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PROGRAM/放送作品
タワーリング・インフェルノ
スティーヴ・マックィーン、ポール・ニューマンを筆頭にオールスター競演で描くパニック映画の金字塔
スティーヴ・マックィーンとポール・ニューマンそれぞれの主演作として進行していた、ワーナーとFOXのビル火災パニックの別企画が途中で合体した、奇跡的な大作。70年代パニック映画の最高傑作。
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COLUMN/コラム2024.03.01
マックィーンvsニューマン『タワーリング・インフェルノ』=“そびえ立つ地獄”の頂に立ったのは!?
1975年=昭和50年。日本に於いてこの年は、現在60歳前後となっている私のような世代の映画ファンにとっては、特別な意味を持つ。 夏に超高層ビルの火災を描いた、『タワーリング・インフェルノ』(1974)、冬には人食い鮫の恐怖を描いた、『ジョーズ』(75)。いずれも本国よりは半年ほど遅れて公開されたアメリカ映画が特大ヒットとなり、“パニック映画”ブームが最高潮に達した。それと同時に、“超大作”が全国数百館のスクリーンを占めて一斉公開される、“ブロックバスター”の時代が、本格化していく。 我々の世代の多くは、リアルタイムでこれらの作品に魅せられたのがきっかけで、“映画少年”になった。人生の羅針盤が、ここで狂った者が少なくない…。 本作『タワーリング・インフェルノ』の企画の発端は、ハリウッド2大メジャーの“競合”からだった。ワーナー・ブラザースが「ザ・タワー」、20世紀フォックスが「グラス・インフェルノ(ガラスの地獄)」という、それぞれ超高層ビルの火災を描いた小説の原作権を、30~40万㌦もの大金を投じて、買い入れたのである。 2つの小説は、ビル火災発生の状況設定など類似点が多かった。そこで両メジャーの橋渡しに登場したのが、アーウィン・アレン(1916~91)。 アレンは、コロムビア大学でジャーナリズム学・広告学を専攻後、雑誌の編集、ラジオ番組の製作、コラムニスト、出版のエージェントなどを経て、映像業界へ。60年代にはプロデューサーとして、「宇宙家族ロビンソン」「タイム・トンネル」「巨人の惑星」などのSFドラマを手掛け、TVのヒットメーカーとなった。 映画界にその名を轟かせたのは、1972年に公開された、『ポセイドン・アドベンチャー』。大津波によって転覆した豪華客船からの決死の脱出劇を描いたこの作品は、世界中で大ヒットとなり、“パニック映画”ブームの先駆けとなった。 そのアレンが、ワーナーとフォックスに、無駄な競作を避け、両原作の良いところ取りをしたストーリーを組み立てて、共同製作をする話を提案したわけである。両社は73年10月に合意に達し、このプロジェクトに、合わせて1,400万㌦の巨費を投じることを決めた。 アレンは、『ポセイドン・アドベンチャー』で大成功を収めた方法論を以て、本作の製作に取り掛かる。~キャストには有名スターをズラリと揃え、彼ら彼女らを災害の渦中に放り込む~~特殊効果を駆使して、大勢のエキストラが命を落としていく中で、スターたちも次々と犠牲になる~~最終的に、スターの何人かが生還を果す~ 74年春、キャストが固まった。2大メジャーが手を組んだ以上のニュースとなったのが、2大スターの共演。それは、スティーヴ・マックィーンとポール・ニューマンという組合せだった。 脇を固めるのも、ウィリアム・ホールデン、フェイ・ダナウェイ、フレッド・アステア、リチャード・チェンバレン、ジェニファー・ジョーンズ、シェリー・ウィンタース、ロバート・ヴォーン、ロバート・ワグナーといった、新旧取り合わせて豪華な面々。その一翼には、アメフトのスーパースターで、後に元妻殺しで“時の人”となってしまう、O・J・シンプソンも加わっていた。 これらのオールスターキャストが、いわゆる“グランドホテル形式”で、災害の中で様々な人間模様を繰り広げていくわけだが、何と言っても、耳目を浚ったのは、マックィーンとニューマン!当時としては、これ以上にない、ビッグなカップリングであった。 そして本作『タワーリング・インフェルノ』は、74年5月にクランク・イン。70日間の撮影へと突入した。 ***** サンフランシスコに、地上520㍍の偉容を誇る、138階建ての超高層ビル「グラスタワー」が完成。最上階のプロムナードルームには、上院議員や市長などのVIPをはじめとした300名を集め、落成記念パーティが開かれることとなった。「タワー」の設計者ダグ(演:ポール・ニューマン)は、これを機に施工会社を退職することを決意。婚約者のスーザン(演:フェイ・ダナウェイ)と、砂漠へと移り住む計画だった。 しかし電気系統の異常が起こったことから、ダグは自分が指定した仕様より安上がりな材料を使った、大規模な手抜き工事が行われていることを知る。ダグは施工会社の社長で、ビルのオーナーでもあるダンカン(演:ウィリアム・ホールデン)に、「タワー」オープンの延期を迫るが、相手にされない。 危惧は的中し、81階の配電盤のショートから出火。火は、徐々に燃え広がっていった。 オハラハン(演:スティーヴ・マックィーン)をチーフとする消防隊が出動する。火災の状況を見た彼は、ダンカンを半ば脅すように説得。最上階から賓客たちを、1階へと下ろすことを承知させた。 ようやく避難が始まる中で、それを嘲笑うように火の手は広がっていく。消防隊員を含めて犠牲者が増えていく中で、オハラハンとダグたちは、一人でも多くの命を救おうと、粉骨砕身の働きをするが…。 ***** 2つの小説からエキスを抽出して、1本のシナリオにしたのは、スターリング・シリファント。『夜の大捜査線』(67)でアカデミー賞脚色賞を受賞している彼は、『ポセイドン・アドベンチャー』で、ポール・ギャリコの原作をベースに、オールスターキャストによる、“パニック映画”の鋳型を作り上げた実績を買われての、起用である。 本作では、原作に書かれた、登場人物たちの絡みは極力簡略化。救助活動が行われている最中に、トラブルが起きて、その方法がダメになる。そこで新たな救助のやり方を見つけ出すが、まだダメになる。更に次の方法を見つけて…といった形で、アクションを伴ったハラハラドキドキの展開を、積み上げた。 監督に選ばれたのは、ジョン・ギラーミン。『ブルー・マックス』(66)『レマゲン鉄橋』(69)などの戦争映画で評価されていた。 と言っても本作は、4つのグループが同時にカメラを回すという、製作体制。ギラーミンは主に、ドラマ部分を担当。アクションパートを、プロデューサーのアーウィン・アレンが監督した他に、特殊効果班、空中シーン班が稼働した。 ミニチュアやセットなどを担当したのは、『ポセイドン・アドベンチャー』のスタッフ。ミニチュアと言っても、138階/520㍍の「グラスタワー」の模型は、33㍍の高さに及んだ。「タワー」が、サンフランシスコ市街の上方高くそびえ立っているように見せるためには、マットペインティングの特殊技術が併用されたという。 ロサンゼルスの20世紀フォックスのスタジオに在る、8つのサウンドステージには、57という記録的な数のセットが組まれた。その中には、宙づりになった展望エレベーターをヘリコプターで吊るシーンを撮るために作られた、4階分の高さの建物のセットなどもある。 CGなどない時代の、大火災の映画である。セットを実際に燃やしながら撮影しても、俳優の演技が良くない時がある。そうした場合のため、セットは1度火を付けても、後でまた使えるように、特殊建材を使った耐火仕様。NGが出ると、スタッフがすぐさま、壁を直してペンキを塗り替え、カーペットや家具、カーテンなどを新品に交換して、撮影が続けられた。 30万㌦を投じ、全長100㍍、1万1,000平方㍍に及ぶ最大級のセットが作られたのは、落成パーティの場となる、最上階のプロムナードルーム。クライマックスシーンの撮影のため、鉄柵で5㍍もある支柱を組み、その上にセットを組み立てた。4,000㍑もの水を一気に流した際に、スムースになだれ落ちる構造となっている。ネタバレになるが、このような作りにしないと、映画の内容と同じく、キャストが溺死する危険性があったという。 こうしたセットの中で、3,000人ものエキストラが右往左往。25名のスタントマンが、高層ビルの窓をぶち破って飛び降りたり、エレベーターのシャフトや階段の吹き抜けに転落したり、不燃性のボディスーツを着込んで火だるまになったりしたのである。 そんな大プロジェクトの頂点に居たのが、スティーヴ・マックィーンとポール・ニューマンだった。 マックィーンは1930年生まれ、ニューマンは4歳年長の26年生まれで、本作の頃は共に40代。アクターズ・スタジオ出身の2人は、TVやブロードウェイを経て、ハリウッド入り。60年代から70年代に掛けて、TOPの座を競い合ってきた。 とはいえ、「犬猿の仲」というわけではない。スピード狂でカーレーサーでもあるという共通の嗜好があり、また映画製作の場でスターが発言権を強めるためのプロダクション「ファースト・アーティスツ」の同志でもあった。 だが2人がそのキャリアを通じて、ライバル心を抱き合ってきたのも、紛れもない事実。特にマックィーンがニューマンに対して抱いてきた感情は、強烈なものだったと言われる。 ポール・ニューマンの出世作となったのは、実在のプロボクサーに扮した、『傷だらけの栄光』(57)。実はこの作品に、マックィーンも、出演している。 と言っても、日給19㌦で雇われた、エキストラに毛が生えた程度の役どころで、その名はクレジットもされていない。監督のロバート・ワイズ曰く、まだ無名の存在だったマックィーンの「精一杯の生意気な態度」が目を惹いたので、「ニューヨークの屋上の乱闘の場面での“小僧”の役」に付けたのである。 因みにワイズはこの9年後に、人気スターとなったマックィーンの主演作『砲艦サンパブロ』(66)を監督。時の流れを痛感したという。 ニューマンとマックィーンの次なる因縁は、『明日に向って撃て!』(69)。ブッチ・キャシディとサンダンス・キッドという、19世紀末の西部に実在した2人組のアウトローを主役とするこの作品では、ニューマンの出演が早々に決定。その後共演者の候補として、マーロン・ブランドやウォーレン・ベアティ、マックィーンの名が挙がった。中でもニューマンが、特に共演を切望したのが、マックィーンだった。 実はニューマンとマックィーンのエージェントは、同一人物。そのエージェント、フレディ・フィールズは2人の共演を実現するために奔走するも、最終的に不調に終わる。マックィーンが自分の名を、ニューマンより先にクレジットすることにこだわったためだったと言われる。 結果的にマックィーンがやる筈だったサンダンス・キッド役には、ロバート・レッドフォードが抜擢され、作品の大ヒットと共に、一躍スターダムに。ニューマンとレッドフォードは、生涯を通じての親友ともなった。 因みに『明日に向って撃て!』が公開された翌70年、カリフォルニアのスピードウェイで、ニューマンとマックィーンの2人が、レースを見て楽しむ姿が、地元の9歳の少年に目撃されている。少年曰く、ニューマンがマックィーンに、『明日に向って撃て!』に出なかったことをくどくどと言及すると、マックィーンは「あんたはそれをもう一度俺に演らせる気は無いだろう!」と反論。そのやり取りの後、2人は突然少年の方を見て、ニヤリと笑ったという…。 さて『明日に向って撃て!』から5年経って、ようやく実現した、本作での本格的な共演。この作品へのコメントを見ると、ニューマンは、結構割り切って出演している感が強い。曰く、「この映画の本当の主役は火災だ」「この種の映画としてはいいできだった。できる限り素早くスター達を避難させ、スタントマンをつぎこんでね」 それに対してマックィーンのスタンスは、ちょっと違っていた。「最初シナリオを読んだ時は建築技師の役がいいと思ったけれど、途中で気が変わってね」 マックィーンが気に入ったのは、消防隊チーフのオハラハン。彼はずっと伸ばしていたお気に入りのヒゲを、役のために剃り落とした。そして、マックィーンが演じることで、元々はTOPから4番目だったオハラハンの役どころは、膨らんでいく。 本作の技術顧問である、本物の消防隊長とマックィーンの打合せ中に、近隣の映画スタジオで、本物の火災が発生した。参考になるからと、現場へと向かう消防隊長に同行。実地見学に赴いた際、ヘルメットと消防服を身に纏って、マックィーンは、放水を手伝ったという。 監督のギラーミンは、マックィーンから、自分が被るヘルメットが、イギリスの警官のように見えるので、どうにかして欲しいと言われ、困惑したことがあった。偶然にも撮影が始まる前夜、ギラーミンが食事に出掛けた先で、古風な消防士用のヘルメットを見つけたので持ち帰り、マックィーンに試着させた。すると気に入ってくれたので、ホッと胸を撫で下ろすという一幕もあった。 脚本に関しても、一悶着あった。マックィーンが自分のセリフの数をカウントして、ニューマンより12個も少ないことを発見。プロデューサーに電話して、セリフを増やすことを要求してきたのである。 そのため、休暇で海に出ていた脚本家のシリファントは、突然陸へと呼び戻された。彼はマックィーンの要求通り、セリフを12個増やしたという。 そして再び、ニューマンとマックィーンの共通のエージェント、フレディ・フィールズの出番が、やって来る。彼がプロデューサーのアレンと論議になったのは、ポスターなどで、2人の大スターの名前の配列を、どうするのか!? 最終的にまとまったのは、TOPにはマックィーンの名を置くということ。但し、その右側にクレジットされるニューマンの名は、マックィーンよりも高い位置に置いて、同格の主演であることを表す。 ともあれマックィーンは、ニューマンよりも先にクレジットされるという、長年の宿願を果した形になった。 2人は出演料100万㌦に加えて、総収益の7.5%の歩合という、まったく同じ条件で本作に出演。最終的には、1,000万㌦程度を手にしたという。しかしマックィーンにとって本作は、その大金以上に価値のあるものを手にした作品と言えるかも知れない。 因みに本作には、若い消防士役でニューマンの長男である、スコット・ニューマンが出演。マックィーンとの共演シーンもある。当初マックィーンは、ライバルの息子の面倒を見ることを嫌がったが、途中からスコットのことを気に入り、彼のセリフを増やすことまでOKした。その背景にも、こんな事情があったからかも知れない。 本作『タワーリング・インフェルノ』は、『ポセイドン・アドベンチャー』以上の大ヒットとなり、アーウィン・アレンは、「パニック映画の巨匠」と呼ばれる存在となった。また監督のジョン・ギラーミンも、『キングコング』(76)や『ナイル殺人事件』(78)など、大作を任される監督として、暫し君臨する。 しかしながらこの2人のキャリアのピークは、やはり本作であったと言えるだろう。アレンはその後、自ら監督まで手掛けた『スウォーム』(78)『ポセイドン・アドベンチャー2』(79)が連続して、大コケ。それならばと製作に専念し、ポール・ニューマンやウィリアム・ホールデンを再び招いた『世界崩壊の序曲』(80)で、キャリアのトドメを刺される。ギラーミンも80年代に入ると、低予算のB級作品やTVムービーの監督へと堕していく。 そしてまた、マックィーンのキャリアも、結果的にここがピークとなってしまった。本作に続いては、ヘンリック・イプセンの戯曲を映画化した『民衆の敵』(76)の製作・主演を務めたが、アメリカ本国ではまともに公開されないという結果に終わる(日本では83年までお蔵入り)。 その後『未知との遭遇』(77)や『恐怖の報酬』(77)『地獄の黙示録』(79)等々、様々なオファーが舞い込むも、すべて拒否。彼の雄姿は、名画座やTV放送などの旧作でしか見られなくなった。 待望の新作が公開されたのは、80年。西部劇の『トム・ホーン』、そして現代の賞金稼ぎを演じた『ハンター』が、相次いで公開された。ところがこの年の11月、彼はガンのために、50歳の若さで、この世を去ってしまったのだ。 ニューマンは60を過ぎて、『ハスラー2』(86)で、待望のアカデミー賞を受賞する。マックィーンは生涯手にすることがなかったオスカー像を、遂に手にしたのだ。 そしてニューマンは、70代までは第一線で活躍。2008年に、83歳でこの世を去った。 そんなことも考え合わせながら、1974年当時は未曾有の超大作だった本作を観るのも、長年の映画ファンとして、また感慨深かったりする。■ 『タワーリング・インフェルノ』© 1974 Warner Bros. Ent. All rights reserved. © 2023 Warner Bros. Ent. All rights reserved.
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PROGRAM/放送作品
(吹)タワーリング・インフェルノ 【ゴールデン洋画劇場版】
スティーヴ・マックィーン×ポール・ニューマンを筆頭にオールスター競演で描くパニック映画の金字塔
スティーヴ・マックィーンとポール・ニューマンそれぞれの主演作として進行していた、ワーナーとFOXのビル火災パニックの別企画が途中で合体した、奇跡的な大作。70年代パニック映画の最高傑作。
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COLUMN/コラム2022.08.08
不屈の精神と魂の自由を謳いあげた戦争映画の傑作『大脱走』
第二次世界大戦下のドイツで本当に起きた大脱走劇 捕虜収容所からの脱走劇を題材にした戦争映画は枚挙に暇ないが、しかしこの『大脱走』(’63)ほど映画ファンから広く愛され親しまれてきた作品は他にないだろう。実際に起きた脱走事件を基にしたリアリズム、史上最大規模と呼ばれる脱走計画を余すことなく再現したダイナミズム、自由を求めて困難に挑戦する勇敢な男たちの熱い友情を描いたヒロイズム。『OK牧場の決斗』(’57)や『老人と海』(’58)、『荒野の七人』(’60)などの名作で、不屈の精神を持った男たちを描き続けたジョン・スタージェス監督だが、恐らく本作はその最高峰に位置する傑作と言えよう。 舞台は第二次世界大戦下のドイツ。脱走困難とされる「第三空軍捕虜収容所」に、ドイツの捕虜となった連合軍の空軍兵士たちが到着する。彼らの共通点は脱走常習者であること。実は、当時のドイツ軍は頻発する捕虜の脱走事件に頭を悩ませていた。なにしろ、逃げた捕虜を捜索するためには貴重な時間と人員を割かねばならない。かといって、戦争に勝つことを考えれば敵兵を逃がして本隊へ戻すわけにはいかないし、ジュネーブ条約で捕虜の保護が義務付けられているので処刑するわけにもいかない。そこでドイツ空軍は脱走常習者だけを一か所に集めて厳しい監視下に置き、なるべく余計な手間を減らそうと考えたのである。 とはいえ、集まったのはいわば「脱走のプロ」ばかり。しかも、ナチス親衛隊やゲシュタポに比べるとドイツ空軍は良識的で、規則を破った捕虜への懲罰も比較的甘い。そのため、到着早々から脱走を試みる者が続出。フォン・ルーガー所長(ハンネス・メッセマー)から自重を求められた捕虜リーダーのラムゼイ大佐(ジェームズ・ドナルド)も、脱走によって敵軍を混乱させるのは兵士の義務だと言って突っぱねる。 それからほどなくして、「ビッグX」の異名を取る集団脱走計画のプロ、ロジャー・バートレット(リチャード・アッテンボロー)が収容所に連行されてくる。にわかに色めき立つ捕虜たち。目ぼしい英国空軍メンバーを一堂に集めたバートレットは、収容所の外へ繋がるトンネルを3カ所掘って、なんと一度に250名もの捕虜を脱走させるという壮大な計画を発表する。 トンネルの掘削に必要な道具を作る「製造屋」にオーストラリア人のセジウィック(ジェームズ・コバーン)、実際に掘削作業を請け負う「トンネル王」にポーランド人のダニー(チャールズ・ブロンソン)、資材を調達する「調達屋」にアメリカ人のヘンドリー(ジェームズ・ガーナー)、掘削作業で出た土を処分する「分散屋」にエリック(デヴィッド・マッカラム)、身分証などの書類を偽造する「偽造屋」にコリン(ドナルド・プレザンス)、収容所内の情報を収集する「情報屋」にマック(ゴードン・ジャクソン)といった具合に担当者を決め、捕虜たちは前代未聞の大規模脱走計画を着々と進めることとなる。 一方、彼らとは別に脱走計画を試みるのが一匹狼のアメリカ兵ヒルツ(スティーヴ・マックイーン)。何度も脱走を繰り返しては独房送りになるため通称「独房王」と呼ばれる彼は、その独房で隣同士になったアイヴス(アンガス・レニー)と組んで単独脱走を試みようとしていたのだ。それを知ったバートレットたちは、単独脱走が成功したらわざと捕まって収容所へ戻り、外部の情報を教えて欲しいとヒルズに頼む。というのも、集団脱走計画を成功させるためには逃走経路の確保も必須だが、しかし収容所内からは外の様子がよく分からないからだ。 当然ながら、この無茶な依頼を一旦は断ったヒルズ。ところが、その後トンネルのひとつが看守に発見されてしまい、ショックを受けて錯乱したアイヴスが立ち入り禁止区域に入って射殺されたことから、考えを改めたヒルツはバートレットらに協力することにする。こうしてヒルツの持ち帰った外部情報をもとに計画を進めた捕虜たちは、’44年3月24日に前代未聞の大規模な集団脱走を実行に移すのだが…? 各スタジオから企画を断られ続けた理由とは? 原作は実際に第三空軍捕虜収容所の捕虜だった元連合軍パイロット、ポール・ブリックヒルが執筆した同名のノンフィクション本。彼自身は実際に脱走しなかったものの、しかし計画そのものには加わっていた。’50年に出版されて大評判となった同著の映画化を、かなり早い時期から温めていたというジョン・スタージェス監督。当時MGMと専属契約を結んでいた彼は、最初に社長のルイス・B・メイヤーのもとへ企画を持ち込んだものの、「物語が複雑すぎるうえに予算がかかりすぎる」として断られたという。 その後独立してからも、あちこちの映画スタジオやプロデューサーに相談したが、スタージェス曰く「どこでも話を逸らされておしまいだった」らしい。最大のネックとなったのは、脱走した主要登場人物の大半が死んでしまうこと。気持ちの良いハッピーエンドがお約束だった当時のハリウッド映画において、この種のほろ苦い結末は観客の反発を招きかねないため、確かにとてもリスキーではあったのかもしれない。また、映画に華を添える女性キャラが存在しないこともマイナス要因だったそうだ。 風向きが変わるきっかけとなったのは、黒澤明監督の『七人の侍』(’54)をスタージェス監督が西部劇リメイクした『荒野の七人』。これが予想を上回る大ヒットを記録したことから、同作の製作を担当したミリッシュ兄弟およびユナイテッド・アーティスツは、いわばスタージェス監督へのご褒美として『大脱走』の企画にゴーサインを出したのだ。予算はおよそ400万ドル(380万ドル説もあり)。同年公開された戦争映画大作『北京の55日』(’63)の約1000万ドル、コメディ大作『おかしなおかしなおかしな世界』(’63)の約940万ドルと比べてみると、実はそれほど高額な予算ではなかったことが分かるだろう。 それゆえ、当初はカリフォルニアのパームスプリングス近郊を、戦時中のドイツに見立ててセットを組むという計画もあったらしい。ところが、組合の規定によってエキストラでもプロを雇わねばならず、そのため現地で人材調達をすることが出来ない。それではあまりに不経済であることから、やはりドイツが舞台ならドイツで撮影するのが理に適っているということで、ミュンヘン郊外のバヴァリア・スタジオで撮影することになったという。ちょうどスタジオの周囲も実際の収容所と同じく森に囲まれているし、大勢のエキストラも近隣の大学生を安く雇うことが出来た。収容所の屋外セットは400本の木を伐採し、森の中に空き地を作って建設したという。ちなみに、撮影終了後は倍に当たる800本の木の苗を新たに植えたそうだ。 撮影の準備で最大の難問だったのは、この第三空軍捕虜収容所のセットをどれだけ忠実に再現できるかということ。本来ならば実際に現地へ赴いて参考にすべきところだが、しかし収容所のあったザーガン(現ジャガン)周辺は戦後ポーランド領となり、当時は東西冷戦の真っ只中だったため視察が難しかった。現存する写真資料だけでは心もとない。そこで白羽の矢が立てられたのは、実際に脱走計画でトンネル掘削を担当した元捕虜ウォリー・フラディだった。劇中ではブロンソン演じるダニーのモデルとなった人物である。製作当時、母国カナダで保険会社重役となっていたフラディは、本作のテクニカル・アドバイザーとして招かれセット建設に携わり、捕虜収容所の外観だけでなくトンネルの中身まで、限りなく正確に再現したという。 豪華な名優たちの共演も大きな魅力 その一方で、史実を大幅にアレンジしたのは脚本。まあ、こればかりは仕方ないだろう。なにしろ、本作はドキュメンタリーではなくエンターテインメントである。なによりもまず、映画として面白くなくてはならない。脚本は映画『アスファルト・ジャングル』(’50)の原作者として有名な作家W・R・バーネットが初稿を仕上げ、戦時中に捕虜だった経験のあるイギリス人作家ジェームズ・クラヴェル(ドラマ『将軍 SHOGUN』の原作者)が英国軍人の描写に信ぴょう性を与えるためリライトを担当したそうだが、しかし最終的にはスタージェス監督自身が現場でどんどん書き直してしまったらしい。また、『ジャイアンツ』(’56)の脚本家として知られるアイヴァン・モファットもノークレジットで参加しているが、その件については改めて後述したいと思う。 実際にトンネルを抜けて捕虜収容所の外へ出たのは79名。そのうち3名が現場で捕らえられ、76名がいったんは逃げおおせたものの、しかし最終的に脱走に成功したのは3名だけで、再び捕虜となった73名のうち50名が見せしめのためゲシュタポによって処刑された。こうした動かしがたい事実をそのままに、脱走計画の詳細などもなるべく事実に沿って描きつつ、映画らしいアクションとサスペンスの要素をふんだんに盛り込んだ、ハリウッド流のエンターテインメント作品へと昇華させたスタージェス監督。そのほろ苦い結末にも関わらず、意外にも自由でポジティブなエネルギーに溢れているのは、やはり彼独特の揺るぎない反骨精神が物語の根底を支えているからなのだろう。 確かに脱走した捕虜の大半は処刑され、生き残った者も3名を除いて再び捕虜となってしまうが、しかしそれでもなお彼らは希望を棄てない。なぜなら、ナチスは彼らの身体的な自由を奪うことは出来ても、魂の自由まで奪うことは出来ないからだ。いわば独裁的な権力に対して、堂々と中指を立ててみせる映画。本作が真に描かんとするのは、権力の弾圧や束縛に決して屈しない強靭な精神の崇高さだと言えよう。だからこそ、あのクライマックスに魂の震えるような感動を覚えるのである。 『荒野の七人』でもスタージェス監督と組んだマックイーンにコバーン、ブロンソンをはじめ、英米独の名優たちがずらりと顔を揃えた豪華キャストの顔ぶれも素晴らしい。中でも、コリン役のドナルド・プレザンスは実際に第二次大戦で連合軍の爆撃隊にパイロットとして加わり、第三空軍捕虜収容所の近くにあった第一空軍捕虜収容所に収容されていたという経歴の持ち主。集団脱走計画に加わったこともあったという。また、調達屋ヘンドリー役のジェームズ・ガーナーも、朝鮮戦争へ従軍した際に部隊内の調達役を任されていたそうだ。この2人の熱い友情がまた感動的。ただし、彼らが飛行機で逃亡を試みるというプロットは本作独自のフィクションだという。 ほかにも魅力的な役者がいっぱいの本作だが、しかしテーマとなる「不屈の精神」を最も象徴的に体現しているのは、独房王ヒルツ役のスティーヴ・マックイーンだろう。表向きはクールな一匹狼だが、しかし内側に熱い闘志を秘めた生粋の反逆児。ただ、そんなヒルツも当初は単なるアウトサイダー的な描かれ方をしており、そのため撮影途中でラフ編集版を見たマックイーンは憤慨して席を立ってしまったらしい。おかげで撮影も一時中断することに。そこでスタージェス監督はマックイーンの意見を取り入れて脚本をブラッシュアップすべく、ハリウッドから脚本家アイヴァン・モファットを招いたというわけだ。オープニングでヒルツが立ち入り禁止区域にボールを投げ込むシーンは、その際に書き足された要素のひとつだったという。 やはり最大の見せ場は終盤のバイク逃走シーン。もちろん、これも映画オリジナルのフィクションである。大のオートバイ狂だったマックイーン自身がスタントも兼ねているが、しかしジャンプ・シーンなどの危険なスタントは保険会社の許可が下りなかったため、マックイーンの友人でもあるバイクスタントマンのバド・イーキンズがスタントダブルを担当。実は、ヒルツをバイクで追跡するドイツ兵の中にもマックイーンが紛れ込んでいるらしい。これぞまさしく映画のマジック(笑)。本当にバイクが好きだったんですな。 ちなみに、実際の集団脱走劇に加わったのは主にイギリス人やカナダ人の空軍兵士たちで、アメリカ人は脱走計画の準備にこそ参加したものの、しかし計画が実行される前に他の収容所へと移送されていたらしい。だが、最重要マーケットであるアメリカでのセールスを考えれば、有名ハリウッド俳優のキャスティングは必要不可欠。そもそも本作はハリウッド映画である。そのため、劇中では米兵の移送がなかったことに。主要キャラクターについても、一部はモデルとなった特定の人物がいるものの、それ以外は複数の人物をミックスした架空のキャラクターで構成された。また、捕虜たちが脱走計画に必要な物資を調達する方法に関しても、実際は英米の諜報機関が外部から協力していたらしいのだが、機密情報に当たるとして劇中では詳細が一部省かれている。■ 『大脱走』© 1963 METRO-GOLDWYN-MAYER STUDIOS INC. AND JOHN STURGES. All Rights Reserved
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PROGRAM/放送作品
トム・ホーン
世の中が変わり、世間に捨てられた悲しきガンマンをマックィーンが静かに演じた、彼の最晩年の傑作
実在のガンマン、トム・ホーンの転落を描く、マックィーン最晩年の傑作。西部開拓時代が終わり、銃で悪を倒すこと自体が悪と見なされる時代まで生き残ってしまった最後のガンマン、その悲哀に満ちた運命とは?
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COLUMN/コラム2022.03.25
スティーヴ・マックィーン晩年の素顔も投影された遺作『ハンター』
もう40年以上の歳月が、流れてしまった。1980年11月7日…稀代のアクションスター、スティーヴ・マックィーン死去が報じられた際の衝撃を、今の若い映画ファンに伝えるのは、もはや至難の業かも知れない。 家庭環境に恵まれない不良少年だったマックィーンは、折り合いの悪かった継父によって、少年院に送り込まれる。退所後は数々の職を経て、海兵隊に入隊。3年間の軍隊生活を送った。 彼が演劇の勉強を始めたのは、20代になってから。そして30前後からスター街道をひた走り、やがて“キング・オブ・クール”と異名を取る、世界的な人気者となった。 1930年生まれ。思えばクリント・イーストウッドと、同い年である。マックィーンは「拳銃無宿」(58~61)、イーストウッドは「ローハイド」(59~65)という、それぞれTVの西部劇シリーズで世に出て、その後『ブリット』(68)『ダーティハリー』(71)という、それぞれに刑事アクションの歴史を塗り替える、大ヒット作のタイトルロールを演じた。 齢90を超えて未だに監督・主演作をリリースする、イーストウッドの驚くような頑健さ。それを思うと、マックィーンの享年50という短命には、改めてもの悲しい気分に襲われる。 筆者はマックィーンの、それほど熱心なファンだったわけではない。しかし70年代中盤から映画に夢中になった身には、マックィーンは、「絶対的なスター」と言える存在であった。 各民放が毎週ゴールデンタイムに劇場用映画を放送していた、TVの洋画劇場の全盛期。その頃確実に視聴率を取れる“四天王”と言われたのが、アラン・ドロン、ジュリアーノ・ジェンマ、チャールズ・ブロンソン、そしてスティーヴ・マックィーンだった。 マックィーンの他にポール・ニューマンやウィリアム・ホールデン、フェイ・ダナウェイら大スター競演のパニック映画超大作『タワーリング・インフェルノ』(74=日本公開は翌75年)以来、新作の日本公開が途絶えても(1976年にヘンリック・イプセンの戯曲『民衆の敵』を映画化した作品の製作・主演を務めたが、アメリカ本国でもまともに公開されず、日本では83年までお蔵入りとなった)、TVや名画座で彼と会うことは、困難ではなかった。筆者はまだビルになる前の池袋の文芸坐で、『荒野の七人』(60)『大脱走』(63)という、彼の代表作2本立てを楽しんだ記憶がある。 そんなマックィーン待望の新作が、5年振りに、しかも立て続けに日本公開されたのが、1980年だった。4月に『トム・ホーン』、そして12月に本作『ハンター』。しかし『ハンター』が公開された頃には、マックィーンはもう、この世の人ではなかったのだ…。 ***** 現代社会を生きる“バウンティ・ハンター=賞金稼ぎ”のラルフ・ソーソン、通称“パパ”。彼はロサンゼルスから逃げ出した犯罪者を追って、アメリカ各地へと赴いては逮捕し、ロスに戻って警察に引き渡すのが、主な仕事である。 彼の依頼主は、犯罪者に保釈金を貸し付ける業務を行っている、リッチー。逃亡されて、保釈金がパーになることを防ぐため、ソーソンに依頼を行うのである。 ソーソンの家は、いつも多くの人間が集まっては、ポーカーに勤しんでいる。時には、まったく面識のない者まで。 そんなザワついた家で、ソーソンを優しく迎えてくれるのは、彼よりかなり年下の女性ドティー。小学校の教師である彼女は、現在ソーソンの子どもを妊っている。 粗暴な大男、爆弾魔の兄弟、逃亡中に電車をジャックする凶悪犯、日々そんな者たちと、命を危険に晒しながら渡り合っているソーソンの悩みは深い。こんな自分が、父親になって良いのだろうか? 臨月を迎えて出産目前のドティーとソーソンの関係が、ギクシャクし始める。そんな時に、彼の命を狙う者が現れた。かつてソーソンがムショ送りにした男、ロッコだ。 ある夜、仕事を終えて自宅に戻ったソーソンは、ドティーがロッコに連れ去られたことを知る。その監禁先は、彼女が教壇に立つ小学校。 急ぎ車を飛ばすソーソンは、愛する女性と、生まれてくる我が子を救うことは、できるのか? ***** アメリカでは、西部の開拓時代さながらに、現代でも“賞金稼ぎ”という職業が認めらている。そして本作でマックィーンが演じる、ラルフ“パパ”ソーソンは、実在の“賞金稼ぎ”である。 マックィーンは“ディスレクシア=難読症”で、読書は苦手であったが、76年に出版されたソーソンの伝記は、むさぼるように一気に読み上げたという。そして彼を演じたいという気持ちを、強く持った。「少なくとも50年生まれてくるのが遅かった」と、常々口にしていたというマックィーン。その晩年に生活を共にした、3番目の妻であるバーバラは、彼のソーソンを演じたい気持ちには、「…善悪がはっきりしていた、あまり複雑ではなかった古い時代に戻りたいというロマンチックな考えが影響していたのではないか…」と分析している。 実際のソーソンは、マックィーンよりだいぶ大柄で髭面の巨漢。本作には、セリフもあるバーテンダーの役で登場しているが、バーバラは、ソーソンとマックィーンには、多くの共通点があることを指摘している。曰く、「カリスマ性」「年齢も同じぐらい」「誰からも軽く見られることを許さない」「自分独自のルールで行動する反逆児」等々。 いずれにしてもマックィーンがこの題材に惹かれたのには、彼のキャリアも大いに関係あるだろう。若き日の彼をスターダムに押し上げるきっかけとなったTVシリーズ「拳銃無宿」の主人公ジョッシュ・ランダルは、まさに開拓時代の“賞金稼ぎ”。それから20年が経ち、現代に生きる初老の“賞金稼ぎ”を演じることを決めたわけである。こうしてマックィーンの栄光のキャリアは、奇しくも“賞金稼ぎ”で始まり、“賞金稼ぎ”で幕を下ろすこととなったのだ。 『ハンター』の監督は、当初ピーター・ハイアムズが務める予定だった。ハイアムズは『破壊!』(74)『カプリコン1』(77)『アウトランド』(86)『シカゴ・コネクション/夢みて走れ』(86)など、一級のアクション演出で知られる監督。 ところが稀代のアクションスターであると同時に、稀代のトラブルメーカーとして知られるマックィーンとは、意見がぶつかってしまった。マックィーンは打合せの席で銃をぶっ放し、ハイアムズは脚本のみを残して、敢えなく降板となった。 後を受けたのが、バズ・クーリック。本作は、実際にソーソンが遭遇した事件をベースに、脚色してアクションを加味した構成となっているが、主にTVシリーズやTVムービーの監督として活躍してきたクーリックのアクション演出の腕前は、ハイアムズに遠く及ばない。そのため本作が、激しいアクションシーンを見せ場にしながらも、些か切れ味に欠け、ヌルく見える構成になったのは、否定できない。 時は80年代の頭、間もなくシルヴェスター・スタローンやアーノルド・シュワルツェネッガーの時代が訪れる直前。60年代から70年代をリードしたアクションスター、マックィーンの遺作が、こんな形になってしまったのは、ある意味象徴的とも言える。 しかし案外、本作はマックィーン本人がそんな作りを望んだのではないかと思わせる部分も、多い。ソーソンは若い女性をパートナーにしながら、古い自動車やおもちゃをこよなく愛するという設定。これは実際のソーソンをベースにしながらも、25歳下のバーバラと暮らし、アンティーク玩具のコレクターであったマックィーンの私生活も投影されている。 そうした意味で本作に於けるソーソンと、そのパートナーであるドティーや周囲の人物とのやり取りを追っていくと、他作品ではあまり見られない、マックィーンの柔和な表情が横溢していることがわかる。こうなると、微温的でヌルく見える構成・演出が、心地よく感じられるようにもなる。 本作の撮影中マックィーンは、ロケ地のシカゴで知り合った、家庭環境に恵まれない10代の少女の保護者になったり、田舎町でのロケでは、農場の夫婦と家族のような交流をしたり。これらの心温まるエピソードは、後年バーバラが明らかにしたことだが、その一方で死の影が、彼の肉体を確実に蝕み始めてもいた。 俳優人生を通して、多くのスタントシーンを自分自身で演じてきたことに、マックィーンは誇りを持っていた。しかし本作撮影に当たっては、「スタントをするには年を取り過ぎたし金を持ち過ぎた…」と、走る高架鉄道のパンタグラフにぶら下がる有名なシーンなどに取り組むのは、スタントマンに譲った。 異変が現れたのは、逃げる犯罪者を走って追いかけるシーンを、マックィーン自らが演じた際。シーン終わりには、ぜいぜいと息を切らして、そのまま立っていられなくなった。撮影後半の数週間は、絶えず咳き込んでいる状態であったという。 79年9月から始まった本作の撮影が一段落した12月、バーバラとの約束通りマックィーンが検査を受けると、右肺に大きな腫瘍が見つかり、致死性の高いがんである“中皮腫”であることがわかった。 翌80年春には、タブロイド紙が彼の余命が僅かであることを、すっぱ抜く。マックィーンは怪しげな民間療法も含めて、がんと戦い続けた。 随時伝えられる彼の病状に、世界中のファンがヤキモキしながら生還を祈った。しかしその願いもむなしく、マックィーンは、末期がんと判明して1年も経たない11月7日に、力尽きてこの世を去ったのである。 人生の最期に彼を慰めたのは、25歳下の若妻バーバラと、晩年に改宗して熱心に信仰した、福音主義教会。彼の遺灰は太平洋へと散骨されたが、バーバラと共に、ニール・アダムス、アリ・マッグロウと、別れた妻2人も列席したという…。■ 『ハンター』TM & Copyright © 2022 by Paramount Pictures Corporation. All rights reserved.
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PROGRAM/放送作品
WANTED/ウォンテッド
伝説の賞金稼ぎの孫がテロリストを追う!ルトガー・ハウアーの魅力が光るハードボイルド・アクション
TVシリーズ『拳銃無宿』でスティーヴ・マックィーンが演じた賞金稼ぎの孫を、ルトガー・ハウアーが革ジャン姿の寡黙なアンチヒーローとして魅せる。人気バンド“KISS”のジーン・シモンズがテロリストを怪演。
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COLUMN/コラム2021.04.30
世界のクロサワ作品が大いなる“西部劇”にアレンジされるまで。『荒野の七人』
村民たちが農作業で細々と生計を立てている、メキシコの寒村。ところが収穫期になると、山賊の頭目カルヴェラが、35人もの手下を引き連れて襲来し、農民たちの汗と涙の結晶を、「殺さぬ程度に」残して、奪っていってしまう。 毎年繰り返される傍若無人な振舞いに耐えかねて、反抗を企てる村民もいた。しかしそうした者を、カルヴェラは容赦なく、撃ち殺すのだった…。 困り果てた村民たちは、長老に相談する。そして、「銃を買って、戦うべし」との声に従い、ミゲルら3人は、村民たちから集めた金を持って、国境の街へと出掛けた。 そこで彼らは、目にした。先住民の埋葬を巡って起こった騒動を、度胸とガンさばきで見事に収めた、2人の拳銃使い、クリスとヴィンの姿を。 クリスを頼れる人物と見込んだミゲルたちは、「銃の買い方と撃ち方を教えてくれ」と、彼に懇願。それに対しクリスは、「銃を買うよりは、ガンマンを雇った方が良い」と教え、結果的に自ら助っ人となった。 そんなクリスに、ヴィンも合流。しかし40名近くの盗賊に対抗するには、2人では到底足りない。 1人僅か20㌦の報酬にも拘わらず、クリスの昔馴染みやお尋ね者など、腕利きのガンマンたちが、集まった。そして最後に、先住民の埋葬騒ぎに居合わせ、クリスとヴィンに憧れを抱いた青二才の若者チコが、仲間に加わる。これで助っ人は、“7人”となった。 ミゲルたちの寒村まで案内された“7人”と、カルヴェラ率いる山賊団の、命懸けの戦いが始まる…。 *** 本作『荒野の七人』(1960)は、多くの方がご存知の通り、本邦が誇る「世界のクロサワ」こと、黒澤明監督の不朽の名作『七人の侍』(54)の、“西部劇”版リメイクである。そしてここから、スティーヴ・マックィーンやチャールズ・ブロンソン、ジェームズ・コバーン、ロバート・ヴォーンなど、次々とスターが育ったことでも、広く知られる作品である。 オリジナルの『七人の侍』が、アメリカで公開されたのは、1956年の7月。「これは西部劇の傑作になる!」と最初に目を付け、僅か250㌦で、東宝からリメイク権を買ったのは、プロデューサーのルー・モーハイムだった。 その後本作に関わる多くの人物が、モーハイムと同じような思いを抱いたが、それは至極当然のこと。黒澤が最も尊敬し、その後を追ったのは、「西部劇の神様」ジョン・フォードだったからだ。 因みに東宝はリメイク権を売るに当たって、『七人の侍』の脚本を執筆した原作者たち=黒澤、橋本忍、小国英雄の3人には、何の断りもなかったという…。 リメイクが動き始めた当初の構想では、やはり『七人の侍』を観て大いに気に入った、オスカー俳優のアンソニー・クインが主演。そしてクインに薦められて『七人の侍』を鑑賞後、夢中になって、モーハイムからリメイク権を買い取るに至ったユル・ブリンナーが、監督を務める筈だった。 当時のブリンナーは、『王様と私』(56)でアカデミー賞主演男優賞を獲得した、スター俳優。その初めての監督作になるかも知れなかった本作だが、結局彼は監督デビューを断念する。そして、後に『ハッド』(63)や『ノーマ・レイ』(79)などの社会派作品を手掛けることになる、マーティン・リットに監督を依頼した。 リットは脚本に、ウォルター・バーンスタインを起用。実は『荒野の七人』の原型は、この時にバーンスタインが書いたものと言われる。彼の名は諸事情があって、作品にクレジットされてはいないのだが。 その後リットは、このプロジェクトから去る。余談ではあるが、彼と黒澤作品の縁はこの後も続き、『羅生門』(50)をポール・ニューマン主演で、やはり“西部劇”にリメイクした、『暴行』(64)の監督を務めている。 リットと入れ替わるように、独立系のプロデューサーである、ウォルター・ミリッシュが、本作に参画。そして彼が白羽の矢を立てたのが、『OK牧場の決斗』(57)などで、“西部劇”をはじめとする“男性アクション”の担い手として評価が高かった、ジョン・スタージェスだった。 スタージェスが監督に本決まりとなり、更には製作者としてもクレジットされることとなった。そんなプロセスの中で、キャスティング作業も本格化していく。 オリジナルの『七人の侍』で志村喬が演じた、リーダーの勘兵衛に当たるクリス役には、ユル・ブリンナー。そしてスタージェスの前作『戦雲』(59)の出演者から、スティーヴ・マックィーン、チャールズ・ブロンソンが抜擢された。 マックィーンの役名は、ヴィン。オリジナルでは、加東大介が演じた勘兵衛の腹心の部下・七郎次と、稲葉義男が演じた参謀的存在の五郎兵衛をミックスした存在である。ブロンソンのオライリーは、千秋実がやった平八に当たるが、オリジナル版のムードメーカー的な存在と違って、腕が立つキャラクターとなっている。 三船敏郎の菊千代と、木村功の勝四郎を合わせた若造キャラのチコ役には、1950年代に「ドイツのジェームス・ディーン」と呼ばれて人気を博した後、ハリウッドへと進出した、ホルスト・ブッフホルツが決まる。 カウントしてもらえばわかるが、ここまでの4人で、『七人の侍』の内の6人分のキャラが、消化されてしまっている。即ち、ブラッド・デクスターが演じたハリーと、ロバート・ヴォーンが演じたリーの2人は、オリジナルの『七人の侍』には存在しない。本作『荒野の七人』のために創造された、キャラクターなのである。 七面倒な書き方になってしまったが、これはオリジナル版とそのリメイク版である本作の違いを示す上で、避けて通ることができない部分である。 因みにデクスターは、スタージェスの『ガンヒルの決斗』(59)に出演していた縁からの出演。ヴォーンは、『都会のジャングル』(59)でアカデミー賞助演男優賞候補となったことが注目されての、起用だったと言われる。 ここでヴォーンの出演を決めたことが、ジェームズ・コバーンの起用にも繋がる。ヴォーンとコバーンは、大学時代からの友人同士。コバーンは『七人の侍』のリメイク企画が進められていることを、ヴォーンから聞いて、スタージェスに連絡を取ったのである。 実は本作の製作された1960年のハリウッドは、俳優たちのストライキが予定されていた。無事にクランクインするためには、スト突入の前に、主要キャストの契約を済ませねばならない。 そのため急ピッチでキャスティングを進めている最中に、コバーンがやって来た。彼に当てられたのは、宮口精二が演じた、『七人の侍』の中で最も腕利きの、剣の達人久蔵に相当するブリット役。オリジナル版のアメリカ公開時、連日劇場に足を運ぶほどの熱烈なファンだったというコバーンは、配役を聞いて、小躍りしたという。 こうして“7人”が、遂に決まった。本作が『七人の侍』の忠実なリメイクと言われることが多い割りには、“西部劇”に翻案するに当たっては、登場するキャラクターから、様々な点で知恵を巡らしてアレンジしたのである。 そもそも最初の脚本では“7人”は、南北戦争の敗残兵という設定。オリジナル版での、戦国時代の戦乱の中で主家を失った侍=浪人者に準拠していた。リーダーも老成した勘兵衛により近いキャラで、スペンサー・トレイシーが演じるイメージだったという。 黒澤は後に、南北戦争の敗残兵の方が良かったと語っている。しかしこれは、オリジナルに忠実であって欲しいという、原作者の欲目であろう。 結果的に『荒野の七人』は、南北戦争の敗残兵ではなく、“ならず者”のガンマンの集まりとなった。各々のガンマンは、これまで少なからぬ悪行を行ってきたことを窺わせる。それがきっかけを得て、弱者である農民たちの味方となる。 これはハリウッド製西部劇の伝統とも言える、“グッド・バッド・マン”のパターンに則っている。悪い奴ではあっても、心の底に人間味を持っており、最終的には善行を施すというわけだ。 因みに『荒野の七人』が、オリジナル版から離れた原因のひとつには、メキシコロケもあった。本作に先立ってメキシコで撮影された、ロバート・アルドリッチ監督、ゲイリー・クーパー×バート・ランカスターの2大スター共演作『ベラクルス』(54)に於ける、メキシコ人の描き方に問題があったため、「アメリカ映画は来るな!」という声が高まっていた中での、ロケだったのである。 撮影現場には、メキシコ政府から派遣された検閲官が同席。脚本がチェックされ、何度も手直しせざるを得なかった。 オリジナル版で農民たちは、野武士の襲来を撃退するのに、端から浪人者を用心棒として雇うことを目的に、町へと出る。しかし、先に記した通り本作では、「銃を買って、戦う」ために、農民は街に出る。クリスのアドバイスを受けて初めて、ガンマンたちを雇うことを決心するのである。 こうした回りくどい展開になったのは、正にメキシコ政府の横槍に応じた結果である。付け加えれば、農作業に勤しむ村民たちが、その割りには、汚れひとつないような真っ白なシャツを着ているのも、検閲官の指示によるものだったという。 随所に施した“西部劇”仕様に加えて、本作はこのような、当初は想定しなかった改変も加えられている。そして上映時間は、オリジナル版の207分という長尺に対して、その6割ほどの128分。 “7人”と野武士の対決に於いて、オリジナル版では、緻密な作戦計画が段階的に実行されていく。それに対して本作は、山賊との対決が、かなりシンプル且つ直線的に描かれる。 あまりに機能的に事を運び過ぎるため、ちょっと納得し難い展開もある。優勢に立ったカルヴェラが、“7人”の命を奪わずに、わざわざ逃がす際に、銃器まで返す。これは、ご愛嬌で済ますべきなのか? 今どきの言い方では、あからさまな「死亡フラグ」である。 戦いの顛末として、“7人”の内4人までが斃れるのは、オリジナル版と同じ。だが長丁場となった対決の中で、1人また1人と命を落としていくオリジナル版に対し、本作では最終決戦で、4人の命が一気に奪われる。とにかく、簡潔且つスピーディなのだ。 ここで、敢えて言いたい! だからこそ本作は、ワールドワイドに大衆的な人気を得たのではないだろうか? 私が本作を初めて観たのは、今から40年以上前の十代前半=中坊の頃。池袋文芸坐で、本作後にスタージェスが、マックィーン、ブロンソン、コバーンを再度起用した、『大脱走』(63)との2本立てだった。 そして『七人の侍』の何度目かのリバイバル上映を観たのは、それよりも後。正直に言えばその時は、オリジナル版の重さや暗さ、そして長さにノレず、「『荒野の七人』の方が面白い」と思ったのである。 その後何度も鑑賞を繰り返す内に、社会的なテーマや哲学的な深みまで持った『七人の侍』の素晴らしさを、「格別のもの」と感じるようになっていく。しかしながら両作初見の際に、当時の映画少年として感じたことは、必ずしも間違ってはいまい。 何はともあれ、『七人の侍』から本作『荒野の七人』が受け継いだ、野盗の略奪に苦しむ農民を救うために、プロフェッショナルが集結して力を尽くすというプロットは、ハリウッドの黄金期を支えたジャンルのひとつ“西部劇”に、新風を巻き起こすこととなる。 ガンマンに、「家族も、子どもも、帰る家もない」などと嘆かせ、そのキャラに陰影を持たせる。これもまた、それまでの“西部劇”とは一味違った、極めて斬新なアプローチだったと言われる。 そして本作は、ジョン・フォードらが作った、大いなる“西部劇”の時代の終末期の作品となった。4年後には、セルジオ・レオーネ監督による、イタリア製西部劇=マカロニ・ウエスタンの『荒野の用心棒』(64)が登場。“西部劇”の歴史は塗り替えられる。 『荒野の用心棒』は、やはり黒澤明監督の『用心棒』(61)のリメイク。…と言っても、無断でパクった作品であり、後に裁判を経て、公式なリメイクとなったのであるが。『荒野の用心棒』の主演は、クリント・イーストウッドに決まる前、有力候補だったのが、チャールズ・ブロンソン。レオーネが、本作のオライリー役を見ての、オファーだった。 そんなこんなも含めて、『荒野の用心棒』が本作の影響下にあったのは、多くが指摘するところである。付記すればレオーネは、『続・夕陽のガンマン/地獄の決斗』(66)に、本作でカルヴェラを演じたイーライ・ウォラックを起用。これもウォラックが、オリジナル版の野武士の頭目にはなかったユーモアや愛嬌を、カルヴェラ役に加えたのを、買ってのことだったと思われる。 『荒野の七人』は、ハリウッド製の大いなる“西部劇”と“マカロニ・ウエスタン”の、ミッシングリンク的な位置にある作品と言える。そして後々まで、多くのファンに愛され続ける作品となった。 続編が3本製作され、1990年代末にはTVシリーズ化。更にアントワン・フークア監督、デンゼル・ワシントン主演で、リメイク版『マグニフィセント・セブン』(2016)が製作されている。 それは偉大なる『七人の侍』に、“西部劇”としての創意工夫を加えて見事にアレンジした、本作『荒野の七人』の素晴らしさの証左と言えよう。■ 『荒野の七人』© 1960 METRO-GOLDWYN-MAYER STUDIOS INC.. 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PROGRAM/放送作品
トーマス・クラウン・アフェアー
伊達男ピアース・ブロスナンのハマリ役!大泥棒でもある富豪と美人調査員の華麗な駆け引きを描くサスペンス
1968年作『華麗なる賭け』をリメイク。オリジナルでスティーヴ・マックィーンが演じた美術品泥棒の富豪を、ピアース・ブロスナンがスタイリッシュに好演。オリジナル版のヒロイン役フェイ・ダナウェイも出演。
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COLUMN/コラム2021.04.07
血まみれサムとマックィーンの黄金時代『ゲッタウェイ』
本作『ゲッタウェイ』(1972)の監督は、サム・ペキンパー。その異名“血まみれサム”は、多くの方がご存知の通り、彼の作品の特徴である、血飛沫飛び散るヴァイオレンス描写に由来するものである。 しかし“血まみれ”なのは、撮影現場やスクリーン上だけの話ではなかった。ペキンパーは常に、製作会社やプロデューサーと、血で血を洗う戦いを繰り広げていた。その戦いについて、彼は本作が製作・公開された年のインタビューで、こんな風に語っている。「西部のガンマンの対決なんか、製作費の問題での対決にくらべれば屁みたいなものさ。俺はいつもケチなプロデューサーを相手に、嘘をつき、ゴマ化し、チョロマカす。でもこれまで大方、この闘いは負けだった。いつも、プロデューサーとケンカして、クビさ。じっさい、この世界には、寄生虫やハイエナがウヨウヨだ。殺されるなんてものじゃない。生きたまま食われちまうんだぜ」 そんな血みどろの戦いの中で、“血まみれサム”は自らのスタッフをも、次々と血祭りに上げたことでも、知られる…。 ドン・シーゲル門下ということでは、現代の巨匠クリント・イーストウッドの兄弟子に当たる、ペキンパー。1925年生まれの彼が、TVドラマの西部劇シリーズなどを経て、映画監督としてのスタートを切ったのは、齢にして30代中盤だった。 デビュー作は、『荒野のガンマン』(60)。それに続く『昼下がりの決斗』(61)では、興行的な成果こそ得られなかったものの、新しい時代の西部劇の担い手として、注目されるに至った。 そしてこの作品では、フィルムを大量に回し、膨大なそのすべてを把握して編集するという、彼一流の手法が、確立した。ペキンパー組の常連俳優だったL・Q・ジョーンズ曰く、「脚本を壊し、全てを断片にし、それから組み合わせる」やり方である。 続いて手掛けたのが、『ダンディー少佐』(65)。主演のチャールトン・ヘストンが、『昼下がりの決斗』に感銘を受けたのが、ペキンパー起用の決め手となった作品だ。 しかし『ダンディー少佐』は、ペキンパーに悪名を与える、決定打となった。いわく、「予算もスケジュールも守らない」「スタッフに過大な要求をし、出来なければ情け容赦なくクビにする」「大酒飲みのトラブルメーカー」といった具合に。 製作したコロムビアと大揉めに揉めたこの作品では、ペキンパーは最終的に編集権を奪われる。そして彼が編集したものより、大幅に短縮された作品が、公開されるに至った。 このパターンは、その後のペキンパー作品について回る。しかしそれ以前の段階としてペキンパーは、『ダンディー少佐』から4年以上の間、干されることとなった。 雌伏の時を経て、ペキンパーが69年に放ったのが、代表作『ワイルドバンチ』である。この作品でペキンパーは、彼の代名詞とも言える、銃撃戦などアクションを“スローモーション”で捉える手法を、初めて用いた。これが、「デス・バレエ=死の舞踏」などと評され、正にペキンパーの「血の美学」が、世界中にセンセーションを巻き起こしたのである。 後に続くフィルムメーカーたちに多大な影響を与え、映画史に残るマスターピースとなった『ワイルドバンチ』。しかしこの作品も、ペキンパー作品の辿る悪しきパターンから、逃れられなかった。 ペキンパーが当初完成させたバージョンは、2時間24分だったが、公開後興行成績が思ったほど伸びなかったため、製作元のワーナーはペキンパーに無断で、フラッシュバックなどをカット。2時間12分版を作って、全米の劇場に掛けたのである。 それはともかく、『ワイルドバンチ』で悪名以上の勇名を得たペキンパーは、続けて「恐らく私のベストフィルム」と胸を張る、『ケーブル・ホーグのバラード』(70)(日本初公開時のタイトルは『砂漠の流れ者』)を完成。更にダスティン・ホフマンを主演に迎え、イギリスで撮影した初の現代劇『わらの犬』(71)では、その暴力描写が、賛否両論の嵐となった。 キャリア的には正にピークを迎えんとするタイミングで、ペキンパーは、当時名実と共にNo.1アクションスターだった、スティーヴ・マックィーンと組むことになる。その作品は西部を舞台に、ロデオの選手を主人公にした現代劇、『ジュニア・ボナー 華麗なる挑戦』(72)。ペキンパーのフィルモグラフィーでは、銃撃と死体の登場しない、唯一の作品である。 実はペキンパーはこの作品以前に、マックィーンとの邂逅があった。それはマックィーンがポーカーの名手を演じた、『シンシナティ・キッド』(65)である。時期的には『ダンディー少佐』で、悪名を轟かせた直後。そしてペキンパーは、『シンシナティ・キッド』の撮影開始から1週間足らずで、監督をクビになったのである。 この時マックィーンは、ペキンパーの解雇に同意したという経緯があった。『ジュニア・ボナー』で、そんなペキンパーとの因縁の組み合わせが決まった時のことを、後にマックィーンはこう思い起こしている。「俺はいつも完璧主義者だから、多くの人の頭痛の種だったし、サムも悪評高かった。彼と俺で、大したコンビさ。スタジオ側は頭痛薬をたっぷり用意してたと思うよ」 いざ『ジュニア・ボナー』の撮影が始まると、2人の間には最初こそ緊張感が生じたものの、次第に解消していったという。マックィーンが頻繁に自分の登場シーンを書き換えることで、対立などもあったが、両者の関係は概ね良好だった。 ペキンパーはマックィーンについて、「…奴のことを好きな人間はあまりいないみたいだが、私は好きだね」と語っている。一方でマックィーンは、「サム・ペキンパーは傑出した映画作家だ…」と、リスペクトを表明している。『ジュニア・ボナー』は、評判の高さに比して、興行は期待外れに終わった。しかしマックィーン×ペキンパーの両雄は、続けて組むこととなる。 それが、本作『ゲッタウェイ』である。 ジム・トンプソンの犯罪小説を映画化するというこの企画は、『ローズマリーの赤ちゃん』(68)『ゴッドファーザー』(72)などのヒット作を手掛けた、パラマウントのプロデューサー、ロバート・エヴァンスがスタートさせた。ペキンパーに監督させるというプロジェクトだったのだが、不調に終わり、一旦ご破算になった。 続いてパラマウントの別のプロデューサーが、マックィーン主演作として企画を進めることとなったが、それも頓挫。マックィーンは、ポール・ニューマンやシドニー・ポワチエ、バーブラ・ストライサンドらと設立した製作会社ファースト・アーティストの第1回作品として、本作の製作を決める。 脚本は、原作者のトンプソン自らが手掛けたが、マックィーンがその内容を気に入らず、没に。当時新進の脚本家だった、ウォルター・ヒルが担当することとなった。 マックィーンが、監督の第一候補と考えていたのは、ピーター・ボグダノヴィッチ。当時『ラスト・ショー』(71)で高い評価を得ていた、新進気鋭の若手監督だった。しかしスケジュールの問題などで、実現せず。 そこで白羽の矢が立てられたのが、ペキンパーだった。彼にとっては、元より興味があった企画の上、次なる監督作として取り組んでいた『大いなる勇者』『北国の帝王』などが、諸事情によって、他の監督の手に渡ってしまったタイミング。そこで『ジュニア・ボナー』に続けて、マックィーンと組むこととなった。 テキサスの刑務所に、銀行強盗の罪で服役していた男が、10年の刑期を半分も務めることなく、4年で仮釈放となった。男の名は、ドク・マッコイ(演:スティーヴ・マックィーン)。迎えに来た妻キャロル(演:アリ・マッグロー)と、4年振りの熱い夜を過ごす。 ドクの早すぎる仮釈放は、地方政界の実力者ベニヨン(演:ベン・ジョンソン)との裏取引によるもの。出所と引き換えに、田舎町の小さな銀行を襲って、その分け前をベニヨンに納めるという約束だった。 ベニヨンはドクに、銀行強盗の仲間として、ルディ(演:アル・レッティエリ)、ジャクソン(演:ボー・ジャクソン)という2人を引き合わせる。綿密な計画が立てられ、キャロルを含めて4人での、決行の日がやってくる。 すべてがスムースにいくと思われたが、青二才のジャクソンが、銀行の守衛を射殺したことから、全ての歯車が狂い出す。ドクとキャロル、ルディとジャクソンの二手に分かれて逃走を図るも、ルディはジャクソンを突然射殺。集合場所でドクも撃ち殺して、金を独り占めしようと図るが、気配を察したドクに、逆に撃ち倒される。 ドクは黒幕のベニヨンの元に、取り引きに行く。ベニヨンは、今回の銀行強盗の裏事情を明かし、ドクを釈放させた背景に、キャロルとの情事があることを仄めかす。ショックを受けるドクの背後に、突然キャロルが現れた。そしてベニヨンに、銃弾をぶち込む。 互いに傷つき、その絆が揺らぎながらも、逃避行を続けるドクとキャロルの夫婦に、次々とアクシデントが襲い掛かる。更にはベニヨンの手下たち、そしてドクに撃たれながらも、生きながらえていたルディが、追っ手となって迫る。 ドクとキャロル、犯罪者の夫婦が大金を手にしたまま国境越えを目指す、“ゲッタウェイ”逃走劇は、果して成功するのか!? キャロル役のアリ・マッグローは、白血病のヒロインを演じて観客の涙を絞った『ある愛の詩』(70)が、大ヒットして間もない頃。私生活では、本作を当初プロデュースする予定だったロバート・エヴァンスと、結婚生活を送っていた。本作のヒロインにキャスティングされたのも、その流れからと思われる。 ところが『ゲッタウェイ』の撮影中、マッグローは、前妻と15年の結婚生活にピリオドを打ったばかりのマックィーンと、恋に落ちてしまう。結局マックィーンによる略奪婚という形で、マッグローはエヴァンスと別れ、撮影終了後に2人は夫婦となった。 72年2月にクランクインした本作は、そんなスキャンダラスな話題も交えながら、順撮り、即ち物語の進行の順番通りに、撮影を進めていった。そして5月には、クランクアップ。予算的にもスケジュール的にも、ペキンパー作品としては大過ない、進行と言えた。 しかしポストプロダクションで、トラブる。ペキンパーは、『ワイルドバンチ』『わらの犬』に続いて、音楽をジェリー・フィールディングに依頼するも、完成したスコアは、マックィーンの意向で、すべて差し替え。画面を彩ったのは、クインシー・ジョーンズのジャズっぽいスコアとなった。 更にマックィーンは、最終編集権をペキンパーには渡さずに、作品を完成させた。アクション映画の諷刺を目指して本作に挑んだというペキンパーは、完成版を目にした時に、「これは俺の映画じゃない!」と、叫んだと伝えられる。 本作の次に撮った『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』(73)では、MGMの判断で勝手に編集が行われた際、ペキンパーはその経営者に、メキシコから殺し屋を差し向けようとまで思い詰めたという。それでは本作のマックィーンに対しての怒りは、どんな形で発露されたのか? 意外や意外、2人の友情は、その後も続いたという。それは一体、なぜだろうか? 一見、いつもの悪しきパターンにはまり込んだかのような『ゲッタウェイ』だったが、興行の結果が他のペキンパー作品とは、大きく違った。彼のフィルモグラフィーに於いて、最大のヒット作となったのである。 ペキンパーは、興収から多額の歩合も貰える契約を、マックィーンと結んでいた。これでは、矛を収める他はなかったのかも知れない。 だが、そんな裏事情を敢えて無視して、本作を眺めてみよう!すると、ごく単純化されたストーリーラインの中で、至極楽しめる極上の娯楽作品となっていることが、わかる。 公開時は、42才。ノースタントのアクションスターとして、まさに脂が乗り切っていた、マックィーンの身のこなし。そして、銃器の扱いに関しては、右に出る者がないと言われた彼が魅せる、ガンアクション。 ペキンパーは、47才。お得意の“スローモーション”を駆使した、ヴァイオレンスシーンの演出に磨きがかかり、観る者の度肝を抜く。 本作では、そんな両者の技能が、まさに融合。“映画的瞬間”を、作り出しているのである。 そして2021年の我々は、知っている。1972年にピークを迎えた、2人のその後の運命を。 マックィーンはこの後、たった8年しか生きられず、50歳でこの世を去ってしまう。ペキンパーの余命も、あと12年。60才を迎える前に、彼の心臓は止まってしまう。 そんな彼らが全盛期に手を組んで、輝きを放つ、『ゲッタウェイ』。今こそ感慨を新たに、フィルムに焼き付けられた、2人の“黄金時代”を、凝視したい。■ 『ゲッタウェイ』© Warner Bros. Entertainment Inc.