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COLUMN/コラム2021.07.06
ABBAのエバーグリーンな名曲に彩られた大ヒット・ミュージカル映画『マンマ・ミーア!』
世界中のファンを虜にした4人組ABBAとは? スウェーデン出身の世界的なポップ・グループ、ABBAの名曲に乗せて綴られる、悲喜こもごもの母親と娘の愛情物語。クイーンの「ウィ・ウィル・ロック・ユー」やエルトン・ジョンの「ロケットマン」、エルヴィス・プレスリーの「オール・シュック・アップ」などなど、有名アーティストのヒット曲を散りばめたジュークボックス・ミュージカルは、’00年代以降のロンドンやニューヨークで一躍トレンドとなり、今やミュージカル界の定番ジャンルとして市民権を得た感があるが、その火付け役となったのが1999年4月にロンドンのウエスト・エンドで開幕したABBAのミュージカル「マンマ・ミーア!」だった。 ご存知、1970~’80年代初頭にかけて、文字通り世界中で一世風靡した男女4人組ABBA。代表曲「ダンシング・クイーン」や「ザ・ウィナー」などを筆頭に、数多くのキャッチーなポップ・ナンバーを各国のヒットチャートへ送り込み、’60年代のビートルズと比較されるほどの社会現象を巻き起こした。ソビエト連邦やポーランドなど、冷戦時代に鉄のカーテンの向こう側でもブームを呼んだ西側のポップスターは、後にも先にもABBAだけだろう。メンバーは全ての作詞・作曲・プロデュースと演奏を担当する男性メンバー、ビョルン・ウルヴァースとベニー・アンデション、そして卓越した歌唱力でボーカルを担当する女性メンバー、アグネッタ(正確な発音はアンニェッタ)・ファルツコッグとアンニ=フリッド・リングスタッド(愛称フリーダ)。アグネッタとビョルン、ベニーとフリーダがそれぞれカップルで、4人の名前の頭文字を並べてABBAと名付けられた。 メンバーはいずれもABBA結成以前から地元スウェーデンでは有名なスター。ベニーは’60年代に「スウェーデンのビートルズ」と呼ばれたスーパー・ロックバンド、ヘップスターズの中核メンバーで、ビョルンは人気フォークバンド、フーテナニー・シンガーズのリードボーカリストだった。お互いのバンドのライブツアー中に公演先で知り合い意気投合した彼らは、ソングライター・コンビとして様々なアーティストに楽曲を提供するようになる。一方、アグネッタは’67年に17歳でデビューし、当時としては珍しい作詞・作曲もこなす女性歌手としてナンバーワン・ヒットを次々と放った美少女アイドル、フリーダもスウェーデンの音楽番組で活躍する本格的なジャズ・シンガーだった。つまり、どちらも今で言うところのセレブカップルだったのである。 ただし、もともと彼らにはグループとして活動するという意思はなかった。’70年頃からお互いのプロジェクトで協力し合うようになった彼らは、1回きりのつもりで’72年に4人揃ってレコーディングしたシングルを発表。これが予想以上の好評を博したことから、後にクインシー・ジョーンズをして「世界屈指の商売人」と言わしめた所属レコード会社社長スティッグ・アンダーソンが、彼らをABBAとして世界へ売り出すことにしたのである。’74年にシングル「恋のウォータールー」がユーロビジョン・ソングコンテストで優勝したことを契機に人気は爆発。ボルボと並ぶスウェーデン最大の輸出品とも呼ばれ、音源の著作権管理する音楽事務所ポーラー・ミュージックおよびユニバーサル・ミュージクの公式発表によると、これまでに全世界で3億8500万枚のレコード・セールスを記録。’82年に活動を休止して40年近くが経つものの、いまだに年間100万枚以上を売り上げているという。 「マンマ・ミーア!」への長い道のり そんなABBAとミュージカルの関係は意外と古い。どちらも幼い頃から伝統的なスウェディッシュ・フォークに慣れ親しんで育ち、10代後半でビートルズやフィル・スペクター、ビーチボーイズに多大な影響を受けたビョルンとベニー。若い頃の彼らにとってミュージカルは時代遅れの文化に過ぎなかったが、そんな2人の認識を変えたのが’72年にスウェーデンでも上演されたロック・ミュージカル「ジーザス・クライスト・スーパースター」(奇しくもマグダラのマリア役を演じたのはアグネッタ)だった。僕らもいつかはああいうミュージカルを作ってみたい。そう考えた彼らは、’77年に発表した5枚目のアルバム「ジ・アルバム」に“黄金の髪の少女”というミニ・ミュージカルを収録。やがて音楽的な成熟期を迎えたABBAは、’80年代に入るとアルバム「スーパー・トゥルーパー」や「ザ・ヴィジターズ」でトレンディなポップスの枠に収まらないミュージカル的な楽曲にも取り組んでいく。 一方その頃、「ジーザス・クライスト・スーパースター」や「エビータ」などのミュージカルで知られる脚本家ティム・ライスは、’70年代から温めてきた冷戦をテーマにした新作の企画を実現するため、当時「キャッツ」にかかりきりだった盟友アンドリュー・ロイド・ウェッバーに代わる作曲パートナーを探していた。そこで知人の音楽プロモーターから紹介されたのが、ABBAの活動に一区切りをつけてミュージカル制作に意欲を燃やしていたビョルンとベニー。この出会いから誕生したのが、全英チャート1位に輝く「アイ・ノー・ヒム・ソー・ウェル」や「ワン・ナイト・イン・バンコック」などの大ヒット曲を生んだ名作ミュージカル「チェス」だった。’86年から始まったロンドン公演もロングラン・ヒットとなり、ミュージカル・コンポーザーとして幸先の良いスタートを切ったかに思えたビョルンとベニーだったが、しかし演出や曲目を変えた’88年のブロードウェイ版がコケてしまう。今なおミュージカル・ファンの間で愛されている「チェス」だが、ビョルンとベニーにとっては少なからず悔いの残る結果となった。 その後、ビョルンとベニーはスウェーデンの国民的作家ヴィルヘルム・ムーベリの大河小説「移民」シリーズを舞台化したミュージカル「Kristina from Duvemåla(ドゥヴェモーラ出身のクリスティーナ)」を’95年に発表。本格的なスウェディッシュ・フォークを下敷きにしたこの作品は、地元スウェーデンでは大絶賛され、4年間に渡って上演されたものの、ロンドンやニューヨークでは英語バージョンがコンサート形式で演奏されたのみ。ミュージカルの本場への正式な上陸には至っていない。 こうして、ビョルンとベニーがミュージカル作家として地道に経験を積み重ねている頃、ABBAのヒット曲を基にしてミュージカルを作ろうと考える人物が現れる。それが、ティム・ライスのアシスタントだった女性ジュディ・クレイマーだ。もともとパンクキッズだったジュディは、ティム・ライスのもとで「チェス」の制作に携わったことから、それまで食わず嫌いだったABBAの音楽を聴いてたちまち夢中になる。そこで彼女は、’83年にフランスで放送されたABBAのテレビ用ミュージカル映画「Abbacadabra」を英語リメイクしようと思い立つ。そう、「マンマ・ミーア!」以前にアバのヒット曲を基にしたジュークボックス・ミュージカルが既に存在したのである。フレンチ・ミュージカルの傑作「レ・ミゼラブル」や「ミス・サイゴン」の脚本家で、フランスにおけるABBAの著作権管理者でもあったアラン・ブーブリルが企画し、ビョルンとベニーの2人はノータッチだった「Abbacadabra」は予想以上の好評を博し、その年のクリスマスにはロンドンでの舞台公演も実現。しかし、ブーブリルの許可が下りなかったため、英語版テレビ映画リメイクの企画は頓挫してしまう。 こうなったら自分で新たなABBAのミュージカルをプロデュースするしかない。そう考えたジュディは、「チェス」を介して親しくなったビョルンとベニーを根気よく説得し、ようやく「良い脚本があれば反対しない」とのお墨付きを得る。そこで彼女は新進気鋭の戯曲家キャサリン・ジョンソンに声をかけ、共同でミュージカルの制作に取り掛かった。最初にジュディが決めたルールは、ビョルンが書いた原曲の歌詞を変えないこと、共通のテーマを見つけて物語を構築していくこと、そして有名無名に関係なくストーリー重視で楽曲を選ぶこと。さらに、当時イギリス演劇界で高い評価を得ていたフィリダ・ロイドを監督に抜擢したジュディは、フィリダを伴ってストックホルムのビョルンとベニーのもとをプレゼンに訪れ、遂にミュージカル「マンマ・ミーア!」のゴーサインを正式に得ることに成功したのだ。 先述した通り、1999年4月にロンドンで開幕した「マンマ・ミーア!」は、ウエスト・エンド史上7番目となるロングラン記録を更新中。新型コロナ禍のため’20年3月に上演中止となったものの、’21年8月より再開される予定だ。また、ニューヨークのブロードウェイでは’01年10月から’15年9月まで14年間に渡って上演され、ブロードウェイ史上9番目のロングランヒットを達成した。そのほか、日本や韓国、ドイツ、フランス、ブラジルなど世界50か国以上で翻訳上演されている。’92年に発売されたベスト盤「ABBA Gold」の大ヒットに端を発する、’90年代のABBAリバイバル・ブームも追い風となったのだろう。筆者もホテル「マンダレイ・ベイ」で行われたラスベガス公演を見たが、ステージと客席が一体となってABBAのヒット曲を大合唱するフィナーレは感動ものだった。 一流の豪華キャストが揃った映画版シリーズ もはや、21世紀を代表する名作ミュージカルの仲間入りを果たしたといっても過言ではない「マンマ・ミーア!」。映画化の企画が立ち上がるのも時間の問題だったと言えよう。監督にフィリダ・ロイド、製作にジュディ・クレイマー、脚色にキャサリン・ジョンソンと、舞台版の立役者たちが勢揃いした映画版『マンマ・ミーア!』(’08)。もちろんミュージカル・ナンバーのプロデュースはビョルンとベニーの2人が担当し、演奏にはABBAのレコーディングに携わったスタジオ・ミュージシャンたちも参加している。 物語の舞台はギリシャの風光明媚な小さい島。ここでホテルを経営する女性ドナ(メリル・ストリープ)は、女手ひとつで育てた娘ソフィ(アマンダ・サイフリッド)の結婚式を控えて大忙し。ところが、その結婚式の前日、招いた覚えのないドナの元カレ3人が島へとやって来る。アメリカ人の建築家サム(ピアース・ブロスナン)にイギリス人の銀行家ハリー(コリン・ファース)、そしてスウェーデン人の紀行作家ビル(ステラン・スカルスガルド)。実は、彼らを結婚式に招待したのはソフィだった。母親の日記を読んで3人の存在を知ったソフィは、彼らの中の誰かが自分の父親ではないかと考えたのである。予期せぬ事態に大わらわのドナ。果たして、3人の男性の中にソフィの父親はいるのだろうか…? シンプルでセンチメンタルで明朗快活なストーリーは、基本的に舞台版そのまま。それゆえに映画としての広がりに欠ける印象は否めないものの、その弱点を補って余りあるのが豪華キャスト陣による素晴らしいパフォーマンスと、誰もが一度聞いただけで口ずさめるABBAの名曲の数々であろう。中でも、メリル・ストリープの堂々たるミュージカル演技は見事なもの。オペラを学んだ下地やブロードウェイでミュージカルの経験もあることは知っていたが、しかしここまで歌える人だとは失礼ながら思わなかった。名曲「ザ・ウィナー」では、オリジナルのアグネッタにも引けを取らない熱唱を披露。親友役ジュリー・ウォルターズやクリスティーン・バランスキーとの相性も抜群だ。劇中に使用される楽曲も、ABBAの代表曲をほぼ網羅。舞台設定に合わせたギリシャ民謡風のアレンジもお洒落だ。 ちなみに、実はこの『マンマ・ミーア!』によく似た設定のハリウッド映画が存在する。それが、大女優ジーナ・ロロブリジーダ主演のロマンティック・コメディ『想い出よ、今晩は!』(’68)。こちらの舞台は南イタリアの美しい村。女手ひとつで娘を育てた女性カルラは、終戦20周年を記念する村のイベントを控えて気が気じゃない。というのも、かつて村に駐留していた米軍兵たちが招待されているのだが、その中に娘の父親である可能性の高い男性が3人もいたのだ…というお話。『マンマ・ミーア』と違って、こちらはドタバタのセックス・コメディなのだが、しかし南欧に暮らす母娘の前に3人の父親候補が現れるという基本設定はソックリ。キャサリン・ジョンソンとジュディ・クレイマーが本作を参考にしたのかは定かでないものの、単なる偶然とはちょっと考えにくいだろう。 閑話休題。全世界で6億5000万ドル近くを売り上げ、年間興行収入ランキングでも5位というメガヒットを記録した映画版『マンマ・ミーア!』。この予想以上の大成功を受けて製作されたのが、映画版オリジナル・ストーリーの続編『マンマ・ミーア!ヒア・ウィ・ゴー』(‘18)である。物語は前作から数年後。既に他界した母親ドナ(メリル・ストリープ)の念願だったホテルの改修工事を終えたソフィ(アマンダ・サイフリッド)は、リニューアル・オープン式典の準備に追われているが、その一方で遠く離れたニューヨークで仕事をする夫スカイ(ドミニク・クーパー)との仲はすれ違い気味。そんなソフィの迷いや葛藤と並行しながら、若き日のドナ(リリー・ジェームズ)と3人の恋人たちの青春ロマンスが描かれていく。 舞台版ミュージカルの映画化という出自が少なからず足枷となった前作に対し、新たに脚本を書きおろした本作は時間や空間の制約から解き放たれたこともあり、前作以上にミュージカル映画としての魅力を発揮している。しかも、今回はABBAファンに人気の高い隠れた名曲を中心にセレクトされており、これが驚くほどエモーショナルにストーリーの感動を高めてくれるのだ。どれをカットしてもシングルとして通用するようなアルバム作りをモットーとしていたABBA時代のビョルンとベニー。熱心なファンであればご存じの通り、ABBAはアルバム曲やB面ソングも珠玉の名曲がズラリと揃っている。さしずめ本作などはその証拠と言えるだろう。中でも、子供を出産したソフィと亡き母親ドナの精霊の想いが交差する「マイ・ラヴ、マイ・ライフ」は大号泣すること必至!改めてABBAの偉大さを実感させられる一本に仕上がっている。 なお、プロデューサーのジュディ・クレイマーによると、シリーズ3作目の企画が進行中とのこと。’21年内に発表される予定のABBAの39年振りとなる新曲も使用されるという。公開時期などまだ未定だが、期待して完成を待ちたい。■ 『マンマ・ミーア!』© 2008 Universal Studios. All Rights Reserved.『マンマ・ミーア!ヒア・ウィー・ゴー』© 2018 Universal Studios. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2021.07.01
“アーミッシュ”そしてピーター・ウィアーとの出会いによる、ハリソン・フォード“キャリア最高”作『刑事ジョン・ブック/目撃者』
本作『刑事ジョン・ブック/目撃者』(1985)が公開された頃、主演のハリソン・フォードは、TOPクラスの人気スター。『スター・ウォーズ』シリーズ(77~)のハン・ソロ役、『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(81)に始まる「インディ・ジョーンズ」シリーズで、アクションスターとして確固たる地位を築いていた。 そんなフォードが刑事役と聞けば、当時の映画ファンは皆、もちろんアクション映画だろうと思い込む。原題の「WITNESS=目撃者」に、「刑事ジョン・ブック」とカブせた邦題も、『ブリット』(68)や『ダーティハリー』(71)といった、主人公の名前をタイトルにした、代表的な“刑事アクション”を連想させた。 しかし、そんなつもりで本作に臨んだ者は、何とも驚くべき肩透かしを喰らった。しかしそれは、期待外れだったという意味では、決してない…。 *** アメリカ・ペンシルバニア州の田舎の村落から、夫を亡くして間もない未亡人のレイチェルが、8歳のひとり息子サミュエルを連れ、旅に出る。目的地は、姉の住むボストン。 質素を旨とした2人の服装は、乗り継ぎで降りたフィラデルフィアの駅では、明らかに周囲から浮いていた。そしてすれ違う者から、囁かれる。「あの人たち、アーミッシュよ」 母子は、俗世との接触を断ち、独自のコミュニティで古の生活様式を守る、キリスト教の一派アーミッシュに属する者だった。 サミュエルは、公衆電話やエスカレーターなど、初めて見る文明の利器に驚きを覚える。しかし彼を最も驚かせたのは、トイレで偶然目撃した、殺人事件の顛末。殺されたのは、私服警官だった。 捜査の担当になったジョン・ブック刑事は、母子を強引に引き留め、協力させる。そしてサミュエルが目撃した殺人犯が、麻薬課のマクフィー刑事であることが判明する。 ブックは上司のシェイファーにその旨を報告し、極秘に捜査を進めることに。しかしその直後、マクフィーから銃撃を受ける。 上司もグルだと気付いたブックは、アーミッシュの母子も危険であると察知。重傷の身を押して、車で2人の住む村落まで送り届ける。 そこでブックは意識を失い、レイチェルの介抱を受ける。そしてそのまま、素朴なアーミッシュの生活の中に、身を潜める。 穏やかな日々が続き、ブックとレイチェルは、惹かれ合うものを感じ始める。しかし、一線は越えられない。それはこれまで培ってきた日常を、すべて捨てねばならなくなるからだ。 その一方で、シェイファーとマクフィー一味の執拗な追跡の手が、ブックたちに迫ってくる…。 *** 実在の宗派ながら、それまで多くの者にとっては未知の存在だった“アーミッシュ”が、本作の展開の肝となる。観客はハリソン・フォードが演じるジョン・ブックと共に、知られざる世界へと導かれる。 銃と暴力が蔓延る大都市で、刑事を務めてきたブック。“アーミッシュ”の社会は、彼が身を置いてきた場所とは、まさに正反対の異文化である。 厳しい戒律によって、18世紀以降の文明を拒否。農耕と牧畜による自給自足を旨として、車もテレビも電話も、ひとを傷つける武器もない。酒や煙草、更には快楽を目的としたセックスも禁忌である。そんな「絶対禁欲主義」の共同体で生まれ育ってきたレイチェルとブックの恋模様は、暫しプラトニックで、切ないものとなる。 本作はクライマックスでの悪徳警官グループとの対決など、アクションシーンが皆無というわけではない。しかしそれまでのフォード主演作とは、明らかに趣を異にした。 当時のフォードが、『スター・ウォーズ』『インディ・ジョーンズ』の2大シリーズで、TOPクラスの人気スターだったことは、先に記した。しかし逆に言ってしまえば、ルーカス印・スピルバーグ印限定。それ以外のヒットを持たないスターでもあった。 他の主演作は軒並み、興行的にも批評的にも、成功と言えるものはなかった。今ではSF映画史に残る名作の誉れ高い『ブレードランナー』(82)も、例外ではない。その頃の評価は、マニアックな人気がある、1本の“カルト映画”に過ぎなかったのである。 そんなフォードにとって本作は、2大シリーズ以外で、初の大ヒットとなった。また彼の現在に至る長いキャリアの中で、ただ一回だけアカデミー賞(主演男優賞)にノミネートされる作品となったのである。 プロデューサーのエドワード・S・フェルドマンが、本作の主演として、フォードに白羽の矢を立てたのは、脚本を読んだ際に、ゲイリー・クーパーがクエーカー教徒を演じる、南北戦争映画『友情ある説得』(56)を思い出したのが、きっかけだった。 クエーカー風の服装をしたクーパーを想起して、~現代俳優の中で、この手の服を着るとクーパーと同じくらい似合わなくて、滑稽に見えるのは誰だろう?~と考えた。即座に頭に浮かんだのが、フォードだったという。 オファーを受けたフォードは、脚本を読んですぐに気に入り、出演を決めた。後に脚本家に対して、フォードはその時のことをこんな風に語っている。「この作品には、90点くらいつけてもいいと思った。私が初めて読んだ時に90点もつける脚本というのは滅多にない…」 製作会社もパラマウントに決まり、次は監督探し。いわゆるハリウッド的な監督に委ねてしまえば、“アーミッシュ”が、よくある“刑事アクション”の単なる舞台装置になりかねない。 未知の異文化と関わっていく中で、主人公が変わっていく様を、きちんと捉えることが出来る。そんな監督としてフェルドマンが第一候補に考えたのが、『ピクニックatハンギング・ロック』(75)や『誓い』(81)『危険な年』(82)などで、オーストラリアの俊英と評判を取っていた、ピーター・ウィアーだった。 しかしその時のウィアーは、初のアメリカ映画として、ポール・セローの小説「モスキート・コースト」映画化の準備中。そのためフェルドマンは彼の起用を、一旦断念せざるを得なかった。 その後半年かけて監督探しを行うも、いずれも不調に終わったタイミングで、僥倖が訪れる。「モスキート・コースト」が資金難のため製作中止になり、ウィアーのスケジュールが空いたのだ。 オーストラリアに戻っていたウィアーは、届いた本作の脚本を読むと、フェルドマンのオファーにOKを出した。通常2年ほどを作品の準備期間に当てるウィアーだが、その時点で撮影までには、僅か10週ほどの時間しかなかった。それでも本作を引き受けたのは、“アーミッシュ”の存在に惹かれるものを感じたからだ。 その時点ではまだ暴力過多だった脚本を、ブラッシュアップ。ラブストーリーであり倫理観を扱うドラマという要素を、より強く打ち出すことにした。 フォードとウィアーは、準備期間の初対面からウマが合い、信頼関係が築けたという。ヒロインにケリー・マクギリスが候補に上がった際、「ほぼ新人」だった彼女の起用に難色を示したフォードだったが、「僕を信用できないなら、君はこの映画をやるべきじゃない」と断固とした態度を示すウィアーに、あっさりと翻意するほどだった。 フォードは本物の警官と共に夜のパトロールに出るなどの役作りを行い、“アーミッシュ”に関するリサーチは、ウィアーとマクギリスに任せた。自分は“アーミッシュ”については役柄同様、「…無知なままでいるよう…」細心の注意を払ったのだという。 それに対してマクギリスは、女優ということは隠して、“アーミッシュ”の家族と共に暮らすなどしたという いざ撮影に入っても、フォードとウィアーは、良好な関係を保った。ウィアーはフォードに、その時々で最高の演技、即ち“即興”を望み、フォードはそれに応えた。 本作の中で特に有名なのは、村落の“アーミッシュ”が総出で、新婚夫婦のための納屋を建てるシーン。実際に大工として生計を立てていた時代がある、フォードが見事な腕を披露する。 一方で、最もロマンティックなシーンと言えるのが、カーラジオから流れるポップスで、フォードとマクギリスがスローなダンスを踊るところ。ここで流れる、サム・クックの「ワンダフル・ワールド」を選曲したのも、フォードである。「ピーターは、私に、生理的な解釈ではなく、知的に解釈できるようにしてくれた。…それまでの監督との関係よりも、もっと私に対して影響力を持っていた」「彼(フォード)は好きにならずにいられない男だ。…強くて無口な、ハリウッド映画の伝統的なヒーローのような気がするよ」 こう語り合う2人は、まさに名コンビであった。この信頼関係があったからこそ、本作が世評も高い大ヒット作となったのは、疑うべくもない。 とはいえ、好事魔多しである。 ウィアーはアメリカで初めて取り組んだ本作で大成功を収めた後、念願の『モスキート・コースト』に改めて取り組む。主演は本作に引き続き、ハリソン・フォード。 この現場でも、互いへのリスペクトは失われなかった。しかし86年に完成し公開された作品が、本作のように観客と批評家から好意を以て迎えられることは、残念ながらなかったのである。 フォードは、ウィアーと組んだ2作品を、俳優生活で最高の体験だったと、後々まで語っている。しかし『モスキート・コースト』の失敗(!?)が災いしてか、その後2人のコンビ作は作られていない。これは至極、残念ことのように思える。 さて話を『…目撃者』に戻せば、本作の成功は“アーミッシュ”の文化に対する大衆の興味を喚起して、そのコミュニティ周辺には観光ブームが押し寄せた。本作内にも登場するが、それ以上に“アーミッシュ”に傍若無人な振舞いやからかうようなマネをする観光客が後を絶たなくなって、問題化したという。 個人的な想い出を言えば、本作を観た時に不思議に思ったことがある。先にも挙げたシーンであるが、「絶対禁欲主義」で踊ることも禁じられている筈のコミュニティなのに、レイチェルが、ジョン・ブックのダンスの誘いに、軽やかに応じられたこと。 実はその疑問は、本作初見から四半世紀近く経って、「松嶋×町山/未公開映画を観るTV」というテレビ番組に、構成として関わることによって氷解した。2009年から11年に掛けてTOKYO MXなどで放送されたこの番組は、アメリカの知られざる一面を伝える日本未公開のドキュメンタリー映画を、映画評論家の町山智浩氏のガイドによって紹介するというもの。 その中の『DEVIL'S PLAYGROUND』(02)という作品で、“アーミッシュ”が16歳になった時から1年間の“ルムシュプリンガ”という期間が、題材として取り上げられていた。この期間は何と、「絶対禁欲主義」とは真逆に、酒、煙草、ドラッグ、セックス等々、彼ら彼女らにとってすべての禁忌が、やり放題なのである。 これは、洗礼を受けて一生戒律に従って生きるか、それとも、教会を離れて俗世に入るかを決めるための準備期間。フリーな世界で奔放な1年間を過ごした上で、自分の一生を決めるというわけだ。 俗世に入ると、家族との縁は一生断ち切られて、二度と会えなくなる。加えて、遊び放題と言っても、所詮はアメリカの田舎町での枠内。1年も経つと、やりたいこともやり尽くす。結局は、進学や就職などに希望を見出した者など以外の9割は、“アーミッシュ”の世界へと戻っていくという。 この作品には相当な驚きを感じ、同時に、『…目撃者』のことを、思い出した。そうか、あのレイチェルも、ダンスはおろか、酒、煙草、ドラッグ、セックス漬けの奔放な1年間を過ごしたのか。なるほど~と。 本作から受けた感慨を台無しにしかねないエピソードだが、ご容赦を戴き、この稿の〆としたい。■ 『刑事ジョン・ブック/目撃者』TM & Copyright © 2021 by Paramount Pictures Corporation. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2021.06.30
憧れの古き良き’50年代を再現した青春ミュージカル映画の傑作『グリース』
誕生の背景には’70年代のレトロ・ブームが? ハリウッド映画の伝統的な王道ジャンルといえば西部劇とミュージカル。中でも、ブロードウェイ出身の一流スターたちによる華麗な歌とダンスを配し、熟練した職人スタッフによって夢のような映像世界を作り上げたミュージカル映画の数々は、世界に冠たる映画の都ハリウッドの独壇場だったと言えるだろう。そもそも史上初の長編トーキー映画『ジャズ・シンガー』(’27)からしてミュージカル。初期の作品群こそ単なるレビューショーに過ぎないものが多かったが、しかし天才演出家バスビー・バークレイの登場でミュージカル映画は一気に芸術の域へと達し、フレッド・アステアやジンジャー・ロジャース、ジュディ・ガーランドにジーン・ケリーといったキラ星の如きスターたちの活躍によって、ミュージカルはハリウッド映画の代名詞ともなっていく。 しかし、’50年代半ばにハリウッドのスタジオ・システムが崩壊すると、家内工業的な職人技術に支えられていたミュージカル映画の製作本数は激減。その代わり誕生したのが、既存のブロードウェイ・ミュージカルを巨額の予算で映像化した、『マイ・フェア・レディ』(’64)や『サウンド・オブ・ミュージック』(’65)のような大作ミュージカル映画群だった。ところが、’60年代にアメリカン・ニューシネマの時代が到来し、ハリウッド映画がリアリズム志向へと大きく舵を切ると、その対極にあるミュージカルの人気も急落。『ハロー・ドーリー!』(’69)や『ペンチャー・ワゴン』(’69)、『ラ・マンチャの男』(’72)などの大作ミュージカルが次々とコケてしまい、ハリウッドのプロデューサーたちはミュージカル映画を敬遠するようになる。 その一方で、’70年代は『ジーザス・クライスト・ザ・スーパースター』(’73)や『ロッキー・ホラー・ショー』(’75)、『トミー』(’75)など、ヒッピーやロックといった当時のサブカルチャーをふんだんに盛り込んだ若者向けの新感覚ミュージカルが台頭。さらには、ケネディ大統領暗殺やベトナム戦争以前の、古き良き平和で無垢な時代のアメリカを懐かしむ青春映画『アメリカン・グラフィティ』(’73)が大ヒットし、当時の懐メロ・ヒットナンバーを詰め込んだサントラ盤レコードもベストセラーに。同じような趣向のテレビ・シリーズ『ハッピー・デイズ』(‘74~’84)や、同時代の大学生活を描いたコメディ映画『アニマル・ハウス』(’78)なども話題を集め、アメリカでは時ならぬレトロ・ブームが巻き起こる。そんな’70年代半ばのトレンドを背景に生まれたのが、全米の年間興行収入ランキングで『スーパーマン』(’78)に次ぐ第2位を記録した青春ミュージカル『グリース』(’78)だった。(ちなみに第3位は『アニマル・ハウス』) 映画化の牽引役はショービズ界の名物仕掛け人 舞台は1958年の南カリフォルニア。夏休みの旅行先で知り合った男子高校生ダニー(ジョン・トラヴォルタ)とオーストラリア人の美少女サンディ(オリヴィア・ニュートン=ジョン)は、ひと夏の淡い恋の思い出を胸に別れるのだが、しかし9月の新学期を迎えた学校で2人は思いがけず再会。母国へ帰るはずだったサンディはアメリカへ留まることとなり、ダニーの通うライデル高校へ編入して来たのだ。しかし、不良少年グループ「T・バーズ」のリーダーとして、プレスリーばりにクールなリーゼントヘアを決めたダニーは、仲間の手前もあってサンディに冷たい態度を取ってしまう。女ごときに優しくしたら男がすたるってわけだ。これにショックを受けたサンディはダニーと絶交し、アメフト部の人気者ラガーマン(無名時代のロレンツォ・ラマス!)と付き合うように。内心焦りまくったダニーが彼女の気を惹こうと行いを改める一方、不良少女リゾ(ストッカード・チャニング)の率いる女子グループ「ピンク・レディーズ」と仲良くなったサンディもまた、品行方正でお堅い優等生の殻を破ろうとする…というお話だ。 原作は1971年にシカゴで初演された同名ミュージカル。翌年にはミュージカルの本場ブロードウェイへと進出し、後に『コーラスライン』に破られるまで、ブロードウェイの最長ロングラン記録をキープするほどの大ヒットとなった。リーゼントにポニーテールにロックンロールと、’50年代末の懐かしいアメリカン・ユースカルチャーをたっぷりと盛り込み、オリジナル・ソングだけでなく劇中当時の全米ヒットチューンを散りばめた内容は、まさしく『アメリカン・グラフィティ』に端を発するレトロカルチャー・ブームの先駆け。そんな舞台版『グリース』をシカゴの初演で見て強い感銘を受けたのが、ピーター・セラーズやアン=マーグレット、ポール・アンカなどの錚々たる大物クライアントを持つ名うてのタレント・エージェントで、プロモーターとしてもヒュー・ヘフナーやトルーマン・カポーティらのスキャンダラスな話題作りを仕掛けたことで有名なアラン・カーだった。 ‘60年代末から映画の製作やプロモーションにも関わっていたカーは、ロック・ミュージカル映画『トミー』の宣伝を手掛けたことをきっかけに、同作のプロデューサー、ロバート・スティッグウッドとコンビを組むことに。もともとザ・フーやビージーズなどの音楽エージェントだったスティッグウッドは、当時テレビ・シリーズ『Welcome Back, Kotter』(‘75~’79・日本未放送)のイケメン不良高校生役でティーン・アイドルとなった若手俳優ジョン・トラヴォルタと専属契約を結び、彼を主演に3本の映画を製作することとなる。その第1弾こそが、ディスコ・ブームの黄金時代を象徴するメガヒット映画『サタデー・ナイト・フィーバー』(’77)だった。これに続く作品を探していたスティッグウッドに、ビジネス・パートナーであるカーが『グリース』の映画化を進言。実は、無名時代のトラヴォルタは地方公演版『グリース』で、主人公ダニーの不良仲間ドゥーディ役を演じていたことから、あれよあれよという間に映画化が決定したのである。 そのトラヴォルタが監督として指名したのが、本作に続いてブルック・シールズ主演の青春ロマンス『青い珊瑚礁』(’80)を大ヒットさせたランダル・クレイザー。2人はトラヴォルタ主演のテレビ映画『プラスチックの中の青春』(’76)で組んで以来の大親友で、義理堅いトラヴォルタは本作でクレイザーに劇場用映画デビューのチャンスを与えたのである。相手役のサンディには、当時ポップス界のプリンセスとして人気絶頂だった歌姫オリヴィア・ニュートン=ジョン。大物歌手ヘレン・レディの自宅パーティでアラン・カーと知り合ったオリヴィアは、その際にサンディ役をオファーされたのだが、女優経験がほとんどないことからスクリーンテストを希望したという。まずはテストフィルムを撮影してみて、みんなが納得できるようであればオファーを引き受けるというわけだ。もちろん結果は合格。共演するトラヴォルタとの相性も抜群だった。 そのほか、ブロードウェイ版『グリース』でダニー役を演じたジェフ・コナウェイがダニーの親友ケニッキー、同じくブロードウェイ版で太目女子ジャンを演じたジェイミー・ドネリーが映画版でもジャンを演じるなど、舞台版『グリース』のオリジナル・キャストが大挙して脇を固めている。サンディの親友フレンチー役のディディ・コンは、デビー・ブーンの全米ナンバーワン・ヒット曲「恋するデビー」を生んだ青春映画『マイ・ソング』(‘77)の主演で注目されたばかりの女優。最も難航したキャスティングは不良少女リゾ役だったが、当時アラン・カーのクライアントだった32歳の女優ストッカード・チャニングに白羽の矢が立てられた。 主演コンビのスターパワーも大ヒットの要因 そんな本作の魅力は、なんといっても底抜けにポジティブな明朗快活さにあると言えよう。’50年代末~’60年代に愛された一連のプレスリー映画やフランキー・アヴァロン&アネット・ファニセロ主演のビーチ・パーティ映画、サンドラ・ディー主演のティーン・ロマンス映画などをお手本に再現された1958年の学園生活は、イジメともドラッグとも校内暴力とも無縁のキラキラとした夢の世界。終盤のカーレースシーンは『理由なき反抗』(’55)へのオマージュだが、しかしジェームズ・ディーンと違って本作の主人公たちには、恋愛の悩みくらいしか深刻な問題は存在しない。非行と言ったって、せいぜい大人の目を盗んでの喫煙と飲酒、不純異性交遊あたりが関の山。実に可愛いもんである。 さらに、ビーチ・パーティ映画シリーズの主演スターで、全米ナンバーワン・ヒット「ヴィーナス」で有名な’50年代のティーン・アイドル、フランキー・アヴァロンが天使役でドリーム・シークエンスに登場。マクギー校長役のイヴ・アーデンとカフェのウェイトレス役のジョーン・ブロンデルは、どちらも’30年代から活躍するハリウッドの大物女優だが、前者はテレビの人気シットコム『Our Miss Brooks』(‘48~’57・日本未放送)で、後者はオスカー候補になった『青いヴェール』(’51)や『シンシナティ・キッド』(’65)などの映画で、’50~’60年代のアメリカ人にお馴染みのスターだった。ほかにも、スタンダップコメディアンのシド・シーザーやバラエティ・タレントのドディ・グッドマン、ドラマ『サンセット77』(‘58~’64)のエド・バーンズなどなど、’50年代のポップカルチャーを象徴する有名人が勢揃い。ベトナム戦争やウォーターゲート事件などの暗い時代を経験し、犯罪率の増加など深刻な社会問題に悩まされた’70年代当時の観客にとって、アメリカが最も豊かで幸福だった時代を振り返る本作は、いわば格好の現実逃避でもあったのだろう。 もちろん、ジョン・トラヴォルタにオリヴィア・ニュートン=ジョンという主演コンビの旬なスターパワーの効果も大きい。先述したように『サタデー・ナイト・フィーバー』で映画界のスターダムに上りつめたばかりだったジョン・トラヴォルタ。テレビ時代からの「本当は純情な下町の不良少年」というイメージを活かした本作では、その卓越した歌唱力でミュージカルスターとしての実力も証明している。なにしろ、今の若い人は知らないかもしれないが、「レット・ハー・イン」という全米トップ10ヒットを持ち、「初恋のプリンス」や「サタデー・ナイト・ヒーロー」などのアルバムもリリースしたプロの歌手ですからね。 一方、これが本格的な女優デビュー作だったオリヴィア・ニュートン=ジョンは、もともと歌手として定評のあった感受性の豊かな表現力を演技でも遺憾なく発揮。劇中では清楚な優等生からタイトなスパンデックスのパンツにハイヒール姿のセクシー美女へと大変身するサンディだが、演じるオリヴィアも本作の直後にリリースした’79年のアルバム「さよならは一度だけ」で大胆にイメチェンを図り、それまでの隣のお姉さん的な親しみやすい歌姫からゴージャスなポップス界のセックスシンボルへと変貌を遂げている。 また、映画化に際して舞台版のオリジナル曲や懐メロだけでは弱いと感じたアラン・カーとロバート・スティッグウッドは、映画用として新たに書き下ろした楽曲を映画のハイライト・シーンで使用。この賢明な判断も結果的に功を奏した。まずは主題歌「グリース」を、スティッグウッドの前作『サタデー・ナイト・フィーバー』と同じくビージーズのバリー・ギブに依頼し、フォー・シーズンズのリードボーカリストとしても有名なフランキー・ヴァリに歌わせた。’70年代的なディスコ・ソングは本編に合わないとの批判もあったが、しかし先行シングルとしてリリースされるや全米ナンバー・ワンの座を獲得。さらに、オリヴィアの歌うバラード曲「愛すれど悲し」と、オリヴィア&トラヴォルタのデュエット曲「愛のデュエット」を、当時オリヴィアの専属プロデューサー兼ソングライターだったジョン・ファラーが担当。前者が全米3位、後者が全米1位をマークし、さらに舞台版でも使用された「思い出のサマー・ナイツ」も全米5位をマークしている。サントラ盤アルバムも最終的に全世界で3800万枚のセールスを記録。その後の『フェーム』(’80)や『フラッシュダンス』(’83)、『フットルース』(’84)に代表される’80年代サントラ・ブームは、『サタデー・ナイト・フィーバー』と本作が火付け役だったとも言えよう。■ 『グリース』TM, (R) & COPYRIGHT (C) 2021 BY PARAMOUNT PICTURES. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2021.06.17
原作者も唸らせた、換骨奪胎の極み!『L.A.コンフィデンシャル』
本作『L.A.コンフィデンシャル』(1997)は、ジェームズ・エルロイ(1948~ )が1990年に著し日本でも95年に翻訳出版された、長編ノワール小説の映画化である。 エルロイは両親の離婚によって、母親と暮らしていたが、10歳の時にその母が殺害される。多くの男と肉体関係を持っていたという母を殺した犯人は見付からず、事件は迷宮入り。そしてその後彼を引き取った父も、17歳の時に亡くなる。 エルロイは10代の頃から酒と麻薬に溺れ、窃盗や強盗で金を稼いだ。27歳の時には精神に変調を来し、病院の隔離室に収容されている。 文学に目覚めて小説を書き始めた頃には、30代を迎えていた。彼の著作には、その過去や思い入れが、強く反映されている。 本作の原作は、後にブライアン・デ・パルマ監督によって映画化された「ブラック・ダリア」(87年出版)を皮切りとする、「暗黒のL.A.」4部作の3作目に当たる。原作は翻訳版にして、上下巻合わせて700ページに及ぶ長大なもので、1950年のプロローグから58年までの、8年にわたる物語となっている。 その間に起こった幾つもの大事件が、複雑に絡み合う。更には1934年に起こった、猟奇的な連続児童誘拐殺害事件も、ストーリーに大きく関わってくる。読み進む内に「?」と思う部分に行き当たったら、丹念にページを繰って読み返さないと、展開についていけなくなる可能性が、大いにある。 50年代のハリウッドを象徴するかのように、テーマパークを建設中の、ウォルト・ディズニーを彷彿とさせる映画製作者なども、原作の主な登場人物の1人。膨大な数のキャラクターがストーリーに関わってくるため、原作の巻頭に用意されている人物表の助けが、折々必要となるであろう。 当時の人気女優だったラナ・ターナーの愛人で、ギャングの用心棒だった実在の人物、ジョニー・ストンパナートは、実名で登場。映画化作品では、彼とターナーの愛人関係は、ギャグのように使われていたが、原作では、彼がターナーの実娘に刺殺される、実際に起こった事件まで、物語に巧みに組み込まれている。 さて原作のこのヴォリュームを、そのまま映画化することは、まず不可能と言える。そんな中で、原作を読んで直ぐに映画にしたいと思った男が居た。それが、カーティス・ハンソンである。 彼は、すでに映画化権を取得していたワーナーブラザースに申し入れをして、結果的に本作の製作、脚本、そして監督を務めることになった。監督前作であるメリル・ストリープ主演の『激流』(94)ロケ中には、撮影を進めながらも、頭の中は本作のことでいっぱいだったとも、語っている。 映画化に於いてハンソンは、原作の主人公でもある3人の警察官を軸に、その性格や位置付けは生かしつつも、「換骨奪胎の極み」とでも言うべき、見事な脚色、そして演出を行っている。本作を、90年代アメリカ映画を代表する屈指の1本と評する者は数多いが、一見すればわかる。 映画『L.A.コンフィデンシャル』は、そんな評価が至極納得の完成度なのである。 *** 1950年代のロサンゼルス。ギャングのボスであるミッキー・コーエンの逮捕をきっかけに、裏社会の利権を巡って血みどろの抗争が勃発。コーエンの腹心の部下たちが、正体不明の刺客により、次々と消されていった。 53年のクリスマス、ロス市警のセントラル署。警官が重傷を負った事件の容疑者として、メキシコ人数人が連行された。署内でパーティを行っていた警官たちが、酔いも手伝って彼らをリンチ。血祭りにあげたこの一件が、「血のクリスマス」事件として、大々的に報道されるに至る。 そこに居合わせた、バド・ホワイト巡査(演;ラッセル・クロウ)、ジャック・ヴィンセンス巡査部長(演;ケヴィン・スペイシー)、エド・エクスリー警部補(演;ガイ・ピアース)は、警官としての各々のスタンスによって、この一件に対処。それは対立こそすれ、決して交わらない、それぞれの“正義”に思われた…。「血のクリスマス」の処分で、何人かの警官のクビが飛んだ頃、ダウンタウンに在る「ナイト・アウル・カフェ」で、従業員や客の男女6人が惨殺される事件が起こる。被害者の中には、「血のクリスマス」で懲戒免職になった、元刑事でバドの相棒だった、ステンスランドも混ざっていた。 この「ナイト・アウルの虐殺」の容疑者として、3人の黒人の若者が逮捕される。エドの巧みな取り調べなどで、容疑が固められていったが、3人は警備の不備をついて逃走する。 エドは潜伏先を急襲して、3人を射殺。「ナイト・アウルの虐殺」事件は一件落着かに思われた。 しかしこの事件には、ハリウッド女優そっくりに整形した娼婦たちを抱えた売春組織、スキャンダル報道が売りのタブロイド誌、そしてロス市警に巣喰う腐敗警官たちが複雑に絡んだ、信じ難いほどの“闇”があった。 相容れることは決してないと思われた、3人の警官たち。エド、バド、ジャックは、それぞれの“正義”を以て、この底が知れない“闇”へと立ち向かっていく…。 *** ハンソンは、ブライアン・ヘルゲランドと共に行った脚色に際して、「ナイト・アウルの虐殺」の真相解明に絡むように発生する、連続娼婦殺害事件や、それと関連する20年前の連続児童誘拐殺害事件等々、原作では重要なファクターとなっている複数の事件のエピソードをカット。物語のスパンはぐっと短期に凝縮して、登場人物の大幅な整理・削減も断行している。 エドとバド、終盤近くまで睨み合いを続ける、この2人の警官の対立を深める色恋沙汰の相手として、原作では2人の女性が登場する。しかし映画ではその役割は、キム・ベイシンガー演じる、ハリウッド女優のベロニカ・レイク似の娼婦リン1人に絞られる。 3人の主人公のキャラクター設定も、巧妙なアレンジが施されている。その中では、幼少期に眼前で父が母を殴り殺す光景を目撃したことから、女性に暴力を振るう男は絶対許せないというバドのキャラは、比較的原作に忠実と言える。しかしジャックに関しては、TVの刑事ドラマ「名誉のバッジ」のテクニカル・アドバイザーを務めながら、タブロイド誌の記者と通じているという点は原作を踏襲しながらも、過去に罪なき民間人を射殺したトラウマがあるというキャラ付けは,バッサリとカット。 そしてエド。彼が警官としての真っ当な“正義”を求めながら、出世にこだわるのは、原作通りである。しかし父親がかつてエリート警察官であり、退職後は土木建築業で成功を収めている実業家となっていることや、兄もやはり警官で、若くして殉職を遂げたなどの、彼にコンプレックスを抱かせるような家族の設定は改変。映画化作品のエドは、36歳で殉職して伝説的な警察官となった父を目標としており、兄の存在はなくなっている。 また原作のエドは、第2次世界大戦での日本軍との戦闘で、自らの武勲をデッチ上げて英雄として凱旋するなど、より複雑な心理状態の持ち主となっている。しかしハンソンとヘルゲランドは、この辺りも作劇上で邪魔と判断したのであろう。映画化に当たっては、その設定を消し去っている。 エドのキャラクターのある意味単純化と同時に、原作には登場しない、映画オリジナルで尚且つ物語の鍵を握る最重要人物が生み出されている。その名は、“ロロ・トマシ”。本作未見の方々のためにネタバレになる詳述は避けるが、奇妙な響きを持つこの“ロロ・トマシ”こそ、正に本作の脚色の見事さを象徴している。 キャスティングの妙も、言及せねばなるまい。主役の3人に関して、すでに『ユージュアル・サスペクツ』(95)でオスカー俳優となっていたケヴィン・スペイシーはともかく、ラッセル・クロウとガイ・ピアースという2人のオーストラリア人俳優は、当時はまだまだこれからの存在だった。 ラッセルの演技には以前から注目していたというハンソンだったが、ガイに関しては、全くのノーマーク。しかし本読みをさせてみると、素晴らしく、ガイ以外の候補が頭から消えてしまったという。またこの2人は観客にとっては未知の人であったため、「…どちらが死ぬのか、生きるのか見当もつかない」。そこが良かったともいう。 とはいえ無名のオーストラリア人俳優を2人も起用するとなると、一苦労である。まずプロデューサーのアーノン・ミルチャンを説得。映画会社に対しては、先に決まっていたラッセルに続いて、ガイまでもオーストラリア人であるということを、黙っていたという。 ラッセルとガイには、撮影がスタートする7週間前にロス入りしてもらい、当地の英語を身につけさせた。またラッセルには、近年のステロイド系ではない、50年代の鍛えられてはいない身体作りをしてもらったという。 さて配信が大きな力を持ってきた昨今は、ベストセラーなどの映像化に際しては、潤沢な予算と時間を掛けて、原作の忠実な再現を、評価が高い映画監督が手掛ける流れが出てきている。例えば今年、コルソン・ホワイトヘッドのベストセラー小説「地下鉄道」が、『ムーンライト』(16)などのバリー・ジェンキンスの製作・監督によって、全10話のドラマシリーズとなり、Netflixから配信された。 こうした作品について、従来の映画化のパターンと比して、「もはや2時間のダイジェストを作る意味はあるのか?」などという物言いを、目の当たりにするようにもなった。なるほど、一見キャッチ―且つ刺激的な物言いである。確かに長大な原作をただただ2時間の枠に押し込めることに終始した、「ダイジェスト」のような映画化作品も、これまでに多々存在してきた。 しかし『L.A.コンフィデンシャル』のような作品に触れると、「ちょっと待った」という他はない。展開に少なからずの混乱が見られ、遺体損壊などがグロテスクに描写されるエルロイ作品をそのままに、例えば全10話で忠実に映像化した作品などは、観る者を極めて限定するであろう。その上で、それが果して全10話付き合えるほどに魅力的なものになるかどうかは、想像もつかない。 因みにハンソンは、混乱を避けるために、エルロイには1度も相談せず、脚本を書き上げた。その時点になって初めて脚本を送ると、エルロイから夕食の誘いがあった。恐る恐る出掛けていくと、エルロイは~彼自身の考えていることがキャラクターを通して映画のなかによく出ている~と激賞したという。 まさに「換骨奪胎の極み」を2時間強の上映時間で見せつけ、映画の醍醐味が堪能できる作品として完成した、『L.A.コンフィデンシャル』。97年9月に公開されると、興行的にも批評的にも大好評を得て、その年の賞レースの先頭を走った。 アカデミー賞でも9部門にノミネートされ、作品賞の最有力候補と目されたが、巡り合わせが悪かった。同じ年の暮れに公開された『タイタニック』が、作品賞、監督賞をはじめ11部門をかっさらっていったのである。 本作はハンソンとヘルゲランドへの脚色賞、キム・ベイシンガーへの助演女優賞の2部門の受賞に止まった。しかしその事実によって、価値を貶められることは決してない。『L.A.コンフィデンシャル』は、監督のカーティス・ハンソンが2016年に71歳で鬼籍に入った後も、語り継がれる伝説的な作品となっている。■ 『L.A.コンフィデンシャル』© 1997 Regency Entertainment (USA), Inc. in the U.S. only.
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COLUMN/コラム2021.06.08
ヒッチコックの「ピュアシネマ」を実践したブライアン・デ・パルマ監督の傑作スリラー『殺しのドレス』
※注:本稿は一部ネタバレを含みますので、予めご了承ください。 公開当時に物議を醸した問題作 『悪魔のシスター』(’72)や『ファントム・オブ・パラダイス』(’74)のカルト・ヒットを経て、『キャリー』(’76)の大成功によってハリウッドのメジャー・シーンへと躍り出たブライアン・デ・パルマ監督。’80年代に入るといよいよキャリアの全盛期を迎えることとなるわけだが、その幕開けを告げる象徴的な作品がこの『殺しのドレス』(’80)だった。血みどろの残酷描写や際どい性描写のおかげでレーティング審査ではMPAA(アメリカ映画協会)と揉め、女性やトランスジェンダーの描写が人権団体から激しく非難を浴びる一方、ヒッチコックへのオマージュを独自の映像言語へと昇華させたスタイリッシュなサスペンス演出は、ロジャー・エバートやポーリン・ケールといったうるさ型の映画評論家から大絶賛され、興行的にも『キャリー』に迫るほどの大ヒットを記録した。 舞台は現代のニューヨーク。上流家庭の美しい人妻ケイト・ミラー(アンジー・ディッキンソン)は、ベトナムで戦死した前夫との息子ピーター(キース・ゴードン)を愛する良き母親だが、しかしその一方で裕福な夫マイク(フレッド・ウェバー)の無関心な態度に日頃から不満を覚えている。今朝も久しぶりに夫が体を求めてきたと思ったら、まるで人形を相手にするかの如く一方的に射精してオシマイ。もはや私には女性としての魅力がないのだろうか?かかりつけの精神分析医エリオット(マイケル・ケイン)のセラピーを受けた彼女は、「先生は私とセックスしたいと思ったことある?」と問い詰めてエリオット医師を困らせてしまう。 その日の午後、ケイトはひとりでメトロポリタン美術館へと足を運ぶ。たまたま隣に座ったハンサムな男性に惹かれ、思わせぶりな態度を取って相手の反応を試すケイト。向こうもまんざらではなさそうだ。大人の男女による無言の駆け引き。一度は彼を見失ってしまったケイトだったが、しかし美術館の外に出ると男性はタクシーに乗って待っており、2人はそのまま彼のアパートへと直行する。夜になって家へ帰ろうとするケイト。寝ている男性に置手紙を残そうと書斎デスクの引き出しを開けた彼女は、たまたま病院の診断書を見つけて驚く。男性は性病にかかっていたのだ。罪の意識と後悔の念に狼狽してエレベーターへ乗り込むケイト。そんな彼女を尾行する怪しい人影。忘れ物に気付いたケイトが彼の部屋へ戻ろうとしたところ、サングラスをかけたブロンドの女にカミソリで惨殺されてしまう。 その頃、別の階でエレベーターを待っていた高級コールガールのリズ・ブレイク(ナンシー・アレン)。扉が開くと、そこには血まみれになったケイトが倒れていた。虫の息のケイトに手を差し伸べようとするリズだったが、エレベーター内の鏡に映る犯人の姿に気付き、とっさに凶器のカミソリを拾って逃げ出し警察に通報する。事件の第一発見者にして最重要容疑者となってしまったリズ。警察のマリーノ刑事(デニス・フランツ)も売春婦の言うことなどまともに取り合ってはくれない。ケイトの息子ピーターと組んで真犯人を突き止め、身の潔白を証明しようとするリズ、そんな彼女を秘かに尾行するサングラスのブロンド女。一方、エリオット医師は患者のトランスジェンダー女性ボビーが犯行を告白する留守電テープを聞き、警察よりも先に彼女の身柄を確保しようと奔走するのだったが…? 全編に散りばめられたヒッチコックへのオマージュ 本編をご覧になった方は既にお気づきのことと思うが、『キャリー』と同じく本作におけるヒッチコックの『サイコ』(’60)からの影響は一目瞭然。オープニングとクライマックスを女性のシャワー・シーンで飾っているのは象徴的だし、映画の前半と後半でヒロインがバトンタッチするという展開も『サイコ』のプロットをお手本にしている。女装した犯人がカミソリでケイトを惨殺するエレベーター・シーンは、そのスピーディで細かい編集を含めて、『サイコ』の有名なシャワー・シーンの、より残酷で血生臭い再現と言えるだろう。性欲が殺意のトリガーとなるのもノーマン・ベイツと一緒。もちろん、ヒッチコック映画へのオマージュは『サイコ』だけに止まらない。犯人の女装姿は『ファミリー・プロット』(’76)のカレン・ブラックとソックリだし、エリオット医師のオフィスに単身乗り込んだリズをピーターが双眼鏡で見守るシーンは『裏窓』(’54)を彷彿とさせる。元ネタ探しを楽しむのもまた一興だろう。 そんな本作の中でも、恐らく最もヒッチコック的と呼べるのが美術館シーンである。女性の肖像画の前に座ったアンジー・ディッキンソンは、さながら『めまい』(’58)のキム・ノヴァク。ふと周りを見回して来場客たちの様子を観察する姿は、アパートの部屋から隣人たちの生活を覗き見する『裏窓』のジェームズ・スチュアートである。そして、たまたま隣に座ったハンサムな男性に心惹かれたヒロインは、広い美術館の中を歩き回りながら、追いつ追われつの男女の駆け引きを繰り広げ、最終的に美術館の外へ出たところでタクシーに乗った男性と合流する。ここまでセリフは一切なし。まるでサイレント映画の如く、映像と伴奏音楽だけでストーリーを雄弁に物語っている。これは『めまい』の尾行シーンや『鳥』(’63)のボート・シーンなどでも試みられた、ヒッチコックが言うところの「ピュアシネマ」の応用だ。しかも、ヒッチコックの時代にはなかったステディカムを駆使することで、より純度の高い映像技法をものにしている。ヒッチコキアンたるデ・パルマの面目躍如と言えるだろう。 ちなみに、美術館の外へ出たケイトの目線の先をカメラが追いかけていく(これまたヒッチコックのトレードマーク的な演出)と、タクシーに乗って待つ男性の手元へと辿り着くわけだが、その間に一瞬だけ女装した犯人の姿が映像に写り込む。これは犯人が美術館から彼女を尾行していたということの証なのだが、しかしストーリーの展開上、この時点で観客にはまだ殺人者の存在は明かされていないため、2度目以降の鑑賞で初めて写り込みに気づく観客が大半であろう。これを見て思わず連想するのが、ダリオ・アルジェント監督の『サスペリアPART2』(’75)。そう、犯人の顔が写り込んだ鏡の廊下のシーンである。デ・パルマがアルジェントを意識したのかは定かでないものの、映画ファンとして強く興味を惹かれるポイントではある。 実は的外れだったミソジニスト批判 こうした巧妙な映像技法の活用や名作へのオマージュを含めて、いかにして観客を怖がらせて楽しませるのかというヒッチコック映画一流のショーマンシップを継承した本作。先述したように、公開当時は女性に対する露骨な暴力描写やトランスジェンダーへの偏見を助長するような描写を激しく非難され、一部からはミソジニストというレッテルまで貼られてしまったデ・パルマ監督だが、しかし本人が「か弱い女性が危険な目に遭うというサスペンス映画の伝統を踏襲したに過ぎない」と語るように、スリルや恐怖を盛り上げるためのセオリーを追求した結果こうなったというのが真相なのだろう。それに、本作のストーリーをちゃんと理解していれば、むしろミソジニーとは正反対の視点が貫かれていることに気付くはずだ。 中でも特にそれが顕著なのは、2人のヒロインの描写である。良き妻であり良き母親である以前に一人の女性であることを自覚し、結果的に過ちではあったものの能動的に行動することを選んだ人妻ケイト、ちゃんと納得した上で自らの性を売り物にし、そこで稼いだ金を賢く株や美術品などの投資に回す高級コールガールのリズ。旧態依然とした保守的な社会が女性に求める規範から明らかに外れたヒロインたちを、本作では強い意志を持つ自立した現代女性として同情的に描く一方、そんな彼女たちを「釣った魚」や「性的オブジェクト」のように扱う尊大な男性たちに批判の目が向けられているように思える。 実際、本作に登場する男性キャラは、揃いも揃って身勝手で独善的な無自覚のミソジニストばかり。唯一の例外は、ケイトの息子である未成年(=まだ男になりきれていない)のピーターだけだ。そもそも、殺人犯を凶行へと駆り立てる要因だって、自らが内在する女性性を頑なに否定しようとする男性性である。すなわち、本作における諸悪の根源は男性優位主義的なマチズモであり、それが意図したものであるかどうかはまた別としても、どことなく中性的な童貞オタク少年ピーターを自らの分身だと語るデ・パルマが、その対極にあるマチズモを否定すべきものとして描いていることは明らかだ。確かに、トランスジェンダーを解離性同一障害のように描いている点は誤解を招きかねないと思うが、しかし少なくとも本作が女性蔑視的であるという当時の批判は的外れであったと言えるだろう。■ 『殺しのドレス』© 1980 Warwick Associates. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2021.06.08
「良質の伝統」を継承する名匠ジャン・ドラノワが挑んだフレンチ・ノワール『太陽のならず者』
ヌーヴェル・ヴァーグ世代に否定された心理的リアリズム映画の職人 フランス映画における「良質の伝統」を最も体現する職人監督として、カンヌ国際映画祭のグランプリに輝いた『田園交響楽』(’46)や『愛情の瞬間』(’52)、『クレーヴの奥方』(’61)など数々の映画を大ヒットさせ、しかしそれゆえにヌーヴェル・ヴァーグ世代の若手から罵倒にも等しい批判を受けた名匠ジャン・ドラノワが手掛けた、フィルムノワール風の犯罪アクション映画である。 映画批評家ジャン=ピエール・バローが’53年に論文で言及した「良質の伝統」とは、それすなわち「職人的な映画人の手による完璧な映画」のことで、具体的には’30年代のフランス映画黄金期を彩った『外人部隊』(’34)や『望郷』(’37)、『大いなる幻影』(’37)、『霧の波止場』(’38)といった詩的リアリズム映画の数々、そしてそれらの流れを汲む自然主義的な映画群のことを指すとされている。主に社会の底辺で暮らす労働者階級の人々の、運命に抗いながらも欲望や情熱ゆえに不幸な結果を招く姿を描いた詩的リアリズム映画は、本質的には通俗的なメロドラマであったものの、しかしジャック・プレヴェールやシャルル・スパークといった名シナリオ作家たちによる人間心理に迫った脚本や、スタジオセットを駆使することで生まれる洗練された映像美によって、フランス映画独特の芸術性をまとっていた。 この詩的リアリズム映画に象徴されるフランス映画の「良質の伝統」は、第二次世界大戦後に心理的リアリズム映画として復活し、先述したドラノワ監督の『田園交響楽』を筆頭として、クロード・オータン・ララの『肉体の悪魔』(’47)やルネ・クレマンの『禁じられた遊び』(’52)、マルセル・カルネの『嘆きのテレーズ』(’53)といった名作を生み出すわけだが、その一方で戦前の詩的リアリズム映画の焼き直しに過ぎないとの批判も受けるようになる。その急先鋒となったのが映画雑誌「カイエ・デュ・シネマ」に集った若手批評家たちだった。 映画監督が作品を通して自らの哲学や美学を表現する作家主義を理想とし、アルフレッド・ヒッチコックやハワード・ホークスといった作家性の高い映画監督を称賛した彼らにとって、シナリオ作家が主導権を握って映画監督が現場を仕切る職人に徹した一連の心理的リアリズム映画群は否定すべき存在であり、そうした作品が大衆に受け入れられるという当時の状況は恐らく由々しき事態だったのだろう。中でも、フランソワ・トリュフォーが’54年に発表した論文「フランス映画のある種の傾向」は、いくぶん抽象的な表現を含みながらも旧態依然としたフランス映画界の現状を激しく批判して大きな反響を呼ぶことになる。 当時まだ22歳だったトリュフォーは、フランス映画を代表する著名なシナリオ作家たちを名指しで攻撃し、彼らを「良質の伝統」に育まれた「心理的リアリズム」の元凶だとして強く非難。シナリオ作家の書いた脚本が作品の良し悪しを左右し、肝心の映画監督の存在が形骸化していることを嘆く。彼の言わんとすることは、シナリオ作家主体のフランス映画は単なる文学の延長線上に過ぎず、映画でしか成し得ない表現を放棄しているということなのだが、同時に一見したところ難解そうな主題や言葉を用いることで通俗的なメロドラマを高尚な芸術作品のように装った心理的リアリズム映画の「偽善性」をも見抜いていた。そうした「良質」な作品の監督として、いわばやり玉に挙がったのが、クロード・オータン・ララであり、ルネ・クレマンであり、イヴ・アレグレであり、ジャン・ドラノワだったのである。 しかも、この時期ドラノワはトリュフォーばかりでなく、ジャン=リュック・ゴダールやジャック・リヴェットからも非難の対象となっている。その理由は、もちろんドラノワが「良質の伝統」を継承する旧世代の象徴だったからということもあるが、恐らく『田舎司祭の日記』(’51)の映画化権を巡ってロベール・ブレッソンと争った経緯も少なからず影響していると思われる。孤高の映像作家と呼ばれたブレッソンは、ジャン=ピエール・メルヴィルと並んでカイエ・デュ・シネマ派=ヌーヴェル・ヴァーグ作家たちのヒーロー的な存在だ。心証が悪くなるのも当然と言えば当然かもしれない。しかも、ドラノワは『クレーヴの奥方』を巡っても再びブレッソンと争っている。ゴダールたちにとってみれば「ドラノワ許すまじ!」という心境だったのだろう。 そんな半ば私怨のこもったようなカイエ・デュ・シネマ派による批判は、恐らくドラノワ本人にしてみれば「とんだとばっちり」みたいなものだったはずだ。トリュフォーは「ジャン・ルノワールの駄作はジャン・ドラノワの傑作よりも良く出来ている」とすら述べているが、さすがにそれはちょっと言い過ぎだろうと思うし、そもそも「フランス映画のある種の傾向」を改めて読み返すと、今となっては感情的な極論が過ぎて賛同できない点も少なくない。いずれにせよ、この時期を境にドラノワ監督は「良質の伝統」を離れ、『マリー・アントワネット』(’56)や『ノートルダムのせむし男』(’56)のような史劇大作・文芸大作から、ジャン・ギャバン主演のメグレ警部シリーズ『殺人鬼に罠をかけろ』(’58)や『サン・フィアクル殺人事件』(’59)のような犯罪サスペンスまで、多岐に渡るジャンルの娯楽映画を手掛けるようになる。これはカイエ・デュ・シネマ派による批判の影響というよりも、時代の流れだったのだろう。ジャン・ギャバンが老練な銀行強盗にふんした『太陽のならず者』(’67)も、当時大ヒットしていた『地下室のメロディー』(’63)や『サムライ』(’67)など、一連のフィルムノワール人気に便乗した企画だったはずだ。 ソビエトではパロディ・アニメ化されるほど人気に 舞台はフランスの地方都市。地元のカフェやレストランなどを所有する初老の紳士ドニ・ラファン(ジャン・ギャバン)は、長年連れ添った妻マリー・ジャンヌ(シュザンヌ・フロン)と悠々自適な老後を送る実業家のように見えるが、しかし実はかつて裏社会で勇名を馳せた筋金入りの犯罪者だ。そんな彼が英国人女性ベティ(マーガレット・リー)に経理を任せているカフェの向かいには銀行があり、毎月末の給料日になると近くの米軍が5億フランもの現金を運んでいく。若かりし頃の血が騒ぐドニは、現金輸送車の到着時間などをこまめにチェックしていたが、しかし犯罪の世界には二度と戻らないという妻との約束を守るため、それ以上のことは何もせず退屈な毎日をやり過ごしていた。 そんなある日、店に因縁を付けに来た麻薬組織のチンピラ集団と対峙したドニは、15年前にベトナムのサイゴンで一緒に仕事をしたアメリカ人ジム(ロバート・スタック)と再会する。今は麻薬組織の用心棒をしているジムを自宅へ招き、昔話に花を咲かせるうち犯罪の誘惑に抗えなくなったドニは、ジムを誘って銀行強盗計画を実行に移そうと考える。信頼できる仲間を秘かに集め、慎重かつ入念に計画を練る2人。その一方、男盛りでハンサムなジムはベティとねんごろになるのだが、抜け目がなくて鼻の利くベティが強盗計画に気付いてしまったため、ドニとジムは仕方なく彼女も仲間に加える。そして、いよいよ決行の日。銀行強盗は首尾よく運び、一味はまんまと5億フランを手に入れるのだが、しかしひょんなことから麻薬組織のボス、アンリ(ジャン・トパール)がドニの仕業と気付き、妻マリー・ジャンヌが誘拐されてしまう。身代金として5億フランを要求する組織。仕方なく要求に応じようとするドニだったが…? ジャン・ギャバン演じる初老の元犯罪者が、年下の若い相棒と一緒に人生最後の大博打として銀行強盗を企てる。明らかにアンリ・ヴェルヌイユの『地下室のメロディー』を意識したプロットだ。テレビ『アンタッチャブル』(‘59~’63)のエリオット・ネス役でお馴染みのハリウッド俳優ロバート・スタックは、さすがにアラン・ドロンと比べてしまうと精彩を欠くことは否めないものの、当時B級映画の女王としてヨーロッパ各国の娯楽映画に引っ張りだこだったセクシー女優マーガレット・リーが華を添える。なにより、ドラノワ監督の軽妙洒脱な演出は当時59歳と思えないような若々しさで、あの『田園交響楽』を撮った同一人物の映画とはにわかに信じがたい。フランシス・レイのお洒落な音楽スコアの使い方も気が利いている。確かにドラノワ監督の代表作とまでは言えないものの、しかし娯楽映画として実に良心的な仕上がりだ。さすがは天下の職人監督。やはり器用な人だったのだろう。 ちなみに、フレンチ・ノワール映画の人気が高かったソビエト時代のロシアでは、なんと本作のパロディ・アニメが作られている。それが、世界各国の犯罪事情を名作映画へのオマージュを込めて描いたオムニバス・アニメ『Ограбление по...(…式強盗)』(’78)。第2話のフランス篇が本作を下敷きにしている。刑務所から出てきた老ギャング、ジャン・ギャバンが、カフェで知り合った若いカップル、アラン・ドロンとブリジット・バルドーの2人と組んで銀行強盗を行うも、酔っぱらいの中年男ルイ・ド・フュネスに現金を持ち去られてしまう…というストーリー。当時のソビエトでは、アメリカ映画に比べてフランス映画やイタリア映画はわりと積極的に輸入されていたのだが、本作も『Вы не всё сказали, Ферран(隠し事をしていたな、ラファン)』というタイトルで劇場公開されヒットしている。 なお、日本公開された作品はこれが最後となってしまったドラノワ監督だが、本国フランスではテレビ映画を中心に’90年代半ばまで現役を続け、2008年に満100歳で天寿を全うしている。■ 『太陽のならず者』© 1967 STUDIOCANAL - Fida Cinematografica
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COLUMN/コラム2021.06.04
夢は、悪夢のような現実から逃れるために…。『未来世紀ブラジル』
テリー・ギリアム監督が、本作『未来世紀ブラジル』(1985)の着想を得たのは、初の単独監督作品『ジャバ―ウォッキー』(77)を撮っていた頃、イギリスはサウス・ウェールズのある浜辺でのことだった。そこは大きな鉄工所に隣接し、砂浜は薄い膜のような煤に覆われていた。「誰かが石炭がらで真っ黒になった裸の浜辺に腰かけていると、コンベア・ベルトや醜い鉄の塔のむこうに緑あふれる素晴らしい世界がきっとどこかにあるって、現実から逃避するようなラジオからのロマンティックな歌がどこからともなく聞こえてくる―」 ギリアムの頭に浮かんだ、そんなイメージから、本作はスタートしたのだった。 *** 20世紀のどこかの国。個人のプライバシーはすべて政府のコンピューターに管理され、情報省が人々を支配していた。その一方で、反体制派による爆弾テロも相次ぐ。 クリスマスの日、情報省のコンピュータートラブルで、当局がテロリストと目すタトルと、一般人のバトルが取り違えられる。バトルは何の罪もないのに、情報剝奪局に急襲され、家族の前で連行されてしまう。 情報省の記録局に働くサム・ラウリーは、出世などには興味がない男。近頃は羽の生えた騎士の格好で空を舞い、囚われの身の美女を救い出す夢を、毎夜のように見ていた。 上司に頼まれ、バトルの件の責任回避に取り組むサムだったが、ある時夢に登場する美女と瓜二つの女性に出会う。サムは彼女を探し求めるが、その姿を見失う。 そんなある時、サムの部屋の暖房装置が故障。正規の修理サービスに連絡が取れないで困っていると、もぐりの鉛管修理工が現れる。その男こそ、当局がテロリストとして追っている、タトルだった。 夢の美女とそっくりの女性が、バトル家の階上に住む、トラック運転手のジルであることがわかる。サムはジルの情報を職場で詳しく調べようとするが、彼女は、バトルの誤認逮捕について抗議を行っていたことから、当局に“要注意人物”とマークされ、その情報は機密扱いとなっていた。 サムは彼女を見付けるため、断っていた栄転を受け入れることにする。異動先となる情報剥奪局ならば、ジルの情報にアクセス出来るからだ。 情報剥奪局で、逮捕者を尋問に掛ける役割を担っているのは、サムの親友であるジャック・リント。誤認逮捕されたバトルも、彼の拷問によって、すでに命を奪われていた。 そんなジャックから、ジルが逮捕される手筈となっていることを聞かされたサムは、彼女を救うために奔走。ジルもサムに、心を許すようになる。 しかし、そのために様々な規約を破ってしまったサムにも、魔の手が迫ってくる…。 *** 目の前の現実の方が悪夢のようで、そこから逃れるために、ひとは美しい夢を見る…。当初ギリアムがイメージした、煤に塗れた浜辺からはだいぶかけ離れたものになってしまったが、そんなコンセプトを発展させて、本作のストーリーは編まれた。 当初構想した美しい音楽は、ライ・クーダーの「マリー・エレナ」。それはやがて、アリ・バローソによる「Aquarela do Brasil=ブラジルの水彩画」という、1939年に生まれたラブソングへと変わる。 心はずむ六月を過ごしこはく色の月の下ふたりで「きっといつか」とささやいたブラジルぼくたちはここでキスしからみあったでもそれは一晩のこと朝がくると君は何マイルも離れぼくに言いたいことが山ほどいっぱい今、空は暮れなずみふたりの愛のときめきが甦るたしかなことは一つだけ…戻るよ、ぼくは想い出のブラジルに…(「Aquarela do Brasil」訳詞 『未来世紀ブラジル』劇場用プログラムより) 1940年にアメリカで生まれたギリアムにとって、南米のブラジルに逃げるというのは、最もロマンティックなことという感覚があった。そのためこの歌に惹かれ、遂には映画のタイトルまで、『Brazil』(原題)にしてしまった。舞台はブラジルとは、まったく関係ないのに。 本作が、全体主義国家によって統治された近未来世界の恐怖を描いた、ジョージ・オーウェルの「1984年」の影響を受けているのは、明らかと言える。しかしギリアムは、「1984年」を読んではいないという。未読でもわかってしまう、それぐらい自明なイメージに惹かれたと述懐している。 その上で、本作についてギリアムは、当初こんな表現をしていた。“虹を摑む男ウォルター・ミティがカフカと出会った映画”。 ダニー・ケイ主演の『虹を摑む男』(47)と、その原作「ウォルター・ミティの秘密の生活」で、主人公のウォルター・ミティは、空想に耽って自分を英雄に仕立てる。そんなミティのような男≒サムが、フランツ・カフカが書くような不条理の世界に紛れ込んでしまったというわけだ。 そうした本作のイメージが形作られた背景には、ギリアム自身の体験もある。20代後半、アメリカで雑誌編集者やアニメーターとして活動していたギリアムだったが、1967年にロサンゼルスで、警官隊の暴行事件に遭遇。アメリカ政府のベトナム政策に抗議して集まった群衆が、警官隊によって滅多打ちにされるのを、目の当たりにしたのだ。 これはギリアムにとって、「現実で初めて経験した悪夢」。罪なき人々が無差別に、官憲から残忍な仕打ちを受けるという、正に「カフカ的イメージ」が具現化されたものだった。 付記すればギリアムは、この体験がきっかけで母国に見切りをつけて、イギリスへと渡る。そしてコメディグループ「モンティ・パイソン」の唯一のアメリカ人メンバーとなり、やがて世界的な人気を得ることとなる。 因みに「モンティ・パイソン」の仲間である、テリー・ジョーンズから借りた、魔女狩り関係の書物も、本作を構成する重要な要素となった。例えば本作で情報剥奪局は、逮捕者を連行し処罰する費用を、逮捕された本人に請求する。これは中世の魔女狩りに於いて、実際に行われていたことである。魔女として告発された者は、裁判や留置場の費用、拷問、そして焼き殺されるための薪代まで、負担しなければならなかったという。 さて1970年代後半からギリアムが構想していた本作が、実際に製作に向かって大きく動き出したのは、彼の前作『バンデッドQ』(81)が、製作費500万ドルに対し、アメリカだけで4,200万ドルを売り上げるという、大ヒットを記録してから。 82年3月、ギリアムは知人の紹介で出会った、イスラエル出身のプロデューサー、アーノン・ミルチャンと意気投合。彼が本作の製作を行うこととなる。 脚本は、元々はギリアムが、『ジャバ―ウォッキー』の共同脚本を手掛けた友人チャールズ・アルヴァーソンと書いていたが、まとまりに欠けるものだった。そこでギリアムは、「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」などの戯曲で知られる、世界的な劇作家トム・ストッパードに、脚本化を依頼することにした。 ストッパードはいつでも、「ひとりで書く」という仕事の仕方だったため、共同作業を望むギリアムにとっては、不満が募る結果となった。しかし第4稿まで書いたストッパードの脚本で、本作の骨組みは固まった。 例えば開巻間もなく、低級官僚が書類を丸めて、ピシャリと叩いたハエが、コンピューターの中に落ちたことで、TUTTLEの文字がBUTTLEとミスプリントされてしまうシーンがある。すべての発端であるこのくだりは、正にストッパードのアイディアだった。 最終的にギリアムは、チャールズ・マッキオンとの共同作業で、脚本を仕上げた。 一方ミルチャンは、1,500万ドルという製作費を捻出するため、各映画会社と交渉。ユニヴァーサルと20世紀フォックスの競り合いになり、最終的には、フォックスが600万ドルの出資で海外市場、ユニヴァーサルが900万ドルでアメリカ、カナダの北米市場の公開を展開するという契約で、まとまる。 ここでキャスティングについて、触れよう。主演のジョナサン・プライスは、本作の構想が始まって間もない頃に、ギリアムと邂逅。ギリアムはプライスのことが気に入り、サム・ラウリーの役を、彼への当て書きのようにして、原案を書いたという。 しかしいざ製作が本格化した段階では、サムの設定は、22~23歳の青年に。当時の若手スターだった、アイダン・クイン、ピーター・スコラーリ、ルパート・エヴァレットなどが候補になった。特にサム役を熱望したのは、あのトム・クルーズだったという。 その頃プライスは、すでに30代後半。しかし脚本を読んでみると、サムの役は33歳という設定にしても無理がないと感じて、そのままギリアムに提案した。それを受けてスクリーンテストを行った結果、彼が本決まりとなったのである。 サムの夢の美女≒ジル役の候補となったのは、ケリー・マクギリス、ジャミ―・リー・カーティス、レベッカ・デモーネイ、ロザンナ・アークエット、そしてまだメジャーになる以前のマドンナなど。一旦はエレン・バーキンに決まったものの、最後の最後で、キム・グライストがジル役となった。 ギリアム曰く、「スクリーン・テストの彼女は最高だった。でも撮影が始まるとそうはいかなかった」。元々の脚本では、ジルの役割はもっと大きいものだったが、撮影が進行する内に、どんどん削られていった。 ミルチャンの提案で作品の箔付けとして、大スターのロバート・デ・ニーロの出演が決まった。ミルチャンが本作の前に製作した、マーティン・スコセッシ監督の『キング・オブ・コメディ』(82)、セルジオ・レオーネ監督の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(84)の2作の主演を務めた縁である。 デ・ニーロは当初、サムの親友で拷問者であるジャック・リントの役を希望した。しかしその役はすでに、「モンティ・パイソン」の仲間マイケル・ペリンに決まっていた。 デ・ニーロはギリアムの説得により、配管工にして当局にテロリストとして追われるタトルの役を演じることとなった。当時のデ・ニーロが、このような脇役で出演するなど、異例中の異例。彼は、脇役であっても手を抜くことはなく、いわゆる“デ・ニーロアプローチ”で、完璧な役作りをやってのけた。 本作は1983年11月にクランク・イン。パリの巨大なポスト・モダン様式のアパート地区マルヌ・ラ・ヴァレで、サムのアパートなどのシーン、当時再開発前だったイギリス・ロンドン港湾地区の廃棄された発電所の冷却塔で、ジャックの拷問室のシーンといったように、ギリアムのセンスが遺憾なく発揮されたロケ撮影を行った。 因みに『未来世紀ブラジル』という邦題は、作品の雰囲気を表すのに悪くはないと思うが、実はミスリード。先にも記したが、これは「未来」の話ではない。“20世紀のどこか”が舞台なのである。登場人物の服装は1940~50年代。サムが運転している車も、ドイツのメッサーシュミットのその頃のモデルである。ギリアムの言を借りれば、“過去に根ざしたありうべき未来の様相”あるいは“現在のB面”を描いているのである。 さて本作は撮影途中で、このままでは撮り切れないとの判断から、2週間休止して、脚本を切り詰める作業を行ったり、ギリアムがストレスから1週間近く起き上がれなくなるというアクシデントが発生。サムの飛翔シーンの特撮に時間が掛かったこともあって、84年2月のクランクアップ予定は、半年延びて、8月になってしまった。 しかし1,500万ドルの予算を超過することはなく、作品は完成。85年2月には、20世紀フォックスの配給で、ヨーロッパで142分のバージョンが無事公開された。 ところがアメリカでは、製作スタート時にはそのポストには居なかった、ユニヴァーサルの責任者シドニー・J・シャインバーグが、ギリアムの前に立ちはだかることとなる。その顛末は、有名な「バトル・オブ・ブラジル」という1冊の書籍にまとめられたほどのボリュームなので、本稿では細かくは言及はしない。 何はともかくシャインバーグは、ギリアムによって11分のカットを行った、アメリカ公開用の131分版に同意せず。別に編集チームを編成。映画の3分の1をカットした上で、ロマンス要素を増強し、ハッピーエンドに終わらせるという、“暴挙”に出たのである。 結果的にはギリアムvsシャインバーグのバトルは、マスコミや批評家などを巻き込んだギリアムの勝利と言える形に終わった。85年12月のアメリカ公開はギリアムの131分版となり、シャインバーグのハッピーエンド版は、後にTV放送されるに止まった。 しかしながらこのゴタゴタの結果、きちんとプロモーションが行き届かず、アメリカ公開ではヒットという果実を得ることはできなかった…。 因みに日本初公開は、86年10月。インターネットなき時代、そのようなトラブルがあったことなど、ほとんどの観客が知らなかった。日本ではユニヴァーサルではなく、20世紀フォックスの配給だったこともあって、ヨーロッパで公開された142分版が観られた。また劇場用プログラムの内容にも、トラブルのトの字もない。 皮肉なものだと思う。テリー・ギリアムの前作『バンデッドQ』が83年に日本公開された際は、子ども向けの作品として売りたかった配給会社の東宝東和によって、悪名高き改竄が行われたからだ。 オリジナルから残酷な要素を取り除いて13分もカットし、ラストまで改変してしまった。ビデオソフトでオリジナル版を観て、劇場で観たのと全く違っているのに、吃驚した映画ファンが続出したものだ。 さて余談はここまでにして、ギリアムはこの後「ほら吹き男爵の冒険」の映画化『バロン』(88)に取り組む。そこでは本作を超えた災厄が待ち受けているのだが、それはまた別の話…。■ 『未来世紀ブラジル』© 1984 Embassy International Pictures, N.V. © 2002 Monarchy Enterprises S.a.r.l. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2021.05.31
『ホーンティング』再評価に向けて言及したい二、三の事柄
●本格的ゴーストホラーを目指した意欲作 “その建物はいかにも不気味な感じだった。彼女はゾッとしながらそう思った——するとたちまち心の中で声がした。「〈山荘〉は気味が悪い……不気味だ……今すぐ立ち去ったほうがいい」”(*1) 山荘と呼ばれる洋館で、四人の男女が体験する恐ろしい霊的現象を描いたシャーリイ・ジャクスンの『山荘綺談』は、最も優れた、そして最も恐ろしいゴーストストーリーのひとつとして知られている。恐怖体験に関する研究プロジェクトのため、マロー博士はそれぞれに個人的な問題を抱えた3人の被験者をこの場所に誘う。しかし彼らがそこへ到着した夜から、山荘は超常的な怒りを彼らにぶつけることになる——。 1999年公開の『ホーンティング』は、同小説の二度目となる映画化作品だ。監督はシネマトグラファーとして『ダイ・ハード』(88)や『レッド・オクトーバーを追え!』(90)などに参加し、キアヌ・リーブス主演のサスペンスアクション『スピード』(94)で監督デビューを果たしたヤン・デ・ボン。スピード感あふれる演出と機動性を極めたカメラワークを主スタイルとするが、『ホーンティング』はそれとは打って変わって被写体を舐るように、そしてじっくりと捉えて恐怖を創出していく。登場人物たちの恐れの感情を高めていくために準撮り(劇中の順番に撮影していくこと)を実行し、また撮影時には音響デザインのゲイリー・ライドストロームが録音していた効果音を俳優たちに聞かせることで、音や気配に対するリアルな反応を引き出している。 なにより舞台となる洋館の外観はイギリス、リンカンシャーのハーラックストンにあるカントリーハウス〈ハーラックストンマナー〉を用いて撮影し、そのジャコビアン様式とエリザベス朝スタイルをバロック建築に融合させた異様さは、作品の真の“主役”として禍々しい存在感を放つ。加えて巨大航空機格納庫のスプルース・グース・ハンガーに建設された洋館内のセットは、ハリウッド映画における最大級のインテリアセットを誇るものだ。 だが惜しいことに、『ホーンティング』は、評論家からは芳しい評価を受けてはいない。興行的には成功を得たものの、たとえば米「サンフランシスコ・クロニクル」紙の映画評論家ミック・ラサールなどは「『ホーンティング』がもたらす唯一のいいニュースは、映画製作者たちが技術だけで名作が作れることを証明しようとしたが、うまくいかなかったということだ」(*2)となかなかに手厳しい。 こうして映画を非難する文言の中には的を射たものもあるが、じつのところ作品をとりまくいくつかの要素が、映画の評価にネガティブな影響を与えているケースも否めない。うちひとつには『山荘綺談』の最初の映画化作品である、ロバート・ワイズ監督の『たたり』(63)の存在だ。 モダンホラー文学の大家スティーブン・キングは「恐怖」について語った随筆集「死の舞踏」の中で、優れた恐怖描写は扉を開けず、その扉の向こう側にいるものの正体を見せないことだと綴り、『たたり』を絶賛している。確かに『たたり』は、奇怪な音がもたらす恐怖感や、見たり聞いたりしたものが実際にあったのかどうかを登場人物たちに疑問に思わせる創造性が、ひとつの成果をあげているといえる。 ただ『たたり』に関しては、製作予算が110万ドルと限られたものだったことと、当時の視覚表現の限界もあって、必然的に物事を見せない方法を択っている。『ホーンティング』はむしろ8000万ドルという潤沢な製作費を活かし、ゴーストを明確に可視化させることで、精神的ストレスで心に傷を負っていたエレノア(リリ・テイラー)が実際にゴーストを見たのか、それとも彼女の意識が生んだ妄想なのかを観る者に対して巧妙にミスリードしている。こうした映像への積極的な試みが、CGへの過度な依存だと受け取られたようだ。 なにより『ホーンティング』は『たたり』のリメイクではなく、原作の再映画化という位置付けにある。権利上の問題から『たたり』にアクセスすることはできず、同作にあるアイディアを汲み取ってはいない。エレノアを物語の中心人物として描いたのも原作由来のもので、ジャクスンの小説を新たな試みで映画化し、『たたり』とは根本的にアプローチを異にしている。 もうひとつ、ネガティブな作品評価を誘引したのは、製作元のドリームワークスに最終的な編集の権利があり、映画の方向性が変えられたというゴシップだ。スタジオが原作に忠実な心理的スリラーを手がけようとしていたデ・ボンのアプローチを嫌い、観客が即座に恐怖を覚えるような方向へと軌道修正し、ポストプロダクションをスティーブン・スピルバーグが引き継いだ、というものである。 しかし近年、同作のBlu-rayリリースを機にデ・ボンが語ったところによれば、『ツイスター』(96)の後の監督作として企画中だった『マイノリティ・リポート』(02)が、主演のトム・クルーズのスケジュールに空きができたことで急浮上。代わりにスピルバーグが監督を務め、彼が本来監督する予定だった『ホーンティング』をデ・ボンに譲り渡した経緯があったという。そこにスピルバーグとの確執や因縁はなく、先のような実態を欠く噂がスキャンダラスに流布されたようだ。 こうした背景には、かつてスピルバーグが監督であるトビー・フーパーを差し置いて、自ら現場で演出をしたと噂された『ポルターガイスト』(82)のゴシップが重なってくる。この問題は現在に至るも真相は藪の中で、『ホーンティング』が同じホラージャンルであることから、格好のネタとして蒸し返されてしまったとも考えられる。 もちろん、作品そのものの不評を全てスキャンダルのせいにするつもりはないが、不正確な情報が作品にバイアスをかけ、鑑識眼を曇らせてしまうケースもある。それを取り除いて評価が大きく変わるのであれば、すでに評価の定まった作品だからと禁欲的になる必要もないだろう。 ●ヤン・デ・ボン自身が語った『ホーンティング』のこと アメリカで最も影響力のあった映画評論家のひとり、ロジャー・エバートは「ロケーション、セット、アートディレクション、サウンドデザイン、そして全体的な映像の素晴らしさに基づき、わたしはこの映画を推薦したい」と、公開時に『ホーンティング』を激賞している(*3)。筆者もエバートのような感触を同作に覚えたひとりで、ヤン・デ・ボン監督に『トゥームレイダー2』(03)の取材で会ったとき、同作に対する質問を以下のようにぶつけ、高度なクリエイティビティのもとで本作が手がけられたことを確認している。 ——「アメリカン・シネマトグラファー」誌に『ホーンティング』の照明設計図が掲載されていましたが、ライトの設置が複雑すぎて、僕のような門外漢には監督が何を目指しているのか分かりかねました(笑)。 デ・ボン「専門誌まで読んでくれたんだね。屋敷の恐ろしい性質をライティングで表現したかったんだ。この映画はCGでゴーストをクリエイトしているけど、同時にできるだけオンカメラ(撮りきり)で、ゴーストの存在を表現しようと試みたんだよ。撮影現場にいるキャストが、その場で恐怖を実感できるようにね」 ——効果音もその場でできる限り聞かせて、俳優たちの恐怖感を引き出していったとか。 デ・ボン「そう、完成した作品にサウンドエフェクトを挿れず、役者の演技だけで音を感じられるならそれが究極的で理想的だよ。僕は黒澤明監督の『乱』(84)が好きで、武将の父を城ごと燃やそうとする長男と次男の謀反が描かれていたよね。あの合戦場面に黒澤さんは効果音をいっさい使わず、アンダースコア(音楽)だけを用いている。その演出がむしろ戦闘の激しい音を想像させるんだから、あの境地を目指したいものだ」 ——俳優たちのリアクションは実際どうだったんですか? デ・ボン「効果は絶大だったね。特にリーアム(・ニーソン)とキャサリン(・ゼタ=ジョーンズ)は、積極的にスタジオに入りがらないくらいだったからね。二人には相当に怖い思いをさせてしまったよ(笑)」 そう、「〈山荘〉は気味が悪い……不気味だ……今すぐ立ち去ったほうがいい」——。■ (*)『ホーンティング』撮影中のヤン・デ・ボン監督
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COLUMN/コラム2021.05.07
ヴェンダース×サム・シェパードのコラボが生んだ、深すぎる愛の物語『パリ、テキサス』
本作『パリ、テキサス』(1984)の日本公開は、1985年9月。 大学1年だった私は、同級生の女の子とアルタ前で待ち合わせし、新宿文化シネマへと向かった。今はシネマート新宿かEJアニメシアター新宿に名を変えている、2スクリーンの内のどちらかの劇場での鑑賞だった。 当時日本の映画業界では、「カンヌ国際映画祭」の最高賞を、パルム・ドールという正確な呼称は使わず、“グランプリ”と謳っていた。その「カンヌでグランプリ」の触れ込みで、今はなきフランス映画社が配給だった。 監督のヴィム・ヴェンダースの名は、映画マニアの間では知られていたが、過去作の日本公開は、まだ数少なかった。そしてそれらを全く観ていない私の、彼に関しての知識は、「小津安二郎を敬愛する、ドイツ人監督」で、『ゴッドファーザー』(72)のフランシス・フォード・コッポラに招かれてハリウッドで作品を撮ったが、色々とトラブってうまくいかなかったというぐらいだった。 ヴェンダース作品が日本で、一般の口の端に上るようになったのは、それから3年近く後。『ベルリン・天使の詩』(87)が88年春に公開され、アート映画や単館系作品として、記録的なヒットを飛ばしてからだったと思う。 私はヴェンダースよりも、脚本のサム・シェパードの名に惹かれた。アメリカの劇作家であると同時に俳優だったシェパードに関しては、本作の前年=84年に日本公開された、フィリップ・カウフマン監督の『ライトスタッフ』(83)で演じた、孤高のテストパイロット、チャック・イェーガーがあまりに格好良く、強烈な印象が残っていたからである。彼はこの役で、アカデミー賞助演男優賞の候補になっている。 因みに目が早い映画ファンの間では、更にその前年=83年に公開した、テレンス・マリック監督の『天国の日々』(78)でのシェパードが話題になっていた。この作品での彼は、若くして死病に侵された、農場主の役だった。 5年もオクラになっていた『天国の日々』が突然公開に至ったのは、82年暮れに公開された、『愛と青春の旅立ち』(82)の大ヒットがきっかけ。リチャード・ギア人気に火が点き、その過去の主演作として掘り起こされたためだ。そして公開館に「ギア様目当て」で駆け付けた中に、結果としてサム・シェパードの方に熱を上げるようになった女性ファンが、少なからず居たのである。 些か余談が過ぎたが、『パリ、テキサス』が、私が当時はあまり好んでは観なかった「アート系」(そんな言葉は当時はなかったが…)であることは、フランス映画社が買った作品であることからも、察しがついた。しかしまあ「カンヌ」であるし、当時日本でも美人女優として人気があった、ナスターシャ・キンスキーも出てるし等々で、デートムービーとしてチョイスしたのであろう。 終わってみると、私より何倍も感受性が強かった連れの女の子は一言、「悲しいね」。色々と感じ入ってたようであったが、それに対して私は、正直ピンと来ていなかった。その理由は、後ほど記す。 *** テキサスの砂漠を、彷徨う男がひとり。水を求めて入った、ガソリンスタンドの売店で、氷を口にすると、気を失った…。 ロスアンゼルスで働くウォルトの元に、1本の電話が入る。4年前に失踪し、死んだと思っていた兄トラヴィスらしき男が、行倒れて入院していると。ウォルトは兄を迎えに、テキサスへと向かった。 トラヴィスは何を聞いても口を開かず、すぐに逃げ出そうとする。挙げ句は飛行機での移動を拒否したため、ウォルトはレンタカーで、ロスまでの遠路を連れ帰ることにする。 途切れ途切れに記憶を取り戻すトラヴィスは、通信販売で買ったという土地の写真を弟に見せる。それは=テキサス州のパリという、辺鄙な場所。かつて兄弟の両親が初めて愛を交わし、トラヴィスが生を受けた地だという。トラヴィスも愛する者たちと、その地に暮らすのを夢見たのだろうか? ロスで待っていたのは、ウォルトの妻アンヌと、トラヴィスの息子で間もなく8歳になる、ハンター。トラヴィスの失踪後に、その妻ジェーンが、ハンターをウォルト邸の前に置き去りにしたのだ。それ以降ハンターは、ウォルトとアンナを両親として育った。 トラヴィスを実の父親と知りながらも、なかなか心を開かないハンター。しかしウォルトとアンナが5年前、幸せだった頃のトラヴィス一家を訪れた際に撮った、8mmフィルムのホームムービーの映写を機に、2人の距離が縮まる。 アンナはハンターを失うことになるのではと恐れながらも、ジェーンから毎月息子宛に送金があることを、トラヴィスに伝える。彼女が金を振り込んでいる銀行は、テキサス州のヒューストンにあるという。 トラヴィスは中古のフォードを駆って、ジェーンを探しに行くことを決める。そしてその旅には、「ママに会いたい」という思いが募ったハンターも、同行する。 ヒューストンの銀行前で、車を運転するジェーンを遂に見付けた2人。彼女の後を追っていくと…。 *** 77年、ヴェンダースはコッポラ率いるゾーエトロープ社から依頼を受け、ハードボイルド小説の著名な書き手ダシール・ハメットを主人公にした小説「ハメット」の映画化に取り掛かる。サム・シェパードによると、まずは脚本を書いて欲しいと、ヴェンダースから依頼があったという。 60年代はじめに21歳で劇作家として、デビュー。映画でもミケランジェロ・アントニオーニ監督の『砂丘』(70)やボブ・ディランが監督・主演した『レナルド&クララ』(78)などの脚本を手掛けたシェパードだが、撮影所システムの中で脚本を書くことには気乗りせず、その依頼を断った。 そうすると今度は、「主演してくれ」との依頼。ヴェンダースは、『天国の日々』で観たシェパードの演技を、気に入っていたのだ。 ところが当時のシェパードは、「知名度不足」のため、製作会社からNGが出る。そのため彼が、映画『ハメット』(82)に参加することはなかった。 しかしここで、いずれは一緒に仕事をしようと、2人の間で約束が交わされた。具体的な一歩を踏み出したのは81年、シェパードの初めての本「モーテル・クロニクルズ」の草稿を、ヴェンダースが読んだ時点からだった。 モーテルからモーテルへと旅をしながら綴った詩と散文が収められたこの書物のイメージを膨らませて映画にしたいと考えたヴェンダースは、ラフに脚色したものを書き上げる。しかしシェパードが内容を気に入らず。そのシナリオは流れた。 その後2人で過ごす内に、「砂漠にいきなり現れた記憶喪失の男」というアイディアが浮かんだ。そしてそれを基に、共同で脚本を書き進めていくことになる。 はじめは兄弟を軸とした話で、妻を探し求めるエピソードはあったものの、妻が見付かるかどうかは、決まっていなかった。子どもを登場させることになって、大体のアウトラインが固まったという。 トラヴィスが失踪する原因として、第1稿では妻が師事する“教戒師”が登場した。それが転じて、トラヴィスが古いアルバムを頼りに、自分の謎めいた家系を辿るために、あらゆる人を至る所に訪ねていくという話になっていく。 更にそこから変わって、ジェーンの父親がテキサスの大地主で、彼女を閉じ込めているという設定が、考え出された。シェパードは父親役として、ジョン・ヒューストンにオファーすることを考えていた。 「この映画は、アメリカについて私がずっと語りたいと思ってきたことを入りくんだ形で語っています…」 ヴェンダースが完成後にそう述懐する本作の物語の出発の地として、シェパードはテキサス州を挙げる。そこにアメリカを凝縮して、描こうという提案だった。ヴェンダースは3カ月掛けてテキサスを旅し、ロケハンを行った。 主演のトラヴィスには、ハリー・ディーン・スタントン。ヴェンダースにとっては意中のキャスティングだったが、50年代後半から脇役として活動してきたスタントンのことを、シェパードはまったく知らなかった。 しかしたまたま、コッポラ主催の映画祭で邂逅。スタントンと飲み明かして意気投合したシェパードは、「…トラヴィスについてぼくが思い描いたことをすべてもちあわせている…」と、ヴェンダースに電話を掛けてきたという。 トラヴィスの妻のジェーン役には、ナスターシャ・キンスキー。13歳の時のデビュー作が、ヴェンダースの『まわり道』(74)だった彼女は、その後トーマス・ハーディの原作をロマン・ポランスキー監督が映画化した文芸作品『テス』(79)などに主演。先に記した通り日本でも人気が出て、「ナタキン」などという略称で呼ばれた。 彼女とスタントンでは、随分と歳が離れた夫婦という印象になる。スタントンは1926年生まれ。ナタキンは61年生まれで、歳の差は実に35。まさに「親子ほど歳が離れた」2人だが、その歳の差が、結果的には本作の展開には効果的であった…。 ジェーンの父親が夫婦間の最大の障害になるというシナリオには、ヴェンダースは納得がいかず、後半部が未完のまま、本作は83年9月29日に、クランクイン。現場にはシェパードが居着きの予定だったため、ほぼ物語の進行通りに順撮りで撮影を進めながら、未完の部分を考えていこうというプランだった。 ところがフランスやドイツなど、主にヨーロッパから製作費を得た本作は、急激なドル高の影響などを受け、何度か撮影の中断を余儀なくされる。そのためシェパードが、時間切れ。彼は出演作の撮影に参加するため、本作の現場から去らねばならなくなった。 それ以降のヴェンダースは、脚本家のL・M・キット・カーソンと作業を進めることになる。カーソンは、トラヴィス夫妻の息子を演じた子役のハンター・カーソンの、実際の父親であった。そして2人で、次のようなクライマックスへと、辿り着く。 ヒューストンでジェーンを見つけたトラヴィスが、その後を追うと、彼女がのぞき部屋で働いていることがわかる。客はマジックミラー越しに彼女の姿が見えるが、彼女の方からは客が見えない。電話越しに問いかける客に、彼女が応えるというシステムだ。 客になりすましたトラヴィスは、ジェーンに相対して会話することになる。その中でトラヴィスは、自らの気持ちにも対峙し、やがて思いの丈を語ることになる。そしてジェーンも、客が失踪した自分の夫だと、気付く…。 カーソンと共に思い付いたこの展開を、ヴェンダースがシェパードに送った。すると、「ようやく、ぼくたちが延々と語り合ったことがやっと見つかったね」と、シェパードは言い、そのシーンのためのセリフを書いて、電話で伝えてきたという。 こうして本作は完成へと向かい、「カンヌ」での最高賞をはじめ、世界的に高く評価されることになる。トラヴィスの失踪の原因が明らかになり、夫婦の、そして家族のこれからが提示される、覗き部屋でのくだりは、特に高く評価されていたと思う。 ここでいきなり話を戻すが、新宿で本作を観た際に、私がピンと来なかったのも、このくだりに集約されている。これからご覧の方のために詳細は省くが、まだお互いに愛があるのを確認したのに、なぜトラヴィスは去らねばならないのか?よくわからなかったのだ。 撮影現場でも、私と同じような感情を抱いた者が居たという。主演のハリー・ディーン・スタントンだ。彼は、~せっかくジェーンとハンターという家族と再会できたのにまたひとりで去ってゆくなんて嫌だ~と本気で怒ったのだという まあスタントンの場合は、トラヴィスになり切ったが故の反発であろう。二十歳そこそこの未熟な鑑賞者であった私と一緒のわけは、もちろんないのだが。 そんな私でも、初鑑賞から36年近く経って本作を見返すと、今ならわかる気がする。「こんなに想っているのに」「こんなに愛しているのに」という気持ちが高ぶり過ぎると、自分も相手も深く傷つけることになる。トラヴィスは、年が離れた美しいジェーンを愛しすぎて、失踪せざるを得なくなった。そして残されたジェーンは、我が子を手放す他はなかった。 覗き部屋で何人もの男に応じてきたジェーンは、トラヴィスに言う。「どの男の声も…あなただった」 トラヴィスは、わかった。まだジェーンのことを愛している。それも狂おしいほどに。だから一緒に居るわけには、いかないのだ。 サム・シェパードは本作の結末に関して、次のように語っている。 「私なりに言うなら、すでに壊れたものをくっつけなおしただけでは不十分だということですね。本当に壊れたものは彼自身のなかにある。それを満たすためには、壊れたものの正体を見るためには、彼は自分ひとりで見つめるべきなのです。彼は母親と子供を一緒にした。今度は彼自身も一緒にできるように旅立つのです」 最後にもう一つ。今回再見して、私の記憶が改竄されていたことに気が付いた。 ラストでトラヴィスが、ジェーンとハンターを再会させるのは砂漠で、それを見届けたトラヴィスは再び、荒野に去っていくのだと思い込んでいた。観ていただければわかる通り、そんなシーンはない。 因みに作者たちの構想の中のひとつとしては、ラストでトラヴィスとハンターの父子が、一家の愛の原点とも言うべきに向かって、砂漠に消えていくといったアイディアもあったという…。■ 『パリ、テキサス』© 1984 REVERSE ANGLE LIBRARY GMBH ARGOS FILMS S.A. and CHRIS SIEVERNICH PRO-JECT FILMPRODUKTION IM FILMVERLAG DER AUTOREN GMBH & CO. KG LOGO REVERSE ANGLE
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COLUMN/コラム2021.04.30
世界のクロサワ作品が大いなる“西部劇”にアレンジされるまで。『荒野の七人』
村民たちが農作業で細々と生計を立てている、メキシコの寒村。ところが収穫期になると、山賊の頭目カルヴェラが、35人もの手下を引き連れて襲来し、農民たちの汗と涙の結晶を、「殺さぬ程度に」残して、奪っていってしまう。 毎年繰り返される傍若無人な振舞いに耐えかねて、反抗を企てる村民もいた。しかしそうした者を、カルヴェラは容赦なく、撃ち殺すのだった…。 困り果てた村民たちは、長老に相談する。そして、「銃を買って、戦うべし」との声に従い、ミゲルら3人は、村民たちから集めた金を持って、国境の街へと出掛けた。 そこで彼らは、目にした。先住民の埋葬を巡って起こった騒動を、度胸とガンさばきで見事に収めた、2人の拳銃使い、クリスとヴィンの姿を。 クリスを頼れる人物と見込んだミゲルたちは、「銃の買い方と撃ち方を教えてくれ」と、彼に懇願。それに対しクリスは、「銃を買うよりは、ガンマンを雇った方が良い」と教え、結果的に自ら助っ人となった。 そんなクリスに、ヴィンも合流。しかし40名近くの盗賊に対抗するには、2人では到底足りない。 1人僅か20㌦の報酬にも拘わらず、クリスの昔馴染みやお尋ね者など、腕利きのガンマンたちが、集まった。そして最後に、先住民の埋葬騒ぎに居合わせ、クリスとヴィンに憧れを抱いた青二才の若者チコが、仲間に加わる。これで助っ人は、“7人”となった。 ミゲルたちの寒村まで案内された“7人”と、カルヴェラ率いる山賊団の、命懸けの戦いが始まる…。 *** 本作『荒野の七人』(1960)は、多くの方がご存知の通り、本邦が誇る「世界のクロサワ」こと、黒澤明監督の不朽の名作『七人の侍』(54)の、“西部劇”版リメイクである。そしてここから、スティーヴ・マックィーンやチャールズ・ブロンソン、ジェームズ・コバーン、ロバート・ヴォーンなど、次々とスターが育ったことでも、広く知られる作品である。 オリジナルの『七人の侍』が、アメリカで公開されたのは、1956年の7月。「これは西部劇の傑作になる!」と最初に目を付け、僅か250㌦で、東宝からリメイク権を買ったのは、プロデューサーのルー・モーハイムだった。 その後本作に関わる多くの人物が、モーハイムと同じような思いを抱いたが、それは至極当然のこと。黒澤が最も尊敬し、その後を追ったのは、「西部劇の神様」ジョン・フォードだったからだ。 因みに東宝はリメイク権を売るに当たって、『七人の侍』の脚本を執筆した原作者たち=黒澤、橋本忍、小国英雄の3人には、何の断りもなかったという…。 リメイクが動き始めた当初の構想では、やはり『七人の侍』を観て大いに気に入った、オスカー俳優のアンソニー・クインが主演。そしてクインに薦められて『七人の侍』を鑑賞後、夢中になって、モーハイムからリメイク権を買い取るに至ったユル・ブリンナーが、監督を務める筈だった。 当時のブリンナーは、『王様と私』(56)でアカデミー賞主演男優賞を獲得した、スター俳優。その初めての監督作になるかも知れなかった本作だが、結局彼は監督デビューを断念する。そして、後に『ハッド』(63)や『ノーマ・レイ』(79)などの社会派作品を手掛けることになる、マーティン・リットに監督を依頼した。 リットは脚本に、ウォルター・バーンスタインを起用。実は『荒野の七人』の原型は、この時にバーンスタインが書いたものと言われる。彼の名は諸事情があって、作品にクレジットされてはいないのだが。 その後リットは、このプロジェクトから去る。余談ではあるが、彼と黒澤作品の縁はこの後も続き、『羅生門』(50)をポール・ニューマン主演で、やはり“西部劇”にリメイクした、『暴行』(64)の監督を務めている。 リットと入れ替わるように、独立系のプロデューサーである、ウォルター・ミリッシュが、本作に参画。そして彼が白羽の矢を立てたのが、『OK牧場の決斗』(57)などで、“西部劇”をはじめとする“男性アクション”の担い手として評価が高かった、ジョン・スタージェスだった。 スタージェスが監督に本決まりとなり、更には製作者としてもクレジットされることとなった。そんなプロセスの中で、キャスティング作業も本格化していく。 オリジナルの『七人の侍』で志村喬が演じた、リーダーの勘兵衛に当たるクリス役には、ユル・ブリンナー。そしてスタージェスの前作『戦雲』(59)の出演者から、スティーヴ・マックィーン、チャールズ・ブロンソンが抜擢された。 マックィーンの役名は、ヴィン。オリジナルでは、加東大介が演じた勘兵衛の腹心の部下・七郎次と、稲葉義男が演じた参謀的存在の五郎兵衛をミックスした存在である。ブロンソンのオライリーは、千秋実がやった平八に当たるが、オリジナル版のムードメーカー的な存在と違って、腕が立つキャラクターとなっている。 三船敏郎の菊千代と、木村功の勝四郎を合わせた若造キャラのチコ役には、1950年代に「ドイツのジェームス・ディーン」と呼ばれて人気を博した後、ハリウッドへと進出した、ホルスト・ブッフホルツが決まる。 カウントしてもらえばわかるが、ここまでの4人で、『七人の侍』の内の6人分のキャラが、消化されてしまっている。即ち、ブラッド・デクスターが演じたハリーと、ロバート・ヴォーンが演じたリーの2人は、オリジナルの『七人の侍』には存在しない。本作『荒野の七人』のために創造された、キャラクターなのである。 七面倒な書き方になってしまったが、これはオリジナル版とそのリメイク版である本作の違いを示す上で、避けて通ることができない部分である。 因みにデクスターは、スタージェスの『ガンヒルの決斗』(59)に出演していた縁からの出演。ヴォーンは、『都会のジャングル』(59)でアカデミー賞助演男優賞候補となったことが注目されての、起用だったと言われる。 ここでヴォーンの出演を決めたことが、ジェームズ・コバーンの起用にも繋がる。ヴォーンとコバーンは、大学時代からの友人同士。コバーンは『七人の侍』のリメイク企画が進められていることを、ヴォーンから聞いて、スタージェスに連絡を取ったのである。 実は本作の製作された1960年のハリウッドは、俳優たちのストライキが予定されていた。無事にクランクインするためには、スト突入の前に、主要キャストの契約を済ませねばならない。 そのため急ピッチでキャスティングを進めている最中に、コバーンがやって来た。彼に当てられたのは、宮口精二が演じた、『七人の侍』の中で最も腕利きの、剣の達人久蔵に相当するブリット役。オリジナル版のアメリカ公開時、連日劇場に足を運ぶほどの熱烈なファンだったというコバーンは、配役を聞いて、小躍りしたという。 こうして“7人”が、遂に決まった。本作が『七人の侍』の忠実なリメイクと言われることが多い割りには、“西部劇”に翻案するに当たっては、登場するキャラクターから、様々な点で知恵を巡らしてアレンジしたのである。 そもそも最初の脚本では“7人”は、南北戦争の敗残兵という設定。オリジナル版での、戦国時代の戦乱の中で主家を失った侍=浪人者に準拠していた。リーダーも老成した勘兵衛により近いキャラで、スペンサー・トレイシーが演じるイメージだったという。 黒澤は後に、南北戦争の敗残兵の方が良かったと語っている。しかしこれは、オリジナルに忠実であって欲しいという、原作者の欲目であろう。 結果的に『荒野の七人』は、南北戦争の敗残兵ではなく、“ならず者”のガンマンの集まりとなった。各々のガンマンは、これまで少なからぬ悪行を行ってきたことを窺わせる。それがきっかけを得て、弱者である農民たちの味方となる。 これはハリウッド製西部劇の伝統とも言える、“グッド・バッド・マン”のパターンに則っている。悪い奴ではあっても、心の底に人間味を持っており、最終的には善行を施すというわけだ。 因みに『荒野の七人』が、オリジナル版から離れた原因のひとつには、メキシコロケもあった。本作に先立ってメキシコで撮影された、ロバート・アルドリッチ監督、ゲイリー・クーパー×バート・ランカスターの2大スター共演作『ベラクルス』(54)に於ける、メキシコ人の描き方に問題があったため、「アメリカ映画は来るな!」という声が高まっていた中での、ロケだったのである。 撮影現場には、メキシコ政府から派遣された検閲官が同席。脚本がチェックされ、何度も手直しせざるを得なかった。 オリジナル版で農民たちは、野武士の襲来を撃退するのに、端から浪人者を用心棒として雇うことを目的に、町へと出る。しかし、先に記した通り本作では、「銃を買って、戦う」ために、農民は街に出る。クリスのアドバイスを受けて初めて、ガンマンたちを雇うことを決心するのである。 こうした回りくどい展開になったのは、正にメキシコ政府の横槍に応じた結果である。付け加えれば、農作業に勤しむ村民たちが、その割りには、汚れひとつないような真っ白なシャツを着ているのも、検閲官の指示によるものだったという。 随所に施した“西部劇”仕様に加えて、本作はこのような、当初は想定しなかった改変も加えられている。そして上映時間は、オリジナル版の207分という長尺に対して、その6割ほどの128分。 “7人”と野武士の対決に於いて、オリジナル版では、緻密な作戦計画が段階的に実行されていく。それに対して本作は、山賊との対決が、かなりシンプル且つ直線的に描かれる。 あまりに機能的に事を運び過ぎるため、ちょっと納得し難い展開もある。優勢に立ったカルヴェラが、“7人”の命を奪わずに、わざわざ逃がす際に、銃器まで返す。これは、ご愛嬌で済ますべきなのか? 今どきの言い方では、あからさまな「死亡フラグ」である。 戦いの顛末として、“7人”の内4人までが斃れるのは、オリジナル版と同じ。だが長丁場となった対決の中で、1人また1人と命を落としていくオリジナル版に対し、本作では最終決戦で、4人の命が一気に奪われる。とにかく、簡潔且つスピーディなのだ。 ここで、敢えて言いたい! だからこそ本作は、ワールドワイドに大衆的な人気を得たのではないだろうか? 私が本作を初めて観たのは、今から40年以上前の十代前半=中坊の頃。池袋文芸坐で、本作後にスタージェスが、マックィーン、ブロンソン、コバーンを再度起用した、『大脱走』(63)との2本立てだった。 そして『七人の侍』の何度目かのリバイバル上映を観たのは、それよりも後。正直に言えばその時は、オリジナル版の重さや暗さ、そして長さにノレず、「『荒野の七人』の方が面白い」と思ったのである。 その後何度も鑑賞を繰り返す内に、社会的なテーマや哲学的な深みまで持った『七人の侍』の素晴らしさを、「格別のもの」と感じるようになっていく。しかしながら両作初見の際に、当時の映画少年として感じたことは、必ずしも間違ってはいまい。 何はともあれ、『七人の侍』から本作『荒野の七人』が受け継いだ、野盗の略奪に苦しむ農民を救うために、プロフェッショナルが集結して力を尽くすというプロットは、ハリウッドの黄金期を支えたジャンルのひとつ“西部劇”に、新風を巻き起こすこととなる。 ガンマンに、「家族も、子どもも、帰る家もない」などと嘆かせ、そのキャラに陰影を持たせる。これもまた、それまでの“西部劇”とは一味違った、極めて斬新なアプローチだったと言われる。 そして本作は、ジョン・フォードらが作った、大いなる“西部劇”の時代の終末期の作品となった。4年後には、セルジオ・レオーネ監督による、イタリア製西部劇=マカロニ・ウエスタンの『荒野の用心棒』(64)が登場。“西部劇”の歴史は塗り替えられる。 『荒野の用心棒』は、やはり黒澤明監督の『用心棒』(61)のリメイク。…と言っても、無断でパクった作品であり、後に裁判を経て、公式なリメイクとなったのであるが。『荒野の用心棒』の主演は、クリント・イーストウッドに決まる前、有力候補だったのが、チャールズ・ブロンソン。レオーネが、本作のオライリー役を見ての、オファーだった。 そんなこんなも含めて、『荒野の用心棒』が本作の影響下にあったのは、多くが指摘するところである。付記すればレオーネは、『続・夕陽のガンマン/地獄の決斗』(66)に、本作でカルヴェラを演じたイーライ・ウォラックを起用。これもウォラックが、オリジナル版の野武士の頭目にはなかったユーモアや愛嬌を、カルヴェラ役に加えたのを、買ってのことだったと思われる。 『荒野の七人』は、ハリウッド製の大いなる“西部劇”と“マカロニ・ウエスタン”の、ミッシングリンク的な位置にある作品と言える。そして後々まで、多くのファンに愛され続ける作品となった。 続編が3本製作され、1990年代末にはTVシリーズ化。更にアントワン・フークア監督、デンゼル・ワシントン主演で、リメイク版『マグニフィセント・セブン』(2016)が製作されている。 それは偉大なる『七人の侍』に、“西部劇”としての創意工夫を加えて見事にアレンジした、本作『荒野の七人』の素晴らしさの証左と言えよう。■ 『荒野の七人』© 1960 METRO-GOLDWYN-MAYER STUDIOS INC.. 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