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COLUMN/コラム2024.12.05
ティム・バートンとジョニー・デップ アメリカ映画史に残る、パートナーシップの始まり『シザーハンズ』
幼き日から、古いホラー映画が大好き。漫画を描き、ゴジラの着ぐるみを纏う俳優になることを夢見る少年だった。元マイナーリーグの野球選手だった父は、そんな内向的な息子のことが、理解できなかった。 ティーンエージャーの頃、誰とも心を通い合わせることができず、長続きする関係が持てなかった。それはもちろん、家族を含めて。彼は孤独だった。 20代。ディズニー・スタジオのアニメーターになった彼は、ストップモーションアニメや、モノクロ実写のダークファンタジーの短編作品を監督。それがきっかけとなって、26歳の時、実写の長編作品の監督デビューを果す。 その作品『ピーウィーの大冒険』(1985/日本では劇場未公開)は、製作費700万㌦の低予算ながら、4,000万㌦以上の興収を稼ぎ出した。彼=ティム・バートンは、一躍注目の存在となった。 2歳年上の作家、キャラロイン・トンプソンに出会ったのは、次作『ビートルジュース』(88)に取り掛かる、少し前。トンプソンは、『ピーウィーの大冒険』がお気に入りだった。そしてバートンは、彼女が書いた、中絶された胎児が甦る内容のホラー小説に、魅了された。 バートンは、自分の考えていることを他者に伝えることが、至極苦手だった。しかしトンプソンは、そんなバートンが発する曖昧な言葉から、彼の想いを易々と汲み取ってみせた。波長がぴったり合う2人は、姉と弟のような関係になった。 ある時バートンは、バーでトンプソンに、自分が10代の頃に描いた、「手の代わりにハサミを持つ若者」の話をした。骸骨のように痩せた身体で、くしゃくしゃの髪。全身を黒い革で包み、指の代わりに付いた長く鋭いハサミの刃で、近づく者を皆、傷つけてしまう。その目に深い悲しみをたたえた、孤独な若者の話を…。 明らかに、バートン本人が投影されたキャラクターだった。そう感じると同時に、これは映画になると考えたトンプソンは、帰宅するとすぐに、70頁に及ぶ準備稿を書き上げた。 それが本作『シザーハンズ』(90)のベースとなった。 ***** 寒い冬の夜、ベッドに眠る孫娘を、寝かしつける老女。「雪はなぜ降るの?」と孫に聞かれた老女は、「昔々…」と、ある“おとぎ話”を始めた…。 郊外の住宅地に住む主婦ペグは、化粧品のセールスレディ。ある日思い立った彼女は、町はずれの山の上に在る、古城のような屋敷へとセールスを掛ける。 そこに居たのは、両手がハサミの若者エドワード。彼は、以前この屋敷に住んでいた発明家が生み出した、人造人間だった。年老いた発明家は、エドワードの手の完成直前に急逝。それ以来彼は、ひとりぼっちだったのだ。 ペグはエドワードを、不憫に思った。そして我が家へと、連れ帰る。 手がハサミの彼は、食事も思い通りにいかない。しかしそのハサミで、植木を美しく整えたり、ペットのトリミングを行ったり、主婦たちの髪を独創的にカットするなどしている内に、町の人気者となっていく。 エドワードは、ある女性に恋心を抱くようになる。それはペグの娘で、高校ではチアリーダーを務めるキムだった。 アメフト部のスターであるジムと付き合っていたキムは、当初はエドワードのことを疎ましく思う。しかしその優しさに触れる内に、段々と心惹かれていく。 ある時エドワードは、ジムに泥棒の濡れ衣を着せられる。逮捕されても、キムに累が及ばないよう、彼は真実を語らなかった。 それをきっかけに、町の人々はエドワードを避けるようになる。やがて事態はエスカレート。誤解も重なって“怪物”扱いされた彼は、逃亡を余儀なくされ、古城へと帰る。 後を追ったのは、今や彼を愛するキム。そして嫉妬に狂い、銃を携えたジムだった…。 ***** トンプソンは、バートンが青春時代に味わった苦しみを、寓話へとアレンジ。その際には、一応は現代を舞台としながらも、“おとぎ話”の手法を用いた。 “おとぎ話”であるならば、本来は「あり得ない」と突っ込まれたり批判されかねない描写も、問題なく盛り込める。 例えば、郊外の住宅地のすぐそばに、なぜ大きな古城が在るのか?人造人間は一体、どんな仕組みで動いているのか?そしてエドワードは、彫刻に使う氷を一体どこから調達したのか? バートン曰く、「おとぎ話は不条理を許容する。だが、ある面では現実より現実的だ」 先にも記した通りエドワードは、バートン自身が投影されたキャラクター。トンプソンに言わせれば、「現実の世の中にフィットしないアーティストのメタファー」である。 そしてバートンはこのキャラクターに、フランケンシュタインやオペラ座の怪人、ノートルダムのせむし男にキング・コング、大アマゾンの半魚人等々といった、彼が少年時代から愛して止まなかった、モンスターたちを重ね合わせた。彼らは愛を乞うているだけなのに、“怪物”として駆逐されてしまう…。 物語の舞台は、バートンが幼い頃に暮らした、郊外の町バーバンクがモデル。バートン曰く「芸術をたしなむ文化が欠落している」ような場所だ。 トンプソンは脚本執筆のため、バーバンクの住宅地の片隅に住み込み、そこで経験したことを、脚本へと盛り込んだ。例えば、ちょっとした事件が起きると、みんながいちいち家から出てきては見物する描写などが、それである。 バートンは本作を当初、ミュージカル仕立てにしようと考えた。脚本も準備稿の段階では、劇中歌まで書き込まれていたという。結局そのアイディアは放棄されたが、本作は15年後=2005年に、イギリスのコンテンポラリーダンス演出家で振付師のマシュー・ボーンによって、ミュージカルとして舞台化されている。『ビートルジュース』が大ヒットとなり、その後の『バットマン』(99)のクランクインが近づく頃、バートンは本作を製作する映画会社探しを、本格化。トンプソンの脚本のギャラを数千㌦に抑えれば、800~900万㌦ほどの製作費でイケると見込んだ。 バートンは、候補に決めた映画会社に、オファー。その際には、『バットマン』の製作過程での様々な苦闘を教訓に、映画製作に関する決定権が、すべてバートンにあるという条件を付けた。返答の期限は、2週間後。『ビートルジュース』『バットマン』を製作したワーナーは、先買権を持ちながらも、本作の映画化を拒否した。結局この話に乗ったのは、20世紀フォックス。 しかし『バットマン』製作中に、フォックスの経営陣が一新され、本作の製作を決めた者が居なくなってしまうというハプニングが起こる。ところがこれが、幸いする。 新たにフォックスのTOPとなったジョー・ロスが、この企画に前経営陣以上の熱意を示したのだ。彼曰く、「エドワードはフレディ・クルーガー(『エルム街の悪夢』シリーズに登場する殺人鬼)の手をしたピノキオであり、『スプラッシュ』や『E.T.』のように新しい世界に合わせようとして苦しむ人間のかたちをした訪問者だ」 そして本作の製作費は、当初の800万㌦からその2.5倍にアップ。2,000万㌦が用意された。 最初に決まったキャストは、キム役のウィノナ・ライダー。『ビートルジュース』でバートンのお気に入りとなった彼女だが、ブロンドのカツラを付けてのチアリーダーのキムは、学生時代にそうした華やかな存在のクラスメートに悩まされた、オタク気質のウィノナにとっては、非常に演じにくい役であった。 このことが象徴するように、キャスティングは、すべてが意図的にズラされている。キムと付き合うアメフト部員のジム役には、アンソニー・マイケル・ホール。『すてきな片想い』(84)『ときめきサイエンス』(85)など、80年代中盤からハリウッドを席捲した、ジョン・ヒューズ監督の青春もので売り出した俳優である。本作での彼はいつもと真逆で、飲んだくれのろくでなし。凶暴性も秘めた役どころだった。 エドワードを我が家に連れ帰るペグには、ダイアン・ウィースト、その夫にはアラン・アーキンと、名脇役をキャスティングした。 エドワードの生みの親である老発明家役には、ロジャー・コーマン監督によるエドガー・アラン・ポー原作ものをはじめ、数多のホラー作品に出演し、バートンが少年時代から憧れの人だった、ヴィンセント・プライス。 バートンは初監督作で6分の短編『ヴィンセント』(82)で、プライスにナレーションを務めてもらって以来、彼との友情を温めてきた。本作の後には、プライスの一生を綴った伝記映画を準備していたが、彼は93年に他界。結果的に本作が、遺作となった。 一向に決まらなかったのが、肝心の主演。エドワード・シザーハンズ役だった。 フォックスが推したのは、トム・クルーズ。バートンのイメージには合わなかったが、人気絶頂の若手スターを起用して大ヒットを狙うフォックス側の気持ちも理解できたので、何度かミーティングを行った。しかし回を重ねる毎に、クルーズの方も違和感を抱くようになって、この話はポシャった。 他には、ウィリアム・ハートやトム・ハンクス、ロバート・ダウニー・Jr、更にはマイケル・ジャクソンの名まで挙がった。しかしいずれも、バートンにはしっくり来なかった。 候補のリストには名前が載っていなかった、TVドラマの人気シリーズに主演する若手俳優から、バートンに「会いたい」という連絡があった。バートンはそのドラマ「21ジャンプストリート」(87~90)を観たことがなかったし、その俳優ジョニー・デップに関しても、ティーンのアイドルで、気難し屋という噂ぐらいしか知らなかった。 そんなこともあって気乗りしなかったが、まだエドワード役のメドが立っていなかったので、とりあえず会うことにした。 エージェントから渡された『シザーハンズ』の脚本を読んで、「赤ん坊のように泣いた」というデップ。この役を絶対手に入れたいと思い、バートンとコンタクトを取った。そして面会が決まると、バートンの過去作をすべて鑑賞。本作出演への思いを益々強くして、その日に臨んだ。 デップはバートンの顔などまったく知らなかったが、面会の場に赴くと、テーブルに並んだ中に、「色白でひょろっとした、悲しい目の男」を見つけて、すべてを理解した。エドワード・シザーハンズは、「バートン自身なんだ!」と。 初対面だったにも拘わらず、バートンとデップは、まるで旧知の友のようだった。2人は“はみだし者”談義で大いに盛り上がり、意気投合した。 バートンはデップが、大いに気に入った。しかし踏ん切りがつかず、デップの直前の主演作『クライ・ベイビー』(90)の編集室に、その監督のジョン・ウォーターズを訪ねた。そこでデップが映るフィルムを何時間も見つめて、遂に心を決めた。 面会から数週間後、デップに電話が掛かる。バートンの声だった。「ジョニー、君がエドワード・シザーハンズだ」 これが『エド・ウッド』(94)『チャーリーとチョコレート工場』(2005)等々に続いていく、現代アメリカ映画を代表する、監督と俳優のパートナーシップの始まりだった。 エドワード役は主演ながら、主要出演者の中で、最もセリフが少ない。デップは、バートンが起用する決め手になったという“目の演技”や“身体を使った演技”を駆使。そのために、サイレント映画時代からの代表的な喜劇王チャールズ・チャップリンの演技を研究したという。 また演技をしている間は、「昔飼っていた犬の顔を思い浮かべていた……」。家に帰るとルーティンにしたのが、25㌢のハサミの刃を手に付けて、ぎこちなく日々の雑事をこなすことだった。 先にも紹介した通り、バートンは自分の考えを他者に伝えることが至極苦手で、撮影現場での指示も、尻切れトンボのようになってしまう。俳優陣は、激しく腕を振り回すバートンの、支離滅裂な思い付きによる、ほぼ直感的な演出に対応しなければならない。デップはそんなバートンの言を、まるで第六感でもあるかのように、あっさりと読み解いた。 因みにデップも、ヴィンセント・プライスに対して、バートンのようなリスペクトの念を抱いた。デップはプライスから、この世界の厳しさを聞き、「型にはまった役者にはなるな」と諭された。ホラー俳優のイメージがあまりにも強く、それが悩みの種だったプライスからの、自分を反面教師にしろというアドバイスだった。 その当時、デップはウィノナ・ライダーと熱愛中だった。ウィノナは本作の直前に、『ゴッドファーザーPARTⅢ』(90)を、体調不良で降板したのだが、実はジョニー・デップと共演するためだったというゴシップ記事が流れた。先にも記した通り、本作ではウィノナの方が先に出演が決まっていたので、これは根も葉もないデタラメだったが。 バートン曰く、「スペンサー・トレイシーとキャサリン・ヘプバーンを不良にしたようなカップル」だったデップとウィノナは、悲しいラブストーリーを演じ切った。 ゴシック様式の古城のような屋敷は、20世紀フォックスの撮影所敷地内に建てられたが、メインのロケは、町のモデルとなったバーバンクからは遠く離れた、フロリダ州パスコ郡デイドシティの郊外に在る50世帯の協力を得て、行われた。 実際の住人には3カ月間、近くのモーテルに仮住まいしてもらい、借り受けた家々には、様々なパステル調の彩色や、窓を小さくするなどの加工を行った。そしてそれらの庭には、エドワードが刈ってデザインしたという設定の、恐竜、象、バレリーナ、馬、人間などを象った、風変わりな植木を搬入した。こうして、どの時代のどの場所にも属さないような、郊外の町が創り出された。 日中の気温が43度まで上がり、酷い湿気がまるで糊のようにまとわりつくこの地で、スタッフやキャストが悲鳴を上げたのは、虫の大量発生だった。時には空を黒く埋め尽くし、撮影ができなくなるほどだったという。虫が嫌いではないバートンは、まったく平気の平左だったというが。 ギレルモ・デル・トロ監督が、『シェイプ・オブ・ウォーター』(2017)で人間と半魚人の恋を描き、アカデミー賞の作品賞や監督賞を獲った時に、遂にこんな時代がやって来たと感銘を受けた。思えばその先鞭をつけたのが本作、ティム・バートンの『シザーハンズ』だった。 バートンのキャリアの中では、『バットマン』ほどの大ヒットを記録したわけではない。しかし彼の代表作と言えば、必ずこの作品の名が挙がる。製作から30数年経って、その輝きは年々増すばかりの傑作である。■ 『シザーハンズ』© 1990 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2024.12.04
誰もが童心に帰るレイ・ハリーハウゼンの傑作ファンタジー・アドベンチャー「シンドバッド3部作」の見どころを解説!
ストップモーション・アニメーションを駆使した創造性の豊かな特撮映画で一時代を築き、ことSF映画やファンタジー映画のジャンルに多大な影響を及ぼした映像クリエイター、レイ・ハリーハウゼン。少年時代に見た映画『キング・コング』(’33)に衝撃を受け、ミニチュアとモデル人形を用いたコマ撮りの技術によって、この世に存在しないクリーチャーたちに命を吹き込むストップモーション・アニメの世界に魅了された彼は、その『キング・コング』の特殊効果を手掛けたウィリス・オブライエンに影響されてアニメーターの道へ。高校時代から自主制作でストップモーション・アニメを製作していた彼は、南カリフォルニア大学を経て映画界へ入り、尊敬するオブライエンが特撮監修を務めた怪獣映画『猿人ジョー・ヤング』(’49)にアシスタントとして参加し、同作のアカデミー特殊効果賞獲得に大きく貢献する。 一般的には「特殊効果マン」として認識されているハリーハウゼンだが、しかし実際には特撮シーンの製作・演出・撮影はもとより、作品の基本コンセプトから脚本の執筆、実写部分の撮影にも大きく関わっており、映画監督組合の規定によって本編では実写部分の演出家が監督としてクレジットされていたものの、しかし実質的には彼こそが作品全体を主導する「監督」の役割を担っていることが多かった。初めて特殊効果の責任者を任されたのは日本の『ゴジラ』(’54)にも影響を与えたとされる『原子怪獣現る』(’53)。その次の『水爆と深海の怪物』(’55)で出会ったコロムビア映画のプロデューサー、チャールズ・H・シニアとタッグを組み、『地球へ2千万マイル』(’57)のようなSFモンスター映画から『アルゴ探検隊の大冒険』(’60)に代表されるファンタジー映画、英国のハマー・フィルムに招かれた『恐竜100万年』(’66)に端を発する恐竜映画などを次々と手掛けたハリーハウゼン。ジョージ・ルーカスやスティーブン・スピルバーグを筆頭に、ジェームズ・キャメロンにティム・バートン、ギレルモ・デル・トロにピーター・ジャクソンなどなど、彼に影響を受けて尊敬していることを公言する映像作家は枚挙に暇ない。もちろん、フィル・ティペットにジョン・ダイクストラ、デニス・ミュレンなど特殊視覚効果のレジェンドたちもハリーハウゼンを師と仰いでいる。 そんな偉大なアニメーターにしてフィルムメーカーだったレイ・ハリーハウゼンの、恐らくライフワークと呼んでも過言ではない代表作「シンドバッド三部作」が12月のザ・シネマにお目見えする。同じく放送される『アルゴ探検隊の大冒険』と並んで、特撮ファンタジー映画の金字塔として熱烈なファンの多い「シンドバッド三部作」。今回はその見どころや舞台裏エピソードをご紹介しよう。 『シンバッド七回目の航海』(1958) シンドバッドの英語表記「Sinbad」に倣って邦題でもシンバッドの呼称が使われた本作は、「シンドバッド三部作」の記念すべき第1弾にして、ハリーハウゼンにとって初めてのカラー映画。なおかつ、ハリーハウゼン映画のトレードマークである「ダイナメーション」を宣伝文句に使った最初の映画でもある。ダイナメンション(立体)とアニメーションを結び合わせた造語であり、ハリーハウゼンが得意とするストップモーション・アニメとライブ・アクションを融合させた特撮技術を指す「ダイナメーション」。従来のストップモーション・アニメーションという単語だと、いわゆる漫画アニメと混同してしまう観客や批評家が多かったため、何か新しいキャッチーな呼び方が必要だと考えていたハリーハウゼンのため、相棒のシニアがドライブ中に思いついたのだそうだ。 そんな本作の企画が生まれたのは、ハリーハウゼンが『原子怪獣現る』の撮影を終えた頃のこと。フランスの画家ギュスターヴ・ドレの絵画をヒントに、「アラビアン・ナイト」の英雄シンドバッドと骸骨が剣を交えて戦う場面を連想したハリーハウゼンは、そのアイディアを基にした「Sinbad the Sailor(船乗りシンドバッド)」という長編映画を企画。いくつか考えた特撮シーンのコンセプト画と簡単な企画書を持って、各映画会社やプロデューサーのもとを回ったが、しかし当時はまだ具体的なストーリーがなかったせいか、どこへ持ち込んでもアッサリ断られてしまったという。 その後、『水爆と深海の怪物』に『世紀の謎 空飛ぶ円盤地球を襲撃す』(’56)、『地球へ2万マイル』と立て続けにSF特撮映画を作ったハリーハウゼンだったが、おかげで巨大生物が暴れまわったり都市が破壊されたりするような映画に飽きてしまった。そこで思い出したのが「船乗りシンドバッド」の企画だったという。とはいえ、当時はRKO製作のシンドバッド映画『四十人の女盗賊』(’55)が大惨敗したばかりで、ハリウッドではコスチュームプレイは時代遅れで当たらないという認識が広まっていた。そのうえ歴史物なので、それまでの映画に比べて遥かに予算がかかる。またもや門前払いを食らうのではないかと心配したハリーハウゼンだったが、しかし彼の描いたコンセプト画を見てヒットの可能性を見抜いたシニアは、映画会社の幹部を説得しやすいように実現可能なアイディアのみをまとめた企画書を作り直し、見事にコロムビア映画から製作許可を得たのである。 まずは特撮と合成の準備に取り掛かったハリーハウゼン。彼の作品は基本的に特撮シーンありきであるため、脚本は特殊効果と予算の兼ね合いを検討しながら改稿を繰り返していくのが通常だった。一般的に特撮は脚本を基にして準備が進められ、脚本の内容に従って製作されるものと考えられがちだが、ハリーハウゼン作品はその逆だったのだ。テレビドラマの人気脚本家だったケネス・コルブを雇い、ハリーハウゼンとシニアを交えた3人で会議を重ねた末に、およそ半年をかけて脚本が完成。映画の成功も失敗も特殊効果次第だと考えたシニアは、ハリーハウゼンの手に100万ドルの保険をかけたのだそうだ。 ストーリーは実にシンプル。異国の姫君パリサ(キャスリン・グラント)と婚約し、船長を務める船で故郷のバグダッドへ戻ることになったシンドバッド王子(カーウィン・マシューズ)は、その途中に立ち寄った謎の島コロッサで一つ目の巨人サイクロプスに襲われる魔術師ソクラ(トリン・サッチャー)を救出する。ところがこのソクラは邪悪な魔術師で、島では宝物庫から魔法のランプを盗もうとしてサイクロプスに追いかけられていたのだ。魔法のランプを諦められないソクラは、魔術を使ってパリサ姫を親指サイズの小人に変えてしまう。慌てたシンドバッドが犯人と知らずソクラに助けを求めたところ、パリサ姫を元へ戻すにはコロッサ島の巨大な怪鳥ロックの卵が必要不可欠だという。そう、ソクラはシンドバッドにコロッサ島へ戻る船を出させるため、パリサ姫に魔術をかけたのだ。かくして、謎多き島へ再び上陸したシンドバッド一行の前に、サイクロプスや双頭の怪鳥ロック、さらには火を噴く怪獣ドラゴンなどが立ちはだかる。 先述した通り、ストーリーはあくまでも特撮シーンの見せ場を軸にして構成されており、なおかつ子供向けの冒険活劇が基本コンセプトであるため、正直なところ脚本自体はあまり出来が良いとは言えない。だいたい、サイクロプスなんてギリシャ神話のキャラクターであり、本来なら「アラビアン・ナイト」の世界とは無関係。いい加減といえばいい加減である。やはり最大の目玉はハリーハウゼンの「ダイナメーション」だろう。中でも、企画の発端となったシンドバッドと骸骨の剣戟アクションは、両者の剣さばきが見事にマッチした素晴らしい出来栄え。モデル人形と俳優を「接触」させる映像を撮るのはこれが初めてだったため、ハリーハウゼンは自らフェンシングの訓練コースを受けて正しい剣さばきを勉強し、さらには剣戟の振り付けを担当するフェンシングの元オリンピック・イタリア代表選手エンツォ・ムスメッキ・グレコと打ち合わせを重ね、アニメート作業を念頭に置いたリズミカルな振り付けを考案したという。骸骨のモデル人形は体部分がラテックスを沁み込ませた綿、頭部はレジン(合成樹脂)で出来ており、『アルゴ探検隊の大冒険』の骸骨軍団のひとつとしても再登場する。 もちろん、サイクロプスとドラゴンの造形も見事で、両者が死闘を演じるクライマックスはなかなかの迫力だ。当初、サイクロプスをもっと人間みたいなデザインにするつもりだったハリーハウゼンだが、しかし観客から俳優が演じているものと勘違いされることを避けるため、『地球へ2千万マイル』の怪獣イミールの初期デザインを応用したモンスターに仕上げた。恩師ウィリス・オブライエンに言われた「現実に撮影できるものを作ろうとするのはやめるべきだ」というアドバイスも恐らく念頭にあったのだろう。 ちなみに、もともとのコンセプトだとコロッサ島はサイクロプスの居住地で、他にも大勢のサイクロプスが存在するという設定だったのだとか。実際、シンドバッドの部下の水兵がサイクロプスに捕まって丸焼きにされそうになるシーンで、2体のサイクロプスが「ご馳走」を巡って殴り合いの喧嘩をするというユーモラスな場面も予定されていたが、しかし時間と予算の都合で諦めたのだそうだ。また、ドラゴンが火を噴くシーンの撮影もコストがかかるため、本来ならもっと火を噴かせたかったが2回だけで断念。また、脚本執筆の段階では、人魚の姿をした女性の精霊セイレーンが嵐の岩場に現れたり、魔術師ソクラの洞窟で巨大ネズミの群れに襲われたりするシーンも存在したそうだが、前者は時間的な余裕がなかったため、後者は子供向け映画としては怖すぎるため削除された。 やはり本作で最大の難関だったのはカラー撮影である。というのも、当時はまだCGもデジタル合成も存在しない時代。ストップモーション・アニメとライブ・アクションの映像を合成するには、手前にモデル人形やミニチュアセットを配置し、背景のスクリーンに実写映像を投影(リアプロジェクション)しながらひとコマずつ撮影していく、いわゆる「スクリーンプロセス」の手法が用いられていた。ご想像の通り、それだとスクリーンに投影された実写映像をもう一度撮影することになるため、当たり前だがその部分だけ解像度が著しく落ちてしまう。これがモノクロ撮影だと画質や色の違いもなんとか誤魔化せるが、しかしカラーではハッキリと目立ってしまうのだ。ただでさえカラー撮影は費用がかさむうえ、そうした技術的な問題も孕んでいる。なので、もともとハリーハウゼンはモノクロでの撮影を考えていたが、しかし相棒シニアが「『アラビアン・ナイト』の世界にモノクロはそぐわない」とカラーでの撮影を主張し、ハリーハウゼンも「確かにその通りだ」と考えを改めたのである。 そこで、ハリーハウゼンはコロムビア現像所の所長ジェラルド・ラケットに相談し、複製ネガの画質がマスターポジに劣らないイーストマン・コダック社の新製品フィルム「カラーストック5253」をリアプロジェクション用に採用。さらに、当時の映画フィルムは撮影の際にマスキングされていたのだが、ハリーハウゼンはそれを外して露光領域を全て使うことを考案。これでリアプロジェクション映像を撮影すると。画像サイズが大きくなった分だけ解像度も上がり、画質や色の違いが少なく抑えられるというわけだ。ただし、カラーフィルムは温度変化に敏感で、例えばアニメート撮影を途中で切り上げて翌日に回したりすると、その間にフィルムの明度が変わってしまうため、ひとつのカットを一気に撮影せねばならなかったそうだ。 また、当時のハリウッド映画の歴史物はロサンゼルスのスタジオに巨大セットを作って撮影されることが多かったが、本作は製作費の節約のため人件費の安いスペインでロケを敢行。グラナダのアルハンブラ宮殿やコスタ・ブラーバのサガロ、マジョルカ島の洞窟などを使って実写映像を撮影しているのだが、これが実にエキゾチックかつ風光明媚な魅力を作品に与えて大正解。ロケハンのためスペインを訪れたハリーハウゼンはすっかり気に入ってしまい、以降もたびたび自作のロケ地としてスペインを選んだばかりか、一時期はスペインに住んでいたこともある。 監督として実写部分の演出を担当したのは『地球へ2万マイル』でも組んだネイサン・ジュラン。自分自身を「映画監督が天職というタイプではない」「映画に恋をしたようなこともない」と語っていたジュランは、自らの職務についても「スケジュールと予算をきちんと守ったうえで、脚本の内容を映像化する技術者」だと割り切っていた。それゆえ、ハリーハウゼンやシニアにとっては仕事をしやすい相手だったようだ。しかももともとは美術監督の出身であるため、本作では異国情緒溢れるゴージャスな映像美にその才能を発揮している。また、シンドバッド役のカーウィン・マシューズは当時コロムビア映画が猛プッシュしていた若手スターで、ハリーハウゼン曰く、目に見えないモンスターを想像しながら演技するのが非常に巧かったという。 最終的な製作費はたったの65万ドルだったが、コロムビア映画の派手なプロモーション効果もあってか大ヒットを記録。これを機にハリーハウゼンとシニアは大きな予算を確保できるようになり、いわゆるB級映画の世界から抜け出すことが出来たそうだ。 『シンドバッド黄金の航海』(1973) 本作も始まりはレイ・ハリーハウゼンの描いたイラストだった。再び「アラビアン・ナイト」の世界を映画化したいと考えた彼は、ケンタウロスとグリフォンの戦いなど何枚かのイラストを描いていた。1963~64年頃のことだ。しかし、当時はストーリーまでは思いつかなかったため企画を温存することにした。その後、何度か脚本家を雇ってアウトラインを考えたが実を結ばず。結局、興行的に不発だった『恐竜グワンジ』(’69)の完成後に、自身の手でシンドバッド映画第2弾のアウトラインを書くことになる。これを読んだ相棒のチャールズ・H・シニアは、『女子大生・恐怖のサイクリングバカンス』(’70)や『見えない恐怖』(’71)などの優れた英国サスペンスで知られるブライアン・クレメンスを脚本家として雇い、およそ1年間をかけて脚本会議を重ねながらストーリーを構成していく。そうやって最終稿が仕上がったのは1972年6月のことだった。 部下の水兵たちを伴って航海の旅を続ける船乗りシンドバッド(ジョン・フィリップ・ロー)は、ある時、船の上空を飛来した奇妙な生き物を射落とそうとしたところ、その生き物が運んでいた黄金のタブレットを手に入れる。すると、シンドバッドの目の前に美しい女性の幻が現れ、そのうえ奇妙な嵐に見舞われた一行は、気が付くと航路から大きく外れたマラビア王国へと辿り着く。上陸したシンドバッドから黄金のタブレットを奪おうとする魔術師クーラ(トム・ベイカー)。実は、タブレットを落としていった奇妙な生物は、魔術師クーラがマンドレイクの根から作った翼を持つ小型の人造人間ホムンクルスだった。王国軍によって助けられたシンドバッドは、クーラによって顔に火傷を負ったため黄金のマスクを被った宰相ビジエル(ダグラス・ウィルマー)に宮殿へ招かれる。 その宰相ビジエルによると、黄金のタブレットは3枚で構成されたパズルのひとつで、その全てを揃えた者は何か強大なパワーを得ることが出来るという。魔術師クーラはそれを狙っているのだ。実は宰相ビジエルも黄金のタブレットを持っており、シンドバッドのタブレットと併せてみたところ、それが伝説の島レムリアの位置を示す航海図であることに気付く。恐らく、そこに3枚目のタブレットがあるのだろう。宰相ビジエルと共にレムリア島へ向かうことにしたシンドバッドは、さらに幻で見た美女と瓜二つの女奴隷マルギアナ(キャロライン・マンロー)と商人の放蕩息子ハローン(カート・クリスチャン)を連れて航海の旅に出るのだが、その動きを察知した魔術師クーラが横取りしようと画策する…。 『シンバッド七回目の航海』よりも大人向けに仕上がった本作は、それゆえビジュアルもお伽噺風の煌びやかさや派手な色彩が抑えられ、全体的にどこかダークで神秘的なムードが漂う。中でもそれが顕著なのは、カンボジアのアンコール遺跡を参考にしたというレムリア島のデザインであろう。そのレムリア島の元ネタは、19世紀の動物学者フィリップ・ㇲクレーターが存在を主張した幻の大陸レムリア。かつてインド洋にあったとされていることから、ハリーハウゼンは本作もインドでロケ撮影しようと考えたが、しかし当時のインドでは官僚主義やお役所仕事で映画の撮影がなかなか進まず、そのうえ現地エキストラは複数の仕事を掛け持ちしているので平気で現場をすっぽかすとの悪評を聞いて断念する。なにしろ、ハリーハウゼン作品では撮影スケジュールと予算の厳守は必須だ。そのため、結局は前作と同じようにスペインで撮影をしている。 やはり本作の最大の見どころは、レムリア島の寺院に祀られたヒンドゥー教の陰母神カーリーの巨大な青銅像が動き出し、シンドバッド一行と激しい戦いを繰り広げるシーンであろう。実在しないクリーチャーに命を吹き込むこと以上に惹かれるのが、本来なら命を持たないただのモノに命を吹き込むことだというハリーハウゼン。そんな彼にとって、本作のカーリーは最も満足した仕事のひとつだったようだ。ただし、カーリーとシンドバッドたちのチャンバラ合戦は『アルゴ探検隊の大冒険』の骸骨軍団との戦いと同じくらい、複雑かつ困難なアニメート作業と合成が必要だったため、実写部分の撮影ではハリーハウゼン自身が最終的な完成映像を念頭に置いて役者の動きを指導したという。また、カーリーが踊り出すシーンではインドの舞踏家スーリャ・クマリに振り付けを依頼し、フィルム撮影された踊りを基にしてアニメート作業を行った。 もうひとつ、命を吹き込まれた命のないモノが、シンドバッドの船の船首像である。セイレーンをモデルにした船首像が、夜の暗闇で不気味に動き出すシーンは鳥肌ものの不気味さとカッコ良さ!また、サイクロプスの要素を取り込んだひとつ目のケンタウロスもデザインがユニークだし、そのケンタウロスとグリフォン(上半身が鷲で下半身がライオンという伝説のクリーチャー)の戦いも大きな見どころである。なお、本作ではダイナメーションに代わってダイナラマという新しい名称が使用されているが、これは映画会社の宣伝戦略で呼び方を変えただけだ。 監督に起用されたのは、AIP(アメリカン・インターナショナル・ピクチャーズ)で『呪われた棺』(’69)や『バンパイアキラーの謎』(’70)などのカルト・ホラーを手掛けたゴードン・ヘスラー。ファンタジーの世界にも造詣が深かった彼は、脚本会議にも途中から参加して様々なアイディアを提供し、ハリーハウゼンを大いに満足させたという。ダークで神秘的な世界観もホラー畑出身のヘスラーにはピッタリだった。シンドバッド役は『バーバレラ』(’68)や『黄金の眼』(’68)で有名なジョン・フィリップ・ロー。マッチョ過ぎないシュッとした体格はハリーハウゼンの理想通りだったが、しかしシニア曰く、前作のカーウィン・マシューズほど剣戟アクションが上手くないのは不満だったようだ。 ヒロインのマルギアナを演じるキャロライン・マンローは、当時ハマー・フィルムでクレメンスが撮り終えたばかりの初監督作『吸血鬼ハンター』(’73)の主演女優で、そのクレメンスの推薦で本作に起用された。従来のハリーハウゼン作品らしからぬセクシーなヒロイン像に、当時は胸をときめかせた映画少年も多かったようだ。また、魔術師クーラ役のトム・ベイカーは、かのローレンス・オリヴィエにも才能を評価されたシェイクスピア俳優だったが、しかし本作のオーディションを受けた当時は土木作業員のアルバイトをしながら食いつないでいたそうで、このクーラ役をステップにイギリスの国民的長寿SF番組『ドクター・フー』の4代目ドクター役に抜擢される。また、マカロニ・ウエスタンの悪役俳優アルド・サンブレルが、シンドバッドの腹心オマール役で顔を出しているのも見逃せない。 なお、井戸から現れる毛むくじゃらの預言者役は、もともとオーソン・ウェルズがキャスティングされていたものの、撮影直前になってエージェントがギャラの値段を吊り上げたために断念。その代わり、当時たまたまスペインで休暇中だった名優ロバート・ショーに出演してもらった。撮影はたったの1日で済んだそうだ。 『シンドバッド虎の目大冒険』(1977) 『シンドバッド黄金の航海』の完成後、次なる企画として「コナン」や「ホビットの冒険」などを検討していたというハリーハウゼンとシニア。しかし、同作が予想を上回る大ヒットを記録したことから、引き続きシンドバッド物を踏襲することになる。この勢いに乗っておかない手はないと考えたわけだ。ただし、単純な続編にすることは意図的に避けた。前作で使おうと思ったアイディアが幾つも残っていたため、それを基にして全くの独立したストーリーを考えたのである。そのひとつが、前作のアウトラインに含まれていた「人間が魔法で猿に変えられてしまう」という設定。これを土台にして話を膨らませ、大まかなあらすじを考えたハリーハウゼンは、1974年の5月にアウトラインを相棒シニアに送っている。 脚本執筆に起用されたのは『アルゴ探検隊の大冒険』でも組んだビヴァリー・クロス。脚本会議を重ねてもなかなか結末が決まらなかったそうだが、最終的にクロスが相応しいクライマックスを考えてくれたという。決定稿が出来上がったのは1975年6月。またもや1年以上かかってしまったのである。 物語の始まりはアラビアの都シャロック。先代のカリフが崩御し、その息子であるカシム王子(ダミアン・トーマス)の戴冠式が行われるのだが、実子ラフィ(カート・クリスチャン)を王位に就けたい継母ゼノビア(マーガレット・ホワイティング)の魔法によって、なんとカシム王子はヒヒに変えられてしまう。実は、ゼノビアは黒魔術を操る邪悪な魔女だったのだ。その頃、冒険の旅を終えた船乗りシンドバッド(パトリック・ウェイン)がシャロックを訪れる。カシム王子の妹ファラー姫(ジェーン・セイモア)と結婚するためだ。ところが、都は夜間外出禁止令が出ていて中へ入れない。そればかりか、ゼノビアとラフィの仕掛けた罠にまんまとハマって、シンドバッドと仲間たちは餓鬼グールや軍隊に襲撃される。 なんとか敵を倒してファラー姫を救出し、船へと戻ったシンドバッド。ファラー姫から事情を聞いた彼は、親友でもあるカシム王子を助けようと考える。7ヶ月以内に王子を元の姿に戻さねばラフィが王位に就いてしまう。高名な錬金術師メランシアス(パトリック・トラウトン)ならば何か分かるに違いないと思いついたシンドバッドは、ファラー姫やヒヒになったカシム王子を連れて、メランシアスが住むというギリシャのカスガル島を目指して旅に出る。そうと知った魔女ゼノビアもまた、息子ラフィや機械仕掛けの従者ミナトンと共にシンドバッド一行の後を追う。カスガル島で錬金術師メランシアスとその娘ディオーネ(タリン・パワー)と面会したシンドバッドらは、氷河に覆われた幻の大陸ヒュペルボレイオスに存在する、失われた民族アリマスピの神殿に呪いを解くヒントがあると教えられる。メランシアスとディオーネを旅の仲間に加え、極北の地を目指すシンドバッド一行。しかし、そんな彼らの行く手に魔女ゼノビアが立ちふさがる…! サイクロプスやドラゴン、ケンタウロスにグリフォンなど神話や伝説のクリーチャーがスクリーンを賑わせた前2作と違って、巨大なセイウチやサーベルタイガー、ネアンデルタール人トロッグにヒヒなど、実在の生物を基にしたクリーチャーが大半を占める本作。一応、機械仕掛けの従者ミナトンはギリシャ神話に出てくる半人半牛の怪物ミノタウロスが元ネタだが、しかし見た目は殆んどロボットである。おかげで、「アラビアン・ナイト」をベースにしたファンタジー活劇というよりも。エドガー・ライス・バローズやヘンリー・ライダー・ハガードの書いたSF冒険小説の世界に近くなったように思う。そこは恐らく賛否の別れるポイントだ。 その一方で、前作が大ヒットしたおかげで予算が跳ね上がり、コロムビア映画から350万ドルという破格の製作費を割り当てられたおかげもあって、実写シーンでは従来のスペイン・ロケに加えて、北極の氷河を横断するシーンはピレネーのピコス・デ・エウロパ、錬金術師メランシアスが住むカスガルはヨルダンのペトラ遺跡、シンドバッドの船やヒュペルボレイオスの神殿などの屋外セットはマルタ島といった具合に、世界各地で大規模な撮影を行っている。ただし、ピレネーやヨルダンのロケはキャストや監督が決まる前にハリーハウゼンが第2班を率いて撮っているため、ロングショットで本編に移っている登場人物たちはみんな代役だったそうだ。反対にクロースアップショットはスタジオで撮影されており、周りの風景がロケ映像のフィルムを使った移動マット合成であることが見て取れる。 監督は俳優としても有名なサム・ワナメイカー。シンドバッド役は続編のイメージを避けるというハリーハウゼンの意図に加え、さらにコロムビア映画が新しい俳優を望んでいたこともあって、ジョン・フィリップ・ローではなくハリウッド映画の王様ジョン・ウェインの息子パトリック・ウェインが起用された。ディオーネ役のタリン・パワーも往年の大スター、タイロン・パワーの娘。こうした2世スターの起用は良い宣伝材料になったという。ヒロインのファラー姫には『007/死ぬのは奴らだ』(’73)のボンドガールでブレイクしたジェーン・セイモア。ただし、クレジット上はタリン・パワーがパトリック・ウェインと並ぶ主演扱いで、自分がヒロインだと聞かされていたジェーンは撮影現場で脚本の決定稿を渡され、中身を読んだところ自分の出番が大幅に削られていてビックリしたという。ジェーン曰く、2世スター同士の顔合わせで売り出したい映画会社の意向だったそうだ。まあ、パトリック・ウェインもタリン・パワーもほどなくして映画界から消え、貧乏くじを引いたジェーン・セイモアは長く輝かしいキャリアを誇ることになるのだが。 ハリーハウゼンが最も満足したというのが魔女ゼノビア役のマーガレット・ホワイティング。ありきたりなケバケバしい魔女ではなく、威厳のある邪悪さを持ったコンラート・ファイトの女性版を望んだハリーハウゼンは、コーラル・ブラウンやヴィヴェカ・リンドフォースくらいの演技力を持った名女優でないと務まらないと考えたそうだ。そこで、アン・バクスターやマーセデス・マッケンブリッジ、パトリシア・ニールなどのベテラン女優を検討した末、ハリーハウゼンがゼノビア役をオファーしたのは映画史上屈指の大女優ベティ・デイヴィス。しかし提示されたギャラがあまりにも高すぎたため断念せざるを得ず、その代わりにウェスト・エンドの大物シェイクスピア女優ホワイティングに白羽の矢が立てられた。これが結果的に幸いしたとハリーハウゼンは振り返る。 1977年の夏休みシーズンに世界中で一斉公開された本作だが、映画会社が期待したほどの大成功には結びつかなかった。恐らくその最大の理由は、同時期に公開された『スター・ウォーズ』(’77)であろう。これを機にハリウッドでは最先端の特撮技術を駆使したスペクタクルなSF大作映画のブームが訪れ、ストップモーション・アニメを使った古式ゆかしいファンタジー映画は急速に時代遅れとなっていく。新たに特撮映画のジャンルを牽引するようになったのは、ハリーハウゼンの映画を夢中で見て育ったジョージ・ルーカスやスティーブン・スピルバーグの世代。まさに時代の節目だったのである。■ 「シンドバッド7回目の航海」© 1958, renewed 1986 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.「シンドバッド黄金の航海」© 1973, renewed 2001 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.「シンドバッド虎の目大冒険」© 1977, renewed 2005 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2024.12.03
S・キングの才能を受け継ぐ息子の創造力と『ドクター・ストレンジ』監督の幼き日の記憶が融合したユニークなホラー映画『ブラック・フォン』
21世紀のホラー映画界を代表する制作会社ブラムハウスとは? 低予算かつ良質なホラー映画に定評のある、ハリウッドの制作会社ブラムハウス・プロダクションズの放った大ヒット作だ。ご存知の通り、『パラノーマル・アクティビティ』(’07)シリーズや『インシディアス』(’10)シリーズ、『パージ』(’13)シリーズに『ハッピー・デス・デイ』(’17)シリーズなどの人気ホラー・フランチャイズを世に放ち、『ゲット・アウト』(’17)ではホラー映画として珍しいアカデミー賞の作品賞ノミネートも果たしたブラムハウス。この『ブラック・フォン』(’22)も批評面・興行面の両方で大成功を収め、既に続編の劇場公開も決まっている。 近年のハリウッドではブラムハウスだけでなく、サム・ライミ監督のゴースト・ハウス・ピクチャーズやジェームズ・ワン監督のアトミック・モンスター・プロダクションズなどホラー映画に特化した新興スタジオが台頭。エッジの効いたアート系映画でハリウッドに革命を巻き起こしたA24も、アリ・アスター監督の『ヘレディタリー/継承』(’18)に『ミッドサマー』(’19)など芸術性の高いホラー映画に力を入れている。そうした中、この20年余りで200本を超える映画を製作して60億ドル近くの興行収入を稼いだとされ、アメリカのインディペンデント映画をリードする存在とまで言われるブラムハウスとは、いったいどのような会社なのか?まずはそこから話を始めてみたい。 ブラムハウス・プロダクションズの社長ジェイソン・ブラムは、もともと俳優イーサン・ホークが主催するニューヨークの劇団マラパート・シアターの演出家だった人物。その後、インディーズ大手のミラマックスの重役として映画界へ転向した彼は、大学時代のルームメイトだったノア・バームバックの処女作『彼女と僕のいた場所』(’95)でプロデューサーへ進出し、’00年に友人エイミー・イスラエルと共同で製作会社ブラム・イスラエル・プロダクションズを設立する。しかし、’02年にイスラエルと袂を別ったことから、社名をブラムハウス・プロダクションズへ変更したというわけだ。 当初はアート系のドラマ映画やコメディ映画を製作していたブラムハウス。しかし、’07年公開の『パラノーマル・アクティビティ』が、たった21万5000ドルの製作費で1億9400万ドルの興行収入を稼ぐ超メガヒットを記録したことから、これをきっかけにホラー映画を主力とした制作体制を敷くことになる。 ジェイソン・ブラム社長の掲げる制作方針は、①旬のトップスターではないが知名度の高い中堅どころの名優をキャスティングし、②金を出しても口は出さずに作り手の自由を尊重し、③派手なギミックよりもストーリー性を重視した低予算のホラー映画を作ること。もちろん低予算とはいっても、例えばアトミック・モンスターと共同製作した『M3GAN ミーガン』(’22)の予算は1200万ドル(当時の為替相場1$=130円で計算すると15億~16億円)、最新作「スピーク・ノー・イーヴル」(’24)にしたって1500万ドル(現在の為替相場1$=150円で計算して22億~23億円)。10億円を超えたら超大作と呼ばれる日本映画とはちょっと桁が違うのだけれど。 それにしても確かに、ブラムハウス制作のホラー映画といえば、イーサン・ホークにケヴィン・ベーコンのような往年のトップスターや、ヴェラ・ファーミガやフランク・グリロなどの玄人受けする性格俳優、エヴァ・ロンゴリアやアリソン・ウィリアムズなど人気テレビドラマの主演スターといった具合に、一般的な知名度は高いがギャラはそれほど高くないベテラン俳優と無名もしくは無名に近い若手俳優をバランス良く配している作品が多い。また、ブラム社長曰く、監督側にクリエイティブ面の主導権を保証すれば、むしろ気軽に色々な相談をしてくれるようになるのだそうだ。なぜなら、仮に返って来た答えが賛同できないようなものであっても、それをスタジオ側から無理強いされる心配がないと分かっているから。つまり、現場から警戒されずに済むというわけだ。 なので、「映画をより良くするためなら何をしても構いませんよ」というのが現場に対するブラム社長の基本姿勢。相談されれば意見することもあるが、もちろん強制したりなどしない。あくまでも選択肢のひとつに加えてくださいというだけ。そればかりか、例えば会社のスタンスに理解を示して協力してくれる有名俳優をリスト化しており、新人監督にはそこからキャストを選ぶように推薦したりする。また、スターのための個人用トレーラーなどはあえて用意せず、役者は主演クラスも脇役もみんな同じ場所で待機。ロサンゼルス近郊を撮影地に選ぶことが多いため、現場スタッフも勝手を知った常連組が中心。さらに、どの作品も基本はロケ撮影で、スタジオにセットを組むことは滅多にない。そうした諸々の工夫によって、撮影期間も製作費もなるべく節約できるように現場を全面バックアップしているという。 デイミアン・チャゼル監督の出世作『セッション』(’14)やスパイク・リー監督の『ブラック・クランズマン』(’18)など、時にはホラー映画以外のジャンルも手掛けたりするものの、それでもやはりブラムハウスといえばホラー映画。ただしブラム社長自身の認識としては、どれもホラーというジャンルのフォーマットを用いた「ドラマ映画」であり、必ずしも観客を怖がらせることが目的ではないとのこと。それは本作『ブラック・フォン』にも当てはまる理屈であろう。 得体の知れない怪物と対峙した少年の成長譚 舞台は1978年のコロラド州。デンバー北部の小さな田舎町に住む少年フィニー(メイソン・テムズ)は、草野球とロケット作りが得意な文武両道の物静かな優等生だが、しかし心優しくて気の弱いところがあるため、家では飲んだくれの父親による暴力に怯え、学校ではいじめの標的にされている。そんな彼にとって最大の理解者であり、心強い味方なのが負けん気の強い妹グウェン(マデリーン・マックグロウ)。しかし、父親テレンス(ジェレミー・デイヴィス)はそんな彼女にことさら厳しい。なぜなら、亡くなった妻と同様の能力を娘も持っているからだ。母親と同じく予知夢を見るグウェン。しかし、その予知夢に苦しめられた母親は、精神を病んで自殺してしまった。娘も同じ末路を辿るのではないか。そんな不安と恐怖に加えて、妻を亡くした哀しみや怒りが混ぜこぜになったテレンスは、グウェンがちょっとでも予知夢の話をしようものなら、酒に酔った勢いに任せて激しい体罰を加えるのだった。 折しも、町では10代の少年ばかりが次々と姿を消していた。警察は連続誘拐事件と睨んで捜査するも手がかりはなく、人々は犯人を「グラバー(人さらい)」と呼んで恐れている。フィニーの周囲でも草野球のライバル・チームの日系人少年ブルースや地元でも悪名高い不良のヴァンスが行方不明となり、ついには学校でいじめっ子から守ってくれるケンカの強いメキシコ人少年ロビン(ミゲル・カサレス・モーラ)までもが消息を絶ってしまった。そんなある日、学校帰りに妹と別れてひとり歩いていたフィニーは、黒塗りの営業車を停めた手品師に声をかけられ、足を止めた瞬間にクロロフォルムを嗅がされて車へ引きずり込まれる。やがて意識を取り戻したフィニー。そこは薄暗い地下室で、彼は自分がグラバー(イーサン・ホーク)に誘拐されたことを悟るのだった。 鍵のかかった地下室に監禁されたフィニー。そこにあるのは、薄汚れたボロボロのマットレスと、線が途中で切れた古い黒電話だけ。どうやら上はグラバーの住居らしい。ことさら危害を加えるような様子もなく、しかし不気味なマスクを被りながら黙ってフィニーを見つめるグラバー。不安と恐怖を煽って精神的に追い詰めつつ、徐々にいたぶっていくつもりらしい。それはさながら残虐なゲームだ。防音工事の施された地下室からは、どれだけ大声で叫んでも外には聞こえない。鉄格子のついた窓も手の届かない高さだ。圧倒的な絶望感に打ちひしがれるフィニー。すると、断線しているはずの黒電話のベルが不気味に鳴り、フィニーが恐る恐る受話器を取ってみたところ、電話の向こうから子供の声が聞こえる。グラバーに殺された少年たちの幽霊が、ここから脱出するためのヒントをフィニーに教えようとしていたのだ。その中には親友ロビンもいた。 一方その頃、妹グウェンは予知夢を手掛かりにフィニーの行方を掴もうとするのだが、しかし夢の読み解き方が分からず苦戦していた。息子の失踪にショックを受けて気落ちする父親を説き伏せた彼女は、半信半疑の警察の協力も得ながら、なんとかして兄をグラバーの魔手から救い出そうと奔走するのだが…? ジョン・ゲイシーを彷彿とさせる連続殺人鬼グラバーが、少年たちを誘拐して殺していくシリアル・キラー物かと思いきや、やがて殺された少年たちの幽霊が主人公を助けながら復讐を果たすという、リベンジ系のオカルト・ホラーへ展開していく。この意外性がひとつの見どころだが、しかし本作の核となるのは、やはり主人公フィニーの成長譚であろう。家庭内暴力にイジメに凶悪犯罪にと、日常生活が暴力で溢れたアメリカ社会の殺伐たる風景。無垢で繊細でか弱い少年フィニーは、グラバーという得体の知れない怪物と対峙することで恐怖を克服し、弱肉強食のアメリカ社会を生き抜くために必要な知恵と強さを身に付ける。妹グウェンとの絶対的な信頼関係と兄妹愛、殺された少年たちとの固い絆。そんな子供らが一致団結して、邪悪な連続殺人鬼に立ち向かっていく。この、背筋の凍るほど残酷で猟奇的なストーリーの根底に流れる、普遍的な愛と友情の切なくも感動的なドラマこそが、本作が商業的に成功した最大の要因だったのではないかと思う。 中でも、主人公フィニーを取り巻く学校や家庭の描写は圧倒的にリアル。おかげで作品全体にも揺るぎない説得力が生まれた。これは本作が、共同脚本を兼ねたスコット・デリクソン監督の少年時代を投影した、多分に半自伝的な要素の強い作品だからだと言えよう。 主人公フィニーは監督の分身だった 原作はスティーブン・キングの息子である作家ジョー・ヒルが’05年に発表した、短編集「20世紀の幽霊たち」に収録された小説「黒電話」。出版当時に読んで映画向きの内容だと考え、親友の脚本家C・ロバート・カーギルと映画化を検討したデリクソン監督だったが、しかし当時は長編映画として膨らませるためのアイディアが思い浮かばずに断念したという。 それから10年以上が経って、その間に『地球が静止する日』(’08)や『ドクター・ストレンジ』(’16)などの大作映画をヒットさせた彼は、自身の少年時代を映画化しようと思いつく。というのも、フィニーと同じく’70年代のデンバー北部に育ったデリクソン監督は、子供時代に受けた暴力のトラウマを抱えていたらしく、およそ5年に渡って受けたセラピーの過程で、自分の経験を映画にすべきなのではないかと考えたという。当初はフランソワ・トリュフォーの『大人は判ってくれない』(’59)のような作品を想定したそうだが、しかし映画として成立させるための印象的なエピソードが足りなかった。そこでカーギルから提案されたのが、かつて映画化を断念した短編小説「黒電話」に自身の少年時代の記憶を混ぜ合わせることだったのである。 原作小説は主人公の少年ジョンがグラバーに誘拐されるところから始まり、物語の大半は2人の会話と少年の回想で構成されている。家庭の描写はあるが学校の描写はなし。家族構成も映画版とは違うし、そもそも原作の舞台は携帯電話の普及した現代である。黒電話で話をするのも、小説では日系人少年ブルースの幽霊のみ。つまり、冒頭の25分はほぼ本作の完全なオリジナルであり、それ以外も脚色された要素が少なくないことになる。 子供の頃の記憶と直接的に結びつく感情は「恐怖」だったと振り返るデリクソン監督。映画の舞台となる’78年は12歳だった。当時のアメリカは経済不況による治安の悪化に加え、ベトナム敗戦やウォーターゲート事件による国家への不信も重なり、社会全体が殺伐としていた時代。デリクソン監督の故郷は貧しい肉体労働者の家庭が多かったそうで、子供たちが日常的に親から体罰を受けるのは当たり前、学校では暴力沙汰のいじめが蔓延り、登下校の最中に血みどろの喧嘩を見かけることも日常茶飯事だったという。 デリクソン監督自身も家庭では短気で暴力的な父親に怯え、学校ではいじめっ子たちから暴力を受けていた。主人公フィニーはまさに監督の分身だ。そして劇中で描かれる体罰やイジメは、どれも監督が経験した実話を基にしている。’70年代のデンバー北部には暴力が溢れていたが、しかしそれは当たり前の「普通」の光景だったという。加えて、当時のアメリカでは刑務所を脱獄した連続殺人鬼テッド・バンディがフロリダを逃亡してマスコミを賑わせ、カルト集団マンソン・ファミリーがもたらした悪夢も記憶に新しく、さらには全米各地で子供や若者の失踪事件が相次いで、これが’80年代に入ると悪魔崇拝カルトの仕業ではないかと噂される。そうした少年時代の暗い記憶が、小説の内容と奇跡的に結びついていった結果が本作の物語だったのである。 そのうえで、デリクソン監督は’70年代後半のアメリカをノスタルジックに描いたり、当時の世相や文化を美化したりすることを避け、子供だった自分が感じた空気をそのまま再現することに注力したという。ロケ地はコロラド州ではなくノース・カロライナ州だが、しかし雰囲気や街並みは当時のデンバー北部にそっくりだったのだとか。グウェンの予知夢を本物のスーパー8で撮影したのも効果的で、より一層のこと’70年代の空気感を表現できたのと同時に、まるでファウンド・フッテージのような薄気味悪さまで醸し出して秀逸だ。このような監督の実体験を投影した濃密な人間ドラマと、あの時代を知る者だからこそのリアリズムに基づいた映像が、単なる作り話にはない強い説得力を物語に与えているのだと言えよう。本作の真の強みはそこにあると思う。 ちなみに、主人公フィニーの父親はデリクソン監督の父親ではなく、近所に住んでいた友達のアルコール中毒の父親がモデル。フィニーをいじめっ子から守ってくれる少年ロビンも、実際にデリクソン監督の親友だったメキシコ人の少年がモデルで、年上の大柄な相手でもボコボコにしてしまうくらいケンカが強かったらしい。トイレでロビンが言う「血が多いほど野次馬に効果がある」というセリフも、その少年が実際に言った言葉をそのまま使ったのだそうだ。 成功のカギは子役たちの名演にあり! フィニー役のメイソン・テムズとグウェン役のマデリーン・マックグロウも素晴らしい。少年らしい無垢な繊細さと、大人びた聡明な思慮深さを兼ね備えたメイソンはまさに逸材で、本作を機にすっかり売れっ子となったのも納得である。特に彼は声が非常に印象的。落ち着いていて優しくて柔らかで、喋り方にも独特の温かみと力強さが感じられる。これはさすがに日本語吹替版では再現できまい。それはマデリーンの芝居も同様で、大人でもない子供でもない少女特有の揺れ動く繊細な感情を、言葉や息遣いの隅々から感じさせる彼女の圧倒的な芝居は、残念ながら大人の声優に表現できるものではないだろう。特に、父親から折檻されるシーンの恐怖と痛みと哀しみと怒りの感情が入れ代わり立ち代わり交錯する複雑なセリフ回しは圧巻。とてつもない才能だ。実は、スケジュールの都合で一度は出演が不可能になったというマデリーンだが、しかし「彼女でなければグウェン役は無理」と考えたデリクソン監督がプロデューサーのジェイソン・ブラムに掛け合い、撮影スタートを5カ月近くも遅らせたというエピソードにも納得である。 もちろん、グラバー役のイーサン・ホークも好演である。『いまを生きる』(’89)や『リアリティ・バイツ』(’94)などの青春映画で一世を風靡し、’90年代のハリウッドを代表するトップスターのひとりとなったホークだが、実はもともとホラー映画が大の苦手だった。初めてホラー映画に出たのは、デリクソン監督がブラムハウスで初めて撮った『フッテージ』(’12)。そういえば、あの作品もスーパー8で撮った映像を効果的に使っていたっけ。これを機に『パージ』や『ストックホルム・ケース』(’18)などブラムハウス作品に出るようになったホークだが、やはりホラー映画が苦手なことには変わりなかったらしく、本作のグラバー役のオファーも当初は渋ったらしい。しかし、脚本を読んで考えを変えたのだとか。 出番の大半でマスクを被っているホーク。見えない表情をカバーするための演劇的なセリフ回しや体の動作が、かえってグラバーという得体の知れない殺人鬼の底知れぬ狂気を表現して秀逸だ。特殊メイクの神様トム・サヴィーニがデザインを手掛けたマスクの仕上がりもインパクト強烈。ジェイソンにしろマイケル・マイヤーズにしろレザーフェイスにしろ、名物ホラー・キャラには個性的なマスクが付きものだが、今やグラバーもその仲間入りを果たしたと言えよう。 実際、原作者のジョー・ヒルもマスクの仕上がりを大絶賛し、これをひと目見た瞬間にシリーズ化を確信したという。なにしろ、小説では「革のマスク」としか書かれておりませんでしたからな。なおかつ興行的にも1億6000万ドルを突破する大ヒットを記録したことから続編企画にゴーサインが出され、’25年10月17日の全米公開を目指して、’24年11月4日よりカナダのトロントで撮影が進行している。ストーリーは今のところまだ詳細不明だが、とりあえずイーサン・ホークにメイソン・テムズ、マデリーン・マックグロウは再登板するとのこと。また、今のところ日本未公開のオムニバス・ホラー映画『V/H/S/85』(’23・原題)に収録されているデリクソン監督の短編「Dreamkill」は、グウェンと同じく予知夢の能力を持つ従兄弟が登場し、実質的に『ブラック・フォン』のスピンオフ作品となっている。続編映画は勿論のこと、こちらの日本上陸も期待したいところだ。■ 『ブラック・フォン』© 2022 Universal Studios. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2024.11.11
フランチャイズを避けた監督の「続編」秘史『インデペンデンス・デイ:リサージェンス』
◆続編嫌いを返上して手がけたパート2 「僕は続編ものが嫌いなんだ。もし撮れと言われたならば、いっそホームドラマでも手がけたほうがいいと思っているよ」 この発言は、筆者(尾崎)が映画『2012』(2009)の取材で監督のローランド・エメリッヒにインタビューしたさい、「自作の続編をやる気はないのですか?」という問いに、ユーモアを交えて答えたものだ。じつはこの質問の前に「あなたは映画の中でいろんなものを壊してきたから、もう破壊する対象など残ってないですね」と訊いたところ、「そうだね、これからは心を入れ替え、ホームドラマにでも着手するしかないのかも」とおどけながら答えており、それを枕にして「自分は続編映画を監督しない主義」というのを主張したのだ。 意外に思われるかもしれないが、彼は『スペースノア』(1984)を起点とする自身のフィルモグラフィにおいて、2015年の『ストーンウォール』の時点まで、続編映画を手がけたことが一度もなかった。もっとも、同作はLGBT社会運動の嚆矢と定義されている"ストーンウォールの反乱"を描いたもので、エメリッヒが言うところのホームドラマには近いのかもしれない。だがそうした歩み寄りとは対照的に、他自作の別なくシリーズに着手することに関して、頑なに拒み続けてきたのだ。 しかし例外的に続編製作が囁かれていた作品が『インデペンデンス・デイ』(以下『ID4』)である。エメリッヒにとって初のハリウッドメジャー進出作品であり、20世紀フォックスを大いにうるおわせた、世界的な大ヒット映画だ。エイリアンの地球侵略をかつてないスケールで描き、また黙示録のような終末的世界観を提供しながら、そんな深刻さとは裏腹な呆然とさせる展開など、その独自性が多くの観客の心を奪ったのである。 続編『インデペンデンス・デイ:リサージェンス』は、前作から20年という製作スパンを劇中に活かし、著しく発展した設定が観客の耳目をさらう。エイリアンの科学技術力を取得し、地球防衛を強固にしてきた人類と、さらに凶暴なテクノロジーを我が物にし、リベンジをかけるエイリアンとの、エスカレートを極めた激戦が繰り広げられるのだ。 ◆続編が動いていた『GODZILLA』 前チャプターでエメリッヒは筆者に「続編は好きではない」と告げたが、まったく開発に関与していないかというと、さにあらずだ。彼は『ID4』の後に発表した監督作『GODZILLA』(1998)の続編開発をしていたことが明らかにされている。 というのも、ソニーがゴジラのキャラクターを中心に映画を制作する権利を取得したとき、同社はフランチャイズ化を企図していた。そして映画公開に併せ、続編に関するプリプロダクションをデヴリンとエメリッヒは始めている。続編にはマシュー・ブロデリック演じるニック・タトプロスが続投し、前作に布石として示されていたら複数のゴジラと、モスラとラドンが登場するプロットが開発されていた。 しかし肝心の映画はアメリカ国内で1億3631万ドルのトータル収益しか得られず(製作費は1億3000万ドル)、ソニーは大幅に予算を抑えて続編を推し進めたが、これにデヴリンとエメリッヒは興味を失いプロジェクトを離脱。エメリッヒはSFジャンルに固執していたことによるストレスとキャリアに箔をつけるため、現実に基づく歴史大作に着手することを標榜。『ミッドウェイ』と、アメリカ独立戦争を描いた『パトリオット』を開発し、ソニーは代わりに後者を監督するよう依頼したのが実際の流れだ(後者は2019年に映画化)。 こうした経緯から推測するに、続編製作に良い思い出がないというのも、冒頭の発言に遠因していると思われる。 ◆三部作構想だった『リサージェンス』 そもそも『インデペンデンス・デイ』は後に三部作として構想され、単に正続という解釈には収まらないところ、エメリッヒの続編アレルギーには説得力がない。 『リサージェンス』のプロジェクトが動き出したのは、2011年6月。エメリッヒとプロデューサーのディーン・デヴリンは『ID4』を3部作として再構築するための、2つの続編のスクリプトを書いたことをマスコミに触れ回った(タイトルは“ID:Forever PART I“ならびに“ID:Forever PART II“)。ところが前作でヒラー大尉を演じたウィル・スミスが、続投のために5000万ドルのギャラを要求し、20世紀フォックスがこれを拒否。企画は暗礁に乗り上げる。 だがエメリッヒはウィルの関与に関係なく、映画の製作を遂行することを公にし、続編は『インデペンデンス・デイ:リサージェンス』とタイトルを変えて正式に発表されたのだ。 余談だが、先述したこの三部作構想。ジェフ・ゴールドブラムのインタビューで彼が証言者して語っており、「ローランドは僕にもシリーズの構造に関して話をしてくれていて、今の段階ではまだ誰にも言えないんだけど、興奮するようなアイディアを彼はいっぱい持っている。今回の作品が成功すれば、3作目の製作も大きく進展すると思うよ」と話してくれた。 ◆望まれる再評価 『リサージェンス』は2016年6月24日に公開され、1億6500万ドルの製作費に対して全米興行成績が1億300万ドルと、大幅な赤字となった。また批評面に関しても賛否が分かれ、たとえば「ロジャー・エバート.com」のクリスティ・レミールは「望んでいなかった、あるいは必要とされていなかった続編。(中略)エメリッヒは、これらすべてのさまざまなキャラクターとストーリーラインを、ペースや一貫性の感覚をほとんどなく横断している」(※1)と手厳しいものや、米「バラエティ」のガイ・ロッジのように「本作はエメリッヒ監督が、現代映画で最もポップコーン・カオスの気鋭の指揮者であることを裏付けている。おそらく彼は作品のターゲットとなる観客にとって“遠い記憶“であるはずの前作のレガシーを盛り上げることに気を遣っているのだろうが、この映画的ビッグマックは、それ自体の良さで十分に楽しませてくれる」(※2)と称賛するものなどまちまちだ。 さらには後年、新作『ミッドウェイ』のプロモーション時にエメリッヒは、ウィル・スミスが『リサージェンス』に出ないと知った段階で、続編の制作を中止するべきだったと米「yahoo! entertainment」に述べた(※3)。監督はヒラー大尉が劇中に登場する当初の脚本のほうがはるかに優れていると言葉を費やし、ウィルの撤退に伴うリライトが映画の不調の原因に繋がったと後悔の念を示している。そのせいもあって、本作はすっかり失敗作として世間に周知されているようだ。 しかし、筆者は本作を決して悪いようには解釈していない。 例えば『リサージェンス』にはセカンドユニットを置かず、エメリッヒを筆頭とするメインユニットだけで撮影をおこなった作品として画期性を放っている。通常、本作のような規模の映画ではセカンドユニットやサードユニットが撮影して編集素材をカバーするものだが、監督は今回それを廃し、全てのショットを自身の管理下に置くことで、作家的な純度の高いものにしている。 そしてプロダクションデザインの数々も秀逸で、地球人が勝利を手にした『ID4』から20年間に及ぶ世界観の推移や発展、そしてレガシーの数々を、飛躍せず丹念に描いていて違和感がない。敵の科学技術で防衛網を強化した人類の、新型兵器や迎撃システム類などは機能美と創意にあふれ、それらは決して見飽きることがない。 なにより前回の、アナログとデジタルの混在したVFXが完全デジタルになったことで、物理法則を無視した破壊がリアルに描写され、そこにも驚きを禁じえない。特にエイリアンが街ごと引っぺがし、それを逆落としする凄まじい攻撃シーンや、クライマックスで登場するエイリアン女王は、その巨大さと暴れっぷりで、果たせなかった『GODZILLA』の続編を仮想的に展開させているかのようだ。 このように、大状況的なドラマとは真逆な細心さをもって、映画は充分に作り込まれているのだ。 なによりエメリッヒの、こうしたミニマムに収めようとする管理体制は、インデペンデントをホームとしながら大作規模の作品製作を可能にし、後の『ミッドウェイ』や『ムーンフォール』(2022)へと繋げる良好なスタイルを導き出している。当人が卑下するほどに、この『インデペンデンス・デイ:リサージェンス』は決して悪いものではないのだ。■ (※1)https://www.rogerebert.com/reviews/independence-day-resurgence-2016 (※2)https://variety.com/2016/film/reviews/independence-day-resurgence-review-1201800114/ (※3)https://www.yahoo.com/entertainment/independence-day-director-roland-emmerich-regrets-making-sequel-170655100.html 『インデペンデンス・デイ:リサージェンス』© 2016 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2024.11.11
インハウスで可視化された「幼年期の終わり」──『インデペンデンス・デイ』の独立性(インデペンデント)
「その一瞬 ── 永遠とも思える一瞬ののち、ラインホールドが見守り、そして全世界が見守るうちに、その巨大な宇宙船の群は圧倒的な威厳をもって降下してきた。そして、ついに彼の耳にも、それらが成層圏の稀薄な大気の中を通過するかすかな悲鳴のような音が聞こえてきた」 アーサー・C・クラーク「幼年期の終わり」(福島正美:訳 早川書房)より ◆A picture is worth a thousand, words.(1枚の絵は1000の言葉に値する) 1996年に公開された侵略SFスペクタクル『インデペンデンス・デイ』(以下『ID4』)を観たとき、世界主要都市上空に降り立つ異星からの訪問者──巨大デストロイヤー艦の登場ショットに、文頭に掲げた小説のプロローグが脳内をよぎった。稀代のSF作家アーサー・C・クラークが、持てる叙述力と知性あふれる表現力を費やして描いた異星人コンタクトを、この映画はものの見事に視覚化していたのだ。これこそまさに英語の慣用句「一枚の絵は1000の言葉に相当す」を示した格好のケースといえるだろう。 もっとも、劇中の展開はクラークの代表作のようにスノッブでもなければ深遠なものでもない。そこには愛国心を高らかに謳う、エイリアン対人類の一大決戦が描かれる。むろん、その迫力あるスペクタクルシーンこそが本作の売りであり、そして目玉であるのだが。 ヒット作だけに多くの人がストーリーを既知しているだろうが、改めて概説しておきたい。1996年7月2日、無数の巨大なスペースクラフトが世界各国の上空に出現。アメリカ合衆国ホイットモア大統領(ビル・プルマン)は未知の来訪者とのコンタクトをはかるも、地球侵略を目的とする彼らは主要都市を一斉攻撃する。都市は大破し機能を失い、ヒラー大尉(ウィル・スミス)率いるF-18戦闘機の攻撃チームは報復を開始するも、無数のデストロイヤー機の襲撃を受けてあえなく撤退し、人類の命運は尽きたかに見えた。 映画はコンピュータ技師デイビッド(ジェフ・ゴールドブラム)の機転で難を逃れた大統領と、からくも生き残ったヒラーらがエイリアンの極秘研究を進めるネバダ州エリア51に集結し、そこで再攻撃のための計画を進めていく。そしてアメリカの独立記念日7月4日、人類の存亡を賭けた最終決戦がおこなわれるのである。 本作の監督ローランド・エメリッヒは、母国ドイツのミュンヘン映画学校でプロダクション・デザインを学び、監督業に着手して学生映画『スペースノア』(1984)を発表。同作はべルリン映画祭で上映されるや絶賛を浴び、世界20カ国以上で公開された。 その後、米独合作による2本目の監督作『MOON44』(1981)に出演したディーン・デヴリンと「セントロポリス・フィルム・プロダクション」という製作会社を設立し、ジャン=クロード・ヴァン・ダムとドルフ・ラングレンの共演による『ユニバーサル・ソルジャー』(1992)で世界市場を相手とした商業映画製作に乗り出す。そして同作のヒットを機にアメリカへと創作の拠点を移し、砂漠の惑星を舞台にした時空間SFスペクタクル『スターゲイト』(1994)を手がけ、多様なVFXが内外の話題を呼び映画は大ヒットとなった。 ◆インハウスによる視覚効果への取り組み そんなエメリッヒにとって、『ID4』は初のメジャー(20世紀フォックス)資本による映画となったが、企画を買う代わりとして製作費7.000万ドルという、低い額を必須としたのである。 しかし彼は『スターゲイト』で、一億ドルはかかると試算された同作を5000万ドルで仕上げた実績を持ち、要求は想定内だった。そこでエメリッヒは製作にあたり、視覚効果を当時主流だったILMやデジタルドメイン、ソニーピクチャーズイメージワークスといった既存のVFXのスタジオに外注するのではなく、インハウス(社内)で製作することにしたのだ。 加えて20世紀フォックスが宣伝効果をねらって劇場公開を1996年7月4日(アメリカ独立記念日)に設定したため、製作日程は1年あまりに限られてしまう。うち視覚効果ショットの撮影準備期間は、わずか3カ月しかなかったのである。 そこでエメリッヒは一点集中によって生産効率が高まることを熟慮し、模型制作部やハイスピード&モーションコントロールのミニチュア撮影ステージ、編集室に製作オフィスをすべてをカリフォルニア州カルバー・シティのヒューズ空港跡地にまとめようとした。同時にそこのいくつかの格納庫にセットが作られ、周辺地域でロケ撮影を組むことで、慌ただしい撮影スケジュールの間も、あらゆる側面に目を配ることができると考えたのだ。 まずは映画の視覚的な方向性を決定するために、『スターゲイト』でコンセプチュアルイラストレーターを務めたパトリック・タトプロスとオリヴァー・ショールをプロダクションデザイナーとして起用。ショールはエメリッヒのドイツ時代からの友人で、『MOON44』ではプロダクションデザイナーを担当。いっぽうタトプロスはヨーロッパでコミックアーティストとイラストレーターを兼任し、アメリカに渡ってからは『ドラキュラ』(1992)や『デモリションマン』(1993)『ダークシティ』(1998)などさまざまな映画でコンセプチュアルイラストレーターを担当。エメリッヒがエイリアンの宇宙船にストレートなUFO型のイメージを要求してきたものを、ひとつの都市が隠れるくらい巨大にしたのはタトポロスの提案によるものだ。 それらを可視化する特殊効果スーパーバイザーに、『ユニバーサル・ソルジャー』でモデルユニットを担当したヴォルカー・エンゲルと、ジェームズ・キャメロン監督の諜報コメディアクション『トゥルー・ライズ』(1994)でモーションコントロールの撮影監督をつとめたダグラス・スミスが就任した。特に後者の採用は重要で、当時はまだデジタルによる合成処理などにコストがかかることと、合成素材に必要な、露出を保ちながら撮影するにはモーションコトロールが不可欠だったからだ。 そんな両者が時間を有効に使うために仕事を分担して進めるよう指示。前者はF-18戦闘機とエイリアン・アタッカーとの空中戦や、マザーシップの屋内と屋外場面、それ以外の地球側とエイリアン側のさまざまな航空機などだった。後者はクルーとデストロイヤーのモーションコントロール撮影とハイスピード撮影による合成ショット、他には都市破壊や戦闘機や宇宙船を飛ばすなどプラクティカル・エフェクトを担当した。 撮影期間はわずか7カ月。その間にエンゲルとスミスの撮影班は4チームに分けられ、400種ものミニチュアショットを期限内に完成させた。合成素材は8パーフォレーションのヴィスタヴィジョンではなく、4パーフォレーションのスーパー35フィルムを用いることでコストを抑え、粒状性の問題は高感度フィルムを用途に応じて使い分けて解決へと導いている。 しかし撮影開始と同時に、デヴリンとエメリッヒはデジタル合成の必要性に直面し、デジタル効果スーパーバイザー兼プロデューサーのトリシア・アシュフォードに、社内で臨時のコンピュータ・グラフィックスの施設を作るよう要請。データ輸送の手間を惜しみ、合成作業の大半を依頼してあったパシフィック・オーシャン・ポスト社(以下 POP)の中に部門を設けた。 それでもCG効果ショットの数は日ましに増え、アシュフォードはCG画像と合成作業の監督をいくつかの会社に振り分けた。350ショットに及ぶ合成作業はPOPでおこない、うち200はコダック、デジスープ、ポストグループ、OCSそれぞれが担当し、ヴィジョン・アートがそれを引き受けた。 いっぽうで本編の撮影は1995年7月28日にニューヨーク市で開始。その後カリフォルニア州フォンタナの旧カイザー製鉄所に移ってロサンゼルス攻撃後のシーンを撮影する前に、ニュージャージー州近くのクリフサイドパークで撮影。併せてセカンドユニットがワシントンD.C.のマンハッタン、アリゾナ州フラッグスタッフのRVコミュニティ、ニューメキシコ州サンアグスティン平原でプレートショットを撮るという効率的、かつ効果的な撮影がおこなわれている。 ◆爆破の芸術 また視覚効果に戻って言及を続けるなら、本作の素晴らしいポイントは、地球全体で一斉にエイリアンの攻撃が始まるシークエンスだろう。デストロイヤーによるパイロエフェクト(爆破効果)を駆使した都市の大破壊は、火薬技術の第一人者であるジョー・ヴィスコシルと彼のクルーが手がけたものだ。 火球がごうごうと盛り上がりながら、エンパイア・ステート・ビルやホワイトハウスに迫り来る破壊ショットを作るために、ヴィスコシルは火が上昇する性質を活用。ミニチュアセットを90度に傾け、その下に火薬を配置し、セット上から構えるカメラで高速度撮影をおこなった。それを正常再生することで、フェティッシュな破壊映像が得られるのだ。こうして生まれたシーンの影響力は絶大で、日本でも『ガメラ3 邪神覚醒』(1999)の渋谷で起こった巨大怪獣による都市破壊のシーンで、本作に触発されたとおぼしきパイロエフェクトを見ることができる。そしてなにより、映画は第69回(1997)米アカデミー賞の視覚効果賞を受賞し、『ID4』のインハウスによる特殊効果のアプローチは、アカデミックな場でその価値を認められたのである。 そんな『インデペンデンス・デイ』が公開されて、はや28年の歳月が経つ。当時はエイリアン侵略SFの先鋒たる輝きを放っていたが、もはや同ジャンルを代表する立派なクラシックだ。そして監督エメリッヒは本作を機に『デイ・アフター・トゥモロー』(2004)や『ムーンフォール』(2022)などデザスタームービーの量産者となり、愛憎込めて「破壊王」の名を欲しいままにしている。 本作の成功の後、デブリンとエメリッヒは、監督を降りたヤン・デ・ボンに代わって『GODZILLA』(1998)のプロジェクトに参加。同作を8.000万ドルで仕上げることをプレゼンし、エメリッヒは監督の座についた。ゴジラが登場するエリアをニューヨークに限定するなど、設定をマイナーチェンジしてコストダウンをはかり、『ID4』で活用した手段を活かし、(最終的には1億2000万ドルかかった)、肝心のゴジラが日本のものと大きくかけ離れていたために、多くのファンから否定的見解を示されたが、スケールの巨大な怪獣映画として観た場合、そこに『インデペンデンス・デイ』の独立性(インデペンデント)が正しく活かされていると肯定的に捉えられるだろう。■ 『インデペンデンス・デイ』© 2016 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2024.11.06
センセーションを巻き起こした!アメリカ映画最高のヒーローの“死に様”。『11人のカウボーイ』
19世紀後半のアメリカ西部。牧場主のウィル・アンダーソン(演:ジョン・ウェイン)は、1,500頭の牛を売るため、640㌔離れた街まで移動させる、“キャトル・ドライヴ”の必要に迫られていた。 しかし、必要な助っ人を得ることができない。近隣で金が出たという話が広がり、男たちは皆そちらに行ってしまったのである。 ウィルは友人の勧めから、教会の学校に通う少年たちをスカウトすることにしたが…。 ****** 本作『11人のカウボーイ』(1972)は、“デューク(公爵)”ことジョン・ウェイン(1907~79)の主演作。フィルモグラフィーを眺めると、“戦争映画”などへの出演も少なくないが、“デューク”と言えばやっぱりの、“西部劇”だ。 ジョン・フォード監督の『駅馬車』(39)でスターダムに上り、その後長くハリウッドTOPスターの座に君臨したウェインだが、64年に肺癌を宣告されて片肺を失う。しかし闘病を宣言して俳優活動を続け、60代に突入してからの主演作『勇気ある追跡』(69)で、念願のアカデミー賞主演男優賞を受賞! 本作に主演した頃は、まだ意気軒昂であった。しかし『11人のカウボーイ』は、ジョン・ウェイン主演の“西部劇”としては、明らかに異彩を放つ作品である。 ウェインは本作に関して、「私の映画生活で記念すべきチャレンジ…」と発言している。この「チャレンジ」とは、多分監督に関しても含まれる。本作のメガフォンを取ったのは、ニューヨーク派の新鋭マーク・ライデル(1934~ )だった。 ライデルは俳優出身で、60年代にTVシリーズの監督で頭角を現した。その後劇場用映画として、『女狐』(67)『華麗なる週末』(69)で評判を取ったが、“西部劇”に関しては、長寿TVシリーズの「ガンスモーク」を10話ほど手掛けてはいたものの、劇場用作品としては、本作が初めて。 後に『黄昏』(81)で、当時70代のヘンリー・フォンダとキャサリン・ヘプバーンにオスカーをもたらすなど、ベテラン俳優の手綱さばきも評価されたライデル。しかしこの頃はまだまだ、“若造”であった。 ***** ウィルの下に集まった11人は、みんな10代。厳しい訓練を行い、やがてコックとして雇った黒人のナイトリンガー(演:ロスコー・リー・ブラウン)も携えて、“キャトル・ドライヴ”は出発の日を迎えた。 過酷な道程で、11人はそれぞれに、厳しいウィルへの不満を抱く。しかしその想いや愛情に触れて、一同はやがて彼に対し、尊敬の念を深めていく…。 ***** ジョン・ウェインにとって、ハワード・ホークス監督の『赤い河』(48)への出演が、キャリアの転換点となったのは、自他共に認めるところ。それまで彼を「でくのぼう」扱いしていた、恩師のジョン・フォードにも、ちゃんと演技が出来ることを知らしめたのだ。『赤い河』は、“キャトル・ドライヴ”の道中を通じて、ウェインとモンゴメリー・クリフトが演じる、血の繋がらない父子による、相克と和解の物語である。『11人のカウボーイ』でウェインの演じるウィルは、2人の息子を若くして失っている。そんなウィルが、11人の少年カウボーイたちを率いて、“キャトル・ドライヴ”に挑む。ここにはやはり、“疑似父子”関係が見出せる。名作『赤い河』への目配せは、作り手の側には当然あったように思われる。 ライデル監督の苦労は、“ウェインの息子たち”11人のカウボーイを選ぶところから始まった。何百人もの少年を面接したが、乗馬と芝居の両方を経験している者は、ゼロ。 選んだ11人の内、6人は荒馬や荒牛を乗りこなすロデオ経験者だったが、他の5人は俳優で、馬に乗ったことがなかった。そこでクランク・イン前は、ロデオと演技の特訓。各々に自分のできること、即ち、乗馬と演技の見本を示すようにと指導を行い、やがて馬に乗れなかった者も、馬上に跨って牛を捕縛する投げ縄などを、マスターしていった。 そして、撮影開始。ライデルにとっては、少年たちを演出する以上の難物が控えていた。“デューク”である。 ***** ウィルと少年たちの“キャトル・ドライヴ”を追ってきた、牛泥棒の一団がいた。ある夜彼らが、襲撃を掛けてきた。 ウィルは少年たちに手を出させないよう、牛泥棒のリーダー格であるロング・ヘア(演:ブルース・ダーン)に、素手での1対1の闘いを挑んだ。ロング・ヘアはその闘いに敗れると、卑怯にも拳銃を取り出し、ウィルを背後から撃ち殺すのだった。 今際の際のウィルの言葉を受けて、ナイトリンガーは少年たちを故郷に送り届けようとする。しかし目の前でウィルを殺害されてしまった、少年たちの想いは違っていた。 彼らは誓った。ロング・ヘアたちへの復讐を果し、1,500頭の牛を取り戻す…。 ***** 当時のインタビューで、マーク・ライデルはこんなことを言っている。「政治的見解では両極にある私とデュークだ。彼の政治的立場を私は嫌悪する。しかし、俳優として彼ほど魅力のある男を私は知らなかった…」 当時はアメリカによるベトナムへの軍事介入に対して、“反戦運動”が盛り上がっていた頃。“リベラル派”に属するライデルにとって、かつて“赤狩り”を支援し、“ベトナム戦争”に対しては、アメリカ政府の立場を全面的に支持する作品『グリーン・ベレー』(68)を製作・監督・主演で作り上げた、“タカ派”の大御所ウェインは、政治的には唾棄すべき存在だった。しかし俳優としてのキャリアは、リスペクトに値する…。 本作は1971年4月5日にクランクイン。ニューメキシコ州のサン・クリストバル牧場やコロラドのパゴサ・スプリングスなどでロケを行った後、カリフォルニアのバーバンク撮影所へと戻った頃には、7月になっていた。 長きに渡ったロケで、実は撮り終えてない野外シーンが1つあった。それは、ウェインと敵役であるブルース・ダーンの対決。作品の流れで言えば、長年ハリウッド随一のタフなヒーローだったウェインが、エンドマークが出るまでまだ20分もあるのに、殺害されてしまうシーンであった。 それまでのウェインは、例えば『アラモ』(60)で実在の人物であるデイヴィー・クロケットを演じた時のように、劇中で英雄的な死を迎えることは幾度かあった。しかし本作のような無残な殺され方は、前代未聞のことだった。 これまでのジョン・ウェイン主演作でも、殴り合いのシーンは、各作にルーティンのように存在する。従来の“西部劇”は「悠揚として迫らざる」、ゆったりとして落ち着いた描写をモットーに撮られている。 しかし時代的には、セルジオ・レオーネ監督の『荒野の用心棒』(64)をはじめとしたマカロニ・ウエスタンや、サム・ペキンパー監督の『ワイルドバンチ』(69)などが、“西部劇”の世界を席捲。決闘シーンはより荒々しく、血生臭い傾向が強くなっていた。 ダーンは、ウェインとの対決の後のシーンでは、鼻を折られたという設定で、付け鼻を付けている。そんな激しい闘いで、いくら天下のジョン・ウェインであっても、無傷なのはおかしいと、ライデルは考えた。リアリズム風の格闘で、ウェインとダーンは共に血まみれにならなければ…。 しかしウェインは、“西部劇”に於いてそうしたリアルな描写には、ずっと反対し続けてきた。あるインタビューでは、「幻想(イリュージョン)を描くかわりに、何もかも“リアリズム”にしようとしている…それで、電気装置をつかって……血が噴き出るように仕掛けたりする…」などと、嫌悪感を露わにしている。登場人物すべてが血みどろの戦いの末に果てていく、『ワイルドバンチ』のサム・ペキンパー演出を、明らかに意識し揶揄していた。 ライデルは本作に於ける“最大のチャレンジ”に挑むため、当時撮影現場に於いてウェインの最側近と言える存在だった、デイヴ・グレイソンと、相談を重ねた。グレイソンはプロのメイクアップ係で、60年代からはウェインの全作品のメイクを担当した人物。ウェインは40代からカツラを装着していたため、グレイソンとは、公私ともに身近な関係だった。 しかし現代的な“西部劇”の作り方に対し、「…幻想を映画から追い出そうとしている」と反発するウェインを、果して説得などできるのか!? 問題のシーンの撮影日の朝、グレイソンがライデルから呼び出されると、その場には5~6人のスタッフが集まっていた。議題は、いかにウェインを血だらけにするか。「デュークがいいと言ったら、出来ますよ。でも、男のメーキャップ係が四人要ります」「どうして四人掛かりなんだね?」「三人は彼を押さえ付けておく係です」 そんなやり取りの末に、スタントディレクターが、ウェインの説得役を買って出た。しかしいざウェインのトレイラーに向かうと、挨拶と雑談だけで終わって、これから撮るシーンのことをまったく切り出せなかった。 結局は同行したグレイソンが、口を開くしかなかった。「ねぇ、デューク、みんなは今度のシーンであんたを血だらけにさせたがっているんだが、恐くて言い出せないでいるんだ」 それに対してウェインは、「下らん!」と一喝。しかしちょっと間を置いてから「まあ、いいだろう。やってくれよ。血糊とやらを塗りたくってくれ」 ウェインは個人的には好まないながらも、時代の変化の中で観客の嗜好が変わってきたことは、理解していたのである。と言っても、彼が言うところの「傷口がバックリ開いて、肝臓(レバー)がこっちに飛んで来る」ような、極端な残酷描写だけは、決して許そうとしなかったが。 この対決シーンに、大酒飲みのウェインはほろ酔い状態で臨んだ。酔いに任せて、撮影の合間はジョークを飛ばしたり陽気に振る舞ったという。 対決相手を演じたブルース・ダーン(1936~ )は、本作出演後、『ブラック・サンデー』(77)『帰郷』(78)などの話題作・問題作に出演。年老いてからは、『ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅』(2013)で、カンヌ国際映画祭男優賞を受賞し、アカデミー主演男優賞にもノミネートされた名優である。ローラ・ダーンの父親としても知られる彼だが、本作出演時は、若手俳優の1人に過ぎなかった。 そんなダーンに、ウェインはこんなアドバイスを贈った。「悪役を演じるときは手加減するな、よい俳優になりたければいじめられたほうがよい」 そんなウェインの助言が実ったというべきか?「ジョン・ウェインを撃った男」として悪名を馳せたダーンの元には、本作公開後に脅迫状が届き、リンチの警告まで受けるに至った。 ジョン・ウェインが背後から撃ち殺されてしまうということが、どれだけセンセーショナルな事態であったか! 例えば本邦を代表する映画評論家の1人、山田宏一氏も当時、次のように記している。 ~…『11人のカウボーイ』には、幻滅を感じ、いや、それどころか、怒りを禁じえないのだ。…ぼくらファンにことわりもなしにージョン・ウェインをあっさり殺してしまったのである!~ 山田氏はマーク・ライデル監督への悪罵を尽くした挙げ句、西部劇の不滅のヒーローであり、アメリカ国民の夢であるジョン・ウェインに無残な死をもたらした、本作『11人のカウボーイ』について、~ほとんど犯罪だ。~と断じている。 ジョン・ウェインは本作の4年後、『ラスト・シューティスト』(76)で、末期がんで余命いくばくもないガンマンを演じ、ならず者たちとのガンファイトで、再びスクリーン上での“死”を演じてみせた。そしてそれを遺作に、79年6月11日、再発した胃がんのために72歳でこの世を去った。 今日考えるに本作『11人のカウボーイ』は、「悠揚として迫らざる」タッチの西部劇の終焉を象徴する、歴史的な1本であったのだ。■ 『11人のカウボーイ』© Warner Bros. Entertainment Inc.
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COLUMN/コラム2024.11.05
イタリア映画界の伝説的セックス・シンボル、エドウィジュ・フェネシュの代表作シリーズがザ・シネマに登場!
世界的に性の解放が叫ばれ映画における性表現が自由化された’70年代、イタリアではセックス・コメディ映画が大ブームを巻き起こす。Commedia sexy all'italiana(イタリア式セックス・コメディ)と呼ばれるこれらの映画群は、一部の野心的で志の高い作品を除けば美女たちの赤裸々ヌードと低俗な下ネタギャグで見せるバカバカしいB級エンターテインメントで、それゆえ当時の批評家からは散々酷評されたものの、しかし大学生や労働者階級の若者を中心とした男性ファンからは大いに支持された。バーバラ・ブーシェにグロリア・グイダ、ラウラ・アントネッリにアニー・ベル、フェミ・ベヌッシにリリ・カラーチにダニエラ・ジョルダーノにアゴスティナ・ベッリにジェニー・タンブリにキャロル・ベイカーなどなど、数多くのグラマー女優たちがイタリア式セックス・コメディ映画で活躍したが、中でも特に絶大な人気を誇ったのはエドウィジュ・フェネシュである。 「イタリア式セックス・コメディの女王」と呼ばれ、イタリアでは’70年代を象徴するセックス・シンボルとして有名なエドウィジュ・フェネシュ。欧米では今もカルト的な人気が高く、クエンティン・タランティーノ監督やイーライ・ロス監督もフェネシュの大ファンを公言しているほどだが、しかし日本では劇場公開作が少ないため知名度は極めて低い。そんな彼女の代表作のひとつである『青い経験』シリーズが、なんとザ・シネマで放送されるということで、今回は作品の見どころに加えて、日本ではあまり知られていない女優エドウィジュ・フェネシュとイタリア式セックス・コメディの世界について解説してみたいと思う。 ジャッロ映画の女王からイタリア式セックス・コメディの女王へ 1948年12月24日のクリスマス・イヴ、当時まだフランス領だった中東アルジェリアの古都ボーヌ(現在のアンバナ)に生まれたエドウィジュ・フェネシュ。父親フェリックスはスコットランドやチェコの血が入ったマルタ人、母親イヴォンヌはベネチアをルーツとするシシリア生まれのイタリア人だが、2人の間に生まれたフェネシュの国籍はフランスである。裕福な家庭に育って9歳からバレエを習っていたそうだが、しかし両親の離婚とアルジェリア独立戦争の影響から、母親に連れられて南仏ニースへ移住。18歳の時に初めて結婚したが、しかし1年も経たず離婚している。 人生の大きな転機が訪れたのはちょうどその頃。ニースの街を歩いていたところ、映画監督ノルベール・カルボノーにスカウトされ、出番1シーンのみの端役ながら’67年に映画デビューを果たしたのだ。その年、当時カンヌ国際映画祭で毎年行われていた美人コンテスト「レディ・フランス」に出場して優勝したフェネシュは、さらに欧州各国代表が集まる国際大会「レディ・ヨーロッパ」にも出場。惜しくも3位に終わったものの、しかしこれをきっかけにイタリアのエージェントから声がかかり、女性ターザン映画『Samoa, regina della giungla(サモア、ジャングルの女王)』(’68)に主演。フェネシュは母親と一緒にローマへ移り住む。 ただし、フェネシュが最初に映画スターとして認められたのはイタリアではなく西ドイツ。なかなかヒットに恵まれず燻っていた彼女は、イタリアの男性向け成人雑誌「プレイメン」でヌードグラビアを発表したところ、ひと足先に性の解放が進んでいた西ドイツへ招かれてセックス・コメディ映画に引っ張りだことなったのだ。その中の一本が、西ドイツとイタリアの製作会社が共同出資した『Die Nackte Bovary(裸のボヴァリー)』(’69)。この作品でフェネシュは、その後のキャリアを左右する重要な人物と出会うことになる。イタリア側の映画プロデューサー、ルチアーノ・マルティーノである。 祖父は日本でも大ヒットしたイタリア初のトーキー映画『愛の唄』(’30)で知られる往年の名匠ジェンナーロ・リゲッティ、祖母は「イタリアのメアリー・ピックフォード」と呼ばれた大女優マリア・ヤコビーニ、母親リア・リゲッティも元女優で、5つ年下の弟もB級娯楽映画の名職人セルジオ・マルティーノという映画一家出身のルチアーノ・マルティーノ。’60年代初頭よりミーノ・ロイとのコンビでソード&サンダル映画やマカロニ・ウエスタン、モンド・ドキュメンタリーなどのB級娯楽映画を大量生産してヒットを飛ばしたルチアーノは、’70年に自身の映画会社ダニア・フィルムを設立。弟セルジオやウンベルト・レンツィ、ドゥッチョ・テッサリ、ジュリアーノ・カルニメオなどの娯楽職人を雇い、ジャッロ(イタリア産猟奇サスペンス)やクライム・アクションといった人気ジャンルの映画を次々とプロデュースしていた。 そのルチアーノ・マルティーノと’71年に結婚(年齢差は15歳)したフェネシュは、いわばダニア・フィルムの看板スターとして売り出されることになる。第1弾となったのがセルジオ・マルティーノ監督のジャッロ映画『Lo strano vizio della signora Wardh(ワルド夫人の奇妙な悪徳)』(’71)だ。これがイタリアのみならずヨーロッパ各国やアメリカでもヒットしたことから、立て続けにジャッロ映画のヒロインを演じたフェネシュ。先述した通り「イタリア式セックス・コメディの女王」と呼ばれた彼女だが、同時に「ジャッロ映画の女王」でもあったのだ。タランティーノやイーライ・ロスが夢中になったのもジャッロ映画のフェネシュ。ただ、実のところ彼女が主演したジャッロ映画はせいぜい5~6本。数としては決して多くないのだが、しかしいずれも非常にクオリティが高く、中でもセルジオ・マルティーノ監督と組んだ『Lo strano vizio della signora Wardh』と『Tutti i colori del buio(暗闇の中のすべての色)』(’72)は、当時のダリオ・アルジェント作品と比べても引けを取らない見事な傑作。いまだ日本へ輸入されないままなのは実に惜しい。 次に、ルチアーノ・マルティーノは折からのイタリア式セックス・コメディの人気に便乗するべく、ピエル・パオロ・パゾリーニの『デカメロン』(’71)や『カンタベリー物語』(’72)に影響されたエロティック時代劇コメディ『Quel gran pezzo dell'Ubalda tutta nuda e tutta calda(全裸でセクシーなウバルダの見事な作品)』(’72)をエドウィジュ・フェネシュの主演で発表。これがイタリア国内で空前の大ヒットを記録したことから、イタリア式セックス・コメディのブームが本格的に到来したと言われている。もちろん、フェネシュにとってもキャリアの大きな転機となり、これ以降、彼女は年に3~5本のハイペースでイタリア式セックス・コメディ映画に主演することとなる。 イタリア式セックス・コメディが若い男性ファンに支持された理由とは? イタリア式セックス・コメディとは、’60年代に花開いた「Commedia all'italiana(イタリア式コメディ)のサブジャンル。高度経済成長期にさしかかった当時のイタリアでは、ローマやミラノなどの大都会を中心に庶民生活は豊かとなり、リベラルで進歩的な価値観が急速に浸透していったが、しかしその一方でカトリックの総本山バチカンのお膝元だけあって旧態依然とした保守的な価値観も根強く、さらに地方へ行けば家父長制の伝統も色濃い男尊女卑の風潮もまだまだ残っていた。そんなイタリア社会の矛盾を辛辣なユーモアで笑い飛ばしたのが、ジャンル名の語源ともなったピエトロ・ジェルミ監督の『イタリア式離婚狂騒曲』(’61)やディーノ・リージ監督の『追い越し野郎』(’62)、マルコ・フェレーリ監督の『女王蜂』(’63)といった一連の「イタリア式コメディ」映画。その中でも、イタリア庶民の大らかな性をテーマにした巨匠ヴィットリオ・デ・シーカの『昨日・今日・明日』(’63)や、デ・シーカに加えてフェリーニやヴィスコンティなどの巨匠が集結したオムニバス艶笑譚『ボッカチオ’70』(’62)辺りが、イタリア式セックス・コメディのルーツと言えるかもしれない。 そのイタリア式セックス・コメディが興隆したのは’70年代に入ってから。当時のイタリアでは学生運動や労働者運動など左翼革命の嵐が吹き荒れ、リベラルな気運が高まる中で映画の性描写も自由になっていた。実際、ヌードや濡れ場を積極的に描いたのは、ベルナルド・ベルトルッチやエリオ・ペトリ、サルヴァトーレ・サンペリなどの左翼系映画監督たちだ。パゾリーニなどはその代表格と言えよう。『デカメロン』と『カンタベリー物語』(’72)が立て続けにヒットすると、それをパクった「デカメロンもの」と呼ばれる映画群が雨後の筍のように登場。これをきっかけにイタリア式セックス・コメディが量産されるようになり、たちまち学園ものから犯罪ものまで様々にバリエーションを広げ、いわばポルノ映画の代用品として若い男性観客層から支持されるようになる。 先述したようにカトリック教会の影響などから、依然として保守的な価値観の根強かった当時のイタリア社会。それゆえ、映画における性表現の自由化は進んだものの、しかしこれがハードコア・ポルノとなるとまた話は別で、アメリカやフランスなど他国に比べると普及するのがだいぶ遅かった。イタリアで最初のポルノ映画館がミラノでオープンしたのは’79年。ちょうどアメリカとイタリアが合作したポルノ巨編『カリギュラ』(’79)が公開された年だ。最初の純国産ハードコア・ポルノ映画と言われているのは、ジョー・ダマート監督がドミニカ共和国で撮影した『Sesso nero(黒いセックス)』(’80)。それ以前は、例えばラウラ・ジェムサー主演のソフトポルノ『愛のエマニエル』(’75)のように、国外への輸出用などにハードコア・シーンを別撮りして追加するケースこそあったものの、しかし本格的なハードコア・ポルノ映画がイタリアで作られることはなかったそうだ。 ちなみに、ラウラ・アントネッリが主演したサルヴァトーレ・サンペリ監督の『青い体験』(’73)や、パスカーレ・フェスタ・カンパニーレ監督の強烈な風刺喜劇『SEX発電』(’75)などの一部作品を除くと、本国イタリア以外では滅多に配給されることもヒットすることもなかったというイタリア式セックス・コメディ。エドウィジュ・フェネシュの主演作にしたって、日本で劇場公開されたのは『ああ結婚』(’75)のみで、あとはテレビ放送やビデオ発売されただけ。それだって一握りの作品だけだ。なぜイタリア式セックス・コメディは国外で通用しなかったのか。その最大の理由は恐らく、セクシズム丸出しのユーモア・センスにあるのではないかと思う。 なにしろ、当時のイタリア式セックス・コメディは覗きや痴漢やレイプなど女性の人権を蔑ろにするような描写がテンコ盛りで、なおかつそれらを面白おかしく消費する傾向が強い。登場する女性キャラも男性に都合の良い好色な美女だったり、お堅い女性でも無理やり押し倒せばメロメロになったり。いわゆる「いやよいやよも好きのうち」ってやつですな。また、同性愛者や身体障碍者、有色人種などのマイノリティを小バカにするようなネタも多い。確かに当時のアメリカやヨーロッパ、日本などでも男尊女卑かつ差別的な表現を含むセックス・コメディは少なからず存在したが、しかしイタリア式セックス・コメディのそれはちょっとレベルが違うという印象だ。 とにもかくにも、こうしてイタリア式セックス・コメディの女王として超売れっ子となったエドウィジュ・フェネシュ。中でも特に人気を集めたのは、女性警官やらナースやらに扮したフェネッシュが、その美貌とお色気で性欲過多なイタリア男たちを大暴走させる職業女性ものである。セクシーでタフな美人女性警官が珍騒動を巻き起こす『エロチカ・ポリス』(’76)シリーズに、色っぽい女性兵士が男社会の軍隊を大混乱に陥れる『La soldatessa alla visita militare(女兵士の軍隊訪問)』(’76)とその続編の「女兵士」シリーズなど枚挙に暇ないが、今回はその中から妖艶な女教師が男子生徒ばかりかその父兄までをも悩殺する『青い経験』(’75)シリーズがザ・シネマにお目見えする。 エドウィジュ・フェネシュのセクシーな魅力が詰まった『青い経験』シリーズ 日本ではタイトルに「青い経験」を冠したエドウィジュ・フェネシュの主演作が全部で5本、テレビ放送ないしビデオ発売されているものの、しかし正式なシリーズ作品はナンド・チチェロ監督の『青い経験』(’75)とマリアーノ・ラウレンティ監督の『青い経験 エロチカ大学』(’78)、そしてミケーレ・マッシモ・タランティーニ監督の『青い経験 誘惑の家庭教師』(’78)の3本。それ以外は日本側で勝手にシリーズを名乗らせた無関係な映画である。その中から、今回ザ・シネマで放送されるのは2作目と3作目。そこで、まずはシリーズの原点である1作目を簡単に振り返っておきたい。 頭の中が女の子とセックスのことでいっぱいのお坊ちゃんフランコは、勉強などそっちのけで悪友たちとイタズラ三昧の毎日。息子の将来を心配した汚職議員の父親が、フランコの成績改善と引き換えに昇進を校長へ持ちかけたところ、エドウィジュ・フェネシュ演じる美人教師ジョヴァンナが家庭教師を務めることになり、すっかり一目惚れしたフランコは彼女をモノにするべく勉強そっちのけで猛アプローチを展開する。『青い体験』の影響下にあることは一目瞭然の性春コメディ。権力者の不正が蔓延るイタリア社会の悪しき風習をさりげなく皮肉っている辺りは、マカロニ・ウエスタンの名脚本家ティト・カルピの良心と言えるかもしれないが、しかしデート・レイプや人身売買を笑いのネタにしたり、同性愛に関する描写が偏見まみれだったり、やっぱり最後は男が女を強引に押し倒すことで結ばれてハッピーエンドだったりと、内容的に性差別的な傾向が顕著な作品でもある。 そして、今回放送されるのが2作目『青い経験 エロチカ大学』と3作目『青い経験 誘惑の家庭教師』。いずれもストーリー的には完全に独立しており、キャストの顔ぶれ自体は続投組が多いものの、しかし登場人物も設定も作品ごとに全く違うため、1作目を見ていなくても問題はないし、そればかりか見る順番すら気にする必要はないだろう。 邦題の通り大学キャンパスが主な舞台となる『青い経験 エロチカ大学』。謎の過激派グループから誘拐を予告された大富豪リカルド(レンツォ・モンタニャーニ)は、秘書ペッピーノ(リノ・バンフィ)の助言で貧乏人に化けて家族ともども下町へと引っ越すのだが、しかし大学生の息子カルロ(レオ・コロンナ)はそんなことお構いなしで、性欲を持て余した悪友たちとエッチなイタズラに勤しんでいる。そんな彼は学長の姪っ子である新任の美人英語教師モニカ(エドウィジュ・フェネシュ)に一目惚れするのだが、父親リカルドも町で偶然知り合った彼女に夢中となり、強引に理由を作ってモニカに英語の個人教授を依頼。すっかり2人が出来ているものと早合点したカルロは、なんとかしてモニカを自分のものにしようと大奮闘する。 ‘70年代のイタリアといえば、過激派テロ・グループ「赤い旅団」による政治家や富裕層を狙った誘拐事件が多発して社会問題となったわけだが、本作ではそんな危うい世相を背景に取り込んで金持ちの独善的な身勝手を揶揄しつつ、美人教師のお色気に理性を失って右往左往する男どもの愚かさを笑い飛ばす。モニカが英単語を学生たちに復唱させながら服を脱いでいくという、カルロが妄想する英単語ストリップ・シーンなどは捧腹絶倒のバカバカしさ(笑)。なんとも他愛ない学園セックス・コメディに仕上がっている。 続く『青い経験 誘惑の家庭教師』は、大作曲家プッチーニが生まれたトスカーナ地方の古都ルッカが舞台。ミラノ出身の美人ピアノ教師ルイーザ(エドウィジュ・フェネシュ)は、恋人である評議員フェルディナンド(レンツォ・モンタニャーニ)の住むルッカへ引っ越してくるのだが、そんな彼女に大家の息子マルチェロ(マルコ・ゲラルディーニ)が一目惚れ。ところが、悪友オッタヴィオ(アルヴァーロ・ヴィタリ)がルイーザを売春婦と勘違いして噂を広めたところ、色めき立ったアパート管理人アメデオ(リノ・バンフィ)や大家の外科医ブッザーティ(ジャンフランコ・バッラ)など、アパートの住人であるスケベ男たちが彼女の体を狙って我先にと殺到する。 これまた老いも若きも揃って過剰な性欲に振り回される、世の男たちの滑稽さと哀しい性を笑い飛ばした作品。さらに実は既婚者であることを隠しており、なおかつ市長選への出馬で不倫スキャンダルを隠し通したいフェルディナンドとの駆け引きも加わることで、上へ下へと大騒ぎのドタバタ群像劇が繰り広げられる。暴行まがいの展開でマルチェロがルイーザをモノにするラストは少なからず問題ありだが、それも含めてイタリア式セックス・コメディらしさが詰まった映画と言えよう。 どちらの作品も、エドウィジュ・フェネシュのルネッサンス絵画を彷彿とさせるヴィーナスのような美貌と、古代ローマの彫刻も顔負けの立派なグラマラス・ボディこそが最大の見どころ。また、レンツォ・モンタニャーニにリノ・バンフィ、アルヴァーロ・ヴィタリなど、フェネシュ主演作の常連でもあったイタリア式セックス・コメディに欠かせない名優たちの、実にベタでアクの強いコメディ演技も要注目である。 その後、’79年にルチアーノ・マルティーノと離婚したフェネシュは、引き続きイタリア式セックス・コメディで活躍しつつ、ディーノ・リージやアルベルト・ソルディなど一流監督の映画にも出るようになるのだが、しかし先述したようにハードコア・ポルノの普及でイタリア式セックス・コメディが急速に衰退すると、演技力よりも美貌とヌードが売りだった彼女にとって厳しい時代が訪れる。そこで、後にフェラーリ会長やアリタリア航空会長を歴任し、当時フィアット・グループの重役だったルカ・ディ・モンテゼーモロの恋人だったフェネシュは、その強力なコネを使ってテレビ界へ転身。バラエティ番組の司会者やエンターテイナーとして活躍するようになり、おのずとヌードも封印してしまう。ティント・ブラス監督の文芸エロス映画『鍵』(’83)の主演を断ったのもこの頃だ。 ちなみに、映画会社社長ルチアーノ・マルティーノに大物実業家ルカ・ディ・モンテゼーモロと、社会的地位の高い男性パートナーの影響力に助けられてキャリアを切り拓いたフェネシュだが、これは昔のイタリア女優に共通する処世術。ソフィア・ローレン然り、シルヴァーナ・マンガーノ然り、クラウディア・カルディナーレ然り、イタリアのトップ女優たちの多くは、夫や恋人である大物プロデューサーや有名映画監督などの後ろ盾があった。「イタリアではプロデューサーの妻やガールフレンドがいい役を独占する」と不満を持ったエルサ・マルティネッリは、アメリカでブレイクしたことからハリウッドに活動の拠点を移してしまった。なにしろ、伝統的に男尊女卑の根強いイタリアでは映画界も基本的に男性社会。女優が名声を維持するためには、権力を持つ男性のサポートが必要だったのである。 閑話休題。やがて舞台女優へも進出してセックス・シンボルからの脱却を図ったフェネシュは、’90年代に入ると自らの製作会社を設立して映画やテレビドラマのプロデューサーとなり、名匠リナ・ウェルトミュラーの『Ferdinando e Carolina(フェルディナンドとカロリーナ)』(’99)やアル・パチーノ主演の『ベニスの商人』(’04)、イタリアで話題になったテレビのロマンティック・コメディ『È arrivata la felicità(幸せがやって来た)』(‘15~’18)などを手掛けている。イーライ・ロス監督のアメリカ映画『ホステル2』(’07)へのカメオ出演で久々に女優復帰も果たした。最近では巨匠プピ・アヴァティが半世紀に渡る男性2人の友情を描いた映画『La quattordicesima domenica del tempo ordinario(平凡な時代の第14日曜日)』(’23)に、ガブリエル・ラヴィア演じる主人公マルツィオの別れた妻サンドラ役で登場。若き日のサンドラの母親役をシドニー・ロームが演じているそうで、これは是非とも見てみたい。■ 『青い経験 エロチカ大学』© 1978 DEVON FILM – MEDUSA DISTRIBUZIONE『青い経験 誘惑の家庭教師』© 1979 DEVON FILM – MEDUSA DISTRIBUZIONE
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COLUMN/コラム2024.11.05
“香港ノワール”の巨匠ジョン・ウー、ハリウッド時代の最高作!『フェイス/オフ』
ジョン・ウーは、1946年中国・広州生まれ。幼き日に家族で香港へと移り住んだ。少年時代から親しんだ映画の世界へと飛び込み、『カラテ愚連隊』で監督デビューを飾ったのは、73年のことだった。 その後様々なジャンルの作品を手掛けたが、所属する映画会社とのトラブルから、一時台湾に“島流し”状態に。そんな紆余曲折もあったが、86年に香港に戻ると、『男たちの挽歌』を監督。この作品が記録破りの大ヒットとなり、社会現象を起こした。 それまでコメディやカンフー映画が中心だった香港映画界に、ウーは、“英雄片”日本で言うところの“香港ノワール”というジャンルを確立。そして90年代初頭まで、このムーブメントをリードする存在として、ほぼ1年に1本ペースで作品を発表した。「スローモーションを駆使した二丁拳銃でのガンファイト」「メキシカン・スタンドオフ~同時に拳銃を向け合う2人の男」「画面に舞い飛ぶ白い鳩」等々。“ジョン・ウー印”と言うべき、斬新でスタイリッシュなアクション演出の評判は、狭い香港内に止まらなかった。 折しも97年の中国本土への返還を、目前に控えた頃。香港の映画人の多くは、海外マーケットを睨み、そこに活路を見出そうという志向が強くなっていた。 ウーに最初に声を掛けたハリウッドの映画人は、オリヴァー・ストーン。それは91年のことだったが、香港で撮る次回作が決まっていたので、話はまとまらなかった。 ウーのハリウッド・デビューは、93年。ジャン=クロード・ヴァンダム主演の『ハード・ターゲット』。続いて96年に、主演にジョン・トラヴォルタ、クリスチャン・スレイターを迎えた、『ブロークン・アロー』が公開されて、1億5,000万㌦の興収を上げる、大ヒットとなった。 それらに続いて、ハリウッド入り後の劇場用映画第3作となったのが、本作『フェイス/オフ』(97)である。 元々の脚本は91年に、当時大学生だった、マイク・ワーブとマイケル・コリアリーのコンビが執筆したもの。200年後の世界が舞台というSFで、激しく敵対する2人の男の顔が入れ替わって、更に戦いがエスカレートしていくという内容だった。 早々に権利は売れて、当時人気絶頂の2大筋肉スター、アーノルド・シュワルツェネッガーとシルベスター・スタローンの共演作として映画化を進める動きとなった。しかしその企画は流れ、その後も再三映画化の試みはあったものの、なかなか実現に至らなかった。 やがてこの脚本は、ウーのところに持ち込まれる。善と悪を象徴する、2人の男の顔が入れ替わるという設定には心惹かれたウーだったが、SF仕立てであることに気が乗らず、一旦は断っている。 他での話もまとまらず、再びウーの元に、この企画は戻ってくる。そこでウーは、現代のアメリカ社会を舞台にした物語に、脚本をリライトしてもらうことを条件に、本作『フェイス/オフ』の監督を、引き受けることを決めたのである。 ***** FBI捜査官のショーン・アーチャーは、遊園地でテロリストのキャスター・トロイに狙撃される。銃弾はアーチャーの身体を貫通し、彼が抱いていた、幼い息子の命を奪った。 それから6年。アーチャーはキャスターを追い続け、彼が弟のポラックスと空港から逃亡を図るという情報を摑んだ。死闘の末、アーチャーはキャスターを取り押さえる。 その際に植物状態になったキャスターが、ロサンゼルスに細菌爆弾を仕掛けていたことが判明。場所を知るのはポラックスだけだが、その在処を吐こうとはしなかった。 そこで、奇想天外な作戦が発動した。昏睡するキャスターの顔を、最新技術で剥ぎ取り、アーチャーに移植。キャスターになりすましたアーチャーが刑務所に入り、先に収監されているポラックスから情報を聞き出すというものだった。ごく数人を除いて、FBIの仲間や家族にも極秘での決行だった。 アーチャーは、爆弾を仕掛けた場所を聞き出すのに成功し、任務は完了…と思いきや、驚くべき人物が面会に現れる。それは、アーチャーの顔をしたキャスターだった。 植物状態から目覚めた彼は、配下を呼び寄せ、医者らを脅して手術をさせた上、アーチャーの任務を知る者を、すべて抹殺したのである。呆然とするアーチャーを獄に残し、キャスターはポラックスを釈放させ、自ら仕掛けた爆弾を解除。英雄となった。 自分の顔や地位、家族までも奪われてしまった…。アーチャーはキャスターへの復讐のため、刑務所内に騒乱を起こし、脱獄する。 それぞれが最も憎悪する男の顔を纏った2人。その対決の行方は!? ***** ハリウッド入り後、『フェイス/オフ』に取り掛かる前の2作、ウーは香港時代とは勝手が違う、映画会社主導による製作体制に、散々苦しめられた。『ハード・ターゲット』では、公開前のモニター試写の結果として、暴力描写や“ウー印”のスローモーションやクロスカッティングなどの多くが、カットされてしまう。更には、主演のジャン=クロード・ヴァンダムの意向が強く働き、完成版は、彼のアクション中心に編集されてしまったのだ。 ハリウッド的な作劇に於いてヒーローは、「泣いてもいけないし、もちろん死んでもいけなかった」。それまでのウー作品の登場人物とは、ほど遠いと言える。 悪に対する扱いも、「情け容赦は無用」の香港映画とは大違い。ハリウッドでは、「善と悪が鉢合わせしたとき、ヒーローの弾丸は、敵がナイフか棍棒を拾い上げるまで。当たることはない…」と、ウーは吐き捨てるように述懐している。 撮影現場で、俳優からセリフを変更したいという注文が出ても、監督には修正する自由が与えられていないのも、ありえない話だった。ウーは香港時代、俳優の要望によるものと脚本通りの2ヴァージョン撮ってみることが多かった。演じる本人の意見に従った方が良い結果が出ることを、経験として学んでいたのである。 思い通りに仕切れなかった、『ハード・ターゲット』そして『ブロークン・アロー』を経て、ウーは、ハリウッドで撮りたいものを撮ろうと思ったら、政治力が必要なことを思い知った。そしてそうした“力”を、『ブロークン・アロー』のヒットによって、遂に手にすることが出来たのである! ウーがハリウッドで、撮影現場での自由裁量権やファイナルカットの権利を得て初めて臨んだのが、本作『フェイス/オフ』だった。先に挙げた、俳優からのセリフ変更の要望などにも即応できるよう、脚本家も現場に帯同。提案があると、すぐに書き換えに応じてもらえる態勢を取ったという。 “善”と“悪”、激しく敵対する、『フェイス/オフ』の2人の主役。キャスティングされたのは、ジョン・トラヴォルタとニコラス・ケイジ。 FBI捜査官ショーン・アーチャー役のトラヴォルタは、ウーの前作『ブロークン・アロー』に続いての主演となった。トラヴォルタは20代前半に、『サタデーナイト・フィーバー』(77)『グリース』(78)という、当時のメガヒット作に連続主演。時代の寵児となりながらも、その後長く低迷した過去がある。 彼が復活を遂げたのは、クエンティン・タランティーノ監督の『パルプ・フィクション』(94)。それをきっかけに、40代で第2の全盛期に突入していた。そんなトラヴォルタにジョン・ウーを引き合わせたのも、タランティーノだった。 タランティーノにとってジョン・ウーは、「ものすごいヒーロー」であり、ウーが手掛けた“香港ノワール”に関しては、「セルジオ・レオーネ以来最高のもの」と称賛を惜しまなかった。タランティーノの長編初監督作『レザボア・ドッグス』(92)で、ギャングたちが揃いの黒スーツで現れるのは、ウーの『男たちの挽歌』の影響と言われる。 そんなタランティーノが、ウーとトラヴォルタ双方に、それぞれの凄さを吹聴。更に試写室でフィルムを見せるなどして、2人の間を取り持ったのである。 ウーは自作2本で主演を務めたトラヴォルタのことを、「謙虚で控えめだが自信に満ちている」と称賛。彼こそ「本物の男だ」と言い切っている。 テロリストのキャスター・トロイに、ニコラス・ケイジが選ばれたのは、トラヴォルタの希望もあってのこと。当時のケイジは、30代前半。『リービング・ラスベガス』(95)でアカデミー主演男優賞を受賞後、『ザ・ロック』(96)『コン・エアー』(97)とアクション大作への主演が続き、ノリにノッていた。 ケイジは元々、ウー作品の大ファン。香港時代の作品もしっかりチェックしていた。冒頭でアーチャーを狙撃するトロイに口ひげがあるのは、ウー監督“香港ノアール”の1本、『狼 男たちの挽歌・最終章』(89)のチョウ・ユンファを意識してのことだったという。 アーチャーの妻イヴ役には、金髪でノーブルなイメージのあるジョアン・アレン。FBI捜査官の夫を支えながらも、顔が入れ替わったキャスターとも、その正体を知らずに、“夫婦”として関係してしまうという役どころである。 映画会社は、もっと若くてキレイな女優をキャスティングしようとした。しかしウーは、オリヴァー・ストーン監督の『ニクソン』(96)で大統領の妻を演じたアレンを観て、彼女に決めた。イヴ役には、抑制された演技が必要だと思っていたからである。 ウーはクランク・イン前に、トラヴォルタ、ケイジと、入念にコミュニケーション。“善”の象徴であるショーン・アーチャー、“悪”の権化であるキャスター・トロイ、それぞれのキャラを表現するために、シンボリックなポーズや振舞いを決めた。 例を挙げれば、ケイジ特有のブラつくような歩き方や口調を緩めてはっきりと発音する話し方を、キャスターの特徴に採用。トラヴォルタは顔が入れ替わった後の演技のために、これらをマスターしなければならなかった。 冒頭トラヴォルタ演じるアーチャーは、愛する人の顔を優しく撫でる仕草を見せる。これが伏線となって、物語の後半イヴは、我が子の命を奪った憎きキャスターの顔を持つ男が、実は自分の夫であることに気付くのである。 トラヴォルタとケイジが別々に登場するシーンは、撮影した日の内に編集。翌日には相手の演技をチェックできるようにした。アーチャーの息子が殺されるシーンを見たケイジは、すぐにトラヴォルタに電話を入れて、こう言ったという。「ジョン、挑戦は受けたぜ。君のシーンを見て泣けたよ。感謝している。この映画の演技のレベルを君が決めてくれたんだから」 手術を受けてキャスターの顔になったアーチャーは、鏡に写った己の顔を激情の余り叩き割ってしまう。このシーンでケイジは、ウーが思わず涙を流すほど、迫真の演技を見せた。 ジョアン・アレンは、トラヴォルタとケイジが、互いの身体の位置や身振り、声のリズムからパターンまで、完コピし合うのを、間近で目撃。そのクオリティの高さに、舌を巻いたという。 ウーの作品世界にぴったりハマった、トラヴォルタとケイジ。こうしたキャストの力も借りて、仰々しいまでのアクション演出に、家族愛や仁義の世界を塗して放つ、香港時代のウーが完全に帰ってきた。 ・『フェイス/オフ』撮影中のジョン・ウー監督(左)とニコラス・ケイジ。 2時間18分の上映時間の中で、度々壮絶なアクションが繰り広げられる本作だが、そんな中でも印象深いのが、キャスターの顔をしたアーチャーが、脱獄後に潜伏先で、アーチャーの顔のキャスターと対決するシーン。マフィアとFBIを交えた大銃撃戦が展開されるのだが、アーチャーはその場に居合わせた幼い子どもを恐怖から守るために、ヘッドフォンを掛けさせて、名曲「虹の彼方に」を聞かせる。このメロディが、ウー印のスローモーション撮影でのガンファイトを、美しく彩るのである。 この「虹の彼方」は、オリビア・ニュートン=ジョンが歌うヴァージョンだったのだが、映画会社は、楽曲使用料の支払いを拒否。しかしウーは、自腹を切ってまで、断固としてこの曲の使用にこだわった。後に会社側も、そのこだわりの意味を認めて、ウーに楽曲使用料を支払ったという。製作費8,000万㌦であった本作が、2億5,000万㌦近い興収を上げる大ヒットとなったことを考えれば、当たり前と言えるが…。 ウーは93年から2003年まで、ハリウッドで長編劇映画6本をものした。「この10年間のハリウッドのアクション映画をみれば、ウーの影響がいかに大きいかわかる」 これは本作の後にウーを、大ヒットシリーズの第2弾『M:I-2 ミッション:インポッシブル2』(2000)の監督に招いた、トム・クルーズの言である。 ハリウッド製6本の内、ボックスオフィスのTOPを飾ったのは、『ブロークン・アロー』『フェイス/オフ』『M:I-2』の3本。中でも評価と人気が高いのが、本作『フェイス/オフ』である。 ニコラス・ケイジの近作に、自身のキャリアをパロディにしたコメディアクション作品『マッシブ・タレント』(22)があるが、その中で『フェイス/オフ』をネタにした場面も登場する。ケイジも本作が、大のお気に入りというわけだ。 5年ほど前からは、『ゴジラvsコング』(2021)などのアダム・ウィンガード監督によって、続編の企画が進められている。巷間伝わってくる話によると、アーチャーとキャスター、宿敵同士の2人だけの物語ではなく、それぞれの成長した子どもたちを交えた、4人の物語になるという。 昨年=2023年に起きた、「WGA=全米脚本家組合」のストライキの影響もあって、現在は製作に遅れが出ている状態だというが、果して!?ジョン・ウーが監督するわけではないことも含めて、本作のファンとしては、観たいような観たくないような…。■ 『フェイス/オフ』© 1997 Touchstone Pictures. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2024.11.01
バンパイア映画に変革を起こした’80年代ティーン向けホラー・コメディ映画の快作!『ロストボーイ』
スラッシャー映画ブームの真っ只中に登場したバンパイア映画復活の起爆剤 レーガン政権の打ち出した経済政策「レーガノミックス」による景気回復、MTVブームを筆頭とするユース・カルチャーの盛り上がり、さらには大型シネコンを併設したショッピングモールの急速な普及などを背景に、購買力があってトレンドに敏感な10代の若年層をメインターゲットに定めた’80年代のハリウッド映画。おのずとティーン受けを意識したような作品が増えたわけだが、その中でも特に人気があったのは青春映画とSFファンタジー映画、そしてホラー映画である。 ただし、当時のホラー映画で主流だったのはジェイソンやフレディ、マイケル・マイヤーズのような連続殺人鬼が、セックスとドラッグとパーティに明け暮れる今どきの若者たちを次々と殺しまくるスラッシャー映画。別名でボディカウント映画とも呼ばれたそれらの作品は、文字通り死体の数と血みどろゴア描写、さらには適度なエロスが主なセールスポイントで、それゆえ批評家からは「低俗」だの「悪趣味」だのと非難されたわけだが、しかし刺激的な娯楽を求めるティーンたちからは大喝采を受けた。『ハロウィン』(’78)の成功を経て『13日の金曜日』(’80)で火が付いたとされる’80年代のスラッシャー映画ブーム。その一方で、すっかり活躍の場を奪われたのは吸血鬼やフランケンシュタインの怪物、ミイラ男といった古典的なホラー・モンスターたちだ。 唯一の例外は狼男(人狼)であろう。特殊メイクの技術が飛躍的に進化したおかげで、人間から人狼への変身シーンをリアルに描くことが出来るようになったこともあり、『狼男アメリカン』(’81)や『ハウリング』(’82)など、いわば新感覚の人狼映画がちょっとしたブームに。古式ゆかしいゴシック・ムードを極力排し、コンテンポラリーなモダン・ホラーに徹したのも良かったのだろう。それに対し、依然としてクラシカルなイメージが強い吸血鬼やフランケンシュタインの怪物などのモンスターたちは、トニー・スコット監督の『ハンガー』(’83)やフランク・ロッダム監督の『ブライド』(’85)のようなアート映画に登場することはあっても、メインストリームのハリウッド映画からは殆んど姿を消してしまう。 そうした中、ハリウッドにおけるバンパイア映画衰退の風向きを変えたのが、古き良きバンパイア映画へのオマージュを青春コメディとして仕立てた『フライトナイト』(’85)。これが思いがけないサプライズヒットとなったことから、『ワンス・ビトゥン 恋のチューチューバンパイア』(’85)や『ヴァンプ』(’86)などのティーン向けB級バンパイア映画が相次いで登場する。にわかに盛り上がり始めたバンパイア映画の復活。いわばその起爆剤となったのが、850万ドルの低予算に対して全米興行収入3200万ドル超えのスマッシュヒットを記録した『ロストボーイ』(’87)である。 新しく住み始めた町はバンパイアの巣窟だった…!? 舞台はカリフォルニアの架空の町サンタカーラ(ロケ地はリゾートタウンとして有名なサンタクルーズ)。美しい砂浜や遊園地などの賑やかな行楽スポットに恵まれ、地元住民だけでなく大勢の観光客でごった返すサンタカーラだが、しかしなぜかティーンエージャーの行方不明事件も多く発生しており、巷では「殺人の名所」などと呼ばれている。そんな曰く付きの町へアリゾナから引っ越してきたのがエマーソン親子。紆余曲折の末に夫と離婚した母親ルーシー(ダイアン・ウィースト)は、18歳の長男マイケル(ジェイソン・パトリック)とヤンチャ盛りの次男サム(コリー・ハイム)を連れ、変わり者の祖父(バーナード・ヒューズ)がひとりで暮らす実家へと戻って来たのだ。 町で人気のビデオレンタル店で働き口を見つけ、紳士的でおっとりとした独身の店主マックス(エドワード・ハーマン)とお互いに惹かれ合うルーシー。その頃、弟サムを連れてビーチのロック・コンサートへ行ったマイケルは、そこで見かけたセクシーな美少女スター(ジェイミー・ガーツ)に一目惚れするのだが、しかし彼女はカリスマ的な不良デヴィッド(キーファー・サザーランド)をリーダーとするバイカー集団「ロストボーイズ」の一員だった。なんとか彼女に近づくため、デヴィッドとのバイクレース勝負に挑んだマイケル。その根性を気に入ったデヴィッドらは、隠れ家にしている海岸の洞窟へとマイケルを招き入れ、仲間の証として怪しげな赤い酒を飲むよう勧める。血相を変えて止めようとするスター。しかし、不良どもに舐められたくないマイケルはそれをグイッと飲んでしまう。 一方、大のアメコミ・マニアであるサムは、商店街のコミックショップで店番をしている同年代のエドガー(コリー・フェルドマン)とアラン(ジェイミソン・ニューランダー)のフロッグ兄弟と知り合う。ホラーが大の苦手という臆病なサムに、しきりにバンパイア本を勧めて来るフロッグ兄弟。曰く、この町で暮らすのに必要なサバイバル・マニュアルで、裏には緊急時の連絡先も記されているという。訳が分からず唖然とするサムだったが、しかしロストボーイズとつるむようになってから兄マイケルの様子がおかしい。昼夜の逆転したような生活を送るようになり、昼間は日光を嫌ってサングラスをかけている。ある晩、遂に愛犬ナヌークがマイケルに襲いかかり、サムは鏡に映った兄の姿を見て愕然とする。なんと、半透明だったのだ。 鏡に映らないのはバンパイアの証拠である。ロストボーイズの正体は血に飢えたバンパイア軍団で、地元で多発する行方不明事件も彼らの仕業。バンパイアの血を飲んだ者もまたバンパイアになってしまうのだが、マイケルが洞窟で飲まされた怪しげな赤い酒はデヴィッドの血だったのだ。しかし半透明ということは、まだ完全にバンパイアになりきったわけじゃない。いわば半バンパイアである。バンパイア本によれば、親バンパイアを殺せば半バンパイアは助かるらしい。そこで、サムはフロッグ兄弟の協力のもと、兄マイケルを救うため親バンパイアを倒そうとするのだが…? 当初の企画ではファミリー向けのキッズ・ムービーだった! 劇場公開時の映画ファンにとって斬新だったのは、バンパイアがロン毛にレザーコートを羽織った、ロックバンド風のクールな若いイケメン集団(+グルーピー風美女)であること。なにしろ、それまでの映画に出てくるバンパイアって、基本的にはドラキュラ伯爵的な紳士のイメージが強かったですからな。バンパイアが本性を現すとノスフェラトゥ型モンスターに変身するというのは『フライトナイト』と一緒だが、しかし役者のもとの顔を活かした「やり過ぎない特殊メイク」は、バンパイアの人間としての側面を見る者に意識させて秀逸。物語にある種のリアリズムを与えたと言えよう。 さらに、BGMにはINXSやフォーリナーのルー・グラム、エコー&ザ・バニーメンなどトップ・アーティストによる流行りのロックサウンドが満載。なおかつ、お洒落でスタイリッシュなビジュアルはまさしくMTV風である。そのうえ、アクションにユーモアにスプラッターも満載の賑々しさ。当時のティーンたちが熱狂したのも当然と言えば当然である。本作が後の『バッフィ/ザ・バンパイア・キラー』(’92)やそのテレビ版『バフィー~恋する十字架』(‘97~’03)、『フロム・ダスク・ティル・ドーン』(’96)に『ヴァンパイア/最後の聖戦』(’98)など、様々なバンパイア映画に少なからぬ影響を与えたことは明白。それこそ、サイレントの時代から長い歴史を誇るバンパイア映画の伝統に、新たな変革を起こした作品と呼んでも差し支えないかもしれない。 監督は『依頼人』(’94)や『バットマン フォーエヴァー』(’95)、『評決のとき』(’96)などでお馴染みの名娯楽職人ジョエル・シューマカー。当時は’80年代青春映画の金字塔『セント・エルモス・ファイアー』(’85)を大ヒットさせたばかりだった。実はもともとリチャード・ドナーが監督する予定だった本作だが、しかしゴーサインが出たタイミングで既に『リーサル・ウェポン』(’87)に取り掛かっていたことから、ドナー夫人ローレン・シュラーが過去にプロデュースしたテレビ映画で組んだシューマカー監督を推薦。当時のワーナー社長マーク・キャントンから直接オファーを受けたシューマカー監督だが、しかし最初はあまり気が進まなかったという。というのも、ジャニス・フィッシャーとジェームズ・ジェレミアスの書いたオリジナル脚本はファミリー向けのキッズ・ムービーだったらしい。 オリジナル脚本の主人公たちは13歳~14歳の子供ばかり。さながらドナー監督の手掛けた『グーニーズ』(’85)のバンパイア版という感じで、小さなお子様が見ても安心の健全な内容だったという。全く興味の湧かなかったシューマカー監督は、オファーを断るためエージェントに電話をかけたのだが、生憎ちょうどランチタイムで担当者は不在。仕方ないのでジョギングに出かけたところ、走りながら頭の中に様々なアイディアが湧いてきたという。登場人物たちの年齢は変えてしまえばいい。もっとセクシーでクールで刺激的な要素を盛り込んだら全然面白くなるはず。そんな風に考えているうち、すっかりやる気が出てきたのだそうだ。 『デッドゾーン』(’83)や『インナースペース』(’87)でジャンル系映画に実績のあるジェフリー・ボームに脚本のリライトを指示したシューマカー監督は、デザインのベースとなるロストボーイズのロックスターみたいな髪型やファッションのイメージ原案も自ら手掛けたという。さすがは衣装デザイナー出身である。若者の最新トレンドに敏感だったことは、本作だけでなく『セント・エルモス・ファイアー』を見ても分かるだろう。しかも、恐怖とユーモアのバランス感覚がまた絶妙。本編を見たワーナー幹部からは「ホラーなのかコメディなのか、どちらかハッキリさせろ」と、暗に再編集を要求するようなクレームが入ったそうだが、あえて無視して従わなかったのは大正解だ。 2人のコリーを筆頭に旬の若手スターたちが勢ぞろい また、メインキャストに当時の新進若手スターをズラリと揃えたのも良かった。中でも、『ルーカスの初恋メモリー』(’86)で全米のティーン女子のハートを鷲摑みにし、えくぼのキュートなアイドル俳優として大ブレイクしたばかりのコリー・ハイムは、ヤンチャで憎めない弟キャラのサム役にドンピシャ。軽妙洒脱な芝居のなんと上手いことか。コメディアンとしてのセンスは抜群。「兄ちゃんはバンパイアだ!ママに言いつけてやる!」は抱腹絶倒必至である。そんなサムを助けてバンパイア退治に大活躍するフロッグ兄弟には、『グレムリン』(’84)に『グーニーズ』、『スタンド・バイ・ミー』(’86)などで超売れっ子だったコリー・フェルドマンと、当時まだ無名の新人だったジェイミソン・ニューランダー。ことにフェルドマンとハイムの相性は抜群で、本作をきっかけに『運転免許証』(’88)や『ドリーム・ドリーム』(’89)など数多くの映画でダブル主演。ファーストネームが同じであることから「The Two Coreys」の愛称で親しまれ、私生活でも’10年にハイムが38歳の若さで急逝するまで生涯の大親友となった。 サムの兄貴マイケル役のジェイソン・パトリックは、キアヌ・リーヴスの後継者として『スピード2』(’97)に主演したことで知られているが、当時はティーン向けSF映画『太陽の7人』(’86)に主演して注目されたばかり。エージェントの勧めでオーディション初日に参加したというパトリックだが、しかし本人はB級ホラー映画に抵抗があって出演を渋ったらしく、シューマカー監督が6週間かけて口説き落としたという。『太陽の7人』といえば、ロストボーイズの紅一点スター役のジェイミー・ガーツも同作に出演しており、キャスティングの難航していたスター役にパトリックが推薦したのだそうだ。ロストボーイズのリーダーであるデヴィッド役のキーファー・サザーランドも、確か当時は『スタンド・バイ・ミー』の不良役で注目されたばかりでしたな。その子分のひとりで黒髪のドウェインを演じているビリー・ワースは、「セブンティーン」や「GQ」などの雑誌で引っ張りだこだった人気ファッション・モデル。『ビルとテッドの大冒険』(’89)シリーズでブレイクするアレックス・ウィンターが、最初に退治される吸血鬼マルコを演じているのも要注目だ。 そのほか、前年の『ハンナとその姉妹』(’86)でアカデミー助演女優賞を獲ったばかりだったダイアン・ウィースト、『アニー』(’82)のルーズベルト大統領など歴史上の人物を演じることが多かったエドワード・ハーマン、テレビのシットコム『ブロッサム』(‘91~’95)のお祖父ちゃん役で親しまれたバーナード・ヒューズなどのベテラン名優も脇を固めているが、やはり当時旬のティーン・スターたちの起用がヒットに繋がったであろうことは想像に難くないだろう。 なお、劇場公開の直後から続編を期待する声があり、実際にシューマカー監督は主要キャストを全員女性に変えた『The Lost Girls』というタイトルの続編を企画していたそうだが実現せず。ところが、21世紀に入って待望のシリーズ第2弾『ロストボーイ:ニューブラッド』(’08)がDVDスルー作品としてお目見えする。メインキャストは若手に刷新されているが、脇にはコリー・フェルドマン演じるエドガー・フロッグが登場し、エンディングにはサム役でコリー・ハイムもカメオ出演していた。さらに、第3弾『ロストボーイ サースト 欲望』(’10)もDVDリリース。今度はエドガーとアランのフロッグ兄弟が主役で、エドガー役のフェルドマンに加えてアラン役のジェイミソン・ニューランダーも復活。サム役でコリー・ハイムも参加予定だったがスケジュールの都合で出られず、本人は4作目があれば出演したいと言っていたみたいだが、残念ながら3作目がリリースされる7カ月前に病死してしまった。■ 『ロストボーイ』© 1987 Warner Bros. Entertainment Inc. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2024.10.07
ニューマン&レッドフォード+ジョージ・ロイ・ヒル!名トリオが放った、これぞ“ニューシネマ”!!『明日に向って撃て!』
“アメリカン・ニューシネマ“の時代。1960年代後半から70年代に掛けて、反体制的・反権力的な若者たちや数多のアウトローが、アメリカ映画のスクリーンに躍った。 そんな中で、屈指の人気キャラクターに数えられるのが、ブッチ・キャシディとサンダンス・キッド。 “ニューシネマ”第1弾の作品が、主役の犯罪者カップルの名前を取った「ボニーとクライド」という原題だったのを、『俺たちに明日はない』(67)という邦題にして、当たりを取ったのに倣ったのであろう。1969年製作の「ブッチ・キャシディとサンダンス・キッド」は、『明日に向って撃て!』というタイトルで、翌70年に日本公開となった。 ***** 1890年代のアメリカ西部。「壁の穴」強盗団のリーダーで頭が切れるブッチ・キャシディと、その相棒で名うての早撃ちサンダンス・キッドは、絶対的な信頼で結ばれていた。 ある時強盗団は、同じ列車の往路と復路を続けて襲うという大胆な計画を実行。往路は見事に成功し、2人は馴染みの娼館でくつろぐ。 サンダンスは一足早く抜け、恋人の女教師エッタ・プレイスの元へ。翌朝合流したブッチは、新時代の乗り物と喧伝される自転車をエッタと相乗りし、安らぎの一時を過ごす。 強盗団は予定通り、復路の列車強盗も敢行。しかし鉄道会社が雇った凄腕の追っ手に、仲間の何人かは射殺され、ブッチとサンダンスも、執拗な追跡を受ける。 命からがら、エッタの元に帰還。これを機に、ブッチが以前から口にしていた新天地に、3人で向かうことにする。 ニューヨークでの遊興を経て、夢に見た南米ボリビアに到着。しかしそこはまるで想像と違った、貧しい国だった。 今度はエッタの協力も得ながら、銀行強盗を重ねる。しかしこの地でも追っ手の影を感じたブッチとサンダンスは、足を洗うことに。そして、錫鉱山の給料運搬の警護を行う。 ところがその最中、山賊団が襲撃。ブッチは生まれて初めて、人を殺してしまう。 行く先に暗雲が垂れ込める中、「2人が死ぬところだけは見ない」と、かねてから言っていったエッタは、ひとりアメリカへ帰国。 ブッチとサンダンスは、再び強盗稼業に舞い戻る。しかし仕事後、ある村で休息していたところを、警官隊に包囲されてしまう。 応戦しながらも手傷を負い、追い詰められていく、ブッチとサンダンスだったが…。 ***** 脚本のウィリアム・ゴールドマンは、8年掛けて、ブッチ・キャシティとサンダンス・キッドという、実在した2人の伝説的アウトローについてリサーチ。彼らの生涯を扱った脚本を書き上げた。 軽妙なタッチで笑えるシーンも多々ありながら、そこで描かれるのは、かつてはジョン・ウェインのようなヒーローが闊歩した、西部の荒野は、今はもう存在しない。ブッチやサンダンスのような、時代遅れのアウトローたちは、ただただ滅んでいくという世界だった。 ゴールドマンが執筆時に想定していたキャストは、ブッチ・キャシディはジャック・レモン、サンダンス・キッドにはポール・ニューマン。そして実際に、ニューマンが映画化に向けて動き出すこととなる。 脚本に付いた値段は、当時としては最高値の40万㌦。ニューマンの記憶によると、当初は彼とスティーヴ・マックィーンが、この脚本料を折半して、2人の本格的な共演作として、取り組む予定だったという。 マックィーンは脚本を気に入りながらも、このプロジェクトから退いた。その理由は、ライバルであるニューマンとのクレジット順、即ち主演としてどちらの名前を先に出すかや、ブッチとサンダンスどちらの役を演じるかで軋轢があった等々、諸説あるが、はっきりとしたことは、今となってはわからない。 結局ポール・ニューマンのプロダクションが、20世紀フォックスと組んで、本作『明日に向って撃て!』の映画化を進めることとなった。 監督候補として、これまでにニューマンと組んで成果を上げた者たち、マーティン・リット、スチュアート・ローゼンバーグ、ロバート・ワイズらの名が挙がった。しかしそれぞれオファーに対して、芳しい返事はもらえなかった。 ニューマンとプロダクションを共同経営するジョン・フォアマンが推薦したのが、ジョージ・ロイ・ヒルだった。ロイ・ヒルは映画監督としては、61年にデビュー。これまでに、『マリアンの友だち』(64)『モダン・ミリー』(66)等のコメディやミュージカルを手がけ、その現代的な感覚が評価されていた。 監督に正式に決まったロイ・ヒルが、ニューマンと打合せをすると、どこか話が噛み合わない。ニューマンが自分が演じるのは、サンダンス・キッドと思い込んでいたのに対し、ロイ・ヒルは、ブッチ役こそニューマンにふさわしいと考えていたからだった。 はじめはロイ・ヒルの提案に、ニューマンは首を縦に振らなかった。ブッチ役には喜劇的要素が必要だが、自分にはその素養は無いと、考えていたのである。 それに対しロイ・ヒルは、コメディ・タッチなのは設定であって、役そのものではないと、説得。それを受けたニューマンは、脚本を読み直し、ブッチ役を演じることを受け入れた。 ニューマンの相棒の候補となったのは、マーロン・ブランドやウォーレン・ベイティ。マックィーンの名が挙がったのも、実はこの段階になってからだったという説もある。 ロイ・ヒルは、ブランドやマックィーンのような、わがままなトラブルメーカーと組むのはまっぴら御免だった。そんな彼が強く推したのが、ロバート・レッドフォード。 その頃のレッドフォードは、30代はじめ。主演作こそあったが、大きなヒットはなく、ブランドやベイティ、マックィーンとは比べるべくもない。まだスターとは呼べない、ただの二枚目俳優だった。 ロイ・ヒルは、過去作のオーディションでレッドフォードと邂逅。その後も彼が舞台に立つ姿を見て、印象が良かったのである。 このオファーに関して、ロイ・ヒルとレッドフォードは、改めて面会。その時の印象についてレッドフォードは、「どっちもドス黒いアイリッシュの血を引いていて、お互いに腹の中が読めた」と語っている ニューマンはレッドフォードにまだ会ったことがなく、特に彼を推す理由もなかった。一方で、最初にサンダンス役にレッドフォードをと言い出したのは、妻のジョアン・ウッドワードだったなどとも、後年言っている。 この辺も何が真実だか、曖昧模糊とした話だが、とにかくロイ・ヒルは、レッドフォードにこだわった。20世紀フォックスの製作部長だったリチャード・ザナックから、レッドフォードを起用するぐらいならば、「この企画を流す」と宣告までされたが、最終的にはニューマンや脚本のゴールドマンまで味方につけて、粘り勝ちを収めた。 レッドフォードは、ロイ・ヒルを信じて、しばらくの間は他の仕事を入れずに待っていた。そして、生涯の当たり役を摑むことになった。 エッタ・プレイス役には、ジャクリーン・ビセットやナタリー・ウッドも候補に挙がったが、『卒業』(67)で注目の存在となっていた、キャサリン・ロスが決まる。その後目覚ましい活躍をしたとは言い難いロスだが、『卒業』『明日に向って撃て!』という、“アメリカン・ニューシネマ”初期の代表的な2本で、忘れがたいヒロインを演じた女優として、日本でも長く人気を集めた。 因みにニューマンは、エッタの存在については、「たいして重要ではない」と発言したことがある。彼曰く本作は、「これはじつは、二人の男の恋愛を描いたもの」だからである。 しかしそこが強調されてしまうと、当時はまだまだ観客の耐性がなく、居心地の悪い思いをさせてしまうことになる。そこでロイ・ヒルは、ブッチ、サンダンス、エッタの3者を、三角関係のように描くことにした。本作の中で最もロマンティックなのが、サンダンスの恋人であるエッタとブッチの自転車二人乗りのシーンであるのは、実はこうした流れに沿ってのことと思われる。 本作は、メキシコ、ユタ、コロラド、ニュー・メキシコでロケを行った後、ロサンゼルスのスタジオで撮影が続いた。その間にはっきりとしたのは、12歳の差がある、ニューマンとレッドフォードの、共通点と相違点。 共にアウトドア派で、政治的にはリベラル。そして、ハリウッドの金儲け主義を嫌悪していた。 メキシコロケの際は、現地の水で体調を崩したくないというのを表向きの理由にして、2人ともビールなどアルコール類しか口にしなかった。そんなこともあってか、打ち解けるのが早かったという。 一方で、演技のスタイルは正反対。ロイ・ヒル曰く、「ニューマンは撮影する場面を徹底的に、頭の中で分析する。その間、レッドフォードはただそこに立って、しかめっ面をしている…」 レッドフォードは、リハーサルをすると、無理のない自然さが失われてしまうと考えていた。しかし本作に関しては、「ニューマンがやりたがっていたから」という理由で、リハーサルに臨んだ。 アクターズ・スタジオなどで学んだ、メソッド俳優であるニューマンは、準備が出来ていても、とことん話し合って、納得がいくまでは撮影に入るのを嫌がった。それに対しレッドフォードは、必要もないのにグズグズしているのを見ると、イライラ。 現場では折々、ニューマンとレッドフォードの意見の衝突が起こった。2人ともエキサイトはすれども、決して険悪にはならず、ロイ・ヒルはそれを、スポーツ観戦のように楽しんだという。 ニューマンとロイ・ヒルは、時間にはうるさい人間だった。それに対して、レッドフォードは遅刻魔。ニューマンは、レッドフォードの利き腕が左手なのに引っ掛けて、本作のタイトルを、『レフティ(左利き)を待ちながら』に変えたいと思ったほどだと、ジョークを飛ばしている。そしてわざわざ、「約束の時間を守るのが礼儀の基本」という格言を縫い込んだレースを、レッドフォードにプレゼントしている。 ニューマンは、本作及びブッチとサンダンスのキャラクターについて後年、「嬉しい想い出。二人とも映画の中でいつまでも活躍してほしい好漢だった」と語っている。そんなことからもわかるように、笑い声が絶えない撮影現場だったという。 撮影初日に、ニューマンはレッドフォードに、こんな風に声を掛けた。「四千万ドルの興収を上げる映画に初めて出演する気分はどうだい?」 レッドフォードは内心、「自信過剰だ」と思ったというが、本作が69年9月に公開されると、ヴィンセント・キャンビー、ポーリン・ケイル、ロジャー・エバートといった、著名な映画評論家たちにディスられながらも、爆発的な大ヒットとなった。興収は4,000万㌦どころではなく、1億200万㌦まで伸びた。 アカデミー賞では、作品賞、監督賞など7部門にノミネート。その内、脚本、主題歌、音楽、撮影の4部門で受賞となった。 その直後から、ニューマンとレッドフォード、再びの顔合わせを望む声は、引きも切らなかった。71年にはニューヨーク市警に蔓延する汚職を告発した刑事の実話の映画化『セルピコ』で、レッドフォードが主役の刑事役、ニューマンが同僚の警官役で再共演という話が持ち上がった。 こちらの話は流れて、73年にシドニー・ルメット監督、アル・パチーノ主演で実現したが、その同じ年にニューマン&レッドフォードに加えて、ジョージ・ロイ・ヒル監督というトリオが、復活!その作品、1930年代を舞台に、詐欺師たちの復讐劇を描いたクライム・コメディ『スティング』は、『明日に向って撃て!』を超える大ヒットとなった上、アカデミー賞でも10部門にノミネート。作品賞、監督賞など7部門を獲得する、大勝利を収めた。 その後も度々、ニューマン&レッドフォード&ロイ・ヒルのトリオ、或いはニューマン&レッドフォードのコンビによる作品製作が模索されたが、ロイ・ヒルが2002年に80歳で亡くなり、ニューマンも07年に83歳で逝去したため、遂に実現には至らなかった。 80代を迎えたレッドフォードも18年に、『さらば愛しきアウトロー』を最後の出演作に、俳優業を引退。 いま改めて振り返れば、本作『明日に向って撃て!』で、60年代アメリカ映画を代表する二枚目俳優、ポール・ニューマンの薫陶を受け、レッドフォードは、一挙にスターダムにのし上がった。その後70年代ハリウッドを代表する大スターへと成長していったのは、多くの方がご存じの通りである。 彼はサンダンス・キッド役のギャラで、ユタ州のコロラド山中に土地を購入して、サンダンスと命名。その地に「サンダンス・インスティチュート」を設立して、若手映画人の育成を目的とする、「サンダンス映画祭」の生みの親となった。 そうした事々を考えると、『明日に向って撃て!』は、“アメリカン・ニューシネマ”の名作という位置付け以上に、映画史に残した影響が、非常に大きな作品なのである。■ 『明日に向って撃て!』© 1969 Twentieth Century Fox Film Corporation and Campanile Productions, Inc. Renewed 1997 Twentieth Century Fox Film Corporation and Columbia Pictures Industries, Inc. All rights reserved.