ザ・シネマ 尾崎一男
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COLUMN/コラム2022.05.24
『トップガン』 - 革命的なジェット戦闘機アクション誕生の背景 -
◆戦闘機版『地獄の黙示録』を起点とした企画 インパクトと主張の強さを覚えるタイトルは、アメリカ海軍パイロットのエリート養成訓練校を示す俗称だ。この一握の精鋭たちが属するアカデミーが舞台の映画『トップガン』は、海軍飛行兵の精鋭ピート“マーヴェリック”ミッチェル(トム・クルーズ)を主人公に、彼が戦闘機訓練や軍人としての人間関係を経て成長していく姿を描いた、1986年製作のアクションロマンスである。 ロックとポップソングで構成されたサウンドトラック、そして洗練されたビジュアルスタイルやハイテンポな編集はMTVカルチャーとの並走により築き上げられたもので、このアプローチを牽引力に、本作は視覚的にも音響的にも現代アクションのメルクマールとなった。結果として映画はヤング層を魅了し、世界規模において大ヒットを記録。当時はまだ駆け出しの若手俳優だったトム・クルーズのキャリアを一気にスーパースターへと押し上げた。同時にその口当たりのいい表層的なアプローチが「ポップコーンムービー」などと称され、外観に凝り中身のない作品だと揶揄される言説も過去にはうかがえた。だが映画史において画期的な作品であることは、改めてここで示しておかないといけないだろう。 なによりも『トップガン』は、ジェット戦闘機をフィーチャーしたミリタリーものとして最大の特徴を有し、同ジャンルを開拓した映画として並々ならぬ価値を放つ。当時、現物のジェット戦闘機を主体とした作品自体が少なく、かろうじて挙げられるのはデヴィッド・リーン(『アラビアのロレンス』(62)『ドクトル・ジバゴ(65))が1952年に発表した『超音ジェット機』か、あるいはロケット機ベルX-1が音速の壁を破るシーンを描いた米宇宙開拓史映画『ライトスタッフ』(83)くらいしかなかった。理由は複合的なもので、大きくは映画に必要な現用機は軍事機密の塊で、商業映画に用いるのに米国防総省=ペンタゴンが難色を示していたこと。そして技術的な点では、飛行ショットをカメラに収めるのが非常に難しいことなどが挙げられた。 この企画を始動させたのは、当時『フラッシュダンス』(83)『ビバリーヒルズ・コップ』(84)などの慧眼に満ちた諸作で、パラマウント映画のヒットに貢献していたプロデューサーのジェリー・ブラッカイマー。彼は1983年、米カリフォルニア・マガジン5月号に掲載されたエフド・ヨネイのノンフィクションルポ「TOP GUNS」を目にし、海軍戦闘機兵学校の訓練プログラムを受けるF-14パイロットに迫ったその内容に惹かれ、映画化を切望。ペンタゴンを説得し、映画の実現へとこぎつけていったのだ。 そして本作が視覚性を重視することから、監督はトニー・スコットに白羽の矢を立てた。スコットは当時、テレビコマーシャルの世界を経て優れた映像スタイリストであることを示しており、またデヴィッド・ボウイ主演の吸血鬼映画『ハンガー』(83)で商業長編映画デビューを果たしている。だがその内容は観念的で重苦しく、およそ娯楽的な要素からはかけ離れたものだった。そのため戦闘機アクションというテーマに難色を示していたが、先に商業映画デビューを果たしていた兄リドリー・スコット(『エイリアン』(79)『ブレードランナー』(82))に触発され、自身もメジャーの大きな舞台に立とうとプロジェクトに挑んだのだ。 しかしやはりというか、プリプロダクションの時点では『ハンガー』に程近い、戦いのためのエリート部隊の苦衷を描く暗いテイストの内容だったようだ。ヨネイの記事がリアリティを重視した迫真的なものだったことから、企画当初はフランシス・コッポラが手がけたベトナム戦争映画『地獄の黙示録』(79)のように混沌とした戦闘スペクタクルが検討されていたともいう。しかしペンタゴンの協力を経るため、幾度かのプロット見直しがはかられ、海軍への入隊を促進させるような、プロパガンダ的な性質を持つストーリーへと加工ががなされていったのである。 ◆困難だった機内撮影を可能にしたもの そんな『トップガン』が『地獄の黙示録』志向の戦争スペクタクルだったことを示すものとして、作品のフォーマットが挙げられる。加えてそれが前掲の、困難といわれた機内撮影への突破口を開いたのだ。 契機となったのは、スーパー35mmという規格のフィルムである。ブラッカイマーとスコットは、同作の空戦シーンをダイナミックな幅広のワイドスクリーンで展開しようと企図していた。そのため65mmフィルムでの撮影や、圧縮した撮像をレンズで戻して横長画面を得るアナモルフィックレンズでの全編撮影が検討されたのだ。しかし前者は65m撮影用の大型カメラがコクピット内に収められず、後者は6Gにも達する飛行時の圧力によってカメラレンズが歪み、まったく使い物にならなかったのだ。 そこで用いられたのがスーパー35mmである。同フィルムは1コマに露光される撮像領域を最大限に活かした撮影が可能で、そこから用途に応じたアスペクト比を切り出すことができる。これによって本作は通常の35mmカメラでのコクピット撮影を可能にし、ワイドスクリーンを実現のものとしたのである。 ちなみに当時のスーパー35mmは通常の35mmとの混同を避けるため、歪像に対して平面ということから「フラット・ネガ」とも呼称されていた。当時、製作元のパラマウントはビデオ市場への目配りとして、同フィルムでの撮影を推奨しており、まさにうってつけの題材が見つかったというわけだ。 ちなみにトニーが本作で同フォーマットの有効性を示したことに感化され、兄リドリーが日本を舞台にした刑事アクション『ブラック・レイン』(89)で自らもスーパー35を使用。兄からトム・クルーズを自作に紹介してもらったことに対し、技術供与という形で返礼を果たしている(本作におけるトム・クルーズの起用は、以前に筆者が手がけた『レジェンド/光と闇の伝説』(85)のコラム[リンク]に詳しい)。 こうして『トップガン』は制作上の大きな問題点を克服したが、リアリティを追求した結果、あまりいい効果を得られなかった部分もある。それは可変翼戦闘機F-14の聴覚を刺激する飛行音など、サウンドエフェクト面でのことだ。 音響編集のジョン・ファサルと共に、本作の音響の共同監修をつとめたセシリア・ホールは、実際のF−14の飛行音や駆動音を採取したものの、意図にそぐわぬ退屈で味気ないものだったとドキュメンタリー映画『ようこそ映画音響の世界へ』の作中で述懐している。そこで彼女は動物の咆哮を転調させてエンジン音と重ねることにより、迫力と攻撃性の高いサウンド効果を創造したのだ。 この大胆な試行によって、ホールは女性の音響効果担当として初の米アカデミー賞にノミネートされ、女性がこの分野において貢献的な役割を果たす先駆けとなった。サウンド面でのこうしたこだわりは36年ぶりの続編となった『トップガン:マーヴェリック』でも受け継がれ、同作はオーディオの没入感と臨場感をより高めるために、サウンドデザイナーの大家であるゲイリー・ライドストロームがコンサルタントとなり、ホールの偉業を発展させる形で迫力のあるサウンドデザインに取り組んでいる。 ◆その意志は、36年ぶりの続編へと受け継がれる 他にも『トップガン:マーヴェリック』にこのタイミングで触れるのならば、無視できない要素がある。タイトルキャラクターであるマーヴェリックが教官となり、古巣に戻ってくる同タイトルは、新世代のアカデミー卒業生たちに焦点を定め、無人化する軍事において戦闘パイロットの存在を再定義していく。 監督のジョセフ・コシンスキーは、今回の主要機となる戦闘機F/A-18のコックピット内に、ソニーと共同開発したVENICE 6K シネマカメラを実装。そして世界で最も規格の大きな視覚フォーマット、IMAXを本作に導入している。これは機内撮影を成功させた『トップガン』のコクピット撮影を発展させたものであり、スーパー35mmで問題解決を得た、前作の技術的挑戦を反復するものと言えるだろう。コシンスキーは続編の撮影にあたり、偉大な前作への賞賛を惜しまない。 「トニーは大作を製作していたが、それをまるでアート映画のように撮ったんだ。照明やグラデーションフィルター、そしてフレーミング。この映画には、彼の映画のスタイルに対するオマージュのような瞬間がいくつかある」 『トップガン:マーヴェリック』は、トニー・スコットに謝意が捧げられている。彼の存在無くしては、この画期的な戦闘機映画は生まれなかったのだ。■ 『トップガン』© 2022 Paramount Pictures. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2022.09.02
速く、そして高く。青春時代はロケットのように —『遠い空の向こうに』—
「(コールウッドの空に放たれた)ロケットは、物理的な力だけで空を飛んだわけではない。町の人々の熱心な応援と、やさしい先生のあたたかい指導、それに少年たちの“夢”があってこそ飛んだのだ」 『ロケットボーイズ』ホーマー・ヒッカム・ジュニア著/武者圭子 訳(草思社:刊) ◆スプートニク・ショックがもたらしたもの 1957年10月。ソビエト連邦は人類初となる人工衛星スプートニクの打ち上げに成功。米ソ冷戦の渦中において、その報は宇宙開発競争を展開していたアメリカにとって衝撃的なものだった。 だがスプートニクが軌道に乗ったことで、一人の高校生の夢も軌道に乗ることになる。高校生の名はホーマー・ヒッカム。米ウエストヴァージニア州にある炭鉱の町コールウッドに住む彼は、夜空を横切るスプートニクを目撃したことから、自分もロケットを作りたいという思いに駆り立てられていく。 1999年に公開された『遠い空の向こうに』は、ロケットエンジニアとしてNASAに所属し、のちに航空宇宙プロジェクトの顧問として宇宙開発に多大な貢献をなした、ホーマー・ヒッカム・ジュニアの自伝を映画化したものだ。原作タイトルの『ロケットボーイ(ズ)』は、ヒッカムと高校の仲間たちの愛称で、彼らがロケットづくりに没頭し、古い炭鉱の町に先端科学のきらめきを与える青春物語でもある。 そう、伝記の舞台となるコールウッドは、住民の多くが炭鉱に従事し、ホーマー(ジェイク・ギレンホール)もまた自分も地元の炭鉱で働くのだと、ある種の諦観にとらわれていた。しかし1957年10月4日、夜空にひときわ美しく輝くスプートニクを見たことで、ホーマーはそこに人工衛星の軌跡だけではない、自分の未来を見つけたのだ。 映画はそんなホーマーが、悪友ロイ(ウィリアム・スコット・リー)やオデル(チャド・リンドバーグ) と見よう見まねで手製のロケットを打ち上げ、散々な結果で途方に暮れるのを起点に、失敗にめげず、数学のできる変わり者のクエンティン(クリス・オーウェン)を引き入れ、本格的なロケット製作にとりかかるまでを原作にほぼ沿った形で描いていく(細かな改変はあるが)。その過程で、高校の物理教師ライリー(ローラ・ダーン)が良き理解者となり、大学の奨学金が賞金の国家科学フェスに出展するようホーマーたちをサポートする。そしてロケットボーイズは自分たちの持つ技術を完璧なものにするため、直面している問題の克服に取り組んでいく。そんな努力が実り、彼らのロケットは科学的にも技術的にも精度が上がっていき、また町の人々も次第にロケットボーイズに興味を持ち、打ち上げ実験を楽しみにする者や協力者を有していくのだ。 だがドラマにおいて最大の障壁は、ホーマーの父親ジョン(クリス・クーパー)の存在だ。炭鉱場の監督を務める父は、自分の仕事に誇り深く、よく言えば厳格、悪く言えば保守的で、ホーマーたちが時間を無駄に浪費していると感じている。映画はそんなヒッカム父子の確執を相互理解へと誘導し、涙を誘うクライマックスへと全ての要素を向かわせていく。大空に勢いよく上昇していくホーマーたちのロケットを、町のあらゆる人々がさまざまな場所から見上げるシーンに、誰もが湧き上がる感情を抑えることはできないだろう。 映画の原題“October sky”(10月の空)は、文字どおりホーマーのスプートニク・ショックを換言したタイトルで、同時に原作小説のタイトル“Rocket Boys”のアナグラムになっている。これは監督のジョー・ジョンストンがコンピュータのアナグラム解析プログラムで発見したもので、最初から意図されたものではない。しかし監督の豊かな感性と情熱が本作の中核にあることは、映画が見事に物語っている。 ◆ジョンストン監督にとっての『スター・ウォーズ』 『遠い空の向こうに』を手がけたジョー・ジョンストンは、『スター・ウォーズ』(77)で映画の世界に参入し、同作においてストーリーボードやメカデザインを担った視覚効果出身の監督だ。自らも軽飛行機の操縦免許を持ち、『ロケッティア』(77)を筆頭に、自作にはどれも空を飛ぶことへの憧れと執着が反映されている。本作も、ホーマー・ヒッカムの飛行に対する思いがジョンストンの指向と一致し、そういう点では非常に作家性の強い映画であるといえるだろう。 またジョンストン監督の前述したキャリアから、この映画に『スター・ウォーズ』の幻像を重ねる者も少なくない。同作の主人公であるルーク・スカイウォーカーは、反乱同盟軍のパイロットになる夢を抱いているが、育ての親である叔父オーウェンは、彼を農作業に縛り付けて外界に出そうとはしない。 この抑圧された若者の苦悩を、ホーマーは痛々しくも共有している。彼も物語の中盤で、父ジョンが炭坑の大事故で重傷を負い、高校を退学して炭坑労働者となり、一家の家計を支えなければならなくなる。誰もが人生で夢や理想を持ちながらも、それを達成することの難しさを、ルークもホーマーも体現しているのだ。 だがホーマーは、ジェダイの騎士オビワンの王女レイア救出に加わることになるルークと同様、不治の病と闘いながら自分を支えたライリー先生への思いに応えようと、再びロケット作りの夢を追いかけようとする。なにより『スター・ウォーズ』ではルークが帝国の暗黒卿ダース・ベイダーの息子であり、父子の軋轢を描いたように、本作もまたホーマーとジョンの相克を明確に示している。 本作が初公開された同時期、『スター・ウォーズ』はシリーズ3作目『スター・ウォーズ ジェダイの復讐』(83)から経年をへて、新作(『スター・ウォーズ エピソード1/ ファントム・メナス』(99))が発表され、フォースが若者の努力や行動とは無縁の、血統主義の象徴として描かれたことを嘆くファンもいた。そんなタイミングで世に出た『遠い空の向こうに』は、本来『スター・ウォーズ』が描くべきだったものがここにあると賞賛を受け、延いてはそれが、ジョンストンの経歴にも重ねられたのだ。視覚効果ファシリティのILMで10年間を過ごし、もう自分は宇宙船やエイリアンを充分すぎるほど開発したと、VFXアーティストから映画監督へと転身したジョンストン。彼こそが、ルーカスの向かうべきはずの轍をしっかりと踏みしめ、自ら正しかるべき『スター・ウォーズ』を展開したのだと。 ◆スピルバーグからの賞賛と贈り物 実際のところ、ジョンストンはILMでのキャリアを「働きながらフィルムスクールに通っているようなものだった」(*1)と述懐し、ルーカスにあらんかぎりの謝意を捧げている。 なによりジョンストンの監督としての門出は、もう一人の偉大な作家が盛大に祝っている。『ジョーズ』(75)そして『未知との遭遇』(77)の監督スティーブン・スピルバーグだ。スピルバーグは『遠い空の向こうに』を観て「素晴らしい映画だ」と称賛し、返す刀で『ジュラシック・パークIII』(01)の監督のポストをジョンストンに任している。加えて、かつて自分の作品の視覚効果を支えた盟友への返礼を、大ヒットしたフランチャイズのオファーをもって示したのだ。 ホーマー・ヒッカムがロケットを飛ばす夢を叶えたように、ジョンストンもまた、視覚効果の世界から一歩を踏み出し、大きく創造の夢を飛躍させたのである。そう、ロケットは物理的な力だけで空を飛んだわけではない。町の人々の熱心な応援と、やさしい先生のあたたかい指導、それに少年たちの“夢”があってこそ飛んだのだ。■ (*1)「STAR WARS STORYBOARDS オリジナル・トリロジー」(株式会社ボーンデジタル:刊)ジョー・ジョンストンの序文より抜粋 『遠い空の向こうに』© 1998 Universal Studios. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2022.09.30
コメディミュージカルの古典『ブルース・ブラザース』は、なぜ狂騒的なまでに巨大化したのか?
◆汝、光を見たか——音楽バラエティの人気キャラ、劇場映画化への過程 たとえ原点となる番組や映画を知らずとも、サングラスに黒帽子、黒服に身を包んだノッポとデブのコンビは、多くの人にカルチャーアイコンとして周知されているだろう。1980年に公開されたアメリカ映画『ブルース・ブラザース』は、そんな異貌をきわめた連中が、歌って逃げて大騒動を巻き起こすコメディミュージカルである。 ミュージカル、というのは、彼らの出自に由来するものだ。作品のメインキャラクターであるジェイク(ジョン・べルーシ)とエルウッド(ダン・エイクロイド)の義兄弟は、タイトルと同名のR&Bシンガー。パフォーマンスは抜群だが素行に難があり、刑務所でくさい飯を食ってきた問題児だ。 そんなジェイクの仮出所後、二人はかつて世話になった孤児院を訪れると、税金の滞納で存続の危機に直面していることを知る。 更生の証に、自分たちの心のふるさとを救いたい。はたしてどうすれば……? 彼らは打開策を得ようと訪れた教会で、神父の啓示から思わぬヒントを得る。「バンドだ!!」 汝、光を見たか——。ブルース・ブラザース(以下:BB)は滞納金を肩代わりすべく、バンドを再集結させて金を稼ごうと思い立ったのだ。だがしかし、仮出所の身でありながら、ジェイクたちはバンドメンバーを半ば強制的にショービジネスの世界へと誘導し、さらには誘拐、そして破壊に次ぐ破壊と、実行の過程で無自覚に犯罪をおかしまくるのである。そしてクライマックス、映画は州兵や警察、SWATを総動員しての、シカゴ市街を制圧する大スペクタクルを展開させ、コメディを越境したパニック映画の様相を呈していくのである。 トラブルメーカーとして物語を牽引するBBは、もともと米TVバラエティ『サタデー・ナイト・ライブ』(以下『SNL』)の音楽スケッチに登場する名物キャラクターだった。同番組の出演者であるコメディアンのジョン・べルーシとダン・エイクロイドによって結成され、エイクロイドが経営するバーで週末ライブをおこなったり、同時にスタジオを盛り上げるための前座として番組に登場。そこから徐々に知名度を上げ、インパクトの強い存在感を示していく。ちなみにブルース・ブラザースというコンビ名は、後に同番組の音楽プロデューサーとなり、さらには映画作曲家として名を馳せるハワード・ショアの即興アナウンスにちなむものだ。 かくしてBBは『SNL』が生んだ気鋭のシンガーとして注目を集め、1978年11月にデビューアルバム「ブルースは絆/ブルース・ブラザーズ・ライヴ・デビュー」をリリースする。このアルバムは同年9月にロサンゼルスのユニバーサル・アンフィシアターで、同じくコメディアンであるスティーブ・マーティンのショーに出演したさいの演奏が音源となっている。このショーのゲスト司会を務めていた一人が『スター・ウォーズ』(77)のレイア姫を演じたキャリー・フィッシャーで、彼女が『BB』にジェイクを付け狙う謎の刺客として登場するのは、これがパイプとなっている。 「ブルースは絆」はビルボードのヒットチャート1位を獲得して350万枚を売り上げ、史上もっとも売れたブルースアルバムになった。こうした高波はコメディ俳優ジョン・べルーシの知名度を押し上げることとなり、その勢いは『SNL』での人気に加え、初の主演映画『アニマル・ハウス』(79)を興行的成功へと導いた。そして『BB』映画化の気運を上げていったのである。 なにより重要なのは、このファーストアルバムのライナーノーツに、ジェイクとエルウッドのフィクショナルな経歴が記載され、それが映画への決定的な導きとなったことだろう。そこに光を見たアイクロイドは、これを叩き台にBBのバックストーリーにまつわる脚本を執筆。『アニマル・ハウス』を成功させたユニバーサルが入札して映画化権を取得し、監督も同作を手がけたジョン・ランディスが拝命することとなったのである。 ◆大きく影響を及ぼした、スピルバーグの戦争コメディ このチャプターは映画を観た後の追補的なものとなるが、それにしてもなぜ『ブルース・ブラザース』は、はみ出し者のささやかな慈善物語のはずが、上映時間133分に及び、そして狂騒的なまでにスペクタキュラーな作品へと変貌してしまったのだろう? 前者は脚本執筆経験のなかったエイクロイドが、セオリーを念頭に置かず、書きたい要素をすべて脚本に綴ったことが起因している。そのため初稿は従来の倍はある300ページの大冊となり、エイクロイドは自省と皮肉を込め、この脚本の表紙をイエローページ仕様にしている。 ランディスはそんな膨大な脚本を大幅に加工し、劇場映画として成立するよう調整したが、それでも縮小しきれず作品は148分に及び、プレビューを経て最終的に133分へと刈り込んだ。このリカット前のロングバージョンが、DVDで発表された「コレクターズ・エディション版」の正体だ(ザ・シネマでは133分の劇場オリジナル公開版を放送)。 加えて映画はジェームズ・ブラウンやアレサ・フランクリン、レイ・チャールズにジョン・リー・フッカー、そしてキャブ・キャロウェイといった音楽界の大物アーティストが出演し、劇中における彼らのパフォーマンスを均等に、そして余すところなく入れようとしたことで、本作の長編化は必然になったとも言われている。 そして後者だが、ランディスはもともと「グロスアウト」と呼ばれるバカげた笑いを信条に、それらがアクションと緊密に接合され、物語がスペクタクルへと変質していく傾向をスタイルとしている。前作『アニマル・ハウス』も、狼男伝説をコメディに置換した『狼男アメリカン』(81)も、こうした作家的特性のもとにあり、監督はそれを『BB』にも適合させ、そして極めようとしたのだ。 ランディスのこうした企図を焚きつけた要因のひとつに、同時期にスティーブン・スピルバーグ監督が手がけた戦争コメディ『1941』(79)の存在が挙げられる。当作はジョン・べルーシの主演映画として『BB』に先行し、ある種の指標となった。また同じユニバーサルの製作・配給映画だったために台所事情は筒抜けで、『1941』が最終予算として2,600万ドル(公称)を調達し、クライマックスの大騒動を可能としたことをランディスは知るのだ。 幸か不幸か『BB』は脚本の大幅なリライトによって予算の見通しが立たず、撮影開始後からかなり経っても具体的な製作費が決まらなかった。そのため撮影進行に応じてバジェットが上乗せさせ、最終的には『BB』は3.300万ドルの超大作となった。その背後には、『1941』の存在が妙々に関わっているのである。 この予算に関する余話として、ランディスは皮肉と友情を込めてスピルバーグに税査定職員としてカメオ出演を依頼した。もともとはランディスが『1941』で『ダンボ』(41)を上映中の映画館に、バイクで乗り付ける兵士の役で出演し、その返礼というべきものだが、スピルバーグも彼の勇気とチャレンジを賞賛し、これを快諾。さらには返す刀で人気SF TVドラマの名作『ミステリー・ゾーン』(59〜64)の劇場版アンソロジー『トワイライトゾーン/超次元の体験』(83)の監督の一人としてランディスを任命する(映画の冒頭、深夜のドライブでダン・エイクロイドがアルバート・ブルックスを相手に、テレビ番組のイントロ当てをするスケッチは、昔のランディスとスピルバーグにまつわる逸話を脚色したものだ)。 後に同作における不幸な撮影事故で、ランディスとスピルバーグとは袂を分つことになるが、80年代ハリウッドを牽引した二人の関係性もまた、別種のジェイクとエルウッドといえる。そしてそれは、『ブルース・ブラザース』を語るうえで欠くことのできない要素なのだ。■ 『ブルース・ブラザース』© 1980 Universal City Studios, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2022.11.04
スピルバーグ、最初にして最後の“ディレクターズ・カット”―『未知との遭遇【ファイナル・カット版】』―
「この映画には多くの美徳がある。ほとんどのハリウッド作品やパルプSFとは異なり、人間と地球外生命体との接触は、主に平和的であると考えられていることだ」カール・セーガン(天文学者・作家) 「スピルバーグが描く異星人には自然の善良さが表れており、生や死を超えた善なるものが感じられる」ドゥニ・ヴィルヌーヴ(『メッセージ』(16)『DUNE/デューン 砂の惑星』(21)監督) スティーヴン・スピルバーグの壮大なSF叙事詩『未知との遭遇』は、人類と地球外知的生命体とのコンタクトを真摯に、そして迫真的に描いた嚆矢の商業長編映画で、一般市民や科学者、軍などそれぞれの視点から捉えたサスペンスフルな異常事態が、やがて友好的なエイリアン・コンタクトの輪郭をあらわにしていく実録調の構成をとり、この種のジャンルの語り口や目的を一新させた。なによりスピルバーグ自身、フィルモグラフィで単独脚本を兼ねた唯一の監督作として特別な思いを抱いており、そのため過去に二度も手を加え、完成度を極限にまで高めている。 ◆悔いを残した「オリジナル劇場版」 1977年11月16日、『未知との遭遇』はニューヨークのジーグフェルド・シアターとハリウッドのシネラマドームで限定公開され、連日ヒットを記録。そして1か月後には全米272館の劇場で拡大公開され、翌年の夏に上映が終了するまで全米総収入1億1639万5460ドルを稼ぎ出し、配給元であるコロンビア・ピクチャーズの過去最高となる売上を叩き出した。さらには海外における公開によって、1億7100万ドルが追加計上された。当時コロンビアは株価が下落して経営難の状態にあり、スピルバーグはメジャースタジオを倒産の危機から救い出したのた。 だが、こうした好転を得るために、コロンビアはクリスマス興行を必要とし、本来の予定よりも7週間も早い公開をスピルバーグに要求。ひとまずの完成を急務としたため、彼は自身が望んでいたように作品に仕上げることができなかったのである(以下、当バージョンを「オリジナル劇場版」と呼称)。 スピルバーグの不満は、主人公であるロイ・ニアリー(リチャード・ドレイファス)のエピソードと、第三種接近遭遇を調査するラコーム博士(フランソワ・トリュフォー)とメイフラワー・プロジェクトのエピソードとの並置にあり、さらにはいくつかのシーンの削除と、省略したシーンの追加を望んでいた。加えてバミューダ三角海域にて消息を絶った輸送船コトパクシ号が、海岸から500kmも離れたゴビ砂漠で発見されるシーンを撮影できなかったことにも不満を抱いていた。 そこで1978年の夏、本作が劇場公開を終えたタイミングで、スピルバーグはコロンビアに「自分が望む形で映画を完成させるため、予算を与えることは可能か?」と訊ねた。そこでコロンビアは、暫定的に計画を立てていた同作のリバイバル公開を条件に、追加撮影をほどこした更新バージョンをリリースする機会をスピルバーグに持ちかけたのだ。 ただし映画への再アクセスにはマーケティング戦略上、マザーシップ内部を見せる撮影が必要だとコロンビアは提示してきたのだ。多くの批評家や観客が、ロイが巨大な宇宙船に乗った後に起こったことを見たいという願望を表明していたからだ。 スピルバーグは「オリジナル劇場版」に調整を加え、作品に統一感を持たせたいと感じており、最終的には自身の作品をアップデートさせるという希求にあらがえず、提示された条件を承諾したのである。 コロンビアはスピルバーグに再撮影の製作費200万ドル(150万ドルという説あり)と7週間の期間を与え(撮影は結果的に16〜19週間を要した)、『未知との遭遇/特別編』(以下「特別編」)の製作へと至ったのである。ただこの時期、すでに監督は次回作となる戦争スペクタクルコメディ『1941』(79)の撮影に入っており、その間に「特別編」の制作チームの再編成を着々と進めた。 ◆理想に近づいた「特別編」 多くのスタッフ、ならびにキャストはこの意欲的なプロジェクトへの再登板を表明したが、ラコーム博士を演じたフランソワ・トリュフォーは監督作『終電車』(80)の撮影に入っており、また撮影監督のビルモス・ジグモンドはライティングに対するコロンビアの無理解が溝となって身を引き、デイブ・スチュワートが代わりを担当することになった。視覚効果スーパーバイザーのダグラス・トランブルと視覚効果撮影監督のリチャード・ユリシッチは、パラマウントで『スター・トレック』(79)に取り組んでいたことと、トランブルは契約上の解釈から無報酬が懸念されたことで参入を見送り、代わりにアニメーション監督のロバート・スウォースが、前者の薦めにより視覚効果の指揮をとることになった。そして命題ともいえるマザーシップ内部は『スター・ウォーズ』(77)『エイリアン』(79)などでコンセプト・アーティストを務めたロン・コッブがデザインし、モデル作成はちょうど『1941』のミニチュア制作に参加していたグレッグ ジーンが続投した。 ミニチュア制作の作業は1979年の夏に始まったが、スピルバーグは『1941』の撮影が終わるまで同作に集中するつもりでいた。しかしロイ役のリチャード・ドレイファスが多忙だったため、1979年2月に1日だけ空いた彼のスケジュールを利用し、先行して一部撮影に踏み切った。そしてドレイファスが新たに建設された、マザーシップへのランプを上っていく様子が撮影された。ハッチ内部の両方の壁に並び、ロイを船内に迎え入れる小さなエイリアンたちは、多くの女の子をエキストラで配役している。「特別編」ではロイがランプをのぼり、密閉されたボールルームに入ると、天井が突然上向きに浮揚し始め、コッブの設計した小型のUFOが飛行して脱着する壮大なドッキングエリアへと移動するが、ドッキングエリアの一部がランプとハッチの内部としてセットで建造され、残りはミニチュアと視覚効果を駆使して表現された。 スピルバーグは『1941』の劇場公開から数週間後の1980年1月より本格的な作業を開始し、手始めにゴビ砂漠のシーンに着手。20世紀フォックスの裏庭に置かれていた古い船の模型をジーンが改造し、カリフォルニア州デスバレーの近くで撮影した。特別な撮影機材やポストプロダクションでのエフェクト効果に頼らず、強制遠近法を用いて同シーンに挑んでいる。コトパクシ号の模型を前景に置き、俳優や車両を含むすべての要素を約200ヤード離れたバックグラウンドに配置して、あたかも実物大のコトパクシ号が目の前にあるかのように演出したのである(一説によれば、同シーンの撮影は後に『E.T.』(82)『太陽の帝国』(87)でスピルバーグと組む、シネマトグラファーのアレン・ダヴィオーが手がけたという)。 これらの撮り下ろし映像が揃うと、スピルバーグとエディターのマイケル・カーンは「特別編」の編集を開始。まずは不必要だと判断した多くのシーンを削除することから始めた。もっとも顕著なのは、ロイがデビルズタワーの模型を作るために、近所から破壊したものを家に持ち込むシーケンスだ。空軍の記者会見シーンも削除され、ロイが電力会社で原因不明の停電について話し合う冒頭のシーンなどもオミットされた。逆に「オリジナル劇場版」制作時に撮影したが使わなかった、ロイがシャワーで感情を崩壊させるシーンが差し戻され、妻ロニー(テリー・ガー)が彼のもとを離れる動機を明確にしている。加えて会話の小さな断片が各所で削除され、結果としてオリジナル劇場版から16分を削除し、以前にカットした7分を復元。さらに新たに撮影した6分のフッテージを追加し、「特別編」は「オリジナル劇場版」より3分短かくなった。 また音楽面でも改変をおこなった。それは最後のクレジットで、ジョン・ウィリアムズ作曲によるエンドタイトルを流していたものを、「特別編」ではディズニーの長編アニメーション『ピノキオ』(40)の歌曲「星に願いを」のメロディを挿入したインストゥルメンタルに変更した。これは劇中、ロイの家で鉄道模型の卓上に置かれていた、ピノキオのオルゴールを受けての伏線回収でもあり、映画のテーマに同期する曲としてスピルバーグは使用を熱望したのだ。もともとはクリフ・エドワーズが歌うオリジナル曲を引用していたのだが、1977年10月19日におこなわれたダラスの試写では観客の反応が悪かったために代えた経緯があり、インスト版を用いることにした。 この「特別編」は1980年7月31日にビバリーヒルズの映画芸術科学アカデミー本部のサミュエル・ゴールドウィン・シアターでマスコミ向けに上映され、同年8月1日に北米750館の劇場で一般公開。その後すぐに海外での公開がおこなわれた。そして1600万ドルの収益を上げ、コロンビアは再びその投資から、リバイバルとしては悪くない利益を得た。 批評家と観客の反応はまちまちで、変更がより焦点を絞り、まとまりをもたらしたと称賛する者もいれば、改ざんの必要性を問い批判する者もいた。なによりも誤算だったのは、あれだけこだわったマザーシップ内部の描写に、あまり賞賛を得られなかったことだろう。 スピルバーグ自身も、この件に関しては後悔の念を強く抱き、後年「オリジナル劇場版」と「特別編」の両方が観られる初のレーザーディスクを米クライテリオン・コレクションでリリースするにあたり、VFX専門誌「シネフェックス」当時の編集長ドン・シェイのおこなったインタビューで心情を吐露している。 「理想的な『未知との遭遇/特別編』は「オリジナル劇場版」のエンディングで終わることだったね。リチャード(・ドレイファス)がマザーシップの内部に入って、あたりを見回し、 ハイテク器機や蜂の巣のようなスペースシップを眺めることはなかったんだ。映像はきれいだったし、想像力に溢れていてよくできていると思う。でもオリジナルのエンディングのほうがずっと好きだ」 ◆究極の『未知との遭遇』〜「ファイナル・カット版」 『未知との遭遇/ファイナル・カット版』(以下「ファイナル・カット版)は、こうした経緯を経て2種類となった『未知との遭遇』の決定版とするべく、スピルバーグが承認した最終バージョンである。叩き台になったのは1981年1月15日にABCテレビネットワークで放送された143分のもので、これは「劇場オリジナル版」と「特別編」がひとつに統合され、多くのカットシーンが残されていた(スピルバーグは後に脚本に協力したハル・バーウッドに「すべての要素を含んだお気に入りのバージョンだ」と語っている)。このABCテレビ放送版に沿う形で、両バージョンの要素を組み合わせながら、いくつかのシーンを短くし、あるいは長くするなどの調整をしたものである。 「ファイナル・カット版」における最大の特徴は、ロイがマザーシップ内部に入り込むクライマックスが完全にオミットされている。そして「星に願いを」のインスト版が「オリジナル劇場版」のエンドタイトルに戻された。前者に関しては、『未知との遭遇』4K UHD Blu-rayソフトに収録された特典インタビュー“Steven Spielberg 30 Years of CLOSE ENCOUNTERS“(『スティーヴン・スピルバーグ 30年前を振り返って』)の中で、スピルバーグは以下のように語っている。 「船内の様子は、観客の想像の中だけに存在するべきと考えたんだ」 同バージョンで初めて『未知との遭遇』に接する若い世代は、はたしてマザーシップの向こう側に、どのような光景を想像するのだろうか? ちなみにこの「ファイナル・カット版』、正式な呼称は”The Definitive Director's Version“で、スピルバーグは本作をフィルモグラフィにおいて唯一の“ディレクターズ・カット”だと位置付け、以後、自作の改変はしないといった意向を示している。まさに文字どおりのファイナルであり、そういう意味においても希少なバージョンといえるかもしれない。■ 『未知との遭遇【ファイナル・カット版】』© 1977, renewed 2005, © 1980, 1998 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2022.12.06
『ジェイソン・ボーン』シリーズより先行した多動的カメラワークとカオス編集『マイ・ボディガード』
「メキシコでは1時間に1件の誘拐事件が発生し、人質の70%は生還されず殺される」 2004年にトニー・スコット監督、デンゼル・ワシントン主演で発表された映画『マイ・ボディガード』は、このラテンアメリカでの誘拐に関する当時の実情を示して幕を開ける。本作の主人公であるクリーシー(ワシントン)は引退したCIAの対テロ工作員で、彼は自身のキャリアを血塗られたものとして後悔している。そんな彼の陰鬱な感情をはらおうと、元同僚のレイバーン(クリストファー・ウォーケン)は、クリーシーにピタ(ダコタ・ファニング)という少女のボディガードとして、メキシコシティで仕事をするようはからう。 警護にあたった当初は、クリーシーはピタとの感情的な壁を取り去ることができずにいたが、次第に二人は父娘にも似た絆を形成していく。そして映画は、少女の無垢な愛情が、一人の男を心の闇から解放する過程を表現豊かに捉えていくのだ。 しかし物語は予期せぬ事態によって、クリーシーは自らのささやさな幸福を破壊した者に対し、忌まわしいと捨て去ったスキルを用いることになる——。 原作はバイオレンス小説を過半とするイギリスの大家、A・J・クィネルが1980年に発表した「燃える男」。監督のトニー・スコットは吸血鬼伝説をモダンにアレンジした劇場長編デビュー作『ハンガー』(83) に次ぎ、出版ほどなくベストセラーとなった同作を手がけるつもりだった。もともとクィネルのファンだったスコットは、『ハンガー』公開後に早くも映画化の予算を獲得しようと動いたのである。しかし当時、彼はまだ兄リドリー・スコットの会社のCMディレクターだったために資金を確保できず、代わりにジェリー・ブラッカイマーより打診のあった『トップガン』(86) に着手する。 いっぽう「燃える男」は1987年にプロデューサーのアーノン・ミルチャンとロバート・ベンムッサが仏伊米合作で映画化を果たし、俳優陣についてはスコット・グレンがクリーシーを、ジョー・ペシが彼の友人でありパートナーのデヴィッドに扮し、ジェイド・マルが少女サマンサ役で出演した。アメリカでは同年10月9日に178の劇場で公開され、わずか519,000ドルの興行収入しか得られず、ビデオやテレビ放送などの二次収益に頼るしかなかった。 奇しくも『マイ・ボディガード』企画の再浮上は、この『マン・オン・ファイア』の二次収益媒体が大きく関与する。後年、ミルチャンがテレビで本作を見たとき、彼は翌朝トニーに電話し、自分がまだ「燃える男」の権利を持っており、再映画化に興味があるかどうか、そして『マン・オン・ファイア』が示したものより多くの可能性があるかどうかを訊いた。スコットは今なら「燃える男」を壮大で理想的な自身の作品として世に送り出せる自信があり、クィネルへの再アクセスはいつでも可能であることをミルチャンに示したのだ。 同時にスコットは脚本家にあたりをつけ、シルベスター・スタローンとアントニオ・バンデラス共演のアクションスリラー『暗殺者』(95) や、ジェームズ・エルロイ原作の犯罪サスペンス『L.A.コンフィデンシャル』(97) で注目中のブライアン・ヘルゲランドに依頼した。 スコットは彼が脚本を手がけた『ミスティック・リバー』(03) を気に入っており、偶然にもヘルゲランドは『マン・オン・ファイア』の存在を熟知していた。1989年、カリフォルニア州マンハッタンビーチで、彼は地元のレンタルビデオ店をよく訪れ、おすすめを尋ねていた。そこでクエンティン・タランティーノ(!)という脚本家志望の店員が同作のビデオを勧めてくれたのだという。オファー当時、ヘルゲランドは監督業に移行しようとしていたことから乗り気ではなかったが、スコットに代わって自分が同作の監督をやる可能性をミルチャンに示唆され、依頼を受けた。 ヘルゲランドの脚色は原作から多くのセリフを引用し、クィネルへのリスペクトを示したが、クライマックスを原作とは異なるものにした。小説は実際に起こった2つの誘拐事件からインスパイアされ、そのためクィネルは事件と同じような結末を維持したが、映画では独自の展開が用意されている。それはピタによって人間的感情を取り戻したクリーシーの贖罪といえるもので、彼とピタとの友情をパイプにしたエモーショナルな改変である。 しかし舞台となるイタリアが、映画製作時には小説執筆時の頃よりも犯罪率が低下していたため、製作サイドは物語の信憑性を損ねることを懸念。彼らは映画の舞台となる場所を変更することにした。前掲の「メキシコでは1時間に1件の誘拐事件」は、こうした経緯を抜きには語れぬ重要なリードなのだ。 また劇中における俳優たちのパフォーマンスも、この映画を観る者との感情の同期に貢献している。たとえば物語の当初、クリーシーがピタのボディガードを引き受けたことを後悔していたとき、実際にデンゼル・ワシントンはセットでファニングと距離を保ち、積極的にコンタクトをとることを避けたという。そして物語の過程でクリーシーがピタに親しみを覚えると、ワシントンは舞台裏で同じように接したのだ。ワシントンとファニングはお互いに見事なボレーを交わし、彼らの即興演出は対話に迫真性をもたらしたのである。 だが最も作品において効果的に貢献したのは、監督トニー・スコットによる多動的カメラワークとカオスに満ちた編集だろう。きめ細かなグラデーションフィルターの選択や大胆なジャンプカット、あるいはクイックズームに可変速度効果など、これらはクリーシーの感情に合わせて変化していく。加えて本作ではキャプションを活かしたタイポグラフィも目を引くが、これはスコットがBMWのPVを演出したとき、ジェームズ・ブラウンのセリフをスタリュシュに加工した効果を適応させたもので、映画の中でもひときわ強い印象を残す。 James Brown - Beat The Devil (2002) しかし、こうした効果が評論家の目には装飾的にしか映らず、その頃はむしろ批判の対象として捉えられる傾向にあったようだ。映画評論の権威ロジャー・エバートは本作を評し「この映画には、長さとスタイルを正当化するための深みが必要だ」と断じたが、これなどはその短絡的な解釈の顕著な例だろう。 だが『マイ・ボディガード』の映像的・あるいは編集に見られる傾向は、そのスタイルがドラマや登場人物の推移を巧みに視覚化したものとして再評価の機会が待たれる。何より本作の公開は、あの多動的表現でアクション映画の気流を変えた『ボーン・スプレマシー』(04) より公開が3ヶ月早く、その先進性を改めて問うべきだろう。なにより『マイ・ボディガード』は日本公開時、全体的によく編集された印象のある劇場用パンフレットにも、最大の貢献者であるトニー・スコットに関する記述が少なく、そこも画竜点睛を欠く口惜しさは否めなかった。本作を叩き台に、監督への言及が活発化することを望みたい。■ 『マイ・ボディガード(2004)』© 2004 Twentieth Century Fox Film Corporation and Monarchy Enterprises S.a.r.l. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2023.01.30
もうひとつの『ナチュラル・ボーン・キラーズ』
◆不道徳な暴力映画は、道徳的な反戦映画の反動から オリヴァー・ストーン監督が1994年に発表した『ナチュラル・ボーン・キラーズ』(以下『NBK』)は、連続殺人犯ミッキー(ウディ・ハレルソン)とマロリー(ジュリエット・ルイス)による、社会からの逃走とラブストーリーを描くバイオレンス映画であり、彼らをスターとして担ぎ出すメディアの過剰性を捉えた、ブラックコメディの要素を併せ持つ。 物語は前半と後半でテイストを異にする。前半でこの殺人カップルはマロリーを虐待してきた親を手にかけ、結婚に代わる契りの儀式をおこない、愛の証として50人以上を一掃する殺人ハネムーンへと繰り出す。そんな無軌道な彼らに、自身がホストのシリアルキラー番組『アメリカン・マニアックス』の高視聴率をもくろむ、ジャーナリストのウェイン・ゲイル(ロバート・ダウニー・Jr.)が接近。二人の動向を広く大衆に提供していく。 いっぽう後半はサディスティックなドワイト所長(トミー・リー・ジョーンズ)の待つ刑務所にミッキーが投獄され、彼の独占テレビインタビューを試みようとしたゲイルは、それが引き金となって起こった大暴動をカメラに収めることになる——。 ストーンはヒロインの壮絶なベトナム戦争体験を描いた『天と地』(93)に取り組んだ反動で、デンジャラスで不道徳なプロジェクトに挑戦したいという欲求に駆られていた。そんなとき、俳優ショーン・ペンとの会食の場で、同席したベテランプロデューサーのトム・マウントから『NBK』の脚本をすすめられたという。 脚本はもともとペンが目をつけたもので、他にもデヴィッド・フィンチャーやブライアン・デ・パルマが、この脚本の映画化に反応したという。読んで自分もその一人となったストーンは、リライトを前提に当時契約を結んでいたプロデューサーのアーノン・ミルチャンに映画化を打診し、『NBK』の製作が動き出したのである。 ◆タランティーノとの確執と、オリジナル脚本 だが、このプロジェクトはひとつ問題を抱えており、それは脚本を執筆したクエンティン・タランティーノが、権利を取り戻そうとしていたことにあった。 もともと『NBK』はタランティーノが『レザボア・ドッグス』(92)を手がけ、商業映画監督として注目を浴びる以前に書いたもので、彼はビデオレンタル店員時代の仲間だったランド・ヴォシュラーと組み、自分たちで映画化を前提とし共同で仕上げた。予算は50万ドルで、監督権はヴォシュラーにタダ同然で与えたのである。 しかし、この予算調達に名乗り出たプロデューサーのジェイン・ハムシャーとドン・マーフィーにヴォシュラーは監督権を譲渡してしまい、タランティーノが取り戻しに動いたのだ。 こうした経緯のこじれに加え、ストーンが共同脚本担当のデヴィッド・ヴェロズらと共にオリジナルに大幅に手を加えたため、タランティーノはクレジットから名を外すよう要請したのである。 タランティーノ脚本の特徴は、ゲイルが主人公として立ち回っている点だろう。彼が劇中、ミッキーとマロリーの周辺情報にアクセスしていく過程において、二人のキャラクター性が浮き彫りにされていく構成となっている。しかし、ストーンはミッキーとマロリーにバックストーリーを与えて彼らを前面へと押し出した。そしてゲイルを脇役に置き換えることで、「犯罪者をヒーロー化するマスコミ」というメディアリテラシーへの批判を構図化したのである。加えて本作が暴力礼賛ではないことを印象づけるため、ネイティブ・アメリカンの男が登場するパートを挿入。「暴力の行使は時代を越え、いつしか自分に巡り戻ってくる」という、教訓を仄めかすシーンが加えられている。 ストーンによってストーリーが再構成され、原作者のヴィジョンの多くが改変されたことに対し、制作当時のタランティーノは映画とストーンに対して悪感情はないと述べ、あくまで作品の成功を祈っていると主張していた。 しかし後年、彼が『NBK』のオリジナル脚本を出版しようとしたさい、映画のプロデューサーサイドは「脚本を売却した時点で出版権は失なわれている」として訴える構えをみせた。それがタランティーノの怒りに油を注ぐかたちとなり、その感情は近年もくすぶり続けている。『ラウンダーズ』(98)の脚本家ブライアン・コッペルマンは自身のポッドキャスト「ザ・モーメント」2021年7月21日付けの配信で、ストーンがいかに的外れでキャラクターを理解していなかったかについて、タランティーノと意気投合したと話している。特にミッキーとマロリーが浮気をするもどかしいシーケンスを指摘し、タランティーノは「そんなことは絶対にありえない。二人は一緒にいるためなら、自分らを虐待する家族だって殺すこともいとわない、そんな彼らの本質をすべて見落としている」【*】と語っている。 ●現在、タランティーノのオリジナル脚本は出版され、容易にアクセスすることができる。 こうした経緯から、世間的には「気鋭のクリエイター(タランティーノ)による未発表脚本が、説教じみたスタイルの監督(ストーン)によって台無しにされた」というバイアスがかかり、ストーンに批判的な評価が下されがちだった。しかしジェイン・ハムシャーによる『NBK』をめぐる回想録“Killer Instinct“には、タランティーノによる作品製作の妨害行動がいくつか記されている。たとえば権利を買い戻すことを許されなかったことに腹を立て、スティーブ・ブシェミとティム・ロスに「もしキミらがこの映画への出演を受け入れたら、二度と自分の映画には出演させない」とまで言い放ったとされている。 このように、文献の性質によってタランティーノ擁護であったりストーン擁護であったりと、同情をどちらに寄せた裏付けをしているのかは傾向が異なる。なので、映画版のサブテキストとして提供すべきこのコラムで、当該作品の立場を悪くするような事柄を列挙するのも生産的ではないだろう。 そもそも、ストーンの映画でタランティーノ脚本の要素を無きものにしようとしているわけではない。劇中のセリフの多くはタランティーノ版を踏襲しているし、なによりタランティーノ版は、ロサンゼルスの路上でゲリラ撮影することを想定し、モノクロの16mmカメラを駆使することが脚本にも書き込まれているが、ストーンはこうしたフォーマットにも目配りし、モノクロや16mm撮影の導入に加えて8mmやVTRなど頻繁にフィルムストックを変化させ、ストーンなりにタランティーノのプランを拡張させている。もっとも、これは同時期にストーンがフィルムストックの目まぐるしい変化や多動的な編集、またカラーフィルターの多様や不規則なカメラワークなどをセルフスタイルとしており、こうした条件と理想的な融合をみたともいえる。 そのため撮影期間はわずか56日だが、編集には1年近くを要する驚異的な労作となった。ちなみにタランティーノが映画化に計上していた製作費は50万ドルだったが、ストーンの映画版は3400万ドル。その予算はじつに68倍もの巨額となっていた。 また『NBK』の監督権を放棄し、受難の存在となったランド・ヴォシュラーは、ストーンの映画版に共同プロデューサーとしてクレジットされ、ささやかに立場を取り戻したといえる。■ 『ナチュラル・ボーン・キラーズ』© 1994 Warner Brothers Productions, Ltd. and Monarchy Enterprises S.a.r.l. All rights reserved. 【*】https://theplaylist.net/quentin-tarantino-on-oliver-stones-natural-born-killers-why-didnt-he-do-half-of-what-was-on-page-20210730/?utm_source=dlvr.it&utm_medium=twitter
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COLUMN/コラム2023.03.02
ピーター・バーグ監督が語った『バトルシップ』秘話
◆果たせなかった『砂の惑星』のリベンジ ボードゲームに基づいたSF侵略バトル映画『バトルシップ』は、公開後に日本でカルト的な人気を博し、今や地上波テレビで放送されるたびにSNSを賑わす“お祭り“コンテンツとして定着した感がある。要因は多々挙げられるが、やはりこの作品の激アツなクライマックスに起因するのではないだろうか。未見の方の楽しみのために詳述は割愛するとして、筆者(尾崎)は本作のプロモーションで来日したピーター・バーグ監督にインタビューし、『バトルシップ』が生まれるまでの経緯や裏話を聞き出している。その一部は雑誌媒体に加工のうえ発表したが、やむなく切り落とした部分が多く、プロダクションノートにも記載されてないネタが含まれている。なので意訳ではあるが、今回それらを再構成し、陽の目を与えるに至った。実際に作品をご覧になるときの参考となればさいわいだ。 ・『バトルシップ』撮影中のピーター・バーグ監督 Credit: Frank Masi 俳優から監督へと転身し、『キングダム/見えざる敵』(07)や『ローン・サバイバー』(13)などの硬質なサスペンスアクションを手がけてきたバーグは、本作『バトルシップ』以前のキャリアにおいて、SFやファンタジーに属するようなサブジャンルに着手したことがなかった。唯一、スーパーヒーロー映画の再定義化を試みたコメディ『ハンコック』(08)がかろうじてそれに該当しないこともないが、監督いわく「ウィル・スミス主演のスター映画」と自らカテゴライズし、自らSFジャンルには入れていない(理由は後述する)。しかも本来は『バトルシップ』ではなく、別のSF作品を手がける予定だったのだ。 ピーター・バーグ監督(以下:バーグ)「『バトルシップ』の話がくる前、僕はパラマウントで『DUNE/デューン 砂の惑星』(以下:『砂の惑星』)を準備していてね。それにあたって、SFや宇宙についてかなり広範囲なリサーチをしたんだ。かつて一度もSF映画を作ったことがなかったからね。その過程でSFにかなり興味を持ったので、『砂の惑星』が立ち消えになったときには非常に残念な思いをしたんだ。だから『バトルシップ』は、僕にとって『砂の惑星』のリベンジでもあるんだよ」 1984年にデヴィッド・リンチが監督し、後年ドゥニ・ヴィルヌーヴによって再映画化が果たされた『砂の惑星』は、もともとバーグによってプロダクションが進行していた時期がある。フランク・ハーバート財団から権利を取得したプロデューサーのケヴィン・ミッシャーがパラマウントに企画を持ち込み、ドウェイン・ジョンソン主演の『ランダウン ロッキング・ザ・アマゾン』(03)で一緒に仕事をしたバーグに監督を依頼したのだ。しかし製作費の調達や度重なる脚本の改稿によってプロジェクトは棚上げとなり、バーグは『バトルシップ』に移行したのである。 『バトルシップ』はハズブロ社が同ボードゲームの権利をミルトン・ブラッドレー社の買収によって取得し、『トランスフォーマー』や『G.I.ジョー』のように映画として展開させる計画に端を発している。 しかしオリジナルのボードゲームは、艦隊どうしが戦艦の撃沈をめぐって勝敗を競い合うもので、それがなぜ対エイリアン戦を描くSF映画となったのだろう? 「やはりSFにこだわっていたんだよ」とバーグは語り、方向性を変えた起点を以下のように明かした。 バーグ「2010年にディスカバリー・チャンネルで、宇宙天文学者のスティーヴン・ホーキンス博士がナビゲートを務めるミニシリーズ“Into the Universe with Stephen Hawking”(スティーヴン・ホーキングと宇宙へ)を観たんだ。その番組内で博士は、地球からシグナルを発信していると、地球以上の文明を持つ惑星がそれをキャッチし、資源を求めてやってきて争いになる可能性にあると示唆していた。それがエイリアンの侵略をストーリーベースにしたきっかけなんだ」 この改変と同時に『砂の惑星』から同作にあったプロットの一部である「資源をめぐる争い」を骨格として組み込み、『バトルシップ』を本格的なSFものにしたのだと語った。 また『砂の惑星』のプロダクションから移行させた要素は、それだけではない。バーグによると「自分のバージョンは環境描写や戦闘場面など、とても激しいものになる予定だった」と回想し、それらを『バトルシップ』に適応させた旨や、リンチが手がけたものとの違いを示してくれた。実際にバーグ版『砂の惑星』の世界観は非常に硬質なもので、参考としてイギリスのコミックアーティストであるマーク"ジョック"シンプソンよるコンセプトデザインを以下に見ることができる(ジョックは『バトルシップ』でもコンセプトデザインを担当)。 https://www.duneinfo.com/unseen/jock 加えてバーグは「私の『砂の惑星』はオムツを履かせたりしない(笑)」と言って、リンチ版のハルコンネン男爵を揶揄していたが、奇しくもヴィルヌーヴ版では『バトルシップ』で主人公ストーンの兄を演じたアレクサンダー・スカルスガルドの父ステラン・スカルスガルドがハルコンネン男爵を演じている。 ◆二人の映画監督から得た映像スタイル また先述した「激しい攻防戦」というワードは、そのまま監督の視覚スタイルの話題へと移行するのに都合がよかった。インタビューはバーグが2004年に発表した『プライド 栄光への絆』へとターンし、同作の試合シーンの緊張感がスポーツ映画史上でもっとも高いものではないかと言及。『バトルシップ』にもその傾向が顕著に見られ、それらの多動的でラフな映像スタイルはどこから得たものかを訊ねている。 バーグ「私には監督として、二人の師匠がいる。それはジョン・カサヴェテスとマイケル・マンだ。どちらもシネマヴェリテを基調としたスタイルを持っているが、カサヴェテスは非常に俳優に自由を与えてくれる監督で、あまりコントロールしない人だ。それが自然な演出とカメラモーションに繋がっているし、逆にマイケルは脚本がぶれないくらいのコントロールフリークで、そこが面白い。彼は友人でもあるし、『キングダム/見えざる敵』のプロデュースも担当してくれた、そしてなにより、彼のビジュアルスタイルには多くを学ばせてもらった。僕は二人の正反対なアプローチをうまく折衷させながら演出をしてるけどね(笑)」 加えて、役者をコントロールしないという考え方は、バーグの中で映画における俳優の優先順位をおのずと示している。 「僕は過去にウィル・スミスと『ハンコック』を作ったけど、やはりというか観客は、ウィルのスター性に意識を支配されてしまう。違うんだ、映画のスターはストーリーなんだよ。だから『バトルシップ』はリーアム(・ニーソン)を除くと、あまり知名度の高い俳優を主要キャラクターとして劇中に置いていない。だってそのほうが、より完全にストーリーに没頭できると思ったからなんだ」 こうした俳優の話題から、質問は出演者の一人である浅野忠信に関することへと移行したのだが、「アサノの出ている作品だけでも、まずは観ておかないといけないね」と監督は言い、自分が日本映画に関して理解があまりないことを筆者に詫びていた。 しかしまさか、その日本で『バトルシップ』がこれほどまでに愛される作品になるとは、よもや思いもしなかったことだろう。■ 『バトルシップ』© 2012 Universal City Studios Productions LLLP. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2023.03.10
『ターミネーター』恐怖と戦慄のアイコン —エンドスケルトンの創造
【1】鋼の骸骨は誰が作ったのか? 未来から送られてきた殺人ロボットとの戦いを描いた『ターミネーター』は、『タイタニック』(97)『アバター』シリーズ(09~)のジェームズ・キャメロン監督による1984年公開のSFアクション映画だ。同作は2023年の現在までに5本の続編と1本のテレビシリーズを派生させ、時間移動を活かした特異な物語と、カルチャーアイコンともいうべきヒール(悪役)を生み出した。機械の内骨格を上皮組織でおおった戦闘ヒューマノイド。そう、タイトルキャラクターの《ターミネーター》だ。その魅力は同キャラを演じた俳優アーノルド・シュワルツェネッガーの、常人離れした肉体と感情を取り払った演技に負うところが大きい。しかし、表皮が剥がれて剥き出しになった内骨格=《エンドスケルトン》の開発こそが、本作における最大の成果といえるだろう。人骨を単に金属パーツに置き換えただけではない、映画が持つ黙示録的な性質を表象する外観は、生身の俳優以上の存在感を放つ。 本作が公開されて、ほどなく40年という歳月が経つ。その間にこのシンボリックなキャラクターは、続編の展開やシチュエーションに応じたニューモデルを登場させ、それらは撮影技術の進化にも応じてアニマトロニクス(機械式レプリカ)やストップモーション・モデルアニメーション、そしてCGによる創造へと発展してきた。しかし。ここで触れる記念すべき第1作目の、ベーシックにして極まった存在に勝るものはない。 【2】伴走者スタン・ウィンストン 「私はかねてより、ロボットの決定版を映画に登場させたいと思っていたんだ」—ジェームズ・キャメロン エンドスケルトンの考案とデザイン原型は監督であるキャメロン自身によるもので、自らイメージショットを描画し、造形を特殊メイクアーティストのスタン・ウィンストン率いるスタン・ウィンストン スタジオへと依頼している。そして映画が完成へと導かれていくプロセスにおいて、あの容姿が形成されていったのだ。 ウィンストンがこの役割を共同で担うことになったのは、当時彼が映画・映像において工学的センスに満ちたヒューマノイドのデザインと、それを実際に可動させるパペット技術に長けていたからだ。それは業界内でも評価が確立されており、実際にキャメロンが特殊効果ショットに必要なエンドスケルトンの制作にあたり、『モンスター・パニック』(80)で同門ニューワールド・ピクチャーズに詰めたことのある特殊メイクアーティストのロブ・ボッティンに相談したところ、ボッティンは「ディックがメイクを、スタンはメカを作ることができる」と提言し、『ゴッドファーザー』(72)の特殊メイクで名を挙げた巨匠ディック・スミスとウィンストンの連絡先を伝えた。そこでキャメロンは先ずスミスに相談を持ちかけると、「スタンが適役だ」とウィンストンを勧められたのである。 事実、ウィンストンは1981年公開のSFコメディ『ハートビープス/恋するロボットたち』で、人間の肌をメタリックに換装させたようなリアルなロボットを数多く創造。またロックグループ、スティクスのミュージックビデオ「ミスター・ロボット」では、『ハートビープス』の発展形のような個性的なロボットを手がけており、それがキャメロンのイメージを実体化させるのに確かなサンプルとなった。 ■『ハートビープス/恋するロボットたち』予告編 ■スティクス「ミスター・ロボット」 なにより、それらがキャメロンのエンドスケルトンにおける「生物と同じ機能を有し、メカっぽく見える」というコンセプトに合致したのだ。 ウィンストンとキャメロンは自動車部品の廃棄場に足を運んで写真を撮り、それらの写真とキャメロンの図面をガイドにして、エンドスケルトンの立体化を図った。ウィンストンの他にはシェーン・マーン、トム・ウッドラフ、ブライアン・ウェイド、ジョン・ローゼングラント、リチャード・ランドン、デヴィッド・ミラー、マイケル・ミルズら7人のクルーが造形に関与し、エリス・バーマン、ボブ・ウィリアムス、アシスタントであるロン・マクレネスの面々が機械仕掛けと金属タッチの細工、それにラジコン操作を受け持った。 スケルトンの頭部はマーンが主に担当。シュワルツェネッガーの頭骨格を正確に再現したものを原型とし、ウッドラフとウェイドが頭部モックアップの彫刻を手がけた。また二人はエンドスケルトンのさまざまなボディパーツを粘土で造型し、それらの彫刻フォームからウレタンでモールドを作成。クルーがエポキシとファイバーグラスの部品を作成し、パーツに埋め込んだ. そして金属の外観を与えるために、部品は真空蒸着(金属粒子を物体に付着させる電磁プロセス)を経て最終的な形に組み立てられた(そのためフルスケールのエンドスケルトンは重量45kgにも及んでいる)。またエンドスケルトンの全身モデルはスタント用の軽量バージョンも作られ、それはレジスタンスの戦士カイル・リース(マイケル・ビーン)のパイプ爆弾で半分に切断されるショットに用いられた。 加えてクローズアップの撮影用に、クルーはオペレーターの背中に装着できる頭と胴体の半身モデルも作成。こちらはオペレーターの動きをモデルに反映させる特別なリグを備え、マーンが操作を兼任。シュワルツェネッガーやウィンストンらと一緒にボディランゲージに取り組んだ。 またエンドスケルトンのみならず、ウィンストンとクルーはシュワルツェネッガーの頭部のアニマトロニクスを作っている。ターミネーターのT−800タイプが眼を自己補修するシーンで、皮膚を切開して内部構造を露出させたり、クロームの下部構造の多くが露出する場面に応じた、複数の頭部モデルが用意された。また実物よりも寸法の大きなメカニカルアイや、真空成形で硬化させたプラスチック片と発泡ゴムの補綴物からなるメイクをシュワルツェネッガーにほどこしたり、彼の腕を複製したウレタン製の中空義手を作り、T-800が腕を切開し、骨格を露出させるシーンを操作演出するなど、エンドスケルトンの存在をプラクティカルなエフェクトで補強している。 これらと前述したパペットやアニマトロニクスを組み合わせ、映画はスタジオセットやロサンゼルス周辺のロケ地で撮影をおこない、またエンドスケルトンの全身を捉えた歩行ショットは特殊効果スタジオ「ファンタジーII」のチームによって2フィートのミニチュアモデルが作られ、ストップモーション アニメーションによって表現されたのである。 【3】エンドスケルトンの起点 以上のような形で『ターミネーター』におけるエンドスケルトン創造のプロセスを綴っていったが、その起点ともいうべきキャメロンのメカニカルセンスにも迫るべきだろう。かの悪夢的なイメージが彼の中でどのように成立していったのか、その起源に対して無関心ではいられない。 『ターミネーター』のエンドスケルトンが驚異的なのは、プロダクションの過程でデザインが試行錯誤して定まっていくのではなく、最初にキャメロンが手がけたドローイングの段階で外観が完成されていたことだ。つまりキャメロンの中でエンドスケルトンの概念が確立していたのである。 2021年に出版されたキャメロン自身の手によるコンセプトアート集「テック・ノワール」には、少年期に遡ってキャメロンのアートワークが網羅されている。本画集を参照すると、エンドスケルトンのモチーフは1982年に氏が宣伝デザインに協力したSF映画『アンドロイド ダニエル博士の異常な愛情』の図案に登場している。同作にてキャメロンは、レオナルド・ダ・ヴィンチの「ウィトルウィウス的人体図」を引用したレイアウトに、人体の左半身がエンドスケルトンに似たデザインの機械体を描き込んでいる。筋組織をシリンダーやスチールサポートに置き換えたメカ構造など、ほぼ同一のものといっていい。 さらに元を辿れば、こうした意匠に基づくメカモチーフは自身が35mmフィルム撮影で手がけた習作『Xenogenesis』(78)に見ることができる(「テック・ノワール」には同作のイメージイラストが掲載されている)。 ■Xenogenesis 加えて画集の中でキャメロンは、自身のドローイング技術の習得やメカニック描写のルーツについて言及しており興味深い。特に後者に関してキャメロンは、「キング」と呼ばれてアメリカンコミックのジャンルに君臨した、ジャック・カービーからの影響が濃いと語っている。例えばカービーの描いた『ファンタスティック・フォー』のシルバーサーファーの金属的なイメージは、『ターミネーター2』(91)の液体金属で構成されたT-1000に通じるものがあると自認している。 ■「That Old Jack Magic」ジャック・カービーのデザイン性についての論考 https://kirbymuseum.org/blogs/effect/jackmagic/ 同アート集の出版にあたり、キャメロンはジェフ・スプライの独占取材に応じ、自身の絵のタッチがファンタジーアートからくるものであり、フランク・フラゼッタやケリー・フリース、リチャード・コーベンといったイラストレーターの描画スタイルから影響を受けていることを明かしている。ネットのない時代、ファンタジーアートとの接触の機会は少なく、それらに確実に接することができたのはSF文庫の扉絵や挿絵だったこと。そして限られたものからあらゆるものを学んだのだとキャメロンは述懐する。 「SF映画やテレビがまだ石器時代のようなデザイン表現だったとき、コミックブックは絵を学ぶのに最適な存在だった。初期の『スパイダーマン』のコミックを描いていたスティーヴ・ディッコは、美しい彫刻のような素晴らしい手を描いていたんだ。他にもジェスチャー的な動きなど、さまざまなことに特化したアーティストがいたのさ。私はほとんどの場合、マーベルのアーティストが面白いことをやっていると感じたよ」 昨年、MCUに対して手厳しい批判をしたキャメロンだが、自身のドローイングの起点がマーベルにあり、そこからエンドスケルトンのデザインへと発展したことを思うと、そこに『ターミネーター』のタイムパラドックスを地でいくような相関性を覚えなくもない。■
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COLUMN/コラム2023.04.10
「第2の挑戦」に想いを馳せて —『レモ/第1の挑戦』
◆殺人機械シリーズをライトに映画化 殺人罪の極刑を受け、死刑を執行された警官ウィリアムズ。だがそれは見せかけで、彼は蘇生され、ケネディ大統領によって発足された秘密機関《CURE》の特殊工作員として新たなキャリアを得る。そしてスーパーナチュラルな武術《シナンジュ》を会得し、銃器を必要としない殺人機械=デストロイヤーとなり、国益をおびやかす脅威的な敵を駆逐していく——。 元記者/編集者であるウォーレン・マーフィーとリチャード・サピアを生みの親とするアクションキャラクター《レモ・ウィリアムズ》は、1971年に出版された「デストロイヤーの誕生」を起点に、2023年の現在までに153巻のアドベンチャーノヴェルシリーズで活躍を繰り広げている。1985年公開のアメリカ映画『レモ/第1の挑戦』(以下『レモ』)は、そんなレモを新たなスクリーンヒーローとして、小説同様のシリーズ展開を企図された一本だった。 同作は前述の「デストロイヤーの誕生」から基本的なコンセプトと設定を受け継ぎ、アメリカの軍需産業で暗躍する腐敗した武器商人へと敵を替え(原作ではマフィア組織)、世界観を初っ端から大きく拡げている。 なにより本作がシリーズとして連続性を要求されたのは、ガイ・ハミルトンを監督に据えたことからも明白だ。スパイアクション映画の総本山ともいえる『007』シリーズを過去に4本も演出した人物から、そのノウハウを伝授してもらおうというのが製作サイドの狙いとしてあったのだ。 残念ながら『レモ』は大ヒットに恵まれず、シリーズ化のもくろみは潰えてしまったが、作品は恒久的にファンを増やし、現在もカルトな人気を誇っている。要因はフレッド・ウォード(『ライトスタッフ』(83)『トレマーズ』(90))演じる主人公レモの、観客の視座に寄せた大衆的なヒーロー像や、彼に奥義シナンジュを伝授する韓国人チュン(『キャバレー』(72)のジョエル・グレイ)の超人かつ禁欲的なキャラクターが、多くの人の心を捉えて離さないこと。加えてユーモアとシリアスを絶妙にブレンドさせた作風や、レモが恐怖心を抑制したすえに展開する極限アクションなどが挙げられる。 ◆ヒッチコックを超えろ! 自由の女神像でのアクション とりわけアクション面における本作の成果は大きく、そこはハミルトンの人選が奏功したといえる。氏はいわゆる「スネークピット(混乱のるつぼ)」を設定する達人として、その腕前を存分に発揮したのだ。特にそれが顕著なのは、本作最大の見せ場ともいえる、自由の女神像を舞台とするアクションシークエンスだろう。 当該描写は「デストロイヤーの誕生」にはないオリジナルで、発案はハミルトンによるものだ。本作のプリプロダクション当時、自由の女神は建造100周年を目前とした修復中にあり、周りが作業のために鉄骨の足場で囲まれていた。これを見た監督自身が、本編の見せ場にもってこいの場所だと判断したのだ。 自由の女神を用いたアクションシークエンスといえば、1942年にサスペンスの巨匠アルフレッド・ヒッチコックが発表した『逃走迷路』がそれを実現させていた。しかしハミルトンは、その見せ場をリアプロジェクション(背景投影)やマットペイント(合成画)、あるいはトラベリングマット(移動合成)といった特殊効果で加工せず、全てをライブで撮りきるプロセスに挑んだのだ。女神像のモックアップ(実物大模型)を用いるところは『逃走迷路』を踏襲しているが、『レモ』ではそれをさらに大きくし、胸部からトーチの先端までを精巧に再現した、約25メートルのモックアップをイスタパラパ(メキシコシティの管轄区域)の屋外に建造。俯角のショットは本物の女神像で、仰角ショットはモックアップでというふうに、両所で可能なアクションをカメラに収め、それらの映像素材を巧みに編集で繋ぎ合わせることにより、目も眩むような高度での戦いを創造したのである。スタントとアクションはハミルトンとスタント・コーディネーターのグレン・H・ランドールによって慎重に設計され、キャストに振り付けられた。またマンハッタンとメキシコとの異なる映像のルックは前者を基準にカメラフィルターなどで統一させ、違和感なくショットをひとつにしたのである。 なにより当時のメキシコはペソ安・ドル高という為替相場によって、ハリウッド映画における制作の重要な拠点となっていた。『レモ』もその類に漏れず、自由の女神像を中心に多くのセットは、同地のプロダクションセンターであるチェルブスコ・スタジオにて建造したものだ。この映画の制作元であるオライオン・ピクチャーズは7年前に設立したばかりの独立系スタジオで、作品に充てられる予算は限られていた。しかしプロダクションデザインを担当したジャクソン・デ・ゴヴィアは、効率的なセットデザインを提供して予算以上の成果を上げている。自由の女神像はもとより、レモがコンクリートの廊下を経てガス室のトラップに誘導されるまでの基地内のセットはドアを同じように設計し、カメラアングルの調整だけで3つしか作成していないハッチを10以上に見せる成果をもたらした。 こうしたセットデザイン手法の実績を買われ、デ・ゴヴィアは後年、アクション映画の革命的作品である『ダイ・ハード』(88)にも参加。同作では物語の舞台となるフォックス・プラザ(劇中ではナカトミ・ビルに設定)と精巧なミニチュアのモックアップを併用することで、ロサンゼルス・センチュリーシティを舞台とした大規模な都市破壊描写を可能にしたのだ。 ◆悠然と進行する「第2の挑戦」 それにしても「第1の挑戦」とは、なんと罪深いサブタイトルだろう(原題直訳は「レモ・ウィリアムズ:冒険の始まり」)。公開からじき40年が経とうとしているのに、今も続編を純粋な気持ちで待ち続けているファンがいる。 その間に、実現への動きがなかったわけではない。現に1988年、全米でTVムービー“Remo Williams: The Prophecy”が放送されている。このパイロットドラマは『レモ』で描かれた1年後を時代として設定し、冒頭には同作の本編クリップが挿入され、映画とのリンクを主張している。しかし配役は異なり、『私の愛したゴースト』(91)のジェフリー・ミークがタイトルキャラクターを(フレッド・ウォードは出演を固辞)、『猿の惑星』シリーズ(68〜73)や『ヘルハウス』(73)などで知られる名優ロディ・マクドウォールがチュンを演じている。唯一、音楽を担当したクレイグ・サファンが続投し、映画を反復するようなテーマ曲で関連性を強めている。 ◎Remo Williams: The Prophecy それからさらに時代を経た2014年、『キスキス,バンバン』(05)『アイアンマン3』(13)で知られるシェーン・ブラックを監督に、ソニー・ピクチャーズが『ファイト・クラブ』(13)の脚本家ジム・ウールズや、「デストロイヤー」シリーズ111から131を執筆した共同著者ジム・ムラニーと新たな『レモ』の制作を開始したことが報じられた(*1)。その後ウールズに代わって『ドラキュリアン』(87)の監督フレッド・デッカーが参加し、ムラニーと脚本に取り組む段取りとなっていたが、具体的な成果は得られていない。 しかし2022年に入り、企画はソニー・ピクチャーズ・テレビジョンに引き継がれたようで、ゴードン・スミスが『ヒットマン』シリーズのプロデューサーであるエイドリアン・アスカリエと一緒に「デストロイヤー」のテレビシリーズをリリースすることが発表された(*2)。 こうして悠然とした進捗をみせている『レモ』のリブート計画だが、我々にとって長年の祈願だった「第2の挑戦」を観ることができるのは、そう遠くない日のことかもしれない(半ばヤケクソぎみに)。■ (*1) https://www.hollywoodreporter.com/movies/movie-news/shane-black-direct-destroyer-sony-726801/ (*2) https://deadline.com/2022/12/the-destroyer-series-adaptation-1235192845/ 『レモ/第1の挑戦』© 1985 ORION PICTURES CORPORATION. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2023.05.29
『ツイスター』に隠顕する“ゴジラ”の存在
◆竜巻を追うストームチェイサーたちの衝突 1996年に公開されたアメリカ映画『ツイスター』は、米オクラホマ州で発生する竜巻(トルネード)に追跡システムを巻き込ませ、動きのジオメトリーデータを得ようとするライバルチームの衝突を描いたパニックアクションだ。物語の性質上、作品には巨大竜巻の猛威が見せ場として用意され、その破壊描写は怪獣映画並みのスケールを放つ。 怪獣映画といえば、本作の監督を務めたヤン・デ・ボンは、初のハリウッド版“ゴジラ”を監督デビュー作『スピード』(94)の後に手がける予定だった。しかし製作費の試算を兼ね、視覚効果のテストフィルムを大手VFXファシリティ(一説にはソニー・ピクチャーズ・イメージワークスと言われている)に作成させたところ、約1億2500万ドルという巨額が計上され(規定の予算は7000万ドルだった)、製作は難航。デ・ボンはプロジェクトを離脱したのである。結果的に侵略SF大作『インデペンデンス・デイ』(96)で大ヒットを記録したローランド・エメリッヒ監督が後を受け継ぎ、1998年に映画『GODZILLA』として完成を見ることとなる。ここで同作の真価を問うことはしないが、『トゥームレイダー2』(03)の取材で筆者が会ったデ・ボンいわく、「あれ(エメリッヒ版)は僕の知っているゴジラではないね。もし機会があるのならば、今でもゴジラ映画をやりたいと思っているよ」と後悔の念をにじませていた。 そのため、デ・ボンはゴジラに対する未練から、似た傾向のパニック映画をでっち上げたのだと思われがちだ。しかし『ツイスター』の企画は1994年から存在し、もともとはマイケル・クライトンとスティーヴン・スピルバーグの『ジュラシック・パーク』(93)コンビによる続投作品として温存されていたものだ。しかしスピルバーグは同作と『シンドラーのリスト』(93)を連作したために監督業の休止期間を置き、デ・ボンは『スピード』を観たスピルバーグから「監督を頼めないか」と打診されたのである。 なによりデ・ボンはシネマトグラファーとしての実績が長く、監督としては遅咲きだった。そのため前途多難なゴジラにキッパリと見切りをつけ、間を置くことなく『ツイスター』へと移行。好機を逃したくないという意識がはたらいたのである。 それでも『ツイスター』に、ヤン・デ・ボンが果たせなかったゴジラの幻像を見る人は少なくない。そこにはエメリッヒの『GODZILLA』が、ファンの望むゴジラ像とかけ離れていたことが起因として存在する。そして後述するが、デ・ボンの描いていた物語設定が魅力的だったことも要素として挙げられるだろう。 しかしながら、この竜巻パニック映画の制作プロセスをたどると「…やはりゴジラは無理だったのでは?」という印象も拭うことはできない。それほどまでに『ツイスター』は、デ・ボンの視覚スタイルにVFXを調合させるのがいかに難しかったかを示しているのだ。 ◆無軌道なカメラワークに竜巻をどう合成するのか? 先述したように、ヤン・デ・ボンはシネマトグラファーとして『ダイ・ハード』(88)や『ブラック・レイン』(89)『レッド・オクトーバーを追え!』(90)などのヒット作に関わり、独自の撮影スタイルを築き上げてきた。カメラモーションは多動的で、遠景から被写体へと寄る広範囲な空撮やドリー移動を好んで用い、加えてドキュメンタルなタッチを標榜し、カメラワークは不規則な動きをともなうシェイキーな傾向にあることを諸作が語っている。常時6〜8台のカメラを同時に駆使してショットを多く得るうえ、アクションと同時に会話が進行する素早い作劇演出を特徴としている。たとえば『スピード』の場合、主演のキアヌ・リーブスにスタントダブルをつけない方向で撮影がおこなわれている。それらの姿勢が『ツイスター』でも応用され、しかもなるべく現場でプラクティカル(実用的)な特殊効果を用い、ライブの臨場感を得ようとしたのだ。 ところが、竜巻の前兆となる曇天や雲の急激な動きの変化などはかろうじてフォローできたものの(不幸にも撮影時は好天続きだった)、さすがに本物をカメラに収めることまではできなかったのだ。そこで全ての竜巻をCGで創造し、それを実景にマッチムーブ(動きを含むプレートどうしを一致させ、合成するプロダクション処理)させる手段をとったのである。 こうした合成を可能にするためには、今でこそ最適なマッチムーブソフトウェアが存在するが、当時はボールのようなオブジェクト(対象物)を設置し場面同期のガイドを得て、マッチムーブ専門アニメーターの職人的な作業が創造を担っていた。だがデ・ボンのような複雑なカメラワークを常道とするものは、こうした手順をいっそう困難なものにさせたのである。 そこで本作では、ショット内に写り込んでいる建造物や木といった実景要素をオブジェクトにして、それらをコンピュータ上で生成した3Dの背景プレートに、2Dソフトでカメラの揺れや不規則なモーションを加えるという、初歩的だが非常に手間のかかるカメラトラッキングで対処したのだ。それらの開発は視覚効果ファシリティのILM(インダストリアル・ライト&マジック)が担当し、難題を解決へと導いたのである。 ◆現代において実感する『ツイスター』の画期性と挑戦心 こうして『ツイスター』の技術的な達成を称賛する反面、実作業の難易度はとてつもなく高く、これをテストケースにゴジラの実現を考慮しても見とおしが立ちにくい。事実、デ・ボンは、「『ツイスター』は『ゴジラ』と似ているようで違うものだ」とコメントし、自ら『ツイスター』とゴジラとの関連性を積極的には語っていない。そこには予算だけでなく、やはり自分の映像スタイルをゴジラに落とし込むことが難しい、技術的な問題があったのだと思えてならない。 1994年の第7回東京国際映画祭・京都大会のオープニングで『スピード』が上映されたとき、来日したヤン・デ・ボンは登壇して挨拶をおこなった。そこで氏は「僕のゴジラはスピーディで動きの激しいものになる」といった旨の宣言をし、場内を大いに沸かせている。事実 彼のゴジラは破壊を繰り返しながら北アメリカを縦断し、東部で待ち受ける巨大怪獣グリフォンと戦う「VS怪獣もの」になる予定だった。その激しいスピード感と移動感覚は、ある意味『ツイスター』の竜巻に換装されている。 2023年の現在、アクションを旨とする大型の映画は、スタジオに背景映像を投影して仮想現実空間を構築し、役者の演技やカメラモーションを得る「ヴァーチャル・プロダクション」が主流となっている。だが『ツイスター』は、スタジオに撮影の軸足を置かず、そのほとんどをライブでの撮影に求め、プラクティカルとデジタルエフェクツの両方をサポートさせて構築した、最後期の作品といえるだろう。 今やバーチャル・プロダクションは、実景によるロケーション撮影と見紛うほどのレベルとクオリティに達している。しかしライブがもたらす臨場感は俳優の演技のテンションを高め、おのずと観る者に説得力をもって伝わってくる。『ツイスター』は、こうした要素の創出に大きく貢献したのだ。 人間は何事もあきらめが肝心である。筆者は『ツイスター』の画期性を特記することで、幻に終わったヤン・デ・ボン版ゴジラへの決別をうながそうとしたが、むしろ火に油を注いで再燃させてしまったのかもしれない。 ちなみにデ・ボンは実際にゴジラを2シーン撮影したと取材で述べている。ひとつはエメリッヒ版のティーザー予告にもあった、ゴジラが背びれを浮かせて海上を進み、湾岸から上陸するまでのシーン。そしてもうひとつは、作戦本部で日本人の司令官がゴジラ迎撃の指揮をとるシーンだったという。この日本人司令官を演じているのが、誰あろう高倉健で、これらのフッテージ(未公開映像)はソニー・ピクチャーズの倉庫に眠っているというのが、デ・ボンのインタビュー時の見解である。■ 『ツイスター』© 1996 Warner Bros. and Universal City Studios, Inc. All Rights Reserved.