映画の思考徘徊 第7回 ニコラス・レイとジム・ジャームッシュの師弟関係

FEATURES 髙橋佑弥
映画の思考徘徊 第7回 ニコラス・レイとジム・ジャームッシュの師弟関係

目次[非表示]

  1. ニコラス・レイとの奇妙な師弟関係
  2. 『パーマネント・バケーション』
  3. レイの徴は至る所に
 前回の連載では、ジム・ジャームッシュの『デッドマン』(1995)について、批評家ジョナサン・ローゼンバウムによる解説本『Deadman』を通して、“アシッド・ウェスタン”という概念をご紹介したが、今回はジャームッシュを語る上で欠かすことができない、一人の故人に目を向けたい。その名前はニコラス・レイ(1911-1979)。1950年代に活躍した職人監督──『夜の人々』(1948)、『大砂塵』(1954)、『理由なき反抗』(1955)などで知られる──とひとまず乱暴に言っておいても良いであろうこの男がいなければ、いまのジャームッシュはきっとない。

ニコラス・レイとの奇妙な師弟関係

 1970年代の半ば、コロンビア大学で英米文学を専攻していたものの、パリ留学の折に由緒正しい映画狂の“聖地”シネマテーク・フランセーズに勉学そっちのけで日参し、遅まきながら映画開眼したジャームッシュは、帰国後すぐさま人生の航路を映画へと向け始め、ニューヨーク大学大学院映画学科に入学するのだが、在学二年目の終わりに金が尽きる──その後のすべてはこの時に始まった。金が底を尽きた困窮学生の終着点、もはや避けがたい学業からの放逐を悟ったジャームッシュは、講師をしていたラズロ・ベネディクに別れを告げに行く。「お世話になりました、もう辞めます」…そこになぜか居たのがレイだった。「奨学金に関しては私も手助けできるし、ニックも君に授業の助手になってほしいそうだ」というベネディクの勧めで、ジャームッシュはレイの助手になる。

 パリ留学時代に数多の映画を浴びるように見るなかで感銘を受けた作品にはレイの監督作もあったらしく、「直接知り合うずっと前から彼のことを尊敬してた」と述懐するジャームッシュだが、当時のレイはもう長いこと映画を撮ることもできておらず、実質“開店休業”状態で、大学に招かれ教鞭を執ることになったはいいものの、癌に侵されているために身体は衰弱していく一方であり、ついには学校に来ることもなくなり、意欲ある生徒にはわざわざ自宅に足を運ばせ、授業らしい授業などではなく、スタッフとして起用して実際に全員で自主映画を作ることで指導とする…というような毎日だった。この生徒らとの協働は、のちに極めて野心的な異形の作品『ウィー・キャント・ゴー・ホーム・アゲイン』(1973)に結実するが、それはまだずいぶん後のことである。

 当時、なんとか監督作品を作ろうと苦心していたレイが、ある時点で知己のヴィム・ヴェンダースと共に『ニックス・ムービー/水上の稲妻』(1980)の企画を始動させたことは、以前(第5回「5時間のあとで―― 『夢の涯てまでも』の道程」)書いた通りだが、そのさい教え子であるジャームッシュは、「プロダクション・アシスタント」の肩書で招致され、レイに現場の手伝いや身の回りの世話を頼まれていたのだという。とはいっても、プロダクション・アシスタントとは名ばかりで、実際のところ「コーヒーを入れたり、ニックの入れ歯の手入れをしたり、そんな程度」だったと冗談めかしてジャームッシュは語っているのだが。そんななか、本作の完成を待たずして、1979年にレイは死ぬ。

 そしてレイの死の翌日、ジャームッシュは学費として納めるはずだった奨学金をありったけ注ぎ込み、卒業制作として初監督作品『パーマネント・バケーション』(1959)の撮影を開始することになる。

『パーマネント・バケーション』

  はじめて『パーマネント・バケーション』を見たとき、驚いたのは「白黒じゃない!」ということだった──どこかで幾度か目にした場面写真が白黒であったために、勝手にそんな印象が刷り込まれていた──が、それはともかく、全編途切れることのない弛緩、ストイックな地味さに衝撃を受けたことは、いまでもよく覚えている。主人公が、ひたすらあてどなく街を彷徨うのみで、劇的な出来事は何も起きないのだ。「これがかの有名な“ジャームッシュ映画”なのか」と頭を抱えた。正直なところ、睡魔に抗うことができなかった。

 助手時代のジャームッシュは、『パーマネント・バケーション』の脚本草稿を何度となく“師匠”ニコラス・レイに見せに行っていたというが、完成作品にニコラス・レイ作品からの影響はあまり見受けられない。だが、その疑問はジャームッシュの発言であっさり氷解する。当時感じた“地味さ”の貫徹は、当時弱冠21歳だったジャームッシュの意図的な選択の結果だった。
 ジャームッシュ曰く、「シナリオを読んでは、スローすぎる、とか、アクションが足りない、なんて忠告してくれてたよ。少年はガールフレンドを殺すべし、女はハンドバッグに拳銃を入れておくべし、とかね。でもいまのバージョンよりも、最初の頃のほうがアクションは多かったんだ。つまり、僕はニックが言うことならなんでも、その反対をしたんだ。彼が好みそうなものをどんどん外していった。(中略)修正して、さらにアクションを減らしたシナリオをまた持っていって、反応を伺う。たいがい彼は唖然として、「ますますあべこべな方向へ行ったな」なんて言う。そして最後に完成稿を持って行ったとき、ニックは「忠告を無視してくれたことを誇らしく思う、お前は自分のスタイルを見つけた」と言ってくれた」とのことで、レイの志向のみならず、安易な“映画的”ドラマ性からは、積極的に距離が取られているのである。

 ただその一方で、何度か作品を見返していると、“地味”な作劇の背後で、レイとの共鳴も確かに存在するように思える。『パーマネント・バケーション』の主人公は“ストレンジャー=よそ者”である。帰る家はあるはずなのに、寄り付かず、同棲しているらしい恋人を放置して、閑散とした街を彷徨う。しかし、そもそもこの“よそ者”という主題こそニコラス・レイ作品に通底する代表的な特徴にほかならない。『女の秘密』(1949)の主人公は声が出なくなり音楽界にいられなくなった歌手であり、『暗黒街への転落』(1949)では困窮したスラム街に身を落とした主人公の青年が居場所や救いの手を自ら壊してしまう。『生まれながらの悪女』(1950)では叔父の知り合いの裕福な男女の元に居候する若い女をジョーン・フォンテインが演じ、『孤独な場所で』(1950)の主人公の脚本家は長いこと仕事をしていない。『危険な場所で』(1951)における主人公の刑事は暴力的な捜査方法が問題視されて左遷され、『ラスティ・メン/死のロデオ』(1952)のロデオ乗りは手痛い失敗を経て、競技から離れることになる。元いた場所から追われ/離れ、もはや身を落ち着けることが叶わず、人生が次第に狂っていく物語。しかし同時にこれらの作品は、そんな彼らがなんとか自らの居場所を取り戻そうともがく話でもある。

 レイの作品をこのように列挙してみると、「影響はあまり見受けられない」などという安易な印象を即時撤回すべきではないかという気がしてくるほどに、『パーマネント・バケーション』はニコラス・レイ作品の延長線上に違和感なく収まる。劇的な展開こそ起こらないものの、終盤の悲痛な帰宅場面──長い彷徨の後、主人公はやっと家に帰るが、もはやそこに恋人の姿はない──などは、もはやレイの作品世界の一コマのようですらある。場面の終わりに、主人公は無人の部屋で恋人に宛てた別れの手紙を綴るが、ほかでもないニコラス・レイの初監督作品『夜の人々』のラストシーンにも、同じく男が恋人に向けて書いた手紙による別れが描かれていた。

レイの徴は至る所に

 たとえ師弟関係にあったからといって、安直に影響関係を読み取ろうとすることほど、ジャームッシュが嫌悪する行為もなかろうが、その彼が「映画史上、最高にロマンティックな作品」であると断言して憚らず、その偏愛を隠さない『夜の人々』との共鳴が単なる偶然でない可能性は大いにありうる。『パーマネント・バケーション』に限らず、“よそ者”の主題は以降のジャームッシュ作品においても少なからず見出されうる要素であるし、ときにはレイへの目配せに思えるディテールが画面に紛れ込んでいることもある。

 ニコラス・レイが、死にゆく自分を瀕死の自らで演じるというメタフォリカルな私映画であった『ニックス・ムービー/水上の稲妻』のラストは、スタッフたちがクルーズ船に乗りながらレイの思い出を語り合うという、レイの死後に撮影された映像だったが、そもそも献辞でも一番上にレイの名前が示され、“公式”に捧げられている作品といっていい『パーマネント・バケーション』のラストシーンが、同じく海を進む船上の視点であるのは偶然なのだろうか。

 あるいは、デカデカとニコラス・レイの『バレン』(1960)のポスターが掲げられている映画館の場面で、従業員が読んでいる書物がJ・G・バラードの『クラッシュ』なのは、偶然なのだろうか──レイが、バラードの『ハイ・ライズ』映画化を望んでいたのは有名な話だ。

 また、近作である『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』(2013)が“夜の人々”の映画、変則的な男女逃避行の映画であることも、ニコラス・レイと無縁ではないはずだ。今までも、少なくない“夜の映画”を撮ってきたジャームッシュだが、今回わざわざこのタイトルが選び取られたのは、レイへの敬意からにほかなるまい。“Only Lovers Left Alive”は、レイが晩年に企画し、実現が叶わなかった企画の名である。『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』の劇中に登場する、長寿を誇る吸血鬼である主人公の住居の壁には(主人公が崇拝していると思われる)偉人たちの肖像が飾られているが、目を凝らせば、その中には──かなり見えにくいものの、右上の端に──レイの写真も含まれているのが判るはずだ。
 
 『パーマネント・バケーション』の2年後、学費を使い果たしたために学位を取ることはできず、そもそも長編は規定外だったようで、作品も受け入れてもらえずじまいだったというジャームッシュは、現在に至るまで長年のパートナーシップを築くことになる恋人サラ・ドライヴァーの監督作品『ユー・アー・ノット・アイ』(1981)で撮影を担当する。この作品は、ジャン=マリー・ストローブの賞賛を受けた作品として知られているが、のちにジャームッシュの第2作『ストレンジャー・ザン・パラダイス』(1984)制作のさい、ヴェンダースと共にフィルムを提供してくれたのが、ほかでもないストローブ(と妻であり共同監督であるダニエル・ユイレ)なのだというから、ドライヴァーの作品を経由して縁ができていたのかもしれない。『ユー・アー・ノット・アイ』は、ポール・ボウルズの原作を映画化したものだが、ボウルズといえば、のちの『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』の舞台のひとつ、タンジールに住んでいた作家である。
 『オンリー…』の終盤、タンジールの空港に降り立った吸血鬼の男女がタクシーに乗って住居へと向かう移動場面に贅沢に割かれた時間はとりわけ印象的で、夜間のタクシーという共通項から、すぐさま否応なく『ナイト・オン・ザ・プラネット』(1991)のひときわ愛着ある開幕の一篇を想起してしまうのだが、つい先ほど堪えきれずに見直してみて、驚いた。タクシー運転手である若い女性が、どうやら芸能関係の仕事をしているらしい女性客を乗せ、ドアを閉めてやる…その瞬間、目に飛び込んでくるのは、タクシー会社のロゴである。“RAY’S CAB CO”! 
 思えば、ニコラス・レイとタクシーには遠からぬ縁がある。映画界に足を踏み入れるにあたり、若きレイの足掛かりとなったのは、当時所属していた劇団での人脈であったが、その劇団で演じられ、当時熱狂を巻き起こしたのが、タクシー運転手のストライキを扱ったクリフフォード・オデッツの戯曲『レフティを待ちつつ』だった。はたして、これも偶然の一致だろうか。そうは思えない。徴は至る所に──すべては、ゆるやかにつながっている。

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この記事のライター

髙橋佑弥
髙橋佑弥
97年生。映画文筆。『別冊映画秘宝 絶対必見!SF映画200』『別冊映画秘宝 決定版ツイン・ピークス究極読本』などに寄稿アリ。共著『「百合映画」完全ガイド』(星海社新書)。「映画の原稿仕事、何でも何時でも何字でも!」が信条だが…五本指を使いこなすことができず左右の人差し指だけでぽちぽちキーボード操作。文字打ちがあまりに遅すぎ、すぐに締切日が来てしまう。

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