■フルスケールモデルが主流だったドラゴンの創造

 本稿では1996年にロブ・コーエン監督が手がけたファンタジー映画『ドラゴンハート』にちなみ、西洋を代表する空想の怪物「ドラゴン」が実写作品の中でどのように可視化されてきたのかを振り返り、その技術的手法と本作とを文脈づけていく。

 映画におけるドラゴンの初登場は諸説あるが、代表的なものとして名匠フリッツ・ラングが手がけた独サイレント映画『ニーベルンゲン』(24)が挙げられるだろう。北欧神話とゲルマン民族説話をブレンドさせ、二部構成で映画化した本作において、英雄ジークフリートとドラゴンとの戦いが描写されている。その表現はフルスケールの着ぐるみに複数の役者が入り、可動部を内部で操作していくスタイルだが、ドイツの一大製作会社ウーファの当時の資本力を象徴する、大がかりでスペクタキュラーな画作りには誰もが瞠目させられるだろう。またロシアの英雄イリア・ムウロメツの活躍を描いた同国作品『豪勇イリヤ 巨竜と魔王征服』(56)に出てくる三つ首のドラゴンもフルスケールモデルで作られ、火炎放射器で火を吐くギミックが仕込まれている。他にもB級モンスター映画を量産したバート・I・ゴードンの『魔法の剣』(61)にもフルスケールのドラゴンが登場。あまり満足とはいえない動きを見せるが、本作のドラゴンも大型クリーチャーならではの醍醐味を堪能させてくれる

 こうしたフルスケールモデルはドラゴン描写の常道であるかのように受け継がれ、『未来世紀ブラジル』(85)『12モンキーズ』(96)の鬼才テリー・ギリアムが監督した中世コメディ『ジャバーウォッキー』(77)のドラゴンや、ミヒャエル・エンデ原作の児童ファンタジー『ネバーエンディング・ストーリー』(84)の白毛におおわれたファルコンなど、80年代初頭くらいまで比較的多く見ることができた。その後こうしたフルスケール効果は、体の一部をメカニカルパペットとして造形するなどパーツ的な活用へと縮小され、徐々に主流を外れていく。

 またフルスケールモデルと並行してドラゴン描写を支えたのが、人形を一コマずつ動かして撮影するストップモーション・アニメーションである。同手法の第一人者であるレイ・ハリーハウゼンが手がけた『シンバッド七回目の航海』(58)に登場する無翼のドラゴンや、3台のカメラで撮影した映像を三面スクリーンに投影する「シネラマ」方式の劇映画『不思議な世界の物語』(62)においても、特撮の神様と謳われたジョージ・パル製作・監督のもと、ジム・ダンフォースら優れたモデルアニメーション作家たちが個性的なドラゴンをクリエイトしている。

 ストップモーション・アニメーションはフルスケールでは難しい飛行描写や四足歩行の人間型でない動きを表現できるなど、この手法ならではの利点もある。しかし生物的リアリティという観点からは、どちらもやや画竜点睛を欠く印象は否めなかった。だが1981年、このストップモーション・アニメの手法を拡張させ、ドラゴンの描写に革命をおよぼす作品が登場する。それが『ドラゴンスレイヤー』である。
 生贄の悪習を終わらせるべく、魔法使いとその弟子がドラゴン討伐をするこの映画には、生物学的な法則にのっとったリアルな動きのドラゴン「ヴァーミスラックス」が登場する。可動のミニチュアモデルを使用するところまでは従来どおりだが、モデルにロッド(支持棒)を取り付け、コマ撮りではなくモーション・コントロール・システムで動かすことで、モーションブラー(動きのぶれ)を発現させて動きを自然にしているのである。ストップモーション特有のカクカクした視覚現象を取り払ったその技法は「ゴーモーション」と名付けられ、架空の怪物に恐ろしいまでの現実感を付与させたのである。

 本作以降、ドラゴンの基本的な容姿や動きの法則は、本作のヴァーミスラックスに準じたものと言っても大げさではない。例えばピーター・ジャクソン監督が手がけた『ホビット』三部作(12〜14)において、原作では細身の四つ足だった巨竜スマウグが二足型に改変されたのも、また最近の例として『ゴジラ/キング・オブ・モンスターズ』(19)に登場するキングギドラのクロールスタイルの動きも、全てが『ドラゴンスレイヤー』にその影響を感じることができる。


■映画初となるCGドラゴンの登場

『ドラゴンハート』に登場するドラゴン「ドレイコ」は、そんな『ドラゴンスレイヤー』のクリエイターたちが生み出したドラゴンの進化系だ。先の『ドラゴンスレイヤー』でヴァーミスラックスの原型制作を担当したモデルアニメーターのフィル・ティペットがプロジェクトへと招かれ、よりリアリティを突き詰めるべく制作に乗り出したのである。

 なによりドレイコは、CGによって創造された初のドラゴンとして特筆に値する。恐竜映画『ジュラシック・パーク』(93)が無機的な表現にとどまっていったCGアニメーションを生物表現へと発展させ、約6分間におよぶデジタル恐竜のショット群を作り出した。しかし『ドラゴンハート』はその4倍となる182ショット、約23分間に及ぶ登場場面を生み出し、しかもその製作費用だけで2200万ドルが費やされ、その額はドレイコの声を担当したショーン・コネリーの出演料をも凌駕する。

 この『ドラゴンハート』の誕生によって、映画に登場するドラゴン映画は技術的な死角を克服し、神話的なモンスターがリアリティを伴って観客の眼前に迫るのを難しいものとはしなくなった。そして本作以降、ドラゴン・クリーチャー映画はその製作本数を大幅に増やすこととなる。しかもただ出てくるだけでなく、劇中における役割にも変化をもたらし、今となってはドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』(11〜19)のような、作品テーマの根幹に関わってくるような扱いにまで発展しているのだ。


■技術の劣化を感じさせない物語

 とはいえ、今の成熟したデジタル技術に目慣れた視点から見れば、ドレイコはテクスチャー(質感)の甘さや カメラムーブにマッチしきれていない合成処理におぼつかなさを覚えるだろう。全体的なルックは実写とアニメーションの中点に留まっており、現実にそこに存在するというリアリティはまだ完全には追いきれていない。

しかし『ドラゴンハート』は、CGキャラクターの生成に飛躍的な成果をもたらした作品として、ドラゴンという枠のみならず映画の歴史にそのタイトルを刻んでいる。技術の画期性は経年とともに薄れてきているが、それを1990年代に創り出すのは容易なことでなかったし、現在の観点や価値基準に照らし合わせて当時の技術や演出スタイルを批判するのはフェアではない。このコラムの冒頭で詳述した『ニーベルンゲン』のように、ベーシックではあるが表現の歩み出しとして圧倒的なインパクトを放っている。

 なにより本作は、こうした経年とは関係なく、観る者を魅了するドラマがある。人間の王子を蘇らせるために、自らの心臓(ドラゴンハート)を与えたドレイコ。だが彼の心を共有した王子は残酷な暴君へと変貌し、ドレイコは人間への不信をつのらせていく。映画は彼がデニス・クエイド演じるドラゴンスレイヤーとの接触を経て、人間との関係を修復させ、そして未来に希望を託すのである。ドラゴンが人語を解し、会話するというユニークな設定。そしてその設定を活かしたドラマの妙。誰もその魅力を否定することはできない。

 ちなみに監督のロブ・コーエンと、筆者は『ステルス』(05)の取材で会っている。そのとき彼に自分が『ドラゴンハート』のファンだと伝えると、

「あの映画のドレイコの飛翔シーンや、彼が吐く火球がもたらす爆発効果は、本作や『デイライト』そして『トリプルX』などに活かされている。なによりも自分がVFXを多用する作品のきっかけとなった映画だから、とても嬉しいよ」

 と、取材時間がつきそうになるとメールアドレスを筆者に渡し「聞き足りないことがあればメールくれ」とまで言ってフォローしてくれた。そんな監督の思慮深さが、この作品を観ると併せて思い出されるのだ。■