映画の思考徘徊 第6回 『デッドマン』、ローゼンバウム、“アシッド・ウェスタン”

FEATURES 髙橋佑弥
映画の思考徘徊 第6回 『デッドマン』、ローゼンバウム、“アシッド・ウェスタン”
 一度見ただけでは真価を掴みかねる映画というものがある──私にとって『デッドマン』(1995)はまさにそれだった。「どんな映画もそうだろう」などと問い質されたならば、認めるほかないのだが、そんなことを言いたいのではない。長いあいだ特段思い入れのない作家であったジム・ジャームッシュへの認識が、2度目の『デッドマン』鑑賞で決定的に変わったのだ。そしてそれは、恥ずかしながら、わりと最近のことである。日付も、場所も、時間も、気分も、そのときの環境の全てをいまもありありと思い出すことができる。もはや本作を想起するにあたり、その日のことは切っても切り離すことができない。むしろ作品自体の映画的記憶を凌駕して、当時の状況が記憶の前面に迫り出してくる。だからまずは、身勝手ながらこの“私事”から始めたい。
 そもそも再見の契機となったのは、作品の対する関心でもジャームッシュへの興味でもなかった。当時の私は、テキサス出身の若手監督デヴィッド・ロウリーの虜になっていて──今に至るまで継続している──、彼の発言を手当たり次第に集めて読んでいるところだった。そして、彼がある取材の中で「初見時は好きになれなかったが、後に好きになった映画」という質問に挙げていたのが『デッドマン』だった──因みに、ロウリーが1度目に楽しめなかった理由は映画の内容とは関係がないようで、「父親と一緒に見たのが原因と思われる」と推察し、「1人で見てからというもの“お気に入りの一本”に」とのこと──のだ。かくいう私は、ずいぶん昔に何の気なしに見た記憶は朧げにあれど、大方忘れてしまっていて、「1度目は面白いと思えなかった」とすら表明できないほどの壊滅的忘却状態。“物忘れがひどい”という水準を飛び越えて、大抵のことを綺麗さっぱり即座に忘れ去ったが最後、どれだけ当時のメモを見返しても記憶がぜんぜん戻ってこない…そんなことが日常茶飯事な自身の傾向は百も承知だから、特に珍しい事態でもないのだが、それでもこの時ばかりは不思議と「これはまずい」という気がして、すぐに見直した。今や潰れた喫茶店で、傷だらけの携帯電話の画面という劣悪な環境で。
 異様なスタンスでこそあれ、ひとまずこの映画は“西部劇”の枠組を借り受けている作品といっていいだろう。しかし、私が再見で打ちのめされたのは、物語が“西部劇”に足を踏み入れる遥か手前、映画の序盤20分にも満たない箇所である。
 映画が始まった途端、どこへ向かっているとも知れぬ列車は既に走り始めており、どんな人物かも判らぬ丸眼鏡の無表情な人物(この人物がどうやら主人公であるらしい)が席に座っている様子が、幾たびもの暗転に遮られながら、ひたすら提示され続ける。なにがなにやらわからない──そんな状態で辛抱強く見続けていると、主人公の口から乗車の動機が語られるが、結局のところ判るのは、主人公自身「なにがなにやらわからない」状態だということのみである。よくわからない理由で婚約者に捨てられ、よくわからない手紙に導かれて、よくわからない街へ就職に向かっている。主人公の男が心情を打ち明ける相手は、全身煤だらけの蒸気機関車の火夫であるが、説明した途端こう言われる「一つだけ言える、俺は手紙なんか信用しないね」「行き着く先は墓場だよ」。
 オープニングクレジットを挟んで列車到着、男は寂れた街の果てにどしっと構える鉄鋼工場に赴き、雇用通知の手紙を渡すも…「もうとっくに雇っちまったよ」と放り出され、汽車賃で有り金を叩いてしまったがために無一文に毛が生えたような有様で、故郷に帰ることすらできず途方に暮れる──その後、行きがかりで親切にした元娼婦との一夜を経て、痴情のもつれに巻き込まれ、咄嗟に発砲、男を殺めたことが主人公の運命、ひいては映画の道筋までもねじ曲げていくのであるが──、いやはやあまりに不条理。そもそも復路の金銭も用意せず、知らない辺境の街に乗り込む就活姿勢に無理があるが、まさかここまで徹底的に退路を断たれるとは。来る途中で意味深に「墓場行き」を宣告されてしまっているし、職なし金なし知人なし、しかも街はなぜかあからさまな敵意を振りまく者ばかり。逃れられない運命めいた引力を感じる。思わず見ながら、頭を抱えてしまう。この無力感、焦燥感が“再見”時の脳に沁み込んだ。というのも、当時の私は大学卒業を目前に控えた時期に、急遽──院進学という選択肢を信じ切って4年間の学部生活を過ごしたが、最後の最後でどれだけ手段を講じても学費が賄いきれないことが判明する──職が必要となったばかりだったからだ。職が見つかる見込もなく、卒業と同時に降りかかる返済義務のことばかり考えていた。
 真剣に見ていたつもりではあるから、私的“状況”にばかり思考が引き寄せられるのは情けないが、身を任せるほか…などと考えながら見ていて、不条理映画としてなんとなく想起したのが、オーソン・ウェルズの『審判』だった。『デッドマン』は就活失敗から歯車が狂う会計士の話(こう書くと、別の映画のようだ)だったが、こちらは朝起きたら理由もわからず嫌疑をかけられ起訴される銀行員の話。とはいえ、これは単なる根拠なき“連想”に過ぎない。しかし、この“再見”のあと──なんとか無事、職を得てもなお──『デッドマン』は常に頭の片隅を占有するようになり、否応なく何度も見返し/調べ続けることになった。
 結局空振りに終わったが、ウェルズとの接点を探している途中で横道に逸れて行き着いたのは、オーソン・ウェルズのインタビュー本『オーソン・ウェルズ──その半生を語る』(キネマ旬報社、1995年)の編者としてお馴染みの映画批評家ジョナサン・ローゼンバウムによる、そのものずばり『Dead Man』という薄い本。英国映画協会によるモノグラフシリーズ“BFI Modern Classics”のひとつとして2000年に出版された本書は、全98頁で2L判のお手軽サイズ、さながら小さめのノートのような簡素な見た目だが、これが1冊丸ごと『デッドマン』論となっていて、侮り難い、いやむしろ本作について考えるとき、何を差し置いても目を通しておくべき優秀な“基礎文献”といえる。幾つかの図版が時折挟み込まれる他はひたすらテキストを流し込んだような飾り気のないレイアウトの紙面だが、内容は充実していて、インタビューでのジャームッシュの発言をふんだんに引用しつつ、「タバコについて」「暴力について」「音楽について」「アシッド・ウェスタンについて」「フロンティア・ポエトリー」などの視点から、徹底的な調査を土台に分析を加えていくという、言ってしまえば“愚直”なアプローチの貫徹が素晴らしい。
 特に際立って面白いのが、「アシッド・ウェスタンについて」の章で、「 モンテ・ヘルマンによる『銃撃』(1966)、『旋風の中に馬を進めろ』(1966)、『断絶』(1971)の3作品や、ジム・マクブライドの『Glen and Randa』(1971)、デニス・ホッパーの『ラストムービー』 (1971) 、ロバート・ダウニーの『Greaser's Palace』 (1972) 、アレハンドロ・ホドロフスキーの『エル・トポ』(1970)、アレックス・コックスの『ウォーカー』(1987) 」などの系譜に『デッドマン』を位置付け、「アメリカの歴史を再解釈して、ペヨーテの幻影やそれに関連する幻覚体験、特にLSDトリップを受け入れる余地を与えた修正主義的な西部劇」であるところの“アシッド・ウェスタン”に分類できると述べている。そもそも“アシッド・ウェスタン”という呼称自体、現状日本ではほとんど知られていないが、元々は1971年に批評家ポーリン・ケイルが『エル・トポ』を評した際に用いた造語らしい。しかし、当時厳密に定義されることはなかったようで、本書で記述されている“定義”は「私が“アシッド・ウェスタン”と呼んでいるのは…」と前置きがあるように、あくまでローゼンバウム流のものだ。『デッドマン』における主人公の“受動性”は、古典的西部劇のヒーロー像と一線を画している特徴であり、ゆえにネイティブ・アメリカンであるノーバディこそが真の主人公なのではないかというグレッグ・リックマンの興味深い主張や、“西部劇”の形式を借り受けつつも古典的な西部劇ジャンルとは距離をとっているかのように見える『デッドマン』という作品のラストが、実は「古典的西部劇の典型的ラストショット、つまり孤独なヒーローが遠ざかっていく様子のバリエーション」であるというローゼンバウムの指摘を読むことで、“再見”で見えてくるものは決定的に変わってくるだろう。
 惜しむべくは、本書は邦訳されておらず、正直なところ以後も邦訳される気配がないことで、こればかりは地道に英語で読むしかない(電子書籍もある)。また、本書で何度も引用される、ローゼンバウムによるジャームッシュのインタビューの全長版は、『ジム・ジャームッシュ インタビューズ』(東邦出版、2006年)に収録されているので、まずはこちらを手に取ってみるのがいいかもしれない。
 「ザ・シネマメンバーズ」では7月から『デッドマン』をはじめとしたジャームッシュ監督作品が配信開始となる。また、どうやら7月2日からは都内各所で「ジム・ジャームッシュ レトロスペクティヴ」と題した特集上映が始まるようだ──いうまでもなく『デッドマン』もラインナップに含まれている。まだ見たことがない方はもちろん、既に一度ご覧になっている方もこの機会にいまいちど“再見”していただけたらうれしい。

「デッドマン」
© 1995 Twelve Gauge Productions Inc.

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この記事のライター

髙橋佑弥
髙橋佑弥
97年生。映画文筆。『別冊映画秘宝 絶対必見!SF映画200』『別冊映画秘宝 決定版ツイン・ピークス究極読本』などに寄稿アリ。共著『「百合映画」完全ガイド』(星海社新書)。「映画の原稿仕事、何でも何時でも何字でも!」が信条だが…五本指を使いこなすことができず左右の人差し指だけでぽちぽちキーボード操作。文字打ちがあまりに遅すぎ、すぐに締切日が来てしまう。

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