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COLUMN/コラム2023.04.07
スコセッシ&デ・ニーロ“ギャングもの”3部作の最終作!?『カジノ』
2012年、イギリスの「Total Film」誌が、映画史に残る「監督と俳優のコラボレーション50組」を発表した。第3位の黒澤明と三船敏郎、第2位のジョン・フォードとジョン・ウェインを抑えて、堂々の第1位に輝いたのが、マーティン・スコセッシ監督とロバート・デ・ニーロだった。 この時点で、スコセッシ&デ・ニーロが世に放っていた作品は、8本。その内には、『タクシードライバー』(76)や『レイジング・ブル』(80)など、今日ではアメリカ映画史上の“クラシック”として語られる作品も含まれる。 しかしながらこのコンビと言えば、まずは“ギャングもの”を思い浮かべる向きも、少なくないだろう。これは多分、デ・ニーロがスコセッシ作品と並行して出演した、『ゴッドファーザー PARTⅡ』(74)『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(84)『アンタッチャブル』(87)などの印象も相まってのことと思われるが…。 何はともかく、95年までのコンビ作8本の内3本までが、“ギャングもの”に分類される作品だったのは、紛れもない事実である。スコセッシ&デ・ニーロの“ギャングもの”3部作、それはコンビ第1作の『ミーン・ストリート』(73)を皮切りに、『グッドフェローズ』(90)、そして95年に発表した本作『カジノ』へと続いた。 ***** 1970年代初頭、サム“エース”ロスティーン(演:ロバート・デ・ニーロ)は、ギャンブルでインサイダー情報などを駆使。儲けさせてくれるノミ屋として、知られていた。 そんなサムに目をかけていたギャングのボスたちの肝煎りで、彼はラスベガスへと送り込まれる。任されたのは、巨大カジノ「タンジール」の経営。サムはカジノの売り上げを大幅にアップさせ、ボスたちの取り分も倍にする。 サムと同じ街で育ったギャング仲間の親友ニッキー・サントロ(演:ジョー・ペシ)も、ラスベガスに現れる。ニッキーは、いとも簡単に人を殺してしまう、荒くれ者。サムは危惧を抱きながらも、用心棒として頼りにする。 ある時サムは、カジノの常連で、ギャンブラーにして詐欺師のジンジャー(演:シャロン・ストーン)と出会い、惚れ込む。彼女が自分に愛は抱いておらず、腐れ縁のヒモに金を注ぎ込んでいるのも知っていたが、いずれ「愛させてみせる」と、自信満々にプロポーズ。2人の間には、早々に娘が生まれる。 しかしジンジャーは変わらず、やがて夫婦生活は暗礁に乗り上げる。彼女は酒とドラッグに溺れ、手に負えなくなっていく。 凶暴性を抑えることがない、ニッキーの暴走も、サムの頭痛の種に。しかもジンジャーが、慰めてくれるニッキーと、不倫の関係に陥ってしまう。 妻と親友の裏切り。そしてFBIの捜査の手がカジノに伸びてくる中で、サムは破滅への道を歩んでいく…。 ***** 1905年に砂漠の中に設立されて始まった、欲望渦巻くギャンブルの街ラスベガスを舞台にした、本作『カジノ』。登場人物はいずれも、「生まれつきかたぎの道には無縁の者たち」である。 原作&脚本でクレジットされているのは、ニコラス・ビレッジ。主に70年代のラスベガスに材を取り、実在のギャングたちとその興亡に関して、5年がかりで取材を進めた。 ビレッジは、スコセッシ&デ・ニーロの“ギャングもの”3部作の前作、『グッドフェローズ』の原作者兼脚本家でもある。しかし前作が、すでに出版されていた自作を、スコセッシと共に脚本化するというやり方で映画化したのに対し、今作でスコセッシから共同脚本の依頼を受けた時は、まだ書籍は書き始めたばかりだった。 当初は撮影が始まる前には、本も仕上げようと考えていたビレッジだったが、そのプランは雲散霧消。結局はスコセッシと共に、5か月間もシナリオの執筆に没頭することになる。 ビレッジ曰くスコセッシは、彼が提供したリサーチやメモに目を通して、「…何もないところから、つまりただのメモから脚本を書いた…」という。その作業は『グッドフェローズ』の時よりも、「…数段難しかった…」と述懐している。 そんな中でビレッジが驚かされたのは、スコセッシが脚本に、音楽を書き、カット割りを書き、ビジュアルの絵を描き、作品のトーンまで書いてしまうことだった。この時点でスコセッシの頭の中では、トータルな映画が出来上がっていたわけである。『カジノ』は、『グッドフェローズ』で成功した手法に、更に磨きを掛けた作品と言える。ひとつは“ヴォイス・オーバー・ナレーション”。 登場人物の心理をナレーションで語らせてしまうのは、ヘタクソな作り手がやると、目も当てられないことになる。しかしスコセッシは、サムそしてニッキーの胸の内をガンガン語らせることで、説明的なシーンの省略に成功。3時間近くに及ぶ長大なストーリーを、中だるみさせることなく、テンポよく見せ切ってしまう。 音楽の使い方も、前作を踏襲。できるだけその時代に合わせることを意識しながらも、ローリング・ストーンズからフリードウッド・マックなどのポップス、バッハの「マタイ受難曲」のようなクラシック、『ピクニック』(55)や『軽蔑』(63)のような作品のサントラまで、様々なジャンルの音楽を使用。エンドロールを〆る、ホーギー・カーマイケルの「スターダスト」まで、実に50数曲がスクリーンを彩る。 本作に登場する「生まれつきかたぎの道には無縁の者たち」の相当部分は、実在の人物を基にしている。主人公サムのモデルとなったのは、フランク“レフティ”ローゼンタールという男。実際にフランクがラスベガスで仕切っていたのは、4つのカジノだったが、本作では1箇所に集約。架空の巨大カジノ「タンジール」を作り出した。 因みに、この映画のファーストシーンで描かれる、サムがエンジンを掛けた車が爆発して吹き飛ばされるシーンは、モデルとなったフランクが、82年に実際に経験したことである。映画で描かれたのと同様に、フランクは九死に一生を得たものの、彼のラスベガスでのキャリアは、終焉を迎えることとなる。 そして後々、ニコラス・ビレッジの取材に対して自らの半生を語り、それが本作『カジノ』となる。そうした流れを考えても、あれ以上のファーストシーンは、なかったと言えるだろう。 さて、「生まれつきかたぎの道には無縁の者たち」を演じる俳優陣。デ・ニーロはもちろん、『グッドフェローズ』でアカデミー賞助演男優賞を獲得しているジョー・ペシにとっても、そんな役どころはもはや、「お手の物」のように映る。 そんな2人に対して、当時「意外」なキャスティングと話題になったのが、ジンジャー役のシャロン・ストーンだった。シャロンは『氷の微笑』(92)で、セックスシンボルとして注目を集め、一躍スターの仲間入りした印象が強い。 本人もスコセッシに対して、「…私のようなタイプの役者を必要とする映画とは無縁の人…」のように感じていたという。まさか彼の映画に出ることになるとは、夢にも思わなかったわけである。 しかしスコセッシは、シャロンがぽっと出のスターなどではなく、そこに至るまで20年近く、この世界で頑張っていたことを知っていた。スコセッシはシャロンと何度か話をして、彼女の中にジンジャーを自分のものとして演じられる重要な要素、死にもの狂いの必死さを見出したのである。 シャロンの起用はスコセッシにとって、「冒険ではあったけれど、一方では充分な計算に基づいてもいた…」という。 いざ撮影に入ると、シャロンに対して、デ・ニーロが惜しみなく助言を行った。それに励まされてか、シャロンは次々と有機的な提案を行う。子どもの前でコカインを吸うシーンや、衣装に少々たるみを出すことで、生活が崩れてボロボロになった様を表す等々は、彼女のアイディアが、スコセッシに採用されたものである。 本作のクランクアップが迫る頃になると、シャロンには、最高の仕事を成し遂げた実感が湧いてきたという。その実感に、間違いはなかった。本作での演技は彼女のキャリアでは唯一、“アカデミー賞主演女優賞”にノミネートされるという成果を上げた。 さて本作で、俳優陣以上の存在感を発揮しているのが、文字通りのタイトルロールである、“カジノ”だ!スタジオにセットを建てるよりも、実際のカジノで撮った方が、独特の熱気や照明が手に入るという判断に基づいて、ロケ地探しが行われた。 結果的に120か所以上のロケ地が使用されたが、メインの「タンジール」のシーンでは、1955年にラスベガスに建てられた、「リヴィエラ・ホテル」を使用することとなった。このホテルは90年に入ってから改装されていたが、それはちょうど本作の舞台である、70年代風へのリニューアル。お誂え向きだった。「リヴィエラ」での撮影は、カジノの一部を使って、週4日、夜の12時から朝の10時まで、6週間以上の期間行われた。本作では売上げをマフィアへ運ぶ男が、ラスベガスの心臓部を早足で通り抜けていくシーンがある。これはこの撮影体制があってこそ可能になった、ステディカムでの長回しである。 賭場のシーンでは、前方にこそ、70年代の服装をさせたエキストラを配置したが、後方に控えるは、実際に徹夜でギャンブルに勤しんでいる、「リヴィエラ」の本物のお客。スロットマシーンなどのサウンドは鳴りっぱなしで、勝った客が、大声で叫んだりしているというカオスだった。「まるで人とマシーンと金が一つの大きな固まりになって、息をしている…」この空間で撮影することを、スコセッシは大いに楽しんだ。もちろん大音響の中で聞き取れないセリフは、アフレコでフォローすることになったのだが。 そんな中で撮影された一つが、ジョー・ペシ演じるニッキーが、立ち入り禁止にされているにも拘わらず、カジノに押し入ってブラック・ジャックに挑むシーン。ペシはアドリブで、トランプのカードをディーラーに投げつけたり、汚い言葉で悪態を突いたりする。 その撮影が済んだ後ディーラーを務めていた男が、スコセッシにこんなことを言ってきた。「本物はもっと手に負えない奴でしたよ」。何と彼は、ニッキーのモデルになったギャングと、実際に相対したことがある、ディーラーだったのだ。 このエピソードからわかる通り、本作では本物のディーラーやゲーム進行係が、カードやチップ、ダイスを捌いている。更には、カジノの連絡係などを、コンサルタントに雇った。“本物”にこだわったのである。 そんな中でなかなか見つからなかったのが、「騙しのテクニックを教えてくれる人間」。そうした者は、「カジノでは絶対に正体を知られたくない…」からである。 ・『カジノ』撮影現場での3ショット(左:ジョー・ペシ、中央:マーティン・スコセッシ、右:ロバート・デ・ニーロ) スコセッシは本作で、マフィアなどの組織犯罪が力を失っていく姿を、「…1880年代にフロンティアの街が終りを告げた西部大開拓時代の終焉…」に重ね合わせたという。そして、落日の人間模様を描くことにこだわった。 また、敬虔なクリスチャンとして知られるスコセッシは、本作の物語を「旧約聖書」にも重ねた。主人公たちは、高慢と強欲があだとなって、1度は手にした楽園を失ってしまうのである。 そうして完成した本作は、後に「監督と俳優のコラボレーション50組」の第1位に輝くことになる、スコセッシ&デ・ニーロにとって、一つの区切りとなった。お互いの手の内がわかり過ぎるほどにわかってしまう2人は、この後暫しの間、コラボの休止期間に入る。 21世紀に入って、スコセッシのパートナーは、レオナルド・ディカプリオへと代わった。『ギャング・オブ・ニューヨーク』(2002)から、『ウルフ・オブ・ウォールストリート』(13)まで、そのコンビ作は5本を数える。 スコセッシとデ・ニーロとの再会は、『カジノ』から実に24年後の、『アイリッシュマン』(19)まで待たなければならなかった。70代になった2人が組んだこの作品もまた、“ギャングもの”である。■ 『カジノ』© 1995 Universal City Studios LLC and Syalis Droits Audiovisuels. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2023.04.03
‘80年代の日本の映画ファンを熱狂させたロックンロールの寓話『ストリート・オブ・ファイヤー』
アメリカよりも日本で大ヒットした理由とは? 日本の洋画史を振り返ってみると、本国では不入りだったのになぜか日本では大ヒットした作品というのが時折出てくる。その代表格が『小さな恋のメロディ』(’71)とこの『ストリート・オブ・ファイヤー』(’84)であろう。リーゼントに革ジャン姿のツッパリ・バイク集団にロックンロールの女王が誘拐され、かつて彼女の恋人だった一匹狼のアウトロー青年が救出のため馳せ参じる。ただそれだけの話なのだが、全編に散りばめられたレトロなアメリカン・ポップカルチャーと、いかにも’80年代らしいMTV風のスタイリッシュな映像が見る者をワクワクさせ、不良vs不良の意地をかけた白熱のガチンコ・バトルと、ドラマチックでスケールの大きいロック・ミュージックが見る者の感情を嫌が上にも煽りまくる。血沸き肉躍るとはまさにこのことであろう。 当時まだ高校生1年生だった筆者も、映画館で本作を見て鳥肌が立つくらい感動したひとりだ。その年の「キネマ旬報」の読者選出では外国映画ベスト・テンの堂々第1位。エンディングを飾るテーマ曲「今夜は青春」は、大映ドラマ『ヤヌスの鏡』の主題歌「今夜はエンジェル」として日本語カバーされた。当時の日本で『ストリート・オブ・ファイヤー』に熱狂した映画ファンは、間違いなく筆者以外にも大勢いたはずだ。それだけに、実は本国アメリカでは見事なまでに大コケしていた、どうやら興行的に当たったのは日本くらいのものらしいと、だいぶ後になって知った時は心底驚いたものである。 ではなぜ本作が日本でそれだけ受けたのかというというと、あくまでもこれは当時を知る筆者の主観的な肌感覚ではあるが、恐らく昭和から現在まで脈々と受け継がれる日本の不良文化が背景にあったのではないかとも思う。実際、良きにつけ悪しきにつけ’80年代はツッパリや暴走族の全盛期だった。なにしろ、横浜銀蝿やなめ猫やスケバン刑事が大流行した時代である。加えて、当時の日本ではロックンロールにプレスリーにジェームズ・ディーンなど、本作に登場するような’50年代アメリカのユース・カルチャーに対する憧憬もあった。まあ、これに関しては、同時代のイギリスで巻き起こった’50年代リバイバルやロカビリー・ブームが日本へ飛び火したことの影響もあったろう。さらに、’70年代の『小さな恋のメロディ』がそうだったように、劇中で使用される音楽の数々が日本人の好みと合致したことも一因だったかもしれない。いずれにせよ、アメリカ本国での評価とは関係なく、本作には当時の日本人の琴線に触れるような要素が揃っていたのだと思う。 実は『ウォリアーズ』の姉妹編だった!? 冒頭から「ロックンロールの寓話」と銘打たれ、続けて「いつかどこかで」と時代も舞台も曖昧に設定された本作。まるで’50年代のニューヨークやシカゴのようにも見えるが、しかしよくよく目を凝らすと様々な時代のアメリカ文化があちこちに混在しているし、確かにリッチモンドやバッテリーという地名は出てくるものの、しかしどうやら実在する土地とは全く関係がないらしい。つまり、これは現実とよく似ているが現実ではない、この世のどこにも存在しない架空の世界の物語なのだ。 とある大都会の寂れかけた地区リッチモンドで、地元出身の人気女性ロック歌手エレン・エイム(ダイアン・レイン)のコンサートが開かれる。詰めかけた大勢の若者で熱気に包まれる会場。すると、どこからともなくバイク集団ボンバーズの連中が現れ、リーダーのレイヴン(ウィレム・デフォー)の号令で一斉にステージへ乱入する。バンドマンやスタッフに殴りかかる暴走族たち、パニックに陥って逃げ惑う観客。悲鳴や怒号の飛び交う大混乱に乗じて、まんまとレイヴンはエイミーを連れ去っていく。その一部始終を目撃していたのが、近くでダイナーを経営する女性リーヴァ(デボラ・ヴァン・ヴァルケンバーグ)。警察なんか頼りにならない。なんとかせねばと考えた彼女は、ある人物に急いで電報を打つのだった。 その人物とはリーヴァの弟トム・コディ(マイケル・パレ)。かつて地元では札付きのワルとして鳴らし、兵隊を志願して出て行ったきり音沙汰のなかった彼は、実はエレンの元恋人でもあったのだ。久しぶりに再会した弟へ、誘拐されたエレンの救出を懇願するリーヴァ。だが、音楽の道を目指すエレンと苦々しい別れ方をしたトムは躊躇する。なぜなら、今もなお心のどこかで彼女に未練があるからだ。それでも姉の説得で考えを変えたトム。しかし、エレンのマネージャーで現在の恋人でもある傲慢な成金男ビリー(リック・モラニス)から負け犬呼ばわりされた彼は、カチンときた勢いで1万ドルの報酬と引き換えにエレンを救い出すことに合意する。別に未練があるわけじゃない、単に金が欲しいだけだという言い訳だ。 ボンバーズの本拠地はリッチモンドから離れた貧困地区バッテリー。バーで知り合ったタフな女兵士マッコイ(エイミー・マディガン)を相棒に従え、古い仲間から武器を調達したトムは、依頼人のビリーを連れてボンバーズが根城にする場末のナイトクラブ「トーチーズ」へ向かう。客を装って潜入したマッコイがエレンの監禁場所を押さえ、その間にトムが表でたむろする暴走族を銃撃して注意をそらすという作戦だ。これが見事に功を奏し、エレンを無事に奪還することに成功したトムたちだが、しかし面目を潰されたレイヴンと仲間たちも黙ってはいなかった…! 本作の生みの親はウォルター・ヒル監督。当時、エディ・マーフィとニック・ノルティ主演の『48時間』(’82)を大ヒットさせ、ハリウッド業界での評判もうなぎ上りだった彼は、それこそ「鉄は熱いうちに打て」とばかり、すぐさま次なる新作の構想を練る。その際に彼が考えたのは、自作『ウォリアーズ』(’79)の世界に再び挑戦することだったという。実際、本作を見て『ウォリアーズ』を連想する映画ファンは多いはずだ。ニューヨークのコニー・アイランドを根城にする不良グループが、ブロンクスで開かれたギャングの総決起集会に参加したところ罠にはめられ、逃亡の過程で各地区の不良グループと戦いながら地元へ辿り着くまでを描いた『ウォリアーズ』。「都会のヤンキーがよその縄張りへ行って帰って来るだけ」というストーリーの基本プロットは本作と同じだ。雨上がりの濡れたアスファルトに地下鉄や車などを乗り継いでの逃避行、アメリカ下町の不良文化など、それ以外にも符合する点は少なくない。グラフィックノベルの実写版的な世界観も共通していると言えよう。さながら姉妹編のような印象だ。 400万ドルの製作費に対して2200万ドルもの興行収入を稼ぎ出す大ヒットとなった『ウォリアーズ』だが、しかしウォルター・ヒル監督にとってはいろいろと悔いの残る作品でもあった。同作をグラフィックノベルの実写版として捉え、ポスプロ段階でコミック的な演出効果を加えようと考えていたヒル監督だが、しかしパラマウントから指定された締め切りを守るために断念せざるを得なかった(’05年に製作されたディレクターズ・カット版でようやく実現)。しかも、劇場公開時には映画の内容に刺激された若者たちが各地で暴動を繰り広げ、恐れをなしたパラマウントはプロモーション展開を自粛。一部の映画館では上映を中止するところも出てしまった。そもそもヒル監督によると、パラマウントは最初から同作の宣伝に非協力的だったという。紆余曲折あって『48時間』では再びパラマウントと組んだヒル監督だが、しかし同社から次回作を要望された彼が、あえて本作の企画をパラマウントではなくユニバーサルへ持ち込んだことも頷ける話だろう。 恐らく彼としては、『ウォリアーズ』で叶わなかった理想を本作で実現しようと考えたのかもしれない。シーンの切り替わりで象徴的に使われるギザギザのワイプなどは、なるほどコミック的な演出効果とも言えよう。また、今回はユニバーサルから潤沢な予算が与えられたこともあり、一部のシーンを除く全てをスタジオのセットで撮影。高架鉄道や多階層道路のシーンはシカゴで、貧困地区バッテリーはロサンゼルス市内の工場廃墟で撮影されているが、主な舞台となるリッチモンド地区はユニバーサル・スタジオに大掛かりなオープンセットを組み、夜間シーンはそこに天幕を張って撮影されている。おかげで、狙い通りのコミック的な「作り物感」が生まれ、より「ロックンロールの寓話」に相応しい世界を構築することが出来たのだ。 ‘80年代のトレンドを吸収したウォルター・ヒル流「MTV映画」 もちろん、ヒル監督が熱愛する西部劇の要素もふんだんに盛り込まれている。そもそも、郷里に舞い戻ったヒーローが相棒を引き連れ、無法者たちにさらわれたヒロインを救い出すという設定は西部劇映画の王道である。中でも、監督が特に意識したのはセルジオ・レオーネのマカロニ・ウエスタン。ニヒルでクールで寡黙な主人公トム・コディは、さながら若き日のクリント・イーストウッドの如しである。また、本作の主要キャラクターはほぼ若者で占められ、中高年は全くと言っていいほど出てこないのだが、これは当時ハリウッドを席巻していたスティーヴン・スピルバーグとジョン・ヒューズの映画に倣ったとのこと。つまり、若い観客層にターゲットを定めたのである。実際、’80年代のハリウッド映画は若年層の観客が主流となり、その需要に応えるかのごとくトム・クルーズやモリー・リングウォルドやマイケル・J・フォックスなどなど、数えきれないほどのティーン・アイドル・スターが台頭していた。そこで本作が集めたのは、駆け出しの新人を中心とした若手キャストだ。 主人公トム・コディにはトム・クルーズ、エリック・ロバーツ、パトリック・スウェイジがオーディションを受けたが、最終的にヒル監督はマイナーな青春ロック映画『エディ&ザ・クルーザーズ』(’83)に主演した若手マイケル・パレに白羽の矢を当てる。ヒロインのエレン役には、当時18歳だったダイアン・レイン。本作のキャストでは唯一、知名度のある有名スターだ。もともとはダリル・ハンナが最有力候補だったが、結局はキャリアもネームバリューもあるダイアンが選ばれた。恐らく、マイケル・パレがまだ無名同然だったため、引きのあるスターが欲しかったのだろう。エレンのいけ好かないマネージャー、ビリー役は、当時テレビのお笑い番組「Second City Television」で注目されていたコメディアンのリック・モラニス。プロデューサーのジョエル・シルヴァーがモラニスの大ファンだったのだそうだ。 さらに、当初トムの姉リーヴァ役でオーディションを受けたエイミー・マディガンが、トムの相棒マッコイ役を演じることに。本来、この役はラテン系の巨漢男という設定で、役名もメンデスという名前だったという。しかし「これを女に変えて私にやらせて!絶対に面白いから!」とエイミー自らが監督に直訴したことで女性キャラへと変更されたのだ。そういえば、ヒル監督が製作と脚本のリライトを手掛けた『エイリアン』(’79)の主人公リプリーも、もともとは男性という設定だったっけ。代わりに姉リーヴァ役に起用されたのは、『ウォリアーズ』のヒロイン役だったデボラ・ヴァン・ヴァルケンバーグ。さらに、ヒル監督がキャスリン・ビグローの処女作『ラブレス』(’82)を見て注目したウィレム・デフォーが、暴走族のリーダー、レイヴン役を演じて強烈なインパクトを残す。本作で初めて彼を知ったという映画ファンも多かろう。 そのほか、ビル・パクストン(バーテン役)にE・G・デイリー(エレンの追っかけベイビードール役)、エド・ベグリー・ジュニア(バッテリー地区の浮浪者)、リック・ロソヴィッチ(新米警官)、ミケルティ・ウィリアムソン(黒人コーラスグループのメンバー)など、後にハリウッドで名を成すスターたちが顔を出しているのも要注目ポイント。デイリーは歌手としても成功した。また、『フラッシュダンス』(’83)でジェニファー・ビールスのボディダブルを担当したマリーン・ジャハーンが、ナイトクラブ「トーチーズ」のダンサーとして登場。ちなみに、トーチーズという名前のクラブは、ヒル監督の『ザ・ドライバー』(’78)や『48時間』にも出てくる。 ところで、ヒル監督が本作を撮るにあたって、実は最も影響されたというのがその『フラッシュダンス』。全編に満遍なく人気アーティストのポップ・ミュージックを散りばめ、映画自体を1時間半のミュージックビデオに仕立てた同作は空前の大ブームを巻き起こし、その後も『フットルース』(’84)や『ダーティ・ダンシング』(’87)など、『フラッシュダンス』のフォーマットを応用した「MTV映画」が大量生産されたのはご存知の通り。要するに、『ストリート・オブ・ファイヤー』もこのトレンドにちゃっかりと便乗したのである。そのために制作陣は、パティ・スミスやトム・ペティのプロデューサーとして知られるジミー・アイオヴィーンを音楽監修に起用。ジョン・ヒューズの『すてきな片想い』(’84)では当時のニューウェーブ系ヒット曲を総動員したアイオヴィーンだが、一転して本作ではユニバーサルの意向を汲んで、映画用にレコーディングされたオリジナル曲ばかりで構成することに。オープニング曲「ノーホエア・ファスト」を書いたジム・スタインマンを筆頭に、トム・ペティやスティーヴィー・ニックス、ダン・ハートマンなどの有名ソングライターたちが楽曲を提供している。 ダイアン・レインの歌声を吹き替えたのは、ロックバンド「フェイス・トゥ・フェイス」のリードボーカリスト、ローリー・サージェントと、ジム・スタインマンの秘蔵っ子ホリー・シャーウッド。「ノーホエア・ファスト」と「今夜は青春」には、「ファイアー・インク」なるバンドがクレジットされているが、これは「フェイス・トゥ・フェイス」のメンバーを中心に構成された覆面バンドだ。また、挿入曲「ソーサラー」と「ネヴァー・ビー・ユー」は、サントラ盤アルバムのみ前者をマリリン・マーティン、後者をマリア・マッキーと、当時売り出し中の若手女性ボーカリストが歌っている。つまり、映画とサントラ盤では歌声が別人なのだ。これは黒人コーラスグループが歌う「あなたを夢見て」も同様。劇中ではウィンストン・フォードという無名の黒人男性歌手が歌声を吹き替えていたが、しかしサントラ盤アルバムを制作するにあたって作曲者のダン・ハートマンが自らレコーディング。これが全米シングル・チャートでトップ10入りの大ヒットを記録する。 ちなみに、映画の最後を締めくくる楽曲は、本作とタイトルが同じという理由から、ブルース・スプリングスティーンの「ストリーツ・オブ・ファイアー」のカバー・バージョンが選ばれ、実際に演奏シーンも撮影されていたのだが、しかしレコード会社から著作権の使用許可が下りなかった。そこで、急きょジム・スタインマンが「今夜は青春」を2日間で書き上げ、改めてラスト・シーンの撮り直しが行われたのである。ダイアン・レインの髪型がちょっと不自然なのはそれが理由。というのも、当時の彼女は次回作(恐らくコッポラの『コットン・クラブ』)の撮影で髪を切っていたため、本作の撮り直しではカツラを被っているのだ。 一方、ポップソング以外の音楽スコアは、『48時間』に引き続いてジェームズ・ホーナーに依頼されたのだが、しかし出来上がった楽曲が映画のイメージとは全く違ったためボツとなり、ヒル監督とは『ロング・ライダーズ』(’80)と『サザン・コンフォート/ブラボー小隊 恐怖の脱出』(’81)で組んだライ・クーダーが起用された。確かに、ロックンロール映画にはロック・ミュージシャンが適任だ。むしろ、なぜジェームズ・ホーナーに任せようとしたのか。そちらの方が不思議ではある。 ロックンロールに暴走族に西部劇にレトロなポップカルチャーと、ウォルター・ヒル監督が少年時代からこよなく愛してきたものを詰め込んだという本作。プレミア試写での評判も非常に良く、製作陣は「絶対に当たる」との自信を持っていたそうだが、しかし結果的には大赤字を出してしまう。ヒル監督やプロデューサーのローレンス・ゴードン曰く、カテゴライズの難しい作品ゆえにユニバーサルは売り出し方が分からず、アメリカでは宣伝らしい宣伝もほとんど行われなかったという。映画でも音楽でも小説でもそうだが、残念ながら内容が良ければ成功するというわけではない。本作の場合、アメリカではビデオソフト化されてから口コミで評判が広まり、今ではカルト映画として愛されている。これをいち早く評価していたことを、日本の映画ファンは自慢しても良いかもしれない。■ 『ストリート・オブ・ファイヤー』© 1984 Universal City Studios, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2023.03.31
アメリカの銃社会に警鐘を鳴らした先駆的なサスペンス映画『殺人者はライフルを持っている』
コーマン門下生ピーター・ボグダノヴィッチの処女作 『ラスト・ショー』(’71)や『ペーパー・ムーン』(’73)でニューシネマ時代のハリウッドを牽引した名匠ピーター・ボグダノヴィッチの監督デビュー作である。瑞々しい青春ドラマやクラシカルなコメディで鳴らしたボグダノヴィッチにとって、本作は恐らく唯一のサスペンス・ホラー。ボリス・カーロフ演じる往年の怪奇映画スターが、ロサンゼルスを恐怖に陥れる本物の無差別殺人犯と対峙する。あのクエンティン・タランティーノ監督をして、「史上最も偉大な監督デビュー作のひとつ」と言わしめた傑作。世界的に有名な映画ハンドブック「死ぬまでに観たい映画1001本」にも選出された。しかし、「SFとホラーは嫌いなジャンルだ」と公言していた彼が、なぜ本作のような恐怖映画を撮ったのか。その背景には、ボグダノヴィッチ監督の恩師ロジャー・コーマンの存在があった。 もともとニューヨークの映画評論家で、「エスクァイア」誌や「サタデー・イヴニング・ポスト」誌などに映画評を寄稿していたボグダノヴィッチ。その傍ら、ニューヨーク近代美術館で映画の回顧上映を企画したり、俳優や演出家として舞台劇に携わったりしていたのだが、しかしやはり最終目標は少年時代から憧れていた映画監督だった。そのためにロサンゼルスへと拠点を移し、映画評論家としてのコネを使って業界パーティや新作プレミアに足繁く通った彼は、とある試写会で近くに座っていた映画監督ロジャー・コーマンと親しくなる。ご存知の通り、映画界を目指す若者たちを積極的にスタッフとして雇い、フランシス・フォード・コッポラにマーティン・スコセッシ、ジョー・ダンテにジェームズ・キャメロンなどなど、数多くの愛弟子を一流の映画人へと育てたコーマン御大。ボグダノヴィッチもまたその門下生となり、当時コーマンが準備していた監督作『ワイルド・エンジェル』(’66)の脚本の手直しを皮切りに、助監督から雑用係までどんな仕事でもこなすようになる。 そんなある日、ボグダノヴィッチはコーマン師匠から電話で「監督しないか?」と唐突に誘われ、「はい、もちろん!」と二つ返事で引き受けたという。それこそ棚から牡丹餅みたいな話だが、しかしこれにはいくつかの条件があった。大前提は俳優ボリス・カーロフを使うこと。『フランケンシュタイン』(’31)で有名な大物怪奇映画俳優カーロフ。当時すでに80歳近い高齢者だったが、一般的な知名度が高いわりにギャラは安いこともあって、コーマンはしばしば自作に出演させていたのだが、そのカーロフとの出演契約が2日分余ってしまったため、これを上手く有効活用して新作映画を1本作れというのだ(実際は5日間かかったらしい)。 とりあえず2日間あれば本編20分くらいは撮影できる。また、コーマンの監督したカーロフ主演作『古城の亡霊』(’63)のフィルムも抜粋して使用できる。そのうえで、カーロフ以外のキャストを用いて1時間分のシーンを撮影すること。こちらは2週間以内での完了が目標。こうすればトータル1時間半の映画が出来るというわけだ。予算は総額12万5000ドル。もちろん、金を出すのはコーマン師匠である。ただし、そのうち2万5000ドルはカーロフのギャラなので、実際の映画作りは残りの10万ドルでやりくりせねばならない。まあ、なかなかハードルの高い条件だが、しかしコーマン監督のもとで低予算映画作りのノウハウを叩きこまれたボグダノヴィッチにしてみれば、決して無理な相談などではなかっただろう。むしろ彼が頭を悩ませたのはシナリオ作りだったそうだ。 なにしろ、古典的な怪奇映画俳優であるボリス・カーロフを使い、さらにゴシック・ホラー映画『古城の亡霊』のフィルムを流用するわけだが、しかし予算の金額からして大掛かりなセットを組む余裕などないため、どう考えても映画の内容は現代劇にするほかない。実際、本作では内装を変えながらひとつのセットを何度も繰り返し使い回している。劇中で老俳優が宿泊するホテルの部屋も、スタッフと打ち合わせる高級レストランも、殺人犯が家族と一緒に暮らす自宅も、実はみんな同じセットなのだ。 いずれにせよ、どうやってカーロフと『古城の亡霊』を現代劇として料理したものか。当時の妻だった脚本家ポリー・プラットと何時間も相談しあったボグダノヴィッチは、しまいに煮詰まり過ぎてこんな冗談を飛ばす。映画会社の試写室でボリス・カーロフが自分の出演する『古城の亡霊』を見ている。で、上映が終わるとカーロフが振り返って、ロジャー・コーマンに「最低の映画だな」と文句を言うんだ。あくまでもタチの悪いジョークのつもりだったが、しかしこれが意外にも脚本作りの突破口となり、キャリアの限界を感じて引退を決意した往年の怪奇映画俳優という、本作を構成する2つのプロットのうちのひとつが誕生したのである。 もうひとつのプロットである無差別殺人犯の話は、撮影の前年に当たる’66年に起きた「テキサスタワー乱射事件」が下敷きとなった。元海兵隊員の若者チャールズ・ホイットマンが、母校であるテキサス大学オースティン校の時計塔展望台に立て籠もり、たまたま通りがかった眼下の通行人を次々と無差別に射殺したのである。最終的に15名が死亡し、31名が負傷。ホイットマンは事件を起こす直前に、同居する妻と実の母親まで殺害していた。当時としては前代未聞の大量殺人に全米は文字通り震撼。加えて、ホイットマンが恵まれた家庭に育った普通の明るい好青年だったこと、犯行の動機がハッキリとしないことも世間に大きな衝撃を与えた。今なお後を絶たないアメリカの銃乱射事件の、いわばルーツのような事件だ。 実は、本作のオファーを受ける数か月前、ボグダノヴィッチは「エスクァイア」誌の編集者から、チャールズ・ホイットマンを題材に映画を撮ってみてはどうかと薦められていた。これはいいアイディアかもしれない。しかも、2つの全く異なるストーリーを並行して交互に描いていけば、ボリス・カーロフの出番も少なくて済む。このような制作進行上の都合もあって、ボグダノヴィッチは銃乱射事件のプロットをもうひとつの大きな柱としたのだが、これが結果的には大正解だった。 今なお絶えない銃乱射事件を取り上げた社会性と先見性 とある映画会社の試写室。最新主演作の完成版を見終えた往年の怪奇映画俳優バイロン・オーロック(ボリス・カーロフ)は、これを最後に俳優業から引退すると宣言する。既に次回作も決まっているというのに!と大慌てするプロデューサー。居合わせた新人監督サミー・マイケルズ(ピーター・ボグダノヴィッチ)も困惑する。今回の映画でようやくデビューのチャンスを掴んだ彼は、再びオーロックを主演に据えた次回作で勝負に出ようと考えたのだからたまらない。なんとか引退を思い止まらせようと説得するサミーだったが、しかしオーロックの決意は揺るがなかった。 自分の時代はもうとっくに終わった。新聞を見てみなさい。私の出るホラー映画なんかよりも、よっぽど恐ろしい事件が現実に起きているじゃないか。そう言って、L.A.市内のドライブイン・シアターで予定されているプレミア上映のゲスト登壇もキャンセルしようとしたオーロックだったが、しかし映画監督として才能も将来性もある若者サミーの顔を立てるため、娘のように可愛がっている中国人の秘書ジェニー(ナンシー・シュエ)と共に会場へ向かうことにする。 一方、ベトナム帰還兵の平凡な若者ボビー・トンプソン(ティム・オケリー)は、人知れず深刻な悩みを抱えていた。働き者で心優しい妻に恵まれ、同居する両親のことも敬う優等生のボビーだが、その一方で拳銃やライフルのコレクションに執着しており、自らの内側で沸々と湧き上がる殺人衝動に言いようのない不安を感じていたのだ。家族にも相談できず思いつめた彼は、ある朝突然、愛する妻と母親、そして運悪く居合わせた宅配人の若者を射殺し、父親と兄へ向けた遺書を残して自宅を後にするのだった。 車へ積み込んだ荷物には複数の銃器と大量の銃弾。高速道路沿いのガスタンクに上って陣取った彼は、行き交う自動車のドライバーたちを次々と射殺していく。しかし、ほどなくしてパトカーや白バイ警官が到着したため、慌ててL.A.市内を車で逃亡したボビーは、たまたま迷い込んだドライブイン・シアターで次なる凶行を計画する。そう、バイロン・オーロックの新作映画が上映されるプレミア会場だ。スクリーンの裏側に忍び込み、着々と準備を整えるボビー。やがて周辺では夜の帳が下り、ゲストのオーロックも到着。映画の上映が始まると、ボビーは駐車場に並んだ観客の車に向かって次々と発砲する…。 まさしく現代アメリカの深刻な病理を抉り出した問題作。ごくごく当たり前の日常を過ごしていた平凡な若者が、いきなり明確な理由もなく見知らぬ人々へ銃口を向ける。劇中に映し出される1枚の写真は、ボビーがベトナム帰還兵であることを示唆しているが、果たして彼が凶行に及んだのは戦争のPTSDに起因する殺人衝動のせいなのか。それとも、日々新聞やテレビで凶悪犯罪の報道を目にして、その影響で倫理観がぶっ壊れてしまったからなのか。その真意は図りかねるものの、少なくとも銃器が誰でも容易に手に入るような環境でなければ、このような惨劇は起き得なかったはずだ。 怪奇俳優オーロックが「自分の時代は終わってしまった」と嘆くのも無理からぬこと。映画のラストで彼は「これが現実なのか」と呟くが、ボグダノヴィッチ監督曰く、ここでの「現実」とは「恐怖」の暗喩だという。要するに、現実の恐怖が虚構を超えてしまったことに、古き良き恐怖映画を体現する老人オーロックは愕然とするのである。これは21世紀の今もなお解決されることのない、アメリカの銃社会に警鐘を鳴らした先駆的な映画。本作の劇場公開直前に、マーティン・ルーサー・キング牧師とロバート・ケネディ議員が相次いで銃殺されたのも実に皮肉な話だ。タランティーノ監督が本作について、「社会批判の要素を内包したスリラーではなく、スリラーの要素を内包した社会批判だ」と評したのは誠に正しいと言えよう。 恩師コーマンから受け継いだ低予算映画ならではの秘策とは? 2つのプロットを交互に描いていくにあたって、ボグダノヴィッチ監督はオーロック側の世界をレッドやブラウンやベージュなどの暖色系で、ボビー側の世界をホワイトやブルーやパープルなどの寒色系で統一。今はどちらの世界なのかをひと目で分かるようにすることで、観客が混乱をきたさないように細心の注意が払われている。さらに、あえて音楽スコアを一切使わず、映像だけで登場人物の感情を表現することに努めた。もちろん、音楽スコアの制作に割くだけの予算がなかったという事情もある。劇中で使用されるBGMはラジオから流れてくる音楽だけ。それ以外は生活音や環境音が音楽の代わりとなり、スクリーンには映らない周辺の出来事までも見る者に想像させ、ストーリーの奥行きと広がりをより大きなものにしている。アルフレッド・ヒッチコック監督の『裏窓』(’54)をヒントにしたそうだが、限られた時間と資材で撮影せねばならない低予算映画にとって、これは非常に有効な手法だ。 低予算映画ならではの経費節減策といえば、当局の許可を得ないゲリラ撮影もその代表格。ロジャー・コーマンもゲリラ撮影が得意だったが、その愛弟子ボグダノヴィッチも師匠に倣い、高速道路での銃乱射シーンおよび市内の逃走シーンなどでゲリラ撮影を敢行している。そもそも、高速道路での撮影は法律で禁じられており、付近での撮影はおろか高速道路にカメラを向けることすらご法度だったという。なので、たとえ申請したとしても許可は下りない。そうとなれば無許可で勝手に撮るしかなかろう。テキパキと素早く撮影するため、現場での録音も一切なし。道路を行き交う車の音はもちろんのこと、コーラの蓋を開ける音も炭酸がはじける音も、ライフルを構えて照準を合わせるボビーの息遣いの音まで含め、高速道路の銃乱射シーンは全て後から音響効果で処理をされている。あまりにも自然なので誰もが驚くはずだ。ちなみに、たまたま現場を通りがかったパトカーや白バイも、そのままカメラに収めて使用している。 さらに、プロのエキストラを動員する予算も足りないため、スタッフやその家族はもちろんのこと、無料で出てくれる友人やそのまた友人もめいっぱいかき集めたという。例えば、高級レストランのシーンでボリス・カーロフの肩越しに見える別テーブルの男性客は、『理由なき反抗』(’55)や『ジャイアンツ』(’56)などで有名な俳優サル・ミネオ。高速道路で撃たれるドライバーの中には、『風と共に去りぬ』(’39)などの製作者デヴィッド・O・セルズニクの次男ダニエルの姿もある(オープンカーを運転する男性)。車から飛び出して助けを求める女性は俳優ロバート・ウォーカー・ジュニアの奥さん。ドライブイン・シアターの受付の若者は、本作の助監督も務めたフランク・マーシャル(後のスピルバーグ映画のプロデューサー)だ。ボビーのターゲットになる観客の中には、今もハリウッド大通りで営業する映画関連書籍の専門書店ラリー・エドモンズのオーナー夫妻やフランク・マーシャルの両親なども含まれている。 殺人犯ボビー役のティム・オケリーは本作が初の大役だった若手俳優。クリーンカットのオールアメリカン・ボーイといった雰囲気は役柄にピッタリだし、モデルとなったチャールズ・ホイットマンにも容姿が似ている。新人映画監督サミー・マイケルズは、当初はボグダノヴィッチ監督の友人ジョージ・モーフォゲンを起用する予定だったが、都合が折り合わなかったためボグダノヴィッチ自身が演じることとなった。劇中ではテレビで放送されているハワード・ホークス監督の『光に叛く者』(’31)を見て、サミーが「回顧上映で見たことがある」というセリフが出てくるが、実際にボグダノヴィッチはニューヨーク近代美術館のハワード・ホークス回顧上映を企画したことがあるし、その際にホークスとのロング・インタビューも行っている。必ずしも彼自身をモデルにした役柄ではないものの、重なり合う部分が少なからずあることは間違いないだろう。 ちなみに、サミー・マイケルズという役名は、映画監督サミュエル・フラーの本名サミュエル・マイケル・フラーから取られている。というのも、ボグダノヴィッチは友人でもあったフラー監督に本作の脚本を書き直して貰っているのだ。その際、クレジットに名前を出すことを申し出たボグダノヴィッチに対して、フラーは「これは君の書いた脚本だ。私の名前を出す必要はない」と辞退したという。そんな謙虚で懐の深い大先輩へのオマージュとして、監督役に彼の本名を使ったのである。 とはいえ、やはり『殺人者はライフルを持っている』はボリス・カーロフの映画である。実際、ボグダノヴィッチはカーロフ本人をモデルにしてバイロン・オーロックという役柄を書き上げた。ただし、カーロフ自身は俳優を引退する気などさらさらなかったのだが。ご存知の通り、もともとはギャング映画などの悪役俳優だったカーロフ。先述した『光に叛く者』はその出世作だったのだが、しかし彼に真の名声をもたらしたのは、空前の大ヒットを記録した主演作『フランケンシュタイン』をはじめとする一連のホラー映画群だった。 「これ以上老醜を晒したくない」と漏らす劇中のオーロックだが、演じるカーロフ自身も当時は両脚が湾曲したうえに呼吸も困難。歩くことすらままならないため、歩行ギプスを付けて撮影に臨んでいたという。晩年は低予算のB級・C級映画への出演が多く、オーロック同様に半ば過去の人となっていたカーロフだが、本作での芝居を見ると彼が怪奇映画俳優の枠に収まることのない、ストレートなドラマ映画も十分いける正統派の名優だったことがよく分かる。サマセット・モームの短編「サマラの約束」を独り語りするシーンなどは実に見事!撮影が終わると共演者やスタッフから感動の拍手が沸き起こり、その様子に同席したカーロフ夫人は涙を流して喜んだそうだが、長いキャリアの最晩年に本作のような映画に出会えたことは、カーロフにとって少なからぬ幸運だったのではないかと思う。■ 『殺人者はライフルを持っている』TM, ® & © 2023 by Paramount Pictures. 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COLUMN/コラム2023.03.13
スコセッシ&デ・ニーロ!コンビの第5作『キング・オブ・コメディ』は、“現代”を予見していた!?
脚本家のポール・D・ジマーマンが、本作『キング・オブ・コメディ』(1983)の着想を得たのは、1970年代のはじめ、あるTV番組からだった。それは、スターやアイドルに殺到するサイン・マニアの恐怖を取り上げたもので、そこに登場したバーブラ・ストライサンドの男性ファンの言動に、ジマーマンはひどくショックを受けたという。 バーブラは、その男に付き纏われることを非常に迷惑がっているのに、彼に言わせれば、「バーブラと仕事をするのは難しい」となる。自分勝手な解釈をして、事実を大きく歪曲してしまうのだ。 前後して、雑誌「エスクワイア」の記事も、ジマーマンを触発した。そこに掲載されたのは、TVのトークショーのホストのセリフを一言一句メモしては、毎回査定を続けている熱狂的ファン。 本来は手が届かない筈の大スターや、TV画面の向こうの存在が、その者たちにとっては、いつの間にか生来の友達のようになってしまっている…。「ニューズウィーク」誌のコラムニストからスタートし、映画評論家を経て脚本家となったジマーマンは、そこに「現代」を見た。そして本作のあらすじを書き、『ある愛の詩』(70)『ゴッドファーザー』(72)などのプロデューサー、ロバート・エヴァンスの元に持ち込んだのである。 このシノプシスを気に入ったエヴァンスは、ミロス・フォアマン監督に声を掛けた。フォアマンはジマーマンの家に寝泊まり。10週間を掛け、2人で脚本を仕上げることとなった。 しかし両者の意見は、途中から嚙み合わなくなる。結局フォアマン主導のものと、ジマーマン好みのものと、2バージョンのシナリオが出来てしまった。 当初はフォアマン版の映画化企画が動いたが、実現に至らず。フォアマンはやがて、このプロジェクトから去った。 そこでジマーマンは、自らの脚本をマーティン・スコセッシへと売り込んだ。スコセッシは一読した際、「内容がもうひとつ理解できなかった」というが、何はともかく、盟友のロバート・デ・ニーロへと転送する。 デ・ニーロはこの脚本を大いに気に入り、すぐに映画化権を買った。そして後に『キング・オブ・コメディ』は、スコセッシ&デ・ニーロのコンビ5作目として、世に放たれることとなる。 ***** ニューヨークに住む30代の男ルパート・パプキン(演:ロバート・デ・ニーロ)は、今日もTV局で出待ちをしていた。彼が憧れるのは、人気司会者でコメディアンのジェリー・ラングフォード(演:ジェリー・ルイス)。 ひょんなことからジェリーの車に同乗することに成功したパプキンは、まるで長年の知己のように、ジェリーに話しかける。そして彼のようなスターになりたいという夢を、とうとうと語った。 そんなパプキンをあしらうため、ジェリーは自分の事務所に電話するよう告げて、居宅へ消えた。パプキンは、スターの座が約束されたように受取り、天にも上る心地となる。 ジェリーに言われた通り、電話を掛け続けるも、梨の礫。そこでパプキンは、アポイントも取らず、事務所へと乗り込む。 しかし、ジェリーには一向に会えない。自分のトークを吹き込んだテープを持参しても、秘書にダメ出しをされ、挙げ句はガードマンに排除されてしまう。 それでもメゲないパプキンは、ジェリーの別荘に、勝手に押しかける。もちろんジェリーは、怒り心頭。パプキンを追い出す。 そこでパプキンは、やはりジェリーの熱狂的な追っかけである女性マーシャ(演:サンドラ・バーンハード)と共謀。白昼堂々、ジェリーを誘拐してマーシャ宅に監禁し、彼を脅迫するのだった。 その要求とは、「俺を“キング・オブ・コメディ”として、TVショーに出せ!」 命の危険を感じたジェリーは、やむなく番組スタッフへと連絡。意気揚々とTV局へ向かうパプキンだが、誇大妄想が昂じた彼の夢は、果して現実のものとなるのか? ***** スコセッシとデ・ニーロのコンビ前作である『レイジング・ブル』(80)は、絶賛を受け、アカデミー賞では8部門にノミネート。作品賞や監督賞こそ逃したものの、実在のボクサーを演じたデ・ニーロは、いわゆる“デ・ニーロ アプローチ”の完成形を見せ、主演男優賞のオスカーを手にした。 それを受けての、本作である。先に記した通り、スコセッシがピンとこなかった脚本を、デ・ニーロが買って、改めてスコセッシの所に持ち込んだ。 デ・ニーロは何よりも、パプキンのキャラを気に入った。その大胆さや厚かましさ、行動理念の単純さを理解し、「この男が愚直なまでに目的に向かって突進するところがいい」と、ジマーマンに語ったという。 そしてデ・ニーロは、スコセッシを説得。遂には、本作の監督を務めることを、決断させた。そして2人で、ジマーマンが書いた脚本のリライトへと臨んだ。 ジマーマンは当初、パプキンには、『虹を掴む男』(47)のダニー・ケイのようなタイプをあてはめ、ファンタジー色が強い映画を作ることを、イメージしていた。ところがスコセッシとデ・ニーロが仕上げてきた脚本では、パプキンの“異常性”が強調され、よりリアルな肌触りを持つ作品となった。 デ・ニーロもスコセッシも、実際に狂信的なファンの被害に遭った経験がある。それが脚本にも、反映されたのだろう。 また80年代はじめは、スターへの関心が、爆発的に高まった頃である。それを最悪の形で象徴する衝撃的な事件が起こったのが、80年12月。ジョン・レノンが、彼の熱狂的ファンであるマーク・チャップマンによって、殺害されてしまう。 本作が本格的に製作に入った81年3月には、スコセッシ&デ・ニーロを直撃するような事件も発生する。彼らの存在を世に知らしめた『タクシードライバー』(76)で、少女娼婦を演じたジョディ・フォスターに恋した、ジョン・ヒンクリーという男が居た。彼は、『タクシー…』のストーリーに影響を受け、時のアメリカ大統領レーガンを狙撃。全世界を震撼とさせる、暗殺未遂事件を起こしたのである。 本作『キング・オブ・コメディ』のような作品が製作されることには、ある意味社会的な必然性があったと言えるだろう。パプキンやマーシャのような“ストーカー”(そんな言葉はこの当時はまだ存在しなかったが…)は、スターたちにとってのみならず、現実社会にとっても、明らかに脅威となる存在だったのだ。 そんな連中のターゲットとなってしまう、ジェリー・ラングフォード役のキャスティング。ジマーマンの当初のイメージは、構想がスタートした70年代初頭にTVやラジオで大活躍だった司会者、ディック・カヴェットだったが、それから10年ほどが経った時点では、誰もがジョニー・カースンを思い浮かべた。 NBCの「ザ・トゥナイト・ショー」の顔であり、アカデミー賞授賞式の司会を何度も務めたジョニーには、実際に出演交渉が行われた。しかし、誘拐事件を実際に引き起こしかねないという恐怖と、TVのトークショーなら1回で撮り終えてしまうのに、1シーンを40回も撮り直さなければならないようなことには耐えられないという理由から、あっさりと断られてしまう。 次なる候補としてスコセッシが思い浮かべたのが、フランク・シナトラやオーソン・ウェルズなどの大物。いわゆる“シナトラ一家=ラット・パック”のメンバーからは、サミー・デイヴィス・Jrやジョーイ・ビショップも候補となった。 そして、“シナトラ一家”には、ディーン・マーティンも居るな~と思った流れから、最終的に絞り込まれたのが、マーティンが“ラット・パック”の一員になる前に、『底抜け』シリーズ(49~56)でコンビを組んでいた、往年の人気コメディアン、ジェリー・ルイスだった。 ジェリーは「この映画では自分はナンバー2だと承知している。君に面倒はかけないし、指示どおりにやってみせよう…」と言って、スコセッシを感激させた。 ジェリーの“ストーカー”マーシャは、当初の脚本では、もっとめそめそしたセンチメンタルな女性だったという。それをスコセッシが、攻撃的で危険な性格へと書き換えた。 デ・ニーロはこの役を、お互いの実力をリスペクトし合っている友人のメリル・ストリープに演じて欲しいと、考えていた。しかしストリープは、脚本を読みスコセッシと話した後で、このオファーを辞退。 オーディションなどを経てマーシャ役は、20代中盤の個性的な顔立ちのスタンダップ・コメディエンヌ、サンドラ・バーンハードのものとなった。サンドラ曰く、当時の自分は「完全にイッちゃってた」とのことで、その生活ぶりは「最低で、デタラメ」で、マーシャに「そっくりだった」という。 スコセッシは本作では、「即興はほとんどやってない」としている。そんな中でも即興の部分を担わせたのが、バーンハードだった。監禁して身動きを取れなくしたジェリーに、色仕掛けで迫るシーンなどで、コメディエンヌとしての芸を、たっぷり披露してもらったという。 パプキンの幼馴染みで、彼が思いを寄せる、現在はバー勤めの女性リタ役には、ダイアン・アボット。アボットは、デ・ニーロの最初の妻で、撮影当時は別居中。オーディションにわざわざ呼ばれて、この役に決まったというが、その裏に作り手側のどんな思惑があったかは、定かではない。 デ・ニーロの役作りは、例によって完璧だった。彼は、コメディアンの独演を何週間も見学。また、ジョン・ベルーシやロビン・ウィリアムズとの友情も、助けになったという。 デ・ニーロは撮影中、ジェリー・ルイスの“完璧な演技”に畏敬の念を抱いた。ルイスも同様で、デ・ニーロの仕事ぶりを評して、「一ショット目で気分が入ってきて、十ショット目になると魔法を見ているようになる。十五ショット目まで来ると、目の前にいるのは天才なんだ…」と語っている。 スコセッシはデ・ニーロと共に、「…主人公をどこまで極端な人物に描くことができるか」に挑戦した。パプキンのような人物を演じて、デ・ニーロが俳優としてどこまで限界を超えられるか、やってみようとしたのだという。その結果についてはスコセッシ曰く、「私の見る限り、あれはデ・ニーロの最高の演技だ…」 脚本のジマーマンは、出来上がった作品について、次のように語っている。「僕はこの映画を生んだのは自分だと思っている。ただ、たしかにこの映画は僕の赤ん坊だが、顔がマーティ(※スコセッシのこと)にそっくりなんだ」。 作り手たちにとっては、満足いく作品に仕上がった。「カンヌ国際映画祭」のオープニング作品にも選ばれ、一部評論家からも、絶賛の声が届けられた。 しかし、『タクシードライバー』でデ・ニーロが演じたトラヴィスの自意識を、更に肥大化させたようなパプキンのキャラは、観客たちには戸惑いを多く与えることとなった。 私が『キング・オブ・コメディ』を初めて鑑賞したのは、日本公開の半年ほど前、1983年の晩秋だった。本作は配給会社によって「芸術祭」にエントリーされており、その特別上映で、いち早く目の当たりにすることができたのだ。 その際、パプキンそしてマーシャの、独りよがりで執拗な振舞いに、まずは圧倒された。それと同時にそのしつこさに、観ている内に、かなり辟易とした記憶がある。 悪夢再び。スコセッシ&デ・ニーロにとっては、コンビ第3作だった『ニューヨーク・ニューヨーク』(77)の如く、2,000万㌦の製作費を掛けた『キング・オブ・コメディ』は、興行的に大コケに終わる。 しかし、それでこの作品の命運が尽きたわけではない。デミアン・チャゼル監督の『ラ・ラ・ランド』(2016)が公開された際、大きな影響を与えた作品として、先に挙げた『ニューヨーク・ニューヨーク』が再注目されたように、本作も製作から36年の歳月を経て、新たにスポットライトが当てられる事態となった。 トッド・フィリップスの『ジョーカー』(19)とホアキン・フェニックスが演じたその主人公の造型が、本作及びルパート・パプキンのキャラクターにインスパイアされたものであることは、一目瞭然。フィリップス監督はご丁寧にも、TVトークショーの司会役にロバート・デ・ニーロを起用して、その影響を敢えて誇示した。 ネット時代、有名スターに対するファンの距離感とそれにまつわるトラブルが、頻繁に問題化するようになった。現代に於いてこの作品は、そうした“加害性”を、いち早く俎上に載せた作品としても、評価できる。 そんな流れもあって、初公開時の大コケぶりを覆すかのように、『キング・オブ・コメディ』は、アメリカ映画の歴史を語る上で、今や無視できない作品となった。 スコセッシ&デ・ニーロ。そうした辺りは、「さすが」としか言いようがない。■ 『キング・オブ・コメディ』© 1982 Embassy International Pictures, N.V. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2023.03.10
『ターミネーター』恐怖と戦慄のアイコン —エンドスケルトンの創造
【1】鋼の骸骨は誰が作ったのか? 未来から送られてきた殺人ロボットとの戦いを描いた『ターミネーター』は、『タイタニック』(97)『アバター』シリーズ(09~)のジェームズ・キャメロン監督による1984年公開のSFアクション映画だ。同作は2023年の現在までに5本の続編と1本のテレビシリーズを派生させ、時間移動を活かした特異な物語と、カルチャーアイコンともいうべきヒール(悪役)を生み出した。機械の内骨格を上皮組織でおおった戦闘ヒューマノイド。そう、タイトルキャラクターの《ターミネーター》だ。その魅力は同キャラを演じた俳優アーノルド・シュワルツェネッガーの、常人離れした肉体と感情を取り払った演技に負うところが大きい。しかし、表皮が剥がれて剥き出しになった内骨格=《エンドスケルトン》の開発こそが、本作における最大の成果といえるだろう。人骨を単に金属パーツに置き換えただけではない、映画が持つ黙示録的な性質を表象する外観は、生身の俳優以上の存在感を放つ。 本作が公開されて、ほどなく40年という歳月が経つ。その間にこのシンボリックなキャラクターは、続編の展開やシチュエーションに応じたニューモデルを登場させ、それらは撮影技術の進化にも応じてアニマトロニクス(機械式レプリカ)やストップモーション・モデルアニメーション、そしてCGによる創造へと発展してきた。しかし。ここで触れる記念すべき第1作目の、ベーシックにして極まった存在に勝るものはない。 【2】伴走者スタン・ウィンストン 「私はかねてより、ロボットの決定版を映画に登場させたいと思っていたんだ」—ジェームズ・キャメロン エンドスケルトンの考案とデザイン原型は監督であるキャメロン自身によるもので、自らイメージショットを描画し、造形を特殊メイクアーティストのスタン・ウィンストン率いるスタン・ウィンストン スタジオへと依頼している。そして映画が完成へと導かれていくプロセスにおいて、あの容姿が形成されていったのだ。 ウィンストンがこの役割を共同で担うことになったのは、当時彼が映画・映像において工学的センスに満ちたヒューマノイドのデザインと、それを実際に可動させるパペット技術に長けていたからだ。それは業界内でも評価が確立されており、実際にキャメロンが特殊効果ショットに必要なエンドスケルトンの制作にあたり、『モンスター・パニック』(80)で同門ニューワールド・ピクチャーズに詰めたことのある特殊メイクアーティストのロブ・ボッティンに相談したところ、ボッティンは「ディックがメイクを、スタンはメカを作ることができる」と提言し、『ゴッドファーザー』(72)の特殊メイクで名を挙げた巨匠ディック・スミスとウィンストンの連絡先を伝えた。そこでキャメロンは先ずスミスに相談を持ちかけると、「スタンが適役だ」とウィンストンを勧められたのである。 事実、ウィンストンは1981年公開のSFコメディ『ハートビープス/恋するロボットたち』で、人間の肌をメタリックに換装させたようなリアルなロボットを数多く創造。またロックグループ、スティクスのミュージックビデオ「ミスター・ロボット」では、『ハートビープス』の発展形のような個性的なロボットを手がけており、それがキャメロンのイメージを実体化させるのに確かなサンプルとなった。 ■『ハートビープス/恋するロボットたち』予告編 ■スティクス「ミスター・ロボット」 なにより、それらがキャメロンのエンドスケルトンにおける「生物と同じ機能を有し、メカっぽく見える」というコンセプトに合致したのだ。 ウィンストンとキャメロンは自動車部品の廃棄場に足を運んで写真を撮り、それらの写真とキャメロンの図面をガイドにして、エンドスケルトンの立体化を図った。ウィンストンの他にはシェーン・マーン、トム・ウッドラフ、ブライアン・ウェイド、ジョン・ローゼングラント、リチャード・ランドン、デヴィッド・ミラー、マイケル・ミルズら7人のクルーが造形に関与し、エリス・バーマン、ボブ・ウィリアムス、アシスタントであるロン・マクレネスの面々が機械仕掛けと金属タッチの細工、それにラジコン操作を受け持った。 スケルトンの頭部はマーンが主に担当。シュワルツェネッガーの頭骨格を正確に再現したものを原型とし、ウッドラフとウェイドが頭部モックアップの彫刻を手がけた。また二人はエンドスケルトンのさまざまなボディパーツを粘土で造型し、それらの彫刻フォームからウレタンでモールドを作成。クルーがエポキシとファイバーグラスの部品を作成し、パーツに埋め込んだ. そして金属の外観を与えるために、部品は真空蒸着(金属粒子を物体に付着させる電磁プロセス)を経て最終的な形に組み立てられた(そのためフルスケールのエンドスケルトンは重量45kgにも及んでいる)。またエンドスケルトンの全身モデルはスタント用の軽量バージョンも作られ、それはレジスタンスの戦士カイル・リース(マイケル・ビーン)のパイプ爆弾で半分に切断されるショットに用いられた。 加えてクローズアップの撮影用に、クルーはオペレーターの背中に装着できる頭と胴体の半身モデルも作成。こちらはオペレーターの動きをモデルに反映させる特別なリグを備え、マーンが操作を兼任。シュワルツェネッガーやウィンストンらと一緒にボディランゲージに取り組んだ。 またエンドスケルトンのみならず、ウィンストンとクルーはシュワルツェネッガーの頭部のアニマトロニクスを作っている。ターミネーターのT−800タイプが眼を自己補修するシーンで、皮膚を切開して内部構造を露出させたり、クロームの下部構造の多くが露出する場面に応じた、複数の頭部モデルが用意された。また実物よりも寸法の大きなメカニカルアイや、真空成形で硬化させたプラスチック片と発泡ゴムの補綴物からなるメイクをシュワルツェネッガーにほどこしたり、彼の腕を複製したウレタン製の中空義手を作り、T-800が腕を切開し、骨格を露出させるシーンを操作演出するなど、エンドスケルトンの存在をプラクティカルなエフェクトで補強している。 これらと前述したパペットやアニマトロニクスを組み合わせ、映画はスタジオセットやロサンゼルス周辺のロケ地で撮影をおこない、またエンドスケルトンの全身を捉えた歩行ショットは特殊効果スタジオ「ファンタジーII」のチームによって2フィートのミニチュアモデルが作られ、ストップモーション アニメーションによって表現されたのである。 【3】エンドスケルトンの起点 以上のような形で『ターミネーター』におけるエンドスケルトン創造のプロセスを綴っていったが、その起点ともいうべきキャメロンのメカニカルセンスにも迫るべきだろう。かの悪夢的なイメージが彼の中でどのように成立していったのか、その起源に対して無関心ではいられない。 『ターミネーター』のエンドスケルトンが驚異的なのは、プロダクションの過程でデザインが試行錯誤して定まっていくのではなく、最初にキャメロンが手がけたドローイングの段階で外観が完成されていたことだ。つまりキャメロンの中でエンドスケルトンの概念が確立していたのである。 2021年に出版されたキャメロン自身の手によるコンセプトアート集「テック・ノワール」には、少年期に遡ってキャメロンのアートワークが網羅されている。本画集を参照すると、エンドスケルトンのモチーフは1982年に氏が宣伝デザインに協力したSF映画『アンドロイド ダニエル博士の異常な愛情』の図案に登場している。同作にてキャメロンは、レオナルド・ダ・ヴィンチの「ウィトルウィウス的人体図」を引用したレイアウトに、人体の左半身がエンドスケルトンに似たデザインの機械体を描き込んでいる。筋組織をシリンダーやスチールサポートに置き換えたメカ構造など、ほぼ同一のものといっていい。 さらに元を辿れば、こうした意匠に基づくメカモチーフは自身が35mmフィルム撮影で手がけた習作『Xenogenesis』(78)に見ることができる(「テック・ノワール」には同作のイメージイラストが掲載されている)。 ■Xenogenesis 加えて画集の中でキャメロンは、自身のドローイング技術の習得やメカニック描写のルーツについて言及しており興味深い。特に後者に関してキャメロンは、「キング」と呼ばれてアメリカンコミックのジャンルに君臨した、ジャック・カービーからの影響が濃いと語っている。例えばカービーの描いた『ファンタスティック・フォー』のシルバーサーファーの金属的なイメージは、『ターミネーター2』(91)の液体金属で構成されたT-1000に通じるものがあると自認している。 ■「That Old Jack Magic」ジャック・カービーのデザイン性についての論考 https://kirbymuseum.org/blogs/effect/jackmagic/ 同アート集の出版にあたり、キャメロンはジェフ・スプライの独占取材に応じ、自身の絵のタッチがファンタジーアートからくるものであり、フランク・フラゼッタやケリー・フリース、リチャード・コーベンといったイラストレーターの描画スタイルから影響を受けていることを明かしている。ネットのない時代、ファンタジーアートとの接触の機会は少なく、それらに確実に接することができたのはSF文庫の扉絵や挿絵だったこと。そして限られたものからあらゆるものを学んだのだとキャメロンは述懐する。 「SF映画やテレビがまだ石器時代のようなデザイン表現だったとき、コミックブックは絵を学ぶのに最適な存在だった。初期の『スパイダーマン』のコミックを描いていたスティーヴ・ディッコは、美しい彫刻のような素晴らしい手を描いていたんだ。他にもジェスチャー的な動きなど、さまざまなことに特化したアーティストがいたのさ。私はほとんどの場合、マーベルのアーティストが面白いことをやっていると感じたよ」 昨年、MCUに対して手厳しい批判をしたキャメロンだが、自身のドローイングの起点がマーベルにあり、そこからエンドスケルトンのデザインへと発展したことを思うと、そこに『ターミネーター』のタイムパラドックスを地でいくような相関性を覚えなくもない。■
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COLUMN/コラム2023.03.02
ピーター・バーグ監督が語った『バトルシップ』秘話
◆果たせなかった『砂の惑星』のリベンジ ボードゲームに基づいたSF侵略バトル映画『バトルシップ』は、公開後に日本でカルト的な人気を博し、今や地上波テレビで放送されるたびにSNSを賑わす“お祭り“コンテンツとして定着した感がある。要因は多々挙げられるが、やはりこの作品の激アツなクライマックスに起因するのではないだろうか。未見の方の楽しみのために詳述は割愛するとして、筆者(尾崎)は本作のプロモーションで来日したピーター・バーグ監督にインタビューし、『バトルシップ』が生まれるまでの経緯や裏話を聞き出している。その一部は雑誌媒体に加工のうえ発表したが、やむなく切り落とした部分が多く、プロダクションノートにも記載されてないネタが含まれている。なので意訳ではあるが、今回それらを再構成し、陽の目を与えるに至った。実際に作品をご覧になるときの参考となればさいわいだ。 ・『バトルシップ』撮影中のピーター・バーグ監督 Credit: Frank Masi 俳優から監督へと転身し、『キングダム/見えざる敵』(07)や『ローン・サバイバー』(13)などの硬質なサスペンスアクションを手がけてきたバーグは、本作『バトルシップ』以前のキャリアにおいて、SFやファンタジーに属するようなサブジャンルに着手したことがなかった。唯一、スーパーヒーロー映画の再定義化を試みたコメディ『ハンコック』(08)がかろうじてそれに該当しないこともないが、監督いわく「ウィル・スミス主演のスター映画」と自らカテゴライズし、自らSFジャンルには入れていない(理由は後述する)。しかも本来は『バトルシップ』ではなく、別のSF作品を手がける予定だったのだ。 ピーター・バーグ監督(以下:バーグ)「『バトルシップ』の話がくる前、僕はパラマウントで『DUNE/デューン 砂の惑星』(以下:『砂の惑星』)を準備していてね。それにあたって、SFや宇宙についてかなり広範囲なリサーチをしたんだ。かつて一度もSF映画を作ったことがなかったからね。その過程でSFにかなり興味を持ったので、『砂の惑星』が立ち消えになったときには非常に残念な思いをしたんだ。だから『バトルシップ』は、僕にとって『砂の惑星』のリベンジでもあるんだよ」 1984年にデヴィッド・リンチが監督し、後年ドゥニ・ヴィルヌーヴによって再映画化が果たされた『砂の惑星』は、もともとバーグによってプロダクションが進行していた時期がある。フランク・ハーバート財団から権利を取得したプロデューサーのケヴィン・ミッシャーがパラマウントに企画を持ち込み、ドウェイン・ジョンソン主演の『ランダウン ロッキング・ザ・アマゾン』(03)で一緒に仕事をしたバーグに監督を依頼したのだ。しかし製作費の調達や度重なる脚本の改稿によってプロジェクトは棚上げとなり、バーグは『バトルシップ』に移行したのである。 『バトルシップ』はハズブロ社が同ボードゲームの権利をミルトン・ブラッドレー社の買収によって取得し、『トランスフォーマー』や『G.I.ジョー』のように映画として展開させる計画に端を発している。 しかしオリジナルのボードゲームは、艦隊どうしが戦艦の撃沈をめぐって勝敗を競い合うもので、それがなぜ対エイリアン戦を描くSF映画となったのだろう? 「やはりSFにこだわっていたんだよ」とバーグは語り、方向性を変えた起点を以下のように明かした。 バーグ「2010年にディスカバリー・チャンネルで、宇宙天文学者のスティーヴン・ホーキンス博士がナビゲートを務めるミニシリーズ“Into the Universe with Stephen Hawking”(スティーヴン・ホーキングと宇宙へ)を観たんだ。その番組内で博士は、地球からシグナルを発信していると、地球以上の文明を持つ惑星がそれをキャッチし、資源を求めてやってきて争いになる可能性にあると示唆していた。それがエイリアンの侵略をストーリーベースにしたきっかけなんだ」 この改変と同時に『砂の惑星』から同作にあったプロットの一部である「資源をめぐる争い」を骨格として組み込み、『バトルシップ』を本格的なSFものにしたのだと語った。 また『砂の惑星』のプロダクションから移行させた要素は、それだけではない。バーグによると「自分のバージョンは環境描写や戦闘場面など、とても激しいものになる予定だった」と回想し、それらを『バトルシップ』に適応させた旨や、リンチが手がけたものとの違いを示してくれた。実際にバーグ版『砂の惑星』の世界観は非常に硬質なもので、参考としてイギリスのコミックアーティストであるマーク"ジョック"シンプソンよるコンセプトデザインを以下に見ることができる(ジョックは『バトルシップ』でもコンセプトデザインを担当)。 https://www.duneinfo.com/unseen/jock 加えてバーグは「私の『砂の惑星』はオムツを履かせたりしない(笑)」と言って、リンチ版のハルコンネン男爵を揶揄していたが、奇しくもヴィルヌーヴ版では『バトルシップ』で主人公ストーンの兄を演じたアレクサンダー・スカルスガルドの父ステラン・スカルスガルドがハルコンネン男爵を演じている。 ◆二人の映画監督から得た映像スタイル また先述した「激しい攻防戦」というワードは、そのまま監督の視覚スタイルの話題へと移行するのに都合がよかった。インタビューはバーグが2004年に発表した『プライド 栄光への絆』へとターンし、同作の試合シーンの緊張感がスポーツ映画史上でもっとも高いものではないかと言及。『バトルシップ』にもその傾向が顕著に見られ、それらの多動的でラフな映像スタイルはどこから得たものかを訊ねている。 バーグ「私には監督として、二人の師匠がいる。それはジョン・カサヴェテスとマイケル・マンだ。どちらもシネマヴェリテを基調としたスタイルを持っているが、カサヴェテスは非常に俳優に自由を与えてくれる監督で、あまりコントロールしない人だ。それが自然な演出とカメラモーションに繋がっているし、逆にマイケルは脚本がぶれないくらいのコントロールフリークで、そこが面白い。彼は友人でもあるし、『キングダム/見えざる敵』のプロデュースも担当してくれた、そしてなにより、彼のビジュアルスタイルには多くを学ばせてもらった。僕は二人の正反対なアプローチをうまく折衷させながら演出をしてるけどね(笑)」 加えて、役者をコントロールしないという考え方は、バーグの中で映画における俳優の優先順位をおのずと示している。 「僕は過去にウィル・スミスと『ハンコック』を作ったけど、やはりというか観客は、ウィルのスター性に意識を支配されてしまう。違うんだ、映画のスターはストーリーなんだよ。だから『バトルシップ』はリーアム(・ニーソン)を除くと、あまり知名度の高い俳優を主要キャラクターとして劇中に置いていない。だってそのほうが、より完全にストーリーに没頭できると思ったからなんだ」 こうした俳優の話題から、質問は出演者の一人である浅野忠信に関することへと移行したのだが、「アサノの出ている作品だけでも、まずは観ておかないといけないね」と監督は言い、自分が日本映画に関して理解があまりないことを筆者に詫びていた。 しかしまさか、その日本で『バトルシップ』がこれほどまでに愛される作品になるとは、よもや思いもしなかったことだろう。■ 『バトルシップ』© 2012 Universal City Studios Productions LLLP. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2023.03.01
『ゴースト/ニューヨークの幻』を名作にした奇跡のコラボと、日本での歪な愛され方
最も美しい瞬間、眩しいほどの輝きを放っているタイミングを、スクリーンに映し出すことが出来たら、その俳優は幸せだと思う。その上で、その作品がいつまでも人々の間で語り続けられるようなものになったら、まさに役者冥利に尽きるだろう。 本作『ゴースト/ニューヨークの幻』(1990)のヒロインを演じた、デミ・ムーア。彼女にとってこの作品は、正にそんな位置にあるのではないか? 1962年生まれのデミは、『セント・エルモス・ファイア』(85)出演を機に、80年代ハリウッドの青春映画に出演した若手俳優の一団、いわゆる“ブラット・パック”の1人として、注目を集めるようになった。 プライベートでは、『セント…』の共演者エミリオ・エステベスとの婚約破棄を経て、87年にブルース・ウィリスと結婚。翌年には一子をもうけた。 本作の撮影が行われたのは、89年の夏から秋に掛けて。デミが27歳になる前後であるが、私生活の充実も反映してか、最高にキュートに映える。今や40年以上に及ぶ彼女のキャリアを振り返っても、「一生の1本」と言えるだろう。 こうした“タイミング”のデミを得たことも含めて、『ゴースト/ニューヨークの幻』には、「奇跡的」とも言っても良い、幾つかのマッチングが作用。アメリカ映画史、恋愛映画史で語り続けられる作品となったのである。 ***** 舞台はニューヨーク。銀行員のサム(演:パトリック・スウェイジ)と、新進の陶芸家モリー(演:デミ・ムーア)は、同棲を始める。 サムの同僚カールの手伝いで、引っ越しを終え、幸せいっぱいの2人。「愛してる」という言葉に、「同じく」としか返さないサムに、モリーはちょっとした不満を抱くが…。 そんなある日サムは、口座の金の流れに不審な点を見付ける。カールの手助けを断わり、サムはひとりで洗い出しを進める…。 観劇に出掛けたサムとモリー。その帰路で、「結婚したい」とモリーが告げた時に、暴漢が2人に襲いかかる。モリーを守ろうと、サムは抵抗。一発の銃声が響く。 逃げていく暴漢を追うのを諦め、振り返ったサムが目の当たりにしたのは、血まみれになった自分を抱きかかえ、「死なないで」と叫ぶモリーの姿だった。 幽霊になったサム。悲嘆に暮れるモリーには彼の姿は見えず、声も届かない。カールの慰めで、モリーが気晴らしの外出をした際、幽霊のサムしか居ない部屋に、彼を襲った暴漢が忍び込み、家捜しを始める。 怒り狂うサムが、暴漢に殴りかかっても、拳は空を切るばかり。しかし何とか、目的のものが見付からなかったらしい暴漢の後を追って、その居場所を突き止めた。 その近所で、“霊能力者”の看板を見付けたサムは、思わず吸い込まれる。そこの主オダ・メイ(演:ウーピー・ゴールドバーグ)は、インチキ霊媒師。霊の声が聞こえるフリをして、客から金を巻き上げていた。 そんな彼女だったが、なぜかサムの声は本当に聞こえた。嫌がるオダ・メイを脅しながらも、何とか説き伏せ、モリーに危機を伝えるように、協力してもらうことになる。 死して尚モリーを想うサムの気持ちは、彼女に伝わるのか?そして、サムを死に追いやった者の正体とは? ***** パトリック・スウェイジは、87年の全米大ヒット作『ダーティ・ダンシング』で人気を博して以来、主演スターの地位を固めつつあった頃に、本作に主演。タイトルロールである“ゴースト”として、深い悲しみを抱えた、ロマンティックな役どころもイケることを、知らしめた。 “インチキ霊媒”だったのに突如本物の霊能力に目覚めてしまった、オダ・メイ役のウーピー・ゴールドバーグは、稀代のコメディエンヌの実力を発揮。大いに笑わせながらも、幽霊のサムとモリーの“再会”に力を貸すシーンでは、観客の涙を絞るきっかけを作る。彼女にこの年度のアカデミー賞助演女優賞が贈られたのは、至極納得である。 デミ・ムーアを含めた、こうした演じ手たちのアンサンブルも素晴らしかったが、本作に於いて最高の“化学反応”を起こしたのは、脚本家と監督の組み合わせ。脚本家は、ブルース・ジョエル・ルービン、そして監督は、ジェリー・ザッカーである。 ルービンは本作脚本の執筆について、こんなことを語っている。「ある人が自分の感情や感覚が現世から霊の世界へ、つまり新しい別の世界へと移動できることを知り、なんとかそれを脚本の中に活かそうとアイディアをしぼった」 つまりルービンの“死後の世界”への想いは、ガチなのである。彼のフィルモグラフィーを鑑みれば、本作以前に手掛けた『ブレインストーム』(83)『デッドリー・フレンド』(86)から、本作以降の『ジェイコブス・ラダー』(90)『幸せの向う側』(91)『マイ・ライフ』(93)まで、ズラッと“死”にまつわる物語が並ぶ。 そんな「死に取り憑かれた」ルービンの脚本を映画化するに当たって、プロデューサーが起用した監督が、ジェリー・ザッカーだった。その名を聞いたルービンは、驚きと困惑、そして落胆を隠せなかったと言われる。 ザッカーはそれまで、ハリウッドでは「ZAZ(ザッズ)」の一員として知られていた。「ZAZ」とは、兄のデヴィッド・ザッカー、友人のジム・エイブラハムス、そしてジェリーの3人の名字の頭文字を並べての呼称。彼らのチームが作ってきた作品と言えば、『ケンタッキー・フライド・ムービー』(77)『フライング・ハイ』(80)『トップシークレット』(84)『殺したい女』(86)『裸の銃を持つ男』(88)と、コメディばかり。それもそのほとんどがおバカ満載、全編に渡ってパロディギャグを釣瓶打ちする内容の作品だった。 自分の渾身の脚本が、一体どうされてしまうのか?ルービンが不安に襲われたのも、無理はない。しかしこのコラボが、映画を大成功へと導く。 本作は開巻間もなくは、若い男女のラブロマンスが展開する。ところがサムが殺されて幽霊になってからは、サスペンスの色を帯びる。更にその先には、コメディリリーフのようにオダ・メイが登場。ところどころ笑いを交えながらの展開となる。クライマックスに近づくに従って、再びサスペンスの色が濃くなるが、大団円は、純愛ラブストーリーとして昇華する。 こうしたジャンルの横断は、ジェリー・ザッカーが、それまでに培ってきたテクニックを、大いに生かしたものと考えられる。とにかく観客を笑わそうと、シーン毎にギャグを詰め込むのが、「ZAZ」の作風。ザッカーはこの手法を応用し、ルービンの脚本の展開を、一つのジャンルに捉われることなく、ブラッシュアップしていったわけである。 もしも、“シリアス系”の監督が起用されていたら?恐らく本作は、もっと陰々滅々とした、ダークなタッチの作品になっていたであろう。 実はデミ・ムーアが演じるモリーは、当初は彫刻家という設定であった。それを陶芸家へと変えたのも、ザッカーのアイディア。この変更はどう考えても、ストーリー上の必然性とかではない。ずばり、サムとモリーのラブシーンを、効果的に演出するためだったのだろう。 同棲を始めたばかり。眠れない夜に、モリーがろくろを回していると、それに気付いたサムが、上半身裸のまま彼女の後ろに座る。バックに哀切な響きの、ライチャス・ブラザーズの「アンチェインド・メロディー」が流れる中で、2人は手を重ねながらろくろの上の粘土を触っているが、やがて………。 実に、情熱的且つロマンティック。映画関連の雑誌やサイトなどが選ぶ、「映画史に残るキスシーン」で、『地上より永遠に』(53)や『タイタニック』(97)などと共に、度々上位に選ばれているのも、むべなるかな(本作の翌年、ジェリーが脚本で参加している「ZAZ」作品、『裸の銃を持つ男 PART2 1/2』で、早々にこのシーンのパロディをやっているのには、「さすが!」という他なかったが…) 何はともかく、ある意味正反対の資質を持つ脚本家と監督が組んだことによって、奇跡のバランスが生まれ、そこに“旬”のキャストが加わった。こうして本作は、語り継がれる“名作”となったのである。 『ゴースト』は興行的にも、映画史上に残る“スリーパー・ヒット”=予想外の大ヒットとなった。アメリカ公開は、1990年の7月13日。実はこの7月の興行は、本作に先んじて4日に公開されたアクション大作、『ダイ・ハード2』が暫し独走するものと思われていた。ところが『ゴースト』は、公開初週で『ダイ・ハード2』を上回る成績を上げ、TOPに躍り出たのだ。 ブルース・ウィリスの代表的な人気シリーズ第2弾を、その妻であるデミ・ムーアの主演作が抜き去った形である。トータルで見れば、『ダイ・ハード2』も、北米での総興収が1億1,700万㌦、全世界では2億4,000万㌦と、当時としては十分“メガヒット”と言って差し支えない成績だった。しかしながら『ゴースト』は軽くこれを上回り、北米だけで2億1,700万㌦、全世界では5億㌦以上を売り上げたのである。『ダイ・ハード2』の製作費は7,000万㌦だったのに対して、『ゴースト』はその3分の1以下の、2,200万㌦。2011年4月にアメリカの経済ニュース専門局「CNBC」が発表した「利益率の高い映画トップ15」では、堂々の第10位にランクイン!製作費に対するその利益率は、何と1,146%というものだった。 『ゴースト』は、日本でも大ヒットした。配給収入は、37億5,000万円。細かいことは抜きに、これは興行収入ベースだと、60~70億円に達す。 本邦でも、いかに愛される作品となったか、その証左として挙げられるのが、本作の設定をパクった恋愛ドラマが、数多く製作されたこと。例えばフジテレビの「月9」枠で92年に放送された、「君のためにできること」。吉田栄作演じる主人公が自動車事故で死ぬが、自分を轢いた加害者の身体を借りて、恋人の石田ゆり子の前に現れる。ちょっと『天国から来たチャンピオン』(78)風味も入っているが、紛れもなく、本作のエピゴーネンであった。 本作から30年以上経った現在も、こうした流れはまだまだ残っている。今年1月から放送されている、井上真央と佐藤健主演のTBSドラマ「100万回 言えばよかった」。スタート早々からSNSなどで、「これ『ゴースト』じゃん」などと、突っ込みが入りまくっている。『ゴースト』は“ミュージカル化”されて、2011年からロンドン、12年にはブロードウェイでも上演された。実は日本ではそれに先駆けて、2002年に「世界初」の『ゴースト』舞台化が行われている。主演は宝塚出身の愛華みれと沢村一樹。こちらはミュージカルではなく、ストレートプレイであった。『ゴースト』関連で、今年に入って伝わってきたのが、現在チャニング・テイタムが、自らの主演で本作のリメイク企画を進めているとのニュース。それを聞いて思い出したが、実はリメイクも、日本が先行して行っていたという事実だった。 もう覚えている方も少ないと思うが、2010年11月に公開された『ゴースト もういちど抱きしめたい』が、その作品。 こちらは松嶋菜々子と、ソン・スンホンが主演。オリジナルとは男女の役割を逆転し、松嶋が女性実業家で、韓国人の陶芸家スンホンと恋に落ちるも、事件に巻き込まれて命を落としてしまう…。 そんな設定でわかる通り、ろくろを2人で回すラブシーンも、もちろん再現されている。詳細は省くが、色々と無理のある展開からこのシーンになだれ込むのだが、バックには何と、「アンチェインド・メロディー」が…。そしてそのヴォーカルは、…平井堅。マスコミ試写では、“失笑”が起こった。 この日本版リメイク、興収9億円という記録が残っているので、観客はそこそこ集まったわけである。しかしオリジナルと違って、現在ではわざわざ、口の端に上げる者も居まい。 チャニング・テイタムはリメイクに臨むに当たって、わざわざ“陶芸レッスン”を受けながら、雑誌のインタビューに応じたという。ということはやはり、「映画史に残るラブシーン」の再現に。敢えて挑戦することになるのだろうか? テイタムが鑑賞しているとは思えないが、日本版リメイクを「他山の石」として、くれぐれも同じ失敗を繰り返さないことを、願ってやまない。■ 『ゴースト/ニューヨークの幻』™ & Copyright © 2023 Paramount Pictures. 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COLUMN/コラム2023.03.01
ミュージカル映画の巨匠がヒッチコックの世界に挑んだロマンティック・サスペンスの傑作『シャレード』
キャスト変更の可能性もあった『シャレード』誕生秘話 恋愛ロマンスとサスペンス・スリラーの要素を兼ね備えた、いわゆるロマンティック・サスペンス映画は古今東西に数多くあれども、この『シャレード』に匹敵するような傑作はなかなか見当たらないだろう。主演はハリウッド黄金時代の大スター、ケーリー・グラントとオードリー・ヘプバーン。舞台は花の都パリである。裕福なフランス人男性と結婚したアメリカ人女性が、ある日突然、身に覚えのない陰謀事件に巻き込まれ、正体不明の男たちから逃げる羽目となる。まるでアルフレッド・ヒッチコック監督のサスペンス映画のようだが、実際にスタンリー・ドーネン監督は、ケーリー・グラントが主演したヒッチコックの『北北西に進路を取れ』(’59)を強く意識していたという。本作が「ヒッチコックの監督していない最良のヒッチコック映画」と呼ばれる所以だ。 と同時に、本作は’60年代当時ブームとなりつつあったスパイ映画のジャンルにも相通ずるものがある。なにしろ、タイトル・シークエンスのスタイリッシュなグラフィック・デザインを担当したのは、007シリーズのタイトル・デザインでも有名なモーリス・ビンダーである。もちろん、ビンダーはヒッチコック監督の『めまい』(’58)も担当しているので、ヒッチコック映画へのオマージュ的な意味合いもあったであろう。さらに、ヘンリー・マンシーニによるラウンジ・ミュージック・スタイルの音楽スコアもボンド映画っぽい。甘いメロディの印象的なテーマ曲「シャレード」は、やはりボンド映画群の主題歌と同じくスタンダード・ナンバーとして親しまれ、アンディ・ウィリアムスやシャーリー・バッシーなど数多くの歌手がカバー・バージョンをレコーディングした。さながら、’50年代的なエレガンスと’60年代的なモダニズムを併せ持った映画とも言えよう。 原作はピーター・ストーンとマーク・ベームの書いた小説「Unsuspecting Wife(疑わない妻)」。しかし、実はその小説の元となった映画用の脚本が存在する。執筆したのはピーター・ストーン。’30年代に人気を博した犯罪ミステリー映画『チャーリー・チャン』シリーズで有名な映画製作者ジョン・ストーンの息子としてハリウッドで生まれ育ったストーンは、やはり映画脚本家だった母親ヒルダ・ストーンが再婚してフランスへ移り住んだことから、まだ大学生だった19歳の時に初めてパリを訪れ、たちまち魅了されてしまったという。そこで、大学を卒業した彼はCBSラジオのパリ支局に就職し、報道部で働きつつ大好きなパリを舞台にしたミステリー映画の脚本を書き上げる。それが『シャレード』だった。 完成した『シャレード』の脚本を持ってアメリカへ一時帰国し、ハリウッドのメジャースタジオ7社に売り込みをかけたストーンだが、しかしどこへ行っても断られてしまったという。そこで妻に勧められて脚本を小説として書き直すことにしたのだが、それまで小説を書いたことがなかったため、同じくパリ在住のアメリカ人だった作家マーク・ベームに協力を仰いだのである。そうして出来上がった小説版は、アメリカの有名な女性誌「レッドブック」に掲載されることとなる。その際、編集部の要望で「Unsuspecting Wife」というタイトルが付けられた。というのも「レッドブック」誌では、タイトルに「Wife」「God」「Dog」「Lincoln」のいずれかの単語が入った小説は当たる、というジンクスがあったからなのだとか。実際に掲載された小説は評判となり、かつて脚本を断ったスタジオ7社の全てが映画化権を手に入れようとアプローチしてきたという。 一方その頃、『雨に唄えば』(’52)などのミュージカル映画で巨匠としての地位を確立していたスタンリー・ドーネン監督も、エージェントから送られてきた雑誌を読んで原作を気に入り、自身の製作会社スタンリー・ドーネン・フィルムズの企画として映画化権の購入に動いていた。当時の2人はお互いに全く面識がなかったものの、ストーンはメジャースタジオ各社からのオファーを断って、ドーネン監督と直接契約を結ぶことにする。最大の理由は、ロサンゼルスではなく実際にパリで全編ロケ撮影することをドーネンが約束したこと。さらに、当初からケーリー・グラントとオードリー・ヘプバーンを主演に想定していたストーンにとって、そのどちらとも仕事をしたことのあるドーネン監督は映画化を任せるに最適な人物だった。中でも特にグラントとは、共同で製作会社グランドン・プロダクションズを立ち上げるほどの親しい間柄である。まさに理想的な人選だ。 ところが、以前からグラントと共演したかったオードリーは出演を快諾したものの、肝心のグラントがハワード・ホークス監督の『男性の好きなスポーツ』への出演を希望して『シャレード』を断ってしまった。そのため、グラントとの共演が必須条件だったオードリーも降板することに。そこで、当時ドーネン監督は映画会社コロムビアと提携を結んでいたのだが、そのコロムビア幹部の提案でウォーレン・ベイティとナタリー・ウッドに白羽の矢が立てられ、実際に本人たちも出演を承諾したのだが、しかしギャラの金額が折り合わなかったらしく、最終的にコロムビアは企画そのものから手を引いてしまった。 はてさて困った…とドーネン監督は頭を抱えたわけだが、その直後に『男性の好きなスポーツ』を降板したグラントから連絡が入り、やっぱり『シャレード』に出演したいとの申し出があったという。そこからとんとん拍子でオードリーの出演も決定し、ドーネン監督は改めて企画をユニバーサルに持ち込んだところ、すんなりとゴーサインが出たのである。ただし、グラントは出演契約を結ぶにあたって、ひとつだけ条件を付けたという。それは、撮影前に脚本家と打ち合わせをして、自分の意見を脚本へ取り入れること。そこで脚本担当のピーター・ストーンがグラントと会うことになり、ニューヨークのプラザ・ホテルで数日間に渡って綿密な打ち合わせを行った。 その際にグラントがストーンに最も強く要望したのは、自分の演じるピーターがオードリー演じるレジーナを口説くのではなく、反対にレジーナがピーターを口説くという設定にすることだった。というのも、当時のグラントは58歳でオードリーは33歳。親子ほど年の離れた中年男性が若い女性を口説くのはみっともないと考えたのだ。また、劇中ではピーターがシャワーを浴びるシーンがあるのだが、若い頃に比べて体型が衰えたことを理由に、グラントはシャワーシーンで脱ぐことを拒否。その結果、服を着たままシャワーを浴びるというユーモラスな場面が出来上がったのだが、いずれにせよ当時のグラントは自身の年齢をいたく気にしていたらしい。実際、長年に渡ってロマンティックな二枚目スターとして女性ファンを魅了してきたグラントは、本作を最後に「二枚目役」を卒業することとなる。 フランス・ロケの魅力を存分に生かした撮影舞台裏エピソード 主人公はフランス人の大富豪と結婚したアメリカ人の元通訳レジーナ・ランパート(オードリー・ヘプバーン)。親友シルヴィ(ドミニク・ミノー)とその幼い息子ジャン=ルイ(トーマス・チェリムスキー)と一緒に、フレンチ・アルプスへスキー旅行に出かけた彼女は、よく素性も分からぬまま結婚した夫チャールズとの離婚を決意する。ところが、パリへ戻ってみると自宅はもぬけの殻で、家財道具はもちろんチャールズの姿もない。そこへやって来た警察のグランピエール警部(ジャック・マラン)によると、夫は家財道具を競売にかけて得た25万ドルを持ってパリから逃げようとしたところ、何者かに列車から突き落とされて死亡したという。警察署で夫の遺体を確認し、誰もいない自宅で茫然自失となるレジーナ。するとそこへ、旅行先で知り合ったアメリカ人男性ピーター・ジョシュア(ケイリー・グラント)が現れ、新聞記事で事件を知ったと言って慰めてくれるのだった。 教会で執り行われたチャールズの葬儀。親友シルヴィとグランピエール警部以外、弔問客も殆どなかった。すると、見たこともない3名の男性が入れ代わり立ち代わりやって来る。小柄の中年男ギデオン(ネッド・グラス)にのっぽのテックス(ジェームズ・コバーン)、そして右手に義手をはめた大男スコビー(ジョージ・ケネディ)。3人ともなぜか、夫が本当に死んだのか確認しているようだ。その後、CIAパリ支局の捜査官バーソロミュー(ウォルター・マッソー)にアメリカ大使館へ呼び出されたレジーナは、そこでチャールズの本名がチャールズ・ヴォスという男であること、彼が第二次世界大戦中に情報機関OSSに所属していたこと、当時の仲間と米政府の金塊25万ドル分を横領したことを知らされる。しかも、夫は仲間と分配するはずの金塊をひとりで持ち逃げしていたのだ。戦時中のチャールズの写真を見せられたレジーナは、そこに写っている仲間たちが葬儀に現れた3名の男性であることに気付く。 夫が殺された際に持っていた25万ドルの行方をバーソロミューに問い詰められるレジーナだが、そもそもチャールズの正体を初めて知ったばかりの彼女に心当たりなどあるはずがない。夫の遺品を受け取って持ち帰った彼女は、気を紛らわすためピーターとデートに出かけるのだが、そんな彼女の前に例の3人が次々と現れて「金を返せ」と脅迫する。身の危険を感じたレジーナはピーターと一緒にホテルへ身を隠し、消えた25万ドルの所在を突き止めようとするのだったが…? 原作だとヒロインの姓はランパート(Lampert)でなくランバート(Lambert)だったそうだが、アメリカ国内に同姓同名の女性が3名実在したため変更されたという。また、ピーター・ジョシュアという役名は、ドーネン監督の2人の息子ピーターとジョシュアから取られている。男性が列車から突き落とされる謎めいたオープニングと、その後に続くカラフルでお洒落でウルトラモダンなタイトル・シークエンスのたたみかけが実にお見事!まさに掴みはオッケーという感じで、思わず期待と興奮に胸がドキドキと高鳴る。よく事情も知らぬまま陰謀事件の渦中に放り込まれたヒロイン、そんな彼女を助ける謎めいたヒーロー、そして次から次へと襲い来る危機に意表をつく驚きのどんでん返し。ロマンスとサスペンスのツボを心得たピーター・ストーンの脚本は、スリルとユーモアのバランス感覚もまた抜群に絶妙である。主演のケーリー・グラントとオードリー・ヘプバーンの顔合わせも実にゴージャスだし、’60年代当時のパリの街並みや景色がまたロマンティックなムードを一層のこと高めてくれる。 冒頭のスキー旅行シーンのロケ地となったのは、ロスチャイルド家御用達のスキー・リゾート地としても有名なムジェーヴという町。撮影に使われたホテルも実はロスチャイルド家の別荘だった。劇中でジャン=ルイ少年がロスチャイルド男爵に雪の玉を投げつけて叱られるというエピソードは、いわばちょっとした内輪ジョークだったのである。ちなみに、ロケに同行したストーンによると、この別荘には当時ロミー・シュナイダーとアラン・ドロンがお忍びで宿泊していたそうだ。また、ジャン=ルイ少年がレジーナに水鉄砲を向けるシーンでは、最初に映し出されるクロースアップショットをよく見ると、子供ではなく大人がピストルを握っているように見える。実際、撮影では助監督マーク・モーレットが水鉄砲を握っていたらしい。観客をドキッとさせるためには、ひと目で子供の手だと分かってしまっては都合が悪かったのだ。 パリ市内のロケでも、セーヌ川のほとりやノートルダム寺院などの観光名所をたっぷりと楽しませてくれるが、その中でも謎を解くための重要なカギとして使われたのが、シャンゼリゼに近いマリニー通りの有名な切手市。ここでは現在も毎週木曜日と土曜日と日曜日の3日間、切手業者が蚤の市を開いて世界中から切手コレクターが集まる。いわば知る人ぞ知る穴場スポットのようなものだ。ただし、本作では定休日に切手市の場所だけ借り、撮影用にエキストラを集めて普段の様子を再現したのだそうだ。そういえば、レジーナとピーターが微笑ましく眺める路上の人形劇も、シャンゼリゼ通りで200年以上に渡って市民から親しまれているパリ名物である。 また、終盤の大きな見せ場として登場するのがパレ・ロワイヤル。17世紀の歴史に名高い宰相リシュリューの城館として建てられた歴史的建造物だが、当初は文化省が入っているからという理由で撮影許可が下りなかったのだそうだ。そこでドーネン監督は当時の文化相アンドレ・マルローに直談判して許可を取ったという。作家でもあったマルロー氏は、映画の撮影にとても協力的だったらしい。ただし、レジーナが逃げ込む劇場コメディ・フランセーズは入り口だけが本物で、中身は全く別の劇場で撮影されている。 このように、フランス現地のロケーションを存分に生かした本作だが、その一方でスタジオ撮影が非常に印象的だったのは、ケーリー・グラントとジョージ・ケネディがビルの屋上で格闘する緊迫のアクション・シーンである。実は、このビルの屋上はもちろんのこと、周囲の建物や眼下に見える車も全てスタジオに建てられた精巧なセット。遠近法を利用して適度な距離感を表現するべく、周囲の建物は全て実物大よりもだいぶ小さく作られており、完成した本編映像では見えづらいものの、一部の窓際には人影を映すためミゼットのエキストラを立たせたそうだ。もちろん、屋上から見下ろした路上の車は全てミニチュアである。 なお、劇中には脚本家ピーター・ストーンが2度ばかり登場する。まずはレジーナが最初にアメリカ大使館を訪れたシーンで、エレベーターのドアが開いた際に立ち話している男性2人のうち、右側に立っている背の高い黒縁メガネの男性がストーン。ただし、なぜか声だけはスタンリー・ドーネン監督が吹き替えている。そして、2度目はクライマックスでレジーナとピーターがアメリカ大使館を訪れるシーン。門番の若い海兵隊員にレジーナが公金返還の担当部署を訊ねるのだが、その若い海兵隊員の「声」を吹き替えたのがストーンだった。 かくして、1963年の12月初旬にアメリカで封切られた『シャレード』。興行的には大ヒットを記録するものの、同時に2つの大きな問題が発生する。ひとつめは本編中のセリフ。劇場公開の直前にケネディ大統領の暗殺事件が発生し、当時全米はもとより世界中に衝撃が走っていたのだが、本作ではレジーナとピーターがセーヌ川沿いを散歩するシーンで、「暗殺する(Assassinate)」という単語が2度も出てくるのだ。これが不謹慎に当たると考えたドーネン監督は、全米公開の間際に大急ぎで該当箇所の音声をカットし、代わりに「抹殺する(Eliminate)」とアフレコで差し替えたのである。なお、現在ユニバーサルがテレビ放送やソフト販売などで使用しているバージョンは、該当箇所が元の「暗殺する」に差し戻されている。 そしてもうひとつの問題が、本編中で著作権の表記を忘れたことである。正確に言うと、著作権者としてユニバーサル映画とスタンリー・ドーネン・フィルムズの名前は表記されているものの、それが著作権者であることを明確に示すCopyrightの文字やロゴマークを入れ忘れたのである。そのため、法律によって本作は著作権を放棄したものとみなされ、’80年代に家庭用ビデオが普及すると数多くの海賊版ビデオソフトが出回ることとなってしまう。本作の格安DVDは日本でも沢山出ているが、どれも使い古しの上映用フィルムやテレビ放送用マスターからコピーした代物。オリジナル・フィルムを使用した正規版マスターを保有しているのは現在もユニバーサルだけなので、映画ファンはくれぐれも注意されたし。■ 『シャレード』© 1963 Universal Pictures, Inc. & Stanley Donen Films, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2023.03.01
ヴァン・ダムが双子の兄弟を演じた異色アクションは製作舞台裏も面白エピソードがいっぱい!『ダブル・インパクト』
原作はフランスの古典文学だった!? 当時、飛ぶ鳥を落とす勢いでスター街道を爆走していたアクション俳優ジャン=クロード・ヴァン・ダムが、1人2役で双子の兄弟を演じたことが話題となったマーシャルアーツ映画である。ご存知の通り、ベルギー出身の有名な格闘家だったヴァン・ダム。’80年に全欧プロ空手選手権のミドル級王座に輝いた彼は、’82年に選手生活にピリオドを打つと映画スターを目指してロサンゼルスへ拠点を移す。アルバイトと掛け持ちしながらスタントマンとして映画の仕事をこなし、虎視眈々とチャンスを狙っていたところ、その甲斐あってキャノン・フィルムズの名物社長メナハム・ゴーランへの売り込みに成功。香港を舞台にした初主演映画『ブラッドスポーツ』(’88)の大成功を皮切りに、『サイボーグ』(’89)や『キックボクサー』(’89)、『ブルージーン・コップ』(’90)など次々とヒットを重ねていく。 その『ブラッドスポーツ』で初めて知り合ったのが脚本家シェルドン・レティック。アメリカ海兵隊出身でベトナム戦争への従軍経験もあるレティックは、ストイックな元格闘家のヴァン・ダムとウマが合ったのだろう。すっかり意気投合した2人は、レティックの監督デビュー作である『ライオンハート』(’90)など数々の映画でコンビを組むこととなる。そのレティック監督によると、もともと本作『ダブル・インパクト』の企画がスタートしたのは『ブラッドスポーツ』の直後だったという。同作の想定外の大ヒットに上機嫌だったメナハム・ゴーランは、ヴァン・ダムとレティックを自身のオフィスへ呼び出し、棚に並べられた無数の脚本の中から次回作を自由に選ぶよう勧めた。そこでレティックの目に入ったのが「Corsican Brothers」というタイトルの脚本だった。 古典文学に明るい方なら御察しの通り、これはフランスの文豪アレクサンドル・デュマが1844年に発表した小説「コルシカの兄弟」をベースにした作品。原作は離ればなれで暮らすコルシカ島出身の双子の兄弟を主人公に、弟が決闘で殺されたことをテレパシーで察知した兄が復讐を果たすという物語だ。オリジナルの脚本がこれをどう料理していたのかは定かでないものの、リライトを手掛けたレティック監督とヴァン・ダムによれば、そこからさらに原型をとどめないくらい改変してしまったらしい。確かに、完成した映画本編を見ると「双子の兄弟」「復讐」という2つのキーワード以外、デュマの小説と共通するものはほぼないと言えるだろう。 かくしてリライト作業を進めている間に、キャノン・フィルムズは経営不振に陥ってメナハム・ゴーランが会社から追放され、レティックはヴァン・ダム主演の『ライオンハート』でひと足先に監督デビュー。そんな折、ヴァン・ダムは『クリーチャー』(’85)や『ザ・ニンジャ/復讐の誓い』(’85)などの低予算映画で注目され、当時『ブランケット城への招待』(’88)や『カンザス/カンザス経由→N.Y.行き』(’88)などでメジャー進出を図っていたトランス・ワールド・エンターテインメントの創業社長モシュ・ディアマントと契約を結び、「Night of the Leopard」という作品に主演する予定だったのだが、この企画が諸事情によって頓挫してしまう。それを知ったレティック監督がディアマントに「Corsican Brothers」の企画を売り込んだことから、『ダブル・インパクト』の企画にゴーサインが出たのである。 ちなみに、ディアマントは「Corsican Brothers」というタイトルを気に入らず変更を要求したのだが、その際に『ダブル・インパクト』を提案したのはヴァン・ダムだったという。当時『ライオンハート』の編集作業中だったレティック監督は、アクション・シーンにインパクトを付けるため、別角度から撮った同じカットを2度連続で編集していたのだが、ヴァン・ダムはそれをヒントにして新タイトルを思いついたらしい。 生き別れになった双子兄弟の復讐劇! 物語の始まりは1966年。香港でトンネル建設事業に携わった裕福な実業家ワグナーが共同経営者のグリフィス(アラン・スカーフ)に裏切られ、地元の中国系ギャングによって妻もろとも殺されてしまう。その際、まだ生後数か月の赤ん坊だった双子の息子たちだけは辛うじて難を逃れる。中国人のメイドに助けられたアレックスはカトリック系の養護施設へ預けられ、ボディガードのフランク(ジェフリー・ルイス)に助けられたチャドは逃亡先のフランスで育てられた。 それから25年後。明るく溌溂とした青年に成長したチャド(ジャン=クロード・ヴァン・ダム)は、育ての親であるフランクと共にアメリカの西海岸へ移住し、ロサンゼルスの高級住宅街ビバリーヒルズでエクササイズジム兼格闘技道場を経営していた。この間、ずっとアレックスの行方を探していたフランクは、依頼していた私立探偵からアレックスを香港で発見したとの報告を受け、何も知らないチャドを連れて25年ぶりに香港へと渡る。天涯孤独の身で育ったアレックス(ジャン=クロード・ヴァン・ダム)は、それゆえ裏社会へ足を踏み入れて逞しく生き残り、現在は密輸業者として生計を立てていた。 お互いに自分と瓜二つの兄弟がいると知って困惑するアレックスとチャド。そんな2人にフランクは事情を説明する。かつて兄弟の両親がグリフィスに殺されて会社を奪われたこと、手を下したのが裏社会の元締めザング(フィリップ・チャン)であること、そして今こそ兄弟が団結して復讐を果たす時であること。しかし、シニカルで猜疑心の強い苦労人アレックスと、ノリの軽い遊び人チャドはまるで水と油。どうしてもお互いに反発してしまう。しかも、宿敵グリフィスは今や香港でも有数の大富豪で、おいそれと近付くことも出来ない。そのうえ、仲間のザングも巨大なファミリーを抱えている。兄弟とフランクの3人では多勢に無勢だ。 そこで心強い味方となったのがアレックスの恋人ダニエル(アロナ・ショウ)だ。実はグリフィスの会社で働いているダニエル。尊敬する社長がそんな極悪人だとは信じられないダニエルだったが、しかし愛するアレックスのため内部の機密情報を探っているうち、動かしがたい犯罪行為の証拠を見つけてしまう。ところが、そんな彼女の動向をグリフィスの女用心棒カーラ(コリー・エヴァーソン)が秘かに監視していた。アレックスとチャドの存在に気付き、亡き者にすべく追っ手を差し向けるグリフィスとザングの一味。果たして、兄弟は親の仇を取ることが出来るのか…!? ヴァン・ダムは成功しても義理人情に厚い男だった! 実は、主人公のアレックスとチャドには、それぞれ名前の由来となった人物がいる。まずアレックスの元ネタは、ヴァン・ダムの恩人であり芸名(本名はジャン=クロード・カミーユ・フランソワ・ヴァン・ヴァレンバーグ)の由来となった人物ポール・ヴァン・ダムの息子アレックス。ベルギーの裕福な実業家だったポール・ヴァン・ダム氏は大の格闘技マニアで、知り合った当時まだ17歳だったヴァン・ダムの実力を高く評価し、なにかと金銭的な面倒を見てくれていたらしい。一時期、彼は香港へ渡ってカンフー映画スターを目指したこともあるのだが、その渡航費などを提供してくれたのもヴァン・ダム氏だったようだ。その際、一緒に香港へ同行したのが氏の息子アレックス。君はいつか必ず有名な映画スターになる!と背中を押してくれた恩人に対する、ヴァン・ダムからのささやかなオマージュだったのだろう。 一方のチャドは、無名時代のヴァン・ダムと親友だったチャド・マックイーンが元ネタ。そう、あのスティーヴ・マックイーンの子息である。彼もまた下積み生活を送るヴァン・ダムを励まし、あちこち遊びにも連れ出してくれたという。受けた恩は決して忘れない。そんな義理堅いヴァン・ダムの真面目な性格を、主人公たちのネーミングから伺い知ることが出来ると言えよう。 ヴァン・ダムの義理堅さといえば、本作のキャストやスタッフの顔ぶれにもよく表れている。例えば、ザングの用心棒である怪力マッチョ男ムーンを演じている香港俳優ボロ・ヤン(ヤン・スエ)。『燃えよドラゴン』(’73)の悪漢ボロ役で世界的に知られ、筆者世代の日本人にはテレビドラマ『Gメン’75』の香港空手シリーズでもお馴染みのカンフー・スターだ。ヴァン・ダムとは前作『ブラッドスポーツ』でも共演。その際にヴァン・ダムは、「次は必ずもっと大きな映画で呼ぶから」と約束したそうだが、本作ではそれをちゃんと守ったのである。ちなみに、ボロは英語がほとんど喋れず、なおかつ優しいトーンの声だったため、セリフは全て別人がアフレコで吹き替えている。 また、アレックスが隠れ家にしている麻雀店の店長マーを演じているカメル・クリファは、ヴァン・ダムとは13歳の頃からの付き合いである長年の大親友。『ブラッドスポーツ』の大ヒットで名を成したヴァン・ダムは、当時ベルギーでレストランを経営していたクリファをパーソナル・トレーナーの名目でハリウッドへ呼び寄せ、『ライオンハート』以降の多くの出演作に役者としても起用。本作からはプロデューサーとして製作にも携わるようになった。レティック監督とのパートナーシップも同様だが、決して自らの成功を独り占めにはしない、それもまたヴァン・ダムの義理堅さである。 さらに、ウエスタン・ブーツのかかとに仕込んだ拍車を武器にするグリフィスの用心棒を演じるピーター・マロータは、アルバニア出身の有名なテコンドー師範。ヴァン・ダムとは以前から顔見知りだったそうだが、テコンドーの講習会を開くためパリに滞在していたところ、ちょうど『ライオンハート』のプロモーションで訪仏していたヴァン・ダムとたまたま遭遇し、本作の用心棒役およびスタント・コーディネーターをオファーされたという。彼もまた、これ以降『ユニバーサル・ソルジャー』(’92)や『ボディ・ターゲット』(’93)、『クエスト』(’96)などなど、俳優兼スタント・コーディネーターとしてヴァン・ダム作品に欠かせない常連組となり、『ジャン=クロード・ヴァン・ダム/ファイナル・ブラッド』(’17)では監督にまで進出している。 本国アメリカ側とロケ地・香港側でバトルが勃発!? 主なロケ地となったのは、ヴァン・ダムにとって個人的な思い入れも深い香港。現地での撮影コーディネートは『キックボクサー』でも組んだ地元プロデューサー、チャールズ・ワンが取り仕切り、観光客が足を踏み入れることのないディープなロケ地から格闘技の心得のあるエキストラまで、なんでも格安ですぐに調達してくれたという。ところが、この香港側のワン氏とアメリカ側のプロデューサー陣との間で対立が勃発し、撮影途中で香港から引き揚げなくてはならない事態となる。アメリカ側はワン氏のことが信用ならないと主張したのだが、しかしレティック監督によると本当の問題はアメリカ側にあったらしい。 本作の製作を手掛けたストーン・グループ・ピクチャーズは、先述したモシュ・ディアマントと俳優マイケル・ダグラスが共同出資して立ち上げた製作会社。当時、ストーン・グループでは元アメフト・スター選手ブライアン・ボスワース主演のアクション映画『ストーン・コールド』(’91)と『ダブル・インパクト』の2本を同時進行で製作していたのだが、会社的にはボスワースを第2のシュワルツェネッガーに育てるという目論見もあって、本作よりも『ストーン・コールド』の方に力を入れていたという。そのため、実は『ダブル・インパクト』の予算をこっそり『ストーン・コールド』に回していたらしく、それにワン氏が気付いてしまったことから対立に発展したというのだ。 事情を知ったヴァン・ダムもレティック監督もワン氏の味方に付いたものの、結局はアメリカ側の強引な独断によって香港から撮影隊を撤収することが決定。とりあえず屋外シーンのロケだけは全て香港で済ませ、残りの屋内シーンはロサンゼルスで撮影されたのである。ただし、蓋を開けてみれば予算2500万ドルの『ストーン・コールド』は世界興収900万ドルという超大赤字。ボスワースを第2のシュワルツェネッガーに育てることは叶わなかった。一方の『ダブル・インパクト』は予算1500万ドルに対して、世界興収3000万ドルというスマッシュヒットを記録。改めてヴァン・ダムのスター・パワーを見せつける結果となった。 ちなみに、本作には最終版でカットされた幻の別エンディングが存在する。全てが終わってアメリカへの帰路に就いたチャドとフランク。ロサンゼルス行きの旅客機に乗った2人に声をかける客室乗務員を見ると、なんとアレックスの恋人ダニエルと瓜二つではないか!えっ、もしかしてダニエルにも実は双子の姉妹がいたの…!?と、チャドとフランクがビックリ仰天したところでジ・エンドとなる。■ 『ダブル・インパクト』© 1991 Orion Pictures Corporation. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2023.02.24
1973年の大事件を描いた『ゲティ家の身代金』が、2017年を象徴する映画となった経緯
1973年7月、イタリアのローマで起こった、ある少年の誘拐事件は、遠く離れた日本でも、大きなニュースとなった。当時小学3年生だった私も、鮮明に覚えているほどに。 人々の関心を引いたのは、要求された身代金が、1,700万㌦(約50億円)と桁違いだったから?そして、誘拐された少年の祖父が、資産5億㌦(約1,400億円)を誇る石油王だったから? いやいや、それだけではない。この事件が多くの人々を驚かせたのは、「大金持ち」である祖父の、異常としか言いようがない、振舞いだった。 それから44年。その事件を題材に書かれたノンフィクションを映画化したのが、本作『ゲティ家の身代金』(2017)である。 監督を務めたのは、現代の巨匠の1人、リドリー・スコット。クランクイン時の主なキャストは、ミシェル・ウィリアムズにマーク・ウォールバーグ。そして、ケヴィン・スペイシーという、布陣だった…。 ***** ローマの街角で突然拉致された、16歳のジャン・ポール・ゲティ三世。彼を誘拐した者たちの狙いは、三世の祖父で、フォーチュン誌によって「世界初」の億万長者に認定されたアメリカ人石油王、ジャン・ポール・ゲティの資産だった。 三世の母ゲイルは、今は三世の父=ゲティの息子とは離婚している身であったが、身代金は義父だったゲティに頼る他ない。しかしゲティは、莫大な額の要求を、にべもなくはねつける。「応じれば、他の孫も誘拐の標的になる」 シレッと言ってのけるゲティに対して、ゲイルは呆然とする他なかった。 ゲティはその一方で、自分の下で働く元CIAのチェイスを召喚し、誘拐犯との交渉を指示。彼をゲイルの元へと、向かわせた。 調査によって、三世本人による偽装誘拐の疑いも浮上。そんなこともあって、交渉は遅々として進まない。ゲイルの苛立ちは、日々募っていく。 誘拐犯たちにも、焦りが生じる。このままでは埒が明かないと見た彼らは、他の犯罪グループに、三世の身柄を売り渡す。 美術品に大枚を投じても、身代金の要求には一切応じないゲティに、ゲイルの精神は追い詰められていく。そんな彼女に同情したチェイスは、自分の雇い主であるゲティに、反発心を抱くようになる。 犯罪グループは、ゲティらに揺さぶりを掛けるため、遂に非情な手段に乗り出す。ある日彼らから届いた郵便を開けると、そこには切り落とされた、人間の耳が入っていた…。 ***** 屋敷を訪れた者が電話を掛けたいというと、邸内に設けた公衆電話へと案内し、その料金を負担させる。高級ホテルに宿泊中も、ルームサービスは「高い」と忌避。滞在中の洗濯物は自分で洗って、室内に吊るして乾かす…。 映画の中で描かれる、億万長者とはとても思えないような、こうしたゲティの吝嗇ぶり。そのすべてが事実に基づいたものと聞くと、ただただ驚き呆れてしまう。 当初は1,700万㌦を要求されていた、孫の身代金も、その5分の1以下の320万㌦まで値切る。それでも全額を払うことはなく、支払ったのは所得から控除できる最大限度額の220万㌦まで。身代金を、“節税”に使ったわけである。 その上で足りない額は、誘拐された三世の父である、自分の息子に貸し付ける形を取る。4%の利子を付けて…。 ゲティは生涯で5回結婚し、5人の息子を儲けた。愛人も多数いたというが、こんな男である。まともな愛情表現は望むべくもなく、息子たちをはじめその係累には、不幸な人生を歩んだ者が、少なくない。 一体どうして、こうした人物が出来上がってしまったのか?それだけで1本の映画が作れそうな気もするが、監督のリドリー・スコットの関心は、そこにはあまりない。息子の誘拐犯とだけではなく、このモンスターのような義父と対峙せざるを得なかった、ゲイルの“気丈さ”にこそ、スコットは注目する。 出世作『エイリアン』(79)で、シガニ―・ウィーヴァ―演じるリプリーという、強い女性キャラを生み出した。『テルマ&ルイーズ』(91)では、女性2人を主人公にした「90年代のアメリカン・ニューシネマ」を、世に放っている。本作でのゲイルの描き方は、そんなスコットの、面目躍如と言うべきだろう。 ゲイルを演じたミシェル・ウィリアムズは、スコットの期待によく応えてみせた。それに比すれば、元CIAのエージェントを演じたマーク・ウォールバーグは、些か精彩に欠ける。 さて先に本作に関して、クランクイン時のメインキャストは、ウィリアムズにウォールバーグ。そして、ケヴィン・スペイシーだったことを、記した。しかしご覧になればわかる通り、本作にスペイシーの姿は、影も形もない。 2017年5月にスタートした撮影で、当時50代後半だったスペイシーは、特殊メイクを施して、80代のゲティを演じた。撮影は順調に進み、8月末にはすべて終了。あとは12月末の公開に向けて、仕上げを急ぐだけだった。 ところが10月末に、大問題が発生する。かつてケヴィン・スペイシーが、14歳の子役にセクハラを行っていたことが、報道されたのである。これは氷山の一角で、スペイシーに対してはこの後、多くの男性から同様の告発が行われた。 折からハリウッドでは、プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタインによる、数多の女優、女性スタッフへの長年の性暴力が発覚。「#MeToo運動」に火が点いたタイミングであった。 11月8日、スコットはスペイシーの出演シーンを、すべてカットすることを決断。同時に、作品の完成を延期や中止することなく、12月末の公開を予定通りに行うことも、決めた。 そこでスペイシーの代役として、クリストファー・プラマーを起用。撮り直しを行うこととなった。 再撮影は11月下旬、僅か10日足らずのスケジュールで行われた。ミシェル・ウィリアムズやマーク・ウォールバーグは、1度スペイシーと共に演じたシーンを、プラマーとやり直すこととなった。一部ロケ映像に関しては、セットで撮影したプラマーの演技を、スペイシー版の映像と合成するという処理を行っている。 プラマーは、役作りに掛ける時間はほとんどなく、また先に撮影したスペイシーの演技を参考にすることもなしに、ゲティを演じた。見事にハマったのは、当時88歳の老名優の実力という他ない。さすが、長いキャリアの中でアカデミー賞、エミー賞、トニー賞の演技三冠を受賞している、数少ない俳優の1人である。 付記すれば本作でプラマーは、アカデミー賞の助演男優賞の候補に選ばれた。受賞は逸したものの、演技部門でのノミネートでは、史上最年長の記録となった。 さてこれで本作に関するトラブルは、無事収拾…と思いきや、公開後に更なる火種が燃え上がった。新たに浮上したのは、ハリウッドに於ける「男女格差」である。 再撮影のため、本作には1,000万㌦の追加経費を投入。しかしプラマー以外の俳優は“再撮影”に関しては、「ただ同然」のギャラで協力したと言われていた。 実際にミシェル・ウィリアムズに支払われたのは、1,000㌦以下。しかしマーク・ウォールバーグに関しては、“再撮影”で新たに150万㌦ものギャラが支払われていたことが、2018年の1月になって判明したのである。 1,500倍もの賃金格差が生じたのは、まさに「差別」に相違なく、「#MeToo」の流れにも連なる。契約を盾に高額ギャラを要求したと言われるウォールバーグには、非難が集中した。 結果的にウォールバーグは、150万㌦全額を、「#MeToo」運動の基金に寄付。後に「自分の配慮が足らなかった」と、反省の弁を述べている。『ゲティ家の身代金』は、総製作費5,000万㌦に対し、全世界での売り上げは5,700万㌦ほどに止まった。興行的には「不発」という他ない成績だが、製作者の意図とは無関係なところで、2017年からのハリウッド=アメリカ映画界の流れを、象徴する作品となってしまったのである。 誘拐を奇貨にして、さらわれた孫の親権まで奪おうと企てる、怪物的な男性ゲティに、一歩も退くことなく立ち向かった、勇敢な女性ゲイル。そうした物語の構図が、本作に襲いかかったアクシデントと、期せずしてダブる部分も、大いにあるようには感じるが。■ 『ゲティ家の身代金』© 2017 ALL THE MONEY US, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.