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COLUMN/コラム2022.06.07
ハインリヒ・ハラーの「チベットの七年」は、いかにしてジャン=ジャック・アノーの『セブン・イヤーズ・イン・チベット』になったか!?
本作『セブン・イヤーズ・イン・チベット』(1997)の主人公で、ブラピことブラッド・ピットが演じるハインリヒ・ハラーは、実在の人物である。1912年にオーストリアのケルンテルンに生まれ、グラーツ大学で地理学を専攻した。 36年にはスキーヤーとして、オリンピック選手団の一員に。翌年には世界学生選手権の滑降競技で優勝を飾った。 そして38年、アルプスのアイガー北壁の登攀に成功。その功績によって、当時オーストリアを支配していた、ナチス・ドイツのヒマラヤ遠征隊への参加を認められる。映画のストーリーが始まるのは、ここからである。 ***** 1939年秋、オーストリアの登山家ハラーの頭は、ヒマラヤ遠征のことでいっぱいだった。傲慢な性格の彼は、妊娠中の妻のことを顧みず、家庭不和を抱えたまま旅立つ。 ハラーが参加したドイツの遠征隊は、“魔の山”とも呼ばれる高峰ナンガ・パルバットに挑む。しかし雪崩のために、中途で断念せざるを得なくなる。 折しも第2次世界大戦、イギリスがドイツに宣戦布告したタイミング。イギリスの植民地であるインドに居た遠征隊一行は捕らえられ、捕虜収容所へと収容される。幾度となく脱走を図るハラーだったが、失敗が続いた。 そんな彼に、妻から手紙が届く。その封筒には、“離婚届”が同封されていた。 収容から2年経った42年、ハラーは遠征隊の仲間と共に、ようやく脱走に成功した。そこからは単独行を選ぶが、やがて遠征隊の隊長だったアウフシュタイナー(演:デヴィッド・シューリス)と再会。2人は衝突を繰り返しながらも、逃避行の旅を助け合った。 45年、2人は外国人にとっては禁断の地、チベットの聖都ラサに辿り着く。政治階層のツァロン(演:マコ岩松)、大臣秘書のンガワン・ジグメ(演:B・D・ウォン)らが、救いの手を差し伸べてくれた。 持てる知識と技術を提供しながら、素朴なチベットの人々と風土に、心が癒やされていく、ハラー。そんな時チベットの政治・宗教の最高権威者であるダライ・ラマ14世(演:ジャムヤン・ジャムツォ・ワンジュク)が、ハラーの存在に興味を持つ。 ハラーはダライ・ラマに謁見。その日から、まだ10代の少年だったダライ・ラマとの交流が始まる。ハラーは、ダライ・ラマを敬いつつも、故郷のまだ会ったことのない息子への思慕を代替するかのように、彼のことを慈しむのだった。 しかしやがて、毛沢東によって建国された、中華人民共和国の軍靴の音が、チベットの平穏を揺るがしていく…。 ***** 原作はハラー自らが著した、「チベットの七年」。映画は前半、若き野心家だったハラーの冒険行と挫折、そして命懸けの逃亡生活を描く。後半はタイトル通り、「チベットの七年=セブン・イヤーズ・イン・チベット」。チベットで暮らし、若きチベット仏教の法王との間に友情を育て、やがて故郷に帰るまでの物語である。 ジャン=ジャック・アノー監督が、この題材に惹かれた理由は、想像に難くない。フランス人である彼だが、そのデビュー作『ブラック・アンド・ホワイト・イン・カラー』(76)は、第一次世界大戦時のアフリカが舞台。続いて、『人類創世』(81)で旧石器時代、『薔薇の名前』(86)で14世紀北イタリア、『子熊物語』(88)でロッキー山脈、『愛人/ラマン』(92)で1929年の仏領インドシナ、『愛と勇気の翼』(95)では1930年代のアルゼンチン、『スターリングラード』(00)で独ソ戦、『トゥー・ブラザーズ』は1920年代のカンボジアといったように、そのフィルモグラフィーには1本たりとも、フランス本土を舞台にした作品がないのである。時制が“現代”である作品も、見当たらない。 異境の地、そして今ではない時代に、登場人物が歴史のうねりに翻弄されながらも、運命に抗わんとする姿を、スケール感たっぷりの大作仕立てで描く。アノー作品のこうした特徴を記すと、デヴィッド・リーンがキャリアの後半に手掛けた、大作群に重なるところもある。実際に80年代後半から2000年代前半までは、アノーを語る際には、“巨匠”と冠することも、少なくなかった。 そんなアノーにとって、ハインリヒ・ハラーの、1940年代前後の軌跡は、正に「格好の題材」であったのだ。アノーは本作公開時のインタビューで、次のように語っている。 ~ハインリヒ・ハラーの本に心が惹かれたのは、500ページに及ぶ、7年間の生活の記録が書かれているけれども、彼の心情については触れられていないことだ。…脚本家のベッキーには、実在のハインリヒや映画会社の誰にも束縛されることなく、自由にわれわれの感じたことを表現して欲しいと頼んだ~ 結果としてそれが、ハラーの実像に近づくことに繋がったなどと、アノーは結論づけている。しかしこれはあくまでも「表向き」のことで、額面通りに受け取れない。というのは、「誰にも束縛されることなく、自由に」脚色を行った際に、実在のハラーが“独身”だったのを、本作では、まだ会えぬ我が子に思いを寄せる“父親”に改変してしまっているのである。 原作「チベットの七年」は、第2次世界大戦前後の激動の時代に、秘境の地チベットを訪れた冒険記や日記文学として、主に価値が見出されている。それをアノーと脚本家のベッキー・ジョンストンは、大胆に再構成。わがまま勝手で罪深い若者が、異郷での辛苦と癒やしを経て、自らを再発見。ダライ・ラマとの出会いから救済を得て、やがて実の我が子とも邂逅。新しい人生を歩んでいこうとする物語に、仕立て上げてしまった。 詳細は観て確認していただきたいが、チベットを去るハラーに対し、ダライ・ラマが贈る感動的な言葉も、即ち映画に於ける創作ということになる。 史実を改変することが、どこまで許されるのか?本作で、監督が描かんとする方向に舵を切るため、実在の人物に、架空の妻子を持たせてしまったことなど、賛否は付きまとうであろう。この辺りの是非の判断は、観る方1人1人にお任せする。 いずれにしても「チベットの七年」という題材を生かして、アノーがやりたかったことは、正にコレだったのだ!それが、『セブン・イヤーズ・イン・チベット』という映画作品である。 本作で、スターと言える出演者は、主演のブラピただ1人。ブラピは、アノーとの最初のミーティングからノリノリで、撮影現場でも文句ひとつなく、時には危険なスタントも、自らやってのけた。 この背景には、彼の前作『デビル』(97)が、トラブル続きだったこともある。共演のハリソン・フォードとの、自尊心の強いスター同士の意地の張り合いや、脚本の相次ぐ変更などによって、撮影が大幅に遅れてしまったのである。 それに対して本作では、製作費の1割以上が自分のギャラとして用意された。共演のデヴィッド・シューリスとも、山登りをはじめ様々なトレーニングを共にしながら、終始良好な関係だったという。 因みに本作のキャストは、プロの俳優と言える者は、ごく一部。ダライ・ラマ役の少年をはじめ、ほとんどが、インドなど世界各地から集められた、演技面では素人のチベット人たちだった。 本作は、チベットを侵略した中国を批判する内容であるため、その支配下となっていたチベットでは、もちろん撮影はできない。そのためロケ地として白羽の矢が立てられたのは、ダライ・ラマ14世が、1959年以来亡命生活を送るインドだった。しかしインド政府は、友好関係にある中国に気を使い、撮影を拒否。 そこで、インドからは地球の裏側に当たる、アルゼンチンにチベットの聖都ラサを再現し、そこでメインの撮影を行うこととなった。多くのチベット人たちは、世界中から南米へと運ばれて、撮影に参加したのである。 その上でアノーは更に、冒険的な試みを行っている。それはスタッフ及びブラピとシューリスのそれぞれ代役を、チベットに潜入させ、自らはアルゼンチンからFAXや電話で指示を出しての極秘撮影。こうして本作中には、かなり多くの部分で、本物のチベットのシーンを収めることに成功した。 中国関連以外にも、本作には政治的な問題が付きまとった。公開が近づいた頃、ドイツのニュース雑誌「シュテルン」が、原作者のハラーがかつてナチスの親衛隊員で、曹長に当たる階級だったことを、写真付きですっぱ抜いたのである。 この件では、ナチスの戦犯追及で有名な「サイモン・ウィーゼンタール・センター」が調査に乗り出した。その結果、ハラーがドイツによるオーストリア併合を支持し、ヒトラー個人にも好意的な内容の手紙を送っていたことが判明。そのため、ユダヤ系団体から本作の内容に対する批判や、上映ボイコット騒動が沸き起こった。 その一方で、ハラーは一介のスポーツ・インストラクターに過ぎず、ユダヤ人に対する残虐行為に加担した証拠がないことも、明らかになった。これらを受けてハラー本人は、「私の良心は一点の曇りもない」と、コメント。アノーやブラピはこの件に関しては、ただただ沈黙を守る他はなかったが。 ハインリヒ・ハラーは2006年、93歳でこの世を去った。お互いチベットを離れた後も、度々友情を温め合う機会を持ったダライ・ラマは、この時ハラーに、哀悼の言葉を捧げている。 中国によるチベット支配はいまだ強権的に続けられ、弾圧は止む気配がない。そんな中で本作によって、中国側のブラックリストに載った筈のジャン=ジャック・アノーは、2015年に中国に招かれ、『神なるオオカミ』という作品を監督している。 文革期の1967年、内モンゴルの草原を舞台に、下放された北京出身の知識人の青年が主人公であるこの作品は、題材的には確かにアノー向きと言える。しかしチベットに於いて、深刻な人権蹂躙が続く中で、一体どんな事情と心境の変化があって、この作品を引き受けたのだろうか? 心境の変化という点で言えば、アノーの最新作は、今年3月にフランスで公開された、『Notre-Dame brûle』。タイトル通り、2019年4月15日に起こった、パリのノートルダム大聖堂の火災を題材にした作品である。そしてこれがアノーにとっては初めて、“フランス本土”そして“現代”を舞台にした作品となった。 アノーは、“変節”したのか?それとも、70代にして、まだまだ転がる石ということなのか?最新作を含め、2000年代後半以降にアノーが監督した4作品中3作品が、今のところ日本未公開故、判断は保留せざるを得ないが。■ 『セブン・イヤーズ・イン・チベット』© 1997 Mandalay Entertainment. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2023.08.14
“戦争映画”の歴史を塗り替えた!巨匠イーストウッドの“日本映画”。『硫黄島からの手紙』
2000年代中盤、70代半ばとなったクリント・イーストウッドの監督としてのキャリアは、まさにピークを迎えていた。『ミスティック・リバー』(03)は、アカデミー賞6部門にノミネート。ショーン・ペンに主演男優賞、ティム・ロビンスに助演男優賞のオスカーをもたらした。翌年の『ミリオンダラー・ベイビー』(04)では、ヒラリー・スワンクに主演女優賞、モーガン・フリーマンに助演男優賞が渡っただけではなく、イーストウッド自身に、『許されざる者』(1992)以来となる、それぞれ2度目の作品賞と監督賞が贈呈された。 もはや彼を、「巨匠」と呼ぶのに、躊躇する者は居なかった。次は何を撮るのか?常に注目される存在となっていた。『ミリオンダラー・ベイビー』に続いて選んだ監督作品は、硫黄島を舞台にした"戦争映画”。小笠原諸島の一部であり、東京とサイパンのちょうど間に位置するこの島では、太平洋戦争末期に激しい戦闘が行われ、日米双方に多大な犠牲者が出ている。戦死者は両軍合わせて、2万7,000人近くに及ぶという。 ノンフィクション小説(邦訳「硫黄島の星条旗」)をベースにした、『父親たちの星条旗』(06)。この企画を彼に持ち掛けたのは、スティーブン・スピルバーグだった。 イーストウッドは、『ミリオンダラー・ベイビー』の脚本家ポール・ハギスに、再び仕事を依頼。ハギスはイーストウッドとミーティングを重ねて、脚本を完成させた。 この作品の主人公は、硫黄島の戦いに参加して英雄となりながらも、その後戦争について語らなかった元米兵。彼が死の床に就いた時、その息子は関係者に話を聞いて初めて、父親の秘めたる真実を知る…。 イーストウッドは若き日、ユニバーサル・スタジオで、オーディ・マーフィーと出会った。マーフィーは第2次大戦の英雄であり、終戦後にハリウッドでスターとなった男で、彼の自伝的映画である『地獄の戦線』(55)という大ヒット作もあった。 しかし彼は、戦争のことを語りたがらなかった。彼がPTSDに苦しんでいたことを、イーストウッドは後に知る。 戦争で死に直面するような経験をした者は、多くを語らない。遠方で差配しているような者に限って、見てきたような勇ましい戦話をするのである。 戦争に英雄などいない。正しい戦争などなく、無意味な「人殺し」しかない。これがイーストウッドの、“戦争観”である。 しかしそれと同時に、死んだ兵士には、敵味方を問わず最大限の敬意が払われるべきなのだ。イーストウッドは言う。「私が観て育ったほとんどの戦争映画では、どちらかが正義で、どちらかが悪だった。人生とはそんなものではないし、戦争もそんなものではない」 そんなイーストウッドだからこそ、米兵を主人公にした『父親たちの星条旗』の製作準備中に、ある疑問に行き当たる。米軍と戦った日本兵たちは、一体どんな状況だったのか? リサーチを続ける中で、イーストウッドの興味を強く惹く、日本の軍人が現れた。硫黄島の戦いで、常識にとらわれない傑出した作戦を打ち出した最高指揮官。その名は、栗林忠道。 1944年5月に硫黄島に着任した栗林中将は、長年の場当たり的な作戦を変更。米軍の攻撃に対抗するため、島中にトンネルを掘り、地下要塞を作り上げる。5,000もの洞穴、トーチカを蜂の巣のように張り巡らせ、日本兵がそこから、米兵を狙えるようにした。 また彼は、日本軍の悪弊である、部下に対する理不尽な体罰を戒め、玉砕を許さなかった。最後の最後まで生き抜いて、1日でも長くこの島を守り抜こうとした。 米軍が欲したのは、この島の飛行場。ここが敵の手に落ちたら、B29の中継基地となって、日本本土への大規模な爆撃が可能となってしまう。栗林は、一般市民が大量に犠牲になるのを、避けるか遅らせるかしたかったと言われる。 アメリカ軍は1945年2月16日に、硫黄島への攻撃を開始。19日から上陸。23日までには、島全体を制圧できると考えていた。しかし実際は栗林の智略の前に、その後も約1ヶ月間、合わせて36日間も戦闘が続いた。 調べれば調べるほど、イーストウッドは栗林への関心が高まっていった。戦前には、アメリカに留学。ハーバード大で英語を学び、その後カナダにも、駐在武官として滞在している。その時代にできた友人も多く、アメリカとの戦争にも反対していた。これが軍の一部から、アメリカ贔屓と見られ、疎まれる結果になったとも言われる。 イーストウッドは、彼が戦地から妻と息子、娘に宛てた手紙にも心を打たれた。住まいの台所のすきま風を心配したり、硫黄島で育てているひよこの成長を、幼い娘に書き送ったり…。 また栗林が率いた若い兵士たちが、「アメリカ兵と実によく似ていた」ことにも、胸を掴まれた。「あれから何十年も経った今、どちらが勝ったとか負けたとかいうことに関係なく、わたしは日本の人々に彼らの生き様を認めてもらうことが必要だと考えた。正しいかどうかは別として、祖国のために彼らが払った犠牲に目を向けてもらいたかったー実際、彼らは犠牲者だったのだから」 そしてイーストウッドは、前代未聞のプロジェクトに挑む決断をする。硫黄島の戦闘をアメリカ側の視点から描く『父親たちの星条旗』だけでなく、日本側の視点から描いた作品も、同時に製作する。 この戦争映画の歴史に残る、画期的なチャレンジ。当初は日本人監督の起用も考えたというが、イーストウッドは『父親たちの星条旗』に続けて、自らメガフォンを取ることを決めた。 脚本はポール・ハギスの推薦で、日系アメリカ人二世の、アイリス・ヤマシタの起用となった。 戦場に於いて米兵だったら、生きて帰れる可能性に賭ける。一方日本兵は、死を覚悟して戦う。アメリカ人のイーストウッドにとっては凡そ理解し難い、この日本兵のメンタリティーに迫るため、彼は様々な勉強を重ねたという。 本作『硫黄島からの手紙』(06)は、『父親たちの星条旗』の撮影終了後、すぐにクランクイン。内容的には、栗林をはじめ主要な登場人物の過去の回想シーンなど織り交ぜながらも、硫黄島での日本軍の戦闘準備から、米軍上陸、激戦、終結までを描く。 主役の栗林を演じたのは、渡辺謙。ハリウッドデビュー作の『ラスト サムライ』(03)でアカデミー賞助演男優賞にノミネートされ、『バットマン ビギンズ』(05)『SAYURI』(05)と、大作への出演が続いていた。憧れの人イーストウッドの『父親たちの星条旗』製作の報を耳にして、1シーンでもいいから出たいと、願ったという。 それと対になる本作の栗林役に決まると、関係資料を読んだり、栗林の孫や甥に会って、彼の遺した書など見せてもらったりなどのリサーチを行った。 栗林が生まれ育った長野県の生家には、取り壊される前日に訪問。その際に墓参りをすると、雪がちらついてきて、渡辺は思った。こんな寒い場所で育った人が、南方の暑い島で死を賭して戦うとは、さぞ辛かったであろうと。 本作で渡辺は、“主役”である以上の働きを見せた。英語で書かれた脚本を、日本語の表現に換えていく作業を手伝ったのをはじめ、日本側で発見した栗林のエピソードや記録も付け加えてもらった。また若き日本兵を演じた、加瀬亮と二宮和也の役が、当初書かれていた年齢から逆転していたので、2人の関係や生まれた土地のことなども考慮して、微妙なニュアンスのリライトを行った。 危惧されたのは、全編日本語での撮影であること。しかしイーストウッドは、意に介さなかった。 彼の俳優としての出世作である、セルジオ・レオーネ監督のマカロニ・ウエスタンでの経験が、大きかった。主にスペインでの撮影で、キャストやスタッフが全く異なる言語を話す状況の中、イタリア人のレオーネは当時、英語などろくに話せない状態だった。それにも拘わらず、主演のイーストウッドと二人三脚で、『荒野の用心棒』をはじめとした傑作群をものしているのだ。「いい演技というものは、言葉に関係なくいい演技として伝わるもの…」。セリフの間違いなどテクニカルなことは、通訳を通じて修正すれば良い。その上で、日本人俳優の目や顔など感情表現の小さな違いが、イーストウッドにとっては、「新鮮な発見」だったという。 二宮和也は、台本に書いてないことを急にやりたくなった時に、「そういうことをやっていいの?」と、イーストウッドに尋ねた。それに対する彼の答は、「いいんだよ」。イーストウッド本人が、俳優として「台本に書いてないこと、自分のアイデアを提案することが好き」だったためだ。役作りに関しては、自由に膨らませていいと、出演者たちに伝えた。 栗林と同じく、実在の人物だったバロン西を演じたのは、伊原剛志。西は、1932年のロサンゼルス五輪馬術競技の金メダリストで、ロスの名誉市民章も貰っている国際人だった。撮影前に西の息子に会って話を聞くなどした伊原は、俳優の自主性を重んじるイーストウッドの演出について、「彼の中の大きな枠、方向性があって、そこを間違うと修正されるというような感じ…」と、語っている。 伊原は、軍隊についての資料やビデオ、例えば敬礼の仕方などを収録したDVDなどを集めて、撮影地へと持ち込んだ。これが多くの“日本兵”たちの役に立った。 憲兵失格で戦地に送られた兵士を演じた加瀬亮は、オーディションに受かってから撮影までの時間がなかった。そのため、軍事訓練どころか、敬礼の仕方もわからないままの現地入りだった。伊原のDVDの存在を知った彼は、二宮らと伊原の部屋へと押しかけて、即席で勉強したという。 渡辺は文献や映像から、栗林を実践的な人と判断。硫黄島も自分の足で調査したのだろうと考えて、当初はブーツしか用意されていなかったのを、衣裳として地下足袋やゲートルを提案。日本から取り寄せてもらった。 イーストウッドに対して、“父親”を感じたという渡辺は、ある時にはっと閃いた。「(自分の)この役は、クリント自身なんだな」。それからは、イーストウッドとスタッフとのやり取りなどを、つぶさに観察。語り方や目線、立ち居振る舞いを参考にして、栗林を演じたという。 演出は本能的に行うという、イーストウッド。俳優たちが己の役を、過剰に考えたり分析しすぎたりして、あまりにも細かい要素を入れようとすると、本質を見失ってしまうと、考えている。そのために撮影も、最初のテイクこそ最良のものが出るという思想で、テストもほとんどしない。その結果として、「早撮り」になる。 下士官の1人を演じた中村獅童曰く、「「リハーサルだろうな」と思っていたら、「OK」と突然言われて、撮っていたことに気付くこともあった」 戦闘シーンなど本作の撮影の大部分は、経費や安全面から、アイスランドの火山島でロケーション。日本政府などの許可を得て行われた硫黄島ロケは、メインキャストでは1人だけ、渡辺謙が参加した。 栗林が海岸を調査するシーンや、山に登って、島全体を見渡すシーンなどが撮影されたが、この地で見聞したものは、渡辺の想像を超えていたという。 地下壕や司令部が在った場所で、その狭さや息苦しさ、暑さを実感し、僅かな食糧や水で何日も過ごすことなど、考えるだけで体が震えてきた。先にこの体験をしていたら、「…怖ろしさで演じられなかったかも…」と、渡辺は語っている。 単に日程的な問題だったのかも、知れない。しかし「役を作り込ませ過ぎない」イーストウッドの演出法から考えて、ひょっとすると硫黄島での撮影が後回しだったのも、その辺りの配慮があったのかもなどと、想像が働く。『硫黄島からの手紙』は、2006年12月に日米で公開。日本では興収50億円を超える大ヒットとなった。アメリカでは、興行的には成功したと言い難い結果となったが、評価は高く、アカデミー賞では作品賞を含む4部門にノミネート。その内、音響編集賞を受賞した。 巨匠クリント・イーストウッドによる、“日本映画”とも言える本作。製作から17年経った今日でも、“戦争映画”の歴史に於いて、エポックメーキングとして語り継がれる。■
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COLUMN/コラム2023.11.29
元CIA職員が描く冷酷非情なロシアン・スパイの世界!『レッド・スパロー』
ソ連時代のロシアに実在した「スパロー」とは? 『ハンガー・ゲーム』シリーズのヒロイン、カットニス役でトップスターとしての地位を不動にした女優ジェニファー・ローレンスが、同シリーズのフランシス・ローレンス監督と再びタッグを組んだスパイ映画『レッド・スパロー』(’18)。ちょうどこの時期、シャーリーズ・セロン主演の『アトミック・ブロンド』(’17)に韓流アクション『悪女/AKUJO』(’19)、リブート版『チャーリーズ・エンジェル』(’19)にリュック・ベッソン監督の『アンナ』(’19)など、いわゆる女性スパイ物が相次いで話題となっていたのだが、その中で本作が他と一線を画していたのは、一切の荒唐無稽を排したウルトラハードなリアリズム路線を貫いたことであろう。 なにしろ、原作者ジェイソン・マシューズは元CIA職員。表向きは外交官としてヨーロッパやアジアなど各国を渡り歩きながら、その裏で工作員のリクルートおよびマネージメントを担当していたという。33年間のCIA勤務を経て引退した彼は、退職後のセカンド・キャリアとして小説家を選択。国際諜報の世界に身を置いていた時代の知識と経験を基に、初めて出版した処女作が大ベストセラーとなったスパイ小説「レッド・スパロー」だったのである。 テーマはスパロー(雀)と呼ばれるロシアの女性スパイ。彼女たちの役割は敵国の諜報員にハニー・トラップを仕掛け、自らの美貌と肉体を駆使してターゲットを誘惑し、巧みな心理戦で相手を意のままに操ること。主人公のドミニカ・エゴロワというキャラクターそのものは完全なる創作だが、しかしマシューズによるとソ連時代のロシアにはスパローの養成学校まで実在したそうだ。当時はアメリカでも同様の試みがなされたが、しかし倫理的な問題から実現はしなかったとのこと。さすがにソ連解体後のロシア諜報機関にはスパローもスパロー・スクールも存在せず、よって本作のストーリーも過去の事実を基にしたフィクションと見做すべきだが、それでもプロの女性を外部から雇ったロシアのハニー・トラップ工作は今もなお行われているという。 国家によって武器へと仕立てられた女性のサバイバル劇 舞台は現代のロシア、主人公のドミニカ・エゴロワ(ジェニファー・ローレンス)は世界的に有名なバレリーナだ。ボリショイ劇場の舞台で華やかなスポットライトを浴びるドミニカだが、しかし私生活は極めて質素なもの。ソ連時代に建てられた郊外の古い集合住宅で、病気の母親(ジョエリー・リチャードソン)と2人きりで暮らしている。そんなある日、舞台の公演中に起きた事故で片脚を骨折した彼女は再起不能に。自分の名声を妬んだライバルの仕業と知ったドミニカは、相手を半殺しの目に遭わせて復讐を遂げるものの、しかしバレリーナとしてのキャリアが断たれたことで生活が立ち行かなくなる。そこで彼女が頼ったのは、亡き父親の年の離れた弟、つまり叔父に当たるワーニャ(マティアス・スーナールツ)だった。 KGB第1総局を前身とする諜報機関、ロシア対外情報庁(SVR)の副長官を務めるワーニャ叔父さん。アパートの家賃や母親の治療費と引き換えに、彼が姪のドミニカにオファーした仕事というのが、悪徳実業家ディミトリ・ウスチノフに色仕掛けで取り入るというハニトラ工作だった。ところが、相手の携帯電話をすり替えるだけの簡単な任務だったはずが、途中から加わったSVRの殺し屋マトリンがウスチノフを殺害。結果的に要人の暗殺現場を目撃してしまった彼女は、ワーニャ叔父さんの指示に従ってスパイ養成学校へ送られることとなる。さもなければ、国家に不都合な目撃者として抹殺されてしまう。例の復讐事件で姪に工作員の素質があると見抜いた叔父は、彼女をスパイの世界へ引きずり込むための罠を仕組んだのである。 ドミニカが送り込まれたのは、ハニー・トラップ専門の工作員「スパロー」を育成する第4学校。冷酷非情な監督官(シャーロット・ランプリング)によって、美しさと強さを兼ね備えた若い男女が、己の頭脳と肉体を武器にした諜報テクニックを叩きこまれていく。中でもドミニカの成長ぶりは目覚ましく、その才能に注目したSVRの重鎮コルチノイ(ジェレミー・アイアンズ)の抜擢によって、彼女は国際諜報の最前線へ羽ばたくこととなる。その最初の任務は、SVR上層部に潜むアメリカとの内通者を炙り出すことだった。 実はドミニカがボリショイの舞台で事故に見舞われたのと同じ頃、モスクワ市内のゴーリキー公園でスパイ事件が発生。表向きはアメリカの商務参事官として米国大使館に勤務しつつ、その裏で諜報活動を行っていたCIA捜査官ネイト・ナッシュ(ジョエル・エドガートン)が、ロシア現地の内通者と接触している現場をパトロール中の警官に見つかったのである。ギリギリで米国大使館へ逃げ込んだナッシュは、外交官特権を使ってアメリカへと帰国。ロシア側は公園から立ち去った内通者がSVR内部の重要人物と睨むが、しかし身元を割り出すまでには至らなかったのだ。 そのナッシュが再び内通者と接触を図るべく、ハンガリーのブダペストに滞在中だと知ったSVRは、ドミニカを現地へ送り込むことに。ナッシュを誘惑して内通者の正体を聞き出すため、身分を偽って接触を図ったドミニカだったが、しかしすぐにSVRの工作員であることがバレてしまい、反対に二重スパイの取引を持ち掛けられる。自身と母親の身柄保護および生活保障を条件に、CIAの諜報工作に協力してSVRを出し抜こうとするドミニカだが…? ソ連時代のロシアで筆者が身近に感じたスパイの存在とは? 生き馬の目を抜く全体主義的なロシア社会にあって、国家の武器として利用され搾取されてきた女性が、自らの生き残りを賭けてロシアとアメリカの諜報機関を手玉に取っていく。多分に冷戦時代の香りがするのは、先述した通りソ連時代のスパイ工作が物語の下敷きとなっているからであろう。ハンガリーのブダペストやスロバキアのブラティスラヴァ、さらにウィーンやロンドンでも撮影されたエレガントなロケーションも、往年のスパイ映画を彷彿とさせる。ロングショットの多用やシンメトリーを意識した折り目正しい画面構図によって、冷酷非情なスパイの世界の心象風景を描いたフランシス・ローレンス監督の演出も極めてスタイリッシュだ。中でも、ドミニカの骨折事故とナッシュのスパイ事件が、インターカットによって同時進行していくプロローグの編集処理は圧巻!ヒッチコックの『見知らぬ乗客』(’51)をお手本にしたそうだが、ドミニカとナッシュが何者であるのかを観客へ的確に伝えつつ、やがて両者の運命が交錯していくことも暗示した見事なオープニングである。 そんな本作で何よりも驚かされるのは、昨今のハリウッド・メジャー映画としては極めて珍しい大胆な性描写と暴力描写であろう。なにしろセックスを武器にしたスパイの話である。そもそも原作小説の性描写や暴力描写が過激だったため、製作陣は最初からR指定を覚悟して企画に臨んだという。中でも主演のジェニファー・ローレンスには、一糸まとわぬヌードシーンが要求されたため、撮影された映像は真っ先にジェニファー本人のチェックを受けたそうで、それまではラッシュ映像の試写すら行われなかったらしい。 さらに、主人公ドミニカが元バレリーナという設定であるため、演じるジェニファーもバレエの猛特訓を受けたという。ボリショイ劇場のシーンはブダペストのオペラ座で撮影。スティーブン・スピルバーグ監督のリメイク版『ウエスト・サイド・ストーリー』(’21)も手掛けた、ニューヨーク・シティ・バレエのジャスティン・ペックが振付を担当している。ジェニファーのダンスコーチに任命されたのはダンサーのカート・フローマン。1日3時間、週6日間のレッスンを3カ月も続けたという。とはいえ、さすがにボリショイ級のレベルに到達するのは不可能であるため、ジェニファー本人のパフォーマンスは主にクロースアップショットで使用。ロングショットではアメリカン・バレエ・シアターのプリンシパル、イザベラ・ボイルストンが代役を務めている。 なお、バレエ・ファンにとって要注目なのは、その卓越したテクニックと美しい容姿から日本でも絶大な人気を誇るウクライナ人ダンサー、セルゲイ・ポルーニンが、ドミニカにケガをさせるダンス・パートナー役で顔を出していることであろう。また、七三分けのクリーンカットでワーニャ叔父さんを演じるベルギー人俳優マティアス・スーナールツが、恐ろしいくらいロシアのプーチン大統領と似ているのも興味深いところ。ご存知の通り、プーチン氏はSVRの前身であるKGBの元諜報員だった。ローレンス監督曰く、特定の人物に似せるという意図は全くなかったらしいが、普段は髪が長めで髭を伸ばしているマティアスの外見を整えたところ、意外にも「ある人物」に似てしまったのだそうだ(笑)。 ちなみに、ソ連時代のモスクワで育った筆者にとって、スパイは割と身近な存在だった。なんといっても筆者の父親はマスコミの特派員。情報を扱う仕事である。当然ながら自宅の電話には盗聴器が仕掛けられ、父親が外出すればKGBの尾行が付き、家の中も外から監視されていた。なので、父親が現地の情報提供者などと電話でコンタクトを取る際は、外国人が宿泊する市内の高級ホテルの公衆電話から英語ないし日本語で連絡してもらう。また、当時は日本の本社との通信手段として、国際電話と電報とテレックスを使い分けていた時代。ただし、国際電話は盗聴されているため、ソ連当局に都合の悪い内容の場合は途中で切られてしまう。ゆえに、短い連絡は電報で、長い文章はテレックスで。もしくは、ホテルで近日中に帰国する日本人を探して原稿入りの封筒を託し、羽田もしくは成田の空港でポストに投函してもらう。時には、うちの母親が子供たちを連れて旅行へ行くふりをし、父親に車で駅まで送り届けさせる。そのままKGBの尾行は父親の車を追いかけていくので、その隙を狙って母親が電報局から日本へ電報を打つなんてこともあったそうだ。 また、日本人のみならずモスクワに住む外国人の多くが、現地のメイドや運転手などを雇っていたのだが、その外国人向け人材派遣も実はKGBの管轄だった。筆者の家でも父親の秘書や子供の面倒を見るメイドさん、ピアノ教師などを雇っていたのだが、もちろん彼ら自身がスパイというわけではない。あくまでもKGBが管理しているというだけなのだが、その代わりに勤務先の外国人家庭や外国企業オフィスなどで見聞きしたことを上に報告する義務があったらしい。それでも、筆者の家に出入りしていたメイドのシーマは孫のように我々子供たちを可愛がってくれたし、日本語の達者な秘書オーリャも明るくて愉快な女性だった。なにか悪いことをされたという記憶は殆どない。とはいえ、その一方で現地職員を装った工作員によるものと思われる日本大使館での食中毒事件なども実際に起きていたので、当然ながらダークな部分もあることは子供ながらに認識していた。今になって振り返ると異質な世界だったとは思うが、当時はそれが当たり前だったため大きな違和感はなかったのである。ほかにも、モスクワ在住時代のスパイ・エピソードは、思いがけないトラブルも含めて多々あるのだが、それはまた別の機会に…。■ 『レッド・スパロー』© 2018 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2024.12.27
ハリウッド・アクションの金字塔『ダイ・ハード』シリーズの魅力に迫る!
テレビ界の人気者だった俳優ブルース・ウィリスをハリウッド映画界のスーパースターへと押し上げ、25年間に渡って計5本が作られた犯罪アクション『ダイ・ハード』シリーズ。1作目はロサンゼルスにある大企業の本社ビル、2作目は首都ワシントンD.C.の国際空港、3作目は大都会ニューヨークの市街、さらに4作目はアメリカ東海岸全域で5作目はロシアの首都モスクワと、作品ごとに舞台となる場所を変えつつ、「いつも間違った時に間違った場所にいる男」=ニューヨーク市警のジョン・マクレーン刑事(B・ウィリス)が、毎回「なんで俺ばかりこんな目に遭わなけりゃならないんだよ!」とぼやきながらも、凶悪かつ狡猾なテロ集団を相手に激しい戦いを繰り広げていく。 1月のザ・シネマでは、新年早々にその『ダイ・ハード』シリーズを一挙放送(※3作目のみ放送なし)。そこで今回は、1作目から順番にシリーズを振り返りつつ、『ダイ・ハード』シリーズが映画ファンから愛され続ける理由について考察してみたい。 <『ダイ・ハード』(1988)> 12月24日、クリスマスイヴのロサンゼルス。ニューヨーク市警のジョン・マクレーン刑事(B・ウィリス)は、別居中の妻ホリー(ボニー・ベデリア)が重役を務める日系企業・ナカトミ商事のオフィスビルを訪れる。仕事優先で家庭を顧みず、妻のキャリアにも理解が乏しい昔気質の男ジョンは、それゆえ夫婦の間に溝を作ってしまっていた。クリスマスを口実に妻との和解を試みるもあえなく撃沈するジョン。すると、ハンス・グルーバー(アラン・リックマン)率いる武装集団がナカトミ商事のクリスマス・パーティ会場へ乱入し、出席者全員を人質に取ったうえで高層ビル全体を占拠してしまった。 たまたま別室にいて拘束を免れたジョンは、欧州の極左テロ組織を名乗るグルーバーたちの犯行動機がイデオロギーではなく金であることを知り、協力を拒んだタカギ社長(ジェームズ・シゲタ)を射殺する様子を目撃する。このままでは妻ホリーの命も危ない。居ても立ってもいられなくなったジョンは、警察無線で繋がったパトロール警官アル(レジナルド・ヴェルジョンソン)と連絡を取りつつ、敵から奪った武器で反撃を試みる。やがてビルを包囲する警官隊にマスコミに野次馬。周囲が固唾を飲んで状況を見守る中、ジョンはたったひとりでテロ組織を倒して妻を救出することが出来るのか…? ジャパン・マネーが世界経済を席巻したバブル期の世相を背景に、大手日系企業のオフィスビル内で繰り広げられるテロ組織と運の悪い刑事の緊迫した攻防戦。この単純明快なワンシチュエーションの分かりやすさこそ、本作が興行的な成功を収めた最大の理由のひとつであろう。さらに原作小説では3日間の話だったが、映画版では1夜の出来事に短縮することでスピード感も加わった。そのうえで、ビル全体を社会の象徴として捉え、それを破壊することで登場人物たちの素顔や関係性を炙り出していく。シンプルでありながらも中身が濃い。『48時間』(’82)や『コマンドー』(’87)のスティーヴン・E・デ・スーザのソリッドな脚本と、当時『プレデター』(’87)を当てたばかりだったジョン・マクティアナンの軽妙な演出が功を奏している。これをきっかけに、暴走するバスを舞台にした『スピード』(’94)や、洋上に浮かぶ戦艦内部を舞台にした『沈黙の戦艦』(’92)など、本作の影響を受けたワンシチュエーション系アクションが流行ったのも納得だ。 もちろん、主人公ジョン・マクレーン刑事の庶民的で親しみやすいキャラも大きな魅力である。ダーティ・ハリー的なタフガイ・ヒーローではなく、アメリカのどこにでもいる平凡なブルーカラー男性。ことさら志が高かったり勇敢だったりするわけでもなく、それどころか人間的には欠点だらけのダメ男だ。そんな主人公が運悪く事件現場に居合わせたことから、已むに已まれずテロ組織と戦うことになる。観客の共感を得やすい主人公だ。また、そのテロ組織がヨーロッパ系の白人という設定も当時は新鮮だった。なにしろ、’80年代ハリウッド・アクション映画の敵役と言えば、アラブ人のイスラム過激派か南米の麻薬組織というのが定番。もしくは日本のヤクザかニンジャといったところか。そうした中で、厳密には黒人とアジア人が1名ずついるものの、それ以外は主にドイツやフランス出身の白人で、なおかつリーダーはインテリ極左という本作のテロ組織はユニークだった。 ちなみに、本作で「もうひとりの主役」と呼ばれるのが舞台となる高層ビル「ナカトミ・プラザ」。20世紀フォックス(現・20世紀スタジオ)の本社ビルが撮影に使われたことは有名な逸話だ。もともとテキサス辺りで撮影用のビルを探すつもりだったが、しかし準備期間が少ないことから、当時ちょうど完成したばかりだった新しい本社ビルを使うことになった。ビルが建つロサンゼルスのセンチュリー・シティ地区は、同名の巨大ショッピングモールや日本人観光客にもお馴染みのインターコンチネンタル・ホテルなどを擁するビジネス街として有名だが、もとを遡ると周辺一帯が20世紀フォックスの映画撮影所だった。しかし、経営の行き詰まった60年代に土地の大半を売却し、再開発によってロサンゼルス最大級のビジネス街へと生まれ変わったのである。パラマウントやワーナーなどのメジャー他社に比べて、20世紀スタジオの撮影所が小さくてコンパクトなのはそのためだ。 <『ダイ・ハード2』(1990)> あれから1年後のクリスマスイヴ。ジョン・マクレーン刑事(B・ウィリス)は出張帰りの妻ホリー(ボニー・ベデリア)を出迎えるため、雪の降り積もるワシントンD.C.の空港へやって来る。空港にはマスコミの取材陣も大勢駆けつけていた。というのも、麻薬密輸の黒幕だった南米某国のエスペランザ将軍(フランコ・ネロ)が、ちょうどこの日にアメリカへ護送されてくるからだ。妻の到着を今か今かと待っているジョンは、貨物室へと忍び込む怪しげな2人組に気付いて追跡したところ銃撃戦になる。実は、反共の英雄でもあったエスペランザ将軍を支持するスチュアート大佐(ウィリアム・サドラー)ら元米陸軍兵グループが、同将軍を救出するべく空港占拠を計画していたのだ。 絶対になにかあるはず。悪い予感のするジョンだったが、しかし空港警察のロレンゾ署長(デニス・フランツ)は全く聞く耳を持たない。やがて空港の管制システムはテロ・グループに乗っ取られ、到着予定の旅客機がいくつも着陸できなくなってしまう。その中にはジョンの妻ホリーの乗った旅客機もあった。乗員乗客を人質に取られ、手も足も出なくなってしまった空港側。敵は必ず近くに隠れているはず。そのアジトを割り出してテロ・グループを一網打尽にしようとするジョンだったが…? 今回の監督は『プリズン』(’87)や『フォード・フェアレーンの冒険』(’90)で高く評価されたフィンランド出身のレニー・ハーリン。特定の空間に舞台を絞ったワンシチュエーションの設定はそのままに、巨大な国際空港とその周辺で物語を展開させることで、前作よりもスペクタクルなスケール感を加味している。偉そうに威張り散らすだけの無能な現場責任者や、特ダネ欲しさのあまり人命を軽視するマスコミなど、権力や権威を揶揄した反骨精神も前作から継承。また、南米から流入するコカインなどの麻薬汚染は、当時のアメリカにとって深刻な社会問題のひとつ。麻薬密輸の黒幕とされるエスペランザ将軍は、恐らく’89年に米海軍特殊部隊によって拘束された南米パナマ共和国の独裁者ノリエガ将軍をモデルにしたのだろう。そうした同時代の世相が、物語の重要なカギとなっているのも前作同様。嫌々ながらテロとの戦いに身を投じるジョン・マクレーン刑事のキャラも含め、監督が代わっても1作目のDNAはしっかりと受け継がれている。ファンが『ダイ・ハード』に何を期待しているのか、製作陣がちゃんと考え抜いた結果なのだろう。 そんな本作の要注目ポイントは管制塔と滑走路のセット。そう、まるで実際に空港の管制塔で撮影したような印象を受けるが、実際は劇中の管制塔もその向こう側に広がる滑走路も、20世紀フォックスの撮影スタジオに建てられたセットだったのである。本物の管制塔は地味で狭くて映画的に見栄えがしないため、もっとスタイリッシュでカッコいいセットを一から作ることに。この実物大の管制塔から見下ろす滑走路はミニチュアで、遠近法を利用することで実物大サイズに見せている。これが、当時としてはハリウッドで前例のないほど巨大なセットとして業界内で話題となり、マーティン・スコセッシをはじめとする映画監督や各メジャー・スタジオの重役たちが見学に訪れたのだそうだ。 <『ダイ・ハード3』(1995年)> ※ザ・シネマでの放送なし 1作目のジョン・マクティアナン監督が復帰したシリーズ第3弾。今回、ザ・シネマでの放送がないため、ここでは簡単にストーリーを振り返るだけに止めたい。 ニューヨークで大規模な爆破テロ事件が発生。サイモンと名乗る正体不明の犯人は、ニューヨーク市警のジョン・マクレーン刑事(B・ウィリス)を指名して、まるで面白半分としか思えないなぞなぞゲームを仕掛けてくる。しかも、制限時間内に正解を出せなければ、第2・第3の爆破テロが起きてしまう。妻に三下り半を突きつけられたせいで酒に溺れ、警察を停職処分になっていたジョンは、テロリストからニューヨーク市民の安全を守るため、嫌々ながらもなぞなぞゲームに付き合わされることに。さらに、何も知らず善意でジョンの窮地を救った家電修理店の店主ゼウス(サミュエル・L・ジャクソン)までもが、ジョンを助けた罰としてサイモンの命令でゲームに参加させられる。 やがて浮かび上がる犯人の正体。それは、かつてナカトミ・プラザでジョンに倒されたテロ・グループの首謀者、ハンス・グルーバーの兄サイモン・ピーター・グルーバー(ジェレミー・アイアンズ)だった。弟が殺されたことを恨んでの復讐なのか。そう思われた矢先、サイモン率いるテロ組織の隠された本当の目的が明るみとなる…!。 <『ダイ・ハード4.0』(2007)> FBIサイバー対策部の監視システムがハッキングされる事件が発生。これを問題視したFBI副局長ボウマン(クリフ・カーティス)は、全米の名だたるハッカーたちの身柄を拘束し、ワシントンD.C.のFBI本部へ送り届けるよう各捜査機関に通達を出す。その頃、娘ルーシー(メアリー・エリザベス・ウィンステッド)に過保護ぶりを煙たがられたニューヨーク市警のジョン・マクレーン刑事(B・ウィリス)は、ニュージャージーに住むハッカーの若者マシュー・ファレル(ジャスティン・ロング)をFBI本部へ護送するよう命じられるのだが、そのマシューの自宅アパートで正体不明の武装集団に襲撃される。 武装集団の正体は、サイバー・テロ組織のリーダーであるトーマス・ガブリエル(ティモシー・オリファント)が差し向けた暗殺部隊。FBIをハッキングするため全米中のハッカーを騙して利用したガブリエルは、その証拠隠滅のため遠隔操作の爆弾で用済みになったハッカーたちを次々と爆殺したのだが、マシューひとりだけが罠に引っかからなかったため暗殺部隊を送り込んだのである。そうとは知らぬジョンとマシューは、激しい攻防戦の末にアパートから脱出。命からがらワシントンD.C.へ到着した彼らが目の当たりにしたのは、サイバー・テロによってインフラ機能が完全に麻痺した首都の光景だった。かつて国防総省の保安責任者だったガブリエルは、国の危機管理システムの脆弱性を訴えたが、上司に無視され退職へ追い込まれていた。「これは国のため」だといって自らの犯行を正当化するガブリエル。しかし、彼の本当の目的が金儲けであると気付いたジョンとマシューは、なんとかしてその計画を阻止しようとするのだったが…? 12年ぶりに復活した『ダイ・ハード』第4弾。またもや間違った時に間違った場所にいたジョン・マクレーン刑事が、運悪くテロ組織の破壊工作に巻き込まれてしまう。しかも今回はテクノロジー社会を象徴するようなサイバー・テロ。かつてはファックスすら使いこなせていなかった超アナログ人間のジョンが、成り行きで相棒となったハッカーの若者マシューに「なんだそれ?俺に分かる言葉で説明しろ!」なんてボヤきながらも、昔ながらのアナログ・パワーをフル稼働してテロ組織に立ち向かっていく。9.11以降のアメリカのセキュリティー社会を投影しつつ、果たしてテクノロジーに頼りっきりで本当に良いのだろうか?と疑問を投げかけるストーリー。本格的なデジタル社会の波が押し寄せつつあった’07年当時、これは非常にタイムリーなテーマだったと言えよう。 監督のレン・ワイズマンも脚本家のマーク・ボンバックも、10代の頃に『ダイ・ハード』1作目を見て多大な影響を受けた世代。当時まだ小学生だったマシュー役のジャスティン・ロングは、親から暴力的な映画を禁止されていたため大人になってからテレビでカット版を見たという。そんな次世代のクリエイターたちが中心となって作り上げた本作。ワイズマン監督が最もこだわったのは、「実写で撮れるものは実写で。CGはその補足」ということ。なので、『ワイルド・スピード』シリーズも真っ青な本作の超絶カー・アクションは、そのほとんどが実際に車を壊して撮影されている。劇中で最もインパクト強烈な、車でヘリを撃ち落とすシーンもケーブルを使った実写だ。CGで付け足したのは回転するヘリのプロペラだけ。あとは、車が激突する直前にヘリから飛び降りるスタントマンも別撮りシーンをデジタル合成している。しかし、それ以外は全て本物。中にはミニチュアと実物大セットを使い分けたシーンもある。こうした昔ならではの特殊効果にこだわったリアルなアクションの数々に、ワイズマン監督の『ダイ・ハード』シリーズへの深い愛情が感じられるだろう。 <『ダイ・ハード/ラスト・デイ』(2013)> 長いこと音信不通だった息子ジャック(ジェイ・コートニー)がロシアで殺人事件を起こして逮捕されたと知り、娘ルーシー(メアリー・エリザベス・ウィンステッド)に見送られてモスクワへと向かったニューヨーク市警のジョン・マクレーン刑事(B・ウィリス)。ところが、到着した裁判所がテロによって爆破されてしまう。何が何だか分からず混乱するジョン。すると息子ジャックが政治犯コマロフ(セバスチャン・コッホ)を連れて裁判所から逃走し、その後を武装したテロ集団が追跡する。実はCIAのスパイだったジャックは、コマロフを救出する極秘任務を任されていたのだ。ロシアの大物政治家チャガーリンの犯罪の証拠を握っており、チャガーリンを危険視するCIAはコマロフをアメリカへ亡命させる代わりに、その証拠であるファイルを手に入れようと考えていたのである。 そんなこととは露知らぬジョンは、追手のテロ集団を撃退するものの、結果としてジャックの任務を邪魔してしまうことに。ひとまずCIAの隠れ家へ駆け込んだジョンとジャック、コマロフの3人は、アメリカへ亡命するならひとり娘を連れて行きたいというコマロフの意向を汲むことにする。待ち合わせ場所の古いホテルへ到着した3人。ところが、そこで待っていたコマロフの娘イリーナ(ユーリヤ・スニギル)によってコマロフが拉致される。テロ集団はチャガーリンがファイルを握りつぶすために差し向けた傭兵部隊で、イリーナはその協力者だったのだ。敵にファイルを奪われてはならない。コマロフのファイルが隠されているチェルノブイリへ向かうジョンとジャック。実はコマロフはただの政治犯ではなく、かつてチャガーリンと組んでチェルノブイリ原発から濃縮ウランを横流し、それを元手にして財を成したオリガルヒだった。コマロフを救出しようとするマクレーン親子。ところが、現地へ到着した2人は思いがけない事実を知ることになる…! オール・アメリカン・ガイのジョン・マクレーン刑事が、初めてアメリカ国外へ飛び出したシリーズ最終章。『ヒットマン』(’07)や『G.I.ジョー』(’09)のスキップ・ウッズによる脚本は、正直なところもう少し捻りがあっても良かったのではないかと思うが、しかし報道カメラマン出身というジョン・ムーア監督の演出は、前作のレン・ワイズマン監督と同様にリアリズムを重視しており、あくまでも本物にこだわった大規模なアクション・シーンで見せる。中でも、ベラルーシで手に入れたという世界最大の輸送ヘリコプターMi-26の実物を使った空中バトルは迫力満点だ。 なお、当初はモスクワで撮影する予定でロケハンも行ったが、しかし現地での街頭ロケはコストがかかり過ぎるという理由で断念。代替地としてモスクワと街並みのよく似たハンガリーのブダペストが選ばれた。イリーナ役のユーリヤ・スニギルにチャガーリン役のセルゲイ・コルスニコフと、ロシアの有名な俳優が出演している本作だが、しかしジョンがロシア人を小バカにするシーンなど、決してロシアに対して好意的な内容ではないことから、現地では少なからず批判に晒されたようだ。実際、ムーア監督がイメージしたのはソヴィエト時代そのままの「陰鬱で荒涼とした」モスクワ。明るくて華やかで賑やかな現実の大都会モスクワとは別物として見た方がいいだろう。 <『ダイ・ハード』シリーズが愛される理由とは?> これはもう、主人公ジョン・マクレーン刑事と演じる俳優ブルース・ウィリスの魅力に尽きるとしか言いようがないであろう。ことさら勇敢なわけでもなければ正義感が強いわけでもない、ぶっちゃけ出世の野心もなければ向上心だってない、愛する家族や友人さえ傍にいてくれればいいという、文字通りどこにでもいる平々凡々とした昔ながらの善良なアメリカ人男性。刑事としての責任感や倫理観は強いものの、しかしその一方で権威や組織に対しては強い不信感を持っており、たとえお偉いさんが相手だろうと一切忖度などしない。そんな反骨精神あふれる庶民派の一匹狼ジョン・マクレーン刑事が、いつも運悪く面倒な事態に巻き込まれてしまい、已むに已まれずテロリスト集団と戦わざるを得なくなる。しかも、人並外れて強いというわけでもないため、最後はいつもボロボロ。このジョン・マクレーン刑事のヒーローらしからぬ弱さ、フツーっぽさ、親しみやすさに、観客は思わず同情&共感するのである。 加えて、もはや演技なのか素なのか分からないほど、役柄と一体化したブルース・ウィリスの人間味たっぷりな芝居も素晴らしい。もともとテレビ・シリーズ『こちらブル―ムーン探偵社』(‘85~’89)の私立探偵デイヴ・アディスン役でブレイクしたウィリス。お喋りでいい加減でだらしがなくて、特にこれといって優秀なわけでも強いわけでもないけど、しかしなぜだか愛さずにはいられないポンコツ・ヒーロー。そんなデイヴ役の延長線上にありつつ、そこへ労働者階級的な男臭さを加味したのがジョン・マクレーン刑事だと言えよう。まさにこれ以上ないほどの適役。当初候補に挙がっていたシルヴェスター・スタローンやアーノルド・シュワルツェネッガーでは、恐らく第二のランボー、第二のコマンドーで終わってしまったはずだ。 もちろん、重くなり過ぎない軽妙洒脱な語り口やリアリズムを追究したハードなアクション、最前線の苦労を知らない無能で横柄な権力者やマスコミへの痛烈な風刺精神、同時代の世相を巧みにストーリーへ織り込んだ社会性など、1作目でジョン・マクティアナンが打ち出した『ダイ・ハード』らしさを確実に継承した、歴代フィルムメーカーたちの職人技的な演出も高く評価されるべきだろう。彼らはみんな、『ダイ・ハード』ファンがシリーズに何を望んでいるのかを踏まえ、自らの作家的野心よりもファンのニーズに重きを置いて映画を作り上げた。これぞプロの仕事である。 その後、ブルース・ウィリス自身は6作目に意欲を示していたと伝えられるが、しかし高次脳機能障害の一種である失語症を発症したことから’22年に俳優業を引退。おのずと『ダイ・ハード』シリーズにも幕が降ろされることとなった。■ 「ダイ・ハード」© 1988 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.「ダイ・ハード2」© 1990 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.「ダイ・ハード4.0」© 2007 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.「ダイ・ハード/ラスト・デイ」© 2013 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2025.07.25
現代の巨匠イーストウッド、監督生活50年のメモリアル『クライ・マッチョ』
ハリウッドの生きる伝説、クリント・イーストウッド。今年5月で、95歳となった。 俳優デビューは1955年。もう、70年も前の話だ。 暫し不遇の時を過ごした後、TVの西部劇シリーズ「ローハイド」(59~65)でブレイク。その後はヨーロッパに渡って、セルジオ・レオーネ監督の“マカロニ・ウエスタン”『荒野の用心棒』(64)『夕陽のガンマン』(65)『続・夕陽のガンマン』(66)の、いわゆる“ドル箱3部作”で、主演俳優の座に就く。 ハリウッド帰還後は、ドン・シーゲル監督の薫陶を受け、最大の当たり役でシリーズ化された『ダーティハリー』(71)などへの出演で、押しも押されぬ大スターとなる。 そして、『ダーティハリー』に主演する直前には、サイコスリラーである、『恐怖のメロディ』(71)で、監督デビューを飾った。 監督として“巨匠”と称されるようになるのは、『許されざる者』(92)以降。この作品と12年後の『ミリオンダラー・ベイビー』(2004)で、2度に渡って、アカデミー賞の作品賞・監督賞を受賞している。 監督生活50年にして、40本目の監督作(別の監督名がクレジットされているが、実質はイーストウッドが演出した作品やTVドラマなども含めると、40数本とカウントされる場合もある…)と謳われたのが、主演も兼ねた、本作『クライ・マッチョ』(2021)である。 実はこの作品が、イーストウッドの監督・主演作として世に出るまでには、長きに渡る紆余曲折があった。 はじまりは1970年代前半。N・リチャード・ナッシュが執筆した、「マッチョ」というタイトルの脚本だった。しかし売り込み先の映画会社に相手にされず、ナッシュはやむなく、「クライ・マッチョ」というタイトルに変えて小説化。75年に出版した。 これを読んで感銘を受けたのが、プロデューサーのアルバート・S・ラディ。『ゴッドファーザー』(72)などで知られる彼が、映画化権を獲得するに至った。 ラディが最初に、イーストウッドの元に『クライ・マッチョ』の企画を持ち込んだのは、1980年頃のこと。イーストウッドは、「登場人物の人間関係」や主人公であるマイク・マイロの「落ちぶれ具合」が気に入り、そんな主人公が、人生を取り戻すチャンスを得るのに、惹かれたという。 しかしこの役を演じるには、50歳の自分はまだ若すぎると、判断。自らは監督に専念して、主演にロバート・ミッチャム(1917~97)を迎えることを、提案した。しかしこのプランは、やがて立ち消えに。 その後『クライ・マッチョ』は、91年にロイ・シャイダー(1932~2008)主演で製作を開始したが、頓挫。2011年には、カリフォルニア州知事の任期を終えたアーノルド・シュワルツェネッガー(1947~ )の俳優復帰作として準備が進められるも、シュワちゃんの不倫・隠し子スキャンダルが祟って、中止の憂き目となった。 それでも映画化が諦めきれなかったラディの元に、1本の電話が入ったのは、2019年。「あの脚本、まだ手元にある?」その声の主は、イーストウッドだった。 最初のオファーから40年が経って、齢90を迎えんとしていた、イーストウッド。「今ならこの役を楽しんで演じられる」と、思ったのだという。 イーストウッドの監督・主演で、遂に映画化が実現することとなった。オリジナル脚本をできるだけ活かすという判断がされ、それ故にメインの時代設定が、1980年となった。 とはいえ、監督の意向を汲んでの、ある程度のリライトは必要となる。オリジナルを書いたナッシュは、2000年に87歳で亡くなっていたため、白羽の矢を立てられたのが、ニック・シェンク。 イーストウッド組には、『グラン・トリノ』(08)『運び屋』(18)に続いて、3度目の参加となるシェンク。彼は期せずして(?)、イーストウッドが自らの監督作で“老人”を演じた、非公式な三部作の、共通の書き手となってしまった。 ***** 1980年のアメリカ・テキサス。 かつてロデオ界のスターだったマイク・マイロは、競技本番での落馬や妻子の事故死など、重なる不幸もあって、いまや落魄の身。孤独な独り暮らしを送っていた。 そんな時マイロは、かつての雇い主で牧場経営者のハワードから、頼まれごとをする。今はメキシコに住む、別れた妻レタに引き取られた14歳の息子ラフォを、テキサスまで連れて来て欲しいという内容だった。 一歩間違えば、“誘拐犯”。しかしハワードに恩義のあるマイロは、断ることができなかった。 ラフォは、男の出入りが激しい母から逃れ、闘鶏用のニワトリ“マッチョ”と、ストリートで生活していた。そんな経緯から、猜疑心や警戒心が強く、迎えに来たマイロに対して、なかなか心を開かない。 そんな2人の、テキサスへの旅が始まった。国境へと向かうも、警察の検問を避け、レタの放った追っ手を躱すために、田舎町へと立ち寄る。 暫しこの地に身を隠すことを決めた2人は、食堂を営む女性マルタと知り合う。そして、何かと世話を焼いてくれる彼女とその家族と、交流を深める。 この町でマイロは、野生の暴れ馬を馴らす仕事を得る。彼は馬の調教を通じて、自分の知識と経験を、ラフォへと惜し気もなく伝える。2人の絆は、ぐっと深まっていった…。 このままこの地に落ち着くのも、悪くない。そんな気持ちも芽生えた2人が、国境を超える日は? ***** 一言で表せば、「老人と少年のロードムービー」である本作は、イーストウッドの様々な過去作を、想起させる作りとなっている。 まずは中年のカントリー歌手とその甥の旅を描く、『センチメンタル・アドベンチャー』(82)。年輩の者が若者に教えを施す、師弟関係を描いた作品としては、『ハートブレイク・リッジ/勝利の戦場』(86)『ルーキー』(90)など。血の繋がりのない寄る辺なき者たちが集って、“疑似家族”を構成していく物語としては、『アウトロー』(76)や『ブロンコ・ビリー』(80)。 “師弟もの”と“疑似家族”のミクスチャーである、『ミリオンダラー・ベイビー』(04)『グラン・トリノ』(08)は、もちろんだ。特に白人の年配者がエスニックの若者を鍛える構図は、『グラン・トリノ』が最も近いかも知れない。 付け加えれば、旅の男マイロと田舎町に暮らすマルタにロマンスが芽生える辺りには、『マディソン郡の橋』(95)を思い起す向きもあるだろう。 マイロがこんなセリフを吐くのにも、イーストウッド過去作とのリンクを感じる。「マッチョってやつは過剰評価されている。人生にはそれより大事なものがある。それに気づいた時には遅すぎるんだ」 イーストウッドは、かつて一線級のアクションスターとして、“マッチョ”に類した役どころを散々演じてきた。しかし歳を重ねるにつれて、それを裏返したような作品を、多く手掛けるようになった。このセリフは、そんな本人の述懐のようで、実に味わい深い。 因みに本作は、イーストウッドが亡きドン・シーゲルとセルジオ・レオーネに捧げた“最後の西部劇”『許されざる者』以来という、“乗馬シーン”がある。実際に馬に跨るのは30年振りだったという、イーストウッドだが、「あぶみに足をかければ、感覚は戻ってくるものだよ」と、悠然たる構えでチャレンジしている。 とはいえ、このシーンの撮影初日には、スタッフ全員が興奮したというのも、無理はない。ファンにしてみても、「感涙もの」である。 主人公マイロと旅をする14歳の少年ラフォ役に抜擢されたのは、長編映画出演は初めてだった、エドゥアルド・ミネット。はるばるメキシコシティからやって来て、何百人も参加したオーディションを勝ち抜いた。 ミネットは、乗馬の経験はなかったが、トレーニングを受けて、あっと言う間にマスターしたという。 マイロの元雇い主で、息子を連れてくることを頼むハワード役には、高名なカントリー歌手で、映画出演も多いドワイト・ヨーカム。イーストウッド曰くヨーカムには、「馬の扱いに慣れている雰囲気がある」とのこと。 田舎町の食堂の女主人マルタには、メキシコ人女優のナタリア・トラヴェンが、起用された。 タイトルロールである、ニワトリのマッチョは、11羽の調教された雄鶏が演じている。それぞれに得意技があり、あるトリは人の手に乗るシーン、あるトリは、合図と共に襲いかかるシーンといった風に、使い分けられた。 撮影はコロナ禍真っ最中の、2020年後半。イーストウッド組の常連スタッフを集め、あらゆる感染対策を講じて、行われた。ニューメキシコ州をメキシコに見立てた、ロケ撮影がメインだった。 そんな中で、イーストウッドと言えば…の“早撮り”で事は進められた。プロデューサーも兼ねるイーストウッドとしては、“早撮り”は、予算を安く上げるという効果もあるが、それ以上に撮影現場に於いて、「勢いを殺ぎたくない」「やる気やエネルギーを絶やしたくない」という、イーストウッド一流の演出術である。 ラフォ役のミネットはイーストウッドに、「監督の希望通りに演技する」と伝えたという。しかしそれに対する回答は、「いや、君の好きなように、心地良いと思う方法でやってくれ」というものだった。メキシコの新人俳優は“巨匠”から、自分自身でラフォ役を掘り下げる自由を与えられたのだ。 ドワイト・ヨーカムはイーストウッドについて、「…撮り直しを好まないと聞いていたけど、僕のアドリブや思い付きを大歓迎してくれた」と、コメントしている。 ・『クライ・マッチョ』撮影中のクリント・イーストウッド監督 本作は逃走劇でもある筈なのに、追っ手が間抜けで弱すぎることもあって、サスペンスはほぼゼロ。またイーストウッド作品には付き物だった、暴力もほとんど登場しない。 食い足りなさを感じる向きもあるかも知れないが、イギリスの「アイリッシュ・タイムズ」紙に掲載された、次の評論が本質を言い表している気がする。「ほとんどなにもせずにすべてを表現できる彼の才能は、年齢を追うごとに磨きがかかっている」 本作が最後の作品かと言われたイーストウッドだったが、94歳の昨年、本作とはガラっとタッチを変えて、これも十八番と言える“絶望シネマ”調のサスペンス『陪審員2番』(2024)を発表した。今度こそ引退と言われているが、まだまだ嬉しい“裏切り”を待ちたい。■ 『クライ・マッチョ』© 2021 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2018.11.16
『ゾンビ』のバージョン乱立の裏話(ロメロ本人によるインタビュー証言あり!)
■「ディレクターズ・カット版」とは? コアなファンにはいささか基礎的な話になるかもしれないが、この機会に整理しておきたい。 『ゾンビ』には大別して二つのバージョンがある。ひとつは本作の監督であるジョージ・A・ロメロ自身が編集を手がけた127分の「米国劇場公開版」。そしてもうひとつは、製作を担当したダリオ・アルジェントの監修のもとで編集された119分の「ダリオ・アルジェント監修版」だ。ストーリーは同じだが、細かなシーンの有無やサウンドトラック、残酷シーンなどに違いが確認できる。ちなみに1978年、日本で劇場初公開されたのは後者で、1985年に国内で初ビデオリリースされたときは、前者がマスターとして採用された。 今回の「ディレクターズ・カット版」は、前者である「米国劇場公開版」がキチンと形となる前のもの。ロメロが1978年の2月に本作の撮影を終え、同年5月に開催されたカンヌ映画祭のフィルムマーケットに出品するために、発表を急いだ粗編集のバージョンである。「米国劇場公開版」よりも12分長く、同バージョンにはないシーンがいくつも含まれている。代表的なものを以下に列記すると、 ■巡視艇基地でフラン(ゲイラン・ロス)とスティーヴン(デヴィッド・エムゲ)が強盗たちに詰め寄られるシーン。■神父がピーター(ケン・フォリー)とロジャー(スコット・H・ライニガー)に話すセリフが多い。■移動中のヘリでの会話が長い。■ピーターとロジャーがショッピングモールの管理室から偵察に出て、もう一度戻るシーン。■クリシュナ教信者姿のゾンビを撃退したあと、フランが「みんなこの場所に夢中で現実を見失っている。ここは刑務所と同じ」とスティーヴンに話すシーン。■ロジャーが死んだ後、3人がモール内での生活を送るシーンが「米国劇場公開版」よりも長い。 このカンヌに出品されたものは、ホラーやSF関連のコンベンションやカレッジなどでも上映され、正式なバージョンでないにもかかわらず、知る人には知られる存在となっていた。四つ星評価で有名な映画評論家レナード・マーティンのムービーガイドブック“Leonard Maltin's Movie Guide”には、かなり以前からこのロングバージョンのことが記されており、また日本では1985年にパイオニアLDCからリリースされた『ゾンビ』のレーザーディスクに封入されているライナーノーツ(執筆は光山昌男氏)にもこの『米国劇場公開版よりも長いバージョンのことが細かく触れられていた(同ライナーノーツでは『ゾンビ/アンカット・アンド・アンセンサード』と仮称) それから9年後の1994年。このロングバージョンは『ゾンビ/ディレクターズ・カット完全版』(ディレクターズ・カット版)というタイトルを得て、東京国際ファンタスティック映画祭にて日本で初上映され、新宿シネパトスを封切りに劇場公開されることになる。 ■ロメロ監督自身による「ディレクターズ・カット版」の位置付け こうした性質上、ロメロ本人はこれを正式な監督承認のものとは明言していない。同バージョンは前述したように、あくまで粗編集のものであって、完成した「米国劇場公開版」が監督自身の認めるバージョンである。そのため一般的に本国では、この「ディレクターズ・カット版」は「エクステンデッド・エディション(拡張版)」という呼称がなされている。 以下のインタビュー発言は2010年4月8日、筆者が『サバイバル・オブ・ザ・デッド』(09)のプロモーションでロメロに取材をしたときのものだ。雑誌用に起こした文字テキストから、使わなかった部分でこうした会話が交わされている。 ——『ゾンビ』には監督の手がけたバージョンは127分のアメリカ劇場公開版と、139分のエクステンデッド・エディション(ディレクターズ・カット版)がありますね。 ロメロ 僕自身、いろんなバージョンが出ているのは知ってるんだけど、それぞれのバージョンを全部は観ていないし、どれがどれだかよくわからない。契約上ダリオ・アルジェントがヨーロッパの公開版の権利を有し、彼がカットするという条件だった。それは彼の方がヨーロッパの観客の好みを知っていて、僕のほうがアメリカの好みを知ってるからっていうことで、だから僕がアメリカ公開版をカットした。それがオリジナル版かと言われればそれかもしれないし、ダリオのカットしたものもあるし、僕が一番最初にオリジナルをカットしたものもある。だから何をもってオリジナルかというのはわからないし、よく特典映像とか言って誰も観ていない映像ってのがあるけど、そういうのは僕も見てないくらいでね(笑)。いったい誰が撮ったんだというような映像があるもんね、『ゾンビ』には。 ——僕が知りたかったのが、ダリオ・アルジェント側に渡したという編集素材用の3時間ラフ・カットバージョンが存在するというのがあって、それは噂の域を出てなかったんですけども、それは本当に存在するんでしょうか? ロメロ ノーノー(笑)、あの作品を僕はそんなに撮影してないってば。 ■バージョン違いが生まれた背景 同作の熱心なファンとの温度差を覚える淡白な回答だが、ではなぜ「ディレクターズ・カット版」という、あたかも監督承認のようなタイトルがつけられたのか? これは1992年に公開された『ブレードランナー ディレクターズ・カット最終版』以降、興行的に耳馴染みのあるワードや語感を優先し、従来のものとバージョンの異なる作品を総じて「ディレクターズ・カット」と呼ぶ傾向にあり、本作もそれに準じたものといっていい。しかしロメロは自分で編集をおこなう監督だし、ディレクターズ・カットという呼称に決して偽りはない。むしろ粗編集版をさらに刈り込んでいるだけに「エクステンデッド・エディション」という呼び名にこそ違和感が残る。 なにより承認の有無にかかわらず、完成版を作っていくうえで、何が必要で何が切り落とされていくのか、その過程がうかがえるだけでも「ディレクターズ・カット版」は興味深いバージョンだ。まさに国文学の世界における「原典」と「異本」の関係にも似て、考古学的な興味を大いに喚起させられるものといえるだろう。 そもそも、なぜこうしたバージョン違いが生じたのかは、ロメロが言及したとおり流通権の分与が起因となっている。国内での資金調達に限界を覚えたロメロと製作会社「ローレル・グループ・エンタテインメント」の代表リチャード・P・ルビンスタインは、資金援助を海外に求め、同社の渉外担当であるアーヴィン・シャピロを通じて『ゾンビ』の脚本を海外の映画関係者に配布。それに反応したのが、当時最新鋭のサラウンド音響設備を活かしたいという理由で作品を探していた、プロデューサーのアルフレッド・クオモだったのだ。加えて氏がダリオ・アルジェンドへと脚本を手渡し、彼らはヨーロッパと極東、そして日本など英語圏以外の権利と引き換えに、イタリアの映画製作会社「ティタヌス」に流通権を販売。投資をバックアップしたのである。 また質問の後ろに出て来る「3時間バージョン」というのは、撮影と並行して作成され、アルジェント側にも編集の元として送られたワークプリントで「ディレクターズ・カット版」のさらに前段階のものだ。3時間は大げさだとロメロに否定されたが、実際それは2時間30分に及び、その一部は同作の秀逸なドキュメンタリー『ドキュメント・オブ・ザ・デッド』(85)の作中で見ることができる。だが残念なことに撮影監督のマイケル・ゴーニックによれば、これらの素材はすべて破棄されたという。◾️ ©1978 THE MKR GROUP INC. All RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2025.07.03
『オペラ座/血の喝采』アルジェント全盛期の最後を飾る傑作ジャッロを109分の4Kリマスター完全版で!
イタリア産B級娯楽映画そのものが衰退期にあった’80年代 ダリオ・アルジェントのキャリアにおいて「最後の完璧な傑作(last full-fledged masterpiece)」とも呼ばれるジャッロ映画である。ご存じの通り、処女作『歓びの毒牙(きば)』(’70)で空前のジャッロ映画ブームを巻き起こし、非の打ちどころなき大傑作『サスペリアPART2』(’75)でブームの頂点を極めたアルジェント。その後、当時のパートナーであった女優ダリア・ニコロディの影響でオカルトに傾倒した彼は、現代ドイツのバレエ学校に巣食う魔女の恐怖を描いた『サスペリア』(’77)がアメリカでも大ヒットを記録し、さらにはジョージ・A・ロメロ監督のメガヒット作『ゾンビ』(’78)の出資・配給を手掛けるなどビジネスマンとしての才能も発揮。久しぶりにジャッロの世界へ戻った『シャドー』(’82)と『フェノミナ』(’85)も評判となり、ランベルト・バーヴァ監督の『デモンズ』(’85)シリーズではプロデューサーとしても成功を収めた。’70~’80年代のアルジェントは、映画人として文字通りの全盛期だったと言えよう。 ところが、ハリウッド資本でアメリカ・ロケを行った『トラウマ/鮮血の叫び』(’93)以降、批評的にも興行的にも著しく失速することとなってしまう。中には『スリープレス』(’01)のような隠れた名作もあるにはあるものの、しかしすっかり往時の才気も輝きも失ったアルジェント映画にファンは失望し続けることに。まあ、それでもアルジェントが新作を撮ったと聞けば、「むむっ、きっと今度こそは…」と微かな期待を抱いてしまうのが哀しきファンの性(さが)なのですけどね…。そんなこんなで、我らの愛するアルジェントがまだ乗りに乗っていた’80年代、その最期を飾った傑作がこの『オペラ座/血の喝采』(’88)だったのである。 なおかつ、当時はイタリア産B級娯楽映画が滅亡の危機に瀕していた時代でもあった。敗戦国イタリアの過酷な現実を徹底したリアリズムで描いた『無防備都市』(‘45)や『自転車泥棒』(’48)など、一連のいわゆるネオレアリスモ映画群で早くも戦後復興を果たしたイタリア映画界。その中からヴィットリオ・デ・シーカやルキノ・ヴィスコンティ、フェデリコ・フェリーニなどの世界的な巨匠たちが台頭し、そのフェリーニの『甘い生活』(’60)とミケランジェロ・アントニオーニの『情事』(’60)が、同じ年のカンヌ国際映画祭で前者がグランプリを、後者が審査員特別賞を獲得したことで、いよいよイタリア映画は黄金時代を迎える。 その一方で、’50年代半ばよりハリウッドの各大手スタジオがローマの撮影所チネチッタで映画を撮影するように。当時、スタジオ・システムの崩壊で経営の危機に瀕したハリウッド映画界は人件費削減のため、熟練の職人スタッフをいくらでも安く雇うことができ、なおかつ撮影機材も豊富に揃っている映画大国イタリアに注目したのである。そこでハリウッド式の映画撮影術を学んだ地元イタリアの映画人たちは、わざわざセットを作らなくても古代遺跡がそこらじゅう沢山あるという環境を活かし、古代ギリシャやローマの英雄を主人公にしたハリウッド風の冒険活劇映画を低予算で量産する。その中のひとつ『ヘラクレス』(’58)がアメリカでも爆発的な大ヒットを記録したことから、いわゆる「ソード&サンダル映画」のブームが巻き起こったのだ。これがイタリア産B級娯楽映画の原点だったと言えよう。 その後も、マカロニ・ウエスタンにユーロ・スパイ・アクション、ゴシック・ホラーにジャッロにクライム・アクションにソフト・ポルノにと、世界的なトレンドの傾向を敏感に取り入れながら、ハリウッドを向こうに回して低予算の良質なB級エンターテインメントを世界中のマーケットへ提供したイタリア映画界。ところが、スティーブン・スピルバーグやジョージ・ルーカスの登場によってハリウッド映画の技術レベルが格段にアップし、なおかつ’80年代に入って『インディ・ジョーンズ』シリーズだの『E.T.』だの『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズだのと、ハリウッドのジャンル系娯楽映画が特殊効果をふんだんに使った大作主義にどんどん傾倒していくと、さすがのイタリア映画も太刀打ちできなくなってしまう。例えば『ダーティハリー』(’71)のパクリはイタリアでも作れるが、しかし『ダイ・ハード』(’88)のパクリは技術的にも規模的にも極めて困難だったのである。 それでもなお、なんちゃって『コナン』やなんちゃって『マッド・マックス』、なんちゃって『ニューヨーク1997』などの低予算映画を頑張って作り続けたイタリア映画界だが、それこそ一連のルチオ・フルチ映画を例に出すまでもなく、作品の質はどんどん低下していくばかり。そうした中で唯一、ハリウッドに負けじと気を吐いていたのがアルジェントとその一派(ランベルト・バーヴァやミケーレ・ソアヴィ)だったわけだが、その勢いもそろそろ限界に近付きつつあった。実際、’90年代に入るとイタリアのジャンル系映画はほぼ死滅。職人監督たちは次々とテレビへ移行してしまう。よって、本作『オペラ座/血の喝采』はダリオ・アルジェント全盛期の終焉を象徴する映画であると同時に、長年世界中のファンに愛されたイタリア産B級娯楽映画の終焉を象徴する映画でもあったように思う。 オペラ「マクベス」の不吉なジンクスが血みどろの惨劇を招く…! 舞台はイタリアのミラノ。スカラ座ではヴェルディのオペラ「マクベス」のリハーサルが着々と進んでいる。これが初めてのオペラ演出となるホラー映画監督マルコ(イアン・チャールソン)は、本物のカラスを使用したアヴァンギャルドな演出で観客の度肝を抜こうと考えるが、しかし神経質で気位の高い主演のソプラノ歌手マーラ・チェコーヴァと意見が折り合わず、挙句の果てにリハーサルをキャンセルしたチェコ―ヴァが交通事故で大怪我を負ってしまう。代わりにマクベス夫人役を射止めたのは、チェコ―ヴァのアンダースタディを務める無名の新人歌手ベティ(クリスティナ・マルシラック)。この棚ボタ的な大抜擢に母親代わりのマネージャー、ミラ(ダリア・ニコロディ)は大喜びするも、しかしベティ本人はあまり表情が冴えない。というのも、「マクベス」の舞台は関係者に不幸を招くというジンクスがあるのだ。実際、本来主演するはずだったチェコ―ヴァは事故で重傷を負った。その直後から、ベティのもとには怪しげな電話がかかってくる。よりによってデビュー作が「マクベス」だなんて。ベティは何か不吉なことが起きるのではないかと不安で仕方なかった。 ほどなくしてオペラ「マクベス」は初日を迎え、マクベス夫人を堂々と演じ切ったベティは観客から大喝采を浴びる。スター誕生の瞬間だ。ところがその一方で、立ち入り禁止のボックス席に何者かが侵入し、気付いて追い出そうとした劇場スタッフが惨殺される。警察の捜査を担当するのは、熱心なオペラ・ファンでもあるサンティーニ警部(ウルバノ・バルベリーニ)。その晩、祝賀パーティを抜け出したベティは恋人でもある演出助手ステファノ(ウィリアム・マクナマラ)の自宅で過ごすが、しかしステファノが別室でお茶を入れている間に、正体不明の覆面殺人鬼に襲われる。粘着テープで口を塞がれたうえで柱に縛り付けられ、なおかつ目を閉じることができないよう目の下に針を貼り付けられたベティは、目の前でステファノが殺人鬼に殺される様子を強制的に見せられる。すぐに解放された彼女は、近くの公衆電話から匿名で警察へ通報。自ら名乗らなかった理由は、遠い過去の恐ろしい悪夢だ。幼い頃に有名なオペラ歌手だった母親を殺されたベティは、それ以来夜な夜な悪夢に悩まされたのだが、その夢の中に出てくる覆面の殺人鬼が今回の犯人とソックリだった。監督のマルコだけには真実を打ち明けるベティ。犯人は彼女の知人かもしれないと考えたマルコは、周囲を警戒するようにと忠告する。 その同じ晩、何者かが劇場の衣裳部屋へとこっそり侵入し、興奮して檻から逃げ出したカラスが数羽殺される。警察はその侵入者とステファノ殺しの犯人が同一人物だと考えるが、しかし手掛かりは何一つとして見つからなかった。さらに、同じような方法で衣装係ジュリア(コラリーナ・カタルディ・タッソーニ)が殺され、ベティは再びその一部始終を強制的に見せられる。犯人のターゲットがベティであることは間違いない。サンティーニ警部はベティの自宅に護衛の刑事を待機させるが、しかし警官を装った犯人によってミラが惨殺され、護衛のソアヴィ刑事(ミケーレ・ソアヴィ)も血祭りに挙げられる。自室へ追い込まれて逃げ場を失ったベティだったが、しかし以前からベティを秘かに見守っていた隣家の少女アルマ(フランチェスカ・カッソーラ)に救われ、古い通気口を伝って外へ脱出することに成功する。 なんとしてでも犯人の凶行を止めなくてはならないが、しかし警察はあまりにも頼りにならない。そこでベティとマルコは、劇場スタッフの協力を得て「ある秘策」を実行に移す。どういうことかというと、カラスに犯人捜しをさせようというのだ。高度な知性を持つカラスは、仲間を殺した犯人を覚えているに違いない。そこで、マルコたちは舞台演出を装ってカラスの大群を劇場に放ち、彼らに犯人を襲撃させようと考えたのだ。犯人は必ずや劇場のどこかでベティを見張っているはず。それを狙って罠を仕掛けようというわけだ。果たして、彼らの目論見通りに正体不明の殺人鬼を捕らえることは出来るのか…? 凝りに凝ったビジュアルに要注目! これはアルジェント作品において毎度のことではあるのだが、随所に明らかなご都合主義の目立つ脚本は賛否両論あることだろう。特に、劇場で焼死したはずの犯人が実は生きていました!現場で発見された焼死体をよくよく調べてみたらダミー人形だったのです!という終盤のどんでん返しに、悪い意味で腰を抜かした観客も少なくなかろう。共同脚本のフランコ・フェリーニによると、これは作家トマス・ハリスのハンニバル・レクター・シリーズ第1弾「レッド・ドラゴン」をヒントにした思いついたアイディアだったらしいが、あまりにも唐突過ぎて説得力に欠けたと言えよう。ただし、スイスを舞台にしたダメ押し的なクライマックスは、実のところストーリーの流れ上、必要だったのではないかと思う。どこか寓話的な本作のストーリーにおける本質は、毒親に育てられた主人公ベティが過去のトラウマと向き合い、長いこと自分を苦しめてきた悪夢を克服することで、毒親の呪縛からようやく解放されるという成長譚。その母親と関係のあった連続殺人鬼は、まさに過去から蘇った忌まわしき亡霊そのものであり、オペラ劇場を舞台にした直接的な対峙を経てスイスの大自然を背景に死闘を演じるというプロセスは、そこへ至るまでの彼女の精神的な成長を考えれば、極めて理に適ったものではないかと思う。 ちなみに本作、日本で劇場公開されたのは97分の短縮バージョンだった。これは出資元のオライオン・ピクチャーズが勝手に削ってしまったもので、当時は日本だけでなくアメリカやイギリスでもこのバージョンが上映されたらしいのだが、これがなんとも酷かった。例えば、母親から虐待を受けていると思しき隣家の少女アルマの伏線エピソードがごっそりカットされているため、この短縮バージョンだと唐突に現れた見ず知らずの少女がベティのピンチを救うという、まことに不自然かつご都合主義の極みみたいな展開になってしまう。筆者を含めて、このシーンに思わず首を傾げた観客は多かったはずだ。また、このバージョンではクライマックスの、スイスの大自然に戯れるベティが草むらでトカゲを解放してあげるシーンも削除されており、それゆえ「虐待を受けて育った少女が過去のトラウマから解放されるまでを描いた残酷なおとぎ話」という、アルジェントが本作で描かんとしたストーリーの趣旨も著しく損なわれてしまっている。公開時に賛否両論だった本作が正当な評価を受けるようになったのは、今回ザ・シネマでも放送される完全版がイタリア以外の各国でソフト化されるようになった’00年代以降のことだ。 その一方で、凝りに凝りまくったカメラワークは当時から非常に評価が高かった。本人も認めているように、もともともカメラで遊ぶの大好きなビジュアリストで、常にユニークなアングルや斬新なショットを創意工夫してきたアルジェントだが、本作ほど映像表現に技巧を凝らした作品はないだろう。中でも特にビックリしたのは、ドアの覗き穴を覗いていたベティのマネージャー、ミラが、向こう側の犯人に射殺されるシーン。アルジェントはわざわざ2メートルほどになる覗き穴の拡大模型を作成し、さらにはミラを演じる女優ダリア・ニコロディの右目と後頭部に特殊メイクを施して少量の火薬を仕込み、さらには彼女の遠く背後にある電話にも火薬を仕掛けることで、犯人の拳銃から発射された弾丸が覗き穴のシリンダーを突き破り、覗いているミラの右目から後頭部を貫通し、最終的に後方の電話機に当たるという一連の流れを、なんとスローモーションで一気に見せてしまったのだ。いやはや、変態ですな(笑)。 変態と言えば、犯人がベティの目の下にテープで幾つもの針を張り付けて目を閉じれないようにし、残忍な人殺しの一部始終を無理やり見せるという設定。なんて陰湿かつ変態なんだ!と思った観客も多いはずだが、実はこの設定、残酷シーンで目をつぶったり、手で目を塞いだりするなんてけしからん!せっかく苦労して撮ったのに失礼じゃないか!そんな不届き者の観客に無理やりでも残酷シーンを見せつけてやりたい!というアルジェントの強い憤りと願望から生まれたとのこと。これまた実に変態である。 さらなる見せ場としては、カメラがカラスの視点になって劇場を飛び回る終盤の「犯人捜し」シーンも印象的。ロケ地に使われたのはミラノのスカラ座ではなく、同じような規模で内装のソックリなパルマのレージョ劇場なのだが、このシーンの撮影では劇場の天井中央にあるシャンデリアを取り外し、その穴から複数台のカメラを装着した巨大な回転式クレーンビームを吊り下げて使用している。クレーンビームはリモートコントローラーで上下に移動でき、なおかつカメラもクレーンビームをレール代わりにして移動可能なため、それこそ自由自在に空を飛んでいるカラス視点の映像を撮ることができたのだ。 ショッキングだったのは、ウィリアム・マクナマラ演じる美青年ステファノが惨殺されるシーン。顎からナイフを突き刺す場面は古典的なトリックだとすぐに分かるが、しかしナイフの先が口の中へ突き抜けるクロースアップ・ショットはどうやって撮ったのか不思議だった。実はこれ、演じるマクナマラ本人の口から型抜きして作った、偽物の口を撮影に使用している。要するに、ダミーヘッドならぬダミーマウスだ。なるほど確かに、ブルーレイやDVDの該当シーンで映像を静止すると一目瞭然。よく見ると作り物である。 なお、撮影を担当したのは『ガンジー』(’82)でアカデミー賞に輝く名カメラマン、ロニー・テイラー。実はアルジェント、本作の撮影に入る数カ月前、オーストラリアで自動車メーカー、フィアットのCMを撮ったのだが、その際に広告代理店の手配したカメラマンがテイラーだった。3週間に及ぶ撮影期間中、映画について大いに語り合ったアルジェントとテイラーは意気投合。本作でも引き続きタッグを組むこととなり、以降も『オペラ座の怪人』(’97)と『スリープレス』で顔を合わせている。 大物オペラ歌手が顔を見せない意外な理由とは…? 当初、主人公ベティ役にジェニファー・コネリーを想定していたものの、しかし『フェノミナ』の二番煎じと思われることを恐れてボツにしたというアルジェント。ほかにも当時注目されていたオペラ歌手チェチリア・ガスディアも候補だったとか、一時はミア・サラに決まりかけたなどの諸説あるのだが、いずれにせよ最終的にはアルジェントの友人であるファッション・デザイナー、ジョルジオ・アルマーニの推薦で、スペインの若手女優クリスティナ・マルシラックに白羽の矢が立てられた。ところが彼女、最初からアルジェントに対して反抗的だったらしく、彼にとっては最も扱いづらい女優だったらしい。ただ、関係者のインタビューを総合すると、アルジェントだけでなくベテランのスタッフには同じく反抗的で、しかしウィリアム・マクナマラやコラリーナ・カタルディ・タッソーニなど同世代の若手共演者とは友好的だったらしいので、恐らくもともと「大人」に対して一方的な反感を持っていたのかもしれない。 そんなベティをオペラ歌手として指導し、正体不明の殺人鬼から守ろうとする演出家マルコ役には、『炎のランナー』(’80)で脚光を浴びたシェイクスピア俳優イアン・チャールソン。あのイアン・マッケランやアラン・ベイツも絶賛する天才的な役者だったが、本作の撮影中に交通事故を起こした際の病院検査でHIV感染が発覚し、その3年後に帰らぬ人となってしまった。サンティーニ警部を演じるウルバノ・バルベリーニは、イタリア有数の名門貴族バルベリーニ家の御曹司。『デモンズ』の主演でアルジェントに気に入られ、本作にも声をかけられたのだが、当初は演出助手ステファノ役をオファーされていたらしい。しかし、あっという間に殺されるような役は嫌だとアルジェントに直談判したところ、実年齢よりもだいぶ年上のサンティーニ警部役にキャスティングされたらしい。 そのステファノ役を演じるウィリアム・マクナマラは、『君がいた夏』(’88)や『ステラ』(’90)などで一時期注目されたハリウッドの端正な美少年俳優。当時の彼はイタリアとフランスの合作によるテレビの大型ミニシリーズ『サハラの秘密』(’87)に出演するためローマに滞在しており、招かれた業界パーティでたまたま知り合ったアルジェントに「ちょうど君にピッタリな役があるんだ!」と誘われたという。アメリカ人と言えば、衣装係ジュリアを演じるコラリーナ・カタルディ・タッソーニもニューヨーク生まれのイタリア系アメリカ人。父親がオペラ演出家、母親がオペラ歌手、祖父もプッチーニと組んだオペラ指揮者というオペラ一家の出身で、その父親がイタリアに活動の拠点を移したためローマで育ったという。彼女と言えば、なんといっても『デモンズ2』(’86)で最初にデモンズ化するサリー役のインパクトが強烈なのだが、あの演技を評価したアルジェントが彼女のためにジュリア役を書いてくれたという。これ以降、『オペラ座の怪人』と『サスペリア・テルザ 最後の魔女』(’07)でもアルジェントと組んでいる。 なお、フラッシュバック・シーンで犯人に殺されるブロンド女性は、『デモンズ2』でサリーの友達として顔を出していたマリア・キアラ・サッソ。大物オペラ歌手マーラ・チェコーヴァの助手を演じているイケメン俳優ピーター・ピッシュは、『デモンズ』の不良グループのメンバーだった。オペラの舞台裏シーンでは、その『デモンズ』でヒーローの親友役だったカール・ジニーの姿も。隣家の少女アルマの母親役は、『シャドー』で女性刑事を演じていたカローラ・スタニャーロ。本作の助監督を務めるミケーレ・ソアヴィも刑事とエキストラの1人2役で登場するし、そのソアヴィの無名時代からの親友で『アクエリアス』(’87)と『デモンズ3』(’89)に主演したバルバラ・クピスティも舞台関係者役で顔を出している。演出家マルコの恋人役は、当時アルジェントの恋人だったアントネッラ・ヴィターレ。ミラ役のダリア・ニコロディを含めて、アルジェント・ファミリー総出演という感じですな! ちなみに、結局最後まで顔が一切写らない大物オペラ歌手、マーラ・チェコーヴァだが、この役にはもともと大女優ヴァネッサ・レッドグレーヴが起用され、実際に撮影のため本人もローマまで足を運んでいたらしい。もちろん契約書にもサイン済み。彼女が関わる撮影期間は1週間の予定で、その分のギャラも支払われていた。ところが、1週間経っても出番がないことから、約束の期間が過ぎましたよということでレッドグレーヴはイギリスへ帰国。どうやら、製作陣は撮影開始までの待機期間を計算に入れていなかったらしい。えっ!まだ撮影始まってもいないのに帰っちゃったの!?と慌てても後の祭り。約25万ドルとギャラの金額も大きかったため、代役を立てる予算的な余裕などなかったことから、ミラ役のダリア・ニコロディが1人2役でチェコーヴァを演じることになった。ロングショットや下半身だけで顔を見せないのはそのためだ。 先述したように、オライオン・ピクチャーズが勝手に再編集を行ったことなどもあり、興行的には成功したものの心情的には失敗作だと考えていたというアルジェント。いつも以上に予算と情熱を注ぎこんだ企画だったため、当時はかなり落ち込んでしまったらしいが、今では自身のフィルモグラフィーの中で最も好きな作品の筆頭格だという。■ 『オペラ座/血の喝采』© 1987 RTI
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COLUMN/コラム2025.03.06
現代の巨匠イーストウッドが、実在の英雄を通して捉えた“イラク戦争”『アメリカン・スナイパー』
クリス・カイル、1974年生まれのテキサス州出身。8歳の時に、初めての銃を父親からプレゼントされて、ハンティングを行った。 カウボーイに憧れて育ち、ロデオに勤しんだが、やがて軍入りを希望。ケニアとタンザニアのアメリカ大使館が、国際テロ組織アルカーイダが関与する自爆テロで攻撃されるなど、祖国が外敵から攻撃されていることに触発されて、アメリカ海軍の特殊部隊“ネイビー・シールズ”を志願した。 2003年にイラク戦争が始まると、09年に除隊するまで4回、イラクへ派遣された。そこでは主に“スナイパ-”として活躍し、166人の敵を射殺。これは米軍の公式記録として、最多と言われる。 味方からは「レジェンド〜伝説の狙撃手」と賞賛されたカイルは、イラクの反政府武装勢力からは、「ラマディの悪魔」と恐れられ憎悪された。そしてその首には、賞金が掛けられた。 4度ものイラク行きは、カイルの心身を蝕み、精神科医からPTSDの診断を受けた。カイルは民間軍事支援会社を起こし、それと同時に、自分と同じような境遇に居る帰還兵たちのサポートに取り組んだ。彼らを救うことが、自分自身の癒やしにもなると考えたのである。 兵士は銃に愛着があるため、それがセラピーになる場合がある。カイルは帰還兵に同行して牧場に行き、射撃を行ったり、話を聞いたりした…。 こうした歩みをカイル本人が、スコット・マクイーウェン、ジム・デフェリスと共に著した“自伝”は、2012年に出版。100万部を超えるベストセラーとなった。 脚本家のジェイソン・ホールは、カイルの人生に注目。2010年にテキサス州へと訪ねた。 その後カイルと話し合いながら、脚本の執筆を進めた。彼が自伝を書いているのも、そのプロセスで知ったが、結果的にそれが原作にもなった。 ホールは、俳優のブラッドリー・クーパーに、映画化話を持ち込む。クーパーは、『ハングオーバー』シリーズ(2009〜13)でブレイク。『世界にひとつのプレイブック』(12)でアカデミー賞主演男優賞にノミネートされ、まさに“旬“を迎えていた。 クーパーはこの企画の権利を、ワーナー・ブラザースと共に購入。映画化のプロジェクトがスタートした。 当初はクーパーの初監督作として検討されたが、いきなりこの題材では、荷が重い。続いて『世界にひとつのプレイブック』や『アメリカン・ハッスル』(13)でクーパーと組んだデヴィッド・O・ラッセルが候補になるが、これも実現しなかった。 その後、スティーブン・スピルバーグが監督することとなった。当初積極的にこの企画に取り組んだスピルバーグだったが、シナリオ作りが難航すると、降板。 そこで登場するのが、現代ハリウッドの巨匠クリント・イーストウッド!一説には、スピルバーグが後任を依頼するため連絡を取ったという話があるが、イーストウッド本人は、「おれはスピルバーグの後始末屋と思われているけど、それは偶然だ」などと発言しているので、真偽のほどは不明である。 イーストウッドによると、依頼が来た時は他の映画の撮影中。仕事とは関係なく、本作の原作を読んでいるところだった。 カイルは父親から、「人間には三種類ある。羊と狼と番犬だ。お前は番犬になれ」と言われて、育った。そのため、羊のような人々を狼から守ることこそ、自分の使命だと考えていた。 それが延いては、家族と一緒にいたいという気持ちと、戦友を助けたいという気持ちの板挟みになっていく。この葛藤はドラマチックで、映画になると、イーストウッドは思った。 まずは「脚本を読ませてくれ」と返答。その際依頼者から、プロデューサーと主演を兼ねるクーパーが、「ぜひクリントに監督をお願いしたい」と言ってると聞いて、話が決まったという。 クーパーは幼少の頃から、いつか仕事をしてみたいと思っていた俳優が、2人いた。それは、ロバート・デ・ニーロとクリント・イーストウッドだった。 デ・ニーロとの共演は、『世界にひとつのプレイブック』で実現した。イーストウッドについては、『父親たちの星条旗』(06)以降、いつも彼の監督作のオーディションに応募してきた。本作で遂に、夢が叶うこととなったのである。 こうして、本作にとってはクーパー曰く、「完璧な監督」を得ることとなった。実は、この物語の主人公であるクリス・カイル自身も、もし映画化するなら、「イーストウッドに監督してもらいたい」と、希望していたという。 イーストウッドが監督に決まった頃、ジェイソン・ホールは脚本を一旦完成。クーパーら製作陣に、渡した。 その翌日=2013年2月2日、クリス・カイルが、殺害された。犯人は、イラク派遣でPTSDとなった、元兵士の男。カイルは男の母親から頼まれて、救いの手を差し伸べた。ところが、セラピーとして連れ出した射撃練習場で、その男に銃撃され、命を落としてしまったのである。 クーパーもイーストウッドも、まだカイルと、会っていなかった。対面する機会は、永遠に失われた。 脚本に加え、製作総指揮も務めることになっていたジェイソン・ホールは、葬儀後にカイルの妻タヤと、何時間も電話で話をした。タヤは言った。「もし映画を作るなら、正しく作ってほしい」 イーストウッドが監督に就いたことと、この衝撃的な事件が重なって、映画化の方向性は決まり、脚本は変更となった。焦点となるのは、PTSD。戦場で次々と人を殺している内に、カイルが壊れていく姿が、描かれることとなった。 イラクへの派遣で、カイルの最初の標的となるのは、自爆テロをしようとした、母親とその幼い息子。原作のカイルは、母親の方だけを射殺するが、実際は母子ともに、撃っていた。 原作に書かなかったのは、子どもを殺すのは、読者に理解されないだろうと、カイルが考えたからだった。しかしイーストウッドは、それではダメだと、本作で子どもを狙撃する描写を入れた。 後にカイルには、再び子どもに照準を合わさなければならない局面が訪れる。その際、イラク人たちを「野蛮人」と呼び、狙撃を繰り返してきたような男にも、激しい内的葛藤が起こる。そして彼が、実はトラウマを抱えていたことが、詳らかになる。 もう一つ、原作との大きな相違点として挙げられるのが、敵方の凄腕スナイパー、ムスタファ。原作では一行程度しか出てこない存在だったが、イーストウッドは彼を、カイルのライバルに設定。その上で、その妻子まで登場させる。 即ち、ムスタファもカイルと同様に、「仲間を守るために戦う父親」ということである。この辺り、太平洋戦争に於ける激戦“硫黄島の戦い”を題材に、アメリカ兵たちの物語『父親たちの星条旗』(06)と、それを迎え撃つ日本兵たちを描いた『硫黄島からの手紙』(06)を続けて監督した、イーストウッドならではの演出と言えるだろう。 ブラッドリー・クーパーは、カイルになり切るために、肉体改造を行った。クーパーとカイルは、ほぼ同じ身長・年齢で、靴のサイズまで同じだったが、クーパーが84㌔ほどだったのに対し、筋肉質のクリスは105㌔と、体重が大きく違ったのである。 そのためクーパーは、成人男性が1日に必要なカロリーの約4倍である、8,000キロカロリーを毎日摂取。1日5食に加え、エネルギー補給のために、パワーバーやサプリメント飲料などを取り入れる生活を送った。 筋肉質に仕上げるため、数か月の間は、朝5時に起床して、約4時間のトレーニングを実施。それで20㌔近くの増量に成功した。 撮影に入っても、体重を落とさないための努力が続く。いつも手にチョコバーを握り、食べ物を口に押し込んだり、シェイクを飲んだり。撮影最終日にクーパーが、「助かった、これでもう食べなくて済む!」と呟くのを、イーストウッドは耳にしたという。 役作りは、もちろん増量だけではない。“ネイビー・シールズ”と共に、本物さながらの家宅捜査や、実弾での訓練などを行った。細かい部分では、クリス・カイルが実際に聴いていた音楽のプレイリストをかけ、常時リスニングしていたという。 こうした粉骨砕身の努力が実り、クーパーのカイルは、その家族や友人らが驚くほど、“激似”に仕上がった。 カイルの妻タヤ役に決まったのは、シエラ・ミラー。イーストウッド作品は、撮影前の練習期間がほとんどなくて、リハーサルもしない。クーパーは撮影までに、タヤ役のシエナ・ミラーとスカイプで何度か話して、夕食を1度一緒に食べた。その時彼女は妊娠していたが、それが2人の絆を深めることにも繋がったという。 クーパーとミラーはタヤ本人から、夫が戦地に居た時に2人の間で交わしたEメールをすべて見せてもらった。ミラーは目を通すと思わず、口に出してしまった。「すごい、あなたは彼のことを本当に愛していたのね」 これにより、カイル夫妻のリアルな夫婦関係を演じるためのベースができた。そのため撮影が終わって数週間、ミラーは役から抜け出すのに、本当に悲しい気持ちになってしまったという。 撮影は、2014年3月から初夏に掛けて行われた。戦争で荒廃したイラクでの撮影は難しかったため、代わりのロケ地となったのは、モロッコ。クーパーはじめ“ネイビー・シールズ”を演じる面々は、アメリカ国内で撮影して毎日自宅に帰るよりも、共に過ごす時間がずっと長くなったため、本物の“戦友”のようになったという。 その他のシーンは、カリフォルニアのオープンセットやスタジオを利用して、撮影された。 イラクの戦場に居るカイルと、テキサスに居るタヤが電話で会話するシーン。クーパーとミラーはお互いの演技のために、電話を通じて本当に喋っていた。 妊娠しているタヤが病院から出て来て、携帯電話でカイルに、「男の子よ」と言った後のシーンは、ミラーにとっては、それまでの俳優人生の中で、最も「大変だった」。喜びを伝える電話の向こう側から、銃声が響き渡る。それは愛する夫が、死の危険に曝されているということ…。 脚本のジェイソン・ホールの言う、「兵士の妻や家族たちにとって、戦争とは、リビングルームでの体験だった」ということが、最も象徴的に表わされたシーンだった。 因みにミラーが、演技する時に複雑に考えすぎていると、イーストウッドは、「ただ言ってみればいい」とだけ、彼女に囁いた。ミラーにとっては、「最高のレッスン」になったという。 脚本には、カイルが運命の日に、銃弾に倒れてしまうシーンも存在した。しかし遺族にとってはあまりにもショッキングな出来事であるため、最終的にカットされることになった。 完成した本作を観て、カイルの妻タヤは、「…私の夫を生き返らせてくれた。私は、夫と2時間半を過ごした」と、泣きながら感想を述べた。 本作はアメリカでは、賞レースに参加するため、2014年12月25日に限定公開。明けて15年1月16日に拡大公開となった。 世界興収で5億4,742万ドルを超えるメガヒットとなり、イーストウッド監督作品史上、最大の興行収入を上げた。 その内容を巡っては、保守派とリベラル派との間で「戦争賛美か否か」の大論争が起こった。イラク戦争を正当化しようとする映画だという批判に対してイーストウッドは、「個人的に私はイラク戦争には賛成できなかった」と、以前からの主張を繰り返した。 そして「これは戦争を賛美する映画ではない。むしろ終わりのない戦争に多くの人が従事しいのちすら失う姿を描いているという意味では、反戦映画とも言える」と発言している。 この作品のエンドクレジットでは、クリス・カイルの実際の葬儀の模様を映し出した後、後半部分はまったくの“無音”になる。そこにイーストウッドの、“イラク戦争”そして出征した“兵士たち”への想いが、滲み出ている。■ 『アメリカン・スナイパー』© 2014 Warner Bros. Entertainment Inc., Village Roadshow Films (BVI) Limited and Ratpac-Dune Entertainment LLC
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COLUMN/コラム2024.06.12
デ・パルマ“ギャング映画3部作”の最終便!円熟の業が光る『カリートの道』
『キャリー』(1976)『殺しのドレス』(80)など、ホラーやサスペンス作品のヒットを放ち、70年代後半からそうしたジャンルの旗手のように謳われた、ブライアン・デ・パルマ監督。 “スプリット・スクリーン”“360度パン”“スローモーション”…。華麗な技巧を駆使する彼を指して、「映像の魔術師」などと称賛する、熱烈なファンが生まれた。それと同時に、「ヒッチコックのエピゴーネン(亜流/模倣)」とディスる向きも、決して少なくはなかった。 80年代以降、そんなデ・パルマの新たなキャリアを切り開いたと言えるのが、“ギャング映画3部作”である。 その第1弾は、『スカーフェイス』(83)。キューバ移民の青年トニー・モンタナが、コカインの密売でのし上がるも、やがて自滅していくまでの物語。アル・パチーノを主演に迎え、ヒット作となるも、批評家の評価は高くなかった。しかしやがてカルト作として、熱狂的に支持されるようになる。 第2弾は、『アンタッチャブル』(87)。禁酒法時代のシカゴを舞台に、暗黒街の帝王アル・カポネを摘発しようとする、エリオット・ネスら捜査官たちの戦いの日々を描いた。 デ・パルマは、『ボディ・ダブル』(84)『Wise Guys』(86/日本では劇場未公開)といった作品が不振だったため、キャリアのピンチを迎えていたが、『アンタッチャブル』が大ヒットとなり、“信用”を取り戻す。 しかしその“信用”も、続く『カジュアリティーズ』(89)『虚栄のかがり火』(90)両作の大コケで、雲散霧消。その後、ある意味先祖返りのようなサイコ・サスペンス『レイジング・ケイン』(92)で、まあまあの興行成績と評価を得たが…、というタイミングで手掛けたのが、本作『カリートの道』(93)。デ・パルマの“ギャング映画”第3弾だった。 ***** 時は1970年代中盤。かつては、プエルトリコ系ギャングの出世頭だった、カリート・ブリガンテ。麻薬の密売で30年の刑期を喰らったが、親友の弁護士クラインフェルドの尽力によって、僅か5年で釈放され、生まれ育ったニューヨークのスパニッシュ・ハーレムへと帰還する。 カリートはすぐ、麻薬取引に絡むいざこざに巻き込まれ、手を血で染めてしまう。しかし足を洗うという覚悟は、揺るがなかった。 カリートは、ディスコの経営に勤しみながら、やがてバハマのパラダイス・アイランドに渡って、レンタカー屋を営むことを夢見る。そんな時、5年前に別れた恋人ゲイルと再会。ブロードウェイのダンサーを目指していた彼女は、ストリッパーに身を落としていたが、2人は再び愛し合うようになる。 夢の実現に邁進するカリートの行く手に、暗雲が差し込む。かつての仲間が、検事の手先となってカリートをハメようとしたり、のし上がってきたチンピラが、彼に挑発的な態度を取ったり…。 そんな時、クラインフェルドがカリートに救いを求めてきた。マフィアのボスの脱獄を手伝ってくれというのだ。 躊躇するも、自分を獄から放ってくれた親友の頼みを、断れない。カリートは、ゲイルの制止も振り切って、クラインフェルドの手助けをすることを決めたのだが…。 ***** 本作の原作者は、エドウィン・トレス。ニューヨークはスパニッシュ・ハーレムで生まれ育った、プエルトリコ系アメリカ人だが、法曹界に進み、地方検事補、弁護士を経て、ニューヨーク州最高裁判事にまでなった。 トレスは、厳しい判決を下す裁判官として名を馳せながら、小説家としてもデビュー。自らの出身地を主な舞台に、実際に会った人物や自らの目で見たものを書いたのが、「カリートの道」「After Hours」という、本作の原作となった2作である。 若き主人公カリート・ブリガンテが、麻薬ビジネスに足を踏み込んでから、伝説の麻薬王になり逮捕されるまでを描いたのが、「カリートの道」。投獄後、不当裁判で無罪を勝ち取ったカリートが、出所してから最期を迎えるまでのストーリーが、「After Hours」である。 カリートのキャラで、その生い立ちに関しては、トレス自身が投影されている部分もある。しかしカリートは、犯罪者。主要な要素は、トレスが友人たちからいただいたもので、名前を明かせない3人のモデルがいるという。 これらの小説には、発表後に直ぐ映画化の話が持ち上がる。プロデューサーのマーティン・ブレグマンの元に、脚本化されたものを持ち込んだのは、アル・パチーノだった。 ブレグマンは元々は、パチーノのエージェント。そうした関係性もあって、『セルピコ』(73)『狼たちの午後』(75)そして『スカーフェイス』(83)等、パチーノ主演作の製作を行ってきた。 今となっては誰が書いたかも知れない、この時点での脚本は、2つの小説「カリートの道」「After Hours」 を折衷したような、酷い仕上がりだったという。それを読んだブレグマンは、全くやる気が湧かなかったが、パチーノが主人公のカリートに惚れ込んでいた。やむなく原作に触れてみると、そこに描かれた、ストリートの生々しい雰囲気に、惹かれたという。 ブレグマンは、『ジュラシック・パーク』(93)の脚色が評判になっていたデヴィッド・コープに、仕事を依頼。原作に対するコープの第一印象は、「映画化するには分量が多すぎる」というものだった。 コープは、自分が70年代のスパニッシュ・ハーレムについて何も知らないのも気掛かりだった。この点は原作者のトレスの助力を得てリサーチし、クリアーしたという。 分量的な問題は、当時50代前半だったパチーノの年齢を考慮し、20代後半から30代前半のカリートが活躍する「カリートの道」ではなく、それ以降の物語である「After Hours」を軸に脚色することで、解決した。それなのにタイトルが『カリートの道』になったのは、マーティン・スコセッシ監督の『アフター・アワーズ』(85)があったからである。 ブレグマンは、かつて『スカーフェイス』で組み、成果を出したブライアン・デ・パルマに監督をオファー。しかしデ・パルマの当初のリアクションは、芳しいものではなかった。「ラテン系ギャングの話」は、もうやりたくなかったのだ。 彼が考えを変えたのは、コープの脚本を読んでから。パチーノと再び仕事ができるのも、決め手になったという。かくて『スカーフェイス』から10年振りに、ブライアン・デ・パルマとアル・パチーノが組んだ、“ギャング映画”が誕生することとなった。 デ・パルマは原作者のトレスに、スパニッシュ・ハーレムを案内してもらった。ここで誰が撃たれ誰が刺された等々、事件の現場を巡りながら、スペイン系ギャングの生態をウォッチング。デ・パルマはそこで、彼らが持つ家族愛や宗教心、更には独自のラテン音楽などを見出した。 そしてクランク・イン。ロケは、原作者の生まれた場所にごく近い地域などで行われた。『スカーフェイス』でお互いのやり方を心得ていた、デ・パルマとパチーノのコミュニュケーションは、スムースだった。パチーノは、彼の動作の美しさを捉え、その演技を際立たせるようなデ・パルマ演出を、至極気に入っていたという。 本作は冒頭、駅で撃たれたカリートが搬送されていくさなかに、彼のモノローグによって回想が始まり、ここに至るまでの日々が描かれていく。これは“フィルム・ノワール”、代表的な例としては、プールに浮かぶ死体の回想から始まる、『サンセット大通り』(50)などで用いられた手法の、援用と言える。 そのような形で語られる物語には、数々の個性的な人物が登場する。中でも強烈な印象を残すのが、カリートの親友で、コカイン中毒の弁護士クラインフェルド。原作者がこれまでに会ってきた、ろくでもない弁護士たちの集合体で、悪の世界にどっぷりと浸かっているキャラクターである。 演じるショーン・ペンは、初監督作品『インディアン・ランナー』(91)が絶賛され、監督業に専念することを真剣に検討していたのを翻しての、本作への出演。それだけ、この役に入れ込んでいたのだろう。薄毛のカーリーヘアという、あまりにもインパクトの強い外見は、ペン本人のアイディア。この見た目を作るのに、自毛をかなり抜いたのだという。 後にアカデミー賞主演男優賞を2度受賞する、メソッド俳優の面目躍如であるが、ペンの執拗なリテイク要求が、デ・パルマをげんなりさせる局面もあったという。とはいえ両者の関係は、概ね良好に運んだ。 カリートが愛するゲイルには、ペネロープ・アン・ミラーがキャスティングされた。『レナードの朝』(90)『キンダガートン・コップ』(90)『チャーリー』(92)など、話題作・ヒット作への出演が続き、彼女への注目が高まっていた頃だった。 カリートが共に“楽園”に行こうとする、天使のように理想化された存在でありつつ、バストトップを曝しての、70年代っぽいストリップのシーンなども印象的である。 パチーノが作品の肝としてこだわったのは、クラインフェルドの裏切りが露見し、カリートとの関係が、決定的に断絶に至るシーンだった。そのシーンには、25ものパターンを用意。更には、脚本家のコープが撮影に立ち会ったのは、パチーノのリクエストだった。 最終的には、コープが撮影直前に書き直した脚本で、決まりとなった。カリートは負傷したクラインフェルドが入院する病室を訪ね、彼なりのやり方で落とし前をつける。因みにパチーノが訪れる病院の外観は、彼が出世作『ゴッドファーザー』(72)で、マーロン・ブランドを見舞ったのと同じ場所が使われた。 本作は、クライマックスの地下鉄を使っての逃走劇や、それに続くグランド・セントラル・ステーションのエスカレーターでの銃撃戦など、さすが「映像の魔術師」デ・パルマと思わせるシーンも、随所にある。しかし全般的には、これ見よがしな技巧に走り過ぎたりは、決してしていない。日本の任侠物などにも通じる“仁義の世界“の住人故に、足を洗い切れなかった男の悲劇が、鮮烈且つ抑制的に描かれている。 公開当時、大きな成果を上げることはなかった。またパチーノ×ブレグマン×デ・パルマの前作、『スカーフェイス』のようなカルト人気を得ることも叶わなかった。しかし、当時53歳。デ・パルマのフィルモグラフィーの中でも、彼の円熟したスキルが、最も楽しめる1本に仕上がっている。 そしてデ・パルマは、次作『ミッション:インポッシブル』(96)で再びデヴィッド・コープの脚本を得て(ロバート・タウンと共同)、彼のキャリアの中で最大のヒットをものする。■ 『カリートの道』© 1993 Universal City Studios, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2022.11.09
ジョン・マルコヴィッチしか考えられなかった…。“カルト映画”の傑作『マルコヴィッチの穴』
本作『マルコヴィッチの穴』(1999)の原題は、“Being John Malkovich”。当代の名優とも怪優とも評される、ジョン・マルコヴィッチがタイトルロールを…というか、マルコヴィッチ自身を演じる。 日本ではアメリカから遅れること、ちょうど1年。2000年9月の公開となった。私はその頃、TBSラジオで「伊集院光/日曜日の秘密基地」という番組の構成を担当していたが、パーソナリティの伊集院氏がこの作品のことを、生放送前後の打合せや雑談などで、よく話題にしていたことを思い出す。かなりのお気に入りで、翌10月から始まった新コーナーに、「ヒミツキッチの穴」というタイトルを付けたほどだった。「ジョン・マルコヴィッチってのが、良いんだよな~」と、伊集院氏は言っていた。そして、「日本の俳優でやるとしたら、誰なんだろう?“大地康雄の穴”とかになるのかな」とも。 この例え、当時個人的には「絶妙」だと思った。今となっては、まあわかりにくいかも知れないが…。 私的にはそんな思い出がある『マルコヴィッチの穴』とは、どんな作品か?まずはストーリーを紹介しよう。 ***** 才能がありながらも認められない、人形使いのグレイグ(演:ジョン・キューザック)は、妻のロッテ(演:キャメロン・ディアス)から言われ、やむなく定職を求める。 新聞の求人欄から彼が見付けたのは、小さな会社の文書整理係。そのオフィスは、ビルのエレベーターの緊急停止ボタンを押してから、ドアをバールでこじ開けないと降りられない、7と1/2階に在った。そしてそこは、かがまないと歩けないほど天井が低い、奇妙なフロアーだった。 書類の整理に勤しむグレイグは、ある日書類棚の裏側に、小さなドアがあるのを見付ける。興味本位でドアを開け、その中の穴に潜り込むと、突然奥へと吸い込まれる。 気付くとグレイグは、著名な俳優ジョン・マルコヴィッチの脳内へと入り、彼になっていった。しかし15分経つとグレッグに戻って、近くの高速道路の脇の草っ原へと放り出される。 興奮した彼は、同じフロアーの別の会社のOLで、一目惚れしながらも相手にされなかったマキシン(演:キャスリーン・キーナー)に、この秘密を話す。マルコヴィッチ自体を知らなかった彼女だが、この体験=穴に入ってマルコヴィッチに15分間なる=を、1回200㌦でセールスすることを提案。グレイグと共にビジネスを始めると、深夜の7と1/2階には、行列が出来るようになる。 しかしこれはまだ、グレイグ&ロッテ夫妻とマキシーン、そして俳優ジョン・マルコヴィッチを巡る、不可思議な物語の入口に過ぎなかった…。 ****** ジョン・マルコヴィッチ。1953年12月、アメリカ・イリノイ州生まれで、間もなく69歳になる。『マルコヴィッチの穴』の頃は、40代半ばといったところ。 若き日に、仲間のゲイリー・シニーズらと立ち上げた劇団で評判を取り、やがてブロードウェイに進出。『True West』や『セールスマンの死』などに出演し、オビー賞など数々の賞を手にした。 映画初出演は、ロバート・ベントン監督の『プレイス・イン・ザ・ハート』(84)。主演のサリー・フィールドに2度目のオスカーをもたらしたこの作品で、盲目の下宿人を演じたマルコヴィッチは、いきなりアカデミー賞助演男優賞にノミネートされた。 以降は、主役から脇役まで幅広い役柄で、数多くの作品に出演。悪役やサイコパス役に定評があり、またヨーロッパのアート作品にも、度々出演している。 演技も風貌も、いわゆる「クセの強い」俳優であるが、プライベートでの言動や行動も、そのイメージを裏付ける。今ではその発言自体を否定しているが、「一般大衆に認識されているものはクソだ。彼らの考えにも吐き気がする。映画は金のためだけにやっている」などと、言い放ったことがある。 また、ニューヨークの街角で絡んできたホームレスに激怒し、大型のボウイナイフで脅したり、オーダーメードのシャツの出来上がりが遅れたテーラーに怒鳴り込んだり、バスが停車しなかったことに腹を立て、窓を叩き割る等々の、暴力的な振舞いが度々伝えられた。 その一方で、映画デビュー作の共演者サリー・フィールドが、「ただただ彼を敬愛している」と言うのをはじめ、共演者たちの多くからは称賛されている。初めてブロードウェイの舞台に立った『セールスマンの死』の共演者である名優ダスティン・ホフマンは、「彼との仕事は、私のキャリアの中でも貴重な経験だった」としている。 そんなマルコヴィッチをネタにした、摩訶不思議な本作のストーリーを書いたのは、チャーリー・カウフマンという男。それまでTVのシットコムの脚本を生業としていた彼にとっては、映画化に至った、初の長編脚本である。 本作の脚本は、「特に戦略を持たずに書き始めた」ということで、最初は「既婚者の男が恋をする」というアイディアだけだった。そこに後から、「穴を通って別人の脳内に入る」という発想が加わって、他者になりすまして名声を得たり、生き長らえようとする者たちや、逆にそうした者たちに自由を奪われて、己を失っていく者が登場する物語になったのである。『マルコヴィッチの穴』は、誰が観ても、「アイデンティティがテーマ」の作品だと、理解される。しかしカウフマンが書き始めた当初は、そんなことは考えてもいなかったわけである。 脳内に入られる人物に関しては、「マルコヴィッチ以外に考えられなかった…」という。マルコヴィッチがブロードウェイの舞台に立った時のビデオを観て衝撃を受けたというカウフマン。曰く、「彼がステージに立つと目が離せない」ようになった。そして本作の物語を編んでいくに際して、「彼は不可知な存在で、作品にフィットすると思った」と語っている。「マルコヴィッチ以外に考えられなかった…」のは、その「微妙な知名度」も、ポイントだったように思われる。映画・演劇業界の周辺では、誰も知る実力の持ち主であるが、万人にとってのスーパースターというわけではない。本作の中でマキシンが、マルコヴィッチと聞いても、誰かわからなかったり、タクシーの運転手が、マルコヴィッチ本人がやってもいない役柄で「見た」と話しかけてきたりするシーンがわざわざ設けられていることからも、作り手のそうした意図が、読み取れる。 因みにマルコヴィッチ自身は8歳の頃、“トニー”という名のもうひとりの自分を作り出していたという。その“トニー”とは、クロアチア系の父親とスコットランド及びドイツ系の母親から生まれたマルコヴィッチとは違って、スリムなイタリア人。至極人当たりがよく、首にスカーフを巻くなど、おしゃれで粋なキャラだった。 マルコヴィッチが“トニー”になっている時は、大抵ひとりぼっちだった。しかしある時はなりきったまま、野球の試合でピッチャーマウンドに上がったこともあったという。 そのことに関してマルコヴィッチは、「…たぶん多くの人が今とは別の人生を送りたいと願っているだろう…」と語っている。カウフマンが執筆当時、そんなことまで知っていたとは思えないが、そうした意味でも、本作の題材にマルコヴィッチをフィーチャーしたのは、正解だったかも知れない。役柄的には、逆の立場であるが…。 しかし、カウフマンの書いた『マルコヴィッチの穴』の脚本は、業界内で非常に評判になりながらも、なかなか映画化には至らなかった。内容が特殊且つ、エッジが立ち過ぎていたからだろう。 ジョン・マルコヴィッチ本人も、その脚本の完成度には唸ったものの、こんな形で俎上に載せられるのには臆したか、「自分を題材にしないことを条件に監督やプロデューサーを引き受ける」とカウフマンに提案。話がまとまらなかった。 もはや映画化は、不可能か?カウフマンも諦めかかった頃に、本作の監督に名乗りを上げる者が現れる。それが他ならぬ、スパイク・ジョーンズだった。 当時ジョーンズは、ビースティ・ボーイズやビョーク、ダフト・パンクなど数多の人気ミュージシャンのMVを演出した他、CMでも国際的な賞を受賞。写真家としても成功を収め、まさに時代の寵児だった。映画監督としては、短編を何本か手掛けて、やはり好評を博しており、長編デビューの機会を窺っていた。 そんな彼が「…とにかく、脚本が本当に良かった」という理由で、『マルコヴィッチの穴』に挑むことになったのである。当時の彼の妻ソフィア・コッポラの父、『ゴッドファーザー』シリーズなどのフランシス・フォード・コッポラ監督の後押しもあったと言われる。 その後ジョーンズとカウフマンで、映画化に向けての作業が進められる中で、件の経緯もあったせいか、ホントに“ジョン・マルコヴィッチ”が適切であるかどうか、2人の間で迷いが生じることもあった。このタイミングだったかどうか定かではないが、トム・クルーズの名が挙がったりもしたという。 しかし結局は、他の人物では満足できず、マルコヴィッチで行きたいということになった。マルコヴィッチの方も、スパイク・ジョーンズという希有な才能に惹かれたということか、「…あまりに途方もなくとんでもないストーリーだから、自分の目で見届けたくなった…」と、出演がOKになったのである。 完成した『マルコヴィッチの穴』は、「ヴェネツィア国際映画祭」で国際批評家連盟賞を受賞したのをはじめ、内外の映画祭や映画賞を席捲。一般公開と共に“カルトムービー”として人気を博し、アカデミー賞でも、監督賞、脚本賞、助演女優賞の3部門でノミネートされた。 この時はオスカーを逃したカウフマンとジョーンズだったが、2人とも本作が高く評価されたことから、監督、脚本家、プロデューサーとして地位を築いていくことになる。後にカウフマンは『エターナル・サンシャイン』(04)で、ジョーンズは『her/世界でひとつの彼女』(13)で、それぞれアカデミー賞脚本賞を受賞している。 因みにジョン・マルコヴィッチに関しては2010年、その軌跡を振り返る試みを、映画批評サイトの「Rotten Tomatoes」が実施。「ジョン・マルコヴィッチの傑作映画」という、ベスト10を発表した。 その際、第1位に輝いたのは、デビュー作の『プレイス・イン・ザ・ハート』。そこに、ポルトガルの巨匠マノエル・ド・オリヴェイラ監督の『家路』(01)、盟友ゲイニー・シニーズの監督・主演作『二十日鼠と人間』(92)等々が続く。そんな中で本作『マルコヴィッチの穴』(99)は、堂々(!?)第6位にランクインしている。 しかしこのベスト10以上に、本作のインパクトが、大きく残っていることを感じさせる出来事が、2012年にあった。それはマルコヴィッチが出演した、iPhone 4SのCM。この中で「マルコヴィッチ、マルコヴィッチ、マルコヴィッチ…」というセリフが繰り返されるのだが、これは『マルコヴィッチの穴』に登場する、最もヴィジュアルイメージが強烈なシーンを、明らかに模したもの。 ではその元ネタとなったのは、果してどんな場面なのか?それはこれから観る方のために、この稿では伏せておこう。 「マルコヴィッチ、マルコヴィッチ、マルコヴィッチ…」■ 『マルコヴィッチの穴』© 1999 Universal City Studios Productions LLLP. All Rights Reserved.