映画の思考徘徊 第15回 『春のソナタ』、終りて始りし旅

FEATURES 髙橋佑弥
映画の思考徘徊 第15回 『春のソナタ』、終りて始りし旅

目次[非表示]

  1. 秋から見える春
  2. 行きて帰りし物語
  3. さいごに
 だんだんと肌寒さも和らぎ、春の訪れが感じられる。昨年の1月に始まり、もともと1年間=全12回を予定していたこの連載「映画の思考徘徊」は、今年1月に暫しの延長猶予を得たのだが、3月が終わり、年度が切り替わる今回が最終回となる。昨年12月の作品選定段階で新年3回分の延長が決まり、終了までに残された4回で何を取り上げようかと逡巡するなかで、思いついたのが“四季の物語”を1作ずつ見直してみることだった──12月=冬に『冬物語』を、次いで1、2月に『恋の秋』『夏物語』を四季を遡るように挟んで、3月=春に『春のソナタ』で締めくくろう、と。そもそも、本連載は私がロメールの評伝を読み進めていることを契機にお声がけいただいたもので、ゆえに第1回目もロメールから始まった。だから、これほど相応しい終わり方もなかろうと思う。さて、前置きが長くなったが、そろそろ作品に目を向けよう。

「春のソナタ」© Les Films du Losange

秋から見える春

 本作『春のソナタ』は“四季の物語”の最初の1作であるが、順序を変えて最後に見ることで見えてくるものもある。前回取り上げた『夏物語』が、さながら『冬物語』の鏡像のようだったように、本作の物語は『恋の秋』と響き合うのだ。『春のソナタ』は、主人公の哲学教師の女性ジャンヌと、ひょんなことから知り合った若い女学生ナターシャを軸に、ナターシャの父とその若い恋人が絡む物語であり、このように記述してしまうと、そう共通点が多いようには思えないが、ある独りの女性に対して、周囲の人物が恋のキューピット的策略を巡らせ、特定の男性との縁を結ばせようとしている……という展開に目を向ければ、共鳴していることは明白にわかるだろう。
 ただし、当然ながら差異もある。まず、本作が策略のターゲットとなるジャンヌを“主役”として据えているのに対し、『恋の秋』では主役がそこまで限定されていない。最終的には、ベアトリス・ロマン演じる女性マガリの恋の行方、すなわち周囲の人物による策略の成否に焦点が当たるのだから、いちおう主役はマガリということになるのだろうが、そこに至るまでの“語り”の焦点は絶えず移り変わり、策略を巡らせる女性ふたり(あるいは差し出される男性ふたり)にも等価な眼差しが注がれているといっていい。また、『恋の秋』の女性ふたりが、孤独をにじませる友人(=マガリ)のために、自らが見初めた男性をそれとなく推薦するのに対し、『春のソナタ』におけるナターシャによる策略は「年上の友人(=ジャンヌ)と自らの父親を恋仲にさせたい」「父と(現在の)恋人を別れさせたい」という願望の発露であり、きわめて自分本位で利己的動機によるものである。たとえ、あるていど策略が実を結んだとて──実際そうなるのだが──、主人公ジャンヌの立場としては、惹かれてはいても相手の男性は“友人の父”なのだから、それが恋愛関係の歯止めにもなうる。かなり共通する要素を備えていると同時に、やはり描かれているものは違うのだ。

「春のソナタ」© Les Films du Losange

行きて帰りし物語

 上で述べた共鳴/差異は、むろん『春のソナタ』を先に見ていても判ることかもしれない。しかし、受ける印象は大きく異なるだろう。製作順に見ると、『恋の秋』は『春のソナタ』の発展形のように見える。描かれる人物の幅は拡がり、恋の策略はふたつにふえていて、あらゆる思惑/行動が並行して提示され、最後には巧みな収束がある。それに比べると、『春のソナタ』はより限定的で、抑制されていて、直線的に進むうえ、最終的に主人公は、物語から分離されて終わる。
 本作の印象的な序盤、ひたすら無言で──独りでいるのだから当然だが、映画においては珍しいことだ──主人公ジャンヌの行動が描かれる一連のシークエンスを思い出されたい。職場を出て、車を運転して、家に帰り、どうやら同居人によるものらしい散らかった部屋で放置された衣類を片付けかけて止め、おもむろに本を数冊選び取ったかと思えば、大きなバッグに服と共に詰め込んで、家を後にする──いくらでも切り詰めることが可能に思われる主人公の行動を、ロメールが律儀に提示しているこの開幕は、ラストと呼応することになるだろう。ジャンヌは、結局誰とも恋仲にはならない。ナターシャの策略は不発に終わる。映画を見て行くにつれ、冒頭の行動の背景、すなわち「同棲している恋人(出張中である)の不在時、部屋の乱雑さに耐えられなくなる」ために家を出たことが明らかになるのだが、彼女は結果的に、恋人不在の乱雑な耐えがたい部屋に帰ってくることを選ぶのだ。
 ある意味で、作品の大部分で展開されるプロットが無に還ったわけで、主人公の状況は変わらず、単に振り出しに戻ったともいえる帰結である。しかし、その一方で、主人公の心境はきっと変わっているのだろうことが、生け直される花からわかるだろう。ふたつの家があるにもかかわらず、部屋が乱雑すぎるためにそのひとつから荷物をまとめて出てきた主人公は、アテにしていたもうひとつの家を貸していた従姉妹の滞在延長のために、行き場をなくし、時間潰しのために顔を出した退屈なパーティで出会ったナターシャの家に泊めてもらうことになる……という、物語の始まりを皮切りに、その後もひたすら場所から場所へ、部屋から部屋への移動を丁寧に描き続ける本作の展開は、見終えて顧みると旅のようである──まさに、行きて帰りし物語だ。もはや一風変わった貴種流離譚とさえいっていいかもしれない。
 また、本作は独りの場面で幕を開けて、次第に画面の人数が増えていく。2人、3人、4人……しかしある段階で、減り始め、それまで提示されてきたひとつひとつの関係性を精算して、最後は独りに戻る。これも、どこか“通過儀礼”的な構成といえるだろう。変わっていないようで、一変している。画面には一度も登場しない不在の恋人との生活を、あらためて更新する。そんな予感とともに映画は終わる。

「春のソナタ」© Les Films du Losange

さいごに

 初回冒頭にも書いたとおり、「映画の思考徘徊」という連載題は、作品を見た私個人の考えの過程や資料渉猟の道程も多分に内包した読みものを目指す意図でつけられたものだが、前半は基本的に資料性に依拠したものが多かった。映像ソフトの特典であるオーディオコメンタリーの文字化など、つねづね「あったらいいな」と考えていた企画を自ら試してみることが出来たことは嬉しく思っているのだけれど、つまるところ、真に“思考徘徊”できたのは終盤の数回──とりわけ“四季の物語”以降──という気がしている。終了時期が決まり、毎月1本ずつ“四季の物語”を見直したあと、できる限り資料性を排しながら、作品を見ているときの自分自身の感情/思考の流れを思い起こし、それが、そのように喚起されるのはなぜか/作品のどこに依るものなのかを考えていく作業は、とても心地が良かった。作品にそこまで迫れているとは思わないが、少なくとも、自らの鑑賞体験には都度近づくことが出来たと思う。そして、最終回である今回が、前置きや後書きで少なからず占められていることを許してほしい。今回、幾度か『春のソナタ』を見ながら、連載の“終わり”を意識しないことは一時もなかった。われわれは、絶えず当然のように作品について語るが、そのじつ、語られているのは各々の“体験”にすぎず、ならばこの私の寂しさもまた(私にとっては)語るべき『春のソナタ』の一部なのだ。何かが終わり、また始まる──そんなささやかな更新で締めくくられる『春のソナタ』を最終回に扱うことが出来て良かった。15回の愉しい機会と、読んでくださった皆様に心から感謝いたします。ありがとうございました。

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この記事のライター

髙橋佑弥
髙橋佑弥
97年生。映画文筆。『別冊映画秘宝 絶対必見!SF映画200』『別冊映画秘宝 決定版ツイン・ピークス究極読本』などに寄稿アリ。共著『「百合映画」完全ガイド』(星海社新書)。「映画の原稿仕事、何でも何時でも何字でも!」が信条だが…五本指を使いこなすことができず左右の人差し指だけでぽちぽちキーボード操作。文字打ちがあまりに遅すぎ、すぐに締切日が来てしまう。

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