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COLUMN/コラム2023.10.31
アメリカ社会の分断を痛烈に風刺した衝撃の問題作!『ザ・ハント』
※注:以下のレビューには一部ネタバレが含まれます。 人間狩りの獲物はトランプ支持者!? トランプ政権以降のアメリカで進行するイデオロギーの極端な二極化。右派と左派がお互いへの敵意や憎悪をどんどんとエスカレートさせ、社会の分断と対立はかつてないほど深刻なものとなってきた。それを率先して煽ったのが、本来なら両者の溝を埋めねばならぬ立場のトランプ元大統領だったというのは、まるで趣味の悪いジョークみたいな話であろう。そんな混沌とした現代アメリカの世相を、ブラックなユーモアとハードなコンバット・アクション、さらには血みどろ満載のバイオレンスを交えながら、痛烈な皮肉を込めて風刺した社会派スプラッター・コメディが本作『ザ・ハント』(’20)である。 物語の始まりは、とあるリッチなビジネス・エリート集団のグループ・チャット。メンバー同士の他愛ない会話は、「領地(マナー)で哀れな連中を殺すのが楽しみ!」という不穏な話題で締めくくられる。その後、豪華なプライベート・ジェットで「領地(マナー)」へと向かうエリート男女。すると、意識のもうろうとした男性が貨物室から迷い出てくる。驚いてパニックに陥る乗客たち。男性を落ち着かせようとした医者テッドは、「予定より早く起きてしまった君が悪い」と言って男性をボールペンで刺し殺そうとし、プライベート・ジェットのオーナーである女性アシーナ(ヒラリー・スワンク)が男性の息の根を止める。「このレッドネックめ!」と忌々しそうに吐き捨てながら、遺体を貨物室へ戻すテッド。すると、そこには眠らされたまま運ばれる人々の姿があった。 場所は移って広い森の中。猿ぐつわをかませられた十数名の男女が目を覚ます。ここはいったいどこなのか?なぜ猿ぐつわをしているのだろうか?自分の置かれた状況が理解できず戸惑う人々。よく見ると草原のど真ん中に大きな木箱が置かれている。中を開けてみると、出てきたのは一匹の子豚と大量の武器。直感で事態を悟り始めた男女は、それらの武器をみんなで分ける。するとその瞬間、どこからともなく浴びせられる銃弾、血しぶきをあげながら次々と倒れていく人々。これで彼らは確信する。これは「マナーゲートだ!」と。 マナーゲートとは、ネット上でまことしやかに噂される陰謀論のこと。アメリカの富と権力を牛耳るリベラル・エリートたちが、領地(マナー)と呼ばれる私有地に集まっては、娯楽目的で善良な保守派の一般庶民を狩る。要するに「人間狩り」だ。やはりマナーゲートは実在したのだ!辛うじて森からの脱出に成功した一部の人々は、近くにある古びたガソリン・スタンドへと逃げ込む。親切そうな初老の店主夫婦によると、ここはアーカンソー州だという。店の電話で警察へ通報した彼らは、そこで助けが来るのを待つことにする。ところが、このガソリン・スタンド自体が人間狩りの罠だった。 あえなく店主夫妻(その正体は狩る側のエリート)に殺されてしまう男女。すると、そこへ一人でやって来た女性クリスタル(ベティ・ギルピン)。鋭い観察力と判断力でこれが罠だと見抜いた彼女は、一瞬の隙をついて店主夫妻を殺害し、やがて驚異的な戦闘能力とサバイバル能力を駆使して反撃へ転じていく。果たして、この謎めいた女戦士クリスタルの正体とは何者なのか?狩りの獲物となった男女が選ばれた理由とは?そもそも、なぜエリートたちは残虐な人間狩りを行うのか…? リッチでリベラルな意識高い系のエリート集団が、まるでトランプ支持者みたいなレッドネックの右翼レイシストたちを誘拐し、人間狩りの獲物として血祭りにあげていく。当初、本作の予告編が公開されると保守系メディアから「我々を一方的に悪者と決めつけて殺しまくる酷い映画だ!」と非難され、トランプ大統領も作品名こそ出さなかったものの「ハリウッドのリベラルどもこそレイシストだ!」と怒りのツイートを投稿。ところが、蓋を開けてみるとエリート集団の方も、傲慢で選民意識が強くて一般庶民を見下した偽善者として描かれており、一部のリベラル系メディアからは「アンチ・リベラルの右翼的な映画」とも批判されている。言わば左右の双方から不興を買ってしまったわけだが、しかし実のところどちらの批判も的外れだったと言えよう。 本作にはトランプ支持者を一方的に貶める意図もなければ、もちろんリベラル・エリートの偽善を揶揄するような意図もない。むしろ、彼らの思想なり信念なりを劇中では殆ど掘り下げておらず、その是非を問うたりすることもなければ、どちらかに肩入れしたりすることもないのである。脚本家のニック・キューズとデイモン・リンデロフがフォーカスしたのは、左右の双方が相手グループに対して抱いている「思い込み」。この被害妄想的な間違った「思い込み」が、アメリカの分断と対立を招いているのではないか。それこそが本作の核心的なメッセージなのだと言えよう。そう考えると、上記の左右メディア双方からの批判は極めて象徴的かつ皮肉である。 陰謀論を甘く見てはいけない! そもそも、本作のストーリー自体が「思い込み」の上に成り立っている。きっかけとなったのは「マナーゲート」なる陰謀論。「エリートが庶民を狩る」なんて極めてバカげた荒唐無稽であり、実のところそんなものは存在しなかったのだが、しかしその噂を本当だと思い込んだ陰謀論者たちが特定の人々をやり玉にあげ、そのせいで仕事を奪われたエリートたちが復讐のために陰謀論者をまとめて拉致し、本当に人間狩りを始めてしまったというわけだ。まさしく「思い込み」が招いた因果応報の物語。しかも、主人公クリスタルが獲物に選ばれたのも、実は「人違い」という名の思い込みだったというのだから念が入っている。なんとも滑稽としか言いようのいない話だが、しかしこの手の思い込みや陰謀論を笑ってバカにできないのは、Qアノンと呼ばれるトランプ支持の陰謀論者たちが勝手に暴走し、本作が公開された翌年の’21年に合衆国議会議事堂の襲撃という前代未聞の事件を起こしたことからも明らかであろう。 ただ、これを大真面目な政治スリラーや、ストレートな猟奇ホラーとして描こうとすると、社会風刺という本作の根本的な意図がボヤケてしまいかねない。そういう意味で、コミカル路線を採ったのは大正解だったと言えよう。血生臭いスプラッター・シーンも、ノリは殆んどスラップスティック・コメディ。その荒唐無稽でナンセンスな阿鼻叫喚の地獄絵図が、笑うに笑えない現代アメリカの滑稽なカオスぶりを浮かび上がらせるのだ。脚本の出来の良さも然ることながら、クレイグ・ゾベル監督の毒っ気ある演出もセンスが良い。 さらに、本作は観客が抱くであろう「思い込み」までも巧みに利用し、ストーリーに新鮮なスリルと意外性を与えることに成功している。例えば、冒頭に登場する獲物の若い美男美女。演じるのはテレビを中心に活躍するジャスティン・ハートリーにエマ・ロバーツという人気スターだ。当然、この2人が主人公なのだろうなと思い込んでいたら、ものの一瞬で呆気なく殺されてしまう。その後も、ならばこいつがヒーローか?と思われるキャラが早々に消され、ようやく本編開始から25分を過ぎた辺りから、それ以前に一瞬だけ登場したけどすっかり忘れていた地味キャラ、クリスタルが本作の主人公であることが分かってくる。すると今度は、それまでの展開を踏まえて「やはり彼女もそのうち殺されるのでは…?」と疑ってしまうのだから、なるほど人間心理って面白いものですな。映画の観客というのはどうしても先の展開を読もうとするものだが、当然ながらそこには過去の映画体験に基づく「思い込み」が紛れ込む。本作はその習性を逆手に取って、観客の予想を次々と裏切っていくのだ。 その主人公クリスタルを演じているのは、女子プロレスの世界を描いたNetflixオリジナル・シリーズ『GLOW:ゴージャス・レディ・オブ・レスリング』(‘17~’19)で大ブレイクした女優ベティ・ギルピン。アクション・シーンの俊敏な動きとハードな格闘技は、3年に渡って女子プロレスラー役を演じ続けたおかげなのかもしれない。しかしそれ以上に素晴らしいのは、劇中では殆ど言及されないクリスタルの人生背景を、その表情や佇まいやふとした瞬間の動作だけで雄弁に物語るような役作りである。タフで寡黙でストイック。質素な身なりや険しい顔つきからも、相当な苦労を重ねてきたことが伺える。それでいて、鋭い眼差しには高い知性と思慮深さが宿り、きりっと引き締まった口元が揺るぎない意志の強さを物語る。恐らく、恵まれない環境のせいで才能を発揮できず、辛酸を舐めてきたのだろう。夢や理想を抱くような余裕もなければ、陰謀論にのめり込んでいるような暇もない。そんな一切の大義名分を持ち合わせていないヒロインが、純然たる生存本能に突き動かされて戦い抜くというのがまた痛快なのだ。 本作が劇場公開されてから早3年。合衆国大統領はドナルド・トランプからジョー・バイデンへと交代し、いわゆるQアノンの勢いも一時期ほどではなくなったが、しかしアメリカ社会の分断は依然として解消されず、むしろコロナ禍の混乱を経て左右間の溝はなお一層のこと深くなったように思える。それはアメリカだけの問題ではなく、日本を含む世界中が同じような危機的状況に置かれていると言えよう。もはや映画以上に先の読めない時代。より良い世界を目指して生き抜くためには、分断よりも融和、対立よりも対話が肝心。ゆめゆめ「思い込み」などに惑わされてはいけない。■ 『ザ・ハント』© 2019 Universal City Studios LLLP & Perfect Universe Investment Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2023.10.30
元祖カンフー映画スター、ジミー・ウォングの代表作は、荒唐無稽&血まみれ上等のB級エンターテインメント!『片腕ドラゴン』
天皇巨星と呼ばれた伝説のスター、ジミー・ウォング ジャッキー・チェンの前にブルース・リーあり、そしてブルース・リーの前にジミー・ウォングあり。香港映画界の歴史に燦然と輝く元祖カンフー映画俳優にして、畏敬の念を込めて「天皇巨星」と呼ばれた伝説のスーパースター、ジミー・ウォングの、これは名刺代わりとも言うべき代表作である。といっても、近ごろは「ジミー・ウォングって名前くらいなら聞いたことあるけれど…」という映画ファンも少なくないだろう。後輩であるブルース・リーやジャッキー・チェンの世界的な名声によって、すっかりその存在がかき消されてしまった感は否めない。実際、’22年4月5日に79歳でこの世を去った時も、残念ながら日本ではあまり大きな話題にはならなかった。そこでまずは、唯一無二にして不世出の映画スター、ジミー・ウォングの華麗なる足跡を辿ってみたい。 生まれも育ちも中国の上海というジミーは、まだ18歳だった’61年に香港へと移住。高校時代から水泳および水球の選手として活躍し、香港の大学でも水球チームに所属していたのだが、しかし公式戦でルール違反を起こして1年間の出場停止を食らってしまう。おかげで何もすることがない。溢れんばかりのエネルギーと暇を持て余してしまった若きジミー。そんな折、彼の目に飛び込んできたのが、香港最大の映画会社ショウ・ブラザーズが新人俳優を募集しているとの新聞記事だったのである。 ‘58年にラン・ラン・ショウとランメ・ショウの兄弟が設立した映画会社ショウ・ブラザーズ(以下、ショウブラと省略)。当初、伝統的な中国歌劇の要素を取り入れた歌謡時代劇=黄梅調映画に力を入れていた同社だが、やがて中国版チャンバラ時代劇、いわゆる武侠映画への路線変更を模索するようになり、当時はそのためのニューフェイスを探していたのである。オーディションに集まった応募者は4000名以上。その中から最終的に選ばれたのが、後に渋い名脇役となるチェン・ライ、『キング・ボクサー/大逆転』(’72)でもお馴染みのロー・リエ、そして我らがジミー・ウォングの3名だった。 かくして、俳優養成所での訓練を経て’65年に映画デビューを果たし、翌年には当時まだ無名だったチャン・チェ監督の武侠映画『虎侠殲仇』(‘66・日本未公開)で初主演を果たしたジミー・ウォング。しかし彼の名声を一躍高めたのは、同じくチャン・チェ監督と組んだ『片腕必殺剣』(’67)だったと言えよう。不幸な出来事によって右腕を失った若き天才武道家が、親代わりである師匠とその一門を邪悪な勢力から救うべく、秘伝の片腕剣法を極めて敵に立ち向かっていく。チャン・チェ監督らしいストイックかつマッチョなヒロイズムと、黒澤明作品など日本の時代劇映画からの影響も色濃いハードなバイオレンス描写は、それまでの様式化されマンネリ化した武侠映画のジャンルに新風を吹き込み、なんと香港映画として初めて国内興収が100万香港ドルを突破する大ヒットを記録。同時期に公開されたキン・フー監督の傑作『大酔侠』(’67)と並んで、’60年代武侠映画ブームの起爆剤となったのである。 この『片腕必殺剣』の大成功によって、一躍ショウブラの看板スターとなったジミーは、引き続きチャン・チェ監督との名コンビで『大女侠』(’68)や『続・片腕必殺剣』(’69)などの武侠映画でヒットを連発。こうして地位と名声を固めた彼は、満を持して映画監督へ進出するべく、自ら書いた脚本を社長ラン・ラン・ショウと恩師チャン・チェ監督のもとへ持ち込む。それが、剣術ではなく格闘技をメインに据えたアクション映画=カンフー映画の元祖と呼ばれる『吼えろ!ドラゴン 起て!ジャガー』(’70)だった。 全盛期が長続きしなかった理由とは? ところが、この初監督企画にショウ社長もチャン監督も揃って難色を示す。当時まだ20代半ばだったジミーの若さと経験不足を心配したショウ社長。一方、チャン監督は格闘技映画なんて流行らない、今まで通りの武侠映画でいいんじゃないかと再考を促したらしい。もともと香港には格闘技映画の伝統もあり、中でも実在した伝説的な格闘家ウォン・フェイホンを題材にしたカンフー映画が’50年代に大流行したのだが、しかしやはり様式化とマンネリ化で若い世代からそっぽを向かれるようになり、’60年代にはすっかり下火となっていたのである。それでも信念を曲げなかったジミーは台湾移住をほのめかし、看板スターを失うことを恐れたショウ社長は渋々ながらも『吼えろ!ドラゴン 起て!ジャガー』の企画にゴーサインを出したというわけだ。 道場破りの柔道家と日本から来た空手家に師匠や仲間を殺され、自らも瀕死の重傷を負った若き格闘家が、空手に対抗する秘術・鉄沙掌と軽功の鍛錬を極めて復讐に立ち上がる。チャン・チェ監督譲りの血生臭いバイオレンス描写に加えて、天井や壁を突き破って縦横無尽に暴れまくるという、ジミー・ウォング監督の劇画的でケレン味たっぷりの荒唐無稽なアクション演出はインパクト強烈で、蓋を開けてみれば『片腕必殺剣』を遥かに凌ぐ興行収入200万香港ドルのメガヒットを記録。これがきっかけとなって、’70年代の香港映画界はカンフー映画ブームが席巻することになる。 その一方で、本作をアメリカで見たブルース・リーが「こんなのは格闘技じゃない!」と憤慨し、それが香港へ戻って本格的なカンフー映画に出演する動機のひとつになったとも伝えられているように、ブルース・リー以降のリアルな格闘技アクションを見慣れた現代の観客からすると、一連のジミー・ウォング作品で披露されるカンフー技は単なるダンスにしか見えないだろう。まあ、それは仕方あるまい。確かに学生時代は水球選手として活躍し、アスリートとしての素地はあったジミーだが、しかし格闘技に関しては殆んど素人も同然。そのうえ、可愛らしいベビーフェイスで体格も華奢なため、なるほど動きこそ俊敏かつシャープであるものの、しかし残念ながら全く強く見えないというのが玉に瑕だった。 それゆえ、武術指導者として道場まで持っていたブルース・リーやスタントマン出身のデヴィッド・チャン、詠春拳の心得があるティ・ロンなど「本物」のカンフー・スターたちが台頭すると、あっという間に人気を取って代わられてしまう。もちろん、黒社会との癒着や傷害事件などのスキャンダルが足を引っ張ったという側面もあったろう。とはいえ、『吼えろ!ドラゴン 起て!ジャガー』がなければカンフー映画ブームは起きず、ブルース・リーが香港映画を足掛かりに世界へ羽ばたくこともなかったかもしれない。生前のジミー・ウォング自身、「遅かれ早かれ、誰かがこういう映画を作っていただろうとは思う。それでも、このタイミングで自分がこの映画を作らなかったら、もしかするとブルース・リーが活躍することもなかったかもしれない」と語っている。 とにもかくにも、『吼えろ!ドラゴン 起て!ジャガー』でカンフー映画の新規路線を開拓し、俳優としてのみならず監督としても輝かしい名声を手に入れたジミー・ウォング。ところが、当時のショウブラとの契約は月給制で、ジミーほどの大スターでも月額2000香港ドルという薄給のままだった。これに不満を募らせた彼は、’71年にライバル会社ゴールデン・ハーヴェストへと移籍する。当時まだ新興スタジオだったゴールデン・ハーヴェストは、ショウブラの元製作本部長レイモンド・チョウが設立した会社。ジミー・ウォング曰く、映画界入りした当初から最も世話になったのがチョウ氏だったそうで、そのチョウ氏に対する忠誠心とショウ社長やチャン監督への不信感が彼に移籍を決意させたようだ。 ところが、当然ながらショウブラ側はこの背信行為に激怒。裁判の結果、ジミーは香港での活動が不可能になってしまう。そこで、レイモンド・チョウの助言もあって台湾へ移住した彼は、主に同地を拠点としながらゴールデン・ハーヴェストや中小プロダクションの映画へ出演するようになる。その新天地で再びジミー・ウォングが監督・脚本・主演の3役にチャレンジし、当時まだ創業して間もないゴールデン・ハーヴェストに初めての成功をもたらした作品が、香港・台湾はもとより欧州やアメリカでも大ヒットしたカルト映画『片腕ドラゴン』(’72)だった。 インパクト強烈なヴィランたちにも要注目! 質実剛健で礼儀を重んじる正徳武館に、金儲けのためなら麻薬密売や売春も厭わない鉄鈎門という、相対する武道流派が勢力を二分する小さな町が舞台。街頭で森下仁丹の広告が見受けられることから察するに、恐らく大日本帝国を含む列強諸国による半植民地化が進んだ北京政府時代の中国本土という設定なのだろう。ある日、罪もない一般庶民に暴力を振るう鉄鈎門一味の狼藉を見るに見かねた正徳武館の二番弟子ティエンロン(ジミー・ウォング)は、一緒にいた弟弟子たちと共に連中をコテンパンに成敗してしまう。メンツを潰された鉄鈎門のザオ師匠(ティエン・イエー)は一門を引き連れて正徳武館へ殴り込みをかけるも、今度は正徳武館のハン師匠(マー・チ)に撃退されてしまった。 どうにも腹の虫がおさまらないザオ師匠。そこで彼は、麻薬密売の売上金をエサにして、諸外国の格闘家を殺し屋として雇うことにする。その頂点に立つのが、ケダモノのような牙が生えた日本の空手家・二谷太郎(ロン・フェイ)、その愛弟子である長谷川と坂田。そのほか、同じく日本の柔道家・高橋にテコンドー師範の朝鮮人キム、ムエタイ選手のタイ人兄弟ナイとミー、インドのヨガ師匠モナにチベットのラマ僧ズオロンとズオフーなど、いずれ劣らぬ凶暴な極悪人ばかりだ。 かくして、金で集めた殺し屋軍団を従えて正徳武館を襲撃するザオ師匠の鉄鈎門一味。外国の格闘技に知識のない正徳武館の面々は劣勢に立たされ、門下生たちはおろかハン師匠まで皆殺しにされてしまう。唯一、奇跡的に生き残ったティエンロンも、怪力の二谷に右腕をもぎ取られてしまった。瀕死の状態を通りがかった町医者親子に救われ、医者の娘シャオユー(タン・シン)の献身的な介護のおかげで回復したティエンロン。しかし、片腕だけでは殺された師匠や仲間たちの復讐もできない。生きる気力を失ったティエンロンだったが、そんな彼にシャオユーが言う。古くから伝わる薬草を使って秘伝の片腕拳法「残拳」を修得すれば、石を割るほどの破壊力を持つ鋼鉄の拳を手に入れることが出来るというのだ。そのために左腕の神経を焼き切り、血の滲むような猛特訓を重ねたティエンロンは、鉄鈎門の一味と殺し屋軍団にたった一人で立ち向かっていく…。 基本的なあらすじは『吼えろ!ドラゴン 起て!ジャガー』とほぼ一緒。そこに『片腕必殺剣』で確立した片腕アクションの要素を盛り込んだだけである。いやあ、なんというか、セルフ・パロディならぬセルフ・コピー(笑)。要は使い回しってやつですな。ちなみに、『吼えろ!ドラゴン 起て!ジャガー』のあらすじは、チャン・チェ監督も『キング・ボクサー/大逆転』でちゃっかりとパクっている。これはジミーのゴールデン・ハーヴェスト移籍に腹を立てたチャン監督が、ジミーへの腹いせとしてパクったとも言われているが、いずれにせよこの『キング・ボクサー/大逆転』が結果として、欧米でヒットした初めての香港カンフー映画となったのだから皮肉なもんである。 閑話休題。『吼えろ!ドラゴン 起て!ジャガー』で劇画的な荒唐無稽を打ち出したジミー・ウォング監督だが、本作ではさらにその傾向がエスカレート。もはや格闘技とは呼べないような超人技が次々と飛び出し、血飛沫の乱れ飛ぶ阿鼻叫喚の肉弾バトルが異常なテンションで展開していく。指一本の片腕逆立ちでピョンピョン飛び跳ねるなんてのは、『柔道一直線』の足の指先で「猫ふんじゃった」をピアノ演奏する近藤正臣も真っ青の離れ業(笑)。そう、基本的なノリは『柔道一直線』なのですよ。それもウルトラ・バイオレントな!なので、アジア各国から集まった殺し屋の格闘家たちもマンガ的なキャラばかり。いや待てよ、ヨガって格闘技だったっけ!?と突っ込む間もなく、個性豊かなヴィランたちが次々と登場する。 中でも特に強烈なのが日本の空手家・二谷太郎。吸血鬼のごとき牙の生えた御面相は、もはやケダモノというよりはバケモノである。『吼えろ!ドラゴン 起て!ジャガー』に出てくる日本の空手家3人組もなかなか異様だったが、しかし本作はその比じゃないだろう。そういえば、二谷太郎役の俳優ロン・フェイは、本作の続編『片腕カンフー対空飛ぶギロチン』(’76)でも日本人の悪役を演じていた。当時の香港のカンフー映画において、悪役といえば日本人、日本人といえば悪役が定番。かつての大日本帝国は、アジア近隣諸国の人々に恨まれて当然の悪事をしでかしたのだから、まあ、こればかりは仕方あるまい。当時は日本占領時代を経験した香港人も大勢存命だったろうしね。 ただ、そうした中において本作がユニークなのは、日本人のみならずタイ人や朝鮮人、チベット人にインド人など外国人全般を脅威として描くことで、香港のナショナリズムを煽るような意図が少なからず感じられることだろう。この傾向は続編『片腕カンフー対空飛ぶギロチン』にも引き継がれる。ジミー・ウォング作品といえば女性キャラの扱いが男尊女卑的だったりもするのだが、その辺を含めて彼の作家性みたいなものが何となく垣間見えるようにも思う。 なお、本作のタイトル・クレジットのBGMを聴いてビックリする人もいるだろう。なにしろ、ハリウッド映画『黒いジャガー』(’71)のテーマ曲が堂々と鳴り響くのですからね(笑)!その後も、ここぞという見せ場で繰り返し『黒いジャガー』のテーマが流れてくるのだが、もちろん著作権無視の無断使用。『キング・ボクサー/大逆転』の『鬼警部アイアンサイド』のテーマも有名だが、既存の有名な映画音楽やヒット曲などを勝手に使うのは、当時の香港映画の常とう手段みたいなものだったのである。 ということで、グラインドハウス映画的ないかがわしさがプンプンとする極上のB級アクション・エンターテインメント。相変わらずジミー・ウォングの格闘技も胡散臭いのだけど、なんだか妙に可愛らしくて憎めないのだよね(笑)。このそこはかとなく漂う場末感こそが、’70年代の香港カンフー映画の大きな魅力ではないかとも思う。■ 『片腕ドラゴン』© 2010 Fortune Star Media Limited. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2023.10.11
イーストウッドに俳優業引退を翻意させた、 新人脚本家との出会い 『グラン・トリノ』
クリント・イーストウッドは、1930年5月生まれ。齢70を越えた2000年代に、9本もの劇映画を監督している。 引退を考えてもおかしくない年頃になって、この驚異的なペース。しかも、自身2度目のアカデミー賞作品賞・監督賞を獲得した『ミリオンダラー・ベイビー』(04)をはじめ、その多くが高評価を勝ち取っている。 しかしながら、『荒野の用心棒』(1964)や『ダーティハリー』(71)等々で、“大スター”のイーストウッドに親しんできたファンたちは、2000年代中盤以降、些か淋しい気持ちにも襲われていた。かつては自らの監督作の多くに主演していたイーストウッドだったが、『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』(共に06)、『チェンジリング』(08)と、この頃に製作・監督した3作品では、スクリーン上に姿を見せなかったのだ。 イーストウッド自身、『ミリオンダラー・ベイビー』を演じ終えた際には、「…もう十分だ。再び演技はしたくない…」と考えるようになっていたという。それから4年、演じる役柄を特に探すこともなく、監督業に専念していた彼は、ある脚本との出会いによって、翻意する。 イーストウッドが主宰する製作会社マルパソ・プロダクションに届けられたその脚本は、無名の新人脚本家が執筆したもの。まずはプロデューサーのロバート・ロレンツが目を通してから、イーストウッドに手渡した。「これが君の監督作になるか出演作になるかはわからないけれど、とにかくおもしろいよ」と言い添えて。 一読したイーストウッドも、すぐに気に入った。その物語の主人公ウォルト・コワルスキーは、それまでイーストウッドが演じてきたキャラクターが、老境を迎えたかのような人物で、まるで“当て書き”と見紛うばかりだった。 そして本作『グラン・トリノ』(08)の映画化が、動き始めた。 ***** ミシガン州デトロイトに住む、ポーランド系アメリカ人のウォルトは、頑固で偏狭な老人。亡き妻が頼った神父にも、「頭でっかちの童貞」と毒づく始末で、2人の息子やその家族ともうまくいっていない。 若き日に従軍した朝鮮戦争で、敵を殺したトラウマを長年抱えてきたウォルト。近隣には、かつて勤務した自動車工場の仲間たちの姿は消え、今やアジア系の移民ばかりが暮らすように。人種的な偏見の持ち主である彼は、そのことにも腹を立てていた。 ある時、隣に住むモン族の少年タオが、不良の従兄弟に強要されて、ウォルトの愛車“グラン・トリノ”を盗みに入る。タオはウォルトにライフルを突きつけられて、這々の体で逃げ出す。 その後行きがかりから、タオやその姉スーが、不良に絡まれているところを救ったウォルト。はじめは嫌っていた彼らと交流を深めていく中で、孤独が癒やされるのを感じる。 折しも自分が死病に侵されているのを知ったウォルトだが、近隣の家の修繕を手伝わせたり、建設現場の仕事を紹介するなどして、タオを“一人前の男”にすることに生きがいを感じるようになる。それに応えるタオも、ウォルトを“師”と慕うように。 そんな時に、タオの従兄弟ら不良たちからの嫌がらせが、再び始まる。ウォルトが彼らの1人に制裁を加えたことから、事態は悪化。タオとスーの一家は危機に立たされる。 復讐心に燃えるタオを制して、ウォルトは言う。「人を殺す気持ちを知りたいのか?最悪だ」 そしてウォルトは、タオたちを守るために、ある決断をする…。 ***** 本作『グラン・トリノ』の脚本は、それまでローカルケーブルTVのコメディ用台本を手掛けてきたというニック・シェンクが、初めて映画用に書いたもの。主人公のモデルになったのは、シェンクが育ったアメリカ中西部のミネソタ州で、たくさん見てきた男たちだという。 曰く、彼らは「感情を全く見せず、何に対しても喜んだりはしない」「多くはベテラン(帰還兵)で、惨たらしいものをたくさん見てきて、自分の感情を奥に深くしまい込むようになってしまった…」 その結果として、「他人にはいつもタフできつく当たり、特に自分の子供に対しめちゃくちゃ厳しい」。そんな男たちの特徴を組み合わせて練り上げたのが、ウォルト・コワルスキーだった。 因みにウォルトと、馴染みの散髪屋のイタリア系店主が、お互い差別語を交えながら会話するシーンも、シェンクの実体験をベースに書かれたもの。長い間工事現場でトラック運転手として働いていたというシェンクは、その外見からいつも、「ハゲチンポ」と呼ばれていたのだという。 朝鮮戦争で凄惨な体験をして、人殺しをしたことに深い悔恨の念を抱く老人ウォルトの隣人となるのは、“モン族”の少年とその家族。これも、シェンクが工場勤務の頃の同僚に、“モン族”が多くいたことがベースになっている。 “モン族”は元々、中国に居た民族。しかし19世紀に清朝に追われて、ラオスやベトナムなど東南アジアに分布するようになった。 1970年代のベトナム戦争時、山岳地の戦いに強い“モン族”の一派を、アメリカ軍がゲリラとして活用。しかし75年、アメリカが戦争に敗れて撤退すると、ラオスでは“モン族”は敵と見なされて、迫害されるようになる。そのため難民として、アメリカまで逃げる者が多数に上った。 2015年時点で、アメリカに暮らす“モン族”は、二世も含めて26万人余りという。『グラン・トリノ』は、ベトナム戦争でアメリカの犠牲となって、アジアの地から移り住んできた“モン族”が、朝鮮戦争で心の傷を負い、長年罪の意識に囚われてきた男ウォルトの、“救い”となり“贖罪”の対象となる物語だ。 本作を監督し、ウォルトを演じたイーストウッドは、それまで“モン族”のことをほとんど知らなかった。そのため文献に目を通すなど、様々なことを学んだ上で、キャストには本物の“モン族”の人々を起用することに、こだわった。 タオ役のビー・バンやスー役のアーニー・ハーは、演技は学校の演劇部や地元の劇団で経験した程度だったが、非常に勘が良く、イーストウッド曰く「作品に確かなリアリティを出してくれた」。英語が全く話せない“モン族”の老人などもキャスティングする中で、イーストウッドは、彼らのことに詳しいエキスパートを招聘。全ての表現が適切かどうかをチェックしながら、撮影を進めたという。 ウォルトは、何かにつけてはライフルを持ち出し、不良たちを相手に一歩も退かない姿勢を見せる。そのキャラに、イーストウッド最大の当たり役『ダーティハリー』シリーズのハリー・キャラハン刑事を重ね合わせ、その老後のように捉える向きも、少なくないだろう。 イーストウッド自身は、「自分ではハリーだとは思わなかった」と笑いながらも、『ミリオンダラー・ベイビー』や『ハートブレイク・リッジ/勝利の戦場』(86)などで、自分が演じてきた主人公たちと重なるところがあることを認めている。「社会や今の世の中から外れた男」で、「人との接し方がわからないし、あらゆることが昔と変わってしまったことにもすねている」のだ。 そんなウォルトである。不良たちのエスカレートする暴力に対しては、ハリー・キャラハンのように銃をぶっ放して、一人残らず殲滅する選択をしても、不思議ではない。いやむしろ、イーストウッド映画のファンとしては、それを期待してしまうだろう。 しかし、“モン族”の若者との交流で、“寛容さ”を学んだ彼は、暴力の連鎖をいかに断つかに腐心。タオたちが、後顧の憂いなく生きていける道を、見つけ出そうとするのだ。 詳しくは本作を、実際に観ていただく他はないが、初公開時にウォルトが採った道を目の当たりにした多くの観客は、まさかの展開に唖然。それでいて、胸を熱くする他はなかったのである。 それにしても、元はイーストウッド主演を前提に書かれたものではない、本作の脚本。実際に映画化権を手にしたイーストウッドが、どれだけ自分自身や己が演じてきたキャラに寄せて、書き直させたのだろうか? ニック・シェンクによると、「脚本から一つか二つシーンをカットして、ロケ地をミネソタ州ミネアポリスからミシガン州デトロイトに移した以外は、ほぼ脚本、一字一句違わずそのまま」イーストウッドは撮り上げたのだという。特にウォルトのセリフは、シェンクが「書いたとおり」に、イーストウッドは演じたのである。 最初に記した通り、1930年生まれのイーストウッドは、ウォルトとほぼ同年代。朝鮮戦争時には、実際に兵役に就いている。幸いにして戦場に出ることはなかったというが。 また本作に取り掛かる直前は折しも、イーストウッドが日本兵を主人公にした『硫黄島からの手紙』を監督して、アジアへの視点が開けたと思しき頃。そんなタイミングで、自分の年代で演じるにはベストと言える、『グラン・トリノ』の脚本と出会ったわけである。 イーストウッドのそうした強運さは、彼が長命にして頑健な肉体を誇ることと合わせて、「天からのプレゼント」という他はない。それは。彼の映画を見続けてきた我々にとってもである。 かくして世に送り出された『グラン・トリノ』は、当時としてはイーストウッド映画史上、最大のヒットを記録した。■ 『グラン・トリノ』© Matten Productions GmbH & Co. KG
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COLUMN/コラム2023.10.10
ブラピとベネット・ミラー。野球好きでない製作者と監督が生み出した、21世紀型野球映画『マネーボール』
“ブラピ”ことブラッド・ピット(1963~ )が、『リバー・ランズ・スルー・イット』(1992)で、一躍注目の存在となった時、その作品を監督した稀代の二枚目スターに因んで、「第2のロバート・レッドフォード」と謳われた。それからもう、30年余。 ブラピはその間、ハリウッドのTOPランナーの1人として、主演・助演交えて数多くのヒット作・話題作に出演してきた。アカデミー賞は、4度目のノミネートとなった『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(2019)で、助演男優賞を遂に掌中に収めた。 俳優として以上に評価が高く、辣腕振りを見せているのは、プロデューサー業である。2001年に映画製作会社「プランBエンターテインメント」を設立すると、製作を務めた『ディパーテッド』(06)と『それでも夜は明ける』(14)、製作総指揮とクレジットされている『ムーンライト』(16)の3作品で、アカデミー賞作品賞を受賞。また、製作・主演を務めた、テレンス・マリック監督作『ツリー・オブ・ライフ』(11)は、カンヌ国際映画祭の最高賞=パルム・ドールに輝いている。 そんな彼が2000年代後半、“映画化”に執心。4年の準備期間で幾多もの障害を乗り越え、2011年にリリースしたのが、実在の人物ビリー・ビーンを自ら演じた、本作『マネーボール』である。 ***** 2001年のメジャーリーグベースボール。アメリカン・リーグのオークランド・アスレティックスは、地区シリーズ優勝目前で、ニューヨーク・ヤンキースに敗退。そのシーズンオフには、チームの主力選手3人が、フリーエージェントにより、大金を積んだ他チームへ移籍することが決まった。 チームの編成を担当するのは、GM=ジェネラル・マネージャーのビリー・ビーン。選手の年棒総額が1億~2億にも達する、ヤンキースのような金満球団と違って、アスレチックスが割けるのは、4,000万㌦程度。抜けた選手たちの穴を、金ずくで埋めるなど、不可能だった。 補強に当たってビリーは、球団の古参スカウトらが上げてくる、「主観的」な選手情報に、不信を感じていた。彼自身が高校卒業と同時に、スカウトの「主観的」な高評価と、多額の契約金に目が眩んで、大学進学を取りやめ、メジャーリーグへと進んだ。その結果として、プロの“適性”がなく、惨憺たる現役生活を送った経験があったのである。 ビリーは、トレード交渉でインディアンス球団を訪ねた際、イエール大卒の若きフロントスタッフ、ピーター・ブランドに出会う。ビリーはピーターが、データに基づいて選手たちを「客観的」に評価する「セイバーメトリクス」理論を駆使していることを知り、自分のアシスタントに引き抜く。 二人三脚で、データ分析に基づいたチームの補強に乗り出した、ビリーとピーター。彼らが欲した選手の多くは、元の所属球団からの評価が低いため、「安く」入手できた。 ビリーたちのそんな常識外れのやり方に、監督も含む周囲との軋轢が生まれていく。そのままシーズンへと突入するも、勝利にはなかなか、結びつかない。 それまでのメジャーの常識を打ち破らんとする、ビリーたちの挑戦の行方は果して!? ***** 原作は、マイケル・ルイスが2003年に出版した、ノンフィクションのベストセラー。ここで紹介される「セイバーメトリクス」とは、1970年代にビル・ジェイムズなる人物が生み出した、データを駆使した野球理論である。 その内容から、主なものをごく簡単に紹介する。打者を評価するに当たっては、つい目が惹かれてしまう、ホームランの本数や打点、打率などよりも、四球なども含んだ出塁率や長打率を重視する。実はその方が、「相手チームより多く得点を記録する」ことに結びつく。即ち“勝利”のためには、有効であるというのだ。 投手の評価に関しては、「ホームラン以外のフェア打球は、それが安打になろうとなるまいと投手の力量とは関係ない」と、割り切る。 送りバントや盗塁といった伝統的な戦略については、「アウト数を増やす可能性が高い攻撃はどれも、賢明ではない」と酷評し、斬って捨てている。このように、「セイバーメトリクス」は、それまでの球界の常識をことごとく覆すものだった。 この理論は、野球ファンの一部から注目されながらも、メジャー球団の関係者からは、長らく無視された。そして、ドラフトやトレードでの補強や、実際の試合に於ける選手起用などでは、データに基づいた「客観」よりも、スカウトや監督などの「主観」が優先され続けたのである。 そうした旧弊を打ち破ったのが、アスレチックス球団だった。映画ではその辺りの流れは割愛・改変されているが、まずは90年代前半、当時のGMだったサンディ・アルダーソンが、「セイバーメトリクス」をチーム作りに応用し始めた。そしてその後任となったビリー・ビーンが、本格的な実践に踏み切ったのである。 その絶大な成果、「セイバーメトリクス」がいかに球界を変えたかについては、本編で是非ご覧いただくとして、実はプロデューサー兼主演俳優のブラピは、野球自体は「あまり観ない」上、本作に関わるまでは、知識もそれほどなかったという。それは彼が子どもの頃に出場した、野球の試合での経験に起因する。 フライを捕ろうとしたら、太陽に目が眩んで、ボールが顔を直撃。病院送りとなって、18針も縫ったのである。 それ以来野球に関わらなかったブラピが、本作の原作に惹かれたのは、「負け犬が返り咲いて自分の持ってるすべてを、あるいはそれ以上のものを発揮する部分」だったという。更に主人公であるビリー・ビーンの、「長いものにまかれない…」「人がノーマルだと思うことに疑問を持つ…」「何年も継続されているからとそれを受け入れてしまわない…」そういった“精神”に魅了されたのである。 しかしながら先にも記した通り、“映画化”が実現するまでの道のりは平坦ではなかった。とりわけ大きかったのは、2度に渡る監督の交代劇。 最初に決まっていたデイヴィッド・フランケルが降板すると、スティーヴン・ソダーバーグが後任の監督に。ところが、準備が進んで、いよいよ撮影開始数日前というタイミングで、スタジオ側から製作中止を申し渡される。 それでもブラピの心は、「このストーリーに取り憑かれてしまっていて」、本作の企画を「手放すなんてとてもできなかった」のだという。何としてでも、ビリー・ビーンを演じたかったのだ。 最終的に監督は、前作『カポーティ』(05)でアカデミー賞監督賞にノミネートされた、ベネット・ミラーに決まる。実はミラーも、野球自体はまったく好きではなかった。原作本に関しても、「スポーツビジネスの専門書みたいな本で、はじめはあまり読むのに気が進まなかった…」という。 ところが読み進む内に、「この物語にとって、野球はとっかかりでしかない」と気付く。そしてブラピと同様に、ビリー・ビーンの生き様に心惹かれ、「ぜひ掘り下げてみたい」という気持ちになったのだ。 脚本は、監督がソダーバーグだった時点では、スティーヴン・ザイリアンが執筆。その後ミラーが監督になってから、アーロン・ソーキンによるリライトが行われた。 ザイリアンは『レナードの朝』(90) 『シンドラーのリスト』(93)など、ソーキンは『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』(07)『ソーシャル・ネットワーク』(10)など、それぞれ実話をベースとした脚色に定評があり、そうした作品でオスカー受賞経験のある2人。それをドキュメンタリー出身のミラー監督が演出することで、ビリー・ビーンの裏舞台での戦いが、リアルに浮き彫りになる。 同時に、チームが勝利に向かって邁進するという、ある意味王道が描かれる。こうして本作は、それまでの“野球映画”では見たことがなかったような、何とも絶妙なバランスの作品に仕上がったのである。 原作者のマイケル・ルイスは、「一本の筋あるいはドラマチックな展開があるとは必ずしも言えない」自作を、「きちんと映画化するのは非常に困難」と認識。「本と全然違う映画にするのか、あるいは本のとおり映画にしてひどい映画になるのか」どちらかだろうと考えていた。しかし完成作を観てミラー監督に、「この映画は(とても良いのに)本のとおりでした」と、大満足の評価を伝えている。 実在のビリー・ビーンは、ブラピが自分の役を演じると聞いて、少し意外な気がしたという。しかし実際に彼と接して、その役作りへの努力を目の当たりにする中で、ブラピが明確なヴィジョンを持ち、この上なく礼儀正しい人物だったことに、感銘を受けた。 一方で、この映画化に最も不満を覚えたのは、本作でのビリー・ビーンの片腕、ピーターのモデルとなった、ポール・デポデスタであった。デポデスタは己の役を、自分とは似てもにつかない太っちょのコメディアン、ジョナ・ヒルが演じることに、納得がいかなかった。またそのキャラが、オタクのように描かれることにも、我慢ならなかったようだ。 結果としてデポデスタは、実名を使うことの許可を出さなかった。そのため彼に当たるキャラは、ピーター・ブランドと、改名されたのである。 そのピーターを演じたジョナ・ヒルは、シリアスな演技が出来ることも披露した本作で、アカデミー賞助演男優賞にノミネート。高評価を得て、その後役の幅を広げていく。 因みに“野球映画”としてのクオリティを高めるのに効果的だったのは、メジャーリーグやマイナーリーグなどの元プロや大学野球の経験者などを、選手役にキャスティングしたこと。そんな本物の元野球選手たちの中で、一塁手スコット・ハッテバーグを演じたクリス・プラットは、唯一人野球経験のない俳優だった。 そのためプラットは、かなりハードなトレーニングに積んだ上で、実在のハッテバーグの特徴をよく捉えた役作りを行った。結果として本作のベースボール・コーディネーターからは、「野球選手としての成長ぶりには目覚ましいものがあった」と、高評価を勝ち取った。 この時のプラットは、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズ(14~ )や『ジュラシック・ワールド』シリーズ(15~ )で、主演スターにのし上がる前夜。そんなプラットの野球選手ぶりをウォッチするのも、本作を今日観る上での、楽しみ方の一つと言えるだろう。 ブラッド・ピットは本作で、「21世紀型」とも言える、それまでになかった、新たな“野球映画”をクリエイトした。アカデミー賞では作品賞や主演男優賞など6部門にノミネートされながら、残念ながら受賞は逃したものの、ブラピにとって『マネーボール』が、俳優としてもプロデューサーとしても、代表作の1本となったことは、間違いあるまい。■ 『マネーボール』© 2011 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2023.10.02
ティム・バートン印のポップでキッチュでブラックなSFコメディの傑作!『マーズ・アタック!』
それは友情から始まった 1950年代のB級SF映画と1970年代のディザスター映画にオマージュを捧げた、ティム・バートン監督のシュールでクレイジーな愛すべきSFコメディ映画である。劇場公開時は文字通り賛否両論。アメリカでは3週間で上映が打ち切られるほど客入りが悪かったが、しかしヨーロッパでは反対にロングランの大ヒットを記録。筆者の記憶だと日本でも評判はとても良かったはずだ。まあ、いかにもティム・バートンらしいオタク趣味丸出しのポップでキッチュなビジュアルや、時として残酷なくらいシニカルなブラック・ユーモアのセンスは、なるほど確かに見る人を選ぶであろうことは想像に難くない。 元ネタになったのはベースボール・カードの老舗トップス社が、1962年にアメリカで発売した子供向けトレーディング・カード「Mars Attacks!」。グロテスクな火星人の造形やリアルな残酷描写が子供たちに受けたものの、それゆえ保護者からの猛反発を食らって呆気なく販売が中止されてしまった。その後、「Mars Attacks!」は人気のコレクターズ・アイテムとなり、高額のプレミア価格で取引されるようになったことから、トップス社は’84年と’94年に復刻版をリリース。その’94年の復刻版を購入して、ティム・バートンにプレゼントしたのが脚本家ジョナサン・ジェムズだったのである。 イギリスの著名な劇作家パム・ジェムズを母親に持ち、マイケル・ラドフォード監督の『1984』(’84)と『白い炎の女』(’87)の脚本で頭角を現したジョナサン・ジェムズ。実はティム・バートン監督の出世作『バットマン』(’89)の脚本修正にノークレジットで携わっていた。ロンドン郊外のパインウッド・スタジオで撮影された『バットマン』。撮影中に幾度となく脚本修正の必要が生じたものの、当時ちょうど全米脚本家組合がストライキの最中だったため、オリジナル脚本を手掛けたサム・ハムが手を加えることは許されず、代わりに英国人の脚本家たちが修正に駆り出された。ジェムズはその中のひとりだったのだ。 お互いに趣味や好みの似ていた2人はたちまち意気投合。ほどなくしてロサンゼルスへ活動の拠点を移したジェムズは、バートン監督のもとで幾つも脚本を書いているのだが、残念ながら『マーズ・アタック!』以外は全てお蔵入りになっている。また、バートン監督と恋人リサ・マリーのキューピッド役を務めたのもジェムズ。ロンドンのモデル時代からリサ・マリーを知っているジェムズは、たまたま共通の友人を介してロサンゼルスで彼女と再会し、バツイチの独身だったバートン監督と引き合わせたという。いずれにせよ、当時の2人は無二の親友も同然だったようだ。 ストーリーの下敷きは『タワーリング・インフェルノ』!? 時は1994年の8月。バートン監督への誕生日プレゼント(8月25日が誕生日)を探していたジェムズは、ロサンゼルスのメルローズ通りにあるギフトショップへ入ったところ、そこでトップス社の「Mars Attacks!」と「Dinosaurs Attack!」のトレカ・ボックスを発見。これはティムの好みに違いない!と思った彼は両方とも購入してプレゼントしたという。それから1週間ほどしてバートン監督から連絡を受けたそうだが、当初は「Dinosaurs Attack!」の方を映画化するつもりだったらしい。巨大な恐竜がロサンゼルスの街を破壊するなんて最高にクールじゃん!?と。しかし、打ち合わせを進めるうちに2人は気が付いてしまう。それが『ジュラシック・パーク』の二番煎じであることに。そこでバートン監督は「Mars Attacks!」の映画化に鞍替えし、まずは映画会社ワーナーに提案するためのシノプシスを書くようジェムズに依頼したのである。 その際にバートン監督から指示されたのは、’70年代にアーウィン・アレンが製作したディザスター映画群、中でも『タワーリング・インフェルノ』(’74)を参考にすること。そこから「人々が醜悪な火星人に追いかけられて右往左往するオールスター・キャスト映画」という基本コンセプトが出来上がったという。すぐさま、ハイランド大通りにあった有名なレンタル・ビデオ店ロケット・ビデオで『タワーリング・インフェルノ』のVHSをレンタルしたというバートン監督とジェムズの2人。特に印象的だったのは、ロバート・ワグナーが火だるまになって死ぬシーンだったという。悪役でもない主演級の大物スターが悲惨な死に方をするなんて最高にクールじゃん?と感動したジェムズは、『マーズ・アタック!』でもオールスター・キャストの大半を悲惨な方法で殺すことに(笑)。さらに、『大地震』(’74)や『スウォーム』(’78)などをお手本にして、アメリカ各地に暮らす様々な社会階層の人々が登場する大規模な群像劇に仕上げたのである。 ストーリーは極めてシンプル。ある日突然、火星からのUFO軍団が地球へと飛来する。果たして火星人の目的は何なのか?友好の使者なのか、それとも侵略者なのか。この状況を政治利用しようとするアメリカ大統領、核爆弾による先制攻撃を主張するタカ派軍人、火星人ブーム(?)に乗って一儲けしようとするビジネスマンなど、様々な人々の思惑が交錯する中、いよいよ火星人とのファースト・コンタクトが実現。なんだ、むっちゃ友好的じゃん!とみんながホッと胸をなでおろしたのも束の間、たちまち本性を現した火星人たちの地球侵略攻撃が始まる。 火星人のキャラ造形が極端にグロテスクであることから、地球人のキャラクターも極端なカリカチュアとして描けば、うまい具合にバランスが取れると考えたというジェムズ。メインの登場人物だけでおよそ20名、幾つものプロットが同時進行するという脚本の構成は複雑だが、そこはスタンリー・クレイマー監督のコメディ巨編『おかしなおかしなおかしな世界』(’63)が大いに参考になったという。 テーマはズバリ「権力者を信用するな」。米国大統領にせよ、科学者にせよ、軍人にせよ、はたまたテレビの人気司会者にせよ、本作に登場する権力者たちは揃いも揃って、愚かで浅はかでバカで軽薄なクズばかり。世界の危機を救うどころか事態を悪化させ、いずれも自業自得の悲惨な最期を遂げる。むしろ世界を救うのは、家庭に居場所のない孤独な少年や老人ホームに追いやられた老婆、借金返済のためカジノで働く元プロボクサーなど、名もなき普通の人々。要するに、どこにでもいる平凡で善良なアメリカ市民こそが真のヒーローなのだ。 ギクシャクし始めたスタジオとの関係 およそ1週間でプレゼン用のシノプシスを書き上げたというジェムズ。『マーズ・アタック!』の企画は無事に通り、ワーナーは’95年8月の撮影開始、’96年8月の封切というスケジュールを立てたのだが、しかし制作陣はすぐに大きな壁にぶつかってしまう。というのも、レイ・ハリーハウゼンの特撮映画を熱愛するバートン監督は、本作の特撮もストップモーション・アニメでやろうと考えたのだ。当初は『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』(’93)のヘンリー・セリックに任せるつもりだったが、しかし当時のセリックは『ジャイアント・ピーチ』(’96)に取り掛かっていたため都合がつかず、セリックの推薦でイギリスのアニメ作家バリー・パーヴスに白羽の矢が立ったという。 しかし、英国人のパーヴスがアメリカでスタッフを集めて工房を作り、さらにテストフィルムを製作するまでに予想以上の時間がかかってしまった。おかげで、予定していたスケジュールが押してしまうことに。そこでプロデューサーのラリー・フランコがサンフランシスコへ飛び、ジョージ・ルーカスの特撮工房ILMと直談判。ストップモーション風のCGアニメを開発してもらうこととなる。本当にそんなことが出来るのか?とバートン監督は半信半疑だったが、しかしテスト映像の仕上がりを見て大いに納得。結局、CGを使うことでアニメ制作の時間短縮が可能になったが、その代わりに予算も膨れ上がってしまい、この頃から製作陣とワーナーの関係がギクシャクし始めたようだ。 さらに、脚本家ジェムズとワーナーの対立も表面化していく。撮影に向けて脚本のドラフトを書き始めたジェムズ。ワーナー経営陣には「クリエイティブ・チーム」と呼ばれる人々がおり、原稿は全て彼らのチェックを受けなくてはならなかったのだが、そこで様々な意見の相違が出てきたのである。それ自体はよくあることなのだが、しかしあるシーンを巡ってお互いが絶対譲らなくなってしまう。それが、本編冒頭の「燃える牛軍団」シーン。のどかな田舎で火の付いた牛の群れが暴走するという場面なのだが、これをクリエイティブ・チームは「動物愛護法に反する」としてNGにしたのだ。しかし、当然ながら実際に撮影で牛を燃やすわけじゃない。当たり前だが特撮で処理をする。「なにをバカなこと言ってるんだ!?」と呆れたというジェムズ。このシーンは観客にインパクトを与えるためにも絶対に必要だ。そう考えた彼は、何度NGを出されても無視し続けたそうだが、その結果ワーナーからクビを言い渡されてしまった。 ドラフト原稿を提出すること12回。すっかり疲れ切っていたジェムズは、むしろクビになってホッとしたという。代役には『エド・ウッド』(’94)の脚本家コンビ、スコット・アレクサンダーとラリー・カラゼウスキーを推薦。ところが、今度はワーナー経営陣の意向通りに修正した彼らの脚本をバートン監督が気に入らず、クビになってから5週間後にジェムズは呼び戻される。バートン監督の自宅で専用部屋を用意された彼は、なんとたったの5日間で新たな修正版を完成。「燃える牛軍団」シーンもシレッと復活させたのだが、どういうわけかこれが最終的に通ってしまったという。全く、いい加減なもんである(笑)。 あの役は本来ならディカプリオが演じるはずだった! こうしてなんとか脚本を完成させたバートン監督とジェムズだったが、今度はオールスターのキャスティングに難航する。スムースに決まったのは、科学者役のピアース・ブロスナンと大統領補佐官役のマーティン・ショート。どちらもナンセンスで毒っ気のある脚本の趣旨を理解し、最初から出演にとても前向きだったという。世界を救うフローレンスお婆ちゃんは、もともとシルヴィア・シドニーを念頭に置いた役柄。シルヴィア・シドニーと言えば、’30~’40年代にパラマウントの看板スターだった清純派のトップ女優。その一方で、かの大女優ベティ・デイヴィスをして「ハリウッドには私よりもタフな女優が2人だけいる。アイダ・ルピノとシルヴィア・シドニーよ」と言わしめたほどの女傑である。『ビートルジュース』(’88)でもシドニーと組んだバートン監督は、まるで自分の祖母のように彼女を敬愛していたそうだ。 しかし、それ以外のキャストはなかなか決まらなかった。アメリカ大統領役はウォーレン・ベイティに決まりかけたが、しかしワーナーが難色を示したため白紙撤回。成金の不動産業者役をオファーされたジャック・ニコルソンが、アメリカ大統領役も兼ねることで落ち着いた。このニコルソンの出演が決まった途端、ハリウッド中のスターが手のひらを返したように出演を希望するようになったという。恐らく、一歩間違えるとキワモノになりかねない映画だけあって、みんな様子を窺っていたのだろう。 ちなみに、フローレンスお婆ちゃんの孫リッチー役は、なんとレオナルド・ディカプリオが演じるはずだったが、しかし撮影スケジュールが押したせいで出演が不可能になったという。そのディカプリオが代役として推薦したのがルーカス・ハースだった。また、最後のギリギリまで見つからなかったのがフランス大統領役の俳優。撮影前日に「どうしよう!誰か知らない!?」とバートン監督から連絡を受けたジェムズは、たまたまご近所さんだった名匠バーベット・シュローダー監督を推薦。厳密にはスイス人だけとフランス国籍だし、見た目もド・ゴール大統領に似ているから適任だと考えたらしい。ダメもとで連絡してみたところ、自宅まで迎えの車が来るならオッケーとの返答。バートン監督はシュローダーが何者か全く知らなかったらしいが、あまりの芝居の上手さに舌を巻いたそうだ。 こうして当初の予定よりも大幅に遅れたものの、’96年12月に全米公開されることとなった『マーズ・アタック!』。疲労困憊したティム・バートン監督は恋人リサ・マリーとインド旅行へと出かけ、ジョナサン・ジェムズはロサンゼルスで宣伝キャンペーンが始まるのを待っていたが、しかし封切の3週間前になっても何も起こらなかったという。不安になったジェムズはワーナーに問い合わせるも、向こうは「宣伝なら1000万ドル規模の予算をかけてますから!」の一点張り。ようやく1週間前になってサンセット大通りに看板が掲げられ、映画館やテレビでも予告編が流れるようになったが、しかしジェムズに言わせれば遅すぎた。まるで自社作品を潰しにかかっているようだ。そういえば、プレビュー試写でも一般客から大好評だったにもかかわらず、同席したワーナー経営陣の反応は冷ややかだった。最初から売るつもりなどなかったんじゃないか?とジェムズは疑ったが、しかしその理由はいまだに見当がつかないという。 まあ、CGの使用による予算の増額や、脚本を巡るジェムズとの対立などで、ワーナー経営陣の心証を悪くした可能性はあるが、しかしだからといって多額の予算を投じた自社作品の宣伝をあえて放棄するようなことはしないだろう。恐らく、「ワーナー宣伝部はこの映画の売り方を分からなかっただけだ」というバートン監督の見解が正しいかもしれない。たとえ出来損ないの映画でも宣伝が上手ければ成功するが、反対にどれだけ出来の良い映画でも宣伝が下手ならば失敗する。今も昔も変わらぬ鉄則である。■ 『マーズ・アタック!』© Warner Bros. Entertainment Inc.
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COLUMN/コラム2023.09.29
マブリーの魅力が炸裂する韓流クライム・アクション・シリーズ!『犯罪都市』『犯罪都市 THE ROUNDUP』
遅咲きのスーパースター、マ・ドンソクとは? 今や韓国を代表する国際的スターへと成長した俳優マ・ドンソク(ハリウッドではドン・リー名義)。ボクシング仕込みの人並外れたマッチョな体格と、親しみやすくて愛らしい個性のギャップから、韓国ではマブリー(マ・ドンソク×ラブリー)という相性も定着。「気は優しくて力持ち」なヒーローを演じたら右に出る者はなく、アクション映画だけでなくコメディや人間ドラマもいけるところが強みだ。諸外国では「韓国のドウェイン・ジョンソン」と呼ばれているそうだが、しかしどこか昭和の映画スター、勝新太郎を彷彿とさせるような泥臭い魅力もある。その辺りが日本でも絶大な人気を誇る理由かもしれない。 生まれも育ちも韓国のソウルで、15歳の時に見た映画『ロッキー』に触発されてプロ・ボクサーを目指すものの、しかし父親の事業が傾いて家庭が困窮したことから、18歳でモンタナ州に住む親戚を頼って渡米。アメリカの大学で体育学を学びつつ、レストランの皿洗いからビルの清掃員、雑貨屋のレジ係から粉ミルクのセールスマン、さらにはナイトクラブの用心棒にフィットネスジムのトレーナーなど、数えきれないほどの職を転々とした苦労人だ。 総合格闘家のマーク・コールマンやケヴィン・ランデルマンのパーソナル・トレーナーを経て、’02年にオーディションを受けて合格したSF歴史大作『天軍』(’05)で本格的に俳優へ転向。あいにく同作の完成が遅れたため、出演2作目に当たる『風の伝説』(’04)がデビュー作となったものの、いずれにせよ「アクション俳優になる」という少年時代の夢を叶えるためとはいえ、30歳を過ぎてからのキャリア・チェンジは大きな決断だったはずだ。さらに、規格外の体型ゆえに適した役がなかなかなく、俳優として軌道に乗るまで時間もかかってしまった。 ・『犯罪都市』('17) 大きなブレイクを果たしたのは、世界的な大ヒットを記録したゾンビ映画『新感染 ファイナル・エクスプレス』(’16)。見た目は厳ついけど心優しくて正義感が強い男性で、身重の妻を守るためゾンビの犠牲になるという役どころはまさに「儲け役」で、これを機に韓国のみならず世界から注目を集めることになる。以降、アメリカでのリメイクも決まった韓流ノワール『悪人伝』(’18)などの主演作が続々と作られ、マーベル映画『エターナルズ』(’21)では念願のハリウッド進出も果たしたマ・ドンソク。そんな彼の代表作にしてライフワークとも呼べるのが、韓国の年間興収ランキングで3位をマークした『犯罪都市』(’17)に始まるバイオレンス・アクション映画「犯罪都市」シリーズである。 実は苦労人同士の友情から生まれた企画だった! まずは記念すべき1作目から振り返ってみよう。 舞台は’04年のソウル。クムチョン警察の凶悪犯罪対策部署「強力班」に所属するマ・ソクト副班長(マ・ドンソク)は、相手が屈強な男でもパンチ一撃で失神させるほどの怪力の持ち主だ。彼が管轄とするのはカリボンドン地区のチャイナタウン。ここは’90年代に中国から大勢の同胞が移住した街で、今では乱立する朝鮮族の暴力団が縄張りを巡って争っている。基本的に、警察とヤクザは持ちつ持たれつの間柄。血気盛んな暴力団員たちが一線を超えぬよう睨みをきかせつつ、パワーバランスの均衡とチャイナタウンの平和を守るのが強力班の主な役割だ。ところが、そんな折に朝鮮族系暴力団・毒蛇組の組長がバラバラ死体で発見され、地域最大の韓国系暴力団の縄張りまで荒らされてしまう。 犯人は中国のハルビンを根城にする朝鮮族系チャイニーズ・マフィア、黒竜組のボス、チャン・チェン(ユン・ゲサン)。幹部2人と借金の取り立てに密入国したチャンは、毒蛇組の組長を殺害して組織を乗っ取り、チャイナタウンで乱暴狼藉の限りを尽くしていく。その狂犬のごとき残忍さと無鉄砲な横暴さには、さすがのマ副班長も手を焼いてしまうのだった。警察上層部から一刻も早い解決を迫られる強力班。そこでマ副班長はチャイナタウンの住民たちに協力を仰ぎ、チャンに乗っ取られた毒蛇組の一斉検挙に乗り出そうとするのだが…? ・『犯罪都市』('17) いやあ、これはまんま’70年代東映の実録ヤクザ路線ですな!その辣腕で暴力団組織と真っ向から対峙しつつ、一方で賄賂や接待も平然と受けている不良刑事役のマ・ドンソクは、さながら『県警対組織暴力』(’75)の菅原文太である。必要とあれば、暴行尋問に不法侵入などの違法捜査なんぞ朝飯前。清廉潔白なヒーローとは口が裂けても言えないが、しかしその反面、部下思いで女性や子供にも優しく、杓子定規なルールよりも人情を重んじる懐の深い刑事だ。しかも、ハンパなく強いのだよね!どれだけ凶暴かつ凶悪なヤクザだろうとも、マ副班長の超重量級パンチや背負い投げを食らったらひとたまりもない。『イコライザー』シリーズのデンゼル・ワシントン同様、絶対に負けない男だ。マ・ドンソクが最も得意とする「気は優しくて力持ち」を極めたような、最高に愛すべきスーパー・ダーティ・ヒーロー。このキャラクターを主人公に据えた時点で、本作の成功は約束されたも同然だったと言えよう。 2004年のクムチョン警察による朝鮮族系組織の一掃作戦を基にしたフィクション、と冒頭テロップで解説されている通り、実際に起きた事件からヒントを得た作品。ただし、劇中の黒竜組のモデルになったチャイニーズ・マフィア、黒死病組の検挙は’07年のことだったという。恐らく、現実には映画よりも長いスパンがかかったのだろう。チャイニーズ・マフィアの連中がカラオケボックスで従業員の片腕を切り落としたのも、チャイナタウンの住民が警察の捜査に協力したのも実話。そういう意味でも、本作は韓国版・実録ヤクザ映画と呼ぶに相応しいだろう。 監督と脚本を手掛けたのはマ・ドンソクと同い年で、お互いに無名時代からの親友だったカン・ユンソン。’98年に留学先のアメリカで撮った短編映画が釜山国際映画祭などで高く評価されたカン監督は、韓国の投資会社から出資の申し出を受けてメキシコを舞台にした長編映画を企画するものの、あろうことか投資会社の会長が逮捕されたために断念。その後、再び持ち上がった長編映画のプロジェクトも投資会社の倒産でお蔵入りし、奥さんと衣料品店を経営しながら映画製作のチャンスを待ち続けたところ、準備に3年をかけた本作『犯罪都市』で念願の長編デビューを果たしたという苦労人だ。まさに3度目の正直というヤツですな。そもそも、本作の企画自体がマ・ドンソクの提案だったそうなので、恐らく長年の親友の監督デビューを手助けしたいという気持ちもあったのだろう。清濁併せ呑んだマ副班長ら強力班チーム面々の、少々荒っぽくも人間味があって憎めない魅力は、世の酸いも甘いも噛み分けたカン監督だからこそ、説得力を持って描くことが出来たのかもしれない。 ちなみに、実際のカリボンドンのチャイナタウンは賑やかな商店街で、さすがに映画のロケ撮影を行うのは難しかったため、ちょうど再開発中だったシンギルドン地区の空き地に本物ソックリのチャイナタウンを丸ごと再現したのだそうだ。さすがは韓国映画、やることが大胆である。 ・『犯罪都市 THE ROUNDUP』('22) 2作目はユーモアもバイオレンスも格段にスケールアップ! 先述したように、韓国ではその年の年間興収ランキングで3位という大ヒットを記録した『犯罪都市』。実は、マ・ドンソクによると当初からシリーズ化の構想はあったらしく、自身が韓国で設立した製作会社ビッグ・パンチ・ピクチャーズも制作に加わり、マ副班長と強力班メンバーのその後を描いた続編『犯罪都市 THE ROUNDUP』(’22)が完成する。 前作から4年後の2008年。かつてカリボンドンの宝石強盗事件に関わった下っ端のチンピラ、ジョンフンが、なぜか逃亡先であるベトナムのホーチミンで自首したとの報告が入り、クムチョン警察強力班のマ・ソクト副班長(マ・ドンソク)は、上司のチョン・イルマン班長(チェ・グィファ)の付き添いとして、凶悪犯罪者の引き渡しのために現地へ赴くことになる。「いやあ、海外出張なんて久しぶりだね!」「休暇を兼ねて思い切り羽を伸ばそうぜ!」とルンルン気分の2人。しかし、実際にジョンフンを目の前にしたマ副班長は、優秀なベテラン刑事としての鋭い勘が働く。こいつ、何か隠してやがるな。白を切り続けるジョフンにイラっとした彼は、チョン班長の積極的な黙認のもとで得意の暴行尋問を決行。その結果、ジョンフンがベトナムで韓国人の誘拐殺人事件に関わっていたことが判明する。 韓国では年間300人を超える犯罪者が海外へ逃亡し、その多くは東南アジアに潜伏。同胞の韓国人を狙った犯罪を引き起こしているという。ジョンフンもそんな逃亡犯のひとり。今回、ベトナムに潜伏していた彼は、同じような韓国人逃亡犯カン・ヘサン(ソン・ソック)と組んで、ベトナムで派手に金を使っていた韓国の青年実業家チェ・ヨンギを誘拐したのだが、しかし残忍極まりないサイコパスのカンは逃げようとした人質を呆気なく殺害。その後先を考えない凶暴さに恐れをなしたジョンフンは、韓国領事館に自首することで自分の身を守ろうとしたのだ。そうと知ったマ副班長とチョン班長は、韓国警察に捜査権のないベトナムで勝手に独自の捜査を開始。すると、チェ・ヨンギを含む4名の遺体が発見される。カンは他にも人を殺していたのだ。 その頃、カンはチェ・ヨンギが既に死んでいることを隠し、その父親である大企業経営者チェ・チャンベクに身代金を要求。しかし裏社会に通じたチェ社長は脅しに屈する相手ではなく、それどころか反対にカンを抹殺するべくプロの殺し屋組織をベトナムへ送り込んでいた。潜伏先のアパートを見つけ出し、カンとその相棒に襲い掛かる殺し屋一味。ところが、狂犬のようなカンたちは見境なく暴れまくり、たった2人で大勢の敵を皆殺しにしてしまう。そこへ乗り込んできたマ副班長とチョン班長だが、あと一歩のところでカンを取り逃がしてしまった。彼が韓国へ密入国したとの情報を得た2人は、すぐさま帰国して捜査網を張り巡らせるのだったが…? 『犯罪都市 THE ROUNDUP』('22) 国際規模にスケールアップしたシリーズ第2弾。前作と同様、今度もストーリーの元ネタとなった実際の事件がある。それが’08~’12年にかけてフィリピンで起きた韓国人の連続誘拐殺人事件。フィリピンへ逃げた韓国人の殺人犯たちが誘拐グループを組織し、同胞である韓国人の旅行者を誘拐しては身代金を要求していたという。事件として表面化した犯行は19件だが、実際はそれを遥かに上回る未発覚の余罪があるとのこと。一部の被害者は身代金の支払い後に解放されたが、しかし殺されてしまった被害者も多かったそうで、その正確な数はいまだに掴めていないらしい。 演出は前作のカン・ユンソン監督から、その助監督だったイ・サンヨンへとバトンタッチ。要するに、2作続けて新人監督が演出を担当している。シニカルなブラック・ユーモアとハードなバイオレンスを絶妙なバランスで交えつつ、いかにもアジア的で湿度の高い義理人情の世界を描いていた前作に対し、本作はよりハリウッド的とも言えるドライなアプローチが印象的だ。中でも、ルール無視の暴れん坊刑事・マ副班長と、なにかと愚痴をこぼしながらも意外と積極的に協力する上司・チョン班長の、『リーサル・ウェポン』さながらの名コンビっぷりは最高だ。何を考えているのか全く分からない狂犬カン・ヘサンの、未知の怪物的な得体の知れなさも強烈である。 なお、ストーリー前半でベトナムを舞台にしている本作だが、実は撮影に入る前の段階でコロナ感染が拡大してしまい、当初予定されていたベトナム・ロケを一旦延期。海外スタッフを集めた現地の撮影部隊を別途編成し、イ・サンヨン監督ら韓国のメイン部隊がリモートで指示を送り、その通りに撮影されたベトナムの風景映像に役者をCGで合成して仕上げたという。つまり、従来の意味における現地ロケは行っていないのである。いやあ、これは全く気付きませんでしたな! かくして、韓国歴代興行収入ランキング3位という前作以上の大ヒットを記録し、コロナ禍の影響で停滞していた韓国映画界が再び活性化する起爆剤になったとも言われる『犯罪都市 THE ROUNDUP』。本国では既に青木崇高や國村隼も出演している3作目『犯罪都市3』(‘23・邦題未定)も公開済み。来年には4作目の公開も控えている。最終的にはシリーズ8本、スピンオフ2本の合計10本が作られる予定で、韓国版『ワイルド・スピード』的なフランチャイズ化を目指しているのだそうだ。■ 『犯罪都市』© 2017 KIWI MEDIA GROUP & VANTAGE E&M. ALL RIGHTS RESERVED『犯罪都市 THE ROUNDUP』© 2022 ABO Entertainment Co., Ltd. & BIGPUNCH PICTURES & HONG FILM & B.A.ENTERTAINMENT CORPORATION, ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2023.09.27
4Kレストアが引き出す、天才リック・ベイカーの造形マジック —『キングコング』—
◆美麗によみがえった1976年リメイク版 おそらく今回のキングコング特集放送において、これが最大の目玉と言えるのではないだろうか。この1976年公開『キングコング』4Kレストア版、日本での放送はザ・シネマが初となる。35mmオリジナルネガから4KスキャンしたDCP素材を、現権利を管理するスタジオカナルが修復し、パラマウント・ピクチャーズがカラーグレーディングをほどこし、イタリアに拠点を置くフィルム修復ラボL'Immagine Ritrovataがレストアをおこなった、2022年製作の放送マスターだ。これまでのHDバージョンに比べ、シャープネスと明るさが段違いに強化されたものになっている。 2023年の現在、巨大モンスター映画の古典『キング・コング』(1933)のリメイクといえば、多くの人がピーター・ジャクソン監督の手がけた2005年の同名タイトル作を真っ先に思い浮かべるのではないだろうか。オリジナル版の設定をそのまま受け継ぎ、ストップモーション・アニメーションというマジカルな手法で撮られたコングをCGIでリクリエイトした同作は、ジャクソン監督が偉大なるファンタジー文学「指輪物語」を『ロード・オブ・ザ・リング』三部作(2001〜2003)に発展させたような、愛情深いアプローチこそが支持の根幹にある。 そのため、最初のリメイクである本作の存在は、郷愁やレトロスペクティブというテコを用いて強引にこじ開けないと、あまり思い出してもらえない存在になってしまった。加えて、この映画を構成する要素に同時代性が密接に絡み、それを詳述しないことには、もはや存在価値が掴みづらい。人喰いザメの猛威を描いた『ジョーズ』(1975)を起点とするパニック映画の興隆が製作動機となったことや、大物プロデューサーのハッタリに満ちた興行感覚。また当時のエネルギー危機を反映した脚本の現代的アダプトなど、それらは映画本体の画質を向上させただけではわかりかねるだろう。むしろ高精細になったことで、アニマトロニクスで創造されたコングの作り物感があらわになり、興醒めするかもしれない。 しかし愛憎半ばに揶揄しながらも、この映画の最大のセールスポイントは、油圧可動によるコングの12メートルに及ぶラージスケールの巨大モデルで、これは現代においても記録的な映画撮影用のモンスターのモックアップとしてレコードを持つ。全高12メートル、重量6.5トン 3,100フィートの油圧ホースと4,500フィートの電気配線を含むアルミニウムのスケルトンによって構成されたそれは、歩行のみならず腰を捻り回すことができ、6人の操演者によって制御された油圧バルブによって腕を動かすことができた。その表皮は有名なかつらメーカーであり、コングのヘアデザイナーであるマイケル・ディノが担当し、アルゼンチンから輸入された2トンの馬の尾でコングの体毛を作成。作業に数ヶ月をかけ、100人のアシスタントが馬の毛を4種類の網に織り込み、それをラテックスのパネルに取り付け、モデルの金属フレームに接着している。 そんなメカニカルコングのデザインは、特殊効果アーティストのグレン・ロビンソンとイタリアの特殊メイクアーティスト、カルロ・ランバルディによって考案された。製作者であるイタリア人プロデューサーのディノ・デ・ラウレンティスは、もともと特殊効果担当として旧知の仲だったイタリアン・ホラー映画の巨匠、マリオ・バーヴァにコンタクトをとった。しかしバーヴァはイタリアを離れてプロジェクトに参加することを固辞し、代わりにバーヴァがランバルディを推薦したのだ。 またランバルディは、MGMの建設部門でロビンソンの指揮下、ヒロインを演じたジェシカ・ラングに絡むコングの機械アームも手がけている。それはケーブル操作によって、ラングを持ち上げるパフォーマンスを可能にしたのである。ところが安全装置がコングの指に取り付けられているため、手がきつく閉じすぎるのを防ぐ機能が、4Kクラスの解像度だと隠すことなく視認できてしまう。ラージスケールのモックアップといい、どちらも撮影現場で思うように可動せず、またロングショットではいかにも作り物然とした外観が懸念されたのか、劇中ではわずか15秒間程度しかフレームに写り込んでいない。 ・撮影現場での巨大な実物大キングコング ◆巨大アニマトロニクスとエイプスーツの実像に迫る しかし何より、このリメイク版『キングコング』のプロジェクトには致命的な欠点があった。当初、オリジナル版との差別化を明白にするために、コングのデザインがゴリラからかけ離れ、原始人のようなヒューマノイド型になっていたのだ。 これに異を唱えたのが、特殊メイクの第一人者リック・ベイカーだ。ベイカーはこのリメイク版の話を明友ジョン・ランディスから仄聞し、このありえないデザイン変更を嘆いた。そして「コングのモックアップは実用性に乏しい」と、この映画が失敗作になる確信を抱いていたのである。だが長年にわたってエイプスーツを作ってきた自分なら、愛するコングを無惨な運命から救えるのではと、プロジェクトへの参加を受諾。そしてデザインの根本的な軌道修正のために、ラウレンティスや監督のジョン・ギラーミンらを自宅に招き、自作のゴリラスーツ着込んで「コングはこうあるべきだ」というプレゼンを仕掛けたのだ。 ベイカーのパフォーマンスをいたく気に入ったラウレンティスは、プリプロダクションで彼をランバルディと競合させ、コングのコンセプトスーツを製作させた。そのさいランバルディはコング役のアルバート・ポップウェルに適合するように、かたやベイカーは自分自身を念頭に置いてコングをデザインしている。そして二人が半仕上げのスーツを提示したところで、ラウレンティスは後者のものを選んだのだ。ベイカーは『キングコング』がピントの外れた原人映画になることを防いだだけでなく、タイトルキャラクターをメインで創造する主導権を得たのである。 ◆1976年版はモデルアニメのアンチテーゼだったのか? 『キングコング』における、これらのプラティカルな取り組みは、高度な特殊効果に目なれた当時の観客に目配りすると同時に、ストップモーション・アニメーションに対するアンチテーゼでもあったとも言われている。しかし実際は予算と制作期間の都合から必然的にきたもので、ラウレンティスは企画当初、アニマトロニクスとストップモーションの併用を漠然と考えていたようだ。事実、モデルアニメーションの大家であるレイ・ハリーハウゼンに打診をしたものの、ストップモーションアニメにかけられる期間が足るものではなかったため、ハリーハウゼンはオファーを蹴っている。 こうした弱点を補強する形で、実物大のモックアップを作成し、またオリジナル版のエンパイア・ステート・ビルに代わって、当時新しく建設された世界貿易センタービルをクライマックスの舞台にすることで、この毀誉褒貶のリメイク版は現代ナイズを正当化させたのである。■ 『キングコング【4Kレストア版】』© 1976 STUDIOCANAL
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COLUMN/コラム2023.09.22
『Mr.Boo!ミスター・ブー』香港映画の歴史を変えた、「天王」マイケル・ホイ
『Mr.Boo!』というタイトルの映画シリーズは、日本にしか存在しない。これはマイケル、リッキー、サミュエルのホイ3兄弟、或いはその内の長兄であるマイケル・ホイが主演した、複数の香港製コメディ映画の、日本での総称なのである。 アメリカの人気コメディアン、ジェリー・ルイス主演作の日本でのタイトルには、必ず「底抜け」という枕詞が付けられ、スティーヴン・セガール主演のアクション映画のほとんどが、『沈黙の…』という邦題でリリースされた。『Mr.Boo!』も、それらと同じようなことと言えるだろう。 そんな『Mr.Boo!』シリーズの日本公開第1弾として、79年に封切られたのが本作、その名も『Mr.Boo!ミスター・ブー』(1976)。マイケル・ホイが監督し、ホイ3兄弟が出演している。 香港映画と言えば、ブルース・リーの『燃えよドラゴン』(73)が大ブームを起こして以来、日本では誰もが、カンフー映画を思い浮かべるようになっていた。本作は、日本に於けるそんな香港映画のイメージを、決定的に変えることとなった1本である。 ※※※※※ ウォン(演:マイケル・ホイ)は、香港の街を舞台に活動する、私立探偵。 と言っても、彼の元に持ち込まれるのは、浮気の調査や万引き検挙のための見張りなど、ケチな仕事ばかり。助手のチョンボ(演:リッキー・ホイ)と、秘書の女性ジャッキーと3人で、細々と事務所を営んでいた。 そんな探偵事務所に、勤務先の工場をクビになった、お調子者の若者キット(演:サミュエル・ホイ)が現れ、雇ってくれという。最初は相手にしなかったウォンだが、キットのカンフーの腕前を見て、新たな助手に加える。 キットとチョンボをこき使い、給料もろくに払わないウォン。3人は様々な依頼に応える中で、次々と騒動に巻き込まれていく。 ある映画館に、爆弾を仕掛けるという内容の、脅迫が届いた。館主の依頼で、警備に入ったウォンたち。実はこの爆弾騒ぎは、兇悪な強盗団の仕掛けで、彼らは映画館へと押し入り、観客全員の財布や貴重品などを身ぐるみ剥ぎ取る計画を立てていた。 そんな強盗団とガチで対峙することになった、ヘッポコ探偵たちの運命は⁉︎ ※※※※※ 先に、香港映画≒カンフー映画のイメージを変えたと記したが、実は本作は、当のカンフー映画の添え物として輸入された作品。配給会社の東宝東和が、早世したブルース・リーの「最後の作品」であった、『死亡遊戯』(78)を買い付けた際に、おまけに付いてきた1本だったのである。 そんな経緯から、お蔵入りしてもおかしくなかったのだが、『死亡遊戯』公開直前に放送された、TV特番がきっかけで日の目を見ることになった。番組内で、本作で展開される、マイケル・ホイ扮する探偵と、スリに間違えられた男が、厨房で対決するシーンが紹介されたのである。 マイケルが、ぶら下がっていた腸詰を、ヌンチャクのように振り回して、男を追い詰める。すると男は、やはりぶら下がっていたサメの顎骨を使って逆襲する。この「ドラゴンvsジョーズ」のギャグが、日本のお茶の間で評判となったことから、公開に至ったというわけだ。 東京では有楽町に在った、丸の内東宝を軸とする劇場チェーンで、79年2月にロードショーされることが決定。とはいえ、そんなに期待されての興行ではなかった。 このチェーンでは、78年の暮れに公開された、アニメの『ルパン三世』劇場版第1作がヒットし、ロングランとなった。そのため、新春第2弾として1月中旬より公開予定だった『ブルース・リー 電光石火』(76)の公開が、2月までズレ込んだ。 この『電光石火』という作品は、アメリカ時代のブルース・リーが出演したTVシリーズ、「グリーン・ホーネット」(66~67)を再編集したもので、本作『Mr.Boo!』と同じ東宝東和の配給だった。そのために『Mr.Boo!』は急遽、『電光石火』と2本立てでの公開となってしまったのである。 その程度の扱いだった本作だが、蓋を開けてみれば、予想外の大ヒットを記録!サミュエル・ホイが広東語で歌う主題歌も、ラジオ番組などで頻繁に掛けられた。 東宝東和は早速、本作の後に製作された『Mr.Boo!インベーダー作戦』(78)を、シリーズ第2弾とすることを決めた。そして1作目の公開から僅か3ヶ月後、その年の5月には、大々的に公開したのである。 その際には、ホイ3兄弟を日本へと招聘。兄弟は、イベントや人気TV番組に次々と出演するなど、プロモーションを賑々しく展開した。 日本ではこんな流れで、『Mr.Boo!』シリーズが成立し、ホイ3兄弟も、すっかり人気者となった。ではホームグラウンドである香港では、彼らはどんな存在だったのか?そしてその作品群は、どんな評価を受けたのか? 俗に“ホイ3兄弟”というが、実は6人兄弟だった。ホントの長男は、幼い頃に亡くなっており、長男格のマイケルは、実際には次男。次男扱いのリッキーは、ホントは四男。末っ子扱いのサミュエルは五男で、彼の下には、妹が居る。 マイケルとリッキーの間の三男スタンレーは、助監督など主に裏方を務めて、“ホイ3兄弟”をサポート。…と言っても、俳優としてもちょいちょい顔を出しており、本作では、ラブホテルの支配人を演じている。 3兄弟の“長男”、1942年生まれのマイケル・ホイは、中国の広東省生まれ。7歳の時に、家族で香港へと移住した。 エリートが進む高校、大学を経て、普通に就職。教職を務めていた時に、6歳下=48年生まれの“末っ子”サミュエルの誘いで、芸能界入りを決めた。 サミュエルは大学在学中から学生バンドとして活動し、TV番組の司会など務めていたのだ。因みにサミュエルは、ミュージシャンとしても大成功を収め、後に“歌神”と呼ばれるほどの存在となる。 マイケルがTV司会者としてデビューしたのは、26歳の時。トークショー、ヴァラエティで活躍し、サミュエルとコンビを組んだ「ホイ・ブラザーズ・ショー」で更に人気を高めた後、映画界に進出となった。 何本かに出演した後、やがて自作・自演のコメディを手掛けるようになる。映画製作会社ホイ・プロダクションを設立。監督・脚本・主演を務めた第1作が、日本では『Mr.Boo!』 シリーズ第3弾として、79年12月に公開された、『Mr.Boo!ギャンブル大将』(74)だった。 実は“ホイ3兄弟”の“次男”リッキー・ホイは、『ギャンブル大将』の時点では、まだマイケルたちと合流していなかった。日本公開版には出演シーンがあるが、これは“シリーズ第3弾”としてリリースされることが決まってから、追加撮影されたものである。 リッキーは、46年生まれ。俳優になる前は、フランス領事館内に在るAFPの新聞記者を務め、ケネディ大統領暗殺などの記事を書いていたという。 仕事がキツかったので辞めて、大手映画会社の俳優養成所に進み、スタントマンへと転じた。ところがこちらの仕事もキツく、契約が切れてから、マイケルの元へと身を寄せた。 リッキーもサミュエルと同様、歌い手として「一流」と評価される、アーティストでもあった。 さて、先に本作『Mr.Boo!ミスター・ブー』が、日本に於ける香港映画のイメージを、決定的に変えた作品であることを記した。香港の映画史に於いてマイケル・ホイの存在は、更に大きなものと言える。 香港映画は、60年代から70年代はじめまでは、“北京語映画”の天下であった。そこで隆盛を極めたジャンルは、豪華絢爛たる宮廷もの、武侠活劇、甘いメロドラマ等々。 ところがこれらの作品が飽きられ始めたタイミングで、TVタレントが一挙に映画へと進出する。彼らは普段使いの“広東語”をセリフとした、香港の現実を反映した作品を製作する。その動きをリードした1人が、マイケル・ホイだったわけである。 チャーリー・チャップリンとハロルド・ロイド、そして初期のウッディ・アレンのファンだったという、マイケル・ホイ。アレンがニューヨークを舞台にしたように、マイケルは、香港をテリトリーに、香港人を主役にした映画作りを行った。『ジョーズ』や『007』、『ピンク・パンサー』等々のパロディを織り交ぜるなど、随所に外国映画の手法と動向を採り入れながら、香港の現実を色濃く反映させた作品を、作り出したわけである。こうしたマイケル・ホイのような映画作家が主流となることで、伝統的な中国映画の技法を継承していた“北京語映画”は、香港から姿を消すこととなったのである。 現代香港映画は、コメディと共に勃興し、70年代後半以降、いわゆる“香港ニューウェイヴ”に繋がっていく。その流れを作ったマイケル・ホイは、香港映画界に於いては、「天王」と呼ばれる存在となった。 さてここでまた、日本の話に戻す。 79年2月の『Mr.Boo!』大当たりによって、香港映画のコメディに飛びつく配給会社が、続々と現れた。前年=78年に香港で大ヒットとなった『ドランクモンキー 酔拳』(78)に、東映の洋画部が注目し、買い付けに至ったのも、そうした流れと言われる。 ご存じの方が多いとは思うが、この『酔拳』こそが、かのジャッキー・チェンの主演作としての、日本初お目見えだった。後に世界的大スターとなるジャッキーの、日本での人気に火を点けるきっかけとなったのも、実は『Mr.Boo!』だったのだ! 偉大なる「天王」マイケル・ホイは、少年時代に広東省から香港に渡ってきた。それはホイ一家が、「中国共産党から逃れるため」だったという。 そんなマイケルだが、香港が中国に返還される4年前=93年のインタビューでは、「返還」に対して、前向きな姿勢を示している。「…私は自分を中国人だと思っています。香港は私にとっては単なる小さな島で、たまたま父が私を島に連れて来て、40年もそこに住んでるというだけです」「お茶を一杯飲むために中国へ行って、また夜には香港に戻ってみたいな生活ができるし、しています」「…97年以降は、こんどは中国全体のために、中国に対して自分はどう思っていて、どういう方向性に向かうべきなのかということを自分なりに表現したものをつくりたいですね」 ところが返還から10年余経った、2008年のコメントを見ると、だいぶ雲行きが怪しくなってくる。「今の香港映画界は中国大陸の市場を考えなければならない。だから中国政府に脚本を見せなければならないんだけど制約が多くてね。簡単には進まない」 それから更に15年経ち、ご存じの情勢である。かつて香港ならではの“広東語映画”の隆盛を招き、“北京語映画”を葬る原動力となったマイケル・ホイ。“重鎮”として映画出演を続ける彼であるが、今の香港の姿、そして香港映画の在り方に対しては、何を思うのであろうか?■ 『Mr.BOO!ミスター・ブー』© 2010 Fortune Star Media Limited. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2023.09.12
宇宙を舞台に、映画史に新たなジャンルを興した!フィリップ・カウフマン監督生涯の傑作『ライトスタッフ』
“ライトスタッフ”を日本語に訳すと、「正しい資質」「適性」。元々は、アメリカの著名なジャーナリストで作家のトム・ウルフによる造語である。 トム・ウルフは、1960年代後半から勢いを持った、”ニュー・ジャーナリズム”の旗手的な存在。書き手が敢えて客観性を捨て、取材対象に積極的に関わることで、対象をより濃密に、まるで小説のように描くというその手法によって、数多のノンフィクションをものしている。 その内の1冊が、「正しい資質」を持った宇宙飛行士たちが、アメリカの国家プロジェクト「マーキュリー計画」に挑む姿を描いた、「ザ・ライト・スタッフ」だった。そしてこれが本作、『ライトスタッフ』(1983)の原作となった 原作が1979年に出版されると、その映画化権の争奪戦が起こる。勝ち取ったのは、『ロッキー』シリーズ(76〜 )で知られる、ロバート・チャートフとアーウィン・ウィンクラーのプロデューサー・コンビだった。 彼らは、『明日に向って撃て!』(69)『大統領の陰謀』(76)で2度アカデミー賞を受賞している、ウィリアム・ゴールドマンに脚本を依頼。製作会社は、79年に設立された新興のラッド・カンパニーに決まり、1,700万ドルの予算が組まれた。 監督候補として名が挙がったのは、『がんばれ!ベアーズ』(76)のマイケル・リッチーや『ロッキー』(76)のジョン・G・アヴィルドセン。2人との交渉が不調に終わった後、フィリップ・カウフマンにお鉢が回ってきた。 カウフマンは、1936年イリノイ州シカゴ生まれ。シカゴ大学に学んだ後、紆余曲折あって、妻子を連れてヨーロッパへと渡った。そしてアメリカン・スクールの教師を務めている頃、フランスで興った映画運動“ヌーヴェルヴァーグ”と出会い、映画作りに目覚めた。 本作の前には、エイリアンの地球侵略もの『SF/ボディ・スナッチャー』(78)や、60年代を舞台とした青春映画『ワンダラーズ』(79)の監督として、或いは『レイダース/失われた聖櫃(アーク)』(81)の原案を担当したことで知られていた。綿密な時代考証に基づいたジャーナリスティックな視点と娯楽性を両立できる作り手として、評価され始めた頃だった。 カウフマンは、監督を引き受けるに当たって、脚本も自分に任せることを、条件とした。ゴールドマンが書いたものが、まったく気に入らなかったからだ。 時は80年代前半。ソ連を「悪の帝国」と名指しした、ロナルド・レーガン大統領の下、「強いアメリカ」の復活が標榜されていた。ゴールドマンの脚本は国策に沿ったのか、カウフマンにとって、「あまりにもナショナリズムが全面に出ていて辟易する…」内容だったという。 更にゴールドマン脚本では、カウフマンが原作に見出した重要な要素が、すっかり落とされていたのである。 ***** 1947年、カリフォルニア州モハーヴェ砂漠に在るエドワーズ空軍基地のテスト・パイロット、チャック・イェーガーが、新記録を作った。X-1ロケットに乗って、人類史上初めて、「音速の壁」を破ったのである。これ以降次々と、記録が更新されていく。 第2次大戦後の米ソ冷戦。両陣営の緊張が高まる中で、57年にソ連がスプートニク・ロケットの打ち上げに成功。アメリカは、宇宙開発で後れをとった。そこでアイゼンハワー大統領とジョンソン上院議員が中心となって、「マーキュリー計画」が始動した。 宇宙飛行士にふさわしい人材として、白羽の矢が立てられたのは、空軍などのテスト・パイロットたち。ジョンソンらが、「彼らは手に負えない」と、その我の強さを危惧する中での決定だった。 しかし現役最高のパイロットだったイェーガーは、宇宙飛行士を「実験室のモルモット」と揶揄。また彼は大学卒ではなかったため、その候補から外される。 508人の応募者を集め、過酷な身体検査と適性試験が繰り返される。そうして絞られた59人から、最終的にアラン・シェパード、ガス・グリソム、ジョン・グレン、ドナルド・スレイトン、スコット・カーペンター、ウォルター・シラー、ゴードン・クーパーの7人が選ばれた。 彼らは厳しい訓練を経て、次々と宇宙に飛び立ち、国民的英雄に祭り上げられていく。 一方で、孤高の闘いを続けてきたイェーガーは、最後の挑戦に臨もうとしていた…。 ****** ゴールドマン脚本は、「マーキュリー計画」に挑む宇宙飛行士たちに話を絞って、イェーガーのエピソードは、丸々削除していた。それに対しカウフマンは、物語の冒頭とクライマックスに、イエーガーのエピソードを配置したのである。 その上で、宇宙飛行士7人すべてに詳しく触れると、いかに3時間超えの長尺でも、とても描き切れない。そこで、シェパード、グリソム、グレン、クーパーの4人のエピソードをクローズアップして描くことにした。彼らは国家や政治家の思惑に時には反発しながら、“個”としての誇りを守ろうとする。「…現在の宇宙計画はすべて地球の必要性に奉仕することに重点をおいていて、人々が外宇宙を求める心理には重きをおいていない」と指摘するカウフマン。彼にとっては、逆にそうした心理こそが、興味の的だった。 カウフマンは、孤高の存在であるイェーガーと、チームでプロジェクトに対峙していく宇宙飛行士たちを対比しながら、いずれとも、「現代のカウボーイ」として描いた。そして、アメリカの精神風土である、インディペンデント・スピリットへの強い賛同を示したのである。 カウフマンははじめ、「未来が始まったとき、ライトスタッフが存在した」と考えていた。しかしその後、「いかに未来が始まったのか、それはライトスタッフを持った男たちがいたからだ」という結論に到達したという。「…時代を描くだけではなく、その時代に生きた人間たちを描こうと試みた…」カウフマンは、宇宙飛行士だけでなく、その妻たちの不安や恐怖、功名心なども、丁寧に描出している。 製作に際して、カウフマンはスタッフに指示し、揃えられる限りの資料を揃えさせた。記録映画フィルムの買い物リストを渡され、国中を歩き回ることとなったのは、編集担当のグレン・ファーら。彼らは、NASAや空軍、ベル航空機保管庫などで膨大なフィルムに目を通し、30年間人目に触れていなかった、ソ連のフィルムの発見に至った。こうして収集された映像類の一部は、編集や映像加工のテクを駆使して、本編で効果的に使用されている。 集められた大量のビデオテープは、“宇宙飛行士"たちの役作りにも、大きく寄与した。スコット・グレンは、自分が演じるアラン・シェパードの「外側をつかまえるために」それらを利用したという。しかしシェパードの内面に関しては、「ぼくが自分自身を演じる方がいい」という判断に至った。 グレンの判断の裏付けになったのは、カウフマンの姿勢。彼は俳優たちに、自分が演じる実在の飛行士に会えという指示を行わなかったのである。 自らの考えでただ1人、演じるゴードン・クーパーを訪ねたのは、デニス・クエイド。そんな彼曰く、本作の撮影は「ぼくの人生最高の恋愛」だったという。クーパーの妻を演じたパメラ・リードも“夫”と同様に、「わたしの人生で最も幸せな時間だった」とコメントしている。 カウフマンの演出は、“宇宙飛行士"たちが信頼を寄せるに足るものだった。ジョン・グレンを演じたエド・ハリスは、「何ごとにおいても決して妥協しなかった。あの人は8人目の宇宙飛行士だ」と、カウフマンを称賛。ガス・グリソム役のフレッド・ウォードはシンプルに、「彼はすばらしい人だ」と、賛辞を寄せている。 本作の評価を高めた要因に、孤高のパイロット、チャック・イェーガーの存在があることを、否定する者はいまい。彼を演じたサム・シェパードは、まさに生涯のベストアクトを見せた。 1943年生まれのシェパードは、劇作家として、20代はじめからオフ・ブロードウェイを中心に、華々しく活躍。その後演出も、手掛けるようになる。 映画に初めて出演したのは、テレンス・マリック監督の『天国の日々』(78)。この作品で彼は、若くして死病に侵された、農場主の役を印象的に演じて、主演のリチャード・ギアを完全に喰った。 映画出演5作目に当たる、本作の日本公開は、アメリカの翌年=84年の9月。その年の春には、彼が原作・脚本を手掛けたヴィム・ヴェンダース監督作『パリ、テキサス』(84)が、「カンヌ国際映画祭」で最高賞のパルム・ドールを獲ったことも、話題となっていた。 本作でのシェパードの演技について「ニューズ・ウィーク」誌は、「…あたかもゲーリー・クーパーを想わせる…」「サム・シェパードはこの映画で二枚目としての地位を永遠のものにした…」と絶賛。「…この反体制的な芸術家が、伝説の空軍のエースと合い通じるものを持っていると見抜いた」監督のカウフマンに対しても、「慧眼である」と高く評価している。 因みに本作では、当時59歳だったチャック・イェガーを、テクニカル・コンサルタントとして招き入れた。パイロットたち行きつけの店のバーテンダー役として出演もしているイェーガーと、演じるシェパードの初対面は、ある中華料理店だったという。 カウフマンによると2人は、「最初は用心深く見つめ合うという感じ」だった。しかし店を出る時にお互いの小型トラックを見て話し始めると、突然2人の間にあった垣根がとれたかのようになり、その後はまるで、“親子”のような関係を築いたという。 サンフランシスコ在住のカウフマンは、ハリウッドを嫌って、本作の大半を自分の地元で撮影した。波止場の倉庫をスタジオに改造した上、「互いに刺激を与え合える人々と組む必要がある…」と、地元の熱心な才能を数多く起用している。 CG時代到来の前、宇宙船や戦闘機などの特撮に関しては、コンピューター制御による“モーション・コントロール・カメラ”が全盛を極めていた。カウフマンは、『スター・ウォーズ』シリーズ(77~ )や『ファイヤーフォックス』(82)などで成果を上げていた、この最新技術への依存を、敢えて避けるように指示を行った。 そこでVFX担当のゲイリー・グティエレツは、特殊効果の原則に立ち返ることにした。ある時は、サンフランシスコの丘に登って、ワイヤーで吊り下げた模型飛行機と雲を作る機械を駆使して、飛行シーンを撮影。またある時は、大きな弓を作って、超音速ジェット戦闘機の模型を矢のように飛ばして、カメラで追った。このように、当時としても「アナログ」な手法にこだわったことが、いかに効果的であったかは、各々が本作を観て、確認していただきたい。 本作で描かれた「マーキュリー計画」が幕を閉じるのは、63年5月。奇しくもその年の11月、ケネディ大統領暗殺事件が起こる。後継の大統領となったのは、宇宙開発の仕掛人の1人だったジョンソンだったが、彼の政権下、アメリカはベトナム戦争の泥沼に陥っていく。 その前夜のアメリカの栄光と矛盾を描き出した本作は、アカデミー賞に於いては、作品賞やサム・シェパードの助演男優賞など、9部門でノミネート。主要部門の受賞は逃すも、編集賞、作曲賞、録音賞、音響効果賞の4部門のウィナーとなっている。 しかし興行的には、不発。当初の予算1,700万ドルを遥かにオーバーしての製作費2,700万ドルは、まったく回収できない成績に終わってしまった。 だが本作なしでは、後の『アポロ13』(95)や『ドリーム』(16)などの作品の存在は考えにくい。「実話をベースにした宇宙映画」という、それまではなかったジャンルの先駆けとなった本作は、紛れもなくエポック・メーキングを果したのである。 製作から40年経った今でも、語り継がれる作品を作り上げたフィリップ・カウフマンも、まさに“ライトスタッフ”の持ち主だったと言えよう。■ 『ライトスタッフ』© Warner Bros. Entertainment Inc.
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COLUMN/コラム2023.09.04
SF映画ブームの真っ只中に登場した異色作は、古き良き宇宙冒険活劇の魅力が満載!『フラッシュ・ゴードン』
原作コミックは『スター・ウォーズ』のルーツでもあった! ジョージ・ルーカス監督による『スター・ウォーズ』(’77)の大ヒットをきっかけに、文字通り世界中で巻き起こったSF映画ブーム。同作の大きな功績といえば、飛躍的に進化した特撮技術や洗練された美術デザインによって、それまで子供騙しと揶揄されることの多かったSF映画に超現実的な説得力をもたらし、なにかとB級扱いされがちだった同ジャンルの地位をAクラスへ押し上げたことだと思うが、もうひとつ忘れてならないのは、長いことハリウッドで途絶えていた「スペース・オペラ」の伝統を見事に復活させたことであろう。 スペース・オペラ(=宇宙冒険活劇)とは、宇宙空間を舞台にした騎士道物語的なヒロイック・ファンタジーのこと。SF(空想科学)のサブジャンルではあるものの、しかし比率としては「科学」よりも「空想」の占める割合が圧倒的に大きく、どちらかというと神話や英雄伝説の類に近いと言えよう。かつてのハリウッドでは、「フラッシュ・ゴードン」や「バック・ロジャース」などコミック原作のスペース・オペラが、子供向けの連続活劇映画として大変な人気を博していたのだが、しかし第二次世界大戦後に米ソの宇宙開発競争が本格化し、一般市民でも科学技術に強い関心を持つようになると、どこまでも非現実的なスペース・オペラは急速に衰退してしまう。そんな古式ゆかしいSFジャンルを、有人宇宙飛行が夢物語ではなくなった時代に相応しくアップデートしたのが『スター・ウォーズ』だったわけだが、それに端を発するSF映画ブームもそろそろひと段落かと思われた矢先の’80年、あえて古き良き時代の荒唐無稽をそのまま現代に再現した王道的スペース・オペラ映画が登場する。それが、本作『フラッシュ・ゴードン』(’80)だ。 原作は’34年1月7日に全米で連載が始まったアレックス・レイモンドの新聞漫画「フラッシュ・ゴードン」。イェール大学を卒業した有名スポーツ選手(連載開始当初はポロ選手だった)フラッシュ・ゴードンと恋人デイル・アーデンが、天才科学者ザーコフ博士の開発した宇宙ロケットで地球から飛び出し、惑星モンゴの冷酷非情な独裁者ミン皇帝などのヴィランを相手に戦いを繰り広げる…というお話だ。当時のアメリカでは、同じく新聞の連載漫画だった「25世紀のバック・ロジャース」やパルプ小説「キャプテン・フューチャー」などのスペース・オペラが盛り上がっており、その人気にあやかるべくハリウッドの映画会社ユニバーサルが、いわゆる連続活劇映画として「フラッシュ・ゴードン」の映画化を企画する。その第1弾『超人対火星人』(’36)は、ユニバーサルにとって年間第2位の売り上げを誇る大ヒットを記録。フラッシュ・ゴードン役を演じた俳優バスター・クラッブは一躍トップスターとなり、『フラッシュ・ゴードンの火星旅行』(’38)に『宇宙征服』(‘40)と続編映画も作られた。 ちなみに連続活劇映画(=シリアル)とは、全12~15話で完結する連続ドラマ形式のアクション映画のこと。各エピソードは20分前後なので、だいたい1作品の総尺は4~5時間。新しいエピソードは週替わりで上映され、いずれもクリフハンガー形式で次回への期待を煽る。いわばテレビ・シリーズのご先祖様みたいなものだ。映画界でスペース・オペラが途絶えた’50年代以降、『スペース・パトロール』(‘50~’55)や『進め!宇宙パトロール』(’54)、『宇宙戦士コディ』(’55)など、スペース・オペラは子供向けの特撮テレビ・シリーズとして生き延びたのだが、それなりにスケールの大きな冒険活劇を描くにあたって、やはり連続ドラマ形式はフォーマットとして向いていたのかもしれない。 いずれにせよ、ハリウッドで最初のスペース・オペラ映画とされるのが連続活劇版「フラッシュ・ゴードン」シリーズ。その大成功のおかげで、「25世紀のバック・ロジャース」も同じく連続活劇として映画化された。実はジョージ・ルーカスも、もともとは「フラッシュ・ゴードン」の映画化を希望していたものの、先に映画化権が押さえられていたため断念し、代わりにオリジナルの『スター・ウォーズ』を作ったと言われている。その映画化権を先に取得していたのが、ほかでもないイタリアの誇る大物映画製作者ディノ・デ・ラウレンティスだったのである。 実は製作者ディノ・デ・ラウレンティスの趣味が全開だった!? 巨匠フェデリコ・フェリーニの『道』(’54)や『カビリアの夜』(’56)を筆頭に、ソフィア・ローレン主演の『河の女』(’55)にオードリー・ヘプバーン主演の『戦争と平和』(’56)、アル・パチーノ主演の『セルピコ』(’73)にチャールズ・ブロンソン主演の『狼よさらば』(’74)などなど、文字通り世界を股にかけて数々の名作・話題作を世に送り出してきた映画界の巨人ディノ・デ・ラウレンディス。実は彼、フランスの大人向けバンド・デシネを映画化した『バーバレラ』(’68)やイタリアのフメッティ・ネリを映画化した『黄金の眼』(’68)、「英雄コナン」を原作とする『コナン・ザ・グレート』(’82)を手掛けていることからも推察できるように、古き良き時代のコミックやパルプ小説の大ファンだったらしい。「フラッシュ・ゴードン」についても、イタリア語版の原作コミックを全巻コレクションするほどのマニアだったそうだ。 当初、彼はフェリーニに演出を任せようとしたが実現せず、代わりとしてニコラス・ローグに白羽の矢を立てるもののソリが合わず、セルジオ・レオーネに依頼したところ脚本にダメ出しをされて断られ、最終的に『狙撃者』(’71)以来目ぼしいヒットに恵まれなかったマイク・ホッジス監督が選ばれる。恐らく、プロデューサー的に使い勝手が良かったのだろう。脚本を手掛けたロレンツォ・センプル・ジュニアによると、ストーリーからビジュアルまで全てがデ・ラウレンティスの一存で決められていたのだとか。言うなれば、マイク・ホッジスは現場監督に過ぎず、実質的にはディノ・デ・ラウレンティスの映画だったのである。 そのロレンツォ・センプル・ジュニアの手掛けた脚本が実に荒唐無稽でナンセンス!当時は『キング・コング』(’76)や『ハリケーン』(’79)で立て続けにデ・ラウレンティスと組んでいたセンプル・ジュニアだが、もともとはテレビ版『バットマン』(‘66~’68)で名を成した人である。キッチュでコミカルでバカバカしくて、だからこそ理屈抜きに楽しいテレビ版『バットマン』。実はそれこそ、デ・ラウレンティスが本作に求めたものだったという。 暇を持て余した惑星モンゴの邪悪なミン皇帝は、たまたま見つけた平和な惑星・地球を滅亡させることにする。一気に滅ぼしてはつまらないからと、次々に自然災害を起こしていくミン皇帝(マックス・フォン・シドー)。一体どうやるのかというと、「地震」とか「ハリケーン」とか「竜巻」とか「火山噴火」とか英語で書かれたボタンを押していくだけなのだからズッコケる(笑)。あれですね、この時点で真面目に見ちゃいけない映画なのがマル分かりですな。で、地球が天変地異に見舞われる中、たまたま同じ飛行機に乗り合わせたのが、アメフトのスター選手フラッシュ・ゴードン(サム・ジョーンズ)と旅行会社の社員デイル・アーデン(メロディ・アンダーソン)。やむなく飛行機を不時着させたところ、そこは偶然にも宇宙科学者ザーコフ博士(トポル)の研究所だったという都合の良さ!以前より異星人からの攻撃を予見していたザーコフ博士は、自ら開発した宇宙ロケットにフラッシュとデイルを無理やり乗せ、和平交渉のため惑星モンゴへと旅立つ。 とはいえ、当然ながらミン皇帝は話の通じる相手ではなく、3人はあえなく捕虜の身となってしまうことに。こうなったらミン皇帝を倒す以外に地球を救う方法はない!ということで、フラッシュたちはミン皇帝の圧政に苦しむ森の国アーボリアのバリン公(ティモシー・ダルトン)や鳥人集団ホークマンの王ヴァルタン公(ブライアン・ブレスド)、父親であるミン皇帝に反抗するオーラ姫(オルネラ・ムーティ)らを味方につけ、大規模な反乱計画を企てるのだった…! というわけで、往年の子供向け宇宙冒険活劇そのままのレトロフューチャーな世界観といい、『スター・ウォーズ』以前の時代と大して変わらないローテクな特撮技術といい、劇場公開から40年以上を経た今でこそ新鮮な面白さがあるものの、当時は賛否両論だったというのも頷ける話ではある。確かにこれは好き嫌いが真っ二つに分かれるはずだ。悪趣味スレスレのキャンプな美的センスとキャッチーで痛快なロック・ミュージックの組み合わせは、さながらスペース・オペラ版『ロッキー・ホラー・ショー』。まさにミッドナイト・シネマのノリである。その音楽を手掛けたのが、イギリスを代表する人気ロックバンド、クイーン。これがまた底抜けにカッコ良いのですよ。今でも根強い本作のカルト人気は、このクイーンによるサントラに負うところも大きいはずだ。 さらに、デ・ラウレンティスはフェリーニの『サテリコン』(’69)や『アマルコルド』(’73)、『カサノバ』(’76)などで有名な美術監督ダニロ・ドナーティの大ファンで、本作ではセットから衣装に至るまで全てのビジュアル・デザインを彼に一任。エロティックでフェティッシュなニュアンスをたっぷりと含んだ、ドナーティの豪華絢爛で大胆不敵で退廃的なデザインは極めてヨーロッパ的である。当時、イギリスやイタリアでは興行的に大成功したものの、アメリカでは全くの不評だったというのも分からないではない。そういえば、よくよく見ているとビジュアル的に『バーバレラ』を彷彿とさせるような点も少なくありませんな。なるほど、そういう意味でもデ・ラウレンティスの趣味に合致していたのだろう。 いずれにせよ、人によって合う合わないがハッキリと分かれる作品ではあるものの、しかし古き良き「宇宙冒険活劇」を愛する映画ファンであればハマること間違いなし!あのエドガー・ライト監督やタイカ・ワイティティ監督もファンであることを公言し、セス・マクファーレン監督も『テッド』(’12)でオマージュを捧げている。本作の製作舞台裏と主演俳優サム・ジョーンズのキャリアにスポットを当てた「Life After Flash」(’19)というドキュメンタリー映画まで作られた。今回、ザ・シネマではデジタル修復された超高画質の4Kレストア版を放送。改めて、そのレトロだけど新鮮で、悪趣味だけどポップで、荒唐無稽だけど愉快で楽しい『フラッシュ・ゴードン』の魅力を再確認して欲しい。■ 『フラッシュ・ゴードン』© 1980 STUDIOCANAL