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COLUMN/コラム2021.11.10
“ロマコメ女王”2人を生んだ、未だ色褪せないおとなの恋愛映画『恋人たちの予感』
恋愛をテーマにしたコメディ映画“ロマンティック・コメディ”、略して“ロマコメ”。『或る夜の出来事』(1934)『ローマの休日』(53)『アパートの鍵貸します』(60)等々、ハリウッドでは古より、このジャンルから数多くの名作が生み出されている。 1989年に製作された本作『恋人たちの予感』も、そんな系譜に連なる、“ロマコメ”マスターピースの1本。この後90年代を席捲する、2人の“ロマコメ女王”を生み出したという意味でも、記念すべき作品である。 2人の“ロマコメ女王”の1人目は、もちろんメグ・ライアン(1961~ )。『トップガン』(86)『インナースペース』(87)などで若手女優として売り出し中だった折りに、本作の主演で、その人気が決定的なものとなった。 以降、『キスへのプレリュード』(92)『めぐり逢えたら』(93)『フレンチ・キス』(95)『恋におぼれて』(97)『ユー・ガット・メール』(98)『ニューヨークの恋人』(2001)といった、同ジャンルの作品に次々と主演。齢四十に至る頃まで10年強に渡って、キュートな魅力を全開に、“ロマコメの女王”の名を恣にした。 “ロマコメ女王”のもう一人は、本作の脚本を担当したノーラ・エフロン(1941~2012)である。脚本家になる前には、ホワイトハウスのインターン、「ニューヨーク・ポスト」紙の記者、コラムニストなどの多彩な職歴がある彼女だが、実は両親のヘンリー&フィービー・エフロンが、名作『ショウほどすてきな商売はない』(54)などのシナリオをコンビで書いた、有名脚本家夫婦。蛙の子は蛙と言うべきか、転身後には、アリス・アーレンと共同で脚本を書いた社会派の秀作『シルクウッド』(83)が、アカデミー賞の候補になるなど、気鋭の脚本家として注目の存在となった。 本作以降、90年代は監督としても活躍。特にメグ・ライアン主演で、エフロンが脚本・監督を担当した『めぐり逢えたら』『ユー・ガット・メール』は、本作と合わせて、エフロン&メグの“ロマコメ3部作”などと謳われる。 この2人の“女王”の誕生のきっかけを作ったのは、本作のプロデューサーであり、監督のロブ・ライナー(1945~ )。『スタンド・バイ・ミー』(86)『ミザリー』(90)といった、スティーヴン・キング原作の映画化作品などで知られるライナーのフィルモグラフィーを覗くと、本作のような“ロマコメ”の監督の印象は、ほとんどない。 ではなぜ、『恋人たちの予感』を手掛けるに至ったのか?実は本作は、彼の実体験をベースにして作られたものなのである。 ***** 1977年、シカゴ大学を卒業したサリー(演:メグ・ライアン)は、同じく卒業したてで、親友の彼氏であるハリー(演:ビリー・クリスタル)を車に同乗させて、ニューヨークへと移る旅に出る。2人の初対面は、ほぼ「最悪の部類」。18時間もの道中で会話を交わすも、何かにつけて意見が合わない。 しかしその時にハリーがサリーに言った、「男と女はセックスが邪魔をして、友達になれない」という言葉が、その後の人生に大きな影響をもたらすとは、2人とも思ってもみなかった。 5年後ニューヨークの空港で、サリーは付き合い始めたばかりの恋人の男性に見送られて出張先に向かおうとしている時に、偶然ハリーと再会。搭乗する飛行機まで同じだった2人は、5年前と同じように、機内で口論になってしまう。ハリーから近々結婚するという話を聞きながら、サリーはまたも彼と、喧嘩別れのような形となる。 更に5年後。ハリーは妻に浮気されて、やむなく離婚し、サリーも5年前から付き合っていた彼氏と、破局に至った。お互いにそんな傷心の状態にあるタイミングで、3度目の出会いが訪れた。 ようやく友達同士になれて、頻繁にデートするようになる2人だったが、話題になるのは、お互いの恋愛の悩みばかり。時にはロマンティックなムードになりかかることもあったが、“友情”を守るのが第一と、その度にお互いのそうした気持ちは振り払っていた。 そんな付き合いをずっと続けていこうと、ハリーはジェス(演:ブルーノ・カービィ)、サリーはマリー(演:キャリー・フィッシャー)という、お互いの同性の親友を紹介し合って、交際させようとする。しかし目論見は見事に外れて、ジェスとマリーが意気投合。ハリーとサリーは、お互いの親友同士が結婚することになってしまう。 そんな予想外の出来事もありながら、「セックスはしない」ことで、あくまでもお互いの友人関係を守り続けていこうとする2人。しかし遂に、一線を越えてしまう局面が訪れて…。 ***** 監督のロブ・ライナーは、自分のことを“ピーターパン・シンドローム”であると自己分析していた。即ち、彼の心の中にはいつまでも子どもでいたいという気持ちが潜んでいて、己が年をとったことをなかなか受け入れられない…。 12歳の少年が姿かたちだけ大人になってしまう、『ビッグ』(88)という作品がある。当時30代だったトム・ハンクスが演じたこの主人公のモデルとなったのが、実はライナー。そしてこの作品を作ったのは、ライナーの元妻である、女性監督のペニー・マーシャルだった。 ライナーとマーシャルの10年続いた結婚生活は、81年に終わりを告げる。“ピーターパン”である彼にとって、自分の結婚がうまくいかなかったという現実を受け入れるのは、非常に困難なことであった。 そしてそんなタイミングで、本作『恋人たちの予感』の構想が浮かび上がる。「男女の友情は成立するのか?」「そのときセックスはどうなるのか?」といったモチーフが、ライナーの中に湧き出てきたのである。 そうしたアイディアが、具体的に動き出すのは、84年。ノーラ・エフロンがライナーのチームに呼び出され、新しい映画のプロジェクトについて話し合いを持つようになってから。 幾つかの企画が挙がったが、決め手に欠けた。そんな中で、ライナーたち男性陣とエフロンの雑談中に、盛り上がった話題があった。 ライナーたちは、「女性とは絶対に友人関係になれない」と主張。その理由は、「セックスの問題が必ず入り込んで、友情関係の邪魔をする」というものだった。それに対してエフロンは、そんなはずはないと反論。両者の間で応酬が繰り広げられた。 ライナーはこの雑談の内容を受けて、「友情を育む男女の物語」を映画化しようと提案。物語を具体的に編む上で、主人公たちは親友であり続けるために、「決してセックスをしない」のを決め事にした。 その提案にエフロンが乗って、脚本作りがスタート。主人公の男の方に関しては、エフロンはライナーのキャラクターをベースにした。こうして、ひょうきんな半面、陰気で内省的な部分の持ち主でもある“ハリー”が生まれた。 一方で女性の方の“サリー”には、エフロン自身が投影されているところが多い。ライナーによればエフロンは、陽気で楽観的で、ある種の完璧主義者だった。サリーがレストランで、パンやベーコンの焼き方やマヨネーズの添え方などについて細々と注文を付けるのは、完全にエフロン本人の流儀であることを、彼女自身が認めている。 さてこのようにしてシナリオが出来上がり、キャスティングの段階になって、ライナーは必然的に、自分の身近な人間から俳優を選ぶこととなった。彼にとって、自身がモデルとなったハリー役のビリー・クリスタル(1948~ )は、長年の親友。ハリーとサリーが、それぞれのベッドから電話して慰め合うシーンがあるが、あれはライナーとクリスタルが、お互いの離婚後にやっていたことそのままだという。 ハリーの同性の親友ジェスを演じたブルーノ・カービィ(1949~2006)も、そうだ。彼はライナーが離婚で打ちのめされている時に、ジェスがハリーにしたように、優しく接してくれた人物だった。 一方でメグ・ライアンに関しては、それまでにライナーの過去作のオーディションを受けていたことが、きっかけになった。ライナーが“サリー”役に彼女はどうかと思い付き、先に決まっていたクリスタルに会わせたところ、2人の雰囲気がぴったりだったので、ヒロインに決めたという。 サリーの同性の親友マリー役に、キャリー・フィッシャー(1956~2016)を決めたのも、ライナー。こうして主要なキャスティングが、固まった。 因みに映画の冒頭から何組も出てくるのが、長年連れ添った老夫婦のインタビュー。リアルな装いなので、この部分はドキュメンタリーかと思うが、実は違う。エピソードだけを集めて、俳優たちをキャスティングして撮影した。その方が、実話の面白さをより伝えられるという判断だった。 余談はさて置き、このようにして決まった俳優陣、特にハリーとサリー役の2人が、いかに奇跡のような組み合わせであったか! エフロンの脚本、ライナーの演出を大きく広げる役割を果たした。 例えばメグ・ライアンが演じるに当たっての解釈は、「ハリーもサリーも、初めて会った瞬間からお互いに激しい恋心を抱いていたと思う。ただそのことに気づくまで11年もかかってしまっている」というもの。この考えをベースにした役作りが、長年に渡る2人の関係性の変化を描く上で、見事に機能している。 本作で最も有名だと言っても良いのが、ニューヨークのマンハッタンにあるカッツ・デリカテッセンで繰り広げられる「フェイクオーガズム」のシーンである。これは元々、脚本の打合せの際に、「女性の多くは(セックスの際に)オーガズムの“フリ”をした経験があるはず」と、エフロンが語ったことに衝撃を受けたライナーたちが、是非脚本に盛り込んでくれとオーダーしたことから生まれたもの。 しかしエフロンの脚本だと、自分とセックスした女性はすべてオーガズムに達していると自信満々に語るハリーと、それを否定するサリーという、食事中の会話止まりだった。ところが実際に撮影されたのは、店内が満席なのにも拘わらず、堂々とオーガズムでイッテるふりを演じて見せ、女性がセックス中に演技していても、男性には見分けがつかないことを、サリーがハリーに見せつけるというシーンだった。 これはメグ・ライアンが脚本を読んで、サリーが会話の最後に、その“フリ”を実演するようにしたいと提案したのを受けて、アレンジしたものだった。更にはこのシーンのオチとして、隣席の女性が「あの女性と同じものを」と注文する絶妙なギャグが入るが、これはコメディアンであるビリー・クリスタルのアイディア。因みにその女性を演じているのは、ロブ・ライナーの実の母親である。 こんなエピソードからも本作では、脚本の作成段階から撮影現場まで、今で言うジェンダー間のギャップを乗り越えようとする努力が行われていた様が窺える。80年代末という時代を考えれば、かなり先進的な試みだったと言える。そしてそれ故に本作は、「男女が出会って喧嘩して、しかし時の経過と共に離れられない間柄になっていく」という、“ロマコメ”の王道のような、ある意味古くさい構成でありながら、製作から32年経った今でも、色褪せない作品になったのである。 さて先に記した通り、ライナーの実体験を基にスタートした本作。ラストに訪れるハリーとサリーの“結末”も、撮影中にライナーの身に訪れた僥倖によって決まった。 当初ライナーは、離婚によって深く傷ついたハリーが、もう一度結婚してみようという気になるのには、あれだけの時間では無理なのではないかと考えていた。ところがライナー本人が、本作の撮影中に知り合った女性と、再婚することになったのだ。 そこで彼は、自分に出来ることならば、ハリーにも出来ないわけはないという気持ちになった。そして“ラスト”が、今の形に決まったのだという。 エフロンが書いた脚本には、こうした奇跡のような出来事を呼び起こす、魔法のような力があったのかも知れない。■ 『恋人たちの予感』© 1989 CASTLE ROCK ENTERTAINMENT. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2021.11.04
『最後の戦い』に視認されるフランス・コミックの幻像
◆バンド・デシネ作家の意匠を実写で再現 ハリウッドスタイルのアクションやハリウッドスターを自国フランスに呼び込むことで、独自の映画様式を築き上げてきた“ヨーロッパ・コープ”。リーアム・ニーソン(『96時間』シリーズ)をシニアのアクションスターとして開眼させ、あるいは『アルティメット』(04)のピエール・モレルや『トランスポーター』(02)のルイ・レテリエら、アクションセンスに長けたフランス人監督を世界に台頭させるなど、いつしかその勢いはハリウッドに「影響を与える側」へと同社を転じさせている。 そんなヨーロッパ・コープの総帥として、自国フランスはおろかアメリカ映画にも大きな影響を及ぼしてきたのがリュック・ベッソンだ。監督としても潜水に闘志を燃やす男たちの生き様を描いた『グラン・ブルー(グレート・ブルー)』(88)で、おりしの単館系作品ブームと連動するようにカルトな人気を得て、後に『ニキータ』(90)や『レオン』(94)といった哀愁のスナイパーアクション作品で、その名を大きく拡大させた。 そんなベッソンだが、キャリアの初めは一部のSFファンから熱視線が注がれており、その注目の対象となったのが、1983年に公開された長編映画デビュー作『最後の戦い』である。退廃した未来を舞台に、残された人類が資源をめぐり争う野心作だ。なにより初の劇場作品は、端的なまでに監督の趣意や志向、その後に連なるフィルモグラフィの指標を力強く示している。 『最後の戦い』が筆者の視界に入ってきたのは、SF映画専門誌「日本版スターログ」だった。同誌においてSF/ファンタジー作品を中心にしたアボリアッツ国際ファンタスティック映画祭の記事が掲載され、この映画祭で本作が審査員特別賞と批評家賞を受賞した旨がそこに記述されていた。加えて載っていたのは、主人公の男(ピエール・ジョリベ)の全身を捉えた一枚のスチール写真で、それがもたらすインパクトはあまりにも大きかった。 「こ、これはバンド・デシネだ!」 バンド・デシネとはフランス漫画の通名で、今や有数のジャンルとして日本の漫画やアメリカンコミックと並び世界の漫画ファンの支持を得ている。とりわけ『最後の戦い』のそれはバンド・デシネの巨匠メビウスことジャン・ジローの諸作を彷彿とさせるもので、氏の独特な描画タッチを実写に置換したかのような外観を、この作品は持っていたのだ。 さらに本編に触れてみると、その影響は一枚のスチールだけにとどまるものではなかった。特徴的な装飾感覚とレリーフ描写、モノクロによって強調された陰影のコントラストは、まさに「劇場でバンド・デシネを観る」というべき感覚をもたらした。セリフを必要としない設定や展開も、視覚を主体とする自信をおのずと主張し、またポスト黙示録ともいえる設定とストーリーは、メビウスが創刊に尽力したSFコミック誌「メタル・ユルラン」に掲載されてもおかしくないファンタジー性の強さを放っていた。近年『ヘルボーイ』(04)『パシフィック・リム』(13)で知られるギレルモ・デル・トロ監督も、 「『最後の戦い』は生の「メタル・ユルラン」映画だ」 と、ベッソンのデビュー作を正鵠を射た形でツイートしている。 LE DERNIER COMBAT by Luc Besson. Living Metal Hurlant film w a great, young Jean Reno. No dialogue, all visuals, action & character. Fab.— Guillermo del Toro (@RealGDT) November 19, 2015 しかし『最後の戦い』が発表された80年代初めの日本では、バンド・デシネという呼称も今のように周知されたものではなく、メビウスも『エイリアン』(79)や『トロン』(82)といったアメリカ映画の美術デザインなどで活躍の範囲を広げていたものの、かろうじて映画ファンの間で知られる存在だった。ゆえに『最後の戦い』の先述した印象を共有してもらうことが難しく、また同作とバンド・デシネとの関連に触れた文献が当時から見当たらず、プレス資料や92年リバイバル公開時の厚いパンフレット、そして後年に出版された『最後の戦い』を知るうえで良著ともいえるメイキング書『最後の戦い―リュック・ベッソンの世界』(ソニーマガジンズ)においてさえ一点の言及もなかったため、自分の見立てが間違っているのではと疑心暗鬼になった。 ただベッソンが『最後の戦い』の後に手がけたSFアクション大作『フィフス・エレメント』(97)において、メビウスがコンセプトデザインを担当。これこそがおそらく自分の見立てを立証する根拠だと信じ、機会あれば監督本人に確認してみたいと思い続けていたのだ。 ◆べッソン自身に問うたバンド・デシネへの熱情 そんな『最後の戦い』への膠着した思いが、ついに報われる機会が訪れた。2006年、リュック・ベッソンが手がけた初の3DCG長編アニメーション『アーサーとミニモイの不思議な国』(以下:『アーサー』)の公開にあたり、彼がプロモーション来日を果たし、個別インタビューをすることになったのだ(*1)。奇しくも同作はベッソンが以前より宣言していた「監督作を10本撮ったら引退」の10本目にあたり、なんとか間に合ったという安堵もそこには強くあった。 なので初めての邂逅に緊張と興奮を覚えつつ、『最後の戦い』について制限時間内に言及することができるかどうか気を揉んだものの、そのチャンスは早々に訪れた。まず初問として「引退を撤回する気はないのか?」と訊くと、ベッソンは筆者の言葉を否定することなく、さまざまな媒体から寄せられたであろう疑問に対して食傷気味に「その話は本当だ。なんせ30年も監督をやらせてもらったんだから、そろそろいいんじゃないかと思ってね」と愛想なく答えた。ところが『アーサー』でアニメに初めて着手した動機を問い「昔からバンド・デシネやアニメが好きだったから」という回答に弾みを得た自分は、 「あなたの長編デビュー作である『最後の戦い』は、バンド・デシネの巨匠メビウスにインスパイアされたものなんですか? と言うや、ベッソンは晴れたような笑顔を見せて、以下の返答をくれたのである。 「もちろんメビウスだ。彼は僕のアイディアの源泉で、『最後の戦い』は彼の描く世界を実写で置換した実験作といってもいい。名誉なことにメビウスも『最後の戦い』を観てくれていて(*2)、僕の存在を気にかけてくれてたんだ。だから『フィフス・エレメント』で彼をデザイナーに起用できたんだよ」 もはや『アーサー』の取材を副次的なものだと思うくらい『最後の戦い』とメビウスの存在が確信をもってリンクづけられ、嬉しさのあまり涙腺が決壊しそうになった。しかし、そこは仕事としてグッとこらえ、インタビュー記事の掲載が少年マンガ誌(「週刊少年チャンピオン」)であることを告げ、読者向けにベッソンが勧めるバンド・デシネを訊いてみることにした。すると、 「『フィフス・エレメント』でメビウスと一緒にデザインをお願いしたジャン=クロード・メジエールというアーティストがいるんだけど、彼の連作『ヴァレリアン』シリーズを勧めたいね。日本のコミック読者はレベルが高いから、きっと満足してもらえると思うよ」 このインタビューから現在までに17年が経過したが、その間にリュック・ベッソンは監督宣言を撤回。2021年の時点で10本の倍に迫ろうかという18本もの長編作品を手がけ、自分の質問を快く裏切った。しかも彼がメビウスと共に勧めてくれたメジエールのバンド・デシネを、自身が映画化(『ヴァレリアン 千の惑星の救世主』(17)するという尾ひれまで華麗にたなびかせて。 しかし引退が反古となったことで、彼のフィルモグラフィをつらぬくバンド・デシネの軸芯を感じることができた。そして前述したように『最後の戦い』が、監督の志向や、その後に連なるフィルモグラフィの指標となったことを、改めて力強く示してくれたのだ。■ 『最後の戦い』© 1983 Gaumont
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COLUMN/コラム2021.11.01
新生『ハロウィン』はシリーズ過去作へのオマージュも満載!
※注意:以下の作品解説コラムにはネタバレが含まれます。本編鑑賞後にお読みください。 ホラー映画の金字塔『ハロウィン』とは? 1978年のハロウィン・シーズン、一本のB級ホラー映画がアメリカで劇場公開された。アメリカのどこにでもある田舎町で、精神病院から脱走した殺人鬼マイケル・マイヤーズがティーンエージャーたちを次々と惨殺していく。そう、ジョン・カーペンター監督によるホラー映画の金字塔『ハロウィン』である。低予算のインディーズ映画に過ぎなかったこの作品は、予算30万ドルに対して世界興収7000万ドルという驚異的な大ヒットを記録。その後の『13日の金曜日』(’80)を筆頭とする’80年代スラッシャー映画ブームの先駆けとなったばかりか、リメイク版を含めて現時点までに通算12本が製作されるほどのロングラン・シリーズとなっている。 そもそもの始まりは1963年のハロウィン。イリノイ州の田舎町ハドンフィールドに住む6歳の少年マイケル・マイヤーズは、両親の留守中に高校生の姉ジュディスを包丁で殺害し、精神病院送りとなってしまう。時は移って1978年のハロウィン当日。スミスズ・グローヴ療養所に幽閉されていたマイケルが脱走。生まれ故郷のハドンフィールドへ向かった彼は、金物店でハロウィンマスクとロープとナイフを盗み、平凡な女子高生ローリー・ストロード(ジェイミー・リー・カーティス)をつけ回す。マイケルの主治医ルーミス(ドナルド・プレザンス)は地元のブラケット保安官(チャールズ・サイファーズ)に警戒を訴えるも、その間にブラケット保安官の娘アンを含む高校生男女3人がマイケルに殺され、幼い子供トミー・ドイル(ブライアン・アンドリュース)とリンジー・ウォレス(カイル・リチャーズ)の子守をしていたローリーも命を狙われるものの、間一髪のところで駆け付けたルーミス医師に救われる。だが、博士の銃弾を受けてバルコニーから転落したはずのマイケルは、跡形もなく忽然と姿を消してしまう。 以上が記念すべき元祖『ハロウィン』のあらましである。余計な説明を極力省いたシンプルなストーリーは、それゆえ本能のままに殺戮を繰り返していくマイケルの、まるで得体の知れない超自然的な怪物性を際立たせて秀逸。無感情にして無言で何を考えているか分からず、人並外れた怪力を持つ不死身の殺人マシン。『スタートレック』のカーク船長のお面を改造したという、どこか哀しげで不気味な白いマスクがまたインパクト強烈だ。このマイケル・マイヤーズという唯一無二のキャラクターこそ、『ハロウィン』が関係者の誰も予想しなかった大ヒットを記録し、長きに渡って愛されることとなった最大の理由であろう。もちろん、当時まだ無名の新人だったジェイミー・リー・カーティスのスター性、ジョン・カーペンター監督自身による不気味な音楽スコアの魅力も外せない。 そして、それから40年後、再びハドンフィールドへ舞い戻ったマイケルとローリーの宿命的な戦いを描いた作品が、リメイク版2本を挟んで16年ぶりにジェイミー・リー・カーティスがシリーズ復活した新生『ハロウィン』(’18)。ただしこれ、実は1作目の直接的な続編として作られており、2作目以降のストーリーはなかったことになっている。なので、ホラー映画ファンには常識である「マイケルとローリーは実の兄妹」という設定もなし。長年に渡って『ハロウィン』シリーズに親しんできたマニアほど戸惑うだろうし、同時に新鮮味も感じられることだろう。そこで、まずは本題に入る前に過去シリーズの変遷(リメイク版シリーズは除く)を駆け足で振り返ってみたい。 シリーズの変遷をたどる 第2弾『ブギーマン』(’81)物語は前作の続き。惨劇を生き延びたものの大怪我を負ったローリー(ジェイミー・リー・カーティス)は、ハドンフィールド総合病院に担ぎ込まれるものの、後をつけてきたマイケルによって再び殺戮が繰り返される。ローリーがマイケルの実の妹であることが初めて明かされるのは本作。ルーミス医師(ドナルド・プレザンス)の元部下である看護婦マリオン(前作にも同役で出演したナンシー・スティーブンス)が発見した機密ファイルによって、1963年の事件当時ローリーはまだ2歳で、その直後に両親が死亡したことからストロード家へ養子に出され、プライバシー保護のため出生の秘密が隠されてきたことが判明する。15年前に姉を殺したマイケルは、今度は妹の命も狙っていたというわけだ。また、劇中のフラッシュバックでは、幼少期のローリーが精神病院に幽閉されたマイケルを見舞っていたことも描かれる。 第3弾『ハロウィンⅢ』(’82)『ハロウィン』シリーズのタイトルを冠しただけで、ストーリー的には全く関係のない番外編的な作品。ハロウィンのルーツである古代ケルトのドルイド教を信仰するカルト集団が、ハロウィンマスクを使って子供たちを神への生贄にしようとする。もちろん、マイケル・マイヤーズもルーミス医師もローリーも出て来ず。案の定、興行的には大コケした。 第4弾『ハロウィン4/ブギーマン復活』(’88)舞台設定はハドンフィールドの惨劇から10年後。ローリーは夫と共に交通事故で亡くなったことになっており、本作ではその幼い娘ジェイミー(ダニエル・ハリス)が主人公となる。昏睡状態のまま病院に収容されていたマイケルは、自分に姪がいることを知って意識を取り戻し脱走。ハロウィンで賑わうハドンフィールドへ再び姿を現し、今は別の家庭の養女となったジェイミーの命を狙う。ジェイミーが恐怖体験の後遺症でマイケル化してしまい、その姿を見たルーミス医師(ドナルド・プレザンス)がショックのあまり絶叫するラストが印象的だ。 第5弾『ハロウィン5/ブギーマン逆襲』(’89)前作の1年後。PTSDでハドンフィールド児童病院に入院していたジェイミー(ダニエル・ハリス)が、意識を取り戻したマイケルとテレパシーで繋がってしまい、再び惨劇の幕が切って落とされる。ラストはフードを被った謎の人物がマイケルとジェイミーを連れ去るという衝撃の展開に。ジェイミーに「おじさん」と呼ばれたマイケルが、マスクを脱いで涙を流す場面もある。 第6弾『ハロウィン6/最後の戦い』(’95)前作から6年後の本作では、まずマイケルとジェイミーを連れ去った人物が、ドルイド教のカルト教祖であることが判明。さらに、マイケルが不死身なのはドルイド教の呪いが原因だと明かされる。まあ、確かに2作目『ブギーマン』でもマイケルとドルイド教の関連を匂わせるセリフはあったが、まさかそういうことだったとは(笑)。今回のマイケルが狙うのは、ジェイミーが出産した息子。スティーブンと名付けられたその赤ん坊を守るため、1作目でローリーが子守をしていたトミー・ドイル(ポール・ラッド)とルーミス医師(ドナルド・プレザンス)が、マイケルとカルト教団を相手に戦うこととなる。 第7弾『ハロウィンH20』(’98)ジェイミー・リー・カーティス演じるローリーが復活したシリーズ20周年記念作。こちらは2作目の直接的な続編となっており、それ以降の設定はなかったことにされている。全くもって、ややこしいですな(笑)。で、全米各地で殺人事件を繰り返す兄マイケルから身を守るために死を偽装したローリーは、名前を変えて全寮制高校の校長を務めながら一人息子ジョン(ジョシュ・ハートネット)を育てている。事情を知っているのは旧知の看護婦マリオン(ナンシー・スティーブンス)だけなのだが、そのマリオンがマイケルに殺されて書類が盗まれたことから、ついに居場所を突き止められてしまう。マイケルが自分を殺しに来るとの強迫観念にとらわれ、息子を守らんがため神経質になっているローリーは、まさしく新生『ハロウィン』のローリーそのものだ。 第8弾『ハロウィン レザレクション』(’02)前作に続いてジェイミー・リー・カーティスが登板した作品だが、しかしローリーが出てくるのは序盤だけ。PTSDを装って精神病院へ入院していたローリーは、来るべき兄マイケルの襲撃に備えて罠を仕掛けていたものの、なんとあえなく殺されてしまう!以降は、ウェブ番組の肝試し企画でマイヤーズ家の廃墟に潜入した若者たちが、次々とマイケルの餌食になっていくという凡庸なストーリーが展開。どうやら、ローリー役のジェイミーはこれを以て『ハロウィン』シリーズに終止符を打つつもりだったらしい。 全編に散りばめられたオマージュを探せ! かように、人物設定や相関関係が複雑怪奇になってしまった『ハロウィン』シリーズ。本作を1作目の直接的な続編にした理由のひとつは、それらのストーリーラインをカバーしきれなかったからだという。そもそも、1作目が大成功したのはストーリーも設定も極めてシンプルだったから。この機会に原点回帰を図るという意図もあったのだろう。なので、ローリーとマイケルが兄妹だという事実もなければ、娘ジェイミーや息子ジョンの存在もなし。そればかりか、実は1作目のあとでマイケルは警察に逮捕され、40年間に渡って精神病院に幽閉されてきたことになっているのだから驚かされる。 ハドンフィールドの惨劇から40年後の現在。ローリー(ジェイミー・リー・カーティス)は今なお深刻なPTSDを抱えており、いつか必ずマイケルが自分を殺しにやって来るという強迫観念に囚われていた。そのため、自宅を要塞のように改造して引きこもり、酒に溺れる毎日を送っている。そんな母親を娘カレン(ジュディ・グリア)は疎ましく思っているが、しかし高校生の孫娘アリソン(アンディ・マティチャック)は祖母を理解しようと努めていた。やがて訪れるハロウィン・シーズン。精神病院から刑務所へ移送中のバスからマイケルが脱走し、40年前の決着をつけるためにハドンフィードへと舞い戻ってくる…というわけだ。 終盤はローリーと娘カレン、孫娘アリソンが団結し、様々なトラップを仕掛けた自宅を舞台にマイケルとの死闘を演じる。故ルーミス医師が「純粋なる邪悪」と呼んだマイケルは、子供だろうが女性だろうが、はたまた善人だろうが悪人だろうが容赦なく襲いかかるという意味において、さながら地震や台風など自然災害の如し。そんな理屈の通用しない理不尽な暴力に対し、口ばかりで役に立たない男たちを差し置いて、愛と勇気で結ばれた三世代の聡明な女性たちが連帯して立ち向かうという筋書きは、女性のエンパワーメントとジェンダーロールの再定義を掲げる第4派フェミニズムの時代に相応しいとも言えよう。 既に述べたように、シリーズ2作目以降のストーリーや設定をリセットしてしまった本作だが、しかしその一方で「ファンのため、過去作の全てにオマージュと敬意を捧げている」と脚本家デニー・マクブライドが語っているように、全編に渡ってシリーズ各作品からの引用が見受けられる。どれだけオマージュを探し当てられるかも、ファンにとっては大きな楽しみだろう。 そこで最後に、筆者が気付いたオマージュ・ネタを幾つかご紹介してみたい。 「教室の窓から外を眺めるアリソン」 元ネタ:オリジナル版『ハロウィン』恐らくこれは最も分かりやすいオマージュであろう。1作目では授業中にローリーが教室の窓から外を眺めるとマイケル・マイヤーズが立っているが、今回の新生『ハロウィン』でアリソンの視線の先にいるのはローリー。ファンなら思わずニヤリとするはずだ。 「公衆トイレにマイケル襲来!」 元ネタ:『ハロウィンH20』ガソリンスタンドの公衆トイレでジャーナリストたちがマイケルに殺されるシーン。これとよく似ているのが、道路脇の公衆トイレに立ち寄った母親と幼い息子がマイケルと遭遇する『ハロウィンH20』のワンシーンだ。ただし、こちらの母子は殺されずに済むのだが。 「キッチンから包丁を奪うマイケル」 元ネタ:『ブギーマン』ハドンフィールドへ戻ったマイケルは、まずは凶器を調達!とばかりに民家のキッチンへ押し入り、赤いガウンを着たオバサンを殺して包丁を奪うのだが、2作目『ブギーマン』にも似たシーンがある。ただし、こちらのオバサンはピンクのガウン姿で、幸いにも殺されずに済む。 「電話で事件を知った主婦を背後から襲撃するマイケル」 元ネタ:『ブギーマン』こちらも2作目のオマージュ。本編に登場する順番まで一緒だ。『ブギーマン』では友達との電話で惨劇を知った女子高生が、「まじ?怖くね?」と言っている間に背後から忍び寄ったマイケルに殺されるのだが、本作ではマイケルの逃亡を電話で聞いて戸締りしようとした主婦が同様の目に遭う。 「白いお化けシーツを被ったヴィッキー」 元ネタ:オリジナル版『ハロウィン』マイケルに殺されたアリソンの親友ヴィッキー。まるでハロウィンの仮装のごとく、その死体には白いお化けシーツが被されているのだが、これは1作目で恋人ボブのふりをしたマイケルに、ローリーの親友リンダが殺されるシーンのオマージュと思われる。 「何も知らずに夜道を歩くアリソン」 元ネタ:『ハロウィン4/ブギーマン復活』マイケルがハドンフィールドに戻ったことも、警察が安否確認のため行方を探していることも知らず、パーティ会場を出て友達と夜道をとぼとぼ歩くアリソン。目の前で友達が殺されたことで、ようやく事態に気付いて周辺住民に助けを求めた彼女を、保安官とサルテイン医師がパトカーで迎えに来る。これと同様に、4作目でもマイケルが町に戻って、警察が自分を探していると知らないジェイミーは、トリック・オア・トリートのために夜道を歩いていたところ、やはりパトカーに乗った保安官とルーミス医師に助けられる。 「マイケルをトラップで迎え撃つローリー」 元ネタ:『ハロウィン レザレクション』いよいよマイケルと対峙することになったローリーは、家のあちこちに仕掛けたトラップでマイケルを迎え撃つわけだが、同様に『ハロウィン レザレクション』のローリーも、マイケルが自分を殺しに来た時のため、精神病院の屋上にトラップを仕掛けていた。 「2階から転落したローリーを見下ろすマイケル」 元ネタ:オリジナル版『ハロウィン』これは’78年版クライマックスへのオマージュ。1作目ではルーミス医師の銃弾を浴びたマイケルが2階から転落。ローリーが無事か確認したルーミス医師が再び下を見下ろすと、既にマイケルの姿は消えているのだが、本作ではローリーが2階から突き落とされ、マイケルが見下ろすこととなる。 「マイケルの背後の暗闇から浮かび上がるローリー」 元ネタ:オリジナル版『ハロウィン』犠牲者の背後の暗闇から白いマスクを被ったマイケルが浮かび上がる…というのはシリーズを通してのお約束だが、その原点はもちろん’78年のオリジナル版。しかし本作では、反対にローリーがマイケルの背後の暗闇から姿を現し、「ハッピー・ハロウィン」の決め台詞と共に一撃をお見舞いする。 「ガス大爆発」 元ネタ:『ブギーマン』本作のクライマックス、マイケルを地下室に閉じ込めたローリーたちが、家中にガスを充満させて火を点け大爆発させる。一方の『ブギーマン』では、病院の物置部屋に追い詰められたローリーとルーミス医師が、部屋中に置かれたガスボンベの栓を開いてガスを充満させ、先にローリーを逃がしたルーミス医師が火を点けてマイケルもろとも吹っ飛ぶ。 他にも様々なオマージュが散りばめられていると思うので、ぜひ探してみて欲しい。 なお、現在劇場公開中の『ハロウィンKILLS』(’21)は本作の直後から始まり、ハドンフィールドの町を舞台にマイケルが大量殺戮を繰り広げることになる。オリジナル版からはリンジー役のカイル・リチャーズにブラケット保安官役のチャールズ・サイファーズ、さらには7作目で殺された看護婦マリオン役のナンシー・スティーブンスが再登場。’22年のハロウィン・シーズンには、シリーズ完結編となる『Halloween Ends』(邦題未定)も公開される予定だ。■ 『ハロウィン(2018)』© 2018 Night Blade Holdings LLC. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2021.11.01
ジョン・ウーの名声を決定づけた『男たちの挽歌』までの道
ジョン・ウーは、1990年代に香港からアメリカに移り住み、ハリウッドに進出。『ブロークン・アロー』(96)『ファイス/オフ』(97)『M:I-2 ミッション:インポッシブル2』(2000)といった監督作が、続けてボックスオフィスのTOPを飾った。 2000年代後半になると、アジアに拠点を移し、“三国志”ものの『レッドクリフ partⅠ』(08)『レッドクリフ partⅡ -未来への最終決戦-』(09)を製作・監督。中国本土で当時の興収新記録を打ち立てた。 ウーは、1946年生まれ。生誕地は中国の広州だが、49年に中華人民共和国が成立すると、一家で香港へと移住した。そこでは、時には路上で生活することもあったほどの、赤貧洗うが如しの幼少期を送ったという。 キリスト教会を通じてアメリカの篤志家の援助を受け、10歳を前に、やっと学校に通えるようになったウーが、母親の影響もあって映画に夢中になったのは、中学生の頃から。彼が青春時代を送った60年代の香港では、黒澤明や溝口健二など巨匠の作品に続いて、日活や東映の作品が、大量に上映されるようになった。日本映画専門の映画館チェーンまであったという。 そんな中でウーは、アメリカやヨーロッパの映画に親しむのと同時に、黒澤明を崇め、石井輝男や深作欣二の監督作品を熱烈に愛した。彼のヒーローは、高倉健や小林旭であった。 17の歳に学校をやめたウーは、働きながら映画を学ぶ。そして19歳の時には、8mmや16mmフィルムで実験映画を撮り始める。映画会社に職を得たのは、23歳の時だった。 71年、25歳の時に大手のショウ・ブラザースに籍を移したウーは、武侠映画の巨匠チャン・チェーの下で助監督を務めた。1年半という短い間であったが、ここで多くのことを学んだという。 そして73年に、初監督作の『カラテ愚連隊』を撮る。諸事情から香港では、2年後の75年まで公開されなかったが、我が国では、地元より一足先の74年に公開されている。これは、73年暮れにブルース・リー主演の『燃えよドラゴン』が日本公開されるや沸き起こった、空前の“クンフー映画ブーム”に乗ってのことだった。 そんな処女作を評価したレイモンド・チョウに誘われ、彼が率いるゴールデン・ハーベストへと移ると、当時ただ1人の社員監督として重用され、コメディや広東オペラのヒット作を放つようになる。マイケル、リッキー、サミュエルの“ホイ3兄弟”主演で、監督はその長兄マイケル・ホイ名義のコメディ『Mr.Boo!ミスター・ブー ギャンブル大将』(74)なども、実際の監督を務めたのは、ウーだったと言われる。 このように会社に多大な貢献をしながらも、自分が本当に撮りたいと思ったものは、なかなか撮らせてもらえなかった。それに対して不満を募らせるようになったウーは、83年の戦争映画『ソルジャー・ドッグス』の製作中に、ゴールデン・ハーベストとトラブり、退社に至る。 そして新興のシネマ・シティへと移籍するが、大手であるゴールデン・ハーベストへの体面などもあって、84年から85年に掛けては、台湾の支社へと出向せざるを得なくなる。いわば、“島流し”の憂き目に遭ったのである。 2年間の辛酸の後、86年に香港に帰ったウーが、当時気鋭のプロデューサーであり監督だった、ツイ・ハークの製作により取り掛かったのが、本当に撮りたかった企画である『英雄本色』。即ち本作、『男たちの挽歌』だった。 ***** 極道の世界に身を置くホーは、偽札作りのシンジゲートの幹部。相棒のマークとは、固い絆で結ばれていた。 ホーには病を抱えた父と、弟のキットという家族がいた。キットは兄の正体を知らないまま警察学校に通っており、ホーはそんな弟のために、次の仕事を済ませたら、足を洗うことを決めていた。 その仕事で台湾に飛んだホーだが、取引相手から裏切りに遭い、逮捕されてしまう。そのためシンジケートは、ホーが口を割らないようにと、彼の家族を急襲。キットの目の前で、兄弟の父は殺されてしまう。 一方ホーの復讐のために、マークが台湾に飛ぶ。ターゲットは討ち果すも、右足を撃たれたたマークは、不自由な身体になってしまう。 それから3年が経ち、台湾での刑期を終えたホーが、香港へ帰って来る。刑事になったキットは、父の死を招いた兄を、決して許そうとはしない。更には兄の属していたシンジケートの捜査から、「関係者の身内」という理由で外されたため、怒りを膨らませる。 ホーは更生のため、タクシー会社で働き始めるが、そんな時にうらぶれた姿になったマークと再会する。今やシンジケートは、ホーとマークの舎弟だったシンが実質的なTOPとなり、右足を引きずるマークは、雑用係となっていた。 シンはホーを呼び出し、弟のキットを警察からの情報提供者として抱き込んで欲しいと持ち掛ける。ホーが拒否すると、相棒のマークがリンチに掛けられ、勤務先のタクシー会社も、嫌がらせを受けるようになる。 キットを守るためにもホーは、シンが率いるシンジケートと対決する決意を固める。そして相棒のマーク、更にはキットと共に、命を賭けた大銃撃戦へと臨んでいく…。 ***** 1967年に製作された、ロン・コン監督の『英雄本色』をベースにしたリメイク作品である、『男たちの挽歌』。ジョン・ウーがそれまで培ってきた、キャリアと知識、テクニックのすべてを注いだ作品と言える。「チャン・チェーの映画の登場人物が、刀を銃に持ちかえたような作品だ」という評論があったように、中国時代劇の世界を暗黒街に置き換えて、アクションの撮り方から、男の情熱、騎士道といった、師匠から学んだ技術や精神をブチ込んだ。 また映画を撮ることのモチベーションは“仁義”であると、ウー本人が公言するように、日本のヤクザ映画や、ジャン=ピエール・メルヴィル監督の『サムライ』(67)といった、フレンチ・ノワールからの影響も大。もちろん銃撃戦で多用される“スローモーション”は、「死の舞踏」と謳われた、ヴァイオレンスの巨匠サム・ペキンパー作品にインスパイアされ、ウーが発展させたものである。 キャストやその演じるキャラクターに関しても、ウーの思い入れがたっぷりである。主役のホーを演じるティ・ロンは、チャン・チェー門下。70年代は武侠映画の大スターとして鳴らしたが、80年代に入って、本作に出る頃までは、「過去の人」扱いだったという。 マーク役のチョウ・ユンファは、TVドラマから映画へと、軸足を移した頃に本作に出演。役作りに於いては、その容貌が似ている、日活アクションの大スター・小林旭の動きや所作を、積極的に取り入れたという。もちろんこの役作りは、来日して本人に会えた時には、足下に跪いたほどの熱烈な旭ファンである、ウーの意向もあってのことだろう。 ホーが逮捕された後、足を負傷したマークは、洗車や掃き掃除などの雑用を命じられる。そんなところまで落ちぶれながら、友の出獄を待ち、巻き返しを図る日を心待ちにしている。これは台湾に“島流し”になっていた時のジョン・ウー自身が投影されている。実際に彼を持て余した現地スタッフから、箒を渡されて事務所の掃除をさせられたこともあったそうだ。 そしてホーとマークの間に結ばれる熱い絆は、正に当時のウーとツイ・ハークの関係をモデルにしたものだという。そもそもは、5歳年下のハークがまだ売れない頃、ウーがゴールデン・ハーベストに紹介して、ハークの道を開いた。そして台湾から香港に戻ったウーが、かねてから温めていた本作の構想を語ると、ハークは強く映画化を勧め、プロデューサーを買って出た。 もっともこの2人は後に、『男たちの挽歌』の続編や契約問題を巡って、衝突。友情は、瓦解してしまうのだが…。 因みにホーの弟のキットを演じたレスリー・チャンは、それまではアイドル歌手として、主に青春映画に出演していたのだが、本作出演以降、本格的に映画スターの道を歩み始める。 後に“ウー印”とも言われる彼の作品のトレードマーク、“白い鳩”も、2人の男が銃を至近距離で突きつけ合う“メキシカン・スタンドオフ”も、本作ではまだ登場しない。しかし間違いなく、ここからすべてが始まったのである。 本作は86年8月に香港で公開されると、記録破りの大ヒット! 長いコートにサングラス、くわえマッチというチョウ・ユンファの出で立ちを、若者がこぞってマネをするような社会現象となった。 日本では、翌87年4月に公開。ある程度話題にはなったが、それほど多くの観客を集めることはなかった。火が点いたのは、ビデオソフト化されて、当時急増していたレンタルビデオ店に出回るようになってからであった。 何はともかく本作によって、“英雄片”日本で言うところの“香港ノワール”というジャンルが確立し、香港映画界を席巻する。この大波はやがて海を越え、クエンティン・タランティーノ監督作品を筆頭に、世界のアクション映画シーンにも大きな影響を及ぼすようになる。 当時40代で、このムーブメントをリードし、その後ハリウッドのTOPランナーの1人にまで上り詰めたジョン・ウーも、今や70代中盤となった。近作である『The Crossing ザ・クロッシング Part I / PartⅡ』(14/15) や『マンハント』(17)などには、かつての輝きが見られないのは、偏に加齢のせいなのだろうか? それと同時に、ご存知のような国際情勢である。“香港ノワール”を生み出した頃の熱い香港の風土は、完全に過去のものとなってしまった。 35年前に常軌を逸した激しいドンパチが、とにかく衝撃的だった『男たちの挽歌』を、今このタイミングで鑑賞する。後には“亜州影帝=アジア映画界の帝王”と呼ばれるほどのスーパースターになる、若き日のチョウ・ユンファが、超スローモーションでロングコートを翻しながら二丁拳銃をぶっ放す姿に改めて痺れながらも、過ぎ去った日々の、その取り返しのつかなさに、愕然ともしてしまう。■ 『男たちの挽歌』© 2010 Fortune Star Media Limited. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2021.10.12
エドワード・ズウィック積年の夢の実現と、それに応えて羽ばたいた日本人キャストたち『ラスト サムライ』
エドワード・ズウィックにとって、本作『ラスト サムライ』(2003)の製作は、長年抱いてきた夢だった。 1952年生まれの彼は、17歳の時に黒澤明監督の『七人の侍』(54)を観て、黒澤映画を1本残らず研究しようと決意。それが、フィルムメイカーへの道に繋がった。 ハーヴァード大学に進むと、彼を指導したのは、エドウィン・O・ライシャワー。日本で生まれ育ったライシャワーは、61年から5年間、駐日アメリカ大使を務め、ハーヴァードでは、日本研究所所長の任に就いていた。 その門下で歴史を学ぶようになったズウィックが、特に興味を持ったのが、日本の“明治維新”。ズウィック曰く、「どの文化においても、古代から近代への移行期というのはとりわけ感動的でドラマティックです…」「周りを取り巻く文化全体も混乱を極めている時代に、個人的な変容を経験していく登場人物を観察するということには、感動する何か、我を忘れるほどの魅力があるのです」 ズウィックは、『グローリー』(89)や『レジェンド・オブ・フォール/果てしなき想い』(94)といった監督作、アカデミー賞作品賞を獲った『恋に落ちたシェイクスピア』(98)といったプロデュース作などで評価を得ながら、本作の構想を固めていく。そして『グラディエーター』(00)などの脚本家ジョン・ローガンと組んで、シナリオ執筆を進めた。 出来上がったシナリオを、トム・クルーズに送ると、日本人の“サムライ魂”に関心があったというトムはすぐに気に入り、主演及びプロデューサーとして、本作に参加することが決定。スーパースターを得たことで、本作の製作は、本格的に進められることとなった。 アクションには、ノースタントで挑むことで知られるトム・クルーズが、本作で演じるのは、元アメリカ軍人で日本へと渡るネイサン・オールグレン。二刀流の剣術や格闘術、乗馬をこなす必要があったため、撮影までの約1年間、毎日数時間掛けて厳しいトレーニングを行ったという。 *** 時は1870年代。かつては南北戦争の英雄と讃えられたネイサンだったが、ネイティブ・アメリカン虐殺に加担して受けた心の疵が癒えないまま、酒浸りの日々を送っていた。 そんな彼が、大金を積まれてのオファーを受けて、軍事教官として日本に赴くことに。雇い主は、誕生して日も浅い明治新政府の要人・大村(演;映画監督の原田眞人)だった。 新兵たちの訓練が行き届かない内に、政府への反乱を討伐するための、出動命令が下る。ネイサンの「まだ戦える状態ではない」との主張は退けられ、彼もやむなく同行することとなる。 反乱を率いるのは、明治維新の立役者の一人だった、勝元盛次(演:渡辺謙)。大村らを軸に近代化政策が進められる中で、かつてのサムライたちがないがしろにされていく流れに抗して、野に下っていた。 ネイサンの危惧通り、出動した部隊は、サムライたちの猛攻にひとたまりもなかった。ネイサンは孤軍奮闘するも、瀕死の重傷を負い、囚われの身となる。 山中の農村へと運ばれたネイサンは、勝元の妹たか(演:小雪)の看病を受け、次第に回復。村人たちの素朴な生活に癒され、やがてサムライたちの精神世界に魅せられていく。 剣術の鍛錬を始めたネイサンは、サムライたちのリーダー格である氏尾(演:真田広之)と手合わせを行う。はじめは歯が立たなかったが、遂には引き分けるまでに腕を上げる。 ネイサンは、勝元とも固い絆で結ばれていく。そして、信念に敢えて殉じようとする勝元たちと、最後まで行動を共にすることを決意するのだったが…。 *** ズウィックが影響を受けたことを認めているのが、日本文学研究者のアイヴァン・モリスの著書「高貴なる敗北―日本史の悲劇の英雄たち」。この中で取り上げられた、新政府の樹立に加担するも、やがて叛旗を翻す西郷隆盛の物語に強く惹かれたという。 本作に於ける勝元盛次が、不平士族の反乱を起こした、西郷や江藤新平をモデルにしているのは、明らかだ。舞台設定である1877年は、実際に西郷が“西南戦争”を戦い、命を落とした年である。 また敵役となる大村の名は、明治政府で兵制の近代化と日本陸軍の創設に尽力した大村益次郎から取ったものと思われる。但しキャラ設定的には、当時政商として暗躍した岩崎彌太郎と、西郷を失脚に追い込んだ大久保利通を、足して2で割ったようなイメージだが。 さてトム・クルーズ主演作であるが、本作の場合、日本人俳優のキャスティングが肝要だった。その役割を担ったのは、日本では作詞家・演出家としても著名な、奈良橋陽子。日本やアジア圏の俳優をハリウッド映画などに紹介する、キャスティング・ディレクターとしての歩みを、本格化させていった頃の仕事である。 奈良橋はズウィックに、様々な映像資料等を送付して、やり取り。彼が来日するまでにある程度の人数に絞り込んでは、オーディションのセッティングを行った。 日本でのキャスティングは、トムの参加が決まる前、即ち本作製作に正式なGOサインが出る前から、秘かに進められていた。ある時はズウィックの来日に合わせて体育館を借り切り、真田広之をはじめ殺陣ができる俳優たちを集め、ショーを見せたという。 カメラマンも一緒に来日して撮影したというこの殺陣ショーに、監督は大喜びで、「この映画を絶対に撮るんだ」と決意も新たに帰国。トムの主演が決まったのは、それから数か月後のことだった。 その後真田をはじめ、小雪や明治天皇役の中村七之助等々、キャストが次々と決まっていく。そんな中で難航したのが、最も重要な勝元役だった。 実は奈良橋は、NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」(87)をはじめ、時代劇俳優の印象が強い渡辺を、ズウィックに最初に紹介して、京都のホテルでインタビューを受けてもらっている。しかしこの時は渡辺の印象が、なぜか監督の頭に残ることがなかった。 勝元役が決まらない中で、奈良橋はズウィックに、もう1回渡辺と会ってもらえないかと頼み、帝国ホテルのスイートルームでのオーディションをセッティングした。渡辺の英語力はまだそれほどではなかったというが、気負うことなく楽に役を演じたのが良かったか、ズウィックの目はオーディションの最中から輝き、終了して渡辺が部屋を出た瞬間には、「彼こそ勝元だ!」とガッツポーズを取ったという。 そんなズウィックが、クランクインが近づいた頃、新しい役を作ったと奈良橋に連絡してきた。その役名は“サイレント・サムライ”。農村に囚われの身となったネイサンを常に見張り、話しかけられても一切返事をしない、名前を名乗ることもない、“沈黙の侍”である。 奈良橋の著書によると、その時ふと思い浮かんだのが、福本清三だったという。東映の大部屋俳優で、その当時にして40年以上映画やTVドラマに出ては、2万回以上斬られてきたという、「日本一の斬られ役」である。 この辺り、福本にインタビューした書籍によると、彼のファンクラブのメンバーが、『ラスト サムライ』が製作されることを報じたスポーツ紙の記事を読んで、奈良橋に連絡を取り資料を送ったのが、きっかけだったという。福本本人は、そんなこととはつゆ知らず、ある時突然奈良橋から携帯に電話が掛かってきて、吃驚した。 福本は東京に呼ばれ、奈良橋の事務所で、半袖シャツにチノパンという出で立ちで、立ち回りや、彼の十八番である、斬られて海老反りで倒れるところなどを撮影。また“サイレント・サムライ”役ということで、「無表情の演技」も撮った。 そのビデオを監督に見せると、すぐに出演が決まった。東映太秦撮影所で旧知だった真田広之も、福本出演を聞いて、大喜びだったという。 さて『ラスト サムライ』は、日本でクランク・イン。姫路の圓教寺でのロケ後は、京都の知恩院で撮影を行った。 悲しいことに、日本のロケ事情の問題で、後は海外に19世紀の日本を再現しての撮影となる。ロサンゼルスのワーナー・ブラザースがスタジオ近くに持つ野外撮影用地は、普段はニューヨーク通りと言われ、西洋風の建造物が建ち並んでいる。ここを木材やファイバーグラスのタイルなど使って外観を飾り替えることで、文明開化の頃の東京、通称“エド村”を作り上げた。 “エド村”での撮影を終えると、ニュージーランドへ移動。田舎町に10億円を投じて借り切り、キャストやスタッフのための住宅を用意した。その近くの山の中には、畑、家屋、畦道まで精緻な仕上がりの、日本の農村が完成。クライマックスの戦闘シーンも、ニュージーランドでの撮影であるが、そのために日本から500人のエキストラを参加させ、本番のために数カ月間、本物の軍隊と同じ訓練を施した。 ズウィックの本作への思い入れもあってか、時代考証などは内外の専門家の意見を受けて慎重に進められた。ハリウッド映画に度々登場するような「おかしな日本」にならないように、最大限の努力を行っている。 またこの点では、真田広之の尽力も大きい。彼は出番のない日でも、セットを訪れて、衣装、小道具、美術などをチェックし、資料ではわからない着こなしや道具の使い方などのアドバイスを行ったという。 それでも「おかしな」ところは、見受けられる。例えば勝元の村に、暗殺部隊である“忍者”集団が現れたり、戦闘シーンではサムライたちが、明治時代にもなって甲冑を身に纏っていたり…。 この辺りは、監督はじめ主要スタッフも「あり得ない」ことは、理解していた。全世界で公開される“サムライムービー”として、観客のニーズに応えたと言うべきか?或いは黒澤映画の大ファンであるズウィックが、“時代劇”を撮る以上は、絶対やりたかった要素だったのかも知れない。 それから逆に考えて、なぜ日本の観客が「おかしい」と思うのかにも、思いを至らせた方が良い場合もある。当たり前のことだが、明治の日本や侍の時代を、実際に体験したことがある者は既に居ない。我々の基準は、日本のテレビや映画で観た“時代劇”から生まれている可能性が大いにある。 衣装デザイナーのナイラ・ディクソンは、素材の豊富な在り処を日本で見付け、衣装の多くをそこで作った。甲冑なども彼女の担当だったが、ある時に兜のデザインを、渡辺と真田に見せたことがある。すると2人とも、「日本にこんなものはない」という反応。そこで彼女は、分厚い写真集を持ち出して、2人に見せた。それは確かに、日本の兜だったのである。 さてご存知の方が多いと思うが、世界的に大ヒットとなったこの作品で、渡辺謙は見事アカデミー賞助演男優賞にノミネートされた。その後は頻繁にハリウッド映画に出演する他、ブロードウェイの舞台「王様と私」に主演し、トニー賞にもノミネートされている。 真田広之もこの作品がきっかけとなって、拠点をロサンゼルスに移し、国際的な活躍を続けている。近作はジョニー・デップ主演の『MINAMATA―ミナマター』(21)だが、この作品でも舞台である1970年代の日本に見えるよう、少し早めに現場に入っては、小道具を選別したり、旗やゼッケンの日本語をチェックして自分で書いたりなどしたという。 さて本稿は、ニュージーランドでのロケ中は、他の侍役の俳優たちを呼んでは、よくカレーを作って振舞っていたという、福本清三の話で〆たい。彼が本作で演じた「サイレント・サムライ」は、先にも記した通り、とにかく無言を通す男。そんな男が、たった一言だけセリフを放つシーンがある。ここは結構な泣かせどころにして、福本の最大の見せ場である。 今年の元旦、77歳で亡くなった「日本一の斬られ役」に哀悼の意を捧げながら、皆さん心して観て下さい。■ 『ラスト サムライ』© Warner Bros. Entertainment Inc.
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COLUMN/コラム2021.10.11
本家シリーズとは一味違うスパイアクション系のバディ・ムービー『ワイルド・スピード/スーパーコンボ』
犬猿の仲のホブスとデッカードが迷コンビに!? 映画史上最も成功したフランチャイズのひとつとも呼ばれる『ワイルド・スピード』シリーズ。これはその初めてとなるスピンオフ映画だ。主人公は元DSS(アメリカ外交保安部)捜査官のルーク・ホブス(ドウェイン・ジョンソン)と、元MI6(イギリス秘密諜報部)エージェントのデッカード・ショウ(ジェイソン・ステイサム)。お互いに顔を合わせれば憎まれ口ばかり叩く犬猿の仲の2人が、人類の滅亡を招く危険なウィルスを巡って、謎の巨大ハイテク組織の陰謀を阻止するべくタッグを組む。当初はストリートレース物としてスタートしながらも、作品を重ねるごとに『ミッション:インポッシブル』化の進んでいる本家シリーズだが、本作などはまさにスパイ映画の王道とも呼ぶべき作品に仕上がっている。 もともとは本家5作目『ワイルド・スピード MEGA MAX』(’11)で、国際指名手配されたドミニク(ヴィン・ディーゼル)とブライアン(ポール・ウォーカー)を追いつめる捜査官として登場したホブス。一方のデッカードは、6作目『ワイルド・スピード EURO MISSION』(’13)のメイン・ヴィラン、オーウェン・ショウ(ルーク・エヴァンズ)の兄としてクライマックスに登場し、次作『ワイルド・スピード SKY MISSION』(’15)では大怪我をした弟の復讐のため主人公たちの前に立ちはだかった。それが、どちらも紆余曲折を経てドミニクらファミリーとタッグを組むことに。8作目『ワイルド・スピード ICE BREAK』(’17)では、ひょんなことから行動を共にするようになったホブスとデッカードのコミカルないがみ合いが大きな見どころのひとつとなった。 このホブスとデッカードの凸凹コンビの面白さにプロデューサー陣が着目したことから、兼ねてより計画されていたシリーズ初のスピンオフ映画を、ホブスとデッカードのコンビで作ることが決まったのだという。ただ、この2人を主人公とすることには本家シリーズのレギュラー・キャストから異論もあったらしく、ヴィン・ディーゼルとドウェイン・ジョンソンが仲違いする原因になったとも伝えられている。本家シリーズのプロデューサーでもあるディーゼルが本作には参加せず、最新作『ワイルド・スピード/ジェットブレイク』(’21)にジョンソンが出演しなかった理由もそこにあるのかもしれない。 殺人ウィルスの脅威から世界を守れ! 舞台はイギリスのロンドン。MI6の特殊部隊がハイテク・テロ組織「エティオン」のトラックを襲撃する。正体不明の黒幕「ディレクター」が率いるエティオンは、テクノロジーで人類の未来を救うという目標を掲げており、そのために邪魔な弱者を抹殺する殺人ウィルスを開発していた。特殊部隊の使命はその殺人ウィルスを奪うことだったが、しかしそこへエティオンによって肉体改造された無敵の暗殺者ブリクストン(イドリス・エルバ)が現れ、チームは皆殺しにされてしまう。唯一生き残ったMI6工作員ハッティ(ヴァネッサ・カービー)は、ウィルスを自らの体内に注入して逃走。ところが、エティオンの情報操作によって裏切り者に仕立てられ、指名手配されることとなってしまう。 一刻も早くウィルスを回収せねば人類は存亡の危機に瀕する。合同で捜査に当たることとなったCIAとMI6は、ハッティを生け捕りにするために2人の最強エージェントに協力を要請する。元DSSのルーク・ホブスと元MI6のデッカード・ショウだ。しかしこの2人、顔を合わせればお互いに悪態をつかずにはいられない犬猿の仲。たちまち罵り合いとなり、けんか別れしてしまう。だが、実は逃亡中のハッティはデッカードの妹。真相を探るべく妹の部屋へ忍び込んだ彼は、エティオンの一味に襲撃され、ハッティが罠にはめられたことに気付く。一方、ロンドン市内の監視カメラをチェックしたホブスは、ハッティの行動を先読みして捕らえることに成功する。 CIAのロンドン・オフィスでハッティを尋問するホブス。妹を助けようと乗り込んで来るデッカード。するとそこへ、ブリクストン率いるエティオンの特殊部隊が乱入し、ハッティを連れ去ろうとする。なんとか彼女を取り戻し、激しいカーチェイスの末に逃げおおせたホブスとデッカードだったが、しかしまたもやエティオンはメディア報道を操作し、彼らをテロ計画の主犯格に仕立ててしまう。今や揃ってお尋ね者となったホブスとデッカード、ハッティの3人。ウィルスを開発したロシア人科学者アンドレイコ(エディ・マーサン)から情報を得た彼らは、ハッティの体内からウィルスを抽出して保管するための装置を略奪すべく、ウクライナにあるエティオンの秘密研究所へ忍び込もうとするのだが…!? サモアの全面対決では日本映画へのオマージュも! 『ワイルド・スピード』シリーズらしい派手なカーチェイスを交えつつも、本家とは違ったスピンオフならではの路線を摸索し、スパイアクション系のバディ物に仕上げたのは『アトミック・ブロンド』(’17)や『デッドプール2』(’18)のデヴィッド・リーチ監督。ノークレジットで『ジョン・ウィック』(’14)の共同監督を務めたのはご存知の通り。『ファイト・クラブ』(’99)や『オーシャンズ11』(’01)などでブラッド・ピットのボディダブルを担当し、『300<スリーハンドレッド>』(’07)や『ボーン・アルティメイタム』(’07)にも参加した元スタントマンだけあって、特にファイト・シーンの演出が凝っている。中でも見ものは、スプリットスクリーンを交えながら同時進行する2つのアクションを交互に見せることで、登場人物たちの個性や特徴を際立たせていく手法であろう。 例えば、ロサンゼルスのホブスとロンドンのデッカードが、それぞれ犯罪組織のアジトを襲撃する冒頭シーン。腕力と勢いでアジア系ギャングをなぎ倒していくホブスと、華麗な格闘技でクールにロシアン・マフィアを一網打尽にするデッカードの対比は、2人がまるで正反対な個性の持ち主であることを如実に表している。前者が華やかな暖色系で後者がスタイリッシュなネオンカラーと、使用されるライティングも対照的だ。しかし、よく見るとその戦術には不思議と共通するものがあり、本質的には2人が似た者同士であるということも示唆される。だからこそ、お互いのことが疎ましく感じられるのだろう。また、ハッティの部屋でエティオンの一味と戦うデッカード、裏通りで待ち伏せしていたホブスと戦うハッティの対比も、そのよく似た格闘スタイルから2人が兄妹であることがよく分かる。さらにこのシーンでは、まるでペアダンスを踊るように息の合ったホブスとハッティの戦いっぷりを通して、いずれ2人の関係が親密になるであろうことも予想させる。どちらもスタントマン出身のデヴィッド・リーチ監督だからこその、アクションがただのアクションに終わらない名シーンと言えるだろう。 そのホブスとハッティの関係性を友達以上恋人未満のままに止め、あえて余計な恋愛要素を絡めなかったクリス・モーガンの脚本も賢明だ。あくまでも本作の主軸はホブスとデッカードのちょい捻くれたブロマンス。男女の色恋はそこに水を差すことになってしまう。そもそも、ハッティはホブスやデッカードに負けないほど強くて賢い女性。3人が対等な関係を築くうえでも、恋愛要素は邪魔になるだけだ。その代わりと言ってはなんだが、本作の裏テーマ(?)と呼ぶべきなのが「ファミリーの絆」であろう。これは本家シリーズから継承された大切な要素。デッカードとハッティの母親マグダレーン(ヘレン・ミレン)も登場し、過去の誤解が原因で断ち切られた息子と娘の関係修復を願う。だが、さらに大きくフォーカスされるのはホブスのファミリー。本作では初めて彼のルーツが明かされる。 実は南太平洋の島国サモアの出身だったホブス。終盤では数十年ぶりにサモアへ戻ったホブスが家族と和解し、デッカードやハッティとも協力して宿敵ブリクストン一味との全面対決に挑む。ご存じの通り、演じるドウェイン・ジョンソン自身も国籍・出身こそアメリカだが、しかし家族のルーツはサモア。父親のロッキー・ジョンソンはアフリカ系アメリカ人だったが、しかし母方の祖父ピーター・メイビアはサモア出身の移民一世で、サモア系プロレスの名門アノアイ・ファミリーの一員でもあった伝説的なプロレスラーだ。サモアでの対決シーンでは、ホブスが敵の顔面に噛みつく場面があるのだが、実はこれが祖父へのオマージュなのだという。かつて2度に渡って来日したことのあるメイビアは、東京の居酒屋で飲んでいた際に別のレスラーと喧嘩騒ぎを起こし、相手の顔面に噛みついたことがあったらしい。この武勇伝(?)をジョンソンは本作で再現したのである。さらに、アノアイ・ファミリーの仲間で遠縁の親戚でもあるプロレスラー、ジョー・アノアイ(別名ロマン・レインズ)がホブスの弟役で登場。ロケ撮影にはジョンソンの母親も見学に訪れたらしいが、これはホブスだけでなくドウェイン・ジョンソンにとっても、自らのルーツにリスペクトを捧げる重要なストーリーラインだったと言えよう。 なお、サモアのシーンはハワイでの撮影。ホブスたちが敵を迎え撃つため、島の砂糖工場跡に罠を仕掛けるという筋書きは、デヴィッド・リーチ監督が大好きだという日本映画『十三人の刺客』(恐らく三池崇史版)へのオマージュだ。また、前半のハイライトであるロンドン市街でのカーチェイスは主にグラスゴーで撮影され、さらにロサンゼルスのユニバーサル・スタジオに組んだオープンセットでの追加撮影映像を編集で混ぜ込んでいる。リーチ監督によると、オリジナルのディレクターズ・カットは2時間40分にも及んだらしい。 果たして、邪悪なテロ組織エティオンを操るディレクターとは一体何者なのか?という大きな謎を残して終わる本作。当然ながら続編となる第2弾も予定されており、既に企画も動き出しているという。脚本にはクリス・モーガンが再登板。撮影時期や公開時期は未定だが、そもそも本家シリーズでシャーリーズ・セロンが演じた悪女サイファーが主人公のスピンオフも控えているため、どちらが先になるのか気になるところだ。■ 『ワイルド・スピード/スーパーコンボ』© 2019 UNIVERSAL CITY STUDIOS PRODUCTIONS LLLP. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2021.10.11
ブルース・リーの遺志を継いで作られた最後の主演作(?)『ブルース・リー/死亡遊戯』
実は『燃えよドラゴン』の前に撮影されていたブルースの出演シーン ハリウッドでの初主演映画『燃えよドラゴン』(’73)の大ヒットによって国際的なトップスターとなり、世界中で時ならぬカンフー映画ブームを巻き起こした香港映画のカンフー・レジェンド、ブルース・リー。だが、本人はその直前の’73年7月20日に、病気のためこの世を去ってしまう。享年32。あまりにも突然の悲劇からおよそ5年後、生前のブルースの未公開フィルムを使った「最後の主演作」が公開される。それが、この『死亡遊戯』(’78)だ。 もともと「死亡的遊戯」と題されていたという本作は、実は『燃えよドラゴン』よりも前にブルースの監督・脚本・主演で企画されていたのだが、その撮影途中にワーナー・ブラザーズとゴールデン・ハーベストが合作する『燃えよドラゴン』のオファーを受けたことから中断していた。先述した未公開フィルムというのは、この時点で既に撮影されていた分の映像である。ブルースは『燃えよドラゴン』の撮影終了後に本作の製作を再開させるつもりだったそうだが、しかし本人が急逝したことによって一度は頓挫してしまう。言わばその遺志を受け継いだのが、『燃えよドラゴン』でブルースと組んだロバート・クローズ監督。さらにブルースの後輩であるサモ・ハン・キンポーが武術指導を担当し、遺されたフィルムを使用したブルース・リーの「最後の主演作」が作られることとなったのである。その際に、ブルースが手掛けたオリジナル・ストーリーも大幅に変更されている。 当初、ブルースが演じるキャラクターは格闘技の元世界チャンピオンという設定で、家族を拉致したマフィアに強要され、各地から集められた格闘家たちと共に、韓国にある五重塔でのデスゲームに挑むこととなる。この五重塔では各階にそれぞれ格闘技の達人がひとりずつ配置されており、彼らとのデスマッチに勝利すれば順番に上の階へと進むことが出来る。そして、ほかの格闘家たちが次々と敗れていく中、主人公だけが無事に勝ち進んでいき、いよいよ最上階で最強の敵(カリーム・アブドゥル=ジャバー)と対決することになる…というお話だったという。最上階にはなにかお宝のようなものが隠されているらしいのだが、残念ながら現存する資料ではその詳細は分かっていない。 そして、ブルースが存命中に撮影されていたのは、主にこの五重塔でのクライマックスシーンだった。しかも、3階から5階までのパートしか存在していない。およそ39分間に及ぶこのクライマックスだが、しかし最終的に『死亡遊戯』完成版では11分強しか使われなかった。というのも、このシーンではブルース以外にジェームズ・ティエンとチェン・ユアンが共に最上階を目指す格闘家として登場するのだが、この2人が78年版の撮影には参加できなかった(ユアンは既に死亡していた)ため、彼らの出番を削らねばならなくなったのだ。さらに、五重塔という設定もなかったことにされ、クライマックスの舞台はシンジケートの隠れ家である料理店(香港に実在する有名な四川料理店・南北樓)の上階ということになった。ただし、ジェームズ・ティエンがカリーム・アブドゥル=ジャバーに殺される場面だけは、過去にシンジケートの犠牲となったカンフー映画スターのフラッシュバック・シーンとして前半で使用されている。 ブルースに見立てられた代役たち 完成版でブルース・リー(実際は大半のシーンが代役)が演じるのは、彼自身をモデルにしたような世界的なカンフー映画スター、ビリー・ロー。恋人の人気歌手アン・モリス(コリーン・キャンプ)が白人というのも、ブルースの実生活の妻リンダを彷彿とさせる。このところ、ビリーが主演する映画の撮影現場では不可解な事故が相次いでいるのだが、実は彼は香港を根城とする国際的な巨大シンジケートから脅されていたのだ。というのも、ドクター・ランド(ディーン・ジャガー)がボスとして君臨するシンジケートは、有名な映画スターやスポーツ選手と終身専属契約を結ぶことで、彼らの収入から違法に手数料を搾取していたのだが、しかしビリーは頑なにシンジケートとの契約を拒んでいたのである。 やがて組織からの脅迫はエスカレート。それでもビリーが屈しなかったことから、ドクター・ランドの右腕スタイナー(ヒュー・オブライエン)は、組織の刺客スティック(メル・ノヴァク)を送り込み、撮影現場のどさくさに紛れてビリーを射殺する。だが、殺されたと思われたビリーは奇跡的に一命を取り留めていた。友人の新聞記者マーシャル(ギグ・ヤング)の協力で死を偽装した彼は、密かにシンジケートへの復讐を計画することに。その一方でドクター・ランドやスタイナーは、事情を知りすぎたビリーの恋人アンを始末しようとしていた…。 実際に使用できる未公開フィルムが僅かであることから、『燃えよドラゴン』以前にブルースが主演した香港映画の映像も多数流用。例えば、ビリーが撮影現場で銃弾を受ける場面は『ドラゴン怒りの鉄拳』(’72)のラストシーンだし、本編冒頭で撮影している格闘シーンは『ドラゴンへの道』(’72)のコロッセオにおけるチャック・ノリスとの対決シーンだ。チャック・ノリスの出演はこの流用シーンだけなのだが、しかし当時の宣伝ポスターやオープニング・クレジットでは名前が堂々と使われている。まあ、いろいろと大らかな時代だった(笑)。それ以外にも、ブルース主演作の細かい映像がそこかしこで切り貼りされている(ビリーの葬儀シーンはブルース本人の葬儀映像)のだが、当然ながらそれだけではストーリーが成り立たないため、大半のシーンは別人の代役をブルースに見立てて撮影している。 代役を主に演じたのは、韓国出身のアクション俳優タン・ロン(本名キム・テジョン)とされている。ほかにもユン・ピョウやアルバート・シャムが代役を担当したシーンもあり、ユン・ピョウによるとブルースのスタントマンだったユン・ワーも参加したそうだが、誰がどこのシーンをどれくらいやったのかは、いまひとつハッキリしていない。ただ、代役がブルースと別人であることは、フィルムの質感が異なることもあって一目瞭然。最初のうちこそサングラスで顔を隠そうとしているものの、クライマックスへ至る頃にはそれすらしなくなっている。そういえば、鏡にビリーのクロースアップが映るシーンで、代役の顔部分にブルース本人の顔写真の切り抜きを合成しているのは前代未聞の珍場面だ。これは鏡に直接、写真を張り付けたとも言われているのだが、いずれにしても実に大胆不敵である(笑)。 ブルース・リーの恋人役として「共演」するのは、『メイク・アップ』(’77)や『トラック29』(’88)などで知られるカルト女優コリーン・キャンプ。『ポリス・アカデミー2全員集合!』(’85)や『ダイ・ハード3』(’95)、『スピード2』(’97)など続編女優としてもお馴染みで、最近でも『ルイスと不思議の時計』(’18)や『メインストリーム』(’20)などで健在だ。本作では劇中の挿入歌も本人が歌っている。そのほか、オスカー俳優のギグ・ヤングにディーン・ジャガー、テレビ『保安官ワイアット・アープ』(‘55~’61)のヒュー・オブライエンといった往年の名優が出演。『燃えよドラゴン』でブルース・リーの師匠役を演じたロイ・チャオが、本作では京劇俳優のおじさんとして顔を出しているのも要注目だ。また、武術指導のサモ・ハン・キンポーも、格闘技の試合シーンでシンジケートの用心棒ミラー(ロバート・ウォール)の対戦相手として登場する。 ちなみに、今やブルース・リーのトレードマークとも言える、黄色に黒のラインが入ったジャンプスーツは本作で初めて着用したもの。また、五重塔の階を上がるごとにさらなる強敵が待ち受けているというオリジナル・コンセプトも、その後の様々なアクション映画や格闘ゲームなどに影響を与えることとなった。劇場公開時からファンの間でも賛否両論あることは確かだし、これをブルース・リー主演作と呼べるのかどうか疑問ではあるものの、少なくともカンフー映画史上において重要な位置を占める作品のひとつであることは間違いないだろう。■ 『ブルース・リー/死亡遊戯』© 2010 Fortune Star Media Limited. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2021.10.01
悲壮にして喜劇。コーエン兄弟映画としての完成形『ファーゴ』
◆不器用な誘拐犯罪が誘引するユーモアと暴力 『ブラッド・シンプル』(84)『赤ちゃん泥棒』(87)『ミラーズ・クロッシング』(90)そして『未来は今』(94)など、異彩を放つノワールジャンルやオフビートコメディを監督してきた兄弟監督のジョエル&イーサン・コーエンは、本作『ファーゴ』(96)で会心の傑作をモノにした。この異様なバランス感覚のもとで調律された犯罪サスペンスは、通常の同ジャンルのものとは異なる映画体験を観る者に与える。 車のセールスマン、ジェリー・ランディガード(ウィリアム・H・メイシー)は多額の借金を抱えていた。そこで彼はふたりの誘拐犯(スティーブ・ブシェミ、ピーター・ストーメア)をやとって妻を誘拐し、裕福な義父ウェイド(ハーヴ・プレスネル)に身代金を要求することで問題を解決しようとしたのだ。 ところが彼らの不器用な計画は、すべてが裏目に出てしまう。特に二人が行きがかりでパトロール中の警官と目撃者を殺害したことから、事態は深刻な問題へと発展。それらの殺人事件が妊娠中の女性警察署長マージ・ガンダーソン(フランシス・マクドーマンド)の知るところとなり、優秀な彼女は冷静に解決へと導いていく。 映画は冒頭「本作は1987年にミネソタ州で起こった実話に基づいているが、生存者への希望から名前を変更しており、それ以外は起こったとおりに正確に語られている」というキャプションから始まる。本当はコーエン兄弟がオリジナルにまとめたストーリーで、それは地味に始まる作品にインパクトを与えるためだと二人は証言している。しかしこのハッタリの利いた冒頭文が、観る者の物語に対する構えをもたらし、特別な感情を増幅させるのだ。またクランクインからしばらくの間、キャストにも脚本が史実のアダプトだと思い込ませており、俳優の演技に真実味を持たせることに成功している。 なにより『ファーゴ』は劇中の事態が悪くなっていくにつれ、逆行して映画としての優秀性を放ち始める。派手ではないが、寒気をもよおす悲壮さと呆れるような滑稽さで充ち満ち、コーエン兄弟の演出的意匠や独自の視覚スタイルは、それらを合理的に引き立てていく。監督自身の出身地である北西部北部のノースダコタ州とミネソタ州に焦点を合わせ、独特の土地柄を活かした人間性や生活感をコントラストとし、それがユーモアのひとつとして機能する。特に現地民の発するミネソタ訛りは、映画に妙なリズムの狂いと調子のはずれた雰囲気を醸し出させ、本作独自の濃厚なカラーとなっている。 ◆名匠ロジャー・ディーキンスの撮影スタイル また『ファーゴ』の作品的特徴として、本作のシネマトグラファーであるロジャー・ディーキンス(『ブレードランナー 2049』(17)『1917 命をかけた伝令』(20)で2度の米アカデミー賞撮影賞を受賞)による撮影の取り組みが瞠目に値する。それまではコーエン兄弟のパートナー的存在として、バリー・ソネンフェルドが指導していたが、彼が『アダムス・ファミリー』(91)を機に監督業へと移行し、新たにディーキンスに白羽の矢が立ったのだ。 結果、キャリアの初期は機動性を重視したコーエン兄弟作品のカメラモーションは、スタイルをトーンダウンさせ、より観察的で定点的なアプローチを取る方向へと移行。雪と灰色の空に満ちたワイドショットやロングショットを多用し、長く拡がりが構成された白色のフレームを構築。その他あらゆる視覚テクニックをクリエイティブに使用し、劇中において特定の事象に注意を向けさせる画作りが徹底された。 『ファーゴ』はインデペンデント作品らしい限られた予算の中で、小さなバスルームのセットを除き、ミネソタとノースダコタ州で実際に使われている施設や場所を使って撮影されている。窓から射し込む外光を利用したり、既存の照明を増強するなど撮影は効率的におこなわれ、それが同作のリアルな外観へとつながっている。 ところが1995年の冬におこなわれた屋外撮影では、ここ100年間で2番目に気温の高い暖冬の影響を受け、雪を製造機で偽造する必要に迫られた。他にも氷点下におけるカメラ機材の問題など、ロケならではの困難とも格闘している。 だがその甲斐あって、コーエン兄弟は最初の『ブラッドシンプル』以来、ダークなユーモアと妥協のない凄惨な暴力とを融合させるスタイルに焦点を合わせ、それを本作において見事なまでに確立させた。この感覚は米アカデミー賞作品賞を筆頭に当時の賞レースを総ナメした『ノーカントリー』(07)で認められることとなる。 もちろん『ファーゴ』自体も商業的な成功と評論家の高い評価を得た。第69回米アカデミー賞では最優秀作品賞や最優秀監督賞を含む7つのノミネートを受け、コーエン兄弟はオリジナル脚本賞を、マージを演じたフランシス・マクドーマンドは最優秀女優賞を受賞。そして後年になり、米国の放送映画批評家協会(Broadcast Film Critics Association)が1990年代の最優秀映画を選出する投票をおこなったとき、同作は堂々の第6位に選ばれている。 1位 『シンドラーのリスト』(93 監督/スティーブン・スピルバーグ) 2位 『プライベート・ライアン』(98 監督/スティーブン・スピルバーグ) 3位 『L.A.コンフィデンシャル』(97 監督/カーティス・ハンソン) 4位 『フォレスト・ガンプ/一期一会』(94 監督/ロバート・ゼメキス) 5位 『グッドフェローズ』(90 監督/マーティン・スコセッシ) 6位 『ファーゴ』(96 監督/ジョエル・コーエン) 7位 『羊たちの沈黙』(91 監督/ジョナサン・デミ) 8位 『ショーシャンクの空に』(94 監督/フランク・ダラボン) 9位 『パルプ・フィクション』(94 監督/クエンティン・タランティーノ) 10位 『許されざる者』(92 監督/クリント・イーストウッド) ◆余波ーテレビドラマ版『ファーゴ』への発展 作品が初公開されてから、すでに25年の月日が経ち、この『ファーゴ』をテレビシリーズで認識している人も多いだろう。 シーズン5まで展開したこのテレビ版『FARGO/ファーゴ』は、68ページの企画用プロットがコーエン兄弟の目にとまり、すぐにエグゼクティブ・プロデューサーとして契約するといったミラクルな経緯を持つ。その出来はジョエルとイーサンが「読んでいて不気味な感じがした」というほど切実なものだったのだ。原案と脚本を手がけたノア・ホーリーは映画と同様、現実に思わせそれを越境した奇異なストーリーを開発したコーエン兄弟に賛辞を惜しまない。「コーエン兄弟は映画のルールにこだわらなかった。だから私たちはテレビ番組のルールにこだわる必要はなかったんだ」(*) 映画版を主旨よく拡張させたバージョンとして、接する機会があれば観てほしい副産物だ。■ 『ファーゴ』© 1996 ORION PICTURES CORPORATION. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2021.10.01
スコセッシ&デ・ニーロ。名コンビが『レイジング・ブル』でなし遂げたこと。
30代中盤を迎えたマーティン・スコセッシは、心身ともに疲弊の極みにいた。『ミーン・ストリート』(1973)『アリスの恋』(74)、そして『タクシー・ドライバー』(76)の輝かしき成功を受けて、意気揚々と取り組んだ『ニューヨーク・ニューヨーク』(77)が、興行的にも批評的にも、惨憺たる結果に終わってしまったのである。私生活で2番目の妻と離婚に至ったのも、大きなダメージとなった。 どん底から這い出すきっかけとなったのは、78年9月。入院していたスコセッシを、ロバート・デ・ニーロが見舞った時のことだった。「よく聞いてくれ、君と俺とでこれをすばらしい映画にすることができる。やってみる気はないか?」 デ・ニーロが言った「これ」とは、本作『レイジング・ブル』(80)のこと。盟友の誘いにスコセッシも、「やろう」と答えたのだった。 と言っても本作の準備は、その時にスタートしたわけではない。それよりだいぶ以前から、進められていたのである。 本作の原作は、元ボクシング世界チャンピオンで、現役時代に“レイジング・ブル=怒れる牡牛”と仇名された、ジェイク・ラモッタの自伝である。それがデ・ニーロに届いたのは、『ゴッドファーザーPARTⅡ』(74)撮影のため、73年にイタリアのシチリア島に滞在していた時。その暴力的なエネルギーとラモッタの特異なキャラクターに惹かれたデ・ニーロは、『アリスの恋』に取り組んでいたスコセッシに、この題材を持ち込んだ。 脚本は、『ミーン・ストリート』『ニューヨーク・ニューヨーク』などで2人と組んだ、マーディク・マーティンに託された。スコセッシが当初は、デ・ニーロほどは本作に乗り気でなかったこともあって、その後しばらくはマーティンに任せっぱなしとなり、何年かが過ぎた。 77年になってから、2人はマーティンの脚本を読んで、不満を覚える。そのため執筆は、『タクシードライバー』のポール・シュレーダーへと引き継がれた。 しかし、シュレーダーが書き上げた脚本には、大きな問題があった。ラモッタの性格が暗すぎる上に、シュレーダー本人が「僕が書いた中で最高の台詞」というそれは、刑務所の独房に入れられたラモッタが、自慰をしながらするモノローグだった…。 この作品に本格的に取り組むことを決めたスコセッシと、それを促したデ・ニーロの2人で、脚本に手を加えることとなった。カリブ海に浮かぶセント・マーティン島に3週間ほど缶詰めになって、シュレーダーの書いた各シーンを再検討。必要ならばセリフを書き加えて、最終稿とした。 撮影に関してのスコセッシの申し入れに、製作するユナイテッド・アーティスツは、目を白黒させた。彼の希望は、「モノクロで撮りたい」というもの。70年代も終わりに近づいたこの時期に、正気の沙汰ではない。 この頃は『ロッキー』(76)の大ヒットに端を発した、ボクシング映画ブームの真っ最中。『ロッキー』シリーズ、『チャンプ』(79)『メーン・イベント』(79)、挙げ句はカンガルーのボクサーが世界チャンピオンと闘う『マチルダ』(78)などという作品まで製作され、続々と公開されていた。 スコセッシの希望は、当然のようにカラー作品である、それらのボクシング映画とは一線を画したいという、強い思いから生じたもの。そして同時に、当時浮上していた、カラーフィルムの褪色という、喫緊の課題に対するアピールの意味もあった。 その頃に撮影の主流を占めていた、イーストマンのカラーフィルムは、プリントは5年、ネガは12年で色がなくなってしまうという、衝撃的な調査結果が出ていた。撮影から上映まで、ほぼすべてがデジタル化した、現在の映画事情からは想像がつかないかも知れないが、映画の作り手にとっては、至極深刻な問題だったのである。「…僕はこれを特別な映画にしたいんだ。それになによりも黒白は時代の雰囲気を映画に与えてくれる」そんなスコセッシの思いは届き、ユナイトはモノクロ撮影に、OKを出した。 一時期は「これが最後の監督作」とまで思っていたスコセッシの元に、79年4月のクランク・インの日、1通の電報が届いた。差出人はシュレーダー。その文面は、“僕は僕の道を行った。ジェイクは彼の道を行った。君は君の道を行け”というものだった。 *** 1964年、ニューヨークに在るシアターの楽屋。1人のコメディアンが、セリフの暗唱を行っている。その男は、42才になるジェイク・ラモッタ(演:ロバート・デ・ニーロ)。でっぷりと肥え太ったその身体には、かつての世界ミドル級チャンピオンの面影はなかった…。 時は遡り、41年。19歳のジェイクは、デビュー以来無敗を誇っていたが、初めての屈辱を味わう。ダウンを7回奪ったにも拘わらず、判定負けを喫したのだ。 妻やセコンドを務める弟のジョーイ(演:ジョー・ペシ)に当たり散らすジェイクだったが、そんな時に市営プールで、15歳の少女ヴィッキー(演:キャシー・モリアーティ)に、一目で心を奪われる。妻がいるにも拘わらず、ジェイクはヴィッキーを口説いて交際を開始。やがて2人は、家庭を持つこととなる。 43年、無敵と謳われたシュガー・レイ・ロビンソンをマットに沈めるも、その後行われたリターンマッチでは、ダウンを奪いながらも判定負けとなったジェイク。これからのことを考えると、それまで手を組むことを拒んできた裏社会の大物トミーを、後ろ盾にする他はなかった。そして、タイトルマッチを組んでもらう見返りに、ジェイクは格下の相手に、八百長で敗れるのだった。 49年、フランスの英雄マルセル・セルダンに挑戦。TKOで、ジェイクは遂に世界チャンピオンのベルトを手に入れた。しかし栄光の座を得ると共に、異常なまでの嫉妬心と猜疑心が昂じて、ジェイクは妻ヴィッキーの浮気を執拗に疑うようになる。そしてあろうことか、公私共にジェイクを支え続けてきた弟ジョーイを妻の相手と思い込み、彼に苛烈な暴力を振るってしまう。 この一件でジョーイから見放され、やがてチャンピオンの座から滑り落ちることになるジェイク。54年には引退し、フロリダでナイトクラブの経営者となるが、ヴィッキーも彼の元を去る。 遂にひとりぼっちになってしまったジェイク。その行く手には、更なる破滅が待ち受けていた…。 *** スコセッシは言う。~『レイジング・ブル』はすべてを失った男が、精神的な意味で、すべてを取り戻す物語だ~と。 その原作者であるジェイク・ラモッタは、本作のボクシングシーンの撮影中、デ・ニーロに付きっきりで、喋り方からパンチのコンビネーションまで、自分のすべてを伝授したという。中でも口を酸っぱくして指導したのが、己のファイトスタイル。それは「絶対にホールドするな」というものだった。 本作ではデ・ニーロの共演者として、ジョーイ役のジョー・ペシとヴィッキー役のキャシー・モリアーティが、一躍注目の存在となった。ペシはデ・ニーロと同じ歳だが、それまではほとんど無名の存在。ペシの過去の出演作のビデオをたまたま目にしたデ・ニーロが、スコセッシにも観ることを勧めた。スコセッシも彼の演技に興味を引かれ、会ってみることにしたのである。 ところがその時、ペシは俳優の仕事に疲れ果てて、辞めようと決意したばかり。スコセッシのオファーを、真剣に取り合おうとしなかった。 スコセッシはペシを、何とかなだめすかして、セリフ読みをしてもらうと、その喋り方が非常に気に入ったという。更に即興演技をしてもらうと、やはり素晴らしかったため、ジョーイ役を彼に頼むことに決めた。 ジョー・ペシの起用によって、呼び込まれたのが、キャシー・モリアーティだった。1960年生まれで当時18歳だったキャシーは、高校卒業後にモデルをしながら、女優を目指していた。 ペシはキャシーの近所に住んでおり、彼女がヴィッキー・ラモッタに似ていることに気が付いた。キャシーは、ペシに頼まれて自分の写真を渡し、それをスコセッシが見たことから、本作のスクリーンテストを受けることとなったのである。そして次の日には、合格の電話を受け、見事ヴィッキーの役を射止めたのだった。 役作りに際しては、ジェイク・ラモッタ本人がベッタリ付きだったデ・ニーロとは真逆に、キャシーは自分が演じるヴィッキーと会うことを、スコセッシに禁じられたという。ヴィッキー本人がセットを訪れた際も、キャシーは顔を合わせないように、仕向けられた。演技はほぼ素人で、すべて直感で演じたというキャシーが、ヴィッキーの影響をヘタに受けないようにするための配慮であったと思われる。 さて主演のデ・ニーロ。本作での役作りこそ、彼の真骨頂と言って差し支えなかろう。チャンピオンを演じるために、タイトルマッチに挑むプロボクサー以上のトレーニングを積んだのは、まだ序の口。引退後のでっぷりと太ったラモッタを演じるため、4カ月で25㌔増量という荒技に挑んだ。 フランスやイタリアまで出掛け、お腹が減らなくとも1日3回、高カロリー食を詰め込むという苦行を繰り返す。それによってデ・ニーロは、体重を72.5㌔から97.5㌔まで増やすのに、成功したのである。 役に合わせて、顔かたちや体型まで変化させる。当時はまだそんな言われ方はしてなかったが、本作ではいわゆる“デ・ニーロ・アプローチ”の究極の形が見られる。逆に『レイジング・ブル』があったからこそ、“デ・ニーロ・アプローチ”という言葉が生まれ、一般化したとも言える。 では、そんなデ・ニーロが挑むボクシング試合。スコセッシはどんな手法で作り上げたのか? 通常のボクシング映画では、リングの外に数台のカメラを置き、様々なアングルから捉えたものを、編集するというやり方が一般的である。ところが本作撮影のマイケル・チャップマンが回したカメラは、1台だけ。しかもその1台をリングの中に持ち込み、常にボクサーの動きに焦点を合わせた。 この撮影は、スコセッシが描いた絵コンテを、忠実になぞって行われた。それはパンチ1発から、マウスピースが飛んでいくようなところまで、各ショットごとに細かく描き込まれたものだった。 スコセッシは、リング上では観客がボクサーの眼を持つようにしたかったという。観客自身が、殴られているのは自分だという意識を持続するように。それもあって、試合のシーンでは、絶対に観衆を映さなかった。 サウンドも、リングで戦うジェイクの立場から作ることを決めていた。パンチがどんな風に聞こえるか? 観衆の声は、どんな風に届くのか? ライフルの発射音やメロンの潰れる音などを駆使して、結局ミキシングには、当初予定していた7週間の倍の時間が掛かったという。 本作で初めてスコセッシ作品に参加し、後々彼の作品には欠かせない存在になっていく、編集のセルマ・スクーンメイカー。彼女はこう語っている。「…監督があらかじめとことん考え抜いておかなければ、『レイジング・ブル』のような映画の編集は生まれてこないわ。あの映画を偉大にしているのは背後にある考え方であって、それはもちろん私のでなくてスコセッシのものなのよ」『レイジング・ブル』は、アカデミー賞で8部門にノミネートされ、デ・ニーロに主演男優賞、スクーンメイカーに編集賞が贈られた。この年はロバート・レッドフォードの初監督作『普通の人々』があったため、作品賞や監督賞は逃したものの、スコセッシの見事な復活劇となった。 ~『レイジング・ブル』はすべてを失った男が、精神的な意味で、すべてを取り戻す物語だ~ それはこの作品に全力を投じた、スコセッシにも当てはまることだった。■ 『レイジング・ブル』© 1980 Metro-Goldwyn-Mayer Studios Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2021.09.08
非暴力主義と平和主義を謳った巨匠ウィリアム・ワイラーの西部劇大作『大いなる西部』
西部劇はワイラー監督の原点 巨匠ウィリアム・ワイラーが手掛けた壮大な西部劇叙事詩である。およそ45年のキャリアでアカデミー賞の監督賞に輝くこと3回。『嵐が丘』(’39)や『女相続人』(’49)のような文芸映画から『我等の生涯の最良の年』(’46)のような社会派ドラマ、『ローマの休日』(’53)のようなラブロマンスから『ベン・ハー』(’59)のようなスペクタクル史劇まで、特定のジャンルやスタイルに縛られることなく多種多彩な映画を撮り続けたワイラーは、それゆえにDirector with No Signature=署名サインがない監督、つまり「ひと目で彼の映画と分かるような特徴のない監督」と揶揄されることも少なくなかったのだが、しかしそんな彼のキャリアを語るうえで欠かすことの出来ないジャンルがある。それが西部劇だ。 1902年にユダヤ系スイス人の息子としてドイツに生を受けたワイラー。少年時代から人一倍反骨精神の旺盛な問題児だった彼は、家業の服飾品店を継ぐ気もなく職を転々としていたところ、母親の遠縁の従兄弟に当たる親戚カール・レムリからアメリカへ来ないかと誘われる。そう、あのユニバーサル映画の創業社長カール・レムリである。’20年に渡米したワイラーはユニバーサルのニューヨーク本社に勤務するものの、しかし映画監督を志して撮影所のあるハリウッドへと異動することに。現場の雑用係から徐々に経験を積んでゆき、’25年には当時のユニバーサルで最年少の映画監督へと昇進する。そんな新人監督ワイラーに与えられた仕事が、サイレント期のユニバーサルが最も力を入れていたジャンル「西部劇」だった。 ‘25年から’28年までのおよそ3年間で、実に30本近くもの西部劇映画を演出したワイラー。当時アメリカの映画館では、まずニュース映像に近日公開作品の予告編、5分以内の短編アニメに30分以内の短編映画、さらに1時間以内の中編映画を経てようやくメインの長編映画を上映するというパッケージ形式が一般的だった。まだ経験の浅い新人ワイラーの手掛けた西部劇も、そうした併映用の短編・中編映画だったのである。各作品の予算は上限2000ドル。金曜日に脚本を渡されて土曜日にキャスティングや打ち合わせを行い、翌週の月曜日から水曜日までの3日間で撮影完了。追加撮影などが必要な場合は予備の木曜日を使い、金曜日にはまた新たな脚本を渡される。当時の家内工業的なスタジオシステムだからこそ可能だったスケジュールだが、こうした時間にも予算にも厳しい制約がある中での西部劇製作は、ワイラーにとって映画監督としての技術を磨く格好の修行現場でもあった。要するに、西部劇は映画監督ウィリアム・ワイラーの礎を築いた重要なジャンルだったのである。そして、巨額の予算を投じた3時間近くにも及ぶ超大作『大いなる西部』(’58)は、まさしくその集大成的な映画だったと言えるだろう。 開拓時代と近代化の狭間で揺れ動く大西部の物語 舞台は西部開拓時代も終わりに差し掛かった19世紀末、南北戦争後のアメリカ。東海岸の大都会ニューヨークから、テキサスの田舎町へとひとりの青年紳士がやって来る。海運業を営む裕福な家系の御曹司ジム・マッケイ(グレゴリー・ペック)だ。そんな彼を出迎えたのは、地元の大地主ヘンリー・テリル少佐(チャールズ・ビックフォード)の愛娘パトリシア(キャロル・ベイカー)。数か月前にニューヨークで知り合い恋に落ちた2人は、パトリシアの実家で結婚式を挙げることになったのだ。いかにも都会的な洗練された身なりのジムに好奇の眼差しを向ける住民たち。ジムもまたジムで、西部開拓時代そのままの地元住民の好戦的な価値観に戸惑いを覚える。中でも、平和を愛する非暴力主義者のインテリ青年ジムにとって受け入れ難いのは、これから義父となるテリル少佐とその宿敵ルーファス・ヘネシー(バール・アイヴス)の血で血を洗うような激しい対立だった。 豊かな牧草地帯に大豪邸を構えるテリル家と、荒涼とした山岳地帯のあばら家に暮らすヘネシー家。どちらも広大な土地と大勢の牧童を擁する地元の2大勢力なのだが、それゆえ当主であるテリル少佐とルーファスは昔から犬猿の仲で、両家はなにかにつけていがみ合っていた。ジムも到着早々にヘネシー家の長男バック(チャック・コナーズ)とその子分たちから嫌がらせを受けるのだが、一切抵抗することなくやり過ごす。余計な争いごとは起こしたくなかったからだ。しかし、それを知ったテリル少佐はジムに忠告する。この土地では力を持つ男だけが尊敬され勝ち残ることが出来る。反対に優しさは弱さと受け取られ、弱みを見せた者は引きずりおろされるのだと。この嫌がらせ事件を機にテリル家とヘネシー家の争いは本格化。安易な暴力的手段に訴える両家を強く非難するジムだったが、そんな彼の主張を婚約者パトリシアは理解できず恥だと感じ、彼女を秘かに愛する牧童頭スティーヴ・リーチ(チャールトン・ヘストン)もジムのことを女々しい腰抜けだと蔑む。 この無益な争いを終わらせるにはどうすればいいのか。思い悩むジムが着目したのは、パトリシアの親友である女教師ジュリー(ジーン・シモンズ)が所有する土地だった。亡き祖父からジュリーが相続した土地には近隣で最大の水源ビッグ・マディがあり、これがテリル家とヘネシー家が対立する大きな理由のひとつだった。テリル少佐もルーファスもビッグ・マディを自分のものにしようと狙っていたのだ。そこでジムは、自分がビッグ・マディを買い取ることを思いつく。テリル少佐でもルーファスでもない第三者の自分が水源を所有し、テリル家だろうかヘネシー家だろうが分け隔てなく平等に開放することで、争いごとの根源を絶つことが出来るのではないかと考えたのだ。ジムと同じく平和主義者のジュリーも賛成し、彼に土地を売り渡すことにするのだが、しかしこれが思いがけない波乱を招くこととなってしまう…。 トラブル続きだった撮影の舞台裏 先住民の襲来や大自然の脅威などに武器を持って立ち向かい、障害を取り除いて自分の所有地を切り拓いていく。これは、そんな暴力と略奪に根差した西部開拓時代のフロンティア精神を真っ向から否定する野心的な西部劇だと言えよう。米陸軍航空隊中佐として第二次世界大戦のヨーロッパ戦線に参加したワイラーは、戦後になると復員兵の苦悩を通して平和な日常の尊さを描いた『我等の生涯の最良の年』や、独立戦争に巻き込まれたクエーカー教徒の葛藤を描く『友情ある説得』(’56)など、たびたび反戦や非暴力主義をテーマにするようになったのだが、本作などはまさにその真骨頂と言えるだろう。本当の強さとは腕力や勇気を誇示することでもなければ、ましてや喧嘩に勝つことでもない。どこまでも己の理想と信念を貫き通すことであり、自分だけではなくみんなの幸福のため、忍耐強く粘ってでも平和と共存を目指すことである。ジムが暴れ馬を根気よく手懐けて乗りこなすようになる様子を描いたシーンなどは、まさにその象徴と言えよう。そのうえで、ジムとスティーヴの殴り合いをロングショットのカメラで淡々と描くことによって、ワイラーは厳かな眼差しで暴力の無意味さを浮き彫りにしていく。 と同時に、本作は無益な争いの本質をも炙り出した映画でもある。敵対するテリル少佐もルーファスも、我の側にこそ正義があると思い込んでいるが、しかし彼らの考える正義とは単なる己の利益とか欲とかプライドに過ぎず、そもそも初めから正義などと呼べるような代物ではない。「正義の反対は別の正義」などというのはただの幼稚な詭弁だ。本当の正義とは立場や考え方の違いに関係なく他者の権利を尊重し、困っている者があれば手を差し伸べ、争うことなく利益や恵みを分かち合い、多様な人々が共存共生していくことなのではないか。現代にも通じるこのメッセージには、恐らく本作の直前にハリウッドを吹き荒れたマッカーシズムに対する強い批判が込められているのだろう。なにしろ、ワイラーはジョン・ヒューストン監督や女優マーナ・ロイと並んで、赤狩りに抗議するリベラル映画人組織「アメリカ合衆国憲法修正第1条委員会」を立ち上げた発起人のひとりである。しかも、本作の企画を彼のもとへ持ち込んだのは、ハリウッドきっての平和主義者で人道主義者でもあった主演俳優グレゴリー・ペック。マッカーシズム的な保守主義や利己主義に対するアンチテーゼが、ストーリーの根底に流れていても何ら不思議はない。むしろ、そう考えるのが自然だ。 いわば、ハリウッドを代表するリベラルの監督と俳優がタッグを組んだ本作。ペックはプロデューサーも兼任し、まさしく二人三脚の共同プロジェクトとなったのだが、しかしその舞台裏はトラブル続きだったという。最大の問題は脚本。ドナルド・ハミルトンの原作小説に惚れ込んだワイラーとペックだったが、しかし合計で5人の脚本家が携わった脚本は満足のいくものではなく、撮影に入ってからもワイラーとペックの2人が現場で書き直しを続けたため、俳優陣は大いに混乱することとなってしまう。なにしろ、せっかく覚えたセリフも撮影時に変えられてしまうのだから。しかも、納得がいくまで何度でもリテイクを重ね、俳優には一切演技指導をしないことで有名なワイラー監督。「撮影現場は演技学校じゃない」という考え方のワイラーは、俳優が自分の頭で考えて軌道修正することを求めていたのだが、それゆえにスターと軋轢が生じることも多かった。本作の場合も、度重なる脚本の変更とリテイクで女優ジーン・シモンズがノイローゼになってしまい、ベテラン俳優チャールズ・ビックフォードも強く反発したという。さらに、キャロル・ベイカーが妊娠を理由に終盤で撮影から降板するという事態まで起きてしまった。 しかし、それらの問題以上に深刻だったのがワイラー監督とペックの不和である。その最初のきっかけは、劇中で使用する牛をプロデューサーであるペックが4000頭オーダーしたのに対し、共同プロデューサーを兼ねるワイラーが「予算の無駄遣いだ」として400頭に減らしたこと。ここから2人の意見の違いが少しずつ表面化し、主人公ジムがヘネシー家の長男バックらに嫌がらせを受けるシーンを巡って決定的となってしまった。自分の演技に不満のあったペックは撮り直しを要求したのだが、ワイラーは理由も言わず無視を決め込んだため、怒ったペックは撮影を放棄してロスの自宅へ戻ってしまったのだ。結局、残りの出番をこなすため現場復帰したペックだったが、しかしワイラー監督とは一言も喋らず、『ローマの休日』で意気投合して大親友となった2人は、本作を最後に絶縁してしまう。その後、’76年にワイラー監督がアメリカ映画協会(AFI)から生涯功労賞を授与された際、その授賞式にペックが出席したことで、ようやく拗れた関係を修復することが出来たという。 それとは反対に、本作を機にワイラーと親交を深めたのがスティーヴ・リーチ役のチャールトン・ヘストン。ちょうど『十戒』(’56)でスターダムを駆け上がったばかりのヘストンは、キャストクレジットが4番目の脇役であることを不満に思い、当初は本作のオファーを断っていた。ところが、それでもワイラー監督が「この役は君じゃないとダメだ」と諦めないことから、言うなれば根負けしてスティーヴ役を引き受けたのだという。そんな監督の期待に応えて、フロンティア精神の塊だった好戦的な男スティーヴが、反発しながらもジムの平和主義に少しずつ感化され、やがて暴力の虚しさに気付いていく姿をパワフルに演じるヘストンが素晴らしい。この演技に強い感銘を受けたワイラーが、次作『ベン・ハー』の主演に彼を起用したのも大いに納得である。そういう点でも、本作はワイラーとヘストンのキャリアにおいて重要な位置を占める作品と言えるだろう。■ 『大いなる西部』© 1958 Estate of Gregory Peck and The Estate of William Wyler. All Rights Reserved.