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PROGRAM/放送作品
マッケンナの黄金
『ナバロンの要塞』のJ・リー・トンプソン監督&グレゴリー・ペック主演コンビでおくるウエスタン冒険活劇
アカデミー特殊効果賞を受賞した『ナバロンの要塞』の監督&主演コンビが、西部劇に壮大なスケールのアドベンチャー要素を盛り込んだスペクタクル西部劇。オマー・シャリフ、テリー・サヴァラスら共演陣も豪華。
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COLUMN/コラム2022.12.09
1980年代韓国の“闇”を斬り裂いた!№1監督ポン・ジュノの出世作!!『殺人の追憶』
1960年代生まれで、80年代に大学で民主化運動の担い手となり、90年代に30代を迎えた者たちを、韓国では“683世代”と呼んだ。そしてこの世代は、政治経済から文化まで、その後の韓国社会をリードしていく存在となる。『パラサイト 半地下の家族』(2019)で、「カンヌ国際映画祭」のパルム・ドールと「アカデミー賞」の作品賞・監督賞などを受賞するという快挙を成し遂げた、韓国№1監督ポン・ジュノも、まさにこの世代。本人は69年生まれで、88年に大学に入ったので、あまり実感がなく、その分け方自体が「好きではない」というが。 確かに90年代、“韓国映画ルネッサンス”と言われる潮流が起こった時、彼はまだ長編監督作品を、ものしてなかった。そして2000年になって完成した第1作『ほえる犬は噛まない』は、一部で高い評価を得ながらも、興行的には振るわない結果に終わっている。 しかしプロデューサーのチャ・スンジェは、『ほえる…』の失敗をものともせず、ポン・ジュノに続けてチャンスを与えた。彼が取り掛かった長編第2作が、本作『殺人の追憶』(2003)である。 題材は、“華城(ファソン)連続殺人事件”。86年から91年に掛け、ソウルから南に50㌔ほど離れた華城郡台安村の半径2㌔以内で起こった、10件に及ぶ連続強姦殺人事件である。180万人の警察官が動員され、3,000人の容疑者が取り調べを受けたが、犯人は捕まらないまま、10年余の歳月が流れていた。 この事件はすでに演劇の題材となっており、「私に会いに来て」というタイトルで、1996年に上演されていた。ポン・ジュノはこの演劇を原作としながら、事件を担当した刑事や取材した記者、現場近隣の住民に会って話を聞き、関連資料を読み込んだ。 そして自分なりに事件を整理してみたところ、「…自然と事件を時代背景と共に考えるようになった」という。この作業に半年掛けた後、脚本の執筆は、1人で行った。 因みに63年生まれで、ポン・ジュノよりは6歳ほど年長ながら、同じ“386世代”で、すでに『JSA』(00)でヒットを飛ばしていたパク・チャヌク監督も、「私に会いに来て」の映画化を考えていた。しかしポン・ジュノが取り組んでいることを知って、あきらめたという。 “華城連続殺人事件”には、“386”の代表的な監督たちの興味を強く引く、“何か”があったのだ。 未解決の連続殺人事件を映画化するということで、スタッフとキャスト全員で追悼式を行ってからクランクインした本作。事件から10数年経って、華城は当時の農村風景が残る環境とはかなり様相が変わっており、また住民の感情も考慮して、事件現場よりも更に南部の全羅道でロケが行われた。 製作費は、30億ウォン=3億円。通常の韓国映画より、少し高い程度のバジェットであった。 ***** 1986年、華城の農村で連続猟奇殺人が発生する。被害者の若い女性は、手足を拘束され、頭部にガードルを被せられたまま、用水路などに放置されていた。 担当のパク・トゥマン刑事(演:ソン・ガンホ)は、「俺は人を見る目がある」と豪語するが、捜査は進まない。そんなある日、頭の弱い男クァンホが、被害者の1人に付きまとっていたという情報を得る。トゥマンは相棒のヨング刑事と共に、拷問や証拠の捏造まで行って、クァンホを犯人にしようとするが、うまくいかない。 そんな時にソウルから、ソ・テユン刑事(演:キム・サンギュン)が派遣されてくる。テユンは、「書類は嘘をつかない」と言い、各事件の共通性として「雨の日に発生した」こと、「被害者は赤い服を着ていた」ことを見つけ出す。更に彼の指摘通り、失踪していた女性が、死体となって発見される。 やり方が正反対のトゥマンとテユンは、対立しながら、捜査を進める。しかし有力な手掛かりは見つからず、犠牲者は増えていく。 雨で犯行の起こる日、必ずラジオ番組に「憂鬱な手紙」という曲をリクエストしてくる男がいることがわかる。その男ヒョンギュ(演:パク・ヘイル)は、連続殺人が起こり始めた頃から、村で働き始めていた。 有力な容疑者と目星を付け、現場に残された精液とヒョンギュのDNAが一致するか検査を行うことになる。しかし当時の韓国には装備がなく、アメリカに送って鑑定が返ってくるまで、数週間待たねばならない。 一日千秋の思いで結果を待つ刑事たちだったが、その間にまた犯行が起きて…。 ***** 本作の内容は、事件の実際と、それを基にした演劇と、更にはポン・ジュノの想像を合わせたものだという。例えば、被害者の陰部から、切り分けた桃のかけらが幾つも見付かったことや、捜査に行き詰まった刑事たちが霊媒師を訪ねたこと、頭の弱い容疑者が、尋問後に列車に飛び込み自殺したことなどは、“事実”を採り入れている。 有力な容疑者のDNA鑑定は、実際には、日本に検体を送って行われた。これをアメリカに変更したのは、当時の米韓の対比を描きたかったからだという。 容疑者がラジオ番組に歌をリクエストするというのは、まったくのフィクション。この設定は、原作の演劇にもあったが、その曲はモーツァルトの「レクイエム」であった。ポン・ジュノはそれを、「1980年代の雰囲気が重要」と、当時の歌謡曲である「憂鬱な手紙」に変えたのである。 因みに原作の「私に会いに来て」で、主人公の相棒の暴力刑事を演じたキム・レハと、頭の弱い容疑者役だったパク・レシクは、そのまま本作で、同じ役どころを与えられている。 本作を、典型的な“連続殺人事件もの”として作ったり、最初はいがみ合っている刑事たちが、やがて力を合わして捜査に取り組んでいく、“バディもの”として描くことも可能であった。しかし先に記した通り、「…自然と事件を時代背景と共に考えるようになった」というポン・ジュノは、韓国社会が通ってきた80年代の暗部を描くのを、メインテーマとした。 事件当時の新聞には、88年に開催が迫った「ソウルオリンピック」が大見出しとなっている下に、「華城でまた死体発見」という小さな記事が載っている。ポン・ジュノはそれを見て、妙な気がした。そして「…これは不条理ではないかと思った」という。「華城事件」で10人の女性が殺された86年から91年は、ちょうど全斗煥大統領による軍事政権に対する民主化要求運動が、全国的な広がりを見せた時代である。そしてこの頃の警察は、ド田舎の村の人々を守ることよりも、政権を守るためにデモを鎮圧することの方を、重視していた。 本作の中では、機動隊がデモ隊を取り締まるために出動している間に、事件が起こる描写がある。また夜道を歩いていた女子学生が犯人に襲われる場面は、政府の灯火管制により、村のあちこちで消灯したり、シャッターが下ろされたりして、人為的に暗闇が訪れていくのと、執拗にカットバックされる。政府が作り出した暗闇が、罪のない女子学生の命を奪う犯人を、サポートしてしまうのだ。 これぞポン・ジュノ言うところの「不条理」。「時代の暗黒が殺人事件の暗黒を覆う…」わけである。 高度成長期でもあるこの時期、稲田や畑ばかりだった農村に、工場が建てられる。それまでは村全体が一つの大家族のような繋がりだったのに、縁もゆかりもない、見も知らぬ労働者が大挙して移り住んでくることによって、“事件”が起こるという構図も、まさに時代が生んだ殺人事件と言える。 因みに我が国でも、64年の東京オリンピック前年には、5人連続殺人の“西口彰事件”や、4歳の子どもを営利誘拐目的で殺害した“吉展ちゃん事件”などが起きている。奇しくも日韓共に、五輪が象徴する時代の転換期には、猟奇的な事件が発生しているわけだ。 “西口彰事件”については、それをモデルにした、今村昌平監督の『復讐するは我にあり』(79)という有名な邦画がある。本作の演出に当たってポン・ジュノは、この作品を非常に参考にしたという。 本作の邦題『殺人の追憶』は、原題の直訳だ。これはデビュー作『ほえる犬は噛まない』で、「フランダースの犬」(原題)という意に沿わぬタイトルを映画会社に付けられてしまい、結果的に内容と合わないことも、興行の失敗に繋がったという反省から、ポン・ジュノ自らが付けたもの。「殺人」の「追憶」という連なりには、組合せの妙を感じる。「追憶」という言葉を使ったのは、80年代の韓国、その“暗黒”を、積極的に振り返るという、ポン・ジュノの想いが籠められているのである。 そうした想いを、具現化していくための演出も、半端なことはしない。この規模の作品では、通常3~4ヶ月の撮影期間となるが、本作は半年間。これは「冒頭とラストだけ晴で、後は曇りでなくてはダメ」という、監督のこだわりによって掛かった。特に件の女子学生が犠牲になるシーンでは、理想的な曇天を待つために、1か月を要したという。 本作は先に挙げたように、“連続殺人事件もの”“バディもの”といった、ジャンル映画に括られることから逃れているのも、特徴だ。ポン・ジュノは毎作品、「ジャンルの解体」を目指しているという。 これに関しては、『岬の兄弟』(2019)『さがす』(22)などの作品で注目を集めた片山晋三監督が、興味深い証言をしている。片山は『TOKYO!/シェイキング東京』(08)『母なる証明』(09)という2作で、日本人ながら、ポン・ジュノ監督作品の助監督を務めている。「…ジャンルを意識しないで一カット、一カットごとに映画の見え方がホラーだったりコメディだったりサスペンスだったりに変わっても成立すること、むしろその方が面白いと気づいたのが僕にとっての収穫です」 この言から、片山の『さがす』も、確かに「ジャンルの解体」を目指した作風になっていることに思い当たる。 さてここで、ポン・ジュノの期待に応えた、本作の出演者についても、触れねばなるまい。本作に続いて、『グエムル‐漢江の怪物‐』(06)『スノーピアサー』(13)そして『パラサイト 半地下の家族』(19)といったポン・ジュノ作品に主演。「最も偉大な俳優であり、同伴者」と、ポン・ジュノが称賛を惜しまない存在となっている、ソン・ガンホも、本作のトゥマン刑事役が、初顔合わせ。『反則王』(00)『JSA』(00)といった主演作で大ヒットを飛ばし、すでにスター俳優だった彼が、駆け出しの監督の作品に主演したのは、『ほえる犬は噛まない』を観て、笑い転げたことに始まる。「ポン監督に自分から電話をかけて関心を示した情熱が買われ、キャスティングされた」のだという。いち早く監督の才能を、見抜いていたわけだ。またガンホが無名時代にオーディションに落ちた際、その作品の助監督だった、ポン・ジュノに励まされたというエピソードもある。 いざクランクインし、序盤の数シーンを撮ってみると、アドリブも多いガンホに対して監督は、「野生の馬」という印象を抱く。そして彼をコントロールする方法としては、「ただ垣根を広く張り巡らしておいて、思いっきり駆け回れるようにしたうえで、放しておこう」という考えに至った。「…優れた感性と創造力、作品に対する理解力を持ち合わせている」芸術家と、認めてのことだった。 キム・サンギョンを起用したのは、ホン・サンス監督の『気まぐれな唇』(02)を観てのこと。サンギョンは本作の脚本を読んで、テユン刑事に感情移入。「同じ気持ちになって猛烈に腹が立った」という。 有力な容疑者として追及されるヒョンギュ役は、パク・ヘイル。ポン・ジュノは脚本の段階から、彼の特徴的な顔を、思い浮かべていた。 ラスト、未解決に終わった事件から歳月が経ち、今や刑事を辞めて営業マンになったトゥマンが、殺人のあった現場を訪れ、自分の少し前に犯人らしき男が、同じ場所を訪れていたことを、その場に居た女の子から聞いて愕然とする。そして観客を睨みつけるような彼の顔のアップとなって、終幕となる。 これは「俺は人を見る目がある」「目を見れば、わかる」などと、本作の中で容疑者の肩を摑んでは、その顔を見つめる行為を続けてきた、トゥマンの最後の睨みである。ポン・ジュノの、「観客として映画を見るかもしれない真犯人の顔を俳優の目でにらみつけたかった」という想いから、こうしたラストになった。 実はこのシーンは、クランクインから間もなく撮られたもので、監督はガンホに、「射精の直前で我慢しているような表情でやってほしい」と演出を行った。監督曰く、ガンホは本当にあきれた顔を向けたというが、実際は何度も耳打ちで注文してはリテイクする監督を見て、「この人はこのシーンに勝負をかけているんだな」と理解。渾身の力を、注ぎ込んだという。 さて本作は公開されると、韓国内で560万人を動員。2003年の№1ヒット作となり、数多の賞も受賞した。紛れもなくポン・ジュノの出世作であり、国際的な評価も高い。20年近く経った今でも、彼の「最高傑作」であると、主張する向きが少なくない。 ここで“華城事件”の終幕についても、触れたい。2019年になって、真犯人が浮上した。その時56歳になっていた、イ・チュンジェという男。 94年に、妻の妹を強姦殺害した罪で、無期懲役が確定し、24年もの間服役中だった。改めてのDNA鑑定の結果、彼が真犯人であることが確定したが、一連の事件はすべて「時効」が成立していた。 ここで改めて注目されたのが、警察の杜撰な捜査。容疑者の中には自殺者が居たことも記したが、特に酷かったのは、10件の殺人の内、1件の犯人として逮捕され、20年もの間収監されていた男性が居たことである。 本作『殺人の追憶』が、事件の解決には役立ったのかどうかは、明言できない。しかし、あの時代の“闇”を、紛れもなく斬り裂いていたのだ。■ 『殺人の追憶』© 2003 CJ E&M CORPORATION, ALL RIGHTS RESERVED
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PROGRAM/放送作品
(吹)レッド・スパロー
[R15+]美しき女スパイが危険な諜報戦に挑む!ジェニファー・ローレンス主演の官能サスペンスドラマ
ジェニファー・ローレンスが『ハンガー・ゲーム』のフランシス・ローレンス監督と再び組んだスパイサスペンス。色仕掛けと巧みな心理操作術を武器とするロシア人スパイを、濡れ場を辞さない体当たりで熱演している。
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COLUMN/コラム2022.12.02
ジョン・ヒューズ監督が高校生たちの忘れられない1日を描いた青春群像劇『ブレックファスト・クラブ』
土曜日の補習授業で何かが起こる…? 処女作『すてきな片想い』(’84)で16歳の誕生日を迎えた女子高生の1日を通して、思春期の少女とその友達の揺れ動く多感な心情や自我の目覚めを鮮やかに浮き彫りにしたジョン・ヒューズが、今度は土曜日の補習授業に呼び出された高校生たちの1日を描いた監督2作目である。青春映画の黄金期と呼ばれる’80年代において、まさに時代の象徴的な存在だった巨匠ジョン・ヒューズ。特に本作と『フェリスはある朝突然に』(’86)の2本は、’80年代青春映画を語るうえでも絶対に外すことの出来ない傑作と言えよう。 それは1984年3月24日の土曜日のこと。イリノイ州のシャーマー高校では、ひとけのない閑散とした校舎に5名の生徒たちが集まってくる。レスリング部の花形選手である体育会系のアンドリュー(エミリオ・エステベス)、お高くとまった金持ちのお嬢さまクレア(モリー・リングウォルド)、成績はトップだが見た目の冴えないガリ勉くんブライアン(アンソニー・マイケル・ホール)、奇行を繰り返して周囲をドン引きさせる不思議ちゃんアリソン(アリー・シーディ)、そして口が悪くて反抗的な不良少年ベンダー(ジャッド・ネルソン)。普段の学校生活では決して交わることのない彼らは、それぞれ問題行動を起こした罰として、休日の朝7時から補習授業を受けることになったのだ。 学校の図書館に集まった生徒たちを待ち受けていたのは、口うるさくて厳しい副校長のヴァーノン先生(ポール・グリーソン)。勝手に喋るな、席を移動するな、居眠りをするなと注意された彼らは、午後4時までに作文を書き上げるよう指示される。テーマは「自分とは何か」。ウンザリとした表情を浮かべる生徒たち。仕方なしに作文を書こうとするものの、みんな一向にペンが進まない。図書館に漂う沈黙と退屈。口火を切ったのは、ルール無視など日常茶飯事のベンダーだ。ほかの4人がなぜ補修の罰を受けたのか、しつこく聞き出そうとするベンダー。その無神経な態度にはじめは苛ついていたアンドリューたちだったが、しかしこれをきっかけに段々と打ち解けるようになる。 ヴァーノン先生がトイレに行った隙を見計らって、こっそり図書館を抜け出す生徒たち。ベンダーはロッカーに隠していたマリファナを回収する。ところが、図書館への帰り道を間違えて危機一髪。ヴァーノン先生に見つかったら大目玉を食らってしまう。そこで言い出しっぺのベンダーが先生の注意を惹きつけ、仲間を救って自分だけが罰を受けることに。反省するまで物置に閉じ込められたベンダーだが、性懲りもなく通気口から逃げ出して図書館へ無事に帰還。物音に気付いたヴァーノン先生が駆け込んでくるものの、4人はベンダーを匿って守り通す。ささやかな友情の絆が芽生え始めた生徒たち。マリファナを吸って解放感に浸った彼らは、やがてそれぞれが学校や家庭で抱える悩みや不安、怒りや不満などの本音を打ち明けるのだった…。 ハリウッドで初めてスクールカーストを真正面から描いた作品 前作『すてきな片想い』に続いて、ヒューズ監督の故郷であるイリノイ州を舞台にした本作。主人公たちにとって「忘れられない1日」の出来事を描くというプロットは、『すてきな片想い』だけでなく『フェリスはある朝突然に』とも共通した点だが、しかし高校の図書館という限定された空間をメインにして展開する会話劇スタイルは、それこそヨーロッパ映画やインディーズ映画を彷彿とさせるものがあり、当時のハリウッド産青春映画においては画期的な手法だったと言えよう。中でも、当時の若者特有のスラングを盛り込んだ活きの良いセリフがユニーク。大人が作った青春映画にありがちな不自然さがないのだ。 実は『すてきな片想い』よりも前に脚本が出来上がっていたという本作だが、しかしアート映画的な実験性の強い内容ゆえなのか資金がなかなか集まらず、そのため後回しにされたという経緯があったらしい。ヒューズ監督が真っ先にやったのは、メインの若手キャストを集めたリハーサル。ハリウッドだと事前の準備は会議室での読み合わせ程度、リハーサルは現場で撮影と並行しながらというケースも少なくないが、本作の場合は1週間以上に渡ってみっちりとリハーサルを重ね、物語の進行とお互いのキャラクターの特徴を頭に叩き込んだという。そのうえで、撮影に入るとヒューズ監督は若い役者たちの好きなように演じさせたのだそうだ。ノリに応じてセリフやリアクションを変えるなどのアドリブもオッケー。本作の会話劇に噓がないのは、このように若い俳優たちの主体性を尊重した演出の賜物だったのかもしれない。 だが、この映画が劇場公開時において最も画期的だったのは、アメリカの学園生活を構成するクリーク、すなわち日本で言いうところの「スクールカースト」の存在をテーマに据えたことであろう。ジョックス(体育会系)のアンドリュー、ミーン・ガールズ(女王様集団)のクレア、ナード(オタク)のブライアン、ゴス系(もしくはエモ・キッズ)のアリソン、グリーザーズ(ヤンキー系)のベンダーと、本作に登場する5人の高校生たちは、そのいずれもがスクールカーストの代表的な集団を象徴している。 同じ学校に通いながらもそれぞれ別の集団に所属し、お互いに相手のことをバカにしたり敬遠したり無視したり。普段なら決して相交わることのない彼らが、いざ腹を割って話をしてみると、親からのプレッシャーや将来への不安など、みんな同じような悩みを抱えていることを知り、お互いに友情や親近感を覚えるようになる。いつもは「キャラ」という名の鎧を身にまとっている彼らも、一皮むけばどこにでもいる普通の高校生なのだ。それまでも学園内のスクールカーストを背景にした青春映画は存在したものの、それをメインテーマとして扱った作品は恐らくこれが初めて。なおかつ、社会の縮図とも言えるその集団構造を通して、今も昔も変わらぬ等身大のティーンエージャー像を描く。それこそが、本作の持つ揺るぎない普遍性であり、その後のハリウッド産青春映画および青春ドラマに多大な影響を及ぼした理由であろう。 かつて子供だった大人と、いずれ大人になる子供 加えて、本作ではそこに大人たちの視点もさらりと盛り込まれる。最近の子供たちは不真面目で弛んでいる、昔の学生とはすっかり変わってしまった!と嘆く副校長ヴァーノン先生に、いや、変わってしまったのはお前だよ、自分が16歳の頃を思い出してみろと釘をさす用務員のカール(ジョン・カペロス)。今の子供は理解できないと大人から言われた子供が、大人になると全く同じことを子供に言う。いつの時代も変わらぬ光景だ。それは逆もまた然り。大人を自分とは別の生き物みたいに思って、なにかと反抗したりバカにしたりする子供たちも、いずれ自分もその大人になってしまうことを分かっていない。冒頭で校内に掲げられた歴代の優等卒業生写真の中央に、溌溂とした笑顔で映っている人気者の若者が、実は高校生時代のカールであることに、果たしてどれだけの学生が気付いているだろうか。 また、’90年代のグランジ・ルックを先取りしたようなベンダーのファッション、青白い顔に黒のアイラインを強調したゴス系のルーツみたいなアリソンの個性的なメイクなども興味深いところ。本作の時代を先駆けた先見性はもちろんのこと、トレンドというものがある日突然出現するのではなく、時間をかけて徐々に浸透・拡大していくものだということが分かるだろう。 トレンドといえば、ジョン・ヒューズ監督作品に欠かせないのがポップ・ミュージック。前作『すてきな片想い』ではトレンドのヒットソングをこれでもかと詰め込んでいたが、本作では曲数を最小限に絞り込んでいる。中でも印象的なのは、全米チャートでナンバーワンに輝いたシンプル・マインズのテーマ曲「ドント・ユー?」。挿入曲の大半を手掛けたソングライターのキース・フォーシーは、ジョルジオ・モロダーの重要ブレーンとしてドナ・サマーやアイリーン・キャラ、スリー・ディグリーズなどのヒット曲を書いた人で、本作では音楽スコアも担当している。『フラッシュダンス』(’83)や『ネバーエンディング・ストーリー』(’84)、『ビバリーヒルズ・コップ』(’84)などのテーマ曲も彼の仕事だ。 主人公の高校生役を演じているのは、ブラット・パック(悪ガキ集団)と呼ばれた当時の青春映画スターたち。『すてきな片想い』に引き続いて起用されたモリー・リングウォルドとアンソニー・マイケル・ホールは、実際に撮影時16歳の高校生だったが、それ以外の3人はいずれも20代(最年長は25歳のジャッド・ネルソン)である。最初にオファーされたのは、ヒューズ監督が自分の分身として贔屓にしていたアンソニー。モリーは当初アリソン役に予定されていたそうだが、本人の希望でクレア役を演じることになった。エミリオももともとはベンダー役だったが、キャスティングに難航したアンドリュー役を与えられることに。その代わりとして、オーディションで役になりきって臨んだジャッドがベンダー役を任された。ジャッドとアリソン役のアリー・シーディは、その後も『セント・エルモス・ファイアー』(’85)や『ブルー・シティ/非情の街』(’86)でも共演している。それぞれの役柄に自身の一部を投影したというヒューズ監督だが、見ている観客も5人のうち誰かに自分を重ねることが出来るというのも本作の魅力だろう。 ヴァーノン先生役のポール・グリーソンは、『ダイ・ハード』(’88)の居丈高なロス市警副本部長役でもお馴染み。用務員カールを演じているジョン・カペロスは、ロケ地でもあるシカゴの有名な即興喜劇集団セカンド・シティ(出身者はジョン・ベルーシ、ダン・エイクロイド、ジョン・キャンディ、マイク・マイヤーズ、キャサリン・オハラなど)のメンバーで、当時は同郷の仲間であるヒューズ監督作品の常連俳優だった。ちなみに、クレアの父親が運転しているBMWはヒューズ監督の私物。ラストシーンではブライアンの父親役として、ヒューズ監督がチラリと顔を見せている。■ 『ブレックファスト・クラブ』© 1985 Universal City Studios, Inc. All Rights Reserved.
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PROGRAM/放送作品
キングスマン:ゴールデン・サークル
[PG12]強くて粋な英国紳士スパイが新たな敵に挑む!ユーモアも過激さもアップした痛快アクション続編
『キック・アス』のマシュー・ヴォーン監督が手がけた大ヒットスパイアクションの続編。キングスマンと組む米国人スパイ役のチャニング・テイタムや敵役ジュリアン・ムーアが加わり、エルトン・ジョンも怪演を披露。
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COLUMN/コラム2022.08.03
製作から30年。ニール・ジョーダンのインスピレーションとパッションの賜物!『クライング・ゲーム』
ニール・ジョーダンは、1950年生まれのアイルランド人。母が画家だったため、幼い頃から絵画に親しみ、17才で詩、戯曲を書き始めたというが、少年期から映画にも夢中だった。 当時のアイルランドは検閲が厳しく、上映が許可される作品は“宗教映画”ばかり。ジョーダンは、その手の作品を数多く観たというが、その一方で、ダブリンに2館だけ在ったアートシアターに通い、50年代末に始まる、フランスの映画運動“ヌーヴェルヴァーグ”の洗礼を受ける。更にはニコラス・レイ監督の『夜の人々』(1948)『理由なき反抗』(55)などに、大いにハマった。 国立のダブリン大学卒業後は、教師、俳優、ミュージシャンとして働きながら、小説家デビュー。処女短編集「チュニジアの夜」や、長編デビュー作「過去」が高く評価され。更には83年の長編第2作「獣の夢」で、作家としての地位を決定づける。 しかしテレビの台本を書いたのをきっかけに、活動の主な舞台を、映画界に移す。82年には、『脱出』(72)『エクスカリバー』(81)などで知られるジョン・ブアマンのプロデュースで、初監督作品『殺人天使』(日本では劇場未公開)を発表する。この作品の主演だったスティーブン・レイは、それまでは舞台やテレビを中心に活躍していたが、以降は映画にも積極的に出演。ジョーダン監督作の、常連となっていく。 本作『クライング・ゲーム』(92)は、実は『殺人天使』で映画監督デビューを果たした直後から、再びスティーブン・レイ主演の想定で、脚本の執筆をスタートした企画。順調に進めば、監督第2作となる可能性もあった。 ***** イギリス領内の北アイルランドに駐留する、黒人兵士。街の警備中、折々人種差別的な罵倒を受けて、傷ついていた。 そんな彼が、誘拐される。犯人は無差別テロも辞さない武装組織、「IRA=アイルランド共和国軍」。イギリスとの交渉材料として、兵士を拉致・監禁したのである。 その実行犯グループで、人質の見張り役となった男は、黒人兵士と会話を交わす内に、彼に友情を覚える。もしイギリス側が交渉に応えぬまま、時間切れとなった場合、彼を殺さなければならないのに…。 ***** 捕えた者と捕えられた者との間に友情が生まれるが、やがて殺す時がやってくる…。スティーブン・レイを想定して描かれた、「IRA」の見張り役と、人質の黒人兵士の関係は、ジョーダン監督曰く、アイルランド文学ではお馴染みの構図だという。 こうした物語に現実味を持たせるためには、実際に起こった事件の要素を加えた。黒人兵士はブロンドの女性に誘惑されて、拉致されるのだが、70年代にはバーなどで「IRA」の女性メンバーが、イギリス兵を引っ掛けて自宅に連れ帰り、射殺するという事件が、度々起こっていたのである。また当時は、民兵組織が敵対する国家などとの取引材料に、人質を取る事件も、頻発していた。 因みに「IRA」は、北アイルランドをイギリスから分離・独立させて、全アイルランドの統一を図るため、過激なテロ闘争を行っていた、実在の組織。善悪を単純化して描く、90年代ハリウッド映画などに度々登場したことから、映画ファンの間では当時、アラブ人テロリストなどと同様、“悪役”の印象が強かった。 しかし90年代中盤以降、「IRA」とイギリスとの間では和平交渉が進み、2000年代中盤には、武装闘争は終結に至っている…。 ***** 処刑までのタイムリミットが迫る中、黒人兵士は見張り役の「IRA」戦士に、最後の願いをする。ロンドンに居る恋人を捜し出し、「愛していた」と伝えてくれ。そしてその恋人の支えとなってくれと。「IRA」戦士は兵士との約束を守るべく、その“恋人”に会いに行くのだったが…。 ***** ジョーダン曰く、何度書いても、この「“恋人”に会いに行く」部分で、筆が止まってしまった。 そこでこの企画は、一旦棚上げに。ジョーダンは先に、「赤ずきん」をベースにしたファンタジーホラー『狼の血族』(84)、ナット・キング・コールの名曲に想を得た『モナリザ』(86)を発表。両作が国際的に高い評価を受け、ハリウッド進出まで果した後に、「“恋人”に会いに行く」後の展開を、再び考えることにした。 事態を大きく動かす妙案が、ジョーダンの頭に浮かんだ!兵士の“恋人”を、○○にすれば良いんだ!! パズルの大きなピースが埋まり、ジョーダンは“映画化”に向かって、邁進することとなる。そしてこのインスピレーションこそが、本作『クライング・ゲーム』(93)が初公開時、観る者の多くをして、「衝撃的!」と言わしめる結果をもたらしたのである。 それから30年近く経って、2022年の今だと、“恋人”が○○であることを、「衝撃的!」と受け止めにくくなっている。また本作はかなり有名な作品なので、実際に鑑賞していなくても、どんな展開が待ち受けているか、ご存じの方も少なくないだろう。 しかし敢えて今回は、本作を未見で、展開も知らない方々には、この後の文章を読むのは、鑑賞後まで控えることを、オススメしておく。 <以下、ネタバレがありますので、ご注意下さい> ***** 黒人兵士のジョディ(演:フォレスト・ウィティカー)を処刑できなかった、見張り役のファーガス(演:スティーブン・レイ)。しかしジョディは、「IRA」のアジトを急襲したイギリス軍車両に轢かれ、命を落としてしまう。 アジトが爆破される中、ファーガスは辛くも逃げ延びて、ロンドンに潜伏。ジョディの“恋人”で美容師のディル(演:ジェイ・デヴィッドソン)に会いに行く。 ジョディとの関わりは隠しながら、美しく魅力的なディルとの距離が近づいていく、ファーガス。ディルもそんな彼に惹かれ、やがて2人はベッドを共にするが…。 ディルの肉体は、“男性”だった! ショックを受けたファーガスは、一旦は彼女を拒絶。ディルを傷つけてしまうが、やがて仲直り。2人の不思議な関係が続いていく。 そんな時に、「IRA」の仲間だったジュード(演:ミランダ・リチャードソン)が現れ、テロ行為への加担を迫る。渋るファーガスだったが、ディルに危険が迫ることを避けるため、計画に加わらざるを得なくなる。 果たして、ファーガスとディルの運命は? ***** 物語を動かす大きなフックは見付かったものの、それが困難の始まりとも言えた。主人公が、イギリスを恐怖に陥れていた「IRA」のテロリストであることに加え、人種差別や性差別の問題にまで、踏み込んでしまっている。こんな企画に製作費を出してくれるスポンサーは、そう簡単には見付からない。 イギリスでは、全土で同性愛が違法ではなくなったのは、1982年のこと。それ以前に、性犯罪法で処罰を受けた男性の同性愛者たちの罪が赦免されるのは、2016年まで待たなければならなかった。 LBGTQやトランスジェンダーなどという言葉が一般的ではなかった93年に、ディルのようなヒロイン像というのは、斬新過ぎた。それに加えて、そのディルを演じられる俳優を見付けるのが、簡単ではなかった。 スティーブン・レイをはじめ、フォレスト・ウィティカー、ミランダ・リチャードソンと、他の主要キャストには、適役を得た。しかし「無名の黒人男性で、女性役ができる」という条件のヒロイン探しは、困難を極めたのである。 撮影開始まで8週間と迫った頃、ジョーダンは、かのスタンリー・キューブリックに相談した。キューブリックは先の条件を確認した上で、「画面に登場して30分は女性に思える」者を探すなど、「2年掛かっても、無理」と断定したという。 スタッフが手分けして、それらしい者が居そうな、ロンドンのクラブを回った。最終的には著名な映画監督で、自身ゲイだったデレク・ジャーマンからもたらされた情報で、ディルが見付かった。 ジェイ・デヴィッドソン。並外れて美しく、演技は未経験だったが、ジョーダンは“彼女”に決めた。 そしてジョーダン曰く、「完璧に自由な環境でしか撮れない映画」の製作が進められることとなった。「完璧に自由」ということは即ち、「完璧に金がない」ということでもあった。 いざ作品が完成して、92年10月のイギリスでの公開が近づくと、ジョーダンは評論家などに手紙をしたためた。本作の展開については「秘密厳守」、特に、ディルが“男性”であることを明かさないようにと、お願いする内容だった。 作品のデキが、素晴らしかったからだろう。評論家達は、ジョーダンの願いを聞き届け、「秘密」は守られた。 この展開はその年末の、アメリカ公開に当たっても、堅持された。本作はニューヨークを中心に大ヒット! ロングラン公開となって、アメリカのアカデミー賞でも6部門にノミネートされ、ジョーダンは“オリジナル脚本賞”を受賞する。 因みに日本での公開は、翌93年6月。その年の3月に開催されたアカデミー賞で、ジェイが“助演男優賞”の候補になっていること自体が、「ネタバレ」とも言えた。しかし公開に当たっては、ディルが“男性”であることは伏せられ、観た者にも「秘密」を広げないように、お願いがされた。 ところが実際にスクリーンに対峙すると、ファーガスがディルとベッドインして、彼女が“男性”であることを知る「衝撃的!」なシーンで、ディルの股間には、悪名高き“ボカし”が掛かっていたのである。日本では無粋な規制によって、本作の本質に関わる部分が、何が何やらわからない状態にされていたのが、逆に「衝撃的!」と言えた。 さて記してきた通りに、92年という時制の中で、「IRA」のテロリストである主人公や、心が“女性”である美しい男性ヒロイン等々の設定や仕掛けが、アクチュアル且つ先鋭的であった、本作『クライング・ゲーム』。30年経って、そうしたヴィヴィッドさは失われても、挿入される曲や寓話なども含めて、言葉や構成へのこだわりが、現在でも光り輝く。 また今作の後には、商業作品は『スターゲイト』(94)程度しか出演しなかったジェイ・デヴィッドソンは、その後本作で見せたような装いを捨てて、男性的な外見へと変貌を遂げたとも聞く。そうしたことも含めて、いま改めて観る価値が高い作品とも、言えるだろう。■ 『クライング・ゲーム』© COPYRIGHT PALACE (SOLDIER'S WIFE) LTD. AND NIPPON FILM DEVELOPMENT & FINANCE INC. 1992
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PROGRAM/放送作品
ステルス
人工知能を備えた最強のステルス戦闘機が暴走してしまう!爆音が響く迫力の音速エア・アクション
『ワイルド・スピード』でストリート・レースを描いたロブ・コーエン監督が、今度は戦闘機バトルでスピードの限界に挑戦する。コクピットと俳優以外は背景までフルCGで描き出すリアルな空中シーンが迫力満点。
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COLUMN/コラム2022.06.09
間もなく第3弾が登場!? カルトな人気シリーズ『処刑人』のはじまり
昨年11月、『処刑人』のシリーズ第3弾が製作されるという、映画ニュースがネットで流れた。第1作が製作されたのは、1999年。第2作は2009年であり、報じられた通りに『処刑人Ⅲ』が実現すれば、第1作から20年余にして、実に10数年ぶりのシリーズ再開となる。 亀のように遅々とした歩みながら、確実にコアなファンを掴んできた、『処刑人』シリーズの生みの親は、71年生まれのトロイ・ダフィー。今はもう50代だが、『処刑人』の脚本を書き上げた時は、まだ25歳の若さだった。 ニューハンプシャー州で育ったダフィーは、大学の医学部進学課程に入学したものの、1年半でドロップアウト。ミュージシャンの道へと進むため、93年にロサンゼルスへと移り住んだ。 生計は飲み屋の用心棒やバーテンダーで立てながら、ダフィーは弟と共に、廃墟のようなアパートで暮らした。そしてそこで、『処刑人』のアイディアの元となる体験をする。 96年のある夜、ダフィーが仕事から帰ると、向かいの麻薬ディーラーの部屋から、女性の遺体が台車で担ぎ出されるところだった。女性は死後数日は経っている様子で、アーミー・ブーツを履いていたが、そこに出てきたディーラーは、「そのクソ女が俺のカネを取りやがったんだ!」と叫びながら、そのブーツを、思い切り真下へと叩きつけた。 期せずして、衝撃的なまでに不快な出来事と遭遇してしまったダフィーは、自らへのセラピー代わりに、あることに取り掛かる。それは、脚本を書くことだった。 幼少時から、彼の身近には犯罪者の巣窟があって、「…いつも誰かが奴らを退治してくれないかと思っていた…」という。そして遂に、その時がやって来た! ダフィーは、「…武器じゃなくてペンと映画で…」悪人退治を実行することにしたのである。 映画学校などに通ったことがないダフィーは、友人から映画脚本の書き方について手本を見せてもらうと、自らが抱えた嫌悪感を、バーテンダーの勤務中にノートへと書き殴り、仕事が終わると、借り物のPCで入力した。「THE BOONDOC SAINTS」、直訳すれば、“路地裏の聖人たち”。日本公開時には『処刑人』という邦題が付く、この作品の脚本の完成までに要したのは、3ヶ月。時は96年の秋になっていた…。 ***** ボストンの精肉工場で働き、地元の教会の敬虔な信者である、コナーとマーフィーのマクナマス兄弟。行きつけの酒場に、ロシアン・マフィアのメンバーが、借金取り立ての嫌がらせにやって来た。居合わせた2人は、マフィアたちを袋叩きにする。 怒ったマフィアたちは数人で、兄弟のボロアパートを急襲する。それを返り討ちにして、全員を殺害。兄弟は、警察へと自首した。 拘留された留置場の夜、兄弟は“神の啓示”を受ける。~悪なる者を滅ぼし、善なる者を栄えさせよ~ 正当防衛が認められ、すぐに釈放となった兄弟は、大量の武器を調達。ロシアン・マフィアが集まるホテルの一室を襲撃して、ボスをはじめメンバー9人を、祈りを捧げながら、皆殺しにする。 兄弟の親友で、イタリアン・マフィアの使い走りをしていたロッコも、仲間に加わる。そしてロッコをハメようとしたイタリアン・マフィアの幹部や殺し屋などを、次々と血祭りに上げていく。 身の危険を感じたイタリアン・マフィアの首領ヤカヴェッタは、最強最悪の殺し屋で重要犯罪人刑務所に囚われの身だったエル・ドーチェを出獄させ、兄弟たちに刺客として差し向ける。 一方この連続殺人を追う、FBIのキレ者捜査官スメッカーは、兄弟たちの仕業に、次第に共感を覚えるようになっていく…。 ***** 脚本が出来上がったタイミングで、ダフィーはかつてのバーテンダー仲間の友人と再会する。友人は「ニュー・ライン・シネマ」の重役アシスタントとなっており、ダフィーの脚本をハリウッドへと持ち込んだ。 時は『パルプ・フィクション』(94)成功の興奮が冷めやらず、犯罪映画をスタイリッシュに描く、“タランティーノ”症候群真っ盛りの頃。時制のズラしやスローモーションなどを駆使した、本作脚本への反響は大きく、「ニュー・ライン・シネマ」「ソニー・ピクチャーズ」「パラマウント」等々の間で、争奪戦になったのである。 しかしダフィーは、なかなか首を縦に振らなかった。そんな中で「パラマウント」との間には、本作ではなく、内容も未定で、まだ一行も書いてない2作品の脚本を50万㌦で売るという、“青田買い契約”が、先にまとまった。 97年3月になって、本作の脚本を勝ち取ったのは、当時は「ミラマックス」の社長だった、悪名高きハーヴェイ・ワインスタイン。脚本に30万㌦とも45万㌦とも言われる値を付け、製作費として1,500万㌦を用意したと言われる。それにプラスしてダフィーは、ワインスタインに様々な条件を呑ませた。 まず、ダフィーがバーテンダーを務めるスポーツ・バーを買い取った上で、その共同経営権を譲渡すること。そして映画化の際は、ダフィーに監督を委ね、キャスティングの最終的な決定権を渡すこと。更にはダフィーのバンドに、サウンドトラックを担当させること等々であった。 この契約は、大きなニュースとなり、ハリウッド中の話題となった。しかし、ダフィーの“有頂天”は、6週間ほどで終わりを告げる。「ミラマックス」との製作交渉は、なかなか最終合意に至らなかった。中途からワインスタインは、直接のコンタクトを一切拒絶するようになり、97年11月には、本作の製作は取りやめとなる。それと同時に、スポーツ・バーの買収から、バンドデビューの話まで、一切が立ち消えとなってしまった。 巷間伝わる話によると、「ミラマックス」側が兄弟役やFBIの捜査官役に、ブラッド・ピット、ビル・マーレイ、シルベスター・スタローン、マイク・マイヤーズ、ジョン・ボン・ジョヴィといったキャストを推し当てようとしたことに、ダフィーが反発。それでいてダフィー側が、ユアン・マグレガーやブレンダン・フレーザーといったスターとの出演交渉に失敗したことなどが、積み重なった結果だと言われる。 ダフィーは起死回生に、主役の兄弟役として、TVシリーズの「インディ・ジョーンズ/若き日の大冒険」(92~93)でタイトルロールを演じ、注目されたショーン・パトリック・フラナリーと、プラダのモデルなどを務めていたノーマン・リーダスという、2人の若手俳優を見つけ出して、自費でスクリーン・テスト用のショートフィルムまで製作。それを「ミラマックス」にプレゼンしたと言われるが、功を奏さず、遂には破談に至った。 もっともこの2人が、最終的には本作の主演となって、「他には考えられない」ような当たり役とすることを考えると、無駄骨だったとは言えないが…。 「ミラマックス」との交渉決裂後は、かつての争奪戦が嘘のように、本作の製作に乗り出そうという大手映画会社は、姿を消した。結局インディー系である「フランチャイズ・ピクチャーズ」が、「ミラマックス」の半分以下の予算である製作費700万㌦を提示。ダフィーは、それに乗った。 兄弟役に次ぐ、重要な役どころと言える、FBIのスメッカー捜査官には、ウィレム・デフォーの出演を取り付けた。ゲイでナルシストで天才肌のプロファイラーという、キレキレの役どころにデフォーが見事にハマったのは、衆目の一致するところであろう。 本作は、98年8月にカナダのトロントでクランクイン。その後ボストンを巡って、9月下旬には無事撮影を終えた。 ポスト・プロダクションを経て、作品は翌99年4月末に完成。ところがその直前に、ある“大事件”が起きたことで、本作の行く手にはまたもや、暗雲が広がる。 4月20日、コロラド州のコロンバイン高校で、銃乱射事件が発生。銃器を駆使するヴァイオレンス映画に対して、反発が強まった。その上、本作の兄弟の出で立ちが、“トレンチコート・マフィア”と呼ばれた、事件の犯人の少年たちの服装に、カブるものがあったのである。 本作のアメリカでの一般公開は、暗礁に乗り上げそうになる。最終的にはダフィーが一部自腹を切るという条件で、2000年1月に、ニューヨーク、ロサンゼルス、ボストンの3都市5館で2週間のみの上映に漕ぎ着ける。興行収入は3万㌦しか上がらず、もはや本作、そして時同じくしてバンド活動も不発に終わったダフィーの命運は、尽きたものと思われた。 ところが“神”は、本作とダフィーを見放さなかった。2月にビデオの販売とレンタルが始まると、口コミで徐々に人気が広がっていき、やがてインディー作品としては、ベストセラーとなる。その後DVDなども発売され、遂にはアメリカ国内だけで、5,000万㌦を超える売り上げを記録するに至った。 海外での展開も、概ね順調な推移を見せるようになっていく。日本では当初劇場公開はせずに、ネットでのプレミア配信とビデオ発売のみの予定だったのを変更。2000年10月に『処刑人』というタイトルで、「東京ファンタスティック映画祭」で初上映。翌01年2月には、全国30館で3週間の興行を実施した。 小規模の限定公開だったにも拘らず、興行収入は1億円に達し、その後発売されたビデオとDVDは、大ヒット。レンタル店では、高回転の超人気ソフトとなったのである。 製作を取りやめた「ミラマックス」に対し、ダフィーは見事な意趣返しを果たした!…と言いたいところだが、実は『処刑人』が上げた収益は、契約の不備から、びた一文ダフィーの懐には入っていない。 また世界中から届くようになった、“続編”を望む声にも、ダフィーはなかなか応えることが出来なかった。『処刑人』の製作会社「フランチャイズ・ピクチャーズ」と訴訟沙汰となったため、身動きが取れない状態が、長く続いたのである。 結局『処刑人Ⅱ』の製作・公開は、第1作からほぼ10年後。ファンは、2009年まで待たなければならなかった。 それから更に10年以上の時が経ち、監督だけでなく兄弟役の2人も、今や50代である。ショーン・パトリック・フラナリーは、映画やTVの中堅俳優として活躍。ノーマン・リーダスは、2010年から続くTVシリーズ「ウォーキング・デッド」で、一躍人気スターとなった。 俳優としてのキャリアを積み重ねた、フラナリーとリーダス。それに比べて監督のダフィーは、ほぼ『処刑人』シリーズのみで語られる存在となっている。 そんな3人の座組は変わらずに製作されるという、『処刑人』のPART3。リーダスのアイデアを盛り込みながら、フラナリーと共同で書く脚本で、ダフィー監督はメガフォンを取ると伝えられている。 既報通りであれば、今年5月にクランクインということで、もう撮影は行われている筈だ。第1作から二十数年の歳月を経て、50代トリオがどんな『処刑人』を見せてくれるのか? まずは第1作でシリーズのスタートを体験した上で、是非想像していただきたい。■ 『処刑人』© 1999 FRANCHISE PICTURES. ALL RIHGTS RESERVED
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PROGRAM/放送作品
レッド・スパロー
[R15+]美しき女スパイが危険な諜報戦に挑む!ジェニファー・ローレンス主演の官能サスペンスドラマ
ジェニファー・ローレンスが『ハンガー・ゲーム』のフランシス・ローレンス監督と再び組んだスパイサスペンス。色仕掛けと巧みな心理操作術を武器とするロシア人スパイを、濡れ場を辞さない体当たりで熱演している。
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COLUMN/コラム2022.04.22
ジョン・ウェインのターニングポイントとなった、巨匠ハワード・ホークス初の“西部劇”『赤い河』
“デューク(公爵)”の愛称で、長くハリウッドTOPスターの座に君臨した、ジョン・ウェイン(1907~79)。“戦争映画”などの出演も多かったが、特に“西部劇”というジャンルで、数多の名作・ヒット作の主演を務め、絶大なる人気を誇った。 ジョン・ウェインと言えば、やはり“西部劇の神様”ジョン・フォード(1894~1973)作品のイメージが強い。出世作となった『駅馬車』(39)をはじめ、『アパッチ砦』(48)『黄色いリボン』(49)『リオ・グランデの砦』(50)の“騎兵隊三部作”や『捜索者』(56) 『リバティ・バランスを射った男』(62)等々、フォード監督作には、20数本に渡って出演している。 生涯、フォードを尊敬して止まなかったと言われるウェイン。しかしインタビューでは、こんな本音も覗かせている。 「わたしがスターになれたのは、たしかに『駅馬車』のおかげだ。しかし、ジョン・フォード監督はわたしを俳優として認めてくれなかった-ハワード・ホークス監督の『赤い河』に出たわたしを見るまでは」 ハワード・ホークス(1896~1977)は、サイレント期に監督デビューし、以降40年以上に渡って、スクリュー・ボール・コメディからミュージカル、メロドラマ、ギャング映画、航空映画、そして西部劇等々、様々なジャンルの作品を世に送り出した。ハリウッドではその多様性から、長らく“職人監督”として軽視されるきらいがあったが、フランスのヌーヴェルヴァーグの映画作家などに熱狂的に支持されたのを機に、本国でも60年代から70年代に掛けて、「再評価」の機運が高まった。今日では彼を紹介する際、“巨匠”と冠することに、躊躇する者は居ない。 そんなホークスは、こんな風に語っている。 「ジョン・ウェインくらいウエスタン・ヒーローにふさわしく、肉体的にも精神的にも、がっしりとした、たくましい男はいない。しかも、彼くらい的確な映画的感覚を持った俳優をわたしは知らない」 ホークスがウェインと組んだ作品は、5本で、その内4本が“西部劇”。初顔合わせとなったのが、本作『赤い河』(48)である。そしてこれは、ホークスにとって初の“西部劇”でもあった。 ***** 19世紀半ば、開拓民の幌馬車隊に同行していたトーマス・ダンソン(演:ジョン・ウェイン)は、牧畜に適した土地の目星を付け、そこに向かうことにする。相棒のグルート(演:ウォルター・ブレナン)1人と、自分の牛数頭を引き連れて。 その際に恋人フェンも同行を望んだが、危険な道中を思って、ダンソンは頑なに拒む。そして、牧場を持ったあかつきには、彼女を必ず迎えに行くことを誓う。 しかしダンソンたちが離れた隊は、先住民に襲われ、フェンも殺されてしまう。隊の唯一の生き残りとなった、12歳の少年マットを仲間に入れて、ダンソンたちは“レッド・リバー”を越え、テキサスへと向かった。 占有権を主張するメキシコ人との対決を経て、広大な土地を我がものとした、ダンソン。大牧場主として君臨する、第一歩を踏み出した。 それから14年…。南北戦争が終結した頃、テキサスでは食肉が捌けなくなり、牧場が抱える1万頭もの牛も、二束三文の価値しかなくなってしまう。そこでダンソンは、食肉の需要が見込める、北部のミズーリへと牛たちを大移動させる計画を立てる。 彼と共にロングドライブに挑むのは、相棒グルートに、成長したマット(演:モンゴメリー・クリフト)、そしてダンソンが雇ったカウボーイたち。道中では彼らに、次々と苦難が襲い掛かる。長雨や食糧不足、牛の大群のスタンピード=大暴走、山賊や先住民の脅威…。 リーダーとして、時には仲間の命を奪ってでも、統率を図ろうとするダンソンに、不満や反発が強まっていく。まったく聞く耳を持たない強権的で頑迷なダンソンに、遂に彼が我が子同様に育ててきたマットも、叛旗を翻す。 ロングドライブから置き去りにされたダンソンは復讐を誓い、マットたちの後を追うが…。 ***** 1万頭もの牛を、テキサスの10倍の値が付く北部へと大移動させる、“キャトル・ドライブ=牛追い旅”。『赤い河』の原案になったのは、その2,000㌔前後にも及ぶ行程で起こる様々な軋轢や事件を、史実に基づいて描いた、ボーデン・チェイスの小説である。 アメリカの“フロンティア・スピリット”を象徴するかのようなこの題材に惹かれたホークスは、映画化権を買い、チェイスに脚本も依頼した。しかし実際に作業に入ると、チェイスは原作の改変に抵抗。共同脚本のチャールズ・シュニーと一緒に仕事をしようとはせず、後々までホークスのことを悪し様に言い続けることになった。そんなチェイスについてホークスは、「…余り虫が好かなかった。彼は単なる馬鹿だ…」などと、後に斬り捨てている。 ダンソンの演者として、ホークスが当初イメージしていたのは、ゲーリー・クーパー。しかしクーパーには断わられ、ジョン・ウェインに依頼することに。 当時40代を手前にしたウェインは、それまではフォード以外には、一流と言える監督と仕事をしたことがなかった。ホークスからのオファーに喜びを感じつつ、一点気ががりだったのが、年を取った男を演じることだった。 そんなウェインにホークスは、声を掛けた。「デューク、君ももうすぐ老人になる。その練習をしておいたらどうだ」 ウェインはそれで、納得させられた。いざ撮影に入ると、自分をいつまでも“新人”のように扱うフォードと違って、ホークスとは対等な関係が築けたという。 マット役には、当時の全米ロデオチャンピオンである、ケイシー・ティッブズを考えた。しかし演技経験のない若者と、ウェインの組み合わせに、ホークスがリスクを感じるようになった頃、ティッブスが腕を骨折。彼が映画スターとなる機会は、失われた。 その後他の候補を経て、行き着いたのが、当時ブロードウェイの舞台で高い注目を集めていた、モンゴメリー・クリフト(1920~66)だった。アクターズ・スタジオ仕込みの、いわゆる“メソッド俳優”だったクリフトは、映画初出演作に『赤い河』が決まると、すぐにロケ地のアリゾナへと飛んだ。そこで一級のカウボーイと3週間を過ごして、乗馬・投げ縄・射撃を学び、クランクインする頃には、“西部劇”の所作を自分のものとしていた。 撮影現場ではクリフトと、ウェイン&ホークスの相性は、必ずしも良いものではなかったと伝えられる。しかし、撮影は本作の後ではあったが、同じ年に先んじて公開された、フレッド・ジンネマン監督の『山河遙かなり』(48)と合わせて、クリフトは映画の世界でも、一躍脚光を浴びる存在となる。 ダンソンの相棒グルート役には、ウォルター・ブレナン(1894~1974)がキャスティングされた。ブレナンはアカデミー賞史上でただ一人、助演男優賞を3回受賞している名脇役であるが、ホークスとの出会いとなった作品は、『バーバリー・コースト』(35~日本では劇場未公開)。 初めて会った時に、ホークスがセリフのテストをしようとすると、ブレナンは、「なしで、それとも、ありで?」と尋ねたという。ホークスが何のことかわからずにいると、それは“入れ歯”を入れたままセリフを言うか、それとも外して言うかという意味だった。ブレナンは30代の頃、撮影中に馬に蹴られて、歯を欠いてしまっていたのだ。 その後すっかり、ブレナンはホークスのお気に入りとなった。実は『赤い河』では、ブレナンと出会った時の“入れ歯”のエピソードをアレンジした、秀逸なギャグが登場する。具体的には観てのお楽しみとしておくが、その背景を知っておくと、ホークスとブレナンの信頼関係が伝わってきて、実に楽しい。 ロング・ドライブの終盤で、マットと恋に落ちるテス・ミレー役を演じたのは、ジョアン・ドルー(1922~96)。ドルーの役どころは、ホークスの諸作に登場する、いわゆる“ホークス的女性像”の典型と言える。機知とカリスマ性を持って、男性に対して強気な物言いをする。そして欲しいと思ったものを得るためには、行動的になるキャラクターである。 原住民の襲撃に出遭い、ミレーの肩に矢が突き刺さる場面がある。そしてこれが、マットとの運命的な出会いともなる。痛みを訴えることもなく、顔色ひとつ変えないミレーと、彼女を助けようとするマットのやり取りは、まさに“ホークス的女性像”を象徴する、見せ場となっている。 本作のクライマックスは、ダンソン=ウェインVSマット=クリフトの対決。壮絶な殴り合いとなるのだが、義理の父子は拳を交わす中で、お互いへの想いを確認していく。こうした展開は、ホークスの他の作品にも見受けられるのだが、彼は「…わたし自身がそういうかたちで親友を得たという体験にもとづいているのかもしれない…」と語っている。 ダンソンとマットは、親子という以上に、ライバルの意識を持っており、そんな人間同士の関わりがどのようにして生まれるか? ホークスはそれを、表現しようとしたのだという。 本作でウェイン演じるダンソンは、“レッド・リバー”とダンソンの頭文字であるDを象ったデザインのマークを、牧場の門柱に掲げ、牛の焼き印として使用している。本作撮影を記念して、このデザインをあしらったガンベルトのバックルが作られ、監督や主要キャストに配られた。 そしてウェインはその後、“西部劇”に出演する際はいつも、このバックルを身に付けるようになる。その理由を、彼は次のように語っている。「…ウエスタン・ベルトにぴったりのデザインだし、幸運がついているんだよ…」 先に記した通り、それまでウェインを「俳優として認めてくれなかった」ジョン・フォードだったが、本作を観て、「あの木偶の坊が演技できるとは知らなかった」と、親友だったホークス相手につぶやいたという。そしてそれをきっかけに、フォード作品に於けるウェインも、人間的に深みのある役どころが多くなっていく。 またウェインは、本作の大ヒットによって、翌年初めてボックス・オフィス・スターの4位にランクイン。以降20年以上、ベスト10入りを続けた。『赤い河』は紛れもなく、ウェインのターニングポイントとなり、映画俳優としての地位を盤石なものとしていく、記念碑的な作品だったのである。そして本作は、「AFI=アメリカ映画協会」が2008年に選定した「西部劇ベスト10」では、第5位にランクインしている。■ 『赤い河』© 1948 Metro-Goldwyn-Mayer Studios Inc. All Rights Reserved.