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COLUMN/コラム2023.02.24
70年代“ポルノ・スター”とその主演作が辿った、数奇な運命。『ラヴレース』
“洋ピン”という言葉の響きに、ある種の郷愁を覚えるのは、50代中盤以上の、ほぼ男性に限られるのだろうか? “洋ピン”を一言で説明すれば、洋ものピンク映画の略。即ち、アメリカやヨーロッパなどで製作された、外国産のポルノ映画を指す。 “洋ピン”は、日本の洋画興行に於いて、1970年代に全盛期を迎えた。往時は、億単位の配給収入を上げる作品も、少なくなかったという。 その頃は世界的に、性の解放やフリー・セックスが、トレンドとなった時代。日本にもその波が押し寄せて…と言っても、実は欧米とは、かなり事情が違っていた。 アメリカや北欧などではいち早く、ヘアや性器を明け透けに見せながら、セックスの本番行為を映し出す、いわゆる“ハードコア”のポルノ映画が解禁された。しかし、ピンク映画やにっかつロマンポルノなど、我が国で製作される成人向け作品は、実際には性行為は行わずに、それらしく演じてみせる、いわゆる“ソフトコア”止まり。 そんなことからもわかる通り、当時の日本では、もろ出しの欧米産“ハードコア”をそのまま公開することなど、もっての外。許される筈がなかった。 しかし実際は、そうしたハードコア”のポルノ作品が数多く輸入されて、次々に公開されたのである。日本独自の加工を施して…。 オリジナル版で映し出される、性器や性行為は、ある時はカットされ、またある時はボカシやトリミングが掛けられた。花瓶などを写した他のフィルムを焼き付けて秘所を隠す、“マスクがけ”といった高等テクニック(!?)まで生み出され、とにかくヤバい部分は、いくら目を凝らしても見えないようにされたのだ。 欧米産ポルノ映画は、そのようなプロセスを経て、日本のみのバージョンである“洋ピン”と化して、ようやく公開へと辿り着く。そんな代物であっても、繁華街から場末まで、そうした作品を上映する専門館には、多くの観客が集まったのである(現存する映画館で言えば、銀座の東映本社地下に在る「丸の内TOEI②」も、40数年前には「丸の内東映パラス」という名で、“洋ピン”専門館だったことがある)。 欧米では“ハードコア”、転じて日本では“洋ピン”。そんな70年代のポルノ映画事情を象徴するのが、『ディープ・スロート』(1972)という作品である。そしてその40年後に、『ディープ…』の主演女優であったリンダ・ラヴレースの人生の一局面を描いたのが、本作『ラヴレース』(2013)だ。 ***** 1970年、フロリダの田舎町で暮らす、リンダ・ボアマン(演:アマンダ・セイフライド)。両親(演:ロバート・パトリック、シャロン・ストーン)は厳格なカトリック教徒で、特に母は、リンダの生活に容赦なく介入した。 窮屈な生活を強いられるリンダの前に、バーの経営者だという、チャック・トレーナー(演:ピーター・サースガード)が現れる。ヒッピー風で当世のカルチャーに詳しく、しかも優しく接してくれる年上の男性チャックに惹かれたリンダは、早々に親元を飛び出して、彼と結婚する。 それから半年。チャックはバーでの売春あっせん容疑で逮捕され、その保釈金やあちこちへの借金で、首が回らなくなっていた。起死回生の一手として彼が仕掛けたのが、妻リンダのポルノ映画出演。 演技はずぶの素人である、リンダを起用することに懐疑的な製作陣に、チャックは8㎜フィルムで撮った、彼女の“秘技”を見せる。どんな巨大な男性器でも喉の奥深くまで咥えてみせるその様に、製作陣は驚愕。そして、リンダが喉にクリトリスがある女性という設定の“ハードコア”、『ディープ・スロート』(直訳すれば、喉の奥深くという意)が製作されたのである。『ディープ・スロート』は、最終的な売り上げが5億㌦とも6億㌦とも言われる、驚異的な大ヒットとなり、社会現象を引き起こす。リンダはこの作品出演を機に、“リンダ・ラヴレース”という芸名を与えられ、「性の解放」を象徴するヒロインとして、全米注目の存在に。 しかしそれは、リンダの望んだことではなかった。実は結婚当初から彼女を暴力で支配していたチャックが作り上げた、“虚像”だったのである…。 ***** アマンダ・セイフライドは、SF作品『TIME/タイム』(11)のヒロインや、ミュージカル『レ・ミゼラブル』(12)のコゼット役などで、若手女優として人気も評価もピークに近かった頃に、本作に主演。ヌードや濡れ場にも臆することなく、実在の“ポルノ・スター”という難役に挑んだ。 1985年生まれの彼女は、リンダ・ラヴレースも『ディープ・スロート』も、それまでまったく知らなかった。自分の両親に当時の反響を聞いたり、監督たちが集めた、リンダに関する膨大な写真やフッテージ、本などの資料に触れ、更にはリンダの出演作のほとんどを観るなどして、役作りを行ったという。 それまでも、悪役やクズ男を演じてきたピーター・サースガードだが、本作はまさに適役!アマンダ曰く、「ピーターがすごいのは、カリスマ的な魅力を持っている男から、一瞬にしてひどく暴力的な男に豹変してしまえる…」ことで、そんな多重人格的なチャック・トレーナー役を、見事に演じてみせた。 本作の前半は、田舎出の女の子が、愛する男性のサポートによって、時代の寵児となっていく展開。リンダの歩みが、まるで“サクセスストーリー”のように描かれる。 しかし後半は、一転。ドキュメンタリー畑出身の監督コンビである、ロブ・エプスタインとジェフリー・フリードマンは、成功の裏にあった、おぞましくも醜い現実を抉り出す。 見せかけの栄光の日々から、6年。新たな夫との間に我が子を授かっていたリンダは“うそ発見器”に掛かるまでして、ある出版物をリリースする。それは彼女が、成功の裏に隠された真実を綴った、己の“自伝”である(日本では「ディープ・スロートの日々」なるタイトルで出版された)。 本作を構成するに当たっての重要な資料にも当然なったと思われる、この“自伝”。実は本作以上に、強烈で衝撃的な描写が満載である。 結婚直後からチャックのDVの餌食となったリンダは、やがて“売春”を強要されるようになる。時には複数の男にレイプされ、更には獣姦まで強いられる。『ディープ・スロート』以前には、8㍉フィルムで性行為を撮影した、いわゆる“ブルーフィルム”にも多数出演させられている。『ラヴレース』ではさらりと触れられる程度だが、実在の有名人との関わりも、“自伝”では詳細に描写される。成人向け娯楽雑誌『PLAYBOY』で、一大帝国を築き上げた男、ヒュー・ヘフナー。本作ではジェームズ・フランコが演じたヘフナーの館では、毎夜のように酒池肉林のパーティが開かれ、そこでは多数の男女が、乱交に興じる。その中でリンダは、ヘフナーと関係を持つのである。 “自伝”の中で、印象的な登場人物の1人となるのが、“ラット・パック”=フランク・シナトラ一家の一員として、多数のショーや映画に出演し、人気を博した一流のエンターティナー、サミー・デイヴィスJr.。“洋ピン”世代(!?)の中には、彼が70年代前半に出演した、ウィスキーの「サントリーホワイト」CMが、印象に残っている方が多いであろう。 本作ではヘフナー邸で、リンダに一言挨拶する出番に止まったサミーだが、“自伝”では、チャック&リンダ夫妻とスワッピング=夫婦交換を頻繁に行っていたことが、詳らかにされる。やがてサミーは、リンダに対して、プロポーズするほどに入れあげる。また彼はイタズラ心から、スワッピングの最中チャックに対して、自ら“ディープ・スロート”を仕掛けたりする。 とはいえ、ヘフナーやサミーの痴態を描くのは、リンダにとっての本旨ではない。DVの告発及び、彼女を搾取したポルノ映画産業への批判こそが、“自伝”を著わした、真の動機であり目的だったのだ。 この“自伝”がベストセラーになった後のリンダは、「アンチ・ポルノ」の運動家に。そして2002年に、車の事故によって53歳の若さでこの世を去るまで、先鋭的な活動を続けたという。 因みにチャックは、リンダとの離別後、新たなるポルノ・スター、マリリン・チェンバースと結婚。こちらの夫婦生活も、10年ほどで終わりを迎える。そして彼は、奇しくもリンダが亡くなった3ヶ月後に、心臓発作でこの世を去る。 さてここで、日本での“洋ピン”としての『ディープ・スロート』公開の顛末を、付記しておこう。72年の本国公開時から、その評判だけは本邦にも伝わっていた『ディープ…』を買い付けたのは、東映傘下の配給会社「東映洋画」。しかしながら掛け値無しの“ハードコア”である『ディープ…』は、日本公開しようにも、まともに上映できるのは、61分の上映時間の中の、15分から20分程度に過ぎなかった。 そこで浮かび上がった窮余の策が、『ディープ…』のジェラルド・ダミアーノ監督が、その後に撮った作品を加えて、2部構成にでっち上げること。更には『ディープ…』でカットせざるを得なかった分を、規制に触れないレベルで撮り足して、補填するという荒技だった。 この作業を依頼されたのが、長年ピンク映画を撮り続けてきた、向井寛監督。向井は横顔、頭髪、耳、乳房、足、手、背中などのパーツがリンダに似ている、外国人女性を7人集め、追加撮影を行った。 そうして完成した、“洋ピン”としての『ディープ…』が、日本で公開されたのは、本国より3年遅れの、75年。その興行成績は、配収にして1億5,000万円から1億7,000円ほどだったと言われる。 この作品に施された改変は、極端な例ではある。しかし、“ハードコア”が“洋ピン”と化す時点で、ある意味別物となってしまうことを表す、極めて象徴的なエピソードとも言えるだろう。それでも日本の観客は、“洋ピン”専門館へと押し寄せたのだ。 しかし1980年代後半、画面にモザイクは掛かれど、本番行為有りのAV=アダルトビデオがブームとなると、長年日本のスクリーンを飾ってきた“洋ピン”も、遂には衰退に向かわざるを得なくなる。その命脈が完全に絶たれたのは、今からちょうど30年前。1993年のことであった。■ 『ラヴレース』© 2012 LOVELACE PRODUCTIONS, INC.
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COLUMN/コラム2023.01.31
テレビ版の魅力を継承しつつ進化させた映画版の見どころをチェック!『チャーリーズ・エンジェル(2000)』
‘90年代後半から流行したテレビシリーズの映画版リメイク ‘90年代後半から’00年代にかけて、ハリウッドでは名作テレビドラマの映画版リメイクが流行った。それ以前にも、ブライアン・デ・パルマ監督の『アンタッチャブル』(’87)やトム・ハンクスとダン・エイクロイド主演の『ドラグネット 正義一直線』(’87)、ハリソン・フォード主演の『逃亡者』(’93)などのリメイク映画が存在したものの、大きなきっかけになったのはそのデ・パルマが手掛けた『スパイ大作戦』(‘66~’73)の映画版リメイク『ミッション:インポッシブル』(’96)であろう。シリーズ化もされた同作の大成功に倣って、『セイント』(’97)や『ロスト・イン・スペース』(’98)、『アベンジャーズ』(’98)、『ワイルド・ワイルド・ウエスト』(’99)、『アイ・スパイ』(’02)、『S.W.A.T.』(’03)、『スタスキー&ハッチ』(’04)、『奥さまは魔女』(’05)などなど、数多くの名作テレビドラマが劇場用映画として甦った。 それゆえ、当時「ハリウッドはネタが尽きた」などとメディアでも揶揄されたものだが、恐らく実際そうだったのだろう。ヒット・ポテンシャルの高い企画を常に求めている各映画会社にとって、既に知名度がある往年の名作テレビドラマの映画化は、一からストーリーやキャラクターを作る必要もないため、手軽に稼げる美味しいネタと考えられたのかもしれない。ただ、映画ファンならばご存知の通り、当時雨後の筍のごとく作られたそれらのリメイク映画の大半は、興行的にも批評的にも決して満足のいく成果を上げたとは言えなかった なにしろ、テレビドラマというのは登場人物とそれを演じるスターの魅力が命。だからこそ、視聴者は毎週の放送を楽しみにして待ってくれる。しかし、当然ながら映画版リメイクでは別のスターが演じることになるわけで、そうなると作品のイメージそのものが変わってしまう。オリジナルの知名度が高ければ高いほど、ファンの期待を裏切ってしまうリスクは高い。『ミッション:インポッシブル』の成功だって、あれはトム・クルーズという希代のスターの存在があってこそだ。そうした中にあって、その『ミッション:インポッシブル』に次ぐ大成功を収めたテレビドラマの映画版リメイクが、同じくシリーズ化もされた『チャーリーズ・エンジェル』(’00)だった。 ‘70年代だからこそ生まれたテレビ版『チャーリーズ・エンジェル』 オリジナルはもちろん、’70年代に世界中で一大旋風を巻き起こした大ヒット・ドラマ『地上最強の美女たち!チャーリーズ・エンジェル』(‘76~’81)。警察学校を卒業した元婦人警官ジル・モンロー(ファラ・フォーセット)にサブリナ・ダンカン(ケイト・ジャクソン)、ケリー・ギャレット(ジャクリン・スミス)の美女3人が、声だけで姿を一切見せない謎多き大富豪チャーリー・タウンセンド(ジョン・フォーサイス)の経営する探偵事務所に雇われ、ちょっとトボケたオジサン上司ボスレー(ジョン・ドイル)の指示のもと、依頼人から相談された様々な事件や謎を究明するべく潜入捜査を試みる。さながら女性トリオ版ジェームズ・ボンドである。 全盛期の平均視聴率25.8%と驚異的な数字を叩き出し、着せ替え人形からノベライズ本まで様々な関連グッズが売れまくったという本作。その最大の理由は、間違いなく主人公のエンジェルたちであった。中でも、ジル・モンロー役のファラ・フォーセットは’70年代を象徴する国民的なセックス・シンボルとなり、アメリカ中の女性がライオンのたてがみのような彼女のヘアスタイルを真似たとも言われる。番組とは直接関係がないものの、彼女の水着ポスターも600万枚以上を売り上げた。また、明るくて天然ボケ気味のカリフォルニア娘ジルに、気が強くてお転婆な良家の令嬢サブリナ、モデルのようにエレガントでフェミニンなケリーと、三者三様のユニークな個性もバランスが良かった。番組では定期的にメンバー交代が行われたものの、ジルの妹クリス・モンロー役のシェリル・ラッド、ティファニー・ウェルズ役のシェリー・ハック、ジュリー・ロジャーズ役のタニア・ロバーツと、交代メンバーたちもいずれ劣らぬ魅力の美女揃い。その全員が、当番組を機にハリウッドのスターダムを駆け上がった。それもまた稀有な現象だったと言えよう。 そんな美しきヒロインたちが、任務のために毎回様々なコスチュームを披露してくれるのも番組名物。特に、半ばお約束となったビキニの水着シーンを目当てに、番組を楽しんだ男性ファンも多かったようだ。ほかにも、露出度の高い大胆なパーティ・ドレスや、時には色っぽい着替えシーンまで登場することもあった。ご存知の通り、アメリカのテレビは性描写に対して非常に保守的であるため、おのずと当番組も少なからぬ批判を受けたそうだが、なにしろ当時はリベラルなフリーセックスの時代である。そんなアメリカ社会の自由な空気が、本作の人気を後押しした面も恐らくあっただろう。 時代と言えば、男性の助けを借りずに悪者と戦うことの出来る、強くてパワフルで聡明なヒロイン像を打ち立てたという点でも、本作はウーマンリブの波が押し寄せた’70年代に生まれるべくして生まれた番組だった。それ以前にも、例えばアン・フランシスがセクシーな黒のレザースーツで活躍する探偵ドラマ『ハニーにおまかせ』(‘65~’66)やステファニー・パワーズがキュートな女性エージェントを演じるスパイ・ドラマ『0022アンクルの女』(‘66~’67)、アンジー・ディッキンソンがタフでセクシーな女性警部ペッパー・アンダーソンを演じた犯罪ドラマ『女刑事ペッパー』(‘74~’78)など、自立した強いヒロインが活躍するアクション・ドラマは幾つか存在したものの、しかしいずれもピンチの際に彼女たちを助ける男性パートナーの存在があった。一応、この『チャリエン』でも男性上司ボスレーのバックアップはあるものの、しかし現場で頼りになるのは自分たちだけ。決して強い男性に頼ることはない。そういう意味でも本作は画期的だった。 映画版はオリジナルと地続きの続編だった!? かくして、’70年代の社会ムーブメントすらも体現した金字塔的ドラマを映画として復活させたのが、’00年公開の『チャーリーズ・エンジェル』。本作が数多のテレビドラマに比べてリメイク向きだったのは、登場人物やキャストが変わってもあまり違和感がないことだろう。つまり、謎の大富豪チャーリー・タウンセンドの探偵事務所に雇われた3人の美女が活躍する…という基本設定さえ押さえておけば、そのメンバーが入れ替わっても大して問題ないのだ。実際、テレビ版もメンバー交代を繰り返しながらシーズンを重ねたわけだし、シリーズの終了から20年近くも経っているわけだから、エンジェルたちも世代交代していると考えた方がむしろ自然である。幸い、このリメイク版ではチャーリー役にオリジナルのジョン・フォーサイスが再登板。なおさら、時代が変わって世代交代が進んだことに説得力が増す。ビル・マーレ―のボスレーはコードネームと理解すればよろしかろう(笑)。なので、これはテレビドラマの映画版リメイクというよりも、テレビドラマから地続きの映画版続編と捉えた方が正しいかもしれない。 そんな新世代のエンジェルたちが、キャメロン・ディアス演じるナタリー・クックにドリュー・バリモア演じるディラン・サンダース、そしてルーシー・リュー演じるアレックス・マンデイの3人だ。笑顔のキュートな天然ボケ気味のカリフォルニア娘ナタリー、反骨精神旺盛なおてんば娘のディラン、エレガントな女王様タイプのアレックスと、各人がテレビ版のジル、サブリナ、ケリーのイメージをそれとなく継承しつつ、一方で演じる女優たちの個性を存分に際立たせた独自のヒロイン像を打ち出している。’70年代のエンジェルたちがセクシーでグラマラスならば、’00年代のエンジェルたちはワイルドでクレイジー。当たり前のことだが、求められる理想の女性像も変わったのだ。 その点は、監督のMcG(マックジー)も十分に意識していたはずだ。「一般的なアクション映画における男女の役割を逆転させた」と監督が語っている通り、あらゆる場面で主導権を握るのはあくまでもエンジェルたち、つまり女性である。一応、ナタリーとアレックスにはボーイフレンドがいるものの、ハッキリ言って単なる添え物にしか過ぎない。もちろん、プロデューサーに名を連ねたドリュー・バリモアの意向もあっただろう。そもそも、本作の企画を最初に立ち上げたフラワー・フィルムズは、ドリュー・バリモアと親友ナンシー・ジュヴォネンが創設した製作会社。恐らく、女性へのエンパワメントという意図もあったに違いない。その方向性は、同じくフラワー・フィルムズが製作した3作目『チャーリーズ・エンジェル』(’19)でより明確なものとなる。 また、本作は香港映画でもお馴染みのワイヤー・アクションをふんだんに取り入れた点でも印象的だった。ちょうど当時のハリウッドは、ジャッキー・チェンやチョウ・ユンファ、ジョン・ウー監督ら香港映画の才能が次々と進出していた時期である。恐らくハリウッド映画で最初に香港のワイヤー・アクションを導入したのは『マトリックス』(’99)だと思うが、しかし王道的なアクション映画で本格的に取り入れたのは本作が初めてだったかもしれない。ジョン・ウー作品など香港映画のファンを自認するMcG監督は、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ天地黎明』(’91)などで有名な武術監督ユエン・チョンヤンを香港から招へい。メインキャストたちは1日8時間、週5日間のカンフー・ブートキャンプを3カ月間みっちり続けたという。その甲斐あって、エンジェルたちのアクロバティックなアクションは実に見事な仕上がりだ。 一方、ストーリーは実にシンプルで単純明快である。新興ハイテク企業の創立者で天才エンジニアのエリック・ノックス(サム・ロックウェル)が誘拐され、共同経営者ヴィヴィアン(ケリー・リンチ)の依頼でエンジェルたちは捜査を開始。ライバル企業の社長コーウィン(ティム・カリー)とその手下の殺し屋・ヤセ男(クリスピン・グローヴァー)を怪しいと睨むも、実は全てエンジェルたちに近づくためノックスが仕組んだ狂言だった。その目的は、探偵事務所のボスであるチャーリーへの復讐。亡き父親がチャーリーのせいで殺されたと信じている彼は、謎に包まれたチャーリーの居場所を突き止めて抹殺するつもりだったのだ…! 実は、テレビ版にも似たようなストーリーのエピソードがある。それがシーズン1第5話「標的にされたエンジェル達」と、シーズン4第12話「チャーリー出動!孤島のエンジェル狩り」。どちらもチャーリーに恨みを持つ犯罪者がエンジェルたちの命を狙い、その住所すら誰も知らないチャーリーをおびき出して殺そうとする。具体的な設定や展開はだいぶ違うので、映画版がこれらのエピソードを下敷きにしたというわけではないが、もしかするとヒントくらいにはなったのではないかとも思う。 ちなみに、テレビ版「標的にされたエンジェル達」にはチャーリーの屋敷が出てくるのだが、これがまるでヒュー・ヘフナーのプレイボーイマンションみたい(笑)。そういえば、番組では声だけで後ろ姿しか登場しないチャーリーだが、いつも周囲にセクシーな若い美女をはべらせていたっけ。しかし、それから20年近く経った映画版のチャーリー宅は上品で落ち着いた雰囲気。やはり後ろ姿しか出てこない本人も、ひとりでのんびりとビーチを散歩している。年を取ってすっかり丸くなったようだ。 なお、本作にはテレビ版へ直接オマージュを捧げたシーンも存在する。それが、タイトルクレジットで登場する、囚人服を着たエンジェルたちが手錠に繋がれて逃亡するシーンだ。これはMcG監督が大好きだというシーズン1第4話「潜入!戦慄の女囚刑務所」からの引用。裏で人身売買を行っている刑務所にエンジェルたちが潜入するという、まるで’70年代にロジャー・コーマンが製作したB級女囚映画のようなお話だ。しかも、ゲストにはロジャー・コーマン映画の常連でもあったカルト女優メアリー・ウォロノフやクリスティナ・ハート、無名時代のキム・ベイシンガーも出ている。筆者もお気に入りのエピソードだ。その終盤で3人のエンジェルが手錠に繋がれたまま脱走を試みるのだが、映画版ではそのワンシーンを再現しているのだ。 ほかにも、『E.T.』(’82)や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(’85)、『フェリスはある朝突然に』(’86)など、大の映画マニアでもあるMcG監督が大好きな作品へのオマージュがそこかしこに盛りだくさん。ノックスが住んでいる近未来的なデザインの家はブライアン・デ・パルマ監督作『ボディ・ダブル』(’84)の再現だし、キャメロン・ディアスが華麗に舞い踊るドリーム・シークエンスはMGMミュージカルにインスパイアされたという。赤や青やグリーンの原色を大胆に使った色彩は、テレビ版シリーズのオープニング・シーンを彷彿とさせるが、同時に昔懐かしいテクニカラーへのオマージュでもある。「華やかで弾けていてカラフルで愉快な映画」を目指したというMcG監督だが、実際に目論見通りの理屈抜きで楽しい娯楽映画に仕上がった。この天衣無縫さが本作の最大の魅力かもしれない。■ 『チャーリーズ・エンジェル (2000) 』© 2000 Global Entertainment Productions GmbH & Co. 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COLUMN/コラム2023.01.30
マイケル・マン監督の映画版リメイクをテレビ版オリジナルと徹底比較!『マイアミ・バイス』
そもそも『特捜刑事マイアミ・バイス』とは? ‘80年代を代表する人気テレビ・シリーズ『特捜刑事マイアミ・バイス』(‘84~’89)を、同番組に製作総指揮として携わっていたマイケル・マン監督が劇場版リメイクした作品である。『スパイ大作戦』を映画化した『ミッション:インポッシブル』(’96)シリーズの成功に端を発した、往年の名作ドラマの映画リメイク・ブームは、『チャーリーズ・エンジェル』(’00)シリーズのヒットによってさらに加速。『刑事スタスキー&ハッチ』(‘75~’79)のような知名度の高い作品から、『特別狙撃隊S.W.A.T.』(‘75~’76)のようにカルトな人気を誇るマニアックな作品まで、’00年代は数多くのテレビ・シリーズがスクリーンに甦った。ちなみに、前者はベン・スティラーとオーウェン・ウィルソン主演の『スタスキー&ハッチ』(’04)、後者はコリン・ファレル主演の『S.W.A.T.』(’03)。そうした中、筆者のような80年代キッズにとっては、まさに真打登場!といった感のあったのが本作『マイアミ・バイス』(’06)だった。 日本では’86年~’88年まで夜9時より放送された『特捜刑事マイアミ・バイス』。そう、昔は地上波のゴールデンタイムに海外ドラマが放送されていたのである。恐らく、本作はその最後の番組のひとつだったはずだ。常夏のリゾート地にして全米有数の犯罪都市マイアミを舞台に、ペットのワニとボートで暮らす喧嘩っ早い熱血刑事ソニー・クロケット(ドン・ジョンソン)と、ニューヨークからやって来た女好きのプレイボーイ刑事リカルド・タブス(フィリップ・マイケル・トーマス)が、得意の潜入捜査で麻薬密売組織や人身売買組織などの凶悪犯罪に立ち向かっていく。設定自体は必ずしも目新しいとは言えないバディ物の犯罪ドラマだったが、しかし当時としては様々な点で画期的な番組でもあった。 まずは、主人公のクロケットとタブスのファッションである。それまでアメリカの刑事ドラマといえば、むさ苦しいスーツ姿のオジサンかジーンズにTシャツ姿の若者か、いずれにせよオシャレとは程遠いヒーローが主人公だった。なにしろ警察官は公務員である。安月給なうえに多忙な仕事では、ファッションに気を遣う余裕などなかろう。ところが、本作の主人公たちは2人ともトレンディな高級イタリアン・スーツを着用。実にファッショナブルでスタイリッシュだった。実際、番組ではアルマーニやヴェルサーチなど高級ブランドの最新コレクションを撮影に使用していたという。一般的にアメリカ人男性はファッションに無頓着な人が多いのだが、本作の影響によってアメリカでもヨーロッパの男性向け高級ブランドが普及したとも言われる。クロケットが愛用するレイバンのサングラスも流行った。 さらに、ミュージックビデオを彷彿とさせる洗練された映像もまた抜群にオシャレだった。当時はMTVが世界中の若者の間で大ブームだった時代。’81年に開局した音楽専門チャンネルMTVは、最新ヒット曲のミュージックビデオを24時間流し続けるというコンセプトで大当たりし、それまであまり一般的ではなかったミュージックビデオを普及させ、いわば最強のプロモーションツールへと押し上げた。映画界でも『フラッシュダンス』(’83)や『フットルース』(’84)のようにMTV的な演出を取り入れた作品が次々と登場したが、テレビドラマの世界では『特捜刑事マイアミ・バイス』が最初だったように思う。そもそも、番組のコンセプト自体が「MTV世代向けの刑事ドラマ」だったらしい。そのため、番組中では当時の全米トップ10ヒットソングがたっぷりと使用され、よりミュージックビデオっぽさを盛り上げていた。しかも全てオリジナル・アーティストのオリジナル・バージョン。そのため楽曲使用料が大変な金額にのぼったとも言われている。シーズン1のパイロット・エピソードで、フィル・コリンズの名曲「夜の囁き」が流れる夜のドライブシーンは特に印象的だ。ヤン・ハマーの手掛けた番組テーマ曲も、全米シングル・チャートでナンバーワンとなった。 また、実際にマイアミで全て撮影されたことも大きな特色だったと言えよう。今でこそアメリカのテレビ・シリーズは舞台となる場所の現地でロケ撮影することが主流だが、しかし『ハワイ5-0』(‘68~’80)や『刑事コジャック』(‘73~’78)のような一部の例外を除くと、10年ほど前までは舞台の設定がどこであれ、基本的にロサンゼルス周辺やハリウッドのスタジオ、もしくはカナダのトロントやバンクーバーで撮影されるのがテレビ・シリーズの定番だった。『特捜刑事マイアミ・バイス』も当初はロサンゼルスをマイアミに見立てる予定だったが、しかし古いアールデコ様式の建物が並ぶマイアミ独特の街並みの再現が難しいこともあって、現地での撮影が選ばれることになった。おかげで、アメリカの南の玄関口とも呼ばれるマイアミならではのエキゾチックな雰囲気が、番組自体のトレードマークともなった。中でも、マイケル・マンの映画を彷彿とさせるネオン煌めく漆黒のナイトシーンと、明るい太陽がビーチに降り注ぐカラフルなデイシーンの強烈なコントラストが印象的だ。 あえてテレビ版とは差別化を図った映画版だが…? そんな懐かしの刑事ドラマを21世紀に甦らせた映画版『マイアミ・バイス』。クロケット役にコリン・ファレル、タブス役にジェイミー・フォックスとキャスト陣も刷新し、オリジナルとはまた一味違うクライム・アクション映画に仕立てられている。まずはそのストーリーを振り返ってみよう。 マイアミ・デイド郡警察の特捜課に所属する潜入捜査官のソニー・クロケット(コリン・ファレル)とリカルド・タブス(ジェイミー・フォックス)。ある時、2人と付き合いの長い情報屋アロンゾ(ジョン・ホークス)の妻が殺害され、悲嘆に暮れたアロンゾ自身も自殺してしまう。そのちょうど同じ頃、南米コロンビアの麻薬組織を追っていたFBIの潜入捜査官も殺された。どうやら、相手は仲介役のアロンゾがFBIのスパイだと知っており、その妻を拉致監禁して脅迫することで潜入捜査の情報を得ていたようだ。この一件はFBIだけでなく麻薬捜査局や税関、ATF(アルコール・タバコ・火器及び爆発物取締局)も加わった共同特別捜査。当局の管理システムがハッキングされ、そのどこかからか情報が洩れている。そこでFBIの責任者フジマ(キアラン・ハインズ)は、組織の実態と情報の漏洩元を把握するべく、クロケットとタブスに潜入捜査を依頼する。地元警察は共同捜査に参加していないため、相手方に素性のバレる危険性が少ないからだ。 組織の元締めと見られるのは大物密売人ホセ・イエロ(ジョン・オーティス)。コロンビアの麻薬はボートで運ばれ、カリブ海経由でマイアミへ密輸される。その運び屋を叩いたクロケットとタブスは、馴染みの情報屋ニコラス(エディ・マーサン)の仲介でイエロにコンタクトを取り、代わりの新たな運び屋として自分たちを売り込む。タブスの恋人で同僚のトルーディ(ナオミ・ハリス)は彼の妻役だ。指定場所のハイチへ飛んだクロケットとタブスは、綿密に捏造された犯罪歴と巧みな芝居で用心深いイエロを納得させ、組織の黒幕モントーヤ(ルイス・トサル)を紹介される。ボスだと思われたイエロは単なる仲介人で、組織の実態はFBIの想定よりも遥かに大規模だったのだ。モントーヤにも認められ、麻薬の運び屋を任されることとなったクロケットとタブス。その傍らでクロケットはモントーヤに関する情報を得るため、彼の愛人で組織のナンバー2である美女イザベラ(コン・リー)に接近するのだが、いつしか本気で愛し合うようになってしまう…。 実はこのストーリー、テレビ版シーズン1の第15話「運び屋のブルース」が下敷きとなっている。これは’84年に発表されたグレン・フライのアルバム「オールナイター」収録の楽曲「スマグラーズ・ブルース」をモチーフに、そのグレン・フライ自身も役者としてゲスト出演したエピソード。テーマソングとしても使用された「スマグラーズ・ブルース」は、エピソードの放送に合わせてシングルカットもされ、全米チャートで最高12位をマークした。 ストーリーの基本的な設定や流れはテレビ版とほぼ同じ。ただし、当時は管理システムのハッキングなるものが存在しないため、クロケットとタブスはFBI内部の密通者を突き止める。組織の黒幕モントーヤとその愛人イザベラも映画版オリジナルのキャラクターだが、その一方でテレビ版でグレン・フライが演じた飛行機パイロットも映画版には出てこない。最初に犠牲となる家族同然の情報屋も、ドラマ版だと警察がマークしていた下っ端の運び屋。FBIの協力者だった運び屋が家族を人質に取られ、麻薬組織に捜査情報を流した挙句に家族もろとも殺されるという事件が相次ぎ、組織に顔の割れていないクロケットとタブスが運び屋に化けて南米へ飛び、潜入捜査でFBI内部の密通者を炙り出す。同僚トルーディがタブスの妻役で、組織に拉致され爆弾が仕掛けられるという展開も一緒だが、しかしテレビ版ではトルーディとタブスが恋仲という設定はないし、トルーディが大怪我を負うこともない。かように映画版では随所で独自の脚色や改変が施され、2時間を超える劇場用映画らしいスケールの大きな物語に生まれ変わっている。ちなみに、クロケットとイザベラの間に芽生える悲運のロマンスは、売春組織に潜入したタブスがボスの娘と恋に落ちるシーズン1第16話「美少女売春!危ない復讐ゲーム」を彷彿とさせる。もしかするとヒントになったのかもしれない。 映画化に際してマイケル・マン監督は、なるべくテレビ・シリーズのイメージを避けることにしたという。そのため、番組のトレードマークだったヤン・ハマーのテーマ曲は使用されず、テレビ版では白やパステルカラーを基調にしていたクロケットとタブスのファッションも黒やグレーのモノトーンに統一され、陽光眩しい白砂のビーチもカラフルな水着姿の美男美女も出てこない。クロケットの住居であるボートもペットのワニも存在しないし、テレビ版ではチャラ男キャラだったタブスも映画版ではクールなタフガイとして描かれている。あえてテレビ・シリーズとの差別化を図っているのは一目瞭然であろう。 とはいえ、テレビ版で特に印象的だったフィル・コリンズの「夜の囁き」が映画版ではフロリダのロックバンド、ノンポイントによるカバーバージョンで流れるし、ジェイミー・フォックスが劇中で着用するスーツはイギリスの有名デザイナー、オズワルド・ボーテングのものだし、そもそもテレビ版のナイトシーンはマイケル・マン作品の世界観を明らかに踏襲していた。実際、テレビ版と酷似したようなシーンは少なからず見受けられる。映画版のクロケットとタブスがハイチで宿を取る場末のホテルも、元ネタになったエピソード「運び屋のブルース」に出てくる南米のオンボロ・ホテルと内装が瓜二つだ。むしろ、本作はマイケル・マン流にアップデートされた進化版『マイアミ・バイス』と見做すべきではないかと思う。■ 『マイアミ・バイス』© 2006 Universal Studios. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2023.01.30
もうひとつの『ナチュラル・ボーン・キラーズ』
◆不道徳な暴力映画は、道徳的な反戦映画の反動から オリヴァー・ストーン監督が1994年に発表した『ナチュラル・ボーン・キラーズ』(以下『NBK』)は、連続殺人犯ミッキー(ウディ・ハレルソン)とマロリー(ジュリエット・ルイス)による、社会からの逃走とラブストーリーを描くバイオレンス映画であり、彼らをスターとして担ぎ出すメディアの過剰性を捉えた、ブラックコメディの要素を併せ持つ。 物語は前半と後半でテイストを異にする。前半でこの殺人カップルはマロリーを虐待してきた親を手にかけ、結婚に代わる契りの儀式をおこない、愛の証として50人以上を一掃する殺人ハネムーンへと繰り出す。そんな無軌道な彼らに、自身がホストのシリアルキラー番組『アメリカン・マニアックス』の高視聴率をもくろむ、ジャーナリストのウェイン・ゲイル(ロバート・ダウニー・Jr.)が接近。二人の動向を広く大衆に提供していく。 いっぽう後半はサディスティックなドワイト所長(トミー・リー・ジョーンズ)の待つ刑務所にミッキーが投獄され、彼の独占テレビインタビューを試みようとしたゲイルは、それが引き金となって起こった大暴動をカメラに収めることになる——。 ストーンはヒロインの壮絶なベトナム戦争体験を描いた『天と地』(93)に取り組んだ反動で、デンジャラスで不道徳なプロジェクトに挑戦したいという欲求に駆られていた。そんなとき、俳優ショーン・ペンとの会食の場で、同席したベテランプロデューサーのトム・マウントから『NBK』の脚本をすすめられたという。 脚本はもともとペンが目をつけたもので、他にもデヴィッド・フィンチャーやブライアン・デ・パルマが、この脚本の映画化に反応したという。読んで自分もその一人となったストーンは、リライトを前提に当時契約を結んでいたプロデューサーのアーノン・ミルチャンに映画化を打診し、『NBK』の製作が動き出したのである。 ◆タランティーノとの確執と、オリジナル脚本 だが、このプロジェクトはひとつ問題を抱えており、それは脚本を執筆したクエンティン・タランティーノが、権利を取り戻そうとしていたことにあった。 もともと『NBK』はタランティーノが『レザボア・ドッグス』(92)を手がけ、商業映画監督として注目を浴びる以前に書いたもので、彼はビデオレンタル店員時代の仲間だったランド・ヴォシュラーと組み、自分たちで映画化を前提とし共同で仕上げた。予算は50万ドルで、監督権はヴォシュラーにタダ同然で与えたのである。 しかし、この予算調達に名乗り出たプロデューサーのジェイン・ハムシャーとドン・マーフィーにヴォシュラーは監督権を譲渡してしまい、タランティーノが取り戻しに動いたのだ。 こうした経緯のこじれに加え、ストーンが共同脚本担当のデヴィッド・ヴェロズらと共にオリジナルに大幅に手を加えたため、タランティーノはクレジットから名を外すよう要請したのである。 タランティーノ脚本の特徴は、ゲイルが主人公として立ち回っている点だろう。彼が劇中、ミッキーとマロリーの周辺情報にアクセスしていく過程において、二人のキャラクター性が浮き彫りにされていく構成となっている。しかし、ストーンはミッキーとマロリーにバックストーリーを与えて彼らを前面へと押し出した。そしてゲイルを脇役に置き換えることで、「犯罪者をヒーロー化するマスコミ」というメディアリテラシーへの批判を構図化したのである。加えて本作が暴力礼賛ではないことを印象づけるため、ネイティブ・アメリカンの男が登場するパートを挿入。「暴力の行使は時代を越え、いつしか自分に巡り戻ってくる」という、教訓を仄めかすシーンが加えられている。 ストーンによってストーリーが再構成され、原作者のヴィジョンの多くが改変されたことに対し、制作当時のタランティーノは映画とストーンに対して悪感情はないと述べ、あくまで作品の成功を祈っていると主張していた。 しかし後年、彼が『NBK』のオリジナル脚本を出版しようとしたさい、映画のプロデューサーサイドは「脚本を売却した時点で出版権は失なわれている」として訴える構えをみせた。それがタランティーノの怒りに油を注ぐかたちとなり、その感情は近年もくすぶり続けている。『ラウンダーズ』(98)の脚本家ブライアン・コッペルマンは自身のポッドキャスト「ザ・モーメント」2021年7月21日付けの配信で、ストーンがいかに的外れでキャラクターを理解していなかったかについて、タランティーノと意気投合したと話している。特にミッキーとマロリーが浮気をするもどかしいシーケンスを指摘し、タランティーノは「そんなことは絶対にありえない。二人は一緒にいるためなら、自分らを虐待する家族だって殺すこともいとわない、そんな彼らの本質をすべて見落としている」【*】と語っている。 ●現在、タランティーノのオリジナル脚本は出版され、容易にアクセスすることができる。 こうした経緯から、世間的には「気鋭のクリエイター(タランティーノ)による未発表脚本が、説教じみたスタイルの監督(ストーン)によって台無しにされた」というバイアスがかかり、ストーンに批判的な評価が下されがちだった。しかしジェイン・ハムシャーによる『NBK』をめぐる回想録“Killer Instinct“には、タランティーノによる作品製作の妨害行動がいくつか記されている。たとえば権利を買い戻すことを許されなかったことに腹を立て、スティーブ・ブシェミとティム・ロスに「もしキミらがこの映画への出演を受け入れたら、二度と自分の映画には出演させない」とまで言い放ったとされている。 このように、文献の性質によってタランティーノ擁護であったりストーン擁護であったりと、同情をどちらに寄せた裏付けをしているのかは傾向が異なる。なので、映画版のサブテキストとして提供すべきこのコラムで、当該作品の立場を悪くするような事柄を列挙するのも生産的ではないだろう。 そもそも、ストーンの映画でタランティーノ脚本の要素を無きものにしようとしているわけではない。劇中のセリフの多くはタランティーノ版を踏襲しているし、なによりタランティーノ版は、ロサンゼルスの路上でゲリラ撮影することを想定し、モノクロの16mmカメラを駆使することが脚本にも書き込まれているが、ストーンはこうしたフォーマットにも目配りし、モノクロや16mm撮影の導入に加えて8mmやVTRなど頻繁にフィルムストックを変化させ、ストーンなりにタランティーノのプランを拡張させている。もっとも、これは同時期にストーンがフィルムストックの目まぐるしい変化や多動的な編集、またカラーフィルターの多様や不規則なカメラワークなどをセルフスタイルとしており、こうした条件と理想的な融合をみたともいえる。 そのため撮影期間はわずか56日だが、編集には1年近くを要する驚異的な労作となった。ちなみにタランティーノが映画化に計上していた製作費は50万ドルだったが、ストーンの映画版は3400万ドル。その予算はじつに68倍もの巨額となっていた。 また『NBK』の監督権を放棄し、受難の存在となったランド・ヴォシュラーは、ストーンの映画版に共同プロデューサーとしてクレジットされ、ささやかに立場を取り戻したといえる。■ 『ナチュラル・ボーン・キラーズ』© 1994 Warner Brothers Productions, Ltd. and Monarchy Enterprises S.a.r.l. All rights reserved. 【*】https://theplaylist.net/quentin-tarantino-on-oliver-stones-natural-born-killers-why-didnt-he-do-half-of-what-was-on-page-20210730/?utm_source=dlvr.it&utm_medium=twitter
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COLUMN/コラム2023.01.17
映画史に刻まれた、セルジオ・レオーネのモニュメント!『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ【完全版】』
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』日本でのお披露目は、1984年10月6日。旧日劇跡地に建設された、有楽町マリオン内の東宝メイン館「日本劇場」こけら落しの作品として、華々しくロードショー公開された。 ~世界映画史に刻み込む空前の映像モニュメント~ ~アメリカ・激動の世紀―愛する者の涙さえ埋めて男たちは心まで血に染めて生きた~ ~「モッブス」――それは誰も語らなかった男たちの巨大な結社!~ これらは配給の東宝東和が、仰々しく打ち出した惹句の数々だが、本編を観ると、アメリカを動かすほどの“巨大な結社”である筈の「モッブス」とは一体!?…となる。俗に「東宝東和マジック」などと言われる、ゼロから100を生み出す、大嘘宣伝、もとい、十八番とした誇大広告である。 インターネット普及後は、あり得ない手法と言える。しかし当時の東宝東和は、ホラー映画を中心に、この手のプロモーションで、次々と成果を上げていたのだ。 そんなムード作りもあって、大学受験に失敗して二浪の秋を迎えていた私も、「これだけは見逃すまい」という気持ちになっていた。“マカロニ・ウエスタン”の伝説的な巨匠セルジオ・レオーネ監督と、我らがロバート・デ・ニーロの“最新作”というのも、当時の映画少年にとっては、大いなる引きだった。 期待が膨らむ一方で、私は映画雑誌などから得た情報で、不安も大きくなっていた。『ワンス・アポン…』は、4時間近い長尺の作品として完成。「カンヌ国際映画祭」で絶賛を浴びたのに、製作国であるアメリカでは90分近くカットされた、2時間半足らずの再編集版で公開。評判が芳しくなかったという。 では日本では、一体どちらのバージョンが公開されるのか?受験勉強も手に付かなくなるほど心配になった私は、思いあまって、東宝東和に電話で問い合わせてみた。「日本では、3時間を超える長い方をやりますよ」 それが、受話器の向こう側の宣伝部の男性の答だった。気付くと私は、「ありがとうございます!」と、礼を伝えていた。 実際の“日本公開版”は、3時間25分。それまでにヨーロッパなどで公開し、今日では一般的に【完全版】と言われるバージョン=3時間49分からは、細かく削って、20分強短縮している。完全に日本独自の、再編集版であった。 しかし、構成は【完全版】に準じたこのバージョンが観られたことは、当時の日本の観客たちにとっては、幸運なことと言えた。実際問題として“アメリカ公開版”=2時間19分が日本でも採用されていたら、『ワンス・アポン…』が、この年の「キネマ旬報」ベスト10で、洋画の第1位に輝くことはなかったであろう。 ***** 1933年、ニューヨーク。ユダヤ系ギャングの一員だったヌードルス(演:ロバート・デ・ニーロ)は、仲間を警察に密告した。それはリーダー的存在のマックス(演:ジェームズ・ウッズ)の無謀な企てを諦めさせて、彼の命を救うためだった。だがその思惑は、裏目に。マックスはじめ、少年時代からの仲間たち3人は、警察隊に射殺される。 裏切り者として追っ手が掛かったヌードルスは、ニューヨークから逃げ延びる…。 ユダヤ人街で生まれ育ったヌードルスが、マックスと出会ったのは、1923年、17歳の時。目端の利く者同士、仲間たちの力も借りて、裏の仕事で稼げるようになる。しかし、出し抜かれた街の顔役が、ヌードルスたちを襲撃。仲間の1人を殺されたヌードルスは、無我夢中で顔役を刺し殺す。 6年の刑期を経て、ヌードルスがシャバに戻ってきたのは、1931年。禁酒法の時代、マックスたちはもぐり酒場を経営すると共に、強盗や殺しなども請け負っていた。 少年時代から憧れだったデボラ(演:エリザベス・マクガバン)のために海辺のホテルを借り切り、2人きりの時を過ごそうとする、ヌードルス。しかしデボラは、ハリウッドに発って女優になるという。 凶暴な欲望に襲われたヌードルスは、デボラを車中で、無理矢理犯してしまう…。 デボラに去られたヌードルスは、次第にマックスのやり方についていけないものを、感じ始める。そして、「彼のため」と思って行ったタレ込みが、最悪の結果を招く…。 それから、長い月日が流れた。1968年、老境に差し掛かったヌードルスは、何者かにニューヨークへと呼び戻される。 マックスたち殺された仲間は、ヌードルスが建てたことになっているが、彼にはまったく身に覚えがない立派な墓所に葬られていた。そしてそこに置かれた1本の鍵が、ヌードルスを、35年前の“真相”へと導く…。 ***** 冒頭以外ほぼ時の流れの順に、ストーリーを記したが、実際は1968年を基軸にしながら、ヌードルスの回想が巧みに織り交ぜられ、それが謎解きミステリーでもある構成となっている。 セルジオ・レオーネ監督曰く、「私が描きたいのはノスタルジーだ」 老いたヌードルスのあいまいな記憶そのままに、幾つかの時代のシーンを、イメージの連鎖で繋いでいく。それはノスタルジーに縛られた、ヌードルスの彷徨そのものである。 先に記した通り、“アメリカ公開版”は、90分近くの大幅カットが為された。しかもそれは、レオーネが考えに考えた構成を無視して、物語を時系列に並べてしまったという代物だった。 本作は、デボラとのシーンに流れる「アマポーラ」、68年のシーンに流れる「イエスタデイ」など、名曲の使い方が印象的であるが、それと同時にノスタルジックで詩情豊かな、エンニオ・モリコーネの楽曲も、素晴らしい。ところが“アメリカ公開版”は、モリコーネの音楽も響いてこないと言われる。 はっきり言って、「台無し」だ。だがこんな酷いことが起こり、しかも上映時間に幾つものバージョンが存在することになったのには、本作の製作過程も、大いに関係している。 原作は、ハリー・グレイの自伝的作品である、「THE HOODS=ヤクザたち」。1953年アメリカで出版。レオーネ監督の母国イタリアでは、60年代半ばにペーパーブック版がリリースされたという。 64~66年に掛けて、クリント・イーストウッド主演の“ドル箱3部作”を手掛けて、世界的な“マカロニ・ウエスタン”のムーブメントを巻き起こしたレオーネが、この原作と出会ったのは、67年頃。終生アメリカという国に魅了され続けた彼にとって、ユダヤ系ギャングたちが躍動するこの物語を読んで、憧れの国を舞台に、矛盾とパラドックス、更にはバイタリティに溢れた、大人の寓話が描けると踏んだのであろう。 レオーネは、ヘンリー・フォンダらの主演で撮った『ウエスタン』(68)のプロモーションについて話し合いのため渡米した際、ハリー・グレイとの接触に成功。以降折りあるごとに面会を重ね、友人関係になったという。 しかし「THE HOODS」の映画権は、すでに売られてしまっていたことが、判明。その権利を得るための、悪戦苦闘が始まる。 70年前後、レオーネはフランス人のプロデューサーたちと、原作権を獲得するための算段を立てた。この頃想定されたのは、マックスの若き日をジェラール・ドパルデュー、その50~60代はジャン・ギャバンというキャスティングだった。 結局原作権が入手できない内は、動くに動けず、この話はお流れとなる。 75~76年、再び話が動いた。この時はドパルデューが、ヌードルス役の有力候補に。マックス役は、リチャード・ドレイファスだった。 そして77年頃。ようやく映画化権が、レオーネの元に、巡ってきた。レオーネはプロデューサーとして別の監督を立てることも考えたようで、ミロス・フォアマンやジョン・ミリアスと接触している。 そんな中で脚本を、アメリカのノンフィクション小説の革新者と呼ばれた、ノーマン・メイラーに依頼することとなる。しかし彼が書き上げたものは「満足のゆくものではなかった」ため、結局イタリアで「最も才能ある」脚本家たちに書いてもらうこととなった。 その中心となったのが、『ラスト・タンゴ・イン・パリ』(72)などのフランコ・アルカッリ、『地獄に堕ちた勇者ども』(69)などのエンリコ・メディオーリ。レオーネを含めて、6名の脚本家チームによって、82年に300頁近い脚本が完成した。 プロデューサーも、紆余曲折の末、レオーネが80年に出会った、イスラエル出身のアーノン・ミルチャンに決まる。 一方、その頃のキャスティングは、迷走を極めていた。ヌードルス役は、トム・ベレンジャーに若い頃を演じさせ、年老いたらポール・ニューマンになるというアイディアがあった。マックス役の候補に挙がったのは、ダスティン・ホフマン、ジョン・ヴォイト、ハーヴェイ・カイテル、ジョン・マルコヴィッチ等々。 ヒロインのデボラ役には、ライザ・ミネリが有力だったこともある。 そんな中でミルチャンは、ラッド・カンパニー及びワーナー・ブラザーズに話を付け、配給の契約を結ぶ。この時ワーナーは、160分の作品を作る契約をしたと思い込んでいた。しかしレオーネが考えていたのは、4時間を超える作品であった。 82年1月クランクインの予定が延びて、6月のスタートとなる。そしてミルチャンの仲立ちで、レオーネはロバート・デ・ニーロと“再会”する。レオーネは以前、『ゴッドファーザーPARTⅡ』(74)撮影中のデ・ニーロと会って、本作の説明をしたことがあったのだった。 デ・ニーロの出演が決まって、同じ人物の青年期と老年期を、違う俳優が演じるというアイディアを、レオーネは棄てた。そしてデ・ニーロに、ヌードルスとマックス、どちらを演じたいかの、選択権を与えた。 熟考の末、ヌードルス役を選んだデ・ニーロ。早速“デ・ニーロアプローチ”による、役作りへと入る。この役に関しては、ユダヤ系の家族と生活を共にするなどの、アプローチを行った。 老齢期の役作りも、バッチリ。その撮影中は、夜中の3時に起きて、6時間のメイクに取り組んだ。レオーネはそうしたデ・ニーロを見て、「…歳をとる薬でも飲んだのか?」とつぶやいた。 さてヌードルスにデ・ニーロが決まったことによって、彼と共通のアクセントを持った、ニューヨーク出身の俳優を選ぶ必要が生じた。デ・ニーロは友人の俳優たちを、次々とレオーネに紹介したという… そんな中では、例えば宝石店商の妻から、マックスの愛人に転身するキャロル役には、チューズデイ・ウェルドが決まった。この役は、レオーネの『ウエスタン』主演だった、クラウディア・カルディナーレが熱望していたのを抑えての、決定だった。 デ・ニーロは本作に、ジョン・ベルーシに出てもらうことも考えていた。そのため会いに行った翌日、ベルーシはドラッグの過剰摂取で急死。デ・ニーロは、スキャンダルに巻き込まれる結果となった。『レイジング・ブル』でデ・ニーロの弟役をやったジョー・ペシには、プロデューサーのミルチャンが、マックス役を約束してしまった。レオーネは、ペシにはこの役には合わないという理由で、別の役を与えることとなる。 結局マックス役には、200人がオーディションを受けた中から、レオーネが、「成功の一歩手前の性格俳優」であるジェームズ・ウッズを抜擢する。 ウッズは、「世界一の俳優」であるデ・ニーロと相対するのに、覚悟を決めた!「よし、どのシーンでもデ・ニーロと向き合っていこう。そうすれば、彼と同じぐらい骨のある俳優だという証明になるのだから」と、自分に言い聞かせたという。 それが結果として、レオーネ言うところの「同じコインの表と裏」、愛情と壮絶な競争意識を抱いている、マックスとヌードルスの関係を醸し出すことに繋がった。デ・ニーロとウッズは、2人の間に流れる緊張感を獲得するために、アフレコでなく同時録音を提案し、レオーネを説得した。 デ・ニーロが最後まで不満だったと言われるのが、デボラ役のエリザベス・マクガバン。彼女はイリノイ州出身だったため、ニューヨークのアクセントが出せないというわけだ。しかしその少女時代を演じたジェニファー・コネリーと合わせて、ヌードルスが思慕して諦めきれない女性を、見事に演じきっている。 さてこうしたキャストを擁して行われた撮影では、ニューヨーク市のロウアー・イーストサイドの3区画を借りる契約を市側と結び、1920年代の街並みを再現した。店の一軒一軒から消火栓、ポスト、階段まで細かい作り込みを行ったため、そこに住む者たちは数か月の間、通り沿いの窓を塞がれたまま生活することとなった。 しかしその契約期間だけでは、到底撮影が終わりそうもない。そのためそっくり同じセットを、ローマ郊外にも建設したという。他にも、過去のアメリカに映る場所を求めて、ロケはモントリオール、パリ、ロンドン、ヴェネチアなどでも行われた。 当初は20週の撮影で、製作費は1,800万㌦の見積もりだった。しかしスケジュールがどんどん伸びるのに伴って、製作費も3,000万㌦以上まで膨らむ。 そうして上がったフィルムのOKカットを繋ぐと、はじめは10時間にも及んだという。当然それでは公開出来ないので、どんどんハサミを入れていき、最終的には、“3時間49分”の【完全版】にまで辿り着く。 しかしこの「最終的には」は、あくまでもレオーネにとってでしかなく、先に記した通り、その長さを嫌ったアメリカの配給元の主導で、2時間19分のダイジェスト紛いのバージョンまで行き着いてしまったわけである。『ワンス・アポン…』のバージョン違いとして知られるのは、主に5つ。レオーネが最初に完成させたという、“オリジナル版”4時間29分。そして【完全版】、それに準じた“日本公開版”、そして“アメリカ公開版”。更に2012年「カンヌ国際映画祭」で初めて上映され、日本では19年「午前十時の映画祭」で公開された、“ディレクターズ・カット版”4時間11分。 この最新版とでも言うべき、“ディレクターズ・カット版”は、現存しない“オリジナル版”を修復する試みで、レオーネの遺族とマーティン・スコセッシのフィルム・ファウンデーションが、カットされたシーンの復元を、可能な限り行ったものである。 84年公開以来、私が観たことがあるのは、3バージョン。順に挙げれば、「日本劇場」で鑑賞した“日本公開版”、日本ではDVDや放送、配信などでしか観られなかった【完全版】、そして“ディレクターズ・カット版”である。 私見としては、レオーネが望んだ形に最も近い筈の“ディレクターズ・カット版”は、ほぼ全ての辻褄が合うように出来てはいるが、やはり長すぎるし、そこまで説明は要らないという印象が残る。 そういった意味では、今回「ザ・シネマ」で放送される【完全版】が、やはり最高と言えるのではないだろうか? この作品に精力を注ぎ込んだレオーネは、撮影中の82年冬に心臓病を発症。その後ストレスを避けろと医者に忠告されるも、本作の公開を巡って訴訟沙汰となる中、病状は悪化していく。 そして本作公開から5年後の89年、新作の準備中だったにも拘わらず、60歳の若さでこの世を去った。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』が、遺作となってしまったのである。 東宝東和発の本作惹句の中で~世界映画史に刻み込む空前の映像モニュメント~というのは、結果的に誇大広告ではなくなったんだなぁと、しみじみ思ったりもする。■ 『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ【完全版】』Motion Picture © 2002 Monarchy Enterprises S.a.r.l. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2023.01.10
1990年!“カルトの帝王”は“トレンド・リーダー”だった‼『ワイルド・アット・ハート』
そのフィルモグラフィーから、「カルトの帝王」と異名を取る、デヴィッド・リンチ監督。 1946年生まれの彼の初長編は、『イレイザーヘッド』(1977)。リンチが20代後半から1人で、製作・監督・脚本・編集・美術・特殊効果を務め、5年掛かりで完成させた。 見るもおぞましい、奇形の嬰児が登場するこの作品は、シュールで理解不能な内容のために、悪評が先行した。しかし、独立系映画館で深夜上映されると、一部で熱狂的な支持を集めるようになり、やがて“カルト映画”の代名詞的な作品となった。 続いてリンチが手掛けたのが、『エレファント・マン』(80)。生まれつきの奇形のために“象男”と呼ばれた、実在の青年の数奇な人生を描いた作品である。『エレファント・マン』はアカデミー賞で、作品賞をはじめ8部門にノミネート。リンチ自身も監督賞候補となり、大きな注目を集めた。因みに81年に公開された日本では、その年の№1ヒット作となっている。『エレファント・マン』は、感動作の衣を纏っていたため、多くの誤読を招いたことも手伝っての高評価だったのは、今となっては否めまい。この作品のプロデューサーだったメル・ブルックスは、リンチの特性をもちろん見抜いており、彼のことをこんな風に評している。「火星から来たジェームズ・スチュアート」と。 健康的なアメリカ人そのものの出で立ちで、いつも白いソックスを履き、シャツのボタンは、必ず一番上まで留めて着る。そんな折り目正しい外見のリンチが、実は他に類を見ないような“変態”であることを表した、ブルックスの至言と言えよう。 ・『ワイルド・アット・ハート』撮影中のデヴィッド・リンチ監督 その後リンチは、ディノ・デ・ラウレンティスによって、当時としては破格の4,000万㌦という製作費を投じたSF超大作『デューン/砂の惑星』(84)の監督に抜擢される。しかしこの作品は、興行的にも批評的にも散々な結果となり、リンチのキャリアにとっては、大きな蹉跌となる。『デューン』に関しても、リンチ一流の悪趣味な演出を、カルト的に愛するファンは存在する。しかし、いかんせんバジェットが大きすぎた。因みに、この作品の出演者の1人、ミュージシャンのスティングはリンチについて、「物静かな狂人」とコメントしている。 深刻なダメージを受けたリンチだったが、その後の製作姿勢を決定づける、大いなる学びもあった。それは今後の作品製作に於いては、“ファイナル・カット権”即ち最終的な編集権を己が持てないものは、作らないということ。粗編集の段階で4時間以上あった『デューン』を、無理矢理半分ほどの尺に詰められて公開されたことに、リンチは強い憤りを覚えていたのである。 そんなことがあって次の作品では、大幅な製作費削減と引き換えに、“ファイナル・カット権”を得て、思う存分腕を振るった。それが、『ブルー・ベルベット』(86)である。この作品でリンチは、ジャンルを問わず様々な題材を多く盛り込むという、独特の作風を確立。『ブルーベルベット』は、興行的にも批評的にも成功。後に「カルトの帝王」と呼ばれるようになる、足掛かりとなった。 そんなリンチであるが、まさかの“トレンド・リーダー”的存在として、崇められた時期がある。ピンポイントで言えば、それは1990年のこと。 この年、彼が製作総指揮・監督・脚本を務めたTVシリーズ「ツイン・ピークス」が大ヒット!それと同時に、マンガ、ライヴの演出やジュリー・クルーズのアルバムのプロデュース、CMの制作等々、八面六臂の大活躍を見せ、時代の寵児となったのである。 リンチの劇場用長編新作だった本作『ワイルド・アット・ハート』も、この年のリリース。そして、「カンヌ国際映画祭」で見事、最高賞=パルム・ドールを勝ち取ったのだ。 この作品の企画がスタートしたのは、89年の4月。プロデューサーのモンティ・モンゴメリーが、自分が監督するつもりで、バリー・ギフォードが書いた小説の映画化権を獲得したことにはじまる。 モンゴメリーはリンチに、製作総指揮などやってもらえないかと依頼した。ところが、リンチがその小説を読むと、自分が監督をやりたくなってしまったのである。その希望を、モンゴメリーは快諾。リンチは早速脚本化に取り掛かり、僅か8日間で第1稿を書き上げる。 撮影開始は、その4ヶ月後の8月。ロス市内や郊外の砂漠を含む周辺の町で8週間。 加えてニューオリンズ、フレンチクォーターでロケを行った。 ***** セイラー(演:ニコラス・ケイジ)は、恋人のルーラ(演:ローラ・ダーン)の目の前で、黒人の男にナイフで襲われる。それは明らかに、ルーラに偏執狂的な愛情を注ぐ、その母親マリエッタ(演:ダイアン・ラッド)の差し金。セイラーは返り討ちで、男を殺してしまう。 22ヶ月と18日後、刑務所を仮釈放となったセイラーは、ルーラを連れて、車でカリフォルニアへの旅に出る。情熱的な歓喜に満ちた2人の道行きだったが、マリエッタにより、追っ手が掛かる。 まずはマリエッタの現在の恋人で、私立探偵のジョニーが、2人を追跡する。しかしなかなか足取りを追えないことに苛立ったマリエッタは、かつての恋人で暗黒街の住人サントスにも相談。2人を見つけ出し、セイラーを殺害することを依頼するが、サントスはその条件として、追っ手のジョニーも殺すことになると、告げる。 セイラー殺し、ジョニー殺しのため、危険な殺し屋たちが、集められる。そして、彼らの手でジョニーは、無残に殺されてしまう。 旅の最中、セイラーはルーラに、今まで秘密にしていたことを明かす。火事で亡くなったルーラの父を、セイラーは生前から知っていた。そして、自分はかつてサントスの運転手を務めており、ルーラの父が焼け死ぬ現場の見張りを命じられていたのだ。ルーラの父は、マリエッタとサントスが共謀して、殺害したのであった。 次第に手持ちの金がなくなっていく中、ルーラの妊娠が発覚する。セイラーとルーラ、激しく愛し合う2人の行く手には、何が待ち受けているのか!? ***** リンチは脚色の際、原作にかなり手を入れた。そして、彼の言葉を借りれば、「…ロードムーヴィーだし、ラヴストーリーでもあり、また心理ドラマで、かつ暴力的なコメディ…」に仕立て上げた。 最も顕著な改変は、『オズの魔法使い』(39)の要素を入れたこと。竜巻に襲われて魔法の国オズに運ばれてしまった少女ドロシーの冒険を描くこの作品の、恐怖と夢が混在するところに、リンチは初めて観た時から心を打たれていたという。 具体的には、ルーラに執着する母親のマリエッタを、『オズの…』に登場する“悪い魔女”に擬して描いたり、ドロシーが赤い靴のヒールをカチッと合わせる有名なシーンを、ルーラに再現させたり。 挙げ句はラスト近く、ルーラの元を去ろうとするセイラーの前に“良い魔女”が現れて、物語を大団円へと導く。 実は脚本の第1稿では、セイラーがルーラを棄ててしまうという、原作通りの暗い結末を迎えることになっていた。ところがリンチの前作『ブルーベルベット』でヒロインを演じ、その後リンチと交際していたイザベラ・ロッセリーニが脚本を読んで、こんな悲惨な映画には絶対出演しないと言い出した。 そこでリンチは再考した結果、『オズの…』に行き着く。そして本作を、現代のおとぎ話としてのラヴ・ストーリーという形で展開することに決めたのである。その甲斐あってか、ロッセリーニも無事、キャストの1人に加えることができた。 こうした改変を、原作者のギフォードは称賛。映画版の『ワイルド・アット・ハート』を、「…ブラックユーモアのよく利いた、ミュージカル仕立てのコメディ…」と、高く評価した。 そんな本作の、キャスティング。リンチは原作を読んだ瞬間から、ルーラはローラ・ダーン、セイラーにはニコラス・ケイジといったイメージが浮かんだという。『ブルーベルベット』ではウブな少女役だったダーンを、それとは対照的にホットなルーラに当てることを、意外に受け止める向きも少なくなかった。しかしリンチに言わせれば、原作のルーラの台詞から、ダーンの声が聞こえてきたのだという 本作のクライマックス近く、場を浚うのが、“殺し屋”ボビー・ペルー役のウィレム・デフォーだ。黒ずくめで細いヒゲを生やし、歯は歯茎まですり減っているという、異様な外見。レイプ紛いの言葉責めで、ルーラを追い詰める等々、とにかく強烈な印象を残す。 リンチは彼をキャスティングした理由を尋ねられた際、「だってクラーク・ゲーブルは死んでしまったからね」と、彼一流の物言いで返答。それはさて置き、デフォーにとって本作の撮影は、本当に楽しいものだったようだ。 曰く、「…監督にいろんな提案をすると、必ず『じゃあ、やってみよう』と言ってくれたからね」 そんなことからもわかる通り、リンチの演出は、即興的なインスピレーションに支えられている。スラムのような場所でロケした際は、実際のホームレスを急遽エキストラとして集めたりもした。 因みにマリエッタ役には、ルーラ役のローラ・ダーンの実の母親、ダイアン・ラッドがキャスティングされた。リンチはラッドと、夕食を一緒に取った際のインスピレーションで、彼女に決めたという。 奇しくも『ブルーベルベット』の時、ローラ・ダーンをキャスティングしたのも、レストランでの出会いがきっかけだった。 リンチはスタッフに、ラッドとダーンが実の母娘だと知らせてなかった。そのため、撮影が始まってしばらく経った時に、「君たち二人は顔までそっくりになってきたね。怖いぐらいだ」と、ラッドに言いに来たスタッフが居たという。 さて本作のラスト、セイラーは愛するルーラと我が子に向かって、『ラヴ・ミー・テンダー』を歌い上げる。このシーンは、演じるニコラス・ケイジの趣味嗜好を押さえておくと、より楽しめる。 ケイジはエルビス・プレスリーの熱烈なファンで、その関連グッズのコレクター。本作から12年後=2002年に、プレスリーの遺児であるリサ・マリーと結婚した際などは、ケイジのプレスリーコレクションとして、「最大の得物をゲットした」と揶揄されたほどである。まあこの結婚は、すぐに破綻したのだが…。 そんなケイジが演じるセイラーが、「俺の女房になる女にしか歌わない」と劇中で宣言していた、プレスリーの代表的なラヴソングをド直球に歌い上げて、本作はエンドとなる。ケイジはさぞかし、気持ち良かったであろう。 当時リンチのミューズであった、イザベラ・ロッセリーニは、撮影現場でのリンチのことを、こんな風に語っている。「…俳優たちと付き合うのが大好きで、撮影で一緒に遊んでる感じ…」「…まるでオーケストラの指揮者がバイオリン奏者を指揮するように演出する…」 そんな監督だからこそ、『ワイルド・アット・ハート』の、感動的且つ爆笑もののラストが生まれたのかも知れない。■ 『ワイルド・アット・ハート』© 1990 Polygram Filmproduktion GmbH. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2022.12.29
見る者によって様々な感想と解釈を許容するショッキングな恋愛サスペンス『危険な情事』
※注:以下のレビューには部分的なネタバレが含まれます。 公開当時に様々な論議を呼んだ理由とは? 今からおよそ35年前、世界中で物議を醸した問題作である。どこにでもいる平凡な既婚男性が一夜限りのつもりで浮気をしたところ、相手の女性から執拗に付きまとわれて家庭崩壊の危機に瀕するという衝撃の恋愛サスペンス。妻子のいる身でありながら別の女に手を出した男の自業自得なのか、それとも男の浮気を本気に受け取ってしまった無粋な女が悪いのか。当時を知る筆者の記憶だと、劇場公開時の日本では主人公の浮気男に同情する声が多かったように思う。もちろん、それだけ真に迫った映画だったからこそ世間をざわつかせたわけだが、同時に「浮気は男の甲斐性」などと言われた昭和の日本にあって、単なる出来心では済まされない不倫の恐ろしい顛末を描いた本作は、ある意味でカルチャーショックのようなものだったのかもしれない。 かたや海外でも「不倫は恐ろしい!」との反応が大きかったらしく、エイドリアン・ライン監督は映画を見たという男性たちからたびたび「浮気をする気が失せた」などと声をかけられたそうだ。振り返ってみれば、不倫や浮気を題材にした映画は世の東西を問わず数多いが、それを「良くないこと」とする大前提がありつつも、しかしどこか「禁断の甘い果実」のように美化されてきたことは否めないだろう。ところが、本作では軽い気持ちで浮気をしてしまった男が、それゆえに悪夢のような地獄へと突き落とされ、あまりにも大きな代償を支払わされることになる。確かに、これを見てゾッとしてしまう男性も多かろう。 その一方で、本作はストーカー化する浮気相手の女性を独身のキャリアウーマンと設定したことで、フェミニストを中心とする一部の女性たちから猛反発を受けてしまう。結婚よりも仕事を選んだ女性を、まるで孤独なサイコパスのように描いたことを問題視されたのだ。もちろん、作り手側にそのような意図は全くなく、たまたま浮気した相手がバリバリ働く独身女性で、なおかつサイコパス的な気質の持ち主だったというだけなのだが、しかし不評を買ってしまった理由も分からなくはない。 これは海外も日本も同じだと思うが、なにしろ「結婚して家庭に入って子供を産み育てることこそ女性の幸せ」と考えられた時代が長かった。それゆえ、結婚もせず子供も作らない女性は孤独で不幸せ、いつまでも独身でいる女性は人間的に問題がある、キャリアウーマンは男にモテないから仕事を選んだなどと、あからさまな偏見の目を向けられる女性もかつては少なくなかった。’70年代に世界各地で盛り上がったウーマンリブの運動は、まさにそのような家父長制的な男社会で培われた女性への悪しき偏見と闘ってきたわけだ。なので、本作に反発を覚える女性がいたとしても全く不思議はないだろう。 しかも、よくよく考えてみれば「一夜限りの関係」だと考えていたのは男の方だけで、相手にその旨をきちんと伝えたわけでもない。「大人なんだから言わずとも分かるだろう」はまことに身勝手な言い分である。確かに既婚者であることは最初に明かしているものの、しかし優柔不断で中途半端な優しさは相手を勘違いさせて当たり前だ。その優しさだって、結局は「セックスをしたい」という下心からくるもの。なので、一度コトが終われば瞬時に醒めてしまう。今風に言えば「賢者タイム」だが、要するに体の良い「やり逃げ」である。「人間扱いされてない」と女性が感じたとしても仕方あるまい。女性側に立ってみれば酷い侮辱である。自分が誰かの妻でも母親でもない独身の女だから、あと腐れなく簡単にやれると思ったのか。実際、そう考えて不倫をする既婚男性も少なくなかろう。家父長制的な男社会では、家庭に属さない女性はなにかと軽んじられがちだ。本作のヒロインの怒りも当然である。 もちろん、だからと言ってストーカー行為に走ることは許されないが、しかし見方によっては同情の余地も十分にあるだろう。そんな女性を、本作では凶暴なモンスターのように描く。それもまた、公開当時にフェミニストから批判された理由のひとつだったと思う。いずれにせよ、見る者の立場や考え方によって、受ける印象も抱く感想も全く変わる作品であることは間違いない。 実は2種類あったエンディング 舞台は大都会ニューヨーク。優しくてしっかり者の妻ベス(アン・アーチャー)と可愛い娘エレン(エレン・ハミルトン)に恵まれた弁護士ダン・ギャラガー(マイケル・ダグラス)は、顧問を務める出版社のパーティで同社の女性編集者アレックス(グレン・クローズ)と知り合う。後日、会社の会議で再会した2人は意気投合。ちょうどその週末、妻が娘を連れて実家へ帰省していたこともあって、独身気分のダンはつい魔がさしてアレックスと寝てしまう。誰もいない我が家へと朝帰りするダン。すると、そこへアレックスから電話がかかり、なにも告げずにさっさと帰ってしまったことをなじられる。冷たくしてしまった負い目もあって、アレックスから求められるがまま再会するダンだったが、その優柔不断な態度が裏目に出てしまう。アレックスに「私は愛されている」と勘違いさせてしまったのだ。 帰省していた妻子が週明けに戻ってきたことから、アレックスとの関係をなかったものにしようとするダン。しかし、彼女を避けようとすればするほど、アレックスのダンに対する執着心は増して行き、遂には彼の目の前で手首を切って自殺未遂をはかる。とんでもない相手と関わってしまった。後悔したダンは自宅の電話番号を変更し、妻が希望していた郊外の一軒家へ引っ越しを決めるのだが、しかしアレックスの常軌を逸した付きまといはどんどんとエスカレート。やがて、愛する家族の身まで危険に晒すこととなってしまう…。 実は本作、元になった作品が存在する。それが、イギリスの映像作家ジェームズ・ディアデン(父親は往年の巨匠ベイジル・ディアデン)が監督・脚本を務めたテレビ向けの短編映画『Diversion』(’79)だ。主人公はロンドン在住の作家ガイ・ブルックス。妻アニーが子供を連れて実家へ戻った週末、原稿の執筆に行き詰まった彼は、先日のパーティで知り合った独身女性エリカを気晴らしのため食事に誘い、そのまま彼女の自宅でベッドインしてしまう。一度きりの関係で終わらせるつもりだったガイだが、しかしやり逃げ同然の扱いを彼女に責められ、罪滅ぼしのため再会に応じたところ泥沼にハマっていく…というストーリー展開は『危険な情事』とほぼ同じ。ただし、こちらではダンとの不倫関係に執着するようになったエリカが、彼の自宅へ電話をかけるところでジ・エンドとなり、その後ストーカー行為へ発展するであろうことを示唆するにとどめている。 この50分にも満たない短編映画に注目したのが、夫婦の離婚問題に斬り込んだ『クレイマー、クレイマー』(’79)やレイプ問題を正面から描いた『告発の行方』(’88)など、数々の問題作を世に送り出してきた映画プロデューサーのスタンリー・ジャッフェと、当時のビジネス・パートナーだったシェリー・ランシング。これを長編にしたら面白いと考えた2人は、作者のディアデンをロンドンからカリフォルニアへ招き、早々に出演の内定したマイケル・ダグラスも交えつつ、およそ半年間に渡って協議を重ねながら脚本を練り上げたという。ただし、そのディアデンが後に語ったところによると、実際の脚本執筆期間は4年にも及んだそうで、しかも当初の段階ではアレックスにもっと同情的な内容となるはずだったという。そこでネックになったのが、主人公ダン役のマイケル・ダグラスだったらしい。ハリウッドのトップスターであるダグラスが演じるからには、観客が共感できるキャラクターでなくてはならない。製作会社のパラマウントからそのような要求があったため、幾度となく脚本の書き直しを進めるうち、どんどんとアレックスが怪物化してしまったのだそうだ。 そんな本作には、実は2通りのエンディングが存在する。全米での封切直前にお蔵入りしたオリジナル版エンディングと、その代わりに差し替えられた劇場公開版エンディングだ。先述したように、本来であればアレックスに同情的な内容となるはずだった本作。その名残りなのか、オリジナル版エンディングでは絶望の淵に追いやられたアレックスが自殺を遂げ、これを他殺と疑った警察によって浮気相手のダンが逮捕されてしまう。結局、無実である証拠が見つかって終わるのだが、そこにはそもそもの原因を作ったダンに対して、それ相応の罰を与えようという作り手側の意図が垣間見える。実にフェアな結末だと思うのだが、しかしこれが一般試写では観客から大変な不評だったらしい。というのも、映画がクライマックスへ差し掛かる頃になると観客はすっかりダンに感情移入してしまい、平和で幸福な家庭を壊す悪女アレックスに対して強い怒りを覚えていたことから、彼女が自ら死を選ぶという結末に釈然としなかったのだ。要するに、観客はダンではなくアレックスを罰したかったのである。 そこで、監督やプロデューサー陣はエンディングを丸ごと撮り直すことに。みんなオリジナル版エンディングで満足していたのだが、しかし観客の反応は興行成績にも結び付くため無視できない。苦渋の決断だった。新たなエンディングの執筆には、『スタートレック』シリーズの監督や脚本で知られるニコラス・メイヤーが起用された。復讐の鬼と化したアレックスがダンの自宅へと乗り込み、バスルームで妻ベスに襲いかかるという有名なエンディングは、こうして誕生したのである。だが、この撮り直しにアレックス役のグレン・クローズが猛反対した。なぜなら、新たな結末だとアレックスが同情の余地のない悪魔となってしまいかねないからだ。頑として首を縦に振らないクローズを脚本家のディアデンが説得したそうなのだが、どうしても納得できない彼女は涙を流しながら必死に抗議したという。結局、このままでは映画に関わった全ての人に迷惑がかかるとエージェントに諭され、渋々ながらも撮り直しに応じたクローズだったが、恐らく彼女にしてみれば不本意な譲歩だったに違いない。 とはいえ、最終的に出来上がった劇場公開版を見ると、確かにこちらのエンディングの方がショッキングだし、なにより映画的にも大いに盛り上がる。オリジナル版の方が現実的であることは間違いないが、しかし地味過ぎてカタルシスに欠けることも否めないだろう。この新たなエンディングがあったからこそ、本作は様々な論議を巻き起こして大ヒットしたのだと思う。果たして、あなたは迂闊な浮気男ダンに我が身を重ねて震えあがるのか、それとも愛に飢えた孤独な女性アレックスに同情して復讐を望むのか。見る者の価値観や道徳意識が問われる映画でもある。■ 『危険な情事』COPYRIGHT © 2022 BY PARAMOUNT PICTURES CORPORATION. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2022.12.26
‘60年代の「スウィンギング・ロンドン」を’90年代に甦らせた爆笑スパイ・コメディ!『オースティン・パワーズ』
日本でも世界でも60年代リバイバルがトレンドだった’90年代 ‘60年代後半に世界を席巻した英国発祥の若者文化「スウィンギング・ロンドン」。ミニスカートに厚底ブーツにベルボトムといったカーナビー・ストリート・ファッション、ビーハイブにボブカットなどのヘアスタイル、ビートルズやローリング・ストーンズに代表されるポップ・ミュージック(通称「ブリティッシュ・インベージョン」)、ジェームズ・ボンド・シリーズに端を発するお洒落なスパイ映画、カラフルでサイケデリックなポップアートなどが流行し、ドラッグとフリーセックスとウーマンリブのリベラルな気運が社会に広がった。そんな「スウィンギング・ロンドン」時代のトレンドを’90年代に甦らせて大ヒットしたのが、マイク・マイヤーズ主演のスパイ・コメディ映画『オースティン・パワーズ』(’97)だった。 そもそも’90年代を振り返ってみると、世界中で「スウィンギング・ロンドン」的な’60年代カルチャーがリバイバルした時代だったと言えよう。それがいつ頃始まったのかは定かでないが、トム・ジョーンズやダスティ・スプリングフィールドがヒットチャートに復活し、B-52’sのアルバムがバカ売れした’80年代末には、すでにその下地が出来ていたのかもしれない。筆者が’60年代リバイバルをハッキリと意識するようになったのは、恐らくディーライトのデビュー曲「グルーヴ・イズ・イン・ザ・ハート」が大ヒットした’90~’91年頃だろうか。カラフルでサイケなカーナビー・ストリート・ファッションに身を包み、当時最先端のハウス・ミュージックに’60年代末~’70年代初頭のR&Bやファンクを取り入れた彼らのルックスとサウンドは、まさしく「スウィンギング・ロンドン」の’90年代的アップデートに他ならなかった。その後もレニー・クラヴィッツやジャミロクワイ、カーディガンズなど’60年代カルチャーの影響を受けたアーティストが次々と台頭し、ベルボトムや厚底ブーツを筆頭とする’60年代風ファッションも流行。特に『オースティン・パワーズ』が公開された’90年代後半はそのピークだったかもしれない。 時を同じくして、ここ日本でも独自の60’sリバイバルが巻き起こっていた。その引き金となったのは「渋谷系」ブームだ。ピチカート・ファイヴやフリッパーズ・ギターといったお洒落な渋谷系アーティストの人気は、彼らが影響を受けた海外の’60年代カルチャーにまで広がり、バート・バカラックやクインシー・ジョーンズなどのラウンジ・ミュージック、ロジャー・ニコルズやクロディーヌ・ロンジェなどのサンシャイン・ポップス、セルジュ・ゲンズブールやフランス・ギャルなどのフレンチ・ポップス、エンニオ・モリコーネやアルマンド・トロヴァヨーリなどのイタリア映画音楽が、渋谷を発信源として流行に敏感な当時の若者たちに次々と再発見されたのだ。そのトレンドはファッションや映画などにも波及。『黄金の七人』シリーズやカトリーヌ・スパーク主演作などを、映画館のリバイバル上映で追体験できたのは、それこそ「渋谷系」ブームのもたらした恩恵だったと言えよう。こうした日本ならではの少々マニアックな60’sリバイバルも、海外のムーブメントと呼応するようにして世界へと広がっていったのである。思い返せば、当時の東京はロンドンやニューヨークと並ぶ世界的な若者トレンドの発信地でもあった。なんとも文化的に豊かで幸福な時代だったと思う。 さらに、『オースティン・パワーズ』が大成功した背景には、ジェームズ・ボンド映画の人気復活も影響していたように思われる。’60年代スパイ映画ブームの起爆剤であり、「スウィンギング・ロンドン」時代の象徴のひとつでもあったジェームズ・ボンド映画シリーズ。しかし、3代目ロジャー・ムーアの後期作品『007 オクトパシー』(’83)辺りから人気に陰りが見え始め、続く4代目ティモシー・ダルトンの『007 リビング・デイライツ』(’87)と『007 消されたライセンス』(’89)は、地味なシリアス路線が災いしてか興行的に不発。おかげで、それまで2~3年毎のペースで作られてきたシリーズが、初めて6年という長いブランクを開けることとなる。だが、軽妙洒脱で荒唐無稽でお洒落な往時のボンド映画スタイルを取り戻した、5代目ピアース・ブロスナンのお披露目作『007 ゴールデンアイ』(’95)が久々の大ヒットを記録。再びジェームズ・ボンド映画は世界的なドル箱シリーズへと復活を遂げたのだ。『オースティン・パワーズ』がブロスナン版第2弾『007 トゥモロー・ネバー・ダイ』(’97)と同じ年に公開されたのは、もしかすると偶然などではなかったのかもしれない。 現代に蘇った伝説のチャラ男スパイが巻き起こす珍騒動! 物語の始まりは1967年のロンドン。普段は女性にモテモテのトレンディなファッション・フォトグラファー、しかしその素顔は世界を股にかける凄腕の英国諜報員というオースティン・パワーズ(マイク・マイヤーズ)は、相棒のセクシーな女性スパイ、ミセス・ケンジントン(ミミ・ロジャース)と共に、国際的な犯罪組織ヴァーチュコンを率いる宿敵Dr.イーヴル(マイク・マイヤーズ2役)を追いつめるものの、しかしあと一歩のところで取り逃がしてしまう。人気ファミレス・チェーン「ビッグ・ボーイ」のマスコット人形の形をしたロケットで宇宙へ逃亡したDr.イーヴルは、近い将来の復活を予言して自身と愛猫ビグルスワースを冷凍保存。そこで、オースティンも同じく自信を冷凍保存し、来るべきDr.イーヴルの復活に備えるのだった。 それから30年後の1997年。あのビッグ・ボーイ人形が大気圏に突入したことから、米軍より緊急連絡を受けたイギリス国防省は、極秘施設で冷凍睡眠に入っていたオースティン・パワーズを解凍させる。新たな相棒となったのは、ミス・ケンジントンの娘である見習い諜報員ヴァネッサ(エリザベス・ハーリー)。母親から常々聞かされていた伝説の大物スパイとの対面に胸を躍らせるヴァネッサだが、しかし仕事よりも夜遊びやセックスのことで頭がいっぱい、スウィンギング・ロンドンそのままのド派手なファッションで闊歩するお気楽なプレイボーイ、オースティンの破天荒すぎる言動に目を丸くするのだった。 一方、同じく30年ぶりに冷凍から目覚めたDr.イーヴルは、その間にヴァーチュコンを巨大企業へと成長させた腹心Mr.ナンバー・ツー(ロバート・ワグナー)やドイツ人の女性幹部フラウ・ファービッシナ(ミンディ・スターリング)、さらに人工授精で生まれた息子スコット(セス・グリーン)などを招集。物価や国際情勢などの大きな変化に戸惑いつつ、核弾頭を奪って世界の平和を脅かすという昔ならではの手法で、国連に莫大な金を要求することにする。その頃、ヴァーチュコンの幹部が入り浸っているという、ラスヴェガスのカジノへと乗り込んだオースティンとヴァネッサ。そこでMr.ナンバー・ツーの愛人アロッタ・ファジャイナ(ファビアナ・ウーデニオ)とムフフな関係になったオースティンは、Dr.イーヴルが邪悪な計画を企んでいると知る。懐かしの上司バジル(マイケル・ヨーク)の指示のもと、世界を救うためDr.イーヴルの野望を打ち砕こうとするオースティンとヴァネッサだったが…!? マイク・マイヤーズの好きなものが目いっぱい詰まったおもちゃ箱 オースティン・パワーズの元ネタとなったのは、主演のマイク・マイヤーズがレギュラー番組「サタデー・ナイト・ライヴ」の中で’91年に結成した’60年代英国風ロックバンド、ミン・ティー(本作のエンドロールにも登場)。このバンドには元バングルズのスザンナ・ホフスやマシュー・スウィートなどが参加し、マイヤーズはリードボーカルとギターを担当したのだが、そのキャラクター名がオースティン・パワーズだったのだ。このオースティンを主人公に映画を作ったらどうか?と妻に勧められた彼は、自ら書いた脚本をホフスの旦那であるジェイ・ローチ監督に持ち込んだことから本作が生まれたのである。 映画そのもののベースは、もちろん’60年代のジェームズ・ボンド映画シリーズ。Dr.イーヴルは明らかに『007は二度死ぬ』(’67)でドナルド・プレザンスが演じたブロフェルドをモデルにしているし、A Lotta Vagina(ワギナがたくさん)をもじった悪女アロッタ・ファジャイナの名前は『007 ゴールドフィンガー』(’64)のボンドガール、プッシー・ガロア(プッシーがいっぱい)のパロディだ。黒の眼帯をしたMr.ナンバー・ツーは『007 サンダーボール作戦』(’65)のエミリオ・ラーゴ、強面オバサンのフラウ・ファービッシナは『007 ロシアより愛をこめて』(’63)のローザ・クレッブが元ネタであろう。 ただし、主人公オースティン・パワーズはジェームズ・ボンドよりも、その影響下で作られた’60年代スパイ映画『サイレンサー』シリーズの軽薄なチャラ男スパイ、マット・ヘルム(ディーン・マーティン)に近い。劇中のカラフルでスウィンギンでサイケデリックなファッションや美術セットも、『サイレンサー』シリーズや『黄金の眼』(’68)などの影響が色濃いように思う。また、黒縁メガネをかけたオースティンのルックスは、マイケル・ケインが演じた『国際諜報局』シリーズの主人公ハリー・パーマーをモデルにしたそうだ。 そのほか、’60年代のオースティンの相棒ミセス・ケンジントンは英国ドラマ『おしゃれ(秘)探偵』でダイアナ・リッグが演じた、黒革のジャンプスーツ姿で空手技を操る女スパイ、エマ・ピールが元ネタだし、オースティンが女性ファンから追いかけられるオープニング・クレジットは『ビートルズがやって来る ヤア!ヤア!ヤア!』(’64)へのオマージュだし、エンド・クレジットのフォトセッション・シーンはミケランジェロ・アントニオーニ監督のイギリス映画『欲望』(’66)のパロディ。劇中で随所に差し込まれる、オースティンとバックダンサーたちが決めポーズを取るシーン・ブレイクは、’60年代末に人気を博したお笑い番組『Rowan & Martin’s Laugh-In』のパロディである。また、おっぱいから銃口が飛び出す女性型ロボット軍団「フェムボット」は、『華麗なる殺人』(’65)でブラジャーに拳銃を仕込んだグラマー美女ウルスラ・アンドレス、もしくはヴィンセント・プライス主演の『ビキニマシン』(’65)に登場するビキニ姿のロボット美女軍団をヒントにしたものと思われる。 生まれも育ちもカナダのマイク・マイヤーズだが、両親はリヴァプール出身のイギリス人で、幼少期から英国文化に親しんで育ったという。中でも、’60年代当時の映画や音楽を愛した父親からの影響は大きく、マイヤーズが本作のために設立した自身の製作会社Eric’s Boyは、’91年に亡くなった父親エリックの名前から取られている。恐らく、彼が子供の頃から大好きだったものを目いっぱい詰め込んだ、おもちゃ箱のような映画が『オースティン・パワーズ』だったのであろう。■ 『オースティン・パワーズ』© MCMXCVII New Line Productions, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2022.12.14
こだわりの“色彩”に映える、グリーナウェイの反骨と諧謔精神『コックと泥棒、その妻と愛人』
1942年イギリスのウェールズに生まれた、ピーター・グリーナウェイ。「最初に恋した芸術は絵画だった」という彼は、画家になりたくて美術学校に通うが、その在学中、スウェーデンの巨匠イングマル・ベルイマン監督の『第七の封印』(1957)を観て、「人生が変わった」。それはグリーナウェイ、17歳の時だった。 強く映画に惹かれながらも、卒業後は絵を描いて暮らそうと考えた。しかし生活が成り立たなかったため、映画の編集の仕事をすることに。そこで様々な、カメラテクニックを学んだという。 66年に、5分の実験映画を製作。それ以降は、数字やアルファベットをコラージュした幾何学的な実験映画を次々と製作し、次第に評判となっていく。 初めての劇映画は、『英国式庭園殺人事件』。この作品は82年、グリーナウェイ40歳の時に公開され、ヨーロッパでは、カルト映画として熱狂的に支持される。 因みに日本では、続く『ZOO』(86)『建築家の腹』(87)『数に溺れて』(88)等々の作品を、先に公開。『英国式…』は、91年まで待たなければならなかった。 グリーナウェイはかつて撮った実験映画をバージョンアップするかのように、『ZOO』ではアルファベット、『数に溺れて』では数字に過剰にこだわった演出を見せた。その作風や様式美は、日本でも熱烈なシンパを生み出したが、その時点ではまだ、“カルト映画”の範疇に過ぎなかった。 そうした作家性を損なうことなく、それでいて、ストーリー自体はわかり易く展開。知的なエンタメとして楽しめることを実現し、多くの映画ファンの支持を集めたと言えるのが、本作『コックと泥棒、その妻と愛人』(89)である。 ***** 高級フランス料理店「ル・オランデーズ」。一流シェフであるリチャード(演:リシャール・ポーランジェ)を擁するこの店に、毎夜オーナー気取りで訪れるのは、泥棒のアルバート(演:マイケル・ガンボン)と、その妻ジョージーナ(演:ヘレン・ミレン)。そしてアルバートの手下ミッチェル(演:ティム・ロス)ら。 盗んだ金で贅沢三昧。傍若無人な態度で、他の客にも迷惑を掛けまくるアルバートに、リチャードはうんざりしながらも、追い出すことはできない。ジョージーナも夫の卑しさに辟易しながら、彼の凶暴さをよく知ってるため、逃げ出せなかった。 そんなある時ジョージーナは、常連客の紳士マイケル(演:アラン・ハワード)と目が合い、何かを感じた。示し合わせたようにトイレの個室に向かい、愛し合おうとする2人。 その日は妻の戻りが遅いと、アルバートが追ってきて、未遂に終わる。しかしそれからは毎夜店を訪れる度、ジョージーナとマイケルはリチャードの計らいで、厨房の奥や食材庫などで、情事に耽るようになる。 アルバートが妻の不貞に、遂に気付く。愛し合う2人は、マイケル宅へと逃げのびた。 誰に憚ることなく抱き合い、リチャードの差し入れを食しながら、幸せに震える2人。しかし至福の時は、あっという間に終わる。 隠れ家を、アルバートが発見。マイケルは、残忍な方法で殺害された。 涙を流すジョージーナは、夫への復讐を誓い、リチャードの協力を求める。彼女が実行した、世にもおぞましいその方法とは? ***** 映画が製作された80年代終わりは、飽食の時代と盛んに言われた頃。グリーナウェイは、消費社会のメタファーとして、“レストラン”という舞台を選んだ。 彼曰く、「人はそこで、豪華なものを食べ、食べているところを見られ、見られるから着飾り、マナーに従い、スノッブな会話を楽しむ。自己PRの場としてのレストランは、突き詰めれば悪の根源でもあるのだ」 グリーナウェイは本作を、自分のフィルモグラフィーで、唯一の政治的な映画かも知れないとも語っている。そもそも本作の企画をスタートさせたのは、時のイギリス首相マーガレット・サッチャーによる、新自由主義に基づいた政策“サッチャリズム”への非難からだった。 凶悪な泥棒のアルバートは、富裕層と貧困層の格差を広げる、“サッチャリズム”を信奉する者を表している。その傲慢さや無神経さ、貪欲ぶりを、「絶対的な悪」として描くのが、本作のモチーフのひとつであった。 ではグリーナウェイはそうしたことを、どんな手法を用いて描いたのだろうか? 元は画家志望だった彼は、「カメラを使って絵を描いている」と言われるように、画作りに於いて、“シンメトリー=左右対称”にこだわる。そしてこのシンメトリーは、キャラ設定などにも及ぶ。 本作の場合は、1人の女を巡る、2人の男というシンメトリー。その1人は、野卑な泥棒であり、もう1人は、学者で教養人という、対照的な2人である。 グリーナウェイは、文学にも惹かれ、言語そのものにも大いなる興味を持っている。結果的に絵画や文学など、西欧文化の古典からの引用が、頻繁に為されることとなる。そもそも『コックと泥棒、その妻と愛人』というタイトル自体、イギリスの伝承童謡である、「マザー・グース」からの引用だという。 グリーナウェイは自らを、フィルムメーカーとは思っていない。「映画という媒体に身をおいた画家であり、また、小説家」だと、自負しているのだ。 「映画という媒体に身をおいた画家」としては、“オランダ・バロック美術”への傾倒がよく知られる。本作ではレストランと店外に、17世紀の画家ハルスによる、「聖ゲオルギウス射手組合の士官たちの会食」が飾られている。まさに“オランダ・バロック”の特徴のひとつである、写実的な「集団の肖像画」だ。12人もの士官たちが、各々くつろぎ、生き生きとした表情で描かれている。 そしてこの絵画で士官たちが着る服が、レストランに集う、泥棒たちの衣装のモデルとなっているのである。本作は、世界的なデザイナーである、ジャン=ポール・ゴルチエが、初めて映画の衣裳を担当した作品でもある。 絵画的という意味では、本作で最も特徴的なのが、“色彩”である。登場する部屋ごとに、象徴的な色で統一を行っているのだ。レストランは“赤”、厨房は“緑”、トイレは“白”等々といった具合に。ジョージーナがレストランからトイレに入る時には、ドレスの色が赤から白に変わったりする。 こうした色にはそれぞれ意味合いがあり、例えばレストランの“赤”は、暴力の場であることを表す。厨房の“緑”は、神聖な場という意味。そこでは食べ物が生み出され、また、人が逃げて潜むことができる。そしてトイレの“白”は、天国を表現。ジョージーナとその愛人マイケルにとっては、初めての逢瀬の場であった。 本作では他にも、“青”“白”“黄”“金”といった色が使われている。かのピカソは、「色は物から離れて、自由になることができる」と考えて、自らの作品で実践した。グリーナウェイは、それと同じ野心的なチャレンジを行い、色は非常に装飾的な上、そこに感情を盛り込めることを、示そうとしたのだ。 こうした、グリーナウェイの用意したステージの上で踊った俳優陣も、見事である。特に「悪の化身」とでも言うべき、泥棒アルバート役のマイケル・ガンボン。グリーナウェイ言うところの、「どんな魅力もない絶対的な悪人」に対して、観客は不快感を募らせつつも、その存在感が圧倒的で、目が離せない。 妻のジョージーナ役は、今や名優の名を恣にしているヘレン・ミレン。当時40代半ばに差し掛かろうという頃だが、愛人役のアラン・ハワードと共に、全裸で画面内を右往左往し続ける。 本作は公開時から、典型的な「ポスト・モダン」だと言われた。「ポスト・モダン」を簡単に説明すると、芸術・文化の諸分野で、モダニズム=近代主義の行き詰まりを打ち破ろうとする動きである。建築やデザインに於いては、装飾の比重が高まり、過去の様式が自由に取り入れられるところに特色がある。 先にも記したことだが、グリーナウェイ作品は、西欧文化の古典からの引用が頻繁に成されるのが、特徴のひとつ。“色彩”で装飾的な試みを行ったことも含めて、まさに「ポスト・モダン」と合致している。 それ故に本作は、鑑賞しただけですべてがわかるような映画ではない。多岐に亙るサブテキストを学習しなくては、理解を深めることが困難な代物とも言える。 そんな作品が、日本でも大きな注目を集めた。それはまさに、“時代”の賜物と言える。 1980年代中盤から2000年代はじめ頃まで、日本の映画興行には、「ミニシアターの時代」があった。単館興行でロングランし、1億から2億もの興行収入を叩き出すような作品も珍しくなかった。 そんな中で「シネマライズ」という映画館は、86年にオープン。渋谷のミニシアター文化の中核を担った。 デヴィッド・リンチの『ブルーベルベット』(86製作/87日本公開)、レオス・カラックスの『ポンヌフの恋人』(91製作/92日本公開)、ダニー・ボイルの『トレインスポッティング』(96製作/同年日本公開)や、テーマ曲「コーリング・ユー」が印象的な『バグダッド・カフェ』(87製作/89日本公開)、マサラ映画人気に火を点けた『ムトゥ 踊るマハラジャ』(95製作/98日本公開)等々、「シネマライズ」は数々のヒット作をリリースした。『コックと泥棒、その妻と愛人』は、興行に於いて、それらに連なる存在感を放った作品なのである。 1990年の8月4日に公開し、11月30日まで、ほぼ4カ月のロングラン。流行の最先端を発信する街に集う、いわゆる“渋谷系”の若者たちも、多く集客した。 若者の映画離れが懸念されて久しい今となっては、まさに隔世の感である。その舞台となった「シネマライズ」も、2016年に閉館。30年の歴史に、ピリオドを打った。「ポスト・モダン」に関して、「ただの流行りものだった」と、後に辛辣な批評も行われている。では『コックと泥棒…』やグリーナウェイの集めた注目も、その時期の「流行りもの」に過ぎなかったのか? そんなことは、ないだろう。些か古びた部分はあれど、グリーナウェイの試みは、いま観ても十分に刺激的で、鮮烈な魅力が溢れている。『コックと泥棒、その妻と愛人』は、“サッチャリズム”から30~40年も遅れて、今更新自由主義に傾倒。深刻な格差を生み出している我が国に於いては、シャレにならない作品とも言える。 泥棒アルバートのような輩が横行しているのを、我々の多くは今まさに、目の当たりにしている筈だ。■ 『コックと泥棒、その妻と愛人』© NBC Universal All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2022.12.09
1980年代韓国の“闇”を斬り裂いた!№1監督ポン・ジュノの出世作!!『殺人の追憶』
1960年代生まれで、80年代に大学で民主化運動の担い手となり、90年代に30代を迎えた者たちを、韓国では“683世代”と呼んだ。そしてこの世代は、政治経済から文化まで、その後の韓国社会をリードしていく存在となる。『パラサイト 半地下の家族』(2019)で、「カンヌ国際映画祭」のパルム・ドールと「アカデミー賞」の作品賞・監督賞などを受賞するという快挙を成し遂げた、韓国№1監督ポン・ジュノも、まさにこの世代。本人は69年生まれで、88年に大学に入ったので、あまり実感がなく、その分け方自体が「好きではない」というが。 確かに90年代、“韓国映画ルネッサンス”と言われる潮流が起こった時、彼はまだ長編監督作品を、ものしてなかった。そして2000年になって完成した第1作『ほえる犬は噛まない』は、一部で高い評価を得ながらも、興行的には振るわない結果に終わっている。 しかしプロデューサーのチャ・スンジェは、『ほえる…』の失敗をものともせず、ポン・ジュノに続けてチャンスを与えた。彼が取り掛かった長編第2作が、本作『殺人の追憶』(2003)である。 題材は、“華城(ファソン)連続殺人事件”。86年から91年に掛け、ソウルから南に50㌔ほど離れた華城郡台安村の半径2㌔以内で起こった、10件に及ぶ連続強姦殺人事件である。180万人の警察官が動員され、3,000人の容疑者が取り調べを受けたが、犯人は捕まらないまま、10年余の歳月が流れていた。 この事件はすでに演劇の題材となっており、「私に会いに来て」というタイトルで、1996年に上演されていた。ポン・ジュノはこの演劇を原作としながら、事件を担当した刑事や取材した記者、現場近隣の住民に会って話を聞き、関連資料を読み込んだ。 そして自分なりに事件を整理してみたところ、「…自然と事件を時代背景と共に考えるようになった」という。この作業に半年掛けた後、脚本の執筆は、1人で行った。 因みに63年生まれで、ポン・ジュノよりは6歳ほど年長ながら、同じ“386世代”で、すでに『JSA』(00)でヒットを飛ばしていたパク・チャヌク監督も、「私に会いに来て」の映画化を考えていた。しかしポン・ジュノが取り組んでいることを知って、あきらめたという。 “華城連続殺人事件”には、“386”の代表的な監督たちの興味を強く引く、“何か”があったのだ。 未解決の連続殺人事件を映画化するということで、スタッフとキャスト全員で追悼式を行ってからクランクインした本作。事件から10数年経って、華城は当時の農村風景が残る環境とはかなり様相が変わっており、また住民の感情も考慮して、事件現場よりも更に南部の全羅道でロケが行われた。 製作費は、30億ウォン=3億円。通常の韓国映画より、少し高い程度のバジェットであった。 ***** 1986年、華城の農村で連続猟奇殺人が発生する。被害者の若い女性は、手足を拘束され、頭部にガードルを被せられたまま、用水路などに放置されていた。 担当のパク・トゥマン刑事(演:ソン・ガンホ)は、「俺は人を見る目がある」と豪語するが、捜査は進まない。そんなある日、頭の弱い男クァンホが、被害者の1人に付きまとっていたという情報を得る。トゥマンは相棒のヨング刑事と共に、拷問や証拠の捏造まで行って、クァンホを犯人にしようとするが、うまくいかない。 そんな時にソウルから、ソ・テユン刑事(演:キム・サンギュン)が派遣されてくる。テユンは、「書類は嘘をつかない」と言い、各事件の共通性として「雨の日に発生した」こと、「被害者は赤い服を着ていた」ことを見つけ出す。更に彼の指摘通り、失踪していた女性が、死体となって発見される。 やり方が正反対のトゥマンとテユンは、対立しながら、捜査を進める。しかし有力な手掛かりは見つからず、犠牲者は増えていく。 雨で犯行の起こる日、必ずラジオ番組に「憂鬱な手紙」という曲をリクエストしてくる男がいることがわかる。その男ヒョンギュ(演:パク・ヘイル)は、連続殺人が起こり始めた頃から、村で働き始めていた。 有力な容疑者と目星を付け、現場に残された精液とヒョンギュのDNAが一致するか検査を行うことになる。しかし当時の韓国には装備がなく、アメリカに送って鑑定が返ってくるまで、数週間待たねばならない。 一日千秋の思いで結果を待つ刑事たちだったが、その間にまた犯行が起きて…。 ***** 本作の内容は、事件の実際と、それを基にした演劇と、更にはポン・ジュノの想像を合わせたものだという。例えば、被害者の陰部から、切り分けた桃のかけらが幾つも見付かったことや、捜査に行き詰まった刑事たちが霊媒師を訪ねたこと、頭の弱い容疑者が、尋問後に列車に飛び込み自殺したことなどは、“事実”を採り入れている。 有力な容疑者のDNA鑑定は、実際には、日本に検体を送って行われた。これをアメリカに変更したのは、当時の米韓の対比を描きたかったからだという。 容疑者がラジオ番組に歌をリクエストするというのは、まったくのフィクション。この設定は、原作の演劇にもあったが、その曲はモーツァルトの「レクイエム」であった。ポン・ジュノはそれを、「1980年代の雰囲気が重要」と、当時の歌謡曲である「憂鬱な手紙」に変えたのである。 因みに原作の「私に会いに来て」で、主人公の相棒の暴力刑事を演じたキム・レハと、頭の弱い容疑者役だったパク・レシクは、そのまま本作で、同じ役どころを与えられている。 本作を、典型的な“連続殺人事件もの”として作ったり、最初はいがみ合っている刑事たちが、やがて力を合わして捜査に取り組んでいく、“バディもの”として描くことも可能であった。しかし先に記した通り、「…自然と事件を時代背景と共に考えるようになった」というポン・ジュノは、韓国社会が通ってきた80年代の暗部を描くのを、メインテーマとした。 事件当時の新聞には、88年に開催が迫った「ソウルオリンピック」が大見出しとなっている下に、「華城でまた死体発見」という小さな記事が載っている。ポン・ジュノはそれを見て、妙な気がした。そして「…これは不条理ではないかと思った」という。「華城事件」で10人の女性が殺された86年から91年は、ちょうど全斗煥大統領による軍事政権に対する民主化要求運動が、全国的な広がりを見せた時代である。そしてこの頃の警察は、ド田舎の村の人々を守ることよりも、政権を守るためにデモを鎮圧することの方を、重視していた。 本作の中では、機動隊がデモ隊を取り締まるために出動している間に、事件が起こる描写がある。また夜道を歩いていた女子学生が犯人に襲われる場面は、政府の灯火管制により、村のあちこちで消灯したり、シャッターが下ろされたりして、人為的に暗闇が訪れていくのと、執拗にカットバックされる。政府が作り出した暗闇が、罪のない女子学生の命を奪う犯人を、サポートしてしまうのだ。 これぞポン・ジュノ言うところの「不条理」。「時代の暗黒が殺人事件の暗黒を覆う…」わけである。 高度成長期でもあるこの時期、稲田や畑ばかりだった農村に、工場が建てられる。それまでは村全体が一つの大家族のような繋がりだったのに、縁もゆかりもない、見も知らぬ労働者が大挙して移り住んでくることによって、“事件”が起こるという構図も、まさに時代が生んだ殺人事件と言える。 因みに我が国でも、64年の東京オリンピック前年には、5人連続殺人の“西口彰事件”や、4歳の子どもを営利誘拐目的で殺害した“吉展ちゃん事件”などが起きている。奇しくも日韓共に、五輪が象徴する時代の転換期には、猟奇的な事件が発生しているわけだ。 “西口彰事件”については、それをモデルにした、今村昌平監督の『復讐するは我にあり』(79)という有名な邦画がある。本作の演出に当たってポン・ジュノは、この作品を非常に参考にしたという。 本作の邦題『殺人の追憶』は、原題の直訳だ。これはデビュー作『ほえる犬は噛まない』で、「フランダースの犬」(原題)という意に沿わぬタイトルを映画会社に付けられてしまい、結果的に内容と合わないことも、興行の失敗に繋がったという反省から、ポン・ジュノ自らが付けたもの。「殺人」の「追憶」という連なりには、組合せの妙を感じる。「追憶」という言葉を使ったのは、80年代の韓国、その“暗黒”を、積極的に振り返るという、ポン・ジュノの想いが籠められているのである。 そうした想いを、具現化していくための演出も、半端なことはしない。この規模の作品では、通常3~4ヶ月の撮影期間となるが、本作は半年間。これは「冒頭とラストだけ晴で、後は曇りでなくてはダメ」という、監督のこだわりによって掛かった。特に件の女子学生が犠牲になるシーンでは、理想的な曇天を待つために、1か月を要したという。 本作は先に挙げたように、“連続殺人事件もの”“バディもの”といった、ジャンル映画に括られることから逃れているのも、特徴だ。ポン・ジュノは毎作品、「ジャンルの解体」を目指しているという。 これに関しては、『岬の兄弟』(2019)『さがす』(22)などの作品で注目を集めた片山晋三監督が、興味深い証言をしている。片山は『TOKYO!/シェイキング東京』(08)『母なる証明』(09)という2作で、日本人ながら、ポン・ジュノ監督作品の助監督を務めている。「…ジャンルを意識しないで一カット、一カットごとに映画の見え方がホラーだったりコメディだったりサスペンスだったりに変わっても成立すること、むしろその方が面白いと気づいたのが僕にとっての収穫です」 この言から、片山の『さがす』も、確かに「ジャンルの解体」を目指した作風になっていることに思い当たる。 さてここで、ポン・ジュノの期待に応えた、本作の出演者についても、触れねばなるまい。本作に続いて、『グエムル‐漢江の怪物‐』(06)『スノーピアサー』(13)そして『パラサイト 半地下の家族』(19)といったポン・ジュノ作品に主演。「最も偉大な俳優であり、同伴者」と、ポン・ジュノが称賛を惜しまない存在となっている、ソン・ガンホも、本作のトゥマン刑事役が、初顔合わせ。『反則王』(00)『JSA』(00)といった主演作で大ヒットを飛ばし、すでにスター俳優だった彼が、駆け出しの監督の作品に主演したのは、『ほえる犬は噛まない』を観て、笑い転げたことに始まる。「ポン監督に自分から電話をかけて関心を示した情熱が買われ、キャスティングされた」のだという。いち早く監督の才能を、見抜いていたわけだ。またガンホが無名時代にオーディションに落ちた際、その作品の助監督だった、ポン・ジュノに励まされたというエピソードもある。 いざクランクインし、序盤の数シーンを撮ってみると、アドリブも多いガンホに対して監督は、「野生の馬」という印象を抱く。そして彼をコントロールする方法としては、「ただ垣根を広く張り巡らしておいて、思いっきり駆け回れるようにしたうえで、放しておこう」という考えに至った。「…優れた感性と創造力、作品に対する理解力を持ち合わせている」芸術家と、認めてのことだった。 キム・サンギョンを起用したのは、ホン・サンス監督の『気まぐれな唇』(02)を観てのこと。サンギョンは本作の脚本を読んで、テユン刑事に感情移入。「同じ気持ちになって猛烈に腹が立った」という。 有力な容疑者として追及されるヒョンギュ役は、パク・ヘイル。ポン・ジュノは脚本の段階から、彼の特徴的な顔を、思い浮かべていた。 ラスト、未解決に終わった事件から歳月が経ち、今や刑事を辞めて営業マンになったトゥマンが、殺人のあった現場を訪れ、自分の少し前に犯人らしき男が、同じ場所を訪れていたことを、その場に居た女の子から聞いて愕然とする。そして観客を睨みつけるような彼の顔のアップとなって、終幕となる。 これは「俺は人を見る目がある」「目を見れば、わかる」などと、本作の中で容疑者の肩を摑んでは、その顔を見つめる行為を続けてきた、トゥマンの最後の睨みである。ポン・ジュノの、「観客として映画を見るかもしれない真犯人の顔を俳優の目でにらみつけたかった」という想いから、こうしたラストになった。 実はこのシーンは、クランクインから間もなく撮られたもので、監督はガンホに、「射精の直前で我慢しているような表情でやってほしい」と演出を行った。監督曰く、ガンホは本当にあきれた顔を向けたというが、実際は何度も耳打ちで注文してはリテイクする監督を見て、「この人はこのシーンに勝負をかけているんだな」と理解。渾身の力を、注ぎ込んだという。 さて本作は公開されると、韓国内で560万人を動員。2003年の№1ヒット作となり、数多の賞も受賞した。紛れもなくポン・ジュノの出世作であり、国際的な評価も高い。20年近く経った今でも、彼の「最高傑作」であると、主張する向きが少なくない。 ここで“華城事件”の終幕についても、触れたい。2019年になって、真犯人が浮上した。その時56歳になっていた、イ・チュンジェという男。 94年に、妻の妹を強姦殺害した罪で、無期懲役が確定し、24年もの間服役中だった。改めてのDNA鑑定の結果、彼が真犯人であることが確定したが、一連の事件はすべて「時効」が成立していた。 ここで改めて注目されたのが、警察の杜撰な捜査。容疑者の中には自殺者が居たことも記したが、特に酷かったのは、10件の殺人の内、1件の犯人として逮捕され、20年もの間収監されていた男性が居たことである。 本作『殺人の追憶』が、事件の解決には役立ったのかどうかは、明言できない。しかし、あの時代の“闇”を、紛れもなく斬り裂いていたのだ。■ 『殺人の追憶』© 2003 CJ E&M CORPORATION, ALL 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