映画の思考徘徊 第2回 尽きることのない戯れ ──ホン・サンス作品のズームとパン/反復と差異

FEATURES 髙橋佑弥
映画の思考徘徊 第2回 尽きることのない戯れ ──ホン・サンス作品のズームとパン/反復と差異
 ホン・サンスの作品世界において、人々は絶えず戯れる。上映時間中、彼らは延々と会話し、グビグビと酒を飲み、ベロチューする。しかし彼らの生活の“営み”が、今や当然のように思えるホン・サンス的“戯れ”として描かれるようになったのは2005年からのことである。

 ホン・サンス初期の長編5本、すなわち『豚が井戸に落ちた日』(1996)から『女は男の未来だ』(2004)までの作品群では、カメラは人間の営みを禁欲的に、しかし暴力的に切り取る。パンで人物の動きをフォローすることはあれど、基本的にカメラは固定され、フレームの中を人物が近づいたり離れたり、出たり入ったりする。会話は専ら引きのショットで、参加者全員がすっぽりと収められた状態で進行する。そして時に、カメラは男女の夜の営みをも、会話と等価に映し出す。唾液を絡ませる接吻から、汗にまみれたピストン運動までを冷徹に見据える。しかし前述の2005年、『映画館の恋』からホン・サンスは「今こそが正しく、あの時は間違いだったのだ」とでも言うように、ストーリーテリングの手法を180度転換することになる。

 カメラは気ままに目移りする。主人公とその恋人の接吻を鮮やかに切り取った次の瞬間には、パンダウンし彼らの足元を這い蹲る芋虫にズームイン。この芋虫に何か意味があるのか? 否である。物語の中では全く意味もなさない、言及すらされない対象に、注意の惹かれるままに寄っていくようになる¹。2005年以降のホン・サンスの映画は“外部への興味”に依って成る。会話の場面では、頻繁にカメラが左右にパンし、話者や聞き手のリアクションを追いかける。切り返しで語れば遥かに効率的であろうシーンも、言葉が人と人の中空を漂い、咀嚼されるまでの“現場”を切り取るがために、非建設的アプローチが貫徹される。この視点は、傍観者の視点である。かつてのホンサンス作品の撮影は、演出者という名の神、インビシブルな絶対者の視点であった。冷たく人間を“観察”し、とうてい人の目の及ばぬ情欲の現場さえ監視する。だが、今の視点は登場人物と共にある。飲み会で話す人々。話者が変わるたびに、カメラは向きを変える。右から左へ、左から右へ。これは端っこの席で沈黙を守る寡黙な参加者の視点に他ならない。頻繁に行われるズームは、対象への興味の強さをあからさまに示すものだ。魅力的な笑み、はたまた振るわれる毒舌。カメラはズームインする。一人の発言でしんみりと場が静まる。カメラはズームアウトする。ホン・サンス作品のカメラには、感情があり、動きはそれに忠実に従う。変なものが落ちていれば、それが気になり、遠くに知り合いを見つければ、よく見てみたくなる。興味津々な映画眼。
 
 また、撮影それ自体が人格を帯びるからこそ、被写体のプライバシーも最低限保たれる。露骨な性行為描写は影を潜め、恋人たちの逢瀬はキスまでに概ね留められる。「ここから先は恥ずかしいから撮らないでね」「わかりました」と会話が聞こえるかのように、カメラは慎ましく場を去り、編集点がやってくる。ホン・サンスの近作に異国が舞台のものや、異邦人が主人公のものが多いことも、「外部への関心」というカメラの人格に起因するといえるだろう。知らない土地は言わずもがな、自国で生活する“異邦人”の姿は自然と注意を惹くものだから²。
 一作見るだけではわからない、ホン・サンス作品世界のもう一つの特徴は、“反復と差異”である。物語は、日常は、絶えず繰り返される。男は女と序盤に出会い、中盤別れるが、また別の女と似たシチェーションで出会い、終盤一人目の女と同じような原因で別れる……僅かな誤差のあるルーティーンとしての人生。登場人物たちの毎日は、全く同じのように見えて少しずつ違う。また言い換えるなら、違っているように見えてほとんど同じである。これは独立した作品一本一本だけではなく、俯瞰することでフィルモグラフィー全体で一つのユニバースを形作る。ホン・サンス作品の出演陣は、ある程度決まった顔ぶれで固定されている。そしてストーリーも、演出もまた毎度似通っている。もちろん時によって、映画監督が詩人に、生徒が恋人に、妻が愛人に、と役割の変動はあるものの、彼らの演じる戯れは、ある種の平行世界、僅かな誤差のある異なる世界線で同時進行しているように思えてならないのである。

 ホン・サンス作品の魅力は、尽きることのない戯れにある。いろいろな人が恋し不倫し、べらべらとしゃべる。喉を通るのは、焼酎であったり、マッコリであったり、ビールであったりするけれど、そんなことは些細な誤差にすぎない。男と女の職業の変化もまた、誤差にすぎない。全ては繰り返す。相手を変え続けながら規則正しく行われるワルツのように。意味や意義ではなく、その場限りの無為な戯れの繰り返しこそが、人生なのだ、とホン・サンスもまた尽きることなく繰り返し訴え続け、カメラ=観客の視点もまたそれと戯れ続ける。 ³
¹ 本稿を書くにあたり、直接参照してはいない…と断固として主張しつつ、ホン・サンス監督作品におけるズームの使用については、既に『すばる』2018年7月号に掲載された佐々木敦による論考「反復と差異、あるいはホン・サンスのマルチバース」──のちに『この映画を視ているのは誰か?』(作品社)に収録された──などでも分析が試みられているという事実を書き記しておかねばならないだろう。因みに、佐々木はズーム演出の開始時期を「『女は男の未来だ』(二〇〇四年)でも、まだあまりズームは目立つことはない。『浜辺の女』(二〇〇六年)あたりからかなり意識的なズーミングが見られるようになり、その頻度は近作になるほど増していく」としているが、いうまでもなく本来『女は男の未来だ』と『浜辺の女』の間には『映画館の恋』があり、──“あたりから”とはしているものの──言及がないことからも当時見ていなかったものと思われる。
² ここまでお読みになった方はお判りかと思うのだが、いままで長々と展開してきた“持論”は、いち作品受容者の身勝手な“印象”の範囲を出るものではない。実際いままでも、ホン・サンスはズーム演出について「この画を見せて、カットを割り、次の画を見せるといったような、“ここで何を見せるのか”ということをカットで決めることはしたくない」「カットで切ることをしないから、流れを止めないで済み、監督である私自身も同一の世界の中で、“これを撮る、これを撮る”と指定してくことができる」(ホン・サンス監督作品上映+特別講義「ホン・サンス映画はどのように生まれるのか?」)、「経済的な理由ということです。私の映画は長回しが多いので長回しの中でズームをすると、監督はリズムを作れる。ロングテイクの中でズームすることによってリズム、ペースが作れる。だからそのリズムとペースがひとつ。もうひとつは経済的な理由と言いましたが、ディテールを撮りたい時にズームする。そういう理由でロングテイクの中でズームを多用している」(ホン・サンス『3人のアンヌ』インタヴュー)などと説明しており、当然“演出意図”があることがわかる。

 しかし、その一方で2010年の批評家チョン·ソンイルとの対話(私は韓国語を読むことができないので、機械翻訳を用いたと恥ずかしげもなく告白しておこう──「papago」というサイトである)では、ズームを使うか否かの決断はリハーサルの時に下すと説明しつつ、急遽撮影中に「(撮影監督の)横腹をとんとん叩いて」ズーム指示をしたり/中止したり、「ズームインするはずなのに忘れてそのまま行く」ことすらあると語ってもいる。一種の“アドリブ”的な側面があり、その場で喚起された興味や、感覚的なリズムなどに依る部分が大きく、かならずしも“意図”に収束しない即興性の高い選択でもあるようなのだ。曰く「ズームをしたい気持ちがあっても、実際に撮影に入った時は使わないで、 その次に後回しにして使ったりしたんです。(中略)考えずに、思い浮かんだら その時にします。 思いついた考えを論理的に整理し、システム化することへの抵抗があります」ということらしい。
³ いかにも締めくくりに相応しい、根拠のない“断言調”で本文を切り上げてしまったが、もちろん「戯れ続ける」かどうかなど確証が持てるはずがない。なんせ、はやくも──現状日本で封切公開された最後の作品群『それから』『クレアのカメラ』『夜の浜辺でひとり』(いずれも2017年製作)のあとに、東京フィルメックスでのみ見ることができた“劇場未公開”状態にある──新作のうち二本『草の葉』(2018)、『川沿いのホテル』(2018)に至り、どうやらホン・サンスは新たなるフェーズに突入したようにも見えるからだ。“戯れ”の外部に。

 『草の葉』は“拒否”の映画である。主な舞台となる喫茶店で、様々な客たちが様々なやり取りをするというところまではいつものホン・サンス作品と変わらないが、その会話のどれもが徹底して“拒否”にまつわるものなのだ。ある女は自殺したらしい共通の友人を話題に「あんたのせいよ」と会話相手の男を非難する。ある売れない中年俳優は、「仕事がないので居候させてくれ」と後輩女性に頼み込み、断られる。“拒否”は会話の内容だけではない。本作はそもそも明確な主人公の存在自体が“拒否”されている。実質主人公的な視点を果たす、唯一のひとり客である女性(キム・ミニ)もまた、ホン・サンス作品お決まりの“戯れ”から排除、拒否されていると言えるだろう。物語は、たった一人喫茶店の隅っこに座る彼女が“観察者”として、周りの客を盗み見/盗み聞くという形式で語られるのである。

 しかし本作の白眉は、中盤登場する居酒屋での一幕にある。ここでもキム・ミニは隣の客を“観察”する。隣席では、とある男女がある人物の死について論じているのだが、内容はさほど重要ではなく、特異な演出にこそ注目してほしい。カメラは話す女性の顔を、男の肩越しに捉える。男の顔はフレームに“拒否”され、画面内には現れない。観客に見ることができるのは後姿のみだ。女が話す時、手前の男の背中には焦点が合っておらず、ぼやけている。また逆に男が口を開いた時、画面の女の顔は朧に包まれたように曖昧になり、手前の男の後ろ姿がくっきりと自己主張を始める。演出が絶えず会話相手を“拒否”し続ける。男の長ゼリフが絶頂に達した時、カメラが本来あるべき男の顔のクロースアップの代わりに召喚するのは、壁に映る男のシルエットである。喋る影。影の男には相手がいないように見える。本作は一貫して相手の存在の拒否が描かれる。各々が好き勝手なことを言い、あるいは相手の言葉を否定する。ホン・サンス宇宙における安易な“戯れ”への拒否。今までの作品では肯定されてきた“誘い”は断られる。そして最後に、これらの“拒否”関係にひとまず融和が訪れることで映画は幕を降ろす。

 一方『川沿いのホテル』は“外側”についての映画である。物語の大半は「戯れる男女」と最もかけ離れた、父親と息子二人の男三人、あるいは友人同士の女性二人の会話で進む。極めて近しい同性同士の会話は“戯れ”に突入することなく、横滑りする。“戯れ”の対象ではない人物と会話することを要請された彼らは、絶えず窓の外を話題にする。舞台は題名通り川沿いのホテルであり、登場するどの部屋も窓に面しているのだ。カササギの声、雪、会話相手の肩越しに見える窓外で会話中の人影。そして終盤、図らずも“戯れ”に接近した父親は、次のシーンでは原因不明の死を迎えている。まるで“戯れ”を求め、物語そのものから排除されたかのようでもある。

 また新作二本においては、長編第6作『映画館の恋』(2005)での使用以降、ホン・サンス作品のトレードマークとなったズームの多用も、極めて限られた局所的な仕様にとどまっており、類出する主題“反復と差異”の主題は今や、ループ形式の物語構造ではなく「二者の間で同じやりとりが何度も繰り返される」という方式に姿を変えて現れ始めてもいる。ホン・サンスの作品はどれもが似ている。物語も、演出も、同じことを長い間やり続けているかのように見える。しかしこの新作二本を見るにつけ、ホン・サンスの作家性は全く変わっていないようで、少しずつ変わっているのではないか、とも思わせられるのである。“反復と差異”の主題の現れ方が少しずつ変化しているように。ズームが減ってきているように。男女の“戯れ”は主軸から離れ,“死”が少なからず扱われるようにもなった。自己言及の方向性も、こころなしか変化し始めているような気もする。ホン・サンスはまるで自らの作品内で起きる出来事のように、似たような映画を反復して作り続ける。しかし繰り返せば繰り返すほど、その差異は増幅されていくのだ。ホン・サンスは絶えず自らの形式を、極めて少しずつ刷新する。⁴
⁴ 厳密には現在の“最新作”は、昨年のフィルメックスで上映された『逃げた女』である。本来であれば、上の項で本作にも言及すべきところではあるが、じっさい見たにもかかわらず、既にかなり多くを忘れてしまっているため、割愛した。また、上で取り上げた『草の葉』と『川沿いのホテル』についての記述は、2018年にフィルメックスでの上映を見た直後に書いた……とおぼしき自らのメモを全面的に信頼して書かれている。今後、めでたく劇場公開の機会が訪れた暁には、記述の誤りが発覚するかもしれないということを、お断りしておく。




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この記事のライター

髙橋佑弥
髙橋佑弥
97年生。映画文筆。『別冊映画秘宝 絶対必見!SF映画200』『別冊映画秘宝 決定版ツイン・ピークス究極読本』などに寄稿アリ。共著『「百合映画」完全ガイド』(星海社新書)。「映画の原稿仕事、何でも何時でも何字でも!」が信条だが…五本指を使いこなすことができず左右の人差し指だけでぽちぽちキーボード操作。文字打ちがあまりに遅すぎ、すぐに締切日が来てしまう。

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