検索結果
-
PROGRAM/放送作品
アポカリプト
[R-15]ジャングルの男ジャガー・パウ!マヤ文明の魔の手から逃れるため命がけの脱出に挑む!
『ブレイブハート』でアカデミー賞を受賞したメル・ギブソンが、製作・監督・脚本を手がけた、野生の熱き血潮がほとばしる超大作!マヤ文明の巨大遺跡が迫力のCGで甦り、鮮烈なアクションがド肝をぬく!
-
COLUMN/コラム2024.11.06
センセーションを巻き起こした!アメリカ映画最高のヒーローの“死に様”。『11人のカウボーイ』
19世紀後半のアメリカ西部。牧場主のウィル・アンダーソン(演:ジョン・ウェイン)は、1,500頭の牛を売るため、640㌔離れた街まで移動させる、“キャトル・ドライヴ”の必要に迫られていた。 しかし、必要な助っ人を得ることができない。近隣で金が出たという話が広がり、男たちは皆そちらに行ってしまったのである。 ウィルは友人の勧めから、教会の学校に通う少年たちをスカウトすることにしたが…。 ****** 本作『11人のカウボーイ』(1972)は、“デューク(公爵)”ことジョン・ウェイン(1907~79)の主演作。フィルモグラフィーを眺めると、“戦争映画”などへの出演も少なくないが、“デューク”と言えばやっぱりの、“西部劇”だ。 ジョン・フォード監督の『駅馬車』(39)でスターダムに上り、その後長くハリウッドTOPスターの座に君臨したウェインだが、64年に肺癌を宣告されて片肺を失う。しかし闘病を宣言して俳優活動を続け、60代に突入してからの主演作『勇気ある追跡』(69)で、念願のアカデミー賞主演男優賞を受賞! 本作に主演した頃は、まだ意気軒昂であった。しかし『11人のカウボーイ』は、ジョン・ウェイン主演の“西部劇”としては、明らかに異彩を放つ作品である。 ウェインは本作に関して、「私の映画生活で記念すべきチャレンジ…」と発言している。この「チャレンジ」とは、多分監督に関しても含まれる。本作のメガフォンを取ったのは、ニューヨーク派の新鋭マーク・ライデル(1934~ )だった。 ライデルは俳優出身で、60年代にTVシリーズの監督で頭角を現した。その後劇場用映画として、『女狐』(67)『華麗なる週末』(69)で評判を取ったが、“西部劇”に関しては、長寿TVシリーズの「ガンスモーク」を10話ほど手掛けてはいたものの、劇場用作品としては、本作が初めて。 後に『黄昏』(81)で、当時70代のヘンリー・フォンダとキャサリン・ヘプバーンにオスカーをもたらすなど、ベテラン俳優の手綱さばきも評価されたライデル。しかしこの頃はまだまだ、“若造”であった。 ***** ウィルの下に集まった11人は、みんな10代。厳しい訓練を行い、やがてコックとして雇った黒人のナイトリンガー(演:ロスコー・リー・ブラウン)も携えて、“キャトル・ドライヴ”は出発の日を迎えた。 過酷な道程で、11人はそれぞれに、厳しいウィルへの不満を抱く。しかしその想いや愛情に触れて、一同はやがて彼に対し、尊敬の念を深めていく…。 ***** ジョン・ウェインにとって、ハワード・ホークス監督の『赤い河』(48)への出演が、キャリアの転換点となったのは、自他共に認めるところ。それまで彼を「でくのぼう」扱いしていた、恩師のジョン・フォードにも、ちゃんと演技が出来ることを知らしめたのだ。『赤い河』は、“キャトル・ドライヴ”の道中を通じて、ウェインとモンゴメリー・クリフトが演じる、血の繋がらない父子による、相克と和解の物語である。『11人のカウボーイ』でウェインの演じるウィルは、2人の息子を若くして失っている。そんなウィルが、11人の少年カウボーイたちを率いて、“キャトル・ドライヴ”に挑む。ここにはやはり、“疑似父子”関係が見出せる。名作『赤い河』への目配せは、作り手の側には当然あったように思われる。 ライデル監督の苦労は、“ウェインの息子たち”11人のカウボーイを選ぶところから始まった。何百人もの少年を面接したが、乗馬と芝居の両方を経験している者は、ゼロ。 選んだ11人の内、6人は荒馬や荒牛を乗りこなすロデオ経験者だったが、他の5人は俳優で、馬に乗ったことがなかった。そこでクランク・イン前は、ロデオと演技の特訓。各々に自分のできること、即ち、乗馬と演技の見本を示すようにと指導を行い、やがて馬に乗れなかった者も、馬上に跨って牛を捕縛する投げ縄などを、マスターしていった。 そして、撮影開始。ライデルにとっては、少年たちを演出する以上の難物が控えていた。“デューク”である。 ***** ウィルと少年たちの“キャトル・ドライヴ”を追ってきた、牛泥棒の一団がいた。ある夜彼らが、襲撃を掛けてきた。 ウィルは少年たちに手を出させないよう、牛泥棒のリーダー格であるロング・ヘア(演:ブルース・ダーン)に、素手での1対1の闘いを挑んだ。ロング・ヘアはその闘いに敗れると、卑怯にも拳銃を取り出し、ウィルを背後から撃ち殺すのだった。 今際の際のウィルの言葉を受けて、ナイトリンガーは少年たちを故郷に送り届けようとする。しかし目の前でウィルを殺害されてしまった、少年たちの想いは違っていた。 彼らは誓った。ロング・ヘアたちへの復讐を果し、1,500頭の牛を取り戻す…。 ***** 当時のインタビューで、マーク・ライデルはこんなことを言っている。「政治的見解では両極にある私とデュークだ。彼の政治的立場を私は嫌悪する。しかし、俳優として彼ほど魅力のある男を私は知らなかった…」 当時はアメリカによるベトナムへの軍事介入に対して、“反戦運動”が盛り上がっていた頃。“リベラル派”に属するライデルにとって、かつて“赤狩り”を支援し、“ベトナム戦争”に対しては、アメリカ政府の立場を全面的に支持する作品『グリーン・ベレー』(68)を製作・監督・主演で作り上げた、“タカ派”の大御所ウェインは、政治的には唾棄すべき存在だった。しかし俳優としてのキャリアは、リスペクトに値する…。 本作は1971年4月5日にクランクイン。ニューメキシコ州のサン・クリストバル牧場やコロラドのパゴサ・スプリングスなどでロケを行った後、カリフォルニアのバーバンク撮影所へと戻った頃には、7月になっていた。 長きに渡ったロケで、実は撮り終えてない野外シーンが1つあった。それは、ウェインと敵役であるブルース・ダーンの対決。作品の流れで言えば、長年ハリウッド随一のタフなヒーローだったウェインが、エンドマークが出るまでまだ20分もあるのに、殺害されてしまうシーンであった。 それまでのウェインは、例えば『アラモ』(60)で実在の人物であるデイヴィー・クロケットを演じた時のように、劇中で英雄的な死を迎えることは幾度かあった。しかし本作のような無残な殺され方は、前代未聞のことだった。 これまでのジョン・ウェイン主演作でも、殴り合いのシーンは、各作にルーティンのように存在する。従来の“西部劇”は「悠揚として迫らざる」、ゆったりとして落ち着いた描写をモットーに撮られている。 しかし時代的には、セルジオ・レオーネ監督の『荒野の用心棒』(64)をはじめとしたマカロニ・ウエスタンや、サム・ペキンパー監督の『ワイルドバンチ』(69)などが、“西部劇”の世界を席捲。決闘シーンはより荒々しく、血生臭い傾向が強くなっていた。 ダーンは、ウェインとの対決の後のシーンでは、鼻を折られたという設定で、付け鼻を付けている。そんな激しい闘いで、いくら天下のジョン・ウェインであっても、無傷なのはおかしいと、ライデルは考えた。リアリズム風の格闘で、ウェインとダーンは共に血まみれにならなければ…。 しかしウェインは、“西部劇”に於いてそうしたリアルな描写には、ずっと反対し続けてきた。あるインタビューでは、「幻想(イリュージョン)を描くかわりに、何もかも“リアリズム”にしようとしている…それで、電気装置をつかって……血が噴き出るように仕掛けたりする…」などと、嫌悪感を露わにしている。登場人物すべてが血みどろの戦いの末に果てていく、『ワイルドバンチ』のサム・ペキンパー演出を、明らかに意識し揶揄していた。 ライデルは本作に於ける“最大のチャレンジ”に挑むため、当時撮影現場に於いてウェインの最側近と言える存在だった、デイヴ・グレイソンと、相談を重ねた。グレイソンはプロのメイクアップ係で、60年代からはウェインの全作品のメイクを担当した人物。ウェインは40代からカツラを装着していたため、グレイソンとは、公私ともに身近な関係だった。 しかし現代的な“西部劇”の作り方に対し、「…幻想を映画から追い出そうとしている」と反発するウェインを、果して説得などできるのか!? 問題のシーンの撮影日の朝、グレイソンがライデルから呼び出されると、その場には5~6人のスタッフが集まっていた。議題は、いかにウェインを血だらけにするか。「デュークがいいと言ったら、出来ますよ。でも、男のメーキャップ係が四人要ります」「どうして四人掛かりなんだね?」「三人は彼を押さえ付けておく係です」 そんなやり取りの末に、スタントディレクターが、ウェインの説得役を買って出た。しかしいざウェインのトレイラーに向かうと、挨拶と雑談だけで終わって、これから撮るシーンのことをまったく切り出せなかった。 結局は同行したグレイソンが、口を開くしかなかった。「ねぇ、デューク、みんなは今度のシーンであんたを血だらけにさせたがっているんだが、恐くて言い出せないでいるんだ」 それに対してウェインは、「下らん!」と一喝。しかしちょっと間を置いてから「まあ、いいだろう。やってくれよ。血糊とやらを塗りたくってくれ」 ウェインは個人的には好まないながらも、時代の変化の中で観客の嗜好が変わってきたことは、理解していたのである。と言っても、彼が言うところの「傷口がバックリ開いて、肝臓(レバー)がこっちに飛んで来る」ような、極端な残酷描写だけは、決して許そうとしなかったが。 この対決シーンに、大酒飲みのウェインはほろ酔い状態で臨んだ。酔いに任せて、撮影の合間はジョークを飛ばしたり陽気に振る舞ったという。 対決相手を演じたブルース・ダーン(1936~ )は、本作出演後、『ブラック・サンデー』(77)『帰郷』(78)などの話題作・問題作に出演。年老いてからは、『ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅』(2013)で、カンヌ国際映画祭男優賞を受賞し、アカデミー主演男優賞にもノミネートされた名優である。ローラ・ダーンの父親としても知られる彼だが、本作出演時は、若手俳優の1人に過ぎなかった。 そんなダーンに、ウェインはこんなアドバイスを贈った。「悪役を演じるときは手加減するな、よい俳優になりたければいじめられたほうがよい」 そんなウェインの助言が実ったというべきか?「ジョン・ウェインを撃った男」として悪名を馳せたダーンの元には、本作公開後に脅迫状が届き、リンチの警告まで受けるに至った。 ジョン・ウェインが背後から撃ち殺されてしまうということが、どれだけセンセーショナルな事態であったか! 例えば本邦を代表する映画評論家の1人、山田宏一氏も当時、次のように記している。 ~…『11人のカウボーイ』には、幻滅を感じ、いや、それどころか、怒りを禁じえないのだ。…ぼくらファンにことわりもなしにージョン・ウェインをあっさり殺してしまったのである!~ 山田氏はマーク・ライデル監督への悪罵を尽くした挙げ句、西部劇の不滅のヒーローであり、アメリカ国民の夢であるジョン・ウェインに無残な死をもたらした、本作『11人のカウボーイ』について、~ほとんど犯罪だ。~と断じている。 ジョン・ウェインは本作の4年後、『ラスト・シューティスト』(76)で、末期がんで余命いくばくもないガンマンを演じ、ならず者たちとのガンファイトで、再びスクリーン上での“死”を演じてみせた。そしてそれを遺作に、79年6月11日、再発した胃がんのために72歳でこの世を去った。 今日考えるに本作『11人のカウボーイ』は、「悠揚として迫らざる」タッチの西部劇の終焉を象徴する、歴史的な1本であったのだ。■ 『11人のカウボーイ』© Warner Bros. Entertainment Inc.
-
PROGRAM/放送作品
ダ・ヴィンチ・コード【エクステンデッド版】
[PG12相当]ロン・ハワード&トム・ハンクスがダン・ブラウンのベストセラー・ミステリーを映画化!
世界中で社会現象的ベストセラーとなったダン・ブラウンの同名小説を映画化。トム・ハンクスが主人公の宗教象徴学者ラングドン教授をスマートに演じ、知的好奇心をあおる謎解きミステリーをスピード感満点に魅せる。
-
COLUMN/コラム2024.11.05
イタリア映画界の伝説的セックス・シンボル、エドウィジュ・フェネシュの代表作シリーズがザ・シネマに登場!
世界的に性の解放が叫ばれ映画における性表現が自由化された’70年代、イタリアではセックス・コメディ映画が大ブームを巻き起こす。Commedia sexy all'italiana(イタリア式セックス・コメディ)と呼ばれるこれらの映画群は、一部の野心的で志の高い作品を除けば美女たちの赤裸々ヌードと低俗な下ネタギャグで見せるバカバカしいB級エンターテインメントで、それゆえ当時の批評家からは散々酷評されたものの、しかし大学生や労働者階級の若者を中心とした男性ファンからは大いに支持された。バーバラ・ブーシェにグロリア・グイダ、ラウラ・アントネッリにアニー・ベル、フェミ・ベヌッシにリリ・カラーチにダニエラ・ジョルダーノにアゴスティナ・ベッリにジェニー・タンブリにキャロル・ベイカーなどなど、数多くのグラマー女優たちがイタリア式セックス・コメディ映画で活躍したが、中でも特に絶大な人気を誇ったのはエドウィジュ・フェネシュである。 「イタリア式セックス・コメディの女王」と呼ばれ、イタリアでは’70年代を象徴するセックス・シンボルとして有名なエドウィジュ・フェネシュ。欧米では今もカルト的な人気が高く、クエンティン・タランティーノ監督やイーライ・ロス監督もフェネシュの大ファンを公言しているほどだが、しかし日本では劇場公開作が少ないため知名度は極めて低い。そんな彼女の代表作のひとつである『青い経験』シリーズが、なんとザ・シネマで放送されるということで、今回は作品の見どころに加えて、日本ではあまり知られていない女優エドウィジュ・フェネシュとイタリア式セックス・コメディの世界について解説してみたいと思う。 ジャッロ映画の女王からイタリア式セックス・コメディの女王へ 1948年12月24日のクリスマス・イヴ、当時まだフランス領だった中東アルジェリアの古都ボーヌ(現在のアンバナ)に生まれたエドウィジュ・フェネシュ。父親フェリックスはスコットランドやチェコの血が入ったマルタ人、母親イヴォンヌはベネチアをルーツとするシシリア生まれのイタリア人だが、2人の間に生まれたフェネシュの国籍はフランスである。裕福な家庭に育って9歳からバレエを習っていたそうだが、しかし両親の離婚とアルジェリア独立戦争の影響から、母親に連れられて南仏ニースへ移住。18歳の時に初めて結婚したが、しかし1年も経たず離婚している。 人生の大きな転機が訪れたのはちょうどその頃。ニースの街を歩いていたところ、映画監督ノルベール・カルボノーにスカウトされ、出番1シーンのみの端役ながら’67年に映画デビューを果たしたのだ。その年、当時カンヌ国際映画祭で毎年行われていた美人コンテスト「レディ・フランス」に出場して優勝したフェネシュは、さらに欧州各国代表が集まる国際大会「レディ・ヨーロッパ」にも出場。惜しくも3位に終わったものの、しかしこれをきっかけにイタリアのエージェントから声がかかり、女性ターザン映画『Samoa, regina della giungla(サモア、ジャングルの女王)』(’68)に主演。フェネシュは母親と一緒にローマへ移り住む。 ただし、フェネシュが最初に映画スターとして認められたのはイタリアではなく西ドイツ。なかなかヒットに恵まれず燻っていた彼女は、イタリアの男性向け成人雑誌「プレイメン」でヌードグラビアを発表したところ、ひと足先に性の解放が進んでいた西ドイツへ招かれてセックス・コメディ映画に引っ張りだことなったのだ。その中の一本が、西ドイツとイタリアの製作会社が共同出資した『Die Nackte Bovary(裸のボヴァリー)』(’69)。この作品でフェネシュは、その後のキャリアを左右する重要な人物と出会うことになる。イタリア側の映画プロデューサー、ルチアーノ・マルティーノである。 祖父は日本でも大ヒットしたイタリア初のトーキー映画『愛の唄』(’30)で知られる往年の名匠ジェンナーロ・リゲッティ、祖母は「イタリアのメアリー・ピックフォード」と呼ばれた大女優マリア・ヤコビーニ、母親リア・リゲッティも元女優で、5つ年下の弟もB級娯楽映画の名職人セルジオ・マルティーノという映画一家出身のルチアーノ・マルティーノ。’60年代初頭よりミーノ・ロイとのコンビでソード&サンダル映画やマカロニ・ウエスタン、モンド・ドキュメンタリーなどのB級娯楽映画を大量生産してヒットを飛ばしたルチアーノは、’70年に自身の映画会社ダニア・フィルムを設立。弟セルジオやウンベルト・レンツィ、ドゥッチョ・テッサリ、ジュリアーノ・カルニメオなどの娯楽職人を雇い、ジャッロ(イタリア産猟奇サスペンス)やクライム・アクションといった人気ジャンルの映画を次々とプロデュースしていた。 そのルチアーノ・マルティーノと’71年に結婚(年齢差は15歳)したフェネシュは、いわばダニア・フィルムの看板スターとして売り出されることになる。第1弾となったのがセルジオ・マルティーノ監督のジャッロ映画『Lo strano vizio della signora Wardh(ワルド夫人の奇妙な悪徳)』(’71)だ。これがイタリアのみならずヨーロッパ各国やアメリカでもヒットしたことから、立て続けにジャッロ映画のヒロインを演じたフェネシュ。先述した通り「イタリア式セックス・コメディの女王」と呼ばれた彼女だが、同時に「ジャッロ映画の女王」でもあったのだ。タランティーノやイーライ・ロスが夢中になったのもジャッロ映画のフェネシュ。ただ、実のところ彼女が主演したジャッロ映画はせいぜい5~6本。数としては決して多くないのだが、しかしいずれも非常にクオリティが高く、中でもセルジオ・マルティーノ監督と組んだ『Lo strano vizio della signora Wardh』と『Tutti i colori del buio(暗闇の中のすべての色)』(’72)は、当時のダリオ・アルジェント作品と比べても引けを取らない見事な傑作。いまだ日本へ輸入されないままなのは実に惜しい。 次に、ルチアーノ・マルティーノは折からのイタリア式セックス・コメディの人気に便乗するべく、ピエル・パオロ・パゾリーニの『デカメロン』(’71)や『カンタベリー物語』(’72)に影響されたエロティック時代劇コメディ『Quel gran pezzo dell'Ubalda tutta nuda e tutta calda(全裸でセクシーなウバルダの見事な作品)』(’72)をエドウィジュ・フェネシュの主演で発表。これがイタリア国内で空前の大ヒットを記録したことから、イタリア式セックス・コメディのブームが本格的に到来したと言われている。もちろん、フェネシュにとってもキャリアの大きな転機となり、これ以降、彼女は年に3~5本のハイペースでイタリア式セックス・コメディ映画に主演することとなる。 イタリア式セックス・コメディが若い男性ファンに支持された理由とは? イタリア式セックス・コメディとは、’60年代に花開いた「Commedia all'italiana(イタリア式コメディ)のサブジャンル。高度経済成長期にさしかかった当時のイタリアでは、ローマやミラノなどの大都会を中心に庶民生活は豊かとなり、リベラルで進歩的な価値観が急速に浸透していったが、しかしその一方でカトリックの総本山バチカンのお膝元だけあって旧態依然とした保守的な価値観も根強く、さらに地方へ行けば家父長制の伝統も色濃い男尊女卑の風潮もまだまだ残っていた。そんなイタリア社会の矛盾を辛辣なユーモアで笑い飛ばしたのが、ジャンル名の語源ともなったピエトロ・ジェルミ監督の『イタリア式離婚狂騒曲』(’61)やディーノ・リージ監督の『追い越し野郎』(’62)、マルコ・フェレーリ監督の『女王蜂』(’63)といった一連の「イタリア式コメディ」映画。その中でも、イタリア庶民の大らかな性をテーマにした巨匠ヴィットリオ・デ・シーカの『昨日・今日・明日』(’63)や、デ・シーカに加えてフェリーニやヴィスコンティなどの巨匠が集結したオムニバス艶笑譚『ボッカチオ’70』(’62)辺りが、イタリア式セックス・コメディのルーツと言えるかもしれない。 そのイタリア式セックス・コメディが興隆したのは’70年代に入ってから。当時のイタリアでは学生運動や労働者運動など左翼革命の嵐が吹き荒れ、リベラルな気運が高まる中で映画の性描写も自由になっていた。実際、ヌードや濡れ場を積極的に描いたのは、ベルナルド・ベルトルッチやエリオ・ペトリ、サルヴァトーレ・サンペリなどの左翼系映画監督たちだ。パゾリーニなどはその代表格と言えよう。『デカメロン』と『カンタベリー物語』(’72)が立て続けにヒットすると、それをパクった「デカメロンもの」と呼ばれる映画群が雨後の筍のように登場。これをきっかけにイタリア式セックス・コメディが量産されるようになり、たちまち学園ものから犯罪ものまで様々にバリエーションを広げ、いわばポルノ映画の代用品として若い男性観客層から支持されるようになる。 先述したようにカトリック教会の影響などから、依然として保守的な価値観の根強かった当時のイタリア社会。それゆえ、映画における性表現の自由化は進んだものの、しかしこれがハードコア・ポルノとなるとまた話は別で、アメリカやフランスなど他国に比べると普及するのがだいぶ遅かった。イタリアで最初のポルノ映画館がミラノでオープンしたのは’79年。ちょうどアメリカとイタリアが合作したポルノ巨編『カリギュラ』(’79)が公開された年だ。最初の純国産ハードコア・ポルノ映画と言われているのは、ジョー・ダマート監督がドミニカ共和国で撮影した『Sesso nero(黒いセックス)』(’80)。それ以前は、例えばラウラ・ジェムサー主演のソフトポルノ『愛のエマニエル』(’75)のように、国外への輸出用などにハードコア・シーンを別撮りして追加するケースこそあったものの、しかし本格的なハードコア・ポルノ映画がイタリアで作られることはなかったそうだ。 ちなみに、ラウラ・アントネッリが主演したサルヴァトーレ・サンペリ監督の『青い体験』(’73)や、パスカーレ・フェスタ・カンパニーレ監督の強烈な風刺喜劇『SEX発電』(’75)などの一部作品を除くと、本国イタリア以外では滅多に配給されることもヒットすることもなかったというイタリア式セックス・コメディ。エドウィジュ・フェネシュの主演作にしたって、日本で劇場公開されたのは『ああ結婚』(’75)のみで、あとはテレビ放送やビデオ発売されただけ。それだって一握りの作品だけだ。なぜイタリア式セックス・コメディは国外で通用しなかったのか。その最大の理由は恐らく、セクシズム丸出しのユーモア・センスにあるのではないかと思う。 なにしろ、当時のイタリア式セックス・コメディは覗きや痴漢やレイプなど女性の人権を蔑ろにするような描写がテンコ盛りで、なおかつそれらを面白おかしく消費する傾向が強い。登場する女性キャラも男性に都合の良い好色な美女だったり、お堅い女性でも無理やり押し倒せばメロメロになったり。いわゆる「いやよいやよも好きのうち」ってやつですな。また、同性愛者や身体障碍者、有色人種などのマイノリティを小バカにするようなネタも多い。確かに当時のアメリカやヨーロッパ、日本などでも男尊女卑かつ差別的な表現を含むセックス・コメディは少なからず存在したが、しかしイタリア式セックス・コメディのそれはちょっとレベルが違うという印象だ。 とにもかくにも、こうしてイタリア式セックス・コメディの女王として超売れっ子となったエドウィジュ・フェネシュ。中でも特に人気を集めたのは、女性警官やらナースやらに扮したフェネッシュが、その美貌とお色気で性欲過多なイタリア男たちを大暴走させる職業女性ものである。セクシーでタフな美人女性警官が珍騒動を巻き起こす『エロチカ・ポリス』(’76)シリーズに、色っぽい女性兵士が男社会の軍隊を大混乱に陥れる『La soldatessa alla visita militare(女兵士の軍隊訪問)』(’76)とその続編の「女兵士」シリーズなど枚挙に暇ないが、今回はその中から妖艶な女教師が男子生徒ばかりかその父兄までをも悩殺する『青い経験』(’75)シリーズがザ・シネマにお目見えする。 エドウィジュ・フェネシュのセクシーな魅力が詰まった『青い経験』シリーズ 日本ではタイトルに「青い経験」を冠したエドウィジュ・フェネシュの主演作が全部で5本、テレビ放送ないしビデオ発売されているものの、しかし正式なシリーズ作品はナンド・チチェロ監督の『青い経験』(’75)とマリアーノ・ラウレンティ監督の『青い経験 エロチカ大学』(’78)、そしてミケーレ・マッシモ・タランティーニ監督の『青い経験 誘惑の家庭教師』(’78)の3本。それ以外は日本側で勝手にシリーズを名乗らせた無関係な映画である。その中から、今回ザ・シネマで放送されるのは2作目と3作目。そこで、まずはシリーズの原点である1作目を簡単に振り返っておきたい。 頭の中が女の子とセックスのことでいっぱいのお坊ちゃんフランコは、勉強などそっちのけで悪友たちとイタズラ三昧の毎日。息子の将来を心配した汚職議員の父親が、フランコの成績改善と引き換えに昇進を校長へ持ちかけたところ、エドウィジュ・フェネシュ演じる美人教師ジョヴァンナが家庭教師を務めることになり、すっかり一目惚れしたフランコは彼女をモノにするべく勉強そっちのけで猛アプローチを展開する。『青い体験』の影響下にあることは一目瞭然の性春コメディ。権力者の不正が蔓延るイタリア社会の悪しき風習をさりげなく皮肉っている辺りは、マカロニ・ウエスタンの名脚本家ティト・カルピの良心と言えるかもしれないが、しかしデート・レイプや人身売買を笑いのネタにしたり、同性愛に関する描写が偏見まみれだったり、やっぱり最後は男が女を強引に押し倒すことで結ばれてハッピーエンドだったりと、内容的に性差別的な傾向が顕著な作品でもある。 そして、今回放送されるのが2作目『青い経験 エロチカ大学』と3作目『青い経験 誘惑の家庭教師』。いずれもストーリー的には完全に独立しており、キャストの顔ぶれ自体は続投組が多いものの、しかし登場人物も設定も作品ごとに全く違うため、1作目を見ていなくても問題はないし、そればかりか見る順番すら気にする必要はないだろう。 邦題の通り大学キャンパスが主な舞台となる『青い経験 エロチカ大学』。謎の過激派グループから誘拐を予告された大富豪リカルド(レンツォ・モンタニャーニ)は、秘書ペッピーノ(リノ・バンフィ)の助言で貧乏人に化けて家族ともども下町へと引っ越すのだが、しかし大学生の息子カルロ(レオ・コロンナ)はそんなことお構いなしで、性欲を持て余した悪友たちとエッチなイタズラに勤しんでいる。そんな彼は学長の姪っ子である新任の美人英語教師モニカ(エドウィジュ・フェネシュ)に一目惚れするのだが、父親リカルドも町で偶然知り合った彼女に夢中となり、強引に理由を作ってモニカに英語の個人教授を依頼。すっかり2人が出来ているものと早合点したカルロは、なんとかしてモニカを自分のものにしようと大奮闘する。 ‘70年代のイタリアといえば、過激派テロ・グループ「赤い旅団」による政治家や富裕層を狙った誘拐事件が多発して社会問題となったわけだが、本作ではそんな危うい世相を背景に取り込んで金持ちの独善的な身勝手を揶揄しつつ、美人教師のお色気に理性を失って右往左往する男どもの愚かさを笑い飛ばす。モニカが英単語を学生たちに復唱させながら服を脱いでいくという、カルロが妄想する英単語ストリップ・シーンなどは捧腹絶倒のバカバカしさ(笑)。なんとも他愛ない学園セックス・コメディに仕上がっている。 続く『青い経験 誘惑の家庭教師』は、大作曲家プッチーニが生まれたトスカーナ地方の古都ルッカが舞台。ミラノ出身の美人ピアノ教師ルイーザ(エドウィジュ・フェネシュ)は、恋人である評議員フェルディナンド(レンツォ・モンタニャーニ)の住むルッカへ引っ越してくるのだが、そんな彼女に大家の息子マルチェロ(マルコ・ゲラルディーニ)が一目惚れ。ところが、悪友オッタヴィオ(アルヴァーロ・ヴィタリ)がルイーザを売春婦と勘違いして噂を広めたところ、色めき立ったアパート管理人アメデオ(リノ・バンフィ)や大家の外科医ブッザーティ(ジャンフランコ・バッラ)など、アパートの住人であるスケベ男たちが彼女の体を狙って我先にと殺到する。 これまた老いも若きも揃って過剰な性欲に振り回される、世の男たちの滑稽さと哀しい性を笑い飛ばした作品。さらに実は既婚者であることを隠しており、なおかつ市長選への出馬で不倫スキャンダルを隠し通したいフェルディナンドとの駆け引きも加わることで、上へ下へと大騒ぎのドタバタ群像劇が繰り広げられる。暴行まがいの展開でマルチェロがルイーザをモノにするラストは少なからず問題ありだが、それも含めてイタリア式セックス・コメディらしさが詰まった映画と言えよう。 どちらの作品も、エドウィジュ・フェネシュのルネッサンス絵画を彷彿とさせるヴィーナスのような美貌と、古代ローマの彫刻も顔負けの立派なグラマラス・ボディこそが最大の見どころ。また、レンツォ・モンタニャーニにリノ・バンフィ、アルヴァーロ・ヴィタリなど、フェネシュ主演作の常連でもあったイタリア式セックス・コメディに欠かせない名優たちの、実にベタでアクの強いコメディ演技も要注目である。 その後、’79年にルチアーノ・マルティーノと離婚したフェネシュは、引き続きイタリア式セックス・コメディで活躍しつつ、ディーノ・リージやアルベルト・ソルディなど一流監督の映画にも出るようになるのだが、しかし先述したようにハードコア・ポルノの普及でイタリア式セックス・コメディが急速に衰退すると、演技力よりも美貌とヌードが売りだった彼女にとって厳しい時代が訪れる。そこで、後にフェラーリ会長やアリタリア航空会長を歴任し、当時フィアット・グループの重役だったルカ・ディ・モンテゼーモロの恋人だったフェネシュは、その強力なコネを使ってテレビ界へ転身。バラエティ番組の司会者やエンターテイナーとして活躍するようになり、おのずとヌードも封印してしまう。ティント・ブラス監督の文芸エロス映画『鍵』(’83)の主演を断ったのもこの頃だ。 ちなみに、映画会社社長ルチアーノ・マルティーノに大物実業家ルカ・ディ・モンテゼーモロと、社会的地位の高い男性パートナーの影響力に助けられてキャリアを切り拓いたフェネシュだが、これは昔のイタリア女優に共通する処世術。ソフィア・ローレン然り、シルヴァーナ・マンガーノ然り、クラウディア・カルディナーレ然り、イタリアのトップ女優たちの多くは、夫や恋人である大物プロデューサーや有名映画監督などの後ろ盾があった。「イタリアではプロデューサーの妻やガールフレンドがいい役を独占する」と不満を持ったエルサ・マルティネッリは、アメリカでブレイクしたことからハリウッドに活動の拠点を移してしまった。なにしろ、伝統的に男尊女卑の根強いイタリアでは映画界も基本的に男性社会。女優が名声を維持するためには、権力を持つ男性のサポートが必要だったのである。 閑話休題。やがて舞台女優へも進出してセックス・シンボルからの脱却を図ったフェネシュは、’90年代に入ると自らの製作会社を設立して映画やテレビドラマのプロデューサーとなり、名匠リナ・ウェルトミュラーの『Ferdinando e Carolina(フェルディナンドとカロリーナ)』(’99)やアル・パチーノ主演の『ベニスの商人』(’04)、イタリアで話題になったテレビのロマンティック・コメディ『È arrivata la felicità(幸せがやって来た)』(‘15~’18)などを手掛けている。イーライ・ロス監督のアメリカ映画『ホステル2』(’07)へのカメオ出演で久々に女優復帰も果たした。最近では巨匠プピ・アヴァティが半世紀に渡る男性2人の友情を描いた映画『La quattordicesima domenica del tempo ordinario(平凡な時代の第14日曜日)』(’23)に、ガブリエル・ラヴィア演じる主人公マルツィオの別れた妻サンドラ役で登場。若き日のサンドラの母親役をシドニー・ロームが演じているそうで、これは是非とも見てみたい。■ 『青い経験 エロチカ大学』© 1978 DEVON FILM – MEDUSA DISTRIBUZIONE『青い経験 誘惑の家庭教師』© 1979 DEVON FILM – MEDUSA DISTRIBUZIONE
-
PROGRAM/放送作品
天使と悪魔【エクステンデッド版】
ロン・ハワード監督&トム・ハンクスが再タッグ!『ダ・ヴィンチ・コード』に続く謎解きミステリー第2弾
ダン・ブラウンのベストセラー小説『ダ・ヴィンチ・コード』の続編を映画化。舞台をヴァチカンとローマに限定し、濃密なサスペンスが展開する。トム・ハンクス演じるラングドン教授の知識と頭脳が今回も冴え渡る。
-
COLUMN/コラム2024.11.05
“香港ノワール”の巨匠ジョン・ウー、ハリウッド時代の最高作!『フェイス/オフ』
ジョン・ウーは、1946年中国・広州生まれ。幼き日に家族で香港へと移り住んだ。少年時代から親しんだ映画の世界へと飛び込み、『カラテ愚連隊』で監督デビューを飾ったのは、73年のことだった。 その後様々なジャンルの作品を手掛けたが、所属する映画会社とのトラブルから、一時台湾に“島流し”状態に。そんな紆余曲折もあったが、86年に香港に戻ると、『男たちの挽歌』を監督。この作品が記録破りの大ヒットとなり、社会現象を起こした。 それまでコメディやカンフー映画が中心だった香港映画界に、ウーは、“英雄片”日本で言うところの“香港ノワール”というジャンルを確立。そして90年代初頭まで、このムーブメントをリードする存在として、ほぼ1年に1本ペースで作品を発表した。「スローモーションを駆使した二丁拳銃でのガンファイト」「メキシカン・スタンドオフ~同時に拳銃を向け合う2人の男」「画面に舞い飛ぶ白い鳩」等々。“ジョン・ウー印”と言うべき、斬新でスタイリッシュなアクション演出の評判は、狭い香港内に止まらなかった。 折しも97年の中国本土への返還を、目前に控えた頃。香港の映画人の多くは、海外マーケットを睨み、そこに活路を見出そうという志向が強くなっていた。 ウーに最初に声を掛けたハリウッドの映画人は、オリヴァー・ストーン。それは91年のことだったが、香港で撮る次回作が決まっていたので、話はまとまらなかった。 ウーのハリウッド・デビューは、93年。ジャン=クロード・ヴァンダム主演の『ハード・ターゲット』。続いて96年に、主演にジョン・トラヴォルタ、クリスチャン・スレイターを迎えた、『ブロークン・アロー』が公開されて、1億5,000万㌦の興収を上げる、大ヒットとなった。 それらに続いて、ハリウッド入り後の劇場用映画第3作となったのが、本作『フェイス/オフ』(97)である。 元々の脚本は91年に、当時大学生だった、マイク・ワーブとマイケル・コリアリーのコンビが執筆したもの。200年後の世界が舞台というSFで、激しく敵対する2人の男の顔が入れ替わって、更に戦いがエスカレートしていくという内容だった。 早々に権利は売れて、当時人気絶頂の2大筋肉スター、アーノルド・シュワルツェネッガーとシルベスター・スタローンの共演作として映画化を進める動きとなった。しかしその企画は流れ、その後も再三映画化の試みはあったものの、なかなか実現に至らなかった。 やがてこの脚本は、ウーのところに持ち込まれる。善と悪を象徴する、2人の男の顔が入れ替わるという設定には心惹かれたウーだったが、SF仕立てであることに気が乗らず、一旦は断っている。 他での話もまとまらず、再びウーの元に、この企画は戻ってくる。そこでウーは、現代のアメリカ社会を舞台にした物語に、脚本をリライトしてもらうことを条件に、本作『フェイス/オフ』の監督を、引き受けることを決めたのである。 ***** FBI捜査官のショーン・アーチャーは、遊園地でテロリストのキャスター・トロイに狙撃される。銃弾はアーチャーの身体を貫通し、彼が抱いていた、幼い息子の命を奪った。 それから6年。アーチャーはキャスターを追い続け、彼が弟のポラックスと空港から逃亡を図るという情報を摑んだ。死闘の末、アーチャーはキャスターを取り押さえる。 その際に植物状態になったキャスターが、ロサンゼルスに細菌爆弾を仕掛けていたことが判明。場所を知るのはポラックスだけだが、その在処を吐こうとはしなかった。 そこで、奇想天外な作戦が発動した。昏睡するキャスターの顔を、最新技術で剥ぎ取り、アーチャーに移植。キャスターになりすましたアーチャーが刑務所に入り、先に収監されているポラックスから情報を聞き出すというものだった。ごく数人を除いて、FBIの仲間や家族にも極秘での決行だった。 アーチャーは、爆弾を仕掛けた場所を聞き出すのに成功し、任務は完了…と思いきや、驚くべき人物が面会に現れる。それは、アーチャーの顔をしたキャスターだった。 植物状態から目覚めた彼は、配下を呼び寄せ、医者らを脅して手術をさせた上、アーチャーの任務を知る者を、すべて抹殺したのである。呆然とするアーチャーを獄に残し、キャスターはポラックスを釈放させ、自ら仕掛けた爆弾を解除。英雄となった。 自分の顔や地位、家族までも奪われてしまった…。アーチャーはキャスターへの復讐のため、刑務所内に騒乱を起こし、脱獄する。 それぞれが最も憎悪する男の顔を纏った2人。その対決の行方は!? ***** ハリウッド入り後、『フェイス/オフ』に取り掛かる前の2作、ウーは香港時代とは勝手が違う、映画会社主導による製作体制に、散々苦しめられた。『ハード・ターゲット』では、公開前のモニター試写の結果として、暴力描写や“ウー印”のスローモーションやクロスカッティングなどの多くが、カットされてしまう。更には、主演のジャン=クロード・ヴァンダムの意向が強く働き、完成版は、彼のアクション中心に編集されてしまったのだ。 ハリウッド的な作劇に於いてヒーローは、「泣いてもいけないし、もちろん死んでもいけなかった」。それまでのウー作品の登場人物とは、ほど遠いと言える。 悪に対する扱いも、「情け容赦は無用」の香港映画とは大違い。ハリウッドでは、「善と悪が鉢合わせしたとき、ヒーローの弾丸は、敵がナイフか棍棒を拾い上げるまで。当たることはない…」と、ウーは吐き捨てるように述懐している。 撮影現場で、俳優からセリフを変更したいという注文が出ても、監督には修正する自由が与えられていないのも、ありえない話だった。ウーは香港時代、俳優の要望によるものと脚本通りの2ヴァージョン撮ってみることが多かった。演じる本人の意見に従った方が良い結果が出ることを、経験として学んでいたのである。 思い通りに仕切れなかった、『ハード・ターゲット』そして『ブロークン・アロー』を経て、ウーは、ハリウッドで撮りたいものを撮ろうと思ったら、政治力が必要なことを思い知った。そしてそうした“力”を、『ブロークン・アロー』のヒットによって、遂に手にすることが出来たのである! ウーがハリウッドで、撮影現場での自由裁量権やファイナルカットの権利を得て初めて臨んだのが、本作『フェイス/オフ』だった。先に挙げた、俳優からのセリフ変更の要望などにも即応できるよう、脚本家も現場に帯同。提案があると、すぐに書き換えに応じてもらえる態勢を取ったという。 “善”と“悪”、激しく敵対する、『フェイス/オフ』の2人の主役。キャスティングされたのは、ジョン・トラヴォルタとニコラス・ケイジ。 FBI捜査官ショーン・アーチャー役のトラヴォルタは、ウーの前作『ブロークン・アロー』に続いての主演となった。トラヴォルタは20代前半に、『サタデーナイト・フィーバー』(77)『グリース』(78)という、当時のメガヒット作に連続主演。時代の寵児となりながらも、その後長く低迷した過去がある。 彼が復活を遂げたのは、クエンティン・タランティーノ監督の『パルプ・フィクション』(94)。それをきっかけに、40代で第2の全盛期に突入していた。そんなトラヴォルタにジョン・ウーを引き合わせたのも、タランティーノだった。 タランティーノにとってジョン・ウーは、「ものすごいヒーロー」であり、ウーが手掛けた“香港ノワール”に関しては、「セルジオ・レオーネ以来最高のもの」と称賛を惜しまなかった。タランティーノの長編初監督作『レザボア・ドッグス』(92)で、ギャングたちが揃いの黒スーツで現れるのは、ウーの『男たちの挽歌』の影響と言われる。 そんなタランティーノが、ウーとトラヴォルタ双方に、それぞれの凄さを吹聴。更に試写室でフィルムを見せるなどして、2人の間を取り持ったのである。 ウーは自作2本で主演を務めたトラヴォルタのことを、「謙虚で控えめだが自信に満ちている」と称賛。彼こそ「本物の男だ」と言い切っている。 テロリストのキャスター・トロイに、ニコラス・ケイジが選ばれたのは、トラヴォルタの希望もあってのこと。当時のケイジは、30代前半。『リービング・ラスベガス』(95)でアカデミー主演男優賞を受賞後、『ザ・ロック』(96)『コン・エアー』(97)とアクション大作への主演が続き、ノリにノッていた。 ケイジは元々、ウー作品の大ファン。香港時代の作品もしっかりチェックしていた。冒頭でアーチャーを狙撃するトロイに口ひげがあるのは、ウー監督“香港ノアール”の1本、『狼 男たちの挽歌・最終章』(89)のチョウ・ユンファを意識してのことだったという。 アーチャーの妻イヴ役には、金髪でノーブルなイメージのあるジョアン・アレン。FBI捜査官の夫を支えながらも、顔が入れ替わったキャスターとも、その正体を知らずに、“夫婦”として関係してしまうという役どころである。 映画会社は、もっと若くてキレイな女優をキャスティングしようとした。しかしウーは、オリヴァー・ストーン監督の『ニクソン』(96)で大統領の妻を演じたアレンを観て、彼女に決めた。イヴ役には、抑制された演技が必要だと思っていたからである。 ウーはクランク・イン前に、トラヴォルタ、ケイジと、入念にコミュニケーション。“善”の象徴であるショーン・アーチャー、“悪”の権化であるキャスター・トロイ、それぞれのキャラを表現するために、シンボリックなポーズや振舞いを決めた。 例を挙げれば、ケイジ特有のブラつくような歩き方や口調を緩めてはっきりと発音する話し方を、キャスターの特徴に採用。トラヴォルタは顔が入れ替わった後の演技のために、これらをマスターしなければならなかった。 冒頭トラヴォルタ演じるアーチャーは、愛する人の顔を優しく撫でる仕草を見せる。これが伏線となって、物語の後半イヴは、我が子の命を奪った憎きキャスターの顔を持つ男が、実は自分の夫であることに気付くのである。 トラヴォルタとケイジが別々に登場するシーンは、撮影した日の内に編集。翌日には相手の演技をチェックできるようにした。アーチャーの息子が殺されるシーンを見たケイジは、すぐにトラヴォルタに電話を入れて、こう言ったという。「ジョン、挑戦は受けたぜ。君のシーンを見て泣けたよ。感謝している。この映画の演技のレベルを君が決めてくれたんだから」 手術を受けてキャスターの顔になったアーチャーは、鏡に写った己の顔を激情の余り叩き割ってしまう。このシーンでケイジは、ウーが思わず涙を流すほど、迫真の演技を見せた。 ジョアン・アレンは、トラヴォルタとケイジが、互いの身体の位置や身振り、声のリズムからパターンまで、完コピし合うのを、間近で目撃。そのクオリティの高さに、舌を巻いたという。 ウーの作品世界にぴったりハマった、トラヴォルタとケイジ。こうしたキャストの力も借りて、仰々しいまでのアクション演出に、家族愛や仁義の世界を塗して放つ、香港時代のウーが完全に帰ってきた。 ・『フェイス/オフ』撮影中のジョン・ウー監督(左)とニコラス・ケイジ。 2時間18分の上映時間の中で、度々壮絶なアクションが繰り広げられる本作だが、そんな中でも印象深いのが、キャスターの顔をしたアーチャーが、脱獄後に潜伏先で、アーチャーの顔のキャスターと対決するシーン。マフィアとFBIを交えた大銃撃戦が展開されるのだが、アーチャーはその場に居合わせた幼い子どもを恐怖から守るために、ヘッドフォンを掛けさせて、名曲「虹の彼方に」を聞かせる。このメロディが、ウー印のスローモーション撮影でのガンファイトを、美しく彩るのである。 この「虹の彼方」は、オリビア・ニュートン=ジョンが歌うヴァージョンだったのだが、映画会社は、楽曲使用料の支払いを拒否。しかしウーは、自腹を切ってまで、断固としてこの曲の使用にこだわった。後に会社側も、そのこだわりの意味を認めて、ウーに楽曲使用料を支払ったという。製作費8,000万㌦であった本作が、2億5,000万㌦近い興収を上げる大ヒットとなったことを考えれば、当たり前と言えるが…。 ウーは93年から2003年まで、ハリウッドで長編劇映画6本をものした。「この10年間のハリウッドのアクション映画をみれば、ウーの影響がいかに大きいかわかる」 これは本作の後にウーを、大ヒットシリーズの第2弾『M:I-2 ミッション:インポッシブル2』(2000)の監督に招いた、トム・クルーズの言である。 ハリウッド製6本の内、ボックスオフィスのTOPを飾ったのは、『ブロークン・アロー』『フェイス/オフ』『M:I-2』の3本。中でも評価と人気が高いのが、本作『フェイス/オフ』である。 ニコラス・ケイジの近作に、自身のキャリアをパロディにしたコメディアクション作品『マッシブ・タレント』(22)があるが、その中で『フェイス/オフ』をネタにした場面も登場する。ケイジも本作が、大のお気に入りというわけだ。 5年ほど前からは、『ゴジラvsコング』(2021)などのアダム・ウィンガード監督によって、続編の企画が進められている。巷間伝わってくる話によると、アーチャーとキャスター、宿敵同士の2人だけの物語ではなく、それぞれの成長した子どもたちを交えた、4人の物語になるという。 昨年=2023年に起きた、「WGA=全米脚本家組合」のストライキの影響もあって、現在は製作に遅れが出ている状態だというが、果して!?ジョン・ウーが監督するわけではないことも含めて、本作のファンとしては、観たいような観たくないような…。■ 『フェイス/オフ』© 1997 Touchstone Pictures. All rights reserved.
-
PROGRAM/放送作品
(吹)ラッシュアワー2
ジャッキーとクリス・タッカーがコンビ再結成。今度の悪役は超強敵のチャン・ツィイー!
カンフーの達人ジャッキー・チェンとマシンガン・トークの達人クリス・タッカーが、前作からパワーアップして3年ぶりにコンビを結成。彼らを狙う殺し屋にチャン・ツィイーの妖しく美しい悪役ぶりも見どころ。
-
COLUMN/コラム2024.11.01
バンパイア映画に変革を起こした’80年代ティーン向けホラー・コメディ映画の快作!『ロストボーイ』
スラッシャー映画ブームの真っ只中に登場したバンパイア映画復活の起爆剤 レーガン政権の打ち出した経済政策「レーガノミックス」による景気回復、MTVブームを筆頭とするユース・カルチャーの盛り上がり、さらには大型シネコンを併設したショッピングモールの急速な普及などを背景に、購買力があってトレンドに敏感な10代の若年層をメインターゲットに定めた’80年代のハリウッド映画。おのずとティーン受けを意識したような作品が増えたわけだが、その中でも特に人気があったのは青春映画とSFファンタジー映画、そしてホラー映画である。 ただし、当時のホラー映画で主流だったのはジェイソンやフレディ、マイケル・マイヤーズのような連続殺人鬼が、セックスとドラッグとパーティに明け暮れる今どきの若者たちを次々と殺しまくるスラッシャー映画。別名でボディカウント映画とも呼ばれたそれらの作品は、文字通り死体の数と血みどろゴア描写、さらには適度なエロスが主なセールスポイントで、それゆえ批評家からは「低俗」だの「悪趣味」だのと非難されたわけだが、しかし刺激的な娯楽を求めるティーンたちからは大喝采を受けた。『ハロウィン』(’78)の成功を経て『13日の金曜日』(’80)で火が付いたとされる’80年代のスラッシャー映画ブーム。その一方で、すっかり活躍の場を奪われたのは吸血鬼やフランケンシュタインの怪物、ミイラ男といった古典的なホラー・モンスターたちだ。 唯一の例外は狼男(人狼)であろう。特殊メイクの技術が飛躍的に進化したおかげで、人間から人狼への変身シーンをリアルに描くことが出来るようになったこともあり、『狼男アメリカン』(’81)や『ハウリング』(’82)など、いわば新感覚の人狼映画がちょっとしたブームに。古式ゆかしいゴシック・ムードを極力排し、コンテンポラリーなモダン・ホラーに徹したのも良かったのだろう。それに対し、依然としてクラシカルなイメージが強い吸血鬼やフランケンシュタインの怪物などのモンスターたちは、トニー・スコット監督の『ハンガー』(’83)やフランク・ロッダム監督の『ブライド』(’85)のようなアート映画に登場することはあっても、メインストリームのハリウッド映画からは殆んど姿を消してしまう。 そうした中、ハリウッドにおけるバンパイア映画衰退の風向きを変えたのが、古き良きバンパイア映画へのオマージュを青春コメディとして仕立てた『フライトナイト』(’85)。これが思いがけないサプライズヒットとなったことから、『ワンス・ビトゥン 恋のチューチューバンパイア』(’85)や『ヴァンプ』(’86)などのティーン向けB級バンパイア映画が相次いで登場する。にわかに盛り上がり始めたバンパイア映画の復活。いわばその起爆剤となったのが、850万ドルの低予算に対して全米興行収入3200万ドル超えのスマッシュヒットを記録した『ロストボーイ』(’87)である。 新しく住み始めた町はバンパイアの巣窟だった…!? 舞台はカリフォルニアの架空の町サンタカーラ(ロケ地はリゾートタウンとして有名なサンタクルーズ)。美しい砂浜や遊園地などの賑やかな行楽スポットに恵まれ、地元住民だけでなく大勢の観光客でごった返すサンタカーラだが、しかしなぜかティーンエージャーの行方不明事件も多く発生しており、巷では「殺人の名所」などと呼ばれている。そんな曰く付きの町へアリゾナから引っ越してきたのがエマーソン親子。紆余曲折の末に夫と離婚した母親ルーシー(ダイアン・ウィースト)は、18歳の長男マイケル(ジェイソン・パトリック)とヤンチャ盛りの次男サム(コリー・ハイム)を連れ、変わり者の祖父(バーナード・ヒューズ)がひとりで暮らす実家へと戻って来たのだ。 町で人気のビデオレンタル店で働き口を見つけ、紳士的でおっとりとした独身の店主マックス(エドワード・ハーマン)とお互いに惹かれ合うルーシー。その頃、弟サムを連れてビーチのロック・コンサートへ行ったマイケルは、そこで見かけたセクシーな美少女スター(ジェイミー・ガーツ)に一目惚れするのだが、しかし彼女はカリスマ的な不良デヴィッド(キーファー・サザーランド)をリーダーとするバイカー集団「ロストボーイズ」の一員だった。なんとか彼女に近づくため、デヴィッドとのバイクレース勝負に挑んだマイケル。その根性を気に入ったデヴィッドらは、隠れ家にしている海岸の洞窟へとマイケルを招き入れ、仲間の証として怪しげな赤い酒を飲むよう勧める。血相を変えて止めようとするスター。しかし、不良どもに舐められたくないマイケルはそれをグイッと飲んでしまう。 一方、大のアメコミ・マニアであるサムは、商店街のコミックショップで店番をしている同年代のエドガー(コリー・フェルドマン)とアラン(ジェイミソン・ニューランダー)のフロッグ兄弟と知り合う。ホラーが大の苦手という臆病なサムに、しきりにバンパイア本を勧めて来るフロッグ兄弟。曰く、この町で暮らすのに必要なサバイバル・マニュアルで、裏には緊急時の連絡先も記されているという。訳が分からず唖然とするサムだったが、しかしロストボーイズとつるむようになってから兄マイケルの様子がおかしい。昼夜の逆転したような生活を送るようになり、昼間は日光を嫌ってサングラスをかけている。ある晩、遂に愛犬ナヌークがマイケルに襲いかかり、サムは鏡に映った兄の姿を見て愕然とする。なんと、半透明だったのだ。 鏡に映らないのはバンパイアの証拠である。ロストボーイズの正体は血に飢えたバンパイア軍団で、地元で多発する行方不明事件も彼らの仕業。バンパイアの血を飲んだ者もまたバンパイアになってしまうのだが、マイケルが洞窟で飲まされた怪しげな赤い酒はデヴィッドの血だったのだ。しかし半透明ということは、まだ完全にバンパイアになりきったわけじゃない。いわば半バンパイアである。バンパイア本によれば、親バンパイアを殺せば半バンパイアは助かるらしい。そこで、サムはフロッグ兄弟の協力のもと、兄マイケルを救うため親バンパイアを倒そうとするのだが…? 当初の企画ではファミリー向けのキッズ・ムービーだった! 劇場公開時の映画ファンにとって斬新だったのは、バンパイアがロン毛にレザーコートを羽織った、ロックバンド風のクールな若いイケメン集団(+グルーピー風美女)であること。なにしろ、それまでの映画に出てくるバンパイアって、基本的にはドラキュラ伯爵的な紳士のイメージが強かったですからな。バンパイアが本性を現すとノスフェラトゥ型モンスターに変身するというのは『フライトナイト』と一緒だが、しかし役者のもとの顔を活かした「やり過ぎない特殊メイク」は、バンパイアの人間としての側面を見る者に意識させて秀逸。物語にある種のリアリズムを与えたと言えよう。 さらに、BGMにはINXSやフォーリナーのルー・グラム、エコー&ザ・バニーメンなどトップ・アーティストによる流行りのロックサウンドが満載。なおかつ、お洒落でスタイリッシュなビジュアルはまさしくMTV風である。そのうえ、アクションにユーモアにスプラッターも満載の賑々しさ。当時のティーンたちが熱狂したのも当然と言えば当然である。本作が後の『バッフィ/ザ・バンパイア・キラー』(’92)やそのテレビ版『バフィー~恋する十字架』(‘97~’03)、『フロム・ダスク・ティル・ドーン』(’96)に『ヴァンパイア/最後の聖戦』(’98)など、様々なバンパイア映画に少なからぬ影響を与えたことは明白。それこそ、サイレントの時代から長い歴史を誇るバンパイア映画の伝統に、新たな変革を起こした作品と呼んでも差し支えないかもしれない。 監督は『依頼人』(’94)や『バットマン フォーエヴァー』(’95)、『評決のとき』(’96)などでお馴染みの名娯楽職人ジョエル・シューマカー。当時は’80年代青春映画の金字塔『セント・エルモス・ファイアー』(’85)を大ヒットさせたばかりだった。実はもともとリチャード・ドナーが監督する予定だった本作だが、しかしゴーサインが出たタイミングで既に『リーサル・ウェポン』(’87)に取り掛かっていたことから、ドナー夫人ローレン・シュラーが過去にプロデュースしたテレビ映画で組んだシューマカー監督を推薦。当時のワーナー社長マーク・キャントンから直接オファーを受けたシューマカー監督だが、しかし最初はあまり気が進まなかったという。というのも、ジャニス・フィッシャーとジェームズ・ジェレミアスの書いたオリジナル脚本はファミリー向けのキッズ・ムービーだったらしい。 オリジナル脚本の主人公たちは13歳~14歳の子供ばかり。さながらドナー監督の手掛けた『グーニーズ』(’85)のバンパイア版という感じで、小さなお子様が見ても安心の健全な内容だったという。全く興味の湧かなかったシューマカー監督は、オファーを断るためエージェントに電話をかけたのだが、生憎ちょうどランチタイムで担当者は不在。仕方ないのでジョギングに出かけたところ、走りながら頭の中に様々なアイディアが湧いてきたという。登場人物たちの年齢は変えてしまえばいい。もっとセクシーでクールで刺激的な要素を盛り込んだら全然面白くなるはず。そんな風に考えているうち、すっかりやる気が出てきたのだそうだ。 『デッドゾーン』(’83)や『インナースペース』(’87)でジャンル系映画に実績のあるジェフリー・ボームに脚本のリライトを指示したシューマカー監督は、デザインのベースとなるロストボーイズのロックスターみたいな髪型やファッションのイメージ原案も自ら手掛けたという。さすがは衣装デザイナー出身である。若者の最新トレンドに敏感だったことは、本作だけでなく『セント・エルモス・ファイアー』を見ても分かるだろう。しかも、恐怖とユーモアのバランス感覚がまた絶妙。本編を見たワーナー幹部からは「ホラーなのかコメディなのか、どちらかハッキリさせろ」と、暗に再編集を要求するようなクレームが入ったそうだが、あえて無視して従わなかったのは大正解だ。 2人のコリーを筆頭に旬の若手スターたちが勢ぞろい また、メインキャストに当時の新進若手スターをズラリと揃えたのも良かった。中でも、『ルーカスの初恋メモリー』(’86)で全米のティーン女子のハートを鷲摑みにし、えくぼのキュートなアイドル俳優として大ブレイクしたばかりのコリー・ハイムは、ヤンチャで憎めない弟キャラのサム役にドンピシャ。軽妙洒脱な芝居のなんと上手いことか。コメディアンとしてのセンスは抜群。「兄ちゃんはバンパイアだ!ママに言いつけてやる!」は抱腹絶倒必至である。そんなサムを助けてバンパイア退治に大活躍するフロッグ兄弟には、『グレムリン』(’84)に『グーニーズ』、『スタンド・バイ・ミー』(’86)などで超売れっ子だったコリー・フェルドマンと、当時まだ無名の新人だったジェイミソン・ニューランダー。ことにフェルドマンとハイムの相性は抜群で、本作をきっかけに『運転免許証』(’88)や『ドリーム・ドリーム』(’89)など数多くの映画でダブル主演。ファーストネームが同じであることから「The Two Coreys」の愛称で親しまれ、私生活でも’10年にハイムが38歳の若さで急逝するまで生涯の大親友となった。 サムの兄貴マイケル役のジェイソン・パトリックは、キアヌ・リーヴスの後継者として『スピード2』(’97)に主演したことで知られているが、当時はティーン向けSF映画『太陽の7人』(’86)に主演して注目されたばかり。エージェントの勧めでオーディション初日に参加したというパトリックだが、しかし本人はB級ホラー映画に抵抗があって出演を渋ったらしく、シューマカー監督が6週間かけて口説き落としたという。『太陽の7人』といえば、ロストボーイズの紅一点スター役のジェイミー・ガーツも同作に出演しており、キャスティングの難航していたスター役にパトリックが推薦したのだそうだ。ロストボーイズのリーダーであるデヴィッド役のキーファー・サザーランドも、確か当時は『スタンド・バイ・ミー』の不良役で注目されたばかりでしたな。その子分のひとりで黒髪のドウェインを演じているビリー・ワースは、「セブンティーン」や「GQ」などの雑誌で引っ張りだこだった人気ファッション・モデル。『ビルとテッドの大冒険』(’89)シリーズでブレイクするアレックス・ウィンターが、最初に退治される吸血鬼マルコを演じているのも要注目だ。 そのほか、前年の『ハンナとその姉妹』(’86)でアカデミー助演女優賞を獲ったばかりだったダイアン・ウィースト、『アニー』(’82)のルーズベルト大統領など歴史上の人物を演じることが多かったエドワード・ハーマン、テレビのシットコム『ブロッサム』(‘91~’95)のお祖父ちゃん役で親しまれたバーナード・ヒューズなどのベテラン名優も脇を固めているが、やはり当時旬のティーン・スターたちの起用がヒットに繋がったであろうことは想像に難くないだろう。 なお、劇場公開の直後から続編を期待する声があり、実際にシューマカー監督は主要キャストを全員女性に変えた『The Lost Girls』というタイトルの続編を企画していたそうだが実現せず。ところが、21世紀に入って待望のシリーズ第2弾『ロストボーイ:ニューブラッド』(’08)がDVDスルー作品としてお目見えする。メインキャストは若手に刷新されているが、脇にはコリー・フェルドマン演じるエドガー・フロッグが登場し、エンディングにはサム役でコリー・ハイムもカメオ出演していた。さらに、第3弾『ロストボーイ サースト 欲望』(’10)もDVDリリース。今度はエドガーとアランのフロッグ兄弟が主役で、エドガー役のフェルドマンに加えてアラン役のジェイミソン・ニューランダーも復活。サム役でコリー・ハイムも参加予定だったがスケジュールの都合で出られず、本人は4作目があれば出演したいと言っていたみたいだが、残念ながら3作目がリリースされる7カ月前に病死してしまった。■ 『ロストボーイ』© 1987 Warner Bros. Entertainment Inc. All rights reserved.
-
PROGRAM/放送作品
ベンジャミン・バトン 数奇な人生
老人の姿で生まれ、赤ん坊へと若返る…ブラッド・ピットが80年間の反転人生を歩む奇想天外な感動作
『セブン』の鬼才デヴィッド・フィンチャー監督とブラッド・ピットの3度目となるコンビ作。老人姿の幼少期から年々若返っていく様をピットが特殊メイクで演じきり、メイクアップ賞をはじめアカデミー賞3部門受賞。
-
COLUMN/コラム2024.10.07
ニューマン&レッドフォード+ジョージ・ロイ・ヒル!名トリオが放った、これぞ“ニューシネマ”!!『明日に向って撃て!』
“アメリカン・ニューシネマ“の時代。1960年代後半から70年代に掛けて、反体制的・反権力的な若者たちや数多のアウトローが、アメリカ映画のスクリーンに躍った。 そんな中で、屈指の人気キャラクターに数えられるのが、ブッチ・キャシディとサンダンス・キッド。 “ニューシネマ”第1弾の作品が、主役の犯罪者カップルの名前を取った「ボニーとクライド」という原題だったのを、『俺たちに明日はない』(67)という邦題にして、当たりを取ったのに倣ったのであろう。1969年製作の「ブッチ・キャシディとサンダンス・キッド」は、『明日に向って撃て!』というタイトルで、翌70年に日本公開となった。 ***** 1890年代のアメリカ西部。「壁の穴」強盗団のリーダーで頭が切れるブッチ・キャシディと、その相棒で名うての早撃ちサンダンス・キッドは、絶対的な信頼で結ばれていた。 ある時強盗団は、同じ列車の往路と復路を続けて襲うという大胆な計画を実行。往路は見事に成功し、2人は馴染みの娼館でくつろぐ。 サンダンスは一足早く抜け、恋人の女教師エッタ・プレイスの元へ。翌朝合流したブッチは、新時代の乗り物と喧伝される自転車をエッタと相乗りし、安らぎの一時を過ごす。 強盗団は予定通り、復路の列車強盗も敢行。しかし鉄道会社が雇った凄腕の追っ手に、仲間の何人かは射殺され、ブッチとサンダンスも、執拗な追跡を受ける。 命からがら、エッタの元に帰還。これを機に、ブッチが以前から口にしていた新天地に、3人で向かうことにする。 ニューヨークでの遊興を経て、夢に見た南米ボリビアに到着。しかしそこはまるで想像と違った、貧しい国だった。 今度はエッタの協力も得ながら、銀行強盗を重ねる。しかしこの地でも追っ手の影を感じたブッチとサンダンスは、足を洗うことに。そして、錫鉱山の給料運搬の警護を行う。 ところがその最中、山賊団が襲撃。ブッチは生まれて初めて、人を殺してしまう。 行く先に暗雲が垂れ込める中、「2人が死ぬところだけは見ない」と、かねてから言っていったエッタは、ひとりアメリカへ帰国。 ブッチとサンダンスは、再び強盗稼業に舞い戻る。しかし仕事後、ある村で休息していたところを、警官隊に包囲されてしまう。 応戦しながらも手傷を負い、追い詰められていく、ブッチとサンダンスだったが…。 ***** 脚本のウィリアム・ゴールドマンは、8年掛けて、ブッチ・キャシティとサンダンス・キッドという、実在した2人の伝説的アウトローについてリサーチ。彼らの生涯を扱った脚本を書き上げた。 軽妙なタッチで笑えるシーンも多々ありながら、そこで描かれるのは、かつてはジョン・ウェインのようなヒーローが闊歩した、西部の荒野は、今はもう存在しない。ブッチやサンダンスのような、時代遅れのアウトローたちは、ただただ滅んでいくという世界だった。 ゴールドマンが執筆時に想定していたキャストは、ブッチ・キャシディはジャック・レモン、サンダンス・キッドにはポール・ニューマン。そして実際に、ニューマンが映画化に向けて動き出すこととなる。 脚本に付いた値段は、当時としては最高値の40万㌦。ニューマンの記憶によると、当初は彼とスティーヴ・マックィーンが、この脚本料を折半して、2人の本格的な共演作として、取り組む予定だったという。 マックィーンは脚本を気に入りながらも、このプロジェクトから退いた。その理由は、ライバルであるニューマンとのクレジット順、即ち主演としてどちらの名前を先に出すかや、ブッチとサンダンスどちらの役を演じるかで軋轢があった等々、諸説あるが、はっきりとしたことは、今となってはわからない。 結局ポール・ニューマンのプロダクションが、20世紀フォックスと組んで、本作『明日に向って撃て!』の映画化を進めることとなった。 監督候補として、これまでにニューマンと組んで成果を上げた者たち、マーティン・リット、スチュアート・ローゼンバーグ、ロバート・ワイズらの名が挙がった。しかしそれぞれオファーに対して、芳しい返事はもらえなかった。 ニューマンとプロダクションを共同経営するジョン・フォアマンが推薦したのが、ジョージ・ロイ・ヒルだった。ロイ・ヒルは映画監督としては、61年にデビュー。これまでに、『マリアンの友だち』(64)『モダン・ミリー』(66)等のコメディやミュージカルを手がけ、その現代的な感覚が評価されていた。 監督に正式に決まったロイ・ヒルが、ニューマンと打合せをすると、どこか話が噛み合わない。ニューマンが自分が演じるのは、サンダンス・キッドと思い込んでいたのに対し、ロイ・ヒルは、ブッチ役こそニューマンにふさわしいと考えていたからだった。 はじめはロイ・ヒルの提案に、ニューマンは首を縦に振らなかった。ブッチ役には喜劇的要素が必要だが、自分にはその素養は無いと、考えていたのである。 それに対しロイ・ヒルは、コメディ・タッチなのは設定であって、役そのものではないと、説得。それを受けたニューマンは、脚本を読み直し、ブッチ役を演じることを受け入れた。 ニューマンの相棒の候補となったのは、マーロン・ブランドやウォーレン・ベイティ。マックィーンの名が挙がったのも、実はこの段階になってからだったという説もある。 ロイ・ヒルは、ブランドやマックィーンのような、わがままなトラブルメーカーと組むのはまっぴら御免だった。そんな彼が強く推したのが、ロバート・レッドフォード。 その頃のレッドフォードは、30代はじめ。主演作こそあったが、大きなヒットはなく、ブランドやベイティ、マックィーンとは比べるべくもない。まだスターとは呼べない、ただの二枚目俳優だった。 ロイ・ヒルは、過去作のオーディションでレッドフォードと邂逅。その後も彼が舞台に立つ姿を見て、印象が良かったのである。 このオファーに関して、ロイ・ヒルとレッドフォードは、改めて面会。その時の印象についてレッドフォードは、「どっちもドス黒いアイリッシュの血を引いていて、お互いに腹の中が読めた」と語っている ニューマンはレッドフォードにまだ会ったことがなく、特に彼を推す理由もなかった。一方で、最初にサンダンス役にレッドフォードをと言い出したのは、妻のジョアン・ウッドワードだったなどとも、後年言っている。 この辺も何が真実だか、曖昧模糊とした話だが、とにかくロイ・ヒルは、レッドフォードにこだわった。20世紀フォックスの製作部長だったリチャード・ザナックから、レッドフォードを起用するぐらいならば、「この企画を流す」と宣告までされたが、最終的にはニューマンや脚本のゴールドマンまで味方につけて、粘り勝ちを収めた。 レッドフォードは、ロイ・ヒルを信じて、しばらくの間は他の仕事を入れずに待っていた。そして、生涯の当たり役を摑むことになった。 エッタ・プレイス役には、ジャクリーン・ビセットやナタリー・ウッドも候補に挙がったが、『卒業』(67)で注目の存在となっていた、キャサリン・ロスが決まる。その後目覚ましい活躍をしたとは言い難いロスだが、『卒業』『明日に向って撃て!』という、“アメリカン・ニューシネマ”初期の代表的な2本で、忘れがたいヒロインを演じた女優として、日本でも長く人気を集めた。 因みにニューマンは、エッタの存在については、「たいして重要ではない」と発言したことがある。彼曰く本作は、「これはじつは、二人の男の恋愛を描いたもの」だからである。 しかしそこが強調されてしまうと、当時はまだまだ観客の耐性がなく、居心地の悪い思いをさせてしまうことになる。そこでロイ・ヒルは、ブッチ、サンダンス、エッタの3者を、三角関係のように描くことにした。本作の中で最もロマンティックなのが、サンダンスの恋人であるエッタとブッチの自転車二人乗りのシーンであるのは、実はこうした流れに沿ってのことと思われる。 本作は、メキシコ、ユタ、コロラド、ニュー・メキシコでロケを行った後、ロサンゼルスのスタジオで撮影が続いた。その間にはっきりとしたのは、12歳の差がある、ニューマンとレッドフォードの、共通点と相違点。 共にアウトドア派で、政治的にはリベラル。そして、ハリウッドの金儲け主義を嫌悪していた。 メキシコロケの際は、現地の水で体調を崩したくないというのを表向きの理由にして、2人ともビールなどアルコール類しか口にしなかった。そんなこともあってか、打ち解けるのが早かったという。 一方で、演技のスタイルは正反対。ロイ・ヒル曰く、「ニューマンは撮影する場面を徹底的に、頭の中で分析する。その間、レッドフォードはただそこに立って、しかめっ面をしている…」 レッドフォードは、リハーサルをすると、無理のない自然さが失われてしまうと考えていた。しかし本作に関しては、「ニューマンがやりたがっていたから」という理由で、リハーサルに臨んだ。 アクターズ・スタジオなどで学んだ、メソッド俳優であるニューマンは、準備が出来ていても、とことん話し合って、納得がいくまでは撮影に入るのを嫌がった。それに対しレッドフォードは、必要もないのにグズグズしているのを見ると、イライラ。 現場では折々、ニューマンとレッドフォードの意見の衝突が起こった。2人ともエキサイトはすれども、決して険悪にはならず、ロイ・ヒルはそれを、スポーツ観戦のように楽しんだという。 ニューマンとロイ・ヒルは、時間にはうるさい人間だった。それに対して、レッドフォードは遅刻魔。ニューマンは、レッドフォードの利き腕が左手なのに引っ掛けて、本作のタイトルを、『レフティ(左利き)を待ちながら』に変えたいと思ったほどだと、ジョークを飛ばしている。そしてわざわざ、「約束の時間を守るのが礼儀の基本」という格言を縫い込んだレースを、レッドフォードにプレゼントしている。 ニューマンは、本作及びブッチとサンダンスのキャラクターについて後年、「嬉しい想い出。二人とも映画の中でいつまでも活躍してほしい好漢だった」と語っている。そんなことからもわかるように、笑い声が絶えない撮影現場だったという。 撮影初日に、ニューマンはレッドフォードに、こんな風に声を掛けた。「四千万ドルの興収を上げる映画に初めて出演する気分はどうだい?」 レッドフォードは内心、「自信過剰だ」と思ったというが、本作が69年9月に公開されると、ヴィンセント・キャンビー、ポーリン・ケイル、ロジャー・エバートといった、著名な映画評論家たちにディスられながらも、爆発的な大ヒットとなった。興収は4,000万㌦どころではなく、1億200万㌦まで伸びた。 アカデミー賞では、作品賞、監督賞など7部門にノミネート。その内、脚本、主題歌、音楽、撮影の4部門で受賞となった。 その直後から、ニューマンとレッドフォード、再びの顔合わせを望む声は、引きも切らなかった。71年にはニューヨーク市警に蔓延する汚職を告発した刑事の実話の映画化『セルピコ』で、レッドフォードが主役の刑事役、ニューマンが同僚の警官役で再共演という話が持ち上がった。 こちらの話は流れて、73年にシドニー・ルメット監督、アル・パチーノ主演で実現したが、その同じ年にニューマン&レッドフォードに加えて、ジョージ・ロイ・ヒル監督というトリオが、復活!その作品、1930年代を舞台に、詐欺師たちの復讐劇を描いたクライム・コメディ『スティング』は、『明日に向って撃て!』を超える大ヒットとなった上、アカデミー賞でも10部門にノミネート。作品賞、監督賞など7部門を獲得する、大勝利を収めた。 その後も度々、ニューマン&レッドフォード&ロイ・ヒルのトリオ、或いはニューマン&レッドフォードのコンビによる作品製作が模索されたが、ロイ・ヒルが2002年に80歳で亡くなり、ニューマンも07年に83歳で逝去したため、遂に実現には至らなかった。 80代を迎えたレッドフォードも18年に、『さらば愛しきアウトロー』を最後の出演作に、俳優業を引退。 いま改めて振り返れば、本作『明日に向って撃て!』で、60年代アメリカ映画を代表する二枚目俳優、ポール・ニューマンの薫陶を受け、レッドフォードは、一挙にスターダムにのし上がった。その後70年代ハリウッドを代表する大スターへと成長していったのは、多くの方がご存じの通りである。 彼はサンダンス・キッド役のギャラで、ユタ州のコロラド山中に土地を購入して、サンダンスと命名。その地に「サンダンス・インスティチュート」を設立して、若手映画人の育成を目的とする、「サンダンス映画祭」の生みの親となった。 そうした事々を考えると、『明日に向って撃て!』は、“アメリカン・ニューシネマ”の名作という位置付け以上に、映画史に残した影響が、非常に大きな作品なのである。■ 『明日に向って撃て!』© 1969 Twentieth Century Fox Film Corporation and Campanile Productions, Inc. Renewed 1997 Twentieth Century Fox Film Corporation and Columbia Pictures Industries, Inc. All rights reserved.