COLUMN & NEWS
コラム・ニュース一覧
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COLUMN/コラム2016.07.19
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2016年8月】タラちゃん
ホラー映画といえば、「ジェイソン」(『13日の金曜日』シリーズ)、「チャッキー」(『チャイルド・プレイ』シリーズ)など、数多くの名キャラクターを生み出してきましたが、本シリーズの主役である「フレディ」もその一人です。1984年に制作された『エルム街の悪夢』は、公開されるや否や話題を呼び大ヒット、合計7本の続編が作られ、2003年には『フレディvsジェイソン』として、二大悪役の対決も実現しました。そんなホラー映画の金字塔的作品をリブート(再映画化)したのが、本作です。 監督はシリーズの生みの親であるウェス・クレイブンからミュージック・ビデオを手掛けてきたサミュエル・ベイヤーへ、フレディ役もロバート・イングランドからジャッキー・アール・ヘイリー(『リトル・チルドレン』、『ウォッチメン』)にバトンタッチ。第1作から30年の時を超え、発達したCG技術で殺りくシーンはよりリアルに、よりグロテスクに…!オリジナルの原型を保ちつつ新たな描写やストーリーを盛り込んでいます。フレディ誕生のルーツも確認でき、オリジナルとは若干異なるので、シリーズのファンの方も、初めての方でも十分楽しめる作品です。今を時めく女優ルーニー・マーラ(『ドラゴン・タトゥーの女』『キャロル』)が主人公のナンシーを務めているのも要チェック! 人の夢の中に現れ、襲い掛かるフレディ。ホラー映画を観ていると「人のいるところへ逃げて!」「助けを求めて!」と画面の人物に向かってつい叫びたくなりますよね。しかし、そんなものは通用しません。レストランであろうが、学校の教室であろうが、恋人と眠るベッドの中であろうが、眠ってしまえばたちまち夢の中、あいつが襲い掛かってきます!眠れずに、どんどん目の下にクマができ、憔悴しきってゆく主人公たちに感情移入せずにはいられません。観終わった後に、不眠症になった方も多いのでは…?この〈絶対に逃げられない、誰も助けられないコワさ〉こそが、本作の最大の魅力なのです。ご覧になる前に十分な睡眠をとってから(笑)ザ・シネマでご堪能ください! TM & © Warner Bros. Entertainment Inc.
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COLUMN/コラム2016.07.15
【未DVD化】伝説の未DVD化作品、そのあまりにも衝撃的な終わり方は、実はニューシネマの文脈にのっとったものだった〜『ミスター・グッドバーを探して』〜
【注】このテキストは解説の必要上、本作品のラストシーンと、それを構成する細部について触れています。ネタバレを憂慮される方は、観賞後にお読みになられることをお勧めします。 ■ハリウッドが「女性の自主性」に迫った革命的作品 修士号を得るために真面目に勉強するかたわら、夜は男を求めて独身男性の集う酒場「ミスター・グッドバー」に足を運び、情交を重ねる女子大生テレサ(ダイアン・キートン)ーー。現在、この1977年製作の映画『ミスター・グッドバーを探して』に触れるとき、我々は身近に起こったひとつの出来事を、好悪の感情にかかわらず照らし合わせしまう。その出来事とは、1997年に国内を騒然とさせた「東電OL殺人事件」だ。 大手企業の女性社員が花街に身を投じ、アパートの一室で何者かに絞殺されたこの未解決事件。世間の関心は誰が彼女を殺害したのかという真実以上に、満ち足りたエリートが夜な夜な売春行為を繰り返す、容易には理解しがたい二面性の謎へと注がれた。こうした被害者の境遇が奇しくも『ミスター・グッドバーを探して』の主人公・テレサのそれと酷似していたことから、以降、本作を同事件の予見者であるかのように捉えた評をよく目にする。さらには我が国において本作がDVD化されないことも、事件の異質さとネガティブに結びつけられる傾向にあるようだ(国内未リリースは、単に権利上の問題なのだが)。 もっとも、この『ミスター・グッドバーを探して』も、実際の事件をもとに描いた小説が原作である。ジュディス・ロスナーによって執筆された同著(小泉喜美子訳、ハヤカワ文庫:現在廃刊)は、ろうあ児施設の女性教師を務めていたローズアン・クインが何者かに殺害されるという、1973年にニューヨークで起きた殺人事件から着想を得たものだ。そのためこの映画が、現実の出来事と関連づけられるのは宿命といえるかもしれない。 しかし、本作は決して実録事件簿のような、覗き見的な好奇心を満たすものではない。ハリウッドが「女性の自主性」について言及した初期の意欲作として、映画史において非常に重要な位置に立っている。 女性が運命を耐え忍び、恋に身を焦がすメロドラマ構造を持った「女性映画」は、1930年代のハリウッド黄金期から作り続けられてきた。しかし、女性の自立や自主性に言及した作品は、男性主権がまかりとおるメジャースタジオの特性も手伝い、積極的に発信されることはなかったのである。 だが1960年代半ばから、アメリカではウーマン・リブ(女性解放運動)の波が大きな高まりを見せ、映画における女性の立場や、それを観る女性客の反応といったものに、ハリウッドも無関心ではいられなくなっていたのだ。 社会のしがらみから我が身を解放させ、カジュアルセックスに没頭する奔放な女性像を、はたして同性はどう受け止めているのかーー? 本作の監督であるリチャード・ブルックスは、原作を読んでいた約600人の女性に対してインタビューをおこない、得たデータを映画にフィードバックすることで、女性の心情に寄り添う作品の成立に寄与している。 ブルックス監督はこの映画で、現代的な女性像に肉薄しようと試み、それに成功したのだ。 ■トラウマを与える衝撃的なラストシーンの真意 しかし、このような作品の成り立ちを説明してもなお、本作に対する好奇先行の見方を容易には修正できない。 その最大の原因は、衝撃をもって観る者を絶望の深淵に沈めるラストシーンにある。テレサが行きずりの男性ゲーリー(トム・ベレンジャー)に刺殺されてしまうあっけない幕引きは、観た者の多くに「トラウマ映画」と言わしめるほど、あらゆる要素にも増して突出しているのだ。 この衝撃のラスト、じつはロスナーの原作小説に準じたものではない。原作ではテレサの殺害は序文で詳述され、物語はその結末へとたどりつく「ブックエンド形式(始めと終わりを同一の事柄で挟む構成)」になっている。来るべき主人公の死が読者の念頭に置かれることで、悲劇がゆっくり時間を経て増幅されることを、作者であるロスナー自身がもくろんでいるのだ。 映画版はそれとは対照的で、テレサの死の描写をクライマックスのみに一点集中させることにより、あたかも自分が唐突な事故に遭ったかのような、無秩序な恐怖感やアクシデント性を受け手に与えるのである。 そんなラストシーンのインパクトをより高めているのが、過剰なまでに明滅の激しい照明効果だろう。 ハリウッドを代表する撮影監督のインタビュー集『マスターズ・オブ・ライト/アメリカン・シネマの撮影者たち』(フィルムアート社:刊)の中で、本作の撮影を手がけたウィリアム・フレイカーが、このラストシーンの撮影を細かく振り返っている。氏によると、同シーンはブルックス監督が考案したもので、ストロボライトのみを光源とする実験的な手法が試みられている。結果、明滅の中でかろうじて認識できる流血や凶器、あるいはテレサの意識が遠のいていくさまを暗喩する闇の広がりや、フラッシュ効果の不規則なリズムなど、これらが観る者の不安をあおり、場面はより凄惨さを醸し出しているのである。 ブルックス監督は実在の殺人事件をベースにしたトルーマン・カポーティ原作の『冷血』(67)でも、窓ガラスをつたう雨水が実行犯ペリー(ロバート・ブレーク)の顔に重なり、あたかも彼が涙を流して告解するかのようなシーンを演出するなど、技巧派の一面を強く示していた。 こうした創作意識の高い職人監督による、映画ならではのアプローチが、件のクライマックスを必要以上に伝説化させているといえるだろう。 しかし、本作のラストがインパクトだけをいたずらに狙ったものかといえば、決してそうではない。映画は随所で鋭利なナイフの存在を象徴的に散らつかせ、最後への布石が周到に敷いてあることに気づかされるし、なによりもあの破滅型のラストシーンは、当時ハリウッドに大きな流れとしてあった「アメリカン・ニューシネマ」の韻を踏んだものに他ならない。 1960年代の後半から70年代にかけて巻き起こった、アメリカ映画の革命であるアメリカン・ニューシネマ。それまでのハリウッドは、映画会社の年老いた重役が実権を握り、ミュージカルや恋愛ものや史劇大作など、古い価値観に基づく映画が作り続けられていた。そのため高額の製作費とスタジオ設備の維持費がかさんで赤字となり、またテレビの普及によって観客は減少し、経営は悪化。メジャーの映画会社は次々とコングロマリット(複合企業)に買収されていったのだ。 なによりも、こうした保守的なハリウッド作品に、観客は興味を示さなくなっていた。60年代当時のアメリカは変革の波が国に及び、公民権運動やウーマン・リブ、ベトナム戦争による政府への不信感から若者がデモを起こしたりと、反体制の気運が高まっていたのだ。彼らにとってハリウッドが作る甘美な夢物語など、そこに何の価値も見出せなかったのである。 しかし、1950年代から頭角を現してきた独立系のプロダクションが、ピーター・ボグダノヴィッチやデニス・ホッパー、フランシス・コッポラやマーティン・スコセッシなど、水面下で新たな才能を育てていたのだ。そんな彼らが後に『俺たちに明日はない』(67)や『イージー・ライダー』(69)といった、登場人物が体制に反旗をひるがえし、若者たちが社会からの疎外や圧迫を共感できる作品を発表していく。 『ミスター・グッドバーを探して』は、そんなアメリカン・ニューシネマの文脈に沿い、同ムーブメントをおのずから体現している。自由意志のもとに行動する主人公も、抵抗の果てに力尽きて散るラストも、その証としてこれほど腑に落ちるものはない。 いっぽうでブルックス監督はこうしたアプローチを「現実的でリアルなものではなく、あくまで幻想的なもの」として実践していると、先の『マスターズ・オブ・ライト』でフレイカーが語っている。劇中、ときおり映画はテレサの心象風景とも回想ともつかぬイメージショットを多用し、物語を撹乱することで、観る者の意識を巧みにミスリードしていく。テレサが殺されるシーンにも先述の手法が施されていることから、本作は全体的にリアルを標榜しているというよりも、どこか幻想的な趣が感じられてならない。 そのため、このドラマのクライマックスは多様な解釈を寛容にする。受け手によっては、テレサの死は彼女のただれた生活を道徳的に戒める「因果応報」のようなものだと厳しく解釈することもできるし、また「死によってテレサはさまざまな苦悩から解放されたのだ」とやさしく受け止めることもできるのだ。 国内でDVD化が果たされず、センセーショナルな印象だけが先行している『ミスター・グッドバーを探して』。だが、ザ・シネマで作品に触れる機会が得られたことで、本作が単なる実在事件の追体験ではないことを、多くの映画ファンに実感してほしい。■ COPYRIGHT © 2016 PARAMOUNT PICTURES. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2016.07.15
ステイ・フレンズ
ニューヨーク。人材スカウトのジェイミーは、ロサンゼルスで生まれ育ったアートディレクターのディランを雑誌「GQ」のためにヘッドハントすることに成功する。これをきっかけに飲み友達になる二人だったが、互いに恋人と別れたばかりなことを知って「恋愛関係には絶対ならない」ことを条件にセフレに。だがそれぞれが沸き起こる感情を否定しようとしたことから、二人の仲はこんがらがりはじめてしまい……。 大勢の人が集まる大都会。でも皆忙しいから恋人を見つけることは難しい。そして恋愛がいつか終わりを告げることを考えると、そうした関係はなかなか面倒臭いものである。でもセックスはしたい ……。こうした現代の恋愛事情を、フラッシュ・モブやアプリといった今どきのツールを交えて描いたロマンティック・コメディが『ステイ・フレンズ』だ。 監督は、『小悪魔はなぜモテる?!』(10年)のヒットによって、新世代のコメディ作家と目されるようになったウィル・グラック。エマ・ストーンが映画冒頭でディランを振るガールフレンドとして特別出演しているのは、彼女が『小悪魔』の主演女優だからだ。こんな小さな役でもスターのエマが出演してくれるということは、グラックに「この人と仕事を続けたい」と思わせる才能と人間的な魅力が備わっているのだろう。本作でもグランド・セントラル駅やタイムズスクエアといったニューヨークの名所の風景や、水上ボートの疾走シーンを盛り込んで映像にメリハリを付けているところに彼の才能を感じる。 とはいえ、プロットの関係上、ベッドシーンが多くを占める本作において、最も重要なのは主演のふたりだ。しかも大画面に耐える美しいボディを備えながら、ユーモラスに見せなければいけないのだから、下手な文芸大作よりも演じるのが難しい。この難しい役に抜擢されたのがジャスティン・ティンバーレイクとミラ・クニスだった。 音楽活動におけるスーパースターのイメージの方が断然強いティンバーレイクだけど、レコーディングやツアーの合間に俳優活動も精力的に行っている。『TIME/タイム』(11年)や『ランナーランナー』 (13年)といった主演作のほか、『ブラック・スネーク・モーン』 (06年)や『ソーシャル・ネットワーク』 (10年)、『インサイド・ルーウィン・デイヴィス』 (13年)などでは脇で光るキャラを演じたりと、シンガーの余技を超えた演技力を持つ男だ。 コメディへの取り組みも「イケメンがちょっとふざけてみました」というレベルを遥かに超えている。ティンバーレイクはこれまで老舗お笑い番組『サタデー・ナイト・ライブ(SNL)』で5回司会を担当しているのだが、40年以上の歴史で16人しかいない「司会を5回以上務めたスター」の中で80年代以降に生まれたのは彼だけだ。 この番組を通じて、レギュラー出演者だったアンディ・サムバーグ(ミラ・クニスを振る男として本作冒頭にゲスト出演していのが彼だ)とは親友となり、ふたりで演じたデジタルショート(ビデオ撮りのネタ)の数々は名作として『SNL』の歴史に輝いている。 また『SNL』出身のレジェンドであるマイク・マイヤーズとは、『シュレック3 』(07年)と『愛の伝道師 ラブ・グル 』(08年)で共演。ここで伝授された笑いのノウハウを、元カノのキャメロン・ディアスとリユニオンした『バッド・ティーチャー』 (11年)では全開させていたりと、「安心してコメディを任せられる」俳優としてハリウッドで認められているのだ。本作でも仕事が出来るイケメン設定でありながら、スイカを食べて下痢したり、数字の計算が超苦手というキャラをイヤミなく演じてのけている。 そんなティンバーレイクに対するヒロインを演じているのがミラ・クニスだ。彼女のことを知ったのがナタリー・ポートマンのライバルを演じたダーレン・アロノフスキー監督のバレエ映画『ブラック・スワン』(10年)という映画好きは多いはずだ。世界的にもそうした認識だったのか、この作品でミラは第67回ヴェネツィア国際映画祭で新人賞にあたるマルチェロ・マストロヤンニ賞を受賞しているのだが、この快挙にアメリカ人は笑い転げたはずだ。 というのも、彼女は70年代を舞台にしたレトロ調テレビ・コメディ『ザット'70sショー』(98〜06年)で人気者になってから既に10年以上のキャリアを誇っていたからだ。同じ頃始まったアニメ『Family Guy』(99年〜)に至っては、一家の長女メグの声優を今なお務め続けている。 この番組のクリエイターだったのがセス・マクファーレン。彼が映画進出作『テッド』(12年)のヒロイン役にミラを指名したのは、長年の共演から得た彼女のコメディ・センスへの信頼感ゆえだったのだ。そのセンスは本作以外でも、ジェイソン・シーゲル(今作の劇中映画に特別出演している)と共演した『寝取られ男のラブ♂バカンス』(08年)や『デート & ナイト』(10年)といったコメディでも十二分に発揮されている。 このふたりを中心に、ウディ・ハレルソンやパトリシア・クラークソン、リチャード・ジェンキンズといったオスカー受賞/ノミネート俳優たちが周辺に配され、それぞれ同性愛者、恋愛依存症、アルツハイマー病患者を演じることによって、映画には重層的な視点が加わっている。それによって映画では人生を謳歌する術としてのセックスが語られる。だから本作、下ネタ満載でエッチではあるけど全然いやらしくはないのだ。 とはいえ、本作を観ても、セフレから本当の恋人になるなんて、映画の中だけの絵空事と思うかもしれない。でも実際にそうしたことが起きるのだ。その証拠に格好の具体例を挙げてみよう。 『ステイ・フレンズ』と同じ年に、ベテランのアイヴァン・ライトマンが監督した『抱きたいカンケイ』というやはりセフレを題材にしたロマンティック・コメディが公開されている。主演は、ミラがライバル役を演じた『ブラック・スワン』(10年)の主演女優ナタリー・ポートマン、そしてアシュトン・カッチャーだった。 カッチャーは、日本では『バタフライ・エフェクト』(04年)や『ベガスの恋に勝つルール』(08年)、伝記映画『スティーブ・ジョブズ』(13年)で知られている俳優だけど、元々の出世作はミラと同じ『ザット'70sショー』である。しかもそこで彼が演じていたマイケルは、ミラ扮するジャッキーとくっついたり別れたりを繰り返していたのだった。ふたりの相性があまりに良かったことから、番組のファンは私生活でも付き合って欲しいと願っていたそうだが、この時点ではふたりは単なる仲の良い友人同士だった。 ところが『ステイ・フレンズ』と『抱きたいカンケイ』が公開された翌年、ふたりの関係は急展開する。ある授賞式でふたりは久しぶりに再会。ミラが長年交際していた『ホーム・アローン』の名子役マコーレー・カルキンと別れたばかり、カッチャーが05年に結婚したデミ・ムーアと破局したばかりなことを知ったふたりは、「昔から知ってる仲間だから友情が壊れることもない」とセフレになったのだ。でも映画同様、ふたりとも相手が別の人間とデートするのを嫌がるようになり、12年には真剣交際を開始。ウィル・グラックが監督したリメイク版『ANNIE/アニー』に揃ってカメオ出演した14年には婚約および第一子が誕生。15年には正式に結婚している。現在ミラはカッチャーとの第二子を妊娠中だ。セフレから生まれる真実の愛は実在するのである。 Copyright © 2011 Screen Gems, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2016.07.09
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2016年8月】にしこ
サスペンスの王様、アルフレッド・ヒッチコックのごく初期の初期の作品。もちろん期待に応えます!スピーディーな展開で最後までハラハラさせるサスペンスです。 19世紀末のロンドン。火曜の夜にブロンド女性が殺されるという連続殺人事件が発生。ロンドンの街は恐怖のどん底に!下宿屋を営む夫婦にもキュートなブロンドの一人娘デイジーがおり、夫婦は気をもんでいたがデイジーに思いを寄せる男、刑事のジョーは彼女の両親に「自分がいるから大丈夫」アピール。ある日、マントに身を包んだ不気味な男が部屋を貸してほしいと夫婦が営む下宿を尋ねてくる。夫婦は怪しく思いながらも彼に部屋を貸すが、彼が火曜の夜に家を抜け出していくのを不審に思い始める。さらに一人娘のデイジーがその男と段々親密になってきて…!! ぎーやぁーーーーー!!! という感じでして、70分強の作品なのですがこれが最後まで犯人がわからずひやひやします。さらに言うとこの作品、サイレントなんです!!最低限のセリフと本当に最低限の状況描写だけがテロップでたまーに出てくるだけで、あとは全て画作りで観客に内容を理解させ、さらにハラハラまでさせるんですから、「ヒッチコック、鬼やべぇ」のひとことです。 下宿人がいかに怪しげな男かを演出する為に、いろんな飛び小道具でサスペンスフルに仕立てているのもお見逃しなく。監督自身が観客を怖がらせようと楽しんで作ったのが感じられる素敵な1本です。
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COLUMN/コラム2016.07.08
“高尚な趣味のOL”御用達の退屈文芸監督と思ったら大間違い。ジョー・ライト監督、その異常ともいえる美意識の高さと、狂気じみた映像へのこだわり〜『アンナ・カレーニナ』〜
ジョー・ライトという監督がマニアックに語られることが少ないのはなぜなのか。長編デビュー作がジェーン・オースティンの恋愛小説が原作の『プライドと偏見』(2005)であったり、『つぐない』(2007)、『アンナ・カレーニナ』(2012)と文芸路線が多いことから高尚な趣味のOL御用達だと思われているのだろうか(高尚な趣味のOLという存在自体がもはやファンタジーだが)。 『プライドと偏見』は2000年代でも屈指の「衝撃デビュー」だったと思うのだが、日本公開時の宣伝は完全に女性に向けたラブストーリー扱いで、ジョー・ライトの狂気じみた映像へのこだわりは語られることが少なかった。 いや、もちろん『プライドと偏見』はラブストーリーとしても素晴らしい。その一方で、映画好きなら垂涎の映像表現や演出が詰まっていることが伝わらないままスルーされてしまった印象がある。 ジョー・ライトの最大の個性は、あらゆることを「画と音」で伝えようという強迫観念に似た執念である。『プライドと偏見』は出会った瞬間からそりが合わない男女の恋を描いたラブコメの原典だが、18世紀当時のイギリスの階級社会や文化が登場人物の思考や立ち位置を決定づけている。ライトが試みたのは、コミュニティのヒエラルキーの全容と男女の誤解、にもかかわらず芽生える恋心のはじまりをひっくるめて、舞踏会のワンシーンだけで表現してしまうことだった。 映画序盤でかなりの尺をもって描かれる舞踏会は長回しのカメラと出演者の演技が緻密に振り付けられ、シーンまるごとが壮大な群舞となった。これほどの情報量をビジュアルの力で伝えきった豪腕に「天才監督あらわる!」と興奮したことが忘れられない。 監督二作目の『つぐない』は幼い少女の誤解によって引き裂かれてしまう恋人たちを描いたメロドラマだが、第二次世界大戦の激戦「ダンケルクの撤退」を描いた5分半もの長回しで語り草になった 英仏33万人の将兵がドーバー海峡を渡ってイギリスに退却した最前線での混沌を圧倒的な物量で描いた壮麗なワンショットは、映画全体のトーンからハミ出ているがゆえに運命を翻弄する「戦争」の巨大さを象徴していた。 長回しといえばデ・パルマ、最近ではキュアロンかイニャリトゥの名前が挙がるのが通例だが、ライトは『つぐない』に限らずどの監督作でも凝りに凝った長回しを披露している。本人が「ひけらかすのが好きなんだ」と自嘲まじりに笑い飛ばすトレードマークであり、シーンのメイキングだけでも一冊の本ができてしまいそうである。 また「音楽」への執着もジョー・ライト作品の特徴だ。前述の舞踏会は言うに及ばず、『つぐない』の恋文を打つタイプライターがビートを刻みテンションを高めていくモダンさは、ありふれた「文芸映画」のイメージを軽々と飛び越える。『路上のソリスト』(2009)はまさに音楽家の物語だったし、成功作とは言えないにせよ『PAN~ネバーランド、夢のはじまり~』(2015)でニルヴァーナをぶっ込んだ遊び心も強烈だった。 現時点でのジョー・ライトの最高傑作を決めるつもりはないが、『アンナ・カレーニナ』はジョー・ライト的映画術がこれでもかと詰め込まれた、集大成と呼ぶべき濃密作であることは間違いがない。 原作はロシアの大文豪トルストイの代表作。タイトルだけは誰もが聞いたことがあるはずだが、知名度のわりに概要を知っている人は少ないので簡単に説明しておこう。 舞台は1870年代の帝政ロシア。ざっくり言えば上流階級の貞淑な若妻アンナ(キーラ・ナイトレイ)が、イケメン将校ヴロンスキー(アーロン・テイラー・ジョンソン)との不倫愛にのめり込み破滅へと突き進んでいく悲劇である。 若い農場主リョーヴィン(ドーナル・グリーソン)と若い娘キティ(アリシア・ヴィキャンデル)の純朴な恋模様や、アンナの兄の浮気騒動といったサブプロットもが同時進行するが、基本はアンナと愛人と夫の三角関係の愛憎劇。ただし当時のロシア社会への批判、トルストイの理想と現実にまつわる考察が込められていて、当然ながらただの不倫メロドラマではない。 トルストイの原作自体が文学史上の傑作とされており、過去にはグレタ・ガルボ、ヴィヴィアン・リー、ソフィー・マルソーらの主演で何度も映像化されている。言わばさんざん手垢が着いているからこそ、ライトは前代未聞のアプローチを見つけ出した。240に上るシーンの大半を、たったひとつのセットで撮ってしまったのだ。 企画当初はロシアで撮影しようとロケハンにも行ったが、現地で「ここで『アンナ・カレーニナ』を撮るのは7本目ですね」と言われて方針を180度変えた。朽ちかけた劇場のセットを建てて、シーンの違いを舞台装置によって表現しようというのだ。 むろん劇場での演劇をそのまま撮影するわけではない。ひとつの建物がまるごと、アンナたちが暮らしているロシア社会に見立てられているのである。ステージや客席は華やかな社交や場となり、天井裏はうらぶれた路地や貧者の家になる。スケートリンクから競馬のパドックまで、衣装の早替えのようにシーンが移り変わっていく様はまるで魔法を見ているかのようである。 セットを「劇場」にしたのには明快な理由がある。登場人物の誰もが社会という枠に押し込められて、与えられた役割を演じながら生きているから。アンナは虚飾に満ちた世界から逃れるようにヴロンスキーとの逢瀬にすがりつくが、もがけばもがくほど世間の反感を買って生きるスペースが狭まっていく。劇中に「観客」が登場しないのは、彼らは出演者であると同時にお互いを見張る観客でもあるからだ。 ギミックを凝らした過剰さに眩暈を起こす人もいるかも知れないが、映像や美術の端々に込められた深い寓意には戦慄すら覚える。例えばアンナの息子の寝床はまるで額縁の中のようにデザインされていて、兄の家の子供たちの部屋は大きなドールハウスだ。まるで大人の都合で観賞用に閉じ込められた「箱の中の箱」である。 ライトがインスピレーションを得たのは子供の頃に夢中だった人形劇だそうだが、誰もが大きななにかに操られていると感じさせることでミニマムな空間からマクロな視点が生まれる。さらに盟友ダリオ・マイアネッリの音楽とシディ・ラルビ・シェルカウイの振付が加わり、流麗で饒舌な映像美に昇華されているのだ。 『プライドと偏見』をさらに進化させた舞踏会のダンスシーンは本作の白眉だが、直接ダンスが絡まない場面での手や首の優雅な動きにも目を凝らして欲しい。自然体とは対極にある誇張された動きだが、いかに雄弁に気持ちを語っていることか。本音をぶちまけることが許されなかった時代背景が、異常ともいえる美意識の高さに昇華されていて息が詰まるほどだ。 とはいえ同じことを現代劇でやるのは難しかっただろう。こういう形で演劇を取り入れた先例として木下恵介の『楢山節考』(1958)、エリック・ロメールの『聖杯物語』(1978)、ラース・フォン・トリアーの『ドッグヴィル』(2003)などが挙げられるが、いずれも時代物であり、虚構性を高めることで寓話としての強度を高めている。 『アンナ・カレーニナ』がそれらの先達と違うとすれば、キャラクターを戯画化していないことではないか。ひとりひとりをシンボライズするのでなく、矛盾に満ちたグレーな人間としてリアルに描く。しかしビジュアルや演技は徹底的にアンリアルという倒錯感を、ジョー・ライトという才気あふれる映画監督の気概と一緒に楽しんでいただきたいと思う。■ ©2012 Focus Features LLC
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COLUMN/コラム2016.07.02
フレンチ・リビエラの海岸でジーン・セバーグの太股が揺れる!! アメリカ人には不向きだったアナニュイな夏〜『悲しみよこんにちは』〜
ユベール・ド・ジバンシーと言えばオードリー・ヘプバーン。映画ファッション史に名を刻む2人のトレンドセッターが最初にコラボしたのは『麗しのサブリナ』(54)だが、時系列的にはそれから約4年後、『昼下りの情事』(57)でアリアンヌ役のオードリーか着る数点のドレスをデザインし終えた直後あたりに、ジバンシーが非オードリー作品に衣装デザイナーとして駆り出される。それが『悲しみよこんにちは』(58)だ。 映画はまるでジバンシー、もしくはジバンシー的ミニマリズムのオンパレード。彼が衣装を担当したどのオードリー映画より、オードリーがいない分、むしろジバンシー色が強いと言っても過言ではない程だ。なので、ここで衣装の解説に少し字数を割きたい。 冒頭でジーン・セバーグ演じるヒロインのセシルが着て現れる黒いベアトップのカクテルドレスは、もろ『麗しのサブリナ』でオードリーが着ていた"デコルテ・サブリナ"のアレンジ。両肩のリボンストラップを首元に移行させてはいるが、タイトな上半身と膨らんだパニエのドラマチックな対比、モノクロを意識したミニマルなシルエットは、どちらもジバンシーならでは。『悲しみ~』はストーリー展開に伴いカラーとモノクロをカットバックで切り替える手法だ。因みに、セシルやデボラ・カー扮するアンヌが身に付けるジュエリー類は、パリのハイブランド、カルティエとエルメスから提供されている。 セシルとデヴィッド・ニーブン演じる富豪でプレイボーイの父親、レイモンが夜な夜なパリの街に繰り出し、パーティに明け暮れる刹那的な冒頭シークエンスから、父娘が夏を過ごした1年前のフレンチ・リビエラに時間が巻き戻ると、画面は一転、モノクロからカラーにシフト。ここでカラフルなジバンシーファッションが一気に炸裂する。レイモンに招待されてコテージに現れる、後のフィアンセで、セシルにとっては継母になるはずだったアンヌがセシルにプレゼントする、胸にフローラル刺繍が施されたドレスを筆頭に、セシルと、レイモンまでが多用する(アンヌもやってる)シャツの裾結びとショートパンツの組み合わせ、セシルが履く楽ちんそうなバレエシューズ等々、否が応でもサブリナやアリアンヌを連想させる服と着こなしは、ジバンシー本人と、衣装コーディネーターのホープ・ブライスが場面毎にデザインまたは用意した品々。ブライスは本作の監督、オットー・プレミンジャー夫人で、夫が監督した計9作で衣装コーデを手がけている。ジバンシーのセンスとブライスの統括力のお陰で、映画はさながらジバンシーによるビーチリゾート・ファッションショーの趣きだ。 さて、ここらでファッションから映画の背景に話題を移そう。『悲しみよこんにちは』はフランソワ・サガンがブルジョワのアンニュイな生活と孤独を綴って作家デビューを飾ったベストセラー小説の映画化。これにインスパイアされたサイモン&ガーファンクルが、名曲"サウンド・オブ・サイレンス"を発表したとも言われる。確かに、父親の愛を繋ぎ止めるために、何の罪もないアンヌに惨い制裁を加えてしまうセシルが引き摺る後悔と、永遠に逃れられない孤独との共存を意味する映画のタイトルは、"S.O.S"の歌い出し"hello darkness my old friend~"と符合する。プレミンジャーは小説の世界観に魅せられ、映画化を決意。そして、完成した作品は、ヒッチコックの『泥棒成金』(55)と同じ ゴート・ダ・ジュールの海岸線や、オープンカーでのドライブ、ラグジュアリーなリゾートファッション等で共通するし、映画史的に見ると、1950年代のハリウッドではこの種のヨーロッパを舞台にした観光映画がちょっとしたブームだった。『ローマの休日』(53/ローマ)然り、『愛の泉』(54/同じくローマ)然り、『旅情』(55/ベニス)然り。 それは、当時のアメリカ人にとってヨーロッパはまだまだ遠く、いつか訪れてみたい憧れの地だったからだろう。そのため、作られた映画はほぼ間違いなく、旅には付きもののラブロマンスと決まっていたものだ。でも、『悲しみよこんにちは』は少しテイストが異なる。南仏でのバカンスを無邪気に楽しむレイモンとセシルが、遊びの延長でアンヌを排除してしまった罪悪感が、風景の彩度と反比例して、観客の気持ちまでアンニュイにするからだ。その刹那でデカダンなムードが映画の魅力とも言えるし、レイモンとセシルは毎夏リビエラに南下して来るパリ在住のブルジョワ。外国人が異国の地で萌える他のハリウッド映画とはそもそもキャラ設定が違う。だからだろうか、公開当時、アメリカメディアの評価は芳しくなかった。反面、原作者サガンの母国フランスでは映画人たちが絶賛。ジャン=リュック・ゴダールは1958年のベストンワンに選び、エリック・ロメールは"シネマスコープで撮られた最も美しい映画"と評している。 オットー・プレミンジャー自身も"自作中最も好きな映画"と自画自賛する本作で、誰よりも幸運を手にしたのは、言うまでもなく主演のジーン・セバーグだっただろう。トランジスターグラマーなボディライン(160センチ)から溢れ出る若々しさと、"セシルカット"と呼ばれたブロンドのショートヘアは一種のムーブメントとなり、特にそのヘアスタイルは、女優がイメージチェンジする際の必須アイテムとして定着。パーマネントが必要な"ヘプパーンカット"と比べてナチュラルな分、より一般的、普遍的に広がっていった。そして、ジバンシーがデザインしたリゾートウェアも、もしかして、スリムな体型に恵まれたオードリーより、むしろ、セバーグを通して女性たちの着るハードルを低くしたのかも知れない。太い太股や足首を隠そうともせず、リビエラの海岸をゴム毬のように走り抜けるセシルを見て、改めてそう思う。 そんなセシル=セバーグに魅了されたジャン=リュック・ゴダールは、彼にとっての初監督作『勝手にしやがれ』(59)のヒロインにセバーグを抜擢。その際、セバーグは個人的にもお気に入りだった"セシルカット"を続行し、そのヘアにマッチしたボーダーのカットソーと黒のロングスカートは、ジバンシーによるセシルのリゾートウェア以上に強烈なトレンドとなる。結局、セバーグのたった15年にも満たなかった女優人生(映画出演は1957〜71。1979年、パリ郊外で遺体で発見される)で、『悲しみよこんちには』は『勝手にしやがれ』と並ぶ彼女の代表作として記憶されることとなる。 ところで、タイトルシーケンスを飾る人が涙を流すグラフィックデザインは、プレミンジャーの『カルメン』(54)以来、ヒッチコックの『めまい』(58)等、数多くの映画でアートワークを手がけた伝説的なデザイナー、ソール・バスの手によるもの。また、劇中に登場するペインティング類は、日本人洋画家、菅井汲(すがいくみ。1919〜1966)の作品だ。本作にスタッフとして正式に参加した彼の名前がタイトルロールでもちゃんと紹介されるので、是非目を懲らして欲しい。■ Copyright © 1958, renewed 1986 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2016.07.02
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2016年8月】うず潮
『地獄の黙示録』で脚本に参加したジョン・ミリアスが監督・脚本を手がけた、70年代のサーフィン映画の名作。カリフォルニアの海で伝説の波「ビッグ・ウェンズデー」を待ち焦がれる若者たちの人生を軸に、ベトナム戦争への出兵に悩む若者たちの描写は秀逸。主演はジャン=マイケル・ヴィンセント。本作の出演をきっかけに人気俳優の仲間入りし、TVシリーズ「超音速攻撃ヘリ・エアーウルフ」(懐かしい~)の主人公ヘリパイロット・ホーク役で日本でもスターに。 脇を固めるのは、『沈黙の戦艦』(裏切った副官役)でウザイ悪役がハマるゲイリー・ビューシイとTVシリーズ「アメリカン・ヒーロー」で主人公を演じたウィリアム・カット。フレッシュ感満載で3人ともマジに若い!特にゲイリー・ビューシイは、本作でもヤンチャな若者役でウザ臭がほんのり出ていて、芸風の蕾感が垣間見れます(笑)。 一番の見どころはなんといっても大迫力の波乗りシーン。伝説のプロサーファー、ジェリー・ロペス(本人役で出演!セリフをしゃべってほしかった…)の若い頃のキレキレのライディングを始め、ロングボードでのチューブ・ライディング(波のトンネルを潜る技)などサーフィンの華麗な技を堪能できます。さらに凄腕撮影スタッフによるオンライドでの水上映像美は、まるで本当に波乗りしてるような錯覚に!また、今ではなかなか見れないレトロなフォルムのアメ車や劇中に流れる「ロコモーション」などのヒットナンバー、サーファーファッションも見どころのひとつ。劇中に出てくるBEARロゴついた白Tシャツは、「あっ」と思う人も多いはず。 また、ザ・シネマでは、「特集:素晴らしき夏映画」と題して、本作に加え『旅するジーンズと16歳の夏』『旅するジーンズと19歳の旅立ち』『イルカと少年』など夏が舞台となった映画8作品を特集放送!ザ・シネマで夏に夏映画をご堪能ください! TM & © Warner Bros. Entertainment Inc.
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COLUMN/コラム2016.06.29
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2016年7月】うず潮
『クリムゾン・リバー』の原作者ジャン=クリストフ・グランジェが自身の小説「狼の帝国」を、自ら脚色したクライム・アクション。前作でも出演したジャン・レノが若い刑事とタッグを組むいぶし銀の刑事を好演!連続猟奇殺人と記憶喪失の女、トルコ過激派組織がフランスとトルコを舞台に複雑かつ緻密に絡み合う…謎が謎を呼び、誰が敵か味方か…思わず見入ってしまう、ドハマり確実の1本! 金髪にアロハで登場するジャン・レノを見たときは、インチキ臭さに思わず、「こんなおじさん、ヤバイだろ!」と吹き出しそうになりましたが、ストーリーが進むにつれカッコよく見えてくるのです!彼の男臭とアクションシーンの所作など、ジャン・レノファンならずとも彼の魅力が楽しめる作品です。 また、ザ・シネマでは、「特集:フレンチ・サスペンス」と題して、本作に加えジャン=クリストフ・グランジェ原作の『クリムゾン・プロジェクト』(主演:ジェラール・ドパルデュー)『クリムゾン・リバー』(主演:ジャン・レノ)を特集放送!ハリウッド作品と一味違うフレンチ・サスペンスを是非ご堪能ください! © 2005 GAUMONT / TF1 FILMS PRODUCTION (France) / KAIROS (Italie)
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COLUMN/コラム2016.06.18
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2016年7月】おふとん
L.A.の新聞社社長がある日蜂に刺され急死。パーティ三昧のボンクラ息子(セス・ローゲン)は突然社長の座を継ぐことに。父の運転手カトーがメカと発明の天才だと知ったブリットは、ハイテク装置満載の愛車「ブラック・ビューティー」と共にヒーローになる長年の憧れを実現しようと決意。武術の達人でもあるカトーと共にマスクで素顔を隠した彼は、“グリーン・ホーネット”と名乗りロサンゼルスのギャングたちを懲らしめていく…。 60年代にブルース・リー出演でTV化された人気ヒーローをあのミシェル・ゴンドリーが映画化。ミシェル・ゴンドリーといえば想像力あふれる映像マジックが特徴。昨年の東京都現代美術館での展覧会も記憶に新しく、『エターナル・サンシャイン』がお好きな方も多いのでは? そんな彼が、まさかの王道娯楽作を撮っていた!キッチュでポップ、独創的なイマジネーション溢れる世界はそのままに、ボンクラ息子とメカの天才が暴れまくり!さらにセクシーなインテリ美女にキャメロン・ディアス、敵のギャング役にクリストフ・ヴァルツと脇を固める俳優陣も超豪華。 ミシェル・ゴンドリーが好きなあなたも絶対楽しめる、アート×アクションが両立したまさに美味しいとこ取りの作品。 Copyright © Motion Picture © 2011 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved. | The Green Hornet, related characters and hornet logo ™ & © 2011 The Green Hornet, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2016.06.17
バッド・ティーチャー
『マスク』(94年)でジム・キャリーの相手役として華々しくデビュー。かと思ったら、『ベスト・フレンズ・ウェディング』(97年)では当時人気絶頂だったジュリア ・ロバーツの恋敵役という、どう考えても損な役を振られながら、その昇り竜的オーラでジュリアを完全に食ってしまったキャメロン・ディアス。あの映画を当時観た者なら、ロマンティック・コメディの女王の座がジュリアからキャメロンの手に渡ったと誰もが感じたはずだ。 しかし彼女はその王冠をあっさりと捨ててしまった(まるでローマ五輪で獲得した金メダルを川に投げ捨てた逸話を持つ故モハメド・アリのように!)。代わりにキャメロンが築いていったのは、女優として誰も歩んだことがないキャリアだった。 というのも、その翌年に彼女が主演したのは下ネタギャグばかりが執拗に連発されるファレリー兄弟監督作『メリーに首ったけ』(98年)だったからだ。ベン・スティラーとのコンビネーションがスウィートだったとはいえ、ここでの彼女は完全な「ヨゴレ」キャラ。昔のハリウッドだったら出演すること自体がスター女優として自殺行為だったはずだ。 でもこの作品が、女優キャメロンのステイタスを一気に高めた。映画ファンは自分のメンツばかりを気にする女優よりも、映画を面白くするためなら何だってやってくれる、話が分かる女優を待ち望んでいたからだ。こうした時代の空気を、彼女は肌で感じとっていたのかもしれない。 ともすれば、華やかなルックスばかりが印象に残ってしまうキャメロンではあるけれど、実は演技も巧い。盲目の女性に扮した『彼女を見ればわかること』(99年)では、グレン・クローズやホリー・ハンターといったベテラン女優たちを相手に一歩も引かない存在感を示しているし、スパイク・ジョーンズの劇映画監督デビュー作『マルコヴィッチの穴』(99年)では、一見彼女とは分からない地味(というか小汚い)格好で登場、奇妙な世界観に説得力を与えている。 とはいえ、キャメロンはこうした演技力を活かす作品を無理して選ぶようなことはない。それどころか『チャーリーズ・エンジェル』二部作 (00〜03年)ではノリノリでワイヤー・アクションに挑み、『ナイト&デイ』』(10年)ではトム・クルーズとともにガン・ファイトを繰り広げている。「最初はセクシーなコメディエンヌ・タイプとして登場しても、最終的には演技派に成長しなくてはいけない」ハリウッド女優たちが縛りつけられている、こうした呪縛からキャメロンはとことん自由なのである。 キャメロンが他の女優と異なる点がもうひとつある。それは演じるキャラクターのリアリティ度の高さだ。ハリウッドのスター女優が映画の中で演じるキャラクターは、ファンの憧れを投影した華やかな職業に勤めていることが多い。そしてその仕事に打ち込んで、充実した毎日を送っているものと相場が決まっている。ところがキャメロンはそんなものは嘘っぱちなのだと嘲笑うかのようなキャラを演じることが多い。 もちろん『ホリデイ 』(06年)のビデオ製作会社の経営者、『ダメ男に復讐する方法』(14年)のように弁護士を演じることもあるけれど、『クリスティーナの好きなコト』(02年)や『イン・ハー・シューズ』(05年)では仕事への意欲はゼロの単なる遊び人役だ。 大胆な現代化が話題を呼んだミュージカル『ANNIE/アニー』(14年)では悪役のミス・ハニガン役を演じていたが、オリジナルのハニガンが孤児院の経営者だったことから一転して、福祉手当て欲しさにステップマザーをやっている落ちぶれた元歌手(しかもC&Cミュージック・ファクトリーの初期メンバーというのが笑える)という設定に改変されていた。キャメロンは、自分に美貌と演技力のどちらかが少しでも欠けていたらなっていたかもしれない境遇の女子、地に足が着いているを通り越してぬかるみに足が半分埋まっているようなキャラクターを演じることがとても多い。その抜群のリアリティが観客を惹きつけるのだ。 そんな彼女の<リアリティ路線>の決定版とも言える主演作が、ブラック・コメディ『バッド・ティーチャー』(11年)だ。人気コメディ番組『New Girl / ダサかわ女子と三銃士』(11年)や『ファン家のアメリカ開拓記』(15年〜)のプロデューサー兼監督として知られるジェイク・カスダンが監督を、やはり人気テレビ番組『ザ・オフィス』(05〜13年)のプロデューサー兼脚本家のジーン・スタプニツキーとリー・アイゼンバーグが脚本を手がけたこの作品でキャメロンが演じるのは、やる気ゼロの中学教師エリザベスだ。 彼女は物語冒頭、金持ちの男を捕まえて結婚退職したはずが、金目当てであることがバレて婚約を破棄されてしまう。やむなく学校へと帰ってきた彼女だが、仕事熱心な新任の代理教師スコットが名家の出身であることを知り、玉の輿に乗ろうと急に生徒に熱血指導を行うようになる。だがそんな彼女の態度に疑問を抱いたナンバーワン女教師エイミー(英国のコメディ女優ルーシー・パンチが怪演)が立ちはだかり、壮絶なバトルが展開されていく。 このエリザベスのキャラが凄い。生徒の平均点数を上げしようとするあまり共通試験の回答を盗みだすは、マリファナ喫煙の濡れ衣を他人にきせるは、第三者を使って相手を脅迫したりと、やっていることは悪人そのものなのだ。おまけに最後までこれっぽっちも改心することはない。 それでも観客は、エリザベスにどうにかピンチを切り抜けてほしいと願ってしまう。教師としての才能はゼロだけど、授業以外の場面での生徒への気遣いやアドバイスは、偽悪ぶっている彼女の、実はピュアな内面を証明するような誠実なものだからだ。 そんな複雑なキャラを、観客に周到な演技プランを感じさせることなく、素で振舞っているかのように見せるキャメロンは、やはり上手い女優だと思う。 私生活ではかつて4年間も交際していたこともあるというのに、ジャスティン・ティンバーレイクがスコット役で嬉々として登場、バカな演技を披露しているのも、相手が名女優キャメロンだからこそなのである。 そんなティンバーレイク以上に、本作でキャメロンと相性の良さを示しているのが、エリザベスにアタックしては砕け続ける気のいい体育教師ジェイに扮したジェイソン・シーゲルだ。大人気シットコム『ママと恋に落ちるまで』(05〜14年)で人気者になったシーゲルだが、元々はあのジャド・アパトーの愛弟子であり、『ザ・マペッツ』(11年)や『憧れのウェディング・ベル』(12年)といった主演作ではプロデュースや脚本も兼務している才人である。 本作で共演したことでキャメロンのコメディ・センスに感服したのか、シーゲルは監督のジェイク・カスダンごと彼女を誘って、自身がプロデュースと原案を担当した『SEXテープ』(14年)でリユニオン共演を果たしている。 キャメロンとシーゲル扮する倦怠期の夫婦が刺激を求めて自分たちのセックスをタブレット型コンピュータで撮影したところ、自動でクラウドにアップされてしまい大騒動 になる……というこのスラップスティック ・コメディで、キャメロンは公式では初のヌードを披露している。ちなみにこの時、彼女は42歳! こんな女優、キャメロンより前には存在していなかった。そして今のところ彼女に続こうとする者もいない。 人跡未踏の女優道をキャメロン・ディアスは歩み続けているのだ。 Copyright © 2011 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.