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スタローンが同時代に活躍したアクション・スターたちを呼び集めた、史上最強のアクション映画
スタローンが同時代に活躍したアクション・スターたちを呼び集め、“筋肉ばかアクション”という過去のジャンルを、現代に望みうる最高のキャストとクオリティで完全復活させた、映画史上最強のアクション映画。
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COLUMN/コラム2023.04.27
巨匠コッポラのパーソナルな想いが込められた青春映画の傑作『ランブルフィッシュ』
『アウトサイダー』に続くS・E・ヒントン原作の映画化 ‘80年代青春映画の金字塔『アウトサイダー』(’83)を大成功させたフランシス・フォード・コッポラ監督が、文字通り矢継ぎ早に送り出した青春映画『ランブルフィッシュ』(’83)。どちらも原作はS・E・ヒントンが書いたヤングアダルト小説で、マット・ディロンにダイアン・レインという主演キャストの顔合わせも同じ、オクラホマ州タルサに住む貧しい不良少年たちの青春模様を描いたストーリーも似ていたが、しかし両者の最終的な仕上がりはまるで対照的だった。 ハリウッド王道のメロドラマ的な青春映画である『アウトサイダー』に対し、『ランブルフィッシュ』はフランスのヌーヴェルヴァーグ作品を彷彿とさせるクールなアート映画。そもそも、前者は色鮮やかなカラー映画だが、後者はフィルムノワール・タッチのダークなモノクロ映画だ。『アウトサイダー』の記憶があまりに鮮烈だったこともあって、劇場公開時は全く毛色の違う本作に戸惑った観客は少なくなかった。筆者もそのひとりなのだが、しかしこのシュールかつマジカルで神話的な世界観には、なんとも心を捉えて離さない不思議な魅力がある。あれから既に40年近く。改めて両作品を見直すと、『アウトサイダー』はどこか時代に色褪せてしまった感が否めないものの、しかし『ランブルフィッシュ』は今なお圧倒的に新鮮で刺激的でカッコいい。コッポラが「自分の映画の中で最も好きな作品のひとつ」というのも頷けるだろう。 地方都市タルサの荒廃した下町。不良少年グループのリーダー、ラスティ・ジェームス(マット・ディロン)がプールバーでビリヤードに熱中していると、そこへ白いスーツに身を包んだ若者ミジェット(ローレンス・フィッシュバーン)が訪れ、敵対グループのリーダー、ビフ(グレン・ウィスロー)からのメッセージを伝える。今夜10時に例の橋のたもとに来い。さもなければぶっ殺す。要するに決闘の果たし状だ。待ってましたとばかりに挑戦を受けたラスティ・ジェームスは、幼馴染みのスティーヴ(ヴィンセント・スパーノ)や右腕のスモーキー(ニコラス・ケイジ)ら仲間たちに声をかける。 昔は不良グループ同士の喧嘩沙汰など日常茶飯事だった。久しぶりにかましてやるぜ!と鼻息を荒くするラスティ・ジェームスだが、しかし仲間たちはいまひとつ気乗りしない様子だ。そもそも、決闘はモーターサイクル・ボーイ(ミッキー・ローク)が禁止したはずだ。モーターサイクル・ボーイとはラスティ・ジェームスの兄貴で、かつて地元の不良たちの誰もが尊敬して恐れた伝説のリーダー。しかし、2カ月前に忽然と姿を消したまま音沙汰がなかった。今はこの俺がリーダーだ。幼い頃から兄貴を尊敬してやまないラスティ・ジェームスは、たとえモーターサイクル・ボーイの言いつけを破ってでも、自分が後継者として相応しいことをみんなに証明したかったのである。 集合する時間と場所を確認して仲間と別れたラスティ・ジェームスは、恋人パティ(ダイアン・レイン)の家を訪ねる。心優しくて気さくな普通の少年の顔を覗かせるラスティ・ジェームス。俺も兄貴みたいになりたいんだとこだわる彼に、パティはもっと自分の良さを大切にするよう諭すが、しかし頑ななラスティ・ジェームスは聞く耳を持たない。そしていよいよ決闘の時間。仲間たちが次々と集まる中、ビフの一味も現場へと到着し、たちまち不良少年同士の大乱闘が始まる。凄まじい気迫でビフをボコボコにするラスティ・ジェームス。すると、そこへ消息不明だったモーターサイクル・ボーイが突然現れ、呆気に取られて立ち尽くしたラスティ・ジェームスは、その隙を狙ったビフに腹を切りつけられて怪我を負う。 負傷したラスティ・ジェームスを介抱するモーターサイクル・ボーイとスティーヴ。意識を取り戻したラスティ・ジェームスは、以前とはまるで別人になってしまった兄貴に困惑する。色覚異常があって色を識別できず、さらに軽度の聴覚障害も患っているモーターサイクル・ボーイは、もともと一種独特の近寄りがたい雰囲気を持っていたが、今ではすっかり物静かで穏やかな人物になっていた。いったいどうしちまったんだ。戸惑いを隠せないラスティ・ジェームスに、飲んだくれの父親(デニス・ホッパー)が言う。みんなモーターサイクル・ボーイのことを誤解している。あいつは生まれてくる場所を間違えただけだと。その意味を理解できないラスティ・ジェームスは、兄貴が家出した母親の行方を探してロサンゼルスへ行っていたことを知る。カリフォルニアはいいぞ。そう呟くモーターサイクル・ボーイ。夢も希望もない地元のスラム街を初めて出て、外の広い世界を知ってしまった彼の中で、何かが大きく変化していたのだ…。 ヨーロッパの名匠たちに影響を受けたティーン向けのアート映画 生まれ育ったスラム街の劣悪な環境に縛られ、自分も兄貴と同じ道を歩む宿命にあると頑なに信じ込んでいた若者が、人生には様々な可能性と選択肢があること、自分らしい人生を自分の意思で選ぶ自由があることに気づくまでを描いた作品。そのことをひと足早く悟った兄貴モーターサイクル・ボーイは、しかしそれゆえに自分が人生の大切な時間を浪費してしまったという現実にもぶち当たる。もっと早く気づけばよかった。自分はもう手遅れかもしれないが、しかしまだ10代の弟ならきっと間に合うはずだ。彼はそのことをラスティ・ジェームスに伝えるため、わざわざ故郷へと戻ってきたのだ。 若いうちは時間なんていくらでもある。どれだけ無駄に過ごしたって平気のへっちゃら。大人になってようやく初めて、人生の時間には限りがあると気づくのさ。劇中でトム・ウェイツ演じるプールバーの店主ベニーが呟く独り言は、まさにそのまま本作のテーマだと言えよう。それゆえ、本作は全編を通して「時間」が重要なモチーフとなっている。足早に流れる空の雲、急速に伸びていく非常階段の影、画面のあちこちに登場する大小の時計、時を刻むようなリズムの実験的な音楽。それらの全てが、登場人物たちの知らぬ間に過ぎ去って行く時間の速さを象徴しているのである。 その実存主義的なテーマを孕んだストーリーには、コッポラ監督が青春時代に見て強い感銘を受けたという、ミケランジェロ・アントニオーニやイングマール・ベルイマンなどのヨーロッパ映画と相通ずるものを見出せるが、中でも主人公ラスティ・ジェームスが生まれて初めて海岸を目の当たりにするクライマックスが象徴するように、フランソワ・トリュフォーの名作『大人は分かってくれない』(’59)からの影響は見逃せないだろう。また、被写体を歪んだ角度から捉えたり、陰影を極端に強調したりしたスタイリッシュなモノクロ映像は、『カリガリ博士』(’20)を筆頭とするドイツ表現主義映画に倣っている。どうやらコッポラ監督は、こうしたヨーロッパの芸術映画群から自身が若い頃に受けた驚きや感動を、本作を通じて’80年代の若者たちにも伝えたいと考えたそうだ。彼が『ランブルフィッシュ』を「ティーンエイジャー向けのアート映画」と呼ぶ所以だ。 そのコッポラ監督がS・E・ヒントンの原作を初めて読んだのは、実は『アウトサイダー』の製作に着手してからのことだったという。そもそも『アウトサイダー』の企画自体が彼の発案ではなく、原作のファンである中学生たちから「コッポラ監督に映画化して欲しい」との署名を渡されたことがきっかけ。実は、それまでヒントンの小説を一冊も読んだことがなかったのである。『アウトサイダー』の製作準備を進める合間に本作の原作を読んだコッポラ監督は、『アウトサイダー』よりもこちらこそ自分が本当に映画化したい作品だと感じたという。その最大の理由は主人公兄弟の関係性だ。 頭が良くて人望のある兄モーターサイクル・ボーイに羨望の眼差しを向け、自分もああなりたいけれどなれない現実に焦りと葛藤を抱えたラスティ・ジェームス。それは、少年時代のコッポラ監督そのものだったらしい。コッポラ監督よりも5つ年上の兄オーガスト(ニコラス・ケイジの父親)は、ヘミングウェイの論文などで知られる研究者であり、カリフォルニア州立大学の理事やサンフランシスコ州立大学芸術学部の学部長も務めたインテリ知識人。少年時代のコッポラ監督にとって優秀な兄は憧れであると同時に、どう頑張っても乗り越えられない壁でもあったそうだ。コッポラ監督は原作を読んで、これは自分と兄の物語だと感じたという。本編のエンドロール後に「この映画を、私の最初にして最良の師である兄オーガスト・コッポラへ捧ぐ」と記されているのはそのためだ。 念願だった役柄を手に入れたマット・ディロンの好演 かくして、『アウトサイダー』の撮影と並行して、原作者S・E・ヒントンと共同で脚本を書き進め、クランクアップの2週間後には『ランブルフィッシュ』の製作に取り掛かっていたというコッポラ監督。半年に渡って取り組んできた『アウトサイダー』とはかけ離れた映画にしたい。そう考えた彼は、色覚異常というモーターサイクル・ボーイの設定に着目し、全編をモノクロで撮影することにした。そもそも、舞台となるスラム街も主人公ラスティ・ジェームスも、いわばモーターサイクル・ボーイの多大な影響下にあるわけだから、劇中の世界全体が彼の色=モノクロに染まっていることは理に適っているだろう。 その中にあって、タイトルにもなっている「ランブルフィッシュ(=闘魚)」だけは鮮やかな色がついている。狭い水槽の中に閉じ込められ、お互いに殺し合う魚たちは、いわばラスティ・ジェームスやモーターサイクル・ボーイの心理的なメタファーだ。そして、最終的にラスティ・ジェームスが兄の呪縛から解き放たれた時、映画の世界は一瞬だけだがフルカラーになる。すぐ元のモノクロの世界へ戻ってしまうのは、恐らくこれがラスティ・ジェームスの人生において、新たな一歩の始まりに過ぎないことを示唆しているのかもしれない。つまり、今度は彼自身が自分の色で自分の世界を染めていくのだ。 ちなみに、現在のようなデジタル加工技術が存在しなかった当時、どうやってランブルフィッシュだけに色を付けたのかというと、その仕組みは意外と簡単。例えば、ラスティ・ジェームスとモーターサイクル・ボーイが水槽の魚を眺めるシーンは、先にモノクロ撮影した俳優たちの映像を背景のスクリーンに投影し、カメラの手前に魚の入った水槽を設置してカラー撮影している。いわゆるバック・プロジェクションというやつだ。 劇中ではチンピラに頭を殴られたラスティ・ジェームスが気を失い、幽体離脱の臨死体験をするシーンも印象的だが、この撮影トリックも実は非常にシンプル。なるべくリアルな映像を撮りたいと考えたコッポラ監督は、フィルム合成やワイヤーの使用は避けたかったという。そこで、ラスティ・ジェームスを演じるマット・ディロンの胴体から型抜きした人体固定用の特製ボディスーツを制作し、それをクレーンや電動式伸縮ポールの先端にセッティング。撮影の際にはマット・ディロンの胴体をそこにはめて固定し、その上から衣装を着用して動かすことで、幽体離脱したラスティ・ジェームスの体が空中を浮遊する様を再現したのである。 そのラスティ・ジェームスを演じるマット・ディロンは、ティム・ハンター監督の『テックス』(’82)を含めると、S・E・ヒントン原作の映画に出演するのはこれが3作目。彼自身、高校時代に授業をさぼってヒントンの小説を読み漁ったほどの大ファンで、中でも『ランブルフィッシュ』の原作は一番のお気に入りだったという。そのため、『テックス』の出演が決まって原作者ヒントンと初めて面会した際には、もしも「ランブル・フィッシュ」が映画化されることになったらラスティ・ジェームスを自分にやらせて欲しいと願い出ていたのだとか。まさに念願の役柄だったわけだが、これが実によくハマっている。粗暴なワルを気取った繊細で優しい少年という設定こそ『アウトサイダー』で演じたダラスと似ているのだが、しかし不良少年グループの兄貴分だったダラスに対して、こちらのラスティ・ジェームスは大好きな兄貴を慕うピュアな弟。どこか愛情に飢えた孤独な子供のようなディロンの個性は、実はこのような弟キャラでこそ真価を発揮する。なお、ラスティ・ジェームスとは原作者ヒントンが飼っていた猫の名前から取られたのだそうだ。 モーターサイクル・ボーイ役のミッキー・ロークは、『アウトサイダー』でダラス役のオーディションを受けたものの年齢を理由に不合格となったのだが、その時のことを覚えていたコッポラ監督に声をかけられて本作への出演が決まった。そういえば、原作でも映画版でもモーターサイクル・ボーイの本名に言及されていないのだが、原作者ヒントンによれば、これは彼がある種の神話的な存在だからなのだという。地元の不良少年たちにとって伝説的なヒーローである彼は、いわばローカル神話における神様のようなもの。そして、神様に本名など必要ないのである。 そのモーターサイクル・ボーイにぞっこんな元恋人カサンドラ(ダイアナ・スカーウィッド)は、誰からも信じてもらえない呪いをかけられたギリシャ神話の預言者カサンドラがモデル。また、原作に出てこない黒人の若者ミジェットは、ギリシャ神話における夢と眠りの神であり、死へ旅立つ者の道先案内人ヘルメスの役割を果たしている。このキャラは『地獄の黙示録』(’79)でローレンス・フィッシュバーンを気に入ったコッポラ監督が、彼のためにアテ書きしたのだそうだが、同時にこの物語の本質が神話であることを監督自身もよく理解していたのだろう。 なお、『テックス』では学校教師役、『アウトサイダー』では病院の看護師役でカメオ出演していた原作者ヒントンだが、本作では黒人居住地区の繁華街でラスティ・ジェームスとスティーヴに声をかける売春婦役で顔を出している。 全米では『アウトサイダー』の劇場公開から約7ヶ月後の’83年10月に封切られた『ランブルフィッシュ』。先述したように「ティーンエイジャー向けのアート映画」を志したわけだが、しかしそのティーンエイジャーを集めた一般試写での反応は芳しくなかったという。観客からは「理解できない」との感想が多かったそうだが、なにしろ当時はスピルバーグ映画やスラッシャー映画の全盛期、恐らくアート映画とは無縁の平均的なアメリカの若者には、ちょっと前衛的過ぎたのかもしれない。それでも、数あるコッポラ監督作品の中でも本作は間違いなくベストの部類に入る。「自分の昔の映画を見直すとダメなところばかりに目が行くが、この映画は奇跡的にも殆どが思い通りに上手くいった」というコッポラの言葉が全てを物語っているだろう。■ 『ランブルフィッシュ』© 1993 Hot Weather Films. All Rights Reserved.
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PROGRAM/放送作品
ナインハーフ
[R15+相当]濃密な9週間半の愛。ミッキー・ロークとキム・ベイシンガーが魅せる官能と倒錯のロマンス
『危険な情事』のエイドリアン・ライン監督ならではのスタイリッシュな官能描写が満載のラブストーリー。有無を言わさずヒロインを倒錯の世界へと誘っていく、ミッキー・ロークの圧倒的な色気に魅せられる。
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COLUMN/コラム2021.03.26
“天国”で地獄を見た男が、起死回生を賭けた一作『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』
1979年4月9日に開催された、「第51回アカデミー賞」の主役となったのは、40歳になったばかりのマイケル・チミノ。この日に作品賞や監督賞をはじめ、最多5部門でオスカーに輝いた、『ディア・ハンター』(1978)の監督であり、プロデューサーの1人だった。 チミノは、広告業界を経て、映画界入り。まずは脚本家として、『サイレント・ランニング』(72)『ダーティハリー2』(73)の2本を共同執筆した。 監督デビュー作は、クリント・イーストウッド主演の、『サンダーボルト』(74)。ベトナム戦争に出征した、ロシア移民の若者たちの運命を描いた『ディア・ハンター』は、まだ監督2作目だった。 この日「アカデミー賞」監督賞のプレゼンターとして登場したのは、フランシス・フォード・コッポラ。チミノと同年の生まれだが、70年代前半には、『ゴッドファーザー』(72) 『カンバセーション…盗聴…』(74)、そして『ゴッドファーザー PARTⅡ』(74)の3本で、観客の支持を集めると同時に、「アカデミー賞」や「カンヌ国際映画祭」などを席捲。正に飛ぶ鳥を落とす勢いの、時代の寵児となっていた。 しかし70年代後半のコッポラは、ベトナム戦争を舞台に、アメリカの侵略を批判的に描くという、当時としては野心的な試みであった、『地獄の黙示録』(79)の製作が難航。同じく“ベトナム”を題材にした『ディア・ハンター』の方が、製作開始が後だったにも拘らず、先に公開されたのである。 そして迎えた、この日。『地獄の…』が未だ完成に至らないコッポラの手から、チミノにオスカーが渡されるというのは、極めて象徴的な出来事と言えた。 作品賞の授与は、更にドラマチックな展開となった。プレゼンターは、長きに渡ってハリウッドの帝王として君臨した、大スターのジョン・ウェイン。間もなく72才にならんとする彼は、末期がんに侵されており、瘦せ衰えた姿での登壇であった。 ウェインと言えば、“赤狩り”の積極的な旗振り役を務めたほどの、典型的なタカ派。“ベトナム”に関しては、“反戦運動”の高まりに抗し、アメリカ軍を正義の味方として描くプロバガンダ映画『グリーン・ベレー』(68)を、製作・監督・主演で発表している。 そんな彼が最後の晴れ舞台(ウェインはこの式典の2か月後に死去)で、『グリーン…』のちょうど10年後に製作された“ベトナム反戦映画”『ディア・ハンター』の名を読み上げ、オスカー像を手渡したわけである。歴史の皮肉であると同時に、その後の展開次第では、ハリウッド帝国の「王位の引継ぎ式」として、映画史に残る可能性さえあった そう。この時のマイケル・チミノは、新たに玉座に就いたかのような、輝かしい存在であった。そして、オスカーを手にした日からちょうど2週間後=4月16日には、監督第3作がクランクインしたのである。 その作品の名は、『天国の門』。オスカー戦線を再び目指す構えで、翌80年の10月19日に、ニューヨークでプレミア上映が行われた。しかし、まさかそのお披露目の瞬間に、チミノが『ディア・ハンター』で得た栄光が、灰燼に帰してしまうとは…。『天国の門』は、1890年前後のワイオミング州で起こった「ジョンソン郡戦争」をモチーフに、入植者である東欧系移民の悲劇を描いた西部劇である。1,100万ドルの予算でスタートしながらも、チミノの完全主義にオスカーの余勢もあって、製作費が当初の4倍=4,400万ドルという、当時としては前代未聞の規模にまで膨らんでしまった。 そして、3時間39分という長尺で完成した『天国の門』は、件のプレミア上映で、観客からも評論家からも総スカンを喰らう。公開から1週間後には、製作会社のユナイテッド・アーティスツが、フィルムを映画館から引き上げ、全米及び海外での公開は、延期となってしまった。 翌春には2時間29分まで尺を詰めた再編集版が公開されたものの、結局4,400万ドル掛かった製作費の10分の1も回収できず、大失敗に終わった。この災禍により、ユナイテッド・アーティスツは経営危機に陥り、60年以上に及ぶその歴史に、幕を下ろすこととなった。 ハリウッドの新たな帝王、少なくともその最有力候補であったチミノの名誉は、この歴史に残る「映画災害」で、地に堕ちた。そして彼は、長い沈黙を余儀なくされる。 80年代前半、『天国の門』以前からチミノが準備を進めていた幾つかの企画は、雲散霧消。捲土重来を期して新たに取り組んだ企画に関しても、『天国の門』の二の舞を避けたい各製作会社の判断で、製作中に解雇されるケースが相次いだ。 そんなチミノが、表舞台へと復帰したのが、本作『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』(85)である。 1981年に出版された、本作の原作小説の映画化権を獲得したのは、プロデューサーのディノ・デ・ラウレンティス。フェデリコ・フェリーニ監督の名作『道』(54)や、『キングコング』(76)などの製作で知られる。 ラウレンティスは映画化権を得るとすぐに、チミノに連絡。しかしチミノは当初、この企画に関心を示さなかったという。 他の人材を使って映画用の脚本を作成しようと試みたラウレンティスだったが、うまくいかず、再びチミノにお鉢が回る。他の企画が次々と頓挫していったこともあってか、チミノは一度は断ったこのオファーを、ストーリーや登場人物を、原作から自由に改変できることを条件に、受けることにした。『ミッドナイト・エクスプレス』(78)や『スカーフェイス』(83)などで、当時気鋭の脚本家として注目されていたオリヴァー・ストーンを共同脚本に引き入れたチミノは、メインの舞台となるチャイナタウンへと赴いて取材を重ね、脚本を完成。遂に5年振りとなる新作の、クランクインへと漕ぎつけた。 ニューヨークのチャイナタウン。小さな飲食店で仲間と会していた、“チャイニーズ・マフィア”TOPのワンが、突然刺殺された。犯人が捕まらぬまま、その壮大な葬儀を仕切ったのは、ワンの娘婿であるジョーイ・タイ(演:ジョン・ローン)。 そんな葬儀の様子を見やっていたのは、新しくこの地域の担当となった、市警の刑事スタンリー・ホワイト(演:ミッキー・ローク)だった。ホワイトは麻薬取引などで暗躍する、中国系犯罪組織の壊滅を狙って、動き出す。 マスコミの力を利用しようと考えたホワイトは、TV局の女性キャスターで、中国系のトレーシーに近づく。チャイナタウン内の高級中華料理店に彼女を招き、密議を持ち掛けていると、突然覆面をした2人の男が乱入し、機関銃を無差別に乱射。店内は、パニックに陥る。ホワイトはトレーシーを庇いながら、発砲。犯人たちに深傷を負わせながらも、取り逃がしてしまう。 観光客などに多数の死傷者を出した、この襲撃の黒幕は、ジョーイ・タイだった。彼は店の主人である組織の長老の面子を潰し、その影響力を削ぐために、虐殺劇を演出したのである。 一方、妻との不和を抱えていたホワイトは、この一件をきっかけに、トレイシーとの仲が深まり、やがて不倫の関係となる。それと同時にホワイトは、“チャイニーズ・マフィア”の若きリーダーとなったタイに、全面戦争を仕掛ける。 タイは麻薬の供給量を拡大するため、東南アジアの“黄金の三角地帯”に自ら出向いた際には、商売敵の生首を手土産とするような、残虐な振舞いを躊躇しない。遂には、敵対するホワイトだけでなく、その周辺の者たちにまで、刺客を差し向ける。 怒り心頭に達したホワイトは、タイにとって正念場となる、麻薬取引の現場を急襲!命を懸けた、2人の最後の対決が始まった…。 先に記した通り、ストーリーや登場人物を自由に改変できることを条件に、本作に取り組んだチミノ。主人公の刑事を、原作にはない、ポーランド系に設定にした上、ベトナム戦争帰りのため、アジア系に偏見を持つという要素を加えた。 彼と恋に陥る女性キャスターに関しても、原作とは変更。40代の白人女性だったのを、20代の中国系女性に変えている。 中国系であるタイに、偏見と共に強烈な敵愾心を燃やしながらも、同じ中国系のトレーシーにのめり込んでしまう、ポーランド系の刑事。チミノ曰く、「移民の国アメリカでは、―――系アメリカ人と系がつく人種が多いのが現実。だからアメリカの現実を描こうとしたらエスニックは避けて通れない」。 自身はイタリア系の三世である、チミノ。彼の中では、ロシア系移民が主人公だった『ディア・ハンター』、東欧系の『天国の門』と合わせて、本作はアメリカを描く三部作という位置付けだった。 こうしたチミノのこだわりによって誕生したホワイト刑事役には当初、クリント・イーストウッド、ポール・ニューマン、ニック・ノルティ、ジェフ・ブリッジスらが想定されていたという。しかし最終的に、チミノの前作『天国の門』にも出演していた、ミッキー・ロークに決まる。 当時のロークは、セックスシンボル的に、女性人気がグングンと高まっていった頃で、まだ30代前半。ベトナム帰りで40代後半のホワイトを演じるには、白髪に染めるなどの工夫を凝らしても、些か若すぎたように思える。 しかしチミノは、ロークの身体能力の高さを買って、激しいアクションシーンが多い本作の主役に、彼を据えたという。そうは言っても公開当時は、“チャイニーズ・マフィア”の若きドンを演じたジョン・ローンの、冷酷非情でありながらも貴公子然とした佇まいに対し、ミッキー・ロークより高く評価する声が多かった。それから35年以上の歳月が流れ、チミノの判断が正しかったか否かは、鑑賞者各自の判断に委ねたい。 因みにジョン・ローンは本作の後、ベルナルド・ベルトルッチ監督作で、アカデミー賞9部門を制した『ラスト・エンペラー』(87)に主演。皇帝溥儀を、見事に演じている。 さて本作は、『天国の門』の再現を恐れてか、ラウレンティスがチミノに最終的な編集権を渡さなかった。それが効を奏して(?)、スケジュールも予算をオーバーすることもなく、1985年8月に無事公開に至った。 ノースカロライナ州に在るラウレンティスのスタジオに建て込まれた、ニューヨークのチャイナタウンは、誰もがセットとは思えないほど、精緻な仕上がりであった。そこをメインの舞台として、強烈なヴァイオレンスシーンなど、見どころ満載で展開される“対決”の物語は、134分の上映時間を飽きさせことなく駆け抜ける。 アメリカより半年遅れて、日本では86年2月に公開となった。その際の劇場用プログラムには、~前作『天国の門』の失敗のツケを十二分にカバーする起死回生のホームランになった~などと記されている。 また本作のプロモーションで、チミノとジョン・ローンが来日。その際の記者会見が採録されているが、本作で中国系の俳優を起用して成功したことで、西部開拓時代に中国からの移民が多く従事した、鉄道建設の物語を映画化する、チミノの構想が、実現する可能性が大きくなったなどと、書かれている。 しかし実際のところは、これらはインターネットなき時代に、日本の映画会社がお得意とした、事実の塗り替えであった。本作『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』はアメリカ公開の際、スタート時こそまずまずの成績を上げたものの、アジア系アメリカ人や映画批評家などから、人種差別や性差別的な傾向を指摘され、批判や抗議を受けたことなどが一因となり、動員は下降の一途を辿った。 これに対しチミノは、「『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』は人種差別を描いた映画だけども、人種差別的な映画ではありません」と反論。実際に本編の中でも、偏見を抱き続けていた主人公が、己の過ちを認めるシーンなどが盛り込まれている。 しかし結局は、2,400万ドルの製作費に対して、興行収入は1,800万ドルに止まり、赤字に終わった。チミノの名誉挽回は、失敗に終わったのである。 本作以降のチミノは、『シシリアン』(87)『逃亡者』(90)『心の指紋』(96)といった作品を監督するも、いずれも興行は不発。最後の長編監督作となった『心の指紋』に至っては、ほとんど劇場公開されずに、いわゆる「ビデオスルー」となる始末だった。 その後は「カンヌ国際映画祭」の60回記念として製作された、世界の著名監督34組によるオムニバス映画『それぞれのシネマ』(2007)の中の上映時間3分の一篇を手掛けただけ。2016年、チミノは77才で、この世を去った。 死に至る4年前=2012年に、『天国の門』をチミノ自らが、3時間36分に再編集。ディレクターズ・カット版として、「ヴェネチア映画祭」でお披露目後にアメリカ公開された際、「初公開当時の評価が誤りであった」などと、再評価の声が高らかに上がった。 映画作家として、不遇な後半生を送ったチミノにとって、それはせめてもの慰めだったかも知れない。■
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PROGRAM/放送作品
ダイナー
若き日のミッキー・ロークとケヴィン・ベーコンが好演!大人になりきれない若者たちの古き良き青春群像劇
名匠バリー・レヴィンソンの映画初監督作。1950年代末米国のダイナー(簡易食堂)に集う若者たちの青春群像を、当時のヒット曲を交えてノスタルジックに綴る。ブレイク前のミッキー・ロークら俳優陣にも注目。
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COLUMN/コラム2017.01.14
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2017年2月】飯森盛良
シン・シティ1&2は短編集みたいな映画で、それぞれのエピソードはユルくつながってる。けど、時系列が映画も、原作コミックでさえもメチャクチャで、わかりづらい。そこで、時系列順で見るならこうだ!という懇切丁寧なガイドをここに発表! まず①1のブルース・ウィリス主役のエピソード前後編をセットで ↓②2のアバンタイトル、ミッキー・ロークがホームレス狩りしてる調子コイてる大学生どもをシバくくだり ↓③2のエヴァ・グリーンがファム・ファタル無双のノワールなお話 ↓④2のジョゼフ・ゴードン=レヴィット主役の前後編セット ↓⑤2ラストの、逆襲のジェシカ・アルバ ↓⑥1のミッキー・ロークが一発ヤラせてくれたマブい女の仇を討つお話 ↓⑦1のクライヴ・オーウェン主役エピソード と、いう順番なんです実は。これでもう安心ですね?2本丸ごと録画して、ぜひ2度目はこの順番で再生してみてください。当方で編集してこう流すと著作権侵害で訴えられそうなのでゴメン無理! ©2014 Maddartico Limited. All Rights Reserved.
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PROGRAM/放送作品
シン・シティ 復讐の女神
[R15+]罪の街に再び血の雨が!ロバート・ロドリゲス&フランク・ミラーが放つ衝撃バイオレンス続編
フランク・ミラーがロバート・ロドリゲスと再び組み、自身の人気グラフィックノベルをスタイリッシュに映画化。映画のために書き下ろした2編を含む4つのエピソードを重ね、壮絶なバイオレンスで復讐劇を織りなす。
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COLUMN/コラム2016.04.07
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2016年4月】うず潮
ロバート・ロドリゲス監督の『エル・マリアッチ』『デスペラード』に続くマリアッチ三部作完結編!『デスペラード』に続き主演は アントニオ・バンデラスが務め(第1作『エル・マリアッチ』の主演はカルロス・ガラルドー。本作では製作を担当)、バンデラスを操ろうとする悪徳CIA捜査官にジョニー・デップ、敵役のボスにウィレム・デフォー、その用心棒にミッキー・ローク、さらに ダニー・トレホと個性派俳優が大集結!面々ともに劇中で持ち味出しまくりです! あらすじは、→バンデラス、恋人を殺され引きこもりに…→デップ、麻薬王のデフォーが計画するクーデターを指揮する将軍の殺害をバンデラスに依頼→この将軍、バンデラスの恋人を殺した張本人!バンデラス、復讐に燃え仲間を集める→デップ、デフォーが将軍に支払う大金を横取りしようと画策するが… ロバート・ロドリゲス監督のアクション演出センスが光るガンファイトも、もちろん必見ですが、ジョニー・デップが劇中に着ているナイスなTシャツにもご注目。マジ笑えます!是非ご覧頂きたい1本です! © 2003 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.
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PROGRAM/放送作品
ランブルフィッシュ
[PG-12]伝説の不良だった兄と弟の葛藤が交錯する。コッポラが若手スターを集めて綴る青春ストーリー
S・E・ヒントンの傑作ヤングアダルト小説を、フランシス・フォード・コッポラ監督がモノクロ映像に魚のみ色を付けるなど実験的な演出で映画化。マット・ディロンら当時の人気若手スターたちの競演も必見。
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COLUMN/コラム2015.06.10
COME ON BABY, LIGHT MY FIRE ― ウィリアム・ハートに火をつけた『白いドレスの女』
映画の冒頭、黒地の背景に白抜きの文字で、BODY HEATと本作の原題が浮き上がり、キャスト・スタッフのクレジット紹介が続くその合間を縫って、まるで炎が揺らめくかのように、あるいは女性の体の曲線美を喚起するかのように、シルクの布地が黄金色の光沢を照り映えながら静かになびくイメージ・ショットが、『007』シリーズでお馴染みの映画音楽界の大御所ジョン・バリーのけだるい官能的なテーマ音楽をバックに、一瞬浮かび上がってはまた闇へと消えていく。 そして、観客の期待と好奇心をゆるやかに煽りたてるこの印象的なクレジット・タイトルが終わると共に、遠くで噴煙を上げながら燃え盛る火事の光景を、部屋の窓から静かに眺める本作の男性主人公ウィリアム・ハートの後ろ姿を、キャメラは捉える。上半身をはだけた彼は、いましがた部屋で一人の若い女性と情事を終えたばかり。シャワーを浴びてもすぐ汗が噴き出してしまうと、うだるような夏の暑さに、つい愚痴をこぼす彼女を尻目に、ハートの方は外の火事の様子を子細ありげに見守り、彼の心をなお一層熱く燃えさせてくれる何かの到来を待ち望んでいるような態度を見せるのだ。こうして、実は弁護士でありながらもどこか正体がいかがわしく、危険な火遊びを好むハートのキャラ設定が、いち早く観客にも了解されることとなる。 その願望に応えるかのように、やがてハートの目の前に“宿命の女”が出現する。ある晩、夏の夜風に誘われて野外コンサートの会場を訪れた彼の目の前を、白いドレスに身を包み、スカートのスリットから太腿を大胆にのぞかせたセクシーな美女のキャスリーン・ターナーが飄然と通り過ぎていくのだ。たちまちその美しさに目を奪われ、早速彼女を口説きにかかったものの、いったんは取り逃がしてしまったハートは、その後必死にあとを追い求めた末、ようやくターナーと再会。そこで初めて互いに名を名乗り、握手を交わしたところで、ハートはターナーの肌の異様な熱っぽさに気づく。 「大丈夫。私、平熱が37度以上あるの。きっとエンジンが不調なのね」「どうやら修理が必要のようだな」「それにぴったりの道具を持っているなんて、言わないで」 こうしてターナーの官能的で火照った肉体の秘密の一端に触れたハートは、以後、人妻たる彼女との愛欲と汗にまみれた危険な情事へと突き進み、二人の恋路の邪魔となるターナーの裕福な夫を殺害し、その遺産を分捕ろうと、周到な犯罪計画を立案実行していく。しかし、ハートが運命の主導権を握っているかに思えたその筋書きは、次第に視界に深い霧がかかって先行きが見通せなくなり、実は何を隠そう、彼はターナーがはじめから巧みに仕組んだ罠の恰好のいいカモで、その歯車の一齣としてまんまと利用されていたに過ぎなかったことが、ドラマが進むにつれ、徐々に明らかになっていく…。 『白いドレスの女』(81)は、かつて1940~50年代のハリウッドで生み出されたスタイリッシュで独特のムードあふれる一連の暗黒犯罪映画、すなわちフィルム・ノワールの映画世界を、これが監督デビュー作となるローレンス・カスダンが現代に鮮やかに蘇らせた秀作だ。当時、『スター・ウォーズ 帝国の逆襲』(80)、『レイダース 失われたアーク《聖櫃》』(81)などで新進気鋭の脚本家として売り出し中だった彼は、本作で初監督に挑むにあたって、下手をするとこれが唯一の機会になりかねないと、背水の陣で現場に臨み、映画にフィルム・ノワールという枠組みを使うことで、会話やキャメラワークに贅沢な仕掛けを凝らす特別許可証を手に入れることができたと、後年この時の体験を自ら振り返って語っている。筆者が以前本欄で紹介した、ロバート・アルトマン監督の『ロング・グッドバイ』(73)や、ポール・シュレイダー脚本&マーティン・スコセッシ監督の『タクシードライバー』(76)とは、歴史的伝統に対する作者のアプローチの仕方に個々の違いが見られるものの、本作もやはりフィルム・ノワールの映画的遺産を巧みに現代に有効活用して生み出された、ネオ・ノワールの最良の成果の1つと言っていいだろう。 ■何が彼女をそうさせたか ノワール今昔比較 ところで、40~50年代のハリウッドの古典的フィルム・ノワールと、第2次世界大戦直後のフランスで独自に“発見”されたフィルム・ノワールなる新たな概念が逆輸入される形で英米圏に普及・浸透し、70年代以降、アメリカでもその独特の意匠が現代の映画作りに採り入れられて次第に活性化するネオ・ノワールの作品群を、大きく分かつ決定的なポイントとは何か。それは、かつてのハリウッドにおいては、自主検閲の形で各種の映画製作倫理規定が設けられ、映画の内容や表現上のさまざまな制約があったのに対し、それがついに撤廃され、映画のレイティング制度が導入された68年以降、ハリウッドのメジャー製作映画においても、それまで固く禁じられ、あくまで画面外で暗示するのみに留められてきた、性や暴力の赤裸々で直截的な描写が可能になったことだ(さらにここで付け加えておくと、犯罪者を英雄視したり正当化したりしてはならず、必ず最後には罰せられる運命とする、という従来の作劇上の縛りからも解放されることとなった)。 『白いドレスの女』が、数々のフィルム・ノワールの作品群の中でも、とりわけジェームズ・M・ケイン原作のハードボイルド小説『倍額保険』(邦訳題『殺人保険』)をビリー・ワイルダー監督が映画化した古典的名作、『深夜の告白』(44)を主要な元ネタに利用しているのは、よく知られている。この『深夜の告白』においては、バーバラ・スタンウィックが、保険外交員のフレッド・マクマレーの運命を破滅へと導く冷酷非情な人妻に扮して、映画における強烈な悪女像の一つの典型を打ち立てたわけだが、無論この時代、主役の2人が劇中で裸になるなど到底ありえず、彼らが実際に性的関係を結んだかどうかも慎重に伏せられている。その代わりに、ワイルダー監督は、バスローブを身体にまとっただけの状態で劇中に初登場するスタンウィックの姿を、階下から眩しそうに仰ぎ見るマクマレーの視線を借りて映し出し、さらには、階段を降りるスタンウィックの足首にアンクレットという効果的な装飾品をまとわせて、男を狂わせる“宿命の女”の官能的魅力を強烈に印象づけている。 それに対し、ネオ・ノワール時代のカスダン監督は、『白いドレスの女』において、主役のハートとターナーが共に全裸ですっかり汗だくになりながら不義密通に励む姿を、堂々と描くことが可能になったわけだが、そうした大胆であけすけな官能描写を披露する一方、2人がそこへと至る前段階で、同監督がさまざまな創意工夫を凝らしてお互いの性的感情の昂ぶりを盛り上げ、ついにはハートとターナーが初めて肉体的に結ばれるまでを、仰角のショットをここぞとばかりに差し挟み、風鈴やガラス窓などの小道具を総動員して描くあたりの心憎い演出は、実に芸が細かく効果的で、つい惚れ惚れさせられる。 ■もうひとりのターナー 元祖「白いドレスの女」 ところで、先に名前を挙げたジェームズ・M・ケインと言えば、やはり人妻が行きずりの男と不義密通の関係に陥り、彼と共謀して夫の殺害を企むという、『倍額保険』と同工異曲の筋立てを持つ彼の代表作『郵便配達は二度ベルを鳴らす』が、46年、ハリウッドで映画化されている。実のところ、34年に原作が発表され、ベストセラーとなった時点で、MGMは同作の映画化権をいち早く取得したものの、例の映画製作倫理規定が重い足かせとなって、きわどい内容の物語を持つ同作を映画化するのにすっかり手こずっている間に、39年にまずフランスで、そして43年にはイタリアで、それぞれ独自の翻案映画化がなされていた(後者は、あの名匠ルキノ・ヴィスコンティの監督デビュー作)。 『深夜の告白』の登場と成功を受けて、46年、MGMはあらためて『郵便配達は二度ベルを鳴らす』の映画化に取りかかるが、ここでテイ・ガーネット監督が映画製作倫理規定の厳しい検閲の目を欺くために編み出した何とも意表を衝く戦術とは、奇しくもキャスリーン・ターナーとは同じ姓を持つ当時のハリウッドの人気女優、ラナ・ターナー演じる人妻のヒロインに、映画のほぼ全編を通じて、まぶしいくらいに小綺麗で純白の衣裳をたえず身にまとわせる、というものだった! 官能的な魅力の奥にどす黒い心を秘め、男を破滅へと導く悪女でありながら、見た目はどこまでも天使のように清らかで汚れのない“白いドレスの女”の誕生である。とりわけ彼女が最初に劇中に登場する場面は、映画史上のポピュラーな名場面の1つとしてそれなりに世評は高いが、まるで避暑地で優雅にバカンスを楽しむどこぞの若奥様か、ファッション・ショーの会場からそのまま抜け出てきたようなモデル然とした彼女の姿は、フィルム・ノワールのうす汚れた暗黒世界とはまるで釣り合いがとれず、とんだ場違いもいいところで、筆者にはどうしても噴飯もののギャグとしか思えない。 その一方で、この映画は、流れ者のジョン・ガーフィールドが、人妻のラナ・ターナーのいる街道沿いの安食堂に足を踏み入れるところから物語が始まり、その店の外に掲げられた「MAN WANTED」という人手募集の広告が、「男求む」という意味合いにも取れる仕掛けとなっているのが絶妙のミソとなっていて、ラナ・ターナー自身、私生活においては、まさにそれを地で行くように、華麗で奔放な男性遍歴に彩られた恋多き実人生を歩んだ。 彼女はその生涯において、8回もの結婚・離婚を繰り返し、それ以外にも数々の有名スターたちと浮名を流してゴシップ記事を賑わせた。さらに58年には、彼女と当時の愛人だったギャングの男が派手な痴話喧嘩を繰り広げている最中、14歳の彼女の娘が母親を守ろうと、男を刺殺するというスキャンダラスな事件も発生する。事件後、ラナ・ターナーの女優生命はすっかり断たれたかに思われたが、むしろその逆境をバネに彼女は、母と娘の絆を主題にしたダグラス・サーク監督の母ものの傑作メロドラマ『悲しみは空の彼方に』(59)に主演して劇的なカムバックを果たし、ラストでは黒の喪服に身を包んで感動的な演技を披露。続いて彼女は『黒の肖像』(60)に出演し、白ならぬ“黒いドレスの女”としてさらなる転生を遂げることになる。ちなみに、実はリメイク映画である『悲しみは空の彼方に』の原題は、そのオリジナル版にあたる『模倣の人生』(34)と同様、「IMITATION OF LIFE」という。 そういえば、ジェームズ・エルロイの原作をカーティス・ハンソン監督が映画化した、50年代のロスを舞台にした、これまたネオ・ノワールの傑作の1本『L.A.コンフィデンシャル』(97)の中には、当時のハリウッドの人気女優たちにそっくりの娼婦たちを集めた会員制の高級娼館が人気を博す一方で、主人公の刑事たちが、とあるレストランで偶然目に留めた女優のラナ・ターナーを、本人ではなく、彼女に似せた娼婦とうっかり取り違えるという、何とも痛烈でキツいブラック・ジョークがあって、すっかり爆笑させられたものだった。 ■そしてさらにまた別のターナーが… 模倣の人生、模倣の映画 かつての古典的な映画世界が装いも新たに現代映画の中に甦える。そしてまた、映画の中の虚構の人生と実人生が、それぞれの道を歩みつつも、まるで合わせ鏡のように双方が向き合い、互いが互いを模倣し影響し合いながら、幾重にも交錯した新たな映画的人生を形作る。『白いドレスの女』という映画、そして、バーバラ・スタンウィックやラナ・ターナーの生まれ変わりともいうべきキャスリーン・ターナーが劇中で演じる“宿命の女”は、そうした古今のさまざまな映画や、往年のハリウッドの神話的スター女優の虚飾と退廃に満ち満ちた映画的人生の記憶が幾重にも塗り重ねられて生み出された、多面的でハイブリッドなイメージの集積体であり、視点や角度によって微妙に相貌を変えるその正体や内実を探り当てるのは、なかなか至難の業だ。心の内に抱いていた夢と願望がそのまま叶ったかのごとく、ウィリアム・ハートの目の前に出現したキャスリーン・ターナー演じる“宿命の女”は、しかし途中から徐々に、なぜか彼の手の届かない遠くの存在へと変貌していってしまう。 物語のまだ序盤、ターナーに会いに彼女の屋敷へ出かけたハートが、中庭に一人佇む白いドレスの女の後ろ姿を見つけて、てっきりターナーと思い込み、「抱いてやろうか」と声をかけたら、実は相手は彼女によく似た別人の女性で、ハートがすっかり赤面するというエピソードが出てくる。一見、先に話題に挙げた『L.A.コンフィデンシャル』の例と同様、その場限りの軽い冗談話にも思えるが、実はこれが、後半の物語の急旋回の伏線となっていることが、やがて理解されるはずだ。このあたり、カスダン監督は、アルフレッド・ヒッチコック監督の傑作『めまい』(58)を巧みに下敷きにしていて、他にもラストのオチに向けて、さまざまな物語上の布石がさりげなく各所に仕込まれているのだが、これ以上、筆者があれこれ言葉を差し挟むのは控えることにして、そろそろ映画を始めることにしよう。 さあ、ベイビー、俺のハートに火をつけてくれ。■ TM & © Warner Bros. 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