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COLUMN/コラム2018.03.01
男たちのシネマ愛ZZ③『ロッキーの英雄・伝説絶ゆる時』
なかざわ:次は『ロッキーの英雄・伝説絶ゆる時』ですね。これ、見始めてからしばらく完全に西部劇だと思ってたら、すぐに現代の話だってことが分かってビックリしました。 飯森:とにかく映像がキレイですよね!冒頭でも述べた通り、本作はHDマスターが存在しないためSDで放送せざるを得ないのですが、まことに勿体ない! なかざわ:これぞアメリカ!と言うべき雄大な自然を丁寧にカメラで捉えている。まるで昔のタバコのCMみたいですよね。 飯森:マルボロとかですか。辺り一面の白樺か何かの木々が黄葉している、白と黄色のロッキー山脈の絶景の中で、インディアンの少年がクマと兄弟みたいに仲良く一緒に暮らしているんですけど、両親が死んでしまってクマと2人きりなんですよね。そこで、お爺さんに連れられ山を下りてクマと一緒に先住民居留地の寄宿学校へ通うんだけれど、いくらなんでもクマと一緒にいられないし、ほかの子供たちからも浮きまくってる。先生にもクマ捨てろ!と言われ大騒ぎになる。とても文明社会では暮らしていけないような野生児なんですね。で、そこから話は一気にタイムワープ。 なかざわ:18~19歳の年齢にまでジャンプしますね。 飯森:相変わらず文明社会には馴染めないんだけれど、しかし実は荒馬を乗りこなせることが分かる。それを見つけたリチャード・ウィドマークが、こいつをロデオ選手にしたら儲かるぞと考えて拾ってくれるわけですね。 なかざわ:そのウィドマーク演じるオヤジさんと、フレデリック・フォレスト演じるインディアン青年による、疑似親子的な関係を主軸にしたロードムービーといったところでしょうか。その中で、現代アメリカ社会におけるインディアンの置かれた状況も織り込まれていきます。 飯森:日本語字幕では分かりやすく「ロデオ」と訳しているんですけれど、原語だと「ブロンコ(野生馬)ライディング」と言っているんですよね。ロデオと一口に言ってもいろいろな競技があって、その中でも暴れ馬を乗りこなす競技がブロンコ・ライディング。ロデオは猛牛乗りでしょ?ウィドマークはそのブロンコ・ライディングの方のトレーナーなんですが、最初のうちはすごく良い人なんですよ。主人公の才能を初めて認めてくれて、親身になってくれて、なおかつロデオ選手として成功するチャンスまで与えてくれる。インディアンだからって差別されそうになると、相手のことをブン殴ってまで守ってくれる。まさに良き育ての親で大恩人なわけだけど、実は… ==============この先ネタバレが含まれます。============== いろいろと問題もある人物だということが分かってくるんですね。 なかざわ:でも、だからこそ面白くて興味深いキャラクターだと思います。これがただの良い人だったら、作品自体も薄っぺらなフィール・グッド・ムービーで終わってたはずです。 飯森:とにかく酒癖が悪くて自らを律することが出来ない。しかも、確かに主人公を守ってくれるしチャンスもくれるんだけど、その一方で金儲けの道具としてがっつり搾取もしているんですよね。 なかざわ:そう、決して根っからの悪人ではないのだけれども、かといって清廉潔白な善人というわけでもない。 飯森:いますよねえ、こういうボス!社員に対してどこまでも情に厚いんだけれど、 しかし実際やっていることは完全にブラック経営者という(笑)。 なかざわ:だからこそ、主人公は憎んでも憎み切れないわけですよ。 飯森:愛憎相半ばする。雇用主としてもですが親としてもそうですよね。今で言う毒親問題みたいなテーマも描いています。 なかざわ:演じるリチャード・ウィドマークはクールな中に狂気を秘めたような役が多かったように思いますけど、ここでは感情全開で泥臭い人間を演じているのがちょっと珍しいなと思いましたね。 飯森:それと、彼は毒親であるのと同時に、最近の言葉で言うところの下流老人でもある。ロデオで儲けた金もすぐ酒で使ってしまうような刹那的な生活が祟って、悲惨な老後を送っている。そんな人物を、往年の西部劇スターでもあったウィドマークが演じているところも興味深い。 なかざわ:ただ、ウィドマークも問題ありますが、主人公の若者も若者で、文明社会はおろか同胞であるネ イティブ・アメリカンのコミュニティにすら馴染もうとしない。どこにも居場所のない孤高の一匹狼です。 飯森:彼はもともと野生児ってことなんですかね? なかざわ:この映画には原作小説があるらしいんですが、原作では両親が生きている頃の描写もあるみたいなんですよ。そこが映画版ではバッサリとカットされている。 飯森:なんであんなコロンブス以前のような原始的な生活をしているのか、さっぱり分からない(笑)。で、そういう昔ながらの古き良き暮らしを同胞に教えてやるんだと意気込んで山から里へ下りるんですが、それよりお前の方がちっとは文明社会での暮らしを学べ!と返り討ち的に言われてしまって、現代アメリカ社会に参加し、そして成長してからはロデオ生活の旅へ出るわけですね。そして、最後は十分に学んだからといってネイティブのコミュニティに戻ってくる。 なかざわ:学校で馬の世話をしながら静かに暮らすことになる…というような終わり方ですね。 飯森:そこは、なんとなくおとぎ話的な雰囲気がありますよね。来た・見た・帰った、みたいなお話で。最後に帰還するまで、彼はロデオ・スターとしての華々しい成功を手に入れつつ、70年代当時のアメリカ社会の暗部や歪みも目の当たりにする。酸いも甘いも経験したうえで、戻るべき場所へ戻ってくるわけです。淡々としつつも上質なドラマなんですよね。文明社会に飛び込んだインディアンの野生児の目を通して、70年代当時のアメリカ社会を批評的に見つめるという。 なかざわ:そうした社会的な要素も、あくまで現実世界に存在する動かしがたい事実として描きこまれているだけであって、決してメッセージ性の高い映画というわけではないように思います。 飯森:印象深かったのは、スター選手として華々しく活躍するようになった主人公が出場した競技大会で、ナレーション・パフォーマンスみたいなものがあるんですよ。「ご来場の皆さん、ここにいる彼らこそがアメリカを開拓して、国の礎を作った英雄たちの子孫なんです!」みたいな選手入場アナウンスが流れ、会場はヤンヤヤンヤの拍手喝采。白人のロデオ選手たちに混じって主人公のインディアン青年もいるわけですけど、でも彼だけは征服された側の人間なんですよね。あの時の黙って耐えてるような表情が、何とも言えず微妙で味わい深い。心の中では「勝手なこと言ってやがんなぁ…」と思っているはずなんですけど、大人げないので別にそこでゴネたり騒いだりはしない。 なかざわ:彼は自己主張こそするけれども、差別に対しては決して真っ向から反発して挑んで行ったりはしませんね。 飯森:この映画って、インディアンへの差別問題も描くけれども、それに対する怒りからドラマが生まれることはないんですよね。これが70年代の西部のリアルなんだ、という中で生きている人の姿を等身大にカメラで追っていくというような映画。 なかざわ:恐らく彼と同じような立場、境遇にあるインディアンの若者であれば、当時は当然のようにそうしただろうなということがリアルに描かれている。 飯森:こうした状況って、今はちゃんと変わっているのでしょうかねえ。 なかざわ:そういえばフレデリック・フォレストって、子役からバトンタッチした時点で18~19歳という設定ですけど、この撮影当時で既に30代半ばだったんですよね。そうは見えないほどムチャクチャ若い! 飯森:それもそうですし、後の彼からは想像がつかないくらい二枚目なんですよね!別人みたいにシャープな印象ですし。この作品ではゴールデン・グローブの新人賞を貰うなど高く評価されたみたいですね。あと、これがデビュー作だったのかな。 なかざわ:いや、それ以前にも何本か出ているんですけど、名前が違うんですよ。フレデリック・フォレストとして出演したのは初めてですけれど。 飯森:少なくとも、これをきっかけに注目されたことは確かですね。その点でも一見の価値はあると思います。 なかざわ:ちなみに、後半で主人公といい仲になるナース役を演じている女優ルアナ・アンダースって、『おたずね者キッド・ブルー』繋がりになるんですけれど、デニス・ホッパーの『イージー・ライダー』に出ているんですよ。彼女はもともとロジャー・コーマン組の女優さんで、その当時からジャック・ニコルソンとかなり親しかったらしく、以降もずっとニコルソンはことあるごとに彼女を自分の映画に出演させているんです。で、デニス・ホッパーとも『ナイト・タイド』という映画で共演して親しかった。ニューシネマ周辺を語る上では欠かせない女優さんの一人ですね。 飯森:そういえば、ナースと出会う前に逆ナンしてきた女性がいますよね。それまで女っ気の全然なかった主人公が、ロデオで成功してチヤホヤされて、なんだかジゴロみたいになってしまう。 なかざわ:文明社会の悪いところに染まってしまうんですよね。 飯森:八百長もやらされたりして、名声は得るんだけれどこれじゃない感も強くなっていく。そんな時に、ちゃんと誠意をもって向き合える相手として登場するのがナースなんですよね。恐らく彼女の存在によって、今みたいな生活を続けていたら、行きつく先はウィドマークみたいになっちゃうよ、ってことに気付かされたんでしょう。 なかざわ:そう考えると、とても王道的な成長物語でもありますね。じんわりと胸に染みるような映画だと思いますよ。そういえば、今日の飯森さんはブルージーンズで決めていらっしゃいますけど、もしかしてこの映画のフレデリック・フォレストを意識したとか? 飯森:よくぞ聞いてくださいました!僕は1975年の生まれで、アメカジ直撃世代でもあるわけですよ。それこそ古着のジーパンが30万円とかした狂った時代(笑)。いまだにその病気は治っておりません。なので、この『ロッキーの英雄』には心底しびれました!デニムバブル世代の人間として、この作品の現代ウエスタン・ファッションは堪らないものがあります。ここに出てくるジーンズは全部リーバイスで、フレデリック・フォレストはリーバイス3rdと呼ばれるジージャンを着て出てくるんですが、あれがむちゃくちゃカッコ良い!胸ポケットのフラップをカットオフしてて、「こんな着方があったのか!」と、初めて知る裏技に驚かされましたね。映画におけるファッションってのは大きなお楽しみ要素だと個人的には思ってるんですよね。ファッション誌で映画をファッションのお手本にしようと特集が組まれていた時代もかつてはあったでしょう?インスタでお手本ファッション調べるのも手軽でいいかもしれないけど、ああいうインスタントではない、映画の豊かな周辺文化も、また復活して欲しいと思いますね。インスタではインスタントすぎる。 次ページ >> 『The Duchess and the Dirtwater Fox』 『おたずね者キッド・ブルー/逃亡!列車強盗』© 1973 Twentieth Century Fox Film Corporation. 『ロッキーの英雄・伝説絶ゆる時』© 1972 Twentieth Century Fox Film Corporation. Renewed 2000 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.『The Duchess and the Dirtwater Fox』© 1976 Twentieth Century Fox Film Corporation. Renewed 2004 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2018.03.01
男たちのシネマ愛ZZ②おたずね者キッド・ブルー/逃亡!列車強盗
飯森:さて、まずは西部劇『おたずね者キッド・ブルー/逃亡!列車強盗』から始めましょうか。 なかざわ:これはデニス・ホッパーが主演。アンチヒーローという意味では、当時のホッパーらしい役どころだと思うのですが、その一方でキャラクターそのものは非常にライトですよね。そこは意外だったと思います。 飯森:『イージー・ライダー』が1969年ですよね?で、これは… なかざわ:1973年です。 飯森:アメリカン・ニューシネマの代表作ベスト3に入るような名作『イージー・ライダー』を撮ったホッパーが、その数年後に主演した映画ということですが、これまたまごうかたなきニューシネマですよね。 なかざわ:これは舞台となるアメリカ西部の町、保安官曰く「真面目でまともな人しか住んでいない町」に、製作当時のアメリカ社会における体制側を投影していますよね。 飯森:そういうことを言い出す奴が出てきたらヤバい!怖い世の中になりつつある!真面目でまともって、そうと認められなかった奴は住めないのかよ、誰が何の権利で決めてるんだよ、と。怖い社会ですねえ。70年代の流行語では「スクエア」と呼びましたね、こういうことを言う、体制側の古い頑迷な人間のことを。 なかざわ:そんな町へ、強盗稼業から足を洗って更正を決意したデニス・ホッパーがやって来るわけです。 飯森:後半のセリフによると相当な大物アウトローだったらしいんですけどね。冒頭で仲間が怪我したことで「俺、足を洗おっかなぁ」と、意外とそこは軽い。 なかざわ:そう、しかもけっこう素直で真面目。心を入れ替えてコツコツと働くわけです。 飯森:最初は床屋の床掃除なんかをするんだけど、偏見に満ちたスクエアな大人たちから目の敵にされて辞めてしまう。その次に鶏肉の加工業者に行ったら、今度はブラック企業だったのでまた辞めちゃって、最終的にアメリカの後の工業化を先取りしたような象徴的な工場で過酷な労働を強いられる。職業を転々とするわけだけど、それって根気が続かないとか飽きっぽいとかいった彼の側の問題じゃないんですよね。多分に社会の側の問題ですよね。そして、そんな彼に対するスクエアな住民の接し方も、極めて“上から”というかね。同じ下宿で寝泊まりしている、やけにデカいツラしたがるオッサンとか。 なかざわ:「お前みたいな性根の腐った若造は軍隊で鍛え直すべきだ!」みたいなこと言う人ですよね。 飯森:ありがちで益体も無いオッサンの説教ですけど、でもキッド・ブルーって兵隊上がりだと思うんですよ。南北戦争の北軍の青い軍服着てるじゃないですか。 だから二つ名も「キッド・ブルー」なんでしょう?劇中で具体的に言及されないものの、元北軍の兵隊くずれだと解釈するのが妥当だと思うんですよ。オッサンは目の前の若造がその悪名高いキッド・ブルーとは知る由もない。服も軍服ではなくオーバーオールの作業着に着替えちゃってますからね。というか逆に、あのオッサンの方こそ、むしろ軍隊経験あるのかよ?と。 なかざわ:だいたい、そういう偉そうなことを言う奴に限って自分のことは棚に上げがちですからね。 飯森:そうそう!最近の日本でもよく見受けられる(笑)。キッド・ブルーは戦争を経験したせいで心が荒んじゃって、列車強盗の方がまだマシだとアウトローになっちゃった可能性もある。要するに、おっしゃる通り軍隊に行きましたけど、その結果こうなっちまったんだよバカヤロー!という(笑)。 なかざわ:ちょっと話が横道にズレますけど、この映画ってキャスティングにもちゃんと意味があると思うんです。例えば、この宿泊客のオッサンを演じているのはラルフ・ウェイト。彼は当時アメリカのテレビで9年間続いた国民的なホームドラマ『わが家は11人』で、古き良きアメリカの理想的な父親像を演じた俳優なんですよ。さらに、キッド・ブルーを目の敵にする保安官役にはベン・ジョンソン。巨匠ジョン・フォードの西部劇映画で、不器用だけど真面目で誠実なアメリカ南部の男性像を演じた名優です。このまさに「古き良きアメリカの良心」を象徴するような役者たちに、あえて体制側の「悪い奴」を演じさせているというのは、明らかに意図されたものだと思うんですね。 飯森:ほほう。ベン・ジョンソンは分かりますけど、ラルフ・ウェイトという人は知りませんでしたね。邦題が付いているということは、その『わが家は11人』は日本でも放送していたんですか? なかざわ:はい、ただ全シーズンは放送されていないと思います。日本だとあまり受けなかったようですから。ラルフ・ウェイトは4年前に亡くなったんですけど、晩年はドラマ『NCIS~ネイビー犯罪捜査班』で主人公ギブスの父親役をやっていました。 飯森:なるほど、70年代当時、スクエアどもが盲信していた古い価値観や古い社会構造そのものに対して物申したのがニューシネマだったわけですけど、その意図を汲んだようなキャスティングなのですね。決して極端な悪人というわけではないんだけど、自由奔放な主人公に対してネチネチと小うるさいというか…。体制に与さない者や体制を批判する者を敵視するような連中。 なかざわ:自分たちの考える規範から外れた人間は目障りでしょうがないんですよ。 飯森:でも宿泊客のオッサン、後半ではよそ者の女と援交してたりするんですけどね(笑)。 なかざわ:そう、結局どいつもこいつも偉そうなこと言うくせに、行動が伴わない偽善者なんです(笑)。 飯森:そう考えると、これは当時なぜ注目されなかったのか不思議に思えるくらい、典型的なニューシネマ映画なんですよね。知らない世代に説明すべきニューシネマ的特徴を全て押さえていて、ニューシネマの名作ベスト20くらいには入ってきても全然おかしくないですよ。 ==============この先ネタバレが含まれます。============== ただし、たいていのニューシネマは最後って主人公が意味もなく死ぬじゃないですか。当時の、行きたくもないし戦う意味も解らないベトナム戦争に行かされて犬死するという若者世代のリアルが投影されていて、自由を求めて反抗しても結局、俺たち若者なんて体制の中で意味なく潰されていくんだよ、という諦観と厭世観が物悲しい味わいとなって、ニューシネマには一般的にある。しかしこれはネタバレですが、この映画ではそうはならないんですよね。その点では異色かもしれません。 なかざわ:明朗快活というか、後味の良い終わり方をしますよね。 飯森:これは恐らく、たまたま日本ではすり抜けてしまったんでしょうね。きちんとした形で日本公開されていれば、それなりに高い評価を得て、当時の若者たちの心に残っていたはずの映画だと思います。日本未公開でさらに未ソフト化なのがとにかく勿体ない。それを今回、ウチで放送できるというのは素直にうれしい! なかざわ:そういえば、床屋でキッド・ブルーに難癖をつけて、そのあと酒場で殺し合いする男いますよね。あれをやっているのって、『悪魔の追跡』のジャック・スターレット監督なんですよ。彼はもともと俳優からスタートして、本作の当時は監督業と並行して役者の仕事もしていたんですけど、後に『ランボー』でもスタローンを痛めつける保安官補役を演じているんです。 飯森:というか、この映画のベン・ジョンソンの保安官って、『ランボー』でブライアン・デネヒーが演じた保安官と被りますよね。長髪の流れ者ランボーが町にやって来るわけだけど、ここはお前みたいな薄汚い長髪の流れ者がいて許される町じゃねえんだから一刻も早く出ていけという。その意味不明なレッテルの貼り方が実にソックリで。典型的なスクエア! なかざわ:価値観が合わなければ無視でもすりゃいいのに、徹底的に排除しないと気が済まない。 飯森:そんなところに、唯一の理解者である良き友人として移住者ウォーレン・オーツの夫婦が出てくる。 なかざわ:いやあ、デニス・ホッパーにウォーレン・オーツですよ!すごい顔合わせですよね。 飯森:本当にこれでなぜ劇場公開されなかったのか、首を傾げたくなります。で、そのウォーレン・オーツ。良き理解者と言えば良き理解者なんだけど、だいぶ理解のしすぎというか(笑)。あそこまでいくと完全にBL。 なかざわ:ん~、本人的には無自覚のようにも思えますが。 飯森:でも一緒にお風呂にまで入っちゃうんですよ?狭い一人用バスタブで体を密着させて!そんなことするのあとは淀長さんぐらいですって(笑)。ウォーレン・オーツ曰く、古代ギリシャは素晴らしかったと。人々は知を称揚して、義を重んじ、愛で結ばれていたんだと。お前と俺は親友だから、古代ギリシャ人だったなら「愛してるぜ!」と堂々と言い合えていたはずだ。今の俺たちの時代は不自由だからそんなこと言ったらダメってことになっているけど。だから古代ギリシャの方がいいだろ?なっ?そう思うだろ?って。これはもう明らかにBLでしょう!? なかざわ:でもまあ、70年代当時のヒッピーたちの、ラブ&ピースな精神を投影したものと解釈できなくもないですけどね。 飯森:なるほど、汎人類的な意味でのラブということですね。僕は結構なBLだと思いました。物語上の当時には許されていなかったことだから、さすがに公然とはカミングアウトできないだけで。というか自覚してないだけ。ウォーレン・オーツには確かに奥さんもいるけれど、それって男は女と結婚するもんだと思い込んでるから結婚したに過ぎなくて、奥さんに対しては愛情も、性欲さえもない。 なかざわ:確かに、そういえば奥さん、旦那に対してそういう不満を持っていますよね。 飯森:だからキッド・ブルーは、この欲求不満の奥さんに強引に迫られて、後にどうこうなっちゃうんだけど、そこでウォーレン・オーツは「よくも俺の妻に手を出したな!」と怒るんじゃなくて、「よくも俺以外の誰かとどうこうなったな!」と、そっちかよ!という嫉妬に怒り狂う(笑)。まあ、これはいろいろな見方があるとは思いますが。 なかざわ:映画ですから人によって解釈が違って当たり前ですよね。それにしても、このジェームズ・フローリー監督って、目立った代表作は『弾丸特急ジェット・バス』くらいしか思い浮かばない。 飯森:『刑事コロンボ』もけっこう撮っているみたいですね。 なかざわ:あとは『グレイズ・アナトミー』とか。基本的にテレビ畑の人ですよね。オールマイティだけど、映像作家としての個性は薄い。一方、脚本のバッド・シュレイクはクリフ・ロバートソン主演のカウボーイ映画『賞金稼ぎのバラード』やスティーヴ・マックイーン主演の西部劇『トム・ホーン』(allcinemaではバッド・シュレイダーと誤表記)、カントリー歌手ウィリー・ネルソンの自伝的映画『ソングライター』など、まさにカントリー&ウエスタンな作品ばかり書いてきた脚本家。なので、本作はシュレイクのカラーが前面に出た作品のようにも思います。 飯森:それを職人肌の何でもできる監督に任せたところ、意外にも佳作が出来ちゃったという感じなのかな。製作当時のアメリカ社会への風刺もたくさん込めましたね。 なかざわ:それでいて、難しい社会派の問題作ではなく誰が見ても楽しめるウエスタン・コメディとして仕上げられている。そのあたりは、器用な娯楽職人の監督に撮らせたことのメリットかもしれません。 飯森:ただ、恐ろしいというか皮肉なのは、この映画が作られてから既に40年以上が経っているにも関わらず、世界が全くと言っていいほど進歩していない点ですよ。ここに投影されている70年代当時の社会問題は、とっくの昔に解消されていなきゃならないと思うんですけどね。 なかざわ:ラルフ・ウェイトやベン・ジョンソンのセリフでも、あれ?それって最近誰かが言ってたよね?みたいなやつが多い。良い言い方をすれば、今でも通用する映画(笑)。 飯森:いやいや、全然良くないですってば(笑)。70年代当時にこうした古い社会、世にはびこる偏見や体制の問題点を変革しようとした人たちが2018年の世界を見たら、全く変わってない!むしろ後退してるじゃん!どんなディストピアだ!って思うでしょうね。 なかざわ:俺たちが戦ったものは何だったんだ!と。確かに、イラク戦争以降辺りから急激に時代が逆戻りしてしまった感はありますよね。 飯森:なので、1960年代から70年代にかけてのカウンターカルチャーという歴史的な文脈を踏まえながら見ていただくと、感じるところは多いと思いますし、そのうえで2018年の今、我々が住む世界はどうなっているのか、比べてみるとさらに感慨深い…というか、考え込むことになるかもしれない(笑)。 なかざわ:でも、そこから問題意識を持っていただけるとありがたいですよね。 飯森:そういえば、これは最近いろんなところで語っていることなんですが、僕はアメコミ映画も大好きで、公開を常に心待ちにしているジャンルなんですが、そろそろ供給過剰なような気もしてきたんです。逆に、僕がいま一番見たいのはこういったニューシネマ。社会派の良作は最近もあるんですが、「今の世の中ってけっこう絶望的だよね?ね?ね?」と同時代人と認識を共有しあうための、もしくは絶望的だと気付いてない人に気付かせるための、絶望映画。それすなわちニューシネマなんですが、その供給が足りていない。それは絶望を克服する足掛かりとなりますから必要なんです。なので、今回のように本物の昔のニューシネマの中から埋もれた名作を掘り出して、70年代当時の人々と問題意識を共有しながら、今の社会についていろいろと考えたいなと思うんです。本当は新作も見たいんですけどね。 [後日、男たちが『ブラックパンサー』試写会場でばったり出喰わし、上映後…] 飯森:(号泣しながら)いやはや!早くも前言を撤回せねばならない時がきたようです!! 絶望を克服するためのニューシネマが今こそ必要だ、アメコミヒーロー映画ばっか見てる場合じゃないぞ、と言ってたんですけど、この『ブラックパンサー』は、まさにそのための完璧な映画でしたね! なかざわ:早っ!舌の根も乾かぬうちに(笑) でも、確かに、今の世の中を見渡して、多くの心ある人々がモヤモヤと感じていることが、これでもかと詰め込まれていましたね。レイシズムについて。 飯森:早くも僕の今年のマイベストは『ブラックパンサー』で確定したことをこの場で宣言しときます。 なかざわ:凝ってるなぁと思ったのは、ブラックパンサーと女スパイのルピタ・ニョンゴと女戦士のダナイ・グリラの三人組が、着ている服の色が、黒・緑・赤でしたよね。これって汎アフリカン色ですよ!こんなところまで行き届いてるのかよ!?と感心しましたね。 飯森:それは気づかなかったです!それと、一般劇場公開でも付くのかどうか知りませんけど、我々がいま見たマスコミ試写バージョンだと、本編開始前にいかにもB-boyみたいな感じの監督が出てきて、「YOメーン、日本の兄弟たち、俺様が撮った『ブラックパンサー』、マジやっべえから見てくれよな、今までのマーベルヒーロー映画の常識をブッ壊してやったぜ!!」みたいなビッグマウスなMCかましてきたじゃないですか。あれで、「おいおい…このノリなのかよ…大丈夫か!?」と最初は不安に思ったんですけど、完全に杞憂でした。 なかざわ:そんな喋り方じゃなかったでしょ!にしても、もともと監督はこういう映画を撮るタイプじゃないじゃないですか。 飯森:なんの人なんですか? なかざわ:えっ?ライアン・クーグラーですってば! 飯森:えええっ!!!『フルートベール駅で』と『クリード チャンプを継ぐ男』の!? いやはや、それを聞いて納得ですわ!僕は予断を持つのが一番イヤなので映画見る前には前情報を一切遮断するよう意識して努めてるので、今の今まで全然知らなかったです。それは、驚愕と同時に、超納得! なかざわ:ジャンル的に本来はこういう映画を撮る人じゃないけれども、テーマ的、メッセージ的には、彼のフィルモグラフィの延長線上に確実にある作品でしたよね。『ブラックパンサー』自体はコミック原作があって、彼は雇われ仕事な訳だけれども、雇う方も彼のフィルモグラフィを踏まえた上での人選で、それが今回は上手くハマったってことですね。 飯森:いやぁ〜、道理で“今の時代に見る価値ある感”に号泣するような映画にな仕上がった訳だ!常々、「こんな悪は実在しねーよ!という悪を描いたって無意味。のどかでのんきで平和な時代ならともかく、今はこういう緊迫した時代なんだから!」と訴えてきたんですよ。もちろんノーランとか、マーベルでも『ウィンター・ソルジャー』とか『シビル・ウォー』とか、これまでにも深い作品はありましたけど、『ブラックパンサー』の登場でさらに一段階、位相が変わりましたね。これはマジで凄い!ということで、このクオリティなんだったらこれからもアメコミ映画どんどん作ってください!と、土下座しながら前言撤回します。 次ページ >> 『ロッキーの英雄・伝説絶ゆる時』 『おたずね者キッド・ブルー/逃亡!列車強盗』© 1973 Twentieth Century Fox Film Corporation. 『ロッキーの英雄・伝説絶ゆる時』© 1972 Twentieth Century Fox Film Corporation. Renewed 2000 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.『The Duchess and the Dirtwater Fox』© 1976 Twentieth Century Fox Film Corporation. Renewed 2004 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2018.03.01
男たちのシネマ愛ZZ①
飯森:お久しぶりでございます。 なかざわ:こちらこそ、ご無沙汰しております! 飯森:昨年の春以来となりますから1年ぶりの対談ですね。またしても「激レア映画、買い付けてきました」企画です。今回は20世紀FOX作品の中から僕が選んだ激レア映画を合計で6本、3月と4月にそれぞれ3本ずつ放送します。以前にパラマウント作品を放送した際は、なかざわさんにお薦め作品を挙げていただいたわけですが、今回はと言うと、名付けて映画闇鍋(笑)。正体不明で得体の知れない作品を中身も見ずに買い付けようと。で、面白いかつまらないか実際に見て確かめてみましょうという趣旨なんです。 なかざわ:今回の3本はいかにも70年代らしい映画ばかりですね。特に『おたずね者キッド・ブルー/逃亡!列車強盗』と『ロッキーの英雄・伝説絶ゆる時』は、アメリカン・ニューシネマの香りがプンプンとします。 飯森:実際は、たまたま似たようなタイプの映画が揃ってしまっただけなんですけどね。とはいえ、この3本は運良く傑作ばかりでした! なかざわ:はい、僕も実際に拝見させて頂いて、どれも面白くて驚きましたよ。 飯森:こんな当たりばっか引けるか普通!?というくらい、どれも見応えと語り甲斐がある。 なかざわ:特にこの『おたずね者キッド・ブルー』は一番のお気に入りです。 飯森:と、個別の映画の話題に入る前に、なかざわさんに確認しておきたいんですけれど、allcinemaのデータベースによると『おたずね者キッド・ブルー』と『ロッキーの英雄』は劇場公開されておらず、テレビ放送のみということになっています。本当にそうなんでしょうか? なかざわ:その可能性は高いですけど、具体的な証拠を出せと言われると困るかもしれませんね。 飯森:やっぱり!僕らもそうなんですよ。有る証明はできても無い証明はできない悪魔の証明というやつで。視聴者の方は「チャンネルならそれくらい分かるだろう!」と仰るかもしれませんが、僕らも視聴者と同じくらいの情報ソースしかなくて。権利元の方でも古い作品は把握していないことが多いんですよ。劇場向けとテレビ向け、ソフト向けで担当する部門が社内でも違ったり、もしくは別会社だったりしますからね。なので、頼る情報ソースは僕らもネット中心なんですけれど、少なくともネットで調べた限りでは、『おたずね者キッド・ブルー』は劇場公開もビデオ発売もされた形跡がなく、どうやらテレビで放送されただけらしい。『ロッキーの英雄』も同様です。20世紀FOXから買い付ける際に作品リストに目を通していたんですが、その中に「なんだこれ?知らないな」という作品が幾つかあった。それをウェブ検索していったところ、「日本未公開・テレビ放送のみ」みたいな情報がallcinemaでヒットしたんですが、しかしそれ以上は全く分からない。解説もあらすじも書いてない。他のサイトにも載ってない。だったら買ってみよう、逆に!ということで選んだのが、今回の闇鍋映画6本なんです。「The Duchess and the Dirtwater Fox」と「Move」にいたっては邦題すら付いてない。恐らく完全な日本未公開映画だろうと。 なかざわ:多分そうでしょうね。その可能性は高い。 飯森:多分そうだ、可能性高い、とまでしか我々にも言えない。断言はできないんですが、少なくとも極めて視聴が困難な珍しい映画であることは間違いない。それが映画闇鍋の正体というわけです。 なかざわ:なるほど。 飯森:あと、中には放送用HDマスターテープの存在しない作品があるんですよ。例えばアメリカでもテレビでバンバン放送しているような作品だと、HDマスターが存在するでしょうから、そこに日本語字幕だけ付ければいいんですけれど、そうじゃない作品もある。今回だと『おたずね者キッド・ブルー』と『ロッキーの英雄』がそうです。レアすぎて本国でもそこまでやれていない。本当は今どきHDで放送したいところなんですけどね。ただ、これは過去の対談でもお話ししましたが、HD化するためのお金はウチからは出せないんです。権利元からフィルムを貸してもらって自分たちでHDテレシネするとなると、莫大なコストがかかりますから。5、6回再放送したらお終い、というビジネスの我々側でそれは出せない。それだと採算が取れなくなってしまう。なので、今あるSDテープでお届けするしかないんです。むしろ逆に、これをキッカケに再評価の声が高まってブルーレイ化されたりしたら良いんですけどね。そうなったら5,000円ぐらい出してでも買いたい!というほどの良品が、今回の中にもありましたからね。 次ページ >> 『おたずね者キッド・ブルー/逃亡!列車強盗』
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COLUMN/コラム2018.03.01
ディザスター映画とパロディ映画、’70年代ハリウッドの2大ブームに乗っかった痛快ナンセンス・コメディ!『弾丸特急ジェット・バス』
‘60年代末から続くニューシネマを筆頭に、オカルト映画や動物パニック映画、SF映画、ディスコ映画などなど、次々と現れては消えるブームおよびムーブメントに沸いた’70年代のハリウッド業界。中でも特に強烈なインパクトを残したのがディザスター映画だ。ディザスターとはすなわち災害。地震や火災、洪水、ハリケーン、はたまたテロに事故に細菌感染など、あらゆる「災害」に見舞われた人々の決死のサバイバルを、大掛かりな特撮を駆使したスペクタクルな映像で描く。そのブームの原点は、旅客機ハイジャックを描いた『大空港』(’70)とされるが、しかしこれはスペクタクルよりも人間ドラマに重きを置くという点において、その後のジャンル作品群とは少しばかり趣が異なる。むしろ、豪華客船が真っ逆さまに転覆して沈没するパニック描写が度肝を抜いた『ポセイドン・アドベンチャー』(’72)こそ、’70年代ディザスター映画の原型でありブームの起爆剤だったと言えよう。 その後も、『タワーリング・インフェルノ』(’74)や『大地震』(’74)、『ヒンデンブルグ』(’75)などが大ヒットを記録し、『大空港』も『エアポート』シリーズとして人気コンテンツ化。スタジオ各社は手を変え品を変え様々な災害映画を世に送り出し、そのブームは映画界全体に波及していく。『ジョーズ』(’75)に代表される動物パニック映画群も、改めて振り返ればディザスター映画ブームに影響されている点が多々あるし、『オリエント急行殺人事件』(’74)に始まるアガサ・クリスティ映画シリーズも、新旧豪華オールスターを揃えたグランドホテル形式の採用という点において、ディザスター映画の人気に感化された部分はあったはずだ。 さらに、『大洪水』(’76)や『大火災』(’77)などディザスター物のテレビ映画も次々と登場し、ブームの影響はテレビ界にまでも及んだ。また、日本でも『日本沈没』(’73)や『東京湾炎上』(’74)、『新幹線大爆破』(’75)などが、ヨーロッパでも『カサンドラ・クロス』(’76)に『コンコルド』(’79)が作られた。スタジオ・システムの崩壊した’50年代半ば以降、衰退の一途をたどっていたハリウッド映画界は’70年代に華麗な復活を遂げる。その大きな原動力は一連のニューシネマ映画群だったわけだが、しかしその対極にあるようなディザスター映画群もまた、重要な一翼を担っていたことは否定できないだろう。 そんなディザスター映画ブームの真っただ中に誕生したのが、この『弾丸特急ジェットバス』(’76)。原子力エンジンで走行する巨大観光バスに爆弾が仕掛けられるという、まるで『新幹線大爆破』みたいなストーリーを軸に、当時のディザスター映画にありがちな設定の数々をパロったナンセンス・コメディだ。ディザスター映画のパロディといえば『フライングハイ』(’80)シリーズが有名だが、そのご先祖様みたいな映画だと言えよう。と、ここで思い出しておかねばならないのは、’70年代はディザスター映画ブームの時代であったと同時に、パロディ映画ブームが花開いた時代でもあったということだ。 それ以前にもユニバーサル・ホラーをネタにした『凹凸フランケンシュタインの巻』(’48)や『凹凸透明人間』(’51)、007シリーズをネタにした『007 カジノ・ロワイヤル』(’67)などのパロディ映画がポツポツと作られてはいたし、イギリスでは「Carry On」シリーズという国民的な人気コメディ映画シリーズが様々なパロディにも挑戦していた(残念ながら日本公開されたのは、スパイ映画をネタにした’64年の『00H/その時一発』くらいのもの)が、あくまでも散発的に作られるだけだった。それを大きく変えたのが喜劇王メル・ブルックスである。 西部劇ネタの『ブレージングサドル』(’74)を皮切りに、ホラー映画ネタの『ヤング・フランケンシュタイン』(’74)、サイレント映画ネタの『サイレント・ムービー』(’76)、ヒッチコック映画ネタの『新サイコ』(’78)などを次々と大ヒットさせたメル・ブルックスは、言うなればパロディ映画を人気ジャンルとして確立させた立役者だった。この流れは’80年代の『フライングハイ』シリーズや『裸の銃を持つ男』シリーズへと受け継がれ、近年も『最終絶叫計画』シリーズなどのパロディ映画群に多大な影響を及ぼし続けている。 …とまあ、そんなわけで、要するにこの『弾丸特急ジェットバス』は、ディザスター映画ブームとパロディ映画ブーム、その2つのトレンドを見事に掛け合わせた、’70年代当時としては圧倒的にタイムリーな作品だったわけだ。 物語の主な舞台となるのは、全長50メートルで重量75トン、ボウリング場や室内プール、ラウンジ・バーなども備えた、最大で180名の乗客を収容できる巨大原子力バス「サイクロプス号」。原子力エネルギーが人類の輝かしい未来を開く!とばかりに、ニューヨークからデンバーまでの大陸横断運行を華々しく行うわけだが、原子力にエネルギー市場を奪われまいとする石油業界が妨害工作を仕掛けてくる。この辺りのストーリー設定は、3.11を経験した現在の我々日本人にとって、恐らく劇場公開時よりもリアルに感じられることだろう。座席の上から飛び出してくる救命具が放射能防護服というギャグも、少なくとも当時の観客にとっては荒唐無稽だったのかもしれないが、しかし今となっては笑うに笑えないネタだ。核戦争後の世界を描いたSFパニック映画『世界が燃えつきる日』(’77)もそうだが、昔は放射能汚染に対する危機意識が今よりもずっと薄かったのである。 閑話休題。石油業界の手先によって研究所を爆破され、肝心の運転手を失ってしまった「サイクロプス号」は、開発者の娘キティ(ストッカード・チャニング)の元恋人ダン(ジョセフ・ボローニャ)を代役として迎えることに。しかしこのダンという男、優秀なバス・ドライバーなのだが、なにかと血気盛んで暴走しやすい問題児。しかも、雪山のバス遭難事故で乗客を食べて生き延びたという汚名を着せられ、裁判では無罪を勝ち取ったものの職を追われたという過去がある。まあ、本人曰く、実際は座席やマットレスを料理して食っただけ、相棒の作ったスープに乗客の片足が入っていたのを知らずに食ったことはあるが、それくらいで責められる謂れはなどない!ってことらしいですが(笑)。 そんな曰く付きの人物をキャプテンに、これまた色々と訳ありな乗客たちを乗せてニューヨークを出発する「サイクロプス号」。ところが、またもや石油業界の差し向けたスパイがバスに時限爆弾を仕掛けており、危機また危機の災難に見舞われていくことになる。 巨大バスの車内という限定空間でグランドホテル形式のドラマが展開するのは、『エアポート』シリーズを始めとするディザスター映画の定番。ルース・ゴードン演じる家出婆さんは『大空港』のヘレン・ヘイズ、リン・レッドグレーヴ演じるセレブ・マダムは『エアポート’75』のグロリア・スワンソンのパロディだろう。「サイクロン号」にトラックが突っ込むのは『エアポート’75』、ジュースで水没したキッチン車両での救出劇は『ポセイドン・アドベンチャー』が元ネタ。そんな「ディザスター映画あるある」的なパロディを散りばめつつ、ナンセンスなビジュアル・ギャグのつるべ打ちで観客を楽しませる。ビール瓶の代わりに割れた(?)ミルクパックと折れた蝋燭で対決する乱闘シーンや、人数が多すぎて延々と終わらない乾杯シーンなど、クスっと笑える程度にバカバカしいギャグばかりなのがミソだ。 で、ディザスター映画の定番といえば華やかなオールスター・キャストなのだが、本作ではビッグネームが一人もいない代わりに、’70年代ハリウッド映画ではお馴染みの懐かしい名バイプレヤーたちがズラリと顔を揃える。オスカー俳優のホセ・ファーラーがいるじゃないか!なんて言われそうだが、名優ではあってもスターではなかったからね。そんな彼が演じるのが、石油業界の悪玉親分アイアンマン。「鉄の肺」と呼ばれる巨大人工呼吸器に入っているので、すなわちアイアンマンなのだそうだ。なんたる罰当たりなブラック・ジョーク(笑)。監督のジェームズ・フローリーは、『ザ・モンキーズ』(‘66~’68)の全エピソードを担当してエミー賞に輝き、『刑事コロンボ』シリーズや最近だと『グレイズ・アナトミー』にも参加するなど、主にテレビで活躍した人物。本作は基本的にアホ丸出しなコメディでありながら、しかし大規模なパニックやサスペンスの描写にも全く抜かりがない。なかなか痛快な仕上がりだ。 ちなみに、本作は後の『フライングハイ』と同じくパラマウント映画の製作。パラマウントといえばハリウッドを代表するメジャー・スタジオの一つだが、実はディザスター映画の代表的な作品の中にパラマウント作品は一つもない。ワーナーや20世紀フォックス、ユニバーサルは積極的に作っていたが、パラマウントはせいぜい『ハリケーン』(’79)くらいのもの。それとて、ディザスター映画と呼ぶには微妙なところだ。そんなブームと距離を置いていたパラマウントが、あえて本作や『フライングハイ』のようなパロディ映画を製作したという事実もまた興味深い。■ TM, ® & © 2018 Paramount Pictures. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2018.02.26
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2018年3月】うず潮
韓国で100万人以上が酔いしれた、殺人を請け負う企業に勤める殺し屋の葛藤を描くクライムアクション。韓国で最も有名な俳優、ソ・ジソブが主演。彼が演じる完璧主義のクールな殺し屋が魅せる、そのキレッキレのガンアクションや殺陣は必見!惚れ惚れするようなカッコ良さを魅せてくれます!そんな彼が本作への出演を決めたのは、脚本を読んで殺し屋が普通の会社員のように働く設定に惹かれたとのこと。そのため、会社員のように振る舞う殺し屋を演じるため、スーツの下に着るシャツは白いで統一するなど普通っぽく見せる工夫もしたそう。ストーリーが進むにつれ、完璧主義者の殺し屋から、守るべき存在ができた男へと変わっていく姿も見どころのひとつ。ソ・ジソブファンはもちろんのこと、男性も是非見てほしい1本。キレッキレのアクション繋がりで、キアヌ・リーヴスのキレッキレのガンアクションが冴えわたる『ジョン・ウィック』(3月ザ・シネマで放送)と見比べしても面白いかも! ©2012 SIMMIAN AND SHOWBOX/MEDIAPLEX ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2018.02.26
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2018年3月】にしこ
知ってるよ!という感じかと思いますが、ダブリンというのはアイルランド共和国の首都であり、一番の大都市であります。そりゃあ華やかで、賑わっているだろうと想像されると思いますが、東京のターミナル駅と比べるとずっこけるくらい小さいです。メインストリートであるオコンネルストリートは15分くらいあれば端から端まで余裕で歩けます。そんな街角で二人の男女が運命的な出会いを果たすわけですが、実際のオコンネルストリートを歩いた私は「ほぼ毎日ここでギター弾いて歌ってたら、誰でも顔を覚えるだろうな」という感想を持つのであります。ネガティブな意味ではなく、この映画の主役二人が出会うのはまさしく「街角」という言葉がふさわしい、そんな場所だというイメージをしていただきたいのです。「ケルトの虎」と言われた時代(1995年から2007年まで続いたアイルランドの経済成長を指す表現。Wikipediaより)。EU各国から好景気に沸くアイルランドに出稼ぎに来る人々でダブリンは多国籍な街に。主人公の女性も生活の為に、家族を母国のチェコに残して出稼ぎに来た女性。故郷ではピアニストだった彼女。オコンネルストリートでギターを弾く男性主人公に声をかけたのは、必然だったのかもしれません。男と女は音楽という共通言語であっという間に距離を縮めていきます。男は、最後のチャンスに賭けるつもりでロンドンのレーベルに持ち込むデモテープを一緒に作ってくれないか、と女に協力を求めます。日々の生活に追われていた女は、自分が愛するピアノに触れる事で、どんどん生き生きとした表情と取り戻します。当然のごとく惹かれあう二人。しかし女には祖国に夫がいます。お互いに惹かれる気持ちを昇華させる為に、二人は曲を作ります。音楽が引きあわせた2人。音楽で二人の気持ちを形にしようとするのは自然な事なのかもしれません。二人が最後に出した答え。その答えにこそ涙してください。こんなに泣けて、すがすがしい恋もあるのだと。映画史に残る素晴らしいエンディングをお見逃しなく。アメリカでたった2館からの公開だったのが、口コミの素晴らしさから140館にまで公開館数が伸びた事が話題になっていたその頃、私はアイルランドの田舎町の片隅の、バイト先の洋服屋さんで毎日ラジオから流れる主題歌の「Falling Slowly」を聞いていました。お客さんがいない店内で、何度も口ずさんだ曲。思い出すたび甘酸っぱいっす!!■ © 2007 Samson Films Ltd. and Summit Entertainment N.V.
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COLUMN/コラム2018.02.15
「男と女」の間に横たわる“裸の真実”を、ロバート・アルドリッチ監督が2つの世界を鋭く対比させながらソフト&ハードに追求した異色のネオ・ノワール『ハッスル』~2月5日(月)ほか
■祝ロバート・アルドリッチ監督生誕100周年 今年2018年は、1918年に生まれ、1983年にこの世を去ったロバート・アルドリッチ監督の生誕100周年にあたる。 アルドリッチ監督といえば、文字通りの戦場を舞台にした『攻撃』(1956)や『特攻大作戦』(1967)などの戦争映画をはじめ、『アパッチ』(1954)、『ヴェラクルス』などの西部劇、映画業界そのものを物語の舞台に据えた『悪徳』(1955)、『女の香り』(1968)などのハリウッド内幕もの映画、灼熱の砂漠での集団サバイバル劇『飛べ!フェニックス』(1966)、大恐慌下の貨物列車を舞台に無賃乗車の帝王と鬼車掌が対決を繰り広げる『北国の帝王』(1973)、そして、女子プロレスの闘技場のリングを舞台にした遺作の『カリフォルニア・ドールス』(1981)に至るまで、さまざまな苦境の中で、自らの意地と誇りを賭けて必死に闘い続ける主人公たちの姿を描き続けた活劇映画の屈指の名匠。 昨年、やはり彼の代表作の1本である戦慄のゴシック・ホラー『何がジェーンに起ったか?』(1962)で初めて競演し、劇中の物語のみならず、製作現場やその舞台裏においても凄まじい確執と対立劇を繰り広げることとなった往年のハリウッドを代表する2人のスター女優、ベティ・デイヴィスとジョーン・クロフォードの壮絶なライバル対決を、アルドリッチその人も主要登場人物の1人に配しながら描いた海外ドラマ『フュード/確執 ベティ vs ジョーン』(2017)が、全米や日本のBSでも連続放送されて話題を呼んだ。 今回ここに紹介する『ハッスル』(1975)は、アルドリッチが、彼の映画史上最大のヒット作となった『ロンゲスト・ヤード』(1974)に続いて、当時人気絶頂だったバート・レイノルズと再び監督・主演コンビを組んで放った一作。しかしこの『ハッスル』に、刑務所の囚人と看守たちがそれぞれアメフト・チームを結成して真っ向から激突する、『ロンゲスト・ヤード』風の単純明快で痛快無類の娯楽活劇を期待すると、きっと肩すかしを食うに違いない。 『ハッスル』は、彼の映画にはきわめて珍しい本格的な男女のラブ・ストーリーに、刑事ドラマの要素が絡み合った二重の物語構成となっていて、一見それがうまく一つに融合しないまま、全体的に真っ二つに分裂しているような印象を観る者に与え、なかなか簡単に一言で説明するのが難しい、何とも奇妙で厄介なアルドリッチ映画なのだ。 もともと本作は、前作『ロンゲスト・ヤード』の大成功に気を良くしたアルドリッチとレイノルズが共同で製作会社を設立し(それぞれの名前、ロバート(Robert)とバート(Burt)を掛け合わせて、ロバート(RoBurt)・プロと命名された)、先にスティーヴン・シェイガンの脚本を読んだレイノルズが、気に入ったラブ・ストーリーがあると、アルドリッチに映画化の話を持ちかけたところから、この企画はスタートした。 その物語や人物設定は少々変わったユニークなもので、ここで恋愛劇を繰り広げることになる男女はそれぞれ、ロス警察の警部補と高級娼婦という間柄。当初の脚本では、警部補たる主人公と同棲中の恋人はアメリカ人となっていたものの、主人公が、娼婦である彼女とさらに深く踏み込んだ真剣な関係を築くべきかどうか思い悩むという設定を、保守的で旧来の価値観に囚われたアメリカ人の一般観客にすんなり受け入れさせるには、ヒロインを、アメリカ人とはまた別の道徳観念を持つ外国人にした方が有効で得策、とアルドリッチは考え、当初の設定を思い切って改変することを決断。かくしてレイノルズの相手役のヒロインに起用されたのが、その類い稀なる美貌とエレガンスを武器に次々と名作、話題作に出演し、当時は無論のこと、今日もなおフランス映画界を代表するトップ女優の座に君臨し続けるカトリーヌ・ドヌーヴだった。 ■自由奔放な恋を謳歌・擁護する女ドヌーヴ 当時の彼女は30代を迎えたばかりで、成熟した大人の女性の魅力が全身からこぼれんばかり。先に鬼才ルイス・ブニュエルの傑作『昼顔』(1966)では若き人妻にして娼婦という大胆な役柄を妖艶に演じるなど、数々の映画で底知れぬ女の魔性を発揮する一方で、シャネルの香水の広告搭やイヴ・サン=ローランのファッション・モデルとしても活躍し、抜群の人気と名声を誇っていた。 そしてまた、ドヌーヴといえば、つい最近、セクハラをめぐる論争に一石を投じて世間の耳目を集めたことも、記憶に新しいところ。少し遠回りになるが、やはり本作とも少なからず関連する出来事なので、ここでできるだけ手短に(とはいえ、元の文意を歪めたりしてあらぬ誤解が生じないよう慎重に)、それについて振り返っておくことにしよう。 昨秋、ハリウッドの大物プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインのセクハラ疑惑が浮上して以降、SNSやメディアを通じてセクハラを告発するムーブメントが沸き起こり、全米の映画や芸能界のみならず、世界的にその動きが波及して加速・過熱化するなか、今年の1月9日、フランスの新聞「ル・モンド」が、その行き過ぎに対して危惧を表明する共同の声明文を、著名な作家や文化人ら、フランスの100人の女性たちの連名で掲載。レイプは犯罪である、とはっきり断った上で、しかし、男性が女性に言い寄ること自体は罪ではないし、そのことの自由に対してもっと寛容であるべきだ、とする趣旨のこの記事に、ドヌーヴも賛同してその100人の中に名を連ねていたが、これがさらなる論議や大きな反発を招く事態に。 かくしてドヌーヴは、翌週1月14日付の「リベラシオン」紙にあらためて単独で公開書簡を送り、記事の中にセクハラをよしとすることなど何も書かれていないし、そうでなければ自分も署名などしていなかった、と弁明。そして、誰もが皆、自らを裁判官や陪審員、死刑執行人のように振る舞う権利を持つと感じ、SNS上での単なる非難が、処罰や辞職、そしてしばしば、メディアによる弾劾裁判へと通じてしまう時代風潮はどうにも好きになれない、自分はあくまで自由を愛するし、将来も愛し続ける、と従来の立場を堅持した上で、先の「ル・モンド」の記事に感情を傷つけられたかもしれないすべてのセクハラ被害の当時者たちに対してのみ、謝罪を表明した。 最近の一連のセクハラ告発をめぐる大きな議論は、きわめてデリケートで難しい問題ではあり、この狭い紙幅の中でそう簡単に要約・紹介できる類いの代物ではないので、ここから先はぜひ各自でさらなる情報収集に努めて、より正確で幅広い問題の把握と判断をお願いしたいが、いずれにせよ、今回の新たな騒ぎで、「男と女」をめぐる、お国柄や宗教、歴史や文化・社会的背景の違いによる、その人それぞれの価値判断や道徳観念・倫理感の違いが改めて浮き彫りとなり、『ハッスル』のヒロインにドヌーヴを思い切って起用したアルドリッチの判断は、確かに的を射たものであったことが、はからずも今日改めて証明された、といえるかもしれない。 かくして実現したレイノルズとドヌーヴという米仏の男女の人気スター同士の顔合わせは、それなりに功を奏し、この『ハッスル』は、前作『ロンゲスト・ヤード』ほどの大ヒットには及ばなかったものの、それでも全米での興行収入が1000万ドルを突破し、商業的に充分な成功を収めることになった。 ■男と女、嘘つきな関係 アルドリッチ自身、この『ハッスル』は何よりもまず、警察官と高級娼婦との間で繰り広げられるユニークなラブ・ストーリーであると、インタビューの場ではことあるごとに語っていて、さらにはドヌーヴをヒロインにキャスティングできたことが、この映画にとっては大きかったと強調している。しかし、従来のアルドリッチ映画ファン、そしてまた、現代の観客がこの『ハッスル』の中におけるラブ・ストーリーのパートを目にする時、それでもなお、物語や人物の初期設定自体にどうも根本的な誤りがあるのではと、つい困惑と違和感を覚えざるを得ないだろう。 先にも軽く述べた通り、レイノルズがこの映画の中で演じるのは、ロス市警の警部補。彼は、なかなか正義が報われない今日の腐敗した社会にやるせない思いを抱きながら、日夜職務に励む一方で、ドヌーヴ扮するフランス人の美しい高級娼婦と目下同棲中。かつて妻がよその男と不貞を働き、裏切られた苦い経験を持つバツイチのレイノルズは、ドヌーヴをそれなりに愛してはいるものの、2人の繋がりはあくまで肉体関係のみと割り切って、お互いの仕事には不干渉でいることを取り決め、彼女から、あなたさえそれを望むなら自分の商売はやめても構わない、と結婚を迫られても、煮え切らない態度を示すばかり。 それでいて、古き良き時代の懐メロや映画をこよなく愛する昔気質のセンチメンタリストであるレイノルズは、いつかドヌーヴと2人で自らの思い出の地ローマへと旅立つのをたえず夢見ていて、またある時は、近くの映画館で上映中のフランス映画の人気作『男と女』(1966)を彼女と一緒に見に行って、甘美で切ない恋物語の世界に浸り込む。しかも、この『ハッスル』の中にレイノルズとドヌーヴが本格的に絡む濡れ場などは一切画面に登場せず、その代わりに、同じ一つ屋根の下でドヌーヴが目には見えない他の男性顧客たちを相手に長々とテレフォン・セックスの会話に励むのを、そのすぐ脇からひとり指を咥えて眺めて悶々とするレイノルズの姿を、ひたすらキャメラは追い続ける始末なのだ。 これでは、そのさまをじっと辛抱強く見守る我々観客もついモヤモヤイライラして、2人のどっちつかずの曖昧な恋愛関係がどうせ長続きしないことは、はじめから分かり切ったことだろう、それに第一、当人たちの感情はさておいて、本来、法の番人たる警部補が娼婦と同棲中であるという事態が外部に知れたら、それだけで即アウトだろうに、と、あれこれツッコミを入れたくなるのも、致し方ないではないか。 こうして見てくると、この『ハッスル』の中におけるラブ・ストーリーのパートは、うわべだけ綺麗事ばかりを並べ立てた、いかにも絵空事の世界にしか筆者には思えない。けれども、ここで翻ってよく考えてみると、そこにこれまた一見オシャレでファッショナブルだが中身は空疎な恋愛映画の代名詞である『男と女』をあえて引用して重ねて見せる、作者アルドリッチの自虐的で苦いアイロニーに満ちた演出意図も、次第につかめてくるはずだ。 おそらくアルドリッチ自身、映画の準備段階でこの『ハッスル』の説話上の弱点に気づき、商業的な要請と期待に沿って、表向きは男女の人気スター同士の共演によるソフトで甘美なラブ・ストーリーを紡ぎ出す一方で、そちらでは何かと障壁や制約があってなかなか発揮できなかった彼本来の演出手腕を、『ハッスル』の裏番組にして実はこちらこそがメイン・ディッシュたる刑事もののサスペンス・ドラマの方に、思うさまハードに叩きつけたのではないだろうか。 ■男と女 アナザー・ストーリー 実際、『ハッスル』の物語が刑事ドラマのパートへと移行すると、これまで紹介してきたレイノルズとドヌーヴとのセンチで生ぬるい恋愛劇とはうって変わって、日常的に殺人や暴力事件が頻発する犯罪都市ロスのどす黒い闇に包まれたダークサイドの実態が、本来のアルドリッチ映画らしい非情なタッチで容赦なく赤裸々に暴き立てられていくことになる。 ビーチサイドでひとりの若い女性の変死体が発見され、その体内に多量の薬物や精液が見つかったことから、ロス市警の警部補レイノルズは、何やらあやしい事件の匂いを嗅ぎあてる。しかし、ここでも彼の姿勢は腰が引け気味で、あえてそれを単なる自殺として片付け、手っ取り早く事件の幕引きを図ろうとする。けれども、身元の確認作業に立ち会って、自分の愛する娘が痛ましい姿に変わり果て、素っ裸のままゴロンと遺体安置所に寝かされているさまを目の当たりにして怒りを露わにした父親役のベン・ジョンソンが、レイノルズに猛然と食ってかかって真相の徹底究明を迫ったことから、ようやくレイノルズは、本格的な事件の捜査に乗り出すことになるのだ。 かくして、ロスの裏社会に巣食う麻薬や売春などの犯罪組織や、彼らを陰で操る悪の黒幕の存在が浮上し、亡くなった若い女性は、(『攻撃』や『ロンゲスト・ヤード』でもその卑劣な悪役ぶりが印象的だった)エディ・アルバート扮する大物の悪徳弁護士が経営するストリップクラブでダンサーとして働き、さらにはブルーフィルムに出演し、乱交パーティーにも出席していたという、文字通り剥き出しの裸の真実が次々と明らかになる。ここでジョンソンが、愛する我が娘の素っ裸の遺体のみならず、在りし日の彼女がブルーフィルムの中で披露するあられもない痴態をまのあたりにして、耐え難い苦悩と絶望に苛まれる姿ほど、衝撃的で重苦しい痛みを伴った気まずい場面も、他にそう多くはないだろう。 (おそらく『ハッスル』のこの場面に強くインスパイアされて、ポール・シュレイダー監督が『ハードコアの夜』(1979)を撮り上げたのであろうという推論を、筆者は以前、この「シネマ解放区」の『ハードコアの夜』の紹介文の中で述べたことがあるので、ぜひそちらもご参照あれ。それと、『ハッスル』の中には、ジョンソン本人はまだ知らない意外な衝撃的真実が、実はもう一つあるのだが、やはりそれはネタバレ厳禁として、ここでは一応伏せておこう。) ところで『ハッスル』は、映画の冒頭部でビーチサイドに横たわる若い女性の変死体が発見された直後に、海を見下ろす小高い丘の中腹に建てられた瀟洒なリゾートハウス風の家のバルコニーで静かに佇むドヌーヴの姿をキャメラが捉えるところから、本格的なドラマが幕を開ける。一見優雅で高尚なムード満点の高級娼婦ドヌーヴと、俗悪で薄汚いロスのアンダーグラウンドの世界をあちこち経巡った末、哀れな最期を遂げた若い娘(ここでその役に扮しているのは、知る人ぞ知る当時のアメリカの人気ポルノ女優、シャロン・ケリー。当然彼女は、この映画の中でも体当たりの裸演技を披露している)。 つまり、ドヌーヴとケリーは互いが互いを照らす鏡像=分身関係にあり、2人の人生における明暗、天国と地獄という一見対照的な構図が、既に最初に端的に明示されるわけだが、実のところ、ドヌーヴの商売も、一皮剥けばケリーのそれからそう遠く隔たったものではない。ドヌーヴ演じるヒロインの過去は、映画の中でそうはっきりとは語られないが、アルバート扮する大物の悪徳弁護士は、実は彼女の上得意の顧客の一人でもあり、あるいはドヌーヴも、ケリーのように若い時分、アングラ世界の底辺を這いずり回っていた可能性は充分考えられる。 そしてまた、実はレイノルズと、ケリーの父親に扮したジョンソンも、やはり互いに鏡像=分身関係にあることが、ドラマの進展を見守るうち、観客にも了解されることになる。先にレイノルズが、過去に妻に裏切られた苦い経験があることを記したが、朝鮮戦争の復員兵であるジョンソンの方もまた、戦争体験で不能となり、彼の妻が不貞を働いていた事実が彼女自身の告白を通して明かされ、物語の中盤には、各自、喧嘩が原因で、額にこぶを作ったレイノルズと、目の周囲に痛々しいアザと傷跡をつけたジョンソンが、まるで鏡のように向き合って対面する、両者の鏡像=分身関係を何よりも雄弁に物語る一場面も登場する。 悪徳権力者ばかりが栄え、社会の底辺にいる弱者は容赦なく見捨てられる現代の不平等で腐敗した体制に対して、共に憤懣やるかたない感情を抱きながらも、斜に構えて目の前にある現実からたえず目を逸らし、何かにつけ、自分の夢想の世界へと逃避していたレイノルズは、もう一人の自己たる、怒りに燃えるジョンソンに引きずられる形で、ようやく社会、そして自らを取り巻く現実と正面から向き合う決意を固めるのだ。 ■アルドリッチとアルトマン 言われてみれば、あるある!? 筆者ははじめに、『ハッスル』を紹介するにあたって、この映画は二重の物語構成となっていて、一見それがうまく一つに融合しないまま、全体的に真っ二つに分裂しているような印象を観る者に与える、云々、と述べたが、しかしこうして、刑事ドラマのパートをじっくり丹念に追って見てみると、これは、表看板たるソフトで甘いラブ・ストーリーに対する、強烈でハードなカウンターパンチとして機能していて、両者はやはり、それなりに有機的に組み立てられていることが分かってもらえたのではないだろうか。 そしてこちらの刑事ドラマのパートに注目するならば、この『ハッスル』は、かつてフィルム・ノワールの精髄というべき傑作『キッスで殺せ』(1955)を生み出していたアルドリッチが、久々にこの不可思議で魅力的なジャンルならざる映画ジャンルに立ち返って撮り上げた、ネオ・ノワールの1本と呼ぶことも充分可能だろう。この点において『ハッスル』は、いささか唐突ながら、今は亡きアメリカ映画界のもうひとりの鬼才、ロバート・アルトマンの傑作ネオ・ノワール『ロング・グッドバイ』(1973) と意外な接近遭遇をしていることに、今回久々に映画を見返してみてふと気が付いた。 この2人のロバートたる、アルドリッチとアルトマン。名前がよく似ているというのみならず、反権威主義を前面に押し出したその不撓不屈の反骨精神と、山あり谷あり起伏の激しい波瀾万丈の映画人生、そして、作品の中に痛烈な体制批判や諷刺を盛り込みつつ、遊び心とユーモアも決して忘れない快活な娯楽精神という点でも、大いに共通性がある。その一方で、こと2人の作風に関して言うなら、豪快、剛腕で鳴らす直球勝負のアルドリッチに対し、人一倍のひねくれ者で型にはまることを嫌うアルトマンは変化球勝負と、一見対照的で、案外両者はこれまであまり引き比べられることがなかったように思う。 はたして両者の間に直接的な影響関係があるかどうかは不明だが、現今の体制や時流にはどうしても馴染めないままロスの街を東奔西走する、『ハッスル』の昔気質で時代遅れの主人公のキャラ設定や、鏡像=分身を用いた対位法的なストーリーテリング、そして、『カサブランカ』(1942)や『白鯨』(1956)、『裸足の伯爵夫人』(1954)をはじめ、作品のここかしこにちりばめられた、さまざまな往年の映画や音楽の引用、目配せの仕方などは、『ロング・グッドバイ』のそれと結構よく似ている。あるいはまた、『ハッスル』でドヌーヴがすぐ脇にいるレイノルズを尻目に他の男たちとテレフォン・セックスに励む場面は、やはりアルトマンが同じくロスの街を舞台に、こちらはレイモンド・チャンドラーならぬカーヴァーの原作を彼独自の味付けで料理した大作群像劇『ショート・カッツ』(1993)の中で、人妻たるジェニファー・ジェイソン・リーが、家庭の中に場違いな仕事を持ち込んで、夫や赤ん坊を尻目にテレフォン・セックスに励む場面に、何がしかの影響を与えているのだろうか? いずれにせよ、冒頭でも述べた通り、今年はアルドリッチの生誕100周年。これを機に、『ハッスル』だけでなく、他のさまざまなアルドリッチ映画にもぜひ目を向けて、その強烈で無類に面白い映画世界を、ひとりでも多くの映画ファンに存分に楽しんでもらいたいところだ。■ TM, ® & © 2018 by Paramount Pictures. 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COLUMN/コラム2018.02.13
隣のヒットマン
カナダのモントリオール郊外。歯科医のオズ( マシュー・ペリー)はシカゴ出身でありながら、妻の父が起こしたセックス&脱税絡みのスキャンダルによって愛する地元にいられなくなり、仕方なくこの街の病院で働いていた。それなのに、妻ソフィ(ロザンナ・アークエット)の浪費癖は改まることなく家計は破綻寸前。公私ともども冴えない彼は、病院の受付嬢ジル(アマンダ・ピート)にも同情される有様だった。そんなある日、オズの隣家にジミー(ブルース・ウィリス)と名乗る男が引っ越してくる。オズは、彼がシカゴを牛耳るマフィア組織の一員で、ボスを警察に売り渡して予定よりも早く出所することに成功したヒットマン“チューリップ”ことテュデスキの世を偲ぶ仮の姿だということに気づく。だが意外にも気さくな彼とウマが合い、友情らしきものを築くのだった。 しかしいよいよ破産寸前となったオズは、ソフィから「ジミーをマフィアのボスの息子ヤンニに引き渡せば大金を貰えること間違いなし。成功したら離婚してあげる」と迫られ、ヤンニの部下と接触するためにシカゴに行く羽目に陥ってしまう。 しかしオズの留守中にソフィが向かったのはテュデスキの家だった。彼女はオズが彼を売り渡そうとしていることをあっさり打ち明けてしまう。そう、ソフィの真の狙いはオズにかけた多額の生命保険金だったのだ。彼女のオズ殺害計画を知ったテュデスキは、ヤンニの部下で、実はテュデスキの親友フランキー( マイケル・クラーク・ダンカン)を介して「心配するな、俺たちの友情は壊れない」とオズを励ます。 だがオズは手放しでは喜べなかった。というのも、ヤンニのアジトで出会ったテュデスキの妻シンシア(ナターシャ・ヘンストリッジ)と恋に落ちてしまっていたからだ。シンシアはボスの秘密資金1000万ドルを預かっており、現金化するには彼女とテュデスキ、ヤンニ三人のサインもしくは死亡証明書が必要だった。大金を獲得するためならヤンニはもちろん、テュデスキも自分を殺すことを躊躇わないだろうと語るシンシア。果たして小市民のオズは、自分とシンシアに降りかかった絶体絶命のピンチを乗り切れるのだろうか……。 プロットをざっと書いてみるだけでも分かる通り、『隣のヒットマン』(2000年)は複雑な設定と、二転三転するストーリーによって、観る者のテンションを最後までマックス状態に維持し続けるクライム・コメディだ。 凝りに凝った脚本を書いたのは、これがデビュー作だったミッチェル・カプナー。それをモンティ・パイソンのエリック・アイドルが主演した『ナンズ・オン・ザ・ラン 走れ!尼さん』 (1990年) やメリサ・トメイにオスカーをもたらした『いとこのビニー』 (1992年) で知られる英国出身のコメディ職人ジョナサン・リンがタイトに仕上げている。 主演は、ブルース・ウィリス。このとき既にアクション映画界のスーパースターだった彼だけど、出世作だったテレビドラマ『こちらブルームーン探偵社』(1985〜89年)は探偵モノでありながら、パロディとマシンガン・トークを売りにしたコメディ仕立てのものだった。映画本格進出作の『ブラインド・デート』(1987年)にしてもブレイク・エドワーズ監督のロマ・コメだったし、スターダムに押し上げた『ダイ・ハード』(1988年)も実はアクションと同じくらいウィリスの軽口を楽しむ映画である。『隣のヒットマン』はそんな彼のコメディ・サイドをフューチャーするのにピッタリの企画であり、最初にキャスティングされたのも彼だった。そんな製作サイドの要望に忠実に、ここでのウィリスはシリアスとコミカルの狭間を行き交う演技で観客を惹きつけてみせる。 そんなウィリスが、相手役(そしてストーリー上は主人公)であるオズ役に当初から熱望したのがマシュー・ペリーだったという。当時のペリーは、驚異的な高視聴率を記録していたシットコム『フレンズ』 (1994〜2004年)のチャンドラー役でノリに乗っている時期であり、ウィリスは彼が持つ勢いを作品に持ち込めれば映画の成功は間違いないと思ったのだろう。 こうした彼の目論見にペリーは見事に応えている。リアクションがいちいち絶妙。しかも等身大のキャラを得意とする彼だからこそ、映画冒頭の冴えない姿から後半のヒーローへの変貌に、観客が喝采を叫べるというわけだ。またその活躍があくまで歯科医という設定を活かしたものであるところにも唸らされてしまう。 ウィリスとのコンビネーションという意味では、超能力者に扮したフランク・ダラボン監督作『グリーンマイル』(1999年)における演技が絶賛されたマイケル・クラーク・ダンカンも印象的だ。ダンカンはウィル・スミスをはじめとするハリウッド・スターのボディ・ガードから俳優に転じた変わり種。そんな彼をウィリスは『アルマゲドン』(1998年)で共演して以来、高く評価しており、本作は『ブレックファースト・オブ・チャンピオンズ』(1999年)に続く3度目の共演作にあたる。もし2012年に心筋梗塞で急死していなかったら、もっと共演を重ねられたのではないかと思うと、残念でならないけど、ウィリスとのプライベートの交流がそのまま反映された本作の彼は心の底から楽しそうだ。 女優陣もそれぞれ健闘。オズのどうかしている妻ソフィを演じているのは、『マドンナのスーザンを探して』(1985年)などコメディで抜群の冴えを見せるロザンナ・アークエット。フランス語訛りのヘンなセリフ回しが最高におかしい。そんな彼女とは対照的に、『スピーシーズ 種の起源』(1995年)のエイリアン役でお馴染みのナターシャ・ヘンストリッジがフィルム・ノワール的なクール美女シンシアになりきってみせる。 とはいえ、女優陣のMVPはジルを演じたアマンダ・ピートだろう。リアルタイムで本作の彼女を観たときの衝撃ときたら無かった。テレビにはそこそこ出演していたものの、それまで映画で大きな役をひとつも演じたことが無かった彼女は本作でも病院の受付嬢という一見チョイ役で登場する。だが濃すぎる顔立ちは存在感がありすぎるし、セリフは非常識なものばかり。 「彼女は一体何者なんだ?」そんな疑問が観客の中にじわじわ湧き上がっていき、それが沸点に達した瞬間に正体が明かされる。何とジルの正体はテュデスキを崇拝する殺し屋志望の女子だったのだ。映画後半の彼女の大活躍ぶりは、大スターのウィリスとペリーのそれを霞ませるほどのもの。こんな美味しい役をブレイク前の若手女優に与えた本作の製作陣にはどれほど賞賛を送っても送り足りないと思う。 本作でブレイクしたピートは、血も涙もないサイコな悪女に扮した『マテリアル・ウーマン』(2001年)でジェイソン・ビッグス、ジャック・ブラック、スティーブ・ザーンという3人のコメディ男優を向こうに回して映画を引っ張りまくり、『17歳の処方箋』(2002年)でもキーラン・カルキン扮する主人公を翻弄するフリーダムな女子を怪演。コメディ女優として一時代を築いたのだった。2006年に『ゲーム・オブ・スローンズ』のショーランナー、デイヴィッド・ベニオフと結婚して以降は上昇志向が収まったのか、普通の演技派女優になってしまったのがコメディ好きとしては本当に残念である。というわけで、映画ファンは、本作の続編『隣のヒットマンズ 全弾発射』(2004年)を含めて、この時期ならではのギラギラしたアマンダ・ピートの魅力に脳天を撃ち抜かれてほしい。 WHOLE NINE YARDS, THE © 2000 METRO-GOLDWYN-MAYER DISTRIBUTION CO.. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2018.02.05
第一級の地味ポリティカル・サスペンス『パララックス・ビュー』~2月6日(火)ほか
あなたも思ったことは無いだろうか? 「自分は誰かに狙われている」 「自分がこんな状況なのは誰かの陰謀なのではないか」 「給料が安いのは国際的巨大企業の謀略」 「沖縄米軍の事故はパヨクの自演」 「自分が結婚できないのは中国共産党の国家的戦略」 ……誰しも大なり小なりこんな妄想に憑りつかれることはあるのではないだろうか。筆者も中学生時代の辺りから毎日そんなことを考えて、今も自己を肯定しようと必死に生きてます。すみません。 「自分以外の周囲は気付いていないが、何かが起こっている」というサスペンス映画は、風呂敷が大きければ大きいほど面白い。だってそんな大がかりな話なのに誰も気付いていないのは、よほど巧妙に隠蔽されているからだ。ということで、サスペンスというジャンルの中で風呂敷が大きいサブジャンル、ポリティカル・サスペンスは面白い作品の宝庫なのである。 特に政治に闇が多かった時代。1970年代は、ペンタゴン・ペーパーズ事件、ウォーターゲート事件といった事件の連続によって、その陰謀論が空論や妄想ではなく実際にあったという証拠が次々と見付かったことも相まって、このジャンルが百花繚乱状態となっている。 ロバート・レッドフォードの大快作『コンドル』(75年)、バート・ランカスターが出演した『カサンドラ・クロス』(76年)や『合衆国最後の日』(77年)など枚挙にいとまがないし、現在製作される映画でもこの時代を舞台にした『ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書』(17年)が次々と製作され、高い評価を受けている。また少し前の映画になるが、ジョン・フランケンハイマー監督の『影なき狙撃者』(62年)はキューバ危機によって世界戦争が危惧される時代に作られたし、イヴ・モンタンのフランス映画『Z』(69年)もギリシャの政治的混乱を舞台にした素晴らしい作品だった。 そんな中で、『ソフィーの選択』(82年)『推定無罪』(90年)『ペリカン文書』(93年)などのポリティカル・サスペンス映画の巨匠アラン・J・パクラ監督は、1970年代に2本の傑作を生みだしている。 まずは派手な方の傑作、ウォーターゲート事件を追うワシントン・ポスト紙の記者の戦いを描く『大統領の陰謀』(76年)。事件発生から3年、ニクソン大統領の辞任から2年という短期間に製作された本作は、ロバート・レッドフォードとダスティン・ホフマンというこの時代を代表するやさ男俳優2名を配置。タイプライターから吐き出される文字だけで表現される物語の顛末は、痛快でも爽快でも無いが、ひたすら地道であることの正しさを表現した素晴らしいラストシーンであると思う。 この『大統領の陰謀』によって、その年の第49回アカデミー賞では作品賞、監督賞、助演男優賞、助演女優賞、脚色賞、録音賞、美術賞、編集賞の8部門にノミネート。ジェイソン・ロバーズの助演男優賞、ウィリアム・ゴールドマンの脚色賞、録音賞と美術賞という4部門を受賞するという、この年を代表する作品の一つ(この年の作品賞は『ロッキー』)となっており、パクラ監督の代表作となっている。 そしてその前作にあたり、後年の『大統領の陰謀』に繋がるもう一本の(地味な)傑作が、今回ご紹介する『パララックス・ビュー』(74年)である。 次期大統領の有力候補とされるキャロル上院議員が、シアトルのランドマークであるスペースニードルでの演説中に射殺される事件が発生。SPによって追い詰められた犯人は、スペースニードルの屋上から転落して死亡した。この事件を調査した調査委員会は、犯行は狂信的愛国主義者による単独犯行として報告。事件は「よくある事件」のひとつとして、人々からは忘れ去られていった。 3年後。ロサンゼルスのローカル紙記者のフレイディのもとに、かつての恋人のリーが訪れる。リーはキャロル議員暗殺の現場にいたTVレポーターで、暗殺の現場にいた20人の目撃者が次々と不慮の事故で死亡している事実を知り、フレイディに助けを求めに来たのだった。フレイディは偶然の連続として一笑に付したが、フレイディは数日後に睡眠薬の過剰摂取で死体となったリーと再会することになる。 元恋人の死によって、ようやくこの事件に疑念を抱いたフレイディは、リーが把握している以外にも不審死した目撃者がいることを知り、本格的に調査を開始する。事件を調べる過程で何度も殺されそうになるフレイディだったが、自分を殺そうとした者の自宅を調べるとパララックス社という謎の会社の就職希望願書と適性テストの用紙を発見する。次々と目撃者が死亡する中で、フレイディはパララックス社への潜入を決意。フレイディはそこで衝撃の事実を目撃することになる……。 本作が制作されたのは、ウォーターゲート事件が本格的に表沙汰となり、それを政府が躍起になってもみ消そうとしていた時期だ。明確な関係性は不明瞭ではあるが、限りなく黒に近いグレーな状態が続き、それでも米中国交回復を実現してベトナム戦争を終結させようとしている政府を信じる者と、政府を疑う者の対立が激化していた時期である。そんな時期に制作された本作も、各種暗殺事件へのパララックス社の関与と、パララックス社と政府との関係性は最後までグレーなまま、救いの無いラストを迎えることになる。非常に後味の悪い作品と言っても過言ではない。そもそもパクラ監督の作品はドラマティックさをあえて抑制し、主人公が何を考えているのか分かりづらい作品が多いので、この映画だけが特別という訳ではない。 しかし逆にドラマティックさを抑制することによってリアリティが増幅し、主人公の器の中身を見せないことで、逆に感情移入できる人にとっては尋常でない共感度の向上を実現している作品でもある。フレイディを演じたウォーレン・ベイティの描き込みが不足していると見る向きもあるが、そこが観る者の想像力を膨らませるポイントにもなっている。 タイトルの“パララックス・ビュー”とは視差のことである。視差とは、見方によって対象物が異なって見えることであり、劇中パララックス社に潜入したフレイディが体験する“あること”がずばりそれであり、またこの映画の結末も視差によって異なる結末に捉えられるようになっている。 本作の素晴らしさは撮影だ。撮影を担当したのはゴードン・ウィリス。『ゴッドファーザー』シリーズやウッディ・アレン映画の撮影監督として有名なウィリスは、本作以外にも『コールガール』(71年)、『大統領の陰謀』、『推定無罪』など多くの作品でパクラ監督とタッグを組んでいるが、本作での映画のトーンに合わせた冷たい画作りは、劇伴を極限までそぎ落とした本作にベストマッチしており、ウィリスの仕事の中でも白眉と言って良いだろう。 あまり評価されることの無く、スケールも小さな地味な作品であるが、圧倒的なリアリティと恐怖をもって迫る力作である。必見。■ TM, ® & © 2018 by Paramount Pictures. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2018.02.04
なぜ人は『悪魔の棲む家』にかくも惹かれるのか!? 長男による家族惨殺事件と、虚実入り乱れた土地にまつわる伝説と、売名疑惑のスキャンダルが混然一体となった底無しの深淵「アミティヴィル・ホラー」とは!?
‘70年代オカルト映画ブームの起爆剤となったのが『エクソシスト』(’73)、ブームの頂点を極めたのが『オーメン』(’76)だったとすると、そのトリを飾ったのが『悪魔の棲む家』(’79)だったと言えるかもしれない。『エクソシスト』同様にアメリカで実際に起きた悪霊事件の映画化。ジェイ・アンソンが執筆した原作ノンフィクション『アミティヴィルの恐怖』は全米ベストセラーとなり、日本でも翻訳出版されて、それなりに話題を呼んでいたことを、当時小学生だった筆者も記憶している。いわば鳴り物入りの映画化であって、全米興行収入ナンバー・ワンの大ヒットもある程度は想定の範囲内だったに違いない。とはいえ、その後40年近くに渡って、非公式を含む続編やリメイクが延々と作られ続けることは誰も予想しなかっただろう。しかもその数、現在までに合計で18本!『エクソシスト』関連作が6本、『オーメン』関連作が5本であることを考えると、他よりもケタ違いに多いのである。 なぜそこまで、『悪魔の棲む家』シリーズに人々は惹かれるのか。まずはそこを振り返ることから始めた上で、その原点である’79年版の見どころを解説していきたい。 ことの発端は1974年11月13日。ニューヨーク州ロングアイランドの閑静な町アミティヴィルで、一家6人が射殺されるという惨劇が発生する。犯人は一家の23歳になる長男ロナルド・デフェオ。当初はマフィアの犯行を主張していた(実際、デフェオ家はマフィアに関りがあったとされる)ロナルドだったが、警察に証言の矛盾点を指摘されたことから、自分が両親と4人の弟や妹をショットガンで殺害したことを認めたのである。 それから1年余り経った1975年12月19日、惨劇のあったアミティヴィルの家にラッツ一家が移り住んでくる。ジョージ・ラッツと妻キャシー、そしてキャシーの連れ子3人だ。夫婦はいわくつきの物件であることを承知した上で、8万ドルという破格の安さに惹かれて家を買ったのだが、しかし彼らが引越しをして以来、家では様々な怪現象が発生したという。それは日に日に深刻となっていき、移り住んでから28日後の1976年1月14日、ラッツ一家は着の身着のままでアミティヴィルの家を逃げ出す。以上が、事件の大まかなあらましである。 ラッツ一家にとっては、これで一件落着したかに思えた悪霊騒動。しかしその後、マスコミや霊能者、心霊学者など大勢の人間が彼らの周りに寄って集まり、怪現象の真偽を巡って全米が注目する一大論争へと発展してしまうのである。 もともと世間に公表するつもりなどなかったというラッツ夫妻。だが、ある人物によって記者会見を無理強いされたと生前のインタビュー(夫婦共に故人)で主張している。それが、ロナルド・デフェオの弁護士ウィリアム・ウェバーだ。夫婦から相談を受けていたウェバーは、どうやらラッツ夫妻を自らの売名行為に利用しようとしたらしい。当時デフェオ事件の回顧録を執筆していたというウェバーは、一家の体験を自著に盛り込もうと提案したそうなのだが、夫婦はこれを断ったらしい。だからなのか、ジェイ・アンソンの著書がベストセラーになると、ウェバーはその内容を自分がラッツ夫妻に入れ知恵した創作だと雑誌「ピープル」で告白し、そもそも一連の悪霊騒動は家を購入した時点から夫婦が計画していた金儲けのペテンだとまで証言している。もちろん、どちらの主張が正しいのかは分からない。 さらにことをややこしくしたのが、超常現象研究家でヴァンパイア研究家を自称するスティーブン・キャプランだ。当時ラジオにたびたび出演して知名度のあったキャプランは、ラッツ夫妻から屋敷の調査を依頼されたという。しかし、その結果を世間に公表すると断ったところ、ためらった夫妻が調査依頼を撤回したことから、キャプランは悪霊騒動がインチキであると考え、それ以降テレビや雑誌、自著などでラッツ夫妻を激しく非難するようになる。これまた双方の主張に食い違いがあるのだが、いずれにせよキャプランによるラッツ夫妻への批判活動が、悪霊騒動に世間の注目を集める要因の一つになったと言えよう。 一方、ラッツ夫妻の主張を支持する人々も現れる。その筆頭が、映画『死霊館』シリーズのモデルとなったことでも有名な霊能者ウォーレン夫妻だ。そのあらましは『死霊館 エンフィールド事件』の冒頭でも描かれているが、彼らはテレビ局やラジオ局の取材クルーなどと共に屋敷を調査し、凶悪な悪霊が家に取り憑いていると証言している。また、テレビの心霊番組ホストとしても知られる超心理学者ハンス・ホルザーも、霊能者エセル・マイヤーズと共に屋敷を調査しており、ロナルド・デフェオは土地に取り憑いた先住民の幽霊に憑依されて一家惨殺の凶行に及んだと主張している。ただし、彼の場合は弁護士ウィリアム・ウェバーの依頼で調査を行ったという事実を留意しておくべきだろう。つまり、ロナルド・デフェオ裁判の不服申し立ての根拠として利用されようとした可能性があるのだ。 このようなメディアを巻き込んだ論争の最中、1977年に出版されたのが『アミティヴィルの恐怖』。出版社から推薦されたノンフィクション作家ジェイ・アンソンに執筆を任せたラッツ夫妻は、自分たちの主張を一冊の本にまとめることで、一連の騒動や論争に終止符を打つつもりだったのかもしれない。これが真実なのだと。とはいえ、ラッツ夫妻を含む関係者の全員に、何らかの売名的な意図が垣間見えることも否めない。まあ、ラッツ夫妻やウォーレン夫妻らの主張を完全に否定するわけではないが、しかし疑いの余地があることもまた確かだ。同じことは反対側の人々に対しても言えるだろう。結局のところ真相は闇の中。そうした周辺のゴタゴタ騒ぎや、土地にまつわる虚実入り乱れた伝説と噂、実際に起きた血なまぐさい一家惨殺事件の衝撃が混然一体となって、「アミティヴィル事件」に単なる悪霊騒動以上の興味と関心を惹きつけることになったように思える。それこそが、今なお根強い『悪魔の棲む家』人気の一因になっているのではないだろうか。 で、そのノンフィクション本『アミティヴィルの恐怖』を映画化した’79年版『悪魔の棲む家』。これは劇場公開時から指摘されていることだが、ドキュメンタリー的なリアリズムを重視するあまり、とても地味な映画に仕上がっていることは否めないだろう。あくまでも娯楽映画なので、いくらでも派手な脚色や誇張を加えることはできたはずだ。しかしそうしなかったのは、やはり『暴力脱獄』(’67)や『マシンガン・パニック』(’73)、『ブルベイカー』(’80)などの、骨太なアクション映画や社会派映画で鳴らした名匠スチュアート・ローゼンバーグ監督ならではのこだわりなのだろう。ゆえに、『エクソシスト』や『オーメン』のショッキングな恐怖シーンを見慣れた当時の観客が、少なからず物足りなさを覚えたことは想像に難くない。劇場公開時にはまだ小学生で、なおかつソ連在住という特殊な環境にあったため、物理的に見ることのできなかった筆者などは、いわゆるスプラッター映画全盛期の’80年代半ばに名画座で初めて本作を見たので、なおさらのことガッカリ感は強かったと記憶している。 ところが、である。それからだいぶ経って久しぶりにちゃんと見直したところ、意外にもガラリと大きく印象が変わった。要は、古典的な「お化け屋敷」映画として、非常に完成度の高い作品なのだ。中でも、悪魔に魅入られた父親が徐々に狂っていく過程は、下手に悪魔やモンスターがバンバン飛びだしてくるよりも、よっぽど観客の精神的な不安感や恐怖感を盛り上げて秀逸。まるで目のような窓が2つ付いた家の不気味な外観もインパクト強いし、ハエのクロースアップなどの何気ない描写の積み重ねがまた、地味ながらも確実に不快感を煽る。確かに派手な特殊メイクやSFXは皆無に等しいものの、全編に漂う禍々しい雰囲気は捨てがたい。それこそ、『呪いの家』(’44)や『たたり』(’63)の系譜に属する正統派のゴーストストーリーだと言えよう。 なお、限りなくラッツ夫妻の主張する「事実」に沿った本作だが、しかしそれでも一部にドラマチックな変更はなされている。その代表例が、ロッド・スタイガー演じるデラニー神父のエピソードであろう。モデルとなった神父は、お払いの際に悪魔のものらしき声を聞いただけで、ハエの大群やポルターガイスト現象に襲われたという事実などはないし、ましてや後に失明してしまったわけでもない。あくまでも脚色だ。ちなみに、なぜハエの大群なのかというと、新約聖書に出てくる悪魔ベルゼブブがヘブライ語で「ハエの王」を意味するから。キリスト教に疎い日本人にはちょっと分かりづらいかもしれない。 先述したように、その後も延々と続編が作られて長寿シリーズ化した『悪魔の棲む家』。個人的には、デフェオ一家惨殺事件をモデルにした『悪魔の棲む家PART2』(’82)も、イタリア映画界の革命世代を代表するダミアノ・ダミアーニ監督らしい「反カトリック教会」精神が貫かれていて、とても興味深く感じる作品だった。また、本作とは真逆のアプローチで、派手な残酷描写やショックシーンをふんだんに盛り込んだ、リメイク版『悪魔の棲む家』(’05)も、本作と見比べると非常に面白い。昨年全米公開されたばかりのシリーズ最新作『Amityville: The Awakening』は、なんとジェニファー・ジェイソン・リーとベラ・ソーンの主演。日本での劇場公開に期待したいところだが、ん~、やっぱりビデオスルーになるのかなあ…。■ AMITYVILLE HORROR, THE © 1979 ORION PICTURES CORPORATION. All Rights Reserved