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PROGRAM/放送作品
フランシスコの2人の息子
歌声は翼にのって夢の彼方へ!アーティストを支えた家族愛を描く、感動の実話!
ブラジルでは知らぬ者はいないといわれるトップ・アーティスト、ゼゼ・ヂ・カマルゴ&ルシアーノが、スターになるまでの苦難を実話にもとづいて映画化!美しい歌声にいやされる感動の物語!
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COLUMN/コラム2017.11.15
五臓六腑にサイモン・ペグが染み渡る珠玉のダークコメディ『変態小説家』~11月08日(水)ほか
■ブリットコムの伝統を踏襲しつつ、新しい境地に立つ怪作 児童作家から犯罪小説家へと転身を図るべく、ビクトリア朝時代の連続殺人事件を研究していた主人公ジャック(サイモン・ペグ)。ところがそのうち「自分も殺人鬼に殺されるのでは?」という妄執に取り憑かれ、引きこもり状態になってしまう。そんなある日、ジャックはエージェントから「ハリウッドの経営幹部があなたの仕事に興味を抱いている」と聞かされ、その重要会議に出るための準備を迫られる。そして彼が家から一歩外へと踏み出したとき、ジャックはさらなる恐怖と直面することになるのだ! 『変態小説家』……いやぁ、それにしても、ため息が漏れるくらいひどい邦題である。原題も“A Fantastic Fear of Everything”(すべての素晴らしい恐怖)と、冒頭のストーリーを踏まえていないと抽象的で理解に困るが、それでもその不忠実さは邦題の比ではない。せめてもうひとつばかし知恵を絞り『妄想小説家』くらいのニュアンスを持たせて欲しかった。それというのも、この要領を得ない邦題のせいで、本作の持ち味がいまひとつ周りに伝わっていない気がするからだ。 そう、このサイモン・ペグ主演のホラーコメディには、いろいろと楽しい要素が詰まっている。まずパラノイアに陥ったジャックの心象が、彼の手がけた児童文学の形を借り、不条理な世界を形成していく異様な語り口が独特だ。そこへ加え、密室から外界へと舞台が移行していく急展開の妙や、細かな伏線を抜かりなく回収していく「空飛ぶモンティ・パイソン」(69〜74)式の構成など、由緒正しいブリットコム(英国コメディ)の韻を踏まえつつ、この映画ならではの世界を形成しているのだ。そもそも主人公が殺人鬼の影に支配される設定からして、ブラックな笑いを特徴とするイーリング・コメディ(英イーリング撮影所で製作された黄金期のコメディ作品群)の様式をまとい、ブリットコムの古典的な流儀に対して敬意を示しているし、また同時にサイモン・ペグの盟友であるエドガー・ライト監督が成立させた、軽快にリズムを刻むフラッシュ編集を採り入れるなど、ブリットコムの最先端な手法にも目配りしている。そうした性質もあって、本作は『007』シリーズの撮影で知られるイギリスの伝統スタジオ、パインウッドが支援している低予算映画の第一回作品となった(撮影自体はもうひとつの伝統スタジオ、シェパートンで行なわれているのが皮肉だが)。 ■笑いの異能者による一人芝居を楽しめ! 本作を監督したクリスピアン・ミルズは、映画『キングスマン』(14)でも楽曲が使用されている英国ロックバンド「クーラ・シェイカー」のギターボーカルとして知られている。なによりもお父さんが、英国を代表する喜劇役者ピーター・セラーズの主演作を数多く手がけたロイ・ボールティング監督で、ブリットコムの血筋をひいた作り手といえる。事実、これが初監督とは思えぬ堂に入ったコメディ演出や、既知されるコメディ映画に類例のない不思議なお笑い感覚が全編にただよっている。 また共同監督として、レディオヘッドやザ・ヤング・ナイヴスのMVで知られるPVディレクター&アニメーターのクリス・ホープウェルが共同監督に名を連ね、彼が手がけたレディオヘッド「ゼア・ゼア」のPVに登場した、動物たちのモデルアニメーションが本作でも効果的に使われている。 だが何にもまして、主人公のジャックを演じたサイモン・ペグ自身の存在が、独特のユーモアとして機能している。特に映画の前半に展開される、彼の一人芝居は圧倒的な見ものだ。常に何かに怯えている狭心なさまや、外界を警戒していたジャックが意を決し、全ての元凶となるコインランドリーに向かうまでの葛藤を、ひたすらハイテンションな演技と、古典落語を演じる噺家のごとき言葉たぐりと感情表現で、観る者を飽きさせることなく劇中へと誘っていく。 このように主人公が常に不安を抱えた一人芝居は、主人公の女性が検診を受け、結果がわかるまでの感情の揺れ動くさまをリアルタイムで捉えた『5時から7時までのクレオ』(62)や、男性恐怖症の女性が妄執にとらわれていくプロセスを丹念に描いたロマン・ポランスキー監督の『反撥』(65)に近いテイストのものといえる。特に本作の場合、後者である『反撥』からの強い影響は明らかだ。象徴的に挿入される眼球のアップや、同作の主人公キャロルの画面から滲むような焦燥感など、それらを『変態小説家』は劇中で見事なまでに反復している。いちおう本作は『ウィズネイルと僕』(87)で知られるブルース・ロビンソン監督が執筆した小説“Paranoia in the Launderette”を基にしたという指摘があるが、こうした映画を出典とするディテールも、同作のプロデュースを務めているサイモンのオタク的なこだわりを感じさせる。 ■実際のサイモン・ペグは、映画とは真逆!? そんなふうに、プロデューサーとしてこの映画を成立させ、また劇中でも圧倒的なパフォーマンスを見せるサイモン・ペグだが、筆者が主演作『ホット・ファズ -俺たちスーパーポリスメン!』(07)の宣伝プロモーションで出会ったときの彼は、あの突き抜けて陽性な感じとは程遠い、物静かで知性的な雰囲気をただよわせていた。もちろん、ときおり楽しいコメントを提供し、周囲に笑いをもたらしてくれるが、それは同席したエドガー・ライト監督の談話を補足するような場合がほとんどで、自分から率先して笑いをとるようなことはなかったと記憶している。 『ショーン・オブ・ザ・デッド』(04)や『宇宙人ポール』(11)など、サイモンとの数多いコンビ共演で知られているニック・フロストは、こうしたコメディ俳優の二面性を主演作『カムバック!』(14)で取材したさい、以下のように語っていた。 「コメディ俳優は 実生活も笑いと楽しさにあふれていると思われがちだけど、コメディとドラマを自然体で演じるタイプの役者は、精神的にも相当の負荷がかかるんだよ」(*1) もっとも、このコメントは同じ頃に亡くなった名優ロビン・ウィリアムスの訃報に触れたものだったのだが(同作の劇中、ロビン主演のTVコメディ『モークとミンディ』(79)が引用されている)、先のサイモンの印象があまりにも強く残っていたので、筆者は反射的に彼の盟友サイモンのことを連想してしまった。 スクリーン上のサイモンと現実の彼との隔たりに、精神的負荷が起因していると思うほど短絡的ではないにせよ、フロストの話は笑いを生業とする役者にはテンプレのごとくついてくるものだ。しかしサイモンの場合、こうしたギャップをコントロールし、あえて自身の中で楽しんでいるフシがある。例えば先の『ホットファズ』のインタビューでも、 「僕はイギリスの、あまり事件が起こらない場所で育ったんで、ロンドンの観光地みたいなところで怪奇事件が起きたら面白いと思い、アイディアを膨らましたんだ」(*2) と発想のきっかけをこのように話していたし、ジェリー・ブラッカイマーが製作するハリウッド・アクション映画のテイストを拝借したことにも、 「ハリウッド・アクションに決して悪意を抱いているワケじゃなく、二兆拳銃の銃撃戦が田舎のパブで行われている、そんなセッティングのズレに笑ってほしいんだよ」(*3) と答えている。なので『変態小説家』で見せた演技も、こうしたギャップにこだわるサイモン自身を体現しているのかもしれない。単にインタビュー当日、虫の居所が悪かっただけかもしれないが、邦題が招く誤解を少しでも和らげるためにも、このようにまとまりよく結ばせてほしい。■ ©2011 SENSITIVE ARTIST PRODUCTIONS LIMITED
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PROGRAM/放送作品
マトリックス徹底ガイド
この特番を見れば、さらに『マトリックス』シリーズの一挙放送が楽しめる!
『マトリックス』シリーズ一挙放送をより分かりやすくお届けするための、女優・川村ゆきえナビゲートによる解説番組。一度見ただけでは理解できない『マトリックス』シリーズの哲学性や深いテーマ性も、早稲田大学大学院の谷川建司教授の解説で、分かりやすく紹介していく。
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COLUMN/コラム2017.10.05
「ロシアSFアクション大作」を開拓した記念碑的作品『プリズナー・オブ・パワー 囚われの惑星』〜10月10日(火)ほか
■ロシア映画史上最大規模のSFファンタジー ロシアのSF映画で即座に思い浮かぶ作品というと、未だにアンドレイ・タルコフスキー監督の『惑星ソラリス』(72)や『ストーカー』(80)あたりが、日本人の一般的認識として幅を利かせているような気がしてならない。もちろん、これらが歴史的名作であることは言を俟たないが、我が国におけるロシア映画の市場が先細りしている影響もあって、最近の作品があまり視野に入ってこないのも事実だ。 しかし2000年代を境に、ロシアではハリウッドスタイルのスケールの大きな映画が興隆を成し、SFジャンルも観念的でアート志向なものばかりではなく、エンタテインメントに徹した作品が量産されている。 こうしたロシアの映画事情の様変わりは、2004年製作のダークファンタジー『ナイト・ウォッチ』に端を発する。同作を手がけた監督ティムール・ベクマンベトフが、当時小さく散らばっていたロシア国内の特殊効果スタジオをひとつにまとめ、大型の作品にも対応できる製作体制を整えた。これはジョージ・ルーカスが『スター・ウォーズ』(77)を手がけ、視覚効果スタジオの大手であるILM(インダストリアル・ライト&マジック)設立をうながし、後のSPFX映画のムーブメントを発生させたのと同じ流れである。つまり映画技術のインフラ整理によって、ロシアは「エンタテインメント大作」としてのSF映画の開発に勢いをつけたのだ。(『ナイト・ウォッチ』『デイ・ウォッチ』に関しては、今冬の「シネマ解放区」にて解説の予定) この『プリズナー・オブ・パワー』も、日本円にして約37億という、当時のロシア映画史上最高額の製作費をかけた大作SFとして公開され、国内で20億円という興行成績を記録している。「それ、赤字じゃないのか?」と思われるだろうが、本作は全世界展開を視野に入れた作りをほどこし、さらに21億円という外貨を稼いでいるのである。1シークエンスにつき1セットという豪華なセット撮影や、完成度の高いCGに支えられたVFXショットの数々。バルクールを取り入れた肉体アクションはハリウッドにも劣らぬものとして観る者の目を奪い、また音楽も当初は『ダークナイト』『パイレーツ・カリビアン』シリーズなどハリウッドアクションスコアの巨匠ハンス・ジマーが担当する予定だったというから、世界市場に打って出ようとする、その本気の度合いがうかがえるだろう。 なにより専制君主の強大な権力を打ち負かそうとする自由な主人公は、ハリウッド映画のヒーローキャラクターを彷彿とさせるものだ。この明快さこそが、本作を「ロシアSFアクション大作」たらしめる牽引力といっていい。 ■ストルガツキー兄弟の小説に最も忠実な映画化作品 しかし意外にも、この『プリズナー・オブ・パワー』、物語に関してはロシアらしいメンタリティを強く放っている。原作は同国を代表するSF文学の大家・アルカージー&ボリス・ストルガツキーの手による長編小説『収容所惑星』。ストルガツキー兄弟は前述したタルコフスキーの『ストーカー』や、2015年の「キネマ旬報」外国映画ベスト・テンで6位に選出されたアレクセイ・ゲルマン監督の『神々のたそがれ』(13)など、映画との関わりは深い。 ただ『ストーカー』や『神々のたそがれ』が原作と大きく異なるのに比べ、『プリズナー・オブ・パワー』は意外にも、原作にほぼ忠実な形で映画化がなされている。こうした大作ともなれば、原作は名義貸し程度であるかのごとく大幅に改変されるが、ストルガツキー原作映画の中でも、最もその世界観に肉薄したものとなっているのだ。 とはいえ、原作と異なる点もなくはない。たとえば主人公マクシム(ワシリー・ステパノフ)の容姿は、映画では青い目をしたブロンド髪だが、原作では黒い瞳のブルネットだ。そして彼の乗る宇宙船は、映画だと小惑星との衝突によって破壊されるが、原作では自動対空砲で撃墜されている。またマクシムは惑星サラクシの住人の言葉を自動翻訳機を通じて理解するが、原作では徐々に現地語を覚えていくのである。 他にもクライマックスでは、国家検察官ユニーク(フョードル・ホンダルチュク)が責任を回避するため自ら死を選ぶが、原作における彼の最後は不明のままになっているし、マクシムと影の統治者ストランニック(アレクセイ・セレブリャコフ/原作では〈遍歴者〉と呼称)との壮絶な一騎打ちも、原作だと淡白な話し合いにとどまり、過激なアクション展開は映画の中だけのことだ。もっとも、これらあくまでディテールの差異にすぎず、物語を大きく激変るようなアレンジではない。 それよりも原作に忠実であるがゆえに、映画も出版当時の社会主義を批判する内容となっているところに注目すべきだろう。マクシムが敵対する惑星サラクシは、政府が「防衛塔」と呼ぶ電波塔からコントロール波を流し、国民を従属させている全体主義国家だ。彼らの服装にはナチス・ドイツのような意匠が見られるが、根底にあるのは社会主義国時代のソ連の姿である。 ロシアNIS貿易会の機関紙「ロシアNIS調査月報」の連載ページ「シネマ見比べ隊」で、記事担当者である佐藤千登勢は、 「保守派政党である統一ロシアの党員である監督が、面と向かってロシア批判をするはずがない。なので惑星サラクシの独裁体制をナチス・ドイツ的に描くことで、反体制的なメッセージをカモフラージュしているのではないか?」 といった旨の考察をしている。確かにそのような考えも成り立つが、この映画の場合は単純に、ストランニックの「ドイツ語をしゃべる地球人」というキャラクター設定にリンクさせたり、また世界展開を視野に入れた作りのため、わかりやすい悪役像としてナチス・ドイツの意匠が用いられたのだと考えられる。 ちなみにこの『プリズナー・オブ・パワー』の監督を務めたフョードル・ホンダルチュクは、名作『戦争と平和』(66)『ネレトバの戦い』(69)で知られる俳優セルゲイ・ボンダルチュクの息子で、姉は『惑星ソラリス』でケルヴィン博士の妻を演じた女優、ナタリヤ・ボンダルチュクという芸能一家の出身である。『プリズナー~』以降は、スターリングラード攻防戦をソ連軍の視点から描いた戦争アクション『スターリングラード 史上最大の市街戦』(13)など、統一ロシア党員らしい作品を手がけたりしているが、『パシフィック・リム』(12)のキービジュアルを模したポスターであらぬ誤解を受けた戦争ファンタジー『オーガストウォーズ』(12)や、今年公開された侵略SF『アトラクション 制圧』など、ロシア映画のエンタテインメント大作化に寄与している監督だ。自身の政治的スタンスがいかにあれ、今いちばん評価が待たれる作家といっていいだろう。 ■「インターナショナル版」と「全長版」との違い ところで、この『プリズナー・オブ・パワー』には「インターナショナル版」と、ロシアで公開された「全長版」がある。日本で公開されたのは前者で、ザ・シネマで放送されるバージョンもそれに準ずる。後者は第一章『Обитаемый остров(有人島)』と第二章『Схватка(武力衝突)』の二部からなる構成なのだが、上映時間の総計は217分と「インターナショナル版」より97分も長い。 こう触れると、やはり気になるのは後者の存在だろう。なので両バージョンの相違をここで具体的に記したいのだが、とにかく当該箇所が多いので、大まかに触れるだけに留めておく。なんせ開巻、いきなりマクシムが惑星に不時着するオープニングからして縮められているし、他にも「全長版」はマクシムが牢獄で再会するゼフ(セルゲイ・ガルマッシュ)が収監される経緯や、ストランニックを筆頭とする高官のいびつな人間関係、あるいは政府軍の軍人だったガイ(ピョートル・フョードロフ)が支配の陰謀を知り、マクシムと共に戦おうとする改心のプロセスなどがスムーズに描かれている。加えて同バージョンでは、マクシムとガイの妹ラダ(ユーリヤ・スニギル)が互いに心を通わせていくところを丁寧に描き、捕虜となった彼女を救う意味がきちんと納得できる編集になっているのだが、「インターナショナル版」ではそのあたりが完全に削り取られ、唐突感の否めない構成になってしまっている。 他にも政府がテレビや新聞などメディア報道を徹底的にコントロールし、厳しい統制をおこなっている描写も広範囲にわたって削られているし、ミサイル攻撃を受けたマクシムとガイが政府の潜水艦に潜入し、軍のミュータント虐待を知る重要なシーンも「インターナショナル版」にはない。 このように列記していくと、「インターナショナル版」はドラマ部分をタイトにまとめ、アクションシーンに重点を置いたバージョンのように感じるだろう。しかし、そのアクションシーンも実のところ、かなり刈り込まれているのだ。特にカフェの出口でマキシムが暴漢に襲撃され、それを見事に返り討ちにするアクションシーンは、2009年の「ロシアMTVムービーアワード」で「ベストアクション賞」を獲た名場面でありながら、後半部がかなり短縮されているのだ。加えてクライマックスの凄絶な戦車戦も「全長版」より3分短かくされ、その編集の暴威はとどまるところをしらない。 放送に合わせたコラムなので、本来ならば「無駄な部分を削ぎ落としたぶん、すっきりして見やすい」とフォローしたいところだが、作品を深掘りしていく「シネマ解放区」の趣旨からすれば、正直「インターナショナル版」は短くなってしまったことで、かえって映画が分かりにくくなっている点を主張せねばならない。現状では権利の関係もあって「全長版」の放送は難しいようだが、いずれは朗報を伝えることができるかもしれない。ともあれ、ひとまず今回放送の「インターナショナル版」に優位性を指摘するならば、日本ではDVD(SD画質)でしかリリースされていない本作を、HDで観られる点にある。ハリウッド映画に拮抗するそのゴージャスな作りは、HDで観てこそ価値を放つ。その満足感たるや『惑星ソラリス』で時代が止まっていた人の、ロシア製SF映画に対する認識を一新させるに違いない。 ちなみに「全長版」にはないが「インターナショナル版」にある要素も存在しており、それがアヴァンタイトルを経て登場する、コミック調のオープニング・クレジットだ。擬音に日本語のカタカナ表記が使われているのと、ラダが日本のアニメやコミックに登場しそうな巨乳美少女に描かれているなど、いかにも海外市場に目配りしたかのような映像だが、そうではない。じつは本作、映画化に合わせてコミックスが刊行され、いわゆるメディアミックス的な展開が図られている。つまりあのオープニングタイトルの絵は、本作のコミック版なのである。序文を原作者のボリス・ストルガツキーが手がけ、映画以上に原作の精神を受け継いでいるとのこと。機会があれば、そのコミックス版も読んでみたいものだ。■ ©OOO “BUSSINES CONTACT”.2010
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COLUMN/コラム2017.09.10
「考えるな、感じるな、ただ下らなさに笑え」香港ナンセンスコメディの正当後継映画『ドラゴン・コップス -微笑(ほほえみ)捜査線-』〜09月11日(月)ほか
おそらくほとんどの方はブルース・リーの一連の作品やジャッキー・チェンの作品のような「カンフー映画」ではなかろうか。その他にジョン・ウーの『男たちの挽歌』や『インファナル・アフェア』、ジョニー・トーの一連の作品のような「香港ノワール」を思い浮かべる方もおられるであろうし、中にはウォン・カーワイやピーター・チャンのようなアート寄りな作品を連想される方もいるのではないだろうか。 そしてそうしたジャンルと並んで、香港映画の代表的ジャンルとして今なお人気を博しているのが、コメディ映画、特にナンセンスコメディ映画なのである。 香港映画は日本の技術者の協力の下、京劇ベースの武侠映画からスタートし、キン・フーやチャン・チェのようなアクション映画に骨太な人間ドラマを持ち込んだ名監督が登場。さらにブルース・リーの登場によって、本物の武術のバックグラウンドを持つ俳優たちによる別次元のアクション映画が登場することで、最初の全盛期を迎える。ブルース・リーの急逝によってその勢いは陰りを見せるかに思えたが、ブルース・リーの遺産である「カンフー映画」というジャンルは次世代のスターを生み出せずにいた香港映画界を延命させることに成功した。 ブルース・リーによって、東アジア最大の映画会社ショウ・ブラザースと並ぶ規模に成長したゴールデン・ハーベスト社は、次なるドル箱の映画を探していた。そこで目を付けたのが、ブルース・リーと同窓で、TV番組の司会者として人気を博し、映画界に活動の場を移していたマイケル・ホイだった。 マイケル・ホイは『Mr.BOO!』シリーズ(日本の配給会社によって一連のシリーズのようなタイトルを付けられているが、それぞれが独立した作品)を立ち上げて、香港映画史上に残るメガヒットを記録。カンフーアクション映画一辺倒であった香港映画界に大きな風穴を空け、この大ヒットがジャッキー・チェン、サモ・ハン・キンポーらを輩出するコメディ・カンフー映画の呼び水になったことは言うまでもない。 『Mr.BOO!』の特徴は、言うまでもなくナンセンスギャグの連発、そして社会風刺の効いたストーリー展開だ(もちろん日本では吹替版の故・広川太一郎氏の絶大な貢献があるが、本稿では無関係なので泣く泣く割愛する)。これ以降、香港には様々な種類の映画が登場し、いよいよアジアのハリウッドとしての地位を確立していくことになる。マイケル・ホイの系譜は、さらに香港映画史上最大級のヒット作となった『悪漢探偵』シリーズに繋がり、ジャッキー・チェンやサモ・ハン・キンポーの『福星』シリーズや『霊幻道士』シリーズといったアクションコメディの大流行に繋がっていくことになる。 そして80年代後半になると、現在に至るまでヒットメーカーとして活躍する一人の天才監督が登場する。バリー・ウォン(ウォン・ジン)だ。芸能一家に育ち、テレビ局の脚本家から映画監督に転身したバリー・ウォンの名を一気に知らしめたのは、何と言っても『ゴッド・ギャンブラー』シリーズだろう。1989年にノワール食の強いギャンブルアクション映画『カジノ・レイダース』を撮りあげたバリー・ウォンは、同時期にナンセンスコメディ、エンタメ方向に思いっきり振り切ったギャンブルアクション映画『ゴッド・ギャンブラー』も制作。香港ノワールのハードコアで陰惨な世界に飽いていた香港の映画ファンは、笑って燃えて最後にホロリとさせる『ゴッド・ギャンブラー』の上映館に押し寄せたのだった。 バリー・ウォンは次々とヒット作の制作・監督・脚本を担当し、そのコメディ作品ではチョウ・ユンファやアンディ・ラウといった人気俳優の新たな側面を引き出すことに成功。そのため多くの有名スターが、こぞってバリー・ウォンの作品に出演するようになっていく。 しかしバリー・ウォンの最大の功績は、コメディ映画の次世代スーパースターを次々と発掘したことであろう。その中でも最大のスターに成長したのがチャウ・シンチーだ。チャウ・シンチーはバリー・ウォンのナンセンスコメディのあり方をさらに進化させて世界的な映画人へと成長していくことになるが、こちらも本稿とは直接関係は無いため割愛する。 さて、このバリー・ウォンの確立したナンセンス・コメディで大化けした俳優もいる。前述のチョウ・ユンファやアンディ・ラウだけでなく、『ドラゴン・コップス』の主役の一人を演じたジェット・リーだ。『少林寺』で大ブレイクした後、不遇な10年を経てコメディ要素を強くしたワイヤーアクション超大作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ』シリーズでマネーメイキングスターの地位を確立したジェット・リー(当時はリー・リンチェイ)。『ワンチャイ』シリーズの監督ツイ・ハークと揉めてシリーズを降板した後に出演したのが、バリー・ウォンの『ラスト・ヒーロー・イン・チャイナ/烈火風雲』だった。ここで『ワンチャイ』以上にワルノリしたコメディ演技を開花させたジェット・リーは次々とバリー・ウォン作品に出演。中でも今回紹介している『ドラゴン・コップス』との類似点の多い『ハイリスク』は、香港映画マニアの好事家の間でも非常に評価の高い作品だった。しかしジェット・リーはハリウッドに進出し、再びシリアス路線に戻ってコメディ演技を封印。実に8年ぶりに本格コメディ映画に復帰したのが、この『ドラゴン・コップス』なのである。 セレブリティの連続死亡事件。死体は常に微笑んでいるという怪異な事件だ。この事件を追っていた刑事プーアル(ウェン・ジャン)と相棒のフェイフォン(ジェット・リー)、そして彼らの女性上司のアンジェラ(ミシェル・チェン)は、死んだ者たちに共通点を見出す。彼らはすべて売れない映画女優のチンシュイ(リウ・シーシー)と関係していたのだった。プーアルはチンシュイから事情を聞くが、チンシュイを迎えにきた姉のイーイー(リウ・イェン)は怪しさ満開。捜査を進めていると、死んだ者たちには保険金がかけられており、その受取人はすべてイーイーだったのだ……。 映画のビジュアル的にジェット・リー主演映画のように思えるだろうが、本作の主演はプーアル刑事役のウェン・ジャンだ。テレビ俳優としてブレイクした後、ジェット・リーがアクションを封印したヒューマンドラマ『海洋天堂』で、ジェット・リーの自閉症の息子役で本格的に映画界に進出。チャウ・シンチーの『西遊記~はじまりのはじまり~』や『人魚姫』でブレイクした若手俳優だ。実生活でもジェット・リーを「パパ」と呼ぶほど仲の良いウェン・ジャンは、共演2作目となる本作でも息の合ったコメディ演技を見せており、コスプレも厭わない自信満々なポンコツという点で前述の『ハイリスク』でのジャッキー・チュンを彷彿とさせる。 またバリー・ウォンは、自作でチンミー・ヤウのような常軌を逸したような超美人女優にムチャブリを繰り返すことで有名だったが、『ドラゴン・コップス』も負けていない。台湾で大ヒットした青春ドラマ『あの頃、君を追いかけた』でブレイクしたミシェル・チェン。本作ではアクションに挑戦したり、壁に激突したりと大活躍を見せる。そして行定勲監督の『真夜中の五分前』で双子の姉妹を演じたリウ・シーシーはワイヤーアクションにも挑戦。さらにシンガーやテレビ番組の司会者として有名で、中国の美人ランキングで1位にもなったリウ・イェンは、パブリックイメージ通りの豊満なバストを半分放り出したまま登場する。 そしてジェット・リーファンなら期待するアクションも盛り沢山。オープニングではジェット・リーとの共演は『カンフー・カルト・マスター』以来6作品というコリン・チョウは、相変わらず息の合ったアクションを展開。監督・主演を務めた映画『戦狼 II』が興行収入800億円超えという世界興行収入を塗り替える大ヒットを記録しているウー・ジンも登場。そして最後には時空を超えた人物との最終決戦が待っている。 ……改めて申し上げるが、本作はハードなバディアクションものではなく、あくまでもナンセンスコメディ映画だ。真面目な作品や、コメディタッチのアクションという期待をして観るとその落差に呆然とする類の作品である。しかしあえて言いたい。 「おれ達の好きな香港映画はこれだ!」 と。 まさにマイケル・ホイが切り開き、バリー・ウォンが再構築し、チャウ・シンチーが世界を制した香港コメディ映画の正当なスタイル。本当に下らないギャグが連発し、ヒット作のパロディが随所に取り込まれ、凄まじい人数のカメオ出演者が登場するというオールスターかくし芸大会的な、香港映画が本来持っていたサービス精神の塊のような作品。その正当後継者が、この『ドラゴン・コップス -微笑捜査線-』なのだ。■ ©2013 BEIJING ENLIGHT PICTURES CO., LTD. HONG KONG PICTURES INTERNATIONAL LIMITED ALL RIGHTS RESERVED
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最新映画情報
最新映画の公開情報や最新DVDの発売情報を放送。来日した監督、スターの記者会見、インタビューなどもお送りします。
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COLUMN/コラム2017.09.03
先史時代の人類にリアルに迫ったエポックメイキング『人類創世』〜09月14日(木) ほか
■立ち遅れていた「原始人もの」というジャンル 『人類創世』といえば2017年の現在、40歳代後半から上の世代にとって、かなり強い印象を与えられている作品かもしれない。「映画と出版とのミックスメディア展開」を武器に映画業界へと参入し、初の自社作品『犬神家の一族』(76)を大ヒットさせた角川書店が、その手法を活かして宣伝協力を図った洋画作品(配給は東映)だからだ。1981年の日本公開時には原作小説がカドカワノベルズ(新書)より刊行され、おそらく多くの者が、原作とセットで映画を記憶していると思う。 とりわけ文学ファンには、この原作の出版は歓喜をもって迎えられたことだろう。著者のJ・H・ロニー兄(1856〜1940)はベルギー出身のフランス人作家で、ジュール・ヴェルヌと並び「フランス空想科学小説の先駆者」ともいうべき重要人物だ。映画『人類創世』の原作である「火の戦争 “La Guerre du Feu”」は、そんな氏が1910年に発表した、先史時代の人類を科学的に考察した小説として知られている。物語の舞台は80,000年前、ネアンデルタール人の種族であるウラム族が、ある日、大事に守ってきた火を絶やしてしまう。彼らは自分自身で火を起こす方法を知らなかったため、ウラムの長は部族の若者3人を、火を取り戻す旅へと向かわせるーー。 物語はそんな3人が大陸を放浪し、恐ろしい猛獣や食人部族との遭遇といった困難を経て、やがて目的を果たすまでを克明に描いていく。日本では16年後の1926年(大正15年)に『十萬年前』という邦題で翻訳が出版されたが(佐々木孝丸 訳/資文堂 刊)、そんな歴史的な古典が、映画の連動企画とはいえ55年ぶりに新訳されたのである。 このように年季の入った著書だけに、じつは『人類創世』が「火の戦争」の初の映画化ではない。最初のバージョンは原作が発表されてから5年後の1915年、フランスの映画会社であるスカグルと、プロデューサー兼俳優のジョルジュ・デノーラによって製作されている(モノクロ/サイレント)。スカグル社は当時、文芸映画の成功によって意欲的に原作付き映画を量産していた時期で、そのうちの一本としてロニーの「火の戦争」があったのだ。ちなみに、このベル・エポック時代のサイレント版は以下のバーチャルミージアムサイト「都市環境歴史博物館」で抜粋場面を見ることができるので、文を展開させる都合上、まずはご覧になっていただきたい。 http://www.mheu.org/fr/feu/guerre-feu.htm この映像を見る限り、先ほどまで力説してきた「科学性の高い原作」からはかけ離れていると感じるかもしれない。このモノクロ版に登場するウラム族は、原始人コントのような獣の皮を着込み、戯画化された古代人のイメージを誇示している。映画表現の未熟だった当時からすれば精一杯の描写かもしれないが、それでもどこかステレオタイプすぎて、どこか滑稽に映ってしまうのは否めない。 ■二度目の映画化はミニマルに、そしてリアルに ーー監督ジャン・ジャック・アノーのこだわり この「火の戦争」を例に挙げるまでもなく、こういった文明以前の描写というのは、過去あまり真剣に取り組まれることがなかった。例外的に『2001年宇宙の旅』(68)が「人類の夜明け」という導入部のチャプターにおいて有史以前の祖先を迫真的に描いていたものの、基本的にはアニメの『原始家族フリントストーン』や『恐竜100万年』(66)、あるいは『おかしなおかしな石器人』(81)のように、いささかコミカルで陳腐な原始人像が充てがわれてきたのだ。 『人類創世』は、そんな状況を打ち破り、先史時代の人類の描写を一新させた、同ジャンルのエポックメイキングなのである。 監督は後に『薔薇の名前』(86)『セブン・イヤーズ・イン・チベット』(97)で著名となるジャン=ジャック・アノー。彼は本作を出資者に売り込むさいのプレゼンで「この映画は『2001年宇宙の旅』における「人類の夜明け」の続きのようなものだ」と説き、「火の戦争」再映画化へのステップを踏んでいる。『2001年〜』を例に出さないと理解を得られない、それほどまでに前例の乏しいジャンルへの挑戦だったのだ。 さらにアノーは作品のリアリティを極めるため、原作にあった登場人物どうしの現代的な会話をオミットし、初歩的でシンプルな言語を本作に導入。それらをジェスチャーで表現するボディランゲージにすることで、あたかも文明以前の人類の会話に間近で接しているような、そんな視覚的な説得力を作品にもたらしている。 そのために専門スタッフとして本作に招かれたのが、映画『時計じかけのオレンジ』(71)の原作者で知られる作家のアンソニー・バージェスと、イギリスの動物学者デズモンド・モリスである。バージェスは先の『時計じかけ〜』において独自のスラング「ナッドサット語」を構築した手腕を発揮し、またモリスは動物行動学に基づき、ウラム族の言語と、彼らが敵対するワカブー族の言語を、この作品のために開発したのだ。 映画はこうした著名な作家や言語学者のサポートによる、アカデミックな下支えを施すことで、80,000年前の先祖たちの様子を、まるで過去に遡って見てきたかのように描き出している。 また、ウラム族をはじめとするネアンデルタール人の容姿にも細心の注意が払われ、極めて精度の高い特殊メイクが本作で用いられている。特に画期的だったのはフォームラテックスの使用で、ラバーしか使えず全身体毛に覆われた表現しかできなかった『2001年宇宙の旅』と違い、体毛を細かく配置できる特殊メイク用の新素材が導入された(本作は第55回米アカデミー賞のメイクアップ&ヘアスタイリング賞を受賞)。他にも広大な原始の世界を活写すべく、スコットランド、ケニア、カナダなどにロケ撮影を求めるなど、古代人の放浪の旅にふさわしい、悠然たるビジュアルを提供している。 こうしたアプローチが功を奏し、本作は言語を必要としない、映像から意味を導き出すミニマルな作劇によって、人類が学びや経験によって進化を得るパワフルなストーリーを描くことに成功したのだ。 ■公開後の余波、そしてロン・パールマンはこう語った。 しかし、そのミニマルな作りが、逆に内容への理解を妨げるのではないかと危惧された。そこで日本での公開時には、地球の誕生から人類が現代文明を築くまでを解説した、短編教育映画のようなアニメーションが独自につけられた(どのようなものだったかは、当時の劇場用パンフレットに画ごと掲載されている)。こうしたローカライズは今の感覚では考えられないが、そのため我が国では、この『人類創世』を本格的なサイエンス・ドキュメンタリーとして真剣に受け止めていた観客もいたようだ。 しかし、原作が書かれた時代から1世紀以上が経過し、再映画化がなされてから既に36年を経た現在。いまの先史時代研究の観点からは、不正確と思われる描写も散見される。同時代における火の重要性、存在しない種族や使用器具etcーー。もはやこのリアリティを標榜した『人類創世』でさえ、偏見に満ちた、ステレオタイプな先史時代のイメージを与えるという意見もある。 ただそれでも、この作品の価値は揺るぎない。描写の立ち遅れていたジャンルに変革を与えるべく、意欲的な作り手が深々と対象に切り込んだことで、この映画は他の追随を許さぬ孤高の存在となったのだ。 『人類創世』以後、監督のアノーは動物を相手とする撮影のノウハウや、自然を舞台とした演出のスキルを得たことから、野生の熊の生態をとらえた『子熊物語』(88)や、同じく野生の虎の兄弟たちを主役にした『トゥー・ブラザーズ』(04)などを手がけ、そのジャンルのトップクリエイターとなった。また俳優に関しても、例えばイバカ族のアイカを演じたレイ・ドーン・チョンは本作の後、スティーブン・スピルバーグの『カラーパープル』(85)や、今も絶大な人気を誇るアーノルド・シュワルツェネッガー主演のカルトアクション『コマンドー』(85)に出演するなど、80年代には著しい活躍を果たしている。 そしてなにより、ウラム族のアムーカを演じたロン・パールマンは『ロスト・チルドレン』(95)『エイリアン4』(97)といったジャン=ピエール・ジュネ監督の作品や『ヘルボーイ』(04)『パシフィック・リム』(13)などギレルモ・デル トロ監督作品の常連として顔を出し、今も名バイプレイヤーとして幅広く活躍している。筆者は『ヘルボーイ』の公開時、来日したパールマンにインタビューをする機会に恵まれたが、そのときに彼が放った言葉をもって結びとしよう。 「(ヘルボーイの)全身メイクが大変じゃないかって? キャリアの最初にオレが出た『人類創世』のときから、特殊メイクには泣かされっぱなしだよ(笑)」■ ©1981 Belstar / Stephan Films / Films A2 / Cine Trail (logo EUROPACORP)
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COLUMN/コラム2017.05.15
フィルムメディアの“残像”〜『フッテージ』と監督スコット・デリクソンの映画表現〜5月15日(月)ほか
一家殺人事件の真相を追い、事件現場の空き家へ移り住んだノンフィクション作家のエリソン(イーサン・ホーク)。彼はある日、同家の屋根裏部屋で現像された8ミリフィルムを発見する。しかもそのフィルムには、件の一家四人が何者かの手によって、絞首刑される瞬間が写っていた……。 スコット・デリクソン監督によるサイコロジック・ホラー『フッテージ』は、タイトルどおり「ファウンド・フッテージ(発見された未公開映像)」という、同ジャンルでは比較的ポピュラーなフックによって物語が吊り下げられている。例えば同様の手法によるホラージャンルの古典としては、1976年にルッジェロ・デオダート監督が手がけた『食人族』(80)が知られている。アマゾンの奥地へ赴いた撮影隊が現地で行方不明となり、後日、彼らが撮影したフィルムが発見される。そのフィルムを映写してみたところ、そこに写っていたのは……という語り口の残酷ホラーだ。日本ではあたかもドキュメンタリーであるかのように宣伝され、それが奏功して初公開時にはヒットを記録している。また、その『食人族』の手段を応用し「行方不明の学生が残した記録フィルム」という体で森に潜む魔女の存在に迫った『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(99)は、昨年に続編が作られたことも手伝い、このスタイルでは最も名の挙がる映画ではないだろうか。 しかし、それら作品におけるフッテージは、あくまで本編の中の入れ子(=劇中劇)として従属するものであって、それ自体が独立した意味を持ったり、別の何かを連想させることはない。ところが『フッテージ』の場合、劇中に登場するフッテージは「スナッフ(殺人)フィルム」という、極めて具体的なものを観客に思い至らせるのである。 スナッフフィルムとは、偶発的に死の現場をカメラが捉えたものではなく、殺人行為を意図的に撮影したフィルムのこと指す。それが闇市場において、好事家を相手に高値で売られていると、70年代を起点にまことしやかに噂されていた。実際には「殺人を犯すリスクに見合う利益が得られるのか?」といった経済的な疑点もあり、あくまでフォークロア(都市伝説)にすぎないと結論づけられているが。 しかし、そんなフォークロアが当時、個人撮影のメディアとして主流を成していた8ミリと結びつくことで、あたかもスナッフフィルムが「存在するもの」として、そのイメージが一人歩きしていったといえる。同フォーマットならではの荒い解像度と、グレイン(粒状)ザラッとした映像の雰囲気、また個人映画が持つアンダーグラウンドな響きや秘匿性など、殺人フィルムの「いかがわしさ」を支えるような要素が揃っていたことも、イメージ先行に拍車をかけたといっていい。 事実、こうしたイメージに誘引され、生み出された映画も存在する。タイトルもズバリの『スナッフ/SNUFF』(76)は、クライマックスで出演者の一人が唐突に殺されるという、フェイク・ドキュメンタリーを装った作りでスナッフフィルムを標榜しているし、またニコラス・ケイジ主演による『8mm』(05)は、スナッフフィルムを出所を追うサスペンスとして、劇中に迫真に満ちた当該シーンが組み込まれている。 『フッテージ』では、そんなスナッフフィルム、ひいてはアナログメディアの“残像”ともいえるものを、現実と幻想とを繋ぐ重要な接点として劇中に登場させている。殺人を写し撮ったフィルムの向こうに潜む、邪悪な存在ーー。本作がホラーとして、その表情をガラリと変えるとき、この残像は恐ろしい誘導装置となるのだ。デリクソン監督は言う、 「不条理な世界を確信に至らせるのならば、細部を決しておろそかにしてはいけない」 (『フッテージ』Blu-rayオーディオコメンタリーより抜粋) ■『フッテージ』から『ドクター・ストレンジ』へ もともとデリクソン監督は、こうしたフィルムメディアの「残像」を常に追い求め、自作の中で展開させている。氏のキャリア最初期を飾る劇場長編作『エミリー・ローズ』(05)は、エクソシズム(悪魔祓い)を起因とする、女子大生の死の真相を明かしていく法廷サスペンスで、その外観は『フッテージ』のスナッフ映像と同様、フィルムライクな画作りが映画にリアリティを与えている。さらに次作となる『地球が静止する日』(08)は、SF映画の古典『地球の静止する日』(51)をリメイクするという行為そのものがフィルムへの言及に他ならない。続く『NY心霊捜査官』(14)を含む監督作全てが1:2.35のワイドスクリーンフォーマットなのも、『エミリー・ローズ』でのフィルム撮影を受け継ぐ形で、デジタル撮影移行後もそれを維持しているのだ。 そんなデリクソンのこだわりは、今や充実した成果となって多くの人の目に触れている。そう、今年の1月に日本公開された最近作『ドクター・ストレンジ』(16)だ。 同作は『アイアンマン』や『アベンジャーズ』シリーズなど、マーベル・シネマティック・ユニバースの一翼を担う風変わりなヒーロー映画だが、その視覚体験は近年において飛び抜けて圧倒的だ。ドクター・ストレンジはスティーブ・ディトコとスタン・リーが1963年に生み出したクラシカルなキャラクターで、当時の東洋思想への傾倒やドラッグカルチャーが大きく作品に影響を与えている。その証が、全編に登場するアブストラクト(抽象的)な視覚表現だろう。VFXを多用する映画の場合、その多くは存在しないものをリアルに見せる具象的な映像の創造が主となる。しかし『ドクター・ストレンジ』は、ストレンジが持つ魔術や多元宇宙の描写にアブストラクトなイメージが用いられ、誰も得たことのない視覚体験を堪能させてくれるのだ。 それは俗に「アブストラクト・シネマ」と呼ばれるもので、幾何学図形や非定形のイメージで画を構成した実験映画のムーブメントである。1930年代にオスカー・フィッシンガーやレン・ライといった実験映像作家によって形成され、原作の「ドクター・ストレンジ」が誕生する60年代には、美術表現の多様と東洋思想、加えてドラッグカルチャーと共に同ムーブメントは大きく活性化された。 このアブストラクトシネマの潮流も、フィルムメディアが生んだもので、デリクソンは実験映像作家のパーソナルな取り組みによって発展を遂げた光学アートを、メジャーの商業映画において成立させようと企図したのである。 デリクソン監督が作中にて徹底させてきたフィルムメディアの“残像”は、ここまで大規模なものになっていったのだ。 ■日本版ポスター、痛恨のミステイク このような流れを踏まえて『フッテージ』へと話を戻すが、原題の“Sinister”(「邪悪」「不吉」なものを指す言葉)を差し置いて、先に述べた論を汲んだ邦題決定だとすれば、このタイトルをつけた担当者はまさに慧眼としか言いようがない。 しかしその一方で、我が国の宣伝は本作に関して致命的なミスを犯している。それは日本版ポスターに掲載されている8ミリフィルムのパーフォレーション(送り穴)が、1コマにつき4つになっていることだ。 8ミリを映写するさい、プリントを送るためのパーフォレーションは通常1コマにつき1つとなっている。しかしポスター上のフィルムは4つ。これは35ミリフィルムの規格である。つまりポスター上に写っているのは8ミリではなく、35ミリフィルムなのだ。 まぁ、そこは経年によるフィルムメディアへの乏しい認識や、フィルムということをわかりやすく伝えるための誇張だと解釈できないこともない。しかし、単にアナログメディアを大雑把にとらえた措置だとするなら デリクソン監督のこだわりに水を差すようで、なんとも残念な仕打ちといえる。 ©2012 Alliance Films(UK) Limited