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PROGRAM/放送作品
ロング・グッドバイ
ハードボイルド・ファン必見!チャンドラーの名作『長いお別れ』をアルトマンが映画化
ハードボイルド小説の巨匠チャンドラーの代表作で、村上春樹の新訳も話題の同名原作を、故ロバート・アルトマン監督が70年代を舞台に映画化したサスペンス。チンピラ役で若きシュワルツェネッガーも出演。
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COLUMN/コラム2019.09.08
フランスの映像作家にも愛された異端の女性ウエスタン
映画ファンには言わずと知れたカルトな西部劇である。’54年の劇場公開時、アメリカでは多くの批評家によって失敗作とみなされたが、しかしフランスではフランソワ・トリュフォーやジャン=リュック・ゴダール、ジャン=ピエール・メルヴィルらの映像作家に称賛され、’70年代に入るとウーマンリブの視点からも再評価されるようになり、今では『理由なき反抗』(’55)と並んでニコラス・レイ監督の代表作とされている。 舞台はアリゾナ州の小さな田舎町。ギターを担いだ流れ者ジョニー・ギター(スターリング・ヘイドン)の到着するところから物語は始まる。町はずれの酒場へ足を踏み入れたジョニーを待っていたのは、鉄火肌で強靭な意思を持つ女性経営者ヴィエナ(ジョーン・クロフォード)。鉄道開発が行われることを見越して、この荒れ果てた土地を手に入れたヴィエナは、かつてジョニー・ローガンの名前で世間に恐れられた凄腕ガンマンであり、自らの恋人でもあったジョニーを用心棒として雇ったのである。 しかし、よそ者の流入によって自分たちの既得権益が奪われることを恐れた町の権力者たちは鉄道開発に猛反対し、駅の建設を支持するヴィエナを目の敵にして町から追い出そうとしていた。その急先鋒に立つのが女性銀行家エマ・スモール(マーセデス・マッケンブリッジ)だ。しかし、エマには他にもヴィエナを恨む理由があった。この近辺を縄張りにする無法者集団のリーダー、ダンシング・キッド(スコット・ブレイディ)である。若くてハンサムなダシング・キッドに秘かな恋心を抱くエマだが、しかし彼は女性的な魅力の乏しいエマになど目もくれず、美しく誇り高い熟女ヴィエナにゾッコンだ。可愛さ余って憎さ百倍。ヴィエナとダンシング・キッドを善良な市民の敵として糾弾するエマは、町の人々を煽動して彼らを葬り去ることに異常な執念を燃やしていた。 ジョニーの到着早々、ヴィエナの酒場へなだれ込んできたエマ率いる町の自警団。彼らは駅馬車強盗事件の犯人をダンシング・キッド一味だと決めつけ、その共犯を疑われたヴィエナも24時間以内に町から出ていくよう警告される。もちろん、ヴィエナにはそんな命令など従う義理はない。ところが、濡れ衣を着せられたダンシング・キッドたちは、ならば本当にやっちまおうじゃないか!とばかりに銀行強盗を決行。しかも運悪く、その場にヴィエナも居合わせてしまった。つまり、敵に魔女狩りの口実を与えてしまったのだ。かくして追われる身となったヴィエナ。逃げも隠れもするつもりなどない彼女は、自分の城である酒場にて怒り狂った自警団を待ち受けるのだったが…!? マッカーシズム批判とフェミニズム メルヴィルは本作を「異形の映画」と呼んだそうだが、なるほど、確かにそうかもしれない。西部劇と言えば伝統的に男性映画に属するジャンルだが、本作はヒーローのヴィエナもヴィランのエマも女性。一般的に西部劇映画における女性は色添えのお飾りだったりするが、本作の色添えはむしろジョニーやダンシング・キッドといった男性陣だ。このジェンダーロールの逆転に加え、本作は善と悪の立場にも逆転現象が見られる。女を武器に成りあがってきた酒場経営者ヴィエナ、かつて大勢の人間を殺した拳銃狂いのジョニー、犯罪行為を重ねる無法者ダンシング・キッドなど、本作において観客の同情を呼ぶ登場人物たちは、従来のハリウッド西部劇であれば間違いなく悪人として描かれる側だったはずだ。反対に、自分たちの町を守ろうとするエマや自警団は、本来ならば善の側であって然るべきなのだが、しかし本作では時代の変化と異質なものを頑なに拒む、排他的で利己的な偽善者集団として描かれている。 この本作の歪んだ善悪の対立構造に、当時のハリウッドで吹き荒れた赤狩りへの痛烈な風刺が込められていることは、ブラックリスト入りした脚本家たちに名義貸ししていたフィリップ・ヨーダンが脚本に携わっていることからも容易に想像がつくだろう。かつて共産党員だったニコラス・レイ監督自身も赤狩りのターゲットにされたが、当時の上司だった大富豪ハワード・ヒューズの政治力に守られた過去がある。モラルや良識を盾にして基本的人権を蹂躙し、異質な他者への憎悪を煽って自らの既得権益を死守しようとする町の権力者たちに、民主主義を守るという大義名分のもとで無実の共産主義者を迫害した赤狩りの恐怖を重ね合わせていることは明白。赤狩りの公聴会で密告証言を強要されたスターリング・ヘイドンをジョニー役に、映画界の保守タカ派として赤狩りに加担したワード・ボンドを町の権力者マッカイヴァーズ役に起用しているのも意図的だったはずだ。 また、『大砂塵』には後の『バッド・ガールズ』(‘94)や『クイック&デッド』(’95)などを遥かに先駆けたフェミニズム西部劇という側面もある。もちろん、それは単に強い女性を主人公にした映画だからというわけではない。金と力が全ての弱肉強食な男社会で、生きるために強くならざるを得なかった女性たちの物語だからだ。劇中で多くは語られないものの、かつてはしがない酒場女だったというヴィエナ。唯一の武器である女の性を利用して成り上がり、今や一国一城の主となったヴィエナだが、そんな彼女と5年ぶりに再会したジョニーは、かつて愛した女が傷物になってしまったと嘆く。なんで俺が帰ってくるのを待っていてくれなかったのかと。そればかりか、お前は男の誇りを傷つけたとまで言い放つ。ヴィエナが怒りまくるのも当然だろう。 男はいくらヤンチャしたって武勇伝として誇れるが、しかし女に良妻賢母たることが求められる男社会においては、一度でも道を踏み外した女は世間から白い目で見られる。そもそも、なぜ女だからという理由だけで、自分ばかりが耐え忍んで待たなくちゃいけないのか。どうして男は好き勝手に生きてもよくて女はダメなのか。無自覚に女を踏みつけにしてのさばっている男たちに反旗を翻し、彼らの一方的に押し付ける理想の女性像を破壊する。それこそがヴィエナという女性の強みだ。 一方の宿敵であるエマは、町の支配者層における唯一の女性として、周囲の男たちと対等に渡り合っていくため、ヴィエナとは反対に女性性を捨てざるを得なかった。なぜなら、ホモソーシャルな男社会で女性性は弱みとなりかねないからだ。それゆえに彼女はダンシング・キッドへの恋愛感情を押し殺さねばならず、その抑圧がやがて彼への憎しみへと変わり、自分と違って女性性を最大限に有効活用してきたヴィエナへ敵意を抱くこととなったのである。ある意味、男社会の犠牲者だと言えよう。 自らの性を武器に変えたヴィエナと、自らの性が弱点となったエマ。そんな2人の激しい女同士の戦いを、まるでイタリアンオペラのごとくエモーショナルに盛り上げつつ、本作は現実を見据えながら未来を切り拓いていこうとする聡明な女性の強さと、争いに明け暮れ生き急いでいく男たちの子供じみた愚かさを浮き彫りにしていく。エマの本当の弱点は女性という属性ではなく、むしろそれを封印して名誉男性になろうとしたことだろう。ウーマンリブ運動がまだ産声を上げる以前の時代にあって、本作の明確なフェミニズム的志向は先見の明だったように思う。 再起を賭けた大女優ジョーン・クロフォード ただ、原題が「Johnny Guitar」であることからもうかがい知れるように、もともと本作の実質的なヒーローはスターリング・ヘイドン演じるジョニーだったらしい。原作はジョーン・クロフォードの友人でもあるロイ・チャンスラーが、彼女をイメージして書き上げた小説で、クロフォード自身が映画化権を獲得してリパブリック・ピクチャーズに企画を持ち込んだ。かつてMGMとワーナーを渡り歩き、ハリウッドを代表する大女優となったクロフォード。しかし人気の低迷で’52年にワーナーとの契約を解消し、ランクの落ちるRKOで主演した『突然の恐怖』(‘52)こそオスカー候補になったものの、10年ぶりにMGMへ復帰した『Torch Song』(‘53・日本未公開)が批評的にも興行的にも大惨敗してしまった。そうした状況下にあって、恐らく彼女は本作にキャリアの復活を賭けていたのかもしれない。 監督は以前に企画段階でボツとなったクロフォード主演作のニコラス・レイを起用。オリジナル脚本は原作者チャンスラーが担当したものの、しかしクロフォードはその内容が不満だったらしく、ロケ地のアリゾナに旧知の脚本家フィリップ・ヨーダンを呼び寄せてリライトを指示する。というのも、ヴィエナの役割がジョニーの相手役になっていたからだ。ヨーダンの回想によると、彼女はクラーク・ゲイブルのようなヒーローを演じることを望んでおり、そのためにもジョニー・ギターではなくヴィエナが主人公でなくてはいけなかったのだ。クライマックスの一騎打ちも、本来はジョニーとエマが対決するはずだったものを、この段階でクロフォードがヴィエナとエマの対決に書き換えさせたという。なにしろ、もともとはクロフォードが持ち込んだ企画。現場も実質的に彼女が仕切っていたらしいので、恐らく誰もが従わざるを得なかったのだろう。 そのせいもあってなのだろうか、やがてエマ役の女優マーセデス・マッケンブリッジとクロフォードの確執が表面化する。そもそも、マッケンブリッジの夫フレッチャー・マークルを巡って2人は過去に因縁があったらしい。レイ監督やスタッフの多くがマッケンブリッジの肩を持ち、それに腹を立てたクロフォードは彼女の衣装をビリビリに破いて投げ捨てたという。共演のスターリング・ヘイドンも、マッケンブリッジに対するクロフォードの態度を「恥ずべきものだった」と後に回想している。 ただ、その一方でレイ監督にとって、これはまさしく天の恵み。女優2人の確執はそのまま演技にも色濃く反映され、ヴィエナとエマの激突になお一層の真実味が増すからだ。さらに、この状況をいち早く嗅ぎつけた芸能マスコミが、クロフォードとマッケンブリッジのいがみ合いを面白おかしく書きたて、それが映画のプロモーションにも役立った。おかげで、先述したようにアメリカの批評家からはこき下ろされたが、興行的には大きな成功を収めることができた。とはいえ、これを最後にクロフォードは目立ったヒットから遠ざかり、あの『何がジェーンに起ったか?』(’62)までしばらく低迷することとなる。■ 『大砂塵』TM, ® & © 2019 by Paramount Pictures. All Rights Reserved.
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PROGRAM/放送作品
大砂塵
女性同士の決闘!大女優ジョーン・クロフォードの男勝りな勇姿が力強く映える異色西部劇
『理由なき反抗』のニコラス・レイ監督が、当時では珍しい女性同士の戦いを描いた異色西部劇。賭博酒場の女主人に扮するジョーン・クロフォードの風格は圧巻。ペギー・リーが歌う「ジャニー・ギター」も染みる。
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COLUMN/コラム2014.06.11
【ネタバレ】『ロング・グッドバイ』 グールドだって猫である ― 「不思議の国/鏡の国のマーロウ」
カンヌ国際映画祭のパルム・ドールに輝き、彼の一大出世作となった『M★A★S★H』(1970)を皮切りに、とりわけ1970年代、『BIRD★SHT』(1970)、『ギャンブラー』(1971)、『ボウイ&キーチ』(1974)、『ナッシュビル』(1975)、『ウエディング』(1978)、等々、既存のジャンル映画の枠組みやさまざまな神話を根底から問い直す、斬新で型破りな作品を次々に発表して破竹の快進撃を続け、現代映画界に変革と衝撃の波をもたらした、今は亡きアメリカの鬼才ロバート・アルトマン。 この『ロング・グッドバイ』(1973)も、そんな彼ならではの大胆不敵で奇抜な発想と遊び心に満ちた実験的手法が随所で観る者を挑発的に刺激する、異色の傑作群のうちの1本。初公開時にはこれに当惑する従来のミステリ・映画ファンたちの不平不満や非難の声が相次いで、商業的には失敗に終わったものの、今日では、世代や国籍を超えて、これを支持し、偏愛する者たちが後を絶たない、極上のカルト映画の逸品といえるだろう。 本作の原作にあたる『ロング・グッドバイ』といえば、1953年にアメリカで刊行され、ハードボイルド小説の古典として不動の人気を誇る、レイモンド・チャンドラーの代表作のひとつ。日本のミステリ・ファンの間では長らく、清水俊二の訳による『長いお別れ』の題で親しまれて、海外ミステリの名作を選出するさまざまなベストもののアンケート調査でも常に上位を占め、雑誌「ミステリマガジン」が2006年に行なった「オールタイム・ベスト」では堂々の第1位を獲得。その後、村上春樹による新訳の登場も話題を呼んだ。 そしてつい先頃、この原作をNHKが日本版に翻案して連続TVドラマ化し、巷でそれなりに好評を博したのも記憶に新しいところだ。レトロモダンな昭和の戦後日本を舞台に、シックでダンディな衣装に身を固めた浅野忠信扮する主人公が、おのれの信ずる友情のためにたえずタフで毅然とした態度で奔走する姿は、なかなか貫録十分で、チャンドラーが生み出した現代の孤高の騎士たるハードボイルド探偵、フィリップ・マーロウをこれまでスクリーン上で演じてきた歴代の名優たち―ハワード・ホークス監督の古典的名作『三つ数えろ』(1946)においてマーロウ像の決定版を打ち立てたハンフリー・ボガートや、人生の憂愁を色濃く滲ませた『さらば愛しき女よ』(1975)、『大いなる眠り』(1978)のいぶし銀の味わいのロバート・ミッチャムなど―に決してひけをとらない好演を披露していた。 しかし、アルトマン監督が本作で主役のマーロウに抜擢したのはなんと、先に『M★A★S★H』でも組んで独特の飄々とした持ち味と存在感を発揮した個性派俳優のエリオット・グールド。しかも映画を、原作をそのままなぞってレトロ趣味に満ちた時代ものとして作り上げるのとは反対に、物語の時代設定を映画製作当時の1970年代にアップ・トゥ・デイト化するという、意外で思い切ったアプローチを選択した。その一方でアルトマン監督は、本作でのマーロウを、“アメリカ版浦島太郎”というべきワシントン・アーヴィング原作の有名なお伽噺の主人公の名をもじって、リップ・ヴァン・ウィンクルならぬ“リップ・ヴァン・マーロウ”とひそかに名づけ、「20年の大いなる眠りから覚めて70年代初めのロスの景観の中をうろうろしているマーロウ、ただし心情的には過去のモラルを喚起しようとしている男」(「ロバート・アルトマン わが映画、わが人生」の中の本人の発言)という斬新なコンセプトのもと、まったく独自の解釈を施した。 ■「不思議の国マーロウ」 かくして、薄着や裸の恰好のまま、他人の目など一向に気にすることなく、向かいのバルコニーでヨガや自己瞑想に耽る、いかにも当世風の若い女性たちなどとは対照的に、グールド扮する本作のマーロウは、ただひとりダークスーツに白シャツ、ネクタイという古風な服装を頑なに貫き通し(ただし、いつもヨレヨレのだらしない恰好)、1948年型のリンカーン・コンチネンタルのクラシックカーを愛車として乗り回し、さらには健康志向の時代などどこ吹く風と言わんばかりに、ひっきりなしに煙草を吸い続ける。そして、他人や社会のことよりあくまで自己中心的な個人主義が幅を利かせる、“ミー・ディケイド”とも呼ばれた1970年代の時代風潮に戸惑いを覚えつつも、それをマーロウは、「It’s OK with me.[=ま、俺はいいけどね]」という、彼一流の韜晦とぼやきの入り混じった独り言をぶつぶつつぶやきながら、どうにか受け流していく。それでもなお友情と忠節を重んじる昔気質の彼は、妻殺しの容疑のかかった友人テリー・レノックスの身の潔白をどこまでも固く信じて、どこか奇妙でシュールな異世界の中を懸命に駆けずり回るのだ。過去から現代にタイムスリップし、不思議の国アメリカをさまよう、時代遅れで場違いな“リップ・ヴァン・マーロウ”…。 そう、本作もまた、あの『ナッシュビル』や『ウェディング』などと同様、さまざまな奇人・変人たちがお呼びでないのにあちこち出没してはとんだ場違いな珍騒動を繰り広げる、アルトマン独特の皮肉と諷刺に満ちた人間悲喜劇のまぎれもない一変種といえるだろう(その一例として、映画監督のマーク・ライデル演じるチンピラ一味のボスが、まるでお笑い芸人さながら、マーロウや手下の連中を交えて突拍子もない掛け合い漫才を繰り広げる爆笑場面があり、その一員に扮した当時はまだ無名の若きアーノルド・シュワルツェネッガーが、ボディビルで鍛えた自慢の肉体美をしれっとした表情で誇示するのも妙におかしい)。 ■「鏡の国のマーロウ」 いや、そればかりではない。アルトマン監督は、『ギャンブラー』以来3作たて続けにコンビを組むヴィルモス・ジグモンドという撮影の名手を得て、たえずキャメラがゆるやかなズームやパンを伴いながら動き回り、さらには鏡や窓ガラスの反映が幾重にも屈折して乱反射を起こす重層的な迷宮世界を構築し、その中へマーロウを閉じ込めようとするのだ。 少女のアリスを不思議な国へといざなう白兎に代わって、続編『鏡の国のアリス』でアリスを鏡の国へと導くのは子猫だが、本作の冒頭、自室で大いなる眠りに就いていたマーロウを深夜に叩き起こし、現代の異世界へと彼を連れ出す役割を果たすのも、やはり猫。腹を空かせた飼い猫にエサを与えようとして、猫お気に入りの銘柄のキャットフードが切れていたことに気づいたマーロウは、スーパーまで買い出しに行くが、あいにく店にも欲しい品は置いておらず、やむなく購入した別の銘柄のキャットフードをいつもの銘柄の空き缶に入れ替えてから皿によそって猫に差し出す。しかし彼の涙ぐましい偽装工作も空しく、猫はそれにそっぽを向いて、そのままいずこともなく去って行ってしまうのだ。それにしても、チャンドラーの原作にはない本作独自の創作で(ただし、チャンドラー本人も猫好きとして知られていた)、一見物語の本筋には関係ないようでいて、実はさまざまな伏線が張り廻らされたこのオープニング場面は、何度見てもやはりケッサクで素晴らしい。 そしてそれ以後、その猫は飼い主たるマーロウのもとへ戻ることはなく(その代わり、やがてマーロウは行く先々で犬と出くわしては、彼を敵視する犬から威嚇され続けることになる)、猫と入れ違うようにして彼の元へ姿を見せた親友のレノックスも、マーロウを自分の都合のいいように利用するだけ利用すると、思いも寄らぬトラブルだけを置土産に残して彼の前から去って行く。 その後、一体どういう事情かもさっぱり分からないまま、マーロウは刑事たちに連行され、警察署の取り調べ室で尋問されることになるが、ここで先に軽く紹介した、鏡や窓ガラスを巧みに利用したアルトマン監督ならではの特徴的な演出が凝縮した形で示されるので、少し詳しく見てみることにしよう。この秀逸な場面では、画面の中央に配置された透過性のガラスを介して(ただし、アルトマンはそこに無数のひっかき傷や、黒インクで汚れたマーロウの手型をつけさせて、ガラスの存在を強調してみせている)、奥にマーロウと彼に質問を浴びせる刑事、そしてその手前には、別室からその様子を見守る別の刑事たちの姿が、背中のシルエットとガラス窓に映る顔の反射像として示されるという、印象的な空間設定・人物配置が施されている。実は2つの部屋を繋ぐ/隔てる中央のガラスはマジックミラーで、奥の部屋で尋問されるマーロウの姿を、相手に見られることなく一方通行的に見守る手前の部屋の上官たち、というフーコー的な視線の権力装置が、ここには鮮やかに示されている。マーロウはそのマジックミラーの仕掛けにいち早く気づき、自分からは姿の見えない別室の窃視者たちの前で、滑稽な物真似の仕草をして虚勢を張ってみせるのだが、レノックスをめぐる一連の事件の流れをはじめからしっかり把握していたのは、やはり警察の連中の方で、マーロウはそれをよく見通せないまま、哀れなピエロよろしく右往左往していたにすぎなかったことが、その後明らかとなるのだ。 マーロウの視界の無効性を映画の観客により深く実感させるのが、スターリング・ヘイドン扮するアル中の老作家ウェイドが、海辺で入水自殺を遂げる場面。ここでもまたアルトマンは、技巧を凝らした卓抜な画面設計と演出の冴えを存分に発揮している。この場面でははじめ、マーロウとウェイド夫人が海辺にあるウェイド邸内の窓際で立ち話をする様子が映し出され、次第にキャメラの焦点が2人を逸れて画面奥の遠景へゆるやかにズームアップしていくと、ガラス窓越しに夜の浜辺を歩くウェイドの後ろ姿が浮かび上がり、やがて波の中へ身を躍らせる彼の姿をキャメラは捉えるのだが、マーロウは話に夢中になって一向に戸外のその様子が目に入らない。そして先にそれに気づいたウェイド夫人に一歩遅れて、マーロウも慌てて屋敷の外へ飛び出し、ウェイドの姿を波間で探すものの、時すでに遅く、彼の命を救い出すことはもはやできないのだ。 ■ちょっと待って プレイバック、プレイバック! そしてこれを見届けた後、観客はこの場面に先立って、ウェイド邸を訪れたマーロウが、いったんウェイド夫妻とあいさつを交わした後、深刻な夫婦喧嘩を始めた2人を家に残して、ひとり浜辺をぶらつくという、よく似たような場面があったことを即座に思い返すに違いない。こちらは先述の夜の場面と違って、陽光きらめく白昼の光景で、浜辺にいるのは、ウェイドではなくマーロウ。しかもマーロウは、波打ち際で波と戯れはしても、ウェイドのように海中に身を躍らせて自殺するわけではない。夜と昼、ウェイドとマーロウ、死と生、といった具合に、この2つの場面は、まるで鏡の像のようにお互いを反転させた形で対峙している。さらにそれを増幅させるかのように、白昼、浜辺をぶらつくマーロウの姿は、たえずウェイド邸のガラス窓に映る反射像として映し出され、その遠くてちっぽけなマーロウの反射像の上に、アルトマン監督は、今度はいわば合わせ鏡のようにして、家の中で妻と口論するウェイドのガラス窓越しの透視像を重ね合わせてみせるのだ。 ここで改めて思い起こすと、アーネスト・ヘミングウェイを戯画化したようなマッチョで大酒飲みの老作家ウェイドも、本作の中では既に時代遅れのお荷物的存在であり、なぜかマーロウとだけはウマが合う貴重な同志として描き出されていた。これらを考え合わせると、ウェイドとは、マーロウのもうひとりの自己=鏡像にほかならず、いわばその身代わりとなって自殺を遂げたウェイドの死をくぐり抜けて、マーロウは新しく生まれ変わることになるのだ。まるで、9つの命を持つとされる猫が、いくたびも死んでは生まれ変わるように。 主人公の転生という本作の隠れた主題は、物語の終盤でも再び繰り返される。夜道を車で走るウェイド夫人の姿を偶然見かけ、彼女を呼び止めようと必死で車のあとを走って追いかけたマーロウは、その最中に別の車に轢かれ、危うく命を落としかける。そして、病院のベッドで意識を取り戻した彼は、同じ病室にいる、全身を白い包帯でぐるぐる巻きにされた、見た目はミイラそっくりの不可思議な重傷患者と対面することになるのだ。勝手に病室を抜け出そうとして、看護婦から呼び止められたマーロウは、「マーロウは僕じゃなくて彼ですよ」とミイラの患者を指し示し、自らの古びた肉体と生命を彼に譲り渡す形でまたもや生まれ変わったマーロウは、ミイラの患者から交換で渡された生命の象徴たるハーモニカを手に活力を取り戻し、親友だとばかり思い込んでいたレノックスといよいよ最終的な決着をつけるべく、死んだと見せかけて実は隠れて生きていた彼のアジトへと乗り込んでいく。 ■さらば愛しきひとよ… そして、公開当時、原作を大きく変更して踏みにじったとして何かと論議の的となり、チャンドラーの信奉者たちを激怒させた、あの悪名高いラストのクライマックス場面が訪れる。ここはやはり、ぜひ見てのお楽しみということで詳細はいちおう伏せておくことにするが、実はこのラストの改変は、アルトマンが本作の監督として起用される以前に、既に脚本家のリー・ブラケットがシナリオの中に書き込んであったものであり、その大胆な案を知ってアルトマン監督もこの企画に大いに乗り気になったこと、そしてまた、このブラケットは名匠ホークス監督とのコンビで知られる女性脚本家であり、何よりも同監督が主演のボガートと組んで作り上げた、あのチャンドラー映画の決定版というべき『三つ数えろ』に共同脚本のひとりとして参加していたことは、ここで特記しておく必要があるだろう。 あるインタビューでの彼女の言い分によると、「マーロウは、親友として信頼していた相手に裏切られ、心のもっとも奥深くで傷ついているにも関わらず、原作の結末では、一向にさっぱり要領を得ない。我々ならどうするか、よし、堂々と問題に正面から立ち向かうことにしよう」となったのこと。さらには、「『三つ数えろ』を作った頃には、たとえそうしたいと望んでも、検閲があってそれは許されなかった。我々は、マーロウを負け犬(loser)とみなすチャンドラー自身の価値判断にどこまでも忠実に付き従って、彼を何もかも失った本物の負け犬として設定した」とも彼女は述べている。 かくして映画の中で、「俺が何をどうしようが、どうせ誰も構いやしないやしないさ」と開き直ってうそぶくレノックスに対し、「ああ、俺以外にはな」と切り返し、「You’re a born loser.[=お前は、生まれついての負け犬さ]」とせせら笑うレノックスに、「Yeah, I even lost my cat.[=ああ、俺は猫も失ってしまったしな]」とシニカルに言い放つマーロウの決め台詞が効いてくるのである。 さて、こうして映画『ロング・グッドバイ』を、幾つかの顕著なアルトマン的主題をざっと辿りながら見てきても分かるように、この作品は、アルトマン監督がチャンドラーの原作を単に適当にぶち壊して、勝手気ままに浮薄な現代の社会に物語の設定を移し替えただけというような、安易な諷刺やパロディ映画などでは決してない。それどころか、往年のハリウッド映画のスタイルを借用して、『三つ数えろ』のような古典的フィルム・ノワールを現代にそのまま再生産するのは、もはや不可能であり、失われた神話にすぎないことを充分に自覚したアルトマン監督が、過去と現在をたえず対比させて、その時代的距離を浮き彫りにしつつ、しかしそのどちらか一方にだけ加担して他方を断罪するのではなく、その両者のはざまで必死に自らの居場所を見つけようとしてあがくマーロウの姿を、彼独自の複眼的視線と実験的手法を駆使して描いた、まぎれもない野心的傑作の1本であると言えるだろう。 鏡や窓ガラスの反映を巧みに用いた空間設計と、卓抜なキャメラワークを緊密に連携させることで、さまざまな主題が幾重にも交錯して乱反射し、幾つもの鏡像・分身を生み出しながら、めくるめく重層的なアルトマンの映画世界が形作られるさまを、これまで見てきたが、これはなにも、映像だけの話に限らない。この『ロング・グッドバイ』では、音楽の使い方がまた何とも心憎いまでに粋でふるっていて、その後『JAWS/ジョーズ』(1975)や『スター・ウォーズ』(1977)でハリウッド随一の人気映画音楽家の座に上り詰める、あのジョン・ウィリムズの作曲した主題曲の印象的な同一のフレーズが、時には車のラジオから流れる男性ボーカルのバラード、時には深夜のスーパーにかかるミューザック、はたまたメキシコの楽団スタイルやゴスペル調、といった具合に、アレンジだけ変えながら、多彩なスタイルで次々と反復・変奏されていくさまには、思わず誰もがニヤリとさせられること間違いなしだろう。 その一方で、この主題曲の作詞を手がけた20世紀のアメリカを代表する名作詞・作曲家のひとり、ジョニー・マーサーが若き日にやはり作詞を担当した「ハリウッド万歳」というハリウッド讃歌の明るいナンバーが、この映画の冒頭と最後に本編を枠取る形で流されるが、そのなんともお気楽で能天気なメロディは、『ロング・グッドバイ』という作品の内容自体を効果的に彩る音楽というより、時と場所をわきまえずに不意に出現する場違いなアルトマンの作中人物たちにも似て、むしろその異質さと空虚さを際立たせるばかりで、ここでも、楽天的なハリウッド神話の夢が、もはや今日では成り立たずに終焉したことを、観客にはっきり告げ知らせる異化装置として機能している。 ことほどさように、アルトマンの映画は複雑で厄介で、とうてい一筋縄ではいかない不可思議な魅力と面白さに満ち溢れている。彼本人は残念ながら、もはやこの世に別れを告げてあの世へ旅立って行ってしまったが、見返すたびに新たな発見がある彼の多面的な映画世界に、我々はまだまだ、ロング・グッドバイをすることなどできはしない。■ LONG GOODBYE, THE © 1973 METRO-GOLDWYN-MAYER STUDIOS INC.. 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PROGRAM/放送作品
博士の異常な愛情
鬼才キューブリックが核戦争に瀕した権力者の愚かさを風刺。ブラックユーモアが強烈なSFコメディ
シリアスな原作小説をスタンリー・キューブリック監督がシニカル・コメディとして映像化。英軍大佐、大統領、マッド・サイエンティストの1人3役に扮するピーター・セラーズら実力派がブラックユーモアを魅せる。