RANKING
人気ページランキング
- 
                                                            
                                                              COLUMN/コラム2025.09.29 近い将来、本当に起きうる?AI搭載ハイテク少女人形の大暴走!『M3GAN/ミーガン』 ハリウッドの2大ヒットメーカーが贈るキラー・ドール系ホラー 『パラノーマル・アクティビティ』(’07~’21)シリーズに『パージ』(’13~)シリーズ、『ハッピー・デス・デイ』(’17~)シリーズに『ハロウィン』(’18~’22)シリーズ、さらには『ゲット・アウト』(’17)や『透明人間』(’20)、『ファイブ・ナイツ・アット・フレディーズ』(’23)などのホラー映画を次々と大成功させてきた映画製作者ジェイソン・ブラムと、映画監督のみならず製作者としても自身が生んだ『ソウ』(‘04~)シリーズや『死霊館』(‘13~)ユニバースをフランチャイズ化させ、『ライト/オフ』(’16)や『THE MONKEY/ザ・モンキー』(’25)などの話題作をプロデュースしているジェームズ・ワン。そんな21世紀のハリウッド・ホラー映画を牽引する2大ヒットメーカーが製作を手掛け、世界興収1億8000万ドル超えのスマッシュヒットを記録した作品が、AIを搭載したハイテク人形の暴走を描いた『M3GAN/ミーガン』(’22)である。 これまでにも、ワンが1作目と2作目を演出した『インシディアス』(’10~)シリーズや、ブライス・マクガイア監督の『ナイトスイム』(’24)でもタッグを組んだ2人。本作はジェームズ・ワンの製作会社アトミック・モンスターの企画会議で提案された無数のアイディアの中から、ワン自身がピックアップしてジェイソン・ブラムの製作会社ブラムハウスに持ち込んだ企画だったという。テーマはキラー・ドール(殺人人形)。人間を楽しませ癒してくれる玩具の人形が、反対に人間を襲って殺してしまう。そのルーツはトッド・ブラウニング監督の『悪魔の人形』(’36)ともイギリスのオムニバス映画『夢の中の恐怖』(’45)とも言われているが、しかしジャンルとしてポピュラーになったのは’80年代に入ってからのことだ。 口火を切ったのはスチュアート・ゴードン監督の『ドールズ』(’87)。殺人人形の群れが人間を血祭りにあげるという、どこか寓話めいたホラー・ファンタジー映画の佳作だった。同作をプロデュースしたチャールズ・バンドは、殺人人形軍団というコンセプトをそのまま受け継いだ『パペット・マスター』(’89)を製作し、現在までにシリーズ映画15本が作られたばかりか、フィギュアなどの関連グッズも販売されるというフランチャイズ・ビジネスを展開。この成功に味を占めたバンドは、さらなる二番煎じの『デモーニック・トイズ』(‘92~)シリーズもプロデュースしている。 とはいえ、’80年代に興隆したキラー・ドール系ホラー映画の金字塔といえば、間違いなくトム・ホランド監督の『チャイルド・プレイ』(’88)であろう。殺人鬼の魂が乗り移った人形チャッキーはホラー・アイコンとなり、こちらも現在までに8本の映画と1本のテレビシリーズ、さらにはゲームにフィギュアにアトラクションにと関連ビジネスを拡大してきた。そもそもジェームズ・ワン自身、『デッド・サイレンス』(’07)というキラー・ドール映画を撮っているし、代表作『死霊館』シリーズにおいてもアナベルというインパクト強烈な恐怖人形を描いている。ただ、従来のキラー・ドールが主に呪術や魔力で動くスーパーナチュラルな存在だったのに対し、本作に登場するミーガンは人間の少女ソックリに作られた等身大のAI人形。要するにアンドロイドである。 人間に仕えるべく開発されたAIやアンドロイドが、生みの親である人間に対して牙をむく。行き過ぎた科学の発展に警鐘を鳴らすコンセプトは、古くよりサイエンス・フィクションの世界で好まれ多用されてきた。そういう意味において、本作はキラー・ドール系ホラーであると同時に、マイケル・クライトン監督の『ウエストワールド』(’73~’76)シリーズおよびそのテレビリメイク『ウエストワールド』(‘16~’22)、ジェームズ・キャメロン監督の『ターミネーター』(’84~)シリーズなどの系譜に属するSFスリラー映画でもあるのだ。 持ち主を守るというミーガンの強い使命感が狂気へと…! 主人公は大手玩具メーカーに勤務し、最先端のハイテク技術を駆使した子供向けのオモチャを開発する技術者ジェマ(アリソン・ウィリアムズ)。目下のところ彼女が秘密裏に取り組んでいるのは、史上初の完全自律型ロボット人形となる「第3型生体アンドロイド(Model 3 Generative ANdroid)」、略してM3GAN(ミーガン)である。しかし、この極秘プロジェクトを知った上司デヴィッド(ロニー・チェン)は激怒。目先の利益にばかり囚われた彼は、ライバル企業との価格競争に打ち勝つべく廉価商品の開発を最優先させ、成功するかどうか定かでない高額なミーガンの研究開発を中止させてしまう。 そんな折、ジェマの姉夫婦がスキー旅行中に交通事故で死亡。ひとりだけ生き残った幼い姪ケイディ(ヴァイオレット・マッグロウ)をジェマが引き取ることとなる。動物や子供はどちらかというと苦手。そもそも人付き合いが得意ではなく恋愛とも縁遠いジェマは、寝ても覚めてもオモチャのことで頭がいっぱいの仕事人間だ。大好きだった姉の代わりにケイディを育てたいという気持ちは強いが、しかしどうやって彼女と接していいのか分からないし、仕事だって山積みである。仕方なくケイディにタブレットを与えて仕事するジェマだが、しかしそれは育児放棄も同然。少なからず罪悪感は拭えない。 そこで彼女に問題解決の糸口を与えてくれたのが、大学時代に開発した遠隔操作型ロボット、ブルースである。仕事部屋に飾ってあったブルースを見つけ、こんなオモチャがあったら他のオモチャなんて一生要らない!と喜ぶケイディ。そこでジェマは一念発起してミーガンの開発を再開。部下のコール(ブライアン・ジョーダン・アルバレス)やテス(ジェン・ヴァン・エップス)の協力を得て、いよいよ念願のAI人形ミーガンを完成させる。頑丈なチタン素材で骨組みが形成され、人間とソックリなシリコン製の肌で覆われたミーガンは、生体工学チップを搭載した高度な知能を持つ人型ロボット。自ら物事を考えて喋ったり行動したりする能力を持つばかりか、学習機能によって常に進化と成長を続けていく。その役割は子供にとって最良の友となり、親にとって最大の協力者となること。子供の世話やしつけをミーガンに任せることで、親は仕事や家事に専念できるのだ。 試作品に与えられた使命はケイディを守ること。両親の死後ふさぎ込んでいたいたケイディはミーガンのおかげですっかり明るくなり、肩の荷が下りたジェマはプロジェクトの成功を確信。上司デヴィッドや経営陣も賛同し、全社を挙げてミーガンの売り出しに力を注ぐことになる。だがその一方で、あまりにも密接なケイディとミーガンの間柄に、児童セラピストのリディア(エイミー・アッシャーウッド)は「このままだとケイディはミーガンをオモチャではなく保護者だと見なしてしまう」と警鐘を鳴らし、部下のテスも「ミーガンは親の支援役であって代役じゃない。子供との触れ合いが減るのは危険だ」と危惧する。 実際、ケイディは周囲の大人よりもミーガンを信頼して精神的に頼り切るようになり、ミーガンもまたケイディを守るという使命を全うするべく極端な行動に出ていく。やがて、ケイディの周辺で相次ぐ不可解な死亡事故。大切なケイディを傷つけようとする相手を、ミーガンが文字通り「排除」していたのだ。そのことに気付いたジェマは、ミーガンの危険な暴走を止めようとするのだが…? CGをなるべく排したミーガンの特殊効果にも要注目 監督に起用されたのは、世界各国のホラー&ファンタジー系映画祭で受賞したニュージーランド産ホラー・コメディ『ハウスバウンド』(’14)のジェラード・ジョンストーン監督。『マリグナント 狂暴な悪夢』(’21)や『死霊館のシスター 呪いの秘密』(’23)でも組んだ脚本家アケラ・クーパーと原案を書いたジェームズ・ワンは、当初より恐怖とユーモアの要素を併せ持つブラック・コメディ路線を意図しており、その点においてジョンストーン監督は理想的な人材だったという。確かに、ミーガンが突然ミュージカルのように歌い始めたり、クネクネとした奇妙な動きで踊ったり飛び回ったりするシュールな演出はかなりオフビート。だいたい、主人公ジェマが勤める玩具メーカーのファンキという社名だって、実在するアメリカの有名な玩具メーカー、ファンコの明らかなパロディだ。ジェマが開発したファンキのヒット商品ペッツが、昨今世界中でブームのラブブになんとなく似ているのは、まあ、奇妙な偶然みたいなものであろう。 そのジョンストーン監督曰く、本作は「21世紀の子育てについての倫理を問う物語」だという。我が子の相手をしている余裕のない多忙な保護者が、決して教育に良くないと分かっていながらも、ついついスマホやタブレットを与えてしまうのと同じように、お友達AI人形のミーガンを姪っ子ケイディに与えてしまうジェマ。本来ならば子供と向き合って成長を促すべきは、保護者であるジェマの大切な役割であるはずなのだが、しかし忙しさにかまけてその任務を怠ったがために、とんでもなく手痛いしっぺ返しを食らってしまうことになる。 あくまでもテクノロジーは人間の生活を便利に支えるもの。そこに依存してしまうことで様々な弊害が生じることは想像に難くない。ましてや、現実世界の様々な場面で既にAIが活用されている昨今、昔であれば空想科学の領域に過ぎなかったハイテク人形の暴走も、21世紀の現在では「そう遠くない未来に起きうる脅威」として強い説得力を持つ。そう、我々は既にSFの世界を生きているのだ。そういう意味で、ちょっとシャレにならない物語。だからこそ、ブラックなユーモアの要素が必要だったのかもしれない。 もちろん、己の使命に忠実すぎるがゆえに災いを招いていく狂気のAI人形、ミーガンの強烈なキャラクターも本作が成功した大きな要因であろう。もちろん、完全自律型の人型ロボットなどまだ現実には存在しないので、本作に出てくるミーガンも特殊効果の賜物。ただし、監督や製作陣の方針としてプラクティカル・エフェクトにこだわっており、アナログとハイテクを組み合わせたアニマトロニクスの技術が駆使されている。CGは主にワイヤーなど余計なものを除去するため使用。シーンごとにミーガンの上半身や腕など幾つものパーツが用意され、それを技術者たちが手動装置や無線機を用いて操作している。なので、表情の変化や目の瞬きなどもCG加工ではなく機械操作。ただし、ミーガンが飛んだり跳ねたり踊ったりする場面は、物理的にアニマトロニクスでは表現が不可能であるため、撮影当時11歳の子役兼ダンサー、エイミー・ドナルドがミーガンのマスクやカツラを被って演じている。 主演はアメリカで一世を風靡したHBOの女性ドラマ『GIRLS/ガールズ』(‘12~’17)でブレイクし、映画では『ゲット・アウト』のヒロイン役で知られる女優アリソン・ウィリアムズ。しかし圧巻なのは、予期せぬ事故で両親を失った少女ケイディを演じている子役ヴァイオレット・マッグロウだ。もともと「型にはまらない子供」であるため、両親の判断で学校へ通わず自宅学習していたケイディ。ただでさえ繊細で気難しい性格の少女が、両親の死による深いトラウマと悲しみを抱え、それゆえ全てを受け入れてくれる「親友」のミーガンに依存してしまう。その複雑な心情を演じて実に見事だ。■ 『M3GAN/ミーガン』© 2023 UNIVERSAL STUDIOS. All Rights Reserved. 
- 
                                                            
                                                              NEWS/ニュース2025.09.25 【誰でもご応募OK】【10月7日はミステリー記念日】プレゼントキャンペーン 【10月7日はミステリー記念日】プレゼントキャンペーン ◇━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◇ ザ・シネマでは、10月7日(火)のミステリー記念日に、謎解きや推理を楽しむミステリー映画を7作特集放送! さらに放送を記念して、傑作TVシリーズ『ロアルド・ダール劇場/予期せぬ出来事 アンソロジー Blu-ray BOX [HDレストア版]』が抽選で10名様に当たるプレゼントキャンペーンを開催! ◇━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◇ ■プレゼント賞品 『奇妙な味』の名手、ロアルド・ダールの原作・原案による風変わりな36の物語をドラマ化した傑作TVシリーズ! ロアルド・ダール劇場/予期せぬ出来事 アンソロジー Blu-ray BOX [HDレストア版]・・・10名様 商品の詳細はこちら ■応募期間 2025年9月25日(木)12:00〜11月3日(月・祝) 23:59   ご応募はこちら>    「ウォンカとチョコレート工場のはじまり」「チャーリーとチョコレート工場」「ジャイアント・ピーチ」原作者ロアルド・ダール原案による往年のTVシリーズを、世界初のBlu-ray BOX化! ブラック・ユーモアに彩られたロアルド・ダールの世界へようこそ! 原作者自身が案内役として出演するドラマ・シリーズ!!子供から大人まで幅広い層から支持され、熱狂的なファンを持つ小説家ロアルド・ダール。一話完結のドラマ・シリーズとしてイギリスITVにて1979年より放送され、以来、絶大な人気を誇る。2004年、イギリスBBCのアンケート調査では「怖いミステリー」第4位に位置付けられた極上の作品集。日常に潜んでいる狂気やブラック・ユーモアに満ちたアイデアをたっぷりとお楽しみください。「あなたのライターで賭けをしませんか? 10回連続で火が点いたら私の高級車をあなたに、1度でも点かなかったらあなたの左手の小指を私に…」老人に賭けを挑まれた青年。はたして結末は!? かつては「ヒッチコック劇場」で映像化され、Q・タランティーノ監督が作品に引用するほど有名なこのエピソード「南から来た男」(ホセ・ファーラー主演)も挿入! 商品の詳細はこちら   発売元:トーキーマジック 販売元:アクセスエー販売協力:株式会社ハピネット・メディアマーケティング © 1979 - 1988 ITV Studios Limited. All rights reserved.     ■ザ・シネマ放送情報 【特集】10月7日はミステリー記念日 特設ページ:https://www.thecinema.jp/tag/707 放送日:【字】10/7(火)12:30~ 7作連続放送 世界初の“推理小説”である「モルグ街の殺人」の著者エドガー・アラン・ポー。彼の命日である10月7日はミステリー記念日に制定されています。秋の夜長に謎解きや推理を楽しむミステリー映画を取り揃えました。 ケネス・ブラナーが名探偵ポアロを演じるシリーズ第2弾でアガサ・クリスティ原作の『ナイル殺人事件』、ベストセラーミステリー小説「リンカーン・ライム・シリーズ」を映画化した『ボーン・コレクター』などをお届け。 『青いドレスの女』(C) 1995 TriStar Pictures, Inc. All Rights Reserved. 『エンパイア・オブ・ザ・ウルフ』(C) 2005 Gaumont - TF1 Films Production - kairos 『ボーン・コレクター』(C) 1999 Universal City Studios, Inc. and Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved. 『チャイルド44 森に消えた子供たち』(C) 2015 Summit Entertainment, LLC. All Rights Reserved.  『ナイル殺人事件(2022)』(C) 2020 20th Century Studios. 『私がやりました』(C) 2023 MANDARIN & COMPAGNIE – FOZ – GAUMONT – FRANCE 2 CINÉMA – SCOPE PICTURES – PLAYTIME PRODUCTION   ■プレゼント賞品 ロアルド・ダール劇場/予期せぬ出来事 アンソロジー Blu-ray BOX [HDレストア版]・・・10名様   ■応募期間 2025年9月25日(木)12:00〜11月3日(月・祝) 23:59   ■プレゼント応募URLhttps://form.run/@202509-cnm-talkiemagic-present   ご応募はこちら>    発売元:トーキーマジック 販売元:アクセスエー販売協力:株式会社ハピネット・メディアマーケティング © 1979 - 1988 ITV Studios Limited. All rights reserved.       
- 
                                                            
                                                              COLUMN/コラム2024.12.04 誰もが童心に帰るレイ・ハリーハウゼンの傑作ファンタジー・アドベンチャー「シンドバッド3部作」の見どころを解説! ストップモーション・アニメーションを駆使した創造性の豊かな特撮映画で一時代を築き、ことSF映画やファンタジー映画のジャンルに多大な影響を及ぼした映像クリエイター、レイ・ハリーハウゼン。少年時代に見た映画『キング・コング』(’33)に衝撃を受け、ミニチュアとモデル人形を用いたコマ撮りの技術によって、この世に存在しないクリーチャーたちに命を吹き込むストップモーション・アニメの世界に魅了された彼は、その『キング・コング』の特殊効果を手掛けたウィリス・オブライエンに影響されてアニメーターの道へ。高校時代から自主制作でストップモーション・アニメを製作していた彼は、南カリフォルニア大学を経て映画界へ入り、尊敬するオブライエンが特撮監修を務めた怪獣映画『猿人ジョー・ヤング』(’49)にアシスタントとして参加し、同作のアカデミー特殊効果賞獲得に大きく貢献する。 一般的には「特殊効果マン」として認識されているハリーハウゼンだが、しかし実際には特撮シーンの製作・演出・撮影はもとより、作品の基本コンセプトから脚本の執筆、実写部分の撮影にも大きく関わっており、映画監督組合の規定によって本編では実写部分の演出家が監督としてクレジットされていたものの、しかし実質的には彼こそが作品全体を主導する「監督」の役割を担っていることが多かった。初めて特殊効果の責任者を任されたのは日本の『ゴジラ』(’54)にも影響を与えたとされる『原子怪獣現る』(’53)。その次の『水爆と深海の怪物』(’55)で出会ったコロムビア映画のプロデューサー、チャールズ・H・シニアとタッグを組み、『地球へ2千万マイル』(’57)のようなSFモンスター映画から『アルゴ探検隊の大冒険』(’60)に代表されるファンタジー映画、英国のハマー・フィルムに招かれた『恐竜100万年』(’66)に端を発する恐竜映画などを次々と手掛けたハリーハウゼン。ジョージ・ルーカスやスティーブン・スピルバーグを筆頭に、ジェームズ・キャメロンにティム・バートン、ギレルモ・デル・トロにピーター・ジャクソンなどなど、彼に影響を受けて尊敬していることを公言する映像作家は枚挙に暇ない。もちろん、フィル・ティペットにジョン・ダイクストラ、デニス・ミュレンなど特殊視覚効果のレジェンドたちもハリーハウゼンを師と仰いでいる。 そんな偉大なアニメーターにしてフィルムメーカーだったレイ・ハリーハウゼンの、恐らくライフワークと呼んでも過言ではない代表作「シンドバッド三部作」が12月のザ・シネマにお目見えする。同じく放送される『アルゴ探検隊の大冒険』と並んで、特撮ファンタジー映画の金字塔として熱烈なファンの多い「シンドバッド三部作」。今回はその見どころや舞台裏エピソードをご紹介しよう。 『シンバッド七回目の航海』(1958) シンドバッドの英語表記「Sinbad」に倣って邦題でもシンバッドの呼称が使われた本作は、「シンドバッド三部作」の記念すべき第1弾にして、ハリーハウゼンにとって初めてのカラー映画。なおかつ、ハリーハウゼン映画のトレードマークである「ダイナメーション」を宣伝文句に使った最初の映画でもある。ダイナメンション(立体)とアニメーションを結び合わせた造語であり、ハリーハウゼンが得意とするストップモーション・アニメとライブ・アクションを融合させた特撮技術を指す「ダイナメーション」。従来のストップモーション・アニメーションという単語だと、いわゆる漫画アニメと混同してしまう観客や批評家が多かったため、何か新しいキャッチーな呼び方が必要だと考えていたハリーハウゼンのため、相棒のシニアがドライブ中に思いついたのだそうだ。 そんな本作の企画が生まれたのは、ハリーハウゼンが『原子怪獣現る』の撮影を終えた頃のこと。フランスの画家ギュスターヴ・ドレの絵画をヒントに、「アラビアン・ナイト」の英雄シンドバッドと骸骨が剣を交えて戦う場面を連想したハリーハウゼンは、そのアイディアを基にした「Sinbad the Sailor(船乗りシンドバッド)」という長編映画を企画。いくつか考えた特撮シーンのコンセプト画と簡単な企画書を持って、各映画会社やプロデューサーのもとを回ったが、しかし当時はまだ具体的なストーリーがなかったせいか、どこへ持ち込んでもアッサリ断られてしまったという。 その後、『水爆と深海の怪物』に『世紀の謎 空飛ぶ円盤地球を襲撃す』(’56)、『地球へ2万マイル』と立て続けにSF特撮映画を作ったハリーハウゼンだったが、おかげで巨大生物が暴れまわったり都市が破壊されたりするような映画に飽きてしまった。そこで思い出したのが「船乗りシンドバッド」の企画だったという。とはいえ、当時はRKO製作のシンドバッド映画『四十人の女盗賊』(’55)が大惨敗したばかりで、ハリウッドではコスチュームプレイは時代遅れで当たらないという認識が広まっていた。そのうえ歴史物なので、それまでの映画に比べて遥かに予算がかかる。またもや門前払いを食らうのではないかと心配したハリーハウゼンだったが、しかし彼の描いたコンセプト画を見てヒットの可能性を見抜いたシニアは、映画会社の幹部を説得しやすいように実現可能なアイディアのみをまとめた企画書を作り直し、見事にコロムビア映画から製作許可を得たのである。 まずは特撮と合成の準備に取り掛かったハリーハウゼン。彼の作品は基本的に特撮シーンありきであるため、脚本は特殊効果と予算の兼ね合いを検討しながら改稿を繰り返していくのが通常だった。一般的に特撮は脚本を基にして準備が進められ、脚本の内容に従って製作されるものと考えられがちだが、ハリーハウゼン作品はその逆だったのだ。テレビドラマの人気脚本家だったケネス・コルブを雇い、ハリーハウゼンとシニアを交えた3人で会議を重ねた末に、およそ半年をかけて脚本が完成。映画の成功も失敗も特殊効果次第だと考えたシニアは、ハリーハウゼンの手に100万ドルの保険をかけたのだそうだ。 ストーリーは実にシンプル。異国の姫君パリサ(キャスリン・グラント)と婚約し、船長を務める船で故郷のバグダッドへ戻ることになったシンドバッド王子(カーウィン・マシューズ)は、その途中に立ち寄った謎の島コロッサで一つ目の巨人サイクロプスに襲われる魔術師ソクラ(トリン・サッチャー)を救出する。ところがこのソクラは邪悪な魔術師で、島では宝物庫から魔法のランプを盗もうとしてサイクロプスに追いかけられていたのだ。魔法のランプを諦められないソクラは、魔術を使ってパリサ姫を親指サイズの小人に変えてしまう。慌てたシンドバッドが犯人と知らずソクラに助けを求めたところ、パリサ姫を元へ戻すにはコロッサ島の巨大な怪鳥ロックの卵が必要不可欠だという。そう、ソクラはシンドバッドにコロッサ島へ戻る船を出させるため、パリサ姫に魔術をかけたのだ。かくして、謎多き島へ再び上陸したシンドバッド一行の前に、サイクロプスや双頭の怪鳥ロック、さらには火を噴く怪獣ドラゴンなどが立ちはだかる。 先述した通り、ストーリーはあくまでも特撮シーンの見せ場を軸にして構成されており、なおかつ子供向けの冒険活劇が基本コンセプトであるため、正直なところ脚本自体はあまり出来が良いとは言えない。だいたい、サイクロプスなんてギリシャ神話のキャラクターであり、本来なら「アラビアン・ナイト」の世界とは無関係。いい加減といえばいい加減である。やはり最大の目玉はハリーハウゼンの「ダイナメーション」だろう。中でも、企画の発端となったシンドバッドと骸骨の剣戟アクションは、両者の剣さばきが見事にマッチした素晴らしい出来栄え。モデル人形と俳優を「接触」させる映像を撮るのはこれが初めてだったため、ハリーハウゼンは自らフェンシングの訓練コースを受けて正しい剣さばきを勉強し、さらには剣戟の振り付けを担当するフェンシングの元オリンピック・イタリア代表選手エンツォ・ムスメッキ・グレコと打ち合わせを重ね、アニメート作業を念頭に置いたリズミカルな振り付けを考案したという。骸骨のモデル人形は体部分がラテックスを沁み込ませた綿、頭部はレジン(合成樹脂)で出来ており、『アルゴ探検隊の大冒険』の骸骨軍団のひとつとしても再登場する。 もちろん、サイクロプスとドラゴンの造形も見事で、両者が死闘を演じるクライマックスはなかなかの迫力だ。当初、サイクロプスをもっと人間みたいなデザインにするつもりだったハリーハウゼンだが、しかし観客から俳優が演じているものと勘違いされることを避けるため、『地球へ2千万マイル』の怪獣イミールの初期デザインを応用したモンスターに仕上げた。恩師ウィリス・オブライエンに言われた「現実に撮影できるものを作ろうとするのはやめるべきだ」というアドバイスも恐らく念頭にあったのだろう。 ちなみに、もともとのコンセプトだとコロッサ島はサイクロプスの居住地で、他にも大勢のサイクロプスが存在するという設定だったのだとか。実際、シンドバッドの部下の水兵がサイクロプスに捕まって丸焼きにされそうになるシーンで、2体のサイクロプスが「ご馳走」を巡って殴り合いの喧嘩をするというユーモラスな場面も予定されていたが、しかし時間と予算の都合で諦めたのだそうだ。また、ドラゴンが火を噴くシーンの撮影もコストがかかるため、本来ならもっと火を噴かせたかったが2回だけで断念。また、脚本執筆の段階では、人魚の姿をした女性の精霊セイレーンが嵐の岩場に現れたり、魔術師ソクラの洞窟で巨大ネズミの群れに襲われたりするシーンも存在したそうだが、前者は時間的な余裕がなかったため、後者は子供向け映画としては怖すぎるため削除された。 やはり本作で最大の難関だったのはカラー撮影である。というのも、当時はまだCGもデジタル合成も存在しない時代。ストップモーション・アニメとライブ・アクションの映像を合成するには、手前にモデル人形やミニチュアセットを配置し、背景のスクリーンに実写映像を投影(リアプロジェクション)しながらひとコマずつ撮影していく、いわゆる「スクリーンプロセス」の手法が用いられていた。ご想像の通り、それだとスクリーンに投影された実写映像をもう一度撮影することになるため、当たり前だがその部分だけ解像度が著しく落ちてしまう。これがモノクロ撮影だと画質や色の違いもなんとか誤魔化せるが、しかしカラーではハッキリと目立ってしまうのだ。ただでさえカラー撮影は費用がかさむうえ、そうした技術的な問題も孕んでいる。なので、もともとハリーハウゼンはモノクロでの撮影を考えていたが、しかし相棒シニアが「『アラビアン・ナイト』の世界にモノクロはそぐわない」とカラーでの撮影を主張し、ハリーハウゼンも「確かにその通りだ」と考えを改めたのである。 そこで、ハリーハウゼンはコロムビア現像所の所長ジェラルド・ラケットに相談し、複製ネガの画質がマスターポジに劣らないイーストマン・コダック社の新製品フィルム「カラーストック5253」をリアプロジェクション用に採用。さらに、当時の映画フィルムは撮影の際にマスキングされていたのだが、ハリーハウゼンはそれを外して露光領域を全て使うことを考案。これでリアプロジェクション映像を撮影すると。画像サイズが大きくなった分だけ解像度も上がり、画質や色の違いが少なく抑えられるというわけだ。ただし、カラーフィルムは温度変化に敏感で、例えばアニメート撮影を途中で切り上げて翌日に回したりすると、その間にフィルムの明度が変わってしまうため、ひとつのカットを一気に撮影せねばならなかったそうだ。 また、当時のハリウッド映画の歴史物はロサンゼルスのスタジオに巨大セットを作って撮影されることが多かったが、本作は製作費の節約のため人件費の安いスペインでロケを敢行。グラナダのアルハンブラ宮殿やコスタ・ブラーバのサガロ、マジョルカ島の洞窟などを使って実写映像を撮影しているのだが、これが実にエキゾチックかつ風光明媚な魅力を作品に与えて大正解。ロケハンのためスペインを訪れたハリーハウゼンはすっかり気に入ってしまい、以降もたびたび自作のロケ地としてスペインを選んだばかりか、一時期はスペインに住んでいたこともある。 監督として実写部分の演出を担当したのは『地球へ2万マイル』でも組んだネイサン・ジュラン。自分自身を「映画監督が天職というタイプではない」「映画に恋をしたようなこともない」と語っていたジュランは、自らの職務についても「スケジュールと予算をきちんと守ったうえで、脚本の内容を映像化する技術者」だと割り切っていた。それゆえ、ハリーハウゼンやシニアにとっては仕事をしやすい相手だったようだ。しかももともとは美術監督の出身であるため、本作では異国情緒溢れるゴージャスな映像美にその才能を発揮している。また、シンドバッド役のカーウィン・マシューズは当時コロムビア映画が猛プッシュしていた若手スターで、ハリーハウゼン曰く、目に見えないモンスターを想像しながら演技するのが非常に巧かったという。 最終的な製作費はたったの65万ドルだったが、コロムビア映画の派手なプロモーション効果もあってか大ヒットを記録。これを機にハリーハウゼンとシニアは大きな予算を確保できるようになり、いわゆるB級映画の世界から抜け出すことが出来たそうだ。 『シンドバッド黄金の航海』(1973) 本作も始まりはレイ・ハリーハウゼンの描いたイラストだった。再び「アラビアン・ナイト」の世界を映画化したいと考えた彼は、ケンタウロスとグリフォンの戦いなど何枚かのイラストを描いていた。1963~64年頃のことだ。しかし、当時はストーリーまでは思いつかなかったため企画を温存することにした。その後、何度か脚本家を雇ってアウトラインを考えたが実を結ばず。結局、興行的に不発だった『恐竜グワンジ』(’69)の完成後に、自身の手でシンドバッド映画第2弾のアウトラインを書くことになる。これを読んだ相棒のチャールズ・H・シニアは、『女子大生・恐怖のサイクリングバカンス』(’70)や『見えない恐怖』(’71)などの優れた英国サスペンスで知られるブライアン・クレメンスを脚本家として雇い、およそ1年間をかけて脚本会議を重ねながらストーリーを構成していく。そうやって最終稿が仕上がったのは1972年6月のことだった。 部下の水兵たちを伴って航海の旅を続ける船乗りシンドバッド(ジョン・フィリップ・ロー)は、ある時、船の上空を飛来した奇妙な生き物を射落とそうとしたところ、その生き物が運んでいた黄金のタブレットを手に入れる。すると、シンドバッドの目の前に美しい女性の幻が現れ、そのうえ奇妙な嵐に見舞われた一行は、気が付くと航路から大きく外れたマラビア王国へと辿り着く。上陸したシンドバッドから黄金のタブレットを奪おうとする魔術師クーラ(トム・ベイカー)。実は、タブレットを落としていった奇妙な生物は、魔術師クーラがマンドレイクの根から作った翼を持つ小型の人造人間ホムンクルスだった。王国軍によって助けられたシンドバッドは、クーラによって顔に火傷を負ったため黄金のマスクを被った宰相ビジエル(ダグラス・ウィルマー)に宮殿へ招かれる。 その宰相ビジエルによると、黄金のタブレットは3枚で構成されたパズルのひとつで、その全てを揃えた者は何か強大なパワーを得ることが出来るという。魔術師クーラはそれを狙っているのだ。実は宰相ビジエルも黄金のタブレットを持っており、シンドバッドのタブレットと併せてみたところ、それが伝説の島レムリアの位置を示す航海図であることに気付く。恐らく、そこに3枚目のタブレットがあるのだろう。宰相ビジエルと共にレムリア島へ向かうことにしたシンドバッドは、さらに幻で見た美女と瓜二つの女奴隷マルギアナ(キャロライン・マンロー)と商人の放蕩息子ハローン(カート・クリスチャン)を連れて航海の旅に出るのだが、その動きを察知した魔術師クーラが横取りしようと画策する…。 『シンバッド七回目の航海』よりも大人向けに仕上がった本作は、それゆえビジュアルもお伽噺風の煌びやかさや派手な色彩が抑えられ、全体的にどこかダークで神秘的なムードが漂う。中でもそれが顕著なのは、カンボジアのアンコール遺跡を参考にしたというレムリア島のデザインであろう。そのレムリア島の元ネタは、19世紀の動物学者フィリップ・ㇲクレーターが存在を主張した幻の大陸レムリア。かつてインド洋にあったとされていることから、ハリーハウゼンは本作もインドでロケ撮影しようと考えたが、しかし当時のインドでは官僚主義やお役所仕事で映画の撮影がなかなか進まず、そのうえ現地エキストラは複数の仕事を掛け持ちしているので平気で現場をすっぽかすとの悪評を聞いて断念する。なにしろ、ハリーハウゼン作品では撮影スケジュールと予算の厳守は必須だ。そのため、結局は前作と同じようにスペインで撮影をしている。 やはり本作の最大の見どころは、レムリア島の寺院に祀られたヒンドゥー教の陰母神カーリーの巨大な青銅像が動き出し、シンドバッド一行と激しい戦いを繰り広げるシーンであろう。実在しないクリーチャーに命を吹き込むこと以上に惹かれるのが、本来なら命を持たないただのモノに命を吹き込むことだというハリーハウゼン。そんな彼にとって、本作のカーリーは最も満足した仕事のひとつだったようだ。ただし、カーリーとシンドバッドたちのチャンバラ合戦は『アルゴ探検隊の大冒険』の骸骨軍団との戦いと同じくらい、複雑かつ困難なアニメート作業と合成が必要だったため、実写部分の撮影ではハリーハウゼン自身が最終的な完成映像を念頭に置いて役者の動きを指導したという。また、カーリーが踊り出すシーンではインドの舞踏家スーリャ・クマリに振り付けを依頼し、フィルム撮影された踊りを基にしてアニメート作業を行った。 もうひとつ、命を吹き込まれた命のないモノが、シンドバッドの船の船首像である。セイレーンをモデルにした船首像が、夜の暗闇で不気味に動き出すシーンは鳥肌ものの不気味さとカッコ良さ!また、サイクロプスの要素を取り込んだひとつ目のケンタウロスもデザインがユニークだし、そのケンタウロスとグリフォン(上半身が鷲で下半身がライオンという伝説のクリーチャー)の戦いも大きな見どころである。なお、本作ではダイナメーションに代わってダイナラマという新しい名称が使用されているが、これは映画会社の宣伝戦略で呼び方を変えただけだ。 監督に起用されたのは、AIP(アメリカン・インターナショナル・ピクチャーズ)で『呪われた棺』(’69)や『バンパイアキラーの謎』(’70)などのカルト・ホラーを手掛けたゴードン・ヘスラー。ファンタジーの世界にも造詣が深かった彼は、脚本会議にも途中から参加して様々なアイディアを提供し、ハリーハウゼンを大いに満足させたという。ダークで神秘的な世界観もホラー畑出身のヘスラーにはピッタリだった。シンドバッド役は『バーバレラ』(’68)や『黄金の眼』(’68)で有名なジョン・フィリップ・ロー。マッチョ過ぎないシュッとした体格はハリーハウゼンの理想通りだったが、しかしシニア曰く、前作のカーウィン・マシューズほど剣戟アクションが上手くないのは不満だったようだ。 ヒロインのマルギアナを演じるキャロライン・マンローは、当時ハマー・フィルムでクレメンスが撮り終えたばかりの初監督作『吸血鬼ハンター』(’73)の主演女優で、そのクレメンスの推薦で本作に起用された。従来のハリーハウゼン作品らしからぬセクシーなヒロイン像に、当時は胸をときめかせた映画少年も多かったようだ。また、魔術師クーラ役のトム・ベイカーは、かのローレンス・オリヴィエにも才能を評価されたシェイクスピア俳優だったが、しかし本作のオーディションを受けた当時は土木作業員のアルバイトをしながら食いつないでいたそうで、このクーラ役をステップにイギリスの国民的長寿SF番組『ドクター・フー』の4代目ドクター役に抜擢される。また、マカロニ・ウエスタンの悪役俳優アルド・サンブレルが、シンドバッドの腹心オマール役で顔を出しているのも見逃せない。 なお、井戸から現れる毛むくじゃらの預言者役は、もともとオーソン・ウェルズがキャスティングされていたものの、撮影直前になってエージェントがギャラの値段を吊り上げたために断念。その代わり、当時たまたまスペインで休暇中だった名優ロバート・ショーに出演してもらった。撮影はたったの1日で済んだそうだ。 『シンドバッド虎の目大冒険』(1977) 『シンドバッド黄金の航海』の完成後、次なる企画として「コナン」や「ホビットの冒険」などを検討していたというハリーハウゼンとシニア。しかし、同作が予想を上回る大ヒットを記録したことから、引き続きシンドバッド物を踏襲することになる。この勢いに乗っておかない手はないと考えたわけだ。ただし、単純な続編にすることは意図的に避けた。前作で使おうと思ったアイディアが幾つも残っていたため、それを基にして全くの独立したストーリーを考えたのである。そのひとつが、前作のアウトラインに含まれていた「人間が魔法で猿に変えられてしまう」という設定。これを土台にして話を膨らませ、大まかなあらすじを考えたハリーハウゼンは、1974年の5月にアウトラインを相棒シニアに送っている。 脚本執筆に起用されたのは『アルゴ探検隊の大冒険』でも組んだビヴァリー・クロス。脚本会議を重ねてもなかなか結末が決まらなかったそうだが、最終的にクロスが相応しいクライマックスを考えてくれたという。決定稿が出来上がったのは1975年6月。またもや1年以上かかってしまったのである。 物語の始まりはアラビアの都シャロック。先代のカリフが崩御し、その息子であるカシム王子(ダミアン・トーマス)の戴冠式が行われるのだが、実子ラフィ(カート・クリスチャン)を王位に就けたい継母ゼノビア(マーガレット・ホワイティング)の魔法によって、なんとカシム王子はヒヒに変えられてしまう。実は、ゼノビアは黒魔術を操る邪悪な魔女だったのだ。その頃、冒険の旅を終えた船乗りシンドバッド(パトリック・ウェイン)がシャロックを訪れる。カシム王子の妹ファラー姫(ジェーン・セイモア)と結婚するためだ。ところが、都は夜間外出禁止令が出ていて中へ入れない。そればかりか、ゼノビアとラフィの仕掛けた罠にまんまとハマって、シンドバッドと仲間たちは餓鬼グールや軍隊に襲撃される。 なんとか敵を倒してファラー姫を救出し、船へと戻ったシンドバッド。ファラー姫から事情を聞いた彼は、親友でもあるカシム王子を助けようと考える。7ヶ月以内に王子を元の姿に戻さねばラフィが王位に就いてしまう。高名な錬金術師メランシアス(パトリック・トラウトン)ならば何か分かるに違いないと思いついたシンドバッドは、ファラー姫やヒヒになったカシム王子を連れて、メランシアスが住むというギリシャのカスガル島を目指して旅に出る。そうと知った魔女ゼノビアもまた、息子ラフィや機械仕掛けの従者ミナトンと共にシンドバッド一行の後を追う。カスガル島で錬金術師メランシアスとその娘ディオーネ(タリン・パワー)と面会したシンドバッドらは、氷河に覆われた幻の大陸ヒュペルボレイオスに存在する、失われた民族アリマスピの神殿に呪いを解くヒントがあると教えられる。メランシアスとディオーネを旅の仲間に加え、極北の地を目指すシンドバッド一行。しかし、そんな彼らの行く手に魔女ゼノビアが立ちふさがる…! サイクロプスやドラゴン、ケンタウロスにグリフォンなど神話や伝説のクリーチャーがスクリーンを賑わせた前2作と違って、巨大なセイウチやサーベルタイガー、ネアンデルタール人トロッグにヒヒなど、実在の生物を基にしたクリーチャーが大半を占める本作。一応、機械仕掛けの従者ミナトンはギリシャ神話に出てくる半人半牛の怪物ミノタウロスが元ネタだが、しかし見た目は殆んどロボットである。おかげで、「アラビアン・ナイト」をベースにしたファンタジー活劇というよりも。エドガー・ライス・バローズやヘンリー・ライダー・ハガードの書いたSF冒険小説の世界に近くなったように思う。そこは恐らく賛否の別れるポイントだ。 その一方で、前作が大ヒットしたおかげで予算が跳ね上がり、コロムビア映画から350万ドルという破格の製作費を割り当てられたおかげもあって、実写シーンでは従来のスペイン・ロケに加えて、北極の氷河を横断するシーンはピレネーのピコス・デ・エウロパ、錬金術師メランシアスが住むカスガルはヨルダンのペトラ遺跡、シンドバッドの船やヒュペルボレイオスの神殿などの屋外セットはマルタ島といった具合に、世界各地で大規模な撮影を行っている。ただし、ピレネーやヨルダンのロケはキャストや監督が決まる前にハリーハウゼンが第2班を率いて撮っているため、ロングショットで本編に移っている登場人物たちはみんな代役だったそうだ。反対にクロースアップショットはスタジオで撮影されており、周りの風景がロケ映像のフィルムを使った移動マット合成であることが見て取れる。 監督は俳優としても有名なサム・ワナメイカー。シンドバッド役は続編のイメージを避けるというハリーハウゼンの意図に加え、さらにコロムビア映画が新しい俳優を望んでいたこともあって、ジョン・フィリップ・ローではなくハリウッド映画の王様ジョン・ウェインの息子パトリック・ウェインが起用された。ディオーネ役のタリン・パワーも往年の大スター、タイロン・パワーの娘。こうした2世スターの起用は良い宣伝材料になったという。ヒロインのファラー姫には『007/死ぬのは奴らだ』(’73)のボンドガールでブレイクしたジェーン・セイモア。ただし、クレジット上はタリン・パワーがパトリック・ウェインと並ぶ主演扱いで、自分がヒロインだと聞かされていたジェーンは撮影現場で脚本の決定稿を渡され、中身を読んだところ自分の出番が大幅に削られていてビックリしたという。ジェーン曰く、2世スター同士の顔合わせで売り出したい映画会社の意向だったそうだ。まあ、パトリック・ウェインもタリン・パワーもほどなくして映画界から消え、貧乏くじを引いたジェーン・セイモアは長く輝かしいキャリアを誇ることになるのだが。 ハリーハウゼンが最も満足したというのが魔女ゼノビア役のマーガレット・ホワイティング。ありきたりなケバケバしい魔女ではなく、威厳のある邪悪さを持ったコンラート・ファイトの女性版を望んだハリーハウゼンは、コーラル・ブラウンやヴィヴェカ・リンドフォースくらいの演技力を持った名女優でないと務まらないと考えたそうだ。そこで、アン・バクスターやマーセデス・マッケンブリッジ、パトリシア・ニールなどのベテラン女優を検討した末、ハリーハウゼンがゼノビア役をオファーしたのは映画史上屈指の大女優ベティ・デイヴィス。しかし提示されたギャラがあまりにも高すぎたため断念せざるを得ず、その代わりにウェスト・エンドの大物シェイクスピア女優ホワイティングに白羽の矢が立てられた。これが結果的に幸いしたとハリーハウゼンは振り返る。 1977年の夏休みシーズンに世界中で一斉公開された本作だが、映画会社が期待したほどの大成功には結びつかなかった。恐らくその最大の理由は、同時期に公開された『スター・ウォーズ』(’77)であろう。これを機にハリウッドでは最先端の特撮技術を駆使したスペクタクルなSF大作映画のブームが訪れ、ストップモーション・アニメを使った古式ゆかしいファンタジー映画は急速に時代遅れとなっていく。新たに特撮映画のジャンルを牽引するようになったのは、ハリーハウゼンの映画を夢中で見て育ったジョージ・ルーカスやスティーブン・スピルバーグの世代。まさに時代の節目だったのである。■ 「シンドバッド7回目の航海」© 1958, renewed 1986 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.「シンドバッド黄金の航海」© 1973, renewed 2001 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.「シンドバッド虎の目大冒険」© 1977, renewed 2005 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved. 
- 
                                                            
                                                              COLUMN/コラム2023.06.21 デップとディカプリオ、美しき兄弟“黄金の瞬間”を名匠ハルストレムが紡ぐ『ギルバート・グレイプ』 スウェーデン出身のラッセ・ハルストレム(1946年~ )は、70年代中盤に監督デビュー。ワールドワイドな人気を博した、自国の音楽グループABBAのコンサートを追ったセミドキュメンタリー『アバ/ザ・ムービー』(77)でヒットを飛ばしたが、より大きな注目を集めたのは、1985年製作の『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』だった。 1950年代後半を舞台に、母の結核が悪化したために田舎の親戚に預けられた、12歳の少年の1年を描く。主人公を悲劇的な境遇に置きながらも、その成長をユーモラスにスケッチしたこの作品の人気は、自国に止まらなかった。 当時「アメリカで最もヒットした外国語映画」となり、ゴールデングローブ賞の最優秀外国語映画賞を受賞。またアカデミー賞でも、監督賞と脚本賞にノミネートされ、ハルストレムがハリウッドに招かれるきっかけとなった。 アメリカでの第1作『ワンス・アラウンド』(90/日本未公開)を経て、ハルストレムが取り組んだのが。本作『ギルバート・グレイプ』(93)である。 ハルストレムがプロデューサーに、「やっと見つけたよ」と伝えたという、この物語。「悲劇と喜劇がうまくミックスされていて楽しいけれど、どこか悲しい」まさに彼の求めていたものだった。 ピーター・ヘッジスによる原作小説が書店に並んで数日後に、ハルストレムは「映画化」のオファーを行った。そしてそれまで戯曲を中心に書いてきたヘッジスに、本作に関して、「絶対に脚本も書くべきだ」と勧めたのだという。原作の「…楽しいけれど、どこか悲しい」感じを、大切にしたかったのだろう。 ***** アイオワ州エンドーラ。人口1,000人ほどのスモールタウンに、24歳のギルバート・グレイプは暮らしていた。 大型スーパー進出の影響で客が来なくなった食料品店に勤務する彼の家族は、母と妹2人、そして末弟のアーニー。母は17年前に夫が自殺して以来引きこもりとなり、気付くと体重が250㌔を超え、この7年間は一歩も外出していない。 知的障害を抱えたアーニーは、生まれた時に10歳まで生きないと言われたが、間もなく18歳となる。時々町の給水塔に上っては、警察から注意されるのが、家族にとっては悩みの種となっていた。 エンドーラはシーズンになると、トレーラーを駆る多くの旅行者が通り掛かる。そのほとんどが素通りしていく中で、車が故障したために足止めを喰らったのが、祖母と旅をしているベッキーだった。 街の保険会社の社長夫人と不倫の仲だったギルバートだが、アーニーに対して偏見なく接するベッキーに、出会った時から心惹かれる。しかし車が直れば、彼女は居なくなってしまう…。 問題だらけの家族を棄てて、旅立つことなど決してできない。自分は「どこへも行けない」と思うギルバート。 そんな日々の苛立ちが爆発し、ある時アーニーの無邪気なふるまいに、つい手を上げてしまう。そのショックで家を飛び出したギルバートは、エンドーラから出て行こうとするのだが…。 ***** 典型的なアメリカのスモールタウンであるエンドーラは、架空の街。撮影はテキサス州のオースティンで、3ヶ月に渡って行われた。 主演のギルバート役に決まったのは、ジョニー・デップ。1990年に『クライ・ベイビー』で映画初主演を果たし、同年の『シザーハンズ』で大ヒットを飛ばして、スターの仲間入り。『アリゾナ・ドリーム』『妹の恋人』に続く主演作として本作を選んだのは、ハルストレムの監督作ということが、大きかった。 デップはフロリダの南東にある、小さな町ミラマーで育った。デップの両親は、幼い頃に離婚。彼は憔悴する母親を気遣って、父親から送られてくる小切手を、受け取りに行っていた。 そんな彼にとって、母親と知的障害の弟の面倒を見るギルバートは、自分に近く、役作りは楽だったという。 デップはギルバート役について、こんな風に解釈していた。環境のせいで夢見ることをあきらめてきたが、心の奥に何かを秘めている。何もかも投げ捨てて、そこから逃れ、新しい人生を始めたいという強い思いを持ちながらも、いつの日からか自分を殺すようになっていった。その歪みによって、ある時に愛と献身は怒りと罪悪感に変わって、遂には自分自身を見失ってしまう…。 ギルバートと重なる部分が多かったことが、撮影中逆にデップを苦しめることになる。当時彼が抱えていた、私的な問題と相まって…。 ギルバートと恋に落ちるベッキー役には、ジュリエット・ルイス。ハルストレムは、マーティン・スコセッシ監督の『ケープ・フィアー』(91)で彼女を観た時から、いつか仕事をしたいと考えていた。そしてルイスも、「監督がラッセ・ハルストレムなら…」と、オファーを快諾した。 アーニー役に選ばれたのは、レオナルド・ディカプリオ。14歳から子役の活動を始めたディカプリオは、本作に先立つ『ボーイズ・ライフ』(93)に、ロバート・デ・ニーロ直々の指名を受けて出演。その演技が高く評価された。 ハルストレムはアーニー役に関しては、「実はあまりルックスがいいとは言えない役者を探していたんだ」と語っている。ところがオーディションに集まった役者の中で、ピンと来たのが、ディカプリオだった。 ディカプリオはそのオーディションで、「一週間で役作りする」と宣言。アーニーと同じようなハンディキャップを持った人々と数日間一緒に過ごし、彼らの雰囲気を摑んだ。更に本を読んだり、ビデオを撮って仕種などを研究した。その上で、自分の想像をミックス。顔の表情を作るため、口に特製のマウスピースを入れて、アーニー役を作り上げた。 ハルストレムはそもそも、「俳優の創造力を助けるのが監督の仕事」という考え方の持ち主。ディカプリオのやることをいちいち気に入って、自由にやらせたという。 ハルストレム言うところの「知的な天才」ディカプリオは、カメラが回ってない時でも、アーニー役が抜けず、木に上ったり水をかけたりして、スタッフを困らせた。あまりにハイになり過ぎて、ハルストレムに嘔吐物をかけてしまったこともあったという。 そんな彼と兄役のデップの関係は、ディカプリオ曰く「…優しくて、僕のことをいつも笑わせてくれた」。実年齢では11歳上のデップと、本当の兄弟のような関係が築けたという。 劇中でアーニーは、嫌なことがあると、顔をクシャとさせる。その表情が気に入ったデップは、ギャラを払っては、ディカプリオに腐った卵やソーセージの酢漬け、朽ちた蜂の巣などの匂いを嗅がせては、その演技をさせるという遊びを行った。ギャラの合計は、500ドルほどに達したという。 因みに撮影中は、共演者とはあまりフレンドシップを結んだりはしないというジュリエット・ルイスだったが、彼女は『ケープ・フィアー』で、ディカプリオは『ボーイズ・ライフ』で、それぞれロバート・デ・ニーロの洗礼を浴びた同士。ディカプリオには、「あんたは私の男版よ」と、親しみを示したという。 奇しくもジュリエット・ルイスが、『ケープ・フィアー』でアカデミー賞助演女優賞にノミネートされてブレイクを果したのと同様、ディカプリオは本作でオスカーの助演男優賞候補となり、大注目の存在となっていく。 ディカプリオが本作の中で、「特別に好き」というのが、母役のダーレン・ケイツとのシーン。主演のデップも、ケイツの演技と人柄には、深く感動を覚えたという。 実際に250㌔を超える身体の持ち主であるケイツは、本作が初めての演技だった。92年に出演したTVのトーク番組で、“肥満を苦にしての外出恐怖症”で5年間家から出なかった経験を語ったのを、原作&脚本のピーター・ヘッジスに見出されての抜擢だった。 彼女が出演をOKしたのは、肥満の人々がどれだけの偏見や残酷な眼差しにさらされているかを、伝えたいという考えから。「この映画で人々がより寛大になってくれれば嬉しい」と語る彼女の勇気に、デップは感銘を受けたのだった。 さてそんなデップは、義歯を入れて、長髪をさえない赤に染めて、ギルバート役に挑んだ。先に記した通り、「まともじゃない家族とその面倒を見るギルバート」のジレンマに痛いほど共感できたのが一因となって、撮影中は鬱状態。眠らず食事を摂らず、ひらすら酒を飲み煙草を吸い続けていた。またこの頃は、ドラッグに最もハマっていた時期だったという。 デップの問題は、役への共感だけではなかった。長く恋愛関係にあった女優のウィノナ・ライダーとの仲が、ちょうど暗礁に乗り上げた頃だった。 そんなこんながあって、デップ個人にとっては、「…無意識のうちに自分を追い込んでいたのかもしれない…」本作の撮影現場は、決して楽しいものではなかった。作品が完成して公開されても、その後ずっと本作を観ることができなかったほどに。 そんな中でもハルストレムは、デップの心の拠りどころになった。デップはスウェーデン語を教えてくれと、せがんだという。 ハルストレムもデップに対しては、絶対的な信頼感を示した。「目で演技する若者で、その演技たるやとても繊細だから私が口を出す必要は全然ない」と考えて。 そうは言っても、やっぱり監督は監督である。ハルストレムは、ロケ地から役者の演技まで、確固たるイメージを持っていたため、何度もリテイクを重ねることもあった。「50テイク撮っても、使えるのはせいぜい2、3テイク目までだよ」と、デップが愚痴をこぼしたこともある。 そんな2人だったが、7年後に『ショコラ』(2000)で再び組んでいる。デップにとっては意外なオファーだったというが、ハルストレムにとってデップは、やはり得難い俳優だったということだろう。 ハルストレムは言う。「監督業の醍醐味は、カメラの前で何かを作り出すその瞬間生まれると思う。予想もしていなかったことがパッと起こり、真実に近いものができる。その黄金の瞬間がつぎつぎに生まれてくるのを見るとき、監督になって本当に良かった、と思う…」『ギルバート・グレイプ』は、まさにそんな瞬間が結実した作品である。若き日のデップやディカプリオの“美しさ”も楽しみながら、皆様もその目で確かめていただきたい。■ 『ギルバート・グレイプ』© 1993 DORSET SQUARE FILM PRODUCTION AND DISTRIBUTION KFT / TM & Copyright © MCMXCIII by PARAMOUNT PICTURES CORPORATION All Rights Reserved 
- 
                                                            
                                                              COLUMN/コラム2025.10.17 快楽ではない、バイオレンスの“苦痛”―『ワイルドバンチ』 ◾️監督サム・ペキンパー、最高傑作誕生の舞台裏 1960年代末、アメリカ映画は旧来の西部劇神話からの脱却を迫られていた。ベトナム戦争や公民権運動を経て、人々は単純な善悪を超える、現実的な暴力と道義の崩壊をスクリーンに求め始めていたのだ。映画監督サム・ペキンパーはその時代精神に感応し、『ワイルドバンチ』(1969)を「アメリカ神話の葬送曲」として構想した。それは暴力の本質と、その倫理的痛みを可視化する試みだったのだ。 作品の撮影はメキシコ・コアウィラ州とドゥランゴ州でおこなわれ、81日間に及ぶ過酷なロケとなった。撮影監督ルシアン・バラードのもと、ペキンパーは複数台のカメラを異なるフレームレートで同時に使用し、スローモーションとマルチアングル編集を組み合わせる革新的な手法を採用。編集担当であるルー・ロンバルドは現場から同行し、ペキンパーと一体となって構成を創り上げた。撮影素材は膨大で、初期編集版はランニングタイムが3時間45分に達したという。そこから半年をかけて1/3を削り、編集し終えたときにはインターミッションを含めて150分に収められ、ショットの構成数は3.642カットになった(これはそれまで撮られたカラー映画としては最多記録)。こうした削除と再構成を経て、『ワイルドバンチ』は沈黙と爆発、緊張と緩和を反復する独自のリズムが形成されたのだ。 とりわけ編集の特徴は、人物の記憶や心情を示すフラッシュバックをストレートカットで挿入した点にある。当時のワーナー上層部は時制の混乱を理由に反対したが、ペキンパーは譲らず、結果としてこの技法は後の映画編集に大きな影響を与えた。また音響にも徹底したこだわりを見せ、銃ごとに異なる発砲音を作り分け、権威ある映画テレビ技術者協会の音響効果賞を受賞している。音楽もジェリー・フィールディングが半年以上を費やして作曲し、重層的な暴力の叙事詩を完成させた。 しかし完成までの道のりは平坦なものではなかった。1969年5月の一般向けプレビューでは、観客の多くが暴力描写に衝撃を受け、賛否両論が噴出した。ペキンパーの意図は暴力を快楽ではなく痛みとして描くことにあったが、スタジオ側は「残酷すぎる」と判断し、先のフラッシュバックの件も含めて上映時間の短縮を求めた。制作責任者ケネス・ハイマンの擁護も空しく、経営交代で新任のテッド・アシュリーが着任すると、監督不在のままフィル・フェルドマンが約10分を削除。主にカットされたのは以下である。 【1】ワイルドバンチのリーダー、パイク・ビショップ(ウィリアム・ホールデン)の旧友ディーク・ソーントン(ロバート・ライアン)が、いかにして捕えられたかを描くフラッシュバック。 【2】パイクの恋人オーロラがどのように殺され、パイク自身が負傷するに至った経緯を示すフラッシュバック。 【3】パイクの部下クレージー・リー(ボー・ホプキンス)がフレディ・サイクス(エドモンド・オブライエン)の孫であり、パイクが冒頭の強盗で意図的に彼を見捨てたことを示す砂漠のシーン。 【4】マパッチ将軍(エミリオ・フェルナンデス)が電報を待つ間に、パンチョ・ヴィラの軍勢から襲撃を受けるシーン。 【5】アグアベルデでのパンチョ・ヴィラ襲撃後の余波を描くシークエンス。 【6】約1分間にわたる、エンジェルの村での祭りの場面。 いずれも“暴力の中の倫理”を語る重要な挿話であり、この改変は全米規模で実施され、上映地域によって異なる長さのプリントが混在するという混乱を招いた。ペキンパーはこれを「暴力に人間味を与える部分を切り捨てた裏切り」と激しく非難している。興行的には健闘したものの、監督の意図は損なわれ、作品は血と硝煙のバイオレンスとして受け取られた。彼が本来描こうとしたのは、暴力を見つめる者たちの沈黙をとおし、時代の終焉を哀惜するものだったのである。 興味深いのは、この時点で削除された映像の多くが、ヨーロッパ配給用ネガとして保管されていたことだ。そこには列車強盗後にパイクが仲間を思い出すフラッシュバックや、村の子どもたちがバンチを真似る場面などが含まれていた。これらは後年の復元版で再び息を吹き返すことになるが、その萌芽はすでに撮影段階からペキンパーの構想に組み込まれていた。彼にとって『ワイルドバンチ』とは暴力を美化する映画ではなく、“崩壊する道義と失われゆく友情”を見つめるための作品だったのである。   ◾️バージョン変遷 ―上映・編集違いの実際 こうして『ワイルドバンチ』は公開以来、半世紀を経ても複数のバージョンが併存する稀有な作品となってしまった。その背景には先に挙げたように制作現場での編集方針の対立と検閲、商業的制約が複雑に絡み合っている。ペキンパーは脚本段階から「無法者たちの最期」と「裏切りと贖罪の物語」という二重構造を意図しており、編集は単なるテンポ調整ではなく、記憶と倫理を挿入する構築作業だった。 1969年3月に完成した試写版(約145分)は理想形に近かったが、アメリカ公開版では「テンポが遅い」「上映回数が減る」との理由で約135分に短縮された。削除されたのは、ペキンパーが「沈黙こそ最も雄弁」と称した場面群であり、結果として観客には壮絶な銃撃シーンの印象だけが強まった。 その削除作業は異例で、スタジオが各地の映写所に編集者を派遣し、現場で物理的にフィルムを切るという強引な方法が執られた。このため地域ごとに内容が異なるプリントが存在する事態となり、アメリカから“監督版”は失われた。長尺版はヨーロッパ市場にのみ残り、1970年代には名画座や大学上映を通じて“幻の完全版”として語り継がれた。   ●『ワイルドバンチ』は、1980年代のアメリカにおけるVHSやレーザーディスクなどのパッケージメディアでは、145分版の素材がマスターとして使用されていた。いっぽう日本では135分のアメリカ劇場公開バージョンが商品化されている。写真はその国内版レーザーディスク(筆者所有のもの)。当時、日本のファンの間では「カット版か」と敬遠されがちだったが、現在となっては削除シーンを比較・検証するうえで貴重な資料的価値をもつ。   時代を経て1980年代末、AFI(アメリカン・フィルム・インスティチュート)とワーナー・ブラザースが過去作品の修復プロジェクトを開始し、その過程でオリジナルネガの一部とヨーロッパ版マスターが再発見された。編集者ルー・ロンバルドとフィルム保存専門家が中心となり、ペキンパーのノートや脚本を参照しながら再構成を実施。1995年に145分の「ディレクターズカット版」が正式に復元・再公開されたのだ。ここで戻されたのは先に挙げたシーンに加え、冒頭の村人たちが放つ無言の視線、列車強奪後のフラッシュバック、決戦前の沈黙の間、そしてエピローグの子どもが銃を拾う場面である。これらはどれも“暴力を見つめるまなざし”を補完する重要な要素であり、ペキンパーが意図した倫理的リズムを回復させたのだ。 復元したものは一時NC-17指定を受けたが、問題視されたのは暴力描写そのものではなく、“子どもの視点から暴力を映す倫理性”だった。最終的にR指定へ戻されたが、同じ映像でも時代の感覚や文脈によって評価が変わることを示す象徴的な出来事となった。 以後、このディレクターズカット版が標準となり、135分の短縮版は歴史的資料に位置づけられた。2006年のDVD「Two-Disc Special Edition」ではさらに音声と色調が修復され、ペキンパー本来の編集意図がより強化された。編集者ロンバルドは「ペキンパーは一瞬の沈黙に真実を置いた」と語り、復元の本質が単なる長尺化ではなく、映画の呼吸の回復にあることを示したのだ。 ◾️ディレクターズカット版の意義と受容 『ワイルドバンチ ディレクターズカット版』の成立は映画史における、作家の権利回復を象徴する事件だった。ペキンパーが生前に完全な形での再上映を実現できなかったことを考えると、これは彼の死後に成し遂げられた和解でもある。このレストアによってオーディエンスは、初めて彼が意図した「暴力を見つめる沈黙」と「崩壊する友情の哀切」に、正面から向き合うことができるようになったのだ。 このディレクターズカット版の意義は、二つの側面から論じられる。第一に、映画そのものの構造的回復だ。削除されていたフラッシュバックや沈黙のカットが戻ることで、物語は単なるガンマンの最期から、裏切りと赦しの連鎖を描く悲劇へと変容する。特にパイクとデイクの過去を示す短い回想は、暴力に至る彼らの疲弊を浮き彫りにし、決戦の瞬間を暴力の快楽から、道義的な選択へと転化させている。この編集の復権によって、映画全体がペキンパー本来のリズムと思想を取り戻したのだ。 そして第二には、映画史的な意義だ。1990年代のレストアは、マーティン・スコセッシやロバート・ハリス、フランシス・フォード・コッポラらによるフィルム保存運動の流れの中で実現した。ペキンパーの名誉回復は、監督のヴィジョンを尊重するという新たな産業倫理をうながした。ワーナーはこの作品以降、スタジオによる再編集を避け、ディレクターズ・カットを尊重する方向へと転換する。つまり『ワイルドバンチ』は、ハリウッドにおける“作家主義の制度化”を後押しした記念碑でもあるのだ。■ 『ワイルドバンチ【ディレクターズカット版】』© 1969 Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved. 
- 
                                                            
                                                              COLUMN/コラム2022.12.09 1980年代韓国の“闇”を斬り裂いた!№1監督ポン・ジュノの出世作!!『殺人の追憶』 1960年代生まれで、80年代に大学で民主化運動の担い手となり、90年代に30代を迎えた者たちを、韓国では“683世代”と呼んだ。そしてこの世代は、政治経済から文化まで、その後の韓国社会をリードしていく存在となる。『パラサイト 半地下の家族』(2019)で、「カンヌ国際映画祭」のパルム・ドールと「アカデミー賞」の作品賞・監督賞などを受賞するという快挙を成し遂げた、韓国№1監督ポン・ジュノも、まさにこの世代。本人は69年生まれで、88年に大学に入ったので、あまり実感がなく、その分け方自体が「好きではない」というが。 確かに90年代、“韓国映画ルネッサンス”と言われる潮流が起こった時、彼はまだ長編監督作品を、ものしてなかった。そして2000年になって完成した第1作『ほえる犬は噛まない』は、一部で高い評価を得ながらも、興行的には振るわない結果に終わっている。 しかしプロデューサーのチャ・スンジェは、『ほえる…』の失敗をものともせず、ポン・ジュノに続けてチャンスを与えた。彼が取り掛かった長編第2作が、本作『殺人の追憶』(2003)である。 題材は、“華城(ファソン)連続殺人事件”。86年から91年に掛け、ソウルから南に50㌔ほど離れた華城郡台安村の半径2㌔以内で起こった、10件に及ぶ連続強姦殺人事件である。180万人の警察官が動員され、3,000人の容疑者が取り調べを受けたが、犯人は捕まらないまま、10年余の歳月が流れていた。 この事件はすでに演劇の題材となっており、「私に会いに来て」というタイトルで、1996年に上演されていた。ポン・ジュノはこの演劇を原作としながら、事件を担当した刑事や取材した記者、現場近隣の住民に会って話を聞き、関連資料を読み込んだ。 そして自分なりに事件を整理してみたところ、「…自然と事件を時代背景と共に考えるようになった」という。この作業に半年掛けた後、脚本の執筆は、1人で行った。 因みに63年生まれで、ポン・ジュノよりは6歳ほど年長ながら、同じ“386世代”で、すでに『JSA』(00)でヒットを飛ばしていたパク・チャヌク監督も、「私に会いに来て」の映画化を考えていた。しかしポン・ジュノが取り組んでいることを知って、あきらめたという。 “華城連続殺人事件”には、“386”の代表的な監督たちの興味を強く引く、“何か”があったのだ。 未解決の連続殺人事件を映画化するということで、スタッフとキャスト全員で追悼式を行ってからクランクインした本作。事件から10数年経って、華城は当時の農村風景が残る環境とはかなり様相が変わっており、また住民の感情も考慮して、事件現場よりも更に南部の全羅道でロケが行われた。 製作費は、30億ウォン=3億円。通常の韓国映画より、少し高い程度のバジェットであった。 ***** 1986年、華城の農村で連続猟奇殺人が発生する。被害者の若い女性は、手足を拘束され、頭部にガードルを被せられたまま、用水路などに放置されていた。 担当のパク・トゥマン刑事(演:ソン・ガンホ)は、「俺は人を見る目がある」と豪語するが、捜査は進まない。そんなある日、頭の弱い男クァンホが、被害者の1人に付きまとっていたという情報を得る。トゥマンは相棒のヨング刑事と共に、拷問や証拠の捏造まで行って、クァンホを犯人にしようとするが、うまくいかない。 そんな時にソウルから、ソ・テユン刑事(演:キム・サンギュン)が派遣されてくる。テユンは、「書類は嘘をつかない」と言い、各事件の共通性として「雨の日に発生した」こと、「被害者は赤い服を着ていた」ことを見つけ出す。更に彼の指摘通り、失踪していた女性が、死体となって発見される。 やり方が正反対のトゥマンとテユンは、対立しながら、捜査を進める。しかし有力な手掛かりは見つからず、犠牲者は増えていく。 雨で犯行の起こる日、必ずラジオ番組に「憂鬱な手紙」という曲をリクエストしてくる男がいることがわかる。その男ヒョンギュ(演:パク・ヘイル)は、連続殺人が起こり始めた頃から、村で働き始めていた。 有力な容疑者と目星を付け、現場に残された精液とヒョンギュのDNAが一致するか検査を行うことになる。しかし当時の韓国には装備がなく、アメリカに送って鑑定が返ってくるまで、数週間待たねばならない。 一日千秋の思いで結果を待つ刑事たちだったが、その間にまた犯行が起きて…。 ***** 本作の内容は、事件の実際と、それを基にした演劇と、更にはポン・ジュノの想像を合わせたものだという。例えば、被害者の陰部から、切り分けた桃のかけらが幾つも見付かったことや、捜査に行き詰まった刑事たちが霊媒師を訪ねたこと、頭の弱い容疑者が、尋問後に列車に飛び込み自殺したことなどは、“事実”を採り入れている。 有力な容疑者のDNA鑑定は、実際には、日本に検体を送って行われた。これをアメリカに変更したのは、当時の米韓の対比を描きたかったからだという。 容疑者がラジオ番組に歌をリクエストするというのは、まったくのフィクション。この設定は、原作の演劇にもあったが、その曲はモーツァルトの「レクイエム」であった。ポン・ジュノはそれを、「1980年代の雰囲気が重要」と、当時の歌謡曲である「憂鬱な手紙」に変えたのである。 因みに原作の「私に会いに来て」で、主人公の相棒の暴力刑事を演じたキム・レハと、頭の弱い容疑者役だったパク・レシクは、そのまま本作で、同じ役どころを与えられている。 本作を、典型的な“連続殺人事件もの”として作ったり、最初はいがみ合っている刑事たちが、やがて力を合わして捜査に取り組んでいく、“バディもの”として描くことも可能であった。しかし先に記した通り、「…自然と事件を時代背景と共に考えるようになった」というポン・ジュノは、韓国社会が通ってきた80年代の暗部を描くのを、メインテーマとした。 事件当時の新聞には、88年に開催が迫った「ソウルオリンピック」が大見出しとなっている下に、「華城でまた死体発見」という小さな記事が載っている。ポン・ジュノはそれを見て、妙な気がした。そして「…これは不条理ではないかと思った」という。「華城事件」で10人の女性が殺された86年から91年は、ちょうど全斗煥大統領による軍事政権に対する民主化要求運動が、全国的な広がりを見せた時代である。そしてこの頃の警察は、ド田舎の村の人々を守ることよりも、政権を守るためにデモを鎮圧することの方を、重視していた。 本作の中では、機動隊がデモ隊を取り締まるために出動している間に、事件が起こる描写がある。また夜道を歩いていた女子学生が犯人に襲われる場面は、政府の灯火管制により、村のあちこちで消灯したり、シャッターが下ろされたりして、人為的に暗闇が訪れていくのと、執拗にカットバックされる。政府が作り出した暗闇が、罪のない女子学生の命を奪う犯人を、サポートしてしまうのだ。 これぞポン・ジュノ言うところの「不条理」。「時代の暗黒が殺人事件の暗黒を覆う…」わけである。 高度成長期でもあるこの時期、稲田や畑ばかりだった農村に、工場が建てられる。それまでは村全体が一つの大家族のような繋がりだったのに、縁もゆかりもない、見も知らぬ労働者が大挙して移り住んでくることによって、“事件”が起こるという構図も、まさに時代が生んだ殺人事件と言える。 因みに我が国でも、64年の東京オリンピック前年には、5人連続殺人の“西口彰事件”や、4歳の子どもを営利誘拐目的で殺害した“吉展ちゃん事件”などが起きている。奇しくも日韓共に、五輪が象徴する時代の転換期には、猟奇的な事件が発生しているわけだ。 “西口彰事件”については、それをモデルにした、今村昌平監督の『復讐するは我にあり』(79)という有名な邦画がある。本作の演出に当たってポン・ジュノは、この作品を非常に参考にしたという。 本作の邦題『殺人の追憶』は、原題の直訳だ。これはデビュー作『ほえる犬は噛まない』で、「フランダースの犬」(原題)という意に沿わぬタイトルを映画会社に付けられてしまい、結果的に内容と合わないことも、興行の失敗に繋がったという反省から、ポン・ジュノ自らが付けたもの。「殺人」の「追憶」という連なりには、組合せの妙を感じる。「追憶」という言葉を使ったのは、80年代の韓国、その“暗黒”を、積極的に振り返るという、ポン・ジュノの想いが籠められているのである。 そうした想いを、具現化していくための演出も、半端なことはしない。この規模の作品では、通常3~4ヶ月の撮影期間となるが、本作は半年間。これは「冒頭とラストだけ晴で、後は曇りでなくてはダメ」という、監督のこだわりによって掛かった。特に件の女子学生が犠牲になるシーンでは、理想的な曇天を待つために、1か月を要したという。 本作は先に挙げたように、“連続殺人事件もの”“バディもの”といった、ジャンル映画に括られることから逃れているのも、特徴だ。ポン・ジュノは毎作品、「ジャンルの解体」を目指しているという。 これに関しては、『岬の兄弟』(2019)『さがす』(22)などの作品で注目を集めた片山晋三監督が、興味深い証言をしている。片山は『TOKYO!/シェイキング東京』(08)『母なる証明』(09)という2作で、日本人ながら、ポン・ジュノ監督作品の助監督を務めている。「…ジャンルを意識しないで一カット、一カットごとに映画の見え方がホラーだったりコメディだったりサスペンスだったりに変わっても成立すること、むしろその方が面白いと気づいたのが僕にとっての収穫です」 この言から、片山の『さがす』も、確かに「ジャンルの解体」を目指した作風になっていることに思い当たる。 さてここで、ポン・ジュノの期待に応えた、本作の出演者についても、触れねばなるまい。本作に続いて、『グエムル‐漢江の怪物‐』(06)『スノーピアサー』(13)そして『パラサイト 半地下の家族』(19)といったポン・ジュノ作品に主演。「最も偉大な俳優であり、同伴者」と、ポン・ジュノが称賛を惜しまない存在となっている、ソン・ガンホも、本作のトゥマン刑事役が、初顔合わせ。『反則王』(00)『JSA』(00)といった主演作で大ヒットを飛ばし、すでにスター俳優だった彼が、駆け出しの監督の作品に主演したのは、『ほえる犬は噛まない』を観て、笑い転げたことに始まる。「ポン監督に自分から電話をかけて関心を示した情熱が買われ、キャスティングされた」のだという。いち早く監督の才能を、見抜いていたわけだ。またガンホが無名時代にオーディションに落ちた際、その作品の助監督だった、ポン・ジュノに励まされたというエピソードもある。 いざクランクインし、序盤の数シーンを撮ってみると、アドリブも多いガンホに対して監督は、「野生の馬」という印象を抱く。そして彼をコントロールする方法としては、「ただ垣根を広く張り巡らしておいて、思いっきり駆け回れるようにしたうえで、放しておこう」という考えに至った。「…優れた感性と創造力、作品に対する理解力を持ち合わせている」芸術家と、認めてのことだった。 キム・サンギョンを起用したのは、ホン・サンス監督の『気まぐれな唇』(02)を観てのこと。サンギョンは本作の脚本を読んで、テユン刑事に感情移入。「同じ気持ちになって猛烈に腹が立った」という。 有力な容疑者として追及されるヒョンギュ役は、パク・ヘイル。ポン・ジュノは脚本の段階から、彼の特徴的な顔を、思い浮かべていた。 ラスト、未解決に終わった事件から歳月が経ち、今や刑事を辞めて営業マンになったトゥマンが、殺人のあった現場を訪れ、自分の少し前に犯人らしき男が、同じ場所を訪れていたことを、その場に居た女の子から聞いて愕然とする。そして観客を睨みつけるような彼の顔のアップとなって、終幕となる。 これは「俺は人を見る目がある」「目を見れば、わかる」などと、本作の中で容疑者の肩を摑んでは、その顔を見つめる行為を続けてきた、トゥマンの最後の睨みである。ポン・ジュノの、「観客として映画を見るかもしれない真犯人の顔を俳優の目でにらみつけたかった」という想いから、こうしたラストになった。 実はこのシーンは、クランクインから間もなく撮られたもので、監督はガンホに、「射精の直前で我慢しているような表情でやってほしい」と演出を行った。監督曰く、ガンホは本当にあきれた顔を向けたというが、実際は何度も耳打ちで注文してはリテイクする監督を見て、「この人はこのシーンに勝負をかけているんだな」と理解。渾身の力を、注ぎ込んだという。 さて本作は公開されると、韓国内で560万人を動員。2003年の№1ヒット作となり、数多の賞も受賞した。紛れもなくポン・ジュノの出世作であり、国際的な評価も高い。20年近く経った今でも、彼の「最高傑作」であると、主張する向きが少なくない。 ここで“華城事件”の終幕についても、触れたい。2019年になって、真犯人が浮上した。その時56歳になっていた、イ・チュンジェという男。 94年に、妻の妹を強姦殺害した罪で、無期懲役が確定し、24年もの間服役中だった。改めてのDNA鑑定の結果、彼が真犯人であることが確定したが、一連の事件はすべて「時効」が成立していた。 ここで改めて注目されたのが、警察の杜撰な捜査。容疑者の中には自殺者が居たことも記したが、特に酷かったのは、10件の殺人の内、1件の犯人として逮捕され、20年もの間収監されていた男性が居たことである。 本作『殺人の追憶』が、事件の解決には役立ったのかどうかは、明言できない。しかし、あの時代の“闇”を、紛れもなく斬り裂いていたのだ。■ 『殺人の追憶』© 2003 CJ E&M CORPORATION, ALL RIGHTS RESERVED 
- 
                                                            
                                                              COLUMN/コラム2019.01.07 ロバート・レッドフォードの“キャッチボール”『ナチュラル』 その昔、「お箸の国の人だもの」というCMのフレーズがあったが、その言い方を借りれば、サッカーのJリーグなどが発足するより以前、私の青少年期である1970~80年代頃までの日本の男どもは、「野球の国の人だもの」という感じであった。 様々なスポーツの中でも野球人気は圧倒的で、ゴールデンタイムの巨人戦中継は、連日高視聴率を叩き出していた。そしてこの頃に野球少年だった者の多くが、父親とキャッチボールに興じた思い出を持つであろう。 私の父は仕事の都合で、連日のように帰宅は深夜になり、息子たちが通学する頃にはまだ布団の中というのが、普通であった。しかし私が小学校の高学年になって、野球に熱中し始めると、わざわざ早起きしては、キャッチボールの相手をしてくれるようになった。 息子の投げる球をしっかりと受け止めては、胸元めがけて投げ返す…。その時は何も意識してなかったが、いま振り返ればあのキャッチボールは、普段忙しい父の“想い”が伝わってくる、大切な瞬間であった。孫の顔を見せることもなく、父が早逝してから20年近く。最近になってしみじみと、そんなことを思ったりする。 「野球の国」の元祖であるアメリカにも、そんな父と子の構図が存在するのであろう。名作『フィールド・オブ・ドリームス』(1989)の終幕、ケヴィン・コスナー扮する主人公が、かつて不仲だった亡父の若き日と出会い、キャッチボールに興じるシーンは、実に感動的である。 そして、『フィールド・オブ・ドリームス』に先駆けること5年。1984年公開の本作『ナチュラル』でも、父と子のキャッチボールが、重要なポイントとなる。 時代は1939年。開巻間もなく汽車に乗る主人公、ロバート・レッドフォード扮するロイ・ハブスの脳裏には、ネブラスカの農場で過ごした少年時代がよぎる。 彼は農夫である父によって、野球に対しては“ナチュラル=天性の才能の持ち主”であることを見出され、毎日コーチを受ける。ノックやピッチング練習以上に、父子にとって至福の時であったのが、キャッチボール。父が野球に臨む心構えを説きながら投げたボールを、息子は嬉しそうに受け止めては、投げ返す。そんなロイの姿を、幼馴染みの女の子アイリスが、ニコニコしながら眺めていた。 ずっと続くかと思われた父子の時間だったが、ある日父は突然倒れ、帰らぬ人となってしまう。その夜にハブス家の農場は、激しい嵐に襲われ、樫の木が雷鳴と共に引き裂かれる。ロイは亡父の遺志を感じたかのように、その木で手製のバットを作り上げ、“ワンダー・ボーイ=神童”という字と、稲妻のマークを刻印する。 それから6年後、青年になったロイは、スカウトに発掘され、大リーグのシカゴ・カブスのテストを受けることとなる。故郷を旅立つ前夜には、アイリスと結婚を誓い合い、2人は初めて結ばれる。 シカゴに向かう道中では、汽車で出会った現役大リーガーの強打者と、ひょんなことから対戦。ロイは三球三振に斬って捨てる。 「あらゆる記録を破るプレイヤーになる」そんな自信に満ち溢れた彼の前途は洋々たるものと思われたが、結局大リーグのマウンドに立つことはなかった。それどころか、カブスのテストを受けることさえ出来なかったのである。 ロイはシカゴに到着して間もなく、汽車で出会って心惹かれた黒服の美女から、ホテルの部屋と導かれる。そこで彼を待っていたのは、銀の銃弾。腹へと撃ち込まれたロイは、そのまま意識を失った…。 それから、16年の歳月が流れた。長く流浪の日々を送ってきたロイだったが、弱小球団のニューヨーク・ナイツの本拠地に、35歳の“オールド・ルーキー”として現れる。ようやく辿り着いた、大リーグ。当初は監督に疎まれたロイだが、いざ出場のチャンスを与えられるや、少年時代に作った、あの“ワンダー・ボーイ”のバットでホームランを打ちまくり、チームの大躍進に貢献する…。 1952年に出版された小説を原作とする本作は、レッドフォードが出演を熱望した作品だという。その理由は、彼のそれまでの歩みが、ロイと重なる部分があることと無関係ではないだろう。 少年時代から、スポーツ万能だったというレッドフォード。中でも野球は得意中の得意で、高校を卒業してコロラド大学に進む際には、野球選手用の奨学金で入学したほどのプレイヤーだった。 しかし、ほどなくして大学をドロップアウトした彼は、絵を習うためにヨーロッパへ。パリやフィレンツェの美術学校に通うが、画家になろうという夢は1年余りで挫折し、アメリカへと戻る。そして21歳の時に、17歳の女性と結婚する。 レッドフォードはその後、ニューヨークの演劇学校へ通って、俳優を志す。ブロードウェイの端役でデビューした後、舞台やTVドラマに出演するが、まったく売れず、2人の生活は、妻が働いて支えた。 やがてニール・サイモン作の舞台「裸足で散歩」の主演で、ブロードウェイで成功を収めるものの、その後に出演した何本かの映画は不発に終わり、結局は30過ぎまで試練の日々が続く。 レッドフォードをスターダムにのし上げたのは、1969年に公開された、“アメリカン・ニューシネマ”の代表的な1本、既に大スターだったポール・ニューマンと共演した、ジョージ・ロイ・ヒル監督の西部劇『明日に向って撃て!』のサンダンス・キッド役。1936年生まれのレッドフォードは、その時33歳。『ナチュラル』の“オールド・ルーキー”ロイ・ハブスと同じく、檜舞台に上がるまでには、短くない時間を要したのである。 さて本作では、ロイは脚光を浴びた後、再び“悪い女”にハマり、成績は下降線に。チームも優勝戦線から、離脱しそうになる。そんな時に救いの女神のように現れるのが、かつての恋人アイリスだった。 ロイの復調と共に、チームの勢いも戻り、遂にはリーグ優勝~ワールドシリーズ進出を目前にする。しかしロイは、銀の弾による古傷の悪化と球団オーナーらの八百長の陰謀によって、現役生活及び生命のピンチへと追い込まれる。 そしてその時彼が取った選択が、新たなる“父子のキャッチボール”へと繋がる。アイリスの笑顔に再び見守られながらの、“至福の時”…。 ロイ・ハブスの最高に誇れる、しかしあまりにも短かった、栄光の瞬間。それに比べれば『明日に向って撃て!』以降、1970年代から長く、ハリウッド屈指の二枚目スターとして活躍し、80年代以降は、監督としても評価が高い作品を発表していくレッドフォードの、栄光の時間は長く続いた。そしてその間に彼は、映画人として数多くの“息子たち”と“キャッチボール”を行い、大切なものを与え続けたのである。 監督デビュー作だった『普通の人々』(1980)で、自身はアカデミー賞監督賞を獲得。と同時に、二十歳の新人だったティモシー・ハットンに、助演男優賞のオスカーをもたらした。 レッドフォ―ドの監督第3作にして、「最高傑作」と推す声も多い『リバー・ランズ・スルー・イット』(1992)では、“ブラピ”ことブラッド・ピットのキャリアを、“レッドフォード2世”と呼ばれるまでに磨き上げ、輝かせた。その後大スターへの道を邁進し、プロデューサーとしても成功を収めるブラピは、レッドフォードのことを、「師匠であり、もう一人の父親のような存在」とまで語っている。 更には、レッドフォードが1978年にスタートさせた、「サンダンス映画祭」。彼の最初の当たり役の名に因むこの映画祭は、新人監督の登竜門として、ちょうど『ナチュラル』が公開となった辺りから、勢いが加速。コーエン兄弟やジム・ジャームッシュ、タランティーノなどから、近年ではデミアン・チャゼルまで、後のアメリカ映画を支える面々が、次々と育っていった。 多分これからの日本映画界をリードしていく1人となる、長久允監督。2017年1月、彼のデビュー短編『そうして私たちはプールに金魚を、』(2016)にグランプリを与え、世界に先駆けて認めたのも、「サンダンス」である。さすれば長久監督も、間接的ではあるが、映画人レッドフォードと“キャッチボール”をした、“息子”の1人と言えるであろう。 2018年8月、80歳を超えたレッドフォードは、俳優業の引退宣言をした。しかしプロデューサーや監督としての活動は、まだまだ続ける意向と聞く。彼との“キャッチボール”で育まれる者が、これからも増えていくことを期待する。■ 
- 
                                                            
                                                              COLUMN/コラム2022.11.09 ジョン・マルコヴィッチしか考えられなかった…。“カルト映画”の傑作『マルコヴィッチの穴』 本作『マルコヴィッチの穴』(1999)の原題は、“Being John Malkovich”。当代の名優とも怪優とも評される、ジョン・マルコヴィッチがタイトルロールを…というか、マルコヴィッチ自身を演じる。 日本ではアメリカから遅れること、ちょうど1年。2000年9月の公開となった。私はその頃、TBSラジオで「伊集院光/日曜日の秘密基地」という番組の構成を担当していたが、パーソナリティの伊集院氏がこの作品のことを、生放送前後の打合せや雑談などで、よく話題にしていたことを思い出す。かなりのお気に入りで、翌10月から始まった新コーナーに、「ヒミツキッチの穴」というタイトルを付けたほどだった。「ジョン・マルコヴィッチってのが、良いんだよな~」と、伊集院氏は言っていた。そして、「日本の俳優でやるとしたら、誰なんだろう?“大地康雄の穴”とかになるのかな」とも。 この例え、当時個人的には「絶妙」だと思った。今となっては、まあわかりにくいかも知れないが…。 私的にはそんな思い出がある『マルコヴィッチの穴』とは、どんな作品か?まずはストーリーを紹介しよう。 ***** 才能がありながらも認められない、人形使いのグレイグ(演:ジョン・キューザック)は、妻のロッテ(演:キャメロン・ディアス)から言われ、やむなく定職を求める。 新聞の求人欄から彼が見付けたのは、小さな会社の文書整理係。そのオフィスは、ビルのエレベーターの緊急停止ボタンを押してから、ドアをバールでこじ開けないと降りられない、7と1/2階に在った。そしてそこは、かがまないと歩けないほど天井が低い、奇妙なフロアーだった。 書類の整理に勤しむグレイグは、ある日書類棚の裏側に、小さなドアがあるのを見付ける。興味本位でドアを開け、その中の穴に潜り込むと、突然奥へと吸い込まれる。 気付くとグレイグは、著名な俳優ジョン・マルコヴィッチの脳内へと入り、彼になっていった。しかし15分経つとグレッグに戻って、近くの高速道路の脇の草っ原へと放り出される。 興奮した彼は、同じフロアーの別の会社のOLで、一目惚れしながらも相手にされなかったマキシン(演:キャスリーン・キーナー)に、この秘密を話す。マルコヴィッチ自体を知らなかった彼女だが、この体験=穴に入ってマルコヴィッチに15分間なる=を、1回200㌦でセールスすることを提案。グレイグと共にビジネスを始めると、深夜の7と1/2階には、行列が出来るようになる。 しかしこれはまだ、グレイグ&ロッテ夫妻とマキシーン、そして俳優ジョン・マルコヴィッチを巡る、不可思議な物語の入口に過ぎなかった…。 ****** ジョン・マルコヴィッチ。1953年12月、アメリカ・イリノイ州生まれで、間もなく69歳になる。『マルコヴィッチの穴』の頃は、40代半ばといったところ。 若き日に、仲間のゲイリー・シニーズらと立ち上げた劇団で評判を取り、やがてブロードウェイに進出。『True West』や『セールスマンの死』などに出演し、オビー賞など数々の賞を手にした。 映画初出演は、ロバート・ベントン監督の『プレイス・イン・ザ・ハート』(84)。主演のサリー・フィールドに2度目のオスカーをもたらしたこの作品で、盲目の下宿人を演じたマルコヴィッチは、いきなりアカデミー賞助演男優賞にノミネートされた。 以降は、主役から脇役まで幅広い役柄で、数多くの作品に出演。悪役やサイコパス役に定評があり、またヨーロッパのアート作品にも、度々出演している。 演技も風貌も、いわゆる「クセの強い」俳優であるが、プライベートでの言動や行動も、そのイメージを裏付ける。今ではその発言自体を否定しているが、「一般大衆に認識されているものはクソだ。彼らの考えにも吐き気がする。映画は金のためだけにやっている」などと、言い放ったことがある。 また、ニューヨークの街角で絡んできたホームレスに激怒し、大型のボウイナイフで脅したり、オーダーメードのシャツの出来上がりが遅れたテーラーに怒鳴り込んだり、バスが停車しなかったことに腹を立て、窓を叩き割る等々の、暴力的な振舞いが度々伝えられた。 その一方で、映画デビュー作の共演者サリー・フィールドが、「ただただ彼を敬愛している」と言うのをはじめ、共演者たちの多くからは称賛されている。初めてブロードウェイの舞台に立った『セールスマンの死』の共演者である名優ダスティン・ホフマンは、「彼との仕事は、私のキャリアの中でも貴重な経験だった」としている。 そんなマルコヴィッチをネタにした、摩訶不思議な本作のストーリーを書いたのは、チャーリー・カウフマンという男。それまでTVのシットコムの脚本を生業としていた彼にとっては、映画化に至った、初の長編脚本である。 本作の脚本は、「特に戦略を持たずに書き始めた」ということで、最初は「既婚者の男が恋をする」というアイディアだけだった。そこに後から、「穴を通って別人の脳内に入る」という発想が加わって、他者になりすまして名声を得たり、生き長らえようとする者たちや、逆にそうした者たちに自由を奪われて、己を失っていく者が登場する物語になったのである。『マルコヴィッチの穴』は、誰が観ても、「アイデンティティがテーマ」の作品だと、理解される。しかしカウフマンが書き始めた当初は、そんなことは考えてもいなかったわけである。 脳内に入られる人物に関しては、「マルコヴィッチ以外に考えられなかった…」という。マルコヴィッチがブロードウェイの舞台に立った時のビデオを観て衝撃を受けたというカウフマン。曰く、「彼がステージに立つと目が離せない」ようになった。そして本作の物語を編んでいくに際して、「彼は不可知な存在で、作品にフィットすると思った」と語っている。「マルコヴィッチ以外に考えられなかった…」のは、その「微妙な知名度」も、ポイントだったように思われる。映画・演劇業界の周辺では、誰も知る実力の持ち主であるが、万人にとってのスーパースターというわけではない。本作の中でマキシンが、マルコヴィッチと聞いても、誰かわからなかったり、タクシーの運転手が、マルコヴィッチ本人がやってもいない役柄で「見た」と話しかけてきたりするシーンがわざわざ設けられていることからも、作り手のそうした意図が、読み取れる。 因みにマルコヴィッチ自身は8歳の頃、“トニー”という名のもうひとりの自分を作り出していたという。その“トニー”とは、クロアチア系の父親とスコットランド及びドイツ系の母親から生まれたマルコヴィッチとは違って、スリムなイタリア人。至極人当たりがよく、首にスカーフを巻くなど、おしゃれで粋なキャラだった。 マルコヴィッチが“トニー”になっている時は、大抵ひとりぼっちだった。しかしある時はなりきったまま、野球の試合でピッチャーマウンドに上がったこともあったという。 そのことに関してマルコヴィッチは、「…たぶん多くの人が今とは別の人生を送りたいと願っているだろう…」と語っている。カウフマンが執筆当時、そんなことまで知っていたとは思えないが、そうした意味でも、本作の題材にマルコヴィッチをフィーチャーしたのは、正解だったかも知れない。役柄的には、逆の立場であるが…。 しかし、カウフマンの書いた『マルコヴィッチの穴』の脚本は、業界内で非常に評判になりながらも、なかなか映画化には至らなかった。内容が特殊且つ、エッジが立ち過ぎていたからだろう。 ジョン・マルコヴィッチ本人も、その脚本の完成度には唸ったものの、こんな形で俎上に載せられるのには臆したか、「自分を題材にしないことを条件に監督やプロデューサーを引き受ける」とカウフマンに提案。話がまとまらなかった。 もはや映画化は、不可能か?カウフマンも諦めかかった頃に、本作の監督に名乗りを上げる者が現れる。それが他ならぬ、スパイク・ジョーンズだった。 当時ジョーンズは、ビースティ・ボーイズやビョーク、ダフト・パンクなど数多の人気ミュージシャンのMVを演出した他、CMでも国際的な賞を受賞。写真家としても成功を収め、まさに時代の寵児だった。映画監督としては、短編を何本か手掛けて、やはり好評を博しており、長編デビューの機会を窺っていた。 そんな彼が「…とにかく、脚本が本当に良かった」という理由で、『マルコヴィッチの穴』に挑むことになったのである。当時の彼の妻ソフィア・コッポラの父、『ゴッドファーザー』シリーズなどのフランシス・フォード・コッポラ監督の後押しもあったと言われる。 その後ジョーンズとカウフマンで、映画化に向けての作業が進められる中で、件の経緯もあったせいか、ホントに“ジョン・マルコヴィッチ”が適切であるかどうか、2人の間で迷いが生じることもあった。このタイミングだったかどうか定かではないが、トム・クルーズの名が挙がったりもしたという。 しかし結局は、他の人物では満足できず、マルコヴィッチで行きたいということになった。マルコヴィッチの方も、スパイク・ジョーンズという希有な才能に惹かれたということか、「…あまりに途方もなくとんでもないストーリーだから、自分の目で見届けたくなった…」と、出演がOKになったのである。 完成した『マルコヴィッチの穴』は、「ヴェネツィア国際映画祭」で国際批評家連盟賞を受賞したのをはじめ、内外の映画祭や映画賞を席捲。一般公開と共に“カルトムービー”として人気を博し、アカデミー賞でも、監督賞、脚本賞、助演女優賞の3部門でノミネートされた。 この時はオスカーを逃したカウフマンとジョーンズだったが、2人とも本作が高く評価されたことから、監督、脚本家、プロデューサーとして地位を築いていくことになる。後にカウフマンは『エターナル・サンシャイン』(04)で、ジョーンズは『her/世界でひとつの彼女』(13)で、それぞれアカデミー賞脚本賞を受賞している。 因みにジョン・マルコヴィッチに関しては2010年、その軌跡を振り返る試みを、映画批評サイトの「Rotten Tomatoes」が実施。「ジョン・マルコヴィッチの傑作映画」という、ベスト10を発表した。 その際、第1位に輝いたのは、デビュー作の『プレイス・イン・ザ・ハート』。そこに、ポルトガルの巨匠マノエル・ド・オリヴェイラ監督の『家路』(01)、盟友ゲイニー・シニーズの監督・主演作『二十日鼠と人間』(92)等々が続く。そんな中で本作『マルコヴィッチの穴』(99)は、堂々(!?)第6位にランクインしている。 しかしこのベスト10以上に、本作のインパクトが、大きく残っていることを感じさせる出来事が、2012年にあった。それはマルコヴィッチが出演した、iPhone 4SのCM。この中で「マルコヴィッチ、マルコヴィッチ、マルコヴィッチ…」というセリフが繰り返されるのだが、これは『マルコヴィッチの穴』に登場する、最もヴィジュアルイメージが強烈なシーンを、明らかに模したもの。 ではその元ネタとなったのは、果してどんな場面なのか?それはこれから観る方のために、この稿では伏せておこう。 「マルコヴィッチ、マルコヴィッチ、マルコヴィッチ…」■ 『マルコヴィッチの穴』© 1999 Universal City Studios Productions LLLP. All Rights Reserved. 
- 
                                                            
                                                              COLUMN/コラム2024.09.04 下らなくてバカバカしいけど憎めない!今なお世界中(?)で愛されるキラートマト軍団の魅力に迫る!『アタック・オブ・ザ・キラートマト』 ‘70年代のパロディ映画ブームが生んだ珍作 映画史上屈指の駄作として名高いZ級モンスター映画である。ある日突然、トマトが人間を襲い始めて全米がパニックに陥るというあまりにも下らないストーリー、アマチュアの自主制作映画とほぼ変わらないレベルの貧相で安っぽいビジュアル(なんと、予算はたったの10万ドル!)、見た目も演技力も素人丸出しの役者たちによるショボい芝居(実際にキャストの大半は素人の一般人)などなど、お世辞にも出来の良い映画とは言えないものの、しかしその屈託のないバカバカしさはなんだか妙に憎めないし、古き良き時代のモンスター映画にオマージュを捧げた頭の悪いギャグの数々も嫌いになれない。体に悪いと分かってはいても、ついつい手が出てしまうジャンク・フードみたいな映画。本作が今もなお、世界中でカルト的な人気を誇っている理由はそこにあると言えよう。 とある民家のキッチンで主婦が他殺体で発見され、捜査を担当する刑事たちは遺体に付着した赤い液体がトマトジュースだと知って困惑する。この日を境に、全米各地でトマトが罪のない人々を襲うという凄惨(?)な事件が多発。この異常事態を受け、ペンタゴンでは軍部が科学者を交えて対抗策「アンチ・トマト計画」を急ピッチで進める一方、ワシントンでは諜報部のトップ・エージェント、メイソン・ディクソン(デヴィッド・ミラー)や落下傘部隊出身のウィルバー・フィンレター(スティーブン・ピース)ら特殊部隊が、トマトたちの暴走を食い止めるために動き始める。 さらに、大統領の命を受けたホワイトハウス報道官ジム・リチャードソン(ジョージ・ウィルソン)も国民のパニックを防ぐべくプロパガンダ戦略を練り、政府の動きを察知した女性新聞記者ロイス・フェアチャイルド(シャロン・テイラー)がディクソンらの行動を追跡。だが、そうこうしているうちに狂暴化したトマトたちは巨大モンスターへと進化を遂げ、いよいよ軍が出動せねばならない事態となってしまう…! というのが大まかなあらすじ。古いB級特撮モンスター映画にありがちなプロットのパロディである。軍隊マーチ風の勇壮なサウンドに乗って「キラートマトが襲ってくる!キラートマトが襲ってくる!」と謳いあげるオープニングのテーマ曲からしてバカ丸出し(笑)。クレジットや本編の随所にサニー・ヴェール家具店なるショップの広告テロップ(昔のアメリカのテレビではこういうテロップCMが多かった)が流れたり、『北北西に進路を取れ』(’59)や『ジョーズ』(’75)など名作映画のパロディがあちこちで唐突にぶち込まれたり、そうかと思えば前触れもなく突然ミュージカルが始まったりする。この脈絡のなさときたら!あくまでも、ストーリーは映画としての体裁を整えるための建前みたいなもので、基本的には中学生レベルの下らない一発ギャグを適当に繋げているだけだ。 ちょうど’70年代当時は『ヤング・フランケンシュタイン』(’74)や『新サイコ』(’77)といったメル・ブルックス監督のウルトラ・ナンセンスなパロディ映画が大流行し、その人気に便乗して『名探偵登場』(’76)や『弾丸特急ジェット・バス』(’76)など似たようなパロディ映画が続々と登場した。本作も恐らくそのトレンドに乗って作られたと思うのだが、しかしどこまでも徹底した下らなさと意味のなさは、後のジム・エイブラハムズとザッカー兄弟による『フライングハイ!』(’80)シリーズや『トップ・シークレット』(’84)を先駆けていたとも言えよう。そこにはストーリーテリングの妙だとか、ユーモアに込められたメッセージだとかは一切なし。次から次へとバカバカしいギャグが繰り出されていくだけだ。そういう意味では、ケン・シャピロ監督の『ドムドム・ビジョン』(’74)とかジョン・ランディス監督の『ケンタッキー・フライド・ムービー』(’77)辺りと同列に語られるべき作品かもしれない。 元ネタになった日本映画とは…!? そんな本作を生み出したのは、監督・製作・脚本・編集を手掛けたジョン・デ・ベロ、製作・脚本・第二班撮影・出演(ウィルバー・フィンレター役)を兼ねるスティーブン・ピース、そして原案・脚本・助監督を務めたコンスタンチン・ディロンの3人である。彼らはいずれもカリフォルニア州のサンディエゴ出身で、高校時代から仲良しの映画仲間だった。これに大学で知り合ったマイケル・グラントが加わって4人組となった彼らは、学生映画集団「フォー・スクエア・プロダクションズ」を結成。この時期に『アタック・オブ・ザ・キラートマト』の原点となった自主制作映画を撮っている。それが8ミリフィルムで撮影された短編映画『Attack of the Killer Tomatoes』と『Gone with the Babusuland』の2本だ。 ある日突然、トマトが人間を襲い始めて全米が大パニックになるという基本プロットは長編版と全く同じで、なおかつソックリなシーンも多々あるのがオリジナル短編版『Attack of the Killer Tomatoes』。一方の『Gone with the Babusuland』は、FBIをもじった諜報機関FIA(連邦情報局)の捜査官マット・デリンジャー(まだ細くてイケメンだったデヴィッド・ミラー)と落下傘兵ウィルバー(当時も変わらずアクの強いスティーブン・ピース)の活躍を描いたジェームズ・ボンド風のスパイ・パロディ映画で、これが『アタック・オブ・ザ・キラートマト』におけるディクソン&フィンレターのコンビの元ネタとなったのである。 ちなみに、本編の冒頭テロップでヒッチコックの名作『鳥』(’63)に触れていることから、同作をヒントにした作品ではないかと思われがちだが、実はジョン・デ・ベロ監督らが高校時代にテレビで見た、とある日本の特撮モンスター映画が企画の元ネタになっているという。デ・ベロ監督が「素晴らしいくらい出来の悪い日本のホラー映画」と呼ぶその作品は、他でもない本多猪四郎監督による東宝特撮映画の名作『マタンゴ』(’63)!放射能に汚染されたキノコを食べてしまった人間が、世にも恐ろしいキノコ人間「マタンゴ」となって人間を襲うというお話だ。まあ、確かにプロット自体はバカバカしいかもしれないが、しかし極限状態に置かれた人間の怖さを徹底したリアリズムで描いた脚本の出来は素晴らしく、今ではカルト映画として世界中に熱狂的なファンがいる。 なので、なんだとぉ~!『マタンゴ』が出来の悪い映画とは何事だ!この不届き者め!と文句のひとつでも言いたくなるってもんだが、まあ、仕方あるまい。映画の感想は人それぞれである。しかも、テレビで見たということは、アメリカン・インターナショナル・ピクチャーズが配給した英語吹替のトリミング&短縮版である。恐らく安っぽく見えてしまったのだろう。本作に登場する日本人科学者フジ・ノキタファ博士の声だけがアフレコで、なおかつ口の動きとセリフが全く合っていないというのは、かつてアメリカの深夜テレビ放送やドライブイン・シアターを賑わせた、日本製B級娯楽映画の英語吹替版の低クオリティを揶揄したジョークだ。 閑話休題。その『マタンゴ』よりも下らなくてバカバカしい映画を作ろう、ということで生まれたのが、野菜のトマトが人間を襲って食い殺すという珍妙なコンセプト。ただし『マタンゴ』と大きく違ったのは、そこに社会風刺や文明批判などのメッセージを込めるつもりなど、デ・ベロ監督たちには初めからこれっぽっちもなかったことであろう(笑)。 さて、大学を卒業後に「フォー・スクエア・プロダクションズ」を正式な会社とし、主に産業映画やスポーツ映画、テレビ・コマーシャルなどを作っていたデ・ベロ監督たち。その傍らで劇場用映画への進出を模索していた彼らは、大学時代に作った短編映画『Attack of the Killer Tomatoes』と『Gone with the Babusuland』の2本をひとつにまとめてリメイクすることを思いつく。それがこの『アタック・オブ・ザ・キラートマト』だったというわけだ。 劇中のヘリ墜落シーンは本物の事故だった! 友人・知人などから借金してかき集めた予算はたったの10万ドル。キャストやスタッフの大半は学生時代からの映画仲間や家族、親戚、隣人で固め、撮影も全て地元サンディエゴで行った。学生時代の短編版で特撮を担当したマイケル・グラントは、会社の「本業」であるCM制作などのために不参加。一応、客寄せのために有名人キャストも起用されたが、当時テレビの人気シットコム『The Bob Newhart Show』(‘72~’78・日本未放送)で全米に親しまれた喜劇俳優ジャック・ライリー(保安官役)と、映画『ポーキーズ』(’81)シリーズの校長先生役でも知られる名バイプレイヤー、エリック・クリスマス(ポーク上院議員役)の2人のみ。そのジャック・ライリーは「どうせ誰も見ない映画だから、小遣い稼ぎに出とけ」とエージェントから薦められて出演したらしいが、結果としてテレビのニュース番組で大々的に報じられることとなってしまった。どういうことかというと、撮影現場で彼の乗ったヘリコプターが墜落事故を起こしてしまったのだ。 そう、劇中に出てくるヘリコプターの墜落シーンは、なんと「演出」ではなく「ガチ」。本来はパトカーの横にヘリを着陸させるつもりだったが、タイミングを間違えたパイロットが慌てたせいで操縦を誤り、尾部ローターが地面に触れて墜落してしまったのである。乗っていたジャック・ライリーと報道官リチャードソン役のジョージ・ウィルソン、パイロットの3人は奇跡的に無事。この予想外の出来事に監督も撮影監督もビックリ仰天し、思わず撮影を止めてしまったのだが、しかし第2班カメラマンを務めていたスティーブン・ピースだけはカメラを回し続け、ヘリが墜落する様子もライリーたちが脱出する様子も撮影していた。当然、一歩間違えれば死者も出かねなかった事故はテレビのニュースで報道され、無事に生還したライリーは国民的人気トーク番組「トゥナイト・ショー」に招かれ、本来なら出たことを秘密にしておきたかった映画について話す羽目に(笑)。そして、そのライリーが「どうせなら事故映像を本編でそのまま使ったら面白いのでは?」と監督に助言したことから、劇中の迫力満点(?)なヘリ墜落シーンが出来上がったのである。 また、劇中で人気アイドル歌手ロニー・デズモンドの最新ヒット曲として紹介される挿入歌「思春期の恋」にも要注目。実在しない架空の歌手ロニー・デズモンドは、’70年代のアメリカで国民的な人気を誇っていたアイドル歌手ダニー・オズモンドが元ネタで、「思春期の恋」は当時量産されていたティーン向けバブルガム・ポップスを小バカにしたパロディだったという。で、その「思春期の恋」を実際に歌っている歌手としてクレジットされているフー・キャメロンは、当時地元サンディエゴの高校生だった少年マット・キャメロンの偽名。後にロックバンド、サウンドガーデンのドラマーとして高く評価され、さらに’98年以降はパール・ジャムのメンバーとしても活躍、ロックンロールの殿堂入りも果たした大物ミュージシャンである。 そういえば、後に有名になった人物はもう一人。海水浴に興じる若者たちがトマトに襲われる『ジョーズ』のパロディ・シーンで、ヨットに乗っている幼い少年にどこか見覚えがあると思ったら、後にテレビドラマ『ツイン・ピークス』(‘90~’91)のボビー役で有名になる俳優ダナ・アシュブルックだった。彼もまたサンディエゴの出身で、当時はまだ10歳の小学生。その後、テレビドラマのゲストを幾つもこなした彼は、『バタリアン2』(’88)や『ワックスワーク』(’88)などのB級ホラー映画でカルト的な人気を得ることになる。 劇場公開時は各メディアでケチョンケチョンに酷評され、興行的にも決して大成功とは言えなかったという本作。しかし『ロッキー・ホラー・ショー』(’75)との二本立て上映が全米各地で好評を博すなど、いつしか口コミで評判が広まっていき、やがてカルト映画として熱狂的なファンを獲得することになった。デ・ベロ監督らフォー・スクエア・プロダクションズの面々は、これを足掛かりとしてハリウッド進出を図り、人気コメディアンを多数起用したコメディ映画『大爆笑!ビール戦争/ぷっつんU.S.A.』(’86)を発表するも残念ながら失敗。一方、『アタック・オブ・ザ・キラートマト』は’86年に初めてビデオゲーム化され、さらにはジム・ヘンソン製作の人気テレビ・アニメ『Muppet Babies』(‘84~’91・日本未放送)にキラートマトが登場するなど、カルト映画としての評価と知名度はどんどん高まっていく。そこへ転がり込んだのが、ニューワールド・ピクチャーズによる続編映画のオファーだった。 当初からシリーズ化するつもりなど全くなかったというデ・ベロ監督たち。しかし、当時のハリウッドではB級ホラー映画のフランチャイズ化がブームで、ニューワールド・ピクチャーズも『クリープショー2/怨霊』(’87)や『ガバリン2 タイムトラぶラー』(’87)に続く続編物の企画を探しており、『アタック・オブ・ザ・キラートマト』に白羽の矢が立てられたのだ。提示された条件が良かったため引き受けたというデ・ベロ監督曰く、「なるべく出来の悪い映画を作ってくれと映画会社から指示されたのは、恐らくハリウッド映画の歴史上で僕らが初めてだろう」とのこと(笑)。かくして完成したジョージ・クルーニー主演(!)の第2弾『リターン・オブ・ザ・キラートマト』(’88)はスマッシュヒットを記録し、さらなる続編『キラートマト/決戦は金曜日』(’90)と『キラートマト 赤いトマトソースの伝説』(’91)も矢継ぎ早に登場。さらに、フィンレターの甥っ子チャドを主人公にしたテレビ・アニメ『Attack of the Killer Tomatoes』(‘90~’91・日本未放送)やコミック版(’08年出版)、ノベライズ版(’23年出版)も作られるなど、今なお根強い人気を誇っている。■ 『アタック・オブ・ザ・キラートマト』© 1978 KILLER TOMATO ENTERTAINMENT 
- 
                                                            
                                                              COLUMN/コラム2025.10.15 観客を“タイムトラベル”に誘う…。『ある日どこかで』のはじまり、そして名作として花開くまで 1972年。劇作家志望の大学生リチャード・コリアは、初公演の打上げで、多くの人々に囲まれ、称賛を受けていた。 そんな彼を、品のある老女がじっと見つめていた。彼女はリチャードに近づくと、一言。 「私のところに、帰ってきて」 見も知らぬ老女の言葉に、リチャードはただただ驚く。老女は彼の手に、懐中時計を握らせ、そのまま去っていった…。 1980年。劇作家として成功を収めたリチャードだったが、スランプで書けない状態に陥っていた。 気分転換にと、一人旅に出た彼は、ドライブの途中で見かけた、グランド・ホテルへの宿泊を決める。そして時間潰しのために寄った、ホテルの資料室で、1枚のポートレート写真に、心を鷲づかみにされる。 そこで微笑んでいる、若く美しい女性は、エリーズ・マッケナ。かつて一世を風靡した、舞台女優だった。 リチャードが彼女のことを調べると、実は8年前に出会った老女と、同一人物だとわかる。そして彼女は、リチャードに時計をプレゼントした夜に、この世を去っていた…。 ***** 本作『ある日どこかで』(1980)の原作・脚本を手掛けたのは、リチャード・マシスン(1926~2013)。小説家としては、1950年24歳の時にデビューし、現在までに3度映画化された「アイ・アム・レジェンド」(54)や、「縮みゆく人間」(57)「奇蹟の輝き」(78)など、SFホラーやファンタジーの名作をものしている。更にはウエスタンやノンフィクションまで、長年に渡ってジャンルを横断する活躍を見せた。 脚本家としても、TVシリーズの「トワイライト・ゾーン」(1959~64)、エドガー・アラン・ポー原作の映画化作品『アッシャー家の惨劇』(1960)『恐怖の振子』(1961)などをはじめ、数多くの映画、TVドラマを手掛けている。 マシスンは、モダンホラー小説の巨匠スティーヴン・キングが、「私がいまここにいるのはマシスンのおかげだ」と語るような、偉大な存在であった。 小説「ある日どこかで」執筆のきっかけは、マシスンが妻子との旅行中、ネバダ州のパイパー・オペラハウスに立ち寄った時に、初期アメリカ演劇に関する資料が展示してあったことだった。そこで彼は、モード・アダムス(1872〜1953)という名の、美しい女性のポートレートに、いたく興味を惹かれたのだ。彼女は、「小牧師」「ピーター・パン」などの作品に出演し、19世紀末から20世紀前半に掛けて高く評価された、舞台女優だった…。 ***** ポートレートの彼女=エリーズ・マッケナに会いたいという思いに取り憑かれたリチャードは、タイムトラベルの方法を探る。そして、“時間旅行”を研究する哲学者の教えを受ける。 自分がその時代に居る、その時代の人間であるという暗示を執拗に行ったリチャードは、遂に時空を越えることに成功。ポートレートが撮影された68年前=1912年のグランド・ホテルへと、辿り着く。 そこで初めて顔を合わせたエリーズは、リチャードにいきなり尋ねる。「あなたなの?」 彼女は彼の正体など知る由もなかったが、運命の男性が現れることを予感し、待っていたのだ。 しかし、惹かれ合う2人の前に、女優エリーズを育てたマネージャーの、ロビンソンが立ちはだかる…。 ***** 先に記した通り、エリーズ・マッケナのモデルになったのは、舞台女優モード・アダムス。本作ではクリストファー・プラマーが演じる、ロビンソンのモデルも、実在する。モード・アダムスをスターに押し上げた、彼女のマネージャー、チャールズ・フローマンである。 さてマシスンが書き下ろした原作小説は、シェークスピアの一文から引用した、「BID TIME RETURN」というタイトルで、75年にアメリカで出版。翌76年には、「世界幻想文学大賞」長篇部門受賞に至る。 映画化に乗り出したのは、プロデューサーのスティーヴン・ドイッチェ。彼は監督を、『ジョーズ2』(78)をヒットさせたヤノット・シュワルツに依頼した。シュワルツはかつて、マシスンが原作・脚本を担当したTVシリーズの演出を手掛けたことがあり、マシスンが推したと言われている。 映画化に当たっては、タイトルをより平明な、「SOMEWHERE IN TIME」に変更。ストーリーラインは、大筋では変わらないが、原作では主人公のリチャード・コリアが、TVドラマの脚本家だったのを、劇作家へと変更。またリチャードは、脳腫瘍のため余命幾ばくもないという設定があったのを、すっぱりとカットした。 物語の舞台となる年代は、原作では1971年と1896年だったのを、現在と過去のリンクをスムースに行うため、1980年と1912年に変更。また主人公と関わる登場人物も、足し引きされている。 リチャードは、タイムマシンなどを使わず、催眠や自己暗示によって時代を遡ろうとするのだが、そのやり方を教える哲学者は、原作には登場しない。このタイムトラベルの方法は、SF作家ジャック・フィニィの「ふりだしに戻る」(70)から戴いたものだが、フィニィは、マシスンが最も敬愛する書き手の1人。そのため本作では、リチャードが教えを乞う哲学者の名を、フィニィとしている。 原作小説に登場するホテルも、実在のものだったが、その近所は開発が進み、1912年のシーンを撮影するには、そぐわない状況だった。そこでドイッチェとシュワルツは、ロケ地をリサーチ。白羽の矢を立てたのが、ミシガン州のリゾート地に立つ、グランド・ホテルだった。 こちらは湖と湖の水路を結ぶ小さな島に、19世紀にオープン。この島では自動車の使用が一切禁止されていたため、道路や自然環境がその頃のまま残されていたのが、本作の撮影地として、最適だった。 ***** ロビンソンの執拗な妨害も乗り越えて、リチャードとエリーズは遂に結ばれる。幸せいっぱいの2人だったが、リチャードのちょっとした不注意から、不慮の別れが訪れる。 時空を超えた運命の恋人たちは、このまま永遠に引き裂かれてしまうのか? ***** クリストファー・リーヴは、『スーパーマン』(78)のヒーロー役でスターダムにのし上がったばかりの頃。彼のエージェントは、本作出演のオファーを受けた際、失笑を禁じ得なかったという。 無理もない。総製作費500万㌦の小品として、支払えるギャラは限られている。 エージェントに渡した脚本が、リーヴの元に届くことはないと、プロデューサーのドイッチは判断。リーヴの泊まるホテルを直接訪ねて、脚本を本人に手渡すという、掟破りの挙に出た。 この賭けは見事に当たった。翌日ドイッチの元に、リーヴからリチャード役での出演を受けるという電話が入ったのである。 リーヴ同様、やはり脚本に魅せられて、エリーズ役を快諾したジェーン・シーモア。彼女は監督のシュワルツに、音楽の担当は是非ジョン・バリーにして欲しいと懇願した。 しかしバリーは、『007』シリーズで広く知られ、『野生のエルザ』(66)『冬のライオン』(68)でアカデミー賞を受賞した、“大御所”的存在。とても、雇える予算はない。 しかし諦めきれなかったシーモアは、旧知の間柄だったバリーに直談判でストーリーを説明。結果的に、「言い値」で引き受けてもらえることになったのである。 さて本作に於いて、小説を映画化するに当たっての変更点を、先に列挙したが、もう一つ大きな変更が行われたのが、“音楽”に関してであった。原作のリチャードは、グスタフ・マーラーをこよなく愛する青年であり、当初は本作でも、マーラーの「交響曲第9番ニ長調」をメインに使用する予定だった。 ところがマーラーだと、壮麗すぎて、小品の本作にはハマらないことが判明。そこでバリーの提案によって、ラフマニノフの「パガニーニのラプソディ」が使用されることになった。 この変更も効果的だったが、本作でのバリーの最大の貢献は、彼自身が作曲した、美しくも哀しい、メインスコアである。映画の世界観を決定づけたこの楽曲は、バリーが最愛の父と母を続けて亡くした直後に作られたもの。“喪失感”から癒えないままの作曲により、本作の作品世界を決定づける楽曲が生み出されたのである。 本作がアメリカで公開されたのは、1980年の10月。配給元ユニヴァーサルの、低予算の小品である本作に対する期待値は、ほとんど「ゼロ」に近かった。折しも俳優組合のストライキなども重なって、リーヴとシーモアによる宣伝キャンペーンさえ行われなかった。結果的に全米の興行収入は、970万㌦に止まる。 日本公開は、翌81年の1月。筆者はメインの公開館だった有楽町の丸の内松竹で鑑賞したが、公開初日の土曜日なのに、客席が淋しかったことを記憶している。実際に2週間足らずで、上映は打ち切られている。 このまま消え去ってしまっても、おかしくない存在だった『ある日どこかで』。しかしアメリカでは、ケーブルテレビでの放送やレンタルビデオによって、徐々に「隠れた名作」として、カルト化していく。 日本では、だいぶ趣は違うものの、同じく“タイムトラベルもの”の『タイム・アフター・タイム』(79)などと名画座で併映されることが多かった。そうした場から、ファンが増えていったような感触がある。 そしてアメリカでは、1990年に熱い作品愛を持った者たちが集うファンクラブが、スタート!公式ホームページなどを通じて、世界的な規模にまで膨らんでいく。 映画の公開月となる10月になると毎年、物語の舞台となったミシガン州のグランド・ホテルには、世界中からファンが集結。映画の上映会が催される。今年は公開から45年、原作が発表されてからちょうど50年という節目もあって、例年以上の盛り上がりを見せているという話も聞く。 そもそも良き映画、名作と謳われる作品は、観客にとって、それを観た時の状況などと相まって、強く印象に残ることが多い。つまり当時の自分へと、“タイムトラベル”をさせてくれる装置として働くわけである『ある日どこかで』初公開時、高校生だった私は、当時片想いしていた女の子が、クリストファー・リーヴのファンだった。彼女に懇願されて、ガラガラの映画館へと赴いたわけだが、本作を観る度に、その当時の甘酸っぱい想い出が、甦る。 本作に於いては、主演の美男美女コンビ、クリストファー・リーヴも、ジェーン・シーモアも、30歳手前の、まさに盛りの時期である。リーヴは後年、不幸な落馬事故で半身不随になってしまったことなども考えると、最も「美しい」頃が閉じ込められた“タイムカプセル”のようなこの作品への愛おしさが、一層強まる。 時節柄“ルッキズム”などと誹られるかも知れないが、映画による“タイムトラベル”の中でも本作『ある日どこかで』は、極上の旅に誘ってくれる1本なのである。■ 『ある日どこかで』© 1980 UNIVERSAL CITY STUDIOS. ALL RIGHTS RESERVED