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COLUMN/コラム2021.04.30
『クローバーフィールド/HAKAISHA』史上もっとも緊迫した怪獣映画
■POV&ファウンドフッテージの様式を用いた革新性 2007年、ネットで流布されたあるビデオ映像が、全世界を震撼させた。それは若者たちが友人のために送別パーティーを開催する様子を写したものだ。しかし次の瞬間、マンハッタン方面で大規模な爆発が起こり、自由の女神の頭部が彼らのエリアに向かって落下してくるという、この衝撃的なフッテージにネットユーザーたちは騒然となったのである。 マット・リーヴス監督が手がけた2008年製作の映画『クローバーフィールド/HAKAISHA』(以下:『クローバーフィールド』)は、テレビ業界を出自とするJ・J・エイブラムス(製作)らしい、ハッタリに満ちた上述の予告でインパクトを与えた。筆者(尾崎)は、この異様な作品の全貌をいち早く探ろうと、2008年1月18日の全米公開時、香港のAMCシアターズで観た(日本での公開は同年4月5日)。そしてもたらされたのは、作品の全容や正体が明かされたことへの驚きではなく、本作が「映画史上もっとも緊迫したモンスタームービー」であることに衝撃を禁じ得なかった。 謎に満ちた『クローバーフィールド』の正体は、怪獣映画だった。軍によって押収され、機密扱いとなったハンディカム(ビデオ)の録画テープが外部流出したという体裁をとっている。テープに撮影されていたものは日本に赴任する若者の送別パーティの模様で、その途中からカメラは突如起こった巨大怪獣のマンハッタン襲撃と、会場にいた彼らが避難を余儀なくされていくプロセスの一部始終を捉えている。その様式はPOV(一人称視点)で捉えたファウンドフッテージ(未公開映像)という形で主旨一貫され、おそらく現実に怪獣が現れたら、我々はこういう風景を見るのだろうという迫真を帯びた映像がそこに展開されるのである。 このPOV&ファウンドフッテージ自体は商業映画において真新しいものではなく、1999年に公開された『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』に端を発する。森にまつわる魔女の伝説を追い、森の中でこつ然と消えた映画学科の大学生たち。その行方不明から1年後に発見された撮影テープには、彼らが遭遇した恐怖の一部始終が写っていたーー。それらはまるでドキュメンタリーでも観ているかのような迫真性と、未公開映像の中に写り込んでいる、正体の全く分からない怪奇現象の数々をもって、今もトラウマを抱えている者は多い。 その後、スペイン産ホラー『REC/レック [●REC]』(07)でこのスタイルは再生され、ゾンビ映画のマスター、ジョージ ロメロのウェルメイドな新作ゾンビホラー『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』や、定点観測カメラを用いたゴーストホラー『パラノーマル・アクティビティ』など、『クローバーフィールド』が公開される前年には世界で同時多発的に送り出されており、この革新的な怪獣映画の登場を正当化させるものといっていい。 ■参考にされた9.11 アメリカ同時多発テロ事件のハンディカム映像 『クローバーフィールド』の企画は、監督作『M:i:III』(06)のプロモーションで来日したJ・J・エイブラムスが、ゴジラの人形を見かけたことに端を発する。 「日本にはゴジラを筆頭に、伝統的なモンスター映画の歴史がある。ひるがえってアメリカにはキング・コングしか見当たらない。我々で新たな怪獣映画の開発ができないものだろうか?」(*1) そこで、かつて共に映画を撮っていたマット・リーヴスに打診し、リアリティという方向に独自性を求めた怪獣映画を、ハンディカムによって撮ることを目指したのだ。作品の革新性に加え、なにより2001年に起こった9.11アメリカ同時多発テロでの、貿易センタービルの崩落をさまざまな視点から捉えたハンディカムによる映像の数々が大きなヒントとなっており、いわゆる「グラウンドゼロ」のメタファーとしても機能する、象徴的な怪獣映画である。 しかし、この手法を『クローバーフィールド』のようなジャンルに適合させるのは難しい。なぜなら大掛かりで数の多い合成ショットを作らねばならず、加えて手持ちカメラのような規則性のない映像で合成をする場合、マッチムーブが困難を極めるのである。ちなみにマッチムーブとは、動きを含むプレートどうしを一致させて合成させるさいのプロダクション処理で、巨大な怪獣映画を描くジャンルにおいて、極めて手間のかかるものだったのだ。 そこで合成素材を扱うために元データのクオリティを維持する役割もあり、ベースとなる映像はHD24pの映画用デジタルカメラで撮影が行われている(パーティなどのショットでは俳優が実際にハンディカムを操作しているが)。懸念されたマッチムーブの問題も、30人近くのマッチムーブ・アーティストを配してプロジェクトに取り組み、難しいレベルでのPOVショットの作成が本作において成しえられている。 またモンスターの造形はティペット・スタジオが担当。特徴的な逆関節型の複数の手脚は、人間型のフォルムを回避するためのもので、着ぐるみを用いて撮影されたゴジラへのアンチテーゼである。 ■監督マット・リーヴスが筆者に語った『クローバーフィールド』のこと さて、以下は筆者(尾崎)が監督のマット・リーヴスに取材したときの『クローバーフィールド』に関するやりとりを再録する。再録といっても、このインタビューはポスト吸血鬼映画『モールス』(10)のプロモーションで彼に電話取材をしたときのもので、同作以外の部分は意識的に取り除いた未公開のテキストであることをお断りしておきたい。 ——『クローバーフィールド』に関して、リーヴス監督の口から続編について話せる部分だけでもお聞きしたいんですけども。 マット・リーヴス監督(以下:リーヴス) 『クローバーフィールド』の次は本作を離れ、『透明人間』の映画をやるつもりだったんだ。でも話がダークすぎて、製作会社が難色を示していてね。それでもうひとつ、企画を追いかけていた『モールス』に着手したんだ。だから僕もJ・Jもお互いの作品で忙しかったから、まだどういうふうにやるか決めてないんだ。若干面白いアイディアは二人とも持ってるんだけどね。彼と製作会社バッドロボットの仕事のやり方というのは徹底した秘密主義が第一原則、もしここで一言でもここでばらしてしまうと、僕は消されてしまうので(笑)。 ――ちなみに『クローバーフィールド』の劇中にアンダースコアは用いられませんが、唯一ラストに流れる印象的な曲は、やぱり日本のゴジラにオマージュを捧げたんですか? リーヴス:まさにそのとおりで、作曲にマイケル・ジアッキーノを起用したんだけど、もともと彼とのやりとりの歴史は長く、J・Jとテレビの『フェリシティの青春』(98〜02)から『エイリアス』(01〜06)までいろいろやっていて、その後にクローバーフィールドが決まったさい「僕にやらせてくれ。だってゴジラが大好きだから、これ以上の適任者はいないと思うんだ」と言ってくれたんだ。けど「ごめん、ハンディカムを使ってかなりリアルに録るんで、音楽は使わないように考えてるんだ」って答えたら「ええ~!」ってものすごく落胆してね(笑)。結局、もしトラディショナルな形でこの映画を作ったのならば、こういうふうに作曲したんだろうというトラックをエンディングに使おうということで、ジアッキーノのあの曲になったんだ。でも話によるとあの曲は、予算がないのでインターネット上で録音してたって言ってたよ。・『クローバーフィールド/HAKAISHA』撮影中のマット・リーヴス監督(右) 映画の最後、勇壮にかかるテーマは多くのファンたちから『ゴジラ』のテーマなのではないかという指摘を受けたが、それを見事に裏付ける監督の発言を本稿の締めとしたい。ゴジラへのカウンターとして起案したはずのものが、そこにはしっかりとゴジラのDNAが息づいているのだ。 ちなみに『クローバーフィールド』続編の企画は『10 クローバーフィールド・レーン』(16)そして『クローバーフィールド・パラドックス』(18)へと成就し、立派なフランチャイズとして育てられていったが、個人的には独自性と拡張に溢れたこれらの続編も、一作目のインパクトと革新さを超えるものではなかったと実感している。 そしてなにより『クローバーフィールド』の興行的成功と技術性は、ハリウッドにおける怪獣映画の興隆に少なからず影響をもたらした。今やこのジャンルは枚挙にいとまがなく、今年はエイブラムスの言及したゴジラとキング・コングが戦う『ゴジラVSコング』(21)までもが製作されている。中国市場の拡大など副次的な要素はあるが、こうした動向ははたして『クローバーフィールド』なくして実現したかどうか定かではない。■ (*1) 『クローバーフィールド/HAKAISHA』Blu-ray(発売元/パラマウント・ジャパン)映像特典「視覚効果」より抜粋 © 2021 BY PARAMOUNT PICTURES. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2021.04.07
ペキンパー自身を投影したような負け犬中年男の意地と暴走『ガルシアの首』
良き理解者を得て実現した究極のペキンパー映画 そのキャリアを通じて他に類を見ない「暴力の美学」を追求し、一切の妥協を許さぬ厳しい姿勢ゆえに映画会社との衝突が絶えなかった孤高の映画監督サム・ペキンパー。彼ほどスタジオからの横やりに悩まされた監督はいなかったとも言われているが、そんなペキンパーが「自分のやりたいように作った」と自負した数少ない映画のひとつであり、「良くも悪くも、好むと好まざるに関わらず、これは自分の映画だ」とまで言い切った作品が『ガルシアの首』(’74)である。 その前年に公開された西部劇『ビリー・ザ・キッド/21歳の生涯』(’73)では撮影中から製作会社MGM社長との対立や自身のアルコール問題の悪化、さらにはインフルエンザの蔓延など次々とトラブルに見舞われ、さらにはフィルムの編集権を取り上げられズタズタに切り刻まれるという憂き目に遭ってしまったペキンパー。そんな彼のある意味で救世主となったのが、後にペキンパーのエージェントともなる映画製作者マーティン・ボームだった。ペキンパーの良き理解者であったボームは、映画界の問題児として既に悪名高かった監督から持ち込まれた企画を引き受けたばかりか、彼が自由に映画を撮れるよう取り計らったという。メキシコの大地主の娘を孕ませた男ガルシアの首を巡って、殺し屋たちが凄まじい争奪戦を繰り広げて死体の山が積みあがっていく…基本的にただそれだけの映画のために資金繰りなど奔走するわけだから、よっぽど監督への理解と信頼がなければ実現不可能だったはずだ。 メキシコの大地主エル・ヘフェ(エミリオ・フェルナンデス)の娘テレサが妊娠する。子供の父親が誰なのか問い詰めるエル・ヘフェ。頑として口を割らなかったテレサだったが、しかし激しい拷問に耐えかねて「アルフレド・ガルシア」という名前を口にする。かつてエル・ヘフェが息子のように可愛がっていた部下だった。怒りの収まらない彼は「ガルシアの首を持ってきた奴には賞金100万ドルを払う」と宣言。グリンゴ(白人)の忠実な右腕マックス(ヘルムート・ダンティーネ)にその任務が託される。ちなみに、日本の資料では大地主とされているエル・ヘフェはスペイン語で「ボス」という意味。劇中で具体的な説明や描写がないため解釈は分かれるが、犯罪組織のボスとも考えられる。 それから数か月後、マックスのもとでガルシアの行方を追うスーツ姿の殺し屋コンビ、サペンスリー(ロバート・ウェッバー)とクイル(ギグ・ヤング)は、メキシコシティの小さな酒場へ立ち寄る。2人から報奨金と引き換えにガルシアのことを尋ねられ、これ見よがしに答えをはぐらかす元米兵のピアニスト、ベニー(ウォーレン・オーツ)。ガルシアは店の常連だったのだが、報奨金を吊り上げられると睨んで黙っていたのだ。店の従業員から自分の恋人エリータ(イセラ・ヴェガ)がガルシアと浮気していたと聞かされ憤慨するベニー。彼女を問い詰めてガルシアの居場所を聞き出そうとしたベニーだが、そこでエリータは思いがけない事実を彼に伝える。ガルシアは1週間ほど前に飲酒運転で事故死していたのだ。 たまげると同時にホッとするベニー。なんだ、もう死んでいるんだったら殺す手間も省ける。埋葬された死体から首を切り落とし、証拠として差し出せば済むじゃないか。こんな旨い儲け話はないぞ、というわけだ。元締めマックスのもとへ意気揚々と乗り込んだベニーは、既にガルシアが死んでいることを隠して報奨金を1万ドルに吊り上げ、ガルシアの首は俺が持ってくるから任せろと自信たっぷりに仕事を引き受ける。だが、ガルシアが埋葬された墓地を知っているのはエリータだけ。そこで、彼は一緒にピクニックへ行こうと彼女を誘い出し、生死を確認するだけだと誤魔化してガルシアの墓へ案内させようとする。 ベニーの言い訳がましい説明に首を傾げつつも、久々に2人きりで過ごす時間に満ち足りた幸福を感じるエリータ。長い付き合いとなる2人だったが、しかしいつも肝心な話題になると逃げてしまうベニーは、これまでちゃんとエリータに愛を告白したことがなかった。彼女がガルシアと浮気をしてしまった理由も、ベニーのその煮え切らない態度のせいだ。ここへきてようやく、大金が手に入った暁には結婚式を挙げようというベニー。なぜ今までプロポーズしなかったのかと問い詰めるエリータに、思わず彼は「分からない。今なら分かるが」と言葉を詰まらせる。本音を言えば「男のプライド」が邪魔したのだろう。しがない貧乏人のピアノ弾きのままでは、愛する女と結婚する資格などないと。一緒に苦労する覚悟のあるエリータにしてみれば、2人で暮らせるならそれだけで幸せなのだが、しかし男は女に楽をさせてこそ一人前という、下らない「男のプライド」に縛られたベニーにはその覚悟がなかったのだ。 ちなみに、このシーンはベニーが言葉を詰まらせる場面で終わるはずだったという。だが、役に入り込んだエリータ役のイセラ・ヴェガが「だったら今すぐプロポーズして」と台本にないセリフを続け、そのアドリブに呼応するようにベニー役のウォーレン・オーツが演技をつなげ、2人して喜びにむせび泣くという実に味わい深くも感動的な大人のラブシーンが出来上がったのである。実は事前にヴェガとペキンパーは打ち合わせをしていたとも言われているが、しかしそれにしても監督の言わんとするところを十二分に理解し、何も知らされていない共演者を巻き込みながら、求められる以上の芝居へと昇華させた女優イセラ・ヴェガの鋭い勘と豊かな才能には舌を巻く。もちろん、この予期せぬ展開にきっちりと応えてみせたオーツも素晴らしい。これこそが役者魂というものだろう。 身の破滅を招く「男らしさ」という幻想 しかし、これを境にベニーとエリータの運命は雲行きが怪しくなっていく。車のエンジントラブルで野宿することにした2人だったが、通りがかった2人組のバイカー(クリス・クリストファーソン&ドニー・フリッツ)に拳銃で脅され、エリータがレイプされてしまう。奪った拳銃でバイカーどもを射殺するベニー。2人はいよいよガルシアの故郷へと到着する。死体の首を切り取って持ち帰るというベニーに呆れるエリータ。お金なんてなくたっていい、このまま引き返しましょうと訴える彼女だったが、しかし意固地になったベニーは全く耳を貸さず、仕方なしに折れたエリータは真夜中に墓地へ向かう彼に同行する。意を決してガルシアの墓を掘り起こすベニー。ところが次の瞬間、背後から忍び寄った何者かに頭を殴られて気絶し、意識を取り戻すと既にガルシアの首は持ち去られており、ベニーの横には愛するエリータの亡骸が横たわっていた。にわかに状況を呑み込めずにいたものの、しかしふつふつと湧き上がる怒りと悲しみに打ちのめされ、やがて激しい憎悪に駆られていくベニー。もはや復讐の鬼と化した彼は、ガルシアの首を奪い返してエリータの仇を討つべく暴走していく…。 もともと本作の企画はペキンパーが『砂漠の流れ者』(’70)の撮影中、同作でセリフ監修を務めた盟友フランク・コワルスキーの何気ないアイディアによって生まれたのだという。「首に懸賞金のかかった男が実は既に死んでいた」という設定を気に入ったペキンパーは、当時彼の愛弟子的な存在だった脚本家ゴードン・ドーソンに脚本の草稿を依頼する。『ダンディー少佐』(’65)の衣装アシスタントだったドーソンは、そのケンカの強さをペキンパーに気に入られ、以降も『ワイルド・バンチ』(’68)や『砂漠の流れ者』、『ゲッタウェイ』(’72)などに関わってきたという親しい仲。彼は師匠であるペキンパーをモデルに主人公ベニーを書き上げ、主演のウォーレン・オーツもペキンパーの特徴を模倣しながら演じたという。ドーソンによると、いつものようにペキンパーが脚本を自由に書き換えると思っていたそうなのだが、最終的にベニーのキャラだけがそのままになっていて驚いたらしい。 本当は心優しくて気が弱い男なのに、タフで男臭いアウトローを演じてみせるベニー。心から愛する女に対しても素直になれず、ついつい粗末に扱ってしまう。なんとも矛盾した格好悪い男なのだが、しかしそれゆえに憎めないというか、なぜか愛さずにはいられない。なるほど、確かに近しい関係者から伝え聞くペキンパーの実像に似たものが感じられるだろう。もしかすると、ペキンパーも自分がベニーの元ネタであることを重々承知のうえだったのかもしれない。なにしろ、当時のペキンパーは『ビリー・ザ・キッド~』の一件で打ちのめされていた時期。自信を失い卑屈になった負け犬ベニーに、自らの姿を投影していたとも考えられる。「これば自分の映画」という彼の言葉には、そういう意味も含まれているのだろう。 そもそも、本作に出てくる男たちは揃いも揃ってみんな矛盾を抱えている。思考と行動が首尾一貫しているのはエリータとエル・ヘフェの娘テレサくらい。つまりは女性だけだ。父親の威厳を保つため手下に最愛の我が娘を拷問させるエル・ヘフェをはじめ、クールなビジネスマン風の紳士コンビを気取ったゲイ・カップルの殺し屋サペンスリーとクイル、見ず知らずの子供たちを可愛がりつつ平然と人を殺す手下のチャロとクエト。エリータをレイプするバイカーたちだって中身は無邪気な子供も同然だ。誰もが人間らしい感情や愛情を内に秘めながらも、しかしなぜかそれが相反する暴力へと向かい、最終的には悲惨な末路を辿ることになってしまう。彼らが執拗にこだわり続け、それゆえに身の破滅を招く原因になったもの。それはマチズモ、つまり「男らしさ」という幻想であろう。彼ら(ゲイ・カップルを含め)は男らしさを誇示するため女を粗末にし、そればかりか自分より弱い男も暴力で踏みつけ力を誇示する。自身も男らしさにこだわり男らしく振る舞っていたというペキンパーだが、実のところそれが内面の弱さの裏返しであることに自覚があり、社会にとって害悪を及ぼすものであると考えていたのではないか。本作を見ているとそんな風にも思えてくる。 なお、今でこそペキンパーの隠れた名作として世界的に高く評価され、当時の彼にとって渾身の一作であったはずの『ガルシアの首』だが、しかし劇場公開時は批評家からも観客からも理解されずに総スカンを食らってしまった。当時ヒットしたのは日本だけだったとも言われる。そのことを我々は誇ってもいいかもしれない。■ 『ガルシアの首』© 1974 Metro-Goldwyn-Mayer Studios Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2021.04.07
血まみれサムとマックィーンの黄金時代『ゲッタウェイ』
本作『ゲッタウェイ』(1972)の監督は、サム・ペキンパー。その異名“血まみれサム”は、多くの方がご存知の通り、彼の作品の特徴である、血飛沫飛び散るヴァイオレンス描写に由来するものである。 しかし“血まみれ”なのは、撮影現場やスクリーン上だけの話ではなかった。ペキンパーは常に、製作会社やプロデューサーと、血で血を洗う戦いを繰り広げていた。その戦いについて、彼は本作が製作・公開された年のインタビューで、こんな風に語っている。「西部のガンマンの対決なんか、製作費の問題での対決にくらべれば屁みたいなものさ。俺はいつもケチなプロデューサーを相手に、嘘をつき、ゴマ化し、チョロマカす。でもこれまで大方、この闘いは負けだった。いつも、プロデューサーとケンカして、クビさ。じっさい、この世界には、寄生虫やハイエナがウヨウヨだ。殺されるなんてものじゃない。生きたまま食われちまうんだぜ」 そんな血みどろの戦いの中で、“血まみれサム”は自らのスタッフをも、次々と血祭りに上げたことでも、知られる…。 ドン・シーゲル門下ということでは、現代の巨匠クリント・イーストウッドの兄弟子に当たる、ペキンパー。1925年生まれの彼が、TVドラマの西部劇シリーズなどを経て、映画監督としてのスタートを切ったのは、齢にして30代中盤だった。 デビュー作は、『荒野のガンマン』(60)。それに続く『昼下がりの決斗』(61)では、興行的な成果こそ得られなかったものの、新しい時代の西部劇の担い手として、注目されるに至った。 そしてこの作品では、フィルムを大量に回し、膨大なそのすべてを把握して編集するという、彼一流の手法が、確立した。ペキンパー組の常連俳優だったL・Q・ジョーンズ曰く、「脚本を壊し、全てを断片にし、それから組み合わせる」やり方である。 続いて手掛けたのが、『ダンディー少佐』(65)。主演のチャールトン・ヘストンが、『昼下がりの決斗』に感銘を受けたのが、ペキンパー起用の決め手となった作品だ。 しかし『ダンディー少佐』は、ペキンパーに悪名を与える、決定打となった。いわく、「予算もスケジュールも守らない」「スタッフに過大な要求をし、出来なければ情け容赦なくクビにする」「大酒飲みのトラブルメーカー」といった具合に。 製作したコロムビアと大揉めに揉めたこの作品では、ペキンパーは最終的に編集権を奪われる。そして彼が編集したものより、大幅に短縮された作品が、公開されるに至った。 このパターンは、その後のペキンパー作品について回る。しかしそれ以前の段階としてペキンパーは、『ダンディー少佐』から4年以上の間、干されることとなった。 雌伏の時を経て、ペキンパーが69年に放ったのが、代表作『ワイルドバンチ』である。この作品でペキンパーは、彼の代名詞とも言える、銃撃戦などアクションを“スローモーション”で捉える手法を、初めて用いた。これが、「デス・バレエ=死の舞踏」などと評され、正にペキンパーの「血の美学」が、世界中にセンセーションを巻き起こしたのである。 後に続くフィルムメーカーたちに多大な影響を与え、映画史に残るマスターピースとなった『ワイルドバンチ』。しかしこの作品も、ペキンパー作品の辿る悪しきパターンから、逃れられなかった。 ペキンパーが当初完成させたバージョンは、2時間24分だったが、公開後興行成績が思ったほど伸びなかったため、製作元のワーナーはペキンパーに無断で、フラッシュバックなどをカット。2時間12分版を作って、全米の劇場に掛けたのである。 それはともかく、『ワイルドバンチ』で悪名以上の勇名を得たペキンパーは、続けて「恐らく私のベストフィルム」と胸を張る、『ケーブル・ホーグのバラード』(70)(日本初公開時のタイトルは『砂漠の流れ者』)を完成。更にダスティン・ホフマンを主演に迎え、イギリスで撮影した初の現代劇『わらの犬』(71)では、その暴力描写が、賛否両論の嵐となった。 キャリア的には正にピークを迎えんとするタイミングで、ペキンパーは、当時名実と共にNo.1アクションスターだった、スティーヴ・マックィーンと組むことになる。その作品は西部を舞台に、ロデオの選手を主人公にした現代劇、『ジュニア・ボナー 華麗なる挑戦』(72)。ペキンパーのフィルモグラフィーでは、銃撃と死体の登場しない、唯一の作品である。 実はペキンパーはこの作品以前に、マックィーンとの邂逅があった。それはマックィーンがポーカーの名手を演じた、『シンシナティ・キッド』(65)である。時期的には『ダンディー少佐』で、悪名を轟かせた直後。そしてペキンパーは、『シンシナティ・キッド』の撮影開始から1週間足らずで、監督をクビになったのである。 この時マックィーンは、ペキンパーの解雇に同意したという経緯があった。『ジュニア・ボナー』で、そんなペキンパーとの因縁の組み合わせが決まった時のことを、後にマックィーンはこう思い起こしている。「俺はいつも完璧主義者だから、多くの人の頭痛の種だったし、サムも悪評高かった。彼と俺で、大したコンビさ。スタジオ側は頭痛薬をたっぷり用意してたと思うよ」 いざ『ジュニア・ボナー』の撮影が始まると、2人の間には最初こそ緊張感が生じたものの、次第に解消していったという。マックィーンが頻繁に自分の登場シーンを書き換えることで、対立などもあったが、両者の関係は概ね良好だった。 ペキンパーはマックィーンについて、「…奴のことを好きな人間はあまりいないみたいだが、私は好きだね」と語っている。一方でマックィーンは、「サム・ペキンパーは傑出した映画作家だ…」と、リスペクトを表明している。『ジュニア・ボナー』は、評判の高さに比して、興行は期待外れに終わった。しかしマックィーン×ペキンパーの両雄は、続けて組むこととなる。 それが、本作『ゲッタウェイ』である。 ジム・トンプソンの犯罪小説を映画化するというこの企画は、『ローズマリーの赤ちゃん』(68)『ゴッドファーザー』(72)などのヒット作を手掛けた、パラマウントのプロデューサー、ロバート・エヴァンスがスタートさせた。ペキンパーに監督させるというプロジェクトだったのだが、不調に終わり、一旦ご破算になった。 続いてパラマウントの別のプロデューサーが、マックィーン主演作として企画を進めることとなったが、それも頓挫。マックィーンは、ポール・ニューマンやシドニー・ポワチエ、バーブラ・ストライサンドらと設立した製作会社ファースト・アーティストの第1回作品として、本作の製作を決める。 脚本は、原作者のトンプソン自らが手掛けたが、マックィーンがその内容を気に入らず、没に。当時新進の脚本家だった、ウォルター・ヒルが担当することとなった。 マックィーンが、監督の第一候補と考えていたのは、ピーター・ボグダノヴィッチ。当時『ラスト・ショー』(71)で高い評価を得ていた、新進気鋭の若手監督だった。しかしスケジュールの問題などで、実現せず。 そこで白羽の矢が立てられたのが、ペキンパーだった。彼にとっては、元より興味があった企画の上、次なる監督作として取り組んでいた『大いなる勇者』『北国の帝王』などが、諸事情によって、他の監督の手に渡ってしまったタイミング。そこで『ジュニア・ボナー』に続けて、マックィーンと組むこととなった。 テキサスの刑務所に、銀行強盗の罪で服役していた男が、10年の刑期を半分も務めることなく、4年で仮釈放となった。男の名は、ドク・マッコイ(演:スティーヴ・マックィーン)。迎えに来た妻キャロル(演:アリ・マッグロー)と、4年振りの熱い夜を過ごす。 ドクの早すぎる仮釈放は、地方政界の実力者ベニヨン(演:ベン・ジョンソン)との裏取引によるもの。出所と引き換えに、田舎町の小さな銀行を襲って、その分け前をベニヨンに納めるという約束だった。 ベニヨンはドクに、銀行強盗の仲間として、ルディ(演:アル・レッティエリ)、ジャクソン(演:ボー・ジャクソン)という2人を引き合わせる。綿密な計画が立てられ、キャロルを含めて4人での、決行の日がやってくる。 すべてがスムースにいくと思われたが、青二才のジャクソンが、銀行の守衛を射殺したことから、全ての歯車が狂い出す。ドクとキャロル、ルディとジャクソンの二手に分かれて逃走を図るも、ルディはジャクソンを突然射殺。集合場所でドクも撃ち殺して、金を独り占めしようと図るが、気配を察したドクに、逆に撃ち倒される。 ドクは黒幕のベニヨンの元に、取り引きに行く。ベニヨンは、今回の銀行強盗の裏事情を明かし、ドクを釈放させた背景に、キャロルとの情事があることを仄めかす。ショックを受けるドクの背後に、突然キャロルが現れた。そしてベニヨンに、銃弾をぶち込む。 互いに傷つき、その絆が揺らぎながらも、逃避行を続けるドクとキャロルの夫婦に、次々とアクシデントが襲い掛かる。更にはベニヨンの手下たち、そしてドクに撃たれながらも、生きながらえていたルディが、追っ手となって迫る。 ドクとキャロル、犯罪者の夫婦が大金を手にしたまま国境越えを目指す、“ゲッタウェイ”逃走劇は、果して成功するのか!? キャロル役のアリ・マッグローは、白血病のヒロインを演じて観客の涙を絞った『ある愛の詩』(70)が、大ヒットして間もない頃。私生活では、本作を当初プロデュースする予定だったロバート・エヴァンスと、結婚生活を送っていた。本作のヒロインにキャスティングされたのも、その流れからと思われる。 ところが『ゲッタウェイ』の撮影中、マッグローは、前妻と15年の結婚生活にピリオドを打ったばかりのマックィーンと、恋に落ちてしまう。結局マックィーンによる略奪婚という形で、マッグローはエヴァンスと別れ、撮影終了後に2人は夫婦となった。 72年2月にクランクインした本作は、そんなスキャンダラスな話題も交えながら、順撮り、即ち物語の進行の順番通りに、撮影を進めていった。そして5月には、クランクアップ。予算的にもスケジュール的にも、ペキンパー作品としては大過ない、進行と言えた。 しかしポストプロダクションで、トラブる。ペキンパーは、『ワイルドバンチ』『わらの犬』に続いて、音楽をジェリー・フィールディングに依頼するも、完成したスコアは、マックィーンの意向で、すべて差し替え。画面を彩ったのは、クインシー・ジョーンズのジャズっぽいスコアとなった。 更にマックィーンは、最終編集権をペキンパーには渡さずに、作品を完成させた。アクション映画の諷刺を目指して本作に挑んだというペキンパーは、完成版を目にした時に、「これは俺の映画じゃない!」と、叫んだと伝えられる。 本作の次に撮った『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』(73)では、MGMの判断で勝手に編集が行われた際、ペキンパーはその経営者に、メキシコから殺し屋を差し向けようとまで思い詰めたという。それでは本作のマックィーンに対しての怒りは、どんな形で発露されたのか? 意外や意外、2人の友情は、その後も続いたという。それは一体、なぜだろうか? 一見、いつもの悪しきパターンにはまり込んだかのような『ゲッタウェイ』だったが、興行の結果が他のペキンパー作品とは、大きく違った。彼のフィルモグラフィーに於いて、最大のヒット作となったのである。 ペキンパーは、興収から多額の歩合も貰える契約を、マックィーンと結んでいた。これでは、矛を収める他はなかったのかも知れない。 だが、そんな裏事情を敢えて無視して、本作を眺めてみよう!すると、ごく単純化されたストーリーラインの中で、至極楽しめる極上の娯楽作品となっていることが、わかる。 公開時は、42才。ノースタントのアクションスターとして、まさに脂が乗り切っていた、マックィーンの身のこなし。そして、銃器の扱いに関しては、右に出る者がないと言われた彼が魅せる、ガンアクション。 ペキンパーは、47才。お得意の“スローモーション”を駆使した、ヴァイオレンスシーンの演出に磨きがかかり、観る者の度肝を抜く。 本作では、そんな両者の技能が、まさに融合。“映画的瞬間”を、作り出しているのである。 そして2021年の我々は、知っている。1972年にピークを迎えた、2人のその後の運命を。 マックィーンはこの後、たった8年しか生きられず、50歳でこの世を去ってしまう。ペキンパーの余命も、あと12年。60才を迎える前に、彼の心臓は止まってしまう。 そんな彼らが全盛期に手を組んで、輝きを放つ、『ゲッタウェイ』。今こそ感慨を新たに、フィルムに焼き付けられた、2人の“黄金時代”を、凝視したい。■ 『ゲッタウェイ』© Warner Bros. Entertainment Inc.
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COLUMN/コラム2021.04.06
女性同士の友情を超えた固い絆を通してフェミニズムの発芽を描く女性映画の佳作『女ともだち』
戦争によって運命を翻弄され、愛のない結婚生活に縛られた2人の女性 筆者が大学時代に映画館で見て強い感銘を受けた作品のひとつである。日本公開は本国フランスから遅れること約3年の1986年1月だが、当時高校3年生だった筆者は受験勉強に忙しくて映画を見る暇などなかったため、恐らく日本大学芸術学部に入学してから都内の名画座で見たと記憶している。都営浅草線の西馬込から五反田で山手線に乗り換え、池袋経由で西武池袋線の江古田へ通っていた筆者は、その沿線にある五反田東映シネマや目黒シネマ、早稲田松竹に文芸座といった名画座へ足繁く通っていた。今となっては、そのうちのどこで本作を見たのか定かではないが、1940~50年代のフランスを舞台としたノスタルジックな映像美、ありきたりな友情を超えた女性同士の固い絆を描く繊細なドラマ、そして映画音楽の名匠ルイス・バカロフの紡ぎ出す抒情的な美しいメロディ、そのいずれもが忘れ難く、輸入盤で手に入れたセミダブル・ジャケットのサントラLPを溝が擦り切れるまで繰り返し聴いて映画の余韻に浸ったものだった。 物語の始まりは1942年。ドイツ占領下のフランスではユダヤ人の排斥が進み、この頃になると外国系ユダヤ人の取り締まりが一層のこと厳しくなっていた。その背景には、外国籍のユダヤ人をナチスに売り渡すことで、フランス国籍のユダヤ人を守ろうとした在仏ユダヤ人総連合の協力があったと言われている。南仏ピレネー=オリアンタルのユダヤ人収容所へ到着したヒロイン、レナ(イザベル・ユペール)もユダヤ系ベルギー人だ。劇中では具体的な収容所の名前は出てこないものの、恐らくピレネー=オリアンタルに実在したリヴザルト収容所と思われる。ここはいわゆる通過収容所で、最終的にはドイツ及び各国の強制収容所へ送られることになる。42年から43年にかけて、4000人近くのユダヤ人がリヴザルトからアウシュヴィッツへ送られたらしいが、本作のレナもまた同じ運命を辿るはずだった…。 ところが、ある日彼女は見知らぬ男性から手紙を受け取る。送り主は給食係の冴えない兵士ミシェル(ギュイ・マルシャン)。一方的にレナに一目惚れしたミシェルは、フランス人である自分と結婚すれば収容所を出られると持ち掛けてきたのだ。突然の申し出に面食らうレナだったが、しかし背に腹は代えられないため、この奇妙なプロポーズを受けることにする。収容所の外へ出たらサヨナラすればいい。そう考えていたものの、財産も行く当てもない彼女はそのままミシェルと暮らすことに。しかも、なんと彼もまた生粋のユダヤ人だった。先述したように、当時はフランス国籍のユダヤ人は収容所送りを免れていたのである。しかし、その後ユダヤ人排斥のターゲットはフランス国籍保持者にも及び、レナとミシェルは徒歩で国境を越えてイタリアへと脱出。いつしか夫婦の絆のようなものが生まれていた。 そのちょうど同じ頃、美大生のマドレーヌ(ミュウ=ミュウ)は同級生レイモン(ロバン・レヌッチ)と結婚して幸せの頂点にあった。ところが、恩師カルリエ教授(パトリック・ボーショー)の逮捕に抗議する学生が集まった際、レジスタンスとゲシュタポの銃撃戦が勃発し、マドレーヌを守ろうとしたレイモンが銃殺されてしまう。最愛の人を失ったことから生きる気力を失った彼女は、終戦後に知り合った売れない役者コスタ(ジャン=ピエール・バクリ)と成り行きで結婚する。 時は移って1952年。たまたま子供たちが同じ学校に通っていたことから、学芸会で知り合ったレナとマドレーヌはたちまち意気投合する。自動車整備工場を経営するミシェルとの間に2人の娘をもうけたレナ。夫の仕事は順調で羽振りも良く、何不自由ない生活を送っているレナだったが、必ずしも幸せとは言い切れないでいた。家庭を大事にする善良なミシェルは良き夫であり良き父親だが、無教養で車とスポーツ以外には関心がなく、知的好奇心の旺盛なレナは物足りなさを感じていた。一方のマドレーヌもコスタとの間に一人息子をもうけたが、しかし夫は相変わらず売れない役者のままで、一獲千金を夢見ては怪しげな商売に手を出して借金を作っている。どちらも生活のために愛のない結婚をし、不満の多い日常生活に縛られた女性同士。やがて、お互いに胸の内をさらけ出せる親友として、なくてはならない存在となっていく…。 ヒロインたちのモデルとなったのは監督の母親とその親友 物語の焦点となるのは、お互いに最大の理解者として深い友情を育みながら、やがて女性としての自我と自立心に目覚めていくヒロインたちと、そんな妻たちの精神的な成長を一家の大黒柱たる男として受け入れることの出来ない夫たちの葛藤だ。戦時中は激動する社会に運命を翻弄され、戦後の平和な時代になると今度は家庭に縛られ、常に誰かに人生をコントロールされてきたレナとマドレーヌ。私たちも自身の力で何かを選択して挑戦したい。そう考えた2人は共同でブティックを開業しようと計画するが、しかしレナの夫ミシェルは彼女が自分のもとを離れるのではないかと恐れてマドレーヌとの交際を禁じ、マドレーヌの夫コスタは家族を養うべき男としてのプライドを傷つけられたと憤慨する。これは女性の自立が叫ばれるようになる以前の時代、2人の平凡な主婦を通してフェミニズムのささやかな発芽を描いた物語と言えるだろう。 監督はこれが長編劇映画3作目だった元女優のディアーヌ・キュリス。ルイ・デリュック賞に輝く処女作の青春映画『ペパーミント・ソーダ』(‘77・日本未公開)では自身の少女時代を瑞々しく描き、カンヌ国際映画祭のコンペティションに出品された『ア・マン・イラブ』(’88)では妻子あるハリウッド俳優と恋に落ちる無名女優に自身の体験を投影したキュリス監督だが、実はアカデミー外国語映画賞候補になった本作も実話を基にしている。ヒロインのレナとマドレーヌのモデルとなったのは、キュリス監督の実の母親とその親友なのだ。彼女の両親(名前もレナとミシェル)は’42年にリヴザルト収容所で出会い結婚し、’53年に離婚している。マドレーヌは本作が完成する2年前に亡くなったという。初公開時にレナとマドレーヌの関係は同性愛とも解釈されたが、実際の2人を知るキュリス監督によると、そうとも言えるし、そうとも言えない、つまり定義付けの出来ない特別な関係だったのだそうだ。 また、先述したようにルイス・バカロフの手掛けた音楽スコアも本作の大きな魅力のひとつである。アカデミー作曲賞に輝いた『イル・ポスティーノ』(’96)をはじめ、クエンティン・タランティーノの『キル・ビル』にも引用された『怒りのガンマン/銀山の大虐殺』(’71)やジャンゴ映画の元祖『続・荒野の用心棒』(’66)、巨匠フェリーニの『女の都』(’80)など、主にイタリア映画で活躍したアルゼンチン出身の作曲家バカロフにとって、本作は初めてのフランス映画だった。東欧ユダヤの伝統音楽クレズマーをモチーフ(バカロフ自身もユダヤ系)にしたテーマ曲をはじめ、ジャズやシャンソン、民謡などを巧みにブレンドしたノスタルジックでセンチメンタルな音楽スコアがとにかく素晴らしい。2010年にボーナストラック入りの完全版が500枚限定プレスでCD化され、筆者も迷わず手に入れて家宝にしているが、より幅広く知ってもらうためにも改めての再発が望まれる。 ちなみに、キュリス監督は近作『女性たちへ』(‘13年・日本未公開)でも両親をモデルにしている。母親レナ役はメラニー・ティエリー、父親ミシェル役はブノワ・マジメル。今度は終戦直後にフランスへ戻ってからマドレーヌと知り合うまで、つまり『女ともだち』では描かれなかった空白の期間を題材に、夫ミシェルの生き別れた弟と惹かれあうレナの葛藤が描かれているという。日本で見ることの出来ないのが惜しい。■ 『女ともだち』© 1983 STUDIOCANAL - Appaloosa Dvpt - Hachette Première || "&" || Cie - France 2 Cinéma
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COLUMN/コラム2021.03.26
“天国”で地獄を見た男が、起死回生を賭けた一作『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』
1979年4月9日に開催された、「第51回アカデミー賞」の主役となったのは、40歳になったばかりのマイケル・チミノ。この日に作品賞や監督賞をはじめ、最多5部門でオスカーに輝いた、『ディア・ハンター』(1978)の監督であり、プロデューサーの1人だった。 チミノは、広告業界を経て、映画界入り。まずは脚本家として、『サイレント・ランニング』(72)『ダーティハリー2』(73)の2本を共同執筆した。 監督デビュー作は、クリント・イーストウッド主演の、『サンダーボルト』(74)。ベトナム戦争に出征した、ロシア移民の若者たちの運命を描いた『ディア・ハンター』は、まだ監督2作目だった。 この日「アカデミー賞」監督賞のプレゼンターとして登場したのは、フランシス・フォード・コッポラ。チミノと同年の生まれだが、70年代前半には、『ゴッドファーザー』(72) 『カンバセーション…盗聴…』(74)、そして『ゴッドファーザー PARTⅡ』(74)の3本で、観客の支持を集めると同時に、「アカデミー賞」や「カンヌ国際映画祭」などを席捲。正に飛ぶ鳥を落とす勢いの、時代の寵児となっていた。 しかし70年代後半のコッポラは、ベトナム戦争を舞台に、アメリカの侵略を批判的に描くという、当時としては野心的な試みであった、『地獄の黙示録』(79)の製作が難航。同じく“ベトナム”を題材にした『ディア・ハンター』の方が、製作開始が後だったにも拘らず、先に公開されたのである。 そして迎えた、この日。『地獄の…』が未だ完成に至らないコッポラの手から、チミノにオスカーが渡されるというのは、極めて象徴的な出来事と言えた。 作品賞の授与は、更にドラマチックな展開となった。プレゼンターは、長きに渡ってハリウッドの帝王として君臨した、大スターのジョン・ウェイン。間もなく72才にならんとする彼は、末期がんに侵されており、瘦せ衰えた姿での登壇であった。 ウェインと言えば、“赤狩り”の積極的な旗振り役を務めたほどの、典型的なタカ派。“ベトナム”に関しては、“反戦運動”の高まりに抗し、アメリカ軍を正義の味方として描くプロバガンダ映画『グリーン・ベレー』(68)を、製作・監督・主演で発表している。 そんな彼が最後の晴れ舞台(ウェインはこの式典の2か月後に死去)で、『グリーン…』のちょうど10年後に製作された“ベトナム反戦映画”『ディア・ハンター』の名を読み上げ、オスカー像を手渡したわけである。歴史の皮肉であると同時に、その後の展開次第では、ハリウッド帝国の「王位の引継ぎ式」として、映画史に残る可能性さえあった そう。この時のマイケル・チミノは、新たに玉座に就いたかのような、輝かしい存在であった。そして、オスカーを手にした日からちょうど2週間後=4月16日には、監督第3作がクランクインしたのである。 その作品の名は、『天国の門』。オスカー戦線を再び目指す構えで、翌80年の10月19日に、ニューヨークでプレミア上映が行われた。しかし、まさかそのお披露目の瞬間に、チミノが『ディア・ハンター』で得た栄光が、灰燼に帰してしまうとは…。『天国の門』は、1890年前後のワイオミング州で起こった「ジョンソン郡戦争」をモチーフに、入植者である東欧系移民の悲劇を描いた西部劇である。1,100万ドルの予算でスタートしながらも、チミノの完全主義にオスカーの余勢もあって、製作費が当初の4倍=4,400万ドルという、当時としては前代未聞の規模にまで膨らんでしまった。 そして、3時間39分という長尺で完成した『天国の門』は、件のプレミア上映で、観客からも評論家からも総スカンを喰らう。公開から1週間後には、製作会社のユナイテッド・アーティスツが、フィルムを映画館から引き上げ、全米及び海外での公開は、延期となってしまった。 翌春には2時間29分まで尺を詰めた再編集版が公開されたものの、結局4,400万ドル掛かった製作費の10分の1も回収できず、大失敗に終わった。この災禍により、ユナイテッド・アーティスツは経営危機に陥り、60年以上に及ぶその歴史に、幕を下ろすこととなった。 ハリウッドの新たな帝王、少なくともその最有力候補であったチミノの名誉は、この歴史に残る「映画災害」で、地に堕ちた。そして彼は、長い沈黙を余儀なくされる。 80年代前半、『天国の門』以前からチミノが準備を進めていた幾つかの企画は、雲散霧消。捲土重来を期して新たに取り組んだ企画に関しても、『天国の門』の二の舞を避けたい各製作会社の判断で、製作中に解雇されるケースが相次いだ。 そんなチミノが、表舞台へと復帰したのが、本作『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』(85)である。 1981年に出版された、本作の原作小説の映画化権を獲得したのは、プロデューサーのディノ・デ・ラウレンティス。フェデリコ・フェリーニ監督の名作『道』(54)や、『キングコング』(76)などの製作で知られる。 ラウレンティスは映画化権を得るとすぐに、チミノに連絡。しかしチミノは当初、この企画に関心を示さなかったという。 他の人材を使って映画用の脚本を作成しようと試みたラウレンティスだったが、うまくいかず、再びチミノにお鉢が回る。他の企画が次々と頓挫していったこともあってか、チミノは一度は断ったこのオファーを、ストーリーや登場人物を、原作から自由に改変できることを条件に、受けることにした。『ミッドナイト・エクスプレス』(78)や『スカーフェイス』(83)などで、当時気鋭の脚本家として注目されていたオリヴァー・ストーンを共同脚本に引き入れたチミノは、メインの舞台となるチャイナタウンへと赴いて取材を重ね、脚本を完成。遂に5年振りとなる新作の、クランクインへと漕ぎつけた。 ニューヨークのチャイナタウン。小さな飲食店で仲間と会していた、“チャイニーズ・マフィア”TOPのワンが、突然刺殺された。犯人が捕まらぬまま、その壮大な葬儀を仕切ったのは、ワンの娘婿であるジョーイ・タイ(演:ジョン・ローン)。 そんな葬儀の様子を見やっていたのは、新しくこの地域の担当となった、市警の刑事スタンリー・ホワイト(演:ミッキー・ローク)だった。ホワイトは麻薬取引などで暗躍する、中国系犯罪組織の壊滅を狙って、動き出す。 マスコミの力を利用しようと考えたホワイトは、TV局の女性キャスターで、中国系のトレーシーに近づく。チャイナタウン内の高級中華料理店に彼女を招き、密議を持ち掛けていると、突然覆面をした2人の男が乱入し、機関銃を無差別に乱射。店内は、パニックに陥る。ホワイトはトレーシーを庇いながら、発砲。犯人たちに深傷を負わせながらも、取り逃がしてしまう。 観光客などに多数の死傷者を出した、この襲撃の黒幕は、ジョーイ・タイだった。彼は店の主人である組織の長老の面子を潰し、その影響力を削ぐために、虐殺劇を演出したのである。 一方、妻との不和を抱えていたホワイトは、この一件をきっかけに、トレイシーとの仲が深まり、やがて不倫の関係となる。それと同時にホワイトは、“チャイニーズ・マフィア”の若きリーダーとなったタイに、全面戦争を仕掛ける。 タイは麻薬の供給量を拡大するため、東南アジアの“黄金の三角地帯”に自ら出向いた際には、商売敵の生首を手土産とするような、残虐な振舞いを躊躇しない。遂には、敵対するホワイトだけでなく、その周辺の者たちにまで、刺客を差し向ける。 怒り心頭に達したホワイトは、タイにとって正念場となる、麻薬取引の現場を急襲!命を懸けた、2人の最後の対決が始まった…。 先に記した通り、ストーリーや登場人物を自由に改変できることを条件に、本作に取り組んだチミノ。主人公の刑事を、原作にはない、ポーランド系に設定にした上、ベトナム戦争帰りのため、アジア系に偏見を持つという要素を加えた。 彼と恋に陥る女性キャスターに関しても、原作とは変更。40代の白人女性だったのを、20代の中国系女性に変えている。 中国系であるタイに、偏見と共に強烈な敵愾心を燃やしながらも、同じ中国系のトレーシーにのめり込んでしまう、ポーランド系の刑事。チミノ曰く、「移民の国アメリカでは、―――系アメリカ人と系がつく人種が多いのが現実。だからアメリカの現実を描こうとしたらエスニックは避けて通れない」。 自身はイタリア系の三世である、チミノ。彼の中では、ロシア系移民が主人公だった『ディア・ハンター』、東欧系の『天国の門』と合わせて、本作はアメリカを描く三部作という位置付けだった。 こうしたチミノのこだわりによって誕生したホワイト刑事役には当初、クリント・イーストウッド、ポール・ニューマン、ニック・ノルティ、ジェフ・ブリッジスらが想定されていたという。しかし最終的に、チミノの前作『天国の門』にも出演していた、ミッキー・ロークに決まる。 当時のロークは、セックスシンボル的に、女性人気がグングンと高まっていった頃で、まだ30代前半。ベトナム帰りで40代後半のホワイトを演じるには、白髪に染めるなどの工夫を凝らしても、些か若すぎたように思える。 しかしチミノは、ロークの身体能力の高さを買って、激しいアクションシーンが多い本作の主役に、彼を据えたという。そうは言っても公開当時は、“チャイニーズ・マフィア”の若きドンを演じたジョン・ローンの、冷酷非情でありながらも貴公子然とした佇まいに対し、ミッキー・ロークより高く評価する声が多かった。それから35年以上の歳月が流れ、チミノの判断が正しかったか否かは、鑑賞者各自の判断に委ねたい。 因みにジョン・ローンは本作の後、ベルナルド・ベルトルッチ監督作で、アカデミー賞9部門を制した『ラスト・エンペラー』(87)に主演。皇帝溥儀を、見事に演じている。 さて本作は、『天国の門』の再現を恐れてか、ラウレンティスがチミノに最終的な編集権を渡さなかった。それが効を奏して(?)、スケジュールも予算をオーバーすることもなく、1985年8月に無事公開に至った。 ノースカロライナ州に在るラウレンティスのスタジオに建て込まれた、ニューヨークのチャイナタウンは、誰もがセットとは思えないほど、精緻な仕上がりであった。そこをメインの舞台として、強烈なヴァイオレンスシーンなど、見どころ満載で展開される“対決”の物語は、134分の上映時間を飽きさせことなく駆け抜ける。 アメリカより半年遅れて、日本では86年2月に公開となった。その際の劇場用プログラムには、~前作『天国の門』の失敗のツケを十二分にカバーする起死回生のホームランになった~などと記されている。 また本作のプロモーションで、チミノとジョン・ローンが来日。その際の記者会見が採録されているが、本作で中国系の俳優を起用して成功したことで、西部開拓時代に中国からの移民が多く従事した、鉄道建設の物語を映画化する、チミノの構想が、実現する可能性が大きくなったなどと、書かれている。 しかし実際のところは、これらはインターネットなき時代に、日本の映画会社がお得意とした、事実の塗り替えであった。本作『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』はアメリカ公開の際、スタート時こそまずまずの成績を上げたものの、アジア系アメリカ人や映画批評家などから、人種差別や性差別的な傾向を指摘され、批判や抗議を受けたことなどが一因となり、動員は下降の一途を辿った。 これに対しチミノは、「『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』は人種差別を描いた映画だけども、人種差別的な映画ではありません」と反論。実際に本編の中でも、偏見を抱き続けていた主人公が、己の過ちを認めるシーンなどが盛り込まれている。 しかし結局は、2,400万ドルの製作費に対して、興行収入は1,800万ドルに止まり、赤字に終わった。チミノの名誉挽回は、失敗に終わったのである。 本作以降のチミノは、『シシリアン』(87)『逃亡者』(90)『心の指紋』(96)といった作品を監督するも、いずれも興行は不発。最後の長編監督作となった『心の指紋』に至っては、ほとんど劇場公開されずに、いわゆる「ビデオスルー」となる始末だった。 その後は「カンヌ国際映画祭」の60回記念として製作された、世界の著名監督34組によるオムニバス映画『それぞれのシネマ』(2007)の中の上映時間3分の一篇を手掛けただけ。2016年、チミノは77才で、この世を去った。 死に至る4年前=2012年に、『天国の門』をチミノ自らが、3時間36分に再編集。ディレクターズ・カット版として、「ヴェネチア映画祭」でお披露目後にアメリカ公開された際、「初公開当時の評価が誤りであった」などと、再評価の声が高らかに上がった。 映画作家として、不遇な後半生を送ったチミノにとって、それはせめてもの慰めだったかも知れない。■
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COLUMN/コラム2021.03.09
『サボテン・ブラザース』が愛される理由
日本の映画市場で長らく鬼門と言われ続けてきたジャンルの一つが、“アメリカン・コメディ”だ。たとえ本国でNo.1ヒットを飛ばした作品でも、日本公開では一部の例外を除いて、その多くが爆死を遂げてきた。公開されるのはまだマシな方で、日本のスクリーンには掛からずじまいだった作品も、少なくない。 その原因として繰り返し言及されたのが、文化的な差異による“笑い”の違い。その説明には、日本を代表する喜劇映画シリーズ『男はつらいよ』が、例として挙げられるパターンが多かった。いわく、日本的な人情風味が満載の寅さん映画を、仮に欧米で字幕付きで上映しても、ウケはしないだろうと。“アメリカン・コメディ”が日本でウケないのも、それと同じようなことだと。 何はともかく死屍累々の中、劇場公開時にヒットしたという話はきかないながらも、『¡Three Amigos!』を、「好きな作品」として挙げるケースには、よく遭遇してきた。邦題は、日本での“アメリカン・コメディ”の例外的なヒット作である『ブルース・ブラザース』(80)に因んで付けられたと思われる、『サボテン・ブラザース』(86)のことである。 監督が『ブルース…』と同じ、ジョン・ランディスなのはともかく、プロデューサーのローン・マイケルズと3人の主演陣は、アメリカのTV界を代表するコメディバラエティ番組「サタデー・ナイト・ライブ」ゆかりの面々。チェビー・チェイスとマーティン・ショートは、「サタデー…」にレギュラー出演して人気を博した時期があり、スティーヴ・マーティンは、ホストとして度々ゲスト出演して、評判になった。そうした意味で、正に“アメリカン・コメディ”の王道的なメンバーが集結している。 こうなると、これはホントに危うい。日本では、最もウケないパターンである。例えばランディス監督の前作で、チェビー・チェイスと、やはり「サタデー…」組のダン・アイクロイドが共演した『スパイ・ライク・アス』(85)のように。 ところが先に書いた通り、本作は日本でも「愛される」1本となった。それは劇場公開時よりも、むしろその後のレンタルビデオやTV放送を通じてとは思われるが。 本作の人気が高かった理由のまず一つは、物語の構造であろう。悪党に蹂躙される村人の声に応えて、勇者たちが心意気で助けに向かうというのは、『七人の侍』(54)や、そのリメイクである西部劇『荒野の七人』(60)などでお馴染みのパターンであるが、コメディとして、そこからの捻り方が絶妙である。 主人公たちが演じる勇者を見て、「本物」と“勘違い”した村人からの願い。それを「俳優の仕事」としての依頼と“勘違い”して受けた主人公たち。真実に気付いた時は、一旦逃げ出しかかるが、最終的には勇気を振り絞って、村人たちのために戦う。 この構図は後に、『スタートレック』シリーズへのオマージュが満載の『ギャラクシー・クエスト』(99)にも、転用される。こちらでは、宇宙船のクルー役を演じた俳優たちを、「本物」と宇宙人が勘違い。助けを求められた俳優たちは、“宇宙戦争”を戦うことになる。 他に、ピクサーのCGアニメ『バグズ・ライフ』(98)など、『サボテン・ブラザース』の影響下にあると思われる作品は、少なくない。 先に挙げた、本作の熱心なファンである三谷幸喜も、このパターンを自作に取り込んでいる。役所広司主演のTVドラマ「合い言葉は勇気」(00)は、本物の弁護士と勘違いされた俳優が、不法投棄を行う産廃業者を相手取った住民訴訟を戦う。また監督作である映画『ザ・マジックアワー』(08)も、ヤクザの組織が、佐藤浩市が演じる売れない俳優をプロの殺し屋と勘違いする話であり、このバリエーションと言える。三谷の作風として、登場人物たちの勘違いに勘違いが重なって、物語があらぬ方向に暴走していく展開があるのだが、本作の骨組みは正に、「ズバリ」だったのであろう。 こうした構成の下、繰り広げられるのが、本作の主演にして、製作総指揮・脚本も兼ねたスティーヴ・マーティンが言うところの、「セックスもドラッグも4文字言葉も出ていない」コメディである。日本の観客が一番お手上げになる、英語での言葉遊びのギャグなどよりも、体を張ったギャグの方が、際立つ仕掛けである。 『サボテン・ブラザース』© 1986 ORION PICTURES CORPORATION. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2021.03.01
“ゾンビ”を発明した男ロメロの最後の挑戦!『サバイバル・オブ・ザ・デッド』
120余年に及ぶ映画の歴史の中で、偉大なる発明と言えるものは、数多ある。そんな中でも、現在日々世に送り出される映画やドラマ、TVゲーム他の創作物に、多大な影響を与えているひとつが、“ゾンビ”であろう。 連日連夜、世界のありとあらゆる所で、スクリーンやモニターを、“ゾンビ”が徘徊している。そして、そんな“ゾンビ”の発明者こそ、本作『サバイバル・オブ・ザ・デッド』(2009)の監督、ジョージ・A・ロメロ(1940~2017)であることに、異議を唱える者はまず居まい。 ロメロは弱冠28歳の時に発表した、モノクロ低予算の長編作品『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(1968)で、“リビングデッド≒ゾンビ”を初登場させた。この作品で彼が現出させたのは、理由が不明のまま死者たちが甦り、生きている人間を襲っては喰い殺す、生き地獄のような世界。噛みつかれた者は確実に、死に至る。そして蘇っては、生者を喰らうようになる…。『ナイト・オブ…』は、続く『ゾンビ』(78)『死霊のえじき』(85)と合わせて、「リビングデッド・トリロジー」と言われる。この3作品でロメロは、“ゾンビもの”というジャンルを映画の世界に創り出し、確立したのである。 ロメロ作品以前にも、“ゾンビ”という名のモンスターは、存在した。そしてスクリーンにも登場していた。 それは西インド諸島のハイチに伝わる民間伝承を元にしたもので、ブードゥー教の司祭によって蘇らされた、歩く死体を指す。こちらの元祖“ゾンビ”は、生者の奴隷として働かされ、人肉を喰らうことなどない。1960年代中盤生まれの筆者の世代が、幼少時に“世界のモンスター図鑑”のような書籍で目の当たりにした“ゾンビ”は、こちらの方である。 付記しておけば、ロメロが自ら創造した“リビングデッド”に、“ゾンビ”と言う名を冠した事実はない。それは他者によるネーミングであるが、“トリロジー”の第2作、原題『DAWN OF THE DEAD=死者たちの夜明け』が、ヨーロッパや日本で公開される際に、『ゾンビ』というタイトルが付けられたことで、決定的になったものと思われる。 いずれにしろ人を喰う“ゾンビ”が登場する作品で、ロメロの影響を受けていないものは、ジャンルを問わず、皆無と言っても良い。ロメロが居なければ、「バイオハザード」も、「ウォーキング・デッド」も、「アイアムアヒーロー」も、『カメラを止めるな!』(17)も存在しなかったのである。 それにしても、架空のモンスターに過ぎない“ゾンビ”が、なぜここまで市民権を得て、持て囃されるようになったのか?その一因として、社会のリアルな現実や世相を創作物に投影するのに、実に都合が良い存在であることが挙げられる。 元々オリジナルの『ナイト・オブ…』のモチーフは、“ベトナム戦争”である。続く『ゾンビ』では、死して尚巨大なショッピングモールに集まってくる“ゾンビ”たちが、消費社会でコマーシャリズムに踊らされる現代人へのアイロニーであることは、あまりにも有名だ。 ロメロに続く“ゾンビもの”の中で、例えば韓国製の『新感染 ファイナル・エクスプレス』(16)で起こるゾンビ禍には、“朝鮮戦争”が重ねられている。また多くの作品で、死者が“ゾンビ”化する原因に、生物兵器の流出や疫病によるパンデミックを紐づけるのは、市井の者が抱くリアルな不安が、反映された結果であろう。 さて、そんなすべての“祖”であるロメロだが、“トリロジー”最終作の『死霊のえじき』以降は、暫し“ゾンビもの”から離れる。その時点で、このジャンルでやれることは「やりつくした」のは事実だった。またクリエイターとして、“ゾンビもの”だけで終わりたくないという思いも、あったのだろう。 しかしロメロは、それまでの“ゾンビもの”とは勝手が違う、例えば『ダーク・ハーフ』(93)のような、製作費が高額でスターを起用したメジャー作品では、観客や批評家の支持を得ることが、出来なかった。また常に幾つかの企画を抱えながらも、クランクイン直前で頓挫というケースも、続いたのである。 しからば改めてということか、“ゾンビもの”を監督する企画が浮上したこともあった。こちらも結局は、製作サイドやスポンサーと折り合いがつかず、実現することはなかった。 結局『死霊のえじき』で“トリロジー”にピリオドを打った85年以降の20年間は、長編の監督作品は3本しかなかった、ロメロ。猛然とスパートを掛けたのは、2000年代後半のことだった。『ランド・オブ・ザ・デッド』(05)『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』(07)『サバイバル・オブ・ザ・デッド』(09)…。“ゾンビもの”を連発したのである。 この“新三部作”の口火を切った『ランド・オブ…』では、“ゾンビ”の侵入をフェンスで阻む街に於いて、人間界が富裕層と貧困層に大別されている。バリバリ社会批判を盛り込んだこの物語は、時系列的には、『ナイト・オブ…』にはじまる“リビングデッド・トリロジー”の流れを汲む。“トリロジー”の、いわば外伝的な内容と言える。 一方、それに続く『ダイアリー・オブ…』は、“トリロジー”から離れた新たなタイムライン、別次元での“ゾンビ”発生からスタートする物語。そしてそのアプローチも、挑戦的且つ大変ユニークなものとなっている。 卒業製作で作品を撮影中の映画学科の大学生が、“ゾンビ”発生という未知の事態に遭遇し、そのままカメラを回し続ける。即ち『ダイアリー・オブ…』は、主観映像によるフェイクドキュメンタリータッチの作品なのである。 そしてそれに続く『サバイバル・オブ…』は、時系列的には、『ダイアリー・オブ…』から連なる物語となっている。 死者がよみがえるようになった世界。アメリカのデラウェア州沖に浮かぶプラム島では、島を二分する、オフリン一族とマルドゥーン一族の対立が、激化していた。 オフリンは、死んで“ゾンビ”となった者は、頭を撃ち抜いて脳を破壊。永遠の眠りに就かせるべきだと主張し、次々と実行。一方マルドゥーン側は、死者が“ゾンビ”となっても、神の思し召しとして、そのまま生かしておくべきという考えだった。 一族の長パトリックをリーダーとするオフリン側は、マルドゥーンとの争いに敗れる。そして島外へと、追放されてしまう。 それから3週間後の、ペンシルベニア州フィラデルフィア。軍から脱走した元州兵のブルーベイカーたちは、強盗を続けて、糊口をしのいでいた。 そんな時に出会った少年から、ブルーベイカーたちは、ネットで見付けた「安全な島」の情報を知らされる。彼らはその情報を信じ、その島=プラム島へと向かうことを決める。 成り行きで、島から追放されたパトリック・オフリンも伴うことになった彼らは、半信半疑で島へと渡る。そこで見たものは、鎖につながれて生前の行動をなぞるように繰り返す“ゾンビ”たちだった。そしてそれは、“ゾンビ”を生かしておくべきと考える、マルドゥーンの仕業だった。 怒りの炎を燃やしたパトリックは、マルドゥーンに対する復讐を企てる。オフリン一族とマルドゥーン一族の戦いは、よそ者である元州兵たちを巻き込んで、再燃するのだった…。 『サバイバル・オブ…』に関しては一見した瞬間、ウィリアム・ワイラーが監督した、『大いなる西部』(58)のリメイク的な内容であることに気付く方が、少なくないであろう。テキサスが舞台の『大いなる西部』では、水源を巡って2つのファミリーが対立しているのだが、それを“ゾンビ”の処し方に置き換えた形だ。 一体なぜ、こういった内容の作品になったのか?実は前作『ダイアリー・オブ…』が、世界中にセールスされて黒字になったのを受けて、製作サイドからもう1本、何か“ゾンビもの”が撮れないかという提案が急遽あった。しかしロメロには、ちょうど手持ちのアイディアがなかったのである。 そこで思い付いたのが、ロメロ自身が大好きな西部劇の名作『大いなる西部』を、“ゾンビもの”として、現代に蘇らせるというプロジェクト。これならば、人間の愚かしさや不毛な対立劇という普遍的なテーマに、“ゾンビもの”に不可欠な、ガンアクションも盛り込めるというわけだ。 製作費は300万㌦で撮影期間は24日間という、前作『ダイアリー・オブ…』を下回る、過酷な撮影条件だったが、これはロメロにとっては、意義のある挑戦だった。成功すれば、“ゾンビもの”という枷さえ受け入れれば、ジャンルを横断した、意欲的な試みを行うことができるという証になる筈だった。 しかし残念なことに、『サバイバル・オブ…』は、アメリカでまともに劇場公開されることなくソフト化。世界中で製作費の10分の1である30万㌦しか稼ぎ出せず、ロメロの“ゾンビもの”6本の中で、唯一大コケした作品となってしまったのである。 2000年代後半、年齢的には60代後半に、一気呵成に3本の“ゾンビもの”を撮り上げたロメロ。しかし『サバイバル・オブ…』の興行的失敗が祟ったか、2010年代、70代に突入したその後は、沈黙を守ることとなる。 もうロメロの新作は、見られないのか?そんなことを人々が思うようになった頃、2017年6月、ロメロの新たな“ゾンビもの”の企画が明らかにされた。『ロード・オブ・ザ・デッド』!メガフォンは取らないものの、ロメロが共同脚本と製作手掛けるということだった。 ところがその1か月後の、7月17日。ロメロの訃報が、世界を駆け巡った。そして『ロード・オブ…』は、数多いロメロの幻の企画の中の1本となってしまったのである。 それから4年、“新型コロナ禍”で、全世界が恐怖と不安に包まれている今だからこそ、心して観よう!「映画史を変えた男」の最後の“ゾンビもの”にして、“遺作”となってしまった、『サバイバル・オブ・ザ・デッド』を!! 偉大なるジョージ・A・ロメロの魂と無念を、大いに感じ取って欲しい。■ 『サバイバル・オブ・ザ・デッド』© 2009 BLANK OF THE DEAD PRODUCTIONS INC. ALL RIGHTS RESERVED
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COLUMN/コラム2021.02.05
初恋のときめきと喜び、痛みと哀しみを瑞々しく描く普遍的なラブストーリー『君の名前で僕を呼んで』
8年間の紆余曲折が結実した名作 1980年代のイタリア、木漏れ日の眩しい緑豊かな田舎の避暑地、ゆったりと過ぎていくのどかで平和な時間、初めて出会った17歳の少年と24歳の青年が、生涯忘れられぬひと夏の恋を経験する。思春期の若者の揺れ動く感情と抑えきれぬ性の衝動、誰もが一度は経験する初恋のときめきと興奮と喜び、そして否応なく訪れる別れの痛みと哀しみとほろ苦さ。そんな世代や性別を問わず共感できる普遍的なラブストーリーを、これほど瑞々しく鮮やかに描き出した作品はなかなかないだろう。 原作はエジプト出身でニューヨーク在住の文学研究者アドレ・アシマンが’07年に発表した同名小説。出版と同時に全米のメディアで称賛され、優れたLGBTQ文学に贈られるラムダ文学賞にも輝く同作に強い感銘を受けた人々の中に、『花嫁のパパ』や『天使のくれた時間』のプロデューサー、ハワード・ローゼンマンと元俳優の脚本家ピーター・スピアーズがいた。’08年に共同で映画化権を取得した2人は、スピアーズの友人でもあるイタリアの監督ルカ・グァダニーノに演出をオファーするものの、当時多忙だった彼はプロデュースのみで関わることにしたという。そこでローゼンマンとスピアーズは他を当たることになるのだが、なかなか先へ進まないまま時間だけが経ってしまった。 そんな本作の企画に大きな動きがあったのは’14年のこと。『眺めのいい部屋』や『モーリス』、『ハワーズ・エンド』、『日の名残り』などで知られる巨匠ジェームズ・アイヴォリーが脚本を執筆することになったのだ。さらにグァダニーノ監督のスケジュールも調整がつき、当初はアイヴォリーとの共同監督という案もあったものの、最終的に監督は1人の方がいいという判断から、グァダニーノが単独で演出を手掛けることとなる。その後も相次いでキャストやスタッフ、ロケ地も決まるが、しかしストーリーの都合で夏にしか撮影できないという制限があったため、関係者のスケジュールが変わるたびに撮影が延期され、ようやく着手できたのは’16年の夏だったという。 それはいつもと変わらぬ夏休みのはずだった… 時は1983年の夏、場所は北イタリアの風光明媚な田舎町。ギリシャ=ローマ美術史の教授サミュエル(マイケル・スタールバー)を父に、幾つもの言語に精通した翻訳家アネラ(アミラ・カサール)を母に持つ17歳の少年エリオ(ティモシー・シャラメ)は、自身もイタリア語に英語、フランス語を自在に操るマルチリンガルで、ピアノやギターの優れた演奏家でもあり、文学と音楽をこよなく愛する知的で感受性の豊かな思春期の少年だ。17世紀に建てられた先祖代々受け継がれる美しいヴィラに暮らし、眩い太陽の光と緑豊かな自然に囲まれて読書や音楽を楽しみ、フランス人のマルシア(エステール・ガレル)やキアラ(ヴィクトワール・デュボワ)など近所の幼馴染らと無邪気に戯れながら長いバカンス・シーズンを過ごすエリオ。それはいつもと変わらぬ夏休みのはずだった。 そんなある日、24歳の大学院生オリヴァー(アーミー・ハマー)がアメリカからやって来る。エリオの父親は自身の研究活動を手伝ってもらうため、毎年アメリカから大学院生をインターンとして受け入れ、自宅に6週間滞在させていたのだ。ハンサムで知的で自信に満ち溢れたオリヴァーに、これまでのインターンとは違う何かを感じて惹きつけられるエリオ。オリヴァーもまた、聡明で繊細なエリオに好感を抱いている様子で、積極的にスキンシップをとって来るのだが、エリオはついつい本心とは裏腹に意地悪な態度を取ってしまう。そればかりか、ダンスパーティでキアラと親しげに踊るオリヴァーを見たエリオは嫉妬し、わざとマルシアとのデートを自慢して彼を挑発する。当然ながらオリヴァーはエリオと距離を置くように。それがまたエリオには苛立たしい。 とある晩、親子3人の団欒の場で母アネラが、16世紀フランスの小説をドイツ語でエリオに読み聞かせる。それは身分違いの王女に恋した騎士の話。その想いを王女に告白すべきか否か。翌朝、自転車に乗ってオリヴァーと2人で町へ出かけたエリオは、意を決して彼に自らの素直な気持ちを打ち明ける。それを口にしちゃいけないと年下のエリオをけん制しつつも、自らも同じ想いであることを否定しないオリヴァー。これを境にエリオとオリヴァーの距離はだんだんと縮まり、2人はかけがえのない幸福な時間を過ごすのだが、しかし夏の終わりは少しずつ、だが確実に近づいていた…。 あるべき大人の姿が物語の屋台骨を支える 恐らく本作の最も特筆すべき点は、男性同士の恋愛を男女のそれと全く変わらぬものとして、ごくごく自然な筆致で描いていることであろう。なので、LGBTQを題材にした映画でよくあるような、差別や偏見との闘いや葛藤などはほとんど存在しないに等しい。もちろん、全くないというわけじゃない。現にエリオもオリヴァーも、自分たちの関係を周囲には隠し通そうとする。恐らく理解されないと考えているのだろう。しかし、恋に落ちた2人だけの煌めく世界には迷いも苦悩も罪悪感も一切ない。ただひたすら、心から純粋に愛し愛されることの歓喜と幸福に満ちているのだ。 そんな彼らを温かな目で見守るのが、優しくて落ち着いていてユーモアのセンスがあり、息子の知性や意思をきちんと尊重して受け止める、エリオの進歩的で教養豊かな両親だ。ゲイ・カップルと家族ぐるみの付き合いをしているくらいだから、当時としてはかなりリベラルなインテリ夫婦なのだろう。息子とオリヴァーの関係だって、言われずともすべてお見通し。それでいて、息子が必要とする時に支えるだけで、それ以外は一切口出しをしない。まさに大人とはかくあるべし。一歩間違えれば綺麗ごとになりかねないキャラクターだが、しかし終盤で父親サミュエル(原作者の父親がモデルだという)がエリオに語る含蓄に溢れる言葉が、この映画の意図するところを明確にし、絵空事にならない豊かな説得力を両親の役割に与えている。 自分が若かった頃に必要だった人間になること。それが次世代の若者の手本となり、やがては彼らが生きやすい社会を形成することにもつながるだろう。映画もまた然り。相手が誰であろうと人を心から愛することに優劣はないし、ましてや恥ずべきことでは決してない。そもそも愛情とは人間にとってごく自然な感情であり、その喜びも哀しみも痛みもすべてをひっくるめて、かけがえのないほど素晴らしいものなんだ。そんなメッセージを持った映画を若い頃に求めていた作り手たちが、次世代の若者たちへ向けて贈る人生の指標的な物語。それがこの『君の名前で僕を呼んで』なのだと言えよう。 古き良き時代ののどかで素朴な北イタリア、のんびりと流れていく贅沢な時間。その中で一進一退を繰り返しながらも、確かな愛情の絆を育んでいくエリオとオリヴァー。その全てを端正な映像美と穏やかなテンポで描いていくルカ・グァダニーノの監督の演出がまた筆舌に尽くしがたい。特に、’80年代当時に思春期真っ盛りだった世代の映画ファンにとっては、本作の驚くほどリアルで鮮やかな時代の再現力には息を吞むはずだ。グァダニーノ監督が参考にしたというモーリス・ピアラ監督の名作『愛の記念に』(’83)や『ラ・ブーム』(’82)など、当時のヨーロッパ産青春映画のノスタルジックで甘酸っぱい世界そのもの。また、監督の地元であるロンバルディア州の町クレマとその近郊で撮影されたというロケーションには、どこかベルナルド・ベルトルッチ作品を彷彿とさせるものも感じられる。 さらに、イタリア語に英語、フランス語、ドイツ語など多言語が自在にポンポンと飛び交うセリフも、主人公の育った環境の豊かさや登場人物たちの教養の高さ、そしてヨーロッパの地政学的な背景を雄弁に物語る。これは日本語吹替版ではなかなか伝わらない要素なので、やはり字幕版で見るべき作品なのかもしれない。 ‘80年代ヨーロッパを彩った名曲の数々にも注目 加えて、’80年代ノスタルジーを一層のこと掻き立てるのが、全編に渡って散りばめられたBGMの数々である。アメリカのシンガー・ソングライター、スフィアン・スティーヴンスのオリジナル曲を中盤とエンディングに使用している本作だが、それ以外では’80年代当時のヒット曲が様々な場面で流れる。この選曲がまた極めてヨーロッパ的で面白い。 今以上にヒットチャートのローカル色が強かった当時、アメリカとヨーロッパでは上位にランキングされる楽曲やアーティストのメンツもかなり異なっていた。ヨーロッパで一世を風靡するような大ヒット曲が、アメリカでは全く受けないなんてことはザラだったし、もちろんその逆もまた然り。本作のサントラはグァダニーノ監督自身が選曲したそうだが、恐らくアメリカ人の監督だったらこうはならなかったであろう。そこで、最後は劇中で使用された印象的な楽曲を幾つか紹介して、本稿の締めくくりとさせていただきたい。 「Paris Latino」Bandoleroフランス出身の一発屋ディスコ・バンド、バンドレロが’83年にリリースしたデビュー曲。タイトル通りのラテン風ユーロディスコ・ナンバーで、フランスやベルギーなどフランス語圏を中心にヨーロッパ各国で大ヒット。その大きな波を受けて、アメリカやイギリスでもヴァージン・レコードから発売されたがパッとしなかった。劇中では、オリヴァーに肩を触られたエリオがドギマギするバレーボールのシーンで使用されている。 「Lady Lady Lady」Giorgio Moroder featuring Joe Espositoドナ・サマーのプロデューサーとして一時代を築いたジョルジオ・モロダーが、そのドナの大ヒット曲「バッド・ガールズ」などの共同ソングライターだったジョー・エスポジートをボーカルに迎えて発表したバラード曲。もともとは映画『フラッシュダンス』のサントラ用にレコーディングされ、同年発売されたモロダーとエスポジートのコラボ・アルバム「Solitary Man(邦題『レディ・レディ・レディ』)」にも収録された。アメリカでは全米チャート86位と振るわなかったが、ヨーロッパ各国ではトップ10入りするヒットに。劇中ではダンスパーティのチークタイム曲として使用されている。 「Love My Way」The Psychedelic Fursその「Lady Lady Lady」に続いて流れるダンス・ナンバーが、’80年代に日本でも人気だったUKのポストパンク・バンド、ザ・サイケデリック・ファーズが’82年に出したシングル「Love My Way(邦題『ラヴ・マイ・ウェイ』)」。彼らといえば、後に映画『プリティ・イン・ピンク』で使用された同名曲(’81年発売)が恐らく最も有名だと思うのだが、こちらを選ぶあたりは大ファンを自認するグァダニーノ監督らしいセンスと言うべきだろうか。 「Words」F.R. Davidエリオがマルシアと屋根裏部屋でセックスをするシーンで、ラジオから流れてくる甘く切ないポップ・バラードが、フランス出身のシンガー・ソングライター、F・R・デヴィッドの代表曲「Words(邦題『ワーズ』)」。これは当時、日本のディスコでもかなり流行ったので、ご存知の方も少なくないかもしれない。’82年にリリースされるやヨーロッパ各国のヒットチャートで1位を独占し、全英チャートでも最高2位をマーク。今なお’80年代を代表する名曲としてヨーロッパで愛され、幾度となくリミックス盤もリバイバル・ヒットしているのだが、なぜかアメリカでは不発に終わってしまった。■ 『君の名前で僕を呼んで』© Frenesy, La Cinefacture
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COLUMN/コラム2021.02.04
漂泊者ポランスキーの「呪われた映画」『ローズマリーの赤ちゃん』
本作『ローズマリーの赤ちゃん』(1968)の原作小説は、アイラ・レヴィン(1929~2007)が、67年に発表。ベストセラーになった。 レヴィンは、物語に時事的な社会問題を織り込んでサスペンスを醸し出す、巧みなストーリーテラーとして評価が高かった作家である。72年に出版された「ステップフォードの妻たち」は、“ウーマン・リブ”の時代への男性の恐怖心をベースにしたもの。76年の「ブラジルから来た少年」では、ナチス・ドイツ残党の実在の医師メンゲレが、当時最新の“クローン”技術で、ヒトラーの復活を企てる。 そしてそれらに先立つ「ローズマリーの赤ちゃん」は、50年代末から60年代初めに起こった世界的な大事件から、着想を得ている。 ニューヨークに住む、ローズマリーとガイの若夫婦。ガイは俳優で、舞台やテレビCMなどに出演するも、今イチぱっとしない。 夫婦は歴史のあるアパート、ブラムフォードへと引っ越す。2人の中高年の友人ハッチは、過去に数々の事件が起こった場所だと懸念するが、夫婦は耳を貸さなかった。 入居して間もなくローズマリーは、隣室のカスタベット夫妻宅の居候だという、若い娘テリーと親しくなる。しかしその数日後、テリーは窓から身を投げ、自殺を遂げる。 その件がきっかけで、ローズマリーとガイは、テリーの面倒を見ていた隣室の老夫婦、ローマンとミニーと顔見知りになる。夕食に招かれるなどする内に、ガイは演劇に詳しいローマンと親しくなり、カスタベット家を頻繁に訪ねるようになる。 そして間もなく、ガイのライバルの俳優が突如失明。ガイに役が回るという、思いがけないチャンスが巡ってきた。 時を同じくしてガイは、子作りにも積極的になる。ローズマリーの排卵日、彼女はミニーから差し入れられたデザートを食べた後、目まいに襲われ、ベッドに臥せってしまう。 その夜ローズマリーは、夢を見る。ガイやカスタベットらが見守る中で、人間離れした者に犯されるという内容の悪夢であった。 翌朝起きると、彼女の身体のあちこちに、引っかき傷が出来ていた。ガイは、子作りのチャンスを逃したくなかったので、意識のないローズマリーを抱いたと説明をする。 エヴァンスが『反撥』に感心して、ポランスキーに監督をオファーしたことは、先に記した通りだ。『反撥』は、セックスへの恐怖心が昂じて、閉鎖空間で現実と妄想の区別がつかなくなって狂っていく、若い女性が主人公の作品である。 そんな作品を撮ったポランスキーこそ、「ローズマリー…」の映画化に正に打ってつけの人材と、エヴァンスは見込んだ。そしてポランスキーもまた、この題材に強く惹かれたというわけである。 ポランスキーは自分で注文をつけた通り、ほぼ「原作に忠実」な映画化を行った。そんな中ローズマリーが犯されるシーンで、LSDを服用したかのような、サイケな映像を用いて、現実とも妄想ともつかないように演出している辺り、当時の彼の才気が爆発している。 原作からの改変として、ポランスキーが挙げるのは、次の一点のみ。 「…私はラストを少し改変した。というのは、本の結末は少しばかり失望させるものだったからだ。あそこはちょっと長引きすぎると思う」。 これに関しては機会があったら、是非原作と映画版の違いを、自らの目で確かめて欲しい。 何はともかく、レヴィンの原作とポランスキー監督のマッチングは、大成功! ローズマリー役のミア・ファローのニューロティックな感じもピタリとハマった。映画は大ヒットを記録し、ポランスキーはアカデミー賞の脚色賞にもノミネートされる。 通常ならばこうした経緯を、「幸運な出会い」と表現するべきなのであろう。しかしこの作品に関しては、それ以上に他の形容をされる場合が多い。「呪われた映画」であると…。 後に原作者のレヴィンは、自分は“サタン”を信じないと発言。またポランスキーは、無神論者であることを明言している。それなのにこの作品とその成功は、作り手がつゆとも思わなかった、“悪魔”を呼び込んでしまったのである。 『ローズマリー…』の大成功により、ハリウッドの住人として認められたポランスキーは、映画公開の翌年=69年2月、ロサンゼルスに居を構える。それから半年経った8月9日朝、ポランスキー家のメイドが、5人の遺体を発見する。 殺害されていたのは、ポランスキーが『吸血鬼』で出会って結婚し、当時妊娠8カ月だった女優のシャロン・テートと、ポランスキー夫妻の関係者ら。ポランスキー本人は、次回作のシナリオ執筆のためロンドンに滞在しており、留守にしていた。 数か月後、凶行に及んだのは、チャールズ・マンソンが率いるカルト集団であることが判明。この犯行は無差別殺人の一環であり、ポランスキーの邸宅が狙われたのは、単なる偶然であった。 いずれにせよ、『ローズマリー…』が成功せず、ポランスキーがロスに居を移すことがなかったら…。若妻がカルト集団に惨殺されることも、なかったわけである。 因みに映画でローズマリーらが住むアパート、ブラムフォードの外観に使われたのは、ニューヨークのセントラルパーク前に在る、ダコタハウス。1980年12月8日、ここに住むジョン・レノンが、玄関前で撃たれて落命した、あのダコタハウスである。 これは、映画とは何ら関係のない事件である。しかしミア・ファローが、ビートルズのメンバーと共に、インドで瞑想の修行に臨んだ過去の印象などもあってか、『ローズマリー…』を「呪われた」と語る場合、不謹慎な言い方になるが、レノンの殺害が、その彩りになってしまっているのは、紛れもない事実と言える。『ローズマリーの赤ちゃん』TM, ® & © 2021 by Paramount Pictures. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2021.02.02
原作者スティーブン・キングが小説版以上の出来と認めた青春ホラーの傑作『キャリー』
ブラアン・デ・パルマをメジャーな存在へと押し上げた出世作 ブライアン・デ・パルマ監督の出世作である。ニューヨークのインディーズ業界からハリウッドへ進出したものの、初のメジャー・スタジオ作品『汝のウサギを知れ』(’72)が勝手に再編集されたうえに2年間もお蔵入りするという大きな挫折を経験したデ・パルマ。その後、『悪魔のシスター』(’72)や『ファントム・オブ・パラダイス』(’74)がカルト映画として若い映画ファンから熱狂的に支持され、敬愛するヒッチコックへのオマージュを込めた『愛のメモリー』(’76)も好評を博す。そんな上昇気流に乗りつつあった当時の彼にとって、文字通り名刺代わりとなるメガヒットを記録した作品が、スティーブン・キング原作の青春ホラー『キャリー』(’76)だった。 主人公は16歳の女子高生キャリー・ホワイト(シシー・スペイセク)。狂信的なクリスチャンのシングルマザー、マーガレット(パイパー・ローリー)に厳しく育てられた彼女は、それゆえに自己肯定感が低く内向的な怯えた少女で、学校ではいつも虐めのターゲットにされている。宗教本を押し売り歩く母親マーガレットも、近所では鼻つまみ者の変人。アメリカのどこにでもある平凡な田舎町で、隔絶された世界に住む母子は完全に浮いた存在だ。 そんなある日、学校のシャワールームでキャリーが初潮を迎える。だが、知識のないキャリーは下腹部から流れ出る鮮血に慄いてパニックに陥り、その様子を見たクラスメートたちは面白がってはやし立てる。そればかりか、帰宅して生理の来たことを報告したキャリーを、母親マーガレットは激しく叱責する。それはお前が汚らわしい考えを持っているからだと。神に祈って許しを請うよう、嫌がる娘を狭い祈祷室に無理やり閉じ込めて罰するマーガレット。この一連の出来事が起きて以来、キャリーは自らの特異な能力に気付いていく。実は彼女、怒りの衝動によって周囲の物を動かすことが出来るのだ。図書館で調べたところ、それはテレキネシスと呼ばれるもので、世の中には他にも同様の能力を持つ人がいるらしい。自分は決してひとりじゃない。そう思えた時、キャリーの中で何かが少しずつ変わり始める。 一方、学校ではシャワールームの一件に腹を立てた体育教師コリンズ先生(ベティ・バックリー)が、虐めに加わった女生徒たちに放課後の居残りトレーニングを課す。さぼった生徒はプロム・パーティへの参加禁止。これに不満を持ったリーダー格の人気者クリス(ナンシー・アレン)が抵抗を試みるものの、コリンズ先生の怒りの火に油を注いでしまい、彼女だけがプロムから締め出されることとなる。そんな懲りないクリスとは対照的に、虐めに加わったことを深く反省する優等生スー(エイミー・アーヴィング)は、ボーイフレンドのトミー(ウィリアム・カット)にキャリーをプロムへ誘うよう頼む。それは彼女なりの罪滅ぼしだった。 学校中の女子が憧れるハンサムな人気者トミーからプロムの誘いを受け、思わず頬を赤らめて舞い上がるキャリー。烈火のごとく怒り狂い猛反対する母親をテレキネシスで抑えつけた彼女は、精いっぱいのおめかしをして意気揚々とプロムへと出かけていく。さながら醜いアヒルの子が美しい白鳥へと変貌を遂げた瞬間だ。プロム会場では人々から羨望の眼差しを向けられ、そのあどけない笑顔に自信すら覗かせるようになったキャリーは、トミーに優しくリードされて夢心地のチークダンスを踊る。これまでの惨めな人生で味わったことのない高揚感と幸福感に包まれるキャリー。だが、その裏で彼女を逆恨みするクリスが、恋人の不良少年ビリー(ジョン・トラヴォルタ)や腰巾着ノーマ(P・J・ソールズ)らと結託し、公衆の面前でキャリーを貶めるべく残酷ないたずらを仕組んでいた…。 紆余曲折を経た映画版製作までの道のり 学校では虐められ、家庭では虐待を受ける孤独な超能力少女の復讐譚。幸福の頂点から地獄へと叩き落されたキャリーが、いよいよ強大なテレキネシスの能力に覚醒し、炸裂する怒りのパワーによって凄まじい大殺戮が繰り広げられる終盤の阿鼻叫喚は、スプリット・スクリーンやジャンプカットの効果を存分に活かしたデ・パルマ監督のダイナミックな演出も功を奏し、ホラー映画史上屈指の名シーンとなった。とはいえ、本質的には大人への階段を上り始めた少女の自我の目覚めと、若さゆえに残酷な少年少女たちが招く悲劇を丹念に描いた普遍的な青春ドラマ。超能力はあくまでもヒロインの自我を投影するギミックに過ぎない。だからこそ、劇場公開から45年近くを経た今もなお、観客に強く訴えかけるものがあるのだろう。そもそも、スティーブン・キング作品の映画化に失敗作が少なくないのは、こうしたストーリー上の超常現象的なギミックに惑わされてしまい、核心である日常的なドラマ部分を軽んじてしまいがちになるからだ。そう考えると、原作の本質を見失うことなく映画向けに再構築した脚本家ローレンス・D・コーエンの功績は計り知れない。 スティーブン・キングの処女作として’74年に出版され、翌年にペーパーバック化されると大きな反響を巻き起こしたホラー小説『キャリー』。当時、映画製作者デヴィッド・サスキンドのアシスタントとして働いていたコーエンは、持ち込まれた多くの企画の中から2つの作品に目をつける。それが『アリスの恋』(’74)のオリジナル脚本と、まだ出版される前の『キャリー』の原稿だった。中でも、10代の若者の純粋さや残酷さを鮮やかに捉えた『キャリー』に強い感銘を受けたという。だが、前者はマーティン・スコセッシ監督による映画化がすぐ決まったものの、後者はボスであるサスキンドのお眼鏡に適わなかった。なにしろ、ホラー映画はB級という先入観がまだまだ強かった時代だ。基本的にフリーランスの立場だったコーエンは、折を見て幾つもの映画会社や製作者に『キャリー』を持ち込んだが、しかしどこへ行っても眉をひそめられたという。 製作主任を務めた『アリスの恋』の撮影終了後、新たな仕事を探していたコーエンは、親しい友人の勧めで『明日に向かって撃て』(’69)の製作者ポール・モナシュの面接を受ける。しかし興味を惹かれるような企画がなかったため立ち去ろうとしたところ、モナシュから「そういえば、もうひとつ企画があったな。『キャリー』っていうんだけれど、知っているかね?」と声をかけられて思わず振り返ってしまったという。実はモナシュが既に映画化権を手に入れていたものの、まだベストセラーになる前だったため埋もれていたのだ。運命を感じたコーエンは、モナシュのもとで『キャリー』の企画を担当することに。テキサス在住の若い新人女性が書いたという脚本の草稿を読んだところ、原作に忠実でもなければ本質を捉えてもいないため、コーエンが一から脚本を書き直すこととなったのだ。 こうして出来上がった新たな脚本を、当時モナシュと配給契約を結んでいた20世紀フォックスに提出したコーエン。通常、映画会社が判断を下すのに数週間はかかるのだが、本作はその翌週にフォックスから却下の返答があったという。当然ながら、脚本の仕上がりに自信のあったモナシュとコーエンは落胆する。しかし捨てる神あれば拾う神あり。世の中には不思議な偶然があるもので、ちょうど同じ時期に『キャリー』の映画化権をモナシュに売却した出版エージェント、マーシア・ナサターがユナイテッド・アーティスツ(UA)の重役に就任し、『キャリー』の映画化企画を持ちかけてきたのである。 原作に惚れぬいた2人の才能の奇跡的な出会い 一方その頃、『キャリー』の映画化に情熱を燃やす人物がもう一人いた。ブライアン・デ・パルマ監督である。原作本を読んですっかり夢中になったデ・パルマは、なんとしてでも自らの手で映画化したいと考え、エージェントを介してモナシュにコンタクトを取ったという。当時まだデ・パルマのことをよく知らなかったモナシュは、何人もいる監督候補のひとりとして面接することに。しかし、これが上手くいかなかった。長い下積みを経て映画プロデューサーへと出世した典型的なハリウッド業界人であるモナシュの目には、口数が少なくて控えめな芸術家肌のデ・パルマは理解し難い人種だったのだろう。結局、モナシュとコーエンはデ・パルマを監督候補から外し、ロマン・ポランスキーやケン・ラッセルを有力候補として検討する。 ところがその後、UAの制作部長からモナシュに、デ・パルマを監督に起用するようお達しが来る。というのも、『キャリー』を諦めきれなかったデ・パルマがエージェントを通してUAに売り込みをかけたところ、たまたま制作部長がデ・パルマのファンだったというのだ。かくして、UA側の意向でブライアン・デ・パルマが『キャリー』の演出を任されることに。ちょうど同じ頃、完成したばかりの『愛のメモリー』を試写で見たコーエンは、もしかするとデ・パルマはこの作品に適任かもしれないと考えを改めるようになり、実際にニューヨークで本人と打ち合わせしたことで、その予感が確信に変わったという。改めて本人と話をしてみると、キング作品の本質的な魅力はもちろんのこと、コーエンが書いた脚本の意図も十分に理解していた。デ・パルマが要求した脚本の大きな改変は2つだけ。キャリーが母親マーガレットを殺すシーンと、劇場公開時に話題となったクライマックスの結末だ。 原作ではキャリーがテレキネシスで母親の心臓を止めるのだが、しかしこれをそのまま映像にすると地味でパッとしない。コーエンも頭を悩ませていたシーンだったが、最終的にデ・パルマが見事な解決策を思いつく。キッチンの包丁やハサミをテレキネシスで次々と飛ばし、まるで殉教者セバスティアヌスのごとく母親マーガレットを磔にしてしまうのだ。さらに、原作ではキャリーと同じような能力を持つ少女がほかに存在することを示唆して終わるものの、コーエンの書いた初稿では惨劇をただひとり生き延びた優等生スーが精神病院へ幽閉されて幕を閉じていた。しかし、これまた映画のエンディングとしてはインパクトが弱い。結局、撮影が始まっても結末を決めかねていたデ・パルマとコーエンだったが、ギリギリの段階でデ・パルマはジョン・ブアマン監督の『脱出』(’72)をヒントに、後に数々のエピゴーネンを生み出す衝撃的なラストを考えついたのである。 そのほか、『ファントム・オブ・パラダイス』のオーディションで知り合い惚れ込んだ女優ベティ・バックリーをキャスティングするため、コリンズ先生の役柄を膨らませて出番を増やしたり、原作では卑劣な悪人であるクリスやビリーのキャラクターにユーモアを加えることで、ともすると重苦しくなりかねないストーリーにある種の口当たりの良さを盛り込んだりと、いくつかの細かい改変をコーエンに指示したデ・パルマ。ちなみに、原作だとキャリーは超能力を使って町を丸ごと破壊してしまうが、さすがにこれは予算の都合を考えると不可能であるため、当初からプロム会場を全滅させるに止める方針だったようだ。 さらに、デ・パルマの功績として忘れてならないのは、イタリアの作曲家ピノ・ドナッジョの起用である。当初、デ・パルマは『愛のメモリー』に続いてヒッチコック映画の大家バーナード・ハーマンに音楽を依頼するつもりだったが、同作の完成直後にハーマンが急逝してしまう。そこで彼が白羽の矢を立てたのが、ダンスティ・スプリングフィールドもカバーしたカンツォーネの名曲「この胸のときめきを」で知られるイタリアの人気シンガーソングライター、ドナッジョだった。もともとドナッジョが手掛けたニコラス・ローグ監督の『赤い影』(’73)のサントラ盤を気に入っていたデ・パルマは、随所でハーマンのトレードマークだった『サイコ』風のスコアを要望しつつも、ホラー映画のサントラには似つかわしくない甘美なメロディをドナッジョに書かせる。これは英断だったと言えよう。その結果、キャリーの深い孤独や悲しみを際立たせるような、実に繊細でロマンティックで抒情的な美しいサウンドトラックが出来上がったのだ。本作で見事なコラボレーションを実現したデ・パルマとドナッジョは、これ以降も通算8本の映画でコンビを組む。なお、プロム会場のチークダンス・シーンで流れるバラード曲を歌っているのは、当時スタジオのセッション・シンガーだったケイティ・アーヴィング。スー役を演じている女優エイミー・アーヴィングの姉だ。 かくして、スティーブン・キングの小説に惚れ込んだブライアン・デ・パルマにローレンス・D・コーエンという、2人の優れた才能が奇跡的に巡り合ったからこそ生まれたとも言える傑作『キャリー』。実際、原作者のキング自身が高く評価しているばかりか、小説版よりも良く出来ていると太鼓判を押している。映画の作り手にとって、恐らくこれ以上の誉め言葉はないのではないだろうか。■