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コラム・ニュース一覧
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COLUMN/コラム2022.01.21
“観るバンド・デシネ”を実現させた『バンカー・パレス・ホテル』
◆描画スタイルを徹底して実写へと置換 マンガ家が映画監督として、商業長編映画を手がけることはままある。日本だと石井隆や、あるいは大友克洋あたりが周知の例だろう。しかしアニメーションならいざしらず、実写映画に自分の描画スタイルや色調、あるいは構図などを徹底して置換したような、そんな作家純度の高い作品を目にすることなどまれだ。 そうした前提において、1989年に公開されたSF映画『バンカー・パレス・ホテル』は衝撃的だった。監督を務めたエンキ・ビラルの、自身がマンガ家として描く画のような世界が、見事なまでに実写へと置き換えられていたからだ。沈んだ色調やソフトフォーカス、建造物のレリーフに加え、深く皺の刻まれた顔相やスキンヘッドの男、はてはヒロインのヘアカラーに至るまで、徹頭徹尾ビラルのバンド・デシネそのままなのである。 念のために説明しておくと、バンド・デシネとはフランス語で「バンド(帯)状のデッサン」を意味し、同国やベルギーにおけるコミックのことを指す。由来はコミックアーティスト、クリストフのレイアウトが原型とされており、左から横に流れていくように絵ゴマが並列し、下部に状況説明のキャプションが添えられるスタイルが、延いては呼称となったのだ。 ◆バンド・デシネの貴公子ビラル ビラルは、そんなバンド・デシネを代表する作家の重要人物といえる。1951年に旧ユーゴスラビアのベオグラードで生まれ、5歳のときに父が政治亡命者としてパリに移住。エンキと残りの家族は4年後に後を追い、パリ近郊のラガレンヌ=コロンブに住み始める。フランス語の勉強も重ねてバンド・デシネの雑誌を読みあさり、それがきっかけとなって71年にコミック雑誌「ピロット」のコンクールに投稿して入賞。編集者ルネ・ゴシニの支援を受け、21歳でマンガ家デビューを果たした。 その後、脚本家のビエール・クリスタンと出会い、彼の原作による "Partie de chasse"の連載をスタートさせ、75年には初となる単行本 "La Croisiére des Oubliés"を出版。政治的なテーマへの取り組みやリアリティにあふれたタッチを確立させている。 そんなビラルをSFジャンルに傾倒させたのは 1976年からファンタジーやSFジャンルを専門としたコミック誌「メタル-ユルラン」に参加したことが起点となっている。ジャン“メビウス”ジローやフィリップ・ドリュイエ、ベルナール・ファルカといった気鋭のマンガ家たちが創刊した同誌は、「ヘビー・メタル」の誌名でアメリカで翻訳出版され、バンド・デシネの世界進出に大きく貢献した。ビラルもそんな経緯を一助に、1980年から1992年にわたって自身の代表作ともいえる「ニコボル3部作」などを完成させ、メビウスと並んでバンド・デシネを代表する存在となったのだ。 ◆オムニバス短編から発展した企画 同時にビラルは映画界との接点を持ち、アラン・レネの監督による『アメリカの伯父さん』(80)や、ヴェルナー・ヘルツォークが手がけた『緑のアリが夢見るところ』(84)のボスターイラストを担当。また別のアラン・レネ作品" La vie est un roman "(82)ではプロダクションデザインに就き、セット美術を手がけたり、さらにはマイケル・マンの『ザ・キープ』(84)においてクリーチャーデザインを、86年にはジャン=ジャック・アノーの『薔薇の名前』のストーリー・ボードを描くなど、直接的に本編の制作へと関与していく。 こうした経験を経て、ついに自らが監督となる転機が訪れる。それは1985年から86年にかけて、マンガ家が短編映画を共同制作するアンソロジーの企画が浮上したことに端を発する。参加メンバーはビラルを含め、先のメビウスやドリュイエ、ジャック・タルディにルネ・ペティヨンといった、バンド・デシネ界を代表するアーティストたちで、彼らがそれぞれ15分の短編を監督するという豪華プロジェクトである。残念ながら諸々の事情で実現は叶わなかったが、このときにビラルの準備したプロットが『バンカー・バレス・ホテル』の原型となり、それを長編用へと発展させたのが本作となったのだ。 また作品内容もビラルがこれまでにバンド・デシネで取り上げてきたような、重苦しく体制的な世界が描かれている。舞台は近未来における、大統領による独裁政権が崩壊した都市。政府の高官たちは革命の戦火から逃れるために、秘密のホテルに参集する。ここは居住者を守るために地下深くに建造されたバンカー(陣地壕)であり、同時に派手な贅沢を好む高官にふさわしいパレス(宮殿)でもある。ところが不思議なことに、大統領の到着が遅れているではないか。彼は死んだのか? それとも彼らを見捨てたのか——? リーダーを失い、バンカー・パレス・ホテルの人々は次第に混乱に陥っていく。そして、追い詰められた彼らの不安がもたらしたものとは、いったい……。 ◆不条理と強大な権力の狂気がテーマ 映画はバルカン半島とベオグラードで撮影が敢行された。理由はおおまかにふたつあり、ひとつは街にある建築物の外観と内装がそのまま撮影に使えるくらい風雅に満ち、そして趣きがあったことだ。とりもなおさずそれは、ビラルの描画に見られるタッチの源泉として、彼の生まれ故郷の風景があるということを証明している。そしてもうひとつは、この映画が20世紀における、政治体制の本質についての物語だということを認識し、そこには独裁的に自身の生まれ故郷を統治した、ミロシェヴィッチ政権への皮肉に満ちた糾弾が込められているからだ。不条理と強大な権力の狂気が作品のテーマだ、とビラルは言う。「特権階級を持つ者は、絶対に絶対権力を持つことになる。そうなると、その者の人間性を喪失してしまうのだ」と——。 『バンカー・パレス・ホテル』は観念的な内容ながらも好評を博し、エンキ・ビラルはマンガ家活動と並行させて『ティコ・ムーン』(97)や『ゴッド・ディーバ』(04)といった諸作を監督。どちらも視覚効果が比重を増し、より自身のアート世界に近づいた絵作りを提供していく。そういう点では、本作が自分の原作とは違う、映画用に用意されたオリジナルのストーリーだという事実にも驚きを禁じ得ない。つまり既存するイメージの転写ではなく、まったく無からビラル的世界が生み出されているのだから。 ちなみに『ゴッド・ディーバ』の日本公開時、同作のプロモーションでビラルは来日を果たし、筆者は彼にインタビューをする機会に恵まれた。そこで前述した「なぜここまで自分の絵に近づけた映像づくりができるのか?」を訊いたところ、「映画とバンド・デシネとの表現方式の違いから、そこはむしろ意識的に異なるよう心がけているのに、どうしても同一のイメージに落ち着いてしまうんだ」と苦笑しながら答えてくれた。また自身の作品づくりを刺激するものとして、『風の谷のナウシカ』(84)や『もののけ姫』(97)など、宮﨑駿監督への敬意を挙げていたのが興味深く思い出される。■ *『バンカー・パレス・ホテル』エンキ・ビラル監督が自著に描き入れたサイン(筆者所有) 『バンカー・パレス・ホテル』© 1988-TF1 INTERNATIONAL-FRANCE 3 CINEMA-ARTE-TELEMA
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COLUMN/コラム2022.01.07
タランティーノの名を世界に轟かせたデビュー作『レザボア・ドッグス』
クエンティン・タランティーノは、焦っていた。1963年生まれの彼は、映画監督デビューを目論んで、20代前半から5年の間に、『トゥルー・ロマンス』『ナチュラル・ボーン・キラーズ』という、2本の脚本を執筆。しかし夢の先行きは、まったく見えてこなかった…。 これらの脚本は、高値と言える額ではないが、売れて、彼をバイト生活から脱け出させてくれた。しかしそれと同時に、嫌というほど思い知らされたのである。無名の存在である自分に大金を注いで、監督をやらそうなどという奇特な御仁は、この世には存在しないことを。 彼は思い至った。「…3万㌦で撮れる映画を書こう…」と。ストーリーは、強盗たちが主役のクライムもの。しかし犯行の様子は描かず、物語のほとんどは倉庫の中で展開する。16mmのモノクロフィルムを使用し、キャストは友人たちで固める。 これだったら、今までに脚本料として得た金を製作費にして、短期間で撮り上げられるに違いない。やっと、自分の監督作品が撮れる! しかし神はタランティーノに、そこまでチープな作品作りをすることを、許さなかった。彼が出席したあるパーティの場で、1人の男と出会わせ、大いなる伝説の幕開けを演出したのである。 その男の名は、ローレンス・ベンダー。タランティーノより6つほど年上で30代前半だったこの男は、役者崩れのプロデューサー。と言っても、まだ駆け出しだった。彼は、タランティーノが映画化権を手放した、『トゥルー・ロマンス』の脚本をたまたま読んでおり、その書き手にいたく興味を抱いていたのである。 それがきっかけとなって、タランティーノはベンダーに、自分が監督しようと思って書き進めている、『レザボア・ドッグス』というタイトルの脚本のことを話した。その内容に感銘を受けたベンダーは、映画化の企画を一緒に進めたいと伝え、製作費の調達のために、1年間の猶予が欲しいと申し出た。 しかしタランティーノは、もう待てなかった。この5年間、映画監督になろうと費やした労力は、まったくの無駄に終わっている。更に1年なんて、冗談じゃない。 話し合いの結果、ベンダーには2カ月だけ猶予が与えられた。2カ月経ってメドが立たなかったら、手持ちの製作費3万㌦で撮ると。その時に2人の間で交わされた同意書は、紙の切れ端にお互いが殴り書きのようにサインしたものだったという。 仕上がった脚本を手に、ベンダーの奔走が始まる。すぐにリアクションがあったのが、アメリカン・ニューシネマのカルト作品『断絶』(1971)などの監督として知られる、モンテ・ヘルマン。当初はこの脚本を、自分の監督作品として映画化したいという意向だったヘルマンだが、タランティーノの「自ら監督したい」という情熱を買って、プロデューサーの立場からサポートすることを、決めた。 タランティーノもベンダーも、是非とも出演して欲しいと願っていた俳優がいた。『ミーン・ストリート』(73)『タクシードライバー』(76)などのマーティン・スコセッシ作品で世に出た後、長き不遇の時を経て、90年代に入ると、『テルマ&ルイーズ』(91)『バグジー』(91)などの作品で高い評価を得るに至った、ハーヴェイ・カイテルである。 ベンダーが知己である演技コーチに、その旨を話すと、何とそのコーチの妻が、カイテルとは若き日からの知り合いだった。こうした伝手で、脚本を届けてもらうことになって数日後、ベンダーの元に電話が入った。「…読ませてもらったよ。これについて君とぜひ話をさせてもらいたいんだが」 カイテルの声だった。物事は、俄然良い方向へと転がり出す。 製作に入った「LIVEエンターテインメント」がノリ気になって、160万㌦まで出資してくれることになった。ハリウッドの基準で言えば、相当な低予算ではあるが、はじめにタランティーノが考えていた3万㌦の、実に50倍以上のバジェットである。 カイテルは、自分以外のキャストを探すのに、協力を惜しまなかった。オーディションの会場を提供したり、タランティーノとベンダーが俳優たちに会うための旅費まで負担してくれた。こうしてティム・ロスやマイケル・マドセン、スティーヴ・ブシェミといった、当時はまだ無名に近かったが、実力を持った俳優陣が、『レザボア・ドッグス』に出演することが決まっていった。 タランティーノとベンダーは、カイテルの労に報いるため、彼を“共同製作者”としてもクレジットすることを提案した。カイテルもまた、その申し出を喜んで受けたのだった。 この作品が飛躍するのには、ロバート・レッドフォードが興した、若手映画人の登龍門「サンダンス映画祭」も一役買った。本作のクランクイン前、タランティーノはヘルマンの推薦で、「サンダンス」のワークショップに参加。クランクインに先駆けて、『レザボア・ドッグス』の数シーンをテスト撮影し、有名フィルムメーカーから指導を受けることとなった。 タランティーノは、後に彼の作品の特徴となる、冗長とも取れる長回し撮影を敢行。仕上がったものを見て、軌道修正を求める講師が少なくなかったが、その逆に強く勇気づけてくれる者が現れた。モンティ・パイソンのメンバーで、『未来世紀ブラジル』(85)などを監督した、テリー・ギリアムである。「自分を信じろ」これが、ギリアムからタランティーノへのエールだった。 こうしたプロセスを経て、『レザボア・ドッグス』が撮影されたのは1991年、猛暑の夏であった。 ***** ダイナーで朝食を取りながら、マドンナの大ヒット曲「ライク・ア・ヴァージン」の歌詞の解釈について、無駄話を繰り広げる一団が居た。黒いスーツに白いシャツ、黒のネクタイに身を包んだ6人の男と、リーダーらしき年輩の男、そしてその息子だ。 彼らは、宝石店の襲撃計画を立てている強盗団。お互いの素性も知らず、リーダーに割り当てられた“色”を、お互いの呼び名にしていた…。 市街を猛スピードで走る、一台の車を運転するのは、強盗団の1人で、Mr.ホワイトと呼ばれる男(演:ハーヴェイ・カイテル)。そしてバックシートには、腹を撃たれて苦悶にのたうち回る、Mr.オレンジ(演:ティム・ロス)が居た。 強盗後の集合場所だった倉庫に着くと、Mr.ピンク(演:スティーヴ・ブシェミ)も逃げ込んで来る。彼らの犯行は、店の警報が鳴り始めた時に、Mr.ブロンド(演:マイケル・マドセン)がいきなり銃を乱射したため、無残な失敗に終わっていた。追跡する警官に撃たれて、命を落とす仲間も出たようだ。 ピンクは、警官隊の動きがあまりにも早かったことを指摘。自分たちが罠にハメられたこと、メンバーの中に裏切り者が居ることなどを、まくし立てる。 あまりの苦痛に気絶したオレンジの扱いについて、ホワイトとピンクは対立。銃を向け合っているところに、ブロンドが現れる。彼は1人の若い警官を、人質として拉致して来たのだった…。 ***** 処女作には、その監督のすべてが詰まっているというが、本編の内容と直接は関係ない無駄話という、タランティーノ作品のアイコンのようなシーンから幕開けとなる、『レザボア・ドッグス』。 先にも記したが、強盗団を主役としつつも、犯行の様子を直接描くことはなく、物語のほとんどは倉庫の中で展開していく。その中で、主要メンバーが強盗団に加わった経緯や犯行後の逃走劇など、過去の出来事が織り交ぜられていく構成である。裏切り者の正体も、その中で明かされる。 時間の流れを、タランティーノは観客に見せたい順番に並べ替える。この手法はこの後、監督第2作の『パルプ・フィクション』(94)で究極の冴えを見せることになるが、それに先立つ本作でも、見事にハマっている。 本作のお披露目上映となったのは、92年1月、ゆかりの「サンダンス映画祭」にて。その際には本作の、こうした斬新なアプローチが、大きな反響を沸き起こした。それと同時に、Mr.ブロンドがダンスをしながら、人質の警官の耳を削ぐという衝撃的な拷問シーンに、席を立って退場する者も相次いだという…。 何はともあれこの時の「サンダンス」で、『レザボア・ドッグス』は賞こそ逃したものの、№1の注目を集めた。批評家たちから熱い支持の声が上がると同時に、配給会社間の争奪戦が勃発。結果的にはハーヴェイ・ワインスタイン率いる「ミラマックス」が、本作を掌中に収めた。 その後「カンヌ」「トロント」といった国際映画祭を経て、92年10月に本作はアメリカ公開された。興行収入は、283万2,029㌦。160万㌦の製作費は回収できたが、ヒットと言える数字ではなかった。しかしタランティーノ本人は、その独特な風貌と、インタビューなどでの当意即妙な受け答えがウケて、一躍マスコミの寵児となる。 その後タランティーノは、『レザボア・ドッグス』を上映するヨーロッパ全土の映画祭、そしてアジアへと足を延ばす。その一環で93年2月には、北海道の「ゆうばり国際冒険・ファンタスティック映画祭」に参加。余談になるが、「ゆうばり」滞在中に『パルプ・フィクション』のシナリオを執筆していたことや、後に『キル・ビル vol.1』(93)で日本を舞台にしたシーンに登場する、栗山千明演じる女子高生殺し屋に、“GOGO夕張”という役名を付けたのは、広く知られている。 世界のどこに行っても映画ファンの心を掴み、人気者となったタランティーノ。アメリカでは「今イチ」の成績に終わった劇場公開だが、フランスでは、1年以上のロングランに。またイギリスでは、600万㌦もの興収を上げる大成功を収めた。 こうした人気は、本国に逆輸入された。本作のビデオがアメリカで発売されると、90万本という、予想の3倍に上る売り上げを記録したのである。 このようなタランティーノ旋風の中で、突如盗作疑惑が持ち上がった。本作のプロットが、チョウ・ユンファ扮する刑事が宝石強盗団への潜入捜査を行う、リンゴ・ラム監督の香港映画『友は風の彼方に』(87)のパクりであるとの指摘がされたのである。特にラスト20分の展開が酷似しているのは、両作を観た者の目には、明らかだった。 これに対してタランティーノは、「俺はこれまで作られたすべての映画から盗んでいる」と応えた。更には、黒澤明の『羅生門』(50)や、スタンリー・キューブリックの『現金に体を張れ』(56)等々の影響も、胸を張って認めたのである。 狂的な映画マニアであるタランティーノは、この後は作品を発表する度に、元ネタとなった作品たちのことを、喜々として語るようになる。そのため「盗作」などという指摘は、まったく有効ではなくなった。 すべてのタランティーノ作品は、様々な過去の作品のコラージュであり、パッチワークであることが、今では広く知られている。オリジナリティーがないことを自ら吐露しながら、魅力的な作品を世に放ち続けるなど、凡百の作り手には到底マネできない。 そんなタランティーノも、本作で監督デビューしてから、今年でちょうど30年。かねてより、長編映画を10本撮ったら、映画監督を引退すると公言しているタランティーノだが、『vol.1』『vol.2』の2部作となった『キル・ビル』を1本とカウントして、次回作がちょうど10本目となる。 ここは是非、宮崎駿やスティーヴン・ソダーバーグなどの先人の振舞いをパクって、10本撮った時点での「引退」撤回を期待したいところであるが…。■ 『レザボア・ドッグス』© 2020 Lions Gate Entertainment. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2022.01.06
「シネラマ」方式の醍醐味を存分に味わえるスペクタクルなウエスタン巨編!『西部開拓史』
映画界に革命を起こした「シネラマ」とは? 激動する開拓時代のアメリカ西部を舞台に、フロンティア精神を胸に新天地を切り拓いた家族三代の50年間に渡る足跡を、当時「世界最高の劇場体験」とも謳われた上映システム「シネラマ」方式の超ワイドスクリーンで描いた壮大なウエスタン叙事詩である。全5章で構成されたストーリーを演出するのは、西部劇映画の神様ジョン・フォードに『悪の花園』(’54)や『アラスカ魂』(60)のヘンリー・ハサウェイ、喜劇『底抜け』シリーズのジョージ・マーシャルという顔ぶれ。役者陣はジェームズ・スチュワートにグレゴリー・ペック、デビー・レイノルズ、ヘンリー・フォンダ、キャロル・ベイカー、ジョージ・ペパード、そしてジョン・ウェインなどの豪華オールスター・キャストが勢揃いする。1963年(欧州では’62年に先行公開)の全米年間興行収入ランキングでは『クレオパトラ』(’63)に次いで堂々の第2位をマーク。アカデミー賞でも作品賞を筆頭に合計8部門でノミネートされ、脚本賞や編集賞など3部門を獲得した名作だ。 本稿ではまず「シネラマとは何ぞや?」というところから話をはじめたい。というのも、映画界の革命とまで呼ばれて一世を風靡した「シネラマ」方式だが、しかしその本来の規格に準じて作られた劇映画は本作および同時期に撮影された『不思議な世界の物語』(’62)の2本しか存在しないのだ。今ではほぼ忘れ去られた「シネラマ」方式とはどのようなものだったのか。なるべく分かりやすく振り返ってみたいと思う。 「シネラマ」とは3本に分割された70mmフィルムを同時に再生してひとつの映像として繋げ、アスペクト比2.88:1という超横長サイズのワイドスクリーンで上映する特殊規格のこと。撮影には3つのレンズとフィルム・カートリッジを備えた巨大な専用カメラを使用し、劇場で上映する際にも3カ所の映写室から別々のフィルムを同時に専用スクリーンへ投影する。その専用スクリーンも縦9m、横30mという巨大サイズ。しかも、観客席を包み込むようにして146度にカーブしていた。さらに、サウンドトラックは7チャンネルのステレオサラウンドを採用。各映画館には専門の音響エンジニアが配置され、劇場の広さや観客数などを考慮しながらサウンド調整をしていた。このような特殊技術によって、まるで観客自身が映画の中に迷い込んでしまったような臨場感を体験できる。いわば、現在のIMAXのご先祖様みたいなシステムだったのだ。 考案者はパラマウント映画の特殊効果マンだったフレッド・ウォーラー。人間の視覚を映像で忠実に再現しようと考えた彼は、実に14年以上もの歳月をかけて「シネラマ」方式のシステムを開発したのだ。その第一号が1952年9月30日にニューヨークで封切られた『これがシネラマだ!』(’52)。まだ長距離の旅行が一般的ではなかった当時、アメリカ各地の雄大な自然や観光名所を鮮やかに捉えたこの映画は、その画期的な上映システムと共に観光旅行を疑似体験できる内容も大きな反響を呼んだ。以降、シネラマ社は10年間で8本の紀行ドキュメンタリー映画を製作する。 この「シネラマ」方式の大成功に刺激を受けたのがハリウッドのスタジオ各社。当時のハリウッド映画はテレビの急速な普及に押され、全盛期に比べると観客動員数は半分近くにまで激減していた。映画館へ客足を戻すべく頭を悩ませていた各スタジオ関係者にとって、『これがシネラマだ!』の大ヒットは重要なヒントとなる。そうだ!テレビの小さな箱では体験できない巨大な横長画面で勝負すればいいんだ!というわけで、20世紀フォックスの「シネマスコープ」を皮切りに、パラマウントの「ヴィスタヴィジョン」にRKOの「スーパースコープ」、「シネラマ」の出資者でもあった映画製作者マイケル・トッドの「トッド=AO」など、ハリウッド各社が独自のワイドスクリーン方式を次々と開発。これを機にハリウッド映画はワイドスクリーンが主流となっていく。とはいえ、いずれもアナモルフィックレンズで左右を圧縮したり、通常の35mmフィルムの上下をマスキングしたりなど、カメラもフィルムも映写機もひとつだけという似て非なる代物で、映像と音声の臨場感においても迫力においても「シネラマ」方式には及ばなかった。 とはいえ、アトラクション的な傾向の強いシネラマ映画は鮮度が命で、なおかつ似たような紀行ドキュメンタリーばかり続いたことから、ほどなくして観客から飽きられてしまう。そこで、危機感を持ったシネラマ社はハリウッドのメジャースタジオMGMと組んで、史上初の「シネラマ」方式による劇映画を製作することに。その第1弾が『不思議な世界の物語』と『西部開拓史』だったのである。 西部開拓時代の苦難の歴史を描く壮大な叙事詩 ここからは、エピソードごとに順を追って『西部開拓史』の見どころを解説していこう。 第1章「河」 監督:ヘンリー・ハサウェイ 天下の名優スペンサー・トレイシーによるナレーションで幕を開ける第1章は、西部開拓時代の黎明期である1838年が舞台。オープニングのロッキー山脈の空撮映像は『これがシネラマだ!』からの流用だ。アメリカ東部から西部開拓地を目指して移動する農民のプレスコット一家。父親ゼブロン(カール・マルデン)に妻レベッカ(アグネス・ムーアヘッド)、娘のイヴ(キャロル・ベイカー)とリリス(デビー・レイノルズ)は、旅の途中で毛皮猟師ライナス・ローリングス(ジェームズ・スチュワート)と親しくなる。大自然と共に生きる逞しいライナスに惹かれるイヴだったが、しかし自由を愛するライナスは家庭を持って落ち着くつもりなどない。ところが、近隣の洞窟を根城にする盗賊ホーキンズ(ウォルター・ブレナン)の一味がプレスコット一家を襲撃。助けに駆け付けたライナスはイヴへの深い愛情を確信する。 アメリカン・ドリームを夢見て大西部を目指す農民一家を待ち受けるのは、美しくも厳しい雄大な自然と素朴な開拓民を餌食にする無法者たち。当時の西部開拓民がどれほどの危険に晒されていたのかがよく分かるだろう。オハイオ州立公園やガニソン川でロケをした圧倒的スケールの映像美に息を呑む。中でも見どころなのはイカダでの激流下り。臨場感満点の主観ショットはシネラマ映画の醍醐味であり、見ているだけで船酔いしそうなほどの迫力だ。ちなみに、盗賊一味が旅人を罠にかける洞窟酒場のロケ地となったオハイオ州のケイヴ・イン・ロックスでは、実際に19世紀初頭にジェームズ・ウィルソンという盗賊が酒場の看板を掲げ、仲間と共に誘拐や強盗、偽金作りを行っていたらしい。なお、盗賊ホーキンズの手下として、あのリー・ヴァン・クリーフが顔を出しているのでお見逃しなきよう。 第2章「平地」 監督:ヘンリー・ハサウェイ それから十数年後。農民の暮らしを嫌って東部へ舞い戻ったリリス(デビー・レイノルズ)は、セントルイスの酒場でショーガールとして働いていたところ、亡くなった祖父からカリフォルニアの金山を相続したと知らされる。これを立ち聞きしていたのが、借金で首が回らなくなった詐欺師クリーヴ(グレゴリー・ペック)。西へ向かう幌馬車隊があることを知り、気のいい中年女性アガタ(セルマ・リッター)の幌馬車に乗せてもらうリリス。そんな彼女に遺産目当てで近づいたクリーヴは、自分と似たような野心家のリリスに思いがけず惹かれていくのだが、しかし幌馬車隊のリーダー、ロジャー(ロバート・プレストン)もまたリリスに想いを寄せていた。 ロマンスありユーモアありミュージカルあり、そしてもちろんアクションもありの賑やかなエピソード。ここは『雨に唄えば』(’52)のミュージカル女優デビー・レイノルズの独壇場で、彼女のダイナミックな歌とダンス、チャーミングなツンデレぶりがストーリーを牽引する。イカサマ紳士を軽妙に演じるグレゴリー・ペックとの相性も抜群。そんな第2章のハイライトは、なんといっても『駅馬車』(’39)も真っ青な先住民の襲撃シーン。「シネラマ」方式の奥行きがあるワイド画面を生かした、大規模な集団騎馬アクションを堪能させてくれる。 第3章「南北戦争」 監督:ジョン・フォード 夫ライナスが南北戦争で北軍に加わり、女手ひとつで小さな農場を守るイヴ(キャロル・ベイカー)。血気盛んな若者へと成長した長男ゼブ(ジョージ・ペパード)は、自分も同じように戦場へ行って戦いたいと願っている。そんな折、旧知の北軍兵士ピーターソン(アンディ・ディヴァイン)が、ゼブをリクルートしにやって来る。はじめは頑なに拒否するイヴだったが、しかし本人の強い希望で息子を戦場へ送り出すことに。意気揚々と最前線へ向かうゼブだったが、しかし実際に目の当たりにする戦場は彼が想像していたものとは全く違っていた。 冒頭ではカナダの名優レイモンド・マッセイがリンカーン大統領として登場し、ジョン・ウェインがシャーマン将軍を、ハリー・モーガンがグラント将軍を演じる第2章。アメリカ史に名高い激戦「シャイローの戦い」を背景に、同じ国民同士が互いに血を流した南北戦争の悲劇を通じて、勝者にも敗者にも深い傷跡を残す戦争の虚しさを描く。全編を通して最も西部劇要素の薄いエピソードを、西部劇の神様たるジョン・フォードが担当。平和な農村地帯の牧歌的で美しい風景と、血まみれの死体が山積みになった戦場の悲惨な光景の対比が印象的だ。なお、砲弾飛び交う戦闘シーンの映像は『愛情の花咲く樹』からの流用だ。 第4章「鉄道」 監督:ジョージ・マーシャル 大陸横断鉄道の建設が急ピッチで進む1868年。西からはセントラル・パシフィック社が、東からはユニオン・パシフィック社が線路を敷設していたのだが、両者は少しでも長く線路を敷くためにしのぎを削っていた。なぜなら、担当した線路周辺の土地を政府が与えてくれるから。つまり、より早く敷設工事を進めた方が、より多くの土地を獲得できるのである。騎兵隊の隊長としてユニオン・パシフィック社の警備を担当するゼブ(ジョージ・ペパード)だったが、しかし先住民との土地契約を破ったり、作業員の生命を軽んじたりする現場責任者キング(リチャード・ウィドマーク)の強引なやり方に眉をひそめていた。亡き父ライナスの盟友ジェスロ(ヘンリー・フォンダ)の仲介で、先住民との良好な関係を維持しようとするゼブ。しかし、またもやキングが先住民を裏切ったことから最悪の事態が起きてしまう。 まだまだアメリカ先住民を野蛮な敵とみなす西部劇が多かった当時にあって、本作では彼らを白人から土地を奪われた被害者として描いているのだが、その傾向がハッキリと見て取れるのがこの第4章。ここでは、大西部にも近代化の波が徐々に押し寄せつつある時代を映し出しながら、その陰で犠牲になった者たちに焦点を当てる。最大の見せ場は、大量の野牛が一斉に押し寄せ、開通したばかりの鉄道を破壊し尽くす阿鼻叫喚のパニックシーン。牛のスタンピード(集団暴走)はハリウッド西部劇の伝統的な見せ場のひとつだが、本作は「シネラマ」方式のワイドスクリーン効果で格段にスペクタクルな仕上がりだ。 第5章「無法者」 監督:ヘンリー・ハサウェイ 西部開拓時代もそろそろ終焉を迎えつつあった1880年代末。亡き夫クリーヴと暮らした大都会サンフランシスコを離れることに決めたリリー(デビー・レイノルズ)は、屋敷や財産を全て売り払って現金に変え、懐かしき故郷アリゾナの牧場へ向かう。近隣の鉄道駅で彼女を出迎えたのは、保安官を引退したばかりの甥っ子ゼブ(ジョージ・ペパード)と妻ジュリー(キャロリン・ジョーンズ)、そして彼らの幼い息子たち。そこでゼブは、かつての宿敵チャーリー・ガント(イーライ・ウォラック)の一味と遭遇する。兄をゼブに殺された恨みを持つチャーリー。家族に危険が及ぶことを恐れたゼブは、チャーリーたちが列車強盗を企んでいることに気付くが、しかし後任の保安官ラムジー(リー・J・コッブ)は協力を拒む。たったひとりでチャーリー一味の強盗計画を阻止する覚悟を決めるゼブだったが…? 時速50キロで走行中の蒸気機関車で激しい銃撃戦を繰り広げる、圧巻の列車強盗シーンが素晴らしい最終章。手に汗握るとはまさにこのこと。サイレント時代のアクション映画スターで、ハリウッドにおけるスタントマンの草分け的存在でもあったリチャード・タルマッジのアクション演出は見事というほかない。ジョン・フォード映画でもお馴染みのモニュメント・ヴァレーでのロケも印象的。チャーリーの手下のひとりはハリー・ディーン・スタントンだ。ちなみに、ジョージ・ペパードのスタント代役を務めたボブ・モーガンが、列車から転落して大怪我を負うという悲劇に見舞われている。ほぼ全身を骨折した上に、顔の右半分が潰れて眼球まで飛び出していたそうだ。辛うじて一命は取りとめたものの、片脚を失ってしまったとのこと。第3章に出演しているジョン・ウェインはモーガンの友人で、この不幸な事故に胸を痛めたことから、翌年の主演作『マクリントック!』(’63)にモーガン夫人の女優イヴォンヌ・デ・カーロを起用している。 シネラマ映画はなぜ短命に終わったのか? まさしくハリウッド西部劇の集大成とも呼ぶべき2時間44分のスペクタクル映画。70mmフィルムを3本も同時に使って撮影されたスケールの大きな映像は、北米大陸の雄大な自然を余すところなく捉えて見応え十分だ。しかも、「シネラマ」方式はカメラの手前から数キロ先の背景まで焦点がブレず、解像度が高いので通常の35mm映画であれば潰れてしまうようなディテールまできめ細かく再現する。そのため、最初に用意した衣装はミシン目が肉眼で確認できてしまったことから、全て手縫いで作り直したのだそうだ。なにしろ、西部開拓時代にミシンなんて存在するはずないのだから。誤魔化しが利かないというのはスタッフにとって相当なプレッシャーだったはずだ。 また、アルフレッド・ニューマンとケン・ダービーの手掛けた音楽スコアも素晴らしい。テーマ曲は本作のために書き下ろされたオリジナルだが、その一方でアメリカの様々な古い民謡を映画の内容に合わせてアレンジし、パッチワークのように散りばめている。中でも特に印象的なのが、劇中でデビー・レイノルズ演じるリリスが繰り返し歌う「牧場の我が家(Home in the Meadow)」。これは16世紀のイングランド民謡「グリーンスリーヴス」の歌詞を本作用に書き直したもの。原曲はザ・ヴェンチャーズからジョン・コルトレーン、オリヴィア・ニュートン・ジョンから平原綾香まで様々なアーティストがカバーしている名曲なので、日本でも聞き覚えがあるという人も多いだろう。ちなみに、本作はもともとビング・クロスビーがMGMに持ち込んだ企画を、シネラマ社とのコラボ作品のひとつとしてピックアップしたもの。クロスビーは’59年にアメリカ民謡を集めた2枚組アルバム「西部開拓史」をリリースしている。 1962年11月1日にロンドンでプレミアが行われ、その後もパリ、東京、メルボルンなど世界各地で封切られた本作。アメリカでは1963年2月20日にロサンゼルスのワーナー劇場(現ハリウッド・パシフィック劇場)でプレミア上映され、シネラマ劇場の存在しない地方都市では35mmのシネスコサイズで公開された。同時期に製作されたシネラマ映画『不思議な世界の物語』と並んで、世界的な大ヒットを飛ばした本作。しかし、本来の「シネラマ」方式で撮影・上映された劇映画はこの2本だけで、以降の『おかしなおかしなおかしな世界』(’63)や『偉大な生涯の物語』(’65)、『2001年宇宙の旅』(’68)といったシネラマ映画は、どれも70mmプリントを映写機1台で専用スクリーンに投影するだけの疑似シネラマ映画となってしまった。その理由は、「シネラマ」方式が抱えた諸問題だ。 もともと3分割されたフィルムを3台の映写機で同時に投影するという構造上、どうしても繋ぎ目が目立ってしまうという問題があった「シネラマ」方式。本作ではシーンによって繋ぎ目部分に垂直の物体を配置するという対策が取られ、なおかつ現在のデジタル・リマスター版では目立たぬよう修復・補正作業が施されているのだが、それでも所々で繋ぎ目の跡が見受けられる。加えて、専用カメラに備わった3つのレンズがそれぞれ別の方角を向いてクロス(右レンズは左側、中央レンズは中央、左レンズは右側)しているため、例えば中央と右側に立つ2人の役者が向き合って芝居をする場合、撮影現場では相手役の立ち位置から微妙にズレた方角を向かねばならない。つまり、画面上は向き合っていても実際は向き合っていないのである。これではなかなか芝居に集中できない。男女の親密な会話など重要なシーンで、メインの役者が中央にしか映っていないケースが多いのはそのためだ。 また、シネラマ専用カメラはズームレンズに対応していないため、クロースアップを撮影するには被写体にカメラが接近するしか方法がなく、どれだけアップにしてもバストショットが限界だった。さらに、人間の視界範囲の再現を特色としていることから、被写界が広すぎることも悩みの種だった。要するに、映ってはいけないものまで映ってしまうのだ。そのため、撮影開始の合図とともにスタッフは物陰に隠れなくてはならず、音を拾うガンマイクも使えないのでセットの見えないところに複数の小型マイクを仕込まねばならないし、危険なスタントシーンで安全装置を使うことも出来ない。先述した列車強盗シーンでの転落事故もそれが原因だった。 こうした撮影上の様々な困難に加えて、配給の面でも制約があった。恐らくこれが最大の問題であろう。「シネラマ」方式に対応した劇場は全米でも大都市圏にしかなく、しかもその数は60館程度にしか過ぎなかった。新たに建設しようにも莫大なコストがかかる。そのうえ、運営費用だって普通の映画館より高い。初期の紀行ドキュメンタリー映画ならば採算も合っただろうが、スターのギャラやセットの建設費など予算のかかる劇映画では難しい。そのため、シネラマ社はこれ以降、3分割での撮影や上映を廃止してしまい、「シネラマ」方式は有名無実の宣伝文句と化すことになったのだ。■
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COLUMN/コラム2021.12.31
ツイ・ハークやアン・リーにも多大な影響を与えた巨匠キン・フーによる武侠映画の決定版!『残酷ドラゴン 血斗竜門の宿』
武侠映画に革命をもたらしたキン・フー監督 武侠映画(中華時代劇)の神様とも呼ばれる香港・台湾映画の巨匠キン・フー監督の代表作である。1932年に中国本土の北京で生まれ、第二次世界大戦後の1949年に香港へと移住したキン・フー監督。もともと美術スタッフや俳優として映画に携わっていた彼は、同じく本土出身の名監督リー・ハンシャンに影響を受けて’58年に映画会社ショウ・ブラザーズと契約。リー・ハンシャン監督作で俳優や助監督を務めたのち、’64年に監督デビューを果たす。そんなキン・フー監督の出世作となったのが、武侠映画に新風を吹き込んだと言われる名作『大酔侠』(’66)。それまでの大時代的な古めかしい武侠映画から脱却し、アクションとバイオレンスと幻想美を融合した斬新な演出は「新派武侠片」とも呼ばれ、香港映画界に革命をもたらした。興行的にも香港だけでなく東南アジア各国でも大ヒットを記録。キン・フー監督も一躍注目の的となる。 ところが、その直後にキン・フー監督はショウ・ブラザーズを去ることになってしまう。社長ラン・ラン・ショウと衝突したためと言われているが、もともと俳優としてショウ・ブラザーズと契約をしていたというキン・フー監督には、当時まだ2本の出演契約が残されていたらしい。そのためラン・ラン・ショウはいたく憤慨したそうで、2人の間にはその後もわだかまりが残されることとなった。そんなキン・フー監督の向かった先が台湾。当時、まだ設立されたばかりだった映画会社・聨邦影業公司に招かれた彼は、そこで『大酔侠』をさらにスケールアップさせた武侠映画を撮ることとなる。それがこの『残酷ドラゴン 血斗竜門の宿』(’67)だった。 舞台は1457年、明朝・景泰帝の時代。朝廷では宦官ツァオ(バイ・イン)が特務機関・東廠(とうしょう)と秘密警察・錦衣衛(きんいえい)を配下において実権を握り、人望の厚い大臣ユー・チェンを罠にはめて処刑してしまう。大臣の3人の子供たちは流刑処分となったが、しかし彼らが大人になって復讐を企てるのではないかと危惧したツァオは、秘かに刺客を送り込んでユー一門を皆殺しにしようとする。 その任務に就いたのは東廠のピイ(ミャオ・ティエン)とその右腕マオ(ハン・インチェ)。大勢の手下を引き連れた彼らは、ユー一門が立ち寄る場所へと先回りする。そこは人里離れた荒野の真ん中にポツンと建つ古い宿屋「龍門客棧」。近くの国境警備隊を皆殺しにして店を強引に占拠した暗殺部隊は、宿泊客のふりをしてターゲットの到着を待ち構える。すると、そこへ宿屋の主人ウー(ツァオ・ジエン)の友人だという謎めいた風来坊シャオ(シー・チュン)がやって来る。さらに、旅の途中で立ち寄ったチュウ兄弟(シュエ・ハン、シャンカン・リンフォン)も到着。ピイ一味は彼らを宿屋から追い出そうとするが、しかしいずれも並外れた武術の達人であることから苦戦し、仕方なく彼らが宿泊することを許す。 実は、宿屋の主人ウーは処刑された大臣ユーの腹心で、その子供たちを守るために弟分シャオを呼び寄せていたのだ。しかも、チョウ兄弟(弟の正体は男装した女性なので実は兄妹)はウーの親友の子供で、彼らもまた大臣の子供たちを守るため「龍門客棧」へ先回りしていたのだ。ピイ一味の目的に気付いた彼らは、一致団結して暗殺計画を阻止することに。やがてユー一門が「龍門客棧」へと到着し、血で血を洗う壮絶な闘いが繰り広げられる。ツァオに恨みを持つ韃靼(だったん)人の兄弟も加わり、東廠の暗殺部隊を圧倒するシャオたち。業を煮やしたツァオが自ら軍隊を率いて現れ、ついに全面戦争の火蓋が切って落とされる…! 登場人物の個性を際立たせるシンプルなプロット 前作『大酔侠』でも宿屋を重要な舞台のひとつにしていたキン・フー監督だが、本作ではその宿屋がメインの舞台となり、悪徳宦官によって殺された大臣の子供たちを守らんとする忠義の剣士たちと、その宦官が差し向けた東廠の暗殺部隊が死闘を繰り広げる。刺客たちが待伏せする宿屋に予期せぬ客人が次々と現れ、お互いの腹を探りながらもやがて彼らの正体が明かされていくというスリリングな展開は、さながらクエンティン・タランティーノ監督の西部劇『ヘイトフル・エイト』(’15)。かつてタランティーノが『大酔侠』をリメイクするなんて企画もあったくらいなので、仮に『残酷ドラゴン 血斗竜門の宿』の影響を受けていたとしても不思議はないだろう。もちろん、本作自体がジョン・フォード監督の『駅馬車』(’39)やラオール・ウォルシュ監督の『リオ・ブラボー』(’59)といった西部劇に影響されているであろうことも否めない。映画にしろ音楽にしろ文学にしろ、芸術というのはお互いに影響を与え合いながら創造されていくものだ。 そもそもキン・フー監督が舞台設定に宿屋を好んで使うのは、本人曰く「『三國志』の時代から人々が行き交う宿屋は対立を起こすのに格好の場所」だから。さらに、吹き抜けの2階建てとしてデザインされた宿屋は、その垂直で奥行きがある構造のおかげで立体的なアクションを演出しやすい。ひとつのセットで多彩なシーンを撮れるという利点があるのだ。そのため、キン・フー監督は香港へ戻って作った『迎春閣之風波』(’73)では、ほとんどの舞台を宿屋に設定している。『大酔侠』と本作、そして『迎春閣之風波』が「宿屋三部作」と呼ばれる所以だ。 舞台設定もプロットも極めてシンプル。なおかつ余計な人間ドラマもバッサリと省いてスピーディに展開していく本作だが、その代わりに細かなディテールの描写に手間暇をかけ、登場人物それぞれのユニークな個性を際立たせていく。中でも、主人公である剣士シャオの超人的な達人ぶりにはビックリ。飛んできた弓矢を手元の徳利で受け止めたかと思えば、その矢を瞬時に素手で打ち返して暗殺者を仕留める。敵の投げつけた小刀だって箸の先で見事にキャッチ(笑)。どんぶりに入ったうどんを隣のテーブルに放り投げても汁一滴こぼれない。果たして、どんぶり投げが武術とどう関係あるのかは分からないが、とにかく常人離れしたスキルを持つ剣士であることはよく分かるだろう。また、『大酔侠』のヒロイン金燕子に続いて、本作でも男装の麗人キャラが登場。当時まだ17歳だったシャンカン・リンフォン演じるチョウ兄妹の妹である。ひと目で女性であることが分かってしまうのは玉に瑕だが、冷静沈着で颯爽とした美剣士ぶりはカッコいいし、短気で血の気の多い兄との凸凹コンビぶりもユーモラスだ。 もちろん、悪人だって負けないくらい魅力的だ。それぞれに個性的な敵キャラとの戦いが3段階に分かれており、ひとり倒すごとに対戦相手がレベルアップしていくというビデオゲーム的な構成も面白いのだが、この最後に登場するラスボスの宦官ツァオがまたインパクト強烈!なにしろ、『ドラゴンボール』の「かめはめ波」ではないが、剣を一振りしただけで敵を吹っ飛ばしてしまうような気功の達人にして、木々の間を軽やかに瞬間移動していくというスーパーパワー(?)の持ち主。まさしく相手にとって不足なし。やはり、こういう映画は敵役が強くないと面白くない。ただ、クライマックスでヒーローたちが寄って集ってツァオをボコボコにするのは如何なもんかとも思うのだが。しかも、下半身をネタにして嘲笑うというゲスっぷり(笑)。そう、ツァオは宦官なので男性器がないのだが、みんなでそれをバカにして挑発するのだ。さすがにこれはツァオがちょっと気の毒になる。 ダイナミックな剣劇アクションと映像美も見どころ 京劇の伝統的な舞踊スタイルを踏襲した優美なチャンバラも見どころだろう。武術指導を手掛けたのは、暗殺部隊の副官マオを演じているハン・インチェ。キン・フー作品に欠かせないスタント・コーディネーターである彼自身も、実は9歳から18歳まで北京の劇団に所属する京劇俳優だった。この舞うように戦う古典的なチャンバラにフレッシュな躍動感をもたらすのが、随所に盛り込まれる雑技団的な曲芸技である。当時はまだワイヤーワークの技術が確立されていないため、本作では主にトランポリンワークを多用。ここで披露される飛んだり跳ねたりの曲芸アクションが、その後の『侠女』(’71)では大胆なワイヤーワークによってさらなる発展を遂げ、武侠映画特有のファンタジックな剣劇アクションを完成させていくこととなる。 このように、基本的には『大酔侠』で打ち出した「新派武侠片」路線の延長線上にある本作だが、恐らく最大の違いはロケーション撮影の大幅な導入であろう。当時の香港映画は舞台が森だろうと山だろうと荒野だろうとスタジオにセットを組んで撮影するのが一般的で、キン・フー監督の『大酔侠』も御多分に漏れずだったが、しかし台湾で撮影された本作では屋内シーン以外の全てがスタジオの外へ出たロケ。台湾中部の雄大な自然を捉えたスケールの大きなビジュアルと、実際のロケーションだからこそのダイナミックなカメラワークに目を奪われる。このロケ撮影の利点を十二分に生かした映像美は『侠女』で芸術的なレベルにまで昇華され、カンヌ国際映画祭で高等技術委員会グランプリを獲得することになる。 ちなみに、キン・フー監督は本作と同様に『侠女』でも東廠を悪役として登場させているのだが、これは当時世界中で大流行していた『007』映画への反発だったという。権力の手先であるスパイを美化するとは何ごとか!というわけだ。もちろん、本作のストーリーに政治的な意図があるわけではないが、しかし劇中で描かれるユー大臣の処刑やその家族に対する残酷な処遇に、キン・フー監督が祖国・中国で当時吹き荒れていた文化大革命の弾圧と殺戮を投影していたであろうことは想像に難くない。 1967年に台湾で封切られるや映画館に長蛇の列ができ、10日間で10万通以上のファンレターが映画会社に届くほどの大ヒットを記録した本作。台湾のオスカーとも呼ぶべき金馬奨では最優秀脚本賞にも輝いた。ただ、香港や東南アジアでの配給を担当したショウ・ブラザーズは、社長ラン・ラン・ショウとキン・フー監督のイザコザもあったためか、『大酔侠』の続編『大女侠』(’68)の公開後まで本作の封切を延期。それでもなお、香港でも『007は二度死ぬ』に次いで年間興行成績ランキングの2位をマークするほどの大成功を収めた。これ以降のキン・フー作品のプロトタイプともなった映画であり、『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』(’87)や『グリーン・デスティニー』(’00)も本作がなければ生まれなかったかもしれない。■ 『残酷ドラゴン 血斗竜門の宿』© 1967 Union Film Co., Ltd. / © 2014 Taiwan Film Institute All rights reserved (for Dragon Inn)
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COLUMN/コラム2021.12.28
16年振りのシリーズ最終作。『ゴッドファーザーPARTⅢ』で、コッポラが本当に描きたかったものとは!?
アメリカ映画史に燦然と輝く、『ゴッドファーザー』シリーズ。 イタリア系移民のマフィアファミリーの物語を、凄惨で血みどろの抗争を交えて、歴史劇のように描き、今日では「クラシック」のように評されている。少なくともシリーズ第1作、第2作に関しては。 本作『ゴッドファーザーPARTⅢ』に関しては、その存在を好んで語る者は、数多くない。「黙殺」する向きさえある…。 ファミリーの首領=ドン・ヴィトー・コルレオーネをマーロン・ブランドが重厚に演じた、1972年の第1作『ゴッドファーザー』。当時の興行新記録を打ち立て、アカデミー賞では、作品賞・主演男優賞・脚色賞の3部門を獲得した。 ジェームズ・カーン、アル・パチーノ、ロバート・デュバル、ダイアン・キートン、タリア・シャイアといった、70年代をリードしていくことになる若手俳優たちの旅立ちの場であったことも、映画史的には重要と言える。 74年の第2作『ゴッドファーザーPARTⅡ』。ファミリーを継いだ若きドン、マイケル・コルレオーネの戦いの日々と、先代であるヴィト―の若き日をクロスさせる大胆な構成が、前作以上に高く評価された。 興行成績こそ前作に及ばなかったものの、アカデミー賞では、作品賞・監督賞・助演男優賞・脚色賞・作曲賞・美術賞の6部門を受賞。作品賞を獲った映画の続編が、再び作品賞を得たのは、アカデミー賞の長きに渡る歴史の中でも、この作品だけである。 前作に続いてマイケルを演じたアル・パチーノは、堂々たる主演スターの座に就いた。そしてヴィト―の若き日にキャスティングされたロバート・デ・ニーロは、アカデミー賞の助演男優賞を得て、一気にスターダムを駆け上った。 余談になるが、続編のタイトルに「PARTⅡ」といった数字を付けるムーブメントは、この作品が作ったものである。 そんな偉大な2作から16年の歳月を経て登場したのが、1990年のシリーズ第3作、『ゴッドファーザーPARTⅢ』。主役は前作に続き、アル・パチーノが演じる、マイケル・コルレオーネである。 ********* 1979年、老境に差し掛かったマイケルは、資産を“浄化”するため、ヴァチカンとの取引に乗り出す。コルレオーネファミリーを犯罪組織から脱却させ、別れた妻ケイ(演:ダイアン・キートン)との間に儲けた子どもたちに引き継ぐのが、大きな目的だった。 しかし後を継ぐべき息子のアンソニーは、ファミリーの仕事を嫌って、オペラ歌手の道へと進む。一方、娘のメアリー(演:ソフィア・コッポラ)は、ファミリーが作った財団の顔として、慈善事業の寄付金集めに勤しんでいた。 そんな時マイケルの前に、妹のコニー(演:タリア・シャイア)が、長兄ソニーの隠し子であるヴィンセント(演:アンディ・ガルシア)を連れてくる。マイケルはヴィンセントの、今は亡き兄譲りの血気盛んで短気な気性を不安に思いながらも、自らの配下とする。 ニューヨークの縄張りを引き継がせた、ジョーイ・ザザが叛旗を翻した。ザザは、マイケルが仲間のドンたちを集結させたホテルを、ヘリコプターからマシンガンで襲撃。多くの死傷者が出る中、九死に一生を得たマイケルは、ザザを操る黒幕の存在を直感する。 血と暴力の世界から、抜け出そうとしても抜けられない。そんな己の人生を振り返って、マイケルは、かつて次兄のフレドまで手に掛けたことへの悔恨の念を深くする。ヴィンセントと愛娘のメアリーが恋に落ちたことも、彼を苦悩させた。 ヴァチカンとの取引も暗礁に乗り上げる中、マイケルはヴィンセントに命じて、諸々のトラブルの裏とその黒幕を探らせる。そして彼を、ファミリーの後継者に任ずると同時に、娘との恋を諦めるように諭す。 イタリア・パレルモのオペラ劇場での、息子アンソニーのデビューの夜。ファミリーが集結するそのウラで、またもや血と報復の惨劇が繰り広げられていく。 そしてマイケルには、己が死ぬことよりも辛い“悲劇”が待ち受けていた。 ********* 1990年のクリスマスにアメリカで公開された本作は、アカデミー賞では7部門でノミネートされながらも、結局受賞には至らなかった。興行的にも批評的にも、前2作には、遠く及ばない結果となった『PARYTⅢ』は、同じコッポラを監督としながらも、『ゴッドファーザー』3部作の中では、まるで「鬼っ子」のような扱いを受けるに至ったのである。 そもそも前2作の絶大なる成功がありながら、なぜ『PARTⅢ』の登場までには、16年の歳月が掛かったのか? それは一言で言えばコッポラが、「やりたくなかった」からである。 それとは逆に、製作した「パラマウント・ピクチャーズ」は、この16年の間、折に触れてはこのドル箱シリーズの第3弾を、コッポラに作らせようと働きかけた。80年代前半には、シルベスター・スタローンの監督・主演、ジョン・トラボルタの共演で、『PARTⅢ』の製作をぶち上げたこともある。 これはスタローンの『ロッキー』シリーズで主人公の妻役を演じ続けたタリア・シャイアが、実の兄であるコッポラとスタローンの橋渡し役を務めて、実現しかかった話と言われている。結局コッポラが、スタローンに『ゴッドファーザー』を任せることには翻意して、企画が流れたと伝えられる。 では「やりたくなかった」『PARTⅢ』を、なぜコッポラ本人が手掛けるに至ったのか?大きな理由は、彼の過去作である『ワン・フロム・ザ・ハート』(82)にある。 ラスベガスをセットで再現するために、スタジオまで買い取って製作した『ワン・フロム…』は、当初1,200万ドル=約35億円を予定していた製作費が、2,700万ドル=約78億円にまで跳ね上がった。しかも劇場に観客を呼ぶことは出来ず、コッポラは破産に至ってしまったのだ。 その後コッポラは、『アウトサイダー』(83)『ランブルフィッシュ』(83)『コットンクラブ』(84)等々の小品や雇われ仕事を多くこなし、借金の返済に務めることになる。しかしディズニーランドのアトラクション用である、マイケル・ジャクソン主演の『キャプテンEO』(86)まで手掛けながらも、経済的苦境から抜け出すことは、なかなか出来なかった。 そこでようやく、自分の意図を最大限尊重するという確約を取った上で、「パラマウント」の提案に乗った。コッポラにとって、最後の切り札とも言える、『ゴッドファーザーPARTⅢ』の製作に乗り出すことを決めたのだ。 コッポラは89年4月から、『ゴッドファーザー』の原作者で、シリーズの脚本を共に手掛けてきたマリオ・プーヅォと、『PARTⅢ』の脚本執筆に取り掛かった。そしてその年の11月下旬にクランクイン。 ほぼ1年後にアメリカ公開となったわけだが、先に書いた通り批評家からも観客からも、大きな支持を得ることは出来なかった。 主演のアル・パチーノも指摘していることだが、その理由は大きく2つ挙げられる。まずは、ロバート・デュバルの不在である。 前2作を通じて、ファミリーの参謀役でマイケルの義兄弟に当たるトム・ヘーゲンを演じてきたデュバルは、『PARTⅢ』への出演を断った。コッポラの妻エレノアの著書によると、デュバルが気に入るよう何度もシナリオを書き直したのに、彼が首を縦に振ることは、遂になかった。 実際はギャラの面で折り合いが付かなかったと言われているが、結果的にヘーゲンは、既に亡くなっている設定にせざるを得なくなった。もしもデュバルが出演していたら、マイケルがヴァチカンと関わることになる触媒的な役割を果たしたという。 そして『PARTⅢ』バッシングの際に、必ず俎上に上げられたのが、マイケルの娘メアリー役のキャスティング。当初この役は、当時人気上昇中だったウィノナ・ライダーが演じることになっていた。しかし突然、「気分が良くないから、参加できない」と降板。 彼女のスケジュールに合わせて3週間も、別のシーンの撮影などで時間稼ぎをしていたのが、パーとなった。そこでコッポラは急遽、実の娘であるソフィアを、メアリー役に充てたのである。「パラマウント」などの反対を押し切ってのこの起用は、マスコミの格好の餌食となった。まるでスキャンダルのように、書き立てられたのである。 デュバルとライダーが出演しなかったことに加えて、アル・パチーノは、本作の大きな間違いとして、「マイケル・コルレオーネを裁き、償わせた」ことを挙げる。「マイケルが報いを受けて、罪の意識に苦しめられるのを誰も見たくなかった」というのだ。『PARTⅢ』のクライマックス、当初の脚本では、マイケルは敵の放った暗殺者に撃たれて、人生の幕を閉じることになっていた。しかしコッポラはそのプランを変更し、マイケルが最も大切なものを失い、その魂が死を迎えるという結末に書き変えた。 まるでシェイクスピアの「リア王」や、それを原作とした、黒澤明監督の『乱』(85)の主人公が迎える結末と重なる。黒澤が、コッポラの最も敬愛する監督であることは、多くが知る通りである。 コッポラは、自らの経験をマイケルに重ねていたとも思われる。『PARTⅢ』の準備に入る3年ほど前=1986年に、コッポラは当時22歳だった長男のジャン=カルロを、ボート事故で失っているのである。 アル・パチーノが指摘する本作の大きな間違いは、実はコッポラにとって、最も譲れない部分だったのではないだろうか? さて『ゴッドファーザー』シリーズを愛する気持ちでは、人後に落ちない自負がある私だが、91年春、日本での劇場公開時に『PARTⅢ』を鑑賞した時の感想を、率直に書かせていただく。それは第1作・第2作に比べれば見劣りするが、「悪くない」というものだった。『ワン・フロム…』後の紆余曲折を目の当たりにしてきただけに、コッポラは『ゴッドファーザー』を撮らせると、やっぱり違う。この風格は彼にしか出せないと、素直に思えた。 そして前2作が、パチーノやデ・ニーロといったニュースターを生み出したのと同じ意味で、マイケルの跡目を引き継ぐことになる、ヴィンセント役のアンディ・ガルシアの登場を歓迎した。ガルシアは、『アンタッチャブル』(87)『ブラックレイン』(89)で注目を集めた、まさに伸び盛りの30代前半に本作に出演。アカデミー賞の助演男優賞にもノミネートされるような、素晴らしい演技を見せている。 本作の後、彼の主演で、レオナルド・ディカプリオを共演に迎えて、『ゴッドファーザーPARTⅣ』が企画されたのにも、納得がいく。残念ながらガルシアは、パチーノやデ・ニーロのようには、ビッグにはならなかったが…。 実はコッポラは本作に、『PARTⅢ』というタイトルを付けたくなかったという。彼が当初構想したタイトルは、『Mario Puzo's The Godfather Coda: The Death of Michael Corleone』。翻訳すれば『ゴッドファーザー:マイケル・コルレオーネの最期』である。 そしてコッポラは、『PARTⅢ』公開30周年となる昨年=2020年、フィルムと音声を修復。新たなオープニングとエンディング及び音楽を付け加えて再構成を行い、当初の構想に基づくタイトルに変えて、リリースを行った。 このニューバージョンに対し、アル・パチーノは「良くなったと確信した」と賞賛。それまで『PARTⅢ』を「好きじゃなかった」というダイアン・キートンも、この再編集版を「人生最高の出来事のひとつ」と、手放しで絶賛している。 私ももちろん、この『』を鑑賞しているが、何がどのように「良くなった」かは、今回は敢えて触れない。それはまた、別の話である。■ 『ゴッドファーザーPARTⅢ』TM & COPYRIGHT © 2022 BY PARAMOUNT PICTURES. ALL RIGHTS RESERVED
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COLUMN/コラム2021.12.13
ゴダール「アンナ・カリーナ時代」のクライマックス!『気狂いピエロ』
1950年代末にフランスで興った映画運動、“ヌーヴェル・ヴァーグ”。撮影所における助監督等の下積み経験のない若い監督たちが、ロケ撮影中心、同時録音、即興演出などの手法で撮り上げた諸作は、世界の映画史に革命的な影響を及ぼした。 その中でも、1930年生まれのジャン=リュック・ゴダールの長編第1作『勝手にしやがれ』(1959)は、センセーショナルな話題を巻き起こした。以降ゴダールは、フランソワ・トリュフォーやクロード・シャブロルらと共に、“ヌーヴェル・ヴァーグ”の中心的な存在となる。 60年代後半に“ヌーヴェル・ヴァーグ”が終焉した後も、精力的に続けられた彼の映画活動を、その変貌に於いて大別すると、次のように分けられるという。「カイエ・デュ・シネマ時代」(1950~59)「アンナ・カリーナ時代」(60~67)「毛沢東時代」(68~73)「ビデオ時代」(74~80)「1980年代」(80~85)「天と地の間の時代」(80~88)「回想の時代」(88~98)。 この時代分けは、一部時期が重なるところもあるし、ゴダールが“ヌーヴェル・ヴァーグ”の母体となる同人誌に関わるようになった二十歳の頃から、20世紀の終わり頃までのほぼ半世紀の間の区分けに限られる。ゴダールは、21世紀になって齢70を越え80代を迎えても映画を撮り続けたわけだから、その時期は何と言うのかといった疑問は残れど、今回はそういったことを掘り下げるのが、本旨ではない。 この時代分けを記した理由、それは“アンナ・カリーナ”である。何はともかくゴダール本人が―なぜアンナ・カリーナなのか? なぜならアンナ・カリーナなのだから!-などと言うほどに、女優のアンナ・カリーナとのコラボ抜きでは語れない、映画活動の時期「アンナ・カリーナ時代」があった。 ゴダールより10歳下の、1940年生まれのデンマーク人女性、ハンネ・カリン・バイヤーがパリに出てきたのは、18歳の時。フランス語が全然喋れず、飲まず食わずの生活が続いたが、ある時カフェの椅子に座っていると、モデルにスカウトされた。 モデルとしての活動が段々と評判になって、高級ファッション誌の「エル」からも声が掛かるように。その撮影現場で出会い、ハンネに“アンナ・カリーナ”の名を与えたのは、かのココ・シャネルであったという。 ゴダールとの出会いは、彼の処女長編『勝手にしやがれ』への出演交渉をされた時。出番が僅かながら、乳房を見せることを要求される役をオファーされたため、にべもなく断っている。 その後『勝手にしやがれ』を撮り終えたゴダールは改めて、長編第2作となる『小さな兵隊』(61)の主演をオファー。その撮影中にゴダールはカリーナに求愛し、間もなくして結婚に至った。 60~67年の8年間に渡る「アンナ・カリーナ時代」に、ゴダールは長編を15本監督しているが、カリーナはその内の7本、更に短編1本に主演している。その中で本作『気狂いピエロ』(65)は、最高傑作と評される。「アンナ・カリーナ時代」、延いてはゴダールの60年以上に及ぶ映画監督としてのキャリア、更には“ヌーヴェル・ヴァーグ”という映画運動全般を俯瞰しても、最高峰に位置するとの声が高い作品なのである。 『気狂いピエロ』に、カリーナと共に主演するのは、ジャン=ポール・ベルモンド。ゴダールとは、1958年の短篇『シャルロットと彼女のジュール』に出演したことから付き合いが始まり、『勝手にしやがれ』の主演で、スターダムへとのし上がった。 ゴダール作品への出演は、『女は女である』(61)、そしてこの『気狂いピエロ』まで続くが、ベルモンドはその後、ゴダール作品及びゴダール本人とも訣別。60年代後半以降はアクション映画を中心に出演し、フランスの国民的大スターになっていったのは、多くの方がご存知の通りである。 そんなベルモンドは、1975年の山田宏一氏によるインタビューで、本作『気狂いピエロ』を大好きな作品としつつも、「…いまのゴダールは別人になったようで、お手上げだけどね(笑)。『気狂いピエロ』のロマンチックなゴダールはどこかへ行っちまった」などと語っている。 ***** 金持ちのイタリア人女性と結婚したフェルディナン(演: ジャン=ポール・ベルモンド)は、失業中で怠惰な日々を送っている。そんな時に、かつての恋人マリアンヌ(演:アンナ・カリーナ)と、5年半振りに再会する。 マリアンヌはフェルディナンのことを、“ピエロ”と呼ぶ。そんな彼女と一夜を共にすると、朝になってその部屋の一角に、頸にハサミを突き立てられた見知らぬ男の死体が転がっていた。事情がわからぬまま、フェルディナンはマリアンヌと、逃避行を始める。 フェルディナンは活劇マンガ「ピエ・ニクレ」を持ち、マリアンヌは銃を持って、彼女の兄がいるという南仏へと向かう。強盗を行ったり、警察の追跡を躱すために死んだと見せかける偽装工作を行ったり、車を乗り捨てたり…。逃亡の旅が続く内に、やがて2人は、ロビンソン・クルーソーのような生活を送るようになっていった。 ところがある時、またもや頸にハサミを突き立てた男の死体を残して、マリアンヌは消える。フェルディナンは、死んだ男の仲間と思われるギャングたちに捕まり、拷問を受ける。マリアンヌは殺人を犯して、5万㌦を持ち逃げしていたのだ。彼女が“兄”と言っていたのは、ギャングたちと敵対する組織のボスで、彼女の情夫であった。 フェルディナンがマリアンヌを見つけると、彼女は再び彼を犯罪に巻き込んでから、またも行方をくらます。フェルディナンは銃とダイナマイトを持って、マリアンヌが逃げた島へと追っていくのだったが…。 ***** 元はゴダールが映画化権を買った、アメリカの犯罪小説を、シルヴィー・ヴァルタン主演で映画化しようとしたところから、本作の企画は始まった。しかしヴァルタンには出演を断られ、その後アンナ・カリーナとリチャード・バートン主演で撮ろうと試みる。この組み合わせは、バートンが「あまりにハリウッド化されてしまっていた」ために流れ、結局カリーナとベルモンドという組み合わせでの製作となった。 実はゴダールとカリーナの結婚生活は、1964年の終わり頃には破綻していた。『気狂いピエロ』は2人が離婚後にも組んで撮った3本の長編の2本目であった。 筋立てとしては、ファム・ファタール~運命の女、魔性の女~を愛してしまったが故に、自滅していく男の物語で、典型的な“フィルム・ノアール”。しかしゴダールの作品だけに、そんな一筋縄にはいかない。物語は逸脱に逸脱を重ね、あらゆる場面が、多彩な映画的・文学的・芸術的引用に彩られている。 “ヌーヴァル・ヴァーグ”に於いてゴダールの盟友だったフランソワ・トリュフォーは、まだお互い10代で出会った頃に驚きを覚えた思い出として、ゴダールの読書の仕方や映画の鑑賞方法を挙げている。曰く、本棚から40冊もの本を引っ張り出して、一冊一冊、最初と最後のページだけを読んでいく。午後から夜までに5本の映画を、それぞれ15分ずつ見ていく。大好きな映画でも、20分ずつちょん切って見ては、何度も映画館に足を運ぶ…。 ゴダールはそんな風にして得た膨大な知識を、映画の中に次々と引用していく。それがゴダール作品の、独特な文体のベースとなっていったわけだ。『気狂いピエロ』で、サードの助監督に就いていた俳優のジャン=ピエール・レオによると、本作の台本は、27のシーンから成るストーリーを大雑把に要約した30頁ほどのものしかなかったとのこと。その台本には、カメラの位置やアングルの指定どころか、セリフも全く書かれていなかった。 セリフは撮影の前の晩か当日の朝、ゴダールが即興で書き、俳優にはカットごとに口伝てで教えられるだけ。ちょっと長いセリフの場合だけ、撮影の1~2時間前に、ゴダールが学生ノートに青のボールペンで書いたものが、俳優に渡されたという。 そして本番では、カメラの位置が決まると、リハーサルは簡単に行われ、ほとんどすぐに撮影になった。同じセリフを何度も言うのが嫌いだったというベルモンドは、1回か2回のテイクで、演技を見事に決めたという。 因みにスタッフに配られる台本にも、余計なことは全く書かれていなかった。しかし、本作のストーリーは「敬愛するジャン・ルノワール監督の『牝犬』(1931)にヒントを得ている」とか「フェルディナンとマリアンヌの道中はチャップリンの『モダンタイムス』(36)のラストで恋人たちが仲よく道を歩き去っていくように」など、引用の出典は具体的に書き込まれていたという。 さてこうして作り上げられた『気狂いピエロ』は、1965年8月に世界三大映画祭のひとつ、イタリアの「ヴェネチア国際映画祭」に出品。しかし会場ではブーイングの嵐が沸き起こり、賞の対象にはならなかった。 これに対し、擁護の論陣を張って、逆にゴダールの芸術的な評価を決定づけたのが、フランスの小説家であり、文芸評論家でもあった、ルイ・アラゴンだった。ダダイズムやシュールレアリズムを牽引し、ナチス・ドイツの占領下では、文筆活動によって抵抗を行った、レジスタンスの詩人として知られるアラゴンは、「今日の芸術とはジャン=リュック・ゴダールにほかならない」とまで書いて、『気狂いピエロ』を激賞した。 アラゴンはゴダール作品の特徴である「引用」を、絵画の「コラージュ」と比較した。「コラージュ」とは、画面に印刷物、布、針金、木片、砂、木の葉などさまざまなものを貼り付けて構成する絵画技法を指す。ピカソやブラックなどのキュビストが用い、ダダイストやシュールレアリストの芸術家によって発展を遂げた。こうした技法を映画に持ち込んだゴダール作品は、「最も現代的な」芸術だと、アラゴンは、擁護と共に褒め称えたのである。 このような経緯があって、本作でゴダールの“芸術家”としての声価は決定的となる。そしてそれから暫しの時を経て、「アンナ・カリーナ時代」は終わりを告げる。 1967年8月、ゴダールは商業映画との決別宣言文を発表。その作品や発言などが、政治性を強めていく。その翌年=68年5月、フランスでは学生の反乱がゼネストへと発展し、時のドゴール政権を揺るがす“5月革命”が起こった。その最中に開かれた「カンヌ国際映画祭」に、ゴダールはトリュフォーやクロード・ルルーシュ、ルイ・マルらと共に乗り込んで、中止へと追いこむ。 いわゆる「毛沢東時代」(68~73)へと突入していったわけだが、この時代のゴダール作品のミューズは、アンナ・カリーナからアンヌ・ヴィアゼムスキーへと変わるのであった…。 さて、『気狂いピエロ』の公開から56年。ヒロインのアンナ・カリーナに続いて、今年はベルモンドまでが、鬼籍に入ってしまった。 既存の映画文法を破壊した『気狂いピエロ』を観て、今から56年前=1965年に映画史に放たれた閃光を追体験し、カリーナとベルモンドを悼んで欲しい。これもまた映画を観続けていく、醍醐味なのかも知れない。■ 『気狂いピエロ』© 1962 STUDIOCANAL / SOCIETE NOUVELLE DE CINEMATOGRAPHIE / DINO DE LAURENTIS CINEMATOGRAPHICA, S.P.A. (ROME). ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2021.12.10
時代ごとにアップデートされる“A STAR IS BORN”の物語。『アリー/スター誕生』
1932年に製作された、ジョージ・キューカー監督の『栄光のハリウッド』を下敷きにして生まれた、“スター誕生=A STAR IS BORN”の物語。 最初の映画化作品は、ウィリアム・A・ウェルマン監督、ジャネット・ゲイナー、フレドリック・マーチ主演の『スタア誕生』(1937)。 続いてはジュディ・ガーランドとジェームズ・メイスン主演で、邦題も同じ『スタア誕生』(54)。こちらは、“オリジナル”である『栄光のハリウッド』のジョージ・キューカーが、メガフォンを取った。 この2作の『スタア誕生』は、舞台が映画界だった。それを音楽界に変えた3度目の映画化が、『スター誕生』(76)。監督はフランク・ピアソン、主演はミュージシャンとしても一流の、バーブラ・ストライサンドとクリス・クリストファーソンだった。 そして4度目となったのが、現代の歌姫レディー・ガガをヒロインに迎え、その相手役と監督を、ブラッドリー・クーパーが務めた、本作『アリー/スター誕生』(2018)である。こちらの舞台もまた、音楽の世界となっている。 ここで、物語の基本的なフォーマットを紹介する。才能がありながら、埋もれている女性アーティストが居る。一方で、TOPスターでありながらも、アルコールに溺れるなどで札付きとなっている、男性アーティストが居る。 偶然の出会いから、男性が女性の才能を見出して、引き上げる役割を果たす。女性がTOPスターの座に就くと同時に、愛し合うようになっていた2人は、ゴールイン!結婚生活をスタートする。 しかし女性が輝かしいスター街道を驀進するのと反比例するかのように、男性のキャリアは、下降の一途を辿る。やがて、女性が最高の栄誉を授与されるステージ(映画界→アカデミー賞/音楽界→グラミー賞)に、泥酔して現れた男性は、最悪の失態を犯してしまう。 アルコールなどへの依存から、何とか立ち直ろうとする男性だが、このままでは最愛の女性の輝かしき未来をも傷つけてしまうことを自覚。遂には、自ら命を絶つ。 悲しみの底に沈む女性だったが、やがて深く愛した男性のためにもと、再びステージに立つ…。 原題は同じ「A STAR IS BORN」4回の映画化に於いて、紹介したような物語の流れは、大きくは変わらない。しかし邦題が時代の移り変わりと共に変遷していったように、1937年、54年、76年、そして2018年と、その時代やキャストに応じてのアレンジが為されている。「37年版」と「54年版」の『スタア誕生』は、先に記した通り、映画界=ハリウッドが舞台。両作共にヒロインの名は、エスター・ブロジェットで、彼女を引き上げる男性スターの名は、ノーマン・メインである。 37年版で初代ヒロインとなったジャネット・ゲイナー(1906~1984)は、清楚で健気な印象と確かな演技力で、1920年代後半から30年代に掛けて絶大な人気を誇った、TOPスター。10代の頃に映画界に入るも、2年間は鳴かず飛ばず。しかし二十歳の時に主演作を得て、それから間もなくアカデミー賞主演女優賞を獲得している。 そんなゲイナーは、田舎からスターを夢見て、ハリウッド入りし、やがて銀幕のヒロインの座を掴むエスターの役には、ぴったりであった。逆に言えばこの作品では、ゲイナーの魅力と演技力とに頼ってしまってか、フレドリック・マーチ(1897~1975)が演じるノーマンが、エスターの俳優としての“才能”を見出すシーンが、存在しない。ただ彼女に惹かれて、情実でハリウッドに導いたようにしか見えないのが、難点と言える。 とはいえ、オープニングとエンディングで、「これこそ映画の夢の物語だ!」と明示する「37年版」は、ハリウッドというステージを舞台にした、寓話とも言える作りとなっている。そんなお固いことは、指摘するだけ野暮なのかも知れない。 2本目の『スタア誕生』=「54年版」も、ハリウッドを舞台にしたエスターとノーマンの物語である。こちらでエスターを演じたのは、ジュディ・ガーランド(1922~69)。 10代の頃に『オズの魔法使い』(39)で、少女スターとして人気を博したジュディだったが、早くから神経症と薬物中毒に悩まされるようになる。20代の頃の彼女は、撮影現場では遅刻やすっぽかしの常習犯として、トラブルメーカーとなっていた。 そのため映画出演も途絶えた彼女にとって、「54年版」は、実に4年振りの映画出演。当時の夫であるシドニー・ラフトがプロデューサーを務め、ジュディにとってはまさにカムバックを賭けた、起死回生の1作だった。 そんな背景もあって「54年版」は、エンターテイナーとしてのジュディの実力が、遺憾なく発揮される仕掛けとなっている。ヒロインのエスターは、全国を巡演するバンドの歌い手。彼女が歌と踊りを披露するステージに、ジェームズ・メイスン(1909~84)が扮する泥酔したノーマンが乱入するのが、2人の出会いとなる。 これがきっかけで、やがてノーマンは、エスターの歌声に触れることになる。「37年版」と違って、ノーマンがエスターの才能を発見する描写が、きちんとされているのだ。 やがてスターダムにのし上がった彼女が主演するミュージカル映画のシーンが、本編のストーリーと直接関係ないにも拘わらず、ふんだんに盛り込まれる。そんなこともあって、「37年版」が2時間足らずの上映時間だったのに対して、「54年版」の現行観られるバージョンは、3時間近い長尺となっている。 さて「37年版」「54年版」共に、ラストは有名な、エスターのスピーチ。亡き夫に最大限の哀悼を示す言葉として、「私はノーマン・メイン夫人です」と名乗ったところで終幕となる。これは長らく、感動的な名ラストと謳われ続けた。 邦題で“スタア”が“スター”へと変わる、「76年版」の『スター誕生』。バーブラ・ストライサンド(1942~ )とクリス・クリストファーソン(1936~ )という、当時人気・実力ともTOPクラスのミュージシャンを擁した“音楽版”としての魅力としては、コンサートなどステージでのパフォーマンスや、主人公2人が楽曲を作り上げていくシーンなどが挙げられる。前2作の“映画版”にはなかった、2人の才能のコラボを堪能できるわけだ。 それに加えて、バーブラという時代のスター、“70年代の顔”が自ら製作総指揮に乗り出し、ヒロインを演じたことによって生じた、改変が散見される。 バーブラの役名は、エスター・ホフマン。「37年版」「54年版」のヒロインから、エスターの名は残しながらも、“ホフマン”というユダヤ系に多い姓に変えている。しかも前作までのエスターが、撮影所の所長や広報マンの意見で、芸名をヴィッキー・レスターに変えられるくだりは、カット。エスターが本名のままで芸能活動を続けていくのは、バーブラ本人の“ユダヤ系アメリカ人”という、アイデンティティへのこだわりであろう。 相手役であるクリストファーソンが演じる、ノーマン・メインならぬジョン・ノーマン・ハワードの取る行動は、まさに70年代のロッカー。酒とドラッグに塗れる日々を送り、バイクでステージに乗り入れて音響装置を大破させるような無茶苦茶をやらかしてしまう。 前2作では、ジャネットとジュディのエスターは、ノーマンのやらかすことを、心配こそすれ、彼に声を荒げるようなマネは、決してしなかった。それに対しバーブラのエスターは、パートナーのジョンの無茶な行動に対し、時には怒りを爆発させ、別れを告げようとさえする。 最も大きな違いは、ラストシーン。ステージに立ったエスターは、「私はノーマン・メイン夫人です」などと名乗らない。そして2人の想い出の曲を熱唱して、〆となる。このラストが、77年の日本公開時には、かなりの論議を呼んだことを、鮮明に憶えている。ジュディの『スタア誕生』を懐かしむ者が多かった頃、バーブラの『スター誕生』を、彼女の自己主張が強く出過ぎと批判したり嫌悪する声は、決して小さくなかったのである。 いま観るとさほどのことはなく、このラストは、続く「2018年版」でも踏襲されている。しかし「76年版」が作られたのは、まだまだそんなことが論議になる、時代だったのである。 そして本作=「2018年版」の『アリー/スター誕生』。前作から実に42年の歳月を経てのリメイクとなる。これほどの間が空いたのは、“ボーイ・ミーツ・ガール”且つ、地位のある男性が年下の女性を引き立てるような古臭い物語が、もはや有効ではないと、見限られたからではなかったのか? しかしそこに、新たな息吹をもたらす者が、現れた。本作の監督であり、ミュージシャンのジャクソン(ジャック)・メインを演じた、ブラッドリー・クーパー(1975~ )である。 2010年代はじめの頃は、クリント・イーストウッド監督がビヨンセとレオナルド・ディカプリオ主演で、『スター誕生』を映画化というニュースが、大々的に流されたこともあった。結局は、『アメリカン・スナイパー』(2014)でイーストウッドの薫陶を受けたクーパーが、その企画を引き継いで、初監督に挑戦することとなった。 ヒロインのアリーに決まったのが、レディー・ガガ(1986~ )。この起用はクーパーの熱望によるものだが、その期待に応えた彼女は、歌唱やパフォーマンスのみならず、本格的な主演は初めてとは思えないほどの、見事な演技を見せる。「76年版」と同じく、“音楽版”として、主人公2人が、楽曲を作り上げていくシーンが見せ場のひとつとなる。演じるのが、プロのミュージシャン同士だった前作と違って、今作のためにブラッドリー・クーパーは、ギターとピアノ、ヴォーカルを猛レッスン。特にヴォイストレーニングには、1日4時間・週5日というペースで、半年間を費やしたという。 そのかいもあって、クーパーがレディー・ガガと共に作り上げたサウンドトラックは、多くの国で第1位を獲得するに至った。主題歌の「シャロウ 〜『アリー/ スター誕生』 愛のうた」は、アカデミー賞で歌曲賞を受賞。グラミー賞ではガガとクーパーは、“最優秀ポップ・デュオ/グループ・パフォーマンス”に輝いた。 そんな「2018年版」に於いて、前3作との大きな違いとして挙げられるのが、男性像が実に細やかに描かれていることである。「37年版」「54年版」のノーマン、「76年版」のジョンも、ヒロインに対しては優しい男だったが、「2018年版」のジャックは、彼ら以上に“男性的優位性”や“マッチョイムズ”とは縁遠い。それだけにヒロインに対しては、「対等」の意識を以て、より優しく振舞う。 ジャックが壊れていく背景も、明確に描かれる。まずはアルコール依存症の父に育てられたという、家庭環境。それに加えて“難聴”という、ミュージシャンにとっては致命的な疾患の進行がある。 ジャックはそうした苦悩を抱えている故に、アルコール漬けとなっていくわけだが、それははっきりと、心身を脅かす“病”として描かれている。愛するアリーの支えだけでは、どうにもならないのだ。 クーパー監督によって行われた、こうした男性側の描き方のアップデート。これこそが、古臭い物語と一蹴されかねない“A STAR IS BORN”を、現代に通じる物語に再構築する肝だったとも言える。 因みにヒロインがはっきりと、自分の才能を披露するシーンがあるのは、これまでに書いてきた通り、「54年版」「76年版」「2018年版」の3作。そのヒロインである、ジュディ・ガーランド、バーブラ・ストライサンド、レディー・ガガの3人が、それぞれの時代を代表する“ゲイ・アイコン”として、セクシャル・マイノリティの者たちから、圧倒的な支持を得る存在であったことは、単なる偶然とは思えない。 3人ともいわゆる、見目麗しい美女などではなく、その中身と才能で眩い輝きを放つタイプである。ハリウッドの歴史の中で、“A STAR IS BORN”の物語が永らえてきたのには、その時代ごとにそうしたヒロインを得てきたことも、必要不可欠な要素だったと言えよう。■ 『アリー/スター誕生』© Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2021.12.03
ハマー・ホラーからの影響も濃厚なSFホラー超大作!『スペースバンパイア』
古典的な侵略型SF映画の進化版 ‘80年代を代表するSFホラー映画の傑作のひとつであり、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった映画会社キャノン・フィルムズが総力を挙げて製作したブロックバスター映画『スペースバンパイア』(’85)。監督は『悪魔のいけにえ』(’74)の鬼才トビー・フーパーである。『未知との遭遇』(’78)や『E.T.』(’82)の大成功によって、ハリウッド映画で地球を訪れるエイリアンが軒並み友好的だった時代、宇宙からやって来た全裸の美女エイリアンがロンドンを火の海にしてしまうというストーリーは、古典的な侵略型SF映画の進化版として温故知新的な魅力に溢れていた。スピルバーグ映画的なSFXやゾンビ映画的な特殊メイクも盛りだくさん。巨匠ヘンリー・マンシーニが手掛けた壮大なオーケストラ・スコアがまた素晴らしく、当時高校生だった筆者も映画館の暗がりでワクワクと胸を躍らせながらスクリーンを見上げたものだ。 76年ぶりに地球へ最接近するハレー彗星の話題で持ちきりの現代(実際にハレー彗星は翌’86年に地球へ接近)。米国人船長カールセン大佐(スティーヴ・レイルズバック)が率いる英国のスペースシャトル「チャーチル号」は、ハレー彗星のコマ(星雲状のガスやダスト)に紛れた謎の巨大宇宙船を発見する。捜索のために船内へと向かった飛行士たちが発見したのは、まるでコウモリのような姿をした不気味なクリーチャーの無数の死骸、そして透明カプセルに収められた人間そっくりの女性1名男性2名だった。その透明カプセルを回収して地球への帰路に就くチャーチル号。ところが、シャトル内で異常な事態が発生し、チャーチル号は地球との連絡を絶ってしまう。 それから1か月後。救助に向かった米国のスペースシャトル「コロンビア号」の乗組員は、火災によってシャトル内が焼き尽くされたチャーチル号を発見し、3名の男女が眠る無傷のカプセルを地球へと持ち帰る。この男女はいったい「何」なのか。ロンドンにある宇宙調査センターのケイン大佐(コリン・ファース)とファラーダ博士(フランク・フィンレイ)、ブコフスキー博士(マイケル・ゴザード)は、正体不明の男女を解剖することに決めるのだが、しかし突然起き上がった女性エイリアン(マチルダ・メイ)が警備員を襲って逃亡する。 駆けつけたファラーダ博士らが発見したのは、女性エイリアンに生命エネルギーを吸い尽くされてミイラ化した警備員の遺体。しかも、これがまた解剖しようとした執刀医の生命エネルギーを吸い取って人間の姿に戻る。どうやらエイリアンたちは人間の精気を吸収するヴァンパイアで、犠牲者もまたヴァンパイアとなって他人の生命エネルギーを奪い、さらなる犠牲者を増やしていくことになるらしい。ただし、2時間ごとにやって来る「飢え」を満たさないと、ヴァンパイア化した人間は炭化して死んでしまう。その頃、眠っていた2名の男性エイリアンも覚醒してセンターから脱走。この不測の事態にケイン大佐やファラーダ博士は頭を抱える。 一方、遠く離れたアメリカのテキサス州でチャーチル号の脱出ポッドが回収され、死んだと思われていたカールセン大佐が生還する。すぐにロンドンへと赴いたカールセン大佐は、スペースシャトル内で復活したエイリアンたちが乗組員を次々に殺し、このまま地球へ帰還すれば人類に危険が及ぶと考えてシャトルを破壊したと説明。彼が女性エイリアンとテレパシーで繋がっていると知ったケイン大佐は、カールセン大佐を伴って彼女の足取りを追うことに。その傍ら、エイリアンを倒す方法を探っていたファラーダ博士は、彼らこそがヴァンパイア伝説の起源であり、これまでにもハレー彗星と共に地球へ飛来していたことを突き止める。そうこうしているうちに、市中へ解き放たれたエイリアンたちが次々と犠牲者を増やし、ロンドンは未曽有の大パニックに陥ってしまう…。 超一流スタッフによるスペクタクルな特撮 原作はイギリスの作家コリン・ウィルソンが1976年に発表したSF小説「宇宙ヴァンパイアー」。しかし映画版ではそのストーリーを大幅に改変しており、むしろ英国ホラーの殿堂ハマー・プロによるSF映画「クォーターマス」シリーズ、中でも3作目『火星人地球大襲撃』(’67)に酷似している点が少なくない。例えば、本作ではハレー彗星と共にやって来たエイリアンがヴァンパイア伝説の原型とされているが、『火星人地球大襲撃』でも太古の昔に地球へ飛来した火星人が「悪魔」の原型だった。クライマックスでロンドンが大パニックに陥るという展開もそっくりである。 さらに言うと、人間の生命エネルギーを吸い取るエイリアンたちの設定も、映画版ではより古典的なヴァンパイア像に近づけられており、ゴシック的なムードを漂わせた美術デザインとも相まって、ハマー・プロが得意とした一連のヴァンパイア映画との類似性も見て取れるだろう。エイリアンが人間の性的な欲望を利用して精気を奪うというエロティックな要素は、「カルシュタイン三部作」を筆頭とする’70年代ハマーのセクシー・ヴァンパイア路線を想起させる。「自分のルーツであるハマー映画の大作版」とトビー・フーパー監督自身も述べているように、往年のハマー・ホラーから多大な影響を受けた作品であることは間違いないだろう。 そのトビー・フーパーがキャノン・フィルムズから本作の企画をオファーされたのは、スピルバーグ製作のホラー映画『ポルターガイスト』(’82)が完成した直後のこと。当時、キャノン・フィルムズで3本の映画を撮る契約を結んだフーパー監督は、その第1弾としてコリン・ウィルソンの原作本を社長メナハム・ゴーランから手渡されたという。ちょうど『バタリアン』の企画から降板したばかりだったフーパー監督は、同作の監督を引き継いだ友人ダン・オバノンに脚本を依頼。あの『エイリアン』の脚本を書いたオバノンはまさしく適任だったと言えよう。 製作準備だけで2年を要した本作は、’84年2月から約半年間に渡ってロンドンで撮影を敢行。チャック・ノリスやチャールズ・ブロンソンが主演する低予算のB級映画で知られていたキャノン・フィルムズは、当時の同社にとって史上最高額となる2500万ドル(現在の金額に換算すると約6500万ドル)もの莫大な予算を用意していた。フーパー監督によると、撮影にあたってゴーラン社長が要求したのは、女性エイリアンを全裸で登場させることだけ。それ以外は一切口出しすることがなかったそうだ。 やはり真っ先に目を引くのは、ミニチュアや実物大セットを駆使したスペクタクルな特撮シーン。オープニングに登場するエイリアンの宇宙船内部は、ロンドン近郊にあるエルストリー・スタジオの巨大なステージ6、通称「スター・ウォーズ・ステージ」に作られた本物のセットである。『戦争と冒険』(’72)や『ラグタイム』(’81)でオスカー候補になったジョン・グレイスマークの美術デザインは、どことなく古典的なゴシック・ホラーの雰囲気を漂わせていて秀逸。また、ロンドン市街が文字通り火の海と化すクライマックスのパニック・シーンも、『スター・ウォーズ』(’77)や『スタートレック』(’79)でお馴染みジョン・ダイクストラの特撮チームが良い仕事をしている。その圧倒的なスケール感は見応え十分だ。 さらに、『スター・ウォーズ』のヨーダを制作したことで知られ、当時は『銀河伝説クルール』(’83)や『ザ・キープ』(’83)などの特撮映画で引っ張りだこだった特殊メイクマン、ニック・メイリーによるミイラ化したヴァンパイアの造形も素晴らしい。今だったらCGで済ませてしまうところだろうが、やはり機械仕掛けのダミーボディを現場でスタッフが操作するアニマトロニクスのリアル感は格別。細やかな表情の変化など見事な仕上がりだ。 最大の見どころはフランス女優マチルダ・メイ しかし、そんな本作の最大の見どころは、実のところ巨額の予算を投じた特撮でも特殊メイクでもなく、一糸まとわぬ姿で女性エイリアンを演じた美女マチルダ・メイだ。フーパー監督自身も「マチルダ・メイがいなければ、この映画は成立しなかった」と断言しているように、その非の打ちどころのない美貌と完璧な肉体で表現される女性エイリアンの、まるでこの世のものとは思えない神秘性こそが、本作の原動力になっていると言えよう。撮影当時まだ19歳だったマチルダは、これが映画出演2作目となるフランス出身のバレリーナ。演劇を学んだこともなければ女優になるつもりもなかったというが、バレエで鍛えたしなやかな動きが女性エイリアンの超然とした存在感を醸し出している。 さらに、テレビ『ヘルター・スケルター』(’76)のチャールズ・マンソン役で有名なスティーヴ・レイルズバック、『エクウス』(’77)や『テス』(’79)で高く評価されたピーター・ファース、ローレンス・オリヴィエの『オセロ』(’65)でオスカー候補になったシェイクスピア俳優フランク・フィンレイなど、キャストに実力のある名優ばかりを揃えたことも、荒唐無稽なストーリーに説得力を与えるという意味で功を奏している。『悪魔のいけにえ』のマリリン・バーンズが『ヘルター・スケルター』にも出演していたことから、フーパー監督は同作の撮影現場を見学に訪れたことがあり、その当時からレイルズバックとは友人だったらしい。 さらに、ファラーダ博士に退治される男性エイリアン役は、あのミック・ジャガーの弟クリス・ジャガー。『ドラゴンVS.7人の吸血鬼』(’74)のドラキュラ役で知られるジョン・フォーブス・ロバートソンなど、ハマー・ホラーに縁の深い英国俳優たちも出演している。もちろん、ピカード艦長役やプロフェッサーX役でお馴染みのパトリック・スチュワートの登場も見逃せない。 ちなみに、当初はケイン大佐役にクラウス・キンスキー、ファラーダ博士役にジョン・ギールグッドがアナウンスされていたが、どちらも諸事情によって降板している。また、フーパー監督がビリー・アイドルのヒット曲「ダンシン・ウィズ・マイセルフ」のMV演出を手掛けたことから、2人目の男性エイリアン役にビリー・アイドルを起用するという話もあったが、スケジュールの都合が合わずに実現しなかった。ビリー・アイドルのエイリアン役は是非とも見てみたかった。 なお、アメリカではエイリアンの宇宙船を舞台にしたオープニングを大幅にカットした短縮版が劇場公開され、そのせいなのかどうかは定かでないものの、当時は興行的な惨敗を喫してしまった本作。エロティックな要素もブロックバスター映画向きではなかったと言われているが、しかしイギリスやフランスなどのヨーロッパでは反対に大ヒットを記録し、今ではカルト映画として日本を含む世界中で熱愛されている。マチルダ・メイはレナード・シュレイダー監督の『ネイキッド・タンゴ』(’91)やビガス・ルナ監督の『おっぱいとお月さま』(’94)で高く評価され、一時はフランスを代表する女優のひとりとなった。先述したようにキャノン・フィルムズと3本の契約を結んでいたフーパー監督は、本作に続いて『スペースインベーダー』(’86)と『悪魔のいけにえ2』(’86)を手掛けることとなる。■ 『スペースバンパイア』© 1985 Easedram Limited. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2021.12.02
ハイテクな近未来を’80年代テイストで描いたSFサイバーパンク・アクション『アップグレード』
ホラー映画脚本家リー・ワネルが初挑戦した本格的なSF世界 ホラー映画『ソウ』シリーズや『インシディアス』シリーズで知られる脚本家リー・ワネルが、長年の盟友ジェームズ・ワンとのコラボではなく単独で監督・脚本を手掛けた近未来SFアクションである。もともとオーストラリアのメルボルン出身で、地元の名門RMIT大学メディア・コミュニケーション学科に入学したワネルは、周囲の学生がヨーロッパのアート映画を志向する中にあって、「ジェームズ・キャメロンが好き」と臆せず公言する同級生ジェームズ・ワンと意気投合。一緒にホラー映画の脚本を書くようになった2人のデビュー作が、世界規模のサプライズヒットとなった『ソウ』(’04)だった。 ジェームズ・ワンが監督を、リー・ワネルが脚本をという役割分担で、以降も『デッド・サイレンス』(’07)や『インシディアス』(’10)をヒットさせた2人。その傍らで、『ソウ』と『インシディアス』の続編シリーズなどの脚本も手掛けていたワネルだが、しかし学生時代から映画監督志望だった彼は、シリーズ3作目に当たる『インシディアス 序章』(’15)で念願の監督デビューを果たす。そして、盟友ワンが『ワイルド・スピード SKY MISSION』(‘15)でブロックバスター映画へと大きく飛躍したのを機に、インディペンデント志向の強いワネルは予てから温めていたSF映画の企画を低予算で実現することとなる。それがこの『アップグレード』(’18)だったというわけだ。 舞台はそう遠くない近未来。社会がますますテクノロジーに依存していく中、昔ながらのアナログ技術にこだわり続ける自動車整備士グレイ(ローガン・マーシャル=グリーン)は、大手のハイテク企業に勤める愛妻アイシャ(メラニー・バレイヨ)と満ち足りた生活を送っていた。そんなある日、ハイテク業界の風雲児エロン・キーン(ハリソン・ギルバートソン)に依頼されていた自動車の修理を終えたグレイは、納品のため妻を伴ってエロンのもとへ向かう。そこでエロンが開発した革命的なAIチップ「STEM」を紹介された2人。その帰り道、夫婦の乗った自動運転車が突然制御不能となり、暴走を繰り広げた挙句に横転してしまう。そこへ襲いかかる4人の男たち。彼らはグレイに暴行を加えたばかりか、冷酷にもアイシャを殺害して姿を消す。 それから3か月後、辛うじて一命を取り留めたものの四肢が麻痺してしまったグレイ。妻を失った悲しみに加え、車いす生活を余儀なくされて絶望した彼は、思い余って自殺を図るものの失敗する。そこへ現れたのがエロン。彼はグレイにある提案を持ちかける。例のAIチップ「STEM」を脊髄に埋め込む人体実験に協力してみないかというのだ。人間の脳に反応する「STEM」は、脳からの信号を切断された神経へ送り届ける役割を果たす。つまり、以前のように手足を自由に動かせるようになるのだ。結果的に手術は成功。守秘義務契約書にサインしたグレイは、すっかり体の機能が回復したものの、表向きは車いすの生活を続けることになる。 ところが、自宅へ戻ったグレイに何者かが突然語りかける。それは人格を持った「STEM」の声だった。脊髄から鼓膜を通して音声を送るため、その声はグレイにしか聞こえない。想定外の事態に困惑するグレイだったが、しかしそれは同時に天の恵みでもあった。高度な知能を持ち、様々なハイテクマシンにアクセス可能な「STEM」は、彼の‟ある目的“を叶えるために有効だったのだ。それは妻アイシャを殺した犯人グループを自らの手で探し出すこと。警察のコルテス刑事(ベティ・ガブリエル)による捜査はなかなか進展せず、グレイは苛立ちを募らせていたのである。 監視ドローンの記録映像を検証した「STEM」は、犯人グループのひとりブラントナーの居所を突き止めることに成功。ブラントナーの留守宅で、警察へ届け出るための証拠を探していたグレイだったが、そこへ運悪く本人が帰ってくる。しかも、ブラントナーは肉体改造されたサイボーグだった。襲いかかるブレントナーになす術もないグレイ。すると、にわかに「STEM」が彼の身体機能を制御し、超人的なパワーを発揮してブラントナーを殺してしまう。思いがけない強力な武器(=ハイテクな肉体と頭脳)を手に入れたグレイは、さらに残りの犯人グループを突き止めようとするものの、やがて襲撃事件の驚くべき真相を知ることになる…。 CGでは再現できないリアルな臨場感にこだわった撮影 テクノロジーの進化に疑問を抱いてアナログに強くこだわる昔気質な主人公が、人体実験によって最先端のAIテクノロジーを備えたスーパーヒーローに生まれ変わるという皮肉な話。はじめのうちこそ『ナイトライダー』のマイケル・ナイトと「K.I.T.T.」のごとく、お互いに持ちつ持たれつの関係で謎の犯人グループを追跡していくグレイと「STEM」だが、しかし次第にグレイは「STEM」なしでは何もできなくなってしまい、やがて科学技術を利用する立場だった人間が科学技術によって支配されていく。 『アイアンマン』や『ブラックパンサー』などのスーパーヒーロー映画において、高度なテクノロジーは諸刃の刃ではあれども人類に恩恵をもたらすものとして描かれるが、しかし本作はむしろ人間の生命や存在までをも脅かすものとして捉えられ、過度な技術革新がもたらす未来に強い警鐘が鳴らされる。冒頭の制御不能となる自動運転車などはまさに象徴的だ。そのダークでサイバーパンクな映像美を含め、『ターミネーター』(’84)や『ハードウェア』(’90)など、ハイテクの暴走を描いた古典的なSFアクション映画の延長線上にある作品と言えよう。この傾向はワネル監督の次回作『透明人間』(’20)にも相通じる。 ワネル監督が本作のアイディアを思いついたのは2010年前後のこと。そもそもは「車いすに座った四肢麻痺の男性がいきなり立ち上がり、よく見ると首の後ろに埋め込まれたコンピューターに操作されていた」という光景を思い浮かべたことがきっかけだったという。この漠然としたイメージを基にして脚本を書き上げたワネル監督は、作品自体もテクノロジーに頼り過ぎないオーガニックな世界観を目指した。CGで作り込まれた派手な特殊視覚効果よりも、昔ならではのプラクティカルな特撮や特殊メイクが好きだというワネル監督は、もしかすると主人公グレイと似たようなアナログ人間なのかもしれない。 その際に参考としたのが、まさしく『ターミネーター』に『ハードウェア』、そして『ロボコップ』(’86)といった、CG以前のアナログ技術を使ったSFアクション映画群だったという。サイボーグ同士の格闘を描く激しいスタント・シーンは、そのものズバリな『サイボーグ』(’86)や『ネメシス』(’92)などのアルバート・ピュン作品を彷彿とさせるものがある。撮影もグリーンバックではなくロケや実物セットが中心。もちろん、低予算映画ゆえの諸事情もあったとは思うが、しかし作品のテーマと傾向を考えれば正しいアプローチだったと思う。 ちなみに、徹底してリアルな臨場感にこだわったワネル監督は、主人公グレイと人工知能「STEM」の会話もアフレコではなく撮影現場で同時録音している。「STEM」の声を担当する俳優サイモン・メイデンがモニター画面を見ながらセリフを喋り、それをグレイ役のローガン・マーシャル=グリーンが耳に装着した超小型イアピースで聞き取ることで、まさしく劇中のグレイと「STEM」のようなコミュニケーションを成立させているだ。 また、アクション・シーンでは「STEM」に制御されたグレイの素早い動作を細かく捉えた独特なカメラワークが印象的で、後からデジタル加工を施したようにも見えるのだが、実はこれにも意外なトリックが隠されている。専用アプリを使ってiPhoneとデジカメ「Alexa Mini」を同期させ、そのiPhoneをローガン・マーシャル=グリーンの衣装に仕込むことで、ローガンの動きとカメラレンズの動きを完璧にシンクロさせているのだ。これによって、主人公グレイの動作に超人的な印象が与えられているのである。シンプルだが非常に効果的な演出だ。 300万ドルというハリウッド基準ではかなりの低予算映画ながら、興行収入1700万ドルのスマッシュヒットを記録した本作。続編の可能性を予感させるようなエンディングに対して、劇場公開時には「続編を撮る予定はなし」「これはこれで完結した作品」と断言していたワネル監督だが、しかし昨年になってテレビシリーズ化の企画が浮上。医療ドラマ『シカゴP.D.』の脚本家ティム・ウォルシュとワネル監督が共同でクリエイターを務め、本作から数年後のさらに進化した人工知能「STEM」を埋め込まれた新たなキャラクターを主人公に、アメリカ政府がハイテク技術を犯罪捜査のため利用する世界が描かれるという。現時点ではまだ脚本準備の段階だが、ひとまず平凡なSF犯罪ドラマになってしまったテレビ版『マイノリティ・リポート』の二の舞だけは避けて欲しいところだ。■ 『アップグレード』© 2018 Universal City Studios Productoins LLLP. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2021.12.02
『マーウェン』芸術が持つ癒しの“力”
◆実在の人物を描いた半フィクション映画 『フォレスト・ガンプ/一期一会』(94)でアカデミー賞を獲得し、そしてなによりも『バック・トゥ・ザ・フューチャー』トリロジー(85〜90)で圧倒的な支持を得た、現代ハリウッドの巨匠ロバート・ゼメキス。そんな彼が2018年に発表した映画『マーウェン』は、白人至上主義者たちの暴力によって瀕死の重傷を負ったヘイトクライムの被害者、マーク・ホーガンキャンプ(スティーヴ・カレル)の実話をもとにしている。この事件のPTSD(心的外傷後ストレス障害)によって彼は名前を書くことができなくなり、自身の個人的な生活について何も覚えておらず、またアーティストとしての、絵を描く能力さえも失ってしまったのだ。 そんなマークだが、自宅の裏庭に「マーウェン」と名づけた第二次世界大戦のミニチュアの村を作り、それを写真におさめることで、芸術家としての立地点に立ち戻ろうとする。いつしかマーウェンは、現実でつらい思いをしたマークのストレスを抑える擬似コミュニティの役割を果たすようになる。それをよりどころに、マークが肉体的にも精神的にも回復をはかろうと努力する姿は、2010年に公開されたドキュメンタリー長編『Marwencol(原題)』で描かれ、多くの人に知られるところとなった。 このドキュメンタリーを観たロバート・ゼメキスは大いに感銘を受け、ティム・バートン作品の常連脚本家として知られるキャロライン・トンプソンと共にマークの半生を脚本化し、映画『マーウェン』を作り上げたのだ。しかも完全なバイオグラフィものではなく、フィギュアが配置されたミニチュアの村で、独自の世界が形成されているというファンタジックなセクションを交え、現実とフィクションが交錯する野心的な作品づくりを試みたのである。 「占領下のフランスの小さな村」という設定のマーウェンで展開されるサイドストーリーはとてもユニークで、ホーガンキャンプが自己投影したG.Iジョーのホーギー大佐が、6人のガールズ部隊と共にナチス親衛隊を討伐するというものだ。このマーウェン村の人形たちは、マークの実生活に関わりを持つ人々が投影され、ガールズ部隊はマークが出会うすべての女性のアバターである。親衛隊はマークが酔って女装していると告白したとき、悪意を持って暴力をふるった5人の男たちになぞらえている。連中は全員白人だが、そのうちの1人には鉤十字のタトゥーが彫られていたからだ。この人形世界はそう、マークがいま直面している感情的なジレンマを象徴する空間なのだ。 ◆CGアニメーション三部作の技術を応用した人形たち こうした作品の性質上、『マーウェン』はゼメキスの諸作と同様、視覚効果に重点を置かれた映画となっている。特にフィギュアが動き出す描写では、監督が『ポーラー・エクスプレス』(04)を起点とするフォトリアリスティックなCGアニメーション三部作で導入した、パフォーマンス・キャプチャー・テクノロジーが用いられている。同テクは人体のモーションを記録してCGキャラクターに反映するモーション・キャプチャーを発展させ、動きの取得範囲を顔の表情変化にまで拡げたものだ。しかしこうした表現の人工的な再現は、写実度が高まるほどに違和感や嫌悪感を覚える「不気味の谷」現象を観る者に抱かせてしまい、フィギュアへの共感を必要とする本作では再考の余地があったようだ。 そこで『マーウェン』では、じっさいの俳優の顔をCGキャラクターに合成するという手法を採用。この方法によって前述の現象を緩和させ、また個々の人形キャラクターが誰のアバターなのか、判別しやすい利点を生み出している。 しかし、フィギュアを基にしたCGキャラクターの開発は、プロダクションの早い段階からキャストを決定し、俳優たちのさまざまなデータを取得しておかねばならず、『マーウェン』は融通の利きづらい企画だったようだ。「俳優はすべて前もってキャスティングされ、スキャンされ、それに応じて人形に彫刻をほどこし、特徴や表情などを固定する必要があったんだ。そして髪の毛をデザインし、顔をペイントし、衣装を作らなければならない。通常、映画のキャスティングでは、最後の一人を確保するために、撮影の前日まで検討することができるけれど、このような映画ではそれができないからね」(*1) と、ゼメキスは開発のリードタイムが長かったことをインタビューで答えている。 ◆賛否を分けたファンタジー描写 『マーウェン』は公開後、さまざまな評価をもって迎えられた。多くの映画ファンにとっては、デジタルエフェクトの先導者であるゼメキスが、かつての『ロジャー・ラビット』(88)や『永遠に美しく』(92)の頃のようなVFX主体の作品を手がけたことに対して賞賛を贈った。しかしいっぽうで、現実の問題をファンタジーに落とし込むことにより、物事の本質から目を逸らそうとしているといった評価も散見された。米「ローリング・ストーン誌」の権威ある映画評論家ピーター・トラヴァースは「現実世界の問題が盛り上がってきたところで、ゼメキス監督はすべての女性を人形のように変えてしまい、映画は再びファンタジーに委ねられてしまう。実に残念なことだ」(*2)と述べ、また英「サイト&サウンド」誌のトレヴァー・ジョンストンは「アクション人形のような軽薄さは、風変わりな性を明確に認識している一人の男の、自己受容に向けた悩める旅を描く本作の舞台装置に過ぎない。メインストリームの作品という意味では、この映画は予想外の画期的なものだが、そのハイブリッドな性質がときに不愉快ではある」(*3)と手厳しい。 また事実と映画との違いに対する追及もあり、たとえばマークの支えとなったのは女性だけでなく、少数の善良な男性がいたことや、また彼に暴力をふるった容疑者すべてが白人至上主義やネオナチではないなど、映画化されるさいの変更点として指摘されている。またマークの祖父が第二次世界大戦中にドイツ軍の側で戦っていたために、彼はナチスに対して複雑な感情を抱いていることも映画の不足要素として挙げられている。 確かにドキュメンタリーを見る限り、それらは意図的に加工された印象を与えるが、ただ現実をあるがままに再現するのならば、そこはゼメキスを必要とするところではないだろう。この映画は、トラウマに対処する人間の回復力と創造の可能性や、芸術が持つ癒しの力に対し、視覚効果の申し子が最良のアプローチをしたのだ。それを否定するのは、ひいては創造の力や芸術そのものを否定しかねない。■ 『マーウェン』© 2018 Universal Studios, Storyteller Distribution Co., LLC and Perfect Universe Investment Inc. All Rights Reserved.