フランス・ベルサイユ生まれの、ミシェル・ゴンドリー。美術学校の仲間と結成したロックバンドのPVを自ら手掛けたのを、アイスランドが生んだ歌姫ビョークに見初められたのが、世に出るきっかけとなった。
 ビョークとのコラボに続き、ローリング・ストーンズ、ベック、ケミカル・ブラザース、カイリー・ミノーグ、レディオヘッド等々の有名アーティストのPVを次々と手掛けた。やがてCMディレクターとしても、名を馳せるようになる。
 1998年、30代中盤となったゴンドリーは、当時付き合っていた女性に対し、ほとほと嫌気がさしていた。そしてボヤいた。
「もし彼女の記憶を消せたらなぁ~」
 本作『エターナル・サンシャイン』(2004)は、ゴンドリーのそんな愚痴が元となって,スタートした企画だった。
 このアイディアを脚本にしてくれる書き手を探すと、面白がってくれる者は多かったが、皆が皆“SFサスペンス”にしようと持ち掛けてくる。思考回路が「ずっと12才のまま」と自称するゴンドリーは、そのようなありきたりのアイディアには、ノレなかった。
 そんな折りに出会ったのが、チャーリー・カウフマン。実在の俳優ジョン・マルコヴィッチの頭の中に入れる不思議な穴を巡って展開する奇想天外な物語、スパイク・ジョーンズ監督の『マルコヴィッチの穴』(99)でブレイクした脚本家である。
 カウフマンの提案は、「男女の関係についての話にしたい」というもの。ゴンドリーは、「それだ!」と思った。そして、2人の共同作業が始まった。

 

 本作で長編映画監督としてのキャリアをスタートするつもりだったゴンドリーだが、それは一旦お預けになる。先に撮ってデビュー作となったのは、『ヒューマンネイチュア』(2001)。カウフマンが、本作から一旦逃亡した際に、手打ちとして差し出した脚本だったという。
 紆余曲折がありながらも、ゴンドリーとカウフマンの協同は続いた。2人は、人間の脳や記憶について研究を重ねた。
 記憶はどんどん変質し、しかも時間通りに整然と連続したものではなくなっていく。ある記憶の断片が、全然関係ない時の記憶とつながったり、混ざったりする。記憶は事実の記録などではなく、事実に対するその人の解釈の記録と言える。
 恋愛がうまくいかなくなった時や失敗に終わった時、こんな辛いことは忘れてしまいたいと、多くの者が思う。しかし後になってから思い返すと、その恋の記憶は、「大切な宝物」になっている。
 そうしたことを、どうやって映像化するか?
 因みに本作の原題は、『Eternal Sunshine of the Spotless Mind』。「一点の汚れもなき心の永遠の陽光」という意味である。本編にも登場する、18世紀のイギリス詩人アレクサンダー・ポーブの恋愛書簡詩「エロイーズからアベラールへ」からの引用ということだが、カウフマン曰く、「…一発で覚えにくいから面白い…」と思って、このタイトルにしたという。

 こうして作られた脚本は、キャスティングが始まる前から、オフィシャルではない草稿が出回ってしまい、多くの業界関係者が目にすることとなった。そんな中の1人に、ジム・キャリーが居た。
 当時のキャリーは、主演作は大ヒットが確約されているような存在で、1本の出演料が20億円にも上るようなスーパースター。そんな彼から、本作のプロデューサーに電話が掛かってきた。低予算の本作に、ただ同然のギャラでも「出たい」ということだった。
 ミシェル・ゴンドリーはこの知らせに、興奮してから、すぐ心配になった。本作の主人公であるジョエルは、恋人に「退屈」と言われてしまうほど、地味な性格。『マスク』(94)や『ジム・キャリーはMr.ダマー』(94)、『グリンチ』(2000)等々、スクリーン上でエキセントリックに躍るキャリーとは、どう考えても正反対のキャラクターだったのだ。
 ゴンドリーらは、キャリーの主演作『ブルース・オールマイティ』(03)の撮影現場を訪ねた。いつものように、オーバーな演技をしていたキャリーだったが、本番の合間に素に戻ると。ごく普通の男だった。カウフマンは、「…彼の中にもジョエル的なものがあった」と感じたという…。

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 恋人たちの日“バレンタインデー”直前、ジョエル(演:ジム・キャリー)は、喧嘩別れしてしまったクレメンタイン(演:ケイト・ウィンスレット)と仲直りしようと思い、彼女の勤務先の書店に出向く。しかし彼女は、ジョエルをまるで会ったことなどない者のように対応し、現れた若い男とイチャつく。
 ショックを受けた彼に、友人が手紙を見せる。その文面は、「クレメンタインはジョエルの記憶をすべて消し去りました。今後、彼女の過去について絶対触れないようにお願いします」というもの。
 ジョエルは、クレメンタインが記憶消去の施術を受けたラクーナ社を訪ねてみる。そして彼も、ハワード・ミュージワック博士(演:トム・ウィルキンソン)が開発した、記憶消去の手術を受けることを決める。
 ジョエルが自宅で一晩寝ている間に、訪れたラクーナ社のスタッフたち(マーク・ラファロ、イライジャ・ウッド、キルスティン・ダンスト)が、現在から過去へと記憶を消していく。
 しかし逆回転で、クレメンタインとの交際期間を振り返っていく内に、ジョエルは忘れたくない、楽しかった時間の存在に気付き、眠りながらも手術を止めたいと、夢の中で必死に逃げ回る。
 抵抗虚しく、結局手術は無事に終了。目覚めたバレンタインデーの朝、ジョエルはクレメンタインの記憶を、すべて失っていたのだが…。

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 ほとんどの映画は、主人公の男女が愛し合っていることを確認したら、そこで終わってしまう。しかし実際は、「長く付き合えば、相手の嫌な面も色々見えてくる」。ジム・キャリーが本作の脚本に惹かれたのは、まさにそこだった。本作は他の映画が見せない、「そこから先を」描いているというわけだ。
 本作の脚本を書く際に、カウフマンは時間軸に沿ったジョエルの記憶の地図を作って、居場所を確認しながら書いていった。この記憶の地図は、ゴンドリーがジム・キャリーに、いま演じているのは、ジョエルの記憶のどの部分なのかを説明する際にも、役立った。
 相手役のクレメンタインは、ケイト・ウィンスレット。イギリス生まれで古風な顔立ちの彼女は、『タイタニック』(97)のヒロインをはじめ、“コルセット・クイーン”的な、古風な英国女性を多く演じてきた。
 ところが本作では、エキセントリックさを持ったニューヨーク娘。いつもはジム・キャリーがやっているような役とも言える。
 ウィンスレットがゴンドリーに、どの作品を観て、自分にオファーしたのかを問うた。ゴンドリーは、「うーん、わからないけど、君はラブリーでクレイジーだから、君に出来ると感じたんだよね」と答えたという。
 因みにクレメンタインは、気分によって髪の色を変えてしまうという設定。撮影は、時制的に順撮りというわけにはいかなかったので、ウィンスレットは、午前は赤い髪、午後は青い髪といった風に、カツラを変えて演じることとなった。
 脇を固めたのは、ベテランのトム・ウィルキンソンに、若手のイライジャ・ウッド、キルスティン・ダンスト、マーク・ラファロといった面々。プロデューサーのスティーヴ・ゴリンによると、「金のためにこの仕事を引き受けた者はいなかった…」という。

 いよいよ撮影本番が近づいてくると、ミシェル・ゴンドリーが感じるプレッシャーやストレスは、ただならぬものになっていた。「この映画に集まってくれたキャスト、スタッフの興味が、僕という人間よりもチャーリー・カウフマンの脚本の方に向けられていたのは痛いほどわかっていた…」からだ。実際にケイト・ウィンスレットも、「チャーリー・カウフマンが書いた脚本だ、なんて言われたら、誰だって読む前に出演を決めるんじゃないかしら」などとコメントしている。
 ゴンドリーが「ちょっとした屈辱」を覚えながらも、2003年1月に、本作はクランク・イン。4月までの3ヶ月間、主にニューヨーク市で撮影が行われた。いざカメラが回り始めると、ゴンドリーへの皆のリクアションは、早々に変化が見られるようになった。
 キャリーやウィンスレットが、友人や家族などに電話して、すごいシーンを撮ってるから見に来いよと誘っている姿を目の当たりにして、ゴンドリーはホッと胸を撫で下ろした。ラファロやダンスト、イライジャ・ウッドも、「キャンプに集う悪ガキ」のように、大はしゃぎで撮影に臨んでいたという。
 ゴンドリーの演出法は、独特だった。他の監督たちのように、「スタート」でカメラを回し、「カット」で止めるというわけではない。本番もリハーサルもなく、ずっとカメラを回し続けるのである。
 トム・ウィルキンソンはカメラの動きがまったく掴めないことに当初戸惑いながらも、この演出法が気に入った。彼の経験上、最上の演技は、「…リハーサルの間に起こることが多い」からである。ゴンドリー式ならば、これまでは往々にしてあった、「何で今カメラが回っていなかったんだ」と、悔やむことが避けられる。
 ジム・キャリーは撮影が始まると、どんどんアドリブを加えて面白くしようとする、いつもの癖が出てしまい、ゴンドリーを困らせた。そうした演技をやめさせるために、芝居をしている時には撮影をせず、逆に変な演出をして、キャリーが「それは違うだろう」と素に戻った時にカメラを回した。キャリーはそれを嫌がったが、撮ったフィルムを見せて、ゴンドリーが「この自然さがほしい…」と伝えると、納得したという。
 ゴンドリーがキャリーに求めたのは、ジョエルを演じることではなく、素のジム・キャリー自身になることだった。キャリーは、過去の恋愛の失敗を告白させられ、それらがセリフに取り入れられた。
 キャリーはその時点で2回の離婚を経験し、直近ではレニー・ゼルウィガーとの破局を経験している。そんな彼にとって本作の撮影は、「カサブタをはがすようなもの…」となった。
 ゴンドリーはこうした形で、「いつものジム・キャリー」が出てこないような演出を行った。逆にウィンスレットに対しては、「もっとガンガンやっていいよ」と、煽ったという。

 ゴンドリー演出のもう一つの特徴は、極力VFXを避けて、手作りにこだわること。ジョエルが幼児期の記憶に退行していく中で、子どものジム・キャリーと大人の大きさのケイト・ウィンスレットが話すシーンがある。ここでは合成は一切使わず、遠くに行くほど物を大きくしたセットを作って、遠近感を狂わせるというローテクを駆使している。
 ジョエルがラクーナ社で、診察室に座ったもうひとりの自分を見るシーン。これはカメラがパンしている間に、ジム・キャリーが全速力でカメラの後ろを回って、その間に衣装を変えて椅子に座るという手法で、撮影した。
 ジョエルが、キッチンのシンクでママに身体を洗ってもらった記憶に逃げ込むシーンでも、CGや合成は一切使っていない。大きなシンクを作り、巨大なジョエルのママの腕の作り物を入れて、カメラを回した。
 臨機応変なのも、ゴンドリー流。撮影中、街に偶然サーカスのパレードがやって来た時は、その場で主演の2人を連れて、撮りに行くことを決めた。
 そのパレードを2人で見ている間に、クレメンタインが姿を消して、ジョエルが探し回るくだりがある。これはゴンドリーがその場でこっそり、ウィンスレットに耳打ち。キャリーが見てない隙に、姿を消させた。我々は本作で、ジム・キャリーがガチでウィンスレットを探してる様を、目の当たりにするのである。
 撮影は時期的に、極寒のニューヨークで行われ、夜間シーンも多かった。スタッフ、キャストは大変な思いをしたが、ゴンドリーにとっては、ただただラッキーだった。
 元々の脚本には、雪が沢山出てくるのだが、その作り物をするとお金がかかり過ぎる上、不自然に見えるので、泣く泣くカットしていた。ところが撮影を始めると、ずっと雪が続いた。ゴンドリーはそれを、最大限に活用。チャールズ川でのシーンなど、キャストが話す度に白い息が出るのが、映画をリアルにする手助けとなった。
 このようにして撮影された本作は、2004年3月にアメリカで公開。2,000万㌦の製作費に対して、7,000万㌦以上の興行収入を上げるクリーンヒットとなった。またアカデミー賞では、カウフマンやゴンドリーらに、脚本賞の栄誉をもたらした。
 ジム・キャリーにとってこの作品は、「かつて僕が愛した人たちへのラブレター」となった。

 

 これからご覧になる方々へ、“ラストシーン”に関して、本作の作り手たちの言葉を以て〆としたい。
 チャーリー・カウフマン曰く、「この映画がハッピーエンドなのかどうか、それを決めるのは観客だ。映画館を出た後、話し合って欲しいんだ」
 一方ミシェル・ゴンドリーは、「…男と女の別れや出会いを決定付けるのは、運命よりも、取るに足りないほんの小さな些細な出来事だったりする。なんでもない瞬間の数々が、男と女の未来に影響を与えていく…」それが見せたかったのだという…。■

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