映画の思考徘徊 第11回 ミカエル・アース、ふたつの喪失

FEATURES 髙橋佑弥
映画の思考徘徊 第11回 ミカエル・アース、ふたつの喪失

目次[非表示]

  1. 『サマーフィーリング』の喪失
  2. 『アマンダと僕』の喪失

『サマーフィーリング』の喪失

 突如、女が膝からくずおれる。
 場所は緑あふれる公園。彼女は職場を出て、歩いていたところだった。転んだのか、それとも病によるものなのか、この時点ではわからないが、そのことはさしあたりどうでもよい。ただ、歩いていた彼女が唐突に倒れ、身体を草地に横たえる。その一連の流れが、ロングショットで映し撮られていることが、事態の無慈悲さを見る者に言葉なく了解させるだろう。遠くて、すぐには駆け寄れぬ……そんな無力感にも似た感覚。聞こえ続ける、凡そ不吉さとは無縁の、長閑で豊かな公園の環境音もまた、場所にそぐわぬ出来事の例外性を強調する。周囲の誰も、気付いているようには(少なくとも画面の上では)見えない。きっともう、取り返しがつかないのだ。
 この時点で、映画が始まってから6分余りの時点である。画面は、倒れるその瞬間まで、ひたすら彼女の生活を注視しているだろう。朝、起きる。側には男が寝ている。そろりと寝床から抜け出して、部屋で暫しの時間を過ごす。出かけ、職場へ赴く。働き、職場を出る。この時点までわれわれは、画面を占有する彼女を主人公なのだと無意識に位置付けながら見ているかもしれない(もはや現代では、“白紙”の状態で作品鑑賞を迎えることなど極めて稀ではあるが)。しかし前述の通り、女は倒れ、後続ショットではつい数分前にベッドで寝ていた“側の男”が大写しになる。本作『サマーフィーリング』は、遺された者たちの物語である。
 とはいえ、遺されし者たちが“喪失”と向かい合う物語などではない。いや、必ずしもそうと言い切れるわけではないが、少なくともそのようにはあまり見えない。女が倒れた後、1時間40分ほど続く本作は、女の恋人である男の視点を中心にして周囲の人々の“その後”の日々を描いていくが、劇的展開や葛藤とは無縁である。彼らは、時折たしかに女の死に言及するし、在りし日を思い出して涙を流しもするのだが、ほとんど場面/展開には影を落とさないのだ。フリーランスで翻訳業を営んでいるらしい男の日々は、3カ国・2年間にわたり、章立て風の構成で映し出されていくものの、彼はひたすら部屋に佇んだり、散歩をしたり、友人と会ったりするのみである。“死”の匂いとは距離のある、いたって平穏な、見ている側からすれば“退屈”と形容してもよいかもしれぬ毎日がひたすら続く。

「サマーフィーリング」© Nord-Ouest Films - Arte France Cinema - Katuh Studio - Rhone-Alpes Cinema

 “死”についてを満足に描き終えぬまま延々と続く無為な日々は、本作の姿勢を表しているといえるだろう。本作は“克服”を強要しない。全く葛藤や哀しみがないわけではなかろうが、少なくとも可能な限り画面から省いてしまう。見る者が、おのずと先回りして感じ取ってしまう“ニュアンス”に任せる。死後の事務処理も、主人公が結局のところ死者の血縁ではないという一点において描く必要を免れる。物語という面でも、ひたすら移動と会話が続くばかりで、加えてそれが3カ国分=3断章あるのだから、エピソードの数珠つなぎといった感は否めない。もちろん意図的な選択の結果であるとは判りつつ、ある“死”から立ち直る過程を描くことを巧みに迂回しているようにも見えるのは確かだ。しかし、結局のところ実際に“そんなもの”ということなのかもしれないという気もする。ある意味で、“垂れ流されている”と表現しても間違いではなかろうという日常描写の連なりは、何も“解決”していない/しようがないにもかかわらず、変わることなく進み続ける時間そのものだ。基本的に、編集点と編集点のあいだに埋没するはずの期間。本作は、それをいつまでも待つことにしたのだということだろう。ぼんやりと捉えどころがなく、中空で留保されたままの状態。終点の定まらぬ、期限なき無為な時期。映画は、主人公が“次の時期”へ歩み始めた途端に終わる。これを、“克服”や“立ち直り”と捉えることもできなくもないが、むしろ“留保”が次の段階へ進んだのだとみるべきだろう──“その後”から解放されたと言ってもいい。

「サマーフィーリング」
© Nord-Ouest Films - Arte France Cinema - Katuh Studio - Rhone-Alpes Cinema

『アマンダと僕』の喪失

 少しばかり私事にスペースを割くことをお許しいただきたいのだが、『サマーフィーリング』──そのときは、『あの夏の感じ』という上映題だった──を見たとき、私は心底驚いたものだった。監督のミカエル・アースの作品を見るのは初めてではなかった。というのも、その前の週に、監督の“次作”『アマンダ』(のちの『アマンダと僕』)を映画祭で見ていたからだ。2作品は、“同工異曲”的に似通っていて、驚きは既視感=デジャヴに依るものだった。結果的に、当時は限定的上映の機会だったこの2作品は、(みなさまご存知の通り)2019年に製作とは逆の順番──要は、私が見た順番──で同時期に劇場公開されることになる。ゆえに、同じ驚きを覚えた方も少なからずいるのではないかと思うのだが、劇場公開を終えたいまとなっては、製作順で見る可能性も大きいわけで、同じ既視感でもそれは異なる体験だろう。遡るかたちで一度見てしまった私としては、想像するほかないが、もし『サマーフィーリング』をすでにご覧になっているのであれば、ぜひ次は『アマンダと僕』を見て、その似通い方/違い方に思いを巡らせてほしいのだ(但し、こちらは当サイトの配信作品ではないので注意してほしい)。
 『アマンダと僕』は、『サマーフィーリング』と似ている。しかし同時に、決定的に異なる。ある女の死が起点になり、“その後”の日々が主軸である点は全く同じだが、描き方には差異を見出すことができるのだ。まず、上映時間はほとんど同じ──その差、わずか1分──と言ってよいが、女の死は遥かに遅い25分の地点に位置している。また、場所は同じく公園だが、死の要因は銃乱射のテロ行為であり、しかもその瞬間は直接的には描かれない。事後的に、多くの人が血を流して倒れている公園の光景が差し挟まれるのみである。そもそも、被害が多数であることがひと目で判るそのショットから、女の姿を認めることはできない。女の死は、彼女の弟──主人公である──が呆然とした面持ちで、夜の病院から出てきた後、女の娘=男にとっての姪を迎えにいくあたりで判明する。女の死よりもまず先に、数多の犠牲が示され、そのあとで女も含まれていたと判るわけだ。本作は、その題名からも想定される通り、姪であるアマンダと主人公の関係性に焦点が当たる物語であるが、加えて、結果的に命こそ取り留めたものの、この乱射事件には主人公の恋人も巻き込まれており、“生存者”である恋人との関係性ももうひとつの軸となっていく。
 2015年11月のパリ同時多発テロ後に書き始められたという本作の脚本が、テロ事件の影響を受けていることはアースも各所で証言しているが、その一方で「最も重要なテーマ」ではないとも述べており、実際本作における“テロ”は必ずしも代替不可能なものではないように見えるため、評価が分かれるところではあるだろう。しかし、こと“死”という事象に関しては、前作『サマーフィーリング』で回避していた諸要素を改めて描きなおしているように見える。人物たちを喪失から立ち直らせたりしないのは同様だが、以前は主人公が非血縁=“外部”の人間であったのに対し、本作の主人公は血縁者=“内部”の人間であるがゆえに、必然的に物語の一定の割合が事務手続に充てられることになる。また、徹頭徹尾“大人”たちの視点が貫かれ、「子供にはまだわからないから(伝えていない)」というような台詞まで響いていた『サマーフィーリング』を裏返すかのように、『アマンダと僕』は子供なりの事態の受容をつぶさに拾い上げる。なにも、比較してどちらが優れているというつもりはない。しかし、ここには確かに一つの進歩、飛躍があるように思える。

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この記事のライター

髙橋佑弥
髙橋佑弥
97年生。映画文筆。『別冊映画秘宝 絶対必見!SF映画200』『別冊映画秘宝 決定版ツイン・ピークス究極読本』などに寄稿アリ。共著『「百合映画」完全ガイド』(星海社新書)。「映画の原稿仕事、何でも何時でも何字でも!」が信条だが…五本指を使いこなすことができず左右の人差し指だけでぽちぽちキーボード操作。文字打ちがあまりに遅すぎ、すぐに締切日が来てしまう。

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