◆火星着陸を捏造した、政府陰謀サスペンスの誕生
1970年代は「現実」が揺れ動いた時代だった。ベトナム戦争の長期化、そしてウォーターゲート事件によって、国家の語る真実そのものへの不信がアメリカ社会に深く浸透していったのだ。さらにテレビというメディアの普及は、世界を即時に共有する利便性と引き換えに、「映像として提示されたもの=現実」という認識の危うさをも拡張していく。
こうした状況下で生まれた映画『カプリコン・1』は、「現実とは何か」という問いをサスペンス・スリラーの形式で提示した作品だ。 このイギリス資本によるアメリカ映画は、火星着陸を目指す宇宙船「カプリコン1号」が生命維持装置の故障により、乗組員を降ろし無人で飛び立つ不測の事故から始まる。しかし政府は国民の宇宙開発への関心離れを恐れ、当初の目的を別な形で遂げようとする。それは避難した乗組員を撮影スタジオに送り込み、火星着陸をねつ造しようともくろんだのだ。
本作を監督したピーター・ハイアムズは、アメリカ大手ネットワークCBSに所属していたとき、アポロ11号の宇宙撮影を扱った自局の報道番組で、ニューヨークのスタジオからミズーリ州セントルイスで行われていた航行シミュレーションへと映像が切り替わる場面に着目した。そこで「実際に月へ行かなくても、スタジオとカメラの切り替えだけで訪れたように見せることができるのではないか」と着想を得たという。この発想こそが『カプリコン・1』の原点であり、ハイアムズは「映像は現実を容易に偽装しうる」というメディア的直観を物語の根幹に置いたのである。

しかし本作は陰謀論を肯定しているわけではなく、なぜ人はそれを信じてしまうのかという心理と社会構造を可視化している。政府が火星着陸の捏造に踏み切る動機は悪意ではなく、「国民の期待を裏切ることはできない」という政治的な要請にある。虚構は権力の逸脱というよりも、現実を維持するためのものとして導入される。この構造は皮肉でありながらも、きわめて現実的だ。
こうした取り組みと視点は、ハイアムズの出自と密接に結びついている。CBSのドキュメンタリーディレクターとして出発した彼は、「事実を記録する」行為に潜む演出性や恣意性を熟知していた。自身の劇場長編デビュー作『破壊!』(1974)が示すように、彼は徹底したリサーチを基盤に、現実から物語を作り上げていく作家である。ゆえに彼の関心は「虚構」そのものではなく、現実と虚構の「境界」に向けられている。
そうした資質は『カプリコン・1』において、巧みな二重構造として結実する。スタジオ内で作られる“偽の火星”という露骨な虚構と、それを真実として流通させる、国家とメディアのシステム。観客はその両方を同時に目撃することで、「どこからが現実なのか」という感覚を揺さぶられるのである。
◆新聞記者を演じるエリオット・グールド(右)
さらに本作は、ジャーナリスト(エリオット・グールド演じる新聞記者コールフィールド)という対抗者を配置することで、構図をより複雑にする。彼は陰謀を暴こうとするが、それ自体もまた、現実を再構成する行為にほかならない。ここでは国家もメディアも等しく「現実を編集するもの」として描かれ、単純な権力批判を超え「真実とは誰が構築するのか」という疑問が浮かび上がっていく。
『カプリコン・1』は、アポロ計画陰謀論という俗的なモチーフを足場としながら、それを越境し「現実のフィクション性」を暴き出す地点へと踏み込んでいる。同時にそれは1970年代という時代精神を映し出す鏡でもあった。そしてこの「現実を疑う視線」こそが、後のハイアムズ作品に通底する核となっていく。
◆ハイアムズ的リアリズムの形成
ピーター・ハイアムズはしばしば「職人監督」と評される。しかしその呼称は、彼の本質を捉えきれていない。ハイアムズの出発点にあるのは、徹底した現実志向と、それを映像として再構築しようとする強い意志である。その資質が最も純粋に現れているのが、長編デビュー作『破壊!』だ。
本作において特に注目すべきは、徹底したリサーチ主義である。彼は脚本執筆に際し各地を巡り、警官や娼婦など現場の人間に直接取材を重ねた。物語はあらかじめ用意された枠組みに現実を当てはめるのではなく、現実の断片から組み上げていくのだという認識が、ここにはある。
この姿勢は当時の「実録性」志向と共鳴しつつも、『破壊!』を単なる同時代的に作品にとどめることはない。決定的なのは「現実をどう撮るか」という映像レベルの問いに踏み込んでいる点だろう。
その象徴が撮影手法だ。当時主流だった軽量カメラではなく、あえて重いパナビジョン系カメラを用いることで、機動性と引き換えに画の厚みを獲得した。ハイアムズがここで目指したのは現実の記録ではなく、「映画としての現実」の定着といえるだろう。実用光を活かしフィルライトを抑えたライティングは、コントラストの強い不安定な視界を生み出す。それは見やすさよりも、現実の不透明さをそのまま視覚化する試みといえる。この「見えすぎない映像」こそが、ハイアムズの作家性の核心である。均質に整えられた画面がもたらす安心感に対し、彼の映像は情報の欠落を含み、観客に解釈を委ねる。
このアプローチは『カプリコン・1』へと直結する。スタジオで再現された火星は整いすぎているがゆえに虚構性を露呈し、対照的に現実空間は荒々しく予測不能なものとして描かれる。そこには『破壊!』で確立された、現実のざらつきを捉える視線が明確に息づいている。
ハイアムズにとって映像とは記録でも演出でもなく、「現実をどう知覚するか」という問題そのものだ。リサーチと撮影の往復のなかで生じる歪みこそが、彼の映画に独特の緊張感をもたらす。『破壊!』が「現実をどう撮るか」を提示した作品であるならば、『カプリコン・1』はそれを「現実とは何か」という問いへと拡張した作品と解釈できる。この連続性において、常にシネマトグラファーを兼任し、現実と映像の関係を一貫して問い続ける、作家としての性質が屹立するのだ。

◆過小評価されてきた作家の輪郭
ハイアムズのフィルモグラフィはジャンル横断的であり、その多様さが作家性の把握を難しくしてきた。結果として「器用だが個性に乏しい職人」という評価に回収されがちである。しかしそれは、彼の映画が内包する問題意識を見落とした見方にすぎない。
たとえば『2010年』(1984)において彼は、『2001年宇宙の旅』(1968)の神話性に対し、「観測可能な現実」として宇宙を再構築することで応答した。その抑制された光の設計は、『破壊!』以来の方法論の延長にある。そもそも宇宙開発という題材においても、彼の関心は偉業の再現ではなく、「それをいかに認識するか」にある。『カプリコン・1』はその極点に位置し、現実が計画的に構築されうることを暴き出す。
この問題意識はジャンルを問わず持続する。『アウトランド』(1981)においても、舞台が宇宙であっても描かれるのは監視と権力の構造であり、その本質は地上的である。環境が変わっても、人間の現実認識の枠組みは変わらないという視線が一貫している。

ではなぜ、ハイアムズは過小評価されてきたのか。その一因は、作品があまりにも「よく出来ている」点にある。娯楽として成立しているがゆえに、その背後にある思考が見えにくいのだ。そしてもう一つは、彼が過剰に語らない作家であることだろう。テーマは明示されるのではなく、映像と状況の配置のなかに深く埋め込まれる。そのため作品は一見してニュートラルに見えるが、実際には鋭い問いを内包している。
『破壊!』と『カプリコン・1』を重ね合わせて見れば、その輪郭は明らかになる。前者は現実を観察して再現し、後者はその現実が操作されうることを示した。この連続の上で、彼は一貫して「現実とは何か」を問い続けている。そしてこのメッセージは、現代においてさらに切実なものとなっている。情報と映像が氾濫する現在、「何が真実か」を見極めることはかつてなく困難になった。そうした状況において、『カプリコン・1』の問題提起はむしろ現在的な意味を帯びている。
ハイアムズの再評価とは、忘れられた職人の発見にあらず。それは現実と映像の関係を問い直す視線を、映画史の中に位置づけ直す試みといえる。その結節点として、『カプリコン・1』加えて『破壊!』は、いまなお鮮やかな光を放ち続けているのだ。■

『カプリコン・1』(C) ITV plc (Granada International)

