ジョン・ウーは、1990年代に香港からアメリカに移り住み、ハリウッドに進出。『ブロークン・アロー』(96)『ファイス/オフ』(97)『M:I-2 ミッション:インポッシブル2』(2000)といった監督作が、続けてボックスオフィスのTOPを飾った。
 2000年代後半になると、アジアに拠点を移し、“三国志”ものの『レッドクリフ partⅠ』(08)『レッドクリフ partⅡ -未来への最終決戦-』(09)を製作・監督。中国本土で当時の興収新記録を打ち立てた。

 ウーは、1946年生まれ。生誕地は中国の広州だが、49年に中華人民共和国が成立すると、一家で香港へと移住した。そこでは、時には路上で生活することもあったほどの、赤貧洗うが如しの幼少期を送ったという。
 キリスト教会を通じてアメリカの篤志家の援助を受け、10歳を前に、やっと学校に通えるようになったウーが、母親の影響もあって映画に夢中になったのは、中学生の頃から。彼が青春時代を送った60年代の香港では、黒澤明や溝口健二など巨匠の作品に続いて、日活や東映の作品が、大量に上映されるようになった。日本映画専門の映画館チェーンまであったという。
 そんな中でウーは、アメリカやヨーロッパの映画に親しむのと同時に、黒澤明を崇め、石井輝男や深作欣二の監督作品を熱烈に愛した。彼のヒーローは、高倉健や小林旭であった。

 17の歳に学校をやめたウーは、働きながら映画を学ぶ。そして19歳の時には、8mmや16mmフィルムで実験映画を撮り始める。映画会社に職を得たのは、23歳の時だった。
 71年、25歳の時に大手のショウ・ブラザースに籍を移したウーは、武侠映画の巨匠チャン・チェーの下で助監督を務めた。1年半という短い間であったが、ここで多くのことを学んだという。
 そして73年に、初監督作の『カラテ愚連隊』を撮る。諸事情から香港では、2年後の75年まで公開されなかったが、我が国では、地元より一足先の74年に公開されている。これは、73年暮れにブルース・リー主演の『燃えよドラゴン』が日本公開されるや沸き起こった、空前の“クンフー映画ブーム”に乗ってのことだった。
 そんな処女作を評価したレイモンド・チョウに誘われ、彼が率いるゴールデン・ハーベストへと移ると、当時ただ1人の社員監督として重用され、コメディや広東オペラのヒット作を放つようになる。マイケル、リッキー、サミュエルの“ホイ3兄弟”主演で、監督はその長兄マイケル・ホイ名義のコメディ『Mr.Boo!ミスター・ブー ギャンブル大将』(74)なども、実際の監督を務めたのは、ウーだったと言われる。

 このように会社に多大な貢献をしながらも、自分が本当に撮りたいと思ったものは、なかなか撮らせてもらえなかった。それに対して不満を募らせるようになったウーは、83年の戦争映画『ソルジャー・ドッグス』の製作中に、ゴールデン・ハーベストとトラブり、退社に至る。
 そして新興のシネマ・シティへと移籍するが、大手であるゴールデン・ハーベストへの体面などもあって、84年から85年に掛けては、台湾の支社へと出向せざるを得なくなる。いわば、“島流し”の憂き目に遭ったのである。
 2年間の辛酸の後、86年に香港に帰ったウーが、当時気鋭のプロデューサーであり監督だった、ツイ・ハークの製作により取り掛かったのが、本当に撮りたかった企画である『英雄本色』。即ち本作、『男たちの挽歌』だった。

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 極道の世界に身を置くホーは、偽札作りのシンジゲートの幹部。相棒のマークとは、固い絆で結ばれていた。
 ホーには病を抱えた父と、弟のキットという家族がいた。キットは兄の正体を知らないまま警察学校に通っており、ホーはそんな弟のために、次の仕事を済ませたら、足を洗うことを決めていた。
 その仕事で台湾に飛んだホーだが、取引相手から裏切りに遭い、逮捕されてしまう。そのためシンジケートは、ホーが口を割らないようにと、彼の家族を急襲。キットの目の前で、兄弟の父は殺されてしまう。
 一方ホーの復讐のために、マークが台湾に飛ぶ。ターゲットは討ち果すも、右足を撃たれたたマークは、不自由な身体になってしまう。
 それから3年が経ち、台湾での刑期を終えたホーが、香港へ帰って来る。刑事になったキットは、父の死を招いた兄を、決して許そうとはしない。更には兄の属していたシンジケートの捜査から、「関係者の身内」という理由で外されたため、怒りを膨らませる。
 ホーは更生のため、タクシー会社で働き始めるが、そんな時にうらぶれた姿になったマークと再会する。今やシンジケートは、ホーとマークの舎弟だったシンが実質的なTOPとなり、右足を引きずるマークは、雑用係となっていた。
 シンはホーを呼び出し、弟のキットを警察からの情報提供者として抱き込んで欲しいと持ち掛ける。ホーが拒否すると、相棒のマークがリンチに掛けられ、勤務先のタクシー会社も、嫌がらせを受けるようになる。
 キットを守るためにもホーは、シンが率いるシンジケートと対決する決意を固める。そして相棒のマーク、更にはキットと共に、命を賭けた大銃撃戦へと臨んでいく…。

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 1967年に製作された、ロン・コン監督の『英雄本色』をベースにしたリメイク作品である、『男たちの挽歌』。ジョン・ウーがそれまで培ってきた、キャリアと知識、テクニックのすべてを注いだ作品と言える。
「チャン・チェーの映画の登場人物が、刀を銃に持ちかえたような作品だ」という評論があったように、中国時代劇の世界を暗黒街に置き換えて、アクションの撮り方から、男の情熱、騎士道といった、師匠から学んだ技術や精神をブチ込んだ。
 また映画を撮ることのモチベーションは“仁義”であると、ウー本人が公言するように、日本のヤクザ映画や、ジャン=ピエール・メルヴィル監督の『サムライ』(67)といった、フレンチ・ノワールからの影響も大。もちろん銃撃戦で多用される“スローモーション”は、「死の舞踏」と謳われた、ヴァイオレンスの巨匠サム・ペキンパー作品にインスパイアされ、ウーが発展させたものである。

 キャストやその演じるキャラクターに関しても、ウーの思い入れがたっぷりである。主役のホーを演じるティ・ロンは、チャン・チェー門下。70年代は武侠映画の大スターとして鳴らしたが、80年代に入って、本作に出る頃までは、「過去の人」扱いだったという。
 マーク役のチョウ・ユンファは、TVドラマから映画へと、軸足を移した頃に本作に出演。役作りに於いては、その容貌が似ている、日活アクションの大スター・小林旭の動きや所作を、積極的に取り入れたという。もちろんこの役作りは、来日して本人に会えた時には、足下に跪いたほどの熱烈な旭ファンである、ウーの意向もあってのことだろう。

 ホーが逮捕された後、足を負傷したマークは、洗車や掃き掃除などの雑用を命じられる。そんなところまで落ちぶれながら、友の出獄を待ち、巻き返しを図る日を心待ちにしている。これは台湾に“島流し”になっていた時のジョン・ウー自身が投影されている。実際に彼を持て余した現地スタッフから、箒を渡されて事務所の掃除をさせられたこともあったそうだ。
 そしてホーとマークの間に結ばれる熱い絆は、正に当時のウーとツイ・ハークの関係をモデルにしたものだという。そもそもは、5歳年下のハークがまだ売れない頃、ウーがゴールデン・ハーベストに紹介して、ハークの道を開いた。そして台湾から香港に戻ったウーが、かねてから温めていた本作の構想を語ると、ハークは強く映画化を勧め、プロデューサーを買って出た。
 もっともこの2人は後に、『男たちの挽歌』の続編や契約問題を巡って、衝突。友情は、瓦解してしまうのだが…。
 因みにホーの弟のキットを演じたレスリー・チャンは、それまではアイドル歌手として、主に青春映画に出演していたのだが、本作出演以降、本格的に映画スターの道を歩み始める。
 後に“ウー印”とも言われる彼の作品のトレードマーク、“白い鳩”も、2人の男が銃を至近距離で突きつけ合う“メキシカン・スタンドオフ”も、本作ではまだ登場しない。しかし間違いなく、ここからすべてが始まったのである。

 本作は86年8月に香港で公開されると、記録破りの大ヒット! 長いコートにサングラス、くわえマッチというチョウ・ユンファの出で立ちを、若者がこぞってマネをするような社会現象となった。
 日本では、翌87年4月に公開。ある程度話題にはなったが、それほど多くの観客を集めることはなかった。火が点いたのは、ビデオソフト化されて、当時急増していたレンタルビデオ店に出回るようになってからであった。
 何はともかく本作によって、“英雄片”日本で言うところの“香港ノワール”というジャンルが確立し、香港映画界を席巻する。この大波はやがて海を越え、クエンティン・タランティーノ監督作品を筆頭に、世界のアクション映画シーンにも大きな影響を及ぼすようになる。
 当時40代で、このムーブメントをリードし、その後ハリウッドのTOPランナーの1人にまで上り詰めたジョン・ウーも、今や70代中盤となった。近作である『The Crossing ザ・クロッシング Part I / PartⅡ』(14/15) や『マンハント』(17)などには、かつての輝きが見られないのは、偏に加齢のせいなのだろうか?
 それと同時に、ご存知のような国際情勢である。“香港ノワール”を生み出した頃の熱い香港の風土は、完全に過去のものとなってしまった。
 35年前に常軌を逸した激しいドンパチが、とにかく衝撃的だった『男たちの挽歌』を、今このタイミングで鑑賞する。後には“亜州影帝=アジア映画界の帝王”と呼ばれるほどのスーパースターになる、若き日のチョウ・ユンファが、超スローモーションでロングコートを翻しながら二丁拳銃をぶっ放す姿に改めて痺れながらも、過ぎ去った日々の、その取り返しのつかなさに、愕然ともしてしまう。■

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