ザ・シネマ 尾崎一男
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COLUMN/コラム2017.10.10
【再掲載】3つの『ブレードランナー』、そのどれもが『ブレードランナー』の正しい姿だ!
例えば『ゾンビ』のように、公開エリアによって権利保持者が違ったため、各々独自の編集が施されたケースもあれば、『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズや『アバター』のように、劇場公開版とは別の価値を持つものとして、DVDやBlu-rayなど制約のないメディアで長時間版を発表する場合もある。 『ブレードランナー』もそれらのように、いくつもの別バージョンが存在する作品として有名だ。しかし、先に挙げた作品とは「発生の理由」がまったく異なる。いったいどのような経緯によって、同作にはこうしたバージョン違いが生まれたのだろうか? なぜバージョン違いが生まれたのか? それは最初に劇場公開されたものが「監督の意図に忠実な作品ではなかった」というのが最大の理由だ。 映画の完成を定める「最終編集権」は、作品を手がけた「監督」にあると思われがちだ。しかし、その多くは作品の「製作者」が握っており、監督が望む形で完成へと到らないケースがある。『ブレードランナー』もまさしくそのひとつで、1982年に劇場公開された「通常版」は、製作者の権利行使によって完成されたものなのだ。 当然、それに納得いかなかったのが、監督のリドリー・スコットである。醇美にして荘厳な映像スタイルを自作で展開させ「ビジュアリスト」の名を欲しいままにする希代の名匠。そんな完璧主義の鬼が、自らの意図と異なるものに寛容であるはずがない。そう、もともと『ブレードランナー』は、リドリーの意図に忠実に編集されていたのである。しかし製作側が完成前にテスト試写をおこない、参加者にアンケートをとったところ、以下のような驚くべき意見が寄せられてしまったのだ。 「映画に出てくる単語や用語が難しい。“レプリカント”って何? そもそも“ブレードランナー”って何なの?」 「ラストが暗すぎる。デッカード(ハリソン・フォード)とレイチェル(ショーン・ヤング)は、あの後どうなったの?」 こうした意見に製作側が戦々恐々となったのは言うまでもない。そして収益に響いては困るとばかりに、編集に修正を加えるのである。「用語が難しい」という問題には、劇中にわかりやすいナレーションを入れることで対応し、そして「ラストが暗い」には、「レイチェルには限られた寿命がなく(レプリカントは4年しか生きられない)、ふたりは生き延びて仲良く暮らしました」とでも言いたげなハッピーエンド・シーンを追加した。 しかし、今となっては考えられないことかもしれないが、こうした製作側の配慮もむなしく、『ブレードランナー』はヒットには到らなかったのである。 何が問題だったのか? それは懸念された「内容の難解さや暗さ」ではなく、ダークなセンスこそ光る本作を「SFアクション劇」で売ろうとした製作側の大きな宣伝ミスだったのだ。そして皮肉にも、その退廃的な未来図像や哲学的なストーリーが目の利いた映画ファンから絶賛され、『ブレードランナー』は年を追うごとに注目を集め、マスターピースとしてその名を高めていくのである。 ■「ディレクターズ・カット/最終版」(1992年)の誕生 商業性を優先した製作側に、作品を曲解されてしまったとリドリー・スコット監督は考えていた。作品の評価が高まるにつれ、彼は今そこにある『ブレードランナー』が、自分の意図どおりのものでないことにジレンマをつのらせたのである。そして「いつか私の『ブレードランナー』を作る」と、来るべき機会をじっと待っていたのだ。 そして、ついにその祈願が果たされるときがやってくる。1991年、ワーナー・ブラザースが同作のファンの需要に応え、「通常版」の前のバージョンの公開を局地的に展開していた。そう、リドリーの意向に沿った編集版だ。 それに対してリドリーは、 「あの編集バージョンはあくまで粗編集で、未完成のものだ。公開を承認することはできない。これはビジネスの問題じゃなくて芸術の問題だ」 と、公開にストップをかけたのだ。そしてワーナーに対し、ある代案を呈示したのである。 「監督である私の意図にしたがい、新たに編集したものならば公開してもいい」。 この代案が受け入れられ、編集権はリドリーに譲渡される形となった。そしてリドリーは自分どおりの、新たな編集による『ブレードランナー』を発表することになったのだ。それが「ディレクターズ・カット/最終版」である。 ■「通常版」と「ディレクターズ・カット」、ここを見比べよう! 監督の意図に忠実な「ディレクターズ・カット/最終版」は、「通常版」に入れられたナレーションをすべて取り払い、そして最後に追加されたハッピーエンド・シーンも削除したバージョンだ。そこには監督の「混沌とした未来像をありのままに受け止めてほしい」という演出プランが息づいている。 こうした点にこだわりながら、改めて両バージョンを見比べてほしい。ナレーションのない「ディレクターズ・カット/最終版」は、耳からくる情報収集で聴覚を奪われないぶん、視覚を集中して働かせられる。そのため、映像が放つインパクトをより強く受け取ることができるのだ。公開当時、革命的で前代未聞といわれたデッドテックな未来像。その視覚的ショックを、監督の思う通りに実感できるという次第だ。 さらにリドリーは「ディレクターズ・カット/最終版」に新たなショットを付け加えることで、観客がこれまで抱いてきた『ブレードランナー』の固定観念を覆すことに成功している。それが「森を駆けるユニコーン(一角獣)」のイメージ・シーンである。 デッカードが見る「夢」として挿入されるユニコーンの映像。それは彼の同僚ガフ(エドワード・ジェームズ・オルモス)が捜索現場に残した「折り紙のユニコーン」と重なり合う。デッカードの脳内イメージを第三者であるガフが知っているということは、「デッカード自身もレプリカントなのでは?」という疑念を観る者に抱かせるのだ。そしてその疑念こそが「ディレクターズ・カット/最終版」の、もうひとつの変更点=“ハッピーエンドの否定”へとリンクしていく。 「ならば『通常版』は、監督の意図と違うからダメなのか?」 と訊かれれば、それはノーだ。「通常版」固有のナレーションは、1940?50年代に量産された「フィルム・ノワール(犯罪映画)」や「ハードボイルド小説」のスタイルを彷彿とさせる。『マルタの鷹』や『三つ数えろ』『ロング・グッドバイ』など、主人公が自身の行動や考え、感情をストーリーの流れに沿って口述する文体は、フィルム・ノワール、特にハードボイルド小説の「探偵ジャンル」に顕著なものだ。そうした古来の語り口を介することで、『ブレードランナー』もまた「孤独な主人公が犯罪者を追う」古典的な物語であることを認識させてくれるのである。 そういう観点からすれば「通常版」は“未来版フィルム・ノワール”として独自の価値を持つものであり、監督が思うほど「ディレクターズ・カット/最終版」に劣るものでは決してないのである。 ■さらに作品を極めたい?そして「ファイナル・カット版」(2007年)へ リドリーは紆余曲折を経て、自分の意向に沿った『ブレードランナー』を世に出すことに成功した。だが、それだけでは満足しないのがアーティストの性(さが)だろう。「さらに極めたものを作りたい」という思いは、完璧主義者としての彼の奥底に深く根を張っていたのだ。 そうした自身の思いと、多くのファンの作品に対する支持はワーナー・ブラザースを動かした。同社は『ブレードランナー』公開から25周年を迎えるにあたり、改めて同作の権利契約を結び、“究極”ともいえる「ファイナル・カット版」の製作にゴーサインを出したのである。 「ファイナル・カット版」は、基本的には前述の「ディレクターズ・カット/最終版」をアップデートしたものだ。なので「通常版」→「ディレクターズ・カット/最終版」に見られたような大きな違いはなく、下記のようにディテールの修正が主だった変更点である。 【1】撮影・編集ミスによる矛盾の修正 撮影ミスや編集ミスで、カットごとに違うものが映し出されるシーン(不統一な看板の文字など)や、または矛盾を生じるセリフの修正などが徹底しておこなわれている。特に代表的なのは、ブライアント(M・エメット・ウォルシュ)がレプリカントに言及するセリフで「(6体の逃亡したレプリカントのうち)1匹は死んだ」としゃべっていたものを、「2匹が死んだ」と変えている場面だ。これはデッカードが追う残り4体のレプリカント(ロイ、ゾーラ、リオン、プリス)の数に合致させるための変更である。 あるいは修正のために、新たに映像素材を撮影したシーンもある。デッカードに撃たれたゾーラが倒れるシーンで、スタントの代役が如実に分かるミスショットがあるが、ゾーラ役のジョアンナ・キャシディを招いて撮ったアップショットを代役にリプレイスメント(交換)することで解決へと導いている。また人口蛇をめぐってデッカードがアブドルと話すシーンでの、声と口の動きが一致していない問題点には、ハリソン・フォードの実子ベンジャミン・フォード(お父さんそっくり!)の口もとを合成し、同様に解決されている。 【2】特殊効果シーンの一部変更ならびに修正 オプチカル(光学)による合成ショットのブレや、シーンによって左右反転するデッカードの頬傷メイク、あるいはスピナーが浮上するさいに見える、吊り上げるためのワイヤーなど、ミスや製作当時の技術的な限界を露呈した点がデジタル処理で修正されている。またバックプレート(背景画像)が大きく入れ替えられている部分もあり、たとえばロイの死の直後にハトが飛び去るショットは、前カットとの連続性を持たせるために晴天から雨天へとレタッチされ、下部分に写る建造物も新たにデジタル・ペイントされて、違和感をなくしている。 【3】未公開シーンの挿入 デッカードがゾーラを訪ねるシークエンスで、繁華街に登場するホッケーマスクのダンサーなど、未公開だったショットが追加されている。またユニコーンのシーンも1ショット追加され、それにともないデッカードのアップにユニコーンのショットがインサートされる編集処理となり、ユニコーンのシーンはディゾルブ(オーバーラップ)でなくなった。 すべてのバージョンが『ブレードランナー』である ! そう、1982年の『ブレードランナー』初公開から四半世紀の間に、映画の世界には大きな変革が及んだ。「デジタル技術」の導入により、そのメイキング・プロセスや作品の仕上がりに高いクオリティが与えられたのだ。監督とスタッフは「ファイナル・カット版」作成に際し、オリジナルの本編シーン35mmネガ、そして視覚効果シーンの65mmと70mmオリジナルネガをスキャンしてデジタルデータに変換し、すべての編集や修正をコンピュータベースでおこなっている。 その結果、同バージョンは「ディレクターズ・カット/最終版」と比較(あるいは「通常版」と比較)しても、とにかく映像の美しさという点で勝っている。デジタルによる高解像度のスキャンによって、これまでの別バージョンに較べて画面の隅々までが明瞭に見えるようになったし、照明効果の暗かった場面の光度や輝度をデジタル処理で上げることで、暗部に隠れた被写体の可視化に「ファイナル・カット版」は成功している。 また映像面だけでなく、サウンドにおいても微細に加工が施されている。セリフ、効果音、スコアそれぞれのトラックからノイズをデジタルで消去し、それらをリミックスして響きのいい音を提供している。またナレーションを排したために、ところどころで音の隙間が出来てしまった場面においても。スピナー飛行時の通信ノイズや街の雑踏など新たなサウンドエフェクトで補っているのだ。 こうした丹念な修正作業と、リドリー・スコット監督の執念によって、「ファイナル・カット版」は『ブレードランナー』の“完成型”といえるものに仕上がった。とはいえ、デジタルという態勢下で加工された「ファイナル・カット版」に対し、あくまでフィルムベースで存在する「通常版」「ディレクターズ・カット/完全版」の“映画らしい質感”を称揚する者も少なくない。なにより私(筆者)自身、作家性を重んじる立場から「ファイナル・カット版」に感動しつつも、「最初に劇場公開されたものこそオリジナル」という主義でもあるので、すべてのバージョンを観るたびに心が揺れる。だからどの『ブレードランナー』を支持するかは、観る者の嗜好によって一定ではないだろう。 しかし、誰がいかなるバージョンに触れたとしても、やはり『ブレードランナー』という作品そのものが持つ「魅力」と「偉大さ」を、改めてすべての人が感じるに違いない。■ 【3月放送日】 『ブレードランナー』…5日、25日 『ディレクターズカット/ブレードランナー 最終版』…11日、29日 『ブレードランナー ファイナル・カット』…20日、26日 『(吹)ブレードランナー ファイナル・カット』…20日、26日 『デンジャラス・デイズ/メイキング・オブ・ブレードランナー』…5日、20日 TM & © The Blade Runner Partnership. 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COLUMN/コラム2017.10.05
「ロシアSFアクション大作」を開拓した記念碑的作品『プリズナー・オブ・パワー 囚われの惑星』〜10月10日(火)ほか
■ロシア映画史上最大規模のSFファンタジー ロシアのSF映画で即座に思い浮かぶ作品というと、未だにアンドレイ・タルコフスキー監督の『惑星ソラリス』(72)や『ストーカー』(80)あたりが、日本人の一般的認識として幅を利かせているような気がしてならない。もちろん、これらが歴史的名作であることは言を俟たないが、我が国におけるロシア映画の市場が先細りしている影響もあって、最近の作品があまり視野に入ってこないのも事実だ。 しかし2000年代を境に、ロシアではハリウッドスタイルのスケールの大きな映画が興隆を成し、SFジャンルも観念的でアート志向なものばかりではなく、エンタテインメントに徹した作品が量産されている。 こうしたロシアの映画事情の様変わりは、2004年製作のダークファンタジー『ナイト・ウォッチ』に端を発する。同作を手がけた監督ティムール・ベクマンベトフが、当時小さく散らばっていたロシア国内の特殊効果スタジオをひとつにまとめ、大型の作品にも対応できる製作体制を整えた。これはジョージ・ルーカスが『スター・ウォーズ』(77)を手がけ、視覚効果スタジオの大手であるILM(インダストリアル・ライト&マジック)設立をうながし、後のSPFX映画のムーブメントを発生させたのと同じ流れである。つまり映画技術のインフラ整理によって、ロシアは「エンタテインメント大作」としてのSF映画の開発に勢いをつけたのだ。(『ナイト・ウォッチ』『デイ・ウォッチ』に関しては、今冬の「シネマ解放区」にて解説の予定) この『プリズナー・オブ・パワー』も、日本円にして約37億という、当時のロシア映画史上最高額の製作費をかけた大作SFとして公開され、国内で20億円という興行成績を記録している。「それ、赤字じゃないのか?」と思われるだろうが、本作は全世界展開を視野に入れた作りをほどこし、さらに21億円という外貨を稼いでいるのである。1シークエンスにつき1セットという豪華なセット撮影や、完成度の高いCGに支えられたVFXショットの数々。バルクールを取り入れた肉体アクションはハリウッドにも劣らぬものとして観る者の目を奪い、また音楽も当初は『ダークナイト』『パイレーツ・カリビアン』シリーズなどハリウッドアクションスコアの巨匠ハンス・ジマーが担当する予定だったというから、世界市場に打って出ようとする、その本気の度合いがうかがえるだろう。 なにより専制君主の強大な権力を打ち負かそうとする自由な主人公は、ハリウッド映画のヒーローキャラクターを彷彿とさせるものだ。この明快さこそが、本作を「ロシアSFアクション大作」たらしめる牽引力といっていい。 ■ストルガツキー兄弟の小説に最も忠実な映画化作品 しかし意外にも、この『プリズナー・オブ・パワー』、物語に関してはロシアらしいメンタリティを強く放っている。原作は同国を代表するSF文学の大家・アルカージー&ボリス・ストルガツキーの手による長編小説『収容所惑星』。ストルガツキー兄弟は前述したタルコフスキーの『ストーカー』や、2015年の「キネマ旬報」外国映画ベスト・テンで6位に選出されたアレクセイ・ゲルマン監督の『神々のたそがれ』(13)など、映画との関わりは深い。 ただ『ストーカー』や『神々のたそがれ』が原作と大きく異なるのに比べ、『プリズナー・オブ・パワー』は意外にも、原作にほぼ忠実な形で映画化がなされている。こうした大作ともなれば、原作は名義貸し程度であるかのごとく大幅に改変されるが、ストルガツキー原作映画の中でも、最もその世界観に肉薄したものとなっているのだ。 とはいえ、原作と異なる点もなくはない。たとえば主人公マクシム(ワシリー・ステパノフ)の容姿は、映画では青い目をしたブロンド髪だが、原作では黒い瞳のブルネットだ。そして彼の乗る宇宙船は、映画だと小惑星との衝突によって破壊されるが、原作では自動対空砲で撃墜されている。またマクシムは惑星サラクシの住人の言葉を自動翻訳機を通じて理解するが、原作では徐々に現地語を覚えていくのである。 他にもクライマックスでは、国家検察官ユニーク(フョードル・ホンダルチュク)が責任を回避するため自ら死を選ぶが、原作における彼の最後は不明のままになっているし、マクシムと影の統治者ストランニック(アレクセイ・セレブリャコフ/原作では〈遍歴者〉と呼称)との壮絶な一騎打ちも、原作だと淡白な話し合いにとどまり、過激なアクション展開は映画の中だけのことだ。もっとも、これらあくまでディテールの差異にすぎず、物語を大きく激変るようなアレンジではない。 それよりも原作に忠実であるがゆえに、映画も出版当時の社会主義を批判する内容となっているところに注目すべきだろう。マクシムが敵対する惑星サラクシは、政府が「防衛塔」と呼ぶ電波塔からコントロール波を流し、国民を従属させている全体主義国家だ。彼らの服装にはナチス・ドイツのような意匠が見られるが、根底にあるのは社会主義国時代のソ連の姿である。 ロシアNIS貿易会の機関紙「ロシアNIS調査月報」の連載ページ「シネマ見比べ隊」で、記事担当者である佐藤千登勢は、 「保守派政党である統一ロシアの党員である監督が、面と向かってロシア批判をするはずがない。なので惑星サラクシの独裁体制をナチス・ドイツ的に描くことで、反体制的なメッセージをカモフラージュしているのではないか?」 といった旨の考察をしている。確かにそのような考えも成り立つが、この映画の場合は単純に、ストランニックの「ドイツ語をしゃべる地球人」というキャラクター設定にリンクさせたり、また世界展開を視野に入れた作りのため、わかりやすい悪役像としてナチス・ドイツの意匠が用いられたのだと考えられる。 ちなみにこの『プリズナー・オブ・パワー』の監督を務めたフョードル・ホンダルチュクは、名作『戦争と平和』(66)『ネレトバの戦い』(69)で知られる俳優セルゲイ・ボンダルチュクの息子で、姉は『惑星ソラリス』でケルヴィン博士の妻を演じた女優、ナタリヤ・ボンダルチュクという芸能一家の出身である。『プリズナー~』以降は、スターリングラード攻防戦をソ連軍の視点から描いた戦争アクション『スターリングラード 史上最大の市街戦』(13)など、統一ロシア党員らしい作品を手がけたりしているが、『パシフィック・リム』(12)のキービジュアルを模したポスターであらぬ誤解を受けた戦争ファンタジー『オーガストウォーズ』(12)や、今年公開された侵略SF『アトラクション 制圧』など、ロシア映画のエンタテインメント大作化に寄与している監督だ。自身の政治的スタンスがいかにあれ、今いちばん評価が待たれる作家といっていいだろう。 ■「インターナショナル版」と「全長版」との違い ところで、この『プリズナー・オブ・パワー』には「インターナショナル版」と、ロシアで公開された「全長版」がある。日本で公開されたのは前者で、ザ・シネマで放送されるバージョンもそれに準ずる。後者は第一章『Обитаемый остров(有人島)』と第二章『Схватка(武力衝突)』の二部からなる構成なのだが、上映時間の総計は217分と「インターナショナル版」より97分も長い。 こう触れると、やはり気になるのは後者の存在だろう。なので両バージョンの相違をここで具体的に記したいのだが、とにかく当該箇所が多いので、大まかに触れるだけに留めておく。なんせ開巻、いきなりマクシムが惑星に不時着するオープニングからして縮められているし、他にも「全長版」はマクシムが牢獄で再会するゼフ(セルゲイ・ガルマッシュ)が収監される経緯や、ストランニックを筆頭とする高官のいびつな人間関係、あるいは政府軍の軍人だったガイ(ピョートル・フョードロフ)が支配の陰謀を知り、マクシムと共に戦おうとする改心のプロセスなどがスムーズに描かれている。加えて同バージョンでは、マクシムとガイの妹ラダ(ユーリヤ・スニギル)が互いに心を通わせていくところを丁寧に描き、捕虜となった彼女を救う意味がきちんと納得できる編集になっているのだが、「インターナショナル版」ではそのあたりが完全に削り取られ、唐突感の否めない構成になってしまっている。 他にも政府がテレビや新聞などメディア報道を徹底的にコントロールし、厳しい統制をおこなっている描写も広範囲にわたって削られているし、ミサイル攻撃を受けたマクシムとガイが政府の潜水艦に潜入し、軍のミュータント虐待を知る重要なシーンも「インターナショナル版」にはない。 このように列記していくと、「インターナショナル版」はドラマ部分をタイトにまとめ、アクションシーンに重点を置いたバージョンのように感じるだろう。しかし、そのアクションシーンも実のところ、かなり刈り込まれているのだ。特にカフェの出口でマキシムが暴漢に襲撃され、それを見事に返り討ちにするアクションシーンは、2009年の「ロシアMTVムービーアワード」で「ベストアクション賞」を獲た名場面でありながら、後半部がかなり短縮されているのだ。加えてクライマックスの凄絶な戦車戦も「全長版」より3分短かくされ、その編集の暴威はとどまるところをしらない。 放送に合わせたコラムなので、本来ならば「無駄な部分を削ぎ落としたぶん、すっきりして見やすい」とフォローしたいところだが、作品を深掘りしていく「シネマ解放区」の趣旨からすれば、正直「インターナショナル版」は短くなってしまったことで、かえって映画が分かりにくくなっている点を主張せねばならない。現状では権利の関係もあって「全長版」の放送は難しいようだが、いずれは朗報を伝えることができるかもしれない。ともあれ、ひとまず今回放送の「インターナショナル版」に優位性を指摘するならば、日本ではDVD(SD画質)でしかリリースされていない本作を、HDで観られる点にある。ハリウッド映画に拮抗するそのゴージャスな作りは、HDで観てこそ価値を放つ。その満足感たるや『惑星ソラリス』で時代が止まっていた人の、ロシア製SF映画に対する認識を一新させるに違いない。 ちなみに「全長版」にはないが「インターナショナル版」にある要素も存在しており、それがアヴァンタイトルを経て登場する、コミック調のオープニング・クレジットだ。擬音に日本語のカタカナ表記が使われているのと、ラダが日本のアニメやコミックに登場しそうな巨乳美少女に描かれているなど、いかにも海外市場に目配りしたかのような映像だが、そうではない。じつは本作、映画化に合わせてコミックスが刊行され、いわゆるメディアミックス的な展開が図られている。つまりあのオープニングタイトルの絵は、本作のコミック版なのである。序文を原作者のボリス・ストルガツキーが手がけ、映画以上に原作の精神を受け継いでいるとのこと。機会があれば、そのコミックス版も読んでみたいものだ。■ ©OOO “BUSSINES CONTACT”.2010
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COLUMN/コラム2017.09.03
先史時代の人類にリアルに迫ったエポックメイキング『人類創世』〜09月14日(木) ほか
■立ち遅れていた「原始人もの」というジャンル 『人類創世』といえば2017年の現在、40歳代後半から上の世代にとって、かなり強い印象を与えられている作品かもしれない。「映画と出版とのミックスメディア展開」を武器に映画業界へと参入し、初の自社作品『犬神家の一族』(76)を大ヒットさせた角川書店が、その手法を活かして宣伝協力を図った洋画作品(配給は東映)だからだ。1981年の日本公開時には原作小説がカドカワノベルズ(新書)より刊行され、おそらく多くの者が、原作とセットで映画を記憶していると思う。 とりわけ文学ファンには、この原作の出版は歓喜をもって迎えられたことだろう。著者のJ・H・ロニー兄(1856〜1940)はベルギー出身のフランス人作家で、ジュール・ヴェルヌと並び「フランス空想科学小説の先駆者」ともいうべき重要人物だ。映画『人類創世』の原作である「火の戦争 “La Guerre du Feu”」は、そんな氏が1910年に発表した、先史時代の人類を科学的に考察した小説として知られている。物語の舞台は80,000年前、ネアンデルタール人の種族であるウラム族が、ある日、大事に守ってきた火を絶やしてしまう。彼らは自分自身で火を起こす方法を知らなかったため、ウラムの長は部族の若者3人を、火を取り戻す旅へと向かわせるーー。 物語はそんな3人が大陸を放浪し、恐ろしい猛獣や食人部族との遭遇といった困難を経て、やがて目的を果たすまでを克明に描いていく。日本では16年後の1926年(大正15年)に『十萬年前』という邦題で翻訳が出版されたが(佐々木孝丸 訳/資文堂 刊)、そんな歴史的な古典が、映画の連動企画とはいえ55年ぶりに新訳されたのである。 このように年季の入った著書だけに、じつは『人類創世』が「火の戦争」の初の映画化ではない。最初のバージョンは原作が発表されてから5年後の1915年、フランスの映画会社であるスカグルと、プロデューサー兼俳優のジョルジュ・デノーラによって製作されている(モノクロ/サイレント)。スカグル社は当時、文芸映画の成功によって意欲的に原作付き映画を量産していた時期で、そのうちの一本としてロニーの「火の戦争」があったのだ。ちなみに、このベル・エポック時代のサイレント版は以下のバーチャルミージアムサイト「都市環境歴史博物館」で抜粋場面を見ることができるので、文を展開させる都合上、まずはご覧になっていただきたい。 http://www.mheu.org/fr/feu/guerre-feu.htm この映像を見る限り、先ほどまで力説してきた「科学性の高い原作」からはかけ離れていると感じるかもしれない。このモノクロ版に登場するウラム族は、原始人コントのような獣の皮を着込み、戯画化された古代人のイメージを誇示している。映画表現の未熟だった当時からすれば精一杯の描写かもしれないが、それでもどこかステレオタイプすぎて、どこか滑稽に映ってしまうのは否めない。 ■二度目の映画化はミニマルに、そしてリアルに ーー監督ジャン・ジャック・アノーのこだわり この「火の戦争」を例に挙げるまでもなく、こういった文明以前の描写というのは、過去あまり真剣に取り組まれることがなかった。例外的に『2001年宇宙の旅』(68)が「人類の夜明け」という導入部のチャプターにおいて有史以前の祖先を迫真的に描いていたものの、基本的にはアニメの『原始家族フリントストーン』や『恐竜100万年』(66)、あるいは『おかしなおかしな石器人』(81)のように、いささかコミカルで陳腐な原始人像が充てがわれてきたのだ。 『人類創世』は、そんな状況を打ち破り、先史時代の人類の描写を一新させた、同ジャンルのエポックメイキングなのである。 監督は後に『薔薇の名前』(86)『セブン・イヤーズ・イン・チベット』(97)で著名となるジャン=ジャック・アノー。彼は本作を出資者に売り込むさいのプレゼンで「この映画は『2001年宇宙の旅』における「人類の夜明け」の続きのようなものだ」と説き、「火の戦争」再映画化へのステップを踏んでいる。『2001年〜』を例に出さないと理解を得られない、それほどまでに前例の乏しいジャンルへの挑戦だったのだ。 さらにアノーは作品のリアリティを極めるため、原作にあった登場人物どうしの現代的な会話をオミットし、初歩的でシンプルな言語を本作に導入。それらをジェスチャーで表現するボディランゲージにすることで、あたかも文明以前の人類の会話に間近で接しているような、そんな視覚的な説得力を作品にもたらしている。 そのために専門スタッフとして本作に招かれたのが、映画『時計じかけのオレンジ』(71)の原作者で知られる作家のアンソニー・バージェスと、イギリスの動物学者デズモンド・モリスである。バージェスは先の『時計じかけ〜』において独自のスラング「ナッドサット語」を構築した手腕を発揮し、またモリスは動物行動学に基づき、ウラム族の言語と、彼らが敵対するワカブー族の言語を、この作品のために開発したのだ。 映画はこうした著名な作家や言語学者のサポートによる、アカデミックな下支えを施すことで、80,000年前の先祖たちの様子を、まるで過去に遡って見てきたかのように描き出している。 また、ウラム族をはじめとするネアンデルタール人の容姿にも細心の注意が払われ、極めて精度の高い特殊メイクが本作で用いられている。特に画期的だったのはフォームラテックスの使用で、ラバーしか使えず全身体毛に覆われた表現しかできなかった『2001年宇宙の旅』と違い、体毛を細かく配置できる特殊メイク用の新素材が導入された(本作は第55回米アカデミー賞のメイクアップ&ヘアスタイリング賞を受賞)。他にも広大な原始の世界を活写すべく、スコットランド、ケニア、カナダなどにロケ撮影を求めるなど、古代人の放浪の旅にふさわしい、悠然たるビジュアルを提供している。 こうしたアプローチが功を奏し、本作は言語を必要としない、映像から意味を導き出すミニマルな作劇によって、人類が学びや経験によって進化を得るパワフルなストーリーを描くことに成功したのだ。 ■公開後の余波、そしてロン・パールマンはこう語った。 しかし、そのミニマルな作りが、逆に内容への理解を妨げるのではないかと危惧された。そこで日本での公開時には、地球の誕生から人類が現代文明を築くまでを解説した、短編教育映画のようなアニメーションが独自につけられた(どのようなものだったかは、当時の劇場用パンフレットに画ごと掲載されている)。こうしたローカライズは今の感覚では考えられないが、そのため我が国では、この『人類創世』を本格的なサイエンス・ドキュメンタリーとして真剣に受け止めていた観客もいたようだ。 しかし、原作が書かれた時代から1世紀以上が経過し、再映画化がなされてから既に36年を経た現在。いまの先史時代研究の観点からは、不正確と思われる描写も散見される。同時代における火の重要性、存在しない種族や使用器具etcーー。もはやこのリアリティを標榜した『人類創世』でさえ、偏見に満ちた、ステレオタイプな先史時代のイメージを与えるという意見もある。 ただそれでも、この作品の価値は揺るぎない。描写の立ち遅れていたジャンルに変革を与えるべく、意欲的な作り手が深々と対象に切り込んだことで、この映画は他の追随を許さぬ孤高の存在となったのだ。 『人類創世』以後、監督のアノーは動物を相手とする撮影のノウハウや、自然を舞台とした演出のスキルを得たことから、野生の熊の生態をとらえた『子熊物語』(88)や、同じく野生の虎の兄弟たちを主役にした『トゥー・ブラザーズ』(04)などを手がけ、そのジャンルのトップクリエイターとなった。また俳優に関しても、例えばイバカ族のアイカを演じたレイ・ドーン・チョンは本作の後、スティーブン・スピルバーグの『カラーパープル』(85)や、今も絶大な人気を誇るアーノルド・シュワルツェネッガー主演のカルトアクション『コマンドー』(85)に出演するなど、80年代には著しい活躍を果たしている。 そしてなにより、ウラム族のアムーカを演じたロン・パールマンは『ロスト・チルドレン』(95)『エイリアン4』(97)といったジャン=ピエール・ジュネ監督の作品や『ヘルボーイ』(04)『パシフィック・リム』(13)などギレルモ・デル トロ監督作品の常連として顔を出し、今も名バイプレイヤーとして幅広く活躍している。筆者は『ヘルボーイ』の公開時、来日したパールマンにインタビューをする機会に恵まれたが、そのときに彼が放った言葉をもって結びとしよう。 「(ヘルボーイの)全身メイクが大変じゃないかって? キャリアの最初にオレが出た『人類創世』のときから、特殊メイクには泣かされっぱなしだよ(笑)」■ ©1981 Belstar / Stephan Films / Films A2 / Cine Trail (logo EUROPACORP)
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COLUMN/コラム2017.07.19
『ヒロシマモナムール』にまつわる事柄あれこれ〜07月04日(火) ほか
■復興中の広島を舞台にした日仏合作映画 1958年、映画撮影のために広島を訪れたフランスの若い女優(エマニュエル・リヴァ)は、爆撃で家族を失った建築家の日本人男性(岡田英次)と夜を過ごし、被爆都市・広島の印象を男に語り聞かせる。原爆資料館で見た写真や資料、当時の映像、どれも痛ましい記録だと。だが男は「いや、君は広島で何も見なかった」と、彼女の言葉を否定する。 だが彼との逢瀬は、彼女が愛した最初の男を思い出させていく。女の恋人は23歳のドイツ兵で、フランス解放の日に殺されてしまう。そして敵兵と通じていたことから、彼女は剃髪という辱めを受ける。女もまた、戦争の犠牲者だったのだ。男はそんな彼女に憐愛の眼差しを向け、広島で一緒にいようと懇願する。 1959年に公開された本作『ヒロシマモナムール』は、『去年マリエンバートで』(60)『ミュリエル』(63)で知られるフランスの名匠アラン・レネの初長編映画であり、原爆投下後の広島を描いた日仏合作映画として、作家的にも映画史的にも重要な位置付けにある。当時としては革新的なフラッシュバック構造で、個人の戦争体験と公の戦争体験を微細に織りなし、女のフランス・ヌヴェールにおける過去とヒロシマの悲劇とが交差することで、それらは戦争の悲壮な風景として総譜のように一体化していく。 こうした構成があたかも散文詩のような雰囲気を醸し、本作は観る者に多様な解釈をうながす。そのため一般的には「難解」と受け取られがちだが、現在のように映像の読解に習熟した世代のほうが、レネや脚本を手がけたマルグリット・デュラスの意図を充分に読み解くことができるのではないだろうか。 もっとも、レネ自身に製作当初から堅強な意図があって、この『ヒロシマモナムール』が作られたわけではない。もともとはアウシュビッツ収容所を描いた『夜と霧』(56)同様、広島のドキュメンタリーを撮るという発案から始まった企画だ。レネの中では「カフェのテラスにひとり腰を下ろしている若い女性、その光景が瞬時に消えさる」というイメージをベースに、過去と現在、記憶と忘却の錯綜などを膨らませ、長編劇映画として成立させていった経緯がある。 こうしたビハインドが、散文的な本作の様式をより強く裏付けているのだ。 ■作品が生まれた背景 ーーヌーヴェルヴァーグと大映の世界戦略 そもそも、なぜ広島を舞台にしたフランス映画が出来るに至ったのか? まず監督であるアラン・レネに言及すると、当時のフランス映画界を席巻した「ヌーヴェルヴァーグ」という、大きなスタイルの変革に行き当たる。同ムーブメントは『大人は判ってくれない』(59)のフランソワ・トリュフォーや『勝手にしやがれ』(60)のジャン=リュック・ゴダールら新鋭作家が、スタジオ主導ではない、監督の個性に基づく作品を量産していった潮流のことだ。 ヌーヴェルバーグにはそんなトリュフォーやゴダールら、いわゆる映画誌「カイエ・デ・シネマ」の評論家を出発点とする「カイエ派」がおり、彼らは瑞々しい感覚による即興演出を持ち味としていた。いっぽうのレネは、カイエ派が当時20歳代の若手を主流とする中、すでに30歳半ばに達しており、社会問題や政治思想に言及する「左岸派」として、カイエ派の向こうを張る存在だったのだ。 かたや日本の映画事情に目をやると、1952年、サンフランシスコ講和条約の発効にともない、戦後GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって行われたプレスコード(報道制限)が失効され、規制がかけられていた原爆に関する記事や報道を自由に発信できるようになった。これによって日本で最初に原爆をテーマにした作品『原爆の子』(監督/新藤兼人)が発表され、翌年には今井正による『原爆の図』(53)や、日教組プロの製作による『ひろしま』(53 監督/関川秀雄)、そして核の落とし子として誕生した怪獣の都心破壊を描いた『ゴジラ』(54 監督/本多猪四郎)など、堰を切ったように同テーマの作品が作り続けられていく。 こうして先のアラン・レネと、原爆テーマの映画を結びつける存在となったのが、日本の映画会社である大映である。当時の大映は永田雅一社長のもと、MGM作品やディズニー作品の国内配給、ならびに自社作品の大型化など、映画の海外輸出入を念頭に置いた経営をしていた。永田としては、洋画配給の利潤によって日本映画の質の向上を図る考えだったが、フランス映画配給も視野に入れた段階でアルゴス・フィルム(『ヒロシマモナムール』製作会社)との関係が生まれ、日仏合作映画製作の運びとなっていったのだ。 こうした原爆映画への流れが横線を描き、先の国内外の映画の大きなムーブメントが縦線を描いて降りていく状況下において、その二つが交わる点として本作が生まれたのである。 ■タイトルについて ーー『二十四時間の情事』から『ヒロシマモナムール』へ 『ヒロシマモナムール』には日本公開時『二十四時間の情事』という邦題がつけられ、そのタイトルで近年まで長く周知されていた。 この邦題がつけられた理由はふたつあり、ひとつは原爆投下後の広島をテーマにしているというところ、そうしたデリケートなテーマを前面に出さぬよう配慮された、といった事情によるもの。そしてもうひとつは、原題の『ヒロシマモナムール』だと興行において不利(タイトルにインパクトがない)という懸念から、センセーショナルな邦題で観客の関心を引こうとした事情が絡んでいる(残念なことに、日本で本作は全く客が入らなかったが)。 しかし時代の趨勢によって、作品の持つ価値が多様化し、今では本作も、復興していく広島の姿をフィルムに捉えた、貴重な映像資料としての性格も大きい。そのため『二十四時間の情事』という邦題も、内容にそぐわない面が出てきている。また劇中、エマニュエル・リヴァと岡田英次が出会って別れるまでの正確な時間は設定されておらず(一説には36時間とも言われている)、『二十四時間〜』と断定するにはいささか語弊がある。 こうしたことへの目配りから、今では原題カタカナ表記の『ヒロシマモナムール』を用いるケースが多いようだ。加えてエマニュエル・リヴァがプライベートで当時の広島市内を撮影した写真集『HIROSHIMA 1958』が2008年に出版され、文中において『ヒロシマ・モナムール』と表記が統一されていることや、デュラスの原作『広島、わが愛』が2014年に『ヒロシマ・モナムール』として44年ぶりに新訳が出版されたことも、こうした改題への後押しとなっている。今回の放送に関しても、ザ・シネマで同様の方針を示したといえる。 時代の機微や変化に応じて改題がなされていくのは、特に珍しいことではない。あの『スター・ウォーズ』シリーズでさえ、エピソード6『ジェダイの復讐』(83)が『ジェダイの帰還』となったケースがあるくらいだ(『ジェダイの復讐』もともと没サブタイトル“Revenge of the Jedi”を直訳したものだが、正義の騎士団であるジェダイが「復讐」などしないという観点から改題)。しかし『ヒロシマモナムール』と同じヌーヴェルヴァーグ作品の『気狂いピエロ』(65)が放送禁止用語に配慮し、テレビ放映時には『ピエロ・ル・フー』と原題カタカナ表記にされた事例があり、どうも改題にはネガティブなイメージがつきまとう。なので本作はそういったケースとは異なる改題であることを、きちんと伝えておく必要があるだろう。 ただ慣れ親しんだタイトルをオミットするのは歴史の改ざんではないかという懸念もあるし、『二十四時間の情事』として本作を認識している者には違和感を覚えさせる措置だと思う。なにより日本公開される洋画は、原題カタカナ表記がスタンダードとなった現在。邦訳、もしくは意訳ともいえる邦題が中心だった時代の名残として、ここでは『ヒロシマモナムール』と同時に『二十四時間の情事』というタイトルの重要性を力説しておきたい。■ "HIROSHIMA MON AMOUR" by Alain Resnais © 1959 Argos Films
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COLUMN/コラム2017.06.20
希少なテーマと、米式ロマンティック・コメディとの奇跡の融合〜『ヒステリア』06月01日(木)ほか
■性具の王様「電動バイブ」の開発秘話 本作のタイトル『ヒステリア』とは、日本で定着しているドイツの外来語「ヒステリー」の英語読みである。感情をコントロールできなくなって、泣いたり怒ったりの激しいリアクションを示してしまうアレだ。もともとは「子宮」を指す言葉で、古来の医学では性交渉が久しくおこなわれていないと、子宮が肉体を圧迫し、女性の感情を乱すものとされてきた。そのことから、先述の症状を総じて「子宮性病的興奮状態(ヒステリー)」と呼ぶようになっていったのである。しかし後年、医学の発展とともに研究がなされ、こうした科学的、医学的根拠の乏しい診断は姿を消していく。そして、先の精神状態を称する言葉として「ヒステリー」が残ったのである。 この映画は、そんなヒステリーの治療に用いられ、のちに女性用の性具として発展を遂げる振動按摩機、いわゆる「電動バイブレーター」の開発に迫った作品だ。開発者はモーティマー・グランヴィル(ヒュー・ダンシー)という、イギリスの医師。頃は産業革命によって同国が著しい発展を遂げた、ヴィクトリア朝後期の時代である。グランヴィルはそんな発展を医療の分野にも求めようと、近代医学の理想を勤め先の病院で唱えていた。ところが、古い治療を続ける医師たちからは理解を得られず、転職する先々の病院でつまはじきにされてしまう。 ある日、縁あってグランヴィルは女性医療の権威・ダリンプル医師のもとで働くことになるのだが、そこには先述したヒステリーを抱える女性たちが後を絶たず訪れていた。こうした患者の症状を和らげるために、グランヴィルはダリンプル病院の伝統ともいえる有効的治療=すなわち女性の局部に直接手を入れ、刺激を与えるという療法を施していたのだが、そのあまりの患者数の多さに自らの手が追いつかず、彼は腱鞘炎を起こしてしまう。 映画はそんなグランヴィル医師が、ヒステリー治療の革命的な打開策となる電動バイブを生み出すまでを、笑いと感動のもとに描いていく。キャストもグランヴィル医師を演じるヒュー・ダンシー(『ジェイン・オースティンの読書会』(07))を筆頭に、『未来世紀ブラジル』(85)のジョナサン・プライスやルパード・エヴェレット(『アナザー・カントリー(84)』)、そして今や『インフェルノ』『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー(16)で注目の女優となったフェリシティ・ジョーンズなど堂々たる英国人役者を揃え、興味が先行する際どいテーマを、エレガントかつ説得力のあるものにしている。 ■史実との違いーーグランヴィル医師は電動バイブを発明していない!? しかし、この「ヒステリア』、先のごとく電動バイブ開発史を取り扱っているものの、映画は実際とかなり違うようだ。 治療器具として技術革新されてきた、電動バイブの軌跡をたどるレイチェル・メインズの研究書「ヴァイブレーターの文化史」によると、ヒステリー治療のための器具開発は世界で同時多発的におこなわれており、グランヴィル医師の発明はあくまでその一翼を担うものであった、と論じられている。 それどころかグランヴィルは、女性を快楽へと導く電動バイブを自ら作り出しておきながら「女性に使うべきではない」と主張した人物として知られ、映画で描かれている内容に食い違いを生じさせているのだ。 以下、史実とされる電動バイブ開発の流れを大略的に記しておくと、19世紀、産業革命による鉄道などの旅客輸送が発達し、それらの振動がヒステリー治療に有効であるとの医学的見解が出てきた。加えて電力の普及が、これまで手技によっておこなわれてきた治療に成り代わる、機械式按摩装置の発明を世界的に展開させていくのである。映画ではグランヴィルが友人の愛用する電動ホコリ払い機に閃きを得て電動バイブを発明するが、そこまで現実は単純明快なものではない。 また先に挙げたグランヴィルの「女性は使うな」発言だが、氏は装置の強度な振動に注意をはらい、強靭な肉体の男性治療のみに使うことを使用マニュアルに記している。それもそのはず、グランヴィルの開発した最初の電動バイブはバッテリー式で、装置としてかなり巨大であり、映画に出てくるようなコンパクトなものではなかったのだ。 さらに言及すると、グランヴィルが開発したとされる電動バイブ第一号機は、じつは他人が作ったものとする説も存在する(「ヴァイブレーターの文化史」には、サウペトリエール病院に勤務していた精神科医オギュスト・ビグルーが発明したとの記述あり)。そうなると、もはや映画そのものが成り立たないではないか。 なので本作は、あくまで史実を基にしたフィクションであることを理解したうえで楽しむのが理想だろう。この映画で電動バイブ開発史を真剣に学ぼうとか、卒業論文のテーマにしようなどど向学心を先走らせてはいけない。もっとも、電動バイブにそこまでして執着する人に、それはそれである種の好ましさを覚えはするのだが。 ■女優も脚本家もアメリカ人、そして監督も女性のアメリカ人 この映画『ヒステリア』は本質的に、電動バイブの開発史に主眼を置いたものではない。監督を手がけたターニャ・ウェスクラーは、本作を手がけた動機についてこう語っている。 「わたしはこの映画を、グランヴィル医師のロマンティック・コメディとして作ったの」(*1) そう、劇中でグランヴィルは、ダリンプル医師の長女シャーロット(マギー・ギレンホール)と出会う。シャーロットは女性の地位向上を推進する人物で、女の立場に気を配らず、日々手技による診療に明け暮れるグランヴィルを非難する。そんな彼女との接触こそが、グランヴィルに電動バイブの開発をうながし、ひいては女性の性の独立に貢献していく。そしてソリの合わなかったグランヴィルとシャーロットは、やがて共に惹かれあっていくのだ。このストーリーラインを引き出して見ると、二人のラブロマンスを成立させるために、史実がじつに巧く加工されていることがわかる。 そもそも本作はイギリス、フランス、ドイツ資本による合作映画で、産業革命たけなわのロンドンを舞台にしているが、製作の核となる部分はアメリカ人スタッフとキャストが担っている。ウェスクラー監督は1970年にシカゴで生まれ、コロンビア大学で芸術修士号を得て、映画の世界に入ってきたアメリカ人だし、シャーロットを演じたマギー・ギレンホールも、ハリウッドを代表するアメリカ人スターだ。そして脚本を手がけたスティーブン&ジョナー・リサ・ダイヤー兄妹もハリウッドライターとして、本作の後の2015年には“Away and Back”というロマンティック・コメディドラマの脚本を手がけ、プライムタイム・エミー賞テレビ映画のスペシャル番組部門にノミネートされている。 つまりこの『ヒステリア』は、テンプレとして存在するアメリカ映画のスタイルのひとつ「ソリの合わない男女が出会い、初対面での悪印象が行動を共にすることで愛へと変わる」といったロマンティック・コメディを、イギリス産業革命時代の性具開発という、希少なテーマにリンクさせた珍妙さこそが最たる味わいなのだ。 ただ監督が女性であることから、こうした女性的に際どいテーマに踏み込んでいける理由も納得できるし、そういう意味では奇跡の融合でもあり、両者が出会うべくして生まれた作品だ、とも解釈できるだろう。 ちなみにグランヴィルと同時期、電動電動を用いた医療装置を数多く考案し、はからずも電動バイブの開発に影響を与えたのが、かの医学博士ジョン・ハーヴェイ・ケロッグである。あの朝食シリアルでおなじみ「ケロッグコーンフレーク」の生みの親であり、その半生は“The Road to Wellville”(96・監督/アラン・パーカー)というタイトルで映画化されている(邦題は『ケロッグ博士』)。氏の開発品は、むしろ性行為を抑制させる目的のものが多かったのだが、英国の名優アンソニー・ホプキンス扮するケロッグ博士の「健康のためなら死んでもいい」とでも言いたげな独自医療への執心ぶり、ならびに当時の医療事情を汲んだ描写は本作『ヒステリア』とほんのり似通ったところがあるので、ぜひ合わせてご覧になられるといい。■ PHOTO©LIAM DANIEL2© 2010 HYSTERIA FILMS LIMITED, ARTE FRANCE CINÉMA AND BY ALTERNATIVE PICTURES S.A.R.L.
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COLUMN/コラム2017.06.01
6月1日(木)公開!ウルヴァリン、最後の雄姿『LOGAN/ローガン』を見逃すな!
ザ・シネマでは本作の監督であるジェームズ・マンゴールド監督にインタビューを敢行! インタビュー動画はこちらです!! 本日公開の本作『LOGAN/ローガン』を映画ライターの尾崎一男氏が解説。必読です。 西部劇の神話、そしてキャッシュの“声” --『LOGAN/ローガン』とジェームズ・マンゴールド監督の作品世界 「なぜ、ここまで暗黒のディストピア(未来)を予測し、今回の作品を手がけたのか--?よく、そう訊かれることがある。でも自分にそんなつもりなど全くないんだ。何故ならば、あの映画で描いた世界は、今のアメリカの姿そのものだから」 こう答えながら、取材に応じてくれたジェームズ・マンゴールド監督は苦い表情で笑った。そう、先の発言を強いられるほど、氏の最新作『LOGAN/ローガン』は、X-MENシリーズ、ひいてはマーベルのスーパーヒーロー映画史上、最も暗いトーンで真に迫った世界観を描いている。ミュータントの大半が死滅してしまった2029年の近未来。「人類とミュータントとの共存」を掲げてきたプロフェッサーX(パトリック・スチュワート)の理想は潰え、また彼の思いを実現させるべく戦いを続けてきたウルヴァリン/ローガン(ヒュー・ジャックマン)も、己の肉体の衰えによって、かつての力を失いつつあった。 だがローガンは、たとえその身が危ういものとなっても、再び戦いの場へと身を投じていく。自分と同じ能力を持ち、国家絡みの実験研究所から逃げてきた少女ローラ(ダフネ・キーン)を追っ手から救うためだ。敵が彼女を奪還する目的はただひとつ、人類が人工的に、戦争兵器用のミュータントを創り出そうとしていたのだ。 あたかもトランプ現大統領の掲げる反グローバリズムが極みに達したかのような、排他的で不寛容な未来社会。監督の「映画で描いた世界は、今のアメリカの姿そのもの」という冒頭の言葉は、まさしくそれを指し示している。 だからこそ、こうした世界にノーを突きつける者の姿が、映画の中になくてはならない--。と言わんばかりに監督は、その意志を過去の自作において雄弁に語ってきている。 そう、これまでに氏が手がけてきたヒーロー映画は、どの作品も満身創痍の英雄像に迫ってきた。フィルモグラフィの初期にあたる『コップランド』(97)では、シルベスター・スタローン演じる中年保安官が、汚職のはびこるコップランド(警察の居住区)で正義を貫こうとする。そして2007年の『3時10分、決断のとき』では、無法者を刑務所行きの汽車まで護送する任を負った、そんな牧場主(クリスチャン・ベール)の意志の戦いを描いている。 監督はそんな『3時10分、決断のとき』に限らず、自作に通底するヒーロー像はどれも「西部劇の神話」に基づくものだと語る。 「ヒュー(・ジャックマン)自身は今回のローガンを、クリント・イーストウッドの『許されざる者』(92)の主人公マニーのようなキャラ付けを想定していた。そこに僕も共感を覚えたし、西部劇にこの物語を重ねてはどうだろうかと考えた。そこで本作を、時代の趨勢に押し流されそうになる、滅びゆく老兵のレクイエムにしたんだ」 『LOGAN/ローガン』という作品を成立させるうえで、西部劇が太い支柱となっていることは、劇中で明確な意思表示がなされている。流れ者のガンマンと村の少年との友情を描いた、ジョージ・スティーヴンス監督のクラシック西部劇『シェーン』(53)からの引用だ。 「『シェーン』の物語は『LOGAN/ローガン』と深い共通点がある。ローガンは正義のために、多くの人を傷つけてきた。それはシェーン(アラン・ラッド)も同様で、彼もまた戦いの果てに、人を傷つけてきた過去を持つ。そこで彼は少年に「人を殺してしまったら、もう後に戻ることはできない」と言い、どんなに正義のために暴力をふるっても、自分の行為を正当化できないことを彼に伝える。これがすなわち『LOGAN/ローガン』のテーマを大きく包含していると感じ、引用したんだ」 このように、監督はローガンの戦う行為を賞賛の対象とはしていない。近年、マーベルやDCなどのスーパーヒーロー映画では、彼らの活躍の背後で都市破壊などの人身被害が及んでいることに言及し、正義の有りように一石を投じている。それと同様に本作もまた、正義を遂行するためのバイオレンスの是否を問い、その回答と結論をローラというキャラクターに委ねている。 「今までの人生を研究所の中でしか送ったことがないローラが、父親代わりともいえるローガンと行動を共にし、別れを告げなくてはならない局面で何を言うべきなのか?作家としてどういった言葉を彼女に話させるのかを考えたとき、先のシェーンの言葉がヒントになるのでは?と思った。『LOGAN/ローガン』において『シェーン』の引用は単なるトリビュートではなく、完全に作品の一部だといっていい」 また『LOGAN/ローガン』を構成するそうした引用は『シェーン』だけにとどまらない。本作のエンドクレジットに流れる歌は、カントリーミュージックの巨人ジョニー・キャッシュの遺作「The Man Comes Around」。ある男に黙示録の啓示が告げられるさまを綴ったこの曲は、教官とかつての弟子である殺人鬼との宿命的な戦いを描いた『ハンテッド』(03・監督/ウィリアム・フリードキン)や、死者が蘇って生者を襲う黙示録的ゾンビ映画『ドーン・オブ・ザ・デッド』(04・監督/ザック・スナイダー)にも用いられている。 だがマンゴールドにとってキャッシュとの関わりは、歌詞が意味するところよりもさらに深い。なぜなら彼はキャッシュの伝記を原作とした『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道』(05)を手がけており、その選曲は自作との密接なリンクを図るものに思える。だが実際に話を訊いてみると、どうやら真意は別のところにあったようだ。最後にその言葉をもって、『LOGAN/ローガン』を未見の方が劇場へと足を運ぶフックとしたい。 「わたしが『ウォーク・ザ・ライン』の脚本を書いていたころ、キャッシュは存命で(2003年に死去)、彼に話をうかがう機会があった。そのときの会話の中で強く憶えているのが、彼が少年時代に好きだった映画が『フランケンシュタイン』(31)だったことだ。同作に登場する怪物は、人間の悪い部分によって作られたモンスターであり、そこに彼は強く共感を覚えていた。ローガンもまた人間の手によって殺人能力を強化された、生まれながらの悪運を抱えてしまった存在だ。そこに共通点を見いだし、最後にキャッシュの歌を使った。なによりも、ローガンの声とジョニーの声は、とても似ているんだ。だからエンドクレジットのキャッシュの歌は、ローガン自身の叫びだと解釈してくれてかまわない。この映画の示すものが、より深く観る者の胸を突くだろう」 ……そう、ローガンが放つ鉤爪の、渾身の一撃のように。■ 『LOGAN/ローガン』6月1日(木) 全国ロードショー!© 2017 Twentieth Century Fox Film Corporation配給:20世紀フォックス映画 公式サイトはこちら
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COLUMN/コラム2017.05.15
フィルムメディアの“残像”〜『フッテージ』と監督スコット・デリクソンの映画表現〜5月15日(月)ほか
一家殺人事件の真相を追い、事件現場の空き家へ移り住んだノンフィクション作家のエリソン(イーサン・ホーク)。彼はある日、同家の屋根裏部屋で現像された8ミリフィルムを発見する。しかもそのフィルムには、件の一家四人が何者かの手によって、絞首刑される瞬間が写っていた……。 スコット・デリクソン監督によるサイコロジック・ホラー『フッテージ』は、タイトルどおり「ファウンド・フッテージ(発見された未公開映像)」という、同ジャンルでは比較的ポピュラーなフックによって物語が吊り下げられている。例えば同様の手法によるホラージャンルの古典としては、1976年にルッジェロ・デオダート監督が手がけた『食人族』(80)が知られている。アマゾンの奥地へ赴いた撮影隊が現地で行方不明となり、後日、彼らが撮影したフィルムが発見される。そのフィルムを映写してみたところ、そこに写っていたのは……という語り口の残酷ホラーだ。日本ではあたかもドキュメンタリーであるかのように宣伝され、それが奏功して初公開時にはヒットを記録している。また、その『食人族』の手段を応用し「行方不明の学生が残した記録フィルム」という体で森に潜む魔女の存在に迫った『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(99)は、昨年に続編が作られたことも手伝い、このスタイルでは最も名の挙がる映画ではないだろうか。 しかし、それら作品におけるフッテージは、あくまで本編の中の入れ子(=劇中劇)として従属するものであって、それ自体が独立した意味を持ったり、別の何かを連想させることはない。ところが『フッテージ』の場合、劇中に登場するフッテージは「スナッフ(殺人)フィルム」という、極めて具体的なものを観客に思い至らせるのである。 スナッフフィルムとは、偶発的に死の現場をカメラが捉えたものではなく、殺人行為を意図的に撮影したフィルムのこと指す。それが闇市場において、好事家を相手に高値で売られていると、70年代を起点にまことしやかに噂されていた。実際には「殺人を犯すリスクに見合う利益が得られるのか?」といった経済的な疑点もあり、あくまでフォークロア(都市伝説)にすぎないと結論づけられているが。 しかし、そんなフォークロアが当時、個人撮影のメディアとして主流を成していた8ミリと結びつくことで、あたかもスナッフフィルムが「存在するもの」として、そのイメージが一人歩きしていったといえる。同フォーマットならではの荒い解像度と、グレイン(粒状)ザラッとした映像の雰囲気、また個人映画が持つアンダーグラウンドな響きや秘匿性など、殺人フィルムの「いかがわしさ」を支えるような要素が揃っていたことも、イメージ先行に拍車をかけたといっていい。 事実、こうしたイメージに誘引され、生み出された映画も存在する。タイトルもズバリの『スナッフ/SNUFF』(76)は、クライマックスで出演者の一人が唐突に殺されるという、フェイク・ドキュメンタリーを装った作りでスナッフフィルムを標榜しているし、またニコラス・ケイジ主演による『8mm』(05)は、スナッフフィルムを出所を追うサスペンスとして、劇中に迫真に満ちた当該シーンが組み込まれている。 『フッテージ』では、そんなスナッフフィルム、ひいてはアナログメディアの“残像”ともいえるものを、現実と幻想とを繋ぐ重要な接点として劇中に登場させている。殺人を写し撮ったフィルムの向こうに潜む、邪悪な存在ーー。本作がホラーとして、その表情をガラリと変えるとき、この残像は恐ろしい誘導装置となるのだ。デリクソン監督は言う、 「不条理な世界を確信に至らせるのならば、細部を決しておろそかにしてはいけない」 (『フッテージ』Blu-rayオーディオコメンタリーより抜粋) ■『フッテージ』から『ドクター・ストレンジ』へ もともとデリクソン監督は、こうしたフィルムメディアの「残像」を常に追い求め、自作の中で展開させている。氏のキャリア最初期を飾る劇場長編作『エミリー・ローズ』(05)は、エクソシズム(悪魔祓い)を起因とする、女子大生の死の真相を明かしていく法廷サスペンスで、その外観は『フッテージ』のスナッフ映像と同様、フィルムライクな画作りが映画にリアリティを与えている。さらに次作となる『地球が静止する日』(08)は、SF映画の古典『地球の静止する日』(51)をリメイクするという行為そのものがフィルムへの言及に他ならない。続く『NY心霊捜査官』(14)を含む監督作全てが1:2.35のワイドスクリーンフォーマットなのも、『エミリー・ローズ』でのフィルム撮影を受け継ぐ形で、デジタル撮影移行後もそれを維持しているのだ。 そんなデリクソンのこだわりは、今や充実した成果となって多くの人の目に触れている。そう、今年の1月に日本公開された最近作『ドクター・ストレンジ』(16)だ。 同作は『アイアンマン』や『アベンジャーズ』シリーズなど、マーベル・シネマティック・ユニバースの一翼を担う風変わりなヒーロー映画だが、その視覚体験は近年において飛び抜けて圧倒的だ。ドクター・ストレンジはスティーブ・ディトコとスタン・リーが1963年に生み出したクラシカルなキャラクターで、当時の東洋思想への傾倒やドラッグカルチャーが大きく作品に影響を与えている。その証が、全編に登場するアブストラクト(抽象的)な視覚表現だろう。VFXを多用する映画の場合、その多くは存在しないものをリアルに見せる具象的な映像の創造が主となる。しかし『ドクター・ストレンジ』は、ストレンジが持つ魔術や多元宇宙の描写にアブストラクトなイメージが用いられ、誰も得たことのない視覚体験を堪能させてくれるのだ。 それは俗に「アブストラクト・シネマ」と呼ばれるもので、幾何学図形や非定形のイメージで画を構成した実験映画のムーブメントである。1930年代にオスカー・フィッシンガーやレン・ライといった実験映像作家によって形成され、原作の「ドクター・ストレンジ」が誕生する60年代には、美術表現の多様と東洋思想、加えてドラッグカルチャーと共に同ムーブメントは大きく活性化された。 このアブストラクトシネマの潮流も、フィルムメディアが生んだもので、デリクソンは実験映像作家のパーソナルな取り組みによって発展を遂げた光学アートを、メジャーの商業映画において成立させようと企図したのである。 デリクソン監督が作中にて徹底させてきたフィルムメディアの“残像”は、ここまで大規模なものになっていったのだ。 ■日本版ポスター、痛恨のミステイク このような流れを踏まえて『フッテージ』へと話を戻すが、原題の“Sinister”(「邪悪」「不吉」なものを指す言葉)を差し置いて、先に述べた論を汲んだ邦題決定だとすれば、このタイトルをつけた担当者はまさに慧眼としか言いようがない。 しかしその一方で、我が国の宣伝は本作に関して致命的なミスを犯している。それは日本版ポスターに掲載されている8ミリフィルムのパーフォレーション(送り穴)が、1コマにつき4つになっていることだ。 8ミリを映写するさい、プリントを送るためのパーフォレーションは通常1コマにつき1つとなっている。しかしポスター上のフィルムは4つ。これは35ミリフィルムの規格である。つまりポスター上に写っているのは8ミリではなく、35ミリフィルムなのだ。 まぁ、そこは経年によるフィルムメディアへの乏しい認識や、フィルムということをわかりやすく伝えるための誇張だと解釈できないこともない。しかし、単にアナログメディアを大雑把にとらえた措置だとするなら デリクソン監督のこだわりに水を差すようで、なんとも残念な仕打ちといえる。 ©2012 Alliance Films(UK) Limited
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COLUMN/コラム2017.03.08
サブジャンルの驚異的な再構成者、アダム・ウィンガード&サイモン・バレット〜『ザ・ゲスト』〜03月17日(金)深夜ほか
長男カレブを兵役で亡くし、喪失に耐えながら暮らしているピーターソン一家のもとに、ある日ゲスト=訪問者が訪れてくる。その男の名はデヴィッド(ダン・スティーブンス)。彼はアフガニスタンでカレブと一緒に戦ったと戦友だと主張し、一家に哀悼の意を捧げる。そしてスティーブンは母親の悲しみに寄り添い、父親と酒を酌み交わし、あまつさえ学校でいじめに遭っている息子のボディガードを請け負うなど、彼らのために誠心誠意ふるまうのだった。しかし長女アンナ(マイカ・モンロー)が、目的の分からないデヴィッドの善人じみた行為に疑問を抱き、軍に連絡して詳細を確認しようとするのだが……。 米国内の問題として横たわる戦場帰還兵を物語のフックとし、得体の知れない人物が平穏な家庭に介入してくる違和感を、独自の語り口と凄惨なバイオレンス描写、そして絶妙な配合のユーモアを交えて構成していく本作『ザ・ゲスト』。監督であるアダム・ウィンガードと脚本家のサイモン・バレットは、大意ではあるが本作の出自を以下のように語っている。 「前作『サプライズ』の成功によって、創造的な自由が与えられたんだ。そこで僕たちは、子どもの頃に影響された、1980年代のアクション映画やホラー映画と同じエッセンスを持つ作品を手がけてはどうだろうか、と考えたんだよ」(『ザ・ゲスト』日本版Blu-ray特典インタビューより) 1982年生まれのアダム、1978年生まれのサイモンにとって、多感期に遭遇した80年代のホラー&アクションは、自身にとって創造のベースとなっているようだ。同インタビューでは直接のリファレンスとなった具体的なタイトルを挙げていないが、『ザ・ゲスト』に通底するそのテイストは、同じ時代を生きた映画ファンなら多くの者がピンとくるに違いない。シルベスター・スタローン演じるベトナム戦争帰還兵が排他的な扱いを受け、その怒りを戦士としての破壊衝動にエスカレートさせていく『ランボー』(82)や、殺人ヒッチハイカーを拾ってしまった青年が、命がけの対決へと巻き込まれていく『ヒッチャー』(86)と同種のものを共有している。かろうじてサイモンはテリー・オクィン主演の『W(ダブル) ステップファーザー』(87)を『ザ・ゲスト』の構成要素として名指ししているが、本作もまた殺人鬼の裏顔を持つ継父が平和な家庭へと侵入してくる、80年代ホラーを象徴する映画だ。 こうした80年代ホラーやアクションが持つ空気感というのは、独特であるがゆえに後の映画などに継承、または反映されにくい。特にビデオの台頭によって、ストレートなプロットと粗製乱造ゆえの安普請さをもってそれとなす、インディ系レーベル独自のビデオスルー映画が量産された時期と重なることから、これらと絡まったより特殊な性質を包含している。 しかしアダムとサイモンは、この混沌としたテーマと真摯に向き合い、見事に80年代ホラー、アクション映画に対する憧憬を自作へと昇華させている。さらにはこうした既存のサブジャンルにひと味加えることで、単なる時代へのオマージュではなく、独創的な恐怖を生み出すことに成功しているのだ。 ■『ザ・ゲスト』の基幹をなすもの もっとも、こうしたアダムとサイモンのアプローチは今日的に始まったものではない。監督&脚本のデュオとしてキャリアを重ねる二人だが、その傾向は5年前の『サプライズ』(11)の頃から顕著だ。 本作も1970年代を席巻した「ホーム・インベーション」(家宅侵略もの)の文脈に沿いつつ、『ザ・ゲスト』と同様にひねりを加えて独自の世界を構築している。ここで詳述しておくと、ホーム・インベーションは女子学生寮に忍び込んだ連続殺人犯の凶行を描いた『暗闇にベルが鳴る』(74)を筆頭に、留守を預かるベビーシッターが姿なきサイコキラーの通話におびえる『夕暮れにベルが鳴る』(79)など、いわゆる『エクソシスト』(73)や『悪魔のいけにえ』(74)といったマスターピースが生まれた時代と共に生成されてきた、ホラー映画のサブジャンルのことだ。 しかしこのホーム・インベーションは『死霊のはらわた』(81)を起点とするスプラッタ(スラッシュ=血まみれ)の登場や、『リング』(98)を嚆矢とするジャパン・ホラーの世界的な台頭など、恐怖の手触りの変化にともない、その勢いは先細りしていった。特に致命傷を与えたのは『スクリーム』(96)の存在で、ホラー映画の定型的な演出をメタに笑い飛ばす本作はホーム・インベーションもその俎上に乗せて解体し、同ジャンルが持つ恐怖の機能を失わせたのである(冒頭のドリュー・バリモアのエピソードがまさにそれだ)。 しかし世紀をまたぎ、フランスでは実話を元にした戦慄のホーム・インベーション『THEM ゼム』(06)が生み出され、いっぽうスペインでは押し込み強盗に襲撃される一家の悲劇を描いた『スペイン一家監禁事件』(10)や、アメリカでもリブ・タイラーが謎の訪問者の襲撃を受け、その格闘ぶりが話題となった『ストレンジャーズ/戦慄の訪問者』(08)が製作されるなど、ホーム・インベーションは世界規模でその恐ろしさを取り戻していったのだ。 アダムとサイモンは、いまいちど胸筋を大きく律動させたこのサブジャンルを大胆に再構成することで、新たな感触を持つホーム・インベンション映画の生み出しに成功している。特にストーリーが進むにつれて展開が変調を放ち、思ってもない方向へと加速度的にエスカレートしていく意外さは『ザ・ゲスト』に継受されているといっていい(もっとも同作とて、謎の男が一家に忍び寄ってくるという点で充分ホーム・インベーションにカテゴライズされるのだが)。 『ザ・ゲスト』の基幹をなすものとして『サプライズ』の重要性にも言及せずにはおれないのだ。 ■ジャンルを超えた、名作そのものへの再構成アタック そんな『サプライズ』『ザ・ゲスト』を経てアダムとサイモンが向かった先は、サブジャンルというざっくりとした枠にとどまらず、歴史的に評価の定まった作品そのものを再構成するという大胆なアタックへと踏み込んでいく。それが彼らの最近作となる『ブレア・ウィッチ』(16)だ。 森にまつわる魔女の伝説を追い、森の中でこつ然と消えた映画学科の大学生たち。その行方不明から1年後に発見された撮影テープには、彼らが遭遇した恐怖の一部始終が刻まれていたーー。ホラー映画の革命作として名高い1999年の『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』は、ファウンド・フッテージ(発見された未公開映像)のスタイルを借り、まるでドキュメンタリーに接しているかのような迫真性と、未公開映像の中に写り込む、正体の全く分からない怪奇現象の数々で観る者を翻弄した。 アダムとサイモンは、前作を違う角度からとらえた『ブレアウィッチ2』(00)をまたぎ、前作に直リンクする正統な続編を目指しているが、その中身は『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』を再構成したリメイクといっていい。行方不明者の一人である姉ヘザーの行方を探し続けていた、大学生のジェームズ。ある日、彼は姉らしき人物の映った映像をYouTubeで見つける。意を決したジェームズは仲間たちと共にデジカムを携え、かのいまわしきブラック・ヒルの森へと足を踏み入れるーー。ドローンやGoProといった新規の映像メディアを駆使し、ヘザーの行方を追いながらも、事の真相に迫るために深く森へと分け入っていくジェームズたち。しかしカメラは姉が目にしたものよりも、さらに恐ろしい現象を多角的に映しだすことになる。 アダムとサイモンは、いささか風化ぎみなファウンド・フッテージ・ホラーの古典を現代的に展開させながら、『サプライズ』『ザ・ゲスト』で得た再構成の方法論をマッシュアップさせ、前作が持つ恐怖の本質をより生々しく追求しているのだ。 サブジャンルの驚異的な再構成者、アダム・ウィンガード&サイモン・バレット。『ザ・ゲスト』を機に、この異才を放つデュオに注目してもらえたら、あなたの映画体験はさらに豊かなものになるだろう。■ ©2013 Adam David Productions
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COLUMN/コラム2017.01.20
極限の緊張サスペンスに込めたクルーゾ監督の狙いと、それを継受した1977年リメイク版との関係性を紐解く〜『恐怖の報酬(1953)』〜01月10日(火)深夜ほか
わずかの振動でも爆発をおこす膨大な量のニトログリセリン(高度爆発性液体)を、悪路を眼下にトラックで輸送する--。それを耳にしただけでも、全身の毛が逆立つような身震いをもたらすのが、この『恐怖の報酬』だ。この映画が世に出て、今年で63年。その間、いったいどれほど多くの類似ドラマや引用、パロディが生み出されてきたことだろう。 だが一度は、それらを生み出したオリジンに触れてみるといい。先に挙げた設定をとことんまで活かした、観る者を極度の緊張へと至らしめる演出と仕掛けが、本作にはたっぷりと含まれている。 「この町に入るのは簡単さ。だが出るのは難しい“地獄の場所”だ」 アメリカの石油資源会社の介入によって搾取され、スラムと化した南米のとある貧民街。そこは行き場を失ったあぶれ者たちの、終着駅のごとき様相を呈していた。そんな“地獄の場所”へと流れてきたマリオ(イブ・モンタン)を筆頭とする四人の男たちは、貧困がぬかるみのように足をからめとる、この呪われた町から脱出するために高額報酬の仕事に挑む。その仕事とは、爆風で火を消すためのニトログリセリンを、大火災が猛威をふるう山向こうの石油採掘坑までトラックで運ぶことだった。 舗装されていないデコボコの悪路はもとより、道をふさぐ落石や噴油のたまった沼など、彼らの行く手には数々の難関が待ち受ける。果たしてマリオたちは無事に荷物を受け渡し、成功報酬を得ることができるのかーー? 仏作家ジョルジュ・アルノーによって書かれた原作小説は、南米グァテマラの油田地帯にある石油採掘坑の爆発と、その消火作業の模様を克明に描いた冒頭から始まる。その後は、 「四人が同じ地に集まる」 「ニトログリセリンを運ぶ」 と続く[三幕構成]となっているが、監督のアンリ・ジョルジュ・クルーゾはその構成を独自に解体。映画は四人の男たちの生きざまに密着した前半部と、彼らがトラックで地獄の道行へと向かう後半の[二部構成]へと配置換えをしている。そのため、本作が爆薬輸送の物語だという核心に触れるまで、およそ1時間に及ぶ環境描写を展開していくこととなる。 しかし、この構成変更こそが、物語をどこへ向かわせるのか分からぬサスペンス性を強調し、加えて悠然とした前半部のテンポが、どん詰まりの人生に焦りを覚える男たちの感情を、観る者に共有させていくのだ。 そしてなにより、視点を火災に見舞われた石油資源会社ではなく、石油採掘の犠牲となった町やそこに住む人々に置くことで、映画はアメリカ資本主義の搾取構造や、極限状態におけるむき出しの人間性を浮き彫りにしていくのである。 ■失われた17分間の復活 だが不幸なことに、クルーゾによるこの巧みな構成が、フランスでの公開から36年間も損なわれていた時代があったのだ。 今回ザ・シネマで放送される『恐怖の報酬』は、クルーゾ監督の意向に忠実な2時間28分のオリジナルバージョン(以下「クルーゾ版」と呼称)で、前章で触れた要素が欠けることなく含まれている。 しかし本作が各国で公開されたときにはカットされ、短く縮められてしまったのだ(以下、同バージョンを「短縮版」と呼称)。 映画に造詣の深いイラストレーター/監督の和田誠氏は、脚本家・三谷幸喜氏との連載対談「それはまた別の話」(「キネマ旬報」1997年3月01日号)での文中、封切りで『恐怖の報酬』を観たときには既にカットされていたと語り、 「たぶん観客が退屈するだろうという、輸入会社の配慮だと思うんですけど」 と、短縮版が作られた背景を推察している。確かに当時、上映の回転率が悪い長時間の洋画は、国内の映画配給会社の判断によって短くされるケースもあった。事実、本作の国内試写を観た成瀬巳喜男(『浮雲』(55)監督)が、中村登(『古都』(63)監督)や清水千代太(映画評論家)らと鼎談した記事「食いついて離さぬ執拗さ アンリ・ジョルジュ・クルゾオ作品 恐怖の報酬を語る」(「キネマ旬報」1954年89通号)の中で、試写で観た同作の長さは2時間20分であり、この時点でクルーゾ版より8分短かったという事実に触れている。 しかし本作の場合、短縮版が世界レベルで広まった起因は別のところにあったのだ。 1955年、『恐怖の報酬』はアメリカの映画評論家によって、劇中描写がアメリカに対して批判的だと指摘を受けた(同年の米「TIME」誌には「これまでに作られた作品で、最も反米色が濃い」とまで記されている)。そこでアメリカ市場での公開に際し、米映画の検閲機関が反米を匂わすショットやセリフを含むシーンの約17分、計11か所を削除したのである。それらは主に前半部に集中しており、たとえば石油の採掘事故で夫を亡くした未亡人が大勢の住民たちの前で、 「危険な仕事を回され。私たちの身内からいつも犠牲者が出る。死んでも連中(石油資源会社)は、はした金でケリをつける」 と訴えるシーン(本編37分経過時点)や、石油資源会社の支配人オブライエン(ウィリアム・タッブス)が、死亡事故調査のために安全委員会が来るという連絡を受けて、 「連中(安全委員会)を飲み食いさせて、悪いのは犠牲者だと言え。死人に口なしだ」 と部下に命じるシーン(本編39分経過時点)。さらにはニトログリセリンを運ぶ任務を負った一人が、重圧から自殺をはかり「彼はオブライエンの最初の犠牲者だ」とマリオがつぶやく場面(本編45分経過時点)などがクルーゾ版からカットされている。 こうした経緯のもとに生み出された短縮版が、以降『恐怖の報酬』の標準仕様としてアメリカやドイツなどの各国で公開されていったのである。 なので、この短縮版に慣れ親しんだ者が今回のクルーゾ版に触れると「長すぎるのでは?」と捉えてしまう傾向にあるようだ。それはそれで評価の在り方のひとつではあるが、何よりもこれらのカットによって作品のメッセージ性は薄められ、この映画にとっては大きな痛手となった。本作は決してスリルのみを追求したライド型アクションではない。社会の不平等に対する怒りを湛えた、そんな深みのある人間ドラマをクルーゾ監督は目指したのである。 1991年、マニアックな作品選定と凝った仕様のソフト制作で定評のある米ボイジャー社「クライテリオン・コレクション」レーベルが、本作のレーザーディスクをリリースするにあたり、先述のカットされた17分を差し戻す復元をほどこした。そしてようやく同作は、本来のあるべき姿を取り戻すことに成功したのである。この偉業によってクルーゾの意図は明瞭になり、以降、このクルーゾ版が再映、あるいはビデオソフトや放送において広められ、『恐怖の報酬』は正当な評価を取り戻していく。 ■クルーゾ版の正当性を証明するフリードキン版 こうしたクルーゾ版の正当性を主張するさい、カット問題と共に大きく浮かび上がってくるのは、1977年にウィリアム・フリードキン監督が手がけた本作の米リメイク『恐怖の報酬』の存在である。 名作として評価の定まったオリジナルを受けての、リスクの高い挑戦。そして製作費2000万ドルに対して全米配収が900万ドルしか得られなかったことから、一般的には失敗作という烙印を捺されている本作。しかし現在の観点から見直してみると、クルーゾ版を語るうえで重要性を放つことがわかる。 フリードキンは米アカデミー賞作品賞と監督賞を受賞した刑事ドラマ『フレンチ・コネクション』(71)、そして空前の大ヒットを記録したオカルトホラー『エクソシスト』(73)を手がけた後、『恐怖の報酬』の再映画化に着手した。その経緯は自らの半生をつづった伝記“THE FRIEDKIN CONNECTION”の中で語られている。 フリードキンは先の二本の成功を担保に、当時ユニバーサル社長であったルー・ワッサーマンに会い「わたしが撮る初のユニバーサル映画は本作だ」とアピールし、映画化権の取得にあたらせたのだ。 しかし権利はクルーゾではなく、原作者であるアルノー側が管理しており、しかも双方は権利をめぐって確執した状態にあった。だがフリードキン自身は「権利はアルノーにあっても、敬意を払うべきはクルーゾだ」と考え、彼に会って再映画化の支えを得ようとしたのだ。クルーゾは気鋭の若手が自作に新たな魂を吹き込むことを祝福し、『フレンチ・コネクション』『エクソシスト』という二つの傑作をモノした新人にリメイクを委ねたのである。 こうしたクルーゾとフリードキンとの親密性は、作品においても顕著にあらわれている。たとえば映画の構成に関して、フリードキンはマリオに相当する主人公シャッキー(ロイ・シャイダー)が、ニトログリセリンを輸送する任務を請け負わざるを得なくなる、そんな背景を執拗なまでに描写し、クルーゾ版の韻を踏んでいる。状況を打破するには、命と引き換えの仕事しかないーー。そんな男たちの姿をクローズアップにすることで、おのずとクルーゾーの作劇法を肯定しているのだ。 しかしラストに関して、フリードキンの『恐怖の報酬』は、シャッキーが無事にニトログリセリンを受け渡すところでエンドとなっていた。そのため本作は日本公開時、このクルーゾ版とも原作とも異なる結末を「安易なオチ」と受け取られ、不評を招く一因となったのである。 ところがこの結末は、本作の全米興行が惨敗に終わったため、代理店によってフリードキンの承認なく1時間31分にカットされた「インターナショナル版」の特性だったのだ。アメリカで公開された2時間2分の全長版は、クルーゾ版ならびに原作と同様、アレンジした形ではあるがバッドエンドを描いていた。にもかかわらず場面カットの憂き目に遭い、あらぬ誤解を受けてしまったのである。 そう、皮肉なことにクルーゾもフリードキンも、改ざんによって意図を捻じ曲げられてしまうという不幸を、『恐怖の報酬』という同じ作品で味わうこととなってしまったのだ。 さいわいにもクルーゾ版は、こうして自らが意図した形へと修復され、本来あるべき姿と評価をも取り戻している。なので、クルーゾ版の正当性を証明するフリードキン版も、多くの人の目に触れ、正当な評価を採り戻してもらいたい。それを期待しているのは、決して筆者だけではないはずだ。■ ©1951 - TF1 INTERNATIONAL - PATHE RENN PRODUCTIONS - VERA FILM - MARCEAU CONCORDIA - GENERAL PRODUCTIONS
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COLUMN/コラム2016.12.29
極限の緊張サスペンスに込めたクルーゾ監督の狙いと、それを継受した1977年リメイク版との関係性を紐解く〜
わずかの振動でも爆発をおこす膨大な量のニトログリセリン(高度爆発性液体)を、悪路を眼下にトラックで輸送する--。それを耳にしただけでも、全身の毛が逆立つような身震いをもたらすのが、この『恐怖の報酬』だ。この映画が世に出て、今年で63年。その間、いったいどれほど多くの類似ドラマや引用、パロディが生み出されてきたことだろう。 だが一度は、それらを生み出したオリジンに触れてみるといい。先に挙げた設定をとことんまで活かした、観る者を極度の緊張へと至らしめる演出と仕掛けが、本作にはたっぷりと含まれている。 「この町に入るのは簡単さ。だが出るのは難しい“地獄の場所”だ」 アメリカの石油資源会社の介入によって搾取され、スラムと化した南米のとある貧民街。そこは行き場を失ったあぶれ者たちの、終着駅のごとき様相を呈していた。そんな“地獄の場所”へと流れてきたマリオ(イブ・モンタン)を筆頭とする四人の男たちは、貧困がぬかるみのように足をからめとる、この呪われた町から脱出するために高額報酬の仕事に挑む。その仕事とは、爆風で火を消すためのニトログリセリンを、大火災が猛威をふるう山向こうの石油採掘坑までトラックで運ぶことだった。 舗装されていないデコボコの悪路はもとより、道をふさぐ落石や噴油のたまった沼など、彼らの行く手には数々の難関が待ち受ける。果たしてマリオたちは無事に荷物を受け渡し、成功報酬を得ることができるのかーー? 仏作家ジョルジュ・アルノーによって書かれた原作小説は、南米グァテマラの油田地帯にある石油採掘坑の爆発と、その消火作業の模様を克明に描いた冒頭から始まる。その後は、 「四人が同じ地に集まる」「ニトログリセリンを運ぶ」 と続く[三幕構成]となっているが、監督のアンリ・ジョルジュ・クルーゾはその構成を独自に解体。映画は四人の男たちの生きざまに密着した前半部と、彼らがトラックで地獄の道行へと向かう後半の[二部構成]へと配置換えをしている。そのため、本作が爆薬輸送の物語だという核心に触れるまで、およそ1時間に及ぶ環境描写を展開していくこととなる。 しかし、この構成変更こそが、物語をどこへ向かわせるのか分からぬサスペンス性を強調し、加えて悠然とした前半部のテンポが、どん詰まりの人生に焦りを覚える男たちの感情を、観る者に共有させていくのだ。 そしてなにより、視点を火災に見舞われた石油資源会社ではなく、石油採掘の犠牲となった町やそこに住む人々に置くことで、映画はアメリカ資本主義の搾取構造や、極限状態におけるむき出しの人間性を浮き彫りにしていくのである。 ■失われた17分間の復活 だが不幸なことに、クルーゾによるこの巧みな構成が、フランスでの公開から36年間も損なわれていた時代があったのだ。 今回ザ・シネマで放送される『恐怖の報酬』は、クルーゾ監督の意向に忠実な2時間28分のオリジナルバージョン(以下「クルーゾ版」と呼称)で、前章で触れた要素が欠けることなく含まれている。 しかし本作が各国で公開されたときにはカットされ、短く縮められてしまったのだ(以下、同バージョンを「短縮版」と呼称)。 映画に造詣の深いイラストレーター/監督の和田誠氏は、脚本家・三谷幸喜氏との連載対談「それはまた別の話」(「キネマ旬報」1997年3月01日号)での文中、封切りで『恐怖の報酬』を観たときには既にカットされていたと語り、 「たぶん観客が退屈するだろうという、輸入会社の配慮だと思うんですけど」 と、短縮版が作られた背景を推察している。確かに当時、上映の回転率が悪い長時間の洋画は、国内の映画配給会社の判断によって短くされるケースもあった。事実、本作の国内試写を観た成瀬巳喜男(『浮雲』(55)監督)が、中村登(『古都』(63)監督)や清水千代太(映画評論家)らと鼎談した記事「食いついて離さぬ執拗さ アンリ・ジョルジュ・クルゾオ作品 恐怖の報酬を語る」(「キネマ旬報」1954年89通号)の中で、試写で観た同作の長さは2時間20分であり、この時点でクルーゾ版より8分短かったという事実に触れている。 しかし本作の場合、短縮版が世界レベルで広まった起因は別のところにあったのだ。 1955年、『恐怖の報酬』はアメリカの映画評論家によって、劇中描写がアメリカに対して批判的だと指摘を受けた(同年の米「TIME」誌には「これまでに作られた作品で、最も反米色が濃い」とまで記されている)。そこでアメリカ市場での公開に際し、米映画の検閲機関が反米を匂わすショットやセリフを含むシーンの約17分、計11か所を削除したのである。それらは主に前半部に集中しており、たとえば石油の採掘事故で夫を亡くした未亡人が大勢の住民たちの前で、 「危険な仕事を回され。私たちの身内からいつも犠牲者が出る。死んでも連中(石油資源会社)は、はした金でケリをつける」 と訴えるシーン(本編37分経過時点)や、石油資源会社の支配人オブライエン(ウィリアム・タッブス)が、死亡事故調査のために安全委員会が来るという連絡を受けて、 「連中(安全委員会)を飲み食いさせて、悪いのは犠牲者だと言え。死人に口なしだ」 と部下に命じるシーン(本編39分経過時点)。さらにはニトログリセリンを運ぶ任務を負った一人が、重圧から自殺をはかり「彼はオブライエンの最初の犠牲者だ」とマリオがつぶやく場面(本編45分経過時点)などがクルーゾ版からカットされている。 こうした経緯のもとに生み出された短縮版が、以降『恐怖の報酬』の標準仕様としてアメリカやドイツなどの各国で公開されていったのである。 なので、この短縮版に慣れ親しんだ者が今回のクルーゾ版に触れると「長すぎるのでは?」と捉えてしまう傾向にあるようだ。それはそれで評価の在り方のひとつではあるが、何よりもこれらのカットによって作品のメッセージ性は薄められ、この映画にとっては大きな痛手となった。本作は決してスリルのみを追求したライド型アクションではない。社会の不平等に対する怒りを湛えた、そんな深みのある人間ドラマをクルーゾ監督は目指したのである。 1991年、マニアックな作品選定と凝った仕様のソフト制作で定評のある米ボイジャー社「クライテリオン・コレクション」レーベルが、本作のレーザーディスクをリリースするにあたり、先述のカットされた17分を差し戻す復元をほどこした。そしてようやく同作は、本来のあるべき姿を取り戻すことに成功したのである。この偉業によってクルーゾの意図は明瞭になり、以降、このクルーゾ版が再映、あるいはビデオソフトや放送において広められ、『恐怖の報酬』は正当な評価を取り戻していく。 ■クルーゾ版の正当性を証明するフリードキン版 こうしたクルーゾ版の正当性を主張するさい、カット問題と共に大きく浮かび上がってくるのは、1977年にウィリアム・フリードキン監督が手がけた本作の米リメイク『恐怖の報酬』の存在である。 名作として評価の定まったオリジナルを受けての、リスクの高い挑戦。そして製作費2000万ドルに対して全米配収が900万ドルしか得られなかったことから、一般的には失敗作という烙印を捺されている本作。しかし現在の観点から見直してみると、クルーゾ版を語るうえで重要性を放つことがわかる。 フリードキンは米アカデミー賞作品賞と監督賞を受賞した刑事ドラマ『フレンチ・コネクション』(71)、そして空前の大ヒットを記録したオカルトホラー『エクソシスト』(73)を手がけた後、『恐怖の報酬』の再映画化に着手した。その経緯は自らの半生をつづった伝記“THE FRIEDKIN CONNECTION”の中で語られている。 フリードキンは先の二本の成功を担保に、当時ユニバーサル社長であったルー・ワッサーマンに会い「わたしが撮る初のユニバーサル映画は本作だ」とアピールし、映画化権の取得にあたらせたのだ。 しかし権利はクルーゾではなく、原作者であるアルノー側が管理しており、しかも双方は権利をめぐって確執した状態にあった。だがフリードキン自身は「権利はアルノーにあっても、敬意を払うべきはクルーゾだ」と考え、彼に会って再映画化の支えを得ようとしたのだ。クルーゾは気鋭の若手が自作に新たな魂を吹き込むことを祝福し、『フレンチ・コネクション』『エクソシスト』という二つの傑作をモノした新人にリメイクを委ねたのである。 こうしたクルーゾとフリードキンとの親密性は、作品においても顕著にあらわれている。たとえば映画の構成に関して、フリードキンはマリオに相当する主人公シャッキー(ロイ・シャイダー)が、ニトログリセリンを輸送する任務を請け負わざるを得なくなる、そんな背景を執拗なまでに描写し、クルーゾ版の韻を踏んでいる。状況を打破するには、命と引き換えの仕事しかないーー。そんな男たちの姿をクローズアップにすることで、おのずとクルーゾーの作劇法を肯定しているのだ。 しかしラストに関して、フリードキンの『恐怖の報酬』は、シャッキーが無事にニトログリセリンを受け渡すところでエンドとなっていた。そのため本作は日本公開時、このクルーゾ版とも原作とも異なる結末を「安易なオチ」と受け取られ、不評を招く一因となったのである。 ところがこの結末は、本作の全米興行が惨敗に終わったため、代理店によってフリードキンの承認なく1時間31分にカットされた「インターナショナル版」の特性だったのだ。アメリカで公開された2時間2分の全長版は、クルーゾ版ならびに原作と同様、アレンジした形ではあるがバッドエンドを描いていた。にもかかわらず場面カットの憂き目に遭い、あらぬ誤解を受けてしまったのである。 そう、皮肉なことにクルーゾもフリードキンも、改ざんによって意図を捻じ曲げられてしまうという不幸を、『恐怖の報酬』という同じ作品で味わうこととなってしまったのだ。 さいわいにもクルーゾ版は、こうして自らが意図した形へと修復され、本来あるべき姿と評価をも取り戻している。なので、クルーゾ版の正当性を証明するフリードキン版も、多くの人の目に触れ、正当な評価を採り戻してもらいたい。それを期待しているのは、決して筆者だけではないはずだ。■