良き理解者を得て実現した究極のペキンパー映画

そのキャリアを通じて他に類を見ない「暴力の美学」を追求し、一切の妥協を許さぬ厳しい姿勢ゆえに映画会社との衝突が絶えなかった孤高の映画監督サム・ペキンパー。彼ほどスタジオからの横やりに悩まされた監督はいなかったとも言われているが、そんなペキンパーが「自分のやりたいように作った」と自負した数少ない映画のひとつであり、「良くも悪くも、好むと好まざるに関わらず、これは自分の映画だ」とまで言い切った作品が『ガルシアの首』(’74)である。

その前年に公開された西部劇『ビリー・ザ・キッド/21歳の生涯』(’73)では撮影中から製作会社MGM社長との対立や自身のアルコール問題の悪化、さらにはインフルエンザの蔓延など次々とトラブルに見舞われ、さらにはフィルムの編集権を取り上げられズタズタに切り刻まれるという憂き目に遭ってしまったペキンパー。そんな彼のある意味で救世主となったのが、後にペキンパーのエージェントともなる映画製作者マーティン・ボームだった。ペキンパーの良き理解者であったボームは、映画界の問題児として既に悪名高かった監督から持ち込まれた企画を引き受けたばかりか、彼が自由に映画を撮れるよう取り計らったという。メキシコの大地主の娘を孕ませた男ガルシアの首を巡って、殺し屋たちが凄まじい争奪戦を繰り広げて死体の山が積みあがっていく…基本的にただそれだけの映画のために資金繰りなど奔走するわけだから、よっぽど監督への理解と信頼がなければ実現不可能だったはずだ。

メキシコの大地主エル・ヘフェ(エミリオ・フェルナンデス)の娘テレサが妊娠する。子供の父親が誰なのか問い詰めるエル・ヘフェ。頑として口を割らなかったテレサだったが、しかし激しい拷問に耐えかねて「アルフレド・ガルシア」という名前を口にする。かつてエル・ヘフェが息子のように可愛がっていた部下だった。怒りの収まらない彼は「ガルシアの首を持ってきた奴には賞金100万ドルを払う」と宣言。グリンゴ(白人)の忠実な右腕マックス(ヘルムート・ダンティーネ)にその任務が託される。ちなみに、日本の資料では大地主とされているエル・ヘフェはスペイン語で「ボス」という意味。劇中で具体的な説明や描写がないため解釈は分かれるが、犯罪組織のボスとも考えられる。

それから数か月後、マックスのもとでガルシアの行方を追うスーツ姿の殺し屋コンビ、サペンスリー(ロバート・ウェッバー)とクイル(ギグ・ヤング)は、メキシコシティの小さな酒場へ立ち寄る。2人から報奨金と引き換えにガルシアのことを尋ねられ、これ見よがしに答えをはぐらかす元米兵のピアニスト、ベニー(ウォーレン・オーツ)。ガルシアは店の常連だったのだが、報奨金を吊り上げられると睨んで黙っていたのだ。店の従業員から自分の恋人エリータ(イセラ・ヴェガ)がガルシアと浮気していたと聞かされ憤慨するベニー。彼女を問い詰めてガルシアの居場所を聞き出そうとしたベニーだが、そこでエリータは思いがけない事実を彼に伝える。ガルシアは1週間ほど前に飲酒運転で事故死していたのだ。

たまげると同時にホッとするベニー。なんだ、もう死んでいるんだったら殺す手間も省ける。埋葬された死体から首を切り落とし、証拠として差し出せば済むじゃないか。こんな旨い儲け話はないぞ、というわけだ。元締めマックスのもとへ意気揚々と乗り込んだベニーは、既にガルシアが死んでいることを隠して報奨金を1万ドルに吊り上げ、ガルシアの首は俺が持ってくるから任せろと自信たっぷりに仕事を引き受ける。だが、ガルシアが埋葬された墓地を知っているのはエリータだけ。そこで、彼は一緒にピクニックへ行こうと彼女を誘い出し、生死を確認するだけだと誤魔化してガルシアの墓へ案内させようとする。

ベニーの言い訳がましい説明に首を傾げつつも、久々に2人きりで過ごす時間に満ち足りた幸福を感じるエリータ。長い付き合いとなる2人だったが、しかしいつも肝心な話題になると逃げてしまうベニーは、これまでちゃんとエリータに愛を告白したことがなかった。彼女がガルシアと浮気をしてしまった理由も、ベニーのその煮え切らない態度のせいだ。ここへきてようやく、大金が手に入った暁には結婚式を挙げようというベニー。なぜ今までプロポーズしなかったのかと問い詰めるエリータに、思わず彼は「分からない。今なら分かるが」と言葉を詰まらせる。本音を言えば「男のプライド」が邪魔したのだろう。しがない貧乏人のピアノ弾きのままでは、愛する女と結婚する資格などないと。一緒に苦労する覚悟のあるエリータにしてみれば、2人で暮らせるならそれだけで幸せなのだが、しかし男は女に楽をさせてこそ一人前という、下らない「男のプライド」に縛られたベニーにはその覚悟がなかったのだ。

ちなみに、このシーンはベニーが言葉を詰まらせる場面で終わるはずだったという。だが、役に入り込んだエリータ役のイセラ・ヴェガが「だったら今すぐプロポーズして」と台本にないセリフを続け、そのアドリブに呼応するようにベニー役のウォーレン・オーツが演技をつなげ、2人して喜びにむせび泣くという実に味わい深くも感動的な大人のラブシーンが出来上がったのである。実は事前にヴェガとペキンパーは打ち合わせをしていたとも言われているが、しかしそれにしても監督の言わんとするところを十二分に理解し、何も知らされていない共演者を巻き込みながら、求められる以上の芝居へと昇華させた女優イセラ・ヴェガの鋭い勘と豊かな才能には舌を巻く。もちろん、この予期せぬ展開にきっちりと応えてみせたオーツも素晴らしい。これこそが役者魂というものだろう。

身の破滅を招く「男らしさ」という幻想

しかし、これを境にベニーとエリータの運命は雲行きが怪しくなっていく。車のエンジントラブルで野宿することにした2人だったが、通りがかった2人組のバイカー(クリス・クリストファーソン&ドニー・フリッツ)に拳銃で脅され、エリータがレイプされてしまう。奪った拳銃でバイカーどもを射殺するベニー。2人はいよいよガルシアの故郷へと到着する。死体の首を切り取って持ち帰るというベニーに呆れるエリータ。お金なんてなくたっていい、このまま引き返しましょうと訴える彼女だったが、しかし意固地になったベニーは全く耳を貸さず、仕方なしに折れたエリータは真夜中に墓地へ向かう彼に同行する。意を決してガルシアの墓を掘り起こすベニー。ところが次の瞬間、背後から忍び寄った何者かに頭を殴られて気絶し、意識を取り戻すと既にガルシアの首は持ち去られており、ベニーの横には愛するエリータの亡骸が横たわっていた。にわかに状況を呑み込めずにいたものの、しかしふつふつと湧き上がる怒りと悲しみに打ちのめされ、やがて激しい憎悪に駆られていくベニー。もはや復讐の鬼と化した彼は、ガルシアの首を奪い返してエリータの仇を討つべく暴走していく…。

もともと本作の企画はペキンパーが『砂漠の流れ者』(’70)の撮影中、同作でセリフ監修を務めた盟友フランク・コワルスキーの何気ないアイディアによって生まれたのだという。「首に懸賞金のかかった男が実は既に死んでいた」という設定を気に入ったペキンパーは、当時彼の愛弟子的な存在だった脚本家ゴードン・ドーソンに脚本の草稿を依頼する。『ダンディー少佐』(’65)の衣装アシスタントだったドーソンは、そのケンカの強さをペキンパーに気に入られ、以降も『ワイルド・バンチ』(’68)や『砂漠の流れ者』、『ゲッタウェイ』(’72)などに関わってきたという親しい仲。彼は師匠であるペキンパーをモデルに主人公ベニーを書き上げ、主演のウォーレン・オーツもペキンパーの特徴を模倣しながら演じたという。ドーソンによると、いつものようにペキンパーが脚本を自由に書き換えると思っていたそうなのだが、最終的にベニーのキャラだけがそのままになっていて驚いたらしい。

本当は心優しくて気が弱い男なのに、タフで男臭いアウトローを演じてみせるベニー。心から愛する女に対しても素直になれず、ついつい粗末に扱ってしまう。なんとも矛盾した格好悪い男なのだが、しかしそれゆえに憎めないというか、なぜか愛さずにはいられない。なるほど、確かに近しい関係者から伝え聞くペキンパーの実像に似たものが感じられるだろう。もしかすると、ペキンパーも自分がベニーの元ネタであることを重々承知のうえだったのかもしれない。なにしろ、当時のペキンパーは『ビリー・ザ・キッド~』の一件で打ちのめされていた時期。自信を失い卑屈になった負け犬ベニーに、自らの姿を投影していたとも考えられる。「これば自分の映画」という彼の言葉には、そういう意味も含まれているのだろう。

そもそも、本作に出てくる男たちは揃いも揃ってみんな矛盾を抱えている。思考と行動が首尾一貫しているのはエリータとエル・ヘフェの娘テレサくらい。つまりは女性だけだ。父親の威厳を保つため手下に最愛の我が娘を拷問させるエル・ヘフェをはじめ、クールなビジネスマン風の紳士コンビを気取ったゲイ・カップルの殺し屋サペンスリーとクイル、見ず知らずの子供たちを可愛がりつつ平然と人を殺す手下のチャロとクエト。エリータをレイプするバイカーたちだって中身は無邪気な子供も同然だ。誰もが人間らしい感情や愛情を内に秘めながらも、しかしなぜかそれが相反する暴力へと向かい、最終的には悲惨な末路を辿ることになってしまう。彼らが執拗にこだわり続け、それゆえに身の破滅を招く原因になったもの。それはマチズモ、つまり「男らしさ」という幻想であろう。彼ら(ゲイ・カップルを含め)は男らしさを誇示するため女を粗末にし、そればかりか自分より弱い男も暴力で踏みつけ力を誇示する。自身も男らしさにこだわり男らしく振る舞っていたというペキンパーだが、実のところそれが内面の弱さの裏返しであることに自覚があり、社会にとって害悪を及ぼすものであると考えていたのではないか。本作を見ているとそんな風にも思えてくる。

なお、今でこそペキンパーの隠れた名作として世界的に高く評価され、当時の彼にとって渾身の一作であったはずの『ガルシアの首』だが、しかし劇場公開時は批評家からも観客からも理解されずに総スカンを食らってしまった。当時ヒットしたのは日本だけだったとも言われる。そのことを我々は誇ってもいいかもしれない。■

『ガルシアの首』© 1974 Metro-Goldwyn-Mayer Studios Inc. All Rights Reserved.