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COLUMN/コラム2025.12.12
『アビス』再考 — 技術と『アバター』に接続するキャメロン的哲学を探る
◆デジタル表現の起点と、その功績 1989年に公開された『アビス』は、映画技術史における革命として評価を得ている。『ジュラシック・パーク』(1993)や『トイ・ストーリー』(1995)がデジタル技術の飛躍点として語り継がれているいっぽう、そのベースをつくったのは『アビス』と断じて相違ない。なかでも液体形状を自在に変えることのできる“ウォーター・テンタクル”のショットは、当時としては信じがたいほど高度なCG表現であり、ILMが実写とデジタルをいかに融合させるかという課題に本格的に挑んだ瞬間でもあった。この表現は後の『ターミネーター2』(1991)のT-1000へと進化し、やがてハリウッドのビジュアル文化を根底から変えていく。 しかし技術革新はCGだけにとどまらない。作品制作のために建造された巨大水槽は、俳優たちを事実上、水中生活させるほど徹底しており、監督ジェームズ・キャメロンの掲げた「現場におけるリアルの追求」が極限の形で現れている。俳優たちはヘルメット越しに呼吸しながら、視界が制限され、光が散乱し、暗闇が支配する水中での演技を強いられた。その結果として生まれた映像は、セット撮影では得られない重層的なテクスチャを備えている。深海の圧迫感や浮遊粒子の微細な揺らぎは、VFXだけではとうてい補うことのできない、身体性のあるプラクティカルな臨場感をもたらしたのだ。 さらに特筆すべきは、キャメロンが技術のための技術ではなく、物語に奉仕する技術という姿勢を徹底させている点だ。高圧環境に酸素残量の減少、狭い潜水艇や暗闇、そして未知との遭遇といったシチュエーションは、いずれも緊張そのものが観客の感覚に直結する仕掛けとして設計されている。科学技術の描写も精密だが、キャラクターたちが置かれた極限状況を観客が“体験”できるように設計されているのだ。 こうして見ると『アビス』は2020年代の今日でも驚くほど古びていない。キャメロンが2022年に発表した『アバター:ウェイ・オブ・ウォーター』における最新の水中でのモーションキャプチャー技術は、『アビス』が築いた“水の映画作り”という礎石の延長線上にある。キャメロンにとって水はテーマ以上に、創作上不可欠な試練の舞台であり、物事の限界を拡大していくための実験場でもある。 そして何よりも本作は、映画技術がアナログからデジタルへと移行する過渡期に立ち会い、その流れを方向づけた作品である。キャメロンが後に生み出す『タイタニック』(1997)や『アバター』(2009)の圧倒的リアリティと普遍的なラブロマンスは、まさに本作によって開けた深海の扉から始まったのだ。 ◆深海が映し出す人間ドラマとテーマ 前述したように『アビス』は技術革新の映画として語られるが、その本質はあくまで人間ドラマにある。深海という閉鎖空間は、キャラクターの内面を物理的に圧縮し、矛盾・葛藤・恐怖をむき出しにする装置として機能している。こうした極限状況のドラマ運用はキャメロンの十八番だが、本作はその最初期にしてひときわ完成度が高い。一見すると軍事スリラーやSFとして構築されているが、物語の軸には「人間は恐怖の中でどう変容し、どう繋がり直すのか」という普遍的なテーマが置かれている。 特にバド(エド・ハリス)とリンジー(メアリー・エリザベス・マストラントニオ)の関係性は、本作が他のSF作品と差別化される最大の要素だ。離婚間近で互いの信頼が揺らぐ中、二人は深海という極限環境で再び向き合わされる。相手に酸素を託す、冷水の中で心肺機能が停止した体を必死に蘇生する。これらの場面はサスペンス以上に、感情の再接続として機能している。深海の暗闇に反射するヘルメットライトが二人の表情を照らし出すたびに、互いへの感情がわずかに動き出す。その丁寧な積み上げは『タイタニック』や『アバター』に通じる、身体的な愛の描写の原型だ。 いっぽうで、物語の外側には冷戦末期の国際情勢が影を落としている。潜水艇内にある核弾頭をめぐる緊張、軍人たちの誤認と暴走、見えない敵への疑心は、いずれも1980年代後半の社会不安そのものだ。未知の知性体(NTI)へ向けられる恐怖と敵意は、人類が他者を理解する前に攻撃してしまう心理を象徴している。キャメロンはこの構図を単なる政治寓話とせず、未知を恐れることで自ら破滅へ向かうという人類の宿痾として描いている。これは後の『アバター』で全面化するテーマでもある。 深海という舞台そのものも非常に象徴的だ。光の届かない領域は潜在意識の暗部のように、キャラクターたちの恐れと欲望を増幅させる。圧力や孤立、静寂や時間感覚の喪失。こうした深海特有の要素がドラマを多層化し、観客に心理の深層を可視化させる。バドが深海へ単身降りていくクライマックスは、まさに自分自身の深淵と向き合う儀式的な瞬間だ。 『アビス』が今見ても強い共感性と緊張を持つのは、海洋SFという以上に、人間の物語として設計されているからだろう。深海の暗闇に浮かび上がる人間の感情のきらめき。それこそが本作の永続的な魅力なのだ。 ◆『アバター』経由後のキャメロン的哲学の核心 シリーズ最新作『アバター:ファイアー・アンド・アッシュ』の公開となった現在、『アビス』を観直すことには特別な意味がある。それはキャメロンの作家的関心がどのように発達し、どのように連続し、どこへ到達しつつあるのかを、最も鮮明に示してくれる基点が本作だからだ。深海の知性体と人類の邂逅という構図は、異種族同士の交流を描く『アバター』世界の原型であり、環境的存在と人類との調停というキャメロンの思想は、すでに本作で明確な形となってあらわれている。 まず注目するべきは、キャメロンの一貫した「環境との対話」というテーマだ。『アビス』に登場する未知の知性体(NTI)は、人類を敵視する存在ではなく、自然の代弁者として描かれる。彼らが作中で示す驚異的な力は、破壊ではなく警告であり、地上の核兵器に象徴される人類の自己破壊性を、鏡のように映し出す役割を担っている。これは『アバター』シリーズにおけるエイワの概念、つまり自然と生命の調和を象徴する統合的な意識の前身とも言える。 またキャメロン作品には常に「下降」のモチーフがある。『ターミネーター』の未来戦争の残骸、『エイリアン2』の巣窟、『タイタニック』の沈没船、そして『アバター』における精神的な深層への潜行など、どれも主人公が不可知な試練へと降りていくシチュエーションだ。『アビス』でバドが深海へ単身降りていくシーンは、キャメロンのこの美学が初めて正面から描かれた瞬間といえる。降下は死の象徴であると同時に再生の出発点であり、主人公が“自分を越える”ための通過儀礼でもある。バドは物理的な死を覚悟しながらも、他者への信頼と愛ゆえに深海へ進む。この構図は、キャメロンが後の作品でも繰り返す“自己犠牲による進化”という主題の中心に位置する。 物語構造にもキャメロン的特徴は色濃い。対立から協力へ、恐怖から理解へ、そして孤立から再接続へ。この流れは『ターミネーター2』から『タイタニック』、そして『アバター』と続くキャメロンの語りの根幹である。『アビス』はその最初の実験場でありながら、すでに驚くほど成熟した形でこの物語構造を達成している。特に、クライマックスで示される「人類への警告と赦し」という構図は、キャメロン作品の中でも最もストレートな希望表現であり、これが作品独自の余韻を生んでいる。 そして何より本作を再評価することは、キャメロンが描こうとする「人類の未来像」を理解するうえで不可欠だ。監督が不断に追い求めるのは、人間中心主義を越えた存在のあり方であり、その視座は深海の底からパンドラの世界へと連続している。水や光、未知との対話、環境との調停etc。これらはすべてキャメロン作品を貫くキーワードであり、そのすべてが『アビス』に集約されている。 こうして振り返ると『アビス』は、キャメロン映画世界の最初の震源地であり、後の巨大スケールの作品群を理解するうえで必読なテキストと言える。『アバター』を起点とするキャメロンの表現世界を解読するための鍵は、実は本作の、深海の底に沈んでいるのだ。■ 『アビス』(C) 1989 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2025.12.04
孤独な現代人へのメッセージも込められた古典的名作の見事なアップデート『LIFE!/ライフ』
原作小説を大胆に翻案した’47年版 1939年に雑誌「ザ・ニューヨーカー」に掲載された作家ジェームズ・サーバーの小説「ウォルター・ミティの秘密の生活」。平凡な日常生活を淡々と送る平凡で冴えない男性ウォルター・ミティが、毎週恒例である妻の美容院と買い物に付き合って出かけたところ、その道すがら自らの英雄的な活躍を妄想した5つの白日夢を見る。ある時は猛烈な嵐に立ち向かう海軍飛行艇のパイロット、ある時は困難な手術を華麗にこなす天才的な外科医、そしてある時は命がけの秘密工作に挑む英国軍兵士。そこから浮かび上がるのは、地味で控えめで温厚なため周囲から過小評価され、かといって大胆な行動を取るような勇気も度胸もなく、白日夢という束の間の現実逃避に救いを見出すしかない凡人の姿である。 恐らく、世の中に彼のような夢想家は決して少なくないはず。むしろ、誰しも心の中に「小さなウォルター・ミティ」を抱えているのではないだろうか。そんな普遍的ストーリーが多くの読者の共感を呼んだのか、たったの2ページ半にしか過ぎない短編小説「ウォルター・ミティの秘密の生活」は大変な評判となり、これまでに2度もハリウッドで映画化されている。それが当時の日本人からも熱愛された喜劇王ダニー・ケイの主演作『虹を掴む男』(’47)と、ベン・スティラーが監督と主演を兼ねた本作『LIFE!/ライフ』(’13)である。 まずは最初の映画化である『虹を掴む男』について振り返ってみよう。ダニー・ケイ扮するウォルター・ミティは、ニューヨークの出版社に勤務するしがないサラリーマン。パルプ小説雑誌の編集部で真面目に働くウォルターだが、しかし過干渉で口うるさい母親には小言ばかり言われ、自己中な社長には自分の企画やアイディアを片っ端から盗まれ、我儘な婚約者とその母親には都合よくこき使われ、幼馴染のガキ大将にはいまだ小バカにされている。日頃からウォルターの尊厳を土足で踏みつけておきながら、しかしその自覚が全くない周囲の人々。なぜなら、気が弱くてお人好しなウォルターが怒りもしなければ反論もせず、それどころか自分を卑下して相手に従ってしまうため、むしろ彼らは無能で頼りないウォルターを自分たちが助けてやっている、親切にしてあげていると勘違いしているのだ。 いつも周囲から軽んじられ不満を溜めたウォルター。そんな彼にとって唯一のストレス解消が「白日夢」である。ある時は大海原の激流に立ち向かう勇敢な船長、ある時は患者の病気だけでなく医療機器の不具合まで直してしまう天才外科医、ある時は詐欺師どもをコテンパンにやっつける西部の天才ギャンブラーなど、まるで自分が編集しているパルプ雑誌の小説に出てくるような無敵のヒーローになってブロンド美女を救う様子を夢想するウォルター。そんなある日、通勤列車の中で白日夢に出てくる美女と瓜二つの女性ロザリンド(ヴァージニア・メイヨ)と出くわした彼は、やがて行方不明になったオランダ王室の秘宝を巡る陰謀事件へと巻き込まれ、愛するロザリンドを救うため暗殺者の執拗な追跡をかわしながら、秘宝の隠し場所を記した黒い手帳を探して大冒険を繰り広げていく。 ヒーロー願望を抱えた地味で目立たない夢想家の凡人という主人公ウォルターの基本設定を踏襲しつつ、原作とは似ても似つかないストーリーに仕上がった『虹を掴む男』。アクションありサスペンスありロマンスあり、さらにはミュージカルにファンタジーにドタバタ・コメディもありという大盤振る舞い。この大胆すぎる脚色は製作を手掛けた大物プロデューサー、サミュエル・ゴールドウィンの意向を汲んだものだったとされる。怒り心頭の原作者サーバーからは猛抗議を食らったそうだが、しかしテクニカラーの鮮やかな色彩で描かれる愉快で賑やかな大冒険は、これぞまさしく古き良きハリウッド・エンターテインメントの醍醐味。臆病者で気の弱いウォルターが、奇想天外な事件に巻き込まれて右往左往する中で意外にも英雄的な力を発揮し、数々の困難を乗り越えることで自信をつけていくという負け犬の成長譚を通して、勇気をもって一歩踏み出せば誰だってヒーローになれる!という前向きなメッセージを込めた筋書きも実に後味が良い。名作と呼ばれるに相応しい映画と言えよう。 21世紀の現代版は原作小説よりもその映画版に近い? そんなウォルター・ミティの物語を再び映画化すべく動き出したのが、『虹を掴む男』のプロデューサーだったサミュエル・ゴールドウィンの息子サミュエル・ゴールドウィン・ジュニア。企画自体は’94年頃からあったらしく、当初はウォルター役にジム・キャリー、監督はロン・ハワードという顔合せだったという。しかしプロデューサー陣の満足するような脚本がなかなか出来ず、業界用語で開発地獄(Development Hell)と呼ばれる長期間の難産状態に陥ってしまった。 ようやくスティーヴン・コンラッドの書いた脚本でゴーサインの出たのが’10年のこと。企画立ち上げから実に15年以上が経っていた。その間に映画会社重役からプロデューサーに転身したゴールドウィン・ジュニアの息子ジョン・ゴールドウィン(つまりサミュエル・ゴールドウィンの孫)が製作陣に加わり、オーウェン・ウィルソンやマイク・マイヤーズ、サシャ・バロン・コーエンなどがウォルター役の候補に挙がっては消え、スティーヴン・スピルバーグやチャック・ラッセル、マーク・ウォーターズなどが監督候補として企画に関わったが、しかし最終的にベン・スティラーが主演と監督を兼ねることで落ち着く。こうして作られたのが本作『LIFE!/ライフ』だったのである。 ◆『LIFE!/ライフ』撮影中のベン・スティラー(中央) 今回の主人公ウォルター・ミティ(ベン・スティラー)は、世界的に有名な老舗フォトグラフ誌「ライフ」の写真管理責任者。仕事に関しては真面目で有能な完璧主義のプロフェッショナルだが、その一方で性格は几帳面かつ保守的で冒険や変化を好まず、それゆえ職場でも地味で目立たない存在だ。1ヶ月前に入社したシングル・マザー女性シェリル(クリスティン・ウィグ)に淡い恋心を抱いているが、しかし一緒の職場に居ながら話しかける勇気さえない。毎日同じことを繰り返す平凡で退屈な人生。かつてはモヒカン刈りでスケボーが大好きな腕白少年だったが、早くに父親と死別したことから母親(シャーリー・マクレーン)を支えるため働き続け、そのため外の世界を見に行くような余裕すら持てなかった。なので、シェリルと接点を持ちたいと考えて入会した出会い系サイトでも、プロフィールに書けるようなエピソードは全くなし。そんなウォルターにとって唯一の現実逃避は、勇敢なヒーローとなって大活躍する自分の姿を思い描くこと。空想の中だけでは理想の自分になれるのだ。 そんな折に「ライフ」誌の休刊が発表され、オンラインへの移行に伴って大掛かりな人員整理が行われることとなる。事業再編のため外部から送り込まれた新たなボス、テッド(アダム・スコット)は、「ライフ」誌の果たしてきた役割もその文化的な価値も全く理解していない杓子定規なビジネスマン。誰がクビを切られてもおかしくない。社員一同が戦々恐々とする中で進められる最終号の準備。その表紙を飾る写真を担当するのは、「ライフ」誌の看板フォトジャーナリストである冒険家ショーン・オコンネル(ショーン・ペン)である。ウォルターのもとにはショーンから大量の写真ネガと、ウォルターの長年の堅実な働きぶりに対する感謝の手紙、そしてささやかな贈り物として革財布が届けられるのだが、しかし最終号の表紙に使うよう指示された25番のネガだけがどこにも見当たらなかった。 いったい肝心の25番はどこにあるのか?テッドからは真っ先に表紙写真を見せるように催促されているウォルター。とにかく、ショーンと連絡を取ってネガの行方を突き止めなくてはならないが、しかし写真撮影のため世界中を飛び回っている彼の居場所を掴むのは至難の業。想いを寄せるシェリルから外の世界へ一歩踏み出すよう背中を押されたウォルターは、僅かな手がかりをもとにショーンを追いかけてグリーンランドからアイスランド、アフガニスタンへと渡り、ヘリから北海へジャンプしてサメと格闘したり、火山の大噴火から決死の脱出を試みたりと、ちょっとあり得ないような大冒険を繰り広げていくことになる。 『虹を掴む男』と同じく、ジェームズ・サーバーの原作とは大きく異なる内容となったベン・スティラーの『LIFE!/ライフ』。むしろ、アクションやサスペンスをふんだんに盛り込んだ娯楽性の高さや、主人公ウォルターが実際に平凡な日常を飛び出して奇想天外な冒険を繰り広げ、その数奇な体験を通して逞しい人間へと成長するという展開は、どちらかというと『虹を掴む男』のストーリーに近いと言えよう。ウォルターの職場が出版社というのも同じ。そういう意味で、本作は短編小説「ウォルター・ミティの秘密の生活」の2度目の映画化というより、『虹を掴む男』のリメイクと呼ぶ方が相応しいかもしれない。 全体を通して21世紀の世相を巧いこと取り込んだ脚本だと思うが、中でも特に良かったのがウォルターの勤務先を「ライフ」誌という実在の雑誌編集部に設定したことであろう。インターネットの普及に伴う出版不況によって、’07年に惜しまれつつ休刊した老舗のフォトグラフ雑誌「ライフ」。そこで屋根の下の力持ちとも言うべき写真管理を任され、たとえ目立つことのない地味な仕事であっても、コツコツと真面目に職務をこなしてきたウォルター。これは、臆病で控えめで自己肯定感の低い平凡な男性が、自分の殻を打ち破って自尊心を取り戻す物語であると同時に、テクノロジーの目覚ましい発達によって何もかもが合理化され、急速に変化する社会で上手く立ち回った人間ばかりが得をする現代にあって、ウォルターのように不器用でも目立たない存在でも、勤勉で慎ましくて思いやりのある誠実な人間こそが真のヒーローと呼べるのではないか?と見る者に問いかける。つまり、この社会を構成する我々ひとりひとりが既にヒーローなのだ。それを象徴するのが、最終号の表紙を飾るショーンの撮った写真。このように同時代の世相を通して人間の有り様を考察する視点の面白さと奥深さこそが、本作と『虹を掴む男』の最も大きな違いと言えよう。 加えて、劇中で何度も登場する「ライフ」誌のスローガンにも要注目。「世界を見よう、危険でも立ち向かおう、壁の裏側をのぞこう、もっと近づこう、お互いを知ろう、そして感じよう、それが人生(ライフ)の目的だから」。これは、今までの人生で一度も遠くへ行ったことがなかった、冒険をしたことがなかった、他者と深くつながったことのなかった主人公ウォルターへのメッセージであると同時に、インターネットの発達によって人間同士の関係性が希薄になった21世紀の現代に生きる人々全てへ向けたメッセージでもある。そうやって考えると、90年近く前に書かれた小説、80年以上前に作られたその映画版をベースにしつつ、見事なくらいに現代性を纏った作品と言えるだろう。実に良く出来た古典のアップデートである。 もちろん、最先端のCG技術をフル稼働して描かれるウォルターの奇想天外な白日夢も大きな見どころ。アナログゆえ映像表現に限界のあった『虹を掴む男』の空想シーンと違って、デジタルを駆使した本作のそれには限界が全くない。文字通り何でもアリの異世界アドベンチャーが縦横無尽に展開する。また、映画の冒頭は無機質で整然としたモノトーンの映像で統一され、カメラもほとんど動くことがないのだが、しかしウォルターが外の世界へ踏み出すと同時にカメラも大胆に動き始め、色彩も次第に豊かとなっていく。この主人公の心理的な変化に合わせた演出スタイルの使い分けも面白く、その細部まで計算されたベン・スティラー監督の洗練された映像技法にも感心する。劇場公開時には批評家から高く評価され、興行的にも大成功を収めた本作だが、しかしアカデミー賞など賞レースで殆ど無視されてしまったのは惜しまれる。■ 『LIFE!/ライフ』© 2013 Twentieth Century Fox Film Corporation and TSG Entertainment Finance LLC. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2025.11.21
まさかのトランプ2期目を予見!?『シビル・ウォー アメリカ最後の日』
“シビル・ウォー=Civil War”という言葉は、アメリカでは、奴隷制度廃止などを巡って、1861年から65年に掛けて行われた内戦“南北戦争”を指す。近未来のアメリカが再び、血みどろの“内戦”に突入したという設定の本作『シビル・ウォー アメリカ最後の日』(2024)の、脚本・監督を担当したのは、イギリス人のアレックス・ガーランド。 彼にとっては、4本目の長編監督作品に当たる本作は、2016年にその発想のオリジンがある。この年アメリカでは、ドナルド・トランプが大統領に当選。イギリスでは、ボリス・ジョンソンらの扇動で、ブレグジット=EU離脱が、国民投票で可決されてしまった。 ジョンソンは後年、イギリス首相の座に就く。それ以外にも、イスラエルのネタニヤフやブラジルのボルソナーロなど、世界各国で強権的なポピュリスト政治家が台頭するようになっていった。 こうした世界の変化に思いを巡らせたガーランドは、2020年頃に本作の脚本を執筆。製作・配給会社のA24に諮ると、すぐに映画化が決まったという。 ***** 強権的な大統領の下で分断が進んだ、アメリカ合衆国。連邦政府から19の州が離脱し、テキサス州とカリフォルニア州の同盟からなる“西部勢力”と、“政府軍”の間で、“内戦”が勃発した。 戦闘は長期化したが、やがて西部勢力がワシントンD.C.への侵攻を窺う情勢となり、大統領が率いる政府軍の敗色は、日に日に濃くなっていく。 戦場カメラマンのリーと相棒の記者ジョエルは、もう14ヶ月間もマスコミの前に姿を現してない大統領への単独取材の計画を立てる。ニューヨークからD.Cまで1,379㌔。リーの恩師である黒人ジャーナリストのサミーと、リーに憧れる若手カメラマンのジェシーを乗せて、車の旅が始まった。 戦火が渦巻くアメリカで、過酷な“内戦”の実相を目撃していく一行。折々危険に曝され、遂には仲間の1人を失ってしまう。 そうした中で、大統領が立て籠もるホワイトハウスに、西部勢力の攻勢と共に、足を踏み入れる瞬間がやってくるが…。 ***** ガーランドは政治漫画家の息子で、子どもの頃は、父の友人のジャーナリストに囲まれて育った。彼の名付け親も、その内のひとり。 少年時代の経験から、当初はジャーナリストになることを夢見たガーランドは、20歳の頃、世界各地を旅して特派員の真似事をした。彼はそこで見聞きしたことを、ルポルタージュにまとめることを試みたが、失敗。ジャーナリストになることをあきらめた経緯がある。 方向性を変えたガーランドは、小説を執筆。その小説がダニー・ボイルによって、『ザ・ビーチ』(2000)として映画化されたことが縁となって、映画界に身を投じた。ボイル監督の『28日後…』(02)で脚本家デビューを果し、2015年には『エクス・マキナ』で、監督としてもスタートを切った。 そんなガーランドが、日頃強く感じていたのが、「政府とジャーナリズムは本来、両方ともバランスをとる役割があるけれど、共に今は正常に機能していない」ということ。 自由な国には自由な報道が絶対的に必要なのに、今やジャーナリズムには、昔のような力はなくなった。ジャーナリストたちも、必要な存在と見なされなくなってきている。 1970年代には、「ワシントン・ポスト」紙の2人の記者が、“ウォーターゲート事件”の真相を暴いたことによって、ニクソン大統領を、任期途中での辞任に追い込んだ。しかし今や、ニクソンなどより遥かに多くの悪事を為しているであろうトランプに、報道がトドメを刺すことなど、極めて困難な事態となっている…。 本作では、テキサス州とカリフォルニア州が組んで、大統領の圧政=ファシズムに対抗するという構図になっている。アメリカ政治の知識がある方には自明だが、テキサスはいわゆる“赤い州”。現在トランプが支配している共和党が、圧倒的に強い地域。一報カリフォルニアは“青い州”で、トランプと敵対する、野党民主党の金城湯池である。 というわけで現状に鑑みれば、テキサスとカリフォルニアが組んで、ファシズムに対抗するなどという事態は、非常に想像しにくい。ガーランドが敢えてこうした設定にしたのは、観客に特定のイデオロギーを感じさせないためだたったと思われる。 とはいえ強権的な大統領の振舞いは、イヤでもアメリカの現状を想起させる。本作では“内戦”が起こった原因は、直接的には描かれていないが、大統領が何をやったかは、端的に語られる。 まず注目すべきは、この大統領は、現在“3期目”を迎えているということ。アメリカの憲法では、大統領の任期は“2期=8年”までと、明確に定められている。ということは、何らかの手段を以て、憲法を無視する挙に出て、大統領の椅子に居座り続けているということである。 またこの大統領は、FBI=アメリカ連邦捜査局の解体に踏み切っている。即ち政府の暴走や大統領の犯罪的行為を取り締まる機関が、存在しなくなったというわけだ。また連邦国家であったアメリカに於いて、州を跨いでの犯罪捜査が不可能になってしまい、治安の悪化にも繋がっている。 そしてこの大統領は、アメリカ市民への空爆を実施したことが、語られる。アメリカの三権分立は空文化し、大統領が己の保身と抵抗勢力を踏み躙るためには、「何でもあり」の状態になってしまっているのだ。 この作品がアメリカで公開されたのは、昨年=2024年4月。トランプが大統領選2度目の勝利を収める、7ヶ月も前のこと。元々トランプは、“3期目”を目指すことを、折りに触れては滲み出していたが、今年1月に正式に大統領の座に返り咲くと、FBI長官に己の意のままになる者を就け、大幅な人員削減に着手。トランプ関連の捜査を行っていた、スタッフの首切りを実施している。 そしてトランプは、“治安維持”をお題目に、ロサンゼルスやメンフィス、首都ワシントンなど、野党民主党の勢力が強い都市に、次々と州兵を送り込んでいる…。 恐ろしいほどに、トランプ2期目の今のアメリカと、情勢が重なってくるのだ! 本作の主役と言えるのは、戦場カメラマンの2人の女性。ベテランのリー・スミスと、新人のジェシー・カラン。この2人の名は、ガーランドが尊敬する2人の戦場カメラマン、リー・ミランとドン・マッカランに因んでいる。 キルスティン・ダンストは「(本作の)脚本を読んでドキドキ」し、翌日には監督とミーティングを行っている。そしてリーの役を、「絶対に演じたい」、リスペクトするガーランドと「仕事をしたい」と、強く思ったという。 ジェシー役に抜擢されたのは、ガーランド監督のTVシリーズ「DEVS/デヴス」などに出演していた、若手女優のゲイリー・スピーニー。 ガーランド監督は、ジャーナリストを目指していた頃の若き日の自分を、ジェシーのキャラクターに反映。リーのモデルとなったのは、その当時にガーランドが親しくしていた、経験豊富なジャーナリストだという。 撮影現場では、ダンストとスピーニーは、本作に於けるリーとジェシーのように、日々を絆を深めていった。過酷な撮影の中で、スピーニーはダンストの家に行っては、その家族との交流の中で、癒されていたという。 ダンストにとってスピーニーは、「妹のような存在」となり、ある時に友人であるソフィア・コッポラ監督に紹介。それがきっかけとなって、スピーニーはコッポラの『プリシラ』(23)で、プリシラ・プレスリーを演じることとなった。 リーの相棒ジョエル役には、TVシリーズ「ナルコス」で、実在の麻薬王パブロ・エスコバルを演じた、ワグネル・モウラ。黒人の老ジャーナリスト、サミー役は、スティーヴン・マッキンリー・ヘンダーソンが演じた。 さて1シーンだけの出演だが、強烈な印象を残すのは、“虐殺”を主導する正体不明の民兵を演じるジェシー・プレモンス。 彼が放つ一言「What kind of American are you?(お前はどういう種類のアメリカ人だ?)」は、本作を象徴する強烈な名台詞となっているが、一体どんなシチュエーションで吐かれるかは、観てのお楽しみとしておきたい。 実はプレモンスの役は、当初別の俳優が演じることになっていたが、直前に降板。代役に思い悩むガーランド監督に、ダンストが、自分の夫であるプレモンスを、推挙したという流れだった。 撮影5日前に急遽出演が決まったプレモンスは、限りある時間で徹底的にリサーチ。兵士の話を聞きまくったという。因みに彼が掛けている赤いサングラスは、自ら用意した10種類ぐらいのメガネから、現場でピタッとハマったものを選んだという。 ガーランドは、絵コンテなどは用意せず、現場で起こることに即応して、撮影を進めていくタイプの監督。本作では小さな手持ち撮影のカメラを多用したという。 本作の軍事顧問を務めたのは、アメリカ海軍の特殊部隊ネイビー・シールズ出身のレイ・メンドーサ。彼の指導の下、画面に登場する兵士たちは、実際に従軍経験のある者ばかりだった。 クライマックスのホワイトハウス突入のシーンで、監督として兵士役の者たちに伝えたのは、カメラのことは気にしないで「普段通りに行動して」ということだけだったと。セリフも、兵士同士の普段の会話のため、ガーランドは、ドキュメンタリーを撮っているような感覚に陥ったという。 サウンド・デザインで銃器の怖ろしさを表現する工夫を施した本作は、アメリカでは163年前に“南北戦争”が勃発した、2024年の4月12日を選んで、公開。製作・配給のA24作品史上、最高のオープニング興収を樹立し、2週連続で興行ランキング1位を獲得する大ヒットとなった。 日本では大統領選直前の10月に公開となったが、それから1年余。現実を鑑みると、いま観た方が、更にゾッとする展開になっている。■ 『シビル・ウォー アメリカ最後の日』© 2023 Miller Avenue Rights LLC; IPR.VC Fund II KY. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2025.11.14
嵐の海を進む豪華客船に仕掛けられた“恐怖”——『ジャガーノート』の航跡
◆豪華客船を爆破の危機から救え! 1974年、イギリス映画『ジャガーノート』は、荒れ狂う北大西洋を舞台にしたサスペンス大作として製作・公開された。舞台となるのは総トン数約2万5千トンの豪華客船ブリタニック号。本船が大西洋横断の最中、何者かによって7つの爆弾を仕掛けられ、“ジャガーノート”を名乗る犯人が身代金として50万ポンドを要求する。荒天のため乗客の避難も不可能ななか、約1200人の乗客を救うべく爆薬処理班が派遣され、このシンプルかつ極限的な設定が、2時間近くにわたって観る者の緊張を持続させていく。 監督は、『ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』(1964年)や『ナック』(1965年)で知られる俊英リチャード・レスター。彼はこの作品で、前半に軽快なテンポを与えつつ、後半に向けて緻密なサスペンスへと収束させていく。冒頭、軍の爆薬処理班が悪天候の中、輸送機からパラシュートで降下し、激しく揺れる船に乗り移るまでの一連の場面は、まさしくスペクタクルの粋を感じさせる。だが物語が進むにつれてカメラは次第に静まりを見せ、船室にこもる静寂とともに緊張を描き出していく。わずか小指の先ほどの回路を前に、爆弾処理班の手元が震える。恐怖とは爆音ではなく沈黙の中にこそ潜むものだと、レスターは見事に示してみせたのだ。 主演のリチャード・ハリスが演じるフォーリング中佐は、爆弾処理のプロフェッショナルとして航行中の豪華客船に降下し、乗客の命を預かる立場に立たされる。彼の飄々とした佇まいながらも冷静な判断が、観客の恐怖と緊張をいっそう際立たせている。対してオマー・シャリフが演じる船長アレックス・ブルヌエルは、航海の責任に苛まれながらも、激動の海上で毅然と行動する男だ。二人の関係の緊張が映画の中心に静かな熱を生み出している。さらに デヴィッド・ヘミングス、 シャーリー・ナイト、イアン・ホルム、アンソニー・ホプキンスら名優が脇を固め、群像劇としての厚みを加えている。 撮影は実際の豪華客船を用い、北海や北大西洋の実際の海上で行われた。荒れた天候を利用してカメラを回し、スタジオでは再現できない海の重量感がスクリーンにあらわれている。音楽を担当したケン・ソーンのスコアも見事で、管弦の旋律が波と風の轟音に交錯し、緊迫感をさらに高めている。 『ジャガーノート』は、パニック映画の系譜に属しながらも、派手な群衆劇とは一線を画している。爆発の恐怖を描きながら、決して観客を必要以上にあおらない。映画は人間の理性と狂気のせめぎ合いを冷徹に観察し、恐怖を構造として見せていく。救命艇も出せぬ嵐の中、孤独な技術者が見えない敵と闘う。この孤独の構図こそが、本作を70年代サスペンスの中でも異彩を放っているのだ。 荒れ狂う波間を漂う〈ブリタニック〉は、単なる舞台装置ではなく、人間の理性と偶然、秩序と混沌の象徴そのものである。 ◆リチャード・レスター 才気と放浪の映像作家 そう、こうして『ジャガーノート』を語るうえで、監督リチャード・レスターを抜きにすることはできない。彼は生粋のイギリス映画人に見えるが、その出発点はアメリカ・フィラデルフィアにある。ペンシルベニア大学で心理学を学んだのち、テレビ業界に進み、20代にしてイギリスのテレビ界でディレクターとして頭角を現す。風刺とテンポ感に満ちた演出で注目を集めた彼は、やがて映画界へと進出し、『ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』で世界的な名声を確立する。CM演出なども手がけ、テンポの速い編集と軽妙なユーモアを武器に新しい映像感覚を確立していく。そして続く『ヘルプ! 4人はアイドル』(1965年)ではポップカルチャーの映像化に挑み、音楽映画というジャンルを根底から変えてみせた。 しかしレスターの野心は「ビートルズ映画の監督」という枠には収まらない。『ナック』ではカンヌ国際映画祭グランプリを受賞し、社会風刺と実験的映像を華麗に融合させた。その後、『ローマで起こった奇妙な出来事』(1966)や『ことづけられた情事(ペチュリア)』(1968)など、コメディからシリアスまで自在に行き来しながら、イギリス映画界に新風を吹き込んでいく。彼の作品には、常に登場人物を突き放して観察する冷静な視線と、どこか人間を愉快に眺めるようなバランス感覚が絶妙に機能し、それが後年の『三銃士』(1973年)や『四銃士』(1974年)の痛快さへと結実していく。 レスターにとって映画は、ジャンルやスタイルに縛られない実験の場だった。彼はしばしば「自分には固有のスタイルなどない。素材に導かれて動くだけだ」と語っている。その柔軟な姿勢こそが、まさに『ジャガーノート』への発火点となった。もともと他の監督による企画であり、前任の降板を受けて引き継ぐ形で参加したレスターは、自らの制約や演出スタイルを持ち込むことを避けた。だがそれでも結果的に、彼の作品群に通底する人間の滑稽さと理性への信頼が、思いがけず鮮明に浮かび上がることとなる。 ◆混沌の中の秩序──制作の舞台裏 『ジャガーノート』の誕生は、偶然の連鎖の産物だった。『三銃士』の撮影を終えたばかりのリチャード・レスターがスペインで休息を取っていた頃、プロデューサーのデニス・オデルから一本の電話が入る。新作サスペンスの監督ブライアン・フォーブスが降板し、代役を探しているというのだ。撮影開始までわずか4週間。多くの監督が尻込みする中で、レスターは即座に引き受けた。報酬は安く、準備期間もほとんどなかったが、彼にとって重要だったのは「作品そのものを愉しめるかどうか」という直感だけだった。 脚本はリチャード・アラン・シモンズによるものだったが、レスターは「全体を書き直すべきだ」と主張し、アラン・プラターとともに短期間で改稿を重ねた。結果、犯人像の曖昧さが残る代わりに、群像劇としての人間的リアリティが際立った。恐怖の根源は爆弾ではなく、人間の判断の誤差や偶然にあるという、レスターらしい視点である。完成版の脚本に不満を漏らしたシモンズは、“リチャード・デコッカー”の名でクレジットされた。 撮影は北海で行われ、使用されたのはのちに〈マキシム・ゴーリキー〉と改名されるドイツ客船〈ハンブルク号〉。嵐に見舞われながらの撮影は過酷を極め、多くの機材が損傷したという。レスターは即興の連続の中でも冷静さを失わず、リチャード・ハリスのカツラ問題を小道具の帽子で解決するなど臨機応変の才を発揮。撮影は予定より短期間で完了し、彼はすぐに『四銃士』の現場へ戻っていった。 公開後、『ジャガーノート』は興行的には中程度の成績にとどまったが、批評家たちはその緊張感とウィットを高く評価した。米『TIME』誌はレスターの演出を「冷静かつ風刺的」と評し、『Newsweek』も「同時期のパニック映画よりも爆弾処理の描写が現実的だ」と称賛。ポーリン・ケールは「冷たい人間描写」としながらも、その技巧を認めている。アメリカでは控えめな成績だったが、ヨーロッパでは一定の成功を収め、BBC放映時には1900万人が視聴した。 この作品でレスターは、ハリウッド的な誇張を避け、人間の知性と偶然のはざまにある静かなパニックを描いた。豪華客船ブリタニックが進むその姿は、社会という巨大な機構の象徴のようでもある。制御不能な力に翻弄されながらも、誰かが理性の火を絶やさずにいる──それがレスター流の英雄譚だったのだ。■ 『ジャガーノート』© 1974 METRO-GOLDWYN-MAYER STUDIOS INC.. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2025.11.05
混沌とする中東情勢の最前線をありのままに描く骨太な大人向けスパイ・アクション『カンダハル 突破せよ』
ハリウッド・アクションを牽引する新たな名コンビ ジョン・フォード監督&ジョン・ウェインの例を出すまでもなく、古今東西の映画界において何本もの作品で繰り返しタッグを組む、いわゆる名コンビと呼ばれる監督と主演俳優の顔合わせは枚挙に暇ない。それはアクション映画のジャンルでも同様のこと。古くはドン・シーゲル監督&クリント・イーストウッドにハル・ニーダム監督&バート・レイノルズ、もっと近いところだとガイ・リッチー監督&ジェイソン・ステイサムやアントワーン・フークア監督&デンゼル・ワシントンあたりか。B級アクション・マニアにはマイケル・ウィナー監督&チャールズ・ブロンソンとか、アーロン・ノリス監督&チャック・ノリスなんかも捨て難かろう。最近のハリウッドであればピーター・バーグ監督&マーク・ウォールバーグ、そして今回のテーマであるリック・ローマン・ウォー監督&ジェラルド・バトラーのコンビも外せまい。 スタントマンとして『リーサル・ウェポン2』(’89)から『デイズ・オブ・サンダー』(’90)、『ラスト・アクション・ヒーロー』(’93)から『60セカンズ』(’00)まで数多くのアクション映画に携わり、監督としてもヴァル・キルマー主演の『プリズン・サバイブ』(’08)やドウェイン・ジョンソン主演の『オーバードライヴ』(’13)などを手掛けたリック・ローマン・ウォー監督。一方のジェラルド・バトラーは『オペラ座の怪人』(’04)のファントム役でスターダムを駆け上がるも、以降は筋骨隆々の肉体美で古代スパルタ王レオニダスを演じた『300(スリーハンドレッド)』(’06)などのアクション映画を中心に活躍する。 そんな2人が初めて出会ったのは、『エンド・オブ・ホワイトハウス』(’13)と『エンド・オブ・キングダム』(’16)に続いて、ジェラルド・バトラーが無敵の米大統領シークレット・サービス、マイク・バニングを演じる大人気アクション映画『エンド・オブ~』シリーズの第3弾『エンド・オブ・ステイツ』(’19)だった。実は、シリーズのテコ入れとして新規路線を打ち出すべく起用されたというウォー監督。アクション映画の主人公は現実離れした無敵のヒーローである必要などない。いや、むしろ欠点や弱点があればこそ観客は主人公に我が身を重ねて共感し、決して完璧ではないヒーローが困難を乗り越えていく姿に勇気と希望をもらえる。常日頃からそう考えていた監督は主人公マイク・バニングを寄る年波や職業病で密かに苦しむ不完全で人間的なヒーローとして描き、アクション・シーンにもリアリズムを持ち込むよう努めたという。 この新たな方向性に共鳴したのが、他でもない主演俳優のジェラルド・バトラー。「一度に50人を殺しても無傷でいられるようなヒーローを演じるのにウンザリしていた」というバトラーは、たとえ悪役であろうと登場人物の人間性を大事にする、物語を安易な勧善懲悪に落とし込まない、アクションをただの見世物にしないというウォー監督の信条に強く感銘を受けたらしい。この『エンド・オブ・ステイツ』ですっかり意気投合した2人は、翌年の『グリーンランド-地球最後の2日間-』(’20)でも再びタッグを組むことに。ここでも「非日常的な状況下でリアルな人間像を描く」ことを目指したウォー監督は、巨大隕石の衝突という地球滅亡の危機から家族を救わんとする主人公を「異常な状況に直面したごく普通の父親」として描き、演じるバトラーもその期待に応えるよう努めたという。そんな名コンビが三度顔を合わせ、今度は緊迫する中東情勢をテーマにしたスパイ・アクション映画が『カンダハル 突破せよ』(’23)である。 身元の割れたスパイ、最悪の危険地帯から脱出なるか!? 主人公はMI6(英国秘密諜報部)の工作員トム・ハリス(ジェラルド・バトラー)。優秀な潜入工作のプロとして信頼されるエリートだが、しかし常に家庭よりも任務を優先させてきたため夫婦関係は破綻し、年頃の娘ともすっかり疎遠になってしまっている。おかげで妻とは離婚することに。せめて娘との関係だけでも修復したいと考えた彼は、CIAに要請されたイランの地下核施設を破壊するための極秘任務を無事に終えると、娘の卒業式に参列するためドバイ経由でロンドンへと向かう。ところが、ドバイ在住のCIA仲介役ローマン(トラヴィス・フィメル)から呼び出され、次なるミッションを依頼される。CIAはイランの核開発を阻止するため、ダイバードの秘密滑走路を奪う計画だった。そこで、まずはアフガニスタンのヘラートへ向かい、そこから再びイランへ潜入して任務を遂行しろというのだ。いや、娘の卒業式があるから…と断ろうとしたトムだったが、しかし断り切れずに引き受けてしまう。やはりこの仕事が好きなのだ。 かくしてアフガニスタン入りしたトム。2021年にアメリカと多国籍軍が完全撤退した同国だが。しかしその後もタリバンやパキスタン、インド、ロシア、中国、さらにはISIS(イスラム国)までもが入り乱れて勢力争いを繰り広げ、もはや冷戦時代のベルリンのような様相を呈していた。工作員にとってはまさに最悪の危険地帯。地元の各言語に精通して土地勘のある優秀なサポート役が必要だ。そこでローマンが白羽の矢を立てたのが、家族と共にアメリカへ移住したアフガニスタン系移民の中年男性モハマド・ダウド(ナヴィド・ネガーバン)である。偽造パスポートで身分を偽って入国したモハマド(通称モー)。バレたら逮捕・拷問は免れない。一般人の彼がなぜそんな危険を冒してまで祖国へ戻り、CIA工作員の通訳を引き受けたのか。実は、ヘラートで学校教師をしている妻の妹が消息を絶ってしまい、その行方を探そうと考えたのである。女性の教育に否定的なタリバンに拘束された可能性があった。 先に現地入りしていたモーと合流したトムは、イランへ潜入する準備を着々と進めていたところ、そこで予期せぬ事態が起きてしまう。国防総省の関係者からリークされた情報をもとに、中東におけるアメリカの秘密工作を取材していた女性記者ルナ・クジャイ(ニーナ・トゥーサント=ホワイト)がイラン革命防衛軍の特殊部隊、通称コッズ部隊によって逮捕され、そこからイラン地下核施設の破壊工作に関与したトムと同僚工作員オリヴァー(トム・リース・ハリーズ)の偽名と顔写真がマスコミに公開されてしまったのだ。イラン国内に留まっていたオリヴァーは殺され、ファルザド・アサディ(バハドール・ファラディ)率いるコッズ部隊はトムを捕らえるべく国境を越えてヘラートへと向かう。そればかりか、地元を支配するタリバンやその支援をするパキスタン軍統合情報部(ISI)工作員カヒル(アリ・ファザル)など各勢力が、トムを捕らえてイランへ高値で売り飛ばすために動き始めるのだった。 すぐに任務中止を指示してトムとモーの脱出を計画するローマン。30時間後にカンダハルのCIA基地から英国機が飛び立つ。それが残された唯一のチャンスだ。かくしてヘラートから640キロ離れたカンダハルへ向かうトムとモー。ローマンもアフガニスタン国陸軍特殊部隊の協力を得て、彼らの脱出を支援するべく現地へ向かう。果たして、トムとモーは無事に生きて家族のもとへ戻れるのか…? 中東情勢の今をリアルに投影したストーリー 脚本を書いたミッチェル・ラフォーチュンは元DIA(アメリカ国防情報局)エージェント。本作は長いことアフガニスタンで諜報活動に携わっていた彼の、実体験をベースにしたフィクションである。最初に脚本を読んでドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の『ボーダーライン』(’15)を連想したというウォー監督。同作が麻薬戦争の最前線を内側からリアルに描いたように、本作も中東における「影の戦争」の最前線を内側からリアルに描いているのだ。ただし、脚本のオリジナル版が執筆されたのは’16年のこと。その後、アフガンからアメリカが完全撤退するなど中東情勢が大きく変化したため、ウォー監督の指導のもとで脚本も書き直されている。 ウォー監督が本作で強くこだわったのは、特定の勢力を悪魔化も英雄化もすることなく、我々と同じ長所も短所もある人間として描くこと。そして、中東情勢における過酷な現実をありのままに描きつつ、決して監督自身の意見を押し付けたりはしないこと。自らの役割は問題を提起して論議のきっかけを作ることであり、その答えは観客自身が導き出すべきだと考えたのである。なので、中東諸国の政情不安を招く原因を作ったアメリカおよび西欧諸国の罪にハッキリと言及しつつも、しかしそれを一方的に断罪したりはしない。我々は「どの陣営にも悪質な個人は存在するが、しかし全員がそうではない」という当たり前の事実を忘れ、集団全体を悪魔化してしまう傾向にあるというウォー監督。本作でも例えば、コッズ部隊のリーダーであるファルザドは一般人を拉致して拷問したり、主人公トムを抹殺するべく執拗に追いかけてきたりするが、しかしプライベートでは妻子を心から愛する良き家庭人であり、なおかつ決して仕事を楽しんでいるわけではない。あくまでも上からの指示に従っているだけ。むしろ、彼自身はできればこんなことしたくないと考えているように見受けられる。 それは主人公トムとて同じこと。彼も基本的には家族や友人を愛する善良な人物だが、しかしイランの地下核施設の破壊工作では、たまたまそこで働いていただけに過ぎない大勢の職員たちを死に至らしめている。確かに彼自身がボタンを押したわけではないが、殺戮に加担してしまったことは間違いないだろう。とはいえ、トムにとってみればそれもまたただの仕事。上から指示された任務を遂行したまでに過ぎない。彼らに共通するのは、幸か不幸かその分野で他者よりも優れた才能を持っていること、なおかつその仕事に生きがいを感じてしまっていること。そのうえ、暴力が暴力を呼ぶ弱肉強食の残酷な「影の戦争」の世界に慣れて感覚が麻痺してしまい、もはや抜け出したくても抜け出せなくなっている。それゆえトムは家族から見放されてしまった。この戦場=職場が自分の居場所、自分のアイデンティティとなってしまった仕事人間たちの戦いに、「影の戦争」に終わりが見えない理由の一端が垣間見えると言えよう。 そうした中で異彩を放つのが、パキスタン軍統合情報部(ISI)の若きエリート工作員カヒルの存在だ。現地で支配を広げるタリバンと祖国のパイプ役を務め、与えられた職務は完璧に遂行するカヒルだが、しかしプライベートでは高級ブランドのファッション・アイテムを好んで電子タバコをたしなみ、最先端のヒップホップを聴いて出会い系アプリを利用してレンジローバーを乗り回す今どきの若者であり、旧態依然とした中東から自由な西欧社会へ脱出する道を模索している。この人物像には、ウォー監督自身がサウジアラビアで体感した中東社会の「今」が投影されているという。 イランやアフガニスタンでの撮影が現実的に不可能であるため、ムハマンド・ビン・サルマン皇太子の主導によって’18年より多方面での自由化が進むサウジアラビアでロケされた本作。脚本家ラフォーチュンと共に一足早く現地入りして製作準備を進めていたウォー監督は、超保守派の旧世代と進歩派の新世代が衝突するさまを目の当たりにしたという。仕事と祈りと睡眠以外の変化を一切望まず伝統的な生活様式を頑なに守らんとする旧世代に対して、自由で近代的で文化的な西洋的価値観を望む新世代。その対立構造がカヒルを通して本作のストーリーにも反映され、観客が中東の在り方を考えるうえで重要な材料の一つとなっている。 すっかりファミリー向けアニメとブロックバスター映画に市場を占拠されてしまった昨今、かつて毎週末映画館で楽しむことの出来た「大人向けアクション映画」の復権を望むリック・ローマン・ウォー監督と、志を同じにするというジェラルド・バトラー。この『カンダハル 突破せよ』は、そんな2人がタッグを組んだ現時点で最良のお手本と言えよう。’26年の年明けには『グリーンランド-地球最後の2日間-』の続編『Greenland 2: Migration』(‘26・日本公開未定)が公開される予定で、今後は『エンド・オブ~』シリーズの第4弾『Night Has Fallen』(スケジュール未定)の企画も控えている。ウォー監督&バトラーの名コンビからますます目が離せなくなりそうだ。■ 『カンダハル 突破せよ』© 2022 COLLEAH PRODUCTIONS LIMITED. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2025.10.17
快楽ではない、バイオレンスの“苦痛”―『ワイルドバンチ』
◾️監督サム・ペキンパー、最高傑作誕生の舞台裏 1960年代末、アメリカ映画は旧来の西部劇神話からの脱却を迫られていた。ベトナム戦争や公民権運動を経て、人々は単純な善悪を超える、現実的な暴力と道義の崩壊をスクリーンに求め始めていたのだ。映画監督サム・ペキンパーはその時代精神に感応し、『ワイルドバンチ』(1969)を「アメリカ神話の葬送曲」として構想した。それは暴力の本質と、その倫理的痛みを可視化する試みだったのだ。 作品の撮影はメキシコ・コアウィラ州とドゥランゴ州でおこなわれ、81日間に及ぶ過酷なロケとなった。撮影監督ルシアン・バラードのもと、ペキンパーは複数台のカメラを異なるフレームレートで同時に使用し、スローモーションとマルチアングル編集を組み合わせる革新的な手法を採用。編集担当であるルー・ロンバルドは現場から同行し、ペキンパーと一体となって構成を創り上げた。撮影素材は膨大で、初期編集版はランニングタイムが3時間45分に達したという。そこから半年をかけて1/3を削り、編集し終えたときにはインターミッションを含めて150分に収められ、ショットの構成数は3.642カットになった(これはそれまで撮られたカラー映画としては最多記録)。こうした削除と再構成を経て、『ワイルドバンチ』は沈黙と爆発、緊張と緩和を反復する独自のリズムが形成されたのだ。 とりわけ編集の特徴は、人物の記憶や心情を示すフラッシュバックをストレートカットで挿入した点にある。当時のワーナー上層部は時制の混乱を理由に反対したが、ペキンパーは譲らず、結果としてこの技法は後の映画編集に大きな影響を与えた。また音響にも徹底したこだわりを見せ、銃ごとに異なる発砲音を作り分け、権威ある映画テレビ技術者協会の音響効果賞を受賞している。音楽もジェリー・フィールディングが半年以上を費やして作曲し、重層的な暴力の叙事詩を完成させた。 しかし完成までの道のりは平坦なものではなかった。1969年5月の一般向けプレビューでは、観客の多くが暴力描写に衝撃を受け、賛否両論が噴出した。ペキンパーの意図は暴力を快楽ではなく痛みとして描くことにあったが、スタジオ側は「残酷すぎる」と判断し、先のフラッシュバックの件も含めて上映時間の短縮を求めた。制作責任者ケネス・ハイマンの擁護も空しく、経営交代で新任のテッド・アシュリーが着任すると、監督不在のままフィル・フェルドマンが約10分を削除。主にカットされたのは以下である。 【1】ワイルドバンチのリーダー、パイク・ビショップ(ウィリアム・ホールデン)の旧友ディーク・ソーントン(ロバート・ライアン)が、いかにして捕えられたかを描くフラッシュバック。 【2】パイクの恋人オーロラがどのように殺され、パイク自身が負傷するに至った経緯を示すフラッシュバック。 【3】パイクの部下クレージー・リー(ボー・ホプキンス)がフレディ・サイクス(エドモンド・オブライエン)の孫であり、パイクが冒頭の強盗で意図的に彼を見捨てたことを示す砂漠のシーン。 【4】マパッチ将軍(エミリオ・フェルナンデス)が電報を待つ間に、パンチョ・ヴィラの軍勢から襲撃を受けるシーン。 【5】アグアベルデでのパンチョ・ヴィラ襲撃後の余波を描くシークエンス。 【6】約1分間にわたる、エンジェルの村での祭りの場面。 いずれも“暴力の中の倫理”を語る重要な挿話であり、この改変は全米規模で実施され、上映地域によって異なる長さのプリントが混在するという混乱を招いた。ペキンパーはこれを「暴力に人間味を与える部分を切り捨てた裏切り」と激しく非難している。興行的には健闘したものの、監督の意図は損なわれ、作品は血と硝煙のバイオレンスとして受け取られた。彼が本来描こうとしたのは、暴力を見つめる者たちの沈黙をとおし、時代の終焉を哀惜するものだったのである。 興味深いのは、この時点で削除された映像の多くが、ヨーロッパ配給用ネガとして保管されていたことだ。そこには列車強盗後にパイクが仲間を思い出すフラッシュバックや、村の子どもたちがバンチを真似る場面などが含まれていた。これらは後年の復元版で再び息を吹き返すことになるが、その萌芽はすでに撮影段階からペキンパーの構想に組み込まれていた。彼にとって『ワイルドバンチ』とは暴力を美化する映画ではなく、“崩壊する道義と失われゆく友情”を見つめるための作品だったのである。 ◾️バージョン変遷 ―上映・編集違いの実際 こうして『ワイルドバンチ』は公開以来、半世紀を経ても複数のバージョンが併存する稀有な作品となってしまった。その背景には先に挙げたように制作現場での編集方針の対立と検閲、商業的制約が複雑に絡み合っている。ペキンパーは脚本段階から「無法者たちの最期」と「裏切りと贖罪の物語」という二重構造を意図しており、編集は単なるテンポ調整ではなく、記憶と倫理を挿入する構築作業だった。 1969年3月に完成した試写版(約145分)は理想形に近かったが、アメリカ公開版では「テンポが遅い」「上映回数が減る」との理由で約135分に短縮された。削除されたのは、ペキンパーが「沈黙こそ最も雄弁」と称した場面群であり、結果として観客には壮絶な銃撃シーンの印象だけが強まった。 その削除作業は異例で、スタジオが各地の映写所に編集者を派遣し、現場で物理的にフィルムを切るという強引な方法が執られた。このため地域ごとに内容が異なるプリントが存在する事態となり、アメリカから“監督版”は失われた。長尺版はヨーロッパ市場にのみ残り、1970年代には名画座や大学上映を通じて“幻の完全版”として語り継がれた。 ●『ワイルドバンチ』は、1980年代のアメリカにおけるVHSやレーザーディスクなどのパッケージメディアでは、145分版の素材がマスターとして使用されていた。いっぽう日本では135分のアメリカ劇場公開バージョンが商品化されている。写真はその国内版レーザーディスク(筆者所有のもの)。当時、日本のファンの間では「カット版か」と敬遠されがちだったが、現在となっては削除シーンを比較・検証するうえで貴重な資料的価値をもつ。 時代を経て1980年代末、AFI(アメリカン・フィルム・インスティチュート)とワーナー・ブラザースが過去作品の修復プロジェクトを開始し、その過程でオリジナルネガの一部とヨーロッパ版マスターが再発見された。編集者ルー・ロンバルドとフィルム保存専門家が中心となり、ペキンパーのノートや脚本を参照しながら再構成を実施。1995年に145分の「ディレクターズカット版」が正式に復元・再公開されたのだ。ここで戻されたのは先に挙げたシーンに加え、冒頭の村人たちが放つ無言の視線、列車強奪後のフラッシュバック、決戦前の沈黙の間、そしてエピローグの子どもが銃を拾う場面である。これらはどれも“暴力を見つめるまなざし”を補完する重要な要素であり、ペキンパーが意図した倫理的リズムを回復させたのだ。 復元したものは一時NC-17指定を受けたが、問題視されたのは暴力描写そのものではなく、“子どもの視点から暴力を映す倫理性”だった。最終的にR指定へ戻されたが、同じ映像でも時代の感覚や文脈によって評価が変わることを示す象徴的な出来事となった。 以後、このディレクターズカット版が標準となり、135分の短縮版は歴史的資料に位置づけられた。2006年のDVD「Two-Disc Special Edition」ではさらに音声と色調が修復され、ペキンパー本来の編集意図がより強化された。編集者ロンバルドは「ペキンパーは一瞬の沈黙に真実を置いた」と語り、復元の本質が単なる長尺化ではなく、映画の呼吸の回復にあることを示したのだ。 ◾️ディレクターズカット版の意義と受容 『ワイルドバンチ ディレクターズカット版』の成立は映画史における、作家の権利回復を象徴する事件だった。ペキンパーが生前に完全な形での再上映を実現できなかったことを考えると、これは彼の死後に成し遂げられた和解でもある。このレストアによってオーディエンスは、初めて彼が意図した「暴力を見つめる沈黙」と「崩壊する友情の哀切」に、正面から向き合うことができるようになったのだ。 このディレクターズカット版の意義は、二つの側面から論じられる。第一に、映画そのものの構造的回復だ。削除されていたフラッシュバックや沈黙のカットが戻ることで、物語は単なるガンマンの最期から、裏切りと赦しの連鎖を描く悲劇へと変容する。特にパイクとデイクの過去を示す短い回想は、暴力に至る彼らの疲弊を浮き彫りにし、決戦の瞬間を暴力の快楽から、道義的な選択へと転化させている。この編集の復権によって、映画全体がペキンパー本来のリズムと思想を取り戻したのだ。 そして第二には、映画史的な意義だ。1990年代のレストアは、マーティン・スコセッシやロバート・ハリス、フランシス・フォード・コッポラらによるフィルム保存運動の流れの中で実現した。ペキンパーの名誉回復は、監督のヴィジョンを尊重するという新たな産業倫理をうながした。ワーナーはこの作品以降、スタジオによる再編集を避け、ディレクターズ・カットを尊重する方向へと転換する。つまり『ワイルドバンチ』は、ハリウッドにおける“作家主義の制度化”を後押しした記念碑でもあるのだ。■ 『ワイルドバンチ【ディレクターズカット版】』© 1969 Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2025.10.15
観客を“タイムトラベル”に誘う…。『ある日どこかで』のはじまり、そして名作として花開くまで
1972年。劇作家志望の大学生リチャード・コリアは、初公演の打上げで、多くの人々に囲まれ、称賛を受けていた。 そんな彼を、品のある老女がじっと見つめていた。彼女はリチャードに近づくと、一言。 「私のところに、帰ってきて」 見も知らぬ老女の言葉に、リチャードはただただ驚く。老女は彼の手に、懐中時計を握らせ、そのまま去っていった…。 1980年。劇作家として成功を収めたリチャードだったが、スランプで書けない状態に陥っていた。 気分転換にと、一人旅に出た彼は、ドライブの途中で見かけた、グランド・ホテルへの宿泊を決める。そして時間潰しのために寄った、ホテルの資料室で、1枚のポートレート写真に、心を鷲づかみにされる。 そこで微笑んでいる、若く美しい女性は、エリーズ・マッケナ。かつて一世を風靡した、舞台女優だった。 リチャードが彼女のことを調べると、実は8年前に出会った老女と、同一人物だとわかる。そして彼女は、リチャードに時計をプレゼントした夜に、この世を去っていた…。 ***** 本作『ある日どこかで』(1980)の原作・脚本を手掛けたのは、リチャード・マシスン(1926~2013)。小説家としては、1950年24歳の時にデビューし、現在までに3度映画化された「アイ・アム・レジェンド」(54)や、「縮みゆく人間」(57)「奇蹟の輝き」(78)など、SFホラーやファンタジーの名作をものしている。更にはウエスタンやノンフィクションまで、長年に渡ってジャンルを横断する活躍を見せた。 脚本家としても、TVシリーズの「トワイライト・ゾーン」(1959~64)、エドガー・アラン・ポー原作の映画化作品『アッシャー家の惨劇』(1960)『恐怖の振子』(1961)などをはじめ、数多くの映画、TVドラマを手掛けている。 マシスンは、モダンホラー小説の巨匠スティーヴン・キングが、「私がいまここにいるのはマシスンのおかげだ」と語るような、偉大な存在であった。 小説「ある日どこかで」執筆のきっかけは、マシスンが妻子との旅行中、ネバダ州のパイパー・オペラハウスに立ち寄った時に、初期アメリカ演劇に関する資料が展示してあったことだった。そこで彼は、モード・アダムス(1872〜1953)という名の、美しい女性のポートレートに、いたく興味を惹かれたのだ。彼女は、「小牧師」「ピーター・パン」などの作品に出演し、19世紀末から20世紀前半に掛けて高く評価された、舞台女優だった…。 ***** ポートレートの彼女=エリーズ・マッケナに会いたいという思いに取り憑かれたリチャードは、タイムトラベルの方法を探る。そして、“時間旅行”を研究する哲学者の教えを受ける。 自分がその時代に居る、その時代の人間であるという暗示を執拗に行ったリチャードは、遂に時空を越えることに成功。ポートレートが撮影された68年前=1912年のグランド・ホテルへと、辿り着く。 そこで初めて顔を合わせたエリーズは、リチャードにいきなり尋ねる。「あなたなの?」 彼女は彼の正体など知る由もなかったが、運命の男性が現れることを予感し、待っていたのだ。 しかし、惹かれ合う2人の前に、女優エリーズを育てたマネージャーの、ロビンソンが立ちはだかる…。 ***** 先に記した通り、エリーズ・マッケナのモデルになったのは、舞台女優モード・アダムス。本作ではクリストファー・プラマーが演じる、ロビンソンのモデルも、実在する。モード・アダムスをスターに押し上げた、彼女のマネージャー、チャールズ・フローマンである。 さてマシスンが書き下ろした原作小説は、シェークスピアの一文から引用した、「BID TIME RETURN」というタイトルで、75年にアメリカで出版。翌76年には、「世界幻想文学大賞」長篇部門受賞に至る。 映画化に乗り出したのは、プロデューサーのスティーヴン・ドイッチェ。彼は監督を、『ジョーズ2』(78)をヒットさせたヤノット・シュワルツに依頼した。シュワルツはかつて、マシスンが原作・脚本を担当したTVシリーズの演出を手掛けたことがあり、マシスンが推したと言われている。 映画化に当たっては、タイトルをより平明な、「SOMEWHERE IN TIME」に変更。ストーリーラインは、大筋では変わらないが、原作では主人公のリチャード・コリアが、TVドラマの脚本家だったのを、劇作家へと変更。またリチャードは、脳腫瘍のため余命幾ばくもないという設定があったのを、すっぱりとカットした。 物語の舞台となる年代は、原作では1971年と1896年だったのを、現在と過去のリンクをスムースに行うため、1980年と1912年に変更。また主人公と関わる登場人物も、足し引きされている。 リチャードは、タイムマシンなどを使わず、催眠や自己暗示によって時代を遡ろうとするのだが、そのやり方を教える哲学者は、原作には登場しない。このタイムトラベルの方法は、SF作家ジャック・フィニィの「ふりだしに戻る」(70)から戴いたものだが、フィニィは、マシスンが最も敬愛する書き手の1人。そのため本作では、リチャードが教えを乞う哲学者の名を、フィニィとしている。 原作小説に登場するホテルも、実在のものだったが、その近所は開発が進み、1912年のシーンを撮影するには、そぐわない状況だった。そこでドイッチェとシュワルツは、ロケ地をリサーチ。白羽の矢を立てたのが、ミシガン州のリゾート地に立つ、グランド・ホテルだった。 こちらは湖と湖の水路を結ぶ小さな島に、19世紀にオープン。この島では自動車の使用が一切禁止されていたため、道路や自然環境がその頃のまま残されていたのが、本作の撮影地として、最適だった。 ***** ロビンソンの執拗な妨害も乗り越えて、リチャードとエリーズは遂に結ばれる。幸せいっぱいの2人だったが、リチャードのちょっとした不注意から、不慮の別れが訪れる。 時空を超えた運命の恋人たちは、このまま永遠に引き裂かれてしまうのか? ***** クリストファー・リーヴは、『スーパーマン』(78)のヒーロー役でスターダムにのし上がったばかりの頃。彼のエージェントは、本作出演のオファーを受けた際、失笑を禁じ得なかったという。 無理もない。総製作費500万㌦の小品として、支払えるギャラは限られている。 エージェントに渡した脚本が、リーヴの元に届くことはないと、プロデューサーのドイッチは判断。リーヴの泊まるホテルを直接訪ねて、脚本を本人に手渡すという、掟破りの挙に出た。 この賭けは見事に当たった。翌日ドイッチの元に、リーヴからリチャード役での出演を受けるという電話が入ったのである。 リーヴ同様、やはり脚本に魅せられて、エリーズ役を快諾したジェーン・シーモア。彼女は監督のシュワルツに、音楽の担当は是非ジョン・バリーにして欲しいと懇願した。 しかしバリーは、『007』シリーズで広く知られ、『野生のエルザ』(66)『冬のライオン』(68)でアカデミー賞を受賞した、“大御所”的存在。とても、雇える予算はない。 しかし諦めきれなかったシーモアは、旧知の間柄だったバリーに直談判でストーリーを説明。結果的に、「言い値」で引き受けてもらえることになったのである。 さて本作に於いて、小説を映画化するに当たっての変更点を、先に列挙したが、もう一つ大きな変更が行われたのが、“音楽”に関してであった。原作のリチャードは、グスタフ・マーラーをこよなく愛する青年であり、当初は本作でも、マーラーの「交響曲第9番ニ長調」をメインに使用する予定だった。 ところがマーラーだと、壮麗すぎて、小品の本作にはハマらないことが判明。そこでバリーの提案によって、ラフマニノフの「パガニーニのラプソディ」が使用されることになった。 この変更も効果的だったが、本作でのバリーの最大の貢献は、彼自身が作曲した、美しくも哀しい、メインスコアである。映画の世界観を決定づけたこの楽曲は、バリーが最愛の父と母を続けて亡くした直後に作られたもの。“喪失感”から癒えないままの作曲により、本作の作品世界を決定づける楽曲が生み出されたのである。 本作がアメリカで公開されたのは、1980年の10月。配給元ユニヴァーサルの、低予算の小品である本作に対する期待値は、ほとんど「ゼロ」に近かった。折しも俳優組合のストライキなども重なって、リーヴとシーモアによる宣伝キャンペーンさえ行われなかった。結果的に全米の興行収入は、970万㌦に止まる。 日本公開は、翌81年の1月。筆者はメインの公開館だった有楽町の丸の内松竹で鑑賞したが、公開初日の土曜日なのに、客席が淋しかったことを記憶している。実際に2週間足らずで、上映は打ち切られている。 このまま消え去ってしまっても、おかしくない存在だった『ある日どこかで』。しかしアメリカでは、ケーブルテレビでの放送やレンタルビデオによって、徐々に「隠れた名作」として、カルト化していく。 日本では、だいぶ趣は違うものの、同じく“タイムトラベルもの”の『タイム・アフター・タイム』(79)などと名画座で併映されることが多かった。そうした場から、ファンが増えていったような感触がある。 そしてアメリカでは、1990年に熱い作品愛を持った者たちが集うファンクラブが、スタート!公式ホームページなどを通じて、世界的な規模にまで膨らんでいく。 映画の公開月となる10月になると毎年、物語の舞台となったミシガン州のグランド・ホテルには、世界中からファンが集結。映画の上映会が催される。今年は公開から45年、原作が発表されてからちょうど50年という節目もあって、例年以上の盛り上がりを見せているという話も聞く。 そもそも良き映画、名作と謳われる作品は、観客にとって、それを観た時の状況などと相まって、強く印象に残ることが多い。つまり当時の自分へと、“タイムトラベル”をさせてくれる装置として働くわけである『ある日どこかで』初公開時、高校生だった私は、当時片想いしていた女の子が、クリストファー・リーヴのファンだった。彼女に懇願されて、ガラガラの映画館へと赴いたわけだが、本作を観る度に、その当時の甘酸っぱい想い出が、甦る。 本作に於いては、主演の美男美女コンビ、クリストファー・リーヴも、ジェーン・シーモアも、30歳手前の、まさに盛りの時期である。リーヴは後年、不幸な落馬事故で半身不随になってしまったことなども考えると、最も「美しい」頃が閉じ込められた“タイムカプセル”のようなこの作品への愛おしさが、一層強まる。 時節柄“ルッキズム”などと誹られるかも知れないが、映画による“タイムトラベル”の中でも本作『ある日どこかで』は、極上の旅に誘ってくれる1本なのである。■ 『ある日どこかで』© 1980 UNIVERSAL CITY STUDIOS. ALL RIGHTS RESERVED
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COLUMN/コラム2025.09.29
近い将来、本当に起きうる?AI搭載ハイテク少女人形の大暴走!『M3GAN/ミーガン』
ハリウッドの2大ヒットメーカーが贈るキラー・ドール系ホラー 『パラノーマル・アクティビティ』(’07~’21)シリーズに『パージ』(’13~)シリーズ、『ハッピー・デス・デイ』(’17~)シリーズに『ハロウィン』(’18~’22)シリーズ、さらには『ゲット・アウト』(’17)や『透明人間』(’20)、『ファイブ・ナイツ・アット・フレディーズ』(’23)などのホラー映画を次々と大成功させてきた映画製作者ジェイソン・ブラムと、映画監督のみならず製作者としても自身が生んだ『ソウ』(‘04~)シリーズや『死霊館』(‘13~)ユニバースをフランチャイズ化させ、『ライト/オフ』(’16)や『THE MONKEY/ザ・モンキー』(’25)などの話題作をプロデュースしているジェームズ・ワン。そんな21世紀のハリウッド・ホラー映画を牽引する2大ヒットメーカーが製作を手掛け、世界興収1億8000万ドル超えのスマッシュヒットを記録した作品が、AIを搭載したハイテク人形の暴走を描いた『M3GAN/ミーガン』(’22)である。 これまでにも、ワンが1作目と2作目を演出した『インシディアス』(’10~)シリーズや、ブライス・マクガイア監督の『ナイトスイム』(’24)でもタッグを組んだ2人。本作はジェームズ・ワンの製作会社アトミック・モンスターの企画会議で提案された無数のアイディアの中から、ワン自身がピックアップしてジェイソン・ブラムの製作会社ブラムハウスに持ち込んだ企画だったという。テーマはキラー・ドール(殺人人形)。人間を楽しませ癒してくれる玩具の人形が、反対に人間を襲って殺してしまう。そのルーツはトッド・ブラウニング監督の『悪魔の人形』(’36)ともイギリスのオムニバス映画『夢の中の恐怖』(’45)とも言われているが、しかしジャンルとしてポピュラーになったのは’80年代に入ってからのことだ。 口火を切ったのはスチュアート・ゴードン監督の『ドールズ』(’87)。殺人人形の群れが人間を血祭りにあげるという、どこか寓話めいたホラー・ファンタジー映画の佳作だった。同作をプロデュースしたチャールズ・バンドは、殺人人形軍団というコンセプトをそのまま受け継いだ『パペット・マスター』(’89)を製作し、現在までにシリーズ映画15本が作られたばかりか、フィギュアなどの関連グッズも販売されるというフランチャイズ・ビジネスを展開。この成功に味を占めたバンドは、さらなる二番煎じの『デモーニック・トイズ』(‘92~)シリーズもプロデュースしている。 とはいえ、’80年代に興隆したキラー・ドール系ホラー映画の金字塔といえば、間違いなくトム・ホランド監督の『チャイルド・プレイ』(’88)であろう。殺人鬼の魂が乗り移った人形チャッキーはホラー・アイコンとなり、こちらも現在までに8本の映画と1本のテレビシリーズ、さらにはゲームにフィギュアにアトラクションにと関連ビジネスを拡大してきた。そもそもジェームズ・ワン自身、『デッド・サイレンス』(’07)というキラー・ドール映画を撮っているし、代表作『死霊館』シリーズにおいてもアナベルというインパクト強烈な恐怖人形を描いている。ただ、従来のキラー・ドールが主に呪術や魔力で動くスーパーナチュラルな存在だったのに対し、本作に登場するミーガンは人間の少女ソックリに作られた等身大のAI人形。要するにアンドロイドである。 人間に仕えるべく開発されたAIやアンドロイドが、生みの親である人間に対して牙をむく。行き過ぎた科学の発展に警鐘を鳴らすコンセプトは、古くよりサイエンス・フィクションの世界で好まれ多用されてきた。そういう意味において、本作はキラー・ドール系ホラーであると同時に、マイケル・クライトン監督の『ウエストワールド』(’73~’76)シリーズおよびそのテレビリメイク『ウエストワールド』(‘16~’22)、ジェームズ・キャメロン監督の『ターミネーター』(’84~)シリーズなどの系譜に属するSFスリラー映画でもあるのだ。 持ち主を守るというミーガンの強い使命感が狂気へと…! 主人公は大手玩具メーカーに勤務し、最先端のハイテク技術を駆使した子供向けのオモチャを開発する技術者ジェマ(アリソン・ウィリアムズ)。目下のところ彼女が秘密裏に取り組んでいるのは、史上初の完全自律型ロボット人形となる「第3型生体アンドロイド(Model 3 Generative ANdroid)」、略してM3GAN(ミーガン)である。しかし、この極秘プロジェクトを知った上司デヴィッド(ロニー・チェン)は激怒。目先の利益にばかり囚われた彼は、ライバル企業との価格競争に打ち勝つべく廉価商品の開発を最優先させ、成功するかどうか定かでない高額なミーガンの研究開発を中止させてしまう。 そんな折、ジェマの姉夫婦がスキー旅行中に交通事故で死亡。ひとりだけ生き残った幼い姪ケイディ(ヴァイオレット・マッグロウ)をジェマが引き取ることとなる。動物や子供はどちらかというと苦手。そもそも人付き合いが得意ではなく恋愛とも縁遠いジェマは、寝ても覚めてもオモチャのことで頭がいっぱいの仕事人間だ。大好きだった姉の代わりにケイディを育てたいという気持ちは強いが、しかしどうやって彼女と接していいのか分からないし、仕事だって山積みである。仕方なくケイディにタブレットを与えて仕事するジェマだが、しかしそれは育児放棄も同然。少なからず罪悪感は拭えない。 そこで彼女に問題解決の糸口を与えてくれたのが、大学時代に開発した遠隔操作型ロボット、ブルースである。仕事部屋に飾ってあったブルースを見つけ、こんなオモチャがあったら他のオモチャなんて一生要らない!と喜ぶケイディ。そこでジェマは一念発起してミーガンの開発を再開。部下のコール(ブライアン・ジョーダン・アルバレス)やテス(ジェン・ヴァン・エップス)の協力を得て、いよいよ念願のAI人形ミーガンを完成させる。頑丈なチタン素材で骨組みが形成され、人間とソックリなシリコン製の肌で覆われたミーガンは、生体工学チップを搭載した高度な知能を持つ人型ロボット。自ら物事を考えて喋ったり行動したりする能力を持つばかりか、学習機能によって常に進化と成長を続けていく。その役割は子供にとって最良の友となり、親にとって最大の協力者となること。子供の世話やしつけをミーガンに任せることで、親は仕事や家事に専念できるのだ。 試作品に与えられた使命はケイディを守ること。両親の死後ふさぎ込んでいたいたケイディはミーガンのおかげですっかり明るくなり、肩の荷が下りたジェマはプロジェクトの成功を確信。上司デヴィッドや経営陣も賛同し、全社を挙げてミーガンの売り出しに力を注ぐことになる。だがその一方で、あまりにも密接なケイディとミーガンの間柄に、児童セラピストのリディア(エイミー・アッシャーウッド)は「このままだとケイディはミーガンをオモチャではなく保護者だと見なしてしまう」と警鐘を鳴らし、部下のテスも「ミーガンは親の支援役であって代役じゃない。子供との触れ合いが減るのは危険だ」と危惧する。 実際、ケイディは周囲の大人よりもミーガンを信頼して精神的に頼り切るようになり、ミーガンもまたケイディを守るという使命を全うするべく極端な行動に出ていく。やがて、ケイディの周辺で相次ぐ不可解な死亡事故。大切なケイディを傷つけようとする相手を、ミーガンが文字通り「排除」していたのだ。そのことに気付いたジェマは、ミーガンの危険な暴走を止めようとするのだが…? CGをなるべく排したミーガンの特殊効果にも要注目 監督に起用されたのは、世界各国のホラー&ファンタジー系映画祭で受賞したニュージーランド産ホラー・コメディ『ハウスバウンド』(’14)のジェラード・ジョンストーン監督。『マリグナント 狂暴な悪夢』(’21)や『死霊館のシスター 呪いの秘密』(’23)でも組んだ脚本家アケラ・クーパーと原案を書いたジェームズ・ワンは、当初より恐怖とユーモアの要素を併せ持つブラック・コメディ路線を意図しており、その点においてジョンストーン監督は理想的な人材だったという。確かに、ミーガンが突然ミュージカルのように歌い始めたり、クネクネとした奇妙な動きで踊ったり飛び回ったりするシュールな演出はかなりオフビート。だいたい、主人公ジェマが勤める玩具メーカーのファンキという社名だって、実在するアメリカの有名な玩具メーカー、ファンコの明らかなパロディだ。ジェマが開発したファンキのヒット商品ペッツが、昨今世界中でブームのラブブになんとなく似ているのは、まあ、奇妙な偶然みたいなものであろう。 そのジョンストーン監督曰く、本作は「21世紀の子育てについての倫理を問う物語」だという。我が子の相手をしている余裕のない多忙な保護者が、決して教育に良くないと分かっていながらも、ついついスマホやタブレットを与えてしまうのと同じように、お友達AI人形のミーガンを姪っ子ケイディに与えてしまうジェマ。本来ならば子供と向き合って成長を促すべきは、保護者であるジェマの大切な役割であるはずなのだが、しかし忙しさにかまけてその任務を怠ったがために、とんでもなく手痛いしっぺ返しを食らってしまうことになる。 あくまでもテクノロジーは人間の生活を便利に支えるもの。そこに依存してしまうことで様々な弊害が生じることは想像に難くない。ましてや、現実世界の様々な場面で既にAIが活用されている昨今、昔であれば空想科学の領域に過ぎなかったハイテク人形の暴走も、21世紀の現在では「そう遠くない未来に起きうる脅威」として強い説得力を持つ。そう、我々は既にSFの世界を生きているのだ。そういう意味で、ちょっとシャレにならない物語。だからこそ、ブラックなユーモアの要素が必要だったのかもしれない。 もちろん、己の使命に忠実すぎるがゆえに災いを招いていく狂気のAI人形、ミーガンの強烈なキャラクターも本作が成功した大きな要因であろう。もちろん、完全自律型の人型ロボットなどまだ現実には存在しないので、本作に出てくるミーガンも特殊効果の賜物。ただし、監督や製作陣の方針としてプラクティカル・エフェクトにこだわっており、アナログとハイテクを組み合わせたアニマトロニクスの技術が駆使されている。CGは主にワイヤーなど余計なものを除去するため使用。シーンごとにミーガンの上半身や腕など幾つものパーツが用意され、それを技術者たちが手動装置や無線機を用いて操作している。なので、表情の変化や目の瞬きなどもCG加工ではなく機械操作。ただし、ミーガンが飛んだり跳ねたり踊ったりする場面は、物理的にアニマトロニクスでは表現が不可能であるため、撮影当時11歳の子役兼ダンサー、エイミー・ドナルドがミーガンのマスクやカツラを被って演じている。 主演はアメリカで一世を風靡したHBOの女性ドラマ『GIRLS/ガールズ』(‘12~’17)でブレイクし、映画では『ゲット・アウト』のヒロイン役で知られる女優アリソン・ウィリアムズ。しかし圧巻なのは、予期せぬ事故で両親を失った少女ケイディを演じている子役ヴァイオレット・マッグロウだ。もともと「型にはまらない子供」であるため、両親の判断で学校へ通わず自宅学習していたケイディ。ただでさえ繊細で気難しい性格の少女が、両親の死による深いトラウマと悲しみを抱え、それゆえ全てを受け入れてくれる「親友」のミーガンに依存してしまう。その複雑な心情を演じて実に見事だ。■ 『M3GAN/ミーガン』© 2023 UNIVERSAL STUDIOS. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2025.09.17
トッド・フィールド16年振りの監督復帰作にして、ケイト・ブランシェット史上最高傑作!『TAR/ター』
映画監督のトッド・フィールドが、そのオファーを受けたのは、新型コロナのパンデミックが始まった頃だった。それは、クラシック音楽や指揮者を題材とするものであれば何でもいいという、至極漠然とした内容の依頼だった。 フィールドには、ずっと考えていたキャラクターがあった。それは、「子どもの頃に何が何でも自分の夢を叶えると誓うが、叶った途端、悪夢に転じる」という人物。クラシックの指揮者ならば、「ピッタリ」と思えた。 脚本を書き始めると、ある女優の顔がいつも思い浮かぶようになった。そして毎朝、椅子に座って執筆を進める際には、呟いた。「ハイ!ケイト、おはよう」と。彼の意中の人は、ケイト・ブランシェットだった。 ブランシェットは、『アビエイター』(2004)でアカデミー賞の助演女優賞、『ブルージャスミン』(13)で主演女優賞のオスカーを獲得している、現代の大女優。フィールドとは10年ほど前に出会って、主演作の企画を進めたが、諸般の事情で実現に至らなかった。 その際の打合せで、フィールドは知った。ブランシェットは一俳優のレベルを遥かに超えて、映画全体を理解する、フィルムメイカーのような視点を持っていることを。フィールドは彼女のことを、「我々の時代の偉大な知識人の一人」であると認識した。 フィールドは、元々は俳優。ウディ・アレンやスタンリー・キューブリックの作品に出演後、21世紀に入って監督デビューした。 第1作は『イン・ザ・ベッドルーム』(2001)、続いては、『リトル・チルドレン』(06)。この2作でフィールドは、アカデミー賞脚色賞にノミネートされた。 しかしそれから十数年。映画化を試みた企画は数々あれど、すべてが流れてしまっていた。 今回の脚本は、3ヶ月で書き上げた。しかし、ブランシェットが主役を受けてくれなかったら、きっと「作ることはなかった」と言う。 届いた脚本を読んだブランシェットからは、即座に「出演OK」との連絡が来た。こうしてフィールドの、映画監督としての空白期間が、更に伸びることは避けられたのだった。 ブランシェットが演じる主人公の名前を、そのままタイトルにした、本作『TAR/ター』(2022)は、こうしてトッド・フィールド16年振りの新作として、世に放たれることになった。 ***** リディア・ターは、もうすぐ50歳。世界的な交響楽団ベルリン・フィル初の女性首席指揮者を務め、“マエストロ”と呼ばれる 彼女は、“EGOT”。テレビのエミー賞、音楽のグラミー賞、映画のオスカー(アカデミー賞)、舞台のトニー賞のすべてを受賞している、数少ない人物の内の1人である。 ベルリン・フィルで唯一録音を果たせていない、マーラーの「交響曲第5番」を、遂にライブ録音し発売する予定が控える。自伝の出版も、間もなくだ。 多忙なターを、公私共に支えるのは、オーケストラのコンサートマスターでヴァイオリン奏者のシャロン。彼女はターの同性の恋人で、養女を一緒に育てている。 ターのアシスタントは、副指揮者を目指すフランチェスカ。ターの厳しい要求に、懸命に応えていた。 そんな時に、ターがかつて指導した若手指揮者クリスタが自殺を遂げる。彼女はターに性的関係を強要され、去って行った者だった。ターはクリスタが指揮者として雇用されるのを妨害するメールを、各所に送っていた。それらのメールは素早く消去したが、時同じくしてターは、夢とも現ともつかない、幻聴や幻影に襲われるようになる。 そんなターは新たに、ロシア人の新人チェロ奏者オルガに心惹かれるようになる。彼女を取り立てるような、ターの言動や行動に、周囲はザワつく。 忠実だと思われたフランチェスカだったが、新たな副指揮者に選ばれなかったことから、ターを裏切る。そしてターのセクハラやパワハラがマスコミで取り上げられ、ネットで炎上するようになる。 クリスタの両親からは告発され、パートナーのシャロンは、養女と共に去っていく。ターは窮地に追い込まれるが…。 ***** フィールドは、クラシック音楽界に実在する人物や団体、実際の事件や根深い権威主義、性差別をベースにして、脚本を執筆した。監修を務めたのは、高名な指揮者のジョン・マウチェリ。「指揮者は何を考えているか」の著者で、レナード・バーンスタインと親交が深かったことでも知られる。バーンスタインは、アメリカを代表する“マエストロ”で、本作ではターの師匠だったという設定になっている。 準備期間は、コロナ禍の真っ最中だったことから、逆に十分な余裕ができた。実際に撮影に入る9ヶ月前から、フィールドとブランシェットは、ディスカッションを行った。「脚本に登場する人間関係はどれほど取引的なものなのか?」「登場人物全員が力構造に対して無言を貫いているのではないか?」「人は偉大な人物の物語を見るのは好きだが、その人たちが転落していく姿も同じくらい楽しめるものなのか?」等々。こうして、リディア・ターの人物像が、鮮明になった。 フィールド曰くターは、「…芸術に人生を捧げた結果、自分の弱みや嗜好をさらけ出すような体制を築き上げてしまったことに気づく。彼女はまるで全く自覚がないかのように、周囲に自分のルールを強要する」。しかし、「自覚していたとしても、非道は許されない」というわけだ ブランシェットが、役作りの本格的準備に入ったのは、2020年9月。実在の女性指揮者たちに関する文書や映像を、漁った。それと同時に、ターはベルリン・フィルで指揮するアメリカ人という設定なので、オーストラリア出身のブランシェットは、ドイツ語とアメリカ英語のマスターに、勤しんだ。 ピアノと指揮は、プロフェッショナルから本格的に学んだ。ブランシェットは子どもの頃に、ピアノを習っていた。10代半ばに練習をサボったのがバレた際、ピアノの先生から、「あなたはピアニストではなく、俳優だと思う」と言われたことがあったという。ピアノについては、「いつかまた」と思ってはきたが、結局はこの機会まで「映画のためでないと」できなかったというのも、まさに“俳優”と言えるかも知れない。本作に登場するすべての演奏シーンは、ブランシェット本人が演じている。 クランク・インまで、1年足らず。実はその間、『TAR/ター』とは別に、2本の出演作の撮影があった。 ブランシェットは、昼間にそれらの撮影を終えた後、夜になると、フィールドに電話を掛けてくる。そしてその後、役作りのための各レッスンに挑んだのだった。フィールドが言うように、彼女は「独学の達人」であり、ターが「25年かけて身に付けたであろう見事な技術」を、1年足らずで「やってのけた」わけである。 ブランシェットは、夫で劇作家のアンドリュー・アプトンと共に、母国オーストラリアで最も権威がある劇団「シドニー・シアター・カンパニー」の芸術監督を務めていたことがある。こうした権力の座に就いた経験も、ターの役作りに寄与する部分が、少なくなかったという。 2021年8月、遂にクランク・イン!ブランシェットは、オーケストラを指揮するシーンから、撮影に入った。コンサートホールは、ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地で撮影。ロケ地は、ベルリン、ニューヨークと、東南アジア。 ブランシェットの“独学”は続き、1日の撮影が終わると、「ピアノに直行するか、ドイツ語とアメリカ英語の指導を受けに行くか、あるいは指揮棒の振り方を教わりに」出向いた。また撮影がない日には、スタントマンが運転する8台の車に囲まれながら、時速100キロで滑走する練習を積んだ。 ターの私生活のパートナーで、ヴァイオリン奏者のシャロン役には、ドイツからニーナ・ホス。ターのアシスタント、フランチェスカ役は、フランス人のノエミ・メルランが演じた。 映画の後半、ターの心を泡立たせる存在となる、ロシア人チェロ奏者オルガ役に、フィールド監督は、「ロッテ・レーニャとジャクリーヌ・デュ・プレを合わせたような人」を望んだ。 ロッテ・レーニャは、1920年代から30年代にかけて、ナチス台頭前のドイツのミュージカル舞台で活躍し、「ワイマール文化の名花」と謳われた、オーストリア出身の歌手で女優。映画ファンの中には、『007』シリーズ第2作『ロシアより愛をこめて』(1963)で彼女が演じた、強烈な悪役ローザ・クレッブを思い浮かべる方が少なくないだろう。 ジャクリーヌ・デュ・プレは、国民的な人気を得ながら、不治の病のため早逝したイギリスの女性チェロ奏者。伝記映画『ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ』(1998)では、エミリー・ワトソンが演じている。 オルガ役のオーディションには、多数の演奏家と俳優が参加した。選ばれたのは、実際にチェロ奏者として活動し、本作が俳優デビューとなる、ソフィー・カウアー。ロンドン郊外に住む、中流家庭出身の19歳だった。 フィールドは彼女のことを当初、オルガとは似ても似つかないと感じたが、演技を始めると、「彼女こそオルガだった」という。 イギリス人のカウアーは、ロシア訛りをYouTubeでマスターして、オーディションに臨んだ。そして役に選ばれた後も、演技への理解を深めるために、YouTubeを活用。名優マイケル・ケインの指導映像を参考にした。また彼女は、これ以上にない手本である、ニーナ・ホスやブランシェットの演技を、自分の撮影がない時もセットに来て、ずっとウォッチしていた。 ブランシェットはター役について、「…もうすぐ50歳で、人生において物理的にも抽象的な意味でも重要な変換期にいます。また、どの指揮者も未だかつて成し遂げたことのない野望も成し遂げようともしていますが、その時点でアーティストであり続ける唯一の方法は、そこから降りることだと悟ります」と語っている。 実際に様々なトラブルや軋轢が噴出することで、ターは名門ベルリン・フィルのTOPの座から降りざるを得なくなる。未見の方にはネタバレにもなるので詳しくは触れないが、ラスト、アジア某国でターが指揮する、ある趣向の演奏会の描写を観て、彼女が栄光の座から滑り置ちた象徴的なシーンと捉える方も少なくないだろう。 ブランシェットも脚本で初めて読んだ時、そのラストを、「なんて悲しいシーンなのか」と思った。しかしいざ撮影してみると、想像していたのとまったく逆で、「生命力にあふれた高揚感」を味わった。そして、「この結末こそ始まりである」と感じたという。 監督の解釈も、ブランシェットと同様で、ターはまだ、「自分の“楽器”を持っている」というものだった。 さてトッド・フィールドの16年振りの監督作となった『TAR/ター』は、完成してみると、「ケイト・ブランシェット史上最高傑作」と絶賛を集め、彼女に4度目となるゴールデン・グローブ賞、ヴェネチア国際映画祭女優賞、全米・ニューヨーク、ロサンゼルスの各批評家協会賞等々をもたらした。 アカデミー賞では、主演女優賞はもちろん、作品賞・監督賞・脚本賞・撮影賞・編集賞の計6部門でノミネートされた。しかしこの年のアカデミー賞は「エブエブ」旋風が吹き荒れ、『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』(2022)が、7部門もの大量受賞。その煽りを喰らって、ブランシェットもフィールドも、残念ながらオスカーを手にすることはできなかった。 しかし『TAR/ター』は、クラシック最高峰の楽団指揮者を最高の俳優が演じる、極上の音楽物であり、人間心理の“闇”を暴いた、背筋も凍るサイコ・サスペンスとして、観る者を強く揺さぶる作品。文字通りの「ケイト・ブランシェット史上最高傑作」として、一見の価値ありなのは、間違いない。■ 『TAR/ター』© MMXXII Focus Features LLC. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2025.09.05
デヴィッド・フィンチャーが再創造した“北欧ノワール” ー『ドラゴン・タトゥーの女』
◆物語と社会批評性を継受する 2011年に公開されたアメリカ映画『ドラゴン・タトゥーの女』は、スウェーデンの作家スティーグ・ラーソンによるベストセラー小説「ミレニアム」シリーズを、『セブン』(1995)『ソーシャル・ネットワーク』(2010)のデヴィッド・フィンチャーが新たに映画化した作品(以下「フィンチャー版」と記す)だ。既に同じ原作の映画『ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女』(2009/以下「スウェーデン版」)が存在する中での再映画化はさまざまなリスクを伴っていたが、フィンチャーは原作の骨格を忠実に守りつつも、独自の美学を通じて「再創造」と呼ぶべき成果を上げたのだ。 ストーリーは雑誌「ミレニアム」の発行責任者ミカエル・ブルムクヴィスト(ダニエル・クレイグ)が、大財閥ヴァンゲル家にまつわる失踪事件を調査するという出だしから始まる。40年前に行方不明となった姪のハリエットをめぐり、閉ざされた一族の屋敷に滞在することになった彼は、調査の過程でヴァンゲル家の暗い歴史や、連続殺人の影へと迫っていく。 そんな捜索の過程で協力者として現れるのが、背中にドラゴンのタトゥーを背負った天才ハッカー、リスベット・サランデル(ルーニー・マーラ)だ。彼女は社会から逸脱した存在でありながらも、鋭い知能と強靭な意志を武器に、ミカエルとの奇妙な信頼関係を築いていく。 優秀なジャーナリストでもあったラーソンの小説は、単なる推理ミステリーにとどまらず、スウェーデン社会に巣食う女性差別や企業不正、そして右翼過激派の問題を暴き出す社会批評の書でもあった。フィンチャー版もその精神を受け継ぎ、雪深い北欧の風景は閉塞感を象徴し、物語に冷徹なサスペンスを加える。特に孤立した島の屋敷という舞台は、閉ざされた共同体に潜む暴力性を可視化させ、観客に社会的なテーマを強く突きつける。そしてジャーナリズムの使命や女性への暴力といった問題は、リスベットの存在を通してより鋭く提示される。彼女は被害者であると同時に、加害者に報復する主体であり、男性中心社会に対するアンチテーゼそのものなのだ。 ◆キャラクター造形とビジュアル表現 フィンチャー版のリスベットは、ルーニー・マーラの徹底した役作りにより、オーディエンスに強烈なまでに印象付けられていく。特殊メイクに頼らず実際にピアスを装着し、肉体そのものを役に変貌させることで、彼女はリスベットの痛みや孤独、そして怒りを生々しく表現したのだ。そしてパンクな装いは単なるファッションにとどまらず、社会への抵抗の象徴として力強く機能している。彼女は正義の化身ではなく、矛盾と傷を抱えた人間として描かれることで普遍化し、観る者の共感を呼ぶのだ。 またリスベットは、ミカエルとの関係性も重要な要素として併せ持っている。倫理的で冷静なジャーナリストであるミカエルと、社会からはみ出した破天荒なハッカーであるリスベット。両者の対比は物語に緊張感を与え、協働の過程で生まれる信頼が、サスペンスを越境した人間ドラマを築き上げていく。フィンチャー版ではこの関係性が繊細に描かれ、観客に深い余韻を残す。そして最後にかかる「イズ・ユア・ラヴ・ストロング・イナフ?」(リドリー・スコット監督による『レジェンド/光と闇の伝説』(1986)米公開版のエンディングとして有名)のカバーは、彼女のミカエルへの思いを代弁する。 あなたの愛は、海の岩のように強いの?わたしは求めすぎなのでしょうかー。 映像面では、フィンチャーが得意とする冷徹な画作りが、このようなミステリアスで哀しい物語を支える。暗色を基調とした画面設計、緻密な構図、そして色彩の徹底的な管理によって、観客は常に居心地の悪さを覚える。それは同時に、真相を追う緊張感へと没入させるギミックでもある。オープニングで用いられた、トレント・レズナーとアティカス・ロスによる「移民の歌」のカバーをバックに、タールで全てが覆われていくタイトルシークエンス(担当は後に『デッドプール』(2016)で監督デビューするティム・ミラーとBlur Studio)は、その不穏な世界観をダイレクトに提示する。 なにより特記すべきは、映像が単なる美的表現ではなく、物語の精神とリンクしている点だ。例えばリスベットのクローズアップは悲しみを誇張するのではなく、冷たい解像感によって別の感情へと訴えていく。また雪景と屋内の色温度の対比は、歴史とトラウマの二項対立を象徴するものだ。フィンチャーはビジュアルそのものを論理の延長として用い、観客を心理的に操作しているのである。 ◆撮影技術とフィンチャーの哲学 そんなフィンチャー版を視覚的に成立させたのは、撮影監督であるジェフ・クローネンウェスのはたらきによるといって過言ではない。使用カメラはRED One MXとRED Epic。Epicの5K収録をベースとし、4K仕上げにすることで、後のポストプロダクションでのリフレーミングやスタビライズに耐えうる設計がなされていた。これはフィンチャーの「24fpsレベルでのPhotoshop」という持論を体現するワークフローである。つまり撮りきりではなく、多数のテイクを重ねたうえでショットを厳選し、後に微細な合成をおこない、俳優の目線や言葉を統合して一つの最適解としてのショットを作り上げていく。そんな映画制作そのものが、作中の調査プロセスと同型をなしているといえる。 またレンズは歪みが少なく高解像を得られるZeiss Master Primeを用い、冷淡な観察者の視線を実現している。加えて照明は低照度で設計され、肌はキーより一段落として血色を抑える。また雪景の反射光や、室内のタングステン光を意図的に対置させることで、北欧の自然と人間社会の軋みを視覚的にあらわした。特にヴァンゲル家の屋敷では、窓外の雪の白と室内の黄が衝突し、それが歴史に縛られる一族の暗さを暗喩している。 シーンごとの光の設計も緻密で、リスベットの部屋はモニター光や蛍光灯をそのまま活かし、鈍い冷気を画面に定着させている。マルティン・ヴァンゲル(ステラン・スカルスガルド)の地下室では、色温度を中庸に保つことで、血の赤や金属の反射を過剰に演出せず、むしろ抑制された冷淡さで恐怖を増幅させている。これは観客に「感情的な恐怖」ではなく「制度的な暴力の冷酷さ」を伝える表現であり、フィンチャーらしい残酷さの描き方といえるだろう。 こうした技術的な設計は、北欧ノワールの文脈を踏まえながらも、フィンチャーならではの哲学を付与している。寒色の自然光と制度的な暴力というテーマはそのままに、ジェンダーの力学を先鋭化し、視覚的な言語でリスベットの位置づけを表象する。わずかに外された構図、中心からのずれは、彼女が社会の枠に収まらない存在であることを示す視覚的な符号だ。 『ドラゴン・タトゥーの女』は、こうしてノワールミステリーの枠組みを借りながら、フィンチャーが撮影からポストプロダクションに至るまでを精密に再構築し、物語のテーマと制作プロセスが同型をなす点で独自性を放つ。リスベットがシステムの隙間から真実を構成するように、フィンチャーもまた撮影後のショットを再配列し、冷徹でありながらも強烈なリアリティを獲得する。そこに我々は、映画の内容とと視覚的美学の結節点を覚えるのだ。 本作は興行的な大ヒットには至らなかったものの、批評面では高く評価された。米アカデミー賞では編集賞を受賞し、撮影賞や主演女優賞にもノミネート。特にマーラの演技は絶賛され、リスベット像を新たな次元へと引き上げた。以後の続編(2018年公開の『蜘蛛の巣を払う女』)で別の女優が演じることになっても、その存在感は依然として鮮烈である。■ 『ドラゴン・タトゥーの女』© 2011 Columbia Pictures Industries, Inc. and Metro-Goldwyn-Mayer Pictures Inc. All Rights Reserved.