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PROGRAM/放送作品
ヴァンパイア/最期の聖戦
[PG-12]ヴァンパイア映画と西部劇が融合!鬼才ジョン・カーペンターの腕が冴えるホラーアクション
ホラー&アクションの鬼才ジョン・カーペンター監督が、西部劇の世界観にヴァンパイアものの要素を融合。名優ジェームズ・ウッズがヴァンパイア・ハンターに扮し、壮絶なバイオレンスを迫真のタッチで魅せる。
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COLUMN/コラム2018.05.14
ギャング映画というフォーマットを用いて巨匠セルジオ・レオーネが描いた素顔のアメリカ『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』
制作実現までの長き道のり 言わずと知れた、マカロニ西部劇の巨匠セルジオ・レオーネによるギャング映画の金字塔である。メキシコ革命を背景にした西部劇アクション『夕陽のギャングたち』(’71)以来、およそ13年ぶりの新作として’84年にカンヌ国際映画祭でお披露目された本作。しかし、実は『ウエスタン』(’68)の撮影に入る前の時点から構想は練られており、脚本の執筆だけで12年の歳月をかけたと言われている。ちなみに、原作は自称元ギャングの作家ハリー・グレイが’52年に発表した処女作『The Hood』だ。 ただ、恐らくレオーネ自身は完成までにこれだけ時間がかかるとは考えていなかったに違いない。彼はかなり早い段階からハリウッドのスタジオと交渉するためにイタリアから渡米していたが、なかなか実を結ぶことがなかった。なぜなら、映画会社が巨匠セルジオ・レオーネに期待するのは、ギャング映画ではなく西部劇だったからだ。実際、あともう一本西部劇を撮ったら協力を考えてもいい、と言われたこともあったという。 それでもなお、粘り強くチャンスを待ち続けたレオーネ。いつの間にか10年以上が過ぎてしまったが、ある時カンヌで当時まだ新進気鋭の若手プロデューサーだったアーノン・ミルチャンと出会ったことから、ようやく本作の企画が本格的に動き始める。挨拶のため訪れたミルチャンを目の前に座らせたレオーネは、なんと4時間近くに渡って映画の内容を語り続けたという。ストーリーの流れからセットの配置と距離感、役者の動きやセリフのスピードまで、全て予め計算した上で撮影に臨んでいたと言われるレオーネだが、既にこの時点で彼の頭の中では作品が完成していたのだ。 時の移り変わりに翻弄される友情という名のプラトニック・ラブ 物語の主軸は、ニューヨークの貧民街ロウアー・イーストサイドを舞台にした、ヌードルス(ロバート・デ・ニーロ)とマックス(ジェームズ・ウッズ)を中心とするユダヤ系ギャングたちの友情ドラマである。ただし、その実態はヌードルスとマックスによる愛と憎しみの軌跡だとも言えよう。男女の恋愛以上に、激しくて深くて濃密な男同士の友情。そこに女の入り込む余地はない。実際、恋愛に不器用なヌードルスは結果的に愛する女性よりも仲間を選ぶし、野心家のマックスはそもそも女性を性欲のはけ口程度にしか見ていない。だいたい、この映画で描かれる男女の関係はレイプか淫行のみ。そこには肉欲こそあれどもロマンスはない。幼馴染デボラ(エリザベス・マクガバン)に対するヌードルスの愛情と憧憬も、結局は女性の愛し方を知らない彼のレイプという行為で破綻してしまう。マックスと愛人キャロル(チューズデイ・ウェルド)の場合は、幸か不幸か彼女が根っからの色情狂マゾだったので成立できたが。いずれにせよ、本作における真の意味でのロマンスは、一心同体の固い絆で結ばれた親友同士のプラトニック・ラブなのだ。 そんな男たちによる栄光と破滅の物語を、貧しい少年時代の1920年代初頭、ギャングとしてのし上がった青年時代の1930年代初頭、そしてたった一人生き残った晩年のヌードルスがニューヨークへ戻ってくる1968年(この部分は原作にはない映画版のオリジナル)と、3つの時間軸を互いに行き来しながら描いていく。 ロウアー・イーストサイドのユダヤ人街で、ギャングの使い走りをしている不良少年たち。そのリーダーであるヌードルスが、ブルックリンから引っ越してきたマックスと意気投合し、彼を仲間に加えたことから徐々に犯罪集団として頭角を現していく。だが、街を牛耳るギャングのバグジー(ジェームズ・ルッソ)に睨まれたことから、ヌードルスが相手を刺殺して刑務所へ入ることに。それから約9年後、出所したヌードルスを迎えた仲間たちは、禁酒法に乗じた密造酒ビジネスや強盗などの犯罪行為で裏社会をのし上がっていくが、やがて狂犬のように乱暴で向こう見ずなマックスにヌードルスはついていけなくなる。ほどなくして禁酒法は撤廃。一攫千金を狙ったマックスは、連邦準備銀行の襲撃という危険な博打に出ようとする。だが、それはほぼ自殺行為に等しい。親友の行く末を案じたヌードルスは、犯行計画を未然に防ぐため警察に密告するものの、その結果、マックスを含む仲間全員が殺されてしまう。裏切りがバレてマフィア組織から命を狙われ、ニューヨークを脱出して身を隠すヌードルス。それから35年後、不可解な手紙を受け取った彼は、その送り主を突き止めるため、再び故郷へ舞い戻ることになる。 こうやって出来事を時系列順に並べてみると、それこそ’30年代にジェームズ・キャグニーやエドワード・G・ロビンソンが主演した伝統的なハリウッド産ギャング映画の延長線上にあるような作品だが、しかし時間軸を自在に交錯させることで長い時の流れが全面的に強調され、壮大なロマンとノスタルジーの芳醇な香りが加味され、ある種のファンタジックな神話性すら宿される。時として分かりづらい、回りくどいと評される本作のストーリー構成だが、しかしこれを抜きにして本作は成立しえなかったとも言えよう。のぞき窓やランプなど、共通するオブジェクトを媒介して時間を移動させるレオーネの演出も、シンプルだからこそかえって効果的だ。 また、本作では往年のハリウッド産ギャング映画にオマージュを捧げつつ、そこでは決して描かれることのなかった裏社会の残酷で醜い現実を赤裸々に暴いていく。確かにヌードルスとマックスの友情は一見すると美しく、時として英雄的ですらあるが、しかし同時に破滅的で破壊的で無秩序で歪んでいる。彼らがまき散らすのは暴力と混沌。挙句の果てに、ヌードルスはマックスとの固い絆の無様な成れの果てを突き付けられる。理想と現実の間に横たわる苦々しいまでの矛盾。そもそも本作の登場人物たちは、彼らを含めて誰もが善と悪の大きな矛盾を抱えている。それは彼らを取り巻く社会も同様だ。 ギャングたちの歩みに映し出されるアメリカの裏現代史、そして微笑みの謎 およそ45年に渡るギャングたちの歩みを描いた本作だが、それはそのまま、組織犯罪が政治やビジネスや社会の隅々にまで侵食していった、20世紀アメリカの裏現代史そのものでもある。ヌードルスたちはジミー(トリート・ウィリアムス)率いる運輸業者組合の用心棒として暗躍するが、実際’30年代に産声を上げたアメリカの労働組合運動は、資本家の勢力に対抗するための必要悪として反社会勢力の力を借りた。アメリカ労組運動の父シドニー・ヒルマンとユダヤ系ギャングの関係、ジミー・ホッファとイタリア系マフィアの関係などが有名だ。そうした裏の協力関係を入り口に、政界や財界の中枢に影響力を持つようになった組織も少なくない。そこには、アメリカン・ドリームなるものの矛盾、アメリカという国家の矛盾が浮かび上がる。 アメリカ文化をこよなく愛したレオーネ監督。ジョン・フォード映画に多大な影響を受けながらも、一連のマカロニ西部劇では従来のハリウッド西部劇が目を背けてきた醜い暴力と抑圧の歴史を直視したように、ここでもギャングというアメリカの現代的な英雄神話を通して、アメリカ現代史の後ろめたい裏側に容赦なく斬り込んでいる。恐らくレオーネは、そのような清濁併せ呑んだアメリカの泥臭い素顔を愛していたのかもしれない。そういう意味で、これはイタリア人セルジオ・レオーネによる、アメリカへの大いなる愛情を込めたラブレターでもあるのだ。 かくして、およそ10時間にも及ぶフィルム素材を、当初は6時間に編集したというレオーネ。前編と後編に分けて上映するつもりだったらしいが、さすがにそれは無茶だと説得されて短くするものの、それでもなお4時間近い長尺に仕上がった。一つ一つのシーンが執拗なまでに長く、全体的にセリフよりも沈黙が多い。言葉による説明は極力省かれ、登場人物の表情や行動、場を包む空気などによって心理や状況が伝えられる。確かに暴力描写や性描写は過激であるものの、いずれも瞬発的で簡潔だ。非常に余白の多い映画だが、その余白こそが豊かな情感を生み、名もなきギャングたちの物語を壮大な叙事詩へと昇華させる。失われた過去の時代を細部まで丁寧に再現したセットも素晴らしいし、エンニオ・モリコーネによる切なくも哀しい音楽スコアがまた、見る者の感情を嫌がおうにも掻き立てる。実に贅沢な映画だと言えよう。 なお、様々な解釈のあるラストのヌードルスの笑顔について。これは正直言って、筆者にもよく分からない。ただ、本編冒頭でアヘンを吸って横たわったヌードルスの姿、それ以降の物語を全て彼が恍惚の中で見た予知夢のようなものと仮定する(それだと別の意味での矛盾や無理が多々発生するのだが)と、貧しくも幸せだった少年時代、マックスとの友情の始まりに想いを馳せた彼の無邪気な微笑みのようにも思える。 通好みの豪華な脇役キャストにはイタリアン・ホラーでお馴染みの女優も 最後に脇役キャストについての注目ポイントを。まず、オープニングでヌードルスを追うマフィアの一味が幻灯を上映しているチャイニーズ劇場に踏み込み、観客席で愛撫し合っている男女に拳銃を突き付けるのだが、このカップルの女性を演じているのがオルガ・カルラトス。そう、ルチオ・フルチのゾンビ映画『サンゲリア』(’80)で眼球を串刺しにされ、『マーダー・ロック』(’84)で謎の殺人鬼に命を狙われるヒロインを演じた女優さんだ。また、ヌードルスの愛人となるイヴ役のダーラン・フリューゲルは、『宇宙の七人』(’80)や『L.A.大捜査線/狼たちの街』(’85)などで当時活躍していた元トップモデル。フェイ・ダナウェイ主演の『アイズ』(’78)でもモデル役で出演していた。ご覧の通りの大変な美人だったが、後に若年性認知症を患って若くして亡くなってしまった。 そして、忘れてはならない少女時代のデボラを演じるジェニファー・コネリー。その神がかり的な美しさときたら!これぞまさしく天使ですな。いったいぜんたい、どうしたら成長するとエリザベス・マクガバンになるのか。解せないファンも多かろう。いや、決してエリザベス・マクガバンが悪いわけじゃない。ただ、ジェニファーがあまりにも美しすぎるのだ。その後、彼女はレオーネの推薦でダリオ・アルジェントの『フェノミナ』(’85)に主演し、スターへの階段を上っていくことになる。 そのほか、ヌードルスを追うマフィア一味の一人にマカロニ西部劇の悪役俳優マリオ・ブレーガ、汚職パワハラ警察署長に当時まだ無名のダニー・アイエロ、イタリア系マフィアのドンにジョー・ペシ、その兄貴分にバート・ヤングなどなど、実に興味深い顔ぶれ。というか激渋(笑)。なお、ヌードルスたちの幼馴染ファット・モー役のラリー・ラップという俳優も、かなりいい味を出して印象的なのだが、その素性はよく分かっていない。imdbでフィルモグラフィーを調べたところ、本作を含めて僅か5本しか出演作がないのだが、引っかかったのはそのいずれもがジョー・ペシとの共演であること。彼の親戚なのか友人なのか、いずれにせよ何かしらの関係者だったのかもしれない。■ © 1984 Warner Bros. Entertainment Inc. All rights reserved. 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存 保存保存
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PROGRAM/放送作品
(吹)ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ 【日曜洋画劇場版】
胸に迫るドラマ、名優たちの演技、モリコーネの音楽。すべてが調和し完成した、映画史に残る傑作
ある元ギャングの現在と過去とが複雑に交錯する物語を、セルジオ・レオーネが見る者の胸に迫る圧倒的なドラマとして多層的に描き上げた名作。20代〜60代の主人公を巧みに演じ分けたデ・ニーロの名演も圧巻。
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COLUMN/コラム2016.03.03
ソフィア・コッポラ、彼女の瞳にうつるもの〜『ヴァージン・スーサイズ』、『ロスト・イン・トランスレーション』、『マリー・アントワネット』、『SOMEWHERE』、『ブリングリング』
パーソナルな魅力が溢れ出した知的で美しい容姿。決して派手ではないけれどシンプル&エレガンスな、1点1点上質なアイテムをさらりと着こなすファッションセンス。 さらにはアートや音楽の洗練された感性さえを持ち合わせ、世界を代表する映画監督フランシス・フォード・コッポラを父に持つという恵まれた家柄で育った。女の人生を生きる上で、欲しいものをすべて手に入れた女性である。 映画監督としてだけでなく、新進気鋭のカメラマンとしての実績や、ファッションデザイナーとして「ミルクフェド」を設立し、最近ではその活動は映画の域を越え、ハイブランドのCM監督もこなす。 クリスチャンディオールのキャンペーンではナタリー・ポートマンを起用した「MissDior」のCM(2013年)を手がけ、オシャレ女子から圧倒的な支持をうける「Marc Jacobs」の人気フレグランス「デイジー」シリーズなどのCMも監督し、まるで映画の1シーンのようなショートトリップに世の女性達をいざなってくれたのも記憶に新しい。 更に、今年2016年には「椿姫」の後援者でイタリアのデザイナーのヴァレンティノ・ガラヴァーニがソフィアの『マリー・アントワネット』に感激したことから、イタリアのローマ歌劇場でのオペラ「椿姫」の舞台監督に抜擢された。ソフィアは、今まさに、初の「オペラ監督」としての挑戦に奮闘中なのである(公園期間は5月24日〜6月30日)。 自分の可能性を花開かせ続けるその姿から勇気をもらうと同時に、1度は彼女のような人生歩んでみたいとソフィアに強い憧れを抱く女性は少なくないはずだ。 生まれもって宝くじを引き当てたかのような特権を持つ存在でありながらも、決して家柄におごることなく自分を貫き、夢を叶える。 20世紀の「与えてもらう」ような受け身のお姫様ではなく、自分の夢を自分でつかみ取る彼女こそ21世紀の女性の憧れの的なのである。 そんな彼女が「映画」という手段を選び、発信しようとしているメッセージとは何なのであろうか。作品に共通して描かれているものがあるとすれば、それは、誰しもの心にひっそりと潜むガラス細工のような「孤独」ではないだろうか。 ソフィアと言えば、作品に合わせた色彩を効果的に使った美しい色味で描かれる世界観も特徴の1つであるが、彼女は誰よりも知っていたのではなかろうか。孤独は、色のないからっぽの感情ではなく、カラフルな世界に身を置いたときによりいっそう滲み出るものだということを。 たくさんの色や光に囲まれた瞬間にこそ、自分のむなしさや寂しさがよりいっそう際立つことを。 だからいつだって彼女の作品は美しいのかもしれない。 ソフィアが描いてきたいくつかの孤独の表現について追ってみようと思う。 彼女の長編映画デビュー作でありながらも、彼女の作品の世界観を確立させたミシガン州に住む美しい5人姉妹の自殺を描いた『ヴァージン・スーサイズ(1999)』では、一緒に過ごしていても心は離れている姉妹達の孤独感。家族という間柄であっても、満たせない見えない人と人との間の距離感を垣間みた。 次にアカデミー脚本賞を受賞した『ロスト・イン・トランスレーション(2003)』では、言葉の通じない海外に行った時に味わう異邦人としての哀愁や異文化の中での孤独の感情に寄り添った。監督自身の東京での経験を下敷きにして、海外版でも日本語の字幕は一切つけず、観る者に孤独を疑似体験させた。 世界中で注目されてきたフランス王妃を描いた『マリー・アントワネット(2006)』では、下着すら自分でつけることを許されない生活の中で、仮面を付けるかのように洋服を何着も何着も着替えることで、不安、不満をモノで満たしていく孤独な女心をこれ以上ないほど愛らしい世界観の中、表現した。 続いて、父と娘のつかの間の休暇を描いた『SOMEWHERE(2010)』では 、ハリウッドスターを主人公とし、端から見たら人気者で多くの人に囲まれるうらやましがられる生活をしていても、充実感とは裏腹に空虚な気持ちを拭えない中年男性の孤独を映し出した。 また最新作『ブリングリング(2013)』では、全米を震撼させた実際の高校生窃盗団の事件を描き、犯罪が露見する可能性がゼロではないにも関わらず、誰かに認めてもらいたいという想いも消しきれないSNSの普及した現代社会に起こりうる、承認欲求という新しいタイプの孤独を描いた。 ちなみに、彼女がはじめて監督・脚本を務めたモノクロの16mmフィルムで撮影した14分の『Lick the Star(1998年)』もスクールカースト(階級社会)の中で生まれる思春期の「孤立感」がコンセプトだ。「ヴァージン・スーサイズ」を彷彿とさせる独特の芝生の使われ方など随所に彼女の才能を感じることが出来る作品で、白黒なものの登場人物達は活き活きと描かれている。字幕付きのものが日本では観られないのが残念だが、ネットに何件かアップされている動画を映画ができる友人と観るのがおすすめだ。 彼女のこれまでの作品の中で、私は特に「リック・ザ・スター」「ヴァージン・スーサイズ」「ブリングリング」といった10代の思春期の頃に抱える抑え切れない程の強いエネルギーや、集団心理を描いた作品に興味を持っている。 特に「ヴァージン・スーサイズ」には、女性が避けることができない人生の悲哀もひっそりと閉じ込められているように感じる。 女は他人から比較されずに生きていくことができないし、同時に自分も人と比較することをやめられない生き物である。 「私は私」と思うタイプの人でさえ、年を重ねれば若い頃の自分と「あの子も昔はかわいかった」なんて比較されていく。 一生続く、毒をもった甘い戦いが女の世界には存在しているのだ。 自分の部屋がまるで世界の中心のように思うことさえある思春期。1つの空間に閉じ込められた1歳ずつしか年齢の違わない姉妹達、そこにはまるで満開のバラが咲き乱れたような、異常なエネルギーが漂っていたのではなかろうか。 男性からすると一種の連帯感かもしれないが、まるで1つの花のように見えた彼女達は、それぞれ別の花びらの集合体だったのではないか。 だからこそ一致団結していたように見えた姉妹達も最期の瞬間は、バラバラの場所、それぞれの方法で死を選んだのかもしれない。 同時に、彼女達は、自分たちが1番美しい瞬間を永遠に閉じ込めようとしたのではないだろうか。「死」という選択肢を使って。彼女達にとって「死」とは、美しいままでいるための1つの手段だったようにも思えて仕方がないのである。 また、場所も時代もおかれている状況も違うけれど「ブリングリング」にも思春期の抑えられない強いエネルギーが描かれていると同時に、「自分は自分」でいることの難しさを伝えている。 10代の頃からSNSの普及によって、幸せの基準がわからなくなってしまったブリングリングのメンバー達は、罪の意識を抱くよりも、Facebookに窃盗したセレブの持ち物をアップし続け、周囲に注目される存在であることを望んだ。 被害者の1人でありながらも自宅を撮影場所として提供したパリス・ヒルトンが被害状況を語った際、「普通の泥棒はお金や宝石を盗むけど、彼らはお金ではなく、雑誌に出ているものを欲した」と語った。 そこに理屈は存在していない。「承認されたい」という欲望を抑えることができなくなった若者達の感情は、こんがらがってしまった電線のようだ。 他人の生活が必要以上に見えるようになってしまった現代を生きる上で、人に流されず自分らしくいることが難しくなっていることについて、小さな警鐘を鳴らしたのではないか。 それにしてもなぜ、彼女は性別年代問わず、人の感情を繊細にすくいとることができるのであろうか? 世界的な巨匠を父に持ち、1歳で乳児役として「ゴッドファーザー」に出演し、小さい頃から大人の目にさらされてきたソフィア。 人の顔色に敏感にならざるを得なかったであろうし、時に誰よりも比較されてきたのは、他でもなく、彼女自身だったからのかもしれない。 余談になるが、コッポラ一族の勢いはとどまることを知らない。 2013年、フランシス・フォード・コッポラの孫ジア・コッポラは、「パロアルト・ストーリー」で映画監督デビューを果たす。原作はハリウッドの若き開拓者的存在であるジェームズ・フランコが書いた短編小説。ジェームズ・フランコ自ら、ジアに監督を依頼し、ジュリア・ロバーツの姪であるエマ・ロバーツやヴァル・キルマーの息子のジャック・キルマーが起用され、青春の不安定さから来る思春期の若者達の繊細な気持ちを描いた。 インテリアやレースのカーテンといった小物等からもソフィアの感性を受け継いだことが肌で感じられる作品である。 甘くけだるく、耳に残る音楽は「ヴァージン・スーサイズ」の音楽でもおなじみのソフィアの従兄弟であり、フランシス・フォード・コッポラを叔父に持つシュワルツマンが担当。改めて、溢れんばかりの才能に恵まれた一族である。 「アメリカン・グラフィティ」「ラスト・ショー」「ヴァージン・スーサイズ」のようなタイプの10代の繊細な感情の機微を描いた青春映画を欲している人は、こちらの作品も観ても良いかもしれない。■ ©1999 by Paramount Classics, a division of Paramount Pictures, All Rights Reserved
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PROGRAM/放送作品
ヴァージン・スーサイズ
少女たちの危うく繊細な世界を美しく描いた、ガーリー映画作家ソフィア・コッポラの監督デビュー作!
『ロスト・イン・トランスレーション』のソフィア・コッポラ監督が、美人姉妹が自殺に到る顛末を描く。「少女の目には世界はこう映るのか?」と思わせる繊細な映像など、監督の才気があふれるガーリー映画の傑作。
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COLUMN/コラム2016.02.29
個人的に熱烈推薦!編成部スタッフ1人1本レコメンド 【2016年3月】
28歳にして監督デビューを果たしたソフィア・コッポラの衝撃のデビュー作!父上はもちろんご存じのフランシス・フォード・コッポラ。本作でも製作に関わってます。主人公の姉妹5人が全員美人という奇跡から始まりますが、特に自由奔放な四女ラックス役のキルステン・ダンストは、17歳で色っぽすぎるだろ!と叫びたくなります。のちに彼女は、ソフィアの監督3作目『マリー・アントワネット(2006)』で主演を務め、ガーリーでキュートなマリー・アントワネットを好演!(もちろんこちらもザ・シネマで3月に放送します!)。 物語ですが、5人姉妹が全員自殺を図るというショッキングな事実から始まります。姉妹たちの繊細で瑞々しい世界をソフィアの独特のタッチで描き、自由への憧れ、異性への意識…大人になりきれない10代の揺れ動く心を美しく映し出していきます。これを見れば、みなさんもきっと青春時代のあの純粋な気持ちを思い出せるはず! ザ・シネマでは、ザ・シネマ10周年にちなんだ特集企画として、ソフィア・コッポラを大特集!【ソフィア・コッポラ全部やります!】と題して、デビュー作から最新作まで全5作品を放送! ©1999 by Paramount Classics, a division of Paramount Pictures, All Rights Reserved
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PROGRAM/放送作品
ジョンQ-最後の決断-
重病の息子を救うため父親が病院を占拠する!デンゼル・ワシントンの熱演に胸を打たれる犯罪ドラマ
自らの娘も心臓病を患ったニック・カサヴェテス監督が、アメリカの医療制度の実態をリアルに反映。息子の命を守りたい一心で犯罪に手を染める父親の思いが、デンゼル・ワシントンの迫真の演技で共感と感動を誘う。
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COLUMN/コラム2016.02.15
男たちのシネマ愛④愛すべき、キラキラ★ソフィアたん(2)
なかざわ:では、そろそろ作品の方に話題を移しましょうか。 飯森:まずは「ヴァージン・スーサイズ」【注22】と「ブリングリング」【注23】をセットにしてお話したいと思います。 なかざわ:なるほど。どちらの作品も、ある特定の時期の少女たちに顕著な感受性というものを、ソフィア・コッポラならではの視点から描いているように思えますよね。 飯森:確か彼女って、一時期タランティーノ【注24】と付き合っていたことありましたよね?あれ彼女の方がファンだったんじゃないですか?まぁタラの方にもコッポラ一族とコネクションが欲しかったというのもあったのかもしれませんが。というのも、今回改めて「ヴァージン・スーサイズ」を見て、タランティーノの影響がかなりあるなって気がしたんですよ。 なかざわ:とおっしゃいますと? 飯森:ソフィアたんというと音楽のセンスが良くて、過去のポップミュージックから「よくぞこれを選びました!」という絶妙な楽曲を引っ張り出してくる。それが、その後も彼女の顕著なスタイルであり続けるわけですが、「ヴァージン・スーサイズ」にはタランティーノに共通するような音楽使いの良い意味での“雑さ”がある気がするんですよ。例えば、カットが変わると同時に引用した音楽もぶつ切りに終わらせちゃうとか。「この雑な感じ、70’sっぽくてダサかっこいいっしょ?」というのが’90年代のタランティーノの大発明だったじゃないですか。あの頃は’70年代がリバイバルで流行ってましたから。音楽だけでなく洋服のセンス、車のセンス、テロップや編集の過剰なケレン味なども含め、クール70’sの匂いが妙にタラ臭いんですよ。あれの女子版。まあ時代設定が’70年代の映画だからそうしてるってこともあるのでしょうが。 なかざわ:王道的な名曲とマニアックな楽曲を無造作に混ぜ込むあたりもタランティーノ的かもしれませんね。彼女って、幼少期に当たる’70年代の楽曲は結構王道寄りだけど、思春期に差しかかった’80年代以降の楽曲になると途端にエッジが効いていたりする。そんな選曲の傾向を見ていると、’90年代の申し子だなという印象を受けます。 飯森:それ!僕がタラっぽいと言っているのは、まさにその点なんです。非常に’90年代っぽい。タランティーノのフォロワーというか、ポスト・タランティーノというか。ただ、だから悪いと言っているわけじゃないですよ、「ヴァージン・スーサイズ」は事実上の長編デビュー作ですから、誰かの影響があるのは当然のことだと思います。と言っても、僕の気のせいかもしれませんけどね。 なかざわ:でも間違ってはいないように思いますよ。 飯森:で、この作品。冒頭でナレーションが入って、いきなり映画のオチを明かしちゃうんです。リズボン家の5人姉妹が自殺したと。なぜ彼女たちは自殺してしまったのか…ということを、近所に住んでいた、もしくは学校で同じクラスだった男子たちが、大人になった25年後に回想するというお話なんです。でも、結局その理由は最後まではっきりとは分からない。特に、一番下の妹がリストカットをし、一度は助かったのに結局投身自殺してしまう動機は一番不可解です。 映画開始直後、理由を描く暇もなく早速自殺しようとする。後からも答えは一切描かれない。でも、答えはその娘自身が最初の未遂の時に医師に向かってハッキリと明言してるんですけどね。 で、上のお姉ちゃんたち4人が遺されるわけですが、彼女らも特段に号泣したり精神的に荒れたりなどすることもなく、淡々と日常へ戻ってしまうのも、映画的には控え目すぎる気がするし、およそドラマチックじゃない。男の子たちに誘われて夜遊びなどもするけど、それも大して悪さをするわけじゃない。で、お母さんから厳しく叱られる。でも「厳しく」と言っても常識の範囲内ですよ?どの家でもあれぐらいは怒られる。「キャリー」【注25】の狂った母親みたいではないから、そこにも映画的な大げささは盛っていない。なのに、どうやらそれを苦にして自殺しちゃったみたいなんですよ。4人の姉妹全員が同じ屋根の下で同時に。これは何なのか?と。 なかざわ:唐突で意味が分からないですよね。死ぬほどのことなのか?と。 飯森:でもね、我々は今は分からなくなっちゃったかもしれない。なぜならオジサンになったから。最初に自殺未遂をしでかした妹が冒頭で医者にハッキリ明言してるんですよ、「10代の女の子じゃなければ死のうとした理由は分からない。先生には絶対分からない。オジサンだから」って。これは原作小説にはないから、脚本も書いてるソフィアたんが加えたと思われるセリフなんですが、答えは映画開始直後に出てたんです。「理由は10代にしか分からない」がこの物語にソフィアたんが出した結論なんですよ。 お姉ちゃん達の場合は、夜遊びの罰として外出禁止にされたから、って理由っぽいものが一応あるにはある。でもだからって「死んでやる!」という、その二つの釣り合わなさということは、我々はオジサンだから分かる。そんな損な話はないと。でも、それが分からなかった時期ってあるんじゃないですか?っていうことを描いた映画だと思うんですよ。 もう一方の「ブリングリング」ですが、こちらはある男の子がロサンゼルスに引っ越してきて、一人の中国系の女子と意気投合をする。お互いにお洒落とかファッションが好きなんですよね。この二人が学校帰りに旅行中の知人の家に空き巣へ入ろうということになり、味をしめて次からはパリス・ヒルトン【注26】やオーランド・ブルーム【注27】など有名人の豪邸を狙うようになる。有名人のフェイスブックを見ると「今パリにいます」とか書いてあるけど、それって家が留守ってことじゃん?だったら住所もセレブマップですぐ分かるから、空き巣に入って盗もうよ♪みたいな軽いノリで。そこに他の女子も仲間として加わって、次から次へとセレブの豪邸に忍び込んでは高級ブランド品を盗んでいく。でも、彼らにとっては盗みが本当の目的なんではなくて、ただ単にセレブの自宅やワードローブの中身を見て、友達同士「わー!」「すごーい!」「ステキー!」ってキャッキャやりたいだけなんですよね。そのついでに戦利品も頂いていっちゃう。 なかざわ:それっていうのは、今のSNS文化【注28】はもちろんのことですけれど、若者たちの過剰なセレブ崇拝というのもバックグラウンドにあると思います。ある時期から、アメリカではゴシップ誌を賑わせる“セレブ”と呼ばれる人々が、テレビのリアリティー番組で自分の豪邸や華やかな暮らしぶりを自慢げに披露するようになり、若い人たちがやたらと興味を惹かれて憧れるようになったんですよね。 飯森:とはいえ、興味があるからといって空き巣に入るというのも発想が飛躍している。でも一番理解不能なのは、その犯行をSNSでイエーイ!みたいな感じでアップして自ら晒しちゃう感覚ですよ。それは捕まるに決まってるよね?と。確かに、悪いとは分かっていても衝動が抑えられないってことはあるかもしれない。それは分かる。でも、証拠隠滅するなり何なり自分が逮捕されない悪知恵も普通は働かせるはずですよ。それを、シッポ出さないようにするんじゃなくて逆に自らネットに晒すとは!これもまた、大人になった今なら「バカなクソガキどもめ」と思うだけかもしれないけれど、ある限られた年頃だったら理解できるんじゃない?と感じるんです。 なかざわ:そうですね。人間の死だとか犯罪だとか、そういった重大な事柄に対する想像力の欠如ですよね。モノを知らない若者ならではの無軌道というか。 飯森:かといって、その無軌道をソフィアたんは批判しているようにも見えない。もちろん共感しているわけでも推奨しているわけでもないとは思うのですが。しかし高校生くらいのガキが調子に乗って、ここではそれこそ警察に捕まるような悪いことをしているわけですけれど、刑務所に入れられたら大変だ、家族や周りにも迷惑がかかる、という大人の理性がストッパーにならない年頃ってあるじゃないですか。友達と一緒になって、いいじゃん!やっちゃおうよ!と盛り上がっている時の楽しさ。それを得意気に自慢する楽しさ。つまりは調子ぶっこいている楽しさ。もちろん犯罪行為までは普通いかないけれど、10代の頃を振り返ってみた時に、誰しも多かれ少なかれ身に覚えがある、あの感覚。ソフィアたんはその年代の子供たちにしか見えないであろう世界の“キラキラ感”を描いているんですよ。“キラキラ感”って言葉も作ってみたんですが、これもどうにもオジサン臭いな(笑)。 なかざわ:言うなれば危険な冒険ですよね。一歩間違えれば犯罪に巻き込まれてしまう、もしくはその行為そのものが犯罪になりかねない。でも楽しいからやってしまった。そういう経験がある人は多いと思いますよ。 飯森:それはさっきの「ヴァージン・スーサイズ」も同様で、夜遊びで無断外泊して親から怒られるなんて、「ブリングリング」の空き巣以上に誰にでも経験がありますよね?それが原因で自殺するというのは、一見すると飛躍ですけど、彼女らのような10代だったら共感できるかも知れない。一切の外出を禁じられてしまったことで、姉妹は日々変化していく学校生活や友達関係に参画できなくなってしまう。1ヶ月後に外出禁止が解かれたとき、どんな顔をして学校へ行けばいいのか。長い人生の中で後から振り返れば取るに足らないことですが、いま10代だったらそれがどれほど重大かは、我々も何十年か昔を思い出せば共感できると思うんです。そんなの堪えられない!そうなるぐらいならいっそ死んでしまいたい!って衝動的に思うのも、10代ならありうる。 なかざわ:彼女たちにとっては生き地獄だったのかもしれませんね。 飯森:かといって全然地獄っぽくは描かれてないですけれどね。むしろきれいに描かれている。地獄だから自殺したんじゃなくて、世界がきれいすぎて見えるほど感受性が敏感な年頃だったから自殺しちゃった。だから全編、徹底的にきれい。この映画、とにかく景色がきれいなんですよ。もう異常なんです。25年前の出来事の回想なので、思い出の中の風景のようにも見えるし。美人姉妹の目には世界がこういう風に見えていたのかとも思える。世界がキラキラに描かれているんです。大人にとってはなんの面白みもない住宅街の退屈な風景であっても、10代の女の子の目を通すと、世界はこんなにも輝いて見えるのか!と思うわけです。あるいは、あれは男子たちの目線なのかもしれない。遺された近所の男の子達が、あの25年前の夏の集団自殺は何だったのだろう?と40歳ぐらいになってから思い返す映画なので、男子目線のノスタルジックな美しさなのかもしれない。どちらにせよ、ティーンの頃に我々の目にも確かに見えていたはずの、信じられないくらいの世界の“キラキラ感”を視覚化することに成功しているんです。 なかざわ:確かに、感受性が豊かで多感な時期の記憶というのは、実際よりもかなり美化されて脳裏に焼き付きますからね。 飯森:これを描ける人はソフィアたん以外にはなかなかいない!才能ですね。親のコネだけじゃ無理です。偉大すぎる親父さんでもこれだけは描けそうにない。オジサンだから(笑)。 <注22>1999年制作、アメリカ映画。 <注23>2013年制作、アメリカ映画。 <注24>クエンティン・タランティーノ。1963年生まれ。アメリカの映画監督。「レザボア・ドッグス」(’92)で脚光を浴び、カンヌ映画祭で最高賞パルム・ドールを獲得した「パルプフィクション」(’94)で時代の寵児となる。<注25>1976年制作、アメリカ映画。狂信者の母親に悪魔の子と冷遇されて育った超能力イジメられっ娘のパワーが、イジメのエスカレートにより暴走して大惨劇を引き起こす。<注26>1981年生まれ。アメリカのソーシャライト(社交界の名士)。ヒルトンホテル創業者一族の出身で、お騒がせセレブとしても有名。劇中に登場する自宅は本物。 <注27>1977年生まれ。イギリスの俳優。「ロード・オブ・ザ・リング」(’01)シリーズのレゴラス役でブレイクし、その後も「パイレーツ・オブ・カリビアン」(’03)シリーズや「キングダム・オブ・ヘブン」(’05)などのヒット作に出演。<注28>TwitterやFacebookなどのSNSを利用した生活様式のこと。 次ページ>> 「ロスト・イン・トランスレーション」&「SOMEWHERE」 『ヴァージン・スーサイズ』©1999 by Paramount Classics, a division of Paramount Pictures, All Rights Reserved『ロスト・イン・トランスレーション』©2003, Focus Features all rights reserved『マリー・アントワネット(2006)』©2005 I Want Candy LLC.『SOMEWHERE』© 2010 - Somewhere LLC『ブリングリング』© 2013 Somewhere Else, LLC. All Rights Reserved
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PROGRAM/放送作品
コンタクト
カール・セーガン原作、ロバート・ゼメキス監督、宇宙人とのコンタクトをシミュレーションし描くリアルSF
90年代に日本でも多くの人が自分のPCで協力した「SETI計画」が、ついに宇宙人からの信号をキャッチした!という物語をリアルに描く。“信じる”とは何かという宗教哲学的テーマにまで踏み込んでいく感動作。
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PROGRAM/放送作品
突然の訪問者【町山智浩撰】
町山智浩推薦。ハリウッドを干された巨匠エリア・カザンによる後期監督作。はたして起死回生は成ったか!?
町山智浩セレクトのレア映画を町山解説付きでお届け。『エデンの東』のカザン監督は赤狩りの時代に仲間を弾圧者に売り裏切り者に。後年、超低予算で撮った佳作スリラーが本作だ。復権は成ったのか?町山解説も必聴!