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COLUMN/コラム2014.07.14
【未DVD化】スリットから覗くダナウェイの太股と、70年代ディスコサウンドが刺激的な、『目』がテーマのサイコスリラー『アイズ』
映画製作の裏側が映画みたいに面白いことはよくある。『アイズ』(78)も然り。まず、原案はジョン・カーペンターが『ダーク・スター』(74)で長編監督デビュー直後に、バーブラ・ストライサンドのために書いたもの。まだ、"モダンホラーの旗手"という形容詞が付く前のカーペンターが自分から映画会社に売り込んだストーリーに目を付けたのは、当時、バーブラ主演の『スター誕生』(76)を大ヒットさせて俄然若手プロデューサーとして勢いを増していたジョン・ピータース。映画界に進出する前(と言うか元は子役出身)、人気ヘアドレッサーとして数多くのセリブと親交があったピータースは、 L.A.のロデオ・ドライブに構えていたヘアサロンの上顧客だったバーブラとは恋人関係にあり、脚本と主演女優を同時にゲット、したかに見えた。。。 ところが、ピータースはやる気満々のバーブラを説き伏せ、フェイ・ダナウェイを主役に据えてしまう。確かに、自らに備わった予知能力に苦しむセクシーな女性フォトグラファー役は、『俺たちに明日はない』(67)で衝撃のメジャーデビューを飾って以来、演技派女優としてばかりか、ファッション・アイコンとしても認知されていたダナウェイの方が、断然適役。少なくてもワーストドレッサーの常連だったバーブラより。こうして、バーブラは映画の主題歌"Prisoner"(冒頭のタイトルバックとエンディングに流れる)のみを歌い、出演はナシ。結果、『アイズ』は彼女が主題歌を担当した映画の中で、唯一出演しなかった作品として映画史に名を刻むことになる。それはそれで凄いことなのだが。 さて、舞台裏はこれくらいにして、映画の中身に移ろう。物語は、マンハッタンの高級アパートに暮らすローラ・マース(ダナウェイ)が、深夜、突如殺人シーンの幻影に脅えまくるシーンから始まる。彼女が見てしまうのは、殺人者の視点で展開する犯行までのプロセスとその瞬間だ。そして、殺される相手はローラの写真集を担当した女性編集者ではないか!?ローラはおぞましい光景に視界を遮られつつも、何とか編集者の家に電話をかけるが、時すでに遅し。なぜ、ローラはそんな悪夢に苦しめられなければならないのか?犯人の正体は?殺人の動機は?一気に浮かぶ疑問を引き摺りつつ、さらに第2、第3の殺人がローラの視界に写し出されていく。 最大の見せ場は、映画が始まっておよそ20分後に訪れる。ローラがニューヨークのコロンバス・サークルに停車したトレーラーを訪れ、ヘアメイクに余念がないモデルたちと軽く挨拶を交わした後、やがてシューティングにGOサインを出すと、衝突し、炎上する車をバックに下着&毛皮のモデルたちがポージングを開始。すると、地面すれすれにしゃがみ込み、指示を出すローラの美しい太股がスカートの深いスリットを割って露わになる。フェイ・ダナウェイの脚線美がモノを言う瞬間だ。何しろ、彼女が穿いているスカートはしゃがむと左右の太股が自然に外に飛び出す2本スリット。カメラマン仕様とも言えるこのスカートに始まり、劇中でダナウェイが着る服全般を担当しているのは、『アメリカン・ジゴロ』(80)でローレン・ハットンの服を受け持った衣装デザイナーのBernadene C.Man。彼女の服選びが余程気に入ったのか、ダナウェイは後に『愛と憎しみの伝説』(81)でも再起用している。 ファッションだけではない。ローラが渾身のシャッターを切るフォトスタジオで気分を盛り上げるのは、K.C.&サンシャインバンドの"シェイク・ユア・ブーティ"や、マイケル・ゼーガー・バンドの"レッツ・オール・チャント(チャンタでいこう)"等の70年代ディスコ・サウンド。あの時代に毎週末イケイケだった世代は勿論、今、ファレル・ウィリアムズが巧みにスコアに織り込んでいるディスコテイストが分かる人にも、この映画のBGMはお薦めだ。 ダナウェイを囲む配役も70年代世代には堪らない顔ぶれ。ローラの運転手で犯罪歴があるトミーを演じるのは、『エクソシスト』(73)等の脇役を経て『カッコーの巣の上で』(75)でオスカー候補になったブラッド・ダリフ。『アイズ』では『カッコー~』で演じた繊細な精神病患者のイメージを踏襲したエキセントリックなキャラクターを好演し、推理好きの興味を惹きつける。また、ローラのマネージャー、ドナルド役は70年代から現在に至るまで第一線で活躍し続ける名バイブレーヤーのルネ・オーベルジョノワ。『スタスキー&ハッチ』(78)や『ザ・ホワイト・ハウス』(99~)等で海外ドラマファンにとってはお馴染みの顔だ。今は亡き名優、ロイド・ブリッジスとルックスがそっくりで、劇中で顔真似する場面があるのでお見逃しなく。 しかし、何と言ってもビックリなのは、事件の担当刑事、ネビルに扮して颯爽と登場するトミー・リー・ジョーンズではないだろうか!?横一線で繋がった濃い眉毛こそ今と同じだが、ロングヘアに筋肉質のボディでローラに接近し、いつしかベッドインしてしまうイケメン刑事ぶりは、今、主にCMで彼を見ている若い視聴者には意外に映るはず。断っておくけれど、1970年代のトミー・リーはれっきとしたセックスシンボルだったのだ!! カーペンターのオリジナル版をリライトした脚本は、特に、ラストで真犯人が告白するアイデンティティーと殺人の動機に関して大幅に変更されたとか。それは、観客が第1の殺人を受けて抱く疑問に答えるものだが、恐らく、事前に予知できる人は少ないと思う。もう1つの、なぜ、ローラに予知能力が備わったかという疑問は、結局、最後まで謎のまま。『アイズ』というタイトルが示すように、殺人をテーマに衝撃的な写真を撮り続けるローラの目が、同時に、本物の殺人まで垣間見てしまうという皮肉なギミック。それが、もしかしてこのサイコスリラーの隠れたテーマなのだと深読みできなくもない。 『アイズ』は推理そのものより、むしろ、音楽とファッション、そして、1970年代後半のハリウッドで最も光り輝いていた女優の1人であるフェイ・ダナウェイの、最後の美貌(その後、諸々の整形手術で別人に変貌)を楽しむべき作品。そして、世紀のディーバ、バーブラ・ストライサイドの歌声(2000年にライブ活動から引退)を堪能すべき、未DVDリリース作品の中でもレアな1本。因みに、当時、ショービズ界で最も扱いづらい女2人を手玉に取ったと業界中を驚嘆させたジョン・ピータースは、そんな2人を尻目に、その後、『レインマン』(88)、『バットマン』(89)、『マン・オブ・スティール』(13)とメガヒットを連発。ロデオ・ドライブのヘアドレッサーは、今や押しも押されぬヒットメーカーとして映画界に君臨している。■ © 1978 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2014.07.06
『13日の金曜日』シリーズ〜物質主義の権化、ジェイソンがまかり通る!
混迷のアメリカが、せめて物に執着することで、心に余裕と平穏を欲したのかもしれない。そんな1980年にスラッシャー映画の金字塔『13日の金曜日』が劇場公開された。その1作目は、ジョン・カーペンター監督の低予算のホラー映画『ハロウィン』(78)が製作費の数十倍もの興収を記録するほどの大ヒットによって、各社がホラー映画の企画を考えはじめる。厄介なスター俳優は不要で、恐怖と緊迫感こそが作品の命だと考えたショーン・S・カニンガムらは、70年代の殺人鬼ホラー映画……『呪われたジェシカ』(71)、『恐怖のメロディ』(71)、『悪魔のいけにえ』(74)、『ハロウィン』等を研究・解析し、イエス・キリストが磔にされた忌わしき“13日の金曜日”を題名にした映画を作り、大ヒットさせた。 クリスタル・レイクのキャンプ場で若者たちが次々惨殺されてゆく様を、いろいろな凶器を用いて、趣向を凝らした殺戮シーンとショック描写を展開して観客のド肝を抜いた。ただし犯人像には、70年代サイコ・キラーの残像を見ることができるし、特殊メイクを手がけたトム・サヴィーニが『ゾンビ』(78)でベトナム戦争での体験を生かした凄惨な残酷描写をクリエイトした実績があったことから、本作でも彼の才能はより洗練された形で表現されていた。でも少なからず、まだ70年代の陰はひきずっていた。サヴィーニは、現実味が伴った殺人シーンにより、80年代の特殊メイク映画ブームの一翼を担うことになる。 ホラー映画ファンなら御存知のように、1作目では、クリスタル・レイクのキャンプ場で不慮の事故で亡くなった醜い少年ジェイソンが回想シーンのみに登場する。まだ殺人鬼ジェイソンは存在しないのだ。その代わりに息子ジェイソンを溺愛していた母ヴォーヒーズ夫人が暗躍! 劇中のテーマ曲ともいえるような“キッキッキッ、マッマッマッ”と聞こえる効果音みたいな囁き声は、死んだジェイソンが“KILL MAM(殺して、ママ)”と母にお願いしている声をシンボリック化したもの。ちなみに殺される青年役で、無名時代のケヴィン・ベーコンが出演していた。 そして『~PART2』(81)でようやくジェイソンが登場するが、被っているのはホッケーマスクではなく、『エレファント・マン』(80)のように目出し穴が一つだけ開いた布袋だった。妙に人間臭い動作をし、森の奥にある家で密かに生きながらえ、ミイラ化した母の頭を隠し持ち、復讐のために殺戮していく。 『~PART3』(82)で、ようやくホッケーマスクをつけたジェイソンが現れ、ひたすら若者たちを殺しまくるキリング・マシーンというイメージが定着してくる。当時は3D映画として公開され、その立体感は当時作られた3D映画の中でも群を抜いていた。意味もなく画面手前に飛び出すショットが多いため、2Dで観ると、馬鹿っぽい映像がたくさんあって、これまた楽しい。 そして4作目の『~完結篇』(84)は前作の結末から始まり、前半ではジェイソンが様々な凶器で繰り広げるパワフルな殺戮テクニックが見もの(ジェイソンが走る姿が見られるのは本作まで!)。監督は『ローズマリー』(81)のジョゼフ・ジトーで、その映画で組んだサヴィーニが再び『13金』の特殊メイクに返り咲き、存分な手腕を発揮してシリーズ最高の見せ場をクリエイト。トミー少年(コリー・フェルドマン※子役時代は『グーニーズ』『スタンド・バイ・ミー』『ロストボーイ』等に出演)の意味深なラストが光っています。また脇役で出た個性派俳優クリスピン・グローヴァーにも注目(翌年の『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で存在感を発揮していた)。 1~4作目までで一区切りで、『新~』(85)は成長したトミー少年の新機軸の物語。ジェイソン復活の妄想に悩まされるトミー少年は精神病院に入院していて、彼の周囲にホッケーマスクの殺人鬼が現れる……。スプラッタ色の強い、サイコ・ホラーとしての味わいもある。 6作目『~PART6/ジェイソンは生きていた!』(86)では、ジェイソン復活の妄想に苦しむトミーが、フォレスト・グリーンに名称を変えたクリスタル・レイクへ行き、ジェイソンの墓を掘り起して死体を灰にしようとする。ジェイソンに墓があること自体が驚きだし、そこに雷が落ちて高圧電流によって復活する様は、まるで“フランケンの怪物”ではないか! 実はこのあたりから、『13金』シリーズが、独特の物質主義で構成されるホラーだと感じるようになってきた。1、2作目では母親との歪んだ愛情関係がジェイソンの重要な構成要素になっていたが、それは徐々に希薄になり、4~6作目では完全にボディ・カウントする怪物に変貌した。ジェイソンは殺戮するための“マシーン=モノ”になって、あれこれ趣向を凝らした殺戮法を披露するとはいえ、人間たちを次々と殺し、異形の物質主義者のように“死体=モノ”を量産してゆく。不死身の肉体を持ったモノが、人間の肉体を損壊してモノに変えてゆくカタルシスは、ある意味フェティッシュであり、それまでのスラッシャー映画にはなかった感覚であった。まさにモノがモノを量産するという、80年代の物質主義と奇妙なリンクを果たしたような稀有なシリーズだと思う。 そして『~PART7/新しい恐怖』(88)では、湖に沈められたジェイソンが復活する理由が痛快(正直いい意味で笑えます)。マッチョな怪物ジェイソンと超能力少女との対決に思わずワクワクしたのは、完璧な“モノ=キリング・マシーン”に対抗するには、平凡な人間では敵うはずがないのだから。 次いで『~PART8/ジェイソンN.Y.へ』(89)では、再び高圧電流で復活したジェイソンが客船に乗り込んで修学旅行生を次々と惨殺しN.Y.へ。上陸してからのジェイソンの行動と、それを目撃する人間たちの反応が笑えて面白い。このあたりになると完全にスラプスティックな狙いが感じられてしまうが、これまた楽し。 その後、ジェイソンのエネルギー体(魂)がボディスナッチされた人間をジェイソン化するという奇っ怪な9作目『~ジェイソンの命日』(93)、400年後に覚醒したジェイソンが宇宙船内で暴れるSFホラーの10作目『ジェイソンX~』(01)が作られたが、今回放送されないのは、とても残念だ。 一応以上がオリジナルの『13金』シリーズで、番外編として人気ホラーの2大キャラが激突する『フレディVSジェイソン』(03)が作られている。実はこの作品がユニークなのは、実体あるジェイソンと悪夢の中で暗躍する非実体のフレディが対決するところにあった。巨躯を堅持するかのようなジェイソンと、細身なフレディがまともに戦ったら、最初から勝敗は分かりきったこと。だがフレディが非実体なので、ジェイソンにとっては捉えどころがなく苦戦を強いられる。とても残念だが、『フレディVSジェイソン』も今回の放映ラインナップには入っていないので、機会があれば、そのあたりを注意して観ると、また違った面白さが味わえると思う。 そして、マイケル・ベイが09年に製作したリメイク版は、オリジナル・シリーズの1~4作目の要素を詰め込んで一本の作品にしたような仕上がりだ。監督には、これまたベイが製作した『悪魔のいけにえ』のリメイク版『テキサス・チェーンソー』(03)を手がけたマーカス・ニスペルで、凄惨な描写も手加減なし。イケメンのジャレッド・パダレッキとヒロインのダニエル・パナベイカーが、よくぞ出てくれた(と思う)。 ジェイソンが、ホラー映画のアイコンになるほどの人気を得てきた魅力は、感情を配したホッケーマスクを装着し、モノと化した不死身の巨躯で、馬鹿な人間どもを次々と殺し続けてモノに変えてゆくインモラルな要素、とにかくそこに尽きるのだ。■ (c) 2014 BY PARAMOUNT PICTURES. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2014.06.21
ハリウッド暗黒史に語り継がれるふたつの怪事件 ― その虚飾にまみれた倒錯と悲哀の世界
ブラック・ダリア事件は、20世紀のアメリカ犯罪史上最もセンセーショナルな未解決事件のひとつである。1947年1月15日の午前10時半、ロサンゼルスの空き地を通りかかった主婦が発見した女性の死体は、胴体がふたつに切断されていた。さらに血と内臓を抜かれたうえに性器が切除され、口が左右の耳元まで裂かれたその死体はさながらグロテスクなアートのようで、ネクロフィリアらの性的倒錯者による犯行が疑われた。被害者の名はエリザベス・ショート。ハリウッド女優としての成功を夢見て、マサチューセッツ州から上京してきた22歳の美しい白人女性だった。ロス市警は前例のない大がかりな捜査態勢を敷き、何人もの容疑者が捜査線上に浮かんだが、事件は迷宮入りしてしまう。 マスコミが熾烈な取材合戦を繰り広げ、被害者エリザベスを悪夢のようなメロドラマのヒロインに見立てて報じたこの事件は、ブラック・ダリアというネーミングもキャッチーだった。事件の前年に公開されたレイモンド・チャンドラー脚本のスリラー映画『青い戦慄』の原題が『The Blue Dahlia』であり、生前のエリザベスが黒い服を好んだことからブラック・ダリアと命名されたのだ。殺人の手口といい、被害者のプロフィールといい、そのあまりにも異様な残虐性と悲劇性を知れば知るほど、否応なく闇の中の真相への好奇心をかき立てられてしまう。そんな特別な魔力を秘めた怪事件である。 ブライアン・デ・パルマ監督が手がけた2006年作品『ブラック・ダリア』は、ジェームズ・エルロイの“暗黒のL.A.4部作”の一作目となった同名犯罪小説の映画化だ。エルロイとブラック・ダリア事件の間には数奇な因縁がある。エルロイは事件発生の翌年にあたる1948年にロサンゼルスに生まれたが、10歳の時に母親を何者かに惨殺されてしまう。しかもその事件は迷宮入りし、やがてどす黒い犯罪の世界に引きつけられたエルロイは、非業の死を遂げた自らの母親の残像をエリザベス・ショートにだぶらせていく。こうしてブラック・ダリア事件は“アメリカ文学の狂犬”と呼ばれる異端的作家の原点となった。そんなエルロイの個人的なトラウマや執着が反映された小説に基づく『ブラック・ダリア』は、事件の全貌を徹頭徹尾リアルに再現することを試みたノンフィクション的志向の作品ではなく、あくまで“事実を背景にしたフィクション”なのである。 かくして完成した『ブラック・ダリア』は、デ・パルマ監督のもとにヴィルモス・ジグモンド(撮影)、ダンテ・フェレッティ(美術)、マーク・アイシャム(音楽)らの一流スタッフと、ジョシュ・ハートネット、アーロン・エッカート、スカーレット・ヨハンソン、ヒラリー・スワンクらの豪華キャストが集った堂々たるハリウッド大作だというのに、興行的にも批評的にも失敗作と見なされた。その要因はいくつか考えられるが、筆者が思うにまず脚色のミスが挙げられる。エルロイの長大な原作小説から多くの要素を削ってプロットをスリム化したにもかかわらず、出来上がった映画は極めてストーリーが錯綜してのみ込みづらい。エルロイ流の濃密な心理描写&暴力描写が際立つ小説では、複数のエピソードがいつしか絡み合い、ひとつの真実へと到達する構成が圧倒的なカタルシスを生んだが、たかだが2時間の映画でそれを成し遂げるのは容易ではない。そもそもデ・パルマという監督は職人的なストーリーテラーではなく、根っからのヴィジュアリストである。大勢の登場人物の入り組んだ相関関係を描くには不向きなタイプで、ドラマの焦点がぼけてしまった感は否めない。 それ以上に大問題なのはマデリンというファムファタールを演じるヒラリー・スワンクが、どこからどう見てもミスキャストとしか思えないことだ。マデリンが惨殺されたエリザベス・ショートに“瓜ふたつの美女”という設定は、この物語において絶対に押さえておかねばならない重大ポイントだというのに、“男前”のスワンクはお世辞にも主人公の警官バッキー・ブライカート(ジョシュ・ハートネット)をひと目で魅了するほどの美貌の持ち主とは言いがたい。おまけにエリザベス役のミア・カーシュナーとは似ても似つかぬ貌立ちであり、二重の意味で不可解な配役となった。エリザベスの可憐さや愛に飢えた哀しみを表現したカーシュナーの好演が光るぶん、なぜカーシュナーにひとり2役でエリザベスとマデリンを演じさせなかったのかと惜しまれる。そうすれば“死んだはずの美女へのオブセッション”を主題にしたヒッチコックの『めまい』の信奉者であるデ・パルマの創作意欲も、大いに刺激されたであろうに。こうも観る者に困惑を強いるスワンクの役どころ、逆にぜひとも注目していただきたい。 とはいえフィルムノワールには“混乱”が付きものであり、それがいびつな魅惑にも転化しうるジャンルだけに、上記のネガティブなポイントも踏まえたうえで本作を楽しみたい。とりわけ“ミスター・ファイアー”の異名で鳴らす熱血警官リー・ブランチャード(アーロン・エッカート)と“ミスター・アイス”ことブライカートの出会いから、エリザベスの死体が発見されるまでのハイテンポな導入部がすばらしい。この警官コンビが犯罪者のアジトを張り込む姿を映し出すカメラが緩やかにビルの屋上を越え、エリザベスの死体発見者の主婦を捉えていくダイナミックなクレーンショット! その後もブランチャードが2人の殺し屋に襲撃されるシークエンスなど、デ・パルマ印の“影”や“階段”に彩られ、長回しとスローモーションを駆使したスリリングな場面が少なくない。『ファントム・オブ・パラダイス』の怪優ウィリアム・フィンレイと、『ハリー・ポッター』シリーズのレギュラー女優フィオナ・ショウが終盤に見せつける狂気の形相も圧巻のひと言。そしてデ・パルマといえば『キャリー』『殺しのドレス』から近作『パッション』に至るまで“衝撃のラスト”が十八番だが、本作のラストには“アメリカ犯罪史上最も有名な死体”たるエリザベスの切断死体を活用している。そのサプライズ演出にギョッとさせられるか、ニヤリとするか、ぜひお見逃しなく。 ブラック・ダリア事件から12年後の1959年6月16日、TVシリーズ「スーパーマン」の主演俳優としてお茶の間のヒーローとなったジョージ・リーヴスが自宅で突然の死を遂げた。拳銃による自殺説が有力とされているこの事件を題材にした『ハリウッドランド』は、架空のキャラクターである私立探偵ルイス・シモの調査を通して、リーヴスが死に至るまでの軌跡を忠実に再現したという触れ込みの実録ドラマだ。ハードボイルド・ミステリーの形をとっているが、知られざる“衝撃の真実”が見どころではない。カメラワークや色調共にクラシック・スタイルの端正な映像で語られるのは、スーパーマンのイメージが強すぎて映画界では大成せず、人知れず苦悩を深めていった男の悲劇。当時のハリウッドはテレビの普及などによってスタジオ・システムが揺らぎつつあったが、まだTVドラマは二流役者の仕事と見なされていた。 何より驚かされるのは、リーヴス役のベン・アフレックにまったくスター俳優らしいオーラのようなものが感じられないことだ。リーヴスはスタジオ重役の妻(ダイアン・レイン)との不倫に耽ったり、それなりに華やかな俳優人生を送ったようだが、アフレックの瞳や表情には生彩がなく、動きもやけに鈍い。白黒テレビの時代ゆえに、青と赤ならぬくすんだ灰色のタイツ&マントに身を包んで「スーパーマン」の撮影をこなすシーンなどは、目も当てられないほど痛々しい。本作が製作された2006年はアフレックのキャリアが停滞していた時期で、それがオーラの欠如となって表れたのか、それとも確固たる役作りによるものだったのか、今となっては不明である。いずれにせよアフレックの悲哀漂う演技は、破滅へと向かうリーヴスのキャラクターに見事にはまり、ヴェネチア国際映画祭男優賞受賞、ゴールデン・グローブ助演男優賞ノミネートという栄誉をたぐり寄せた。そしてこの翌年、アフレックはミステリーノワールの秀作『ゴーン・ベイビー・ゴーン』で監督デビューを果たし、のちに『アルゴ』でアカデミー作品賞を受賞。飛躍的な復活を遂げたのだった。 また本作は、エイドリアン・ブロディ演じる探偵シモのキャラクターの負け犬っぷりも強烈だ。妻子と別れ、どん詰まりの日々を送るシモは、金目当てで請け負ったリーヴスの死の調査に深入りするうちに、この孤独なスーパーマン俳優にシンパシーを抱くようになる。すなわちこれは一見対照的な世界に身を置きながらも、本質的に同じ悩みを持つ男たちの魂が共鳴する物語なのだ。この映画には『ブラック・ダリア』のような過激なヌードやバイオレンスもなく、本格的なスリラーや謎解きを期待する人は肩すかしを食らうだろう。しかしある程度の人生経験を積み、ふと“もうひとつの人生”を夢想したりする40代以上の視聴者の心には、ちょっぴり切なく響くドラマに仕上がっているのではあるまいか。 1940~1950年代の混沌としたムードや風俗を今に甦らせた『ブラック・ダリア』『ハリウッドランド』には、現代劇では醸し出せない優雅さと禍々しさがせめぎ合っている。夢という名の虚飾と欲望にまみれた奇々怪々なふたつの事件。それらを生み落としたハリウッドの得体の知れない闇には、まだまだ映画化の題材がいくつも転がっていそうである。■ ©2006 EQUITY PICTURES MEDIENFONDS GmbH & Co.KG? And NU IMAGE ENTERTAINMENT GMBH
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COLUMN/コラム2014.06.11
【ネタバレ】『ロング・グッドバイ』 グールドだって猫である ― 「不思議の国/鏡の国のマーロウ」
カンヌ国際映画祭のパルム・ドールに輝き、彼の一大出世作となった『M★A★S★H』(1970)を皮切りに、とりわけ1970年代、『BIRD★SHT』(1970)、『ギャンブラー』(1971)、『ボウイ&キーチ』(1974)、『ナッシュビル』(1975)、『ウエディング』(1978)、等々、既存のジャンル映画の枠組みやさまざまな神話を根底から問い直す、斬新で型破りな作品を次々に発表して破竹の快進撃を続け、現代映画界に変革と衝撃の波をもたらした、今は亡きアメリカの鬼才ロバート・アルトマン。 この『ロング・グッドバイ』(1973)も、そんな彼ならではの大胆不敵で奇抜な発想と遊び心に満ちた実験的手法が随所で観る者を挑発的に刺激する、異色の傑作群のうちの1本。初公開時にはこれに当惑する従来のミステリ・映画ファンたちの不平不満や非難の声が相次いで、商業的には失敗に終わったものの、今日では、世代や国籍を超えて、これを支持し、偏愛する者たちが後を絶たない、極上のカルト映画の逸品といえるだろう。 本作の原作にあたる『ロング・グッドバイ』といえば、1953年にアメリカで刊行され、ハードボイルド小説の古典として不動の人気を誇る、レイモンド・チャンドラーの代表作のひとつ。日本のミステリ・ファンの間では長らく、清水俊二の訳による『長いお別れ』の題で親しまれて、海外ミステリの名作を選出するさまざまなベストもののアンケート調査でも常に上位を占め、雑誌「ミステリマガジン」が2006年に行なった「オールタイム・ベスト」では堂々の第1位を獲得。その後、村上春樹による新訳の登場も話題を呼んだ。 そしてつい先頃、この原作をNHKが日本版に翻案して連続TVドラマ化し、巷でそれなりに好評を博したのも記憶に新しいところだ。レトロモダンな昭和の戦後日本を舞台に、シックでダンディな衣装に身を固めた浅野忠信扮する主人公が、おのれの信ずる友情のためにたえずタフで毅然とした態度で奔走する姿は、なかなか貫録十分で、チャンドラーが生み出した現代の孤高の騎士たるハードボイルド探偵、フィリップ・マーロウをこれまでスクリーン上で演じてきた歴代の名優たち―ハワード・ホークス監督の古典的名作『三つ数えろ』(1946)においてマーロウ像の決定版を打ち立てたハンフリー・ボガートや、人生の憂愁を色濃く滲ませた『さらば愛しき女よ』(1975)、『大いなる眠り』(1978)のいぶし銀の味わいのロバート・ミッチャムなど―に決してひけをとらない好演を披露していた。 しかし、アルトマン監督が本作で主役のマーロウに抜擢したのはなんと、先に『M★A★S★H』でも組んで独特の飄々とした持ち味と存在感を発揮した個性派俳優のエリオット・グールド。しかも映画を、原作をそのままなぞってレトロ趣味に満ちた時代ものとして作り上げるのとは反対に、物語の時代設定を映画製作当時の1970年代にアップ・トゥ・デイト化するという、意外で思い切ったアプローチを選択した。その一方でアルトマン監督は、本作でのマーロウを、“アメリカ版浦島太郎”というべきワシントン・アーヴィング原作の有名なお伽噺の主人公の名をもじって、リップ・ヴァン・ウィンクルならぬ“リップ・ヴァン・マーロウ”とひそかに名づけ、「20年の大いなる眠りから覚めて70年代初めのロスの景観の中をうろうろしているマーロウ、ただし心情的には過去のモラルを喚起しようとしている男」(「ロバート・アルトマン わが映画、わが人生」の中の本人の発言)という斬新なコンセプトのもと、まったく独自の解釈を施した。 ■「不思議の国マーロウ」 かくして、薄着や裸の恰好のまま、他人の目など一向に気にすることなく、向かいのバルコニーでヨガや自己瞑想に耽る、いかにも当世風の若い女性たちなどとは対照的に、グールド扮する本作のマーロウは、ただひとりダークスーツに白シャツ、ネクタイという古風な服装を頑なに貫き通し(ただし、いつもヨレヨレのだらしない恰好)、1948年型のリンカーン・コンチネンタルのクラシックカーを愛車として乗り回し、さらには健康志向の時代などどこ吹く風と言わんばかりに、ひっきりなしに煙草を吸い続ける。そして、他人や社会のことよりあくまで自己中心的な個人主義が幅を利かせる、“ミー・ディケイド”とも呼ばれた1970年代の時代風潮に戸惑いを覚えつつも、それをマーロウは、「It’s OK with me.[=ま、俺はいいけどね]」という、彼一流の韜晦とぼやきの入り混じった独り言をぶつぶつつぶやきながら、どうにか受け流していく。それでもなお友情と忠節を重んじる昔気質の彼は、妻殺しの容疑のかかった友人テリー・レノックスの身の潔白をどこまでも固く信じて、どこか奇妙でシュールな異世界の中を懸命に駆けずり回るのだ。過去から現代にタイムスリップし、不思議の国アメリカをさまよう、時代遅れで場違いな“リップ・ヴァン・マーロウ”…。 そう、本作もまた、あの『ナッシュビル』や『ウェディング』などと同様、さまざまな奇人・変人たちがお呼びでないのにあちこち出没してはとんだ場違いな珍騒動を繰り広げる、アルトマン独特の皮肉と諷刺に満ちた人間悲喜劇のまぎれもない一変種といえるだろう(その一例として、映画監督のマーク・ライデル演じるチンピラ一味のボスが、まるでお笑い芸人さながら、マーロウや手下の連中を交えて突拍子もない掛け合い漫才を繰り広げる爆笑場面があり、その一員に扮した当時はまだ無名の若きアーノルド・シュワルツェネッガーが、ボディビルで鍛えた自慢の肉体美をしれっとした表情で誇示するのも妙におかしい)。 ■「鏡の国のマーロウ」 いや、そればかりではない。アルトマン監督は、『ギャンブラー』以来3作たて続けにコンビを組むヴィルモス・ジグモンドという撮影の名手を得て、たえずキャメラがゆるやかなズームやパンを伴いながら動き回り、さらには鏡や窓ガラスの反映が幾重にも屈折して乱反射を起こす重層的な迷宮世界を構築し、その中へマーロウを閉じ込めようとするのだ。 少女のアリスを不思議な国へといざなう白兎に代わって、続編『鏡の国のアリス』でアリスを鏡の国へと導くのは子猫だが、本作の冒頭、自室で大いなる眠りに就いていたマーロウを深夜に叩き起こし、現代の異世界へと彼を連れ出す役割を果たすのも、やはり猫。腹を空かせた飼い猫にエサを与えようとして、猫お気に入りの銘柄のキャットフードが切れていたことに気づいたマーロウは、スーパーまで買い出しに行くが、あいにく店にも欲しい品は置いておらず、やむなく購入した別の銘柄のキャットフードをいつもの銘柄の空き缶に入れ替えてから皿によそって猫に差し出す。しかし彼の涙ぐましい偽装工作も空しく、猫はそれにそっぽを向いて、そのままいずこともなく去って行ってしまうのだ。それにしても、チャンドラーの原作にはない本作独自の創作で(ただし、チャンドラー本人も猫好きとして知られていた)、一見物語の本筋には関係ないようでいて、実はさまざまな伏線が張り廻らされたこのオープニング場面は、何度見てもやはりケッサクで素晴らしい。 そしてそれ以後、その猫は飼い主たるマーロウのもとへ戻ることはなく(その代わり、やがてマーロウは行く先々で犬と出くわしては、彼を敵視する犬から威嚇され続けることになる)、猫と入れ違うようにして彼の元へ姿を見せた親友のレノックスも、マーロウを自分の都合のいいように利用するだけ利用すると、思いも寄らぬトラブルだけを置土産に残して彼の前から去って行く。 その後、一体どういう事情かもさっぱり分からないまま、マーロウは刑事たちに連行され、警察署の取り調べ室で尋問されることになるが、ここで先に軽く紹介した、鏡や窓ガラスを巧みに利用したアルトマン監督ならではの特徴的な演出が凝縮した形で示されるので、少し詳しく見てみることにしよう。この秀逸な場面では、画面の中央に配置された透過性のガラスを介して(ただし、アルトマンはそこに無数のひっかき傷や、黒インクで汚れたマーロウの手型をつけさせて、ガラスの存在を強調してみせている)、奥にマーロウと彼に質問を浴びせる刑事、そしてその手前には、別室からその様子を見守る別の刑事たちの姿が、背中のシルエットとガラス窓に映る顔の反射像として示されるという、印象的な空間設定・人物配置が施されている。実は2つの部屋を繋ぐ/隔てる中央のガラスはマジックミラーで、奥の部屋で尋問されるマーロウの姿を、相手に見られることなく一方通行的に見守る手前の部屋の上官たち、というフーコー的な視線の権力装置が、ここには鮮やかに示されている。マーロウはそのマジックミラーの仕掛けにいち早く気づき、自分からは姿の見えない別室の窃視者たちの前で、滑稽な物真似の仕草をして虚勢を張ってみせるのだが、レノックスをめぐる一連の事件の流れをはじめからしっかり把握していたのは、やはり警察の連中の方で、マーロウはそれをよく見通せないまま、哀れなピエロよろしく右往左往していたにすぎなかったことが、その後明らかとなるのだ。 マーロウの視界の無効性を映画の観客により深く実感させるのが、スターリング・ヘイドン扮するアル中の老作家ウェイドが、海辺で入水自殺を遂げる場面。ここでもまたアルトマンは、技巧を凝らした卓抜な画面設計と演出の冴えを存分に発揮している。この場面でははじめ、マーロウとウェイド夫人が海辺にあるウェイド邸内の窓際で立ち話をする様子が映し出され、次第にキャメラの焦点が2人を逸れて画面奥の遠景へゆるやかにズームアップしていくと、ガラス窓越しに夜の浜辺を歩くウェイドの後ろ姿が浮かび上がり、やがて波の中へ身を躍らせる彼の姿をキャメラは捉えるのだが、マーロウは話に夢中になって一向に戸外のその様子が目に入らない。そして先にそれに気づいたウェイド夫人に一歩遅れて、マーロウも慌てて屋敷の外へ飛び出し、ウェイドの姿を波間で探すものの、時すでに遅く、彼の命を救い出すことはもはやできないのだ。 ■ちょっと待って プレイバック、プレイバック! そしてこれを見届けた後、観客はこの場面に先立って、ウェイド邸を訪れたマーロウが、いったんウェイド夫妻とあいさつを交わした後、深刻な夫婦喧嘩を始めた2人を家に残して、ひとり浜辺をぶらつくという、よく似たような場面があったことを即座に思い返すに違いない。こちらは先述の夜の場面と違って、陽光きらめく白昼の光景で、浜辺にいるのは、ウェイドではなくマーロウ。しかもマーロウは、波打ち際で波と戯れはしても、ウェイドのように海中に身を躍らせて自殺するわけではない。夜と昼、ウェイドとマーロウ、死と生、といった具合に、この2つの場面は、まるで鏡の像のようにお互いを反転させた形で対峙している。さらにそれを増幅させるかのように、白昼、浜辺をぶらつくマーロウの姿は、たえずウェイド邸のガラス窓に映る反射像として映し出され、その遠くてちっぽけなマーロウの反射像の上に、アルトマン監督は、今度はいわば合わせ鏡のようにして、家の中で妻と口論するウェイドのガラス窓越しの透視像を重ね合わせてみせるのだ。 ここで改めて思い起こすと、アーネスト・ヘミングウェイを戯画化したようなマッチョで大酒飲みの老作家ウェイドも、本作の中では既に時代遅れのお荷物的存在であり、なぜかマーロウとだけはウマが合う貴重な同志として描き出されていた。これらを考え合わせると、ウェイドとは、マーロウのもうひとりの自己=鏡像にほかならず、いわばその身代わりとなって自殺を遂げたウェイドの死をくぐり抜けて、マーロウは新しく生まれ変わることになるのだ。まるで、9つの命を持つとされる猫が、いくたびも死んでは生まれ変わるように。 主人公の転生という本作の隠れた主題は、物語の終盤でも再び繰り返される。夜道を車で走るウェイド夫人の姿を偶然見かけ、彼女を呼び止めようと必死で車のあとを走って追いかけたマーロウは、その最中に別の車に轢かれ、危うく命を落としかける。そして、病院のベッドで意識を取り戻した彼は、同じ病室にいる、全身を白い包帯でぐるぐる巻きにされた、見た目はミイラそっくりの不可思議な重傷患者と対面することになるのだ。勝手に病室を抜け出そうとして、看護婦から呼び止められたマーロウは、「マーロウは僕じゃなくて彼ですよ」とミイラの患者を指し示し、自らの古びた肉体と生命を彼に譲り渡す形でまたもや生まれ変わったマーロウは、ミイラの患者から交換で渡された生命の象徴たるハーモニカを手に活力を取り戻し、親友だとばかり思い込んでいたレノックスといよいよ最終的な決着をつけるべく、死んだと見せかけて実は隠れて生きていた彼のアジトへと乗り込んでいく。 ■さらば愛しきひとよ… そして、公開当時、原作を大きく変更して踏みにじったとして何かと論議の的となり、チャンドラーの信奉者たちを激怒させた、あの悪名高いラストのクライマックス場面が訪れる。ここはやはり、ぜひ見てのお楽しみということで詳細はいちおう伏せておくことにするが、実はこのラストの改変は、アルトマンが本作の監督として起用される以前に、既に脚本家のリー・ブラケットがシナリオの中に書き込んであったものであり、その大胆な案を知ってアルトマン監督もこの企画に大いに乗り気になったこと、そしてまた、このブラケットは名匠ホークス監督とのコンビで知られる女性脚本家であり、何よりも同監督が主演のボガートと組んで作り上げた、あのチャンドラー映画の決定版というべき『三つ数えろ』に共同脚本のひとりとして参加していたことは、ここで特記しておく必要があるだろう。 あるインタビューでの彼女の言い分によると、「マーロウは、親友として信頼していた相手に裏切られ、心のもっとも奥深くで傷ついているにも関わらず、原作の結末では、一向にさっぱり要領を得ない。我々ならどうするか、よし、堂々と問題に正面から立ち向かうことにしよう」となったのこと。さらには、「『三つ数えろ』を作った頃には、たとえそうしたいと望んでも、検閲があってそれは許されなかった。我々は、マーロウを負け犬(loser)とみなすチャンドラー自身の価値判断にどこまでも忠実に付き従って、彼を何もかも失った本物の負け犬として設定した」とも彼女は述べている。 かくして映画の中で、「俺が何をどうしようが、どうせ誰も構いやしないやしないさ」と開き直ってうそぶくレノックスに対し、「ああ、俺以外にはな」と切り返し、「You’re a born loser.[=お前は、生まれついての負け犬さ]」とせせら笑うレノックスに、「Yeah, I even lost my cat.[=ああ、俺は猫も失ってしまったしな]」とシニカルに言い放つマーロウの決め台詞が効いてくるのである。 さて、こうして映画『ロング・グッドバイ』を、幾つかの顕著なアルトマン的主題をざっと辿りながら見てきても分かるように、この作品は、アルトマン監督がチャンドラーの原作を単に適当にぶち壊して、勝手気ままに浮薄な現代の社会に物語の設定を移し替えただけというような、安易な諷刺やパロディ映画などでは決してない。それどころか、往年のハリウッド映画のスタイルを借用して、『三つ数えろ』のような古典的フィルム・ノワールを現代にそのまま再生産するのは、もはや不可能であり、失われた神話にすぎないことを充分に自覚したアルトマン監督が、過去と現在をたえず対比させて、その時代的距離を浮き彫りにしつつ、しかしそのどちらか一方にだけ加担して他方を断罪するのではなく、その両者のはざまで必死に自らの居場所を見つけようとしてあがくマーロウの姿を、彼独自の複眼的視線と実験的手法を駆使して描いた、まぎれもない野心的傑作の1本であると言えるだろう。 鏡や窓ガラスの反映を巧みに用いた空間設計と、卓抜なキャメラワークを緊密に連携させることで、さまざまな主題が幾重にも交錯して乱反射し、幾つもの鏡像・分身を生み出しながら、めくるめく重層的なアルトマンの映画世界が形作られるさまを、これまで見てきたが、これはなにも、映像だけの話に限らない。この『ロング・グッドバイ』では、音楽の使い方がまた何とも心憎いまでに粋でふるっていて、その後『JAWS/ジョーズ』(1975)や『スター・ウォーズ』(1977)でハリウッド随一の人気映画音楽家の座に上り詰める、あのジョン・ウィリムズの作曲した主題曲の印象的な同一のフレーズが、時には車のラジオから流れる男性ボーカルのバラード、時には深夜のスーパーにかかるミューザック、はたまたメキシコの楽団スタイルやゴスペル調、といった具合に、アレンジだけ変えながら、多彩なスタイルで次々と反復・変奏されていくさまには、思わず誰もがニヤリとさせられること間違いなしだろう。 その一方で、この主題曲の作詞を手がけた20世紀のアメリカを代表する名作詞・作曲家のひとり、ジョニー・マーサーが若き日にやはり作詞を担当した「ハリウッド万歳」というハリウッド讃歌の明るいナンバーが、この映画の冒頭と最後に本編を枠取る形で流されるが、そのなんともお気楽で能天気なメロディは、『ロング・グッドバイ』という作品の内容自体を効果的に彩る音楽というより、時と場所をわきまえずに不意に出現する場違いなアルトマンの作中人物たちにも似て、むしろその異質さと空虚さを際立たせるばかりで、ここでも、楽天的なハリウッド神話の夢が、もはや今日では成り立たずに終焉したことを、観客にはっきり告げ知らせる異化装置として機能している。 ことほどさように、アルトマンの映画は複雑で厄介で、とうてい一筋縄ではいかない不可思議な魅力と面白さに満ち溢れている。彼本人は残念ながら、もはやこの世に別れを告げてあの世へ旅立って行ってしまったが、見返すたびに新たな発見がある彼の多面的な映画世界に、我々はまだまだ、ロング・グッドバイをすることなどできはしない。■ LONG GOODBYE, THE © 1973 METRO-GOLDWYN-MAYER STUDIOS INC.. 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COLUMN/コラム2014.06.09
進め「パロディ映画道」! ジェイソン・フリードバーグ & アーロン・セルツァー
バックグラウンドが異なる人間が集まって住んでいるアメリカでは、以心伝心や阿吽の呼吸といった概念は存在しない。すべての意思疎通は会話で行われるのだ。だから映画においても会話の重要性は高く、ホンモノっぽさが求められる。そこで二人の脚本家が実際に会話するように共同で脚本を書くことが多くなるというわけだ。 もっともそうしたコンビが長続きするケースは少ない。特に個人の感覚に拠るところが大きい”笑い”を扱うコメディ映画の世界ではコンビ解散は日常茶飯事である。長続きしているのは、ジョエルとイーサンのコーエン兄弟やピーターとボビーのファレリー兄弟といった同じDNAを持つ肉親コンビばかりだ。そんな中、赤の他人でありながら20年以上にわたってコンビを組み続けるチームが存在する。ジェイソン・フリードバーグとアーロン・セルツァーである。 二人が出会ったのは90年代初頭、カリフォルニア大学サンタバーバラ校(UCSB)の映画クラスでのことだった。せっかく楽しい映画を作るノウハウを学ぶために入学したのに、高尚な芸術論議ばかり戦わされている……そんなクラスの雰囲気にジェイソンとアーロンはそれぞれ孤独に欲求不満を募らせていたという。「俺が撮りたいのは芸術なんかじゃない。コメディ、それもパロディ映画なんだ!」そんな同好の士が出会うまで時間はかからなかった。二人はすぐに”腹心の友”となり、まんが道ならぬパロディ映画道を歩んでいくことを決心したのだった。 既存のヒット映画の名シーンをパロったギャグを数珠つなぎにしてストーリーを構成する。そんな形式を持ったパロディ映画の歴史は70年代に始まる。創始者はメル・ブルックス。彼は西部劇をパロった『ブレージングサドル』、ホラー映画をパロった『ヤング・フランケンシュタイン』(ともに74年公開。つまり今年はパロディ映画創立40周年なのだ!)の二作で現在に通じる基本パターンを作りあげた。 このジャンルを更に発展させたのがデヴィッドとジェリーのザッカー兄弟とジム・エイブラハムスによるトリオ“ZAZ”だった。ZAZはパニック映画をパロった『フライング・ハイ』(80年)に始まり、刑事パロディ『裸の銃を持つ男』シリーズ(88〜94年)、マッチョ・アクションをパロった『ホット・ショット』シリーズ(91〜93年)などヒット作を連発した。 こうした先輩たちに倣ってジェイソンとアーロンは「007」シリーズに注目してパロディ映画の脚本を書き始めた。ある程度出来上がった段階でジェイソンは、テレビ監督を務める父親リック・フリードバーグに助言を仰いだ。すると思わぬ幸運が転がりこんできた。リックはちょうど『裸の銃を持つ男』の主演俳優レスリー・ニールセンとビデオ作品『Bad Golf My Way』 (94年)の仕事をしていたのだ。脚本はレスリーにも気に入られ、リック監督、レスリー主演、ジェイソンとアーロンが脚本を手がけた『スパイ・ハード』(96年)が作られることになった。映画は興行収入2600万ドルのスマッシュヒットを記録した。 ジェイソンとアーロンは、続いて当時流行していた『スクリーム』(96年)や『ラストサマー』(97年)といったティーン向けホラーのパロディ脚本を書き上げた。これに飛びついてきたのが、他でもない『スクリーム』の製作会社ミラマックスだった。脚本は高額で買い取られ、『ポップ・ガン』(96年)でブラックムービーのパロディ映画に挑戦していた黒人コメディアン、ウェイアンズ兄弟の手で『最終絶叫計画』(00年)として映画化された。製作会社が自らパロディを手がけたことで生じる本物っぽさ、そして主演に抜擢されたアンナ・ファリスのコメディ・センスが炸裂したこの作品は、1億5700万ドルというメガヒットを記録。『最終絶叫計画』シリーズは、翌年にパート2、ウェイアンズ兄弟が降板した後もZAZのデヴィッド・ザッカーの製作&監督でこれまでパート5まで製作されるヒットシリーズとなっている。 だがこうした作品は、ジェイソンとアーロンに納得がいく出来ではなかったようだ。二人の脚本は映画完成までに他のライターによって変更が加えられていたからだ。「自分たちの構想通りのパロディ映画を作りたい!」二人は脚本買い取りのオファーには頑として応じず、製作と監督も自分達に任せてくれるスタジオが現れるのをひたすら待った。 06年、ジェイソンとアーロンの努力は報われ、二人はアリソン・ハニガン主演の『最”愛”絶叫計画』(06年)でプロデューサー兼監督デビューを果たす。『ブリジット・ジョーンズの日記』(01年)や『ベスト・フレンズ・ウェディング』(97年)といったロマンティック・コメディをパロったこの作品は4800万ドルのヒットを記録した。翌年、彼らは『ナルニア国物語』(05年)をベースに『ダ・ヴィンチ・コード』(06年)から『スネークフライト』(06年)のパロディまで盛り込んだ『鉄板英雄伝説』(07年)を発表。インド系俳優カル・ペンが主演し、『アメリカン・パイ』シリーズ(99〜12年)の熟女ジェニファー・クーリッジや『アリス・イン・ワンダーランド』(10年)の”ハートのジャック”で知られるクリスピン・グローバー(『アリス…』で共演したジョニー・デップの代表作『パイレーツ・オブ・カリビアン』のジャック船長のパロディ・キャラをやっていることに注目!)らが脇を固めたこの作品は、最近ヒットした映画だったらジャンルは無関係、それどころか時事ネタやゴシップネタまでブチ込むという二人のスタイルが完成した重要作だ。 同作以降も、ジェイソンとアーロンは、『300』(07年)をリアルタイムでパロった『ほぼ300 <スリーハンドレッド>』(08年)やパニック映画をネタにした『ディザスター・ムービー! 最'難'絶叫計画』(08年)を製作&監督。10年には「俺たちがやらなきゃ誰がやる!」的な勢いで『トワイライト』サーガ(08〜12年)をネタにした『ほぼトワイライト』をヒットさせている。近年の作品では珍しくネタを『トワイライト』に絞り込んでいるのが印象的だが、ヒロインを取り合うエドワードとジェイコブそれぞれの少女ファンたちが戦ったり、『ハングオーバー』シリーズ(09〜13年)のケン・チョンが意味なくボケ倒していたりするところはいかにも二人の映画らしい。 笑いを取るためなら下ネタだろうと手段を選ばず、しかもストーリーと無関係にギャグを挟んでいく。そんなジェイソンとアーロンの映画は、評論家から高く評価された試しがない。それどころか”幼稚”、”西洋文明衰退の象徴”、”文化の疫病”とまで批判されている。だがそもそも彼らがパロっているハリウッド映画は文明的で文化的なものなのだろうか? 本来なら子ども向きのスーパーヒーロー映画を何百億円もかけて製作し、時にそれが何百億円の赤字を記録してしまう。そんなハリウッドの現実の方がよっぽどコメディである。”幼稚”なのは当たり前。二人は「王様は裸だ」と囃し立てる子どもなのだから。 そんな彼らの次回作は、来年公開予定の『Super Fast』。タイトルから想像出来る通り『ワイルド・スピード』シリーズ(01年〜)をネタにしたコメディである。そう、二人のパロディ映画道はまだまだ続く。■ © 2007 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved
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COLUMN/コラム2014.05.17
【ネタバレ】イザベル・コイシェ監督の2作品に隠された秘密、それは、“もうひとりの別の存在”
サラ・ポーリーと組んだ『死ぬまでにしたい10のこと』『あなたになら言える秘密のこと』の2作品で日本でも広く知られるようになったスペイン人監督イザベル・コイシェは、自らの制作会社を“ミス・ワサビ”と名付け、菊地凛子主演作『ナイト・トーキョー・デイ』を東京で撮ったほどの親日家だ。筆者は過去に二度インタビューしたことがあるが、とてもお洒落でユーモラスかつフレンドリーな女性で、つねに新作を楽しみにしている監督のひとりである。 2007年に日本公開された『あなたになら言える秘密のこと』は、筆者がその年の洋画ベストワンに選んだ思い入れの深い作品なのだが、題名から連想されるようなロマンティックな映画ではない。主人公ハンナ(サラ・ポーリー)はつねに思い詰めたような険しい顔つきをしており、極度の潔癖症で、あからさまに他人を拒絶するオーラを放っている。そんな彼女が勤務先の工場の上司から半ば強制的に休暇を取るよう勧められ、ひょんなことから海上に浮かぶ石油掘削施設で大火傷を負ったジョゼフ(ティム・ロビンス)の看護をすることになる。一時的に視力を失っているジョゼフは、ぶっきらぼうなハンナになぜか好意を抱き、少しずつ彼女の頑なな心を溶かしていく。しかしハンナは、ジョゼフの想像も及ばない衝撃的な“秘密”を抱えていた……。 ここから先はネタバレで恐縮だが、実はハンナはバルカン半島からイギリスに移住してきたクロアチア人で、ボスニア紛争における拷問被害者である。映画のクライマックスで語られるハンナの告白の内容は残酷なまでに悲劇的で、公開当時、そのような重い題材が扱われているとは夢にも思わなかった筆者を含む観客は心底驚愕し、戦慄さえ覚えることになった。ハンナの心身の耐えがたい痛みを知ったジョゼフが、それでも彼女とともに未来を歩もうとする物語はこのうえなく感動的で、極めて純度の高いラブ・ストーリーに仕上がっている。 ところが筆者が本当に驚かされたのは、しばらくしてから本作をもう一度観直したときだった。この映画の初鑑賞時に漠然と感じていた違和感のようなものが具体化し、大いなる謎が浮かび上がってきたのだ。 もともとこの映画には、誰もが気づくスーパーナチュラルなエッセンスがちりばめられている。物語の語り手というべき少女の“声”である。「ハンナは私の顔を知らない。でも唯一の友だちよ」と語るこの正体不明の“声”は何者なのか。前述したハンナの“秘密”を踏まえると、(1)拷問のトラウマゆえに幼児退行したハンナ自身の声である、(2)ハンナが紛争中に亡くした子供の声である、など幾つかの推測が可能だ。筆者は精神分析の知識が乏しいうえに、映画はあえて“声”の主を曖昧にしているので、明快な答えは見つからない。 二度目に観て気づいたのは、物語の主な舞台となる石油掘削施設の一室でハンナとジョゼフが心を通わせていくシーンに、これまた正体不明の何者かの視線のショットが何度か挿入されていることだ。物陰からひっそりとハンナとジョゼフのやりとりを見つめているかのような、そこにいるはずのない第三者の存在が感じられてしょうがないのだ。こうなるともはや心霊映画の領域だし、「たまたま手持ちカメラのアングルがそう思えるだけではないか?」という向きもあろう。しかし、この映画はコイシェ監督自身がカメラ・オペレーターを兼任(撮影監督はジャン=クロード・ラリュー)しており、物陰に潜む何者かの視線を感じさせるような主観ショットが“たまたま”撮られたとは思えない。むしろ監督は明確な意思をもって超自然的な存在がハンナにつきまとっていて、その部屋に存在していることを表現したのではないかと考える。この世を見ぬまま生命を絶たれたハンナの子供なのか、それとも非業の死を遂げた大勢の拷問被害者の魂なのか、筆者には断定しようがない。ここではまず霊的な何かが“そこにいる”可能性を指摘しておきたい。この映画の原題は『The Secret Life of Words』であり、正体不明の“声”が語る言葉が極めて重要であることは疑いようがないのだから。 ■最大の謎はラスト・シーンの“窓”の向こう側にある そして筆者が最も驚き、未だ脳裏に焼きついて離れないのがラスト・シーンである。石油掘削施設から工場勤めの孤独な日常に戻ったハンナは、再会したジョゼフからのひたむきな求愛を受け入れ、ふたりは情熱的な抱擁を交わす。続いて映し出されるのは、ハンナがキッチンでひとりたたずんでいる光景だ。どうやらハンナは、この家でジョゼフと穏やかに暮らしているらしい。ストーリーの流れとしては、明らかにハッピーエンドである。 しかし、ここにもあの少女の“声”が聞こえてくる。「私はもういない。ときどき日曜日の朝に来るだけ」。そう語る“声”は「彼女には子供がふたりいる。私の弟たち」と呟き、ハンナとジョゼフが2児をもうけたことを告げる。そして“声”が「子供たちが帰ってくる。もう行くわ」と消えようとするなか、キッチンの窓の向こうには隣家に遊びに行っていたハンナの子供たちの姿が映る。ここにこそ本作の最大の謎がある。“声”いわく“私の弟たち”なのだから、窓の向こう側を歩いてくるのは“ふたりの男の子”でなくてはならない。それなのに何度もスロー再生して確認した筆者が見るに、そこに映っているのは赤い服を着た“ふたりの女の子”なのだ! いったい、これはどういうことなのか。明らかにつじつまが合わない。おまけにこの窓の外を捉えたショットは微妙にフォーカスがずれており、子供たちがおぼろげに映っている。その撮り方から察するに、コイシェ監督はそれが女の子かどうか観客が気づかなくても構わない、というスタンスでこのショットを設計している。しかし、どうしても女の子でなくてはならかった何らかの理由があるのではないか。そうとしか考えようがない。 このあまりにも奇妙で、不可解なミステリーに関しても、筆者は答えを持ち合わせていない。ただし想像することはできる。ハンナがたたずむキッチンはまぎれもなく“現実”のシーンだが、ひょっとする窓の向こう側は“幻”なのではないかと。では、ふたりの女の子は誰なのだろう。ひょっとすると祖国のクロアチアでまだ無邪気だった幼少期のハンナと、その友だちなのかもしれない。もう幸せだったあの頃には帰れない。そんなスーパーナチュラルな心霊的ニュアンスがこもったエピローグは、表面的にはジョゼフと結ばれたことで心の平穏を取り戻したように見えるハンナの奥底に残る、もうひとつの複雑にして不穏な“秘密”を表現したシーンとして、何年経っても筆者の中で謎めき続けているのだ。 ■頻出する“ダブル”=“もうひとりの別の存在”のイメージ もう一点、筆者にとって興味深いのは、なぜ“ふたり”なのか、ということだ。ここで言う“ふたり”とは“もうひとりの別の存在”に置き換えることもできる。エピローグにおける窓の向こうの子供はなぜか“ふたり”であり、劇中には戦時中の拷問体験で精神を病んだハンナが“もうひとりのハンナ(=おそらく彼女自身)”について涙ながらに語るシーンもある。 こうした疑問を抱いた後に、コイシェ監督の前作にあたる『死ぬまでにしたい10のこと』を観直してみると面白い。この映画の冒頭では、ガンに蝕まれて死にゆく運命にある主人公アンが雨の中にたたずんでいる。そのオープニングに被さる彼女自身のモノローグは、日本語字幕では「私」という一人称で訳されているが、なぜかサラ・ポーリーがしゃべる英語セリフでは「You」という二人称になっているのだ。つまり「これが私」という日本語字幕は、本来「これはあなた」と訳されるべきなのだが、想像するに字幕担当者はそれでは不自然と判断して「私」にしたのだろう。ウィキペディアを参照してみると、代名詞に「You」が使われた理由についてこんな記述がある。「あたかも映画を観ているあなたが、この映画の主人公だ、あなたの余命が2ヵ月なのだ、と訴えかけるようになっている」。確かにそうかもしれない。しかし筆者には、超自然的な霊魂のような“もうひとりの別の存在”がアンを客観的に見つめながら、このモノローグを語っているように思えてならない。 “ふたり”もしくは“もうひとりの別の存在”、すなわちペアともダブルともいえる概念は、『死ぬまでにしたい10のこと』にさらに盛り込まれている。自らの死期が迫ったことを悟ったアンは、この世に残される夫にふさわしい再婚相手を見つけ出そうとするのだが、タイミングよく空き家だった隣家に美しく心優しい女性が引っ越してくる。レオノール・ワトリングが演じるその女性の名前は、何と主人公と同じ“アン”である。しかも隣人の“アン”はかつて看護師だった頃、患者が出産後にまもなく死亡したペアの赤ん坊=シャム双生児を看取った悲痛な体験をアンに打ち明けるのだ! 以上の文章には筆者の妄想も少々入り混じっているかもしれないが、コイシェ監督がダブルのイメージに執着しているという指摘は、まんざら的外れではないと思う。なぜなら2013年に彼女が撮ったばかりの最新作の題名は『Another Me』。“もうひとりの自分”につきまとわれる若い女性(ソフィー・ターナー)を主人公に据え、まさしくダブルをモチーフにしたミステリー・スリラーらしいのだ。現時点で日本公開は未定だが、すでに期待が膨れ上がりっぱなしの筆者は観る気満々である。■ ©2005 El Deseo M-24952-2005
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COLUMN/コラム2014.05.10
「聖なる映画」から遠く離れて ― ポール・シュレイダーのピンキー・バイオレンス世界
スケベ心と野次馬根性に満ちた好き者ならばいざ知らず、原題がズバリ『HARDCORE』、邦題も『ハードコアの夜』(1979)と、いかにも煽情的でキワモノめいた題名につい思わず腰が引けて、さてどうしたものかと、いざこの作品を前にして見るのをためらってしまう人は、結構多いのではないだろうか。しかも監督がポール・シュレイダーだというのも、いまどきあまりピンとこないし…。 しかし、そういえば、待てよ、シュレイダーといえば、マーティン・スコセッシ監督と初めてコンビを組んで生み出した衝撃作『タクシードライバー』(1976)の脚本を手がけた人物であり、あの映画の中には、ロバート・デ・ニーロに初デートに誘われたものの、それが映画館で一緒にポルノ映画を鑑賞することだと知って、インテリ美女のシビル・シェパードが憤然とその場を立ち去っていく噴飯ものの場面があったっけ…、と思い出す映画ファンならば、きっとこの映画へ対する関心と興味が沸いてくるはずだ。 そう、この『ハードコアの夜』は、『タクシードライバー』と同様、ハリウッドの商業娯楽映画でありながら、シュレイダーの自伝的要素や生の肉声が随所にちりばめられたきわめてパーソナルな作品であり、スコセッシに代わってシュレイダー本人が自ら演出のメガホンを握って監督した、いわば『タクシードライバー』のパート2でもある(その後2人でまた監督・脚本家コンビを組んだ『救命士』(1999)は、さしずめパート3といったところか)。さらには、筋金入りの映画狂たるシュレイダー自身が公言している通り、あの巨匠ジョン・フォードの傑作西部劇『捜索者』(1956)を大胆不敵にも物語の骨格に借用して現代風に翻案するなど、さまざまな映画からの影響が随所に看て取れるハイブリッドな作品ともなっていて、映画ファンならばやはり見逃せない、なんとも興味深い一作に仕上がっているのだ。 映画は、アメリカ中西部ミシガン州の都市グランド・ラピッズに暮らす敬虔なプロテスタント信者の一家が、クリスマスで親戚一同、老若男女みな顔を揃え、賑やかに家族団欒を過ごす平和な家庭風景から幕を開ける。ところが翌朝、信者たちの若者集会に出席するためカリフォルニアへと旅立った十代の愛娘が、不意に失踪したとの知らせがジョージ・C・スコット扮する父親のもとに間もなく届き、その捜索に乗り出した彼は、それから数週間後、雇った私立探偵の案内で場末のポルノ映画館に足を運び、そこで思いも寄らぬ意外な光景と対面。いかがわしいブルーフィルムの中で淫らな痴態をさらけ出していたのは、ほかならぬ彼の可愛いひとり娘だった! 苦悶と絶望にあえぎながら悲痛な叫び声を上げたスコットは、しかしその後、決死の覚悟を決め、娘の居場所を突き止めて我が家に無事連れ帰るべく、彼にとってはまるで未知の異世界である風俗産業の危険でディープな猟奇地帯へ、自ら足を踏み入れていくこととなる…。 平和と安らぎに満ちた神聖な家庭風景から卑俗の極みたるポルノ映画の闇の世界へとメーターの針が一気に大きく揺れ動く、本作の何とも両極端な物語をざっと簡単に書き綴ってみたが、ここで最初に留意すべきなのは、この映画の舞台の出発点となるミシガン州グランド・ラピッズが、シュレイダー自身の生まれ故郷であるという点だろう。そして、スコット扮する主人公の一家は敬虔なプロテスタント信者の家庭と設定されているが、これもシュレイダーの家庭環境をそのまま劇中に再現したもの。シュレイダーの一家は、プロテスタントの中でもとりわけ厳格で禁欲的なオランダ・カルヴィン派を信奉し、この宗派は、飲酒や喫煙はおろか、映画やダンスも"世俗的な楽しみ"であるとして禁じていた。 1950~60年代のフランスのヌーヴェル・ヴァーグの登場に呼応する形で、アメリカでも1960~70年代、熱狂的な映画好きが嵩じて自ら映画作りに関わるようになる新しい世代の映画作家たちが台頭し、1946年生まれのシュレイダーは、4歳年上のスコセッシや、『愛のメモリー』(1976)でコンビを組んだ6歳年上のブライアン・デ・パルマらと同様、そんなシネフィル映画作家世代のひとりに属するわけだが、子供の頃から映画狂だったスコセッシなどとは異なり、シュレイダーは、前述の宗教的な戒律のため、なんと17歳になるまで映画を1本も見たことがなかった。 将来、聖職者となるべく厳しい宗教的修練を受けた家庭と教会の束縛から逃れようと、青年となってからようやく映画を見始めた彼は、やがてすっかりその魅力に取りつかれて人生が大きく急旋回。高名な映画批評家ポーリン・ケイル女史との運命的な出会いに啓示を受けてその弟子を目指すようになり、UCLAの映画学科に進んだ彼は、在学中から数々の映画評を執筆し、小津安二郎、ロベール・ブレッソン、カール・テホ・ドライヤーという3人の神聖な映画作家たちの超越的スタイルを論じた「聖なる映画」を修士論文として発表。また、アメリカにおけるフィルム・ノワール評価の火付け役となった「フィルム・ノワール注解」や、日本の東映ヤクザ映画を体系的に英語圏に紹介した「ヤクザ映画―入門」など、古今東西の映画を幅広く論じる一方で、私生活では同棲していた恋人と喧嘩して家を追い出され、昼間は酒に酔いつぶれて、車の中で寝泊まりしたり、オールナイトのポルノ映画館で一夜を明かしたりする、孤独でみじめなどん底生活を送る一時期もあったという。本来は聖なる世界を目指していたはずのシュレイダーの、そこからの離反と逃走、そして地獄への転落。ここで彼が自ら味わった孤独や疎外感をバネにシュレイダーが一気呵成に書き上げたのが、ほかならぬ『タクシードライバー』の映画脚本だった。 『タクシードライバー』のデ・ニーロ演じる主人公は、自分を取り巻く周囲の卑俗にまみれた汚い現実社会に吐き気や嫌悪感を催し、これを自らの手ですっかり一掃して洗い清め、その中から、街娼の少女たるジョディ・フォスターを清純な天使に勝手に見立てて救い出そうと、常軌を逸した暴力的行動にうってでる。そしてこの『ハードコアの夜』では、ポルノ映画の世界に身を落とした我が娘をその汚らわしい世界から奪還すべく、敬虔なカルヴィン教徒たるスコットが、薄汚い街路=ミーン・ストリートの中を必死で駆けずり回るのだ。 しかしまた、この映画でシュレイダーは、自らの父親をモデルに、聖なる世界を代表する父権主義的なスコットの主人公像を造型する一方、彼本人はむしろ、そこから逃走を図って映画の俗世界に身を投じる娘の側に、自らを深く投影させていたはずだ。シュレイダーのその自己分裂症的な傾向は、『タクシードライバー』のデ・ニーロが、「オレに向かって話してるのか?」と、鏡の中に映るもう一人の自分と、対話ならぬ奇妙な自問自答を繰り広げる、あのあまりにも有名な場面に既にくっきりと明示されていた。聖と俗、理想と現実の二項対立として、お互いに激しく反発し合いつつ、実は自分とは反対側にある世界に次第に魅力を覚えて微妙に惹かれ合う、アンビヴァレントな関係性。ここに、シュレイダーの映画世界が絶えず孕む、奇妙なジレンマと不思議な魅力の謎が潜んでいるように筆者には思われる。消息不明の娘の手掛かりを得るため、夜の風俗街の探訪に乗り出した『ハードコアの夜』の主人公スコットは、はじめのうちこそ、若い裸の女性を前にしても石部金吉的な堅物の姿勢を崩さなかったのが、やがてかつらに付け髭までしてポルノ映画のプロデューサーへとすっかり様変わりし、自ら俳優のオーディションをこなしていくあたりは、もう何ともおかしくて爆笑もの。一見高尚で気難しい芸術派の映画作家を気取ってはいるものの、なんだかんだ言って、やっぱりシュレイダーは下世話で卑俗な裏世界の話が大好きなのだ。彼がその後も、性の快楽を題材にした『アメリカン・ジゴロ』(1980)や『ボブ・クレイン 快楽を知ったTVスター』(2002)といった作品を撮り続け、目下のところの最新作たる『ザ・ハリウッド』(2013)では、「アメリカン・サイコ」の作家ブレット・イーストン・スミスのオリジナル脚本、そして主役陣にはあの全米お騒がせ女優のリンジー・ローハンと現役の人気ポルノ男優という異色の顔合わせによる官能的スリラーに挑んでいることも、そのことをよく物語っていると言えるだろう。 ところで、先にも軽く触れたように、シュレイダーはこの『タクシードライバー』と『ハードコアの夜』両者の作品の主人公に、コマンチ族にさらわれた姪を何とか見つけて連れ戻すべく、執念深くその居場所を探し続ける『捜索者』の主人公ジョン・ウェインの姿を重ね合わせている。と同時に、実はシュレイダーが、この『ハードコアの夜』の物語を考案するにあたって、必ずや大きな影響を受けたに違いないと筆者がにらむ、もう1本の映画がある。それは、ロバート・アルドリッチ監督の『ハッスル』(1975)。この映画の中にも、自分の愛娘をブルーフィルムの中に見出して苦悶する、哀れな父親の姿が登場する。演じるのはベン・ジョンソンで、『捜索者』にこそ出ていないが、彼もまたフォードの西部劇には欠かせない常連役者のひとりだった。ちなみにシュレイダーが、東映ヤクザ映画の研究成果を生かして、兄のレナードと2人で共作し、当時空前の高値でワーナーに買い上げられた『ザ・ヤクザ』の映画脚本は、当初アルドリッチが監督する予定となっていたが、企画の交渉段階で交代を余儀なくされ、結局シドニー・ポラックが監督を務めて1974年に映画化された。それ以前にもシュレイダーは、アルドリッチ監督の『キッスで殺せ』(1955)をフィルム・ノワールの精華たる傑作として高く評価していて、自らの監督作『アメリカン・ジゴロ』の中に、既によく知られたブレッソンの名作『スリ』(1959)からの借用以外に、この『キッスで殺せ』からも幾つかの場面をパクッている。 そしてまた、シュレイダーが、日本のヤクザ映画研究から汲み取った、このジャンル必須のお約束事というべきクライマックスの殴り込みシーンは、『ザ・ヤクザ』のみならず、『タクシードライバー』や本作などにしっかり転用されていることも、ここで言い添えておく必要があるだろう。あのクエンティン・タランティーノが偏愛するバイオレンス・アクションで、彼がかつて創設したカルト映画専門の配給会社にこの名を冠したことでも一部の映画ファンにはよく知られた、シュレイダー脚本、ジョン・フリン監督のカルト映画『ローリング・サンダー』(1977)も、やはりこの系譜に連なる1本。ヴェトナム帰還兵の主人公が、孤独や疎外感、苦難を味わった末、後半、その怒りを爆発させる展開は、これまた『タクシードライバー』の姉妹編的作品ではあるが、シュレイダーが当初書き上げた脚本に、後から別人の手が大幅に加えられており、彼はこれを自作とは認めていない。 シュレイダーが約50本にものぼる日本の東映ヤクザ映画をまとめて見て、先に述べた研究論文「ヤクザ映画―入門」を発表した際、そこに『網走番外地』や『緋牡丹博徒』シリーズが含まれていたことは、その文中に言及されていることからおそらく確かだろうが、はたして彼はその時、昨今海外でもすっかり人気の、石井輝男や鈴木則文らのいわゆる東映ピンキー・バイオレンス映画も目にしていたのだろうか? いずれにせよ、シュレイダーは既に1970年代、タランティーノらに先駆けて、映画史上に輝く古典的名作から、セクスプロイテーション映画や日本のヤクザ映画にいたるまで、古今東西のさまざまな映画ジャンルを独自に混ぜ合わせて、ハイブリッドで面白い映画世界を生み出していたことは、今日、もっと多くの映画ファンに知られて再評価されてもいいのではないだろうか。■ ©1978 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2014.05.03
【DVD吹き替え未収録】役者エディ・マーフィをどう解釈し、どう演じ直すか。日本が誇るべき文化、“吹き替え”の真髄がそこにある。
海外で作られた映画・ドラマ・アニメなどの台詞を翻訳し、新たに俳優陣が演じ直す “吹き替え”。日本の映画ファンには、様々な理由を挙げて“字幕派”を標榜する人がいるが、中には只の原語至上主義者もいて、これらを一緒くたにすることには違和感がある。一方、“吹き替え派”は、字幕より吹き替えのほうが作品を理解するのに必要な情報量が多いことに加え、吹き替えを手がけた日本のスタッフ・キャストがどう作品を解釈したかも味わうという大きなお楽しみを共有している。 外国作品を吹き替えで見るのが当たり前という国は多い。アートの国フランスもそうだし、米国こそ、まるで字幕を毛嫌いしているかのようだ。たとえば日本の宮崎駿監督のアニメには、そうそうたる顔ぶれのハリウッドスターが英語吹き替えに集結している。 よく日本の吹き替えは世界最高レベルといわれるが、1本の作品に声優として参加する俳優の数が多い事実は確かだ。米国アニメ「ザ・シンプソンズ」のオリジナル・キャストは主要6人で30人を超えるキャラを演じるが、日本の吹き替えでも台詞が一言しかない複数のキャラを少数の俳優が演じ分けることが多いとはいえ、最終的に映画1本に20人以上が出演することも。こんな“吹き替え”を、文化と呼ばずしてなんと呼ぶのだろう。 前置きが長くなった。エディ・マーフィ。1980年代のハリウッドに彗星のごとく現れ、多数のヒット作に主演しているスーパースターだ。近年では『ドリームガールズ』でアカデミー助演男優賞にノミネートされながら、自分が受賞を逃したと知ってすぐ授賞式の会場を後にするというホットなエピソードを残した。そんな破格の才能マーフィを、日本の吹き替え文化はどう解釈してきたのか。 マーフィが全米で注目を集めたのは、人気バラエティ番組「サタデーナイトライブ」でのこと。初出演当時はまだ19歳で脇役扱いだったが、その芸達者ぶりが認められ、そのシーズンが終わる頃には史上最年少でレギュラーに格上げされた。自身と同じアフリカ系をからかい、セレブたちも同等にコケにするという独自の過激な芸風で人気を博した。 そんなマーフィが映画デビューを飾ったのが1982年の『48時間』。相棒を殺されたジャック刑事(ニック・ノルティ)は、犯人について詳しい受刑者レジー(マーフィ)を48時間だけ釈放させ、捜査に同行させる。ザ・ポリスのヒット曲「ロクサーヌ」をエキセントリックに歌いながら、マーフィは登場。それまでのシリアスな空気を一瞬でユーモラスに変えてしまうだけでなく、主演のノルティを食いかねない、圧倒的存在感を見せた。 『48時間』が日本テレビ系で、続編『48時間PART2/帰って来たふたり』がフジテレビ系で放送された際、レジーを演じたのは下條アトム。実力派俳優だが、海外ドラマ『刑事スタスキー&ハッチ』でスタスキーの声を演じ続けた、吹き替えの名手でもある。“スタハチ”はバディもののお手本のようなドラマだが、そこで三枚目に近いスタスキーを演じた下條にマーフィ演じるレジーをアテさせたのは、下條のネームバリューとバディものを演じるスキルの高さ、両方が生む相乗効果を計算してのキャスティングだったと思う。相手役のノルティをアテたのが、『48時間』では故・石田太郎(吹き替えでは『新刑事コロンボ』も有名)、『48時間PART2~』ではアーノルド・シュワルツェネッガーなどタフガイ役を得意とする玄田哲章というのも、下條の軽妙さをより際立たせる。ちなみに、第1作と第2作の両方で樋浦勉が異なる悪役を演じているが、こんな洒落っ気も吹き替えの魅力だ。 そしてマーフィにとって、今なお語り継がれる代表作になったのが『ビバリーヒルズ・コップ』の3部作。マーフィが演じるのは、不況の町デトロイトで働く刑事アクセル。頭の回転が速く腕っぷしも強い、しかしユーモアを大事にする愛すべき男だ。そんなアクセルが友人を殺した犯人を追って高級住宅街ビバリーヒルズへ。そこでルールやモラルを重んじる地元警察の刑事たちと対立する。第1作の見ものはデトロイトとビバリーヒルズの文化ギャップを軽々と乗り越えるアクセルの活躍。冒頭の違法取引でのマシンガントークから、まさにマーフィの独壇場となっている。 気にしたいのは、『48時間』第1作ではまだ準主演だったマーフィが、『ビバリーヒルズ・コップ』では主演に格上げされている点。マーフィ自身のプロダクションも製作に名を連ねている。『48時間』の大ヒットを受け、映画会社パラマウントはマーフィと独占契約を結んだ(一説によれば5本の出演に対し1500万ドルも払うという破格の待遇だった)。なお余談だが、当初はシルヴェスター・スタローンの主演が予定されたが、スタローンは脚本を直したいといういつもの悪い癖(?)を出し、マーフィがアクセル役に抜擢された。 第1作がテレビ朝日系で放送された際、マーフィの声を演じたのは富山敬。アニメ界において『宇宙戦艦ヤマト』の古代進役といった二枚目役から『タイムボカン』シリーズのコミカルなナレーションまで幅広い役柄を演じた伝説の名優だ。洋画吹き替えでも二枚目から三枚目(TV『特攻野郎Aチーム』のクレージーモンキー役など)まで幅広くこなしたが、『ビバリーヒルズ・コップ』のアクセルもまた二枚目と三枚目の二面性を持ち、名人・富山の豊かな表現力がフルに発揮された。 しかし続編の『ビバリーヒルズ・コップ2』は、放送したのが第1作と異なりフジテレビ系だったためか、『48時間』2部作の下條アトムがアクセル役に。下條にとってもマーフィに慣れたのか、安定した吹き替えとなった。下條はマーフィのヒット作『星の王子ニューヨークへ行く』がフジテレビ系で放送された際も、主人公アキーム王子を好演した。 そして、いよいよこの人の出番だ。山寺宏一。最終的にマーフィのほとんどの作品で彼の声をアテる、まさに真打ちになっていく。ザ・シネマが放送する『ビバリーヒルズ・コップ3』は、山寺がアクセルを演じたテレビ朝日バーションだ。 なぜ山寺マーフィが待望されたか。それはマーフィ自身の芸風の変化に理由がある。往年の喜劇スター、ジェリー・ルイスに影響を受けたのか、少年時代から物真似の天才といわれたマーフィは、1人で何役も演じる芸を売りにすることが増える。『星の王子ニューヨークへ行く』でマーフィは、特殊メイクの力も借りて1人4役に挑戦。また、ルイス主演の『底抜け大学教授』をリメイクした『ナッティ・プロフェッサー クランプ教授の場合』では1人7役に挑み、続編『ナッティ・プロフェッサー2 クランプ家の面々』ではマーフィ本人を含むとはいえ、1人9役にエスカレート。こうなるとマーフィの声は、“七色の声を持つ男”、山寺にしか演じられないというように評価が定まってしまう。 そんな山寺だが、実はマーフィ以外の仕事でも亡くなった富山敬の後を継いでキャスティングされることが多い。こうして星と星はつながり、マーフィは“吹き替え”界の大きな星座になっているのだ。 以上を通じ、“吹き替え”のスタッフやキャストが、作品や出演者をどう解釈し、それをどう日本語に乗せようと苦労しているのが、何となくでも見えてくるだろう。コンピュータの自動翻訳なんて足元にも及ばない、“吹き替え”の真髄がここにはある。■ Copyright © 2014 by PARAMOUNT PICTURES CORPORATION. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2014.05.01
【未DVD化】80年代アイドル、クリスティ・マクニコルの好演が光る、舞台原作の未DVD化作品
系列的には先行するジョディ・フォスターと同じボーイッシュ系に属するクリスティが、日本でブレイクスルーするきっかけになったのは『リトル・ダーリング』(80)。同系列のトップアイドルだったテイタム・オニールがタイプキャストを嫌ってスルーした不良娘役を振られたクリスティは、少女たちが集まるサマー・キャンプで終始お嬢様然として振る舞う相手役のテイタムを、皮肉にも、完全喰い。外見はタバコが手放せない不良少女が、内側には女の子らしい繊細さを隠し持つ捻れたキャラクターは、以来、彼女の持ち役になり、翌81年に出演した『泣かないで』でも物語の"緩和剤"として大いに効果を発揮している。 まず、これがDVD未リリースなんて意外。1980年代にブロードウェーとハリウッドの架け橋であり続けた人気劇作家、ニール・サイモンが、当時の妻で女優のマーシャ・メイソンを主役に、自身のヒット舞台劇を脚色した演劇ファンにも映画ファンにとってもフレンドリーな一作なのに、なぜ? まあ、その理由はさておき、サイモンによるオリジナルの舞台劇『The Gingerbread Lady』は、彼が往年の大女優、ジュディ・ガーランドにインスパイアされて書き綴った、女優としての才能に恵まれながら自滅的な生活を続けるダメな母親の再生劇。舞台では『レッズ』(81)でアカデミー賞に輝いたモーリーン・ステープルトンが演じてトニー賞を獲ったこの役を、映画では演技派の代名詞でもあったメイソンが演じて4度目のオスカー候補になっている。それは、彼女がサイモン脚色による作品でオスカー候補になった3本目で最後の作品。映画はサイモンの舞台的な展開力が秀逸で、冒頭から字幕では追い切れないスピードで練り上げられた台詞が次々と連打される。 アルコール依存症のリハビリ施設で6年間の禁欲生活に耐え抜いたメイソン演じるヒロイン、ジョージアに、いよいよ退院の日が訪れる。彼女を迎えにやって来るのはショーン・ハケット演じる親友のトビーだ。セレブライフをエンジョイする有閑マダムのトビーは、舞台女優として活躍するジョージアの良き理解者である。そして、ニューヨークにあるジョージアのアパートでウェルカムディナーを作って待機しているのは、同じく親友の舞台俳優、ジミー。ジェームズ・ココが若干粘つく台詞回しで演じるジミーは、食材を運んできたデリバリーボーイに指摘されるほど、誰が見ても分かり易い中年のゲイである。こうして、アルコール依存から一応生還したジョージアと、実は彼女と同レベルの深刻なメイク依存(厚塗りしていないと不安で仕方がない)のトビーにゲイのジミーが加わり、自虐的で辛辣な会話の場が久々にセッティングされる。堰を切ったようにきついジョークを飛ばし合う女2人に対して、ジミーが「あんたたちの会話はセックスの次に面白いわ」と言い放ったり、二重顎をさすりながら「オードリー・ヘプバーンの首が欲しい」と呟いたり、サイモンの舞台的な、ある意味一発ギャグ的な台詞は一旦収録して再生したいほど。聞き逃すのはもったいない。登場人物が散々喋り倒した挙げ句、ドアの外へ消えて行く演出も、舞台的でそつがない。 ところが、そんな雰囲気が一変する。そこら中に充満する演技過多なムードが、クリスティ・マクニコル演じるジョージアの一人娘、ポリーが画面に現れた途端、映画的なそれにシフトする。ポリーはすでにジョージアと離婚している父親の下に引き取られた身ながら、許可を得て1年限定で母娘水入らずの生活を送るべく退院を心待ちにしていたのだ。自分の弱さが原因で手放すことになった娘に対する罪悪感と、今更一緒には住めないという拒絶感から二の足を踏むジョージアをすべて理解した上で受け止めようとするポリーの成熟度を、クリスティは佇まいだけで体現。他の大人たち同様、ポリーの台詞も少なくはないのだが、クリスティは脚本の行間を表情やニュアンスで埋めていく。彼女の抑制された演技は、やがて、様々なトラブルが重なって再び酒に手を出してしまうジョージアを思いっきり詰るシーンで逆方向に振れる。目に一杯涙を溜めて「もうママの事情なんてたくさん!」と言い放つ場面は、クリスティと一緒にわがままな母親に耐えてきた観客の心まで、一緒に解き放ってくれるのだ。 『リトル・ダーリング』の前にTVドラマ『ファミリー/愛の肖像』(1979年4月から東京12チャンネル・現テレビ東京で放映)で5人家族の個性的な次女、レティシアを演じた経験上、クリスティはアンサンブルで映える演技というものを若くして会得していたのかも知れない。サイモンのキャスティングがそれを見込んでのことだったかどうかは不明だが、『泣かないで』に於けるクリスティの演技は気丈さと繊細さを併せ持った、やはり彼女ならではの個性に裏打ちされたものだ。なのに、アカデミー会員は1982年のアカデミー主演女優賞候補にメイソンを、助演女優賞候補にショーン・ハケットを、助演男優賞候補にジェームズ・ココ(ラジー賞も同時受賞)を選んだものの、クリスティだけは候補の枠外へと押しやった。オスカーは分かり易い熱演がお好みなのだ。代わりに、クリスティは同年のヤング・アーティスト・アワードをちゃっかり受賞しているけれど。 劇中には他にもチェックポイントが幾つかある。ジョージアとポリーがショッピングに出かけるシーンで2人をナンパしてくる大学生の片割れは、『フットルース』(84)でメジャーになる前のケヴィン・ベーコン。台詞の中にウッディ・アレンの『マンハッタン』(79)や、ブロードウェーでロングラン公演6年目に差し掛かった『コーラスライン』が出てくるところは、いかにも時代である。また、ジョージアと元恋人の劇作家、デヴィッドが再会するレストラン、JOE ALLENは、物語のニューヨーク西46番街にあるステーキが美味しい老舗レストラン。一般客に混じって公演後に夕食をとる舞台関係者たちの姿を度々見かける有名店だ。 さて、その後のクリスティはどうなったか? 『泣かないで』の後、デニス・クエイド扮する兄とアメリカを旅する『さよならジョージア』(81)、社会派サスペンス『ホワイト・ドッグ』(81)、荒唐無稽な海賊映画『パイレーツ・ムービー』(82)、純愛映画『クリスティ・マクニコルの白いロマンス』(84)と、立て続けに主演作が公開されたがどれも評価はイマイチで、やがて、1998年のTVドラマを最後に芸能界から身を引いてしまう。彼女が久しぶりに脚光を浴びたのは2012年のこと。当時49歳のクリスティはゲイであることをカミングアウトしたのだ。本人はその理由を「同性愛であるがために差別される子供たちを自分がカミングアウトすることで助けたい」と説明。その潔さ、実直さは、かつて女優として確立したイメージと何ら変わらないことを証明してみせた。そんな彼女の今を知った上で観ると『泣かないで』のポリー役は否が応でも味わいが深くなる。■ 1981 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2015.11.30
男たちのシネマ愛①愛すべき、未DVD・ブルーレイ化作品(2)
なかざわ:次にその6作品それぞれについてお話したいと思います。先ほど話題にも出た「スパニッシュ・アフェア」ですが、アクションが多いドン・シーゲル監督映画の中でもかなり異色ですよね。 飯森:まあ、アクションもあるといえばありますけれど(笑)。 なかざわ:でも、基本的には観光ロマンスですよね。そもそもドン・シーゲル監督といえばバイオレンスですから、こういう映画を撮るというイメージが映画ファンにはない。 飯森:主人公も、なかなかドン・シーゲルらしからぬヒーローでね。スペインにやって来たアメリカ人の建築家が、地元の会社の女性秘書に道案内をしてもらうんですけれど、彼女にほれているチンピラが突然飛び出してきて、俺の女に手を出すなってナイフで脅すわけですが、すると主人公は「ごめんなさーい!」って逃げ出しちゃうんですよね(笑)。 なかざわ:「お前とは“できてない”って説明しろ!」ってね。で、後からその秘書に「あの人は男じゃない」とか言われちゃう。とんでもないヒーローですよ。 飯森:あれは衝撃的でしたね。普通、映画でそれは言わないはずでしょ。ましてやドン・シーゲル映画ですから。 なかざわ:しかも1950年代の映画ですよ。まだまだ男は男らしくが社会通念だった時代に、こんな無責任な男ってアリかよという。この主人公を演じているリチャード・カイリー(注6)という俳優は、我々にとっては年を取ってからの名バイプレイヤーとしておなじみですが、若いころの主演作というのは初めて見ましたね。もともとブロードウェーのミュージカル俳優なので、若いころの映画出演作自体が少ないんですよ。そういう意味でも珍しい映画です。あとは、チンピラの片腕みたいなフェルナンドって男が出てきますけど、あれをやっているホセ・マヌエル・マルティンって役者は、後にマカロニ・ウエスタン(注7)の悪役を沢山やっています。他にも、ジェス・フランコ(注8)のフー・マンチュー映画(注9)とか、ポール・ナッシー(注10)のドラキュラ映画にも出ていたし。スペイン産B級映画ではお馴染みの顔で、この人がアメリカ映画に出ていたというのも新鮮な驚きでした。 飯森:あと、これは劇中で言及されていませんが、フランコ政権の時代に作られた映画なんですよね。スペインは’70年代に民主化されましたが、この映画がロケされたころのスペインはゴリゴリの独裁政権下ですよ。 なかざわ:とはいえ、あの国はダブルスタンダードというか、フランコ政権下でも輸出用に結構エログロな映画も作っているんですよね。そういった作品には、スペイン国内向けバージョンとインターナショナル・バージョンがあった。服を着ているとか着ていないとか、残酷なシーンがあるとかないとかの違いなんですけれど。それと、殺人やセックスが絡む映画は必ず舞台をイギリスとかフランスに設定していて、たとえスペイン国内で撮影していても外国の出来事にしちゃう。スペインには人殺しや変質者はいませんからと(笑)。そんな中で、ジェス・フランコやポール・ナッシーが出てきたわけです。 飯森:スペイン映画というのも研究すると面白いかもしれませんね。最近のスパニッシュ・ホラーの質的な素晴らしさとか。個人的には、ドイツ映画がそうしたことをやっていてもおかしくないと思うんですけど。 なかざわ:そうなんですよ。でも、ドイツはナチスのトラウマに戦後ずっととらわれてきちゃったところがあって、そもそもエログロ映画が作れないし、上映できなかった。 飯森:「ネクロマンティック」(注11)がフィルムを没収されて焼却処分されましたもんね。ゲッベルスがやったことと同じことしてんじゃないか!みたいな。って、かなり脱線してしまいましたが(笑)。 なかざわ:だいぶ遠くに行っちゃいましたね(笑)。 注6:1922年生まれ。俳優。代表作は「星の王子さま」(’75)や「エンドレス・ラブ」(’81)など。1999年死去。注7:1960年代に世界中で大ブームを巻き起こしたイタリア産西部劇の総称。欧米ではスパゲッティ・ウエスタンという。注8:1930年生まれ。監督。代表作は「美女の皮をはぐ男」(’61)や「ヴァンピロス・レスボス」(’70)など。2013年死去。注9:クリストファー・リーが中国人の犯罪王フー・マンチューを演じるシリーズ。全5作中、最後の「女奴隷の復讐」(’68)と「The Castle of Fu Manchu」(’69)をフランコが監督。注10:1934年生まれ。俳優。代表作は「吸血鬼ドラキュラ対狼男」(’68)など。ハシント・モリーナ名義で脚本や監督も。2009年死去。注11:1987年製作。死体愛好家カップルの狂気と快楽を描き、本国ドイツはもとより世界各国で上映禁止に。ユルグ・ブットゲライト監督。 次ページ >> 怪人の造形も’80年代的にはイケていたんだろうと思います(飯森) 「スパニッシュ・アフェア」COPYRIGHT © 2015 BY PARAMOUNT PICTURES CORPORATION. ALL RIGHTS RESERVED. 「ザ・キープ」TM, ® & © 2015 by Paramount Pictures. All Rights Reserved. 「世界殺人公社」TM, ® & © 2015 by Paramount Pictures. All Rights Reserved. 「黄金の眼」COPYRIGHT © 2015 PARAMOUNT PICTURES. ALL RIGHTS RESERVED. 「くちづけ」TM, ® & © 2015 by Paramount Pictures. All Rights Reserved. 「ウォーキング・トール」© 2015 by Paramount Pictures Corporation. All rights reserved.