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COLUMN/コラム2025.09.02
タイで起きた洞窟遭難事故を異なる視点で描いた2作品を徹底比較!『13人の命』『THE CAVE サッカー少年救出までの18日間』
世界の注目を集めた「タムルアン洞窟の遭難事故」とは? 2018年の夏、東南アジアのタイで起きた「タムルアン洞窟の遭難事故」。現地の少年サッカー・チームのメンバー12人とコーチ1人が、全長10キロメートル以上もあるタムルアン洞窟へ遠足に出かけたところ、折からの大雨で水位が上昇したため外へ出られなくなってしまったのだ。救出にはタイ王国海軍の特殊部隊のほか、世界各国からプロダイバーや各種専門家、ボランティアがおよそ1万人も集結。文字通り世界中のメディアが固唾を飲んで見守る中、ダイバー1人が命を落とすという悲劇に見舞われながらも、13名全員を無事に救出という奇跡の生還が成し遂げられた。あまりにもドラマチックな出来事だったこともあり、これまでに数多くのドキュメンタリー映画や劇映画、ドラマ・シリーズの題材として取り上げられてきたが、9月のザ・シネマではその中から地元タイで制作された『THE CAVE サッカー少年救出までの18日間』(’19)と、ハリウッドの巨匠ロン・ハワードが監督した『13人の命』(’22)の2本を放送。どちらも同じ事件を基にした劇映画ではあるが、しかし題材へのアプローチは大きく異なっている。そこで今回は、それぞれの映画の見どころを比較解説してみたい。 まずは遭難事故の顛末を駆け足で振り返ってみよう。そもそもの発端は2018年6月23日、タイ北部のチェンライ県にて地元の少年サッカー・チーム「ムーバ(野生のイノシシ)」に所属する11歳~17歳のメンバー12人と、25歳のアシスタント・コーチが近隣のタムルアン洞窟を訪れ、探索するために内部へと進入。ところが折からの大雨によって洞窟内の水かさが増したため、全員が外へ出られなくなってしまったのだ。子供たちの帰りが遅いことを心配した親からの問い合わせで、チームのヘッド・コーチが行方を捜したところ、遠足に誘われたものの参加しなかったメンバーの少年から事情を知らされたという。そして、洞窟の近くに子供たちの自転車が置き去りにされたままであることを確認したヘッド・コーチは、すぐさま事態を察知して当局に通報したのである。 『THE CAVE サッカー少年救出までの18日間』 すぐさまタイ海軍の特殊部隊が現地へ向かったほか、地元在住の英国人洞窟ダイバー、ヴァーン・アンスワースの助言でタイ当局は英国洞窟救助会議(CBRC)に救援を要請。さらに、沖縄駐留の米軍やオーストラリア、中国、ベルギー、フランスなど各国のダイバーや専門家などが駆け付けたほか、近隣住民たちもボランティアとして水抜き作業や炊き出しなどに参加する。遭難から10日目の7月2日、英国人ダイバーたちが行方不明の13人全員の生存を確認。チェンライ県知事とタイ海軍を中心とした救助本部は当初、洞窟内の水が引くか子供たちが潜水技術を習得するまで、時間をかけて救助するつもりだったそうだが、しかし雨季が訪れると洞窟内は水没してしまうし、すでに洞窟内の酸素低下も進行している。もはや一刻の猶予もなかった。 問題は少年たちのいる場所から洞窟の入り口まで5~6時間かかること。しかも洞窟内は極端に狭い上に、水中を潜って移動せねばならない。大人でも洞窟ダイビングの経験がなければパニックに陥ってしまう。そこで、英国人ダイバーたちの助言もあって極めて特殊な救出方法が採用される。それは、酸素マスクとボンベ、ダイビングスーツを装着させた少年らやコーチに相当量の鎮静剤を投与し、眠らせた状態にしてダイバーたちが運ぶというもの。洞窟内へ酸素ボンベを運ぶ際に、元タイ海軍特殊部隊のボランティア、サマーン・クナンが命を落とすという悲劇に見舞われるも、遭難発生から16日目の7月8日に救出作戦を決行。3日間に渡って慎重に作戦を遂行した結果、13人全員を無事に救い出すことができたのである。当時、この奇跡的な生還劇は日本でも大きく報道されたので、記憶にあるという人も少なくないだろう。 『THE CAVE サッカー少年救出までの18日間』 同じ題材でも着眼点によって大きく異なる作品に かように、世界中の人々に大きなインパクトを与えた「タムルアン洞窟の遭難事故」。発生の直後から各国のテレビで特集が組まれ、ドキュメンタリー番組も作られたようだが、しかし最初に劇映画化したのは地元タイで制作された『THE CAVE サッカー少年救出までの18日間』である。演出と脚本を担当したのはアイルランド人を父親に持ち、イギリスやハリウッドでも活躍するタイの映画監督トム・ウォーラー。バンコクを拠点にする彼の制作会社がプロデュースを手掛けた。やはり地元制作の強みなのだろうか、実際に事故の現場となったタムルアン洞窟での撮影許可を得て現地ロケを敢行。ただし、必要に応じて別の洞窟やスタジオ・セットでの撮影も行われたという。しかし、本作において最も特徴的なのは、アイルランド在住のベルギー人ダイバーのジム・ウォーニーや中国人ダイバーのタン・シャオロン、ポンプ製造会社社長など、実際の救出作戦に携わった人々が本人役で出演していることであろう。そのほかのキャストも、主にアマチュア俳優を起用している。ウォーラー監督の演出は徹底してリアル。カメラが被写体からあえて距離を置くことで、疑似ドキュメンタリー的な説得力を備えているのだ。 一方、事故から4年後に作られたのが『13人の命』。『アポロ13』(’95)や『ラッシュ/プライドと友情』(’13)など実録物映画にも定評のある巨匠ロン・ハワードが演出を手掛け、ハリウッドのメジャー・スタジオ。MGMがプロデュースを担当した。コリン・ファレルやヴィゴ・モーテンセン、ジョエル・エドガートンなどハリウッドの大物スターたちがダイバー役で出演。地元タイからも数々の有名スターが起用されている。タイ当局による脚本の検閲を避けるためもあって、主なロケ地はオーストラリアのクイーンズランド州。一部でタイ・ロケも行っているようだが、しかし本編の大部分はゴールド・コーストの各地をタイに見立てて撮影されている。洞窟内のシーンはスタジオに建設された巨大セット。救助に携わった英国人ダイバーのリック・スタントンとジョン・ヴォランセンが監修を務めた。『THE CAVE サッカー少年救出までの18日間』がドキュメンタリー映画風に仕立てられていたのに対し、本作はまさに王道的なハリウッド流の実録ディザスター映画。同じ遭難事故を描いているはずなのに、両者を見比べると全く違う印象を受けるのが興味深いと言えよう。 『13人の命』 恐らく最大の違いは両者の視点である。『THE CAVE サッカー少年救出までの18日間』が事故発生から救出作戦までの全容を客観的に俯瞰し、その経過を現場に携わった人々それぞれの視点から多角的に捉えることで、なんとしてでも少年たちを救いたい!という熱い想いで心を一つにしていく関係者たちの人間模様をエモーショナルに描いていく。本人役を演じるジム・ウォーニーに焦点を当てたシーンもあるにはあるが、しかし基本的には全員が主人公だ。それに対して、『13人の命』は英国人ダイバーたちを明確な主人公として設定。慣れない異国の地で官僚主義的な現地当局の対応に悩まされつつ、前例のない救出作戦に挑んでいく勇敢な男たちの英雄的な活躍をスリルとサスペンスとアクションたっぷりに描く。前者が作戦決行へ向けて奔走する人々の群像劇をメインにする一方、後者は困難を極めた救出作戦の克明な描写に重点を置いているのも印象的。作り手がどこに着眼点を置くかによって、同じ題材でもこれだけ異なった作品に仕上がるという好例だ。 ちなみに、どちらの作品も洞窟内に閉じ込められたコーチと少年たちが、どのようにしてサバイブしたのかという詳細が全く描かれていないのだが、これにはちょっとした「大人の事情」が絡んでいる。というのも、サッカー・チーム「ムーバ」の物語だけは先にNetflixが著作権を押さえていたため、『THE CAVE サッカー少年救出までの18日間』でも『13人の命』でも劇中で描くことが許されなかったのだ。結局、『13人の命』が劇場公開およびウェブ配信された直後の’22年9月に、Netflixはサッカー・チーム「ムーバ」の少年たちを主人公にしたドラマ・シリーズ『ケイブ・レスキュー: タイ洞窟必死の救出』を配信している。■ 『13人の命』 『13人の命』 © 2025 Metro-Goldwyn-Mayer Pictures Inc. All Rights Reserved. 『THE CAVE サッカー少年救出までの18日間』© Copyright 2019 E Stars Films / De Warrenne Pictures Co.Ltd. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2020.05.07
映画監督イーストウッドの評価を決定づけた、「最後の西部劇」。『許されざる者』
本作『許されざる者』は、1992年に本国アメリカで公開されるや、大ヒットになると同時に、高い評価を受けて、数々の映画賞を受賞。「第65回アカデミー賞」では9部門にノミネートされ、作品賞、監督賞、助演男優賞、編集賞の4部門を獲得した。 製作・監督・主演を務めたのは、クリント・イーストウッド。主演男優賞こそ、『セント・オブ・ウーマン/夢の香り』(92)のアル・パチーノに譲ったが、作品賞と監督賞の2つのオスカー像を掌中にしたのである。 今やハリウッドを代表する“巨匠”と誰もが認めるイーストウッドの作品が賞レースに絡むことは、近年では当たり前となっている。しかし本作を撮る頃までは、だいぶ事情が違っていた。アメリカ国内に於いて彼の作品への評価は、不当なまでに低かったのだ。 マカロニ・ウエスタンでの“名無しの男”や『ダーティハリー』シリーズでのハリー・キャラハン刑事に代表されるような、“アクションスター”というイメージが強かったせいもあるだろう。彼の監督作や出演作に、“マッチョイズム”“性差別”“タカ派”的な部分を見出し、それを忌み嫌う映画評論家などが少なからず存在したことも、マイナスに作用したと思われる。 むしろ評価されたのは、国外の方が早かった。映画評論家の蓮實重彦氏はその様を、『許されざる者』の劇場用プログラムで、次のように記している。 ~時代はようやくイーストウッドに追いつこうとしている。あと数年で映画百年を迎える二〇世紀も暮れ方になってから、アメリカのジャーナリズムも、この偉大な映画作家の存在を遅まきながら認知し始めたようだ…~ ~…『許されざる者』の監督がまぎれもなく日本で発見された作家であり、ヨーロッパは十年遅れで、アメリカでは二〇年遅れでその偉大さに気づいたにすぎないとだけはいっておきたい気がする…~ 日本の映画ジャーナリズムに於いて、蓮實氏や山田宏一氏のような重鎮が、イーストウッドの監督作品を早くから評価していたことは、紛れもない事実である。それは実在のジャズサックス奏者チャーリー・パーカーの音楽と生涯を、フォレスト・ウィテカー主演で描いた、イーストウッドの製作・監督作『バード』(88)が、フランスの「カンヌ国際映画祭」などで高く評価されるよりも、「早かった」という主張でもある。 何はともかく、イーストウッドの初監督作『恐怖のメロディ』(71)から二十年余。16本目の監督作にして、4本目の“西部劇”である『許されざる者』は、彼の作品としては初めて「アカデミー賞」の主要部門の対象となり、見事な“大勝利”を収めたわけである。 『許されざる者』の舞台となるのは、1880年のワイオミング。イーストウッド演じる主人公ウィリアム・マニーは、かつて列車強盗や冷酷な殺人で悪名高き男だったが、善良なる妻の愛によって改心し、足を洗った。 そんな妻を3年前に天然痘で亡くなり、マニーはまだ幼い2人の子どもを育てながら、豚の肥育や耕作を行っていた。しかしいずれも順調とは言えず、老齢期に差し掛かったマニーには、厳しい日々が続いていた。 ある日“スコフィールド・キッド”と名乗る、若いガンマンが訪ねてきた。町で娼婦の顔をナイフでメッタ切りにした牧童2人の首に、仲間の娼婦たちが1,000㌦の賞金を懸けた。その賞金を稼ぎに行こうという、誘いだった。キッドは人伝に、かつてのマニーの悪逆非道な凄腕ぶりを耳にして、協力を求めに来たのである。 一旦はその誘いを断ったマニーだったが、生活の苦しさから、11年振りに銃を手に取ることを決意する。老いて馬に乗ることさえやっとだった彼は、かつての相棒ローガン(演;モーガン・フリーマン)も誘い、キッドの後を追う。 2人の牧童を狙って町には、伝説的殺し屋であるイングリッシュ・ボブ(演;リチャード・ハリス)なども現れる。しかしそんな彼らの前に、手荒なやり方で町を牛耳る保安官(演;ジーン・ハックマン)が、立ち塞がるのだった…。 劇場公開時以来何度も観ているが、陰惨な印象がいつも強く残る。まずは、物語の発端となる事件を起こした2人の牧童。娼婦の顔を切り刻んだ“実行犯”の方はともかく、もう1人は、仲間のご乱行に巻き込まれただけ。なぜ命を奪われるのか?本人もわかっていない感が強い。 そして“殺し”の旅に出向きながらも、「過去の自分と違う」「真人間になった」ことを幾度も強調する、マニー。しかしいざとなったら、誰よりも躊躇なく、人を撃ち殺すことが出来た。 その時、昔のように人を撃つことは出来なくなっていた仲間のローガンは、改めて理解する。マニーが運命的なまでに根っからの“殺し屋”であることを。だからこそいち早く、その場から立ち去ろうとする。そして保安官の仲間に捕まり拷問を受けると、マニーが保安官たちを殺しに来ることを、予言する。 実際にマニーは、それを耳にすると、“復讐”を果しに町に戻る以外、取る道はないのである。 『許されざる者』は、「勧善懲悪」などとは程遠い世界観で綴られる。保安官は、己の町を守るという「正義」のために、“暴力”を行使していた。しかしそれは、娼婦たちの人間としての尊厳を踏みにじり、マニーの相棒の命を奪うこととなる。 保安官にとっては「正義」だが、マニーにとっては、「悪党め」と吐き捨てるしかない行為である。「正義」と「悪」の境界線など、あくまでも主観的で、曖昧なものなのだ。 そして“暴力”は、どこまでも連鎖していく…。 思えばイーストウッドは、ずっとずっとそうであった。『荒野の用心棒』に始まる、イタリアでセルジオ・レオーネ監督と組んだ“ドル箱三部作”(64~66)に於ける“名無しの男”。その“原作”となった黒澤明監督の『用心棒』(61)と一線を画すのは、黒澤作品の主人公が持ち合わせていた“正義感”のようなものが、“名無しの男”には極めて乏しいことである。 またアメリカに戻ってからの決定打となった、『ダーティハリー』シリーズ(71~88)。イーストウッドにとって、“師”であるドン・シーゲルのメガフォンによる第1作からして、主人公のキャラハン刑事は、彼が対峙する殺人者と、「紙一重」なのである。シリーズを通じても、ハリーの持つ「正義」は常に揺らぎ続ける。自らメガフォンを取った83年の第4作では、レイプ犯に復讐を果たした連続殺人犯を、己の裁量で見逃すに至る。 そんなイーストウッドが、『許されざる者』の物語に惹かれたのは、無理もない。陰惨で居心地の悪い佇まいの作品ではあるが、長年イーストウッド作品に触れてきた観客にとっても、彼が“殺し屋”であったことは、説明されるまでもなく、「知っている」わけであるし。 この作品が、製作される直前の89年に亡くなったセルジオ、91年に亡くなったドンに捧げられているのも、至極納得がいく話だ。 さて、自らには物語を作り出す資質はないことを認めるイーストウッド。では彼はいかにして、『許されざる者』の物語を手に入れ、“映画化”に至ったのか? 元となった脚本は、あの『ブレードランナー』(82)を手掛けたことで知られる、デヴィッド・ウェッブ・ピープルズが、1976年に書き上げた「切り裂かれた娼婦の殺し」。後に「ウィリアム・マニーの殺し」と改題され、80年代初頭には、フランシス・フォード・コッポラ監督が、“映画化権”を持っていた。 それはその後イーストウッドの手に渡り、80年代半ばには映画化の企画を立ち上げた。しかし先に、同じ“西部劇”である『ペイルライダー』(85)を製作することとなり、『許されざる者』は、一旦ペンディングとなったのである。 実際に『許されざる者』の撮影に着手したのは、『ペイルライダー』の公開から6年後の91年秋。公開はその翌年となったわけだが、結果的にこのチョイスは、大正解だった。1930年生まれのイーストウッドが、足を洗った老齢のガンマンを演じるに当たっては、60歳を超えるのを待ったからこそ、説得力のある風貌とイメージを得ることが出来た。 また、時勢も彼に味方した。1970年代以降は何度も「終わった」ジャンル扱いされた“西部劇”だったが、1990年に公開されたケヴィン・コスナー製作・監督・主演の『ダンス・ウィズ・ウルブズ』が、大ヒット!「アカデミー賞」でも作品賞、監督賞をはじめ7部門を受賞した直後で、“西部劇”を見直す動きが強まっていたのである。 イーストウッドは『許されざる者』の製作について、次のように語っている・ 「…わたしはただ、ぜひともこの物語を伝えたいと思っただけだ。ウエスタンという神話に、わたしなりの落とし前をつけるためにね。最後のウエスタンをつくるとしたら、これほどうってつけの作品はないだろう…」 彼が言うところの「最後の西部劇」を作るには、正に絶好のタイミングだったのである。彼が心の底から渇望したアメリカでの評価=アカデミー賞を得るためにも、これ以上にない時機であった。 それにしても、それから30年近く。齢90にならんとする現在まで、イーストウッドが精力的に作品を発表し続けるとは、さすがにその時は想像もつかなかったが…。■ 『許されざる者(1992)』© Warner Bros. Entertainment Inc.
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COLUMN/コラム2022.11.09
ジョン・マルコヴィッチしか考えられなかった…。“カルト映画”の傑作『マルコヴィッチの穴』
本作『マルコヴィッチの穴』(1999)の原題は、“Being John Malkovich”。当代の名優とも怪優とも評される、ジョン・マルコヴィッチがタイトルロールを…というか、マルコヴィッチ自身を演じる。 日本ではアメリカから遅れること、ちょうど1年。2000年9月の公開となった。私はその頃、TBSラジオで「伊集院光/日曜日の秘密基地」という番組の構成を担当していたが、パーソナリティの伊集院氏がこの作品のことを、生放送前後の打合せや雑談などで、よく話題にしていたことを思い出す。かなりのお気に入りで、翌10月から始まった新コーナーに、「ヒミツキッチの穴」というタイトルを付けたほどだった。「ジョン・マルコヴィッチってのが、良いんだよな~」と、伊集院氏は言っていた。そして、「日本の俳優でやるとしたら、誰なんだろう?“大地康雄の穴”とかになるのかな」とも。 この例え、当時個人的には「絶妙」だと思った。今となっては、まあわかりにくいかも知れないが…。 私的にはそんな思い出がある『マルコヴィッチの穴』とは、どんな作品か?まずはストーリーを紹介しよう。 ***** 才能がありながらも認められない、人形使いのグレイグ(演:ジョン・キューザック)は、妻のロッテ(演:キャメロン・ディアス)から言われ、やむなく定職を求める。 新聞の求人欄から彼が見付けたのは、小さな会社の文書整理係。そのオフィスは、ビルのエレベーターの緊急停止ボタンを押してから、ドアをバールでこじ開けないと降りられない、7と1/2階に在った。そしてそこは、かがまないと歩けないほど天井が低い、奇妙なフロアーだった。 書類の整理に勤しむグレイグは、ある日書類棚の裏側に、小さなドアがあるのを見付ける。興味本位でドアを開け、その中の穴に潜り込むと、突然奥へと吸い込まれる。 気付くとグレイグは、著名な俳優ジョン・マルコヴィッチの脳内へと入り、彼になっていった。しかし15分経つとグレッグに戻って、近くの高速道路の脇の草っ原へと放り出される。 興奮した彼は、同じフロアーの別の会社のOLで、一目惚れしながらも相手にされなかったマキシン(演:キャスリーン・キーナー)に、この秘密を話す。マルコヴィッチ自体を知らなかった彼女だが、この体験=穴に入ってマルコヴィッチに15分間なる=を、1回200㌦でセールスすることを提案。グレイグと共にビジネスを始めると、深夜の7と1/2階には、行列が出来るようになる。 しかしこれはまだ、グレイグ&ロッテ夫妻とマキシーン、そして俳優ジョン・マルコヴィッチを巡る、不可思議な物語の入口に過ぎなかった…。 ****** ジョン・マルコヴィッチ。1953年12月、アメリカ・イリノイ州生まれで、間もなく69歳になる。『マルコヴィッチの穴』の頃は、40代半ばといったところ。 若き日に、仲間のゲイリー・シニーズらと立ち上げた劇団で評判を取り、やがてブロードウェイに進出。『True West』や『セールスマンの死』などに出演し、オビー賞など数々の賞を手にした。 映画初出演は、ロバート・ベントン監督の『プレイス・イン・ザ・ハート』(84)。主演のサリー・フィールドに2度目のオスカーをもたらしたこの作品で、盲目の下宿人を演じたマルコヴィッチは、いきなりアカデミー賞助演男優賞にノミネートされた。 以降は、主役から脇役まで幅広い役柄で、数多くの作品に出演。悪役やサイコパス役に定評があり、またヨーロッパのアート作品にも、度々出演している。 演技も風貌も、いわゆる「クセの強い」俳優であるが、プライベートでの言動や行動も、そのイメージを裏付ける。今ではその発言自体を否定しているが、「一般大衆に認識されているものはクソだ。彼らの考えにも吐き気がする。映画は金のためだけにやっている」などと、言い放ったことがある。 また、ニューヨークの街角で絡んできたホームレスに激怒し、大型のボウイナイフで脅したり、オーダーメードのシャツの出来上がりが遅れたテーラーに怒鳴り込んだり、バスが停車しなかったことに腹を立て、窓を叩き割る等々の、暴力的な振舞いが度々伝えられた。 その一方で、映画デビュー作の共演者サリー・フィールドが、「ただただ彼を敬愛している」と言うのをはじめ、共演者たちの多くからは称賛されている。初めてブロードウェイの舞台に立った『セールスマンの死』の共演者である名優ダスティン・ホフマンは、「彼との仕事は、私のキャリアの中でも貴重な経験だった」としている。 そんなマルコヴィッチをネタにした、摩訶不思議な本作のストーリーを書いたのは、チャーリー・カウフマンという男。それまでTVのシットコムの脚本を生業としていた彼にとっては、映画化に至った、初の長編脚本である。 本作の脚本は、「特に戦略を持たずに書き始めた」ということで、最初は「既婚者の男が恋をする」というアイディアだけだった。そこに後から、「穴を通って別人の脳内に入る」という発想が加わって、他者になりすまして名声を得たり、生き長らえようとする者たちや、逆にそうした者たちに自由を奪われて、己を失っていく者が登場する物語になったのである。『マルコヴィッチの穴』は、誰が観ても、「アイデンティティがテーマ」の作品だと、理解される。しかしカウフマンが書き始めた当初は、そんなことは考えてもいなかったわけである。 脳内に入られる人物に関しては、「マルコヴィッチ以外に考えられなかった…」という。マルコヴィッチがブロードウェイの舞台に立った時のビデオを観て衝撃を受けたというカウフマン。曰く、「彼がステージに立つと目が離せない」ようになった。そして本作の物語を編んでいくに際して、「彼は不可知な存在で、作品にフィットすると思った」と語っている。「マルコヴィッチ以外に考えられなかった…」のは、その「微妙な知名度」も、ポイントだったように思われる。映画・演劇業界の周辺では、誰も知る実力の持ち主であるが、万人にとってのスーパースターというわけではない。本作の中でマキシンが、マルコヴィッチと聞いても、誰かわからなかったり、タクシーの運転手が、マルコヴィッチ本人がやってもいない役柄で「見た」と話しかけてきたりするシーンがわざわざ設けられていることからも、作り手のそうした意図が、読み取れる。 因みにマルコヴィッチ自身は8歳の頃、“トニー”という名のもうひとりの自分を作り出していたという。その“トニー”とは、クロアチア系の父親とスコットランド及びドイツ系の母親から生まれたマルコヴィッチとは違って、スリムなイタリア人。至極人当たりがよく、首にスカーフを巻くなど、おしゃれで粋なキャラだった。 マルコヴィッチが“トニー”になっている時は、大抵ひとりぼっちだった。しかしある時はなりきったまま、野球の試合でピッチャーマウンドに上がったこともあったという。 そのことに関してマルコヴィッチは、「…たぶん多くの人が今とは別の人生を送りたいと願っているだろう…」と語っている。カウフマンが執筆当時、そんなことまで知っていたとは思えないが、そうした意味でも、本作の題材にマルコヴィッチをフィーチャーしたのは、正解だったかも知れない。役柄的には、逆の立場であるが…。 しかし、カウフマンの書いた『マルコヴィッチの穴』の脚本は、業界内で非常に評判になりながらも、なかなか映画化には至らなかった。内容が特殊且つ、エッジが立ち過ぎていたからだろう。 ジョン・マルコヴィッチ本人も、その脚本の完成度には唸ったものの、こんな形で俎上に載せられるのには臆したか、「自分を題材にしないことを条件に監督やプロデューサーを引き受ける」とカウフマンに提案。話がまとまらなかった。 もはや映画化は、不可能か?カウフマンも諦めかかった頃に、本作の監督に名乗りを上げる者が現れる。それが他ならぬ、スパイク・ジョーンズだった。 当時ジョーンズは、ビースティ・ボーイズやビョーク、ダフト・パンクなど数多の人気ミュージシャンのMVを演出した他、CMでも国際的な賞を受賞。写真家としても成功を収め、まさに時代の寵児だった。映画監督としては、短編を何本か手掛けて、やはり好評を博しており、長編デビューの機会を窺っていた。 そんな彼が「…とにかく、脚本が本当に良かった」という理由で、『マルコヴィッチの穴』に挑むことになったのである。当時の彼の妻ソフィア・コッポラの父、『ゴッドファーザー』シリーズなどのフランシス・フォード・コッポラ監督の後押しもあったと言われる。 その後ジョーンズとカウフマンで、映画化に向けての作業が進められる中で、件の経緯もあったせいか、ホントに“ジョン・マルコヴィッチ”が適切であるかどうか、2人の間で迷いが生じることもあった。このタイミングだったかどうか定かではないが、トム・クルーズの名が挙がったりもしたという。 しかし結局は、他の人物では満足できず、マルコヴィッチで行きたいということになった。マルコヴィッチの方も、スパイク・ジョーンズという希有な才能に惹かれたということか、「…あまりに途方もなくとんでもないストーリーだから、自分の目で見届けたくなった…」と、出演がOKになったのである。 完成した『マルコヴィッチの穴』は、「ヴェネツィア国際映画祭」で国際批評家連盟賞を受賞したのをはじめ、内外の映画祭や映画賞を席捲。一般公開と共に“カルトムービー”として人気を博し、アカデミー賞でも、監督賞、脚本賞、助演女優賞の3部門でノミネートされた。 この時はオスカーを逃したカウフマンとジョーンズだったが、2人とも本作が高く評価されたことから、監督、脚本家、プロデューサーとして地位を築いていくことになる。後にカウフマンは『エターナル・サンシャイン』(04)で、ジョーンズは『her/世界でひとつの彼女』(13)で、それぞれアカデミー賞脚本賞を受賞している。 因みにジョン・マルコヴィッチに関しては2010年、その軌跡を振り返る試みを、映画批評サイトの「Rotten Tomatoes」が実施。「ジョン・マルコヴィッチの傑作映画」という、ベスト10を発表した。 その際、第1位に輝いたのは、デビュー作の『プレイス・イン・ザ・ハート』。そこに、ポルトガルの巨匠マノエル・ド・オリヴェイラ監督の『家路』(01)、盟友ゲイニー・シニーズの監督・主演作『二十日鼠と人間』(92)等々が続く。そんな中で本作『マルコヴィッチの穴』(99)は、堂々(!?)第6位にランクインしている。 しかしこのベスト10以上に、本作のインパクトが、大きく残っていることを感じさせる出来事が、2012年にあった。それはマルコヴィッチが出演した、iPhone 4SのCM。この中で「マルコヴィッチ、マルコヴィッチ、マルコヴィッチ…」というセリフが繰り返されるのだが、これは『マルコヴィッチの穴』に登場する、最もヴィジュアルイメージが強烈なシーンを、明らかに模したもの。 ではその元ネタとなったのは、果してどんな場面なのか?それはこれから観る方のために、この稿では伏せておこう。 「マルコヴィッチ、マルコヴィッチ、マルコヴィッチ…」■ 『マルコヴィッチの穴』© 1999 Universal City Studios Productions LLLP. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2024.01.29
大都会の孤独という現代社会の病理を描いた巨匠マーティン・スコセッシの傑作『タクシードライバー』
荒廃した’70年代のニューヨークを彷徨う孤独な魂ベトナム戦争の泥沼やウォーターゲート事件のスキャンダルによって国家や政治への信頼が地に堕ち、経済の低迷に伴う犯罪増加や治安悪化によって社会の秩序まで崩壊した’70年代のアメリカ。都市部の荒廃ぶりなどはどこも顕著だったが、中でもニューヨークのそれは象徴的だったと言えよう。今でこそクリーンで安全でファミリー・フレンドリーな観光地となったタイムズ・スクエア周辺も、’70年代当時はポルノ映画館やストリップ劇場やアダルト・ショップなどの怪しげな風俗店が軒を連ね、売春婦やポン引きや麻薬の売人が路上に立っているような危険地帯だった。そんな荒み切った大都会の片隅で孤独と疎外感を募らせ、やがて行き場のない怒りと不満を暴走させていくタクシー運転手の狂気に、当時のアメリカ社会を蝕む精神的病理を投影した作品が、カンヌ国際映画祭のパルムドールに輝いたマーティン・スコセッシ監督の問題作『タクシードライバー』(’76)である。 主人公は26歳の青年トラヴィス・ビックル(ロバート・デ・ニーロ)。ベトナム帰りで元海兵隊員の彼は不眠症で夜眠ることが出来ず、それなら夜勤のタクシー運転手でもして稼いだ方がマシだと考え、ニューヨークのとあるタクシー会社に就職する。人付き合いが苦手で友達のいない彼は、先輩のウィザード(ピーター・ボイル)などドライバー仲間たちとも付かず離れずの間柄。昼間は狭いアパートの部屋で日記を付けているか、四十二番街のポルノ映画館に入り浸っている。乗客の選り好みはしないし、危険な地域へ送り届けるのも構わないが、しかし我慢ならないのは街中に溢れるクズどもだ。娼婦にゴロツキにゲイに麻薬の売人。ああいう社会のゴミを一掃してやりたい。ギラギラとネオンが煌めく夜のニューヨークをタクシーで流しながら、トラヴィスはひとりぼっちで妄想の世界を彷徨う。 そんなある日、トラヴィスは街で見かけたブロンドの若い女に一目惚れする。彼女の名前はベッツィ(シビル・シェパード)。次期大統領候補であるパランタイン上院議員の選挙事務所で働くスタッフだ。いかにも育ちが良さそうで頭の切れる自信家の才媛。一介のタクシー運転手には不釣り合いな別世界の住人だが、彼女に執着するトラヴィスは半ばストーカーと化し、やがて思い切ってベッツィをデートに誘う。なにかと茶々を入れてくる同僚スタッフのトム(アルバート・ブルックス)に退屈していたベッツィは、興味本位でデートの誘いを受けたところ、なんとなく良い雰囲気になって次回の映画デートを約束する。思わず有頂天になるトラヴィス。ところが、あろうことか彼女をポルノ映画館に連れて行ってしまい、憤慨したベッツィは席を立って帰ってしまう。それっきり彼女とは音信不通に。アンタも結局はお高くとまった鼻持ちならない女だったのか。ベッツィの職場へ怒鳴り込んだトラヴィスは、散々恨み言を吐き捨てた挙句に追い出される。それ以来、彼の不眠症はますます酷くなり、精神的にも不安定な状態となっていく。 ちょうどその頃、トラヴィスがタクシーを路駐して客待ちしていたところ、未成年と思しき少女が乗り込んでくる。しかし、すぐにチンピラ風の男スポーツ(ハーヴェイ・カイテル)に無理やり引きずり降ろされ、そのまま夜の街へと消えていった。一瞬の出来事に唖然とするトラヴィス。それから暫くして、タクシーにぶつかった通行人に目を向けたトラヴィスは、それがあの時の少女であることに気付く。少女の名前はアイリス(ジョディ・フォスター)。何かに取り憑かれたようにアイリスの後を追いかけ、彼女が売春婦であることを確信した彼は、今度は何かに目覚めたかの如く知人の紹介で闇ルートの拳銃4丁を手に入れ、なまった体を鍛え直すためにハードなトレーニングを開始する。ある計画を実行するために…。 トラヴィスは脚本家ポール・シュレイダーの分身脚本を書いたのは『レイジング・ブル』(’80)や『最後の誘惑』(’88)でもスコセッシ監督と組むことになるポール・シュレイダー。当時人生のどん底を味わっていたシュレイダーは、いわば自己療法として本作の脚本を書いたのだという。厳格なカルヴァン主義プロテスタントの家庭に生まれて娯楽を禁じられて育った彼は、17歳の時に生まれて初めて見た映画に夢中となり、カリフォルニア大学ロサンゼルス校を経て映画評論家として活動。ところが、結婚生活の破綻をきっかけに不運が重なり、住む家を失ってホームレスとなってしまった。手元に残った車で当て所もなく彷徨いながら車中生活を余儀なくされる日々。気が付くと3週間以上も誰とも話しておらず、不安と孤独のあまり心身を病んで胃潰瘍になってしまった。このままではいけない。ああはなりたくないと思うような人間になってしまいそうだ。そう強く感じたシュレイダーは、元恋人の留守宅を一時的に借りて寝泊まりしながら、およそ10日間で本作の脚本を仕上げたそうだ。現実の苦悩を物語として書くことで心が癒され、「ああなりたくない人間」から遠ざかれるような気がしたというシュレイダー。その「ああなりたくない人間」こそ、本作の主人公トラヴィス・ビックルだった。 「大都会は人をおかしくする」と語るシュレイダー。確かに大勢の人々がひしめき合って暮らす大都会は、それゆえ他人に無関心で人間関係も希薄になりがちだ。東京で就職した地方出身者がよく「都会は冷たい」と言うが、周囲に家族や友人がいなければ尚更のこと世知辛く感じることだろう。なおかつ大都会には歴然とした格差が存在し、底辺に暮らすマイノリティはその存在自体が透明化され無視されてしまう。中西部出身のよそ者で社交性に欠けた名も無きタクシー運転手トラヴィスが、ニューヨークの喧騒と雑踏に囲まれながら孤独と疎外感に苛まれていくのも不思議ではなかろう。そんな彼がようやく巡り合った希望の光が、いかにもWASP(ホワイト・アングロ・サクソン・プロテスタント)なイメージのエリート美女ベッツィ。この高根の花を何としてでも手に入れんと執着するトラヴィスだが、しかしデートでポルノ映画館に連れて行くという大失態を演じて嫌われてしまう。こうした願望と行動の大きな矛盾は彼の大きな特性だ。 清教徒的なモラルを説きながらポルノ映画に溺れ、健康を意識しながら不健康な食事をして薬物を乱用し、人の温もりを求めながらその機会を自ら台無しにする。まるで自分で自分を孤独へ追いつめていくような彼の自滅的言動は、人生に敗北感を抱く落伍者ゆえの卑屈さと自己肯定感の低さに起因するものだろう。こうして捨てるもののなくなった「弱者男性」のトラヴィスは、自分よりもさらに底辺のポン引きや娼婦や麻薬密売人などを蔑んで憎悪の目を向け、やがて自分の存在意義を証明するために社会のゴミと見做した彼らを「一掃」しようとするわけだが、しかしここでも彼の矛盾が露呈する。なにしろ、最初に選んだターゲットはパランタイン上院議員だ。誰がどう見たって、自分を振った女ベッツィへの当てつけである。しかも、ボディガードに気付かれたため、慌てて引き返すという情けなさ。「あらゆる悪と不正に立ち向かう男」と自称しておきながら、その実態は単なる逆恨みのチキン野郎である。結局、このままでは終われない!と背に腹を代えられなくなったトラヴィスは、未成年の少女アイリスを売春窟から救い出すという大義名分のもと、ポン引きや用心棒らを銃撃して血の雨を降らせるというわけだ。 ある意味、「無敵の人」の誕生譚。実はこれこそが、今もなお本作が世界中のファンから熱狂的に支持されている理由であろう。確かに’70年代アメリカの世相を背景にした作品だが、しかしその核となる人間像は極めて普遍的であり、古今東西のどこにでもトラヴィス・ビックルのような男は存在するはずだ。事実、ますます格差が広がり閉塞感に包まれた昨今の日本でも、彼のように鬱屈した「無敵の人」とその予備軍は間違いなく増えている。そもそも、誰の心にも多かれ少なかれトラヴィス・ビックルは潜んでいるのではないだろうか。だからこそ、世代を超えた多くの人々が彼の不満や絶望や怒りや願望にどこか共感してしまうのだろう。それほどまでの説得力が役柄に備わったのは、ひとえにポール・シュレイダー自身の実体験から生まれた、いわば分身のようなキャラクターだからなのだと思う。 映画化への長い道のりとスコセッシの情熱このシュレイダーの脚本に強い感銘を受け、是非とも自らの手で映画化したいと考えたのがマーティン・スコセッシ監督とロバート・デ・ニーロ。揃って生まれも育ちもニューヨークの彼らは、主人公トラヴィスに我が身を重ねて大いに共感したという。世渡りが下手で社会の主流から外れ、大都会の底辺で不満と幻滅を抱えて悶々としたトラヴィスは、若き日の彼らそのものだったという。偶然にも実家が隣近所で、子供の頃から顔見知りだったというスコセッシとデ・ニーロは、当時『ミーン・ストリート』(’73)で初タッグを組んだばかり。その『ミーン・ストリート』の編集中に、スコセッシは盟友ブライアン・デ・パルマから本作の脚本を紹介されたという。 それは’70年代初頭のカリフォルニア州はマリブ。ニューヨークのサラ・ローレンス大学でブライアン・デ・パルマと自主製作映画を作っていた女優ジェニファー・ソルトは、ジョン・ヒューストン監督の『ゴングなき戦い』(’72)のオーディションで知り合った女優マーゴット・キダーと意気投合し、マリブのビーチハウスで共同生活を送るようになったのだが、そこへハリウッド進出作『汝のウサギを知れ』(’72)を解雇されたデ・パルマが転がり込んだのである。ジェニファーを姉貴分として慕っていたデ・パルマは、その同居人であるマーゴットと付き合うようになり、3人で作った映画が『悪魔のシスター』(’72)だ。で、そのビーチハウスの隣近所にたまたま住んでいたのが、ほどなくして『スティング』(’73)を大ヒットさせて有名になるプロデューサー夫婦のマイケル・フィリップスとジュリア・フィリップス。やがて両者の交流が始まると、デ・パルマとジェニファーのニューヨーク時代からの仲間であるロバート・デ・ニーロを筆頭に、スコセッシやシュレイダー、スティーブン・スピルバーグにハーヴェイ・カイテルなどなど、ハリウッドで燻っている駆け出しの若い映画人たちが続々とビーチハウスへ集まり、将来の夢や映画談義などに花を咲かせるようになったのである。 まずはそのデ・パルマに本作の脚本を見せたというシュレイダー。自分向きの映画ではないと思ったデ・パルマだが、しかし彼らなら関心を示すだろうと考え、フィリップス夫妻とスコセッシにそれぞれ脚本のコピーを渡したという。フィリップス夫妻はすぐに1000ドルで脚本の映画化権を買い取り、これは自分が映画にしないとならない作品だと直感したスコセッシは彼らに自らを売り込んだが、しかし当時のスコセッシは映画監督としての実績が乏しかったため、遠回しにやんわりと断られたらしい。そこで彼は編集中の『ミーン・ストリート』のラフカット版をフィリップス夫妻やシュレイダーに見せたという。ニューヨークの貧しい下町の掃きだめで、裏社会を牛耳る叔父のもとで成り上がってやろうとする若者チャーリー(ハーヴェイ・カイテル)と、無軌道で無責任でサイコパスな親友ジョニー・ボーイ(ロバート・デ・ニーロ)の破滅へと向かう青春を描いた同作は、いわば『タクシードライバー』の精神的な姉妹編とも言えよう。これを見てスコセッシとデ・ニーロの起用を決めたフィリップス夫妻とシュレイダーだったが、しかし脚本の内容があまりにも暗くて危険だったためか、どこの映画会社へ企画を持ち込んでも断られたという。 ところが…である。フィリップス夫妻は『スティング』でアカデミー賞の作品賞を獲得し、スコセッシも『アリスの恋』(’74)がアカデミー賞3部門にノミネート(受賞は主演女優賞のエレン・バースティン)。さらにデ・ニーロも『ゴッドファーザーPARTⅡ』(’74)の若きヴィトー・コルレオーネ役でアカデミー賞助演男優賞に輝き、シュレイダーは『ザ・ヤクザ』(’74)の脚本で高い評価を受けた。ほんの数年間で関係者の誰もがハリウッド業界の有名人となったのである。こうなると話は違ってくるわけで、ジュリアの知人でもあったコロンビア映画の重役デヴィッド・ビゲルマンからの出資を獲得し、映画化にゴーサインが出たのである。ちなみにこのビゲルマンという人物、芸能エージェント時代にクライアントだったジュディ・ガーランドの無知につけ込んで彼女の財産をごっそり横領し、本作の翌年には会社の資金横領と小切手の偽造で逮捕されてコロムビア映画を解雇されるという筋金入りの詐欺師。それにも関わらず、長年に渡って各スタジオの重役を歴任したというのだから、ハリウッド業界というのもろくなもんじゃありませんな。まあ、最終的には自身の制作会社の倒産で多額の借金を抱えて拳銃自殺してしまうわけですが。 賛否両論を呼んだジョディ・フォスターの起用静かに狂っていくトラヴィスの心象風景をトラヴィスの視点から映し出すことで、映画全体がまるで白日夢のごとき様相を呈している本作。あえてカメラが主人公をフレームの外へ追い出し、一見したところ全く関係のないような風景を捉えることでセリフにない深層心理を浮き彫りにするなど、既存の型に囚われない自由でトリッキーな演出は、どちらもゴダールの熱烈なファンを自認するスコセッシと撮影監督のマイケル・チャップマンがヌーヴェルヴァーグにインスパイアされたものだという。ほかにもヒッチコックの『間違えられた男』(’56)のカメラワーク、ファスビンダー作品の率直さ、フランチェスコ・ロージ作品の手触り、マリオ・バーヴァ作品やヴァル・リュートン作品の怪奇幻想ムードなど、過去の様々な名作群に学んでいるところは、さすがフィルムスクール出身のスコセッシらしさだと言えよう。 撮影準備が始まったのは’75年の初旬。当時ベルナルド・ベルトルッチの『1900年』(’76)の撮影でヨーロッパにいたデ・ニーロは、週末ごとにニューヨークへ戻ってタクシー運転手の研修を受けてライセンスを取得し、同作がクランクアップするとすぐに帰国して10日間ほど、実際にニューヨークで流しのタクシー運転手として働いたという。ある時は運転席の身分証を見てデ・ニーロだと気付いた乗客から、「オスカーを獲っても役者の仕事にあぶれているのか?」とビックリされたのだとか。それにしてもまあ、役になりきることを信条とするメソッド・アクター、デ・ニーロらしいエピソードではある。ただし、いよいよ狂気を暴走させ始めたトラヴィスのモヒカン刈りは、次回作『ラスト・タイクーン』(’76)で映画プロデューサー役を演じることが決まっており、実際に頭髪を刈り上げるわけにはいかなかったため、特殊メイク担当のディック・スミスが制作したカツラを着用している。これが全くカツラに見えないのだから、さすがは巨匠ディック・スミス!と言わざるを得まい。 理想の美女ベッツィ役にシュレイダーが「シビル・シェパードのような女優を」と注文付けたところ、その話を聞いた彼女のエージェントから「シビル本人ではいかがでしょうか?」と打診があって本人の起用が決定。当時の彼女は『ラスト・ショー』(’71)に『ふたり自身』(’72)に本作にと重要な映画が続き、まさにキャリアの絶頂期にあった。そのベッツィの同僚トム役には、当初ハーヴェイ・カイテルがオファーされていたものの、しかし本人の希望でポン引きスポーツ役をゲット。当時ニューヨークの悪名高き危険地帯ヘルズ・キッチン(現在は高級住宅街)に住んでいたカイテルにとって、スポーツみたいなポン引きは近所でよく見かけたので演じやすかったようだ。その代わりにトム役を手に入れたのは、後に『ブロードキャスト・ニュース』(’87)でオスカー候補になるコメディアンのアルバート・ブルックス。このトムという役柄はもともとオリジナル脚本にはなく、リハーサルで監督と相談しながら作り上げていく必要があったため、即興コメディの経験があるブルックスに白羽の矢が立てられたのである。また、ポルノ映画館の売店でトラヴィスが言い寄る黒人の女性店員は、本作での共演がきっかけでデ・ニーロと結婚した最初の奥さんダイアン・アボットだ。 しかしながら、恐らく本作のキャストで最も話題となり賛否両論を呼んだのは、未成年の娼婦アイリスを演じた撮影当時12歳の子役ジョディ・フォスターであろう。もともとスコセッシ監督の前作『アリスの恋』に出演していたジョディ。その監督から「娼婦役を演じて欲しい」と電話で連絡を受けた彼女の母親は、「あの監督は頭がおかしい」とビックリ仰天したそうだが、それでも詳しい話を聞いたうえで納得して引き受けたという。とはいっても本人は未成年である。子役を映画やドラマに出演させる際、当時すでにハリウッドでは厳しいルールが設けられており、教育委員会の許可を得る必要があったのだが、しかし娼婦という役柄が問題視されて肝心の出演許可が下りなかった。そこで制作サイドは弁護士を立て、この役を演じるに問題のない精神状態かどうかを精神科医に判定して貰い、さらに性的なニュアンスのあるシーンは8歳年上の姉コニーが演じるという条件のもとで教育委員会の許可を得たという。 そんなジョディに対してスコセッシ監督が細心の注意を払ったのが、終盤の血生臭い銃撃シーンである。なにしろ、銃弾で指が吹き飛んだり脳みそが飛び散ったりするため、まだ子供のジョディがショックを受けてトラウマとならぬよう、特殊メイク担当のディック・スミスが全ての仕組みを懇切丁寧に説明したうえで撮影に臨んだらしい。ただ、このシーンは「残酷すぎる」としてアメリカ映画協会のレーティング審査で問題となり、色の彩度を落として細部を見えづらくすることで、なんとかR指定を取ることが出来たのだそうだ。 ちなみに、アイリス役にはモデルとなった少女がいる。ポール・シュレイダーがたまたま知り合った15歳の娼婦だ。撮影の準備に当たってスコセッシ監督やジョディにも少女を紹介したというシュレイダー。パンにジャムと砂糖をかける習慣や、妙に大人びた独特の話し方など、ジョディの芝居には少女の特徴が取り入れられているという。劇中ではアイリスがトラヴィスのタクシーで轢かれそうになるシーンが出てくるが、そこでジョディの隣にいる友達役がその少女である。 そして忘れてならないのは、本作が映画音楽の巨匠バーナード・ハーマンの遺作でもあることだろう。それまで自作の音楽には既成曲しか使っていなかったスコセッシにとって、作曲家にオリジナル音楽を依頼するのは本作が初めて。ハーマンが手掛けたヒッチコックの『めまい』(’58)や『サイコ』(’60)の音楽が大好きだったスコセッシは、最初から彼にスコアを付けてもらうつもりだったようだ。当時のハーマンはハリウッド業界に見切りをつけてロンドンへ拠点を移していたのだが、『悪魔のシスター』と『愛のメモリー』(’76)でハーマンと組んだデ・パルマから連絡先を聞いたスコセッシは、短気で気難しいと評判の彼に国際電話をかけて相談をしたのだが、即座に「タクシー運転手の映画などやらん!」と断られたのだそうだ。最終的にロンドンへ送った脚本を読んで引き受けてくれたわけだが、しかし当時のハーマンはすでに心臓が弱っており、ロサンゼルスでのレコーディングに参加するための渡航が大きな負担となってしまった。そのため、実際にスタジオでタクトを振ったのは初日だけ。翌日からは代役がオーケストラ指揮を務め、レコーディングが終了した’75年12月23日の深夜、ハーマンは宿泊先のホテルで就寝中に息を引き取ったのである。まるで主人公トラヴィスの孤独と絶望に寄り添うような、ダークでありながらもドリーミーで不思議な温かさのあるジャジーなサウンドが素晴らしい。■ 『タクシードライバー』© 1976, renewed 2004 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2023.04.03
‘80年代の日本の映画ファンを熱狂させたロックンロールの寓話『ストリート・オブ・ファイヤー』
アメリカよりも日本で大ヒットした理由とは? 日本の洋画史を振り返ってみると、本国では不入りだったのになぜか日本では大ヒットした作品というのが時折出てくる。その代表格が『小さな恋のメロディ』(’71)とこの『ストリート・オブ・ファイヤー』(’84)であろう。リーゼントに革ジャン姿のツッパリ・バイク集団にロックンロールの女王が誘拐され、かつて彼女の恋人だった一匹狼のアウトロー青年が救出のため馳せ参じる。ただそれだけの話なのだが、全編に散りばめられたレトロなアメリカン・ポップカルチャーと、いかにも’80年代らしいMTV風のスタイリッシュな映像が見る者をワクワクさせ、不良vs不良の意地をかけた白熱のガチンコ・バトルと、ドラマチックでスケールの大きいロック・ミュージックが見る者の感情を嫌が上にも煽りまくる。血沸き肉躍るとはまさにこのことであろう。 当時まだ高校生1年生だった筆者も、映画館で本作を見て鳥肌が立つくらい感動したひとりだ。その年の「キネマ旬報」の読者選出では外国映画ベスト・テンの堂々第1位。エンディングを飾るテーマ曲「今夜は青春」は、大映ドラマ『ヤヌスの鏡』の主題歌「今夜はエンジェル」として日本語カバーされた。当時の日本で『ストリート・オブ・ファイヤー』に熱狂した映画ファンは、間違いなく筆者以外にも大勢いたはずだ。それだけに、実は本国アメリカでは見事なまでに大コケしていた、どうやら興行的に当たったのは日本くらいのものらしいと、だいぶ後になって知った時は心底驚いたものである。 ではなぜ本作が日本でそれだけ受けたのかというというと、あくまでもこれは当時を知る筆者の主観的な肌感覚ではあるが、恐らく昭和から現在まで脈々と受け継がれる日本の不良文化が背景にあったのではないかとも思う。実際、良きにつけ悪しきにつけ’80年代はツッパリや暴走族の全盛期だった。なにしろ、横浜銀蝿やなめ猫やスケバン刑事が大流行した時代である。加えて、当時の日本ではロックンロールにプレスリーにジェームズ・ディーンなど、本作に登場するような’50年代アメリカのユース・カルチャーに対する憧憬もあった。まあ、これに関しては、同時代のイギリスで巻き起こった’50年代リバイバルやロカビリー・ブームが日本へ飛び火したことの影響もあったろう。さらに、’70年代の『小さな恋のメロディ』がそうだったように、劇中で使用される音楽の数々が日本人の好みと合致したことも一因だったかもしれない。いずれにせよ、アメリカ本国での評価とは関係なく、本作には当時の日本人の琴線に触れるような要素が揃っていたのだと思う。 実は『ウォリアーズ』の姉妹編だった!? 冒頭から「ロックンロールの寓話」と銘打たれ、続けて「いつかどこかで」と時代も舞台も曖昧に設定された本作。まるで’50年代のニューヨークやシカゴのようにも見えるが、しかしよくよく目を凝らすと様々な時代のアメリカ文化があちこちに混在しているし、確かにリッチモンドやバッテリーという地名は出てくるものの、しかしどうやら実在する土地とは全く関係がないらしい。つまり、これは現実とよく似ているが現実ではない、この世のどこにも存在しない架空の世界の物語なのだ。 とある大都会の寂れかけた地区リッチモンドで、地元出身の人気女性ロック歌手エレン・エイム(ダイアン・レイン)のコンサートが開かれる。詰めかけた大勢の若者で熱気に包まれる会場。すると、どこからともなくバイク集団ボンバーズの連中が現れ、リーダーのレイヴン(ウィレム・デフォー)の号令で一斉にステージへ乱入する。バンドマンやスタッフに殴りかかる暴走族たち、パニックに陥って逃げ惑う観客。悲鳴や怒号の飛び交う大混乱に乗じて、まんまとレイヴンはエイミーを連れ去っていく。その一部始終を目撃していたのが、近くでダイナーを経営する女性リーヴァ(デボラ・ヴァン・ヴァルケンバーグ)。警察なんか頼りにならない。なんとかせねばと考えた彼女は、ある人物に急いで電報を打つのだった。 その人物とはリーヴァの弟トム・コディ(マイケル・パレ)。かつて地元では札付きのワルとして鳴らし、兵隊を志願して出て行ったきり音沙汰のなかった彼は、実はエレンの元恋人でもあったのだ。久しぶりに再会した弟へ、誘拐されたエレンの救出を懇願するリーヴァ。だが、音楽の道を目指すエレンと苦々しい別れ方をしたトムは躊躇する。なぜなら、今もなお心のどこかで彼女に未練があるからだ。それでも姉の説得で考えを変えたトム。しかし、エレンのマネージャーで現在の恋人でもある傲慢な成金男ビリー(リック・モラニス)から負け犬呼ばわりされた彼は、カチンときた勢いで1万ドルの報酬と引き換えにエレンを救い出すことに合意する。別に未練があるわけじゃない、単に金が欲しいだけだという言い訳だ。 ボンバーズの本拠地はリッチモンドから離れた貧困地区バッテリー。バーで知り合ったタフな女兵士マッコイ(エイミー・マディガン)を相棒に従え、古い仲間から武器を調達したトムは、依頼人のビリーを連れてボンバーズが根城にする場末のナイトクラブ「トーチーズ」へ向かう。客を装って潜入したマッコイがエレンの監禁場所を押さえ、その間にトムが表でたむろする暴走族を銃撃して注意をそらすという作戦だ。これが見事に功を奏し、エレンを無事に奪還することに成功したトムたちだが、しかし面目を潰されたレイヴンと仲間たちも黙ってはいなかった…! 本作の生みの親はウォルター・ヒル監督。当時、エディ・マーフィとニック・ノルティ主演の『48時間』(’82)を大ヒットさせ、ハリウッド業界での評判もうなぎ上りだった彼は、それこそ「鉄は熱いうちに打て」とばかり、すぐさま次なる新作の構想を練る。その際に彼が考えたのは、自作『ウォリアーズ』(’79)の世界に再び挑戦することだったという。実際、本作を見て『ウォリアーズ』を連想する映画ファンは多いはずだ。ニューヨークのコニー・アイランドを根城にする不良グループが、ブロンクスで開かれたギャングの総決起集会に参加したところ罠にはめられ、逃亡の過程で各地区の不良グループと戦いながら地元へ辿り着くまでを描いた『ウォリアーズ』。「都会のヤンキーがよその縄張りへ行って帰って来るだけ」というストーリーの基本プロットは本作と同じだ。雨上がりの濡れたアスファルトに地下鉄や車などを乗り継いでの逃避行、アメリカ下町の不良文化など、それ以外にも符合する点は少なくない。グラフィックノベルの実写版的な世界観も共通していると言えよう。さながら姉妹編のような印象だ。 400万ドルの製作費に対して2200万ドルもの興行収入を稼ぎ出す大ヒットとなった『ウォリアーズ』だが、しかしウォルター・ヒル監督にとってはいろいろと悔いの残る作品でもあった。同作をグラフィックノベルの実写版として捉え、ポスプロ段階でコミック的な演出効果を加えようと考えていたヒル監督だが、しかしパラマウントから指定された締め切りを守るために断念せざるを得なかった(’05年に製作されたディレクターズ・カット版でようやく実現)。しかも、劇場公開時には映画の内容に刺激された若者たちが各地で暴動を繰り広げ、恐れをなしたパラマウントはプロモーション展開を自粛。一部の映画館では上映を中止するところも出てしまった。そもそもヒル監督によると、パラマウントは最初から同作の宣伝に非協力的だったという。紆余曲折あって『48時間』では再びパラマウントと組んだヒル監督だが、しかし同社から次回作を要望された彼が、あえて本作の企画をパラマウントではなくユニバーサルへ持ち込んだことも頷ける話だろう。 恐らく彼としては、『ウォリアーズ』で叶わなかった理想を本作で実現しようと考えたのかもしれない。シーンの切り替わりで象徴的に使われるギザギザのワイプなどは、なるほどコミック的な演出効果とも言えよう。また、今回はユニバーサルから潤沢な予算が与えられたこともあり、一部のシーンを除く全てをスタジオのセットで撮影。高架鉄道や多階層道路のシーンはシカゴで、貧困地区バッテリーはロサンゼルス市内の工場廃墟で撮影されているが、主な舞台となるリッチモンド地区はユニバーサル・スタジオに大掛かりなオープンセットを組み、夜間シーンはそこに天幕を張って撮影されている。おかげで、狙い通りのコミック的な「作り物感」が生まれ、より「ロックンロールの寓話」に相応しい世界を構築することが出来たのだ。 ‘80年代のトレンドを吸収したウォルター・ヒル流「MTV映画」 もちろん、ヒル監督が熱愛する西部劇の要素もふんだんに盛り込まれている。そもそも、郷里に舞い戻ったヒーローが相棒を引き連れ、無法者たちにさらわれたヒロインを救い出すという設定は西部劇映画の王道である。中でも、監督が特に意識したのはセルジオ・レオーネのマカロニ・ウエスタン。ニヒルでクールで寡黙な主人公トム・コディは、さながら若き日のクリント・イーストウッドの如しである。また、本作の主要キャラクターはほぼ若者で占められ、中高年は全くと言っていいほど出てこないのだが、これは当時ハリウッドを席巻していたスティーヴン・スピルバーグとジョン・ヒューズの映画に倣ったとのこと。つまり、若い観客層にターゲットを定めたのである。実際、’80年代のハリウッド映画は若年層の観客が主流となり、その需要に応えるかのごとくトム・クルーズやモリー・リングウォルドやマイケル・J・フォックスなどなど、数えきれないほどのティーン・アイドル・スターが台頭していた。そこで本作が集めたのは、駆け出しの新人を中心とした若手キャストだ。 主人公トム・コディにはトム・クルーズ、エリック・ロバーツ、パトリック・スウェイジがオーディションを受けたが、最終的にヒル監督はマイナーな青春ロック映画『エディ&ザ・クルーザーズ』(’83)に主演した若手マイケル・パレに白羽の矢を当てる。ヒロインのエレン役には、当時18歳だったダイアン・レイン。本作のキャストでは唯一、知名度のある有名スターだ。もともとはダリル・ハンナが最有力候補だったが、結局はキャリアもネームバリューもあるダイアンが選ばれた。恐らく、マイケル・パレがまだ無名同然だったため、引きのあるスターが欲しかったのだろう。エレンのいけ好かないマネージャー、ビリー役は、当時テレビのお笑い番組「Second City Television」で注目されていたコメディアンのリック・モラニス。プロデューサーのジョエル・シルヴァーがモラニスの大ファンだったのだそうだ。 さらに、当初トムの姉リーヴァ役でオーディションを受けたエイミー・マディガンが、トムの相棒マッコイ役を演じることに。本来、この役はラテン系の巨漢男という設定で、役名もメンデスという名前だったという。しかし「これを女に変えて私にやらせて!絶対に面白いから!」とエイミー自らが監督に直訴したことで女性キャラへと変更されたのだ。そういえば、ヒル監督が製作と脚本のリライトを手掛けた『エイリアン』(’79)の主人公リプリーも、もともとは男性という設定だったっけ。代わりに姉リーヴァ役に起用されたのは、『ウォリアーズ』のヒロイン役だったデボラ・ヴァン・ヴァルケンバーグ。さらに、ヒル監督がキャスリン・ビグローの処女作『ラブレス』(’82)を見て注目したウィレム・デフォーが、暴走族のリーダー、レイヴン役を演じて強烈なインパクトを残す。本作で初めて彼を知ったという映画ファンも多かろう。 そのほか、ビル・パクストン(バーテン役)にE・G・デイリー(エレンの追っかけベイビードール役)、エド・ベグリー・ジュニア(バッテリー地区の浮浪者)、リック・ロソヴィッチ(新米警官)、ミケルティ・ウィリアムソン(黒人コーラスグループのメンバー)など、後にハリウッドで名を成すスターたちが顔を出しているのも要注目ポイント。デイリーは歌手としても成功した。また、『フラッシュダンス』(’83)でジェニファー・ビールスのボディダブルを担当したマリーン・ジャハーンが、ナイトクラブ「トーチーズ」のダンサーとして登場。ちなみに、トーチーズという名前のクラブは、ヒル監督の『ザ・ドライバー』(’78)や『48時間』にも出てくる。 ところで、ヒル監督が本作を撮るにあたって、実は最も影響されたというのがその『フラッシュダンス』。全編に満遍なく人気アーティストのポップ・ミュージックを散りばめ、映画自体を1時間半のミュージックビデオに仕立てた同作は空前の大ブームを巻き起こし、その後も『フットルース』(’84)や『ダーティ・ダンシング』(’87)など、『フラッシュダンス』のフォーマットを応用した「MTV映画」が大量生産されたのはご存知の通り。要するに、『ストリート・オブ・ファイヤー』もこのトレンドにちゃっかりと便乗したのである。そのために制作陣は、パティ・スミスやトム・ペティのプロデューサーとして知られるジミー・アイオヴィーンを音楽監修に起用。ジョン・ヒューズの『すてきな片想い』(’84)では当時のニューウェーブ系ヒット曲を総動員したアイオヴィーンだが、一転して本作ではユニバーサルの意向を汲んで、映画用にレコーディングされたオリジナル曲ばかりで構成することに。オープニング曲「ノーホエア・ファスト」を書いたジム・スタインマンを筆頭に、トム・ペティやスティーヴィー・ニックス、ダン・ハートマンなどの有名ソングライターたちが楽曲を提供している。 ダイアン・レインの歌声を吹き替えたのは、ロックバンド「フェイス・トゥ・フェイス」のリードボーカリスト、ローリー・サージェントと、ジム・スタインマンの秘蔵っ子ホリー・シャーウッド。「ノーホエア・ファスト」と「今夜は青春」には、「ファイアー・インク」なるバンドがクレジットされているが、これは「フェイス・トゥ・フェイス」のメンバーを中心に構成された覆面バンドだ。また、挿入曲「ソーサラー」と「ネヴァー・ビー・ユー」は、サントラ盤アルバムのみ前者をマリリン・マーティン、後者をマリア・マッキーと、当時売り出し中の若手女性ボーカリストが歌っている。つまり、映画とサントラ盤では歌声が別人なのだ。これは黒人コーラスグループが歌う「あなたを夢見て」も同様。劇中ではウィンストン・フォードという無名の黒人男性歌手が歌声を吹き替えていたが、しかしサントラ盤アルバムを制作するにあたって作曲者のダン・ハートマンが自らレコーディング。これが全米シングル・チャートでトップ10入りの大ヒットを記録する。 ちなみに、映画の最後を締めくくる楽曲は、本作とタイトルが同じという理由から、ブルース・スプリングスティーンの「ストリーツ・オブ・ファイアー」のカバー・バージョンが選ばれ、実際に演奏シーンも撮影されていたのだが、しかしレコード会社から著作権の使用許可が下りなかった。そこで、急きょジム・スタインマンが「今夜は青春」を2日間で書き上げ、改めてラスト・シーンの撮り直しが行われたのである。ダイアン・レインの髪型がちょっと不自然なのはそれが理由。というのも、当時の彼女は次回作(恐らくコッポラの『コットン・クラブ』)の撮影で髪を切っていたため、本作の撮り直しではカツラを被っているのだ。 一方、ポップソング以外の音楽スコアは、『48時間』に引き続いてジェームズ・ホーナーに依頼されたのだが、しかし出来上がった楽曲が映画のイメージとは全く違ったためボツとなり、ヒル監督とは『ロング・ライダーズ』(’80)と『サザン・コンフォート/ブラボー小隊 恐怖の脱出』(’81)で組んだライ・クーダーが起用された。確かに、ロックンロール映画にはロック・ミュージシャンが適任だ。むしろ、なぜジェームズ・ホーナーに任せようとしたのか。そちらの方が不思議ではある。 ロックンロールに暴走族に西部劇にレトロなポップカルチャーと、ウォルター・ヒル監督が少年時代からこよなく愛してきたものを詰め込んだという本作。プレミア試写での評判も非常に良く、製作陣は「絶対に当たる」との自信を持っていたそうだが、しかし結果的には大赤字を出してしまう。ヒル監督やプロデューサーのローレンス・ゴードン曰く、カテゴライズの難しい作品ゆえにユニバーサルは売り出し方が分からず、アメリカでは宣伝らしい宣伝もほとんど行われなかったという。映画でも音楽でも小説でもそうだが、残念ながら内容が良ければ成功するというわけではない。本作の場合、アメリカではビデオソフト化されてから口コミで評判が広まり、今ではカルト映画として愛されている。これをいち早く評価していたことを、日本の映画ファンは自慢しても良いかもしれない。■ 『ストリート・オブ・ファイヤー』© 1984 Universal City Studios, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2019.08.06
前作のスタイルを継承し、そして拡張させた『300〈スリーハンドレッド〉~帝国の進撃~』
■続編成立の困難な作品に挑む 「我々はひざまずいて生きるのではない。自由のために立ったまま死ぬのだ!」 紀元前480年、ギリシアに対してペルシア帝国が突き付けてきた「降伏か、戦いか」の最終通告に、陸戦部隊を率いてペルシア軍の前に立ちはだかり、応戦という回答を突きつけたスパルタ戦士レオニダス。わずか300人の兵士で100万人の大軍勢を迎え撃つという、向こう見ずな男たちの生きざまを描いた『300〈スリーハンドレッド〉』(以下:『300』)は、全米興行収入2億1,160万ドルを稼ぎ出し、監督であるザック・スナイダーに初のメガヒットをもたらした。 もちろん作品が成功すれば、続編という話が浮上して当然だろう。だがその気運とは裏腹に、シリーズを展開させるには困難が生じる映画として『300』は製作者たちの前に立ちはだかったのである。 まずフランク・ミラーの原作にシリーズ化の足がかりとなるものが存在しないという、現実的な制約があった。一説にはこの『300〈スリーハンドレッド〉~帝国の進撃~』(以下:『帝国の進撃』)、ミラーのグラフィックノベル作品「クセルクセス」が原作としての役割を担っているのではないかと言われているが、『帝国の進撃』の脚本はこの「クセルクセス」と同時に執筆されており、直接の関連はない。 なにより多勢で少数を屈服させようとする侵略主義を否定するために、死を賭して戦いに挑んだ者たちの崇高な精神を、続編という形で反復するのには疑問が残る。それはすなわち、作品の精神を汚し、陳腐なものにしてしまいかねないのでは? 加えてこの『300』が、唯一無二の映像スタイルを持っていることも、おのずと続編製作のハードルを上げている。際立ったデジタルグレーディングのコントロールや、超高輝度のカラーパレットによって生み出される独特の色調。暗黒時代を象徴するまがまがしいランドスケープに、アートのように洗練されたシンメトリックな構図など、どの場面も荘厳かつダークな美に充ち満ちている。そんな個性の塊のような世界観を、はたしてザック・スナイダー以外に成立させられるのか? しかし『帝国の進撃』は、こうした懸念を一蹴するかのように、前作とは違うアプローチと新たな方法論で、難しいと思われた続編製作を見事に成功させたのである。レオニダスの300人部隊が散ったテルモピュライの戦いとは異なる戦局を描き、映画はペルシア帝国の大艦隊に立ち向かった軍師テミストクレス(サリヴァン・ステイプルトン)に焦点を定め、描写のメインは地上戦から海上戦へと移行。さらにはペルシア側の背景にも視点を潜り込ませるという、別なるアプローチで全方位を固めた『300』となったのだ。 ■可変速度効果の向上、平面から立体への追求 そして視覚面においても『帝国の進撃』は、『300』の様式をきっちりと受け継ぎつつ、要所にてそれを見事にアップデートさせている。 前回の『300』のコラムでも触れたが、本シリーズの映像レイアウトの特徴をなすひとつに「可変速度効果」がある。これはひとつのショット内において、被写体の動きがスローモーションからファストモーションへとスピードアップしたり、逆にテンポダウンする特殊なカメラワークのことで、それを作り出すために同作では「フィルム撮影」という選択がとられていた。これは当時、デジタルHDカメラに納得のいくハイフレームレート(高コマ数)撮影機能がカバーされてなかったと、撮影監督を担当したラリー・フォンは語っている。高速度で撮像を得ないと、例えば通常スピードで撮られた映像を合成編集ソフトのエフェクトツールで引き延ばしてスローモーションにした場合、動きがカクカクしてなめらかさを欠くためである。 しかし前作から9年間の間にデジタルカメラの性能が著しく上がり、フィルムカメラを凌駕する高速度撮影が可能となったのだ。そこで『帝国の進撃』はフィルム撮影からデジタル撮影へとシフトさせ、RED EPICやファントムといったハイスペックなカメラ機種を現場に導入。1秒24fpsから96fps、最大で1200fpsというフレームレートによって、すさまじいスローモーション・フッテージをモノにしている。 だがこうした効果が、デジタル・バックロットによって合成を多く必要とする本作のVFXを、より複雑化させるものとなった。そこで本作の視覚効果を担当したVFXファシリティのひとつであるMPCは、合成チームが調整した映像のリタイムカーブ(速度曲線)情報を、本作の画像処理をつかさどるディレクトリ構造にパイプラインで共有する「3Dリタイム・パイプライン」を独自に開発。創作にともなうリタイムカーブ情報の変更を、随時可能にする利便性を得ている(ちなみにデジタル合成ソフトによるリタイムカーブ調整は前作『300』ではafter effectでおこなわれ、『帝国の進撃』ではMayaやnukeなどが用いられている)。 そしてなによりデジタルへの移行は、本作にデジタル3Dという表現形式を同時に与えることとなった。 もっとも『帝国の進撃』は専用カメラを用いて撮像したピュア3Dではなく、後処理によって3D化が図られている。そのためストーリーボードの段階から立体視を強調する画面構成やレイアウトがなされ、劇場で3Dメガネを介さずとも、おのずと前後空間を意識した画作りが感じられる。主観を思わせるカメラレンズに流血が降りかかり、血の飛沫が付着するところや、あるいは射った矢が眼前に迫ってきたり、また無数の軍艦が手前に進行してくるショットなど、こうした前後空間を意識したカメラモーションが「ミラーのコミックを映像に徹底置換する」という平面的従属から解放させ、奥行きを感じさせる新たな表現領域へと本作を誘導したのである。 ■監督ノーム・ムーロの功績 じつはこの前後方向へのカメラ移動、『帝国の進撃』の監督であるノーム・ムーロの、映像作家としてのスタイル的な特性でもある。 ムーロは1961年8月16日、イスラエルのエルサレムで生まれ、大学卒業後に広告の世界でキャリアを始めてから、CMやプロモーション映像など数多くのフィルム(ビデオ)クリップを手がけてきた。そして2003年にはGot Milk?の「Birthday」で世界最大規模を誇る広告賞「カンヌライオンズ」アワードのゴールドライオン賞を受賞し、一気に注目の存在となった。 こうして広告業界で商業的な成功を得たムーロは、大手広告製作会社ビスケット・フィルムワークスを設立。同社のオフィシャルサイトにはムーロの手がけてきたCM作品がアップされており、代表的なものをいくつか観ることができる。どの作品もゆるやかな前後のカメラ移動が特徴をなし、観る者を惹きつけていく。これらを見ると改めて、『帝国の進撃』の映像スタイルは、氏の演出的な法則に従ったものだとわかるだろう。 映画監督としてはデニス・クエイド主演によるファミリーコメディ『賢く生きる恋のレシピ』(08/日本未公開)で初の商業長編作品を手がけるが、日本でその名が意識されたのは『ザ・リング2』の監督に抜擢されたというニュースからだろう。日本由来のコンテンツに関わるということもあり、ムーロの手腕に大きな期待が寄せられたが、この企画は残念ながら途中降板となってしまった。 そんなおり、スーパーマン神話の再構築『マン・オブ・スティール』(13)の監督を依頼されたスナイダーに代わり、彼は『帝国の進撃』を手がけることとなったのだ。CMディレクター出身としてスナイダーと同じ血を体内に通わせ、同種の才能を共有するムーロだが、彼は確立された作品スタイルを、単に右から左へと流すような引き継ぎはしていない。戦闘場面などショットの精度はスナイダーよりも格段に磨き上げられ、よりスタイリッシュになっているし(残酷さも増したが)、前述したように平面世界から前後空間へとカメラモーションに奥行きが加わり、絵画的だった『300』ワールドに生々しいリアリティがもたらされたのだ。 だがなにより、こうした難しい続編に挑む姿勢そのものが、自由のために戦いを選んだ『300』という作品のテーマを体現しているかのようである。ムーロは本作の後、オリジナル配信コンテンツのリミテッドシリーズとして昨年『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』(18)のCGアニメドラマを監督。原作のみならず、2Dアニメの古典として知られている同作にCGで挑むチャレンジャーぶりを示すも、劇場用映画の領域からは久しく遠のいている。創造において発表媒体に優劣などないが、できることならば再び大きなスクリーンで、彼の描き出すヴィジョンを堪能したいものだ。■ 参考文献・資料・ASC“American Cinematographer”APRIL 2007 ・『300 〈スリーハンドレッド〉~帝国の進撃~』劇場用パンフレット(松竹事業部) ・300 – RISE OF AN EMPIRE: CHARLEY HENLEY (VFX SUPERVISOR) WITH SHELDON STOPSACK AND ADAM DAVIS (CG SUPERVISORS) – MPC
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COLUMN/コラム2021.02.04
漂泊者ポランスキーの「呪われた映画」『ローズマリーの赤ちゃん』
本作『ローズマリーの赤ちゃん』(1968)の原作小説は、アイラ・レヴィン(1929~2007)が、67年に発表。ベストセラーになった。 レヴィンは、物語に時事的な社会問題を織り込んでサスペンスを醸し出す、巧みなストーリーテラーとして評価が高かった作家である。72年に出版された「ステップフォードの妻たち」は、“ウーマン・リブ”の時代への男性の恐怖心をベースにしたもの。76年の「ブラジルから来た少年」では、ナチス・ドイツ残党の実在の医師メンゲレが、当時最新の“クローン”技術で、ヒトラーの復活を企てる。 そしてそれらに先立つ「ローズマリーの赤ちゃん」は、50年代末から60年代初めに起こった世界的な大事件から、着想を得ている。 ニューヨークに住む、ローズマリーとガイの若夫婦。ガイは俳優で、舞台やテレビCMなどに出演するも、今イチぱっとしない。 夫婦は歴史のあるアパート、ブラムフォードへと引っ越す。2人の中高年の友人ハッチは、過去に数々の事件が起こった場所だと懸念するが、夫婦は耳を貸さなかった。 入居して間もなくローズマリーは、隣室のカスタベット夫妻宅の居候だという、若い娘テリーと親しくなる。しかしその数日後、テリーは窓から身を投げ、自殺を遂げる。 その件がきっかけで、ローズマリーとガイは、テリーの面倒を見ていた隣室の老夫婦、ローマンとミニーと顔見知りになる。夕食に招かれるなどする内に、ガイは演劇に詳しいローマンと親しくなり、カスタベット家を頻繁に訪ねるようになる。 そして間もなく、ガイのライバルの俳優が突如失明。ガイに役が回るという、思いがけないチャンスが巡ってきた。 時を同じくしてガイは、子作りにも積極的になる。ローズマリーの排卵日、彼女はミニーから差し入れられたデザートを食べた後、目まいに襲われ、ベッドに臥せってしまう。 その夜ローズマリーは、夢を見る。ガイやカスタベットらが見守る中で、人間離れした者に犯されるという内容の悪夢であった。 翌朝起きると、彼女の身体のあちこちに、引っかき傷が出来ていた。ガイは、子作りのチャンスを逃したくなかったので、意識のないローズマリーを抱いたと説明をする。 エヴァンスが『反撥』に感心して、ポランスキーに監督をオファーしたことは、先に記した通りだ。『反撥』は、セックスへの恐怖心が昂じて、閉鎖空間で現実と妄想の区別がつかなくなって狂っていく、若い女性が主人公の作品である。 そんな作品を撮ったポランスキーこそ、「ローズマリー…」の映画化に正に打ってつけの人材と、エヴァンスは見込んだ。そしてポランスキーもまた、この題材に強く惹かれたというわけである。 ポランスキーは自分で注文をつけた通り、ほぼ「原作に忠実」な映画化を行った。そんな中ローズマリーが犯されるシーンで、LSDを服用したかのような、サイケな映像を用いて、現実とも妄想ともつかないように演出している辺り、当時の彼の才気が爆発している。 原作からの改変として、ポランスキーが挙げるのは、次の一点のみ。 「…私はラストを少し改変した。というのは、本の結末は少しばかり失望させるものだったからだ。あそこはちょっと長引きすぎると思う」。 これに関しては機会があったら、是非原作と映画版の違いを、自らの目で確かめて欲しい。 何はともかく、レヴィンの原作とポランスキー監督のマッチングは、大成功! ローズマリー役のミア・ファローのニューロティックな感じもピタリとハマった。映画は大ヒットを記録し、ポランスキーはアカデミー賞の脚色賞にもノミネートされる。 通常ならばこうした経緯を、「幸運な出会い」と表現するべきなのであろう。しかしこの作品に関しては、それ以上に他の形容をされる場合が多い。「呪われた映画」であると…。 後に原作者のレヴィンは、自分は“サタン”を信じないと発言。またポランスキーは、無神論者であることを明言している。それなのにこの作品とその成功は、作り手がつゆとも思わなかった、“悪魔”を呼び込んでしまったのである。 『ローズマリー…』の大成功により、ハリウッドの住人として認められたポランスキーは、映画公開の翌年=69年2月、ロサンゼルスに居を構える。それから半年経った8月9日朝、ポランスキー家のメイドが、5人の遺体を発見する。 殺害されていたのは、ポランスキーが『吸血鬼』で出会って結婚し、当時妊娠8カ月だった女優のシャロン・テートと、ポランスキー夫妻の関係者ら。ポランスキー本人は、次回作のシナリオ執筆のためロンドンに滞在しており、留守にしていた。 数か月後、凶行に及んだのは、チャールズ・マンソンが率いるカルト集団であることが判明。この犯行は無差別殺人の一環であり、ポランスキーの邸宅が狙われたのは、単なる偶然であった。 いずれにせよ、『ローズマリー…』が成功せず、ポランスキーがロスに居を移すことがなかったら…。若妻がカルト集団に惨殺されることも、なかったわけである。 因みに映画でローズマリーらが住むアパート、ブラムフォードの外観に使われたのは、ニューヨークのセントラルパーク前に在る、ダコタハウス。1980年12月8日、ここに住むジョン・レノンが、玄関前で撃たれて落命した、あのダコタハウスである。 これは、映画とは何ら関係のない事件である。しかしミア・ファローが、ビートルズのメンバーと共に、インドで瞑想の修行に臨んだ過去の印象などもあってか、『ローズマリー…』を「呪われた」と語る場合、不謹慎な言い方になるが、レノンの殺害が、その彩りになってしまっているのは、紛れもない事実と言える。『ローズマリーの赤ちゃん』TM, ® & © 2021 by Paramount Pictures. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2022.03.08
“実話”の強みを最大限に生かしたヒーロー物語『エリン・ブロコビッチ』
アメリカ映画の保存・振興を目的とした、「AFI=アメリカン・フィルム・インスティチュート」という機関がある。この「AFI」が1998年から2008年に掛け、「アメリカ映画100年シリーズ」として、「アメリカ映画ベスト100」「映画スターベスト100」など、様々な「ベスト100」を発表した。 その中で、2003年に発表されたのが、「ヒーローと悪役ベスト100」。映画史上に輝く、ヒーローと悪役それぞれ50人(人間とは限らないが…)が選出された。 ヒーローの第1位は、『アラバマ物語』(1962)でグレゴリー・ペックが演じた、人種差別と闘う弁護士、アティカス・フィンチ。続いては、インディ・ジョーンズやジェームズ・ボンド、『カサブランカ』(42)でハンフリー・ボガートが演じたリックなど、錚々たる顔触れが並んでいく。 ヒーローと銘打ちながらも、闘うヒロインたちも、ランクインしている。第6位『羊たちの沈黙』のクラリス・スターリングを筆頭に、『エイリアン』シリーズ(79~ )のリプリー、『ノーマ・レイ』(79)『テルマ&ルイーズ』(91)のヒロインたち、そして第31位に、本作『エリン・ブロコビッチ』(2000)でジュリア・ロバーツが演じた、タイトルロールが挙がる。 エリン・ブロコビッチ、それはクラリスやリプリーと違って、実在の人物。本作は、実話の映画化なのである。 彼女の物語の映画化は、カーラという女性が、カイロプラクティックを受ける時に、施術者から信じがたい話を耳にしたことに始まる。その施術者の友人に、日々の生活費にも困っているような、バツ2で3人の子持ちの女性がいた。そんな彼女が、法律知識はゼロだったにも拘わらず、大企業を相手取った公害訴訟で、数多くの被害者たちのために、莫大な和解金を勝ち取ったというのだ。 カーラはその話を、自分の夫に伝えた。その夫とは、本作を製作することになる、ジャージー・フィルムズの経営者の1人、マイケル・シャンバーグだった。 *** ロサンゼルス郊外の小さな町ヒンクリーに住む、エリン・ブロコビッチは、今まさに窮地に立たされていた。離婚歴2回で、乳呑み児を含む3人の子どもを抱えたシングルマザーの彼女は、貯金が底を突きそうなのに、高卒で何の資格もないため、就職活動もままならない状態。 そんな最中、職探しのドライブ中に、信号無視の車に追突されて、鞭打ちになってしまう。老弁護士のエド・アスリーは、相手が一方的に悪いので、賠償金が取れると請け負うが、法廷でのエリンの暴言などから陪審員の心証が悪かったせいか、びた一文得ることができなかった。 お先真っ暗のエリンは、エドの法律事務所に押し掛け、無理矢理雇用してもらうことに。豊満なバストをはじめ、常にボディラインを強調するような服装の彼女に、同僚たちは良い顔をしなかったが、本人は注意されても言い返し、直そうとはしない。 ファイルの整理という、誰でもできるような仕事を命じられたエリンは、その中の不動産案件の書類に、引っ掛かるものを感じる。地元の大企業PG&E社が、自社工場の近隣住民の土地を買おうとしているのだが、不審に思える点があったのだ。 エリンが独自に調査を始めると、その土地が工場からの排出物に混ざった六価クロムによって、汚染されている疑いが強いことがわかる。そして近隣の住民には、癌など健康被害が続出していることが、明らかになる。 事務所に現れないエリンが、サボっていると誤解して、エドは彼女を解雇する。しかしエリンが探り当てた事実を知ると、最初は及び腰ではあったが、やがて彼女と共に、大企業相手の訴訟に乗り出す。 新たな恋人となった、隣人のジョージの愛にも支えられながら、エリンの熱い戦いが繰り広げられていく…。 *** “六価クロム”は、電気メッキ、酸化剤、金属の洗浄、黄色顔料など、広く使用されている化合物。非常に強い毒性があり、肌に付着すると皮膚炎や腫瘍を起こし、また長期間体内に取り入れると、肝臓障害・貧血・肺がん・大腸がん・胃がんなどの原因になる可能性がある。 日本でも60歳前後ならば、記憶に残っている方が多いだろう。1970年代前半から後半に掛けて、東京・江東区の化学メーカー工場が、“六価クロム”を排出。近隣の土壌が汚染されて、大きな社会問題となった。 PG&E社は、そんな有害物を大量に排出しながら、適切な処理を怠り、長年近隣住民を騙し、隠蔽し続けていたのである。エリンとエドは、634人の住民を原告に立ててPG&E社と戦い、1996年に3億3,300万㌦=約350億円という、全米史上最高額(当時)の和解金を勝ち取った。 一連の顛末を映画化した本作のことを、エリン本人は「実話度98%」と評価する。事実でない残りの2%は、例えば原告となる住民たちが実名ではないことや、エリンが実際には高卒ではなく、カンザス州立大学を卒業しているということなど。いずれにしろそれらの改変は、“実話”である強みを、損なうほどのことではない。 映画化に当たって、スティーヴン・ソダーバーグ監督へのオファーを決めたのは、マイケル・シャンバーグ、ダニー・デヴィートと共に、ジャージー・フィルムズを経営する、ステイシー・シャー。『アウト・オブ・サイト』(98)で組んだ経験から、「…あまりにもドラマティックでおもしろい…」このストーリーを、「地に足のついた現実的な映画にしてくれる」監督は、ソダーバーグしかないと、白羽の矢を立てたのである。 1963年生まれのソダーバーグは、20代中盤に撮った長編第1作『セックスと嘘とビデオテープ』(89)が、カンヌ国際映画祭で最高賞=パルム・ドールを獲るという、華々しいデビューを飾った。しかしその後はスランプに陥り、興行的にも作品の評価的にも、暫しの低迷が続いた。 そんな彼にとって、『アウト・オブ・サイト』は、久々の成功作。そのプロデューサーから依頼された本作の脚本を読んだ時、エリンのストーリーに思わず惹き込まれて、プロジェクトに参加することを決めたという。 それまでこの訴訟についてはまったく知らなかったソダーバーグは、事実のリサーチを進めていく中で、「…不必要に刺激的にしたり、ドラマティックな効果を狙うためだけのシーンがないようにすることが大切だ…」と見極めた。彼を起用した、プロデューサーの狙い通りとなったわけである。 本作の内容を精査すると、大企業側からの妨害や、エリンの強烈なキャラによって起こる軋轢などは、実にサラリと描かれている。こうした題材を映画化するに当たっては、通常は強調されるであろう、そうしたエピソードには主眼を置かず、一直線な“ヒーロー譚”に仕立て上げている。それが本作を成功に導いたと言える。 もちろんそれらは、バッチリとハマったキャスティングによるところも大きい。エリンを演じたジュリア・ロバーツは、本作の10年前に出演した『プリティ・ウーマン』(90)以来、TOPスターの1人として、活躍。30代前半となって、そろそろ大きな“勲章”を手にしたい頃であった。 そんな時に出会った本作に臨むのに、エリン・ブロコビッチ本人に会ったり、取材したりなどは、一切行わなかったという。本人を真似た役作りではなく、自分自身が『エリン・ブロコビッチ』という作品の中で、そのキャラクターを創り上げるというチョイスを行ったわけである。 エリンは実在の人物とはいえ、誰もが顔を知っているような存在というわけではなかったので、このアプローチは成立。結果的に、大成功を収めた。 因みにジュリアがエリン本人と初めて会ったのは、本作の撮影で、ジュリア演じるエリンが、子ども3人を連れて、ダイナーで食事をするシーンだった。このシーンで、エリンがカメオ出演。ウェイトレスを演じている。 自分が演じている本人とセリフのやり取りをするのは、「…とても奇妙な感じで…」戸惑いを覚えていたというジュリア。ふとエリンの胸元のネームプレートを見たら、“ジュリア”と書いてあって、「…もう少しで気が違うかと…」思ったという。 何はともかく、ジュリアは本作が代表作の1本となった。そして念願の、“アカデミー賞主演女優賞”の獲得に至った。 老弁護士エド役のアルバート・フィニーの好演も、ジュリアが栄冠を得るための、大いなるアシストになった。それほどこの作品での、エドとエリンの老若押し引きのコンビネーションは、見事である。 ソダーバーグは、この役を誰が演じるか話し合った時に、真っ先にフィニーの名を挙げた。1960年代からの彼の長いキャリアをリスペクトしていたというソダーバーグの狙いは、ここでも見事に当たったと言える。惜しむらくはフィニーが、アカデミー賞のノミネートから漏れたことである。 さてソダーバーグはこの年2000年は、本作に続いて、麻薬戦争を扱った『トラフィック』が公開されて、こちらも大成功を収めた。アカデミー賞では、『エリン・ブロコビッチ』と『トラフィック』両作で、“アカデミー賞監督賞”にノミネートされるという、62年振り2人目の快挙を成し遂げた。即ち5人の監督賞候補者の内、2人分を彼が占めたということである。 こうなると票が割れて、賞自体を逃すこともありえたが、『トラフィック』の方で、見事に受賞を遂げた。実質的には同年にこの2作があったからこそ、高い評価を得たと言えるだろう。 その後は度々「引退」を匂わせながらも、現代の巨匠の1人として、活躍を続けているのは、多くの方が知る通り。本作がそのステップに向かう、大きな役割を果たしたことは、疑うべくもない。 さて「実話度98%」の本作であったが、エリン・ブロコビッチ本人のその後の人生も、なかなか凄まじい。 本作内ではアーロン・エッカートが演じ、エリンを優しく支える存在として描かれた恋人のジョージは、実際はベビーシッターとしてエリンから報酬を貰っていた上、その後更なる金銭を求めて、彼女を相手に訴訟を起こしている。また本作で描かれる物語以前に別れた夫とも、訴訟沙汰となった。 本作では、育児もそっちのけで大企業との戦いに奔走する母エリンに、子ども達も理解を示す描写が為されている。実際は十代になった子ども達は、ドラッグ漬けになり、その治療で大変な目に遭ったという。 その後も環境活動家として、公害企業との戦いに身を投じているエリンだが、2012年には3度目の離婚となった。 本作で描かれた物語以降も、「事実は小説よりも奇なり」を地で行くエリン・ブロコビッチの人生。また新たに映画化される日が来ても、不思議ではない。■ 『エリン・ブロコビッチ』© 2000 Universal City Studios, Inc. and Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2020.01.05
本気で泣ける少林寺映画、『新少林寺/SHAOLIN』
“少林寺”といえば、ジェット・リー(当時はリー・リンチェイ)主演の映画。1970年代生まれのぼく世代にとっては、映画『少林寺』(82年)はそれだけのインパクトを持った映画だった。 まずは予告編からして、朝日をバックにリズムカルな「ハッ!ハッ!ハッ!ハハッ!」という掛け声とともに修行を積む少林僧たち、そして「天に竹林寺、地には少林寺」という唐突すぎて意味不明なキャッチコピー、「知られざること2000年…初めてカメラが撮らえた…世界の武術のルーツ少林寺」「全中国武術大会チャンピオン総出演」「中国縦断ロケ2万キロ」といったモンド映画のように観客の好奇心をそそるコピーが連打される、東宝東和ハッタリ演出の総力を結集したかのような最高の出来で、この予告編を観た全国の小中学生は劇場に殺到。それまで少林寺と言えば日本の武道である少林寺拳法(実は少林寺拳法も本作の製作・プロモーションなどをフルサポートしている)しか知らなかった少年少女たちは、ブルース・リーやジャッキー・チェンとも違う本作のカンフーに喝采を送り、日本では16億円を超えるメガヒットを記録したのだった。 少林寺映画は続編『少林寺2』(83年)『阿羅漢』(86年)という“リンチェイ少林3部作”の大ヒットが決定打となり、完全に世界各国で市民権を獲得。中国では映画を観た少年たちが次々と家出をして少林寺を目指すという社会現象が起き、日本でも『少林寺三十六房』(77年)のような過去作も次々と公開される一大ブームを巻き起こすこととなる。 ところで読者の皆さんは、少林寺はどのような場所なのかご存じであろうか。 少林寺は正式には嵩山少林寺といい、中国河南省にある寺院である。禅宗の開祖である達磨大師がインドから中国に渡り、嵩山で壁に向かって9年間座禅を続け(面壁)悟りを開いたことに始まるとされており、所説はあるが達磨によって少林武術が創始され、僧兵集団を形成していくことになる。隋末には、隋を滅ぼした王世充による攻撃もあったが、これを討伐する太宗・李世民の軍に僧兵を援兵し、国家の庇護を受けた少林寺は発展していくことになる(この時代が『少林寺』で描かれる時代となる)。 その後も少林寺では多様な武術が発展していくのだが、清代末期には武術組織と新興宗教を母体とした義和団の乱が勃発。諸外国の連合軍によって義和団の乱が鎮圧されると、国際的な監視下で中国全土で武術の禁止が発令され、少林拳も強く規制されることになる。さらに袁世凱死去後の軍閥時代末期となる1928年には、軍閥の抗争に巻き込まれる形で寺院の建物や所蔵物が焼失してしまう事態が発生。現在はいくつかの建造物は復興されているが、完全復興には至っていない状態は続いている。しかし少林寺は何回かの存亡の危機に瀕しながらも、そのたびに不死鳥のように蘇ってきた歴史があり、中国の市場経済化以降は、現方丈の釈永信の下で商標ビジネスや物販、少林武術ショーを積極的に行い、巨大な利権を生み出す観光化を推し進めている。 そんな少林寺を舞台にした映画は、中国・香港・台湾の各映画界において何度も何度も作品が作成されてきた。隋代末期の物語をベースとする少林寺モノのブームが沈静化したのちは、かつて福建省に存在していたとされていた福建少林寺の南派少林寺系の武侠や英雄の物語が繰り返し映画化されている(『ドランクモンキー酔拳』(78年)や『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ』シリーズ(91年~)のウォン・フェイフォンなど)。 そして1997年の香港の中国返還後は、多くの香港映画人が中国に渡って少林寺映画を製作。中でも『少林寺』の監督チャン・シン・イェンと『マトリックス』(99年)のユエン・ウーピンが共同監督し、ウー・ジンが主演した『新・少林寺』シリーズ(99年~)と『少林武王』シリーズ(01年~)は中国本土でも大ヒットとなった。さらに香港の喜劇王チャウ・シンチーが監督・主演した『少林サッカー』(01年)は、少林寺(カンフー)+α映画の新地平を切り開き、2013年には本家嵩山少林寺が少林拳とサッカーを組み合わせたサッカースクール開校を発表するなど、映画の影響は大きく広がっていくことになる。ちなみに日本では少し遅れて少林寺映画ブームが到着し、『踊る大捜査線』シリーズの本広克行+亀山千広が制作し、柴崎コウが出演した『少林少女』(08年)、バラエティでも一時人気者となったチャン・チュワン君が主演した『カンフーくん』(07年)、『ガキ使』の浅見千代子が主演する『少林老女』(08年)などが制作されている。 そんな少林寺ブームも一段落した2010年代、新たな少林寺映画のマスターピースが登場することになる。『新少林寺/SHAOLIN』(11年)である。 中華民国の初期は、軍閥同士が血で血を洗う抗争を繰り返す動乱の時代であった。そんな時代の少林寺は、戦乱で家や家族を失った者、傷つき病に倒れる者を救う救済所となっていた。1912年のある日、少林寺に負傷した登封城の将軍・霍龍(チェン・チーフイ)が逃げ込んでくるが、悪逆非道を尽くす軍閥の長である侯杰(アンディ・ラウ)と副官の曹蛮(ニコラス・ツェー)が霍龍を追って少林寺に侵入。霍龍を殺害し、少林寺を侮辱して去っていく。霍龍亡き後の登封城の扱いをめぐって侯杰は妻の顔夕(ファン・ビンビン)の実兄である宋虎将軍(シー・シャオホン)と対立し、その暗殺をもくろむ。しかし腹心の曹蛮の裏切りに会い、侯杰は命からがら脱出するが、愛娘の勝男(嶋田瑠那)が重傷を負ってしまう。切羽詰まった侯杰は少林寺に飛び込むが、少林僧たちの懸命の救護活動の甲斐なく勝男は死んでしまう。勝男を失った悲しみを抱えた侯杰は厨房係の悟道(ジャッキー・チェン)に預けられるが、自ら頭を丸めて出家することを決意する。方丈(ユエ・ハイ)によって入山を許可され、武道と医療の修行を開始して浄覚という法名を与えられた侯杰だったが、曹蛮の悪政で村人が虐殺されそうになることを救ったために少林寺で生き延びていることがバレてしまう。曹蛮は侯杰を殺すため、少林寺に軍隊を送り込むが……。 少林寺の受難時代は隋代末、中華民国初期、文化大革命の3つのポイントとされており、少林寺映画と言えば隋代末を描くものがもっともメジャー。近代以降はどうしても銃vs.拳法という勝ち目のない勝負となってしまうため、映画として描きづらくなってしまうからだ。しかし本作は中華民国初期、少林寺の伽藍の多くが消失した事件をベースにしたオリジナルストーリーとなっている。 配役としては、1982年版『少林寺』でタン師父を演じたユエ・ハイが少林寺の方丈役を演じ、少林僧のリーダーである浄能役には『戦狼 ウルフ・オブ・ウォー』(17年)で中国史上最高の興行収入を上げることになるウー・ジン、顔夕役には最近巨額脱税で話題となったファン・ビンビン、若き野心家・曹蛮役は『かちこみ! ドラゴン・タイガー・ゲート』(06年)のニコラス・ツェー、そしてカンフーが使えない悟道役には何とジャッキー・チェンが演じており、物語を盛り上げる。監督は香港警察映画の名手ベニー・チャン、武術指導はジェット・リーの盟友でジャッキー・チェンの兄弟子のユン・ケイが担当。本作は香港では2011年の旧正月映画として公開されて大ヒットを記録し、第33回香港電影金像奨では助演男優賞、動作設計(アクション指導)などにノミネートされるなど、興行面でも評価面でも大成功を収めた映画となった。 しかし何と言っても本作の白眉は、主演のアンディ・ラウの演技。物語は残虐な侯杰が裏切られて少林寺に向かうまで、侯杰が少林寺で修業して開眼するまで、最後の大戦争をいう3部に分かれており、各章立てがちょうど1/3ずつの時間を使って構成されているのだが、第1部では残虐な冷血漢、第2部では思い悩む苦悩者、第3部では悟りを開いた高僧という、全く異なるキャラクターを見事に演じ分けている。 本作はもちろん激しいアクションが見所の作品であり、美術設計として金像奨にノミネートされた美しい少林寺の風景とクライマックスで破壊(爆破シーンが半端なく凄い!)されて瓦礫の山となるギャップの凄さもあるが、前述のアンディ・ラウとニコラス・ツェーの名演によって何よりも少林寺映画としては稀有な“泣ける少林寺映画”である所がこれまでの少林寺映画とはまったく異なる点となっている。憎しみも悲しみも乗り越えた主要登場人物たちが、最後にたどり着く境地をその目で確かめてほしい。■ © 2011 Emperor Classic Films Company Limited All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2023.08.14
“戦争映画”の歴史を塗り替えた!巨匠イーストウッドの“日本映画”。『硫黄島からの手紙』
2000年代中盤、70代半ばとなったクリント・イーストウッドの監督としてのキャリアは、まさにピークを迎えていた。『ミスティック・リバー』(03)は、アカデミー賞6部門にノミネート。ショーン・ペンに主演男優賞、ティム・ロビンスに助演男優賞のオスカーをもたらした。翌年の『ミリオンダラー・ベイビー』(04)では、ヒラリー・スワンクに主演女優賞、モーガン・フリーマンに助演男優賞が渡っただけではなく、イーストウッド自身に、『許されざる者』(1992)以来となる、それぞれ2度目の作品賞と監督賞が贈呈された。 もはや彼を、「巨匠」と呼ぶのに、躊躇する者は居なかった。次は何を撮るのか?常に注目される存在となっていた。『ミリオンダラー・ベイビー』に続いて選んだ監督作品は、硫黄島を舞台にした"戦争映画”。小笠原諸島の一部であり、東京とサイパンのちょうど間に位置するこの島では、太平洋戦争末期に激しい戦闘が行われ、日米双方に多大な犠牲者が出ている。戦死者は両軍合わせて、2万7,000人近くに及ぶという。 ノンフィクション小説(邦訳「硫黄島の星条旗」)をベースにした、『父親たちの星条旗』(06)。この企画を彼に持ち掛けたのは、スティーブン・スピルバーグだった。 イーストウッドは、『ミリオンダラー・ベイビー』の脚本家ポール・ハギスに、再び仕事を依頼。ハギスはイーストウッドとミーティングを重ねて、脚本を完成させた。 この作品の主人公は、硫黄島の戦いに参加して英雄となりながらも、その後戦争について語らなかった元米兵。彼が死の床に就いた時、その息子は関係者に話を聞いて初めて、父親の秘めたる真実を知る…。 イーストウッドは若き日、ユニバーサル・スタジオで、オーディ・マーフィーと出会った。マーフィーは第2次大戦の英雄であり、終戦後にハリウッドでスターとなった男で、彼の自伝的映画である『地獄の戦線』(55)という大ヒット作もあった。 しかし彼は、戦争のことを語りたがらなかった。彼がPTSDに苦しんでいたことを、イーストウッドは後に知る。 戦争で死に直面するような経験をした者は、多くを語らない。遠方で差配しているような者に限って、見てきたような勇ましい戦話をするのである。 戦争に英雄などいない。正しい戦争などなく、無意味な「人殺し」しかない。これがイーストウッドの、“戦争観”である。 しかしそれと同時に、死んだ兵士には、敵味方を問わず最大限の敬意が払われるべきなのだ。イーストウッドは言う。「私が観て育ったほとんどの戦争映画では、どちらかが正義で、どちらかが悪だった。人生とはそんなものではないし、戦争もそんなものではない」 そんなイーストウッドだからこそ、米兵を主人公にした『父親たちの星条旗』の製作準備中に、ある疑問に行き当たる。米軍と戦った日本兵たちは、一体どんな状況だったのか? リサーチを続ける中で、イーストウッドの興味を強く惹く、日本の軍人が現れた。硫黄島の戦いで、常識にとらわれない傑出した作戦を打ち出した最高指揮官。その名は、栗林忠道。 1944年5月に硫黄島に着任した栗林中将は、長年の場当たり的な作戦を変更。米軍の攻撃に対抗するため、島中にトンネルを掘り、地下要塞を作り上げる。5,000もの洞穴、トーチカを蜂の巣のように張り巡らせ、日本兵がそこから、米兵を狙えるようにした。 また彼は、日本軍の悪弊である、部下に対する理不尽な体罰を戒め、玉砕を許さなかった。最後の最後まで生き抜いて、1日でも長くこの島を守り抜こうとした。 米軍が欲したのは、この島の飛行場。ここが敵の手に落ちたら、B29の中継基地となって、日本本土への大規模な爆撃が可能となってしまう。栗林は、一般市民が大量に犠牲になるのを、避けるか遅らせるかしたかったと言われる。 アメリカ軍は1945年2月16日に、硫黄島への攻撃を開始。19日から上陸。23日までには、島全体を制圧できると考えていた。しかし実際は栗林の智略の前に、その後も約1ヶ月間、合わせて36日間も戦闘が続いた。 調べれば調べるほど、イーストウッドは栗林への関心が高まっていった。戦前には、アメリカに留学。ハーバード大で英語を学び、その後カナダにも、駐在武官として滞在している。その時代にできた友人も多く、アメリカとの戦争にも反対していた。これが軍の一部から、アメリカ贔屓と見られ、疎まれる結果になったとも言われる。 イーストウッドは、彼が戦地から妻と息子、娘に宛てた手紙にも心を打たれた。住まいの台所のすきま風を心配したり、硫黄島で育てているひよこの成長を、幼い娘に書き送ったり…。 また栗林が率いた若い兵士たちが、「アメリカ兵と実によく似ていた」ことにも、胸を掴まれた。「あれから何十年も経った今、どちらが勝ったとか負けたとかいうことに関係なく、わたしは日本の人々に彼らの生き様を認めてもらうことが必要だと考えた。正しいかどうかは別として、祖国のために彼らが払った犠牲に目を向けてもらいたかったー実際、彼らは犠牲者だったのだから」 そしてイーストウッドは、前代未聞のプロジェクトに挑む決断をする。硫黄島の戦闘をアメリカ側の視点から描く『父親たちの星条旗』だけでなく、日本側の視点から描いた作品も、同時に製作する。 この戦争映画の歴史に残る、画期的なチャレンジ。当初は日本人監督の起用も考えたというが、イーストウッドは『父親たちの星条旗』に続けて、自らメガフォンを取ることを決めた。 脚本はポール・ハギスの推薦で、日系アメリカ人二世の、アイリス・ヤマシタの起用となった。 戦場に於いて米兵だったら、生きて帰れる可能性に賭ける。一方日本兵は、死を覚悟して戦う。アメリカ人のイーストウッドにとっては凡そ理解し難い、この日本兵のメンタリティーに迫るため、彼は様々な勉強を重ねたという。 本作『硫黄島からの手紙』(06)は、『父親たちの星条旗』の撮影終了後、すぐにクランクイン。内容的には、栗林をはじめ主要な登場人物の過去の回想シーンなど織り交ぜながらも、硫黄島での日本軍の戦闘準備から、米軍上陸、激戦、終結までを描く。 主役の栗林を演じたのは、渡辺謙。ハリウッドデビュー作の『ラスト サムライ』(03)でアカデミー賞助演男優賞にノミネートされ、『バットマン ビギンズ』(05)『SAYURI』(05)と、大作への出演が続いていた。憧れの人イーストウッドの『父親たちの星条旗』製作の報を耳にして、1シーンでもいいから出たいと、願ったという。 それと対になる本作の栗林役に決まると、関係資料を読んだり、栗林の孫や甥に会って、彼の遺した書など見せてもらったりなどのリサーチを行った。 栗林が生まれ育った長野県の生家には、取り壊される前日に訪問。その際に墓参りをすると、雪がちらついてきて、渡辺は思った。こんな寒い場所で育った人が、南方の暑い島で死を賭して戦うとは、さぞ辛かったであろうと。 本作で渡辺は、“主役”である以上の働きを見せた。英語で書かれた脚本を、日本語の表現に換えていく作業を手伝ったのをはじめ、日本側で発見した栗林のエピソードや記録も付け加えてもらった。また若き日本兵を演じた、加瀬亮と二宮和也の役が、当初書かれていた年齢から逆転していたので、2人の関係や生まれた土地のことなども考慮して、微妙なニュアンスのリライトを行った。 危惧されたのは、全編日本語での撮影であること。しかしイーストウッドは、意に介さなかった。 彼の俳優としての出世作である、セルジオ・レオーネ監督のマカロニ・ウエスタンでの経験が、大きかった。主にスペインでの撮影で、キャストやスタッフが全く異なる言語を話す状況の中、イタリア人のレオーネは当時、英語などろくに話せない状態だった。それにも拘わらず、主演のイーストウッドと二人三脚で、『荒野の用心棒』をはじめとした傑作群をものしているのだ。「いい演技というものは、言葉に関係なくいい演技として伝わるもの…」。セリフの間違いなどテクニカルなことは、通訳を通じて修正すれば良い。その上で、日本人俳優の目や顔など感情表現の小さな違いが、イーストウッドにとっては、「新鮮な発見」だったという。 二宮和也は、台本に書いてないことを急にやりたくなった時に、「そういうことをやっていいの?」と、イーストウッドに尋ねた。それに対する彼の答は、「いいんだよ」。イーストウッド本人が、俳優として「台本に書いてないこと、自分のアイデアを提案することが好き」だったためだ。役作りに関しては、自由に膨らませていいと、出演者たちに伝えた。 栗林と同じく、実在の人物だったバロン西を演じたのは、伊原剛志。西は、1932年のロサンゼルス五輪馬術競技の金メダリストで、ロスの名誉市民章も貰っている国際人だった。撮影前に西の息子に会って話を聞くなどした伊原は、俳優の自主性を重んじるイーストウッドの演出について、「彼の中の大きな枠、方向性があって、そこを間違うと修正されるというような感じ…」と、語っている。 伊原は、軍隊についての資料やビデオ、例えば敬礼の仕方などを収録したDVDなどを集めて、撮影地へと持ち込んだ。これが多くの“日本兵”たちの役に立った。 憲兵失格で戦地に送られた兵士を演じた加瀬亮は、オーディションに受かってから撮影までの時間がなかった。そのため、軍事訓練どころか、敬礼の仕方もわからないままの現地入りだった。伊原のDVDの存在を知った彼は、二宮らと伊原の部屋へと押しかけて、即席で勉強したという。 渡辺は文献や映像から、栗林を実践的な人と判断。硫黄島も自分の足で調査したのだろうと考えて、当初はブーツしか用意されていなかったのを、衣裳として地下足袋やゲートルを提案。日本から取り寄せてもらった。 イーストウッドに対して、“父親”を感じたという渡辺は、ある時にはっと閃いた。「(自分の)この役は、クリント自身なんだな」。それからは、イーストウッドとスタッフとのやり取りなどを、つぶさに観察。語り方や目線、立ち居振る舞いを参考にして、栗林を演じたという。 演出は本能的に行うという、イーストウッド。俳優たちが己の役を、過剰に考えたり分析しすぎたりして、あまりにも細かい要素を入れようとすると、本質を見失ってしまうと、考えている。そのために撮影も、最初のテイクこそ最良のものが出るという思想で、テストもほとんどしない。その結果として、「早撮り」になる。 下士官の1人を演じた中村獅童曰く、「「リハーサルだろうな」と思っていたら、「OK」と突然言われて、撮っていたことに気付くこともあった」 戦闘シーンなど本作の撮影の大部分は、経費や安全面から、アイスランドの火山島でロケーション。日本政府などの許可を得て行われた硫黄島ロケは、メインキャストでは1人だけ、渡辺謙が参加した。 栗林が海岸を調査するシーンや、山に登って、島全体を見渡すシーンなどが撮影されたが、この地で見聞したものは、渡辺の想像を超えていたという。 地下壕や司令部が在った場所で、その狭さや息苦しさ、暑さを実感し、僅かな食糧や水で何日も過ごすことなど、考えるだけで体が震えてきた。先にこの体験をしていたら、「…怖ろしさで演じられなかったかも…」と、渡辺は語っている。 単に日程的な問題だったのかも、知れない。しかし「役を作り込ませ過ぎない」イーストウッドの演出法から考えて、ひょっとすると硫黄島での撮影が後回しだったのも、その辺りの配慮があったのかもなどと、想像が働く。『硫黄島からの手紙』は、2006年12月に日米で公開。日本では興収50億円を超える大ヒットとなった。アメリカでは、興行的には成功したと言い難い結果となったが、評価は高く、アカデミー賞では作品賞を含む4部門にノミネート。その内、音響編集賞を受賞した。 巨匠クリント・イーストウッドによる、“日本映画”とも言える本作。製作から17年経った今日でも、“戦争映画”の歴史に於いて、エポックメーキングとして語り継がれる。■