできなかったような“極端な政治的選択肢”に世界中の人々を飛びつかせてしまいました。 文革やフランス革命、ロシア革命は、やがては反対派を弾圧・粛清しまくる恐怖政治になっていきました。ベインの革命も、ちょっと良いことを言ってるようでいて、歴史を知っているとその恐ろしさとオーバーラップして見えてきます。 “極端な政治的選択肢”に飛びつきたい気になったら「まずは落ち着け」と、ひとまず深呼吸して見るべき映画、それこそが『ダークナイト ライジング』!このような時代になってしまった2017年、この作品の重要性は今こそ相対的に高まっているように思えるのであります。 ちょっと良いことを言ってる人、「権力を大衆の手に取り戻すのだ!」とか胴間声でアジってる人、実はこいつベインじゃねえのか!? ということを慎重に見極めないといけない時代に、なんか、なっちゃいましたなぁ…。寒い時代だとは思わんか…。 © Warner Bros. Entertainment Inc. and Legendary Pictures Funding, LLC© 2012 Universal Pictures. All Rights Reserved. 保存保存
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COLUMN/コラム2017.01.14
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2017年2月】飯森盛良
シン・シティ1&2は短編集みたいな映画で、それぞれのエピソードはユルくつながってる。けど、時系列が映画も、原作コミックでさえもメチャクチャで、わかりづらい。そこで、時系列順で見るならこうだ!という懇切丁寧なガイドをここに発表! まず①1のブルース・ウィリス主役のエピソード前後編をセットで ↓②2のアバンタイトル、ミッキー・ロークがホームレス狩りしてる調子コイてる大学生どもをシバくくだり ↓③2のエヴァ・グリーンがファム・ファタル無双のノワールなお話 ↓④2のジョゼフ・ゴードン=レヴィット主役の前後編セット ↓⑤2ラストの、逆襲のジェシカ・アルバ ↓⑥1のミッキー・ロークが一発ヤラせてくれたマブい女の仇を討つお話 ↓⑦1のクライヴ・オーウェン主役エピソード と、いう順番なんです実は。これでもう安心ですね?2本丸ごと録画して、ぜひ2度目はこの順番で再生してみてください。当方で編集してこう流すと著作権侵害で訴えられそうなのでゴメン無理! ©2014 Maddartico Limited. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2016.12.13
夏の『47RONIN』プレゼントの当選発表を今日になってする、の巻。
おまっとさんでした、地域密着系都市型…じゃなくて、おまっとさんでした!夏に当チャンネル、『47RONIN』にかこつけた、フザけきったプレキャンを実施したのをご記憶でしょうか? 47RONINは複数形のsが付いてRONINSとならずに、英語の原題でも47RONINのままですが、なぜ複数形のsが付かないのでしょうか?このクイズに頓智の利いた回答をお寄せいただいた方の中から抽選で(※正解でなくて構いません)四十七士に、素敵なプレゼントが当たる。 というプレキャンでした。おまっとさんでした!夏にやって冬まで寝かせて本日、結果発表と賞品の発送を同時に行います。おそらく明日、討ち入り当日に当選者のお手元にブツが届く、という粋な心配り。当選者の発表は賞品の発送をもって代えさせていただきますよ。なんせここに個人情報は晒せませんから。 ああそれと明日12月14日(水)の13:00~は放送もしますよ。またぜひご覧ください。 さて、まずは本ですね。 『おかしなジパング図版帖 -モンタヌスが描いた驚異の王国-』価格:¥2,052出版社:パイインターナショナル著者:宮田珠己 という素晴らしい図録でして、17世紀後半というから江戸前期ですが、その時代に、日本に来たこともないオランダ人モンタヌスが、出島から漏れ伝わってくる情報から想像だけで描いた日本の絵の数々を紹介している。なんだか、眺めてるうちにクラクラめまいがしてくるような、ドラッギィきわまりない一冊。 あたらなかった方は各自でご購入ください。 これが当たった方たちの、トンチのきいたご回答の数々がコチラ。 神奈川県の男性 「47才の浪人の話」 いいっすね40歳の童貞男みたいで。 次いってみよ。 足立区の男性 「寺坂が持って逃げて泉岳寺に奉納した!」 意味がわかんなくて好き。 大阪の女性 「図に乗ってないから」 図ね。sだけにね。ズだからね。上手い!これはいわゆるひとつの山田君座布団一枚ですな。 世田谷の女性 「SONYのwalkmanが47台あってもwalkmenにならないのと一緒。47roninは世界の登録商標」 これは新しい問題提起がなされましたぞ。ウォークマンが47台あったら、アメリカ人はそれを何と呼ぶのか!? 本当に絶対ウォーク“メン”にはならないの?47walkmanズ、ともならないのか?深い。深すぎる難題だ。高校の英文法でこんなこと習ったか? これ以外にも、たくさんの珍回答をお寄せいただきました。良いやつは全部ここで紹介したいぐらいですが、「紹介しといて当てないのかよ!」と怒りを買いそうなので、感謝の念だけお伝えしておきます。ありがとうございました。 ■ ■ ■ 続いて塩。赤穂の天塩の当選者です。 「浪人には塩が必用不可欠だったので、思わず題名のS(ソルト)を食べてしまったのだと思います\(^^)/」 これも山田く~ん。ですな。 「余りにも低学力の人が浪人を英訳したので、複数形のSを落として発表してしまった。そこで、これを逆に使用してあたかも、意図的な物にしようとしてこんなクイズにしたが、応募数が少ないと、責任を取らなくてはならない。故に人助けを兼ねて、清き一票を投じてる!」 いや私がタイトル付けた訳じゃないですから。ユニバーサル作品なので天下の東宝東和さんじゃないですかね。まさかして、これもまた、バンボロとかサーカムサウンドとかジョギリショックとかの輝かしき伝統に連なる、一種の東和宣伝マジックなのか!? なわきゃねえか。 サクサクいきましょう。 「キアヌリーヴスがぼっち好きだから」 「ピンクレディーと同じでSを取った方が響きが良いからです。」 「しまりがある」 いい感じにフザけてますね。好きです。この調子で、皆さん、かなり頓智が利きすぎております。全部は紹介できませんな。 もっとナメた回答も、今回のプレキャンに限っては全然ウエルカムでした。以下の5つは個人的にはツボにハマった。MAXナメきってた、いっそ清々しいほどの名回答(普段だと普通ハズれますわな、これじゃ…)。 「つけ忘れた」 「たまたま」 「ミスプリント」 「わからない」 「どうでもいい」 なにかこう、『47RONIN』という映画のもっている謎なバイブスとシンクロしている気もするので、今回に限りまして、これらも大正解とします。 合計300件ちかいご応募がありまして四十七士に賞品をお送りしますが、300件ってのは凄い!「頓智の利いた回答寄せてくれ」なんてムチャぶりというかハードル高すぎなお題に対して、よくぞまあ300名様もお付き合いくださいました。誰より企画担当者本人が意外の念でいっぱいです。こんだけハードル高い場合、「47件もこないかもしれない。ま、ネタだからいいけど」と、事前には覚悟していたぐらいです。 最後に、今回フザけた回答を求めたのですが、正解にまったく触れないというのも、気になっちゃって眠れない人が出るかもしれないので、正解らしき回答も一応ご紹介しときます。 「『七人の侍』も ”Seven Samurai”なので、47RONINも同じようにsがつかないのかなと思いました。」「ronin, yakuza, policeなどは集合名詞なので複数形もsは付かない。複数形にしたい時は、two members of yakuzaなどとして使う。」 もっともらしいけど、本当なのか?しかし、本当に正解かどうか当局は一切関知しないのでそのつもりで。なおこのテープは自動的に消滅する。と言いたいところですけど別に消滅しないので、かわりにこの決め台詞で〆させていただきましょう。「信じるか信じないかはあなた次第!」 それでは皆様、良いお年を。We wish you a merry 義士祭!■ © 2013 Universal City Studios
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COLUMN/コラム2016.12.11
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2017年1月】飯森盛良
今度の敵は中国マフィア“蛇頭”。不法移民密入国の斡旋とその後の奴隷労働を仕切ってる。密航船を見つけ沿岸警備隊に引き渡したリッグス&マータフ刑事。だが沿岸警備隊は移民を即Uターン送還し、その費用をアメリカの税金で賄ってるとボヤく。それを聞いたマータフ(演じる黒人俳優ダニー・グローヴァーは活動家としても有名)が激怒!「自由の女神像に刻まれた“来たれ自由を求める貧しき民よ”の看板はどうなる?」沿岸警備隊「今は満室につきお断りだ」マータフ「あんたの祖先だって移民だろ!」…熱いぜ!こういう映画見て育ってんだよオレたちは!と叫びたい、めっきり“寒い時代だとは思わんか”な今日この頃です。 © Warner Bros. Entertainment Inc.
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COLUMN/コラム2016.07.29
『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』公開~「このへんなようせいさんたちは、まだアイルランドにいるのです。たぶん。」~監督インタビューで迫る、「どうして“ポスト・ジブリ”と評されているのか!?」の謎
『オブ・ザ・シー 海のうた』は、日本ではまだあまり知られてはいないアイルランドのアニメーション監督の第2作だ。劇場長編デビュー作である前作は日本未公開。それでもこの監督とその最新作には、今回、日本人なら誰もが注目しておかなければならない。理由は、監督トム・ムーアと彼が創設したアニメ制作会社カートゥーン・サルーンが“ポスト・スタジオジブリ”と評されているからだ。その評判が本物だということは、2作しかない監督作がどちらもアカデミー長編アニメ映画賞にノミネートされていることで証明できる。 宮崎駿は引退した。一方のハリウッド勢、ピクサー&ディズニー、対するドリームワークスのアニメはここ十何年間か、実写も及ばないような映画の質的高みに昇りつめており、ユニバーサルもソニーも負けておらず、1作ごとに驚かされ泣かされている。だがいずれも宮さんが抜けた穴を埋めるような活躍ではない。たしかに素晴らしい傑作が矢継ぎ早に送り出されてはいるが、宮崎アニメの魅力は、それとは全く別のものだったからだ。 だがついに、ポスト宮崎駿が西の果てアイルランドから出現したというのである。それほどの監督のデビュー作が未公開で、2作目にしてようやく、字幕だけでなく吹き替えでも公開されると決まったというのだから、これは観ないわけにはいかない! 監督にインタビューするチャンスを得て、この機会に一日本人観客として迫りたかったのは、「何がどう“ポスト・ジブリ”なのか!?」という点だ。だが、そのインタビューに入る前に、まず今作『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』のあらすじを紹介しておこう。 【ストーリー】海辺の灯台の家で、幼いベンはお父さんお母さんと暮らしていました。ベンは大好きなお母さんから「あなたは世界一のお兄ちゃんになるわ」と褒められて、赤ちゃんが産まれてくるその日を楽しみにしていました。優しくて物知りなお母さんはベンにたくさんのお話や歌を教えてくれます。巨人のマクリルと愛犬の物語や、アザラシの妖精セルキーが歌うと妖精が家に戻れる不思議な伝説、古い言葉で綴られる美しい歌など……。 ある晩、ベンはお母さんに海の歌が聞こえる貝の笛をもらいました。うれしくて、笛を大事に抱いて眠りについたのでしたが、目を覚ますとお母さんの姿がありません! お母さんは赤ちゃんを残して、海へ消えたのです。それから今も、ベンとお父さんの心は傷ついたまま。お母さんがいなくなったのは妹・シアーシャのせいだと思っているベンは、ついつい彼女に意地悪をしてしまうのでした。 6年がすぎて、今日はお母さんの命日でもある、シアーシャの誕生日。町からお祝いにやってきたおばあちゃんは、いまだに喋らない彼女が心配でたまらないようです。その夜、シアーシャは美しく不思議な光に導かれ、お父さんが隠していたセルキーのコートを見つけ、海へ入ってしまいました。悲劇の再来を恐れたお父さんはコートを海へ投げ捨ててしまい、おばあちゃんは嫌がる兄妹を町へ連れて行くのでした。町はハロウィンでお祭り騒ぎ。居心地の悪いおばあちゃんの家から抜け出した兄妹は、愛犬クーとお父さんが待つ家へ向かいます。そんなふたりの後を妖精・ディーナシーの3人組が追いかけます。彼らはシアーシャがセルキーだと気づき、フクロウ魔女のマカとその手下のフクロウたちのせいで石にされた妖精を元通りにしてほしいと頼んできたのです。その時、4羽のフクロウがシアーシャに襲いかかり、ディーナシーたちの感情を吸い取って石に変えてしまいました。その場は逃げ切ったふたりでしたが、ベンが目を離した隙にシアーシャがいなくなってしまいました。妹を探すうちにベンは語り部の精霊・シャナキーから、マカの歪んだ愛情が妖精の国と妹の命を消しつつあると教えられます。マカの魔力に勝てるのはセルキーの歌だけ。それもハロウィンの夜が明けるまでに歌わないと、すべてが消えるというのです。ベンは、妹と妖精たちを救えるのでしょうか!? 今作『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』、映像がとにかく美しい。絵本が動いているような絵は、写実的なジブリというよりむしろ、デフォルメされた可愛いキャラデザととことんデザイン化された美術から、『まんが日本昔ばなし』とつい世代的にはたとえたくなってしまう。ケルト音楽バンドのKiLAによる音楽が、この絵本調の映像世界をよりいっそうフォークロリックに引き立てる。 「ジブリっぽい」というのは、そうした見た目上の表面的な部分ではなく、もっと深い、作品の魂の部分をさして言っているように個人的には感じられたが、そのことにはおいおい触れるとして、まずは監督に直接お礼を伝えたい。 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 聞手:本当に美しかったです!ありがとうございました。映画を観てこんなに「きれい!」と思えたのは何年かぶりです。今回、今作『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』と、デビュー作『ブレンダンとケルズの秘密』も拝見しましたが、有名な絵画へのオマージュを幾つか発見したような気がしています。パウル・クレーとかクリムトとか。当たっていますか? 監督:全くその通り!当たってます。 聞手:クリムトっぽいと感じたのは、今作『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』にも前作にも美術の中に多用されている、渦巻き模様を見た時です。渦巻きのクルクルっと蔓が伸びるような動きを見ていてそう感じたのですが、あそこまで渦巻きにこだわって、繰り返し何度も何度も描いているのは、いったいどういう理由からなのでしょう? 監督:渦巻きや螺旋、それに幾つか重ねた円。それらはケルト人に先立つ太古の時代のピクト人*01たちが遺した装飾なのです。ピクト文化というのは、アイルランドやスコットランドに大昔あった石の文化ですね。 私の映画ではイメージ作りのため、そうした古代のデザインを取り入れています。大昔の文化と現代の芸術をつなぐということは、この映画で達成しようとしている試みにとって大変に重要でして、劇中、神話や民話のキャラクターと人間のキャラクター、2人の異なるキャラクターを、そっくりの顔に描いたり声優にも1人2役やってもらっていたり、リンクさせているのですが、それも同じ狙いからです。 この映画は、古い民話の中に私たちの芸術を見出すことはできるか?私たちの真実を民話の中に見つけることはできるか?そこにチャレンジしようとしています。古い民話を現代の観客のために描き直す、解釈し直す、ということに挑みたかったのです。 *01…今のイギリスのスコットランド辺りにいた先住民族。アイルランド人やスコットランド人、ウェールズ人の祖でもあるケルト民族の一派ともされるが、言語系統が不明で、ケルト系ではない可能性もあり、謎が多い。 そういうわけで、ピクト人が遺した様々なイメージ、石に刻まれた模様などを、アートディレクターのエイドリアン・ミリガウに見せた時です。彼が「これはパウル・クレーやカンディンスキーだ!」と言った。それらの現代美術も古代のデザインから引用していたんですね。 聞手:古代のデザインを現代美術の巨匠たちが引用し、その絵画と、そもそもの古代のデザインを、あなたは作品にさらに引用して、古代と現代をつなげる、ということを試みているわけですね。しかし、なぜ古代と現代をつなぐことがあなたにとってそこまで重要なのですか? 監督:アイルランドでは95年から07年まで「ケルトの虎」と呼ばれる高度成長期があったのですが、その時に不安を覚えたからです。昔ながらの風景を残さず、その上に舗装道路を作ろうとしたりショッピングモールを建てようとしたり。社会の表層、上の層が塗り変えられていくのと同時に、その下の層にある、いにしえの文化までもが忘れ去られようとしている。そのことに危機感を募らせたのです。 聞手:東京も同じですね。日本で高度成長というと戦後の1960年代だったのですが、我々日本人は、監督の仰る“下のレイヤー”まで東京をメチャクチャに掘り返してしまって、もう原状回復はとても無理そうです。江戸の町を思わせる遺構も文化も今ではほとんど残っておらず、残念でなりません。ダブリンはどうでしょう?原状回復できそうですか?もう手遅れですか? 監督:私は、ダブリンの中心街のどこにでも、古い時代の遺跡やその名残りみたいなものが今でも残っていると感じますね。ところで、自分はとてもラッキーだったと思っているのですが、私はキャリアの中で2つの時代を経験しているんですよ。お金はいっぱいあるけれども価値観がなかなか思う方向に行かない時代と、あまり経済は良くないけれども、その中でも芸術を大事にしていこうという時代です。まず、スタジオを99年に設立したので、当時は好景気でしたから政府の助成を受けながら映画作りを始めることができました。 やがて08年にバブルが崩壊すると、今度は、経済が危機的状況でも芸術は大切なのか?という課題に取り組むことになったのです。「ケルトの虎」が崩壊したこの経済危機の時にアイルランドが直面したのは、物質文明から脱却するにはどうしたらいいのか、という大きな課題でした。この時に人々の考え方は大きく変わりましたね。失いかけていたものを思い出し、それを大切にしようと考えるようになった。幸か不幸かアイルランドの経済成長期は先進国の中でも遅くやってきた方なので、古いライフスタイルを守っていったり蘇らせたりできる選択肢が、その時点でも私たちには残されていたのです。 しかし、一方で私は、古くからの文化というものは消そうと思ったってそう簡単に消え去るものではないとも思っていますが。私たちの世界観の中にあまりにも深く、物の見方として根付いてしまっているからです。例えば音楽ですね。 聞手:今作『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』の音楽を担当しているKiLAのケルティッシュ・サウンドがまさにそれですね。日本では何年か前に「トイレの神様」という曲が流行ったのですが、おばあちゃんの訓えで「トイレには神様がいるからいつも清潔にしておきなさい」といった歌でした。日本には八百万の神がいると言われています。トイレにまでいる。田舎に行くと道路脇に『千と千尋の神隠し』の冒頭に出てきたような石の祠や道祖神が、今でもそこらじゅうに建っています。宗教として信仰しているというほどのことはなくても、たとえばその祠を蹴り倒したりするのは、とても罪悪感を覚える、バチが当たったって不思議はない、と、ちょっと畏怖する程度には今でも誰もが信じています。 アイルランドではどうなのでしょう?今作『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』も民話の妖精たちがたくさん出てくる物語ですし、日本でも“妖精の国アイルランド”といったイメージを、貴国や欧米文化に少し詳しい人ならば抱いていますけれども、そうしたイメージ通りなのでしょうか? 監督:私の祖母の世代はトゥアハ・デ・ダナーン(Tuatha Dé Danann)*02やディーナ・シー(daoine sídhe)*03の存在を本気で信じていましたね。カトリックを信じるのと同時に妖精の存在も100%信じていて、教会に行くかたわら妖精にもお供え物をしていた。その信仰はアニミズム*04的な色合いが濃くて、自然や大地への尊敬、あるいは畏怖というものを祖母たちは持っていました。 *02…アイルランド・ケルト神話に出てくる神族。現在アイルランドに暮らす人間のケルト民族との戦いに敗れたこの神々は、塚の奥底深くや海の彼方へと逃れ隠れて暮らすようになり、キリスト教が伝来してからは体も小さく縮んで妖精(sídhe)に落魄してしまった。*03…02の神々のなれのはての妖精(sídhe)のこと。今作『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』にも、主人公兄妹を不思議な冒険に導くキーキャラクターとして、3人の老ディーナ・シーが登場する。*04…「精霊信仰」のこと。原始宗教の特徴とされる。例えば日本の“山の神”、“川の神”、“滝や奇岩を御神体として拝む”、“古道具に魂が宿る”といった信仰は典型的なアニミズム。 今、アイルランドもまるでアメリカの一角みたいな風景に変わりつつある中で、祖母たちのような時代は永遠に過ぎ去ろうとしている。ですが、例えば先ほどあなたが言っていた流行歌とか、そういった形でもいいので、新しい信仰の形、文字通りの信仰ではないし呪術的なものでもないけれど、そうした新しい信仰のあり方を通して、アニミズムへの思いや“何かを尊重する”ということを、現代の世代は受け入れ、引き継いでいけるのではないかと考えています。 アイルランドにエディ・レニハンという現代のシャナキー(Seanchaí)*05がいるのですが、彼が「フェアリー・ツリー」と呼ばれている1本の樹を守る運動をしていたことがありました。自分の体を樹にくくりつけ、樹を倒して道路を作ろうとしている人たちに抵抗したのです。その運動のおかげで樹は倒されず道路が樹の周りを二手に迂回して作られることになったのですが、ある時私は彼に「その樹が本当に妖精の樹だと信じていたのか?」と聞いてみたことがあるんです。すると「いや、そうは言わない。だが私にこの樹の言い伝えを聞かせてくれた人は確かにそう信じていた。樹を守る理由としてはそれで十分じゃないか」と言うのです。妖精を信じる/信じないではなく“何かを尊重する”という態度の問題なのだと私は考えています。 *05…アイルランド・ケルト人の語り部のこと。古代、ケルト人は氏族の歴史と掟を明文化せず、それらを語り部の暗唱に頼った。したがってシャナキーは氏族社会において尊敬された。現代においてはアイルランドの口承文学・伝統芸能とみなされている。 聞手:私事で恐縮ですが、うちの近所に敷地が凹型の家がありまして、へこんだところには『となりのトトロ』に出てくるような大樹が生えており、おそらく御神木か何かで切れなかったんだろうと思うのです。貴国と日本は考え方が似ていますね。今作『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』に出てくるセルキーの伝説も、もともとは、アザラシは毛皮を脱ぐと中身が美女で、毛皮を人間の男に隠され結婚させられるが、何年かして毛皮を見つけ出してアザラシに戻り、子供を残して海へと帰ってしまうという話だと本で読みました。これも、日本の天女の羽衣伝説にあまりにもソックリで、ビックリしています。ところで、今作『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』で主人公兄妹を引き取って都会に連れて行く、ちょっと偏屈そうなおばあちゃん。家中にキリストの聖画とか十字架とかを掛けていましたが、あのキャラクターだけとても宗教色強く描いている意図は? 監督:特にそういう意図では描いていません。むしろ、カトリックがアイルランド中で広く信仰されていると描こうとしていますよ。例えば、子供たちがバス停でバスに乗り込むシーンでは、あれは停留所が教会の前だったでしょう。そしてバスを降りたところから歩くと聖なる泉にたどり着きますが、そこの祠にはマリア様の像がたくさん飾られている。歴史的には聖母信仰やキリスト教は、その前のアニミズムの様々な女神たちの信仰に覆いかぶさるようにして信じられていったのです。この映画の中でも、聖なる泉の祠のシーンでは、入るとすぐにキリスト教の文化があって、そこから先、奥へ奥へ、地下へと降りていくと、深い所は偶像崇拝の異教的な世界が広がっており、そこを主人公は進んでいくことになるわけです。 聞手:2つの宗教や異文化が混ざり合う「シンクレティズム」ですね。日本でも、例の八百万の神というのを信じるアニミズム的な土着の神道と、外来の仏教という2つの宗教があって、その2つは歴史的に「神仏習合」とか「本地垂迹」とかいった混淆現象をよく起こしています。 監督:面白いですねえ。ちなみにアイルランドには聖人崇拝があります。全員キリスト教の聖人ということになってはいますが、もともとはケルトの神々だったのです。昔の神の性格を引き継ぎながらも、キリスト教の聖人として新たにフィクションとして作られたのではないかと私は考えています。あと、アイルランドと言えばセント・パトリックス・デーが有名でしょう?シンボルマークが三ッ葉のクローバーで、それはキリスト教の三位一体に由来すると一般的には信じられていますが、もっともっと古い時代の名残りではないかという説もあるのです。聖パトリック*06以前から、先史時代から、アイルランドには三位一体信仰があって、3人の女神を信仰していたとも言われているのです。私の考えでは、ある宗教が入ってきて何かを乗っ取ってしまうのではなく、土着の信仰と融合して現地化していく信仰のあり方が一番うまくいくと思います。 *06…アイルランドにキリスト教を布教したとされる聖人。その命日がセント・パトリックス・デーで、本国のみならずアメリカなどでもアイルランド系移民(および全然関係のない異民族異人種)によって祝われ、映画の中でもしばしば描かれる。 聞手:今作『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』で物語のメインとなるのはハロウィンの1日ですが、ハロウィンも、土着の古代ケルトの祭りが後に外来のキリスト教と混じり合ったシンクレティズムの顕著な例ですね。 監督:その通りです。ハロウィンはケルトの言葉では「サウィン(Samhain)」と呼ばれていましたが、ケルト暦では1年間でもっとも重要な日だとされていました。現実世界とそうでない世界、この2つの世界を隔てる壁がとても薄くなる日です。ディーナ・シーたちがそのままの姿で歩き回っても怪しまれない日なんてハロウィンだけです。ヒントを得たのは『E.T.』です。ほら、思い出してみてください、あの映画でも子供たちがETを連れて外に出るのはハロウィンだったでしょう?あと個人的な話ですが、忘れもしない87年の出来事で、当時私は10歳でしたけれど、ハロウィンの晩に大嵐が来たことがあって、私と妹はとても怖がったのですが、そんな時、母が「この風はシェイダン・シー(séideán-sídhe)という、妖精が家に帰る時に吹く風なんだよ」と教えてくれました。あのシーンは『E.T.』だけでなくそんな子供時代の思い出からも着想を得ているんです。今作のクライマックスには、主人公たちが家に無事たどり着けるように先導してくれる2頭の犬の精霊が出てきますが、あの犬は風が形をとっているという設定です。なので、駆け抜けていくところを、つむじ風として表現していて、民家の戸板を吹き飛ばしたりする。風とハロウィンが結びついているのは、極めて個人的な私自身の思い出から来ているんですよ」 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 今作『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』(と前作)を見て、インタビューも終えた今、大いなる疑問であった、この監督と彼の制作会社の「何がどう“ポスト・ジブリ”なのか!?」が解ったような気がする。 ジブリ、というか宮崎駿は、主に『となりのトトロ』、『もののけ姫』、『千と千尋の神隠し』の3作品で、埼玉の鎮守の杜にそびえるクスノキの大樹や、粗大ゴミが不法投棄される川に今も神はいて、さかのぼって(と言ってもたかだか500年ほど前の)戦国時代の深い森には荒ぶる神々がおり、森を切り開く人間どもと生存競争をくりひろげていた、ということを描き、20世紀を生きていた当時の我々に見せつけた。そうやって日本のあまねく一般大衆に、日本はアニミズム息づく神の国なのだという事実を再発見させたのである。この世ならざる巨木や奇岩の前に立つ時、条件反射的かつ生理的に畏怖の念を覚え、それに神性すら認めてしまう我々としては、大いに納得がいったものだった。あの感覚を実感として生々しく感じた覚えのある我々日本人の前に、宮崎アニメは民俗学的説得力、宗教社会学的リアリティをもって提示され、この国には、目にはさやかに見えねども、八百万の神がいるのだと、あらためて信じさせてくれたのである。「このへんないきものは、まだ日本にいるのです。たぶん。」とはよく言ったものだ。だがいつか、マックロクロスケことススワタリのように(彼らもまた言うまでもなく神様だ)居づらくなったからとコッソリ出て行かれたりしないよう、我々日本人はこれからも、トトロ神やニギハヤミコハクヌシにお供え物を絶やさず、その神域をいつも清め(トイレの神様にそうするように)、お祀りしなければならないのである。 続いては、世界がニッポンを再発見する番だった。一方で仏教といういわゆる“高等”宗教(または普遍宗教)を持ちながら、あわせて、このような古代からの宗教観(いわゆる“原始”宗教または民族宗教)も持っている日本人。それが、その精神構造のままで、当時世界第2位の経済大国にまで昇りおおせている。最先端のテクノロジーを使い倒している。その現実の、途方とてつもないギャップたるや!ファミコンを作り『AKIRA』を作り半導体を作り低燃費高性能な自動車を作りながら、同時に、クスノキの神や川の神を信じてもいる日本民族。宮崎アニメは世界にその超絶ギャップも再発見させ、激しくギャップ萌えさせたのだった。なんと摩訶不思議な民族なのだろう、日本人という連中は! トム・ムーア監督とカートゥーン・サルーン社の作品を観ると、あの当時と同じ発見がある、驚きが蘇る、ということなのだろう。確かに“ポスト・スタジオジブリ”である。ジブリに、とりわけ宮崎アニメに、なかんずく『トトロ』、『もののけ』、『千と千尋』の3本の偉大さに、極めて近いところまで迫っている、と強く感じさせる魅力がある。 カトリックという普遍宗教を奉じながら、太古の神々のなれのはてである妖精たちの存在を今なお心のどこかで信じているアイルランドの人々。そんな精神風土の過去と現在をつないで作品に描くアニメ作家の出現に、世界は再び驚嘆し、映画的な幸福をかみしめながら次作を待望している。「ヨーロッパ文明の一角に、しかも西欧圏に、原始アニミズムを信じる民族がいた!」 かつてイエイツらによるケルト復興運動によって19世紀に一度は再発見されたその魅力も、リバイバルから百年以上が経過して推進力が落ちつつあった。いま三たび、世界は不思議の国アイルランドを驚きをもって発見したのである。 その驚きと、豊かで自由なアイルランドの精神風土への憧れが、2本しかないトム・ムーア監督の作品にどちらも、アカデミー長編アニメ映画賞ノミネートという高い評価を与えさせたのだろうう。彼の映画を観る時間、観客は、どこの国のなに人であったとしても、赤毛にそばかすのアイルランドの子供になるという疑似体験ができる。現地を旅したってせいぜい旅人気分しか味わえない。その文化の“中の人”だけが本来有している民族の目を持てる、というこのことは、すぐれて映画的な体験だ。まさに宮崎アニメがそうだったように。 であるのだから、03年に宮崎駿の『千と千尋の神隠し』がそうなったように、トム・ムーア監督作品もアカデミー賞受賞の栄誉に輝く日が、遠からず来るのではないかと感じる。■ 監督:トム・ムーア 出演:デヴィッド・ロウル、ブレンダン・グリーソン、リサ・ハニガン、ルーシー・オコンネル 脚本:ウィル・コリンズアートディレクター&プロダクションデザイン:エイドリアン・ミリガウ音楽:ブリュノ・クレ、KiLA 2014年/93分/アイルランド・ルクセンブルク・ベルギー・フランス・デンマーク合作/カラー/ビスタサイズ/DCP/5.1ch/原題:SONG OF THE SEA /日本語字幕:山内直子・高崎文子 ©Cartoon Saloon, Melusine Productions, The Big Farm, Superprod, Nørlum 提供:チャイルド・フィルム、ミラクルヴォイス、ミッドシップ配給:チャイルド・フィルム、ミラクルヴォイス宣伝:ミラクルヴォイス 後援:アイルランド大使館 2016年8月20日(土)、YEBISU GARDEN CINEMA他全国公開!http://songofthesea.jp/
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COLUMN/コラム2016.05.03
【DVD絶版】男子、厨房に入って散らかすシリーズ第1弾(2弾はあるのか!?) 『暗い日曜日』に出てくる“ビーフロール”ことルラードを作る!
「ザ・シネマSTAFFがもう一度どうしても見たかった激レア映画を買い付けてきました」特集で、ワタクシが激烈に推薦しております『暗い日曜日』。DVD絶版で鑑賞しづらい作品なのですが、これを買い付けてきてHDでザ・シネマでは放送します。 「暗い日曜日」という自殺ソング、これは実際にある曲なんですが、それに着想を得た物語です。この作品はサイトの解説もワタクシ自分で書きましたんで、まんまコピペしてきます。 「今もブダペストにあるレストラン、サボー。戦前、ユダヤ系の支配人サボーは父娘ほど歳の離れたウェイトレスのイロナと愛し合い、幸せな日々を送っていた。新たに雇ったピアニストのアンドラーシュにイロナが惚れたので、サボーは奪い合うより男2人で彼女をシェアする大人の関係を提案。だがその関係は次第にアンドラーシュの心を蝕み、ナチの脅威が迫ってハンガリーも右傾化し、社会が狂ってくる中、彼は、ある曲を作ってしまう。」 という物語でして、ザ・シネマ10周年記念対談の方ではさらに踏み込んだトークをしておりますんで、よろしければそちらも覗きに来てください。 さて、劇中でレストランのオーナーである主人公サボーさんが、ドイツから来た観光客のハンスに「ルラード」という料理の作り方について説明するくだりがあります。ハンスは「ビーフロール」と呼んでルラードをいたく気に入っているので、奴が非常に凹んでいる時に、親切なサボーさんは秘密のレシピを教えてやるのです。 「まず柔らかいヒレ肉を薄くスライスしてたたいておく。鍋にバターを溶かし、いい香りがしてきたらニンニクを入れる。丸ごとね。バターにニンニクの香りがついたら肉を入れてソテーする。中身は覚えているかい?ハンガリーのハムとチーズだ。薄くスライスしておく。だから一口切って食べると、舌に3つの味が広がる。その3つの全く違った味が、ふた口めで1つに溶け合うというわけだ」 ぐぬぅ!実に美味そうですなぁ!! 食えるもんなら食ってみたいが、日本でこれを食わせてくれるレストランがそうそう在る気がしない…。東京にはハンガリー・レストランが何件かありますが、本日(4/30)はゴールデン・ウィーク初日ってことで、こんな日には時間をかけて、ヘタの横好きで手ずから作ってみるとしましょうか。映画を見て美味そうな食い物を知り、そいつを食す、作る、ってのもまた、映画マニアの大いなる愉しみの1つなのであります。ではありませんか?俺だけか? このルラード、日本ではマイナーすぎるんで、レシピが全然見つかりません。「ルラード(Roulade)」自体は「巻いた物」って意味らしいので、ネットで検索するとチキンのやつとかいろいろと見つかるんですが(ロールケーキもRouladeと呼ばれてるようで、ヒットしちゃう)、上記のサボーさんの言っているようなルラード、ハンスが言う「ビーフロール」みたいなハンガリー料理のレシピが、これが容易に見つからないんだなぁ。なので、今回は海外のサイトを何カ所か参考にしました。特にパクリ元にしたのがココのブログ。 このメインぱくり元に加え、他のサイトと、サボーさんの前出のセリフと、あと本編映像を一時停止して何度も何度も観察する、ということで、劇中に近いルラードの再現を試みております。以下、当コーナー初となる、レシピです。 【材料(男のデタラメ料理なので分量は超適当)】 ニンニク レモン 赤いパプリカ ほうれん草のベイビーリーフ 生マッシュルーム エシャロット イタリアン・パセリ 牛ヒレステーキ肉 マンガリッツァ・ハム ハヴァティ・チーズ パルメザン・チーズ 生クリーム ニョッキ 白ワイン バルサミコ酢 チキン・スープ・ストック ディジョン・マスタード 【作り方】 ①まずマリネ液を作っておく。大きめのタッパーにレモン1個を絞り、バルサミコ同量を加え、そこに細かく刻んだニンニクを入れ、混ぜる。 ②牛ヒレステーキ肉をラップで包んで、ミートハンマーで均一に薄くなるまで叩く。できれば形よく長方形に整えたい。塩と挽きたての黒胡椒で両面をシーズニングする。 ③マリネ液に肉を漬け込む。少なくとも30分、できれば数時間、ニンニク風味の強さがお好みならば一晩、冷蔵庫に置いて両面をよくマリネする。 ④焼きナスと同じ要領で“焼きパプリカ”を作る。アルミホイルで二重に包んだレッド・パプリカを、ガスコンロに直に置いて直火で20分間焼く。5分おきにトングで少しずつ回転させていく。20分たったらホイルをめくり、真っ黒に炭化した皮を丁寧に剥がしていき(これが骨が折れる)、ヘタと種を取り除く。これを細切りにし、後で使う具材として横に取り置いておく。 ⑤十分にマリネされた肉をまな板に広げ、たっぷりのディジョン・マスタードを裏側(具を乗せる面)全面に塗る。 ⑥肉の上に具を乗せていく。ほうれん草のベイビーリーフ、マンガリッツァ・ハム、パプリカ細切り(最後の飾り用に少し残しておく)、ハヴァティ・チーズの順に。ヘリは2〜3cmほど具を乗せずに空けておく。最後にパルメザンをチーズおろしでふりかける。 ⑦肉をきつく巻いていく。こぼれた具も拾って肉巻きの中に押し込もう。まな板の上に閉じ目を下にして置き、ほつれないようタコ糸でしっかりと縛る。 ⑧オーヴン対応の中鍋を中火で熱し、大きなバターひとかたまりとオリーブ・オイル同量を入れ、バターが溶けて鍋に油がよく回ったら、潰したニンニク1かけを入れて香りを十分に引き出す。 ⑨その鍋に肉巻きを投入し、時おり回転させて全面に色がつき渡ったら、鍋ごと230℃に予熱したオーヴンに入れて20分間熱する。それと⑩で作るニョッキ用の湯をここらで大鍋で沸かし始めること。20分たったらオーヴンから鍋を出し、肉巻きを取り出してアルミホイルで包んでおき、ソースを作る間の10〜15分間冷ましておく(冷まさないと切り分けられない)。 ⑩その10〜15分間にソースを作り、ニョッキも茹でる。ニョッキは出来合いのものをパッケージの指示通りに茹でるだけ。ソースは、ソースパンでバターを溶かし、マッシュルームとエシャロットをソテーする。マッシュルームから水分が流れ出し、その水気が飛んで色が茶色くなりクタっとなってきたら、白ワイン1/4カップとチキン・スープ・ストック1/4カップを加え、分量が半分に減るまで煮詰めていく。最後に生クリーム1/4カップを加えてトロミが出るまでかき混ぜ、塩胡椒で味を整える。これでだいたい15分。 ⑪盛り付け。肉巻きのタコ糸を外して切り分ける。皿の真ん中にまずマッシュルーム・ソースを広げ、切り分けた肉巻きを置き、周囲に付け合わせのニョッキを盛り付けて、最後に彩りを加えるため、ニョッキの上にイタリアン・パセリを、肉巻きの上には残しておいたレッド・パプリカを飾る。 完成!実食!! こ、これはマジでシャレになってないですぞ!美味い!そして、食ったことのない味だ!まず、ニンニクを合計2カケも使ってますが、香りの主役は完全に焼きパプリカに持ってかれてる。口にするとパンチの効いたスモーキーフレーバーと、あの焼きナス的ビター感がまず広がります。次いで、レモン汁とバルサミコでマリネした牛肉の酸味の爽快サッパリ感が満ちていき、結構バターを使いまくってるにも関わらず意外としつこくはない。そして、マッシュルーム・クリームソースがこのワイルドな焼きパプリカの香りと攻撃的な酸味をマイルドにまとめ上げる、という絶妙な具合。こいつはイケる! と手前味噌ばかり言うのもさすがに恥ずかしいので、NEXTに活かすため、今回の反省点も記しておきましょう。まず、牛ヒレステーキ肉がウチの近所の肉屋に無かったので、実は今回は肩ロース肉を用いてる。安上がりに済んだけど、そりゃヒレよりかは多少硬い。ヒレ使っていれば、ナイフがスッと入るような柔らかさになったかもしれず、上品感がかなり増したでしょう。でも、それは大した問題ではない。次に、「ほうれん草のベイビーリーフ」なんて物は見たことも聞いたこともないので、冷蔵庫のサニーレタスで代用しました。さりとてこれも、だからといって大した問題ではない。 一番大きな問題は、ハヴァティ・チーズとマンガリッツァ・ハムです。この2つはTHE輸入食材!という感じなので値も張りました。ほぼ2000円近くがこれだけにかかってるんですが、費用対効果が薄すぎて、ハッキリ言って不経済。まずチーズ。元のレシピで2つ使えと指示されているうち、今回ハヴァティ・チーズが手に入らずパルメザン一種類だけでチャレンジしたんですが、焼き色を付けている時とその後のオーヴンで熱を入れる過程で、液状化したチーズが肉巻きからすっかり流れ出てしまうので、意味ねー!チーズの風味や、あのピザのような糸を引く感じが今回ほとんどありませんでした。 それとマンガリッツァですが、これもそんな生ハムみたいなものを内側に巻き込んだのでは、熱が入る過程で溶けて無くなっちゃって、食っていてどこにハム状のものがあるのか、サッパリわからないぐらいでした。 劇中のセリフでサボーさんは「舌に3つの味が広がる」と言っていました。チーズとハムと、そして牛肉のことですが、そのうちの2つがほとんど消えて無くなっちゃってるというのは、美味い不味いとは別の話として、失敗といえば大失敗でしょう! これを踏また上で、次に作る時には、まずチーズはハヴァティか、少なくとも「とろけるチーズ」的なものは必須で具材に加えるようにします。パルメザンだけでは不十分です。そしてハムは、マンガリッツァのような生ハム系ではなくて、ボンレスハムなどの熱が加わっても牛肉にも負けない食感がしっかりと残りそうなタイプのものを選ぶことにします。 にしても、一回目で失敗して、捲土重来を誓い、次回、雪辱戦!というのも、映画マニアのオッサンののん気な食道楽としては、なかなかに楽しみなものなのです。「おっ、あの時、軽く失敗したレシピに、今週末あたりもう一回トライしてみよう」ってスケジュールが土日の欄に書き加わるのは、毎日にちょっとした充実をもたらしてくれますぞ。■ LICENSED BY Global Screen GmbH 2016, ALL RIGHTS RESERVED
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COLUMN/コラム2016.02.16
ザ検閲官ストライクス・バック!〜『インモラル物語』後編、百合肉林とバチカン3P編、の巻〜
二度とやるまい、と心に決めていた、プロの映画ライターや評論家の方が映画評を書くべきこの場に、ザ・シネマのチャンネル関係者が分をわきまえず自ら駄文を寄せる、という禁を再び犯すことをお許しください。 前回、「ある検閲官の懺悔」と題して『インモラル物語』評を書いた際、文字数の関係で、4話オムニバスのこの作品のうち前半2話までしか言及できずに中途半端に終わったわけですが、今回、ヴァレリアン・ボロフチック監督特集という、ありえないマニアックな特集を組み、再び『インモラル物語』の放送権を買ってきてオンエアする運びとなりましたので、捲土重来、後半2話について書かせていただきます。 とはいえ、ボロフチック監督論といったようなことは、実は不肖ワタクシ、雑食系映画ライターなかざわひでゆき氏と、ザ・シネマ開局10周年記念シリーズ対談の第3回で、2時間以上にわたって語り尽くしておりますので、そちらの方もあわせてお読みいただきたく存じます。 今回ここでは、各エピソードで取り上げられている題材について解説します。ボロフチック監督、エロを描くのに夢中すぎて、題材にしている歴史上の人物の最低限の説明さえも省いており、その歴史的背景を多少は知っていないと物語がよく理解できないという嫌いが後半2話はありますので、解説する意義はあろうかと。 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ では早速、第3話から。第3話はエリザベート・バートリのお話です。 これは、劇中で何が起きているどういうストーリーなんだか、エリザベート・バートリ伝説を知らない人が見たらさっぱり解らなかろうと思うんで、そこを解説しましょう。 エリザベート・バートリ。オカルト愛好家や吸血鬼好きの人ならお馴染みの名前で、通称“血の伯爵夫人”。アンチエイジングにいささか熱心すぎちゃったオバサマでして、トランシルヴァニア公国の名門貴族バートリ家のご出身であらせられます。 嗚呼、トランシルヴァニア!浪漫ですなぁ!ドラキュラ伝説で有名ですね。ルーマニアに属し、「ルーマニアと言えばドラキュラ、ドラキュラと言えばトランシルヴァニア」といった連想が日本人でもすぐ頭に浮かんできますが、実はドラキュラ(のモデルとなった串刺し公ヴラドⅢ世)は、トランシルヴァニアとはあんまし関係なくって、ワラキア公だったんです。 ワラキア公国は今のルーマニアの前身で、一方トランシルヴァニアの方は、実は歴史的にはハンガリーの一部だったんですなぁ。 エリザベートはナーダシュディ家というこれまた名家の男と結婚するんですけど、あんまりにも名門すぎる実家バートリ家の姓を結婚後も名乗ったんでエリザベート・バートリと呼ばれ続けたのあります。 ちなみに、このトランシルヴァニア公国はハプスブルグ帝国と因縁が深く、ハプスブルグはドイツ語圏ということで「エリザベート・バートリ」はドイツ語読みでして、ハンガリー語では「バートリ・エルジェーベト」となります。我々日本人と同じで姓が先で名が後なんですな。ハンガリー人は民族大移動までさかのぼるともとはアジア系で、顔は白人化しても赤ちゃんにはいまだに蒙古斑があるぐらい。映画関連ですとユニバーサルの『魔人ドラキュラ』やエド・ウッドがらみで有名な元祖ドラキュラ俳優の英語名ベラ・ルゴシさんが、ハンガリーからの移民でして、本名はルーゴシ・ベーラと言うのです。 さて。伝説ではエルジェーベトは、召し使いに髪をとかしてもらっている時、たまたまグッと髪を引っ張られ、痛くてカッとなって手鏡かなんかで召し使いの顔面をしたたか殴打したところ、流血して血が垂れた。その血が付いた肌が若返って美肌になったような気がしたので、やがて領地の農民の娘を集めてきては殺し、その生き血を搾り取って風呂桶にためて半身浴する、という戦慄のエステを始めたと言われています。 映画ですと、美魔女もしくは美熟女ぐらいに見える美人女優さんをキャスティングしてきて、「美人だったからビューティーへの執着が強すぎて狂った方向へと暴走しちゃったんだ」という解釈に大抵はなってますが、実はこの時、史実のエルジェーベトは6人の子持ちの40代〜50歳(50でタイホ)という年齢だったのです…。あのスンマセン、ちょっとだけガッカリさせてもらってもよろしいでしょうか…。 この血まみれ美肌術の犠牲者は600人以上とも言われてます。スキンケア目的オンリーならせめて効率的に血だけ抜けばいいようなものを、被害者に対して無意味にサディスティックな拷問も加えており、いたぶって愉しんでもいたらしく、むしろそっちの方が主目的だったのかもしれない。典型的なサイコパスですな。 で、まずここです。普通、バートリ・エルジェーベトを映画化するんなら、このエロ・グロ・サドな出来事が当然メインとなり、観客の怖いもの見たさのゲスい好奇心を満たすのが常道というもの。作品はおのずとホラー映画のおもむきになっていく。それと、劣化を気にしていたエルジェーベトがピッカピカの美魔女として完璧に仕上がるビューティー殺シアムなくだりは、特殊メイクの見せ場になります(老舗ハマープロ作品なのにマンネリから脱するためヌードシーンを盛り込んだりと、挑戦的な内容になってる71年の『鮮血の処女狩り』なんかはそれ)。 しかし、本作では全然そこにウエイトを置いてないのが、さすがボロフチック監督。まず、処女たちがサディスティックに殺される場面は一切描かれません。そこを省略して、一気に話が飛んで血の風呂にエルジェーベトが浸かるところは出てきますが、これもホラーチックに演出するのではなく、わずかに脂肪が混じってるような、少しベタッとした鮮血が、入浴者の女体にどうまとわりつくか、をキャメラは舐め回すように追うだけで、エロティックであってもグロテスクではない。こんな描き方したのはボロフチックさんだけです。 さて、再び史実に戻りましょう。被害者の1人が脱出に成功したことからエルジェーベトの犯行が明るみに出る。いかんせん彼女が名門出身すぎて捜査も裁判も大がかりなものとなり、ハンガリー副王が自ら指揮を執ることに。エルジェーベトの犯行に加担した彼女の手下どもは拷問の末に自供させられて全員処刑されます。が、しかし。彼女はあんまりにも名門すぎちゃって処刑もできない。そこで仕方なく、城の自室に閉じ込めてブロックを積み上げドアをふさぎ、窓も塗り固め、ブロック1個分だけ穴を開けといてそこからメシだけは与える、という形で、死ぬまで拘禁することになります。便所もなくて尿は垂れ流し糞は山をなす。その状態で彼女は3年以上も生き続けたとのこと。 ここも、映画的には大変おいしいエンディングになるところですな。観客の処罰感情を大いに満たしてくれる。別の言い方をすれば、観客自身の内にも潜むサディズム的欲求を程よく満たしてくれるんですから、おいしいエンディングだと言っていいでしょう(73年のスパニッシュ・ホラー『悪魔の入浴・死霊の行水』はグロ描写も容赦なかったが、特にこのラストが秀逸!ブロック1個分の穴から差し入れられたメシの食い残しが数週間・数ヶ月分たまってハエがたかり青カビも生え、そんな室内で激しく劣化したエルジェーベトの老いさらばえた顔が映って終わり。後味悪くて超最高!)。 しかし、我らがボロフチック監督は、やはりそこも華麗にスルーです。そんな汚らしいとこは描こうとしない。とにかく本作の本エピソードで描かれるのは、女体・女体・女体! エルジェーベトがおぼこい田舎娘たちを集めてきて、全裸にして湯浴みで体を清潔にさせ(乙女たちは百合チックに違いの秘所を石鹸で洗いっこしたりする)、後で殺すってことを黙っておいて宝石とかを大盤振る舞いし、全裸の処女たち大喜び百合肉林の図が展開!そのうち、くんずほぐれつの宝石ひったくり合い全裸キャットファイトへとエスカレート!!といったところが本エピソードのクライマックスになるのです。 とにかく、こんなバートリ・エルジェーベトものは他には無い!悪名高き「血の伯爵夫人」を題材に、こんな映像に仕立てようと思うのはボロフチックさんだけです。唯一無二の、徹底的に耽美な、絢爛たる百合絵巻なのであります!嗚呼、眼福眼福! 最後に、ついでなので、近年のバートリ・エルジェーベト映画をあと2本ご紹介しときましょう。 日本で昨年DVDが出たばっかの08年製作『アイアン・メイデン 血の伯爵夫人バートリ』。スロヴァキア・ハンガリー・チェコ・英仏合作と、英仏はともかくとして本場で制作されてる作品です。凄惨な事件の舞台となったエルジェーベトの城がなんと今も残っていて現在はスロヴァキア領となってるんですが、その本物の城址でロケを行ったりもしています。本作は「エルジェーベトは悪くないもん!」的なストーリーで、すべては濡れ衣だった、政治的な陰謀だった、“血の風呂”というのも実は赤っぽい色のただの薬湯だったんだ(いくらなんでもそりゃ無理あるだろ!)、と、「血の伯爵夫人といっても、実は怪物などではなくて、1人の気高き女性政治家だったのだ」的ないわゆる“現代的再解釈”が試みられています。その場合に鍵となるのが、カトリックとプロテスタントの宗教対立。エルジェーベトはプロテスタントなんですが、カトリックのハプスブルグ家がこの地域に影響力を及ぼそうとしており、ハンガリー貴族の中にはカトリックの親ハプスブルグ派もいてエルジェーベトと対立しており、そこにさらにオスマン・トルコ帝国の侵略が重なって三つ巴でしっちゃかめっちゃかだったのが当時のハンガリー。そんな政治情勢下でエルジェーベトはカトリック派により濡れ衣を着せられたんだ、という解釈になっています。歴史的にはこういう説も確かにあるにはあるんです。 そしてもう1本、09年独仏合作『血の伯爵夫人』は、出演ジュリー・デルピー、ダニエル・ブリュール、ウィリアム・ハートと、バートリ・エルジェーベト映画史上最高の豪華キャスティングが実現。しかもジュリー・デルピーは主演のみならず脚本・製作・監督・音楽ぜんぶこなすというイーストウッドばりの入魂っぷりです。アート&エロとしては今回ウチで放送するボロフチックさんのやつがぶっちぎりトップですが、ドラマとしてはこれが一番よくできている。「恋に破れたのは劣化のせいだ、どうせ男は若い女の方がいいんでしょ」という苦悩をジュリー・デルピーが等身大に演じていて、ドラマがきちんと共感可能なリアリティをともなって描かれており、安いホラー専属女優なんかが出てるのとは格が違うさすがの出来栄え。歴代のバートリ・エルジェーベト映画で、この“恋に狂った鬼女の切なさ”を出せているのはデルピーだけかも。それにグロも満載で、ご存知でしょうか「鉄の処女」という有名な拷問器具があるんですが、それの使用シーンもバッチリ出てきて見所の一つになってます。その上、史実にも一番これが忠実と、バートリ・エルジェーベト映画で最初まず1本どれ見ようかというのならこれをお勧めしときます。 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 次いってみよ。第4話はルクレツィア・ボルジアのお話ですが、父アレクサンデルⅥ世、兄チェーザレ・ボルジアとの近親相姦3Pが延々と描かれます。ボロフチック監督はボルジア家についてや歴史的背景についてなんかは一切説明しようとせずに、ひたすら3P描写に徹してますんで、ワタクシとしてはちょっとそこらへんを補足説明することにいたしましょう。 時は15世紀ルネサンス期。ローマ教皇アレクサンデルⅥ世というとんでもない生臭坊主がおりました。イタリアという国は天下統一がなされず、後々まで小邦分立状態が続いたのですが、その群雄割拠のイタリアでは、ローマ教皇は「教皇国」という国家の元首でもあったのです。つまり、全カトリック世界の宗教上のトップであると同時にイタリアの一戦国大名でもあるという二重の立場だった。陰謀と暗殺を駆使する“イタリア版まむしの道三”か?将又、聖俗を自在に往き来し暗躍する“イタリアの後白河法皇”か?そんな感じの、とっても生臭〜い人です。 で、その教皇アレクサンデルⅥ世は、教皇国の勢力拡大、ゆくゆくはイタリア天下統一という野心を抱き、自分の子供たちをその目的のための駒として使いました。 まずはコネでカトリックの重職に就けた息子のチェーザレ・ボルジア。18歳の若さで枢機卿団に列せられ、24にして還俗してからは教皇軍の司令官として兵馬の権を握って能く軍を率い、あわせて、政治家としては権謀術数の限りを尽くしイタリア天下統一を推し進め、それを果たせないままわずか31で戦場に果てた漢。さしずめ“イタリアの織田信長”といったところですな。駒に使われたというよりも親父の権威をむしろ自分の野望のために利用したと言っていい、親父を上回るクセ者です。なお、余談ながら、同時代人の外交官マキャヴェリはチェーザレの敵国人としてチェーザレと直接外交交渉を繰り広げましたが、その政治的したたかさを高く評価し、著書『君主論』の中で絶賛。「マキャヴェリズム」とはイコール「チェーザレのような生き様」のことであり、チェーザレ・ボルジアは、人間の一典型、ステレオタイプとして永遠の存在となったのです。 そして、娘のルクレツィア・ボルジア。絶世の美女で、父と兄によって政略結婚の駒として使われ3度も嫁がされてます。まさに“イタリア版お市の方”。最初の夫はミラノの御曹司でした。映画の中で、黒い貴族風の衣装をまとっている、へなちょこ顔の男が出てきます。クッキーを勧められ毒殺をビビりまくって食べないというコントを披露する男です。まぁ毒殺はボルジア家のお家芸なのでビビるのも無理はないんですけど、あの男がその御曹司。で、父まむしの道三と兄の信長が、その御曹司の利用価値が低くなってルクレツィアを別の有力諸侯に嫁がせようと判断した時、強引に別れさせようとします。御曹司を暗殺しようとしたとも言われてる。 で、この時です。別れさせられそうになった御曹司が、「妻ルクレツィアは実の父・兄と近親相姦関係にある!」と爆弾発言をして逆襲に打って出た。ヨーロッパでは、誰かを貶めて政治的に失脚させようとする時「あいつは近親相姦してる!」と究極の誹謗中傷をするというゲスい伝統があるんです(はるか後の世にかのマリー・アントワネットも、逮捕された後「息子の王太子と近親相姦してた!」と革命裁判で濡れ衣を着せられそうになってます)。 これに対し「御曹司はインポだからこの結婚は無効だ」とボルジア家の方でも反撃に出て、近親相姦疑惑vsインポ疑惑という、これぞまさしくゲスの極みな論戦が巻き起こり、結局、最終的には勝負はボルジア家の勝ち。しぶしぶ「はい、私はインポでございます」と公式に認めさせられて御曹司が引っこむ形になりました。 この時ですね、映画で描かれているのは。発情した種馬の絵を父と兄妹でイヤらしくニヤニヤ眺めながら、娘婿をからかう、というくだりが出てきますが、そういう経緯があったのです。 御曹司と正式に別れる前、ルクレツィアは、パパの部下で自分とパパとの連絡係を務めてた美男とSEXしてデキちゃった、との風説が出回ります。お相手の美男は哀れ兄貴チェーザレに叩き殺されちゃう。チェーザレからしてみれば「絶世の美女の妹ルクレツィアなら政略結婚の駒として使い道がいくらもあるのに、それを連絡係風情が手出して孕ませて使い物にならなくしちゃいやがってコノ!」ということで、全身政治家としては激怒するのも無理はない。しかしこの時も「チェーザレが妹萌えで、だから嫉妬に狂って美男を叩き殺しんたんだ」というデマが飛びます。 なお、映画の中でチェーザレは赤い服をまとっていますが、これは「緋の衣」といって枢機卿のユニフォームですんで、この劇中の時点で“イタリアの信長”ことチェーザレはまだ還俗して軍人になってはおらず、枢機卿としてバチカンにあったということですな。写真の奥、枢機卿の「緋の衣」を着ているのがチェーザレです。一番右の「三重冠」というやつをかぶっているのが教皇、つまり“パパ”です。 とにかくですねぇ、ルクレツィアが父親が誰かよくわからない子供を出産した、というデマが存在しますので、それがこのエピソードの終わりの方では描かれているんですわ。 といったようなことでして、彼らの生前から噂されていた下世話な噂を、ボロフチック監督はこの第4話で映像化してみせたわけです。登場人物たちが、そういう歴史上の実在の人物なんだ、“イタリアの信長”、“イタリアのお市”、さらに“イタリアの道三”みたいな連中なんだ、ということは、踏まえた上でご覧いただいた方がいいでしょう。 あと、このエピソードでは時おり教皇庁の腐敗を叫ぶ狂信者みたいな男が出てきますが、これはサヴォナローラというドミニコ会の修道士。メディチ家が栄華を極めたルネサンス芸術の都フィレンツェで、メディチ家に取って替わって実権を握り、神権政治を実施。「虚栄の焼却」なぞと称してルネサンス美術を燃やしたり焚書したりした、まぁ、ISみたいな男です。こいつが燃やしてなかったら今日に伝わるルネサンスの人類的遺産はもっと多かったはず。ボロフチック監督、こういう手合いが生理的に大っ嫌いなんでしょうなぁ。ボルジア家の3Pは批判的に描かないくせに、この男のことは一片の同情もなく描き捨てている。まぁ、近親相姦のタブーを犯すよりも、芸術を焼き滅ぼす方が、後世への罪ははるかに重い、ということなんでしょう。 「本を焼く者はやがて人間を焼く」と言ったのはドイツのユダヤ人ロマン主義詩人ハイネで、それはナチスの所業を予言しましたが、サヴォナローラさんは他人を焼き殺す前に自分が焼かれちゃった。“イタリア版まむしの道三”教皇アレクサンデルⅥ世によって教会を破門されて、最期は自分が火刑台の灰になるという末路をたどったのです。 もし将来、「ボロフチック監督の映画は猥褻で不道徳だからフィルムを焼け!」なんて言い出す輩が現れた時には要注意、ってことですな。■ "CONTES IMMORAUX" by Walerian Borowczyk © 1974 Argos Films
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COLUMN/コラム2015.07.11
ある検閲官の懺悔〜『インモラル物語』〜
ワタクシ、ザ・シネマ中の人です。どうしてもこの作品については自分で書きたかったため、プロのライターさんに執筆をお願いしているこの神聖な場にまで、しゃしゃり出てきてしまいました。 こんな商売やってる人間ではありますがワタクシ、家に映画のポスター類はたったの1枚しか貼ってません。映画のスチール写真がいっぱい手に入る立場なので、役得で、そういうのを安いIKEAのフォトフレームに入れて壁中に飾りまくる、という、ちょっと一般の方には真似のできないインテリア・コーディネイトができちゃいますんで(イヤらしい自慢話でスイヤセンねぇ)、市販のポスターは要らんのです。ただ1枚の例外、それが『インモラル物語』のものでして、それぐらい心酔しとる作品なのであります。 この映画を作ったのは、Walerian Borowczykというポーランド人の監督です。Wikiによると「ワレリアン・ボロズウィック」、過去に出たDVDでは「ワレリアン・ボロウズウィック」、「ヴァレリアン・ボロヴツィク」などと不統一にカタカナ表記されてきましたが、我がザ・シネマでは、原音に近い「ヴァレリアン・ボロフチック」と表記することにしました。今後これで定着させていきたいです。よろしくお願いします。 ザックリ言ってエロ映画の人です。ラス・メイヤーとか、ティント・ブラスとか、カトリーヌ・ブレイヤとか、ポルノと映画の境界線上にいるような映像監督っていますよね。そっち系の人です(我ながら乱暴なレッテル貼り…)。 もちろん、上記の銘々がそれぞれ確固たる作家性とか個性とかを持ってる。ではこのヴァレリアン・ボロフチック監督ならではの味とは何か?それが一番効率よくわかるのが今回放送する代表作『インモラル物語』なんですな。なんとなれば本作、オムニバスだからです。ショーケース的に全部が詰まってるんで。 まずオープニング・クレジット。黒背景に白のセリフ体フォントで文字が書かれ、それが細い罫線で囲まれているデザイン。シンプルだけどカッコいい!絵画を学んできた人だけにセンスある!この洗練されたデザインは各話のタイトルとしても出てきます(他作でも)。そしてオープニング・クレジット最後=本編直前に、「いかに愛が心地よくとも、愛の多様な形の方がはるかに心地よいーーラ・ロシュフーコー」という箴言の引用が入って、いよいよ4つの“愛の多様な形”を描いていく本編の幕が上がるのであります。 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 第1話は「満潮」。20歳の男子が、16歳の従姉妹を連れてチャリで海へと出かけます。男子は命令調で支配的なタイプ。女子はとことん従順タイプ。2人とも線が細くて色白な、似ている従兄妹同士。その日、空は曇天、波は荒れ模様。男の方はM-37デニムハット風の帽子に、パーカーにジーンズにHUNTER風ゴム長という出で立ちで、女子の方は黒ビキニの水着の上から透け感のあるリネンのチュニックを羽織って、チャリで出かけていきます。2人ともオシャレですなぁ。可愛らしいカップル。 あえて衣装について詳述したのは、まったく時代を感じさせないベーシックなスタイルだから。いま見てもちっとも色褪せてなくて、流行を超越してる。女子は髪型・眉型ナチュラルだしスッピンなので時代を感じさせる手がかりはほとんど無く、今年の映画だと言っても通用するぐらいですが、実は1974年製作なのです。幼さを残すヌードが忘れがたい、ソバカスも可愛い16歳従姉妹役のこの若い女優さんも、今は50を軽く超すオバチャンのはずですが、その2015年現在の姿をまるで想像できない。不思議な不朽感を持った映画です。劣化してない。 この従兄妹同士2人が海辺に着きまして、断崖絶壁がそそり立つひと気の無い岩陰で2人きりになり、何をするのかと言えば、「いとこ同士は鴨の味」なぞと申しますけれど、まぁ、その手のことですわ。満潮になるその一瞬のタイミングに合わせて、男子が従姉妹に“お口でイカせてもらおう”という、しょうもないことを試みるのです。年の近い若い親戚男女2人による、秘めやかなセクシャル・チャレンジであります。 お話の中身は、以上です。話は有って無きようなもの。あとは、チャリのペダルを漕ぐほどに増す海の気配、やがて目の前に一気に開ける海岸、草がなびく砂丘を駆け下り、海藻の付着した岩場を踏み越え、コケて足を切って血を流したりしながらも、断崖絶壁の真下までたどり着き、そこで男子はジーンズのポケットから潮汐表を取り出して時間を調べ、満潮時の波打ち際MAXギリギリに2人して寝転んで、男子はジーンズのチャックを下ろし、そしてついに、従姉妹は、横たえた全身に波をかぶって口内に塩味を感じながら、従兄弟に“お口でご奉仕”を始める、という、ただそれだけのエピソードなのです。 そこにはドラマも何もないんですけど、これを、とことん美しく描き上げようというのが、ヴァレリアン・ボロフチックという監督の味。監督・脚本だけでなく、編集も手がけているんですけど、ドン引きのロングショットや、身体のセクシーな部位に寄った極端なクローズアップが頻繁に差し挟まれるのが、この監督の特徴です。第1話の場合ですと、従姉妹の唇の異常なまでのアップが何度も何度も入ってきます。唇の縦ジワ、薄い色のホクロやソバカス、薄っすら生える可愛らしい産毛=女子ヒゲ、舌のザラザラ感や舌裏のなんとも卑猥な構造までも、監督は執拗に撮り続け、デカデカと全画面に映し出します。 ワタクシが唯一の例外として部屋に飾っているポスターは、この、従姉妹の唇のどアップという絵柄でして、これは本作を象徴するメイン・ヴィジュアルでもあるのです。 美しい。美しすぎるエロであります。時は90年代。VHSでの初見時、ワタクシは大学生。AVは山ほど見ておりました。自慢じゃないが童貞でもありませんでした。しかし、エロとは、性とは、これほどまでに美しい営みだったのか!ということを知らずに二十歳過ぎまで生きてきちゃってたのです。なんたる無知!エロは美しかったのであります!なんたる衝撃! ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 第2話は「哲学者テレーズ」。舞台は19世紀末。宗教的に厳格な家庭の子女テレーズは、厳しい母親に外出を咎められ、物置部屋=お仕置き部屋に閉じ込められますが、そこで見つけてしまったカビ臭い古書が、フランス革命期(劇中の時点からさらに100年以上前)に流行った作者不明の有名なエロ小説『女哲学者テレーズ』。ページを繰るごとにあらわれる100年前の猥褻な挿絵に興奮した彼女は、密室なのをいいことに、ひとりHに夢中になる、という、これまたストーリーなど有って無きがごときエピソードであります。でも、いいんです。それ求めてないし。 この第2話は、とりわけヴァレリアン・ボロフチックらしさ全開のエピソードになっています。「宗教的に禁圧しても抑えきれない女性の自然な性欲」ということが割とよくテーマとして取り上げられるボロフチック作品。代表作『罪物語』(1975年)とか『修道女の悶え』(1977年)なんかはまさにそのテーマを膨らませドラマ性を持たせた作品と言えます。テーマ的に、いかにも“らしい”のが本エピソードなのです。 それと、ボロフチックさんは監督・脚本・編集だけに飽き足らず、さらに美術まで手がけているワンマンぶりなのですが、ヴィジュアル面の趣味こだわりもハッキリしてる人でして、特にこのエピソードにはボロフチック流プロダクション・デザインが横溢していて趣味性全開。お仕置き物置にある、薄っすらチリの積もったような、19世紀末ヴィクトリアン調の古道具の数々の、なんとも味のあるレトロ趣味に、見ている方も思わずウットリです。 第1話で見られた極端なクローズアップも健在で、本エピソードでは、部屋にかけられた古いエッチングの肖像画(万札の諭吉みたいな絵)が、どアップのインサートカットで時折映し出されます。プライバシーで守られるべき個人の性的な秘め事をジッと見つめる他者視線、という禁忌感を出そうとしてるのでしょうか?それとも、取り澄ました顔したこの肖像画の人物たちも、生前は性的な営みに励んでいたんだ、人間みんな同じだ、と言いたいのか? とにかくこの「肖像画や彫像がインサートでアップで入ってくる」という演出も、ボロフチック映画の顕著な特徴です。 さて、古道具や古い肖像画のアップを短切に切り返しながら、キャメラはやがて、この物置部屋に漂っている、かすかなホコリ臭さカビ臭さまでをも撮らえていきます。これなんかもボロフチック映画の持つたまらない魅力ですな。先にもあげた代表作『罪物語』(1975年)や、『邪淫の館・獣人』(1975年)などでも見ることができますが、「ホコリ美」とでも造語を作って呼びたくなるような独特の空気感。枯れ感。それは、ハリウッド映画ではもちろん、イギリス、フランスあたりのヨーロッパ映画でさえお目にかかったことのない、本物のヨーロッパ感です。強いて言えばヴィスコンティやベルトルッチといったイタリア勢の描く“西洋の没落”感にはちょっとは近いかもしれませんが、あれらはゴージャスすぎて「ホコリ美」じゃありませんからやっぱり別モノです。もっと蒼枯としていてホコリの漂う、そして、そのホコリさえも美しいと思わせるような、本物のヨーロッパの枯れ感なのです。 同じ中欧ということで強引に十把一絡げに扱うつもりは毛頭ないのですが、たとえば、チェコの、シュヴァンクマイエルやカレル・ゼマンのアニメーションにある、あるいは『闇のバイブル 聖少女の詩』や『カルパテ城の謎』といったチェコ怪奇ファンタジー映画にある、あの独特のレトロな美。あれに近いものがあって、あの感じから幻想風味を抜いてヒストリカル&リアリスティック風味を足したような感じの映像表現なのです。 そんな空気感に包まれて、ひとり息を弾ませ指遊びに耽るいけないテレーズ嬢。テレーズを演じるシャルロット・アレクサンドラは、女流エロ監督カトリーヌ・ブレイヤの『本当に若い娘』(1976年)でもヒロインを演じているポチャリ姫。彼女の豊満な真っ白いプニョンプニョンな肌が、カビ臭い、ホコリ臭い、乾いた室内で次第にピンク色に上気していき、汗ばんでいきます。ホコリ臭さに体臭がまじったにおいを確かに嗅いだような錯覚を、映画を見ていて禁じえません。 美しい。美しすぎるエロであります。ただ女のオナニーを描いただけの、物語性のまったくないお話なんですが、いいんです。それを求めてはいけない。美を求めてください。 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 第3話以降をこの調子で紹介していくには紙幅が尽きてしまいましたので、最後にイヤらしい自慢話をもう一発。前述の、性的な身体部位に寄ったクローズアップの頻繁な挿入、というボロフチック流演出ですが、この演出において監督がいちばんアップにしたがるのは、実は女性のヘアなんです。この映画、ヘアがどアップで映る映る!で、ここからが自慢話なんですが、立場上、ワタクシ、ノーモザイクで字幕も入っていない、業界用語で言う“白素材”という状態でこの映画を見る立場なワケです。そこからモザイクをかけたり字幕を入れたりするのが仕事ですからね。ということでノーモザイクで見ちゃいました!いいのでしょうか?良い仕事に就いたもんだ。 美しい。美しすぎるヘアなのであります。モザイクから解き放たれた陰毛は、モジャモジャと萌えいづる生のたくましさを感じさせます。性=生の営みを描く映画として、この、萌えるようなヘアをアップで映すということには、ちゃんとした意味がある。 そのヘアにモザイクをかけないと、いちおうテレビですので、現在の日本国ではそのまま放送はできませんから、強烈な冒涜感と罪悪感に苛まれながらも、泣く泣く仕事としてモザイクをかけたのであります。検閲官の苦悩であります。 この映画、美しすぎるエロだと評しました。つまり、それっていうのはとりもなおさずアートということに他なりません。かつて、16世紀、ミケランジェロの作品の股間を葉っぱで隠そうという“イチジクの葉運動”という馬鹿げたムーブメントがありました。19世紀、マネの裸婦画「オランピア」がサロン・ド・パリでナンセンスな批判の対象になりました。攻撃する側はいつの世も「有害だ」と言って叩くワケですが、叩く側と叩かれる側と、どちらの側が人類の文明にとって有害な/有益な存在か、歴史の出すファイナル・アンサーはたいがいの場合、決まっとるのです。検閲官は常に歴史の敗者です。 ヴァレリアン・ボロフチック監督の作品は歴史ものが多い。本作も第1話は現代ですが、第2話は1890年、第3話1610年、第4話1498年と、様々な時代を舞台にしています。いつの時代も人間存在は性的欲望に悶えている、ということがボロフチック監督の一大テーマであり、さらに作品によっては、「それを抑圧しようとするヒステリックな勢力と、抑圧されまいとする人間の自由な性欲」といういつの世にも通じる対立構造を描いてもいます(本作なら第2話と4話)。 …抑圧したくてしてるんじゃないんですけどねぇ。仕事なんです勘弁してください。ボロフチック監督、スンマセン!いつかワタクシの方が間違っていたと、歴史の審判が下ると覚悟しとります。■ "CONTES IMMORAUX" by Walerian Borowczyk © 1974 Argos Films
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COLUMN/コラム2014.01.31
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2014年2月】飯森盛良
車名がタイトルになってるくらいの本作。72年型フォード グラン・トリノというクラシック・カーが、物語上、重要な意味を担わされてます。ただしそのウンチクは、公開時からいろんな所で語られてきましたので各自ググっていただくとして、今回ここではもう一つの、あまり言及されてこなかった超重要アイテムが持たされてる意味について書きます。 イーストウッド演じる主人公が、若かりし軍隊時代に授与された、勲章。これは「シルバー・スター勲章(銀星章)」というもので、「敵武装勢力との戦闘中に示された勇敢さ」に贈られる、いわば“勇気の勲章”です。イーストウッド演じる主人公は、朝鮮戦争中、敵を独りで全部斃した。まるで若い頃イーストウッドが演じていたヒーロー役のように。で、この勲章を授与されたんですが、殺戮の記憶はトラウマとなって残り、戦後の長い歳月ずっと彼の心を蝕み続け、彼に最晩年はレイシストの偏屈ジジイになるしかない人生を歩ませてしまった…実は“呪いの勲章”なのです。 それを、近所の小僧にあげちゃう、という展開になります。なぜイーストウッドはこの勲章を小僧にあげちゃうのか? これを贈られるのは、敵との抗争において、普通の人間にはまず絶対に真似のできない勇気ある振る舞いを見せた者に限られます。イーストウッドのように敵を斃しまくる(そしてその後ずっと悪夢に苛まれる)、そのさらに上を行くほどの、真に“勇気の勲章”に相応しい途方もない勇敢さとは、一体どんな行いなのでしょう!? 余談ながら、ご存知ランボーって漢はシルバー・スターを2度授与され、その上の最高位勲章までもらってる。まさに超人。あと、以前当チャンネルにて放送した『アーマード 武装地帯』の主人公も、イラク戦争でシルバー・スターをもらってました。彼は強盗団と戦います。ビビりながらも、たった独り命を賭けて、何の得もないのに正義のため悪漢どもと戦う、という「オレなら絶対しねー」ということを主人公はやってのける。なぜならシルバー・スター受勲者だから!これだけでもう、ロジックとして十分成立しちゃうんです。説得力あるんです。と、いう訳で、勲章の意味をちょっと知ってると、アメリカ映画がさらによく解って楽しめるようになりますよ、というお話でした。 ©Matten Productions GmbH & Co. KG