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PROGRAM/放送作品
トト・ザ・ヒーロー
『八日目』のジャコ・ヴァン・ドルマル監督作品。笑いと涙、人生の悲喜が詰まった珠玉の一作
『八日目』で多くのファンを生んだジャコ・ヴァン・ドルマル監督の、数少ない作品のうちの1本。脚本も同監督が手がける。過去と現在、現実と妄想が行き交うストーリーの中に達観した人生観が凝縮されている。
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COLUMN/コラム2018.09.20
映画『テラビシアにかける橋』は、30年越しの、母と息子の共作である
もしもあの出会いがなかったら、その後の人生、大きく違ったかも知れない。あの人とかけがえのない日々を送れたからこそ、自分の人生には明かりが灯った…。 どんな形であれ、そんな存在を得られたら、至極幸せである。たとえその出会いが、ほんの一時で過ぎ、悲しい別れが待ち受けていたとしても…。 児童文学の名作の映画化である『テラビシアにかける橋』だが、歳を重ねて、幾つかの出会いや別れを経た大人にとっては、そんなことを強く反芻させてくれる作品である。 この物語の主人公は、アメリカ・バージニア州の田舎町に住む小学校5年生の男の子、ジェス・アーロンズ。家では姉2人妹2人に挟まれ、父も母も何かと忙しく、十分には構ってもらえない損な役回り。学校では家の貧しさをいじめっ子にからかわれたりもして、鬱屈とした孤独な日々を送っていた。自らが想像した動物などの妄想を描いたスケッチを、見せる相手も居ない。 そんな時にジェスは、都会から転入してきた新しいクラスメートの女の子、レスリー・バークスと出会う。燐家の新しい住人でもあったレスリーを当初は疎ましく思い、ぎこちなく接すジェス。だが彼が描き溜めたスケッチをレスリーに見られて、しかも絶賛されたことから、2人の関係は変わっていく。 両親ともに作家で、都会的でボーイッシュな服装に身を包み、明るく前向きに見えるレスリー。しかしそんな彼女もまた、孤独な魂を抱えていた。 共鳴するものを感じた2人は、毎日のように家の近所の森へと分け入り、遊ぶようになる。お互い孤独だったが故に、豊かに広がった想像の翼を広げて。 そう!ここは巨人や魔法の動物が住む王国、“テラビシア”。そしてジェスとレスリーは、“テラビシア王国”の王と女王なのだ!! 偶然の結び付きで、友情を深めた2人。だがまるで、必然的な出会いだったかのようである。 『テラビシアにかける橋』が、児童文学の映画化であることは、先に書いた通り。そしてこの作品は、キャサリン・パターソンが書いた原作に、ほぼ忠実な映画化である。 アナソフィア・ロブが演じたレスリーが、少々美少女過ぎるきらいはあるものの、ジョシュ・ハッチャーソン演じるジェス同様、彼女も原作のレスリーのテイストをよく再現している。この2人の起用が、映画の成功に結び付いたのは、間違いあるまい。 映画化に当たって見落とせないポイントと言えるのが、製作・脚本に当たった、デヴィッド・パターソン。名字でわかる通り、原作者の身内、それも息子である。 ここで、1977年に出版された、原作の前書きを引用する。(この後は、映画の肝の部分のネタバレにもなるので、『テラビシアにかける橋』をこれから観ようという方には、鑑賞後に読むことをおススメする) 【この先ネタバレが含まれます。】 ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ デビッド・パターソンとリーサ・ヒルへ わたしはこの本を、息子のデビットのために書きました。しかし、デビッドはこれを読んだあと、仲よしだったリーサの名前もこのページに入れてほしいといいます。わたしは、ふたりにこの本をささげます。 キャサリン・パターソン 『テラビシアにかける橋』では、かけがえのない親友同士になったジェスとレスリーに、突然の悲劇が襲う。レスリー同様、ジェスの才能を認めてくれた憧れの先生から誘われ、ジェスが遠出したその日。ひとり森に出掛けたレスリーが、事故のため命を落としてしまうのである。 このエピソードは、デヴィッドの仲よしのガールフレンドだった、リーサの身に起こったことがベースとなっている。彼女は家族と出掛けた海で、雷に打たれて亡くなってしまったのだ。 原作者のキャサリンは、大切な友を亡くしてしまった息子に、リーサの死の意味、そしてそれをどう乗り越えていくかを教えるために、『テラビシア…』を書いたのである。 『テラビシア…』が出版された直後、多くの子どもたちから、「なぜレスリーを死なせたの?」という質問や非難が多く寄せられたという。しかし、現実にあった悲しい事件の衝撃から、息子を守るために書かれた作品である以上、それは避け難い展開だったのである。 そしてレスリーの死を悲しみ非難した多くの子ども達も、大人になっていく中で、きっと知ったであろう。人生に別れは付き物で、それはどうにもならない。だが亡くしてしまった者も、その者がくれた想いや温もりを大切にすれば、きっと自分の中で生き続けることを。『テラビシア…』は、児童文学の不朽の名作に、なるべくしてなったのだ。 デヴィッド・パターソンは、母が自分のために書いた物語を、30年の時を経て、自ら脚本化して製作したわけである。この時代には、1977年には映像化が難しかった、ジェスとレスリーの想像の世界“テラビシア王国”も、VFXの力で更にイマジネーションの膨らんだ世界に描けるようになっていた。 映画となった『テラビシアにかける橋』は、時空を超えた、母と息子の壮大なる共作である。それによって、より深い感動を呼ぶ作品になったとも言える。 因みに私がこの作品と出会ったのも、まったくの偶然だったが、今となっては運命の糸に操られた必然としか思えない。 2007年夏、旅行帰りの国際線の中で、何の予備知識もなく選択した映画が、『テラビシア…』だった。半ば眠りながら、客席の小さなモニターに相対していたのだが、途中からぐっと引き込まれ、終幕では滂沱の涙であった。そしてそのまま半眠りだった序盤の展開を確認するために、すぐに再鑑賞。そしてまたダダ泣きを繰り返した。 この時期は、『テラビシアにかける橋』のアメリカ公開から半年ほど経った頃だが、日本公開予定などは、はっきりとわからなかった。当時の私はまだ、仕事の軸が映画ではなかったので、作品の行方が気になりながらも、煩雑な日常を送る中で、“テラビシア王国”の思い出も、徐々に遠ざかっていった。 年が明けて2008年、ある映画のマスコミ試写へと出掛けた。行き先の試写室は、某映画学校の中に在ったが、そこは2つのスクリーンを構えていた。到着して隣のスクリーンで掛かる作品を見ると、何と『テラビシアにかける橋』!ああ、ちゃんと日本公開するんだ。良かった~などと思うと同時に、当初のお目当ての作品はブッチして、この作品の鑑賞へと切り替えた。スクリーンで初めて対峙する『テラビシア…』に、私の興趣は更に盛り立てられ、涙も枯れんばかりとなった。 その後劇場公開を経て、DVDソフト化と同時に購入。折に触れてリピートしてきたが、初鑑賞から11年を経て、いま“映画活動家”として、このコラムを書いている。 11年前の偶然を思い出しながら、ただ感無量である。◾️
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PROGRAM/放送作品
娼婦ベロニカ
女性に自由がなかった時代に己を貫いた、実在の女流詩人の気高い生き様を描く、愛と官能のロマン史劇
『恋におちたシェイクスピア』の製作プロダクションが、その姉妹編として送り出した史劇。自らの運命を力強く切り開いた実在の高級娼婦を、『ブレイブハート』のキャサリン・マコーマックが官能的に好演する。
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COLUMN/コラム2018.10.12
『ヘルハウス』“オカルト映画ブーム”から45年後の楽しみ方。
呪われた幽霊屋敷の怪異を描く『ヘルハウス』は、1974年9月に日本で劇場公開されている。そしてこの公開のタイミング故に、“オカルト映画ブーム”の文脈で語られることが多い作品となった。 幽霊譚やモンスター、魔女・悪魔など、科学では割り切れない不可思議な超常現象をモチーフやテーマにした作品は、映画の草創期から、繰り返し製作されてきた。ではこのジャンルが、“オカルト映画”と呼ばれるようになったのは、いつ頃からだったのか? その嚆矢として度々取り上げられる作品に、ロマン・ポランスキー監督の『ローズマリーの赤ちゃん』(1968)がある。しかし巷で“オカルト映画”という言葉が浸透したのは、やはりウィリアム・フリードキン監督の『エクソシスト』(1973)以降であろう。少女に取り憑いた悪霊パズズとカソリックの神父の対決を描いて、世界的な大ヒットとなったこの作品は、“オカルト映画ブーム”のまさに立役者となった。 後続の作品の中には、『オーメン』(1976)や『シャイニング』(1980)『ポルターガイスト』(1982)等々の優れものもあった。しかし一方で、“エクソシストもの”とでも言うべき、オリジナリティに欠けるエピゴーネンも、数多登場することとなる。 さて話は戻って、ここで本題の『ヘルハウス』である。『エクソシスト』の日本公開が、1974年の7月。そして冒頭で記した通り、その大ヒットの余波がある、2か月後の9月に、『ヘルハウス』は公開された。 当初は原題(The Legend of Hell House)をおどろおどろしく直訳した『地獄邸の伝説』という邦題が決まっていたが、急遽原題の一部をピックアップした英語タイトルへとチェンジ!本作の宣伝関係者が『エクソシスト』の大ヒットにあやかろうと、「同じカタカナ五文字の『ヘルハウス』で行け~!」となった結果であろうことは、まったくもって想像に難くない。 そんな経緯もあって、まるで“ブーム”に便乗して、製作・公開されたかのような印象さえある、『ヘルハウス』。しかし“エクソシストもの”のような作品群とは、明らかに一線を画す作品なのである。 『ヘルハウス』の原作・脚本を担当したのは、リチャード・マシスン(1926~2013)。小説家としては、1950年24歳の時にデビューし、現在までに3度映画化された「アイ・アム・レジェンド」(1954)や、「縮みゆく人間」(1957)「奇蹟の輝き」(1978)などSFホラーやファンタジーの名作をものしている。更にはウエスタンやノンフィクションまで、長年に渡ってジャンルを横断する活躍を見せた。 脚本家としても、TVシリーズの「トワイライト・ゾーン」(1959~64)、エドガー・アラン・ポー原作の映画化作品『アッシャー家の惨劇』(1960)『恐怖の振子』(1961)などをはじめ、数多くの映画、TVドラマを手掛けている。 自らの小説を脚色した作品を挙げても、スピルバーグの出世作『激突!』(1971)や、『ある日どこかで』(1980)など、名作・話題作のタイトルが、次々に挙がる。 マシスンは、モダンホラー小説の巨匠・スティーヴン・キングが「私がいまここにいるのはマシスンのおかげだ」と語るような、偉大な存在なのである。そして『ヘルハウス』の原作「地獄の家」(1971)は、彼の手掛けた数々の長編小説の中でも、「最高傑作」と評されることが多い作品なのだ。 この作品に先駆けてマシスンは、霊能力者や超能力者など“サイキック”の歴史を描く、長編小説やTVシリーズなどに挑むものの、頓挫して未完に終わっている。しかしその際に長期に渡るリサーチから、超能力や心霊現象などに関する膨大な知識を得た。そしてそれが、『ヘルハウス』へと注ぎ込まれている。 物語の舞台は、エメリック・ベラスコという富豪が建てた巨大な屋敷、通称“ベラスコハウス”。変態的サディストだったベラスコによって、ここを訪れた多くの者がマインドコントロールされ、乱交や近親相姦、獣姦など痴態を繰り広げた果てに、命を落とした。そしてベラスコ自身も、行方不明となる。 その後“ベラスコハウス”に関しては、2度に渡って科学者や霊能者から成る調査団が送り込まれるも、そのほとんどが命を落とすか正気を失うこととなった。そして本作は、2度目から30年の月日を経て行われることとなった、3度目の調査の顛末を描く。 そのメンバーは、物理学者とその妻、若き女性霊能力者、そして30年前の調査でただ一人生き残った、男性霊能力者の4人。 女性霊能力者は、ベラスコの息子と称する霊と交信し、その魂を屋敷の魔力から解き放とうと力を尽くす。一方で、霊の存在など信じない物理学者は、屋敷やそこに居る者たちに異変をもたらすのは、電磁力のようなエネルギーだと分析し、自らが開発した機械で消滅させようと試みる…。 映画版『ヘルハウス』は、原作にほぼ忠実な展開だが、大きな変更点がある。原作ではアメリカのメイン州に位置したベラスコハウスが、映画ではイギリスに移されている。 幽霊屋敷の怪異譚と言えば、アメリカよりもイギリスの方がやはりしっくりくる。そして監督のジョン・ハフは、1950年代からクラシックホラーを数々世に送り出してきた、イギリスのハマープロのテイストが滲み出るように、演出や画面のルックに趣向を凝らしたという。 ハマープロ仕立てのクラシックな幽霊屋敷に、科学者が西洋合理主義で挑むあたり、1973年、アメリカン・ニューシネマ全盛期ならではの“ホラー映画”とも言える。またこの作品の原作が、スティーブン・キングの『シャイニング』など、後の“モダンホラー”の先駆け的な存在となったことを考えると、映画『ヘルハウス』は、“モダンホラー”とイギリス流“クラシックホラー”のハイブリッドとも言える。 さてこの作品、2018年の今、もう一点大きな見どころがある。それは、良く言えば「渋い」、悪く言えば「地味」な、70年代キャスティング。 物理学者夫妻のクライヴ・レヴィルとゲイル・ハニカット、女性霊能者役のパメラ・フランクリン、そして男性霊能力者役のロディ・マクドウォール。中でもロディ・マクドウォールは、『ヘルハウス』での役どころが、彼のキャリアと重なるのが、大変興味深い。 ロディは、1928年生まれ。ジョン・フォード監督の名作『わが谷は緑なりき』(1941)での主演級の役どころなど、“天才子役”として数多くの映画に出演した。『名犬ラッシーの家路』(1943)で共演以来、エリザベス・テイラーの親友であったことも有名だ。 そんな彼も、子役を卒業する頃から低迷。やむなくハリウッドから離れ、その後ブロードウェイでキャリアを積み、30代になってから映画界へと戻った。それからは主に大作映画で脇を固めていたが、アラフォーの頃に大ヒットシリーズに主演級で出演する。『猿の惑星』シリーズ(1968~73)である。ご存知の方が多いと思うが、このシリーズでのロディは、特殊メイクでチンパンジーになり切っており、自分の顔は一切出ない。 そんなシリーズが終了するタイミングに、顔出しで主演したのが、この『ヘルハウス』なのである。そして本作でのロディの役どころは、30年前の調査での唯一の生き残りである、男性霊能力者フィッシャー。 フィッシャーは、30年前には十代中盤で、“天才少年霊能力者”と謳われる存在。しかし件の調査の際に、心身共に深く傷つき、その後世間から身を隠すように生きてきた。『ヘルハウス』は、そんな男が再チャレンジする話なのでもある。そして“ベラスコハウス”内でただ息を潜めて、「貝の殻に閉じ込もっていた」かのように見えたフィッシャーは、最後に大きな勝利を得る。 天才子役の時代から30年の歳月を経て、40代半ばにして本作に主演したロディ。キャスティングの際、作り手側にロディとフィッシャーを重ね合わせる意識がカケラもなかったとは、正直考えにくい。 本作から12年後、ロディは現代を舞台にした吸血鬼ホラーコメディ『フライトナイト』(1985)に出演する。大ヒットとなったこの作品でのロディの役どころは、気弱なヴァンパイアハンター、ピーター・ビンセント。当初はTV 番組の中だけの偽物のヴァンパイアハンターだったピーターだが、主人公の少年に救いを求められて、本物に成長する。 『ヘルハウス』でのフィッシャー役なしでは、考えにくいキャスティングである。そしてこのヴァンパイアハンターが当たり役となって、ロディは続編『フライトナイト2/バンパイヤの逆襲』(1988)にも再登場となった。 『ヘルハウス』の原作及び映画が、後の様々な作品に及ぼした影響なども考えながら観る。それもまた、本作の楽しみ方であろう。◾️
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PROGRAM/放送作品
アンドロメダ・ストレイン 後編
マイケル・クライトン原作、リドリー・スコット&トニー・スコット製作総指揮、SF的急展開を見せる後編
マイケル・クライトンによる小説『アンドロメダ病原体』を、あのリドリー&トニーのスコット兄弟が映像化した、前・後編のSFパニック・サスペンス大作。極めて緻密な考証が本格SFの風格を漂わせる。
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COLUMN/コラム2018.10.18
~昔々イタリアで~レオーネが夢見たもの 『ウエスタン』
セルジオ・レオーネ監督の『ウエスタン』の冒頭。荒野に佇む小さな駅に、悪党面のガンマンたちが現れる。演じるは、ハリウッド製B級西部劇の悪役として鳴らしたジャック・イーラムに、ジョン・フォード組常連の黒人俳優ウディ・ストロードら3人。老駅員に凄んでみせ、他の乗客を追い払うと、3人はそれぞれ己の位置を決めて、待ち伏せの態勢を取る。やがて列車が到着するも、降りる者はなく、拳銃を構えていた3人の緊張が、ふっと緩む。 ところがその時、どこからともなくハーモニカの音色が聞こえてくる。列車が走り出した線路の向こう側に、チャールズ・ブロンソンが演じる1人の男が立っている。やがて3人vs1人の間で、各々の拳銃が火を噴く瞬間が訪れる。…生き残ったのは、ハーモニカの男だけだった…。 レオーネ作品ならではの、エンニオ・モリコーネの旋律も聞こえてこないまま、14分30秒の長きに渡る、このオープニングに関しては、初公開時から厳しい意見が寄せられた。ここで端的な批判の例として挙げるのは、映画評論家の二階堂卓也氏の指摘。労作にして史料的価値も高い、二階堂氏の名著「マカロニアクション大全 剣と拳銃の鎮魂曲」(洋泉社 1999年初版刊行)の中で、次のように断じている。 「思わせぶり過多な演出と執拗なクロース・アップの手法にはいささか辟易させられた。この二つは冒頭から早くもエンエン……といった調子で表現される」「三人の無法者が駅からホームへ出るまでが実に長い」「…意味ありげで、実は何もない俳優たちの所作は頻繁に撮し出され、これには閉口せざるをえないのだ」 なるほど、“マカロニ・ウエスタン=イタリア製西部劇”を、1960年代中盤からリアルタイムで追ってきた筆者ならではの、正しき識見に思える。レオーネ監督が、『荒野の用心棒』(1964)『夕陽のガンマン』(1965)『続・夕陽のガンマン/地獄の決斗』(1966)の、いわゆる“ドル箱三部作”で確立して磨きを掛けた得意技を、「これでもか!」と押し付けてくる様に、ウンザリといったところか。「過ぎたるは猶及ばざるが如し」というわけだ。 しかし私の場合、事情が違う。リアルタイムでスクリーン鑑賞したレオーネ作品は、彼の遺作となった『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(1984)のみ。他の作品は、彼がこの世を去った、1989年以降に初めて触れている。 原題が“Once Upon A Time In The West=昔々、西部で”という本作は、まず“マカロニ・ウエスタン”の世界を確立した、“ドル箱三部作”の総決算的な位置付けにある。それと同時に、『夕陽のギャングたち』(1971)『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』へと続く、ハリウッド資本が大々的に導入された、“ワンス・アポン・ア・タイム三部作”の第1作に当たる。 『ウエスタン』は、60年の生涯で10本に満たない監督作しか残せなかったレオーネが、それでも“巨匠”と言われるに値する風格を見せつけた作品と、私には映る。「過ぎたる」部分にこそ、レオーネの“円熟”そして“野心”が見えてくるのである。 些か“作家主義”が過ぎるという誹りを、免れないかも知れない。しかしレオーネが死してから、そのフィルモグラフィーを追うようになった者としては、決して間違った見方ではないだろう。 “マカロニ…”で名を成したレオーネが、終生憧れたアメリカへの想いを吐露したと言われる、“ワンス・アポン・ア・タイム三部作”。その第1作『ウエスタン』に籠められた“アメリカへの想い”は、実はレオーネ1人だけのものではない。 本作原案に、レオーネと共にクレジットされている、ベルナルド・ベルトルッチとダリオ・アルジェント。後にイタリア映画を代表する存在になる2人だが、当時は20代。ベルトルッチは、駆け出しの映画監督。アルジェントはまだ、映画ジャーナリストだった。 この2人が数か月の間、レオーネ邸に呼ばれては、『ウエスタン』のストーリーのガイドラインを組み立てていった。そんな2人はレオーネと同じく、ジョン・フォード監督作品を代表とする、ハリウッド製西部劇をこよなく愛していた。 レオーネは本作で目指していたものを、後に次のように語っている。 「アメリカの西部劇の伝統的な筋立て、道具立て、背景、そして個々の作品への言及―こういったものを使って、私なりのやり方で国民の創生の物語を作ってやろう、というのが基本アイデアだった。伝統に挑戦したかったんだ。ありふれたストーリーに昔ながらの登場人物たちを配しながら、偉大でロマンティックな大西部を消滅させようとするアメリカ史上最初の経済的大発展の中で、最後の瞬間を生きようとしていた時代のアメリカを再構築したかったんだよ」 『ウエスタン』は、オープニングの待ち伏せシーンが、『真昼の決闘』(1952)へのオマージュであるのをはじめ、様々な“西部劇映画”からの引用に満ちている。『アイアン・ホース』(1924)『シェーン』(1953)『追跡』(1947)『捜索者』(1956)『赤い矢』(1957)『大砂塵』(1954)『ウィンチェスター銃'73』(1950)『ワーロック』(1959)等々。こうした引用の中には、ベルトルッチがレオーネに気付かれぬ内に、イタズラ小僧のようにこっそりと潜り込ませたものもある。作品完成後に指摘されたレオーネは、激怒したという。 その上で『ウエスタン』には、3人にとってイタリア映画界の偉大な先達である、ルキノ・ヴィスコンティ監督の『山猫』(1963)の影響を、強く見出せる。『山猫』は、時代の波に取り残されたイタリア南部の貴族階級が、北部から吹く革新の風によって、没落を決定づけられる物語。一方『ウエスタン』では、馬に乗り西部を開拓したガンマンたちが、鉄道によって財を成さんとする者たちに、居場所を追われていく。 『ウエスタン』キャストのトップにクレジットされるのは、クラウディア・カルディナーレ。『山猫』では、新しい時代の成金勢力者の娘役だった彼女に、本作では、都市部から西部に移り住み、最終的には根を張って生きていくことが提示される、高級娼婦出身のヒロインを演じさせている。これは当然、意識的なキャスティングであろう。 チュニジア出身のイタリア人女優カルディナーレがヒロインの物語で、西部の滅びゆく男たちを演じるのは、チャールズ・ブロンソン、ジェイソン・ロバーズ、そしてヘンリー・フォンダ。彼らはまさに、レオーネのアメリカへの憧れを体現したような俳優たち。特にブロンソンとフォンダのキャスティングは、レオーネにとっては数年来の念願だった。 ハーモニカを吹きつつ復讐を企てながら、ヒロインを支えるように立ち回る流れ者役のブロンソン。『荒野の七人』(1960)で彼を見初めたレオーネが、かつて『荒野の用心棒』(1964)の主役をオファーした経緯がある。しかし、元はイタリア語で書かれた脚本を、妙な英語で訳したものを渡されたブロンソンは、一読すると、にべもなく断った。 余談になるが、ここでブロンソンが『荒野の…』を受けていたら、クリント・イーストウッドに主役が行き着くことはなかった。そうなると、後の“ダーティハリー”にして、アカデミー賞監督であるイーストウッドの今日も、なかったかも知れない。 さて、そんな『荒野の…』主役に関しては、ブロンソンにオファーする前、レオーネが誰よりも出演を熱望した第1候補がいた。それが、名優ヘンリー・フォンダだった。 しかし『荒野の…』時には、まったく無名のイタリア人監督だったレオーネ。彼の想いはフォンダ本人まで届くことなく、そのエージェントから門前払いの憂き目に遭ってしまった。 そして“ドル箱三部作”でレオーネが名声を得た上で、改めての『ウエスタン』出演のオファー。フォンダはレオーネと面談し、未見だった“ドル箱三部作”を観た上で、首を縦に振った。その裏には、フォンダの友人で、『続・夕陽のガンマン…』の主要キャストだった、イーライ・ウォラックの尽力もあったという。 フォンダが『ウエスタン』で演じたのは、鉄道成金の手先になって、幼き子どもでも躊躇なく撃ち殺す、冷酷非情なガンマン。そしてヒロインのカルディナーレも、彼に犯されてしまう。『若き日のリンカーン』(1939)『荒野の決闘』(1946)などで清廉なイメージの強かったフォンダに、敢えて“悪役”をあてたのである。 フォンダは役作りのため、ヒゲをたくわえ、ブラウンのコンタクトレンズを入れて、ロケ地へと現れた。レオーネは直ちに、ヒゲを剃ってコンタクトも外すように、フォンダに命じた。レオーネの憧れた、ブルーの瞳のままのフォンダに“悪役”を演じさせることこそ、大西部が消滅していく様の象徴だったのかも知れない。 こうして理想のキャストを得た上で、ジョン・フォードの『駅馬車』(1939)などに登場する、アメリカ・モニュメントバレーでのロケも実現したレオーネ。2時間45分という長尺で、『ウエスタン』を完成させた。 興行の結果で言えば、フランスでの大ヒット以外は、ヨーロッパ各国で、“ドル箱三部作”の興行収入を下回る結果に。更にはアメリカでは、その長さを嫌ったスタジオ側によって、20分のカットが行われて作品のリズムが狂わされた上に、観客がフォンダの悪役に抵抗を覚えたせいもあってか、惨憺たる成績に終わった。 こうした流れは、“ワンス・アポン・ア・タイム三部作”を通じてのものとなり(遺作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』では、もっと悲惨な短縮&再編集が行われた)、レオーネが撮った“アメリカ映画”が、初公開時に観客席を埋めることは、ついぞ起こらなかった。 しかし『ウエスタン』も『ワンス・アポン…』も、現在ではレオーネの望んだ形が“正規版”。再評価が大きく進んでいる。 レオーネが、生前には遂に掴めなかったアメリカの夢。しかし彼が死して30年近く経った今、その作品の輝きは“映画史”の中で、年を経るごとに増しているかのようだ。◾︎ TM & Copyright © 2018 by Paramount Pictures Corporation. All rights reserved
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PROGRAM/放送作品
アンドロメダ・ストレイン 前編
マイケル・クライトン原作、リドリー・スコット&トニー・スコット製作総指揮のアウトブレイク・スリラー前編
マイケル・クライトンによる小説『アンドロメダ病原体』を、あのリドリー&トニーのスコット兄弟が映像化した、前・後編のSFパニック・サスペンス大作。極めて緻密な考証が本格SFの風格を漂わせる。
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COLUMN/コラム2018.11.22
【追悼】バート・レイノルズの時代があった。少なくともアメリカでは…『トランザム7000』
伝説のトラッカー“バンディット(山賊)”こと、ボウ・ダーヴィル(バート・レイノルズ)。ある日テキサスの大富豪親子から持ち掛けられた、無理難題な賭けに乗る。それは当時、ミシシッピー川以東に持ち出すと密輸扱いとなった、「クアーズビール」400ケースをテキサスまで出向いて積み込み、ジョージア州アトランタまで運搬する、往復3,000㎞ほどを28時間で走破するというもの。 成功すれば8万ドルもの大金が舞い込むが、道中で警察に見付かれば、即お縄となる。バンディットは、相棒のスノーマン(ジェリー・リード)にビールを運ぶトラックを運転させる一方、己はポンティアック・ファイヤーバード・トランザムに乗って、追っ手を撹乱する作戦を取った。 ビールを無事積み込み、いざアトランタへとなった復路で、バンディットはウェディングドレスを纏ったキャリー(サリー・フィールド)という女を拾う。彼女は、その名もジャスティス保安官(ジャッキー・グリーソン)のボンクラ息子との挙式中に嫌気が差して、教会から逃げ出して来たところだった。 怒りに燃えるジャスティスは、息子と共に猛追跡を開始。それが引き金となってバンディットたちは、アーカンソー州・ミシシッピ州・アラバマ州・ジョージア州の各州警察と、壮絶なカーチェイスを繰り広げることとなるのであった…。 アメリカでは1977年の5月、日本では同年10月に公開された『トランザム7000』。いま観ると驚くほどに、その時代を象徴するアイコンが満載の作品である。 1970年台後半という時節はまさに、“大型トラック”がキテいた頃。日本ではデコトラブームの真っ最中で、菅原文太主演の東映『トラック野郎』シリーズ(1975~79 全10作)が、お盆と正月ごとに松竹の『男はつらいよ』と、覇を競い合っていた。同じ頃アメリカでも、ジャン=マイケル・ヴィンセント主演の『爆走トラック'76』(1975)、サム・ペキンパー監督の『コンボイ』(1978)など、トラックが主役と言えるアクション映画が製作されている。そんな中でも最大級のヒットとなったのが、本作『トランザム7000』である。 車が主役という意味ではこの作品、当時の“スーパーカー”ブームにも乗っている。日本では、原題の『スモーキー(警官を意味するトラッカー仲間の隠語)とバンディット』のままで公開するわけにはいかなかったのであろうが、『トランザム7000』という、バンディットが乗り込む車種を、実に思い切りよく押し出して、邦題にしている。 この時分の日本の中高生男子は、「週刊少年ジャンプ」に連載されていた池沢さとし作の漫画「サーキットの狼」(1975~79)などの影響で、猫も杓子もランボルギーニ・カウンタックやフェラーリなどの“スーパーカー”に熱狂していた。もちろん、実際に手に入れたり運転出来る代物ではないので、ある者はモーターショーなどで写真を撮りまくり、ある者は“キン消し=キン肉マン消しゴム”に先立つ、“スーパーカー消しゴム”のコレクションに明け暮れたりしていたのだ。 そんなわけで日本の配給会社は、“トランザム”を敢えて「売り」にする挙に出たわけである。厳密に言うと、“トランザム”を“スーパーカー”の範疇とするのが正しいのかどうかは、かなり微妙らしいが…。 そして、“トラック野郎”“スーパーカー”と並ぶ、いや少なくともアメリカではそれ以上の“時代のアイコン”だったのが、この映画の主演男優!バンディットを演じた、バート・レイノルズその人である。 1936年、アイルランドとネイティブ・アメリカン(チェロキー族)の血を引く父と、イギリス人の母の子として生まれる。大学時代はアメリカン・フットボールの花形選手で、プロ入りを目指したものの、事故による故障で断念。その後友人の薦めもあって、俳優を志すこととなる。 撮影現場でのスタントマンなどを経て、1960年代はTVシリーズやB級アクション映画、マカロニウエスタンなどに出演。しかし1970年代初頭、30代半ばを迎えた頃のバートは、未だ世間の耳目を集める存在ではなかった。 スポットライトが当たったのは、1972年。アメリカの女性雑誌「コスモポリタン」4月号で、クマの毛皮に全裸で横たわり、左手で局部だけを隠したヌードグラビアを披露したのである。よく筋骨隆々という言葉が使われるが、この時代のそれは、1980年代中盤以降に主流となる、スタローンやシュワルツェネッガーのような、エッジの利いたステロイド系の筋肉とは違う。もっとしなやかな、自然体の筋肉とでも言うべきか。そんな、元アメフト選手らしい筋肉に分厚い体毛を纏ったバートのヌードは、センセーショナルな話題となり、“セックス・シンボル”として、大きく注目されるようになったのである。 折しもヌード発表直後に公開された主演作、ジョン・ブアマン監督の『脱出』が、大ヒットを記録!まさにブレイクの時を迎えた。 それ以降は、『白熱』(1973)『ロンゲストヤード』(1974)『ハッスル』(1975)『ラッキー・レディ』(1975)等々、主にアクション映画で男臭い魅力を放ちながら、絶大なる人気を獲得。1976年には『ゲイター』で、監督業にも進出となった。 そんなまさに上り調子の時に出演したのが、『トランザム7000』。アクションに関してはカースタントが主体となるため、バートの身のこなしがたっぷりと見られる作品ではない。しかし、『デキシー・ダンスキングス』(1975)『ゲイター』に続く3度目の共演となった、相棒役のカントリー歌手ジェリー・リードとの息のあった掛け合いや、執念の追跡をする、ジャッキー・グリーソン演じる保安官を次々と出し抜いていく様に、バートのコメディアンとしての才覚が窺える。またこの作品を皮切りに、公私共に暫しのパートナーとなった、サリー・フィールドとのロマンチックなやり取りも、見どころの一つであろう。 追記すれば、これがバートがハル・ニーダム監督と組んだ、コンビ第1作。長年バートのスタントマンを務めた縁から、この作品で監督デビューしたニーダムは、以降『グレート・スタントマン』(1978)『キャノンボール』(1981)など、バートの人気絶頂期を中心に、彼の主演作を6本監督するに至った。 本作の大ヒットによってバートは、翌1978年に初めて、“マネーメイキングスター”のトップに輝く。この“マネーメイキングスター”とは、全米の映画館オーナーや映画バイヤーが、前年度の興行成績に貢献したスターを投票し、その集計の結果として選ばれるもの。バートはこの年から1981年まで、4年連続でトップの座を勝ち取ることとなり、紛れもない人気№1スターとして、君臨した。少なくともアメリカでは…。 なぜこんな書き方になるかと言えば、バートの人気は、日本ではついぞ盛り上がることがなかったからである。『脱出』や『ロンゲストヤード』のような、今も語り継がれるような作品に出演しながらも…である。この頃アクション俳優として、バートのライバルと目されたクリント・イーストウッドと比べると、日本での人気の違いがよくわかる。 イーストウッドは、TVシリーズの西部劇「ローハイド」(1959~65)で人気を得た頃から、セルジオ・レオーネ監督のマカロニウエスタン“ドル箱3部作”に出演した1960年代中盤、そして1970年代以降『ダーティハリー』シリーズ(1971~1988 全5作)などで大スターの地位を確固とした頃に至るまで、「スクリーン」や「ロードショウ」といった日本の映画雑誌の人気投票では、常に上位にランクインしていた。一方でバートは、“マネーメイキングスター”のトップに輝いたような時期でも、そうした投票でベスト10入りしたようなことは、寡聞にして知らない。 クールで寡黙な印象が強いイーストウッドが日本人受けしたのに対し、毛むくじゃらのヌードの印象も相まって、良く言えばホット、悪く言えば暑苦しい印象を抱かせるバートのキャラは、当時の日本人には受け入れにくいものだったのかも知れない。 そんなバートのキャリアは、ライバルのイーストウッドと、2大アクションスターの共演と騒がれた、『シティヒート』(1983)が興行的に失敗した前後から、下降線に入る。イーストウッドがこの頃から監督としての評価もグングンと高め、1992年には『許されざる者』で、アカデミー賞の作品賞と監督賞を得たのとは対照的に、ヒットに恵まれなくなっていく。1989年から90年に掛けては遂に、「B.L.ストライカー」というTVシリーズの探偵ものに主演。今とは違ってこの頃は、ハリウッドでトップを取ったような俳優がTVドラマに出戻ることは、「落ちぶれた」以外の何ものでもなかった。 余談になるが、共に女性関係が派手であったイーストウッドとバート。1980年前後に公私共にパートナーであった女優に関しても、非常に対照的なこととなっている。 本作『トランザム7000』に始まり、『ジ・エンド』(1978 日本未公開)『グレートスタントマン』(1978)、そして本作続編の『トランザム7000 VS 激突パトカー軍団』(1980)まで、バート映画の付属物のように相手役を務めた、サリー・フィールド。彼女はその合間の1979年に出演したマーティン・リット監督の『ノーマ・レイ』で、アカデミー賞主演女優賞を受賞。更にバートと離別後の『プレイス・イン・ザ・ハート』(1984)で2度目のオスカーに輝き、1980年代後半にはキャリア的に、元カレを完全に逆転する形となった。 一方、『アウトロー』(1976)から『ダーティハリー4』(1983)まで、イーストウッドの監督・主演作に6本出演し、私生活でも12年を共にしたのが、ソンドラ・ロック。1989年に2人が破局後、イーストウッドは先に書いた通り、監督としてピークを迎えていくわけだが、一方でロックの方は、イーストウッドに慰謝料請求の訴訟を起こしたり、2人の関係の暴露本を書いたりと、専らゴシップばかりが取り上げられるような存在となっていく…。 些か脱線してしまったが、その後のバートの俳優人生に於いては、齢60を超えた1997年、ポール・トーマス・アンダーソン監督の『ブギーナイツ』で演じたポルノ映画監督の役で、キャリアでは最初で最後のオスカー・ノミネート=アカデミー賞助演男優賞の候補になるという、“復活劇”があった。それもつい昨日のことのように思っていたが、今年の9月になって、バート82歳での訃報を聞くこととなった。いかにもバートとその出演作を愛していそうな、タランティーノ監督の新作出演を目前にしての急死と聞くと、溜息が出る。 バートより6歳年長のイーストウッドが、ハリウッド屈指の大監督として、未だバリバリの現役であることを思うと、余計に…。◼️ © 1977 Universal Pictures. All Rights Reserved.
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PROGRAM/放送作品
アンドロメダ・ストレイン 前編・後編
マイケル・クライトン原作、リドリー・スコット&トニー・スコット製作総指揮のアウトブレイク・スリラー
マイケル・クライトンによる小説『アンドロメダ病原体』を、あのリドリー&トニーのスコット兄弟が映像化した、前・後編のSFパニック・サスペンス大作。極めて緻密な考証が本格SFの風格を漂わせる。
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COLUMN/コラム2018.11.28
“大作パニック映画”!?『大陸横断超特急』のホントのところ
~愛と冒険を乗せて衝撃のノンストップ・サスペンスが始まった!~~完全犯罪をのせ狂気の極地へ突っ走る超特急「シルバー・ストリーク」号構内に突入する殺人パニック暴走列車!~ 『大陸横断超特急』が今から40年以上前、1977年のゴールデンウィークに公開される際の、宣伝用チラシに載っていた惹句である。ヴィジュアル的にも、巨大な列車が駅の壁をぶち破って突入し、客や駅員が逃げまどっている様を背景に、この映画の主演であるジーン・ワイルダー、ジル・クレイバーグ、リチャード・プライア―の3人が、必死の形相でそこから逃れようとしているコラージュがされていた。 本作の日本公開に当たっては配給会社が、“大作パニック映画”のイメージを打ち出していたことが、このチラシ1枚からよくわかる。上映館で販売されたプログラムに載った“解説”にも、「想像を絶するアドベンチャー」「パニック映画」「20世紀フォックスが1000万ドル(30億円)を投じて『ポセイドン・アドベンチャー』以来の大作として贈る」等々の、仰々しい煽り文句が躍る。 ところが後に発売されたDVDなどに収録された“本国版予告編”を観ると、最初の打ち出しは、“コメディ”!次いで“ロマンス”、最後に“アクション”なのである。更に本国版のポスターヴィジュアルも、“シルバー・ストリーク号”が駅に突入している場面が背景なのは同じだが、その前に並ぶワイルダー、クレイバーグ、プライア―の3人は、浮き浮きしたポーズでニコニコ顔なのだ。 では本作のホントのところは?その前にまず、ストーリーを紹介したい。 ロサンゼルスからシカゴまで、2日半かけてアメリカ大陸を横断する、コンパートメント付きの特急列車“シルバー・ストリーク号”。ゆったりとした旅を楽しもうと、列車に乗り込んだ出版業者ジョージ(ワイルダー)は、ヒリー(クレイバーグ)という美女と知り合う。彼女は美術史家シュライナー教授の秘書であり、その講演旅行に同行していた。 ジョージとヒリーはお互いに好意を抱き、ディナーの後にベッドイン。ムードが盛り上がったその瞬間、ジョージの目には、コンパートメントの窓に逆さ吊りになった、シュライナー教授の死体が飛び込んできた。 騒ぎ立てるジョージ。だが結局は、シャンパンの飲み過ぎによる「目の錯覚」だとヒリーに言われ、納得せざるを得なかった。 しかし本当に、殺人事件は起こっていた。犯人は、美術品の贋作を売りさばいて巨額の富を築いた、国際ギャングのデブロー一味。彼らの悪事を暴き立てようとした教授を、口封じのために殺したのである。 そして“シルバー・ストリーク号”を舞台にした、ジョージたちとデブロー一味の対決が始まる…。 このストーリーだと、日本での宣伝で強調された“大作パニック映画”的な要素よりは、“巻き込まれ型サスペンス”の色が強い。実際プログラムの“解説”にも、「ヒッチコックの『北北西に進路をとれ』を思わせるスリラー・サスペンス」という表現が出てくる。 またデブロー一味が教授を殺害するきっかけになった、贋作の証拠品となる“レンブラントの手紙”も、なぜそれが証拠になるかがは、観客に提示されない。これはヒッチコック言うところの、典型的な“マクガフィン”=物語において登場人物にとっては重要であるが、作劇上においては別の何かをそれに当てても問題はないものなのである。 では本当にヒッチコック風の“巻き込まれ型サスペンス”であったり、“スリラー・サスペンス”だったりするのか?実際は、そうしたジャンルにオマージュを捧げつつも、限りなく“コメディ”色が強い作品なのである。 ヒッチコックならば、ジェームズ・スチュアートやケーリー・グラントといった男前をキャスティングしたであろう、主人公のジョージ。ここにジーン・ワイルダーを配した辺りで、オリジナル脚本を書いたコリン・ヒギンズ、『ある愛の詩』(1970)『ラ・マンチャの男』(1972)など、何でも来いの老練なアーサー・ヒラー監督ら作り手が、もうコメディをやる気満々なのが伝わってくる。 1933年生まれのワイルダーは、ブロードウェイを経て、1967年に『俺たちに明日はない』で映画デビュー。翌68年に“コメディ映画の巨匠”メル・ブルックス監督の『プロデューサーズ』に主演してからは、その道を邁進する。 ティム・バートン監督×ジョニー・デップ主演の『チャーリーとチョコレート工場』(2005)のオリジナル版である、『夢のチョコレート工場』(1971 日本未公開)や、この頃はメル・ブルックスと並び称されるような、バリバリのコメディ監督だったウディ・アレンのオムニバス・コメディ『ウディ・アレンの誰でも知りたがっているくせにちょっと聞きにくいSEXのすべてについて教えましょう』(1972)などに出演の後、西部劇パロディの『ブレージング・サドル』(1974)、フランケンシュタイン映画のパロディ『ヤング・フランケンシュタイン』(1974)と、ブルックス監督絶頂期の大ヒットコメディに立て続けに主演。翌1975年には主演も兼ねたワイルダーの初監督作で、名探偵の弟を主人公にした、『新シャーロック・ホームズ おかしな弟の大冒険』も公開されている。 そうした、コメディ映画俳優として、まさに上り調子のキャリアの時に主演したのが、『大陸横断超特急』なのである。 本作でワイルダー扮するジョージは、ヒッチコック映画のヒーローさながらに、美女といい仲になったり、命を狙われて逆襲に出たりするものの、悪党と対峙する度に列車から落とされるというギャグを繰り返す。そこで彼は、偶然知り合った老農婦に複葉機に乗せてもらったり、自分を犯人扱いした間抜けな保安官からパトカーを奪ったりしながら、何とか列車に追いついては乗り込む。 さして速いとも思えない交通手段で追いつくとは、どこが邦題にある“超特急”なのか!? (笑)。まあこの辺り、実に腹を抱える展開なのである。 乗っては落とされ乗っては落とされ…。そんな最中、奪ったパトカーの中で出会うのが、コソ泥で護送中だったグローバー。演じるは、リチャード・プライア―だ! 1940年生まれのプライア―は、60年代からスタンダップコメディアンとして活躍し、70年代前半にはエミー賞やグラミー賞も受賞。あのエディ・マーフィーやクリス・ロックも崇める、伝説的な存在である。 映画には60年代後半から出演するようになり、ブルックス監督×ワイルダー主演の『ブレージング・サドル』の脚本にも参加している。そうした意味では、ワイルダーとプライア―は既に邂逅しているものの、本作がスクリーン上での初顔合わせである。 プライア―演じるグローバーは、ワイルダー演じるジョージのピンチを救う役どころだが、同時にお笑いを増幅させる役割をも見事に果たしている。特に殺人犯人と疑われたジョージを、捜査の網から逃すために、グローバーの指導で“ある者”に変装させるというやり取りが、ホントに最高である!具体的には記さないので、是非楽しみに観て欲しい。 因みに、この後ワイルダーとプライア―は名コンビとして、『スター・クレイジー』(1980)『見ざる聞かざる目撃者』(1989)『サギ師とウソつき患者』(1991)と、本作を含めて4作品で共演を重ねることとなる。 というわけで、ワイルダーとプライア―の掛け合いが、最大の見どころとも言える『大陸横断超特急』。なぜアメリカでの大ヒットにも拘わらず、日本では看板に偽りありの、“大作パニック映画”のような売り方になってしまったのか? まず思い当るのが、日本的には、「売りになる」スターが1人も出ていない作品であったこと。アメリカで人気のコメディアンといっても、一部の例外を除いて、日本では全く集客力を持たない。ヒロインのジル・クレイバーグが、ポール・マザースキー監督の『結婚しない女』(1978)でブレイクするのも、もう少し後のことである。 付記すれば、日本では同じ年の暮れの公開で大ヒットした、『007 私を愛したスパイ』(1977)に殺し屋の“ジョーズ”役で登場し大人気となる、身長2m18cmの巨漢リチャード・キールも本作に出演している。やはり殺し屋(しかも“ジョーズ”の鋼鉄の歯と同じような、金歯をしている!)を演じているが、こちらもまだブレイク前のことであった。 そんなこんなで本作の宣伝部は、列車の突入シーンをフィーチャーして、『ポセイドン・アドベンチャー』(1972)『タワーリング・インフェルノ』(1974)などから本格化した、“パニック映画”ブームを利用する挙に出たのであろう。付け加えれば本作日本公開の数か月前、猛スピードで爆走する列車のパニックサスペンス『カサンドラクロス』(1976)が大ヒットしたばかりという余波も、当然あったように思える。 今回一つ勘違いしていたのは、邦題の“大陸横断…”という部分。公開当時流行っていた記憶があるTV番組、「アメリカ横断ウルトラクイズ」に由来するのかなと思っていた。ところが調べてみると、『大陸横断超特急』の日本公開の方が、「アメリカ横断ウルトラクイズ」の「第1回」が放送されたのよりも、半年も早かったのである。 となると、逆に番組の方がパクったのか?多分そんなことはないであろうが、公開当時のこうしたアレコレを伝えるのも、その映画を知るための一助になるかなと思う。▪︎ © 1976 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.