COLUMN & NEWS
コラム・ニュース一覧
-
COLUMN/コラム2025.10.17
快楽ではない、バイオレンスの“苦痛”―『ワイルドバンチ』
◾️監督サム・ペキンパー、最高傑作誕生の舞台裏 1960年代末、アメリカ映画は旧来の西部劇神話からの脱却を迫られていた。ベトナム戦争や公民権運動を経て、人々は単純な善悪を超える、現実的な暴力と道義の崩壊をスクリーンに求め始めていたのだ。映画監督サム・ペキンパーはその時代精神に感応し、『ワイルドバンチ』(1969)を「アメリカ神話の葬送曲」として構想した。それは暴力の本質と、その倫理的痛みを可視化する試みだったのだ。 作品の撮影はメキシコ・コアウィラ州とドゥランゴ州でおこなわれ、81日間に及ぶ過酷なロケとなった。撮影監督ルシアン・バラードのもと、ペキンパーは複数台のカメラを異なるフレームレートで同時に使用し、スローモーションとマルチアングル編集を組み合わせる革新的な手法を採用。編集担当であるルー・ロンバルドは現場から同行し、ペキンパーと一体となって構成を創り上げた。撮影素材は膨大で、初期編集版はランニングタイムが3時間45分に達したという。そこから半年をかけて1/3を削り、編集し終えたときにはインターミッションを含めて150分に収められ、ショットの構成数は3.642カットになった(これはそれまで撮られたカラー映画としては最多記録)。こうした削除と再構成を経て、『ワイルドバンチ』は沈黙と爆発、緊張と緩和を反復する独自のリズムが形成されたのだ。 とりわけ編集の特徴は、人物の記憶や心情を示すフラッシュバックをストレートカットで挿入した点にある。当時のワーナー上層部は時制の混乱を理由に反対したが、ペキンパーは譲らず、結果としてこの技法は後の映画編集に大きな影響を与えた。また音響にも徹底したこだわりを見せ、銃ごとに異なる発砲音を作り分け、権威ある映画テレビ技術者協会の音響効果賞を受賞している。音楽もジェリー・フィールディングが半年以上を費やして作曲し、重層的な暴力の叙事詩を完成させた。 しかし完成までの道のりは平坦なものではなかった。1969年5月の一般向けプレビューでは、観客の多くが暴力描写に衝撃を受け、賛否両論が噴出した。ペキンパーの意図は暴力を快楽ではなく痛みとして描くことにあったが、スタジオ側は「残酷すぎる」と判断し、先のフラッシュバックの件も含めて上映時間の短縮を求めた。制作責任者ケネス・ハイマンの擁護も空しく、経営交代で新任のテッド・アシュリーが着任すると、監督不在のままフィル・フェルドマンが約10分を削除。主にカットされたのは以下である。 【1】ワイルドバンチのリーダー、パイク・ビショップ(ウィリアム・ホールデン)の旧友ディーク・ソーントン(ロバート・ライアン)が、いかにして捕えられたかを描くフラッシュバック。 【2】パイクの恋人オーロラがどのように殺され、パイク自身が負傷するに至った経緯を示すフラッシュバック。 【3】パイクの部下クレージー・リー(ボー・ホプキンス)がフレディ・サイクス(エドモンド・オブライエン)の孫であり、パイクが冒頭の強盗で意図的に彼を見捨てたことを示す砂漠のシーン。 【4】マパッチ将軍(エミリオ・フェルナンデス)が電報を待つ間に、パンチョ・ヴィラの軍勢から襲撃を受けるシーン。 【5】アグアベルデでのパンチョ・ヴィラ襲撃後の余波を描くシークエンス。 【6】約1分間にわたる、エンジェルの村での祭りの場面。 いずれも“暴力の中の倫理”を語る重要な挿話であり、この改変は全米規模で実施され、上映地域によって異なる長さのプリントが混在するという混乱を招いた。ペキンパーはこれを「暴力に人間味を与える部分を切り捨てた裏切り」と激しく非難している。興行的には健闘したものの、監督の意図は損なわれ、作品は血と硝煙のバイオレンスとして受け取られた。彼が本来描こうとしたのは、暴力を見つめる者たちの沈黙をとおし、時代の終焉を哀惜するものだったのである。 興味深いのは、この時点で削除された映像の多くが、ヨーロッパ配給用ネガとして保管されていたことだ。そこには列車強盗後にパイクが仲間を思い出すフラッシュバックや、村の子どもたちがバンチを真似る場面などが含まれていた。これらは後年の復元版で再び息を吹き返すことになるが、その萌芽はすでに撮影段階からペキンパーの構想に組み込まれていた。彼にとって『ワイルドバンチ』とは暴力を美化する映画ではなく、“崩壊する道義と失われゆく友情”を見つめるための作品だったのである。 ◾️バージョン変遷 ―上映・編集違いの実際 こうして『ワイルドバンチ』は公開以来、半世紀を経ても複数のバージョンが併存する稀有な作品となってしまった。その背景には先に挙げたように制作現場での編集方針の対立と検閲、商業的制約が複雑に絡み合っている。ペキンパーは脚本段階から「無法者たちの最期」と「裏切りと贖罪の物語」という二重構造を意図しており、編集は単なるテンポ調整ではなく、記憶と倫理を挿入する構築作業だった。 1969年3月に完成した試写版(約145分)は理想形に近かったが、アメリカ公開版では「テンポが遅い」「上映回数が減る」との理由で約135分に短縮された。削除されたのは、ペキンパーが「沈黙こそ最も雄弁」と称した場面群であり、結果として観客には壮絶な銃撃シーンの印象だけが強まった。 その削除作業は異例で、スタジオが各地の映写所に編集者を派遣し、現場で物理的にフィルムを切るという強引な方法が執られた。このため地域ごとに内容が異なるプリントが存在する事態となり、アメリカから“監督版”は失われた。長尺版はヨーロッパ市場にのみ残り、1970年代には名画座や大学上映を通じて“幻の完全版”として語り継がれた。 ●『ワイルドバンチ』は、1980年代のアメリカにおけるVHSやレーザーディスクなどのパッケージメディアでは、145分版の素材がマスターとして使用されていた。いっぽう日本では135分のアメリカ劇場公開バージョンが商品化されている。写真はその国内版レーザーディスク(筆者所有のもの)。当時、日本のファンの間では「カット版か」と敬遠されがちだったが、現在となっては削除シーンを比較・検証するうえで貴重な資料的価値をもつ。 時代を経て1980年代末、AFI(アメリカン・フィルム・インスティチュート)とワーナー・ブラザースが過去作品の修復プロジェクトを開始し、その過程でオリジナルネガの一部とヨーロッパ版マスターが再発見された。編集者ルー・ロンバルドとフィルム保存専門家が中心となり、ペキンパーのノートや脚本を参照しながら再構成を実施。1995年に145分の「ディレクターズカット版」が正式に復元・再公開されたのだ。ここで戻されたのは先に挙げたシーンに加え、冒頭の村人たちが放つ無言の視線、列車強奪後のフラッシュバック、決戦前の沈黙の間、そしてエピローグの子どもが銃を拾う場面である。これらはどれも“暴力を見つめるまなざし”を補完する重要な要素であり、ペキンパーが意図した倫理的リズムを回復させたのだ。 復元したものは一時NC-17指定を受けたが、問題視されたのは暴力描写そのものではなく、“子どもの視点から暴力を映す倫理性”だった。最終的にR指定へ戻されたが、同じ映像でも時代の感覚や文脈によって評価が変わることを示す象徴的な出来事となった。 以後、このディレクターズカット版が標準となり、135分の短縮版は歴史的資料に位置づけられた。2006年のDVD「Two-Disc Special Edition」ではさらに音声と色調が修復され、ペキンパー本来の編集意図がより強化された。編集者ロンバルドは「ペキンパーは一瞬の沈黙に真実を置いた」と語り、復元の本質が単なる長尺化ではなく、映画の呼吸の回復にあることを示したのだ。 ◾️ディレクターズカット版の意義と受容 『ワイルドバンチ ディレクターズカット版』の成立は映画史における、作家の権利回復を象徴する事件だった。ペキンパーが生前に完全な形での再上映を実現できなかったことを考えると、これは彼の死後に成し遂げられた和解でもある。このレストアによってオーディエンスは、初めて彼が意図した「暴力を見つめる沈黙」と「崩壊する友情の哀切」に、正面から向き合うことができるようになったのだ。 このディレクターズカット版の意義は、二つの側面から論じられる。第一に、映画そのものの構造的回復だ。削除されていたフラッシュバックや沈黙のカットが戻ることで、物語は単なるガンマンの最期から、裏切りと赦しの連鎖を描く悲劇へと変容する。特にパイクとデイクの過去を示す短い回想は、暴力に至る彼らの疲弊を浮き彫りにし、決戦の瞬間を暴力の快楽から、道義的な選択へと転化させている。この編集の復権によって、映画全体がペキンパー本来のリズムと思想を取り戻したのだ。 そして第二には、映画史的な意義だ。1990年代のレストアは、マーティン・スコセッシやロバート・ハリス、フランシス・フォード・コッポラらによるフィルム保存運動の流れの中で実現した。ペキンパーの名誉回復は、監督のヴィジョンを尊重するという新たな産業倫理をうながした。ワーナーはこの作品以降、スタジオによる再編集を避け、ディレクターズ・カットを尊重する方向へと転換する。つまり『ワイルドバンチ』は、ハリウッドにおける“作家主義の制度化”を後押しした記念碑でもあるのだ。■ 『ワイルドバンチ【ディレクターズカット版】』© 1969 Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved.
-
COLUMN/コラム2025.10.15
観客を“タイムトラベル”に誘う…。『ある日どこかで』のはじまり、そして名作として花開くまで
1972年。劇作家志望の大学生リチャード・コリアは、初公演の打上げで、多くの人々に囲まれ、称賛を受けていた。 そんな彼を、品のある老女がじっと見つめていた。彼女はリチャードに近づくと、一言。 「私のところに、帰ってきて」 見も知らぬ老女の言葉に、リチャードはただただ驚く。老女は彼の手に、懐中時計を握らせ、そのまま去っていった…。 1980年。劇作家として成功を収めたリチャードだったが、スランプで書けない状態に陥っていた。 気分転換にと、一人旅に出た彼は、ドライブの途中で見かけた、グランド・ホテルへの宿泊を決める。そして時間潰しのために寄った、ホテルの資料室で、1枚のポートレート写真に、心を鷲づかみにされる。 そこで微笑んでいる、若く美しい女性は、エリーズ・マッケナ。かつて一世を風靡した、舞台女優だった。 リチャードが彼女のことを調べると、実は8年前に出会った老女と、同一人物だとわかる。そして彼女は、リチャードに時計をプレゼントした夜に、この世を去っていた…。 ***** 本作『ある日どこかで』(1980)の原作・脚本を手掛けたのは、リチャード・マシスン(1926~2013)。小説家としては、1950年24歳の時にデビューし、現在までに3度映画化された「アイ・アム・レジェンド」(54)や、「縮みゆく人間」(57)「奇蹟の輝き」(78)など、SFホラーやファンタジーの名作をものしている。更にはウエスタンやノンフィクションまで、長年に渡ってジャンルを横断する活躍を見せた。 脚本家としても、TVシリーズの「トワイライト・ゾーン」(1959~64)、エドガー・アラン・ポー原作の映画化作品『アッシャー家の惨劇』(1960)『恐怖の振子』(1961)などをはじめ、数多くの映画、TVドラマを手掛けている。 マシスンは、モダンホラー小説の巨匠スティーヴン・キングが、「私がいまここにいるのはマシスンのおかげだ」と語るような、偉大な存在であった。 小説「ある日どこかで」執筆のきっかけは、マシスンが妻子との旅行中、ネバダ州のパイパー・オペラハウスに立ち寄った時に、初期アメリカ演劇に関する資料が展示してあったことだった。そこで彼は、モード・アダムス(1872〜1953)という名の、美しい女性のポートレートに、いたく興味を惹かれたのだ。彼女は、「小牧師」「ピーター・パン」などの作品に出演し、19世紀末から20世紀前半に掛けて高く評価された、舞台女優だった…。 ***** ポートレートの彼女=エリーズ・マッケナに会いたいという思いに取り憑かれたリチャードは、タイムトラベルの方法を探る。そして、“時間旅行”を研究する哲学者の教えを受ける。 自分がその時代に居る、その時代の人間であるという暗示を執拗に行ったリチャードは、遂に時空を越えることに成功。ポートレートが撮影された68年前=1912年のグランド・ホテルへと、辿り着く。 そこで初めて顔を合わせたエリーズは、リチャードにいきなり尋ねる。「あなたなの?」 彼女は彼の正体など知る由もなかったが、運命の男性が現れることを予感し、待っていたのだ。 しかし、惹かれ合う2人の前に、女優エリーズを育てたマネージャーの、ロビンソンが立ちはだかる…。 ***** 先に記した通り、エリーズ・マッケナのモデルになったのは、舞台女優モード・アダムス。本作ではクリストファー・プラマーが演じる、ロビンソンのモデルも、実在する。モード・アダムスをスターに押し上げた、彼女のマネージャー、チャールズ・フローマンである。 さてマシスンが書き下ろした原作小説は、シェークスピアの一文から引用した、「BID TIME RETURN」というタイトルで、75年にアメリカで出版。翌76年には、「世界幻想文学大賞」長篇部門受賞に至る。 映画化に乗り出したのは、プロデューサーのスティーヴン・ドイッチェ。彼は監督を、『ジョーズ2』(78)をヒットさせたヤノット・シュワルツに依頼した。シュワルツはかつて、マシスンが原作・脚本を担当したTVシリーズの演出を手掛けたことがあり、マシスンが推したと言われている。 映画化に当たっては、タイトルをより平明な、「SOMEWHERE IN TIME」に変更。ストーリーラインは、大筋では変わらないが、原作では主人公のリチャード・コリアが、TVドラマの脚本家だったのを、劇作家へと変更。またリチャードは、脳腫瘍のため余命幾ばくもないという設定があったのを、すっぱりとカットした。 物語の舞台となる年代は、原作では1971年と1896年だったのを、現在と過去のリンクをスムースに行うため、1980年と1912年に変更。また主人公と関わる登場人物も、足し引きされている。 リチャードは、タイムマシンなどを使わず、催眠や自己暗示によって時代を遡ろうとするのだが、そのやり方を教える哲学者は、原作には登場しない。このタイムトラベルの方法は、SF作家ジャック・フィニィの「ふりだしに戻る」(70)から戴いたものだが、フィニィは、マシスンが最も敬愛する書き手の1人。そのため本作では、リチャードが教えを乞う哲学者の名を、フィニィとしている。 原作小説に登場するホテルも、実在のものだったが、その近所は開発が進み、1912年のシーンを撮影するには、そぐわない状況だった。そこでドイッチェとシュワルツは、ロケ地をリサーチ。白羽の矢を立てたのが、ミシガン州のリゾート地に立つ、グランド・ホテルだった。 こちらは湖と湖の水路を結ぶ小さな島に、19世紀にオープン。この島では自動車の使用が一切禁止されていたため、道路や自然環境がその頃のまま残されていたのが、本作の撮影地として、最適だった。 ***** ロビンソンの執拗な妨害も乗り越えて、リチャードとエリーズは遂に結ばれる。幸せいっぱいの2人だったが、リチャードのちょっとした不注意から、不慮の別れが訪れる。 時空を超えた運命の恋人たちは、このまま永遠に引き裂かれてしまうのか? ***** クリストファー・リーヴは、『スーパーマン』(78)のヒーロー役でスターダムにのし上がったばかりの頃。彼のエージェントは、本作出演のオファーを受けた際、失笑を禁じ得なかったという。 無理もない。総製作費500万㌦の小品として、支払えるギャラは限られている。 エージェントに渡した脚本が、リーヴの元に届くことはないと、プロデューサーのドイッチは判断。リーヴの泊まるホテルを直接訪ねて、脚本を本人に手渡すという、掟破りの挙に出た。 この賭けは見事に当たった。翌日ドイッチの元に、リーヴからリチャード役での出演を受けるという電話が入ったのである。 リーヴ同様、やはり脚本に魅せられて、エリーズ役を快諾したジェーン・シーモア。彼女は監督のシュワルツに、音楽の担当は是非ジョン・バリーにして欲しいと懇願した。 しかしバリーは、『007』シリーズで広く知られ、『野生のエルザ』(66)『冬のライオン』(68)でアカデミー賞を受賞した、“大御所”的存在。とても、雇える予算はない。 しかし諦めきれなかったシーモアは、旧知の間柄だったバリーに直談判でストーリーを説明。結果的に、「言い値」で引き受けてもらえることになったのである。 さて本作に於いて、小説を映画化するに当たっての変更点を、先に列挙したが、もう一つ大きな変更が行われたのが、“音楽”に関してであった。原作のリチャードは、グスタフ・マーラーをこよなく愛する青年であり、当初は本作でも、マーラーの「交響曲第9番ニ長調」をメインに使用する予定だった。 ところがマーラーだと、壮麗すぎて、小品の本作にはハマらないことが判明。そこでバリーの提案によって、ラフマニノフの「パガニーニのラプソディ」が使用されることになった。 この変更も効果的だったが、本作でのバリーの最大の貢献は、彼自身が作曲した、美しくも哀しい、メインスコアである。映画の世界観を決定づけたこの楽曲は、バリーが最愛の父と母を続けて亡くした直後に作られたもの。“喪失感”から癒えないままの作曲により、本作の作品世界を決定づける楽曲が生み出されたのである。 本作がアメリカで公開されたのは、1980年の10月。配給元ユニヴァーサルの、低予算の小品である本作に対する期待値は、ほとんど「ゼロ」に近かった。折しも俳優組合のストライキなども重なって、リーヴとシーモアによる宣伝キャンペーンさえ行われなかった。結果的に全米の興行収入は、970万㌦に止まる。 日本公開は、翌81年の1月。筆者はメインの公開館だった有楽町の丸の内松竹で鑑賞したが、公開初日の土曜日なのに、客席が淋しかったことを記憶している。実際に2週間足らずで、上映は打ち切られている。 このまま消え去ってしまっても、おかしくない存在だった『ある日どこかで』。しかしアメリカでは、ケーブルテレビでの放送やレンタルビデオによって、徐々に「隠れた名作」として、カルト化していく。 日本では、だいぶ趣は違うものの、同じく“タイムトラベルもの”の『タイム・アフター・タイム』(79)などと名画座で併映されることが多かった。そうした場から、ファンが増えていったような感触がある。 そしてアメリカでは、1990年に熱い作品愛を持った者たちが集うファンクラブが、スタート!公式ホームページなどを通じて、世界的な規模にまで膨らんでいく。 映画の公開月となる10月になると毎年、物語の舞台となったミシガン州のグランド・ホテルには、世界中からファンが集結。映画の上映会が催される。今年は公開から45年、原作が発表されてからちょうど50年という節目もあって、例年以上の盛り上がりを見せているという話も聞く。 そもそも良き映画、名作と謳われる作品は、観客にとって、それを観た時の状況などと相まって、強く印象に残ることが多い。つまり当時の自分へと、“タイムトラベル”をさせてくれる装置として働くわけである『ある日どこかで』初公開時、高校生だった私は、当時片想いしていた女の子が、クリストファー・リーヴのファンだった。彼女に懇願されて、ガラガラの映画館へと赴いたわけだが、本作を観る度に、その当時の甘酸っぱい想い出が、甦る。 本作に於いては、主演の美男美女コンビ、クリストファー・リーヴも、ジェーン・シーモアも、30歳手前の、まさに盛りの時期である。リーヴは後年、不幸な落馬事故で半身不随になってしまったことなども考えると、最も「美しい」頃が閉じ込められた“タイムカプセル”のようなこの作品への愛おしさが、一層強まる。 時節柄“ルッキズム”などと誹られるかも知れないが、映画による“タイムトラベル”の中でも本作『ある日どこかで』は、極上の旅に誘ってくれる1本なのである。■ 『ある日どこかで』© 1980 UNIVERSAL CITY STUDIOS. ALL RIGHTS RESERVED
-
COLUMN/コラム2025.09.29
近い将来、本当に起きうる?AI搭載ハイテク少女人形の大暴走!『M3GAN/ミーガン』
ハリウッドの2大ヒットメーカーが贈るキラー・ドール系ホラー 『パラノーマル・アクティビティ』(’07~’21)シリーズに『パージ』(’13~)シリーズ、『ハッピー・デス・デイ』(’17~)シリーズに『ハロウィン』(’18~’22)シリーズ、さらには『ゲット・アウト』(’17)や『透明人間』(’20)、『ファイブ・ナイツ・アット・フレディーズ』(’23)などのホラー映画を次々と大成功させてきた映画製作者ジェイソン・ブラムと、映画監督のみならず製作者としても自身が生んだ『ソウ』(‘04~)シリーズや『死霊館』(‘13~)ユニバースをフランチャイズ化させ、『ライト/オフ』(’16)や『THE MONKEY/ザ・モンキー』(’25)などの話題作をプロデュースしているジェームズ・ワン。そんな21世紀のハリウッド・ホラー映画を牽引する2大ヒットメーカーが製作を手掛け、世界興収1億8000万ドル超えのスマッシュヒットを記録した作品が、AIを搭載したハイテク人形の暴走を描いた『M3GAN/ミーガン』(’22)である。 これまでにも、ワンが1作目と2作目を演出した『インシディアス』(’10~)シリーズや、ブライス・マクガイア監督の『ナイトスイム』(’24)でもタッグを組んだ2人。本作はジェームズ・ワンの製作会社アトミック・モンスターの企画会議で提案された無数のアイディアの中から、ワン自身がピックアップしてジェイソン・ブラムの製作会社ブラムハウスに持ち込んだ企画だったという。テーマはキラー・ドール(殺人人形)。人間を楽しませ癒してくれる玩具の人形が、反対に人間を襲って殺してしまう。そのルーツはトッド・ブラウニング監督の『悪魔の人形』(’36)ともイギリスのオムニバス映画『夢の中の恐怖』(’45)とも言われているが、しかしジャンルとしてポピュラーになったのは’80年代に入ってからのことだ。 口火を切ったのはスチュアート・ゴードン監督の『ドールズ』(’87)。殺人人形の群れが人間を血祭りにあげるという、どこか寓話めいたホラー・ファンタジー映画の佳作だった。同作をプロデュースしたチャールズ・バンドは、殺人人形軍団というコンセプトをそのまま受け継いだ『パペット・マスター』(’89)を製作し、現在までにシリーズ映画15本が作られたばかりか、フィギュアなどの関連グッズも販売されるというフランチャイズ・ビジネスを展開。この成功に味を占めたバンドは、さらなる二番煎じの『デモーニック・トイズ』(‘92~)シリーズもプロデュースしている。 とはいえ、’80年代に興隆したキラー・ドール系ホラー映画の金字塔といえば、間違いなくトム・ホランド監督の『チャイルド・プレイ』(’88)であろう。殺人鬼の魂が乗り移った人形チャッキーはホラー・アイコンとなり、こちらも現在までに8本の映画と1本のテレビシリーズ、さらにはゲームにフィギュアにアトラクションにと関連ビジネスを拡大してきた。そもそもジェームズ・ワン自身、『デッド・サイレンス』(’07)というキラー・ドール映画を撮っているし、代表作『死霊館』シリーズにおいてもアナベルというインパクト強烈な恐怖人形を描いている。ただ、従来のキラー・ドールが主に呪術や魔力で動くスーパーナチュラルな存在だったのに対し、本作に登場するミーガンは人間の少女ソックリに作られた等身大のAI人形。要するにアンドロイドである。 人間に仕えるべく開発されたAIやアンドロイドが、生みの親である人間に対して牙をむく。行き過ぎた科学の発展に警鐘を鳴らすコンセプトは、古くよりサイエンス・フィクションの世界で好まれ多用されてきた。そういう意味において、本作はキラー・ドール系ホラーであると同時に、マイケル・クライトン監督の『ウエストワールド』(’73~’76)シリーズおよびそのテレビリメイク『ウエストワールド』(‘16~’22)、ジェームズ・キャメロン監督の『ターミネーター』(’84~)シリーズなどの系譜に属するSFスリラー映画でもあるのだ。 持ち主を守るというミーガンの強い使命感が狂気へと…! 主人公は大手玩具メーカーに勤務し、最先端のハイテク技術を駆使した子供向けのオモチャを開発する技術者ジェマ(アリソン・ウィリアムズ)。目下のところ彼女が秘密裏に取り組んでいるのは、史上初の完全自律型ロボット人形となる「第3型生体アンドロイド(Model 3 Generative ANdroid)」、略してM3GAN(ミーガン)である。しかし、この極秘プロジェクトを知った上司デヴィッド(ロニー・チェン)は激怒。目先の利益にばかり囚われた彼は、ライバル企業との価格競争に打ち勝つべく廉価商品の開発を最優先させ、成功するかどうか定かでない高額なミーガンの研究開発を中止させてしまう。 そんな折、ジェマの姉夫婦がスキー旅行中に交通事故で死亡。ひとりだけ生き残った幼い姪ケイディ(ヴァイオレット・マッグロウ)をジェマが引き取ることとなる。動物や子供はどちらかというと苦手。そもそも人付き合いが得意ではなく恋愛とも縁遠いジェマは、寝ても覚めてもオモチャのことで頭がいっぱいの仕事人間だ。大好きだった姉の代わりにケイディを育てたいという気持ちは強いが、しかしどうやって彼女と接していいのか分からないし、仕事だって山積みである。仕方なくケイディにタブレットを与えて仕事するジェマだが、しかしそれは育児放棄も同然。少なからず罪悪感は拭えない。 そこで彼女に問題解決の糸口を与えてくれたのが、大学時代に開発した遠隔操作型ロボット、ブルースである。仕事部屋に飾ってあったブルースを見つけ、こんなオモチャがあったら他のオモチャなんて一生要らない!と喜ぶケイディ。そこでジェマは一念発起してミーガンの開発を再開。部下のコール(ブライアン・ジョーダン・アルバレス)やテス(ジェン・ヴァン・エップス)の協力を得て、いよいよ念願のAI人形ミーガンを完成させる。頑丈なチタン素材で骨組みが形成され、人間とソックリなシリコン製の肌で覆われたミーガンは、生体工学チップを搭載した高度な知能を持つ人型ロボット。自ら物事を考えて喋ったり行動したりする能力を持つばかりか、学習機能によって常に進化と成長を続けていく。その役割は子供にとって最良の友となり、親にとって最大の協力者となること。子供の世話やしつけをミーガンに任せることで、親は仕事や家事に専念できるのだ。 試作品に与えられた使命はケイディを守ること。両親の死後ふさぎ込んでいたいたケイディはミーガンのおかげですっかり明るくなり、肩の荷が下りたジェマはプロジェクトの成功を確信。上司デヴィッドや経営陣も賛同し、全社を挙げてミーガンの売り出しに力を注ぐことになる。だがその一方で、あまりにも密接なケイディとミーガンの間柄に、児童セラピストのリディア(エイミー・アッシャーウッド)は「このままだとケイディはミーガンをオモチャではなく保護者だと見なしてしまう」と警鐘を鳴らし、部下のテスも「ミーガンは親の支援役であって代役じゃない。子供との触れ合いが減るのは危険だ」と危惧する。 実際、ケイディは周囲の大人よりもミーガンを信頼して精神的に頼り切るようになり、ミーガンもまたケイディを守るという使命を全うするべく極端な行動に出ていく。やがて、ケイディの周辺で相次ぐ不可解な死亡事故。大切なケイディを傷つけようとする相手を、ミーガンが文字通り「排除」していたのだ。そのことに気付いたジェマは、ミーガンの危険な暴走を止めようとするのだが…? CGをなるべく排したミーガンの特殊効果にも要注目 監督に起用されたのは、世界各国のホラー&ファンタジー系映画祭で受賞したニュージーランド産ホラー・コメディ『ハウスバウンド』(’14)のジェラード・ジョンストーン監督。『マリグナント 狂暴な悪夢』(’21)や『死霊館のシスター 呪いの秘密』(’23)でも組んだ脚本家アケラ・クーパーと原案を書いたジェームズ・ワンは、当初より恐怖とユーモアの要素を併せ持つブラック・コメディ路線を意図しており、その点においてジョンストーン監督は理想的な人材だったという。確かに、ミーガンが突然ミュージカルのように歌い始めたり、クネクネとした奇妙な動きで踊ったり飛び回ったりするシュールな演出はかなりオフビート。だいたい、主人公ジェマが勤める玩具メーカーのファンキという社名だって、実在するアメリカの有名な玩具メーカー、ファンコの明らかなパロディだ。ジェマが開発したファンキのヒット商品ペッツが、昨今世界中でブームのラブブになんとなく似ているのは、まあ、奇妙な偶然みたいなものであろう。 そのジョンストーン監督曰く、本作は「21世紀の子育てについての倫理を問う物語」だという。我が子の相手をしている余裕のない多忙な保護者が、決して教育に良くないと分かっていながらも、ついついスマホやタブレットを与えてしまうのと同じように、お友達AI人形のミーガンを姪っ子ケイディに与えてしまうジェマ。本来ならば子供と向き合って成長を促すべきは、保護者であるジェマの大切な役割であるはずなのだが、しかし忙しさにかまけてその任務を怠ったがために、とんでもなく手痛いしっぺ返しを食らってしまうことになる。 あくまでもテクノロジーは人間の生活を便利に支えるもの。そこに依存してしまうことで様々な弊害が生じることは想像に難くない。ましてや、現実世界の様々な場面で既にAIが活用されている昨今、昔であれば空想科学の領域に過ぎなかったハイテク人形の暴走も、21世紀の現在では「そう遠くない未来に起きうる脅威」として強い説得力を持つ。そう、我々は既にSFの世界を生きているのだ。そういう意味で、ちょっとシャレにならない物語。だからこそ、ブラックなユーモアの要素が必要だったのかもしれない。 もちろん、己の使命に忠実すぎるがゆえに災いを招いていく狂気のAI人形、ミーガンの強烈なキャラクターも本作が成功した大きな要因であろう。もちろん、完全自律型の人型ロボットなどまだ現実には存在しないので、本作に出てくるミーガンも特殊効果の賜物。ただし、監督や製作陣の方針としてプラクティカル・エフェクトにこだわっており、アナログとハイテクを組み合わせたアニマトロニクスの技術が駆使されている。CGは主にワイヤーなど余計なものを除去するため使用。シーンごとにミーガンの上半身や腕など幾つものパーツが用意され、それを技術者たちが手動装置や無線機を用いて操作している。なので、表情の変化や目の瞬きなどもCG加工ではなく機械操作。ただし、ミーガンが飛んだり跳ねたり踊ったりする場面は、物理的にアニマトロニクスでは表現が不可能であるため、撮影当時11歳の子役兼ダンサー、エイミー・ドナルドがミーガンのマスクやカツラを被って演じている。 主演はアメリカで一世を風靡したHBOの女性ドラマ『GIRLS/ガールズ』(‘12~’17)でブレイクし、映画では『ゲット・アウト』のヒロイン役で知られる女優アリソン・ウィリアムズ。しかし圧巻なのは、予期せぬ事故で両親を失った少女ケイディを演じている子役ヴァイオレット・マッグロウだ。もともと「型にはまらない子供」であるため、両親の判断で学校へ通わず自宅学習していたケイディ。ただでさえ繊細で気難しい性格の少女が、両親の死による深いトラウマと悲しみを抱え、それゆえ全てを受け入れてくれる「親友」のミーガンに依存してしまう。その複雑な心情を演じて実に見事だ。■ 『M3GAN/ミーガン』© 2023 UNIVERSAL STUDIOS. All Rights Reserved.
-
COLUMN/コラム2025.09.17
トッド・フィールド16年振りの監督復帰作にして、ケイト・ブランシェット史上最高傑作!『TAR/ター』
映画監督のトッド・フィールドが、そのオファーを受けたのは、新型コロナのパンデミックが始まった頃だった。それは、クラシック音楽や指揮者を題材とするものであれば何でもいいという、至極漠然とした内容の依頼だった。 フィールドには、ずっと考えていたキャラクターがあった。それは、「子どもの頃に何が何でも自分の夢を叶えると誓うが、叶った途端、悪夢に転じる」という人物。クラシックの指揮者ならば、「ピッタリ」と思えた。 脚本を書き始めると、ある女優の顔がいつも思い浮かぶようになった。そして毎朝、椅子に座って執筆を進める際には、呟いた。「ハイ!ケイト、おはよう」と。彼の意中の人は、ケイト・ブランシェットだった。 ブランシェットは、『アビエイター』(2004)でアカデミー賞の助演女優賞、『ブルージャスミン』(13)で主演女優賞のオスカーを獲得している、現代の大女優。フィールドとは10年ほど前に出会って、主演作の企画を進めたが、諸般の事情で実現に至らなかった。 その際の打合せで、フィールドは知った。ブランシェットは一俳優のレベルを遥かに超えて、映画全体を理解する、フィルムメイカーのような視点を持っていることを。フィールドは彼女のことを、「我々の時代の偉大な知識人の一人」であると認識した。 フィールドは、元々は俳優。ウディ・アレンやスタンリー・キューブリックの作品に出演後、21世紀に入って監督デビューした。 第1作は『イン・ザ・ベッドルーム』(2001)、続いては、『リトル・チルドレン』(06)。この2作でフィールドは、アカデミー賞脚色賞にノミネートされた。 しかしそれから十数年。映画化を試みた企画は数々あれど、すべてが流れてしまっていた。 今回の脚本は、3ヶ月で書き上げた。しかし、ブランシェットが主役を受けてくれなかったら、きっと「作ることはなかった」と言う。 届いた脚本を読んだブランシェットからは、即座に「出演OK」との連絡が来た。こうしてフィールドの、映画監督としての空白期間が、更に伸びることは避けられたのだった。 ブランシェットが演じる主人公の名前を、そのままタイトルにした、本作『TAR/ター』(2022)は、こうしてトッド・フィールド16年振りの新作として、世に放たれることになった。 ***** リディア・ターは、もうすぐ50歳。世界的な交響楽団ベルリン・フィル初の女性首席指揮者を務め、“マエストロ”と呼ばれる 彼女は、“EGOT”。テレビのエミー賞、音楽のグラミー賞、映画のオスカー(アカデミー賞)、舞台のトニー賞のすべてを受賞している、数少ない人物の内の1人である。 ベルリン・フィルで唯一録音を果たせていない、マーラーの「交響曲第5番」を、遂にライブ録音し発売する予定が控える。自伝の出版も、間もなくだ。 多忙なターを、公私共に支えるのは、オーケストラのコンサートマスターでヴァイオリン奏者のシャロン。彼女はターの同性の恋人で、養女を一緒に育てている。 ターのアシスタントは、副指揮者を目指すフランチェスカ。ターの厳しい要求に、懸命に応えていた。 そんな時に、ターがかつて指導した若手指揮者クリスタが自殺を遂げる。彼女はターに性的関係を強要され、去って行った者だった。ターはクリスタが指揮者として雇用されるのを妨害するメールを、各所に送っていた。それらのメールは素早く消去したが、時同じくしてターは、夢とも現ともつかない、幻聴や幻影に襲われるようになる。 そんなターは新たに、ロシア人の新人チェロ奏者オルガに心惹かれるようになる。彼女を取り立てるような、ターの言動や行動に、周囲はザワつく。 忠実だと思われたフランチェスカだったが、新たな副指揮者に選ばれなかったことから、ターを裏切る。そしてターのセクハラやパワハラがマスコミで取り上げられ、ネットで炎上するようになる。 クリスタの両親からは告発され、パートナーのシャロンは、養女と共に去っていく。ターは窮地に追い込まれるが…。 ***** フィールドは、クラシック音楽界に実在する人物や団体、実際の事件や根深い権威主義、性差別をベースにして、脚本を執筆した。監修を務めたのは、高名な指揮者のジョン・マウチェリ。「指揮者は何を考えているか」の著者で、レナード・バーンスタインと親交が深かったことでも知られる。バーンスタインは、アメリカを代表する“マエストロ”で、本作ではターの師匠だったという設定になっている。 準備期間は、コロナ禍の真っ最中だったことから、逆に十分な余裕ができた。実際に撮影に入る9ヶ月前から、フィールドとブランシェットは、ディスカッションを行った。「脚本に登場する人間関係はどれほど取引的なものなのか?」「登場人物全員が力構造に対して無言を貫いているのではないか?」「人は偉大な人物の物語を見るのは好きだが、その人たちが転落していく姿も同じくらい楽しめるものなのか?」等々。こうして、リディア・ターの人物像が、鮮明になった。 フィールド曰くターは、「…芸術に人生を捧げた結果、自分の弱みや嗜好をさらけ出すような体制を築き上げてしまったことに気づく。彼女はまるで全く自覚がないかのように、周囲に自分のルールを強要する」。しかし、「自覚していたとしても、非道は許されない」というわけだ ブランシェットが、役作りの本格的準備に入ったのは、2020年9月。実在の女性指揮者たちに関する文書や映像を、漁った。それと同時に、ターはベルリン・フィルで指揮するアメリカ人という設定なので、オーストラリア出身のブランシェットは、ドイツ語とアメリカ英語のマスターに、勤しんだ。 ピアノと指揮は、プロフェッショナルから本格的に学んだ。ブランシェットは子どもの頃に、ピアノを習っていた。10代半ばに練習をサボったのがバレた際、ピアノの先生から、「あなたはピアニストではなく、俳優だと思う」と言われたことがあったという。ピアノについては、「いつかまた」と思ってはきたが、結局はこの機会まで「映画のためでないと」できなかったというのも、まさに“俳優”と言えるかも知れない。本作に登場するすべての演奏シーンは、ブランシェット本人が演じている。 クランク・インまで、1年足らず。実はその間、『TAR/ター』とは別に、2本の出演作の撮影があった。 ブランシェットは、昼間にそれらの撮影を終えた後、夜になると、フィールドに電話を掛けてくる。そしてその後、役作りのための各レッスンに挑んだのだった。フィールドが言うように、彼女は「独学の達人」であり、ターが「25年かけて身に付けたであろう見事な技術」を、1年足らずで「やってのけた」わけである。 ブランシェットは、夫で劇作家のアンドリュー・アプトンと共に、母国オーストラリアで最も権威がある劇団「シドニー・シアター・カンパニー」の芸術監督を務めていたことがある。こうした権力の座に就いた経験も、ターの役作りに寄与する部分が、少なくなかったという。 2021年8月、遂にクランク・イン!ブランシェットは、オーケストラを指揮するシーンから、撮影に入った。コンサートホールは、ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地で撮影。ロケ地は、ベルリン、ニューヨークと、東南アジア。 ブランシェットの“独学”は続き、1日の撮影が終わると、「ピアノに直行するか、ドイツ語とアメリカ英語の指導を受けに行くか、あるいは指揮棒の振り方を教わりに」出向いた。また撮影がない日には、スタントマンが運転する8台の車に囲まれながら、時速100キロで滑走する練習を積んだ。 ターの私生活のパートナーで、ヴァイオリン奏者のシャロン役には、ドイツからニーナ・ホス。ターのアシスタント、フランチェスカ役は、フランス人のノエミ・メルランが演じた。 映画の後半、ターの心を泡立たせる存在となる、ロシア人チェロ奏者オルガ役に、フィールド監督は、「ロッテ・レーニャとジャクリーヌ・デュ・プレを合わせたような人」を望んだ。 ロッテ・レーニャは、1920年代から30年代にかけて、ナチス台頭前のドイツのミュージカル舞台で活躍し、「ワイマール文化の名花」と謳われた、オーストリア出身の歌手で女優。映画ファンの中には、『007』シリーズ第2作『ロシアより愛をこめて』(1963)で彼女が演じた、強烈な悪役ローザ・クレッブを思い浮かべる方が少なくないだろう。 ジャクリーヌ・デュ・プレは、国民的な人気を得ながら、不治の病のため早逝したイギリスの女性チェロ奏者。伝記映画『ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ』(1998)では、エミリー・ワトソンが演じている。 オルガ役のオーディションには、多数の演奏家と俳優が参加した。選ばれたのは、実際にチェロ奏者として活動し、本作が俳優デビューとなる、ソフィー・カウアー。ロンドン郊外に住む、中流家庭出身の19歳だった。 フィールドは彼女のことを当初、オルガとは似ても似つかないと感じたが、演技を始めると、「彼女こそオルガだった」という。 イギリス人のカウアーは、ロシア訛りをYouTubeでマスターして、オーディションに臨んだ。そして役に選ばれた後も、演技への理解を深めるために、YouTubeを活用。名優マイケル・ケインの指導映像を参考にした。また彼女は、これ以上にない手本である、ニーナ・ホスやブランシェットの演技を、自分の撮影がない時もセットに来て、ずっとウォッチしていた。 ブランシェットはター役について、「…もうすぐ50歳で、人生において物理的にも抽象的な意味でも重要な変換期にいます。また、どの指揮者も未だかつて成し遂げたことのない野望も成し遂げようともしていますが、その時点でアーティストであり続ける唯一の方法は、そこから降りることだと悟ります」と語っている。 実際に様々なトラブルや軋轢が噴出することで、ターは名門ベルリン・フィルのTOPの座から降りざるを得なくなる。未見の方にはネタバレにもなるので詳しくは触れないが、ラスト、アジア某国でターが指揮する、ある趣向の演奏会の描写を観て、彼女が栄光の座から滑り置ちた象徴的なシーンと捉える方も少なくないだろう。 ブランシェットも脚本で初めて読んだ時、そのラストを、「なんて悲しいシーンなのか」と思った。しかしいざ撮影してみると、想像していたのとまったく逆で、「生命力にあふれた高揚感」を味わった。そして、「この結末こそ始まりである」と感じたという。 監督の解釈も、ブランシェットと同様で、ターはまだ、「自分の“楽器”を持っている」というものだった。 さてトッド・フィールドの16年振りの監督作となった『TAR/ター』は、完成してみると、「ケイト・ブランシェット史上最高傑作」と絶賛を集め、彼女に4度目となるゴールデン・グローブ賞、ヴェネチア国際映画祭女優賞、全米・ニューヨーク、ロサンゼルスの各批評家協会賞等々をもたらした。 アカデミー賞では、主演女優賞はもちろん、作品賞・監督賞・脚本賞・撮影賞・編集賞の計6部門でノミネートされた。しかしこの年のアカデミー賞は「エブエブ」旋風が吹き荒れ、『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』(2022)が、7部門もの大量受賞。その煽りを喰らって、ブランシェットもフィールドも、残念ながらオスカーを手にすることはできなかった。 しかし『TAR/ター』は、クラシック最高峰の楽団指揮者を最高の俳優が演じる、極上の音楽物であり、人間心理の“闇”を暴いた、背筋も凍るサイコ・サスペンスとして、観る者を強く揺さぶる作品。文字通りの「ケイト・ブランシェット史上最高傑作」として、一見の価値ありなのは、間違いない。■ 『TAR/ター』© MMXXII Focus Features LLC. All rights reserved.
-
COLUMN/コラム2025.09.05
デヴィッド・フィンチャーが再創造した“北欧ノワール” ー『ドラゴン・タトゥーの女』
◆物語と社会批評性を継受する 2011年に公開されたアメリカ映画『ドラゴン・タトゥーの女』は、スウェーデンの作家スティーグ・ラーソンによるベストセラー小説「ミレニアム」シリーズを、『セブン』(1995)『ソーシャル・ネットワーク』(2010)のデヴィッド・フィンチャーが新たに映画化した作品(以下「フィンチャー版」と記す)だ。既に同じ原作の映画『ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女』(2009/以下「スウェーデン版」)が存在する中での再映画化はさまざまなリスクを伴っていたが、フィンチャーは原作の骨格を忠実に守りつつも、独自の美学を通じて「再創造」と呼ぶべき成果を上げたのだ。 ストーリーは雑誌「ミレニアム」の発行責任者ミカエル・ブルムクヴィスト(ダニエル・クレイグ)が、大財閥ヴァンゲル家にまつわる失踪事件を調査するという出だしから始まる。40年前に行方不明となった姪のハリエットをめぐり、閉ざされた一族の屋敷に滞在することになった彼は、調査の過程でヴァンゲル家の暗い歴史や、連続殺人の影へと迫っていく。 そんな捜索の過程で協力者として現れるのが、背中にドラゴンのタトゥーを背負った天才ハッカー、リスベット・サランデル(ルーニー・マーラ)だ。彼女は社会から逸脱した存在でありながらも、鋭い知能と強靭な意志を武器に、ミカエルとの奇妙な信頼関係を築いていく。 優秀なジャーナリストでもあったラーソンの小説は、単なる推理ミステリーにとどまらず、スウェーデン社会に巣食う女性差別や企業不正、そして右翼過激派の問題を暴き出す社会批評の書でもあった。フィンチャー版もその精神を受け継ぎ、雪深い北欧の風景は閉塞感を象徴し、物語に冷徹なサスペンスを加える。特に孤立した島の屋敷という舞台は、閉ざされた共同体に潜む暴力性を可視化させ、観客に社会的なテーマを強く突きつける。そしてジャーナリズムの使命や女性への暴力といった問題は、リスベットの存在を通してより鋭く提示される。彼女は被害者であると同時に、加害者に報復する主体であり、男性中心社会に対するアンチテーゼそのものなのだ。 ◆キャラクター造形とビジュアル表現 フィンチャー版のリスベットは、ルーニー・マーラの徹底した役作りにより、オーディエンスに強烈なまでに印象付けられていく。特殊メイクに頼らず実際にピアスを装着し、肉体そのものを役に変貌させることで、彼女はリスベットの痛みや孤独、そして怒りを生々しく表現したのだ。そしてパンクな装いは単なるファッションにとどまらず、社会への抵抗の象徴として力強く機能している。彼女は正義の化身ではなく、矛盾と傷を抱えた人間として描かれることで普遍化し、観る者の共感を呼ぶのだ。 またリスベットは、ミカエルとの関係性も重要な要素として併せ持っている。倫理的で冷静なジャーナリストであるミカエルと、社会からはみ出した破天荒なハッカーであるリスベット。両者の対比は物語に緊張感を与え、協働の過程で生まれる信頼が、サスペンスを越境した人間ドラマを築き上げていく。フィンチャー版ではこの関係性が繊細に描かれ、観客に深い余韻を残す。そして最後にかかる「イズ・ユア・ラヴ・ストロング・イナフ?」(リドリー・スコット監督による『レジェンド/光と闇の伝説』(1986)米公開版のエンディングとして有名)のカバーは、彼女のミカエルへの思いを代弁する。 あなたの愛は、海の岩のように強いの?わたしは求めすぎなのでしょうかー。 映像面では、フィンチャーが得意とする冷徹な画作りが、このようなミステリアスで哀しい物語を支える。暗色を基調とした画面設計、緻密な構図、そして色彩の徹底的な管理によって、観客は常に居心地の悪さを覚える。それは同時に、真相を追う緊張感へと没入させるギミックでもある。オープニングで用いられた、トレント・レズナーとアティカス・ロスによる「移民の歌」のカバーをバックに、タールで全てが覆われていくタイトルシークエンス(担当は後に『デッドプール』(2016)で監督デビューするティム・ミラーとBlur Studio)は、その不穏な世界観をダイレクトに提示する。 なにより特記すべきは、映像が単なる美的表現ではなく、物語の精神とリンクしている点だ。例えばリスベットのクローズアップは悲しみを誇張するのではなく、冷たい解像感によって別の感情へと訴えていく。また雪景と屋内の色温度の対比は、歴史とトラウマの二項対立を象徴するものだ。フィンチャーはビジュアルそのものを論理の延長として用い、観客を心理的に操作しているのである。 ◆撮影技術とフィンチャーの哲学 そんなフィンチャー版を視覚的に成立させたのは、撮影監督であるジェフ・クローネンウェスのはたらきによるといって過言ではない。使用カメラはRED One MXとRED Epic。Epicの5K収録をベースとし、4K仕上げにすることで、後のポストプロダクションでのリフレーミングやスタビライズに耐えうる設計がなされていた。これはフィンチャーの「24fpsレベルでのPhotoshop」という持論を体現するワークフローである。つまり撮りきりではなく、多数のテイクを重ねたうえでショットを厳選し、後に微細な合成をおこない、俳優の目線や言葉を統合して一つの最適解としてのショットを作り上げていく。そんな映画制作そのものが、作中の調査プロセスと同型をなしているといえる。 またレンズは歪みが少なく高解像を得られるZeiss Master Primeを用い、冷淡な観察者の視線を実現している。加えて照明は低照度で設計され、肌はキーより一段落として血色を抑える。また雪景の反射光や、室内のタングステン光を意図的に対置させることで、北欧の自然と人間社会の軋みを視覚的にあらわした。特にヴァンゲル家の屋敷では、窓外の雪の白と室内の黄が衝突し、それが歴史に縛られる一族の暗さを暗喩している。 シーンごとの光の設計も緻密で、リスベットの部屋はモニター光や蛍光灯をそのまま活かし、鈍い冷気を画面に定着させている。マルティン・ヴァンゲル(ステラン・スカルスガルド)の地下室では、色温度を中庸に保つことで、血の赤や金属の反射を過剰に演出せず、むしろ抑制された冷淡さで恐怖を増幅させている。これは観客に「感情的な恐怖」ではなく「制度的な暴力の冷酷さ」を伝える表現であり、フィンチャーらしい残酷さの描き方といえるだろう。 こうした技術的な設計は、北欧ノワールの文脈を踏まえながらも、フィンチャーならではの哲学を付与している。寒色の自然光と制度的な暴力というテーマはそのままに、ジェンダーの力学を先鋭化し、視覚的な言語でリスベットの位置づけを表象する。わずかに外された構図、中心からのずれは、彼女が社会の枠に収まらない存在であることを示す視覚的な符号だ。 『ドラゴン・タトゥーの女』は、こうしてノワールミステリーの枠組みを借りながら、フィンチャーが撮影からポストプロダクションに至るまでを精密に再構築し、物語のテーマと制作プロセスが同型をなす点で独自性を放つ。リスベットがシステムの隙間から真実を構成するように、フィンチャーもまた撮影後のショットを再配列し、冷徹でありながらも強烈なリアリティを獲得する。そこに我々は、映画の内容とと視覚的美学の結節点を覚えるのだ。 本作は興行的な大ヒットには至らなかったものの、批評面では高く評価された。米アカデミー賞では編集賞を受賞し、撮影賞や主演女優賞にもノミネート。特にマーラの演技は絶賛され、リスベット像を新たな次元へと引き上げた。以後の続編(2018年公開の『蜘蛛の巣を払う女』)で別の女優が演じることになっても、その存在感は依然として鮮烈である。■ 『ドラゴン・タトゥーの女』© 2011 Columbia Pictures Industries, Inc. and Metro-Goldwyn-Mayer Pictures Inc. All Rights Reserved.
-
COLUMN/コラム2025.09.02
タイで起きた洞窟遭難事故を異なる視点で描いた2作品を徹底比較!『13人の命』『THE CAVE サッカー少年救出までの18日間』
世界の注目を集めた「タムルアン洞窟の遭難事故」とは? 2018年の夏、東南アジアのタイで起きた「タムルアン洞窟の遭難事故」。現地の少年サッカー・チームのメンバー12人とコーチ1人が、全長10キロメートル以上もあるタムルアン洞窟へ遠足に出かけたところ、折からの大雨で水位が上昇したため外へ出られなくなってしまったのだ。救出にはタイ王国海軍の特殊部隊のほか、世界各国からプロダイバーや各種専門家、ボランティアがおよそ1万人も集結。文字通り世界中のメディアが固唾を飲んで見守る中、ダイバー1人が命を落とすという悲劇に見舞われながらも、13名全員を無事に救出という奇跡の生還が成し遂げられた。あまりにもドラマチックな出来事だったこともあり、これまでに数多くのドキュメンタリー映画や劇映画、ドラマ・シリーズの題材として取り上げられてきたが、9月のザ・シネマではその中から地元タイで制作された『THE CAVE サッカー少年救出までの18日間』(’19)と、ハリウッドの巨匠ロン・ハワードが監督した『13人の命』(’22)の2本を放送。どちらも同じ事件を基にした劇映画ではあるが、しかし題材へのアプローチは大きく異なっている。そこで今回は、それぞれの映画の見どころを比較解説してみたい。 まずは遭難事故の顛末を駆け足で振り返ってみよう。そもそもの発端は2018年6月23日、タイ北部のチェンライ県にて地元の少年サッカー・チーム「ムーバ(野生のイノシシ)」に所属する11歳~17歳のメンバー12人と、25歳のアシスタント・コーチが近隣のタムルアン洞窟を訪れ、探索するために内部へと進入。ところが折からの大雨によって洞窟内の水かさが増したため、全員が外へ出られなくなってしまったのだ。子供たちの帰りが遅いことを心配した親からの問い合わせで、チームのヘッド・コーチが行方を捜したところ、遠足に誘われたものの参加しなかったメンバーの少年から事情を知らされたという。そして、洞窟の近くに子供たちの自転車が置き去りにされたままであることを確認したヘッド・コーチは、すぐさま事態を察知して当局に通報したのである。 『THE CAVE サッカー少年救出までの18日間』 すぐさまタイ海軍の特殊部隊が現地へ向かったほか、地元在住の英国人洞窟ダイバー、ヴァーン・アンスワースの助言でタイ当局は英国洞窟救助会議(CBRC)に救援を要請。さらに、沖縄駐留の米軍やオーストラリア、中国、ベルギー、フランスなど各国のダイバーや専門家などが駆け付けたほか、近隣住民たちもボランティアとして水抜き作業や炊き出しなどに参加する。遭難から10日目の7月2日、英国人ダイバーたちが行方不明の13人全員の生存を確認。チェンライ県知事とタイ海軍を中心とした救助本部は当初、洞窟内の水が引くか子供たちが潜水技術を習得するまで、時間をかけて救助するつもりだったそうだが、しかし雨季が訪れると洞窟内は水没してしまうし、すでに洞窟内の酸素低下も進行している。もはや一刻の猶予もなかった。 問題は少年たちのいる場所から洞窟の入り口まで5~6時間かかること。しかも洞窟内は極端に狭い上に、水中を潜って移動せねばならない。大人でも洞窟ダイビングの経験がなければパニックに陥ってしまう。そこで、英国人ダイバーたちの助言もあって極めて特殊な救出方法が採用される。それは、酸素マスクとボンベ、ダイビングスーツを装着させた少年らやコーチに相当量の鎮静剤を投与し、眠らせた状態にしてダイバーたちが運ぶというもの。洞窟内へ酸素ボンベを運ぶ際に、元タイ海軍特殊部隊のボランティア、サマーン・クナンが命を落とすという悲劇に見舞われるも、遭難発生から16日目の7月8日に救出作戦を決行。3日間に渡って慎重に作戦を遂行した結果、13人全員を無事に救い出すことができたのである。当時、この奇跡的な生還劇は日本でも大きく報道されたので、記憶にあるという人も少なくないだろう。 『THE CAVE サッカー少年救出までの18日間』 同じ題材でも着眼点によって大きく異なる作品に かように、世界中の人々に大きなインパクトを与えた「タムルアン洞窟の遭難事故」。発生の直後から各国のテレビで特集が組まれ、ドキュメンタリー番組も作られたようだが、しかし最初に劇映画化したのは地元タイで制作された『THE CAVE サッカー少年救出までの18日間』である。演出と脚本を担当したのはアイルランド人を父親に持ち、イギリスやハリウッドでも活躍するタイの映画監督トム・ウォーラー。バンコクを拠点にする彼の制作会社がプロデュースを手掛けた。やはり地元制作の強みなのだろうか、実際に事故の現場となったタムルアン洞窟での撮影許可を得て現地ロケを敢行。ただし、必要に応じて別の洞窟やスタジオ・セットでの撮影も行われたという。しかし、本作において最も特徴的なのは、アイルランド在住のベルギー人ダイバーのジム・ウォーニーや中国人ダイバーのタン・シャオロン、ポンプ製造会社社長など、実際の救出作戦に携わった人々が本人役で出演していることであろう。そのほかのキャストも、主にアマチュア俳優を起用している。ウォーラー監督の演出は徹底してリアル。カメラが被写体からあえて距離を置くことで、疑似ドキュメンタリー的な説得力を備えているのだ。 一方、事故から4年後に作られたのが『13人の命』。『アポロ13』(’95)や『ラッシュ/プライドと友情』(’13)など実録物映画にも定評のある巨匠ロン・ハワードが演出を手掛け、ハリウッドのメジャー・スタジオ。MGMがプロデュースを担当した。コリン・ファレルやヴィゴ・モーテンセン、ジョエル・エドガートンなどハリウッドの大物スターたちがダイバー役で出演。地元タイからも数々の有名スターが起用されている。タイ当局による脚本の検閲を避けるためもあって、主なロケ地はオーストラリアのクイーンズランド州。一部でタイ・ロケも行っているようだが、しかし本編の大部分はゴールド・コーストの各地をタイに見立てて撮影されている。洞窟内のシーンはスタジオに建設された巨大セット。救助に携わった英国人ダイバーのリック・スタントンとジョン・ヴォランセンが監修を務めた。『THE CAVE サッカー少年救出までの18日間』がドキュメンタリー映画風に仕立てられていたのに対し、本作はまさに王道的なハリウッド流の実録ディザスター映画。同じ遭難事故を描いているはずなのに、両者を見比べると全く違う印象を受けるのが興味深いと言えよう。 『13人の命』 恐らく最大の違いは両者の視点である。『THE CAVE サッカー少年救出までの18日間』が事故発生から救出作戦までの全容を客観的に俯瞰し、その経過を現場に携わった人々それぞれの視点から多角的に捉えることで、なんとしてでも少年たちを救いたい!という熱い想いで心を一つにしていく関係者たちの人間模様をエモーショナルに描いていく。本人役を演じるジム・ウォーニーに焦点を当てたシーンもあるにはあるが、しかし基本的には全員が主人公だ。それに対して、『13人の命』は英国人ダイバーたちを明確な主人公として設定。慣れない異国の地で官僚主義的な現地当局の対応に悩まされつつ、前例のない救出作戦に挑んでいく勇敢な男たちの英雄的な活躍をスリルとサスペンスとアクションたっぷりに描く。前者が作戦決行へ向けて奔走する人々の群像劇をメインにする一方、後者は困難を極めた救出作戦の克明な描写に重点を置いているのも印象的。作り手がどこに着眼点を置くかによって、同じ題材でもこれだけ異なった作品に仕上がるという好例だ。 ちなみに、どちらの作品も洞窟内に閉じ込められたコーチと少年たちが、どのようにしてサバイブしたのかという詳細が全く描かれていないのだが、これにはちょっとした「大人の事情」が絡んでいる。というのも、サッカー・チーム「ムーバ」の物語だけは先にNetflixが著作権を押さえていたため、『THE CAVE サッカー少年救出までの18日間』でも『13人の命』でも劇中で描くことが許されなかったのだ。結局、『13人の命』が劇場公開およびウェブ配信された直後の’22年9月に、Netflixはサッカー・チーム「ムーバ」の少年たちを主人公にしたドラマ・シリーズ『ケイブ・レスキュー: タイ洞窟必死の救出』を配信している。■ 『13人の命』 『13人の命』 © 2025 Metro-Goldwyn-Mayer Pictures Inc. All Rights Reserved. 『THE CAVE サッカー少年救出までの18日間』© Copyright 2019 E Stars Films / De Warrenne Pictures Co.Ltd. All Rights Reserved.
-
COLUMN/コラム2025.08.21
新たな“ロック伝記映画”を誕生させた、バズ・ラーマン監督とニュースターのコラボ!『エルヴィス』
“キング・オブ・ロックンロール”!ギネスが認定する、「世界で最も売れたソロアーティスト」である、エルヴィス・プレスリー。 1935年1月8日生まれ。幼い頃から、ブルース、ゴスペル、R&B、カントリーなど様々な音楽の洗礼を浴びた彼は、それらすべてを吸収し、新しい時代の音楽だった“ロックンロール”シーンを切り開いていった。彼が居なかったら、ビートルズもクイーンも、存在しなかったなどとも言われる。 1950年代中盤から70年代まで、紆余曲折ありながらも、高い人気を誇った。しかし77年、突然の心臓発作で、42歳でこの世を去ってしまう。そのあまりにも早すぎた死もあって、エルヴィス・プレスリーは、今でも語り継がれる存在となっている。 そんな男の伝説的な生涯を描くことにチャレンジしたのは、オーストラリア出身のバズ・ラーマン監督。『ダンシング・ヒーロー』(92)で監督デビュー後、ハリウッドに招かれ、『ロミオ+ジュリエット』(96)『ムーラン・ルージュ』(2001)などで、第一線に躍り出た。 ラーマンの少年時代、家族が経営する映画館では、毎週土曜にエルヴィスの主演作を上映していた。彼は早くから、“キング・オブ・ロックンロール”の魅力に、触れてきたのである。 ラーマンはエルヴィスの人生を、「3つのステージに分かれていて、それぞれ50年代、60年代、70年代にぴたりと収まる…」と分析。エルヴィスを背景に、50~70年代のアメリカを描くことを目指した。 エルヴィスは、貧しい白人の家庭に生まれて、黒人コミュニティの側で育った。そんな出自があってこそ、多様な音楽を呑みこみ、スーパースターに上り詰めたのである。「人種問題を扱わずに、エルヴィス・プレスリーを語ることはできない…」 それが本作を作るに当たっての、ラーマンの決意だった。 ***** 1997年。エルヴィス・プレスリーの元マネージャー、トム・パーカー大佐は、死の床に就いていた。薄れていく意識の中で、彼は、エルヴィスとの日々を振り返っていく。 54年、カントリー歌手のマネージャーだったパーカーは、ツアー先でエルヴィスと出会う。まるで黒人のように歌う白人歌手で、腰をくねらせて歌い踊る姿に、女性ファンは熱狂した。 専属マネージャーとなったパーカーは、その手腕で、エルヴィスを全米の人気者へと、仕立て上げる。エルヴィスは、初のNo.1ヒット「ハートブレイク・ホテル」から、スター街道を驀進する。 それと同時にエルヴィスは、“骨盤ダンス”“黒人のマネ”などと揶揄もされ、白人の権力者たちからは、敵視される存在となった。パーカーは、エルヴィスの刑務所送りを回避するために、徴兵令に応じさせる。エルヴィスは、2年間の兵役を務めることとなった。 軍隊生活を終えて、復帰したエルヴィスの主戦場はハリウッドとなる。しかし社会変革の波が押し寄せ、音楽の世界にもビートルズなどが登場した60年代後半になっても、パーカーの方針で、似たようなストーリーの、安手な作品に主演を重ねることとなる。音楽活動もパッとせず、エルヴィスは段々と、時代遅れの存在となっていく。 キング牧師、ロバート・ケネディ上院議員が相次いで暗殺された1968年。この年の12月に、エルヴィスはTVの特別番組に出演する。クリスマス・ソングを歌えというパーカーの強要を無視。自らの音楽的ルーツを探り、アイデンティティーを見直すチャレンジを行い、見事復活を果たしたのだが…。 ***** 大きな注目を集めたのは、“キング・オブ・ロック”エルヴィス・プレスリーを、誰が演じるのか?大役を射止めたのが、オースティン・バトラーだった。 エルヴィスが逝ったのは、1977年8月16日。バトラーが生まれたのは、その14年と1日後の91年8月17日だった。子ども時代から父と一緒に名作映画を観ていたバトラーは、10代の頃からTVドラマや映画に出演。憧れの俳優は「ジェームズ・ディーンとマーロン・ブランド」だった。 そんなバトラーが、クエンティン・タランティーノ監督の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(2019)の出演を終えた、2018年の暮れ。ロスの街を車で走っていたら、エルヴィスのクリスマスソングが流れてきた。その時、同乗していた友人が言った。「いつか君はエルヴィスの役を演じるべきだ」 その数週間後に、同じ友人の前でピアノの弾き語りを披露すると、更に熱くプッシュされた。「何とか映画化の権利を手に入れてでもエルヴィスを演じてくれ」と。 数日後、バズ・ラーマンがエルヴィスの映画を作るという情報が、バトラーの元に届いた。もちろんオファーなど、受けたわけではない。しかしこのタイミングに運命的なものを感じた彼は、「自分のもてるすべてを捧げ、役をつかもう」と、決心したのだった。 エルヴィスのファンだった祖母の家で、子ども時代にその楽曲や主演映画に慣れ親しんでいたというバトラー。『エルビス・オン・ステージ』(1970)をはじめ、手に入る限りのドキュメンタリーやライブ映像を見て、関連する書籍も読み漁った。 そんな中で、自分が母を亡くした23歳の時に、エルヴィスも最愛の母を失ったことを知ったという。 本格的なオーディションなどが行われる前に、自らがエルヴィスの曲を歌った映像を撮って、ラーマン監督に送ることを決めた。最初は初期の代表曲「ラブ・ミー・テンダー」をと思ったが、いざ撮影してみると、単なるモノマネのようにしか思えず、恥ずかしくなってしまった。 そんな時に、亡き母が死にそうになる悪夢を見た。完全にダウナーになったバトラーは、その気分を何かにぶつけようと、ピアノを弾きながら歌ったのが、「アンチェインド・メロディ」。エルヴィスがコンサートなどで、再三披露した楽曲だ。バトラーは、恋人に向けられたその歌詞を、母に捧げるように、歌ってみせた。 ラーマン監督は語っている。「オースティンが涙を流しながら『アンチェインド・メロディ』を歌う録画テープを送ってきたんだ…」。 また、それを見たすぐ後、ラーマンの元に、それまでまったく知り合いではなかった“名優”から、電話が入った。電話の主は、デンゼル・ワシントン。ブロードウェイで共演したバトラーのことを、エルヴィス役に推す内容だった。 ラーマンは、バトラーと会うことを決めた。ニューヨークへと呼ばれたバトラーは、その初日にラーマンと、エルヴィスや彼の人生について3時間ほど話した。その後、台本読みや様々なスクリーンテスト、音楽や演技のワークショップを経て、数か月後正式に、エルヴィス役を射止めたのだった。 バトラーが、エルヴィスになり切るための日々が、本格化する。週6日のヴォイストレーニングは、1年以上続いた。 そうした訓練のかいもあってか、本作では、60年代以前の若い頃のエルヴィスの歌声は、バトラーのものを主に使用。時折エルヴィスとバトラー、2人の声を融合させている。 さすがに晩年近くの、力強く象徴的なヴォーカルは、エルヴィス本人の声を使う他はなかったが。 エルヴィスの細かい所作を徹底的に叩き込む役割を果したのは、ポリー・ベネット。『ボヘミアン・ラプソディ』(2018)で、ラミ・マレックがフレディ・マーキュリーになり切ることをサポートした実績の持ち主だ。 バトラーは、エルヴィスがインスパイアされたアーティストたちについても、徹底的にリサーチ。ビッグ・ママ・ソーントン、シスター・ロゼッタ・サーブ等々。更には、スピリチュアル音楽、オペラなど、エルヴィスに影響を与えた音楽を聴きまくった。 ラーマンと共に、ナッシュビルにロードトリップへと出掛けたのも、役作りの一環。バトラーは初めて、エルヴィスの妻だったプリシラ・プレスリーと会い、テネシー州メンフィスに在るエルヴィスの邸宅、グレイスランドを歩き回ったりした。 また、エルヴィスが270曲以上吹き込んだRCAスタジオを訪れた際は、彼が実際に使っていた機材で「ハートブレイク・ホテル」をレコーディング。その際にラーマンは、RCAの社員たちをスタジオに呼び込み、観客役を務めてもらった。バトラーは「見知らぬ人を前にしてパフォーマンスをする感覚」を、そこで体得したという。 本作は、2020年春の撮影開始が予定されていたが、コロナ禍で中断。そうした期間を含め、バトラーは3年近く、エルヴィス・プレスリーという役作りに取り組むこととなった。 本作で“信用できない”語り手を務めるのは、トム・パーカー大佐。エルヴィスは、パーカーとの縁を切ろうと再三試みるも、彼に多額の借金をしていたことから、結局は言いなりになる他はなかった。70年代に入って、ラスベガスのホテルでショーを続ける内に激太り。1977年8月に心臓発作に襲われて最期を遂げる。 ラーマン曰く、「“大佐”であったことはなく、“トム”でも“パーカー”であったことも一度もない」「音楽を聴き分ける耳を一切もち合わせていなかった」という、この世にもいかがわしい人物は、1909年オランダ生まれ。父を亡くした後、20歳の時に、アメリカに不法入国したとされるが、母国で殺人の嫌疑をかけられたため、アメリカに逃亡したという説も唱えられている。 国籍を取るために軍に入り、除隊後に、トム・パーカーと名乗るようになった。“大佐”というのも、愛称に過ぎない。エルヴィスが終生世界ツアーに出られなかったのは、パーカー大佐が、アメリカ合衆国のパスポートを保持していなかったためである。 パーカーは、音楽的センスは皆無だったが、エルヴィスのショーが若い観客に与える影響に魅了されたと、本作では描かれる。ラーマン監督はエルヴィスとパーカーを、「モーツァルトとサリエリのような関係…」と解釈。死の床にあるパーカーが、エルヴィスとの日々を回想する構成は、舞台から映画にもなった『アマデウス』(1984)から頂戴している。 難役である、このトム・パーカー大佐を演じたのは、アカデミー賞主演男優賞に2度輝く、トム・ハンクス。彼のキャリアでは極めて稀な、本格的な“悪役”と言える。 ハンクスのパーカー評は、「…天才であり、悪人でもあった。自制心の強い男であり、非常に賢いビジネスマンでもあり、10セント硬貨すら惜しむケチであったが、エルヴィス・プレスリーが登場するまで存在しなかった大型ショービジネスを開拓したパイオニアでもあった」というもの。 ハンクスはこの役を研究するために、プリシラ・プレスリーと話した。パーカーはエルヴィスの死後に、裁判でマネージャーとしての悪事を暴かれ、ギャンブル癖により財産を散財して亡くなっている。ハンクスはプリシラから、そんなパーカーへの不信感を聞けると期待したが、彼女のパーカー評は、予想とは違ったものだった。「彼はすばらしい人だった。今も生きていてくれたらいいのにと思う。私たちをとても大切にしてくれた。そして、それなりに“悪党”だった」 本作の撮影のほとんどは、オーストラリアはゴールドコーストのスタジオで行われた。バトラーが最初に撮影したのは、本作のクライマックスである、1968年12月のTVショーのシーンからであった。スタジオには、グレイスランドから、70年代にエルヴィスが伝説的なステージを行う、インターナショナルホテルのステージまで、見事なセットが組まれた。 本作の全米公開日は、エルヴィスの死後45年が経った、2022年の6月24日。バトラーの演技は、アカデミー賞の主演男優賞にノミネートされるなど絶賛され、ゴールデングローブ賞の授賞式の際は、徹底した役作りの影響で、エルヴィスの南部訛りが抜けていないことが、話題となった。 バトラーはその後、『デューン 砂の惑星PART2』(2024)など出演作が目白押し。順調にスター街道を歩んでいる。 バズ・ラーマン監督は、『ダンシング・ヒーロー』『ロミオ+ジュリエット』『ムーラン・ルージュ』で見せた絢爛豪華で「クレイジーな語り口」は抑えながらも、自らの特質を活かして、新たな“ロック伝記映画”のスタイルを確立したと、高く評価された。 エルヴィス・プレスリーという“伝説”の映画化によって、バズ・ラーマンとオースティン・バトラー、2人のキャリアには、それぞれの新たな1頁が開かれたのである。■ 『エルヴィス』©2022 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved
-
COLUMN/コラム2025.08.08
『ドミノ』=ハイコンセプトな心理スリラーの成立
「この作品のストーリーとタイトルは、ヒッチコック監督の『めまい』から着想を得ている。『ドミノ』のアイデアは、ロバートが“ヒッチコック風の映画を作りたい”と言ったことから始まったんだ。彼は“もしヒッチコックのキャリアが続いていたら、次にどんな作品を手がけていただろう”と考えたんだ」(※1) レヴェル・ロドリゲス(『ドミノ』作曲家。ロバート・ロドリゲスとプロデューサーの実子) ◆SF大作から、ウェルメイドな特殊能力映画へ ハリウッドが持つ資本力と高度なテクノロジーを最大限に活かし、日本の人気コミックを原作とする『アリータ:バトル・エンジェル』(2020/以下『アリータ』)を手がけた監督ロバート・ロドリゲス。ジェームズ・キャメロン(『アバター』シリーズ)が長年抱え続けてきた企画を実現させ、デジタルシネマの第一人者としてキャメロンの希求に応えたロドリゲスだったが、そんな彼が次回作に選んだ本作『ドミノ』は、『アリータ』とはじつに対照的な、小規模で実写ベースの心理スリラーだ。 だがプロットと物語は、かなりツイストの利いたものになっている。ベン・アフレック演じるオースティン警察の刑事ダニー・ロークは、3年前に7歳の娘ミニーが行方不明になり、自責の念を抱え続けていた。 ある日、そんな彼のもとに銀行強盗が計画されているというタレコミが入り、ダニーはその捜査に加わる。だが、現場に現れた謎の男(ウィリアム・フィクナー)を主犯と断定して追い詰めると、同行した警官が暗示をかけられたようにお互いを撃ち殺し、男は屋上から飛び降り姿を消してしまうー。 ダニーは逃走した人物の素性を知るべく、タレコミを入れた占術師ダイアナ(アリシー・ブラガ)に助けを求める。高度な読心能力を持つ彼女によれば、その謎の男はレブ・デルレーンといい、「ヒプノティクス」と呼ばれる精神操作で他者を意のままに操る、ダイアナと同じ秘密政府機関に所属していたというのだ。 映画はこうした出だしに始まり、ダニーは特殊能力で人を操る、脅威的な犯罪者との戦いを強いられていく。その過程で現実と錯覚の境界を揺さぶる世界へと踏み込み、彼は「現実そのものが仕組まれた幻なのでは?」という疑念へと追いやられていく。 ◆『めまい』に触発されて生まれた企画 本作のアイディアは、ロドリゲスがアルフレッド・ヒッチコックの古典的ミステリー『めまい』(1958)の1996年復元版を観たことが着想の起点だと語っている。同作は高所恐怖症の元刑事が、死んだ恋人とそっくりな女性に執着し、現実と虚構の狭間で憔悴していくサスペンスのマスターピースだ。ロドリゲスは35mmフィルム2倍の撮像領域を用いて高画質を得る「ヴィスタヴィジョン」を再現した高精細映像バージョンで『めまい』に触れ、創造力を大いに刺激されたのだ。 事実、『ドミノ』は『めまい』と、テーマやドラマ構造において似た点を持つ。主人公の認識の歪みや、幻想と現実の錯綜、失った愛する者への執着など、まさしく同じものを共有している。 しかしいっぽうで、『ドミノ』はロドリゲスらしさを強く主張する。たとえばストーリー前半の展開が後半にかけ、展開が意外な方向へと転じていく本作の構造は、彼が1996年に発表した『フロム・ダスク・ティル・ドーン』を彷彿とさせるものだ。本作も前半が犯罪スリラー、そして後半が吸血鬼ホラーとジャンルを越境していくサスペンスアクションで、『ドミノ』成立の布石として関係性を指摘できる。さらに視野を拡げれば、限られた制作条件をアイディアと表現力でカバーする姿勢は、7000ドルという低予算で制作された快作アクション『エル・マリアッチ』(1992)に通底するものだ。 なにより現実と見紛うバーチャル領域に誘導し、主人公を翻弄するこの映画の世界観そのものが、デジタルのマジックで我々をあざむくロドリゲスの演出スタイルを換言したものといえるだろう。 ◆ヒッチコックの嫡流、デ・バルマと共有する世界 それにしても、この『ドミノ』の、巧妙に人をサプライズへと導く手の込みようは尋常ではない。主役のダニー・ローク刑事を演じるベン・アフレックは、今やバットマン/ブルース・ウェインを当たり役に持つ人気俳優であり、おそらく誰もが本作で、彼は悲壮なヒーローを最後までまっとうするものと信じて疑わないだろう。いっぽうダニーを翻弄するトリックスターとして存在感を放つウィリアム・フィクナーは、『ダークナイト』(2009)でジョーカーにシマを荒らされるマフィアの構成員(表向きは銀行マン)が印象的で、その風体にはやがうえにもヴィランのタッチが染み付いている。こうした俳優のパブリックイメージも『ドミノ』の、物語を反転させる高等トリックの成立に一役買っているのである。 さらに面白いことに、『ドミノ』はヒッチコックはもとより、氏の嫡流であるサスペンスの巨匠ブライアン・デ・パルマの諸作と似たテイストを共有している。たとえば娘を誘拐されたことに脅迫観念を抱くダニーのキャラクター像は、デ・パルマが『めまい』に触発されて手がけた『愛のメモリー』(1976)の主人公マイケル(クリフ・ロバートソン)に同種の傾向が見られるし、政府の秘密機関が特殊能力者を手札にしようとたくらむ本作の中心的プロットは、デ・パルマが名優カーク・ダグラス主演で撮った超能力スリラー『フューリー』(1992)と異曲同工な印象を与える。むろんロドリゲスがこれらのテイストを拝借したのではなく(引用の意図は少なかれあったのかもしれないが)、ヒッチコックを創造の親とする彼らの作品が同じ轍を踏むところ、それは宿命的であり、作品がそう深掘りできる要素を含んでいるのを指摘したまでのことだ。 また前述でフィクナーの名を出す関係上『ダークナイト』に触れたが、同作の監督クリストファー・ノーランがハイコンセプトな諸作を連投してきたことが、ロドリゲスの先鋭的なたくらみに観客がすんなりと入り込めるベースを作っている。時間をさかのぼる編集で事件の真相に迫っていく『メメント』(2000)や、順行時間と逆行時間勢力の衝突を描いたタイムSF『TENET テネット』(2020)など、こうした先行者たちの野心的な試みが、奇異極まる『ドミノ』の存在を正当化させるのだ。偶然にも時空の歪みを捉えた同作の視覚表現が、夢の争奪戦を描いたノーランのスパイアクション『インセプション』(2010)のいくつかを連想させ、前掲のような論証への展開をうながしていく。 ◆なぜ『ドミノ』なのか? ちなみに、この映画の原題は先に触れた、人の心を操る「ヒプノティクス」(催眠)が本来のタイトルで、『ドミノ』は日本で独自につけられたものだ。ポスタービジュアルではベン・アフレックの背後にドミノ倒しの画像があしらわれており、それが影響して『ドミノ』が原題だと思っている人も少なくない。ご丁寧にも、このドミノ倒しの映像は劇中にも登場し、相手の心を圧倒的な能力で支配するヒプノティックを、ドミノ効果を持ち出して解説までしている。 しかも、このドミノは物語のサプライズ的な要素を含んでおり(それに関してここでは詳述を控えたい)、原題のわかりにくさをカバーする目的とはいえ、じつに秀逸な邦題だ。 なにより、この『ドミノ』というタイトルは、文頭のレヴェル・ロドリゲスが語るところの、本来のタイトルの目的を破壊することなく換言している。いわく、 「ヒッチコックは常に印象的な一語タイトルを得意としていた。『白い恐怖“Spellbound”』(1945)『めまい“Vertigo”』『サイコ“Psycho”』(1960)のようにね。「ヒプノティクス“Hypnotic”」というタイトルは彼にとって、すぐに浮かんだ素晴らしいアイデアだった。ただ問題は、ロバートがそのタイトルが何を意味するのか、それを必死に考えなければならなかった点だ」(※2) (※1)(※2)“Hypnotic” Composer Rebel Rodriguez on Scoring The Robert Rodriguez/Ben Affleck Head-Trip Thriller(https://www.motionpictures.org/2023/05/hypnotic-composer-rebel-rodriguez-on-scoring-the-robert-rodriguez-ben-affleck-head-trip-thriller/) 『ドミノ』©2023 Hypnotic Film Holdings LLC. All Rights Reserved.
-
COLUMN/コラム2025.08.04
青春ドラマとしても秀逸な‘80年代のスラッシャー映画を代表する傑作!『エルム街の悪夢』
ホラー映画ブームを牽引したスラッシャー映画群 空前のホラー映画ブームに沸いた’80年代のハリウッド。その背景には特殊メイクの技術革命と、ホームビデオの普及によるビデオソフト・ビジネスの興隆があったとされる。日進月歩で進化する特殊メイクは、かつてなら作り物然としていたモンスターの造形やスプラッター描写にリアリズムをもたらし、人々はより刺激の強い恐怖と残酷を求めるようになる。その結果、リック・ベイカーやトム・サヴィーニ、ロブ・ボッティンといった特殊メイク・アーティストたちが映画の看板としてスター扱いされるように。しかも、テレビ放送ではカットされる過激な恐怖シーンもビデオソフトならノーカットで楽しめるため、おのずとホラー映画の主な二次使用先はテレビからビデオへと移行。さらに、折からのビデオレンタル・ブームがホラー映画人気を後押しした。ゾンビからエイリアン、オカルトから狼男まで様々なサブジャンルがホラー映画の黄金時代を彩ったわけだが、中でも特にブームを牽引する存在だったのは「スラッシャー映画」である。 別名「ボディ・カウント映画」とも呼ばれ、凶暴で凶悪な殺人鬼が罪もない人々(主に能天気でチャラチャラした若者)を片っ端から血祭りにあげていく、その手を変え品を変えの人殺しテクニックでファンを熱狂させたスラッシャー映画群。ブームのルーツはジョン・カーペンター監督の『ハロウィン』(’78)とされているが、しかし起爆剤となったのは間違いなくショーン・S・カニンガム監督の『13日の金曜日』(’80)であろう。それまでのホラー映画というのは、あえて肝心な部分を見せないで不安や恐怖を盛り上げるというのが優れた演出のお手本とされた。特にメジャー・スタジオの映画は品位を保つため、血みどろ描写を見せすぎないことが暗黙のルール。ところが、パラマウント配給の歴然たるメジャー映画だった同作は、残酷な殺人シーンを細部まで見せまくって世界中に大きな衝撃を与えたのである。 関係者の予想をはるかに上回る大ヒットによって、即座にシリーズ化が決定した『13日の金曜日』。たちまち似たようなスラッシャー映画が大量生産されるようになる。しかも、2作目で初登場した連続殺人鬼ジェイソンがまたインパクト強烈で、おのずと第2・第3のジェイソンを狙った有象無象の殺人鬼たちがスクリーンで大暴れ。しかし、急速に盛り上がったブームは醒めるのも早く、ほどなくしてスラッシャー映画は飽和状態に陥ってしまう。そこへ現れたのが、カニンガム監督の愛弟子であるウェス・クレイヴン監督の『エルム街の悪夢』(’84)。夢の中で殺されると本当に死んでしまうという発想の斬新さも然ることながら、夢の世界を支配する変幻自在の殺人鬼フレディ・クルーガーというユニークなキャラクターの独創性、夢だからこそ何でもありの想像力豊かな恐怖シーンの面白さが大いに受け、製作費100万ドル強の低予算映画ながら全米興収5700万ドルを超える大ヒットを記録。傾きかけたスラッシャー映画の人気再燃に大きく貢献することとなったのだ。 少年少女の悪夢に巣食う殺人鬼フレディの正体とは? 舞台はアメリカ中西部の閑静な住宅地エルム街。女子高生ティナ・グレイ(アマンダ・ワイス)は、夜な夜な見る奇妙な悪夢に悩まされていた。鋭利な鉄製の爪がついた手袋をはめた、焼けただれた顔の不気味な男に追い掛け回されるという夢だ。しかも、夢の中で男にネグリジェを切り裂かれたところ、目が覚めると本当にネグリジェがズタズタとなっている。寝ている間に自分で裂いてしまったのか、それとも…?夢を恐れるあまり寝不足となった彼女は、そのことを学校の友人たちに打ち明けたところ、親友のナンシー(ヘザー・ランゲンカンプ)やその恋人グレン(ジョニー・デップ)もまた、同じ男の夢を見ていると知って驚く。 ある晩、ティナの母親がボーイフレンドとの旅行で家を留守にしたため、ひとりでは怖くて夜を過ごせないという彼女のため、ナンシーとグレンがティナの家に泊まることとなる。そこへ、ティナと付き合っている不良少年ロッド(ニック・コリ)が登場。ひとしきりセックスを楽しんだ後、ロッドと一緒に自室で寝ていたティナの夢に再び不気味な男が現れ、いよいよネグリジェだけではなく彼女の肉体を切り裂き始める。ベッドの中でのたうち回り、助けを求めて叫びながら血まみれになるティナ。驚いて飛び起きたロッドの目には、ひとりでもがき苦しむティナの姿しか映らず、何か得体のしれない力によって彼女が殺される様子をただ見ていることしかできなかった。ティナの悲鳴を聞いて駆けつけたナンシーとグレン。ドアを開けた2人はティナの無残な遺体を発見する。 警察は現場から逃走したロッドを殺人の容疑者として指名手配。捜査の責任者はナンシーの父親であるドナルド・トンプソン警部(ジョン・サクソン)だ。ナンシーの両親は離婚しており、彼女は母親と一緒に暮らしているのだが、母親マージ(ロニー・ブレイクリー)はアルコール中毒を抱えていた。しばらく学校を休んでいいというけど、こんな家に居たって気分が滅入るだけ。そう考えたナンシーが登校しようとしたところ、身を隠していたロッドが助けを求めて姿を現し、このチャンスを狙っていたトンプソン警部がロッドを逮捕する。自分を囮に使った父親へ腹を立てるナンシー。それに、いくら不良少年とはいえ、根は善良なロッドが人を殺すとは到底思えなかった。しかも、授業中に気付かぬうち眠ってしまった彼女は、夢の中であの不気味な男に襲われ、間一髪のところで目が覚める。夢の中でわざと火傷を負って、その痛みで眠りから覚めたのだが、気が付くと本当に火傷を負っていて驚くナンシー。夢の中で起きたことが現実になる。だとすれば、ティナを殺した犯人はロッドではなく夢に出てくる男かもしれない。 やがて留置所に入れられたロッドが不可解な死を遂げ、思い余ったナンシーは「夢の中に出てくる男」について両親に打ち明ける。そんなバカバカしい話が現実にあるわけない。寝不足のせいで変な妄想に取りつかれているのではないか。ろくでもない友達に影響されたのだろう。娘の切実な訴えに全く耳を貸さず、むしろ正気を疑うナンシーの両親。ところが、ナンシーから「夢の中の男」の特徴を聞かされた彼らは思わず狼狽する。それは、かつてエルム街の子供たちを次々と殺害し、法の裁きを逃れようとしたためエルム街の親たちによって始末された連続殺人鬼フレディ・クルーガー(ロバート・イングランド)だったのだ…! フレディの人物像や作品の世界観に影響を与えた監督の生い立ち 誰もが寝ている間に見る「夢」。しばしば恐ろしい悪夢を見るという人も少なくないだろう。もしも、その夢の中で起きた出来事が現実世界にも物理的な影響を与えるとしたら、夢で殺された人間が実際に死んでしまうことだってあり得るかもしれない。人間なら誰でも身近に感じる「夢」を、恐怖の根源としたことが成功の一因。しかも、本作では人が夢を見るプロセスや仕組みを正確に踏まえ、現実と似て非なる不条理な「悪夢」の恐怖世界を見事に映像化している。なかなか言葉では説明しづらい夢と現実の曖昧な境界線を、ちょっとした違和感や肌感覚の違いで表現していく映像センスの鋭さに舌を巻く。これは演出家の感性はもちろんのこと、撮影監督の技術力に負うところも大きいだろう。 さらには、自我に目覚め始めた思春期の繊細な若者たちが抱える不安と迷い、そんな我が子をいつまでも子ども扱いしようとする親たちとの深い溝といった、古今東西のどこにでもある普遍的なテーマをきっちりと描いた脚本の妙も見逃せない。しかも、親たちは子供を子供として過小評価し、なおかつ後ろめたい思いもあって重大な事実を隠していたため、大切な我が子らの命を危険にさらしてしまう。そう、かつて自分たちが手にかけた連続殺人鬼フレディ・クルーガーの存在だ。 性教育などはまさしくその好例だと思うが、大人が子供に必要な知識を与えないと不幸な結果を招くことになりかねない。未成年の望まぬ妊娠や性病感染などは知識不足が主な原因だ。子供の身を守りたいのであれば「知識」こそが最大の武器。そこにタブーがあってはならないのだが、しかし過保護な親ほど「子供にとって必要な知識と必要でない知識」を勝手に選別してしまう。そもそも、親とて所詮は長所も短所もある普通の人間。決して完ぺきではないし、常に頼りになるとも限らない。そのことに気付いたナンシーは腹をくくり、自分で自分の身を守るべく殺人鬼フレディに一人で立ち向かっていく。親から守られてきた子供が自立した大人へと成長する過程を、これほどの説得力で描いた作品もなかなかないだろう。 もちろん、冷酷非情な残酷さの中に奇妙なユーモアと愛嬌を併せ持つ殺人鬼フレディのユニークな個性、低予算ながら創意工夫を凝らした特殊メイクや想像力の限りを尽くした恐怖演出の面白さも功を奏したと思うが、しかしやはりどんなジャンルの映画であれ何よりも重要なのは脚本。思春期の悩みや親子間の溝などの普遍的な題材を描いた青春ドラマとして、本作がターゲットである若年層の観客から大いに支持されたであろうことは想像に難くない。実際、日本公開当時に高校生だった筆者は、主人公ナンシーの精神的な成長に我が身を重ねて共感しまくりだった。だからこそ世界中で大ヒットしたのだろうと強く思う。 ちなみに、『エルム街の悪夢』は’70年代末に起きた実際の出来事が元ネタになっているという。当時、ポル・ポト派の虐殺を逃れた若いモン族の移民男性らが、相次いで睡眠中に亡くなるという事件が発生。この不可解な現象をロサンゼルス・タイムズの記事で知ったクレイヴン監督は、中でも最後に読んだ記事のケースが強く印象に残ったという。それは難民キャンプにいた若者。誰かに殺されるという悪夢に悩まされていた彼は、恐怖のあまりもう2度と眠らないと家族に宣言。医者である父親が処方する睡眠薬も密かに捨てていた。しかし、寝ないにしても限度というものがある。ある晩、いよいよ寝落ちしてしまった彼を家族は寝室へ運び、ホッと胸をなで下ろしたのもつかの間、深夜になって叫び声が聞こえたので寝室へ駆けつけると、若者は既に事切れていたのだそうだ。この事件をヒントに生まれたのが、「夢の中で殺されると本当に死んでしまう」という本作の基本コンセプトだった。 殺人鬼フレディの名前は子供の頃のいじめっ子から拝借。クルーガーというドイツ風の苗字は、ナチスを連想させるという理由で採用したらしい。ただし、フレディというキャラクター自体は男性特有の破壊的な傾向、つまり「有害な男性性」の象徴だという。「男というのは守り育てるのではなく壊したがる」と語るクレイヴン監督。そこには、恐らく暴君だった彼自身の父親のイメージが映し出されているのかもしれない。厳格なバプテスト信者の家庭に育ったクレイヴン監督は、タバコやアルコールやダンスはもちろんのこと、映画もまた「悪魔の娯楽」として固く禁じられていたため、大人になるまで映画を見たことがなかった。中でも6歳の時に亡くなった父親は短気で暴力的な人物だったらしく、子供ながらにいつか本当に殺されると怯えていたそうだ。「フレディには危険な父親のイメージが重なる」というクレイヴン監督。そのうえで、「若さへの嫉妬と嫌悪」という中高年男性の典型的な思考パターンをフレディに投影したという。つまり、殺人鬼フレディは「純粋で未来のある若者が憎い」という妬みを原動力に凶行を重ねるのだ。恐らく、本作に出てくる大人たちが子供に対して無理解で独善的なこと、特に父親たちが偏見まみれで頑固で身勝手なのも、そうした監督自身の実体験を基にした大人像や父親像が大きく影響しているように思う。 劇場公開までの苦難の道のり 脚本が出来上がったのは’81~’82年頃(諸説あり)。既に『鮮血の美学』(’72)や『サランドラ』(’77)が興行的に成功していたクレイヴン監督は、ある程度の自信をもって各スタジオへ脚本を売り込んだのだが、しかし当時のスラッシャー映画は供給過多な状況だったため、どこへ行っても断られてしまったという。唯一関心を示したのが、当時まだ弱小の配給会社にしか過ぎなかったニューライン・シネマ。リナ・ウェルトミューラーやベルトラン・ブリエなどヨーロッパの名匠たちによるアート系映画を全米に配給したほか、日本の千葉真一が主演した和製カンフー映画『激突!殺人拳』(’74)シリーズをヒットさせたことでも知られる会社だ。当時はサム・ライミ監督の『死霊のはらわた』(’81)を配給して大成功したばかり。製作会社としての実績はまだまだ乏しかったが、しかし社長のロバート・シェイは『死霊のはらわた』みたいなホラー映画を自分でも作りたいと思っていた。なので、彼にとっては願ってもないチャンスだったのだ。 ただ、当時のニューライン・シネマには重大な問題があった。資金がまるで無かったのである。そこで、当時すでに妻子のいたシェイは自らの全財産を投入。家族や友人からも金を借りまくり、さらには企業からも出資を募るべく奔走した。スタッフも最初のうちはタダ働き。ライン・プロデューサーのジョン・バロウズは、クレジットカードのキャッシュサービスを利用してスタッフの給料を支払った。当時注目の若手俳優だったチャーリー・シーンがグレン役に関心を示したが、しかし週給3000ドルというニューライン・シネマとしては高額なギャラを要求されて断念。その代わり、無名時代のジョニー・デップを発掘できたのだから結果オーライである。クランクアップ予定日にまで撮影の終わるめどが立たず、かといってスケジュールを延ばせば予算が増えるため、一部シーンの撮影はクレイヴンの師匠ショーン・S・カニンガム監督に頼んだらしい。 さらに、音楽スコアを担当した作曲家チャールズ・バーンスタインへのギャラ支払いが遅れたため音源を渡してもらえず、当時出産したばかりだった共同プロデューサーのサラ・ライシャーが病院からバーンスタインに電話をして説得。これでようやく劇場公開にこぎ着けられる!と思ったら、フィルム現像会社への支払いが滞ったため、封切り1週間前にフィルムが差し押さえられてしまい、シェイ社長がなんとか現像所と話し合いをつけて解決した。そんなこんなで’84年11月9日に公開された『エルム街の悪夢』は前述のとおり大ヒットを記録し、これを足掛かりにしてニューライン・シネマはハリウッド・メジャーの一角を占める大企業へと成長する。その後の『ニンジャ・タートルズ』(’90)シリーズも『ラッシュ・アワー』(’98)シリーズも『ファイナル・デスティネーション』(’00)シリーズも、さらに言えば『ロード・オブ・ザ・リング』(’01)シリーズも『ホビット』(’12)シリーズも『死霊館』(’13)シリーズも、この『エルム街の悪夢』の大成功がなければ存在しなかったかもしれない。■ 『エルム街の悪夢』© The Elm Street Venture
-
COLUMN/コラム2025.07.25
現代の巨匠イーストウッド、監督生活50年のメモリアル『クライ・マッチョ』
ハリウッドの生きる伝説、クリント・イーストウッド。今年5月で、95歳となった。 俳優デビューは1955年。もう、70年も前の話だ。 暫し不遇の時を過ごした後、TVの西部劇シリーズ「ローハイド」(59~65)でブレイク。その後はヨーロッパに渡って、セルジオ・レオーネ監督の“マカロニ・ウエスタン”『荒野の用心棒』(64)『夕陽のガンマン』(65)『続・夕陽のガンマン』(66)の、いわゆる“ドル箱3部作”で、主演俳優の座に就く。 ハリウッド帰還後は、ドン・シーゲル監督の薫陶を受け、最大の当たり役でシリーズ化された『ダーティハリー』(71)などへの出演で、押しも押されぬ大スターとなる。 そして、『ダーティハリー』に主演する直前には、サイコスリラーである、『恐怖のメロディ』(71)で、監督デビューを飾った。 監督として“巨匠”と称されるようになるのは、『許されざる者』(92)以降。この作品と12年後の『ミリオンダラー・ベイビー』(2004)で、2度に渡って、アカデミー賞の作品賞・監督賞を受賞している。 監督生活50年にして、40本目の監督作(別の監督名がクレジットされているが、実質はイーストウッドが演出した作品やTVドラマなども含めると、40数本とカウントされる場合もある…)と謳われたのが、主演も兼ねた、本作『クライ・マッチョ』(2021)である。 実はこの作品が、イーストウッドの監督・主演作として世に出るまでには、長きに渡る紆余曲折があった。 はじまりは1970年代前半。N・リチャード・ナッシュが執筆した、「マッチョ」というタイトルの脚本だった。しかし売り込み先の映画会社に相手にされず、ナッシュはやむなく、「クライ・マッチョ」というタイトルに変えて小説化。75年に出版した。 これを読んで感銘を受けたのが、プロデューサーのアルバート・S・ラディ。『ゴッドファーザー』(72)などで知られる彼が、映画化権を獲得するに至った。 ラディが最初に、イーストウッドの元に『クライ・マッチョ』の企画を持ち込んだのは、1980年頃のこと。イーストウッドは、「登場人物の人間関係」や主人公であるマイク・マイロの「落ちぶれ具合」が気に入り、そんな主人公が、人生を取り戻すチャンスを得るのに、惹かれたという。 しかしこの役を演じるには、50歳の自分はまだ若すぎると、判断。自らは監督に専念して、主演にロバート・ミッチャム(1917~97)を迎えることを、提案した。しかしこのプランは、やがて立ち消えに。 その後『クライ・マッチョ』は、91年にロイ・シャイダー(1932~2008)主演で製作を開始したが、頓挫。2011年には、カリフォルニア州知事の任期を終えたアーノルド・シュワルツェネッガー(1947~ )の俳優復帰作として準備が進められるも、シュワちゃんの不倫・隠し子スキャンダルが祟って、中止の憂き目となった。 それでも映画化が諦めきれなかったラディの元に、1本の電話が入ったのは、2019年。「あの脚本、まだ手元にある?」その声の主は、イーストウッドだった。 最初のオファーから40年が経って、齢90を迎えんとしていた、イーストウッド。「今ならこの役を楽しんで演じられる」と、思ったのだという。 イーストウッドの監督・主演で、遂に映画化が実現することとなった。オリジナル脚本をできるだけ活かすという判断がされ、それ故にメインの時代設定が、1980年となった。 とはいえ、監督の意向を汲んでの、ある程度のリライトは必要となる。オリジナルを書いたナッシュは、2000年に87歳で亡くなっていたため、白羽の矢を立てられたのが、ニック・シェンク。 イーストウッド組には、『グラン・トリノ』(08)『運び屋』(18)に続いて、3度目の参加となるシェンク。彼は期せずして(?)、イーストウッドが自らの監督作で“老人”を演じた、非公式な三部作の、共通の書き手となってしまった。 ***** 1980年のアメリカ・テキサス。 かつてロデオ界のスターだったマイク・マイロは、競技本番での落馬や妻子の事故死など、重なる不幸もあって、いまや落魄の身。孤独な独り暮らしを送っていた。 そんな時マイロは、かつての雇い主で牧場経営者のハワードから、頼まれごとをする。今はメキシコに住む、別れた妻レタに引き取られた14歳の息子ラフォを、テキサスまで連れて来て欲しいという内容だった。 一歩間違えば、“誘拐犯”。しかしハワードに恩義のあるマイロは、断ることができなかった。 ラフォは、男の出入りが激しい母から逃れ、闘鶏用のニワトリ“マッチョ”と、ストリートで生活していた。そんな経緯から、猜疑心や警戒心が強く、迎えに来たマイロに対して、なかなか心を開かない。 そんな2人の、テキサスへの旅が始まった。国境へと向かうも、警察の検問を避け、レタの放った追っ手を躱すために、田舎町へと立ち寄る。 暫しこの地に身を隠すことを決めた2人は、食堂を営む女性マルタと知り合う。そして、何かと世話を焼いてくれる彼女とその家族と、交流を深める。 この町でマイロは、野生の暴れ馬を馴らす仕事を得る。彼は馬の調教を通じて、自分の知識と経験を、ラフォへと惜し気もなく伝える。2人の絆は、ぐっと深まっていった…。 このままこの地に落ち着くのも、悪くない。そんな気持ちも芽生えた2人が、国境を超える日は? ***** 一言で表せば、「老人と少年のロードムービー」である本作は、イーストウッドの様々な過去作を、想起させる作りとなっている。 まずは中年のカントリー歌手とその甥の旅を描く、『センチメンタル・アドベンチャー』(82)。年輩の者が若者に教えを施す、師弟関係を描いた作品としては、『ハートブレイク・リッジ/勝利の戦場』(86)『ルーキー』(90)など。血の繋がりのない寄る辺なき者たちが集って、“疑似家族”を構成していく物語としては、『アウトロー』(76)や『ブロンコ・ビリー』(80)。 “師弟もの”と“疑似家族”のミクスチャーである、『ミリオンダラー・ベイビー』(04)『グラン・トリノ』(08)は、もちろんだ。特に白人の年配者がエスニックの若者を鍛える構図は、『グラン・トリノ』が最も近いかも知れない。 付け加えれば、旅の男マイロと田舎町に暮らすマルタにロマンスが芽生える辺りには、『マディソン郡の橋』(95)を思い起す向きもあるだろう。 マイロがこんなセリフを吐くのにも、イーストウッド過去作とのリンクを感じる。「マッチョってやつは過剰評価されている。人生にはそれより大事なものがある。それに気づいた時には遅すぎるんだ」 イーストウッドは、かつて一線級のアクションスターとして、“マッチョ”に類した役どころを散々演じてきた。しかし歳を重ねるにつれて、それを裏返したような作品を、多く手掛けるようになった。このセリフは、そんな本人の述懐のようで、実に味わい深い。 因みに本作は、イーストウッドが亡きドン・シーゲルとセルジオ・レオーネに捧げた“最後の西部劇”『許されざる者』以来という、“乗馬シーン”がある。実際に馬に跨るのは30年振りだったという、イーストウッドだが、「あぶみに足をかければ、感覚は戻ってくるものだよ」と、悠然たる構えでチャレンジしている。 とはいえ、このシーンの撮影初日には、スタッフ全員が興奮したというのも、無理はない。ファンにしてみても、「感涙もの」である。 主人公マイロと旅をする14歳の少年ラフォ役に抜擢されたのは、長編映画出演は初めてだった、エドゥアルド・ミネット。はるばるメキシコシティからやって来て、何百人も参加したオーディションを勝ち抜いた。 ミネットは、乗馬の経験はなかったが、トレーニングを受けて、あっと言う間にマスターしたという。 マイロの元雇い主で、息子を連れてくることを頼むハワード役には、高名なカントリー歌手で、映画出演も多いドワイト・ヨーカム。イーストウッド曰くヨーカムには、「馬の扱いに慣れている雰囲気がある」とのこと。 田舎町の食堂の女主人マルタには、メキシコ人女優のナタリア・トラヴェンが、起用された。 タイトルロールである、ニワトリのマッチョは、11羽の調教された雄鶏が演じている。それぞれに得意技があり、あるトリは人の手に乗るシーン、あるトリは、合図と共に襲いかかるシーンといった風に、使い分けられた。 撮影はコロナ禍真っ最中の、2020年後半。イーストウッド組の常連スタッフを集め、あらゆる感染対策を講じて、行われた。ニューメキシコ州をメキシコに見立てた、ロケ撮影がメインだった。 そんな中で、イーストウッドと言えば…の“早撮り”で事は進められた。プロデューサーも兼ねるイーストウッドとしては、“早撮り”は、予算を安く上げるという効果もあるが、それ以上に撮影現場に於いて、「勢いを殺ぎたくない」「やる気やエネルギーを絶やしたくない」という、イーストウッド一流の演出術である。 ラフォ役のミネットはイーストウッドに、「監督の希望通りに演技する」と伝えたという。しかしそれに対する回答は、「いや、君の好きなように、心地良いと思う方法でやってくれ」というものだった。メキシコの新人俳優は“巨匠”から、自分自身でラフォ役を掘り下げる自由を与えられたのだ。 ドワイト・ヨーカムはイーストウッドについて、「…撮り直しを好まないと聞いていたけど、僕のアドリブや思い付きを大歓迎してくれた」と、コメントしている。 ・『クライ・マッチョ』撮影中のクリント・イーストウッド監督 本作は逃走劇でもある筈なのに、追っ手が間抜けで弱すぎることもあって、サスペンスはほぼゼロ。またイーストウッド作品には付き物だった、暴力もほとんど登場しない。 食い足りなさを感じる向きもあるかも知れないが、イギリスの「アイリッシュ・タイムズ」紙に掲載された、次の評論が本質を言い表している気がする。「ほとんどなにもせずにすべてを表現できる彼の才能は、年齢を追うごとに磨きがかかっている」 本作が最後の作品かと言われたイーストウッドだったが、94歳の昨年、本作とはガラっとタッチを変えて、これも十八番と言える“絶望シネマ”調のサスペンス『陪審員2番』(2024)を発表した。今度こそ引退と言われているが、まだまだ嬉しい“裏切り”を待ちたい。■ 『クライ・マッチョ』© 2021 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved