映画の思考徘徊 第13回 『恋の秋』、接近と離隔

FEATURES 髙橋佑弥
映画の思考徘徊 第13回 『恋の秋』、接近と離隔

目次[非表示]

  1. シンプルであるがゆえの緊張
  2. 近づくか、離れるか
  3. 主体性の賛美
 この連載も前回で12回目を迎えた。もともとは1年間の連載予定だったのだから、ほんらいは前回が最終回であるはずだが、いまこのような文章を書くことができているのは、おかげさまで、もうしばらくのあいだ延長となったためである。前回は、寒い時期に合わせてロメールの“四季の物語”の一作『冬物語』を取り上げたが、今月からは季節を遡ってゆくことにしたい──そうすれば、春ごろにまた作品が時期と合致し、『春のソナタ』を見返す機会を設けることができる。よって、今回はの読みものは『恋の秋』についてである。

シンプルであるがゆえの緊張

 結婚式が始まる。とはいっても、それは映画の始まりなどではなく、むしろ後半、1時間と少しが経過した時点のことなのだが、敢えてそこから始めたい。本作は必ずしも“結婚式の映画”とは言い切れないかもしれないが、少なくとも結婚式“まで”の期間を描いた映画だからだ。主要人物はみな式の参加者だが、若き新婚夫婦はそこには含まれず、むしろほとんど登場しない。本作で描かれるのは、彼らの親世代の恋愛模様である。しかし、その物語の結節点が終盤の結婚式に設定されているのだ。約2時間ある本作は、1時間10分ほどかけて結婚式めがけてゆっくりと進んでいくことになる。そして、そのあとに約40分ほどの結婚式場面が待ち受けている。
 新郎新婦が並んで歩みでて、教会の外で群れを成していた参加者が拍手を送るなか、キスをする。彼らは、まさに“新婚”といった親密さを体現するかのように、当然のようにひとつのフレームに肩を並べて収まる。この瞬間、それまで見てきた1時間の記憶が去来して、ひとつの画面にふたりの人物が収まっているということの尊さに思いを馳せることになる。
 本作で描かれるのは、3人の女の物語である。中心をなす、孤独な日々を送っているワイン生産者の女性マガリに“いい相手”を見つけるため、友人のイザベルは新聞広告を出して見つけた男性を、息子の恋人──マガリは“未亡人”という設定で、独立した子供がいる──ロジーヌは自らの元恋人である年上の哲学教師を引き合わせようとする……描かれる出来事は、それだけだ。全編、主要人物は5人ほど(ときおりマガリの息子が登場するのを含めれば6名)で、基本的にはさまざまな一対一の会話場面が大半を占める、きわめてシンプルな映画だといえるだろう。
 そのシンプルであるという状態が、必然的に際立った個所を浮かび上がらせる。じっさいは本作に限らずあらゆる映画に当てはまる──それがゆえに、とりたてて意識することのない──“自明のこと”も、本作においては見ながら無視することのできない特徴になるのだ。そしてその最たるものが、一対一の会話である。ふたりの人物が会話する場面を描くには、つまるところ基本的には2つしか手段がない。ひとつのフレーム内にふたりを収めるか、ひとりずつのショットを切り返して繋ぐかだ。あらゆる人物の組み合わせで、ひたすらに会話場面が連なる本作は、明らかに意識的に、あらゆる“一対一”のバリエーションが試されているように思える。切り返しながら会話を進行させるにしても、どの距離で人物を捉えるのかといった選択が生じるし、ひとりが話しているショットにおいて途中からもうひとりがフレームインしてくるという選択肢もある。当然、話しながら人物は歩いたり座ったりと移動するわけで、その都度、“演出”には無数の可能性が生まれる。われわれが目にしているのは、瞬間瞬間の無数の可能性の中から、最終的に選び取られた(そして編集の際に採択された)ひとつのかたちなのだ。だからこそ、いつもは当然のこととして気にも留めない“選択”が注意を払う対象となったとき、そこには限りない緊張が生まれる。場面の始まりはひとりか、ふたりか。切り返されるときに切り取られているのはクローズアップか、それとも全身か。フレームインするのかしないのか、すなわちふたりは同一の画面に収まるのか。そしてそれはいつなのか、あるいはいつまで持続するのか。あらゆる画面が、意思決定の産物として重みを持ち、たえず疑問を投げかける。そして、それらの画面は当然、物語の説話的な機能を帯びている。

近づくか、離れるか

 とはいえ、そうはいっても、一貫した法則めいたものの存在を指摘できるわけではない。存在するかもしれないが、すくなくともまだ見つけるに至っていない。ただ、同一フレームに二者が収まることを尊重しているのは確かだろう。本作において、ふたりの人物が画面を共にするとき、それは共鳴している状態にあるか、あるいは片方による距離を縮めたいという考えの現れ(文字通り、画面内に入ってくることで「距離を縮め」ようとするわけだ)であり、易々と実現するものではない、尊ぶべき瞬間として描かれる。
 その志向が顕著に見られるのが、逆説的ではあるが、離れる瞬間においてである。マガリの息子と交際している若い女性ロジーヌ──会話の内容からまだ学生だと判る──は、かつて関係を持っていた哲学教師エチエンヌと頻繁に会い、話をするのだが、「これからは友人として」というロジーヌに対し、エチエンヌはまだ未練が少なからずあり、そんな関係性が会話のさいに現れるのだ。たしかに彼らふたりも時折は同一画面に収まりはするのだが、あくまで一時的なものに過ぎない。肩を並べて話をしていても、隙を見て女は歩き出し、男の元を離れて画面の外へ向かう。距離をとってから、相手の方へ振り返り、話を続ける。機会を見て、たびたび男はなにげなく距離を詰めてフレームインを企てるのだが、身体が触れ合った刹那、やはり女は身を翻す。距離をとり、頑なに画面を共有せずにおこうとする。
 だからこそ、ロジーヌから距離を詰め、フレームインする例外的行動もまた印象的な振る舞いとして活かされる。中盤、ロジーヌはふたりの男の説得を試みることになるが、相手を了解状態に誘導するために、敢えて自ら懐に飛び込み、フレームに同居した状態で言質を取る。もちろん、ロジーヌが狡猾だから、適宜距離感をコントロールして相手を操っているということではなく、あくまで“演出”の次元で説得力を付与しているということだ。この2つの場面は、ともに肩を並べる男女のショットで終わるが、ふたりが解散したりすることもなく、あるいはどちらかひとりを映したショットで終えるでもないということは、作り手の意志の表明にほかならない。

主体性の賛美

 前項では、一例としてロジーヌの会話場面を取り上げたが、もちろんそれは他の人物たちの場面の随所に感じることができることでもあるだろう。クライマックスとなる結婚式のシーンなどは、まさにその連続で、一同に介した主要人物が入れ替わり立ち替わりマガリと話をしに来ることになるが、結局最終的に実を結ぶのは誰で(あえて書かずにおく)、その人物がどういった振る舞いをしているのかに注目してほしい。その人物は、もともと自ら望んで接点を持とうとしていたわけではないが、同時にある時点以降は積極的に状況を受け止め、機会を掬い上げようと試みていた人物といっていいだろう。要は、相手の姿を探し求め、フレームインする機会を伺い、なんとか同一画面の中で会話して距離を縮めることができないか……と主体的に“アプローチ”しようとしたということだ。そして、その自主性こそが、本作が称えているものだろう。本作では、車での移動場面が頻出するが、そのほとんどがひとりでの移動である。しかし、終盤、例外的にふたつの同乗場面がある──その差異を見比べてほしい。近づきつつあったはずのふたりは、運転席と助手席で隣り合っているにもかかわらず、フレームで分断されている。だが、それは同乗の状況をひとりが心から楽しむことができていないからだ。他方、あれほど距離を感じさせたふたりは場面中、同一画面に収まっている。こちらは哀しく痛切ではあるが、それまでの場面でのパワーバランスが無効化され、切実な心中の吐露が両者の距離ををかつてなく近づけているように見える。
 終幕の直前、女を降ろして独り車を走らせていた(前者の)男は、おもむろにブレーキを踏み、引き返す。またしても主体的な行動である。またその間に、女の心の蟠りは友人との対話によって解消される。条件が整ったとき、再び男はやってくる。そして今度こそ、いまこそがそのときとばかりに、ふたりは同一画面に収まることになるだろう。

© Les Films du Losange

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この記事のライター

髙橋佑弥
髙橋佑弥
97年生。映画文筆。『別冊映画秘宝 絶対必見!SF映画200』『別冊映画秘宝 決定版ツイン・ピークス究極読本』などに寄稿アリ。共著『「百合映画」完全ガイド』(星海社新書)。「映画の原稿仕事、何でも何時でも何字でも!」が信条だが…五本指を使いこなすことができず左右の人差し指だけでぽちぽちキーボード操作。文字打ちがあまりに遅すぎ、すぐに締切日が来てしまう。

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