今や押しも押されぬ、アメリカ映画界の巨匠クリント・イーストウッドが、初めてオスカーを手にしたのは、『許されざる者』(1992)。主演男優賞、監督賞、そしてプロデューサーとして作品賞にノミネートされ、見事に監督賞と作品賞を勝ち取った。それまでも、彼の監督としての力量を高く評価する声はあったが、これが決定打になったと言える。

「最後の西部劇」と銘打たれた、『許されざる者』。この作品が2人の映画監督、セルジオ・レオーネ(1929~89)とドン・シーゲル(1912~91)に捧げられているのは、あまりにも有名な話である。

 イーストウッドが主演としてレオーネと組んだのは、『荒野の用心棒』(64)『夕陽のガンマン』(65)『続・夕陽のガンマン/地獄の決斗』(66)の3作。シーゲルとは、『マンハッタン無宿』(68)『真昼の死闘』(70)『白い肌の異常な夜』(71)『ダーティハリー』(71)、そして本作『アルカトラズからの脱出』(79)の5作で、コンビを組んでいる。

 もちろん、単に本数の問題ではない。レオーネは、それまでTVスターだっあたイーストウッドを、イタリア製西部劇=マカロニ・ウエスタンへと招いた。そして“ドル箱3部作”と呼ばれる件の作品群で演じさせた“名無しの男”役で、彼の“映画俳優”としての背骨を作ったと言える。イーストウッドにとってレオーネは、いわば「俳優としての師」といったところか。

 それに対してシーゲルは、イーストウッドにとっては、「監督としての師」。

2人が出会ったのは、イーストウッドがアメリカ凱旋後、『奴らを高く吊るせ!』(68)に続いて主演した、『マンハッタン無宿』。ニューヨークで逮捕された逃亡犯を護送するために、アリゾナから出張した保安官補が主人公の、アクション映画である。この主人公像は後に、“ダーティハリー”=ハリー・キャラハン刑事の原型になったとも言われるが、当初の監督はシーゲルではなかった。予定されていた別の監督の都合が悪くなって、彼にバトンが渡されたのである。

 イーストウッドは、監督がよほどの確信がない限り、あれこれ注文をつけてくるのを嫌うタイプの俳優。一方シーゲルは、監督である自分の言った通りに、俳優は演じろというスタイル。そんなわけで『マンハッタン無宿』の撮影現場でも、ちょっとした衝突があったと言われるが、イーストウッド曰く、「…最初は角を突き合わせた部分もあったが、最後には素晴らしい関係を築けたと思う」。シーゲルも、「われわれはひじょうにうまくやっていたと思う」と語っている。

兎にも角にも、お互いが“リスペクト”の念を抱ける相手だったということ。イーストウッドは、出世作となったTV西部劇シリーズ「ローハイド」(59~65)出演時から、“監督”業に興味を持っていた。そしてシーゲルこそ、その“導師”となる人物だったのである。シーゲルも喜んで、その役割を果たしたという。

イーストウッドは言う。「演出については、ほかの誰からよりもドン・シーゲルから多くを学んだと思う……彼は少ない予算で自分の思うものを撮ることができた。求めるものが撮れたときには、そうとわかった。何回も異なるアングルで撮ってみる必要などまったくなかったのだ」

シーゲルはそのキャリアで、短期間に低予算で作品を完成させるためのノウハウを確立していた。一旦照明を組んだら、そのまま撮れるショットは、全て1度に撮影してしまったり、リハーサルを十分にして、実際にカメラを回すのはほとんど1テイクで終わらせる。その演出術はイーストウッドを、これこそ確固たるコンセプトを持った監督による、真の映画撮影であると感動させた。

固い絆で結ばれたシーゲルとイーストウッドのコンビは、1968年から71年までの僅か3年ほどの間に、『マンハッタン無宿』を皮切りに、4本もの作品を次々と世に放った。その4本目こそ、イーストウッド最大の当たり役にして、シーゲルの生涯で50本に及びフィルモグラフィーに於いても、「最高」の1本と言える『ダーティハリー』である。  そしてその直前にイーストウッドは、監督デビューも果たしている。

イーストウッド自らが演じる、プレイボーイのローカル局ディスクジョッキーが、ストーカーの女性ファンに追い詰められていくサスペンス作品『恐怖のメロディ』(71)である。この作品の撮影現場のほとんどには、“導師”シーゲルの姿があった。彼は酒場のバーテンダー役で出演すると同時に、イーストウッド演出のバックアップが必要になった際に備えて、スタンバイしていたのである。

 切っても切り離せない関係に思われた、イーストウッドとシーゲルだが、『ダーティハリー』以降、本作『アルカトラズからの脱出』で5度目のタッグを組むまでには、8年間のブランクが生じた。これには、幾つかの理由が考えられる。『ダーティハリー』の成功があまりにも大きすぎたため、その興奮が冷めやらぬ内に再び組むには、リスクが伴うと考えられたこと。また、イーストウッドとシーゲルの関係が濃密になり過ぎて、もうやるべきことは「やり尽くした」感が否めなかったのも、事実である。特に自らが“監督”をするようになり、自分の思うままに作品作りを進められるようになった、イーストウッドにとっては…。

 『アルカトラズ…』はそのタイトル通り、サンフランシスコ湾に浮かぶ、悪名高き“アルカトラズ刑務所”が舞台。1962年に、鉄壁と言われたこの刑務所から脱獄を果した、フランク・モリスら3人の実話をベースにした物語である。

 リチャード・タッグルが書いた脚本を、シーゲルが気に入って買い取り、イーストウッドの元へと持ち込んだ。イーストウッドも乗り気で、自らが主演してシーゲルが監督することを望んだ。しかしその後、8年間のブランクが、本作製作の経緯に影を落とす。

 イーストウッドが、ラストシーンのカットを誰が撮るかという問題にこだわったことなどから、交渉が難航。話は一旦、白紙に戻ってしまったのである。

 その頃=70年代後半のイーストウッドは、アクションスターとして円熟期。世界的な人気を誇り、日本を見ても、毎年その主演作が、“正月映画”として公開されるほどだった。更に監督作品も6本を数え、その手腕は自他ともに認めるものとなっていた。イーストウッドとシーゲルの力関係は、『ダーティハリー』の頃とは、逆転していたとも言える。

 結局本作は、シーゲルがイーストウッドに頭を下げてオファーすることによって、企画が成立。しかしいざ撮影が始まってみると、2人は事あるごとに、撮影の主導権を巡って対立を繰り返すこととなった。そしてシーゲルは、ラストシーンを撮らずに、現場から去ったという。本作はイーストウッドとそのスタッフの手によって、完成に至ったのである。

 シーゲルの構想では本作のラストは、刑務所の内部を映し、脱出不可能な牢獄の現実を示して終わるというもの。だがイーストウッドが選んだのは、主人公たちの勝利を描きながらも、その後の過酷な運命を示唆するという〆であった。

 どちらがよりふさわしいラストだったのかは、もはや検証しようがない。しかしそうした意味で『アルカトラズからの脱出』は、シーゲル監督作と言うよりも、明らかにイーストウッドの色が濃い作品となっているのである。

本作は公開されると、批評家の絶賛を浴びながらも、アメリカでの興行は不満が残る結果となった。そんなこともあってイーストウッドは、今後もシーゲルと共同で映画製作を行っていくという契約を反故にした。

結果的に『アルカトラズからの脱出』は、伝説の師弟コンビの、最後の作品となった。シーゲルはその後、思ったように作品は撮れなくなり、80年代中盤以降は映画界から距離を置いた。一方イーストウッドは、出演作のほとんどで監督を兼ねるようになった。他者に任せる場合でも、『ダーティハリー5』(88)『ピンク・キャデラック』(89)のように、長年イーストウッド組のスタントマンだったバディ・ヴァン・ホーンを起用。間違っても、現場の主導権を奪われることがないような布陣を組んだ。

“師匠”であったシーゲルにとっては、正にキャリアの終わり近くに関わった、『アルカトラズからの脱出』。“弟子”であるイーストウッドのその後の歩みを見ると、最後のコンビ作は、正に“分かれ道”だったのである。■