◆豪華客船を爆破の危機から救え!
1974年、イギリス映画『ジャガーノート』は、荒れ狂う北大西洋を舞台にしたサスペンス大作として製作・公開された。舞台となるのは総トン数約2万5千トンの豪華客船ブリタニック号。本船が大西洋横断の最中、何者かによって7つの爆弾を仕掛けられ、“ジャガーノート”を名乗る犯人が身代金として50万ポンドを要求する。荒天のため乗客の避難も不可能ななか、約1200人の乗客を救うべく爆薬処理班が派遣され、このシンプルかつ極限的な設定が、2時間近くにわたって観る者の緊張を持続させていく。
監督は、『ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』(1964年)や『ナック』(1965年)で知られる俊英リチャード・レスター。彼はこの作品で、前半に軽快なテンポを与えつつ、後半に向けて緻密なサスペンスへと収束させていく。冒頭、軍の爆薬処理班が悪天候の中、輸送機からパラシュートで降下し、激しく揺れる船に乗り移るまでの一連の場面は、まさしくスペクタクルの粋を感じさせる。だが物語が進むにつれてカメラは次第に静まりを見せ、船室にこもる静寂とともに緊張を描き出していく。わずか小指の先ほどの回路を前に、爆弾処理班の手元が震える。恐怖とは爆音ではなく沈黙の中にこそ潜むものだと、レスターは見事に示してみせたのだ。
主演のリチャード・ハリスが演じるフォーリング中佐は、爆弾処理のプロフェッショナルとして航行中の豪華客船に降下し、乗客の命を預かる立場に立たされる。彼の飄々とした佇まいながらも冷静な判断が、観客の恐怖と緊張をいっそう際立たせている。対してオマー・シャリフが演じる船長アレックス・ブルヌエルは、航海の責任に苛まれながらも、激動の海上で毅然と行動する男だ。二人の関係の緊張が映画の中心に静かな熱を生み出している。さらに デヴィッド・ヘミングス、 シャーリー・ナイト、イアン・ホルム、アンソニー・ホプキンスら名優が脇を固め、群像劇としての厚みを加えている。

撮影は実際の豪華客船を用い、北海や北大西洋の実際の海上で行われた。荒れた天候を利用してカメラを回し、スタジオでは再現できない海の重量感がスクリーンにあらわれている。音楽を担当したケン・ソーンのスコアも見事で、管弦の旋律が波と風の轟音に交錯し、緊迫感をさらに高めている。
『ジャガーノート』は、パニック映画の系譜に属しながらも、派手な群衆劇とは一線を画している。爆発の恐怖を描きながら、決して観客を必要以上にあおらない。映画は人間の理性と狂気のせめぎ合いを冷徹に観察し、恐怖を構造として見せていく。救命艇も出せぬ嵐の中、孤独な技術者が見えない敵と闘う。この孤独の構図こそが、本作を70年代サスペンスの中でも異彩を放っているのだ。
荒れ狂う波間を漂う〈ブリタニック〉は、単なる舞台装置ではなく、人間の理性と偶然、秩序と混沌の象徴そのものである。
◆リチャード・レスター 才気と放浪の映像作家
そう、こうして『ジャガーノート』を語るうえで、監督リチャード・レスターを抜きにすることはできない。彼は生粋のイギリス映画人に見えるが、その出発点はアメリカ・フィラデルフィアにある。ペンシルベニア大学で心理学を学んだのち、テレビ業界に進み、20代にしてイギリスのテレビ界でディレクターとして頭角を現す。風刺とテンポ感に満ちた演出で注目を集めた彼は、やがて映画界へと進出し、『ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』で世界的な名声を確立する。CM演出なども手がけ、テンポの速い編集と軽妙なユーモアを武器に新しい映像感覚を確立していく。そして続く『ヘルプ! 4人はアイドル』(1965年)ではポップカルチャーの映像化に挑み、音楽映画というジャンルを根底から変えてみせた。
しかしレスターの野心は「ビートルズ映画の監督」という枠には収まらない。『ナック』ではカンヌ国際映画祭グランプリを受賞し、社会風刺と実験的映像を華麗に融合させた。その後、『ローマで起こった奇妙な出来事』(1966)や『ことづけられた情事(ペチュリア)』(1968)など、コメディからシリアスまで自在に行き来しながら、イギリス映画界に新風を吹き込んでいく。彼の作品には、常に登場人物を突き放して観察する冷静な視線と、どこか人間を愉快に眺めるようなバランス感覚が絶妙に機能し、それが後年の『三銃士』(1973年)や『四銃士』(1974年)の痛快さへと結実していく。

レスターにとって映画は、ジャンルやスタイルに縛られない実験の場だった。彼はしばしば「自分には固有のスタイルなどない。素材に導かれて動くだけだ」と語っている。その柔軟な姿勢こそが、まさに『ジャガーノート』への発火点となった。もともと他の監督による企画であり、前任の降板を受けて引き継ぐ形で参加したレスターは、自らの制約や演出スタイルを持ち込むことを避けた。だがそれでも結果的に、彼の作品群に通底する人間の滑稽さと理性への信頼が、思いがけず鮮明に浮かび上がることとなる。
◆混沌の中の秩序──制作の舞台裏
『ジャガーノート』の誕生は、偶然の連鎖の産物だった。『三銃士』の撮影を終えたばかりのリチャード・レスターがスペインで休息を取っていた頃、プロデューサーのデニス・オデルから一本の電話が入る。新作サスペンスの監督ブライアン・フォーブスが降板し、代役を探しているというのだ。撮影開始までわずか4週間。多くの監督が尻込みする中で、レスターは即座に引き受けた。報酬は安く、準備期間もほとんどなかったが、彼にとって重要だったのは「作品そのものを愉しめるかどうか」という直感だけだった。
脚本はリチャード・アラン・シモンズによるものだったが、レスターは「全体を書き直すべきだ」と主張し、アラン・プラターとともに短期間で改稿を重ねた。結果、犯人像の曖昧さが残る代わりに、群像劇としての人間的リアリティが際立った。恐怖の根源は爆弾ではなく、人間の判断の誤差や偶然にあるという、レスターらしい視点である。完成版の脚本に不満を漏らしたシモンズは、“リチャード・デコッカー”の名でクレジットされた。

撮影は北海で行われ、使用されたのはのちに〈マキシム・ゴーリキー〉と改名されるドイツ客船〈ハンブルク号〉。嵐に見舞われながらの撮影は過酷を極め、多くの機材が損傷したという。レスターは即興の連続の中でも冷静さを失わず、リチャード・ハリスのカツラ問題を小道具の帽子で解決するなど臨機応変の才を発揮。撮影は予定より短期間で完了し、彼はすぐに『四銃士』の現場へ戻っていった。
公開後、『ジャガーノート』は興行的には中程度の成績にとどまったが、批評家たちはその緊張感とウィットを高く評価した。米『TIME』誌はレスターの演出を「冷静かつ風刺的」と評し、『Newsweek』も「同時期のパニック映画よりも爆弾処理の描写が現実的だ」と称賛。ポーリン・ケールは「冷たい人間描写」としながらも、その技巧を認めている。アメリカでは控えめな成績だったが、ヨーロッパでは一定の成功を収め、BBC放映時には1900万人が視聴した。
この作品でレスターは、ハリウッド的な誇張を避け、人間の知性と偶然のはざまにある静かなパニックを描いた。豪華客船ブリタニックが進むその姿は、社会という巨大な機構の象徴のようでもある。制御不能な力に翻弄されながらも、誰かが理性の火を絶やさずにいる──それがレスター流の英雄譚だったのだ。■
『ジャガーノート』© 1974 METRO-GOLDWYN-MAYER STUDIOS INC.. All Rights Reserved

