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COLUMN/コラム2025.07.03
『オペラ座/血の喝采』アルジェント全盛期の最後を飾る傑作ジャッロを109分の4Kリマスター完全版で!
イタリア産B級娯楽映画そのものが衰退期にあった’80年代 ダリオ・アルジェントのキャリアにおいて「最後の完璧な傑作(last full-fledged masterpiece)」とも呼ばれるジャッロ映画である。ご存じの通り、処女作『歓びの毒牙(きば)』(’70)で空前のジャッロ映画ブームを巻き起こし、非の打ちどころなき大傑作『サスペリアPART2』(’75)でブームの頂点を極めたアルジェント。その後、当時のパートナーであった女優ダリア・ニコロディの影響でオカルトに傾倒した彼は、現代ドイツのバレエ学校に巣食う魔女の恐怖を描いた『サスペリア』(’77)がアメリカでも大ヒットを記録し、さらにはジョージ・A・ロメロ監督のメガヒット作『ゾンビ』(’78)の出資・配給を手掛けるなどビジネスマンとしての才能も発揮。久しぶりにジャッロの世界へ戻った『シャドー』(’82)と『フェノミナ』(’85)も評判となり、ランベルト・バーヴァ監督の『デモンズ』(’85)シリーズではプロデューサーとしても成功を収めた。’70~’80年代のアルジェントは、映画人として文字通りの全盛期だったと言えよう。 ところが、ハリウッド資本でアメリカ・ロケを行った『トラウマ/鮮血の叫び』(’93)以降、批評的にも興行的にも著しく失速することとなってしまう。中には『スリープレス』(’01)のような隠れた名作もあるにはあるものの、しかしすっかり往時の才気も輝きも失ったアルジェント映画にファンは失望し続けることに。まあ、それでもアルジェントが新作を撮ったと聞けば、「むむっ、きっと今度こそは…」と微かな期待を抱いてしまうのが哀しきファンの性(さが)なのですけどね…。そんなこんなで、我らの愛するアルジェントがまだ乗りに乗っていた’80年代、その最期を飾った傑作がこの『オペラ座/血の喝采』(’88)だったのである。 なおかつ、当時はイタリア産B級娯楽映画が滅亡の危機に瀕していた時代でもあった。敗戦国イタリアの過酷な現実を徹底したリアリズムで描いた『無防備都市』(‘45)や『自転車泥棒』(’48)など、一連のいわゆるネオレアリスモ映画群で早くも戦後復興を果たしたイタリア映画界。その中からヴィットリオ・デ・シーカやルキノ・ヴィスコンティ、フェデリコ・フェリーニなどの世界的な巨匠たちが台頭し、そのフェリーニの『甘い生活』(’60)とミケランジェロ・アントニオーニの『情事』(’60)が、同じ年のカンヌ国際映画祭で前者がグランプリを、後者が審査員特別賞を獲得したことで、いよいよイタリア映画は黄金時代を迎える。 その一方で、’50年代半ばよりハリウッドの各大手スタジオがローマの撮影所チネチッタで映画を撮影するように。当時、スタジオ・システムの崩壊で経営の危機に瀕したハリウッド映画界は人件費削減のため、熟練の職人スタッフをいくらでも安く雇うことができ、なおかつ撮影機材も豊富に揃っている映画大国イタリアに注目したのである。そこでハリウッド式の映画撮影術を学んだ地元イタリアの映画人たちは、わざわざセットを作らなくても古代遺跡がそこらじゅう沢山あるという環境を活かし、古代ギリシャやローマの英雄を主人公にしたハリウッド風の冒険活劇映画を低予算で量産する。その中のひとつ『ヘラクレス』(’58)がアメリカでも爆発的な大ヒットを記録したことから、いわゆる「ソード&サンダル映画」のブームが巻き起こったのだ。これがイタリア産B級娯楽映画の原点だったと言えよう。 その後も、マカロニ・ウエスタンにユーロ・スパイ・アクション、ゴシック・ホラーにジャッロにクライム・アクションにソフト・ポルノにと、世界的なトレンドの傾向を敏感に取り入れながら、ハリウッドを向こうに回して低予算の良質なB級エンターテインメントを世界中のマーケットへ提供したイタリア映画界。ところが、スティーブン・スピルバーグやジョージ・ルーカスの登場によってハリウッド映画の技術レベルが格段にアップし、なおかつ’80年代に入って『インディ・ジョーンズ』シリーズだの『E.T.』だの『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズだのと、ハリウッドのジャンル系娯楽映画が特殊効果をふんだんに使った大作主義にどんどん傾倒していくと、さすがのイタリア映画も太刀打ちできなくなってしまう。例えば『ダーティハリー』(’71)のパクリはイタリアでも作れるが、しかし『ダイ・ハード』(’88)のパクリは技術的にも規模的にも極めて困難だったのである。 それでもなお、なんちゃって『コナン』やなんちゃって『マッド・マックス』、なんちゃって『ニューヨーク1997』などの低予算映画を頑張って作り続けたイタリア映画界だが、それこそ一連のルチオ・フルチ映画を例に出すまでもなく、作品の質はどんどん低下していくばかり。そうした中で唯一、ハリウッドに負けじと気を吐いていたのがアルジェントとその一派(ランベルト・バーヴァやミケーレ・ソアヴィ)だったわけだが、その勢いもそろそろ限界に近付きつつあった。実際、’90年代に入るとイタリアのジャンル系映画はほぼ死滅。職人監督たちは次々とテレビへ移行してしまう。よって、本作『オペラ座/血の喝采』はダリオ・アルジェント全盛期の終焉を象徴する映画であると同時に、長年世界中のファンに愛されたイタリア産B級娯楽映画の終焉を象徴する映画でもあったように思う。 オペラ「マクベス」の不吉なジンクスが血みどろの惨劇を招く…! 舞台はイタリアのミラノ。スカラ座ではヴェルディのオペラ「マクベス」のリハーサルが着々と進んでいる。これが初めてのオペラ演出となるホラー映画監督マルコ(イアン・チャールソン)は、本物のカラスを使用したアヴァンギャルドな演出で観客の度肝を抜こうと考えるが、しかし神経質で気位の高い主演のソプラノ歌手マーラ・チェコーヴァと意見が折り合わず、挙句の果てにリハーサルをキャンセルしたチェコ―ヴァが交通事故で大怪我を負ってしまう。代わりにマクベス夫人役を射止めたのは、チェコ―ヴァのアンダースタディを務める無名の新人歌手ベティ(クリスティナ・マルシラック)。この棚ボタ的な大抜擢に母親代わりのマネージャー、ミラ(ダリア・ニコロディ)は大喜びするも、しかしベティ本人はあまり表情が冴えない。というのも、「マクベス」の舞台は関係者に不幸を招くというジンクスがあるのだ。実際、本来主演するはずだったチェコ―ヴァは事故で重傷を負った。その直後から、ベティのもとには怪しげな電話がかかってくる。よりによってデビュー作が「マクベス」だなんて。ベティは何か不吉なことが起きるのではないかと不安で仕方なかった。 ほどなくしてオペラ「マクベス」は初日を迎え、マクベス夫人を堂々と演じ切ったベティは観客から大喝采を浴びる。スター誕生の瞬間だ。ところがその一方で、立ち入り禁止のボックス席に何者かが侵入し、気付いて追い出そうとした劇場スタッフが惨殺される。警察の捜査を担当するのは、熱心なオペラ・ファンでもあるサンティーニ警部(ウルバノ・バルベリーニ)。その晩、祝賀パーティを抜け出したベティは恋人でもある演出助手ステファノ(ウィリアム・マクナマラ)の自宅で過ごすが、しかしステファノが別室でお茶を入れている間に、正体不明の覆面殺人鬼に襲われる。粘着テープで口を塞がれたうえで柱に縛り付けられ、なおかつ目を閉じることができないよう目の下に針を貼り付けられたベティは、目の前でステファノが殺人鬼に殺される様子を強制的に見せられる。すぐに解放された彼女は、近くの公衆電話から匿名で警察へ通報。自ら名乗らなかった理由は、遠い過去の恐ろしい悪夢だ。幼い頃に有名なオペラ歌手だった母親を殺されたベティは、それ以来夜な夜な悪夢に悩まされたのだが、その夢の中に出てくる覆面の殺人鬼が今回の犯人とソックリだった。監督のマルコだけには真実を打ち明けるベティ。犯人は彼女の知人かもしれないと考えたマルコは、周囲を警戒するようにと忠告する。 その同じ晩、何者かが劇場の衣裳部屋へとこっそり侵入し、興奮して檻から逃げ出したカラスが数羽殺される。警察はその侵入者とステファノ殺しの犯人が同一人物だと考えるが、しかし手掛かりは何一つとして見つからなかった。さらに、同じような方法で衣装係ジュリア(コラリーナ・カタルディ・タッソーニ)が殺され、ベティは再びその一部始終を強制的に見せられる。犯人のターゲットがベティであることは間違いない。サンティーニ警部はベティの自宅に護衛の刑事を待機させるが、しかし警官を装った犯人によってミラが惨殺され、護衛のソアヴィ刑事(ミケーレ・ソアヴィ)も血祭りに挙げられる。自室へ追い込まれて逃げ場を失ったベティだったが、しかし以前からベティを秘かに見守っていた隣家の少女アルマ(フランチェスカ・カッソーラ)に救われ、古い通気口を伝って外へ脱出することに成功する。 なんとしてでも犯人の凶行を止めなくてはならないが、しかし警察はあまりにも頼りにならない。そこでベティとマルコは、劇場スタッフの協力を得て「ある秘策」を実行に移す。どういうことかというと、カラスに犯人捜しをさせようというのだ。高度な知性を持つカラスは、仲間を殺した犯人を覚えているに違いない。そこで、マルコたちは舞台演出を装ってカラスの大群を劇場に放ち、彼らに犯人を襲撃させようと考えたのだ。犯人は必ずや劇場のどこかでベティを見張っているはず。それを狙って罠を仕掛けようというわけだ。果たして、彼らの目論見通りに正体不明の殺人鬼を捕らえることは出来るのか…? 凝りに凝ったビジュアルに要注目! これはアルジェント作品において毎度のことではあるのだが、随所に明らかなご都合主義の目立つ脚本は賛否両論あることだろう。特に、劇場で焼死したはずの犯人が実は生きていました!現場で発見された焼死体をよくよく調べてみたらダミー人形だったのです!という終盤のどんでん返しに、悪い意味で腰を抜かした観客も少なくなかろう。共同脚本のフランコ・フェリーニによると、これは作家トマス・ハリスのハンニバル・レクター・シリーズ第1弾「レッド・ドラゴン」をヒントにした思いついたアイディアだったらしいが、あまりにも唐突過ぎて説得力に欠けたと言えよう。ただし、スイスを舞台にしたダメ押し的なクライマックスは、実のところストーリーの流れ上、必要だったのではないかと思う。どこか寓話的な本作のストーリーにおける本質は、毒親に育てられた主人公ベティが過去のトラウマと向き合い、長いこと自分を苦しめてきた悪夢を克服することで、毒親の呪縛からようやく解放されるという成長譚。その母親と関係のあった連続殺人鬼は、まさに過去から蘇った忌まわしき亡霊そのものであり、オペラ劇場を舞台にした直接的な対峙を経てスイスの大自然を背景に死闘を演じるというプロセスは、そこへ至るまでの彼女の精神的な成長を考えれば、極めて理に適ったものではないかと思う。 ちなみに本作、日本で劇場公開されたのは97分の短縮バージョンだった。これは出資元のオライオン・ピクチャーズが勝手に削ってしまったもので、当時は日本だけでなくアメリカやイギリスでもこのバージョンが上映されたらしいのだが、これがなんとも酷かった。例えば、母親から虐待を受けていると思しき隣家の少女アルマの伏線エピソードがごっそりカットされているため、この短縮バージョンだと唐突に現れた見ず知らずの少女がベティのピンチを救うという、まことに不自然かつご都合主義の極みみたいな展開になってしまう。筆者を含めて、このシーンに思わず首を傾げた観客は多かったはずだ。また、このバージョンではクライマックスの、スイスの大自然に戯れるベティが草むらでトカゲを解放してあげるシーンも削除されており、それゆえ「虐待を受けて育った少女が過去のトラウマから解放されるまでを描いた残酷なおとぎ話」という、アルジェントが本作で描かんとしたストーリーの趣旨も著しく損なわれてしまっている。公開時に賛否両論だった本作が正当な評価を受けるようになったのは、今回ザ・シネマでも放送される完全版がイタリア以外の各国でソフト化されるようになった’00年代以降のことだ。 その一方で、凝りに凝りまくったカメラワークは当時から非常に評価が高かった。本人も認めているように、もともともカメラで遊ぶの大好きなビジュアリストで、常にユニークなアングルや斬新なショットを創意工夫してきたアルジェントだが、本作ほど映像表現に技巧を凝らした作品はないだろう。中でも特にビックリしたのは、ドアの覗き穴を覗いていたベティのマネージャー、ミラが、向こう側の犯人に射殺されるシーン。アルジェントはわざわざ2メートルほどになる覗き穴の拡大模型を作成し、さらにはミラを演じる女優ダリア・ニコロディの右目と後頭部に特殊メイクを施して少量の火薬を仕込み、さらには彼女の遠く背後にある電話にも火薬を仕掛けることで、犯人の拳銃から発射された弾丸が覗き穴のシリンダーを突き破り、覗いているミラの右目から後頭部を貫通し、最終的に後方の電話機に当たるという一連の流れを、なんとスローモーションで一気に見せてしまったのだ。いやはや、変態ですな(笑)。 変態と言えば、犯人がベティの目の下にテープで幾つもの針を張り付けて目を閉じれないようにし、残忍な人殺しの一部始終を無理やり見せるという設定。なんて陰湿かつ変態なんだ!と思った観客も多いはずだが、実はこの設定、残酷シーンで目をつぶったり、手で目を塞いだりするなんてけしからん!せっかく苦労して撮ったのに失礼じゃないか!そんな不届き者の観客に無理やりでも残酷シーンを見せつけてやりたい!というアルジェントの強い憤りと願望から生まれたとのこと。これまた実に変態である。 さらなる見せ場としては、カメラがカラスの視点になって劇場を飛び回る終盤の「犯人捜し」シーンも印象的。ロケ地に使われたのはミラノのスカラ座ではなく、同じような規模で内装のソックリなパルマのレージョ劇場なのだが、このシーンの撮影では劇場の天井中央にあるシャンデリアを取り外し、その穴から複数台のカメラを装着した巨大な回転式クレーンビームを吊り下げて使用している。クレーンビームはリモートコントローラーで上下に移動でき、なおかつカメラもクレーンビームをレール代わりにして移動可能なため、それこそ自由自在に空を飛んでいるカラス視点の映像を撮ることができたのだ。 ショッキングだったのは、ウィリアム・マクナマラ演じる美青年ステファノが惨殺されるシーン。顎からナイフを突き刺す場面は古典的なトリックだとすぐに分かるが、しかしナイフの先が口の中へ突き抜けるクロースアップ・ショットはどうやって撮ったのか不思議だった。実はこれ、演じるマクナマラ本人の口から型抜きして作った、偽物の口を撮影に使用している。要するに、ダミーヘッドならぬダミーマウスだ。なるほど確かに、ブルーレイやDVDの該当シーンで映像を静止すると一目瞭然。よく見ると作り物である。 なお、撮影を担当したのは『ガンジー』(’82)でアカデミー賞に輝く名カメラマン、ロニー・テイラー。実はアルジェント、本作の撮影に入る数カ月前、オーストラリアで自動車メーカー、フィアットのCMを撮ったのだが、その際に広告代理店の手配したカメラマンがテイラーだった。3週間に及ぶ撮影期間中、映画について大いに語り合ったアルジェントとテイラーは意気投合。本作でも引き続きタッグを組むこととなり、以降も『オペラ座の怪人』(’97)と『スリープレス』で顔を合わせている。 大物オペラ歌手が顔を見せない意外な理由とは…? 当初、主人公ベティ役にジェニファー・コネリーを想定していたものの、しかし『フェノミナ』の二番煎じと思われることを恐れてボツにしたというアルジェント。ほかにも当時注目されていたオペラ歌手チェチリア・ガスディアも候補だったとか、一時はミア・サラに決まりかけたなどの諸説あるのだが、いずれにせよ最終的にはアルジェントの友人であるファッション・デザイナー、ジョルジオ・アルマーニの推薦で、スペインの若手女優クリスティナ・マルシラックに白羽の矢が立てられた。ところが彼女、最初からアルジェントに対して反抗的だったらしく、彼にとっては最も扱いづらい女優だったらしい。ただ、関係者のインタビューを総合すると、アルジェントだけでなくベテランのスタッフには同じく反抗的で、しかしウィリアム・マクナマラやコラリーナ・カタルディ・タッソーニなど同世代の若手共演者とは友好的だったらしいので、恐らくもともと「大人」に対して一方的な反感を持っていたのかもしれない。 そんなベティをオペラ歌手として指導し、正体不明の殺人鬼から守ろうとする演出家マルコ役には、『炎のランナー』(’80)で脚光を浴びたシェイクスピア俳優イアン・チャールソン。あのイアン・マッケランやアラン・ベイツも絶賛する天才的な役者だったが、本作の撮影中に交通事故を起こした際の病院検査でHIV感染が発覚し、その3年後に帰らぬ人となってしまった。サンティーニ警部を演じるウルバノ・バルベリーニは、イタリア有数の名門貴族バルベリーニ家の御曹司。『デモンズ』の主演でアルジェントに気に入られ、本作にも声をかけられたのだが、当初は演出助手ステファノ役をオファーされていたらしい。しかし、あっという間に殺されるような役は嫌だとアルジェントに直談判したところ、実年齢よりもだいぶ年上のサンティーニ警部役にキャスティングされたらしい。 そのステファノ役を演じるウィリアム・マクナマラは、『君がいた夏』(’88)や『ステラ』(’90)などで一時期注目されたハリウッドの端正な美少年俳優。当時の彼はイタリアとフランスの合作によるテレビの大型ミニシリーズ『サハラの秘密』(’87)に出演するためローマに滞在しており、招かれた業界パーティでたまたま知り合ったアルジェントに「ちょうど君にピッタリな役があるんだ!」と誘われたという。アメリカ人と言えば、衣装係ジュリアを演じるコラリーナ・カタルディ・タッソーニもニューヨーク生まれのイタリア系アメリカ人。父親がオペラ演出家、母親がオペラ歌手、祖父もプッチーニと組んだオペラ指揮者というオペラ一家の出身で、その父親がイタリアに活動の拠点を移したためローマで育ったという。彼女と言えば、なんといっても『デモンズ2』(’86)で最初にデモンズ化するサリー役のインパクトが強烈なのだが、あの演技を評価したアルジェントが彼女のためにジュリア役を書いてくれたという。これ以降、『オペラ座の怪人』と『サスペリア・テルザ 最後の魔女』(’07)でもアルジェントと組んでいる。 なお、フラッシュバック・シーンで犯人に殺されるブロンド女性は、『デモンズ2』でサリーの友達として顔を出していたマリア・キアラ・サッソ。大物オペラ歌手マーラ・チェコーヴァの助手を演じているイケメン俳優ピーター・ピッシュは、『デモンズ』の不良グループのメンバーだった。オペラの舞台裏シーンでは、その『デモンズ』でヒーローの親友役だったカール・ジニーの姿も。隣家の少女アルマの母親役は、『シャドー』で女性刑事を演じていたカローラ・スタニャーロ。本作の助監督を務めるミケーレ・ソアヴィも刑事とエキストラの1人2役で登場するし、そのソアヴィの無名時代からの親友で『アクエリアス』(’87)と『デモンズ3』(’89)に主演したバルバラ・クピスティも舞台関係者役で顔を出している。演出家マルコの恋人役は、当時アルジェントの恋人だったアントネッラ・ヴィターレ。ミラ役のダリア・ニコロディを含めて、アルジェント・ファミリー総出演という感じですな! ちなみに、結局最後まで顔が一切写らない大物オペラ歌手、マーラ・チェコーヴァだが、この役にはもともと大女優ヴァネッサ・レッドグレーヴが起用され、実際に撮影のため本人もローマまで足を運んでいたらしい。もちろん契約書にもサイン済み。彼女が関わる撮影期間は1週間の予定で、その分のギャラも支払われていた。ところが、1週間経っても出番がないことから、約束の期間が過ぎましたよということでレッドグレーヴはイギリスへ帰国。どうやら、製作陣は撮影開始までの待機期間を計算に入れていなかったらしい。えっ!まだ撮影始まってもいないのに帰っちゃったの!?と慌てても後の祭り。約25万ドルとギャラの金額も大きかったため、代役を立てる予算的な余裕などなかったことから、ミラ役のダリア・ニコロディが1人2役でチェコーヴァを演じることになった。ロングショットや下半身だけで顔を見せないのはそのためだ。 先述したように、オライオン・ピクチャーズが勝手に再編集を行ったことなどもあり、興行的には成功したものの心情的には失敗作だと考えていたというアルジェント。いつも以上に予算と情熱を注ぎこんだ企画だったため、当時はかなり落ち込んでしまったらしいが、今では自身のフィルモグラフィーの中で最も好きな作品の筆頭格だという。■ 『オペラ座/血の喝采』© 1987 RTI
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COLUMN/コラム2025.07.02
『フェイブルマンズ』と3人の映画監督
◆スピルバーグの半自伝作品 2022年に稀代のヒットメーカー、スティーヴン・スピルバーグが発表した映画『フェイブルマンズ』は、彼の長い監督生活の起点に触れる“自伝的要素“を含んだ作品であり、それを支えた家族の物語だ。スピルバーグのアバターともいえる主人公サミー・フェイブルマン(ガブリエル・ラベル)は、母ミッツィ(ミシェル・ウィリアムズ)から買い与えられた8ミリキャメラで、小規模ながらも映画を手がけていく。そして夢を支援する彼女と、現実的な父バート(ポール・ダノ)との間で板挟みになりながら、サミーはさまざまな人との出会いや経験、そして創作活動を経て成長していくのだ。両親の離婚問題や、自身のルーツに依拠する不当ないじめなど深刻なエピソードを交えながら、単なるパーソナルな成功談ではない、ひとりの青年の青春物語として映画は広い共感性へと通じていく。もちろん、その過程においてドラマチックな瞬間があり、映画は151分と長尺ながら、ひとときも観る者を飽きさせることはない。 ◆ジョン・フォードとの邂逅 稀代の天才監督は、なぜムービーキャメラを手にして映画の世界を目指したのか——? 作品はあくまでフィクションを建て前にしているが、ストーリーの軌跡や人間関係はスピルバーグの実人生に極めて忠実なものだ。ただその中で、あたかも創作であるかのようなエピソードが、本作のクライマックスとして置かれている。それが偉大な映画監督、ジョン・フォードとの出会いだ。 (以下『フェイブルマンズ』の結末に言及するので、鑑賞後にお読みいただくのが望ましい) 映画業界での働き口を求め、売り込みの手紙をありとあらゆるスタジオに送りつけたサミーは、CBSテレビジョンからの返信を頼りに『OK捕虜収容所』(第二次大戦中のナチス捕虜収容所を舞台にしたシットコム・コメディ)の共同製作者であるバーナード・ファイン(グレッグ・グランバーグ)に会いに行く。そして彼から、第三助手として雇おうかと打診されるのだ。ところが、やや反応が鈍かったサミーにファインは、「本当は映画がやりたんだろ。そうだ、向かいの部屋に史上最高の映画監督がいる」 と伝え、彼をその部屋へと通すのだ。 いったい「史上最高の映画監督」が誰なのか、サミーは釈然としないまま座って待機していると、背後にあるフレーム入りのポスター群が、その人物をゆっくりと特定していく。『駅馬車』…『我が谷は緑なりき』…『男の敵』…『捜索者』…『三人の名付親』…『静かなる男』…『怒りの葡萄』…『黄色いリボン』そして『リバティ・バランスを射った男』…。 それらを目で追い、高揚するサミーの気持ちを寸断するかのように、アイパッチを目にあてた男が入ってくる。そう、ジョン・フォードだ。秘書はサミーに向かって、「(会話は)5分ならいいそうよ、1分で終わるかもしれないけど」と言って、フォードとの対面を急かす。 そのときのフォードは葉巻を吸い、威嚇的な態度でサミーを一瞥するが、壁にかかっている自作のスチールを指して「地平線はどこにある?」とサミーに質問する。すると彼は「下です」と回答し、別のスチールを指して同様の質問をしたフォードに「上です」と答える。するとフォードは、 「いいか、よく憶えておけ。地平線をいちばん下に置けば面白い画になる。そして地平線を上に置いても面白い画になる。だが地平性を真ん中に置いたら、クソつまらない画になるんだ。わかったか? わかったらとっとと出ていけ!」 と、手荒に助言を放つのだ。 この『フェイブルマンズ』における印象的なクライマックスは、同作において極めて突飛で、フィクション性を強く感じさせるエピソードだ。ところが、じつは全てが事実だというのだから驚かされる。スピルバーグは2011年、イマジン・エンターテインメントのオフィスでおこなわれた映画『カウボーイ & エイリアン』のプロモーションで、同作プロデューサーのブライアン・グレイザー、ロン・ハワード、そして監督のジョン・ファヴローらと会談し、ジョン・フォードとの最初の出会いを語った。 それによると、スピルバーグはフォードと実際に遭遇したさい、彼は酔って顔全体にキスマークをつけ、オフィスに入って来たところを秘書が慌てて追い、ティッシュで拭き取ったという。そしてフォードは机の上に足をおろし、スピルバーグに対し「それで、キミは映画監督になりたいと聞いたが?」と訊ね、壁に飾られた絵画から地平線を見つけるよう要求したという。この一連のやり取りからもわかるとおり、フォードとの邂逅は、ほぼ映画でそのままに再現されていることがわかるだろう。 ただし細部で違いがあり、スピルバーグがフォードと会ったのはサミーと同じ18歳ではなく、15歳のときであり、さらにそれはファインの紹介によるものではなく、自身のいとこの一人が、たまたま彼の友人の友人の友人であったことから、このありそうもない出会いを得たという。 そもそもスピルバーグの業界入りは、『フェイブルマンズ』で描かれたように正統な手順を踏んでおらず、彼を語る上で伝説化されている。映画監督を志望していたスピルバーグは、ユニバーサル・ピクチャーズの観光ツアーに参加した後、トイレ休憩のときにバックロットに潜入し、半年以上そこで働いているふりをしたという。そのことが布石となり、後年に彼はユニバーサル映画の社長だったシド・シャインバーグに自作の短編映画『アンブリン』(1968)を気に入られ、テレビ監督として契約を交わしたのだ。 ◆デヴィッド・リンチ出演の背景 こうしたジョン・フォードとの出会いをさらに説得力あるものにしているのが、異例ともいる配役だ。スピルバーグはフォード役に、カルト映画の帝王デヴィッド・リンチをオファーしたのだ。 もともとスピルバーグは、フォードのキャスティングに友人のベテラン俳優をあてようと考えていた。しかし脚本を担当したトニー・クシュナーの夫がリンチの起用を提案し、それをスピルバーグは素晴らしいアイディアだと称賛したのだ。そして自らリンチに連絡をとり、実現の運びとなったのである。ところがリンチは自作以外の出演には消極的だったため、スピルバーグはリンチと共通の友人である女優ローラ・ダーンに救いを求め、リンチの説得にあたったのだ。その狙いが功を奏し、リンチはスナック菓子のチートスと、衣装の撮影2週間前からの提供など変わった条件と共に出演を承諾。こうして、あの示唆に富む最後の5分間が生まれたのである。 リンチは英「エンパイア」誌の電話インタビューにおいて、オファーを受けた理由を以下のように語っている(※1)。出演を渋ったことに対しては、「わたしは演技に関して、意図的に距離を置いてきたんだ。ハリソン・フォードやジョージ・クルーニーのような俳優たちに、キャリアのチャンスを与えるべきだと考えていたからね」 とし、それでも出演した決め手を訊かれると、当該シーンが本当に気に入ったからだと述懐している。「ジョン・フォードなら、若い才能に指導をほどこすために、さまざまな知識や経験を活用できただろう。しかし彼は「地平線」のレクチャーを選んだんだ。じっさい画面中央に地平線があるのは、本当にクソつまらない画になるからね」 残念なことに、このインタビューから約一年後 リンチは78歳でこの世を去り、『フェイブルマンズ』は彼の最後のスクリーン出演となった。訃報が遺族からSNSを通じて発表された後、スピルバーグはアンブリン エンターテインメントを通じ、リンチへの感謝を込めた以下の追悼文を発表している(※2)。 「私はデヴィッドの作品の大ファンでした。『ブルー・ベルベット』『マルホランド・ドライブ』そして『エレファント・マン』――。これらは、手作り感あふれる独特の世界観で、彼が唯一無二のヴィジョンを持つ夢想家であることを証明しました。『フェイブルマンズ』でジョン・フォード役を演じてもらったとき、私は彼と知己を得ました。私のヒーローの一人であるデヴィッド・リンチが、私の別のヒーローを演じる――。それはとても現実離れした、まるで彼自身の映画の一場面のような不思議な体験だったんです。世界はこれほどまでに独創的で、ユニークなヴォイスを失うことになってしまったんです。彼の映画は既に時代を超えて生き残っており、これからもずっとそうあり続けるでしょう」 スピルバーグはフォードを崇拝すると同時に、同業者としてリンチに関心を寄せていた。その証として、両者の共同作業ともいえる「地平線」のシーケンスに、スピルバーグは二人を立てるようなオチを添えている。フォードに映画制作のヒントをもらったサミーはオフィスを後にすると、意気揚々とした態度でスタジオのバックロットを歩き出す。そのときの彼を捉えたショットが、なんとフォードが「クソつまらない画」と非難しリンチが共感した、真ん中の地平線を捉えていたのだ。そしてキャメラは、それに気づいたかのようにあたふたと、地平線が下に来るようフレーム修正の動きを見せるのだ。 この一連の演出には、スピルバーグらしいユーモアと謙遜の姿勢、そして未熟なサミーが失敗を繰り返しながら、先達から学んだことを糧にして映画界での成功を得る、そんな暗示が機能している。ひるがえってそれは、ジョン・フォードという偉大な映画人に尊崇の念を示しているのだ。 そしてデヴィッド・リンチは、そんなフォードが醸す神秘性と威圧的な存在感を、この『フェイブルマンズ』で見事に体現し、「地平線」のエピソードを説得力あるものにした。それにも増して、ガブリエル・ラベルがスティーブン・スピルバーグを投影したサミーを演じ、リンチがフォードを演じ、それをスピルバーグ本人が演出するという、巡るようなメタ構造を持つシチュエーションとして、本作を自伝作品以上の映画的価値を持つものへと発展させたのである。■ (※1)https://www.empireonline.com/movies/news/david-lynch-interview-john-ford-fabelmans-exclusive/ (※2)https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1028510489321633&id=100064880730053&set=a.634279698744716 『フェイブルマンズ』© 2022 STORYTELLER DISTRIBUTION CO., LLC. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2025.06.12
世界中で大ヒット!M・ナイト・シャマランの“ある秘密”路線第1弾!!『シックス・センス』
今年4月、俳優のハーレイ・ジョエル・オスメントが、公共の場での酩酊とコカイン所持で逮捕された。そして先頃、週3回の依存症者ミーティングに半年間の出席を義務付けられたというニュースが、飛び込んできた。 今回もそうだが、記事などに取り上げられる場合、必ず「『シックス・センス』…のハーレイ・ジョエル・オスメント」と紹介される。30代後半の今になっても、“天才子役”と謳われた時期の、1999年公開作のタイトルが冠せられるのである。 それはある意味、この作品の監督である、M・ナイト・シャマランにも共通する。彼の場合、その後何本もヒット作を出しているにも拘わらず、「『シックス・センス』…の」と、枕詞のように付いて回る。 これは本作『シックス・センス』が、初公開時にそれほどのインパクトを残した証左とも言える。 “シックス・センス=第六感”。人が備える5つの感覚=視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚を超えた、第6番目の感覚を指す。 1970年生まれ、まだ20代でそれまでは低予算作品しか手掛けてなかったシャマランが世に放った、3本目の長編監督作品。原作などはない、自作の“オリジナル脚本”の映画化だった。 日本公開で耳目を攫ったのは、本編上映前にスクリーンに映し出された、次の内容のスーパー。「この映画のストーリーには“ある秘密”があります。映画をご覧になった皆様は、その秘密をまだご覧になっていない方には決してお話しにならないようお願いします」 この前口上は、主演のブルース・ウィリスとM・ナイト・シャマランの両名によるものという体裁になっていたが、実は日本公開版にだけ付加されていた。これは、70年代後半から80年代に掛け、そのコケオドシ宣伝(失礼!)が、「東宝東和マジック」などと謳われた、本作の配給会社ならではの仕掛けであったことは、想像に難くない。 一部識者などからこの前口上は、「ネタバレを招く」などとも批判を受けた。しかし一般観客へのアピールは強かったようで、口コミの拡散にも大いに繋がったものと思われる。 また、「この映画のストーリーには“ある秘密”があります」というフレーズは、その後のシャマランのフィルモグラフィーを、実に的確に予見もしていた。 ***** 小児精神科医のマルコム(演;ブルース・ウィリス)は、子ども達の心の病を治療する第一人者として、名を馳せていた。 ある時、自宅で妻のアンナ(演:オリビア・ウィリアムズ)とくつろいでいた彼の前に、10年前に治療を担当していたヴィンセントが、現れる。ヴィンセントは「自分を救ってくれなかった」とマルコムをなじり、その腹を銃で撃つ。そして自らも、頭を撃ち抜くのだった。 1年後、ヴィンセントを救えなかったことで自分を責め続けたマルコムは、いつしか妻との間に大きな溝が生まれていた。彼女に話しかけても、すげなくされてしまう…。 そんな彼が新たに担当することになったのは、8歳の少年コール(演: ハーレイ・ジョエル・オスメント)。コールの症状は、かつてのヴィンセントに酷似していた。 実はコールには、死者が見えてしまう“第六感=シックス・センス”があったが、それを周囲に明かせないまま、怯え苦しみ、学校で「化け物」扱いされるまでに。更に、その事情を知らない母親リン(演;トニ・コレット)も、自分の息子の扱いに苦慮していた。 マルコムも、当初は幽霊の存在に懐疑的だったが、やがてコールの言葉を受け入れるようになる。2人は力を合わせて、死者がコールの前に現れる理由を探る。 そうした中でマルコムは、あまりにもショッキングな、“ある秘密”に行き当たる…。 ***** シャマラン監督は、インド生まれのフィラデルフィア育ち。両親とも医者の家庭だった。 8歳の時に8㎜カメラをプレゼントされ、16歳までに、45本の短編映画を監督。高校は首席で卒業し、有名医科大の奨学金にも合格していたが、ニューヨーク大学のアートスクールに進学し、映画の道に向かった。 子どもの頃は、家に帰ってドアが開いていると、「誰かが中に潜んでいるのでは…」と考えてしまうような、大の怖がりだった。『シックス・センス』は、シャマランのそんな幼少時の記憶がベースになっているという。 企画をスタートさせたのは、2本目の長編作品の仕上げ段階だった。シャマランの発言をすべて真に受けるならば、本作はその時点から、“第六感”めいたエピソードに事欠かない。 例えば劇中でコールが言う有名なセリフ~I see dead people=僕には死んだ人が見える~。しかしシャマランは、脚本から一旦削除した。少年のセリフとはいえ、幼すぎると感じたからだ。 しかしその時、「“声”が聞こえた…」のだという。「そのセリフを元に戻せ」と。結果的に~I see dead people~は、多くの観客の口の端に上る流行語となった。 シャマランは監督前作のポスプロ中に、その編集スタッフに、『シックス・センス』という脚本を書こうと思っていると、告げていた。その際に彼は、こんな予言をしていた。「主演はブルース・ウィリスになるよ、きっと」と。 もちろんそのスタッフからは、「あ、そう」と一笑に付された。監督として駆け出しのシャマラン作品に、当時すでにスーパースターだったウィリスが出ることなど、夢物語だったのだ。 シャマランは、『エクソシスト』『シャイニング』『ローズマリーの赤ちゃん』『反撥』などのホラー映画の名作に、様々な形でインスパイアされて、脚本を書き上げた。それをまだ無名な存在の彼自身が監督するという条件付きだったのにも拘わらず、ディズニーに300万㌦の高額で競り落とされた。こうして、ウィリスへの交渉ルートが開けた。 シャマランは、『ダイ・ハード』シリーズ(1988~)などで、一般的にアクションスターのイメージが強いウィリスのことを、「非常に芸域の広い俳優」と評価していた。元々はTVシリーズの「こちらブルームーン探偵社」(1985~89)のコメディ演技で人気となったウィリスを、ドラマティックな役やごく普通の人も演じられると、見込んだのである。 まずはウィリスに脚本を読んでもらった上で、面会という段取りになった。彼の主演を前提とした当て書きをしたシャマランも、さすがに極度の緊張状態に陥った。ところがそこにウィリスが現れると、いきなり「ノー・プロブレム」と口に出し、シャマランを抱きしめたのだという。 当時のウィリスは、悪たれ野郎のイメージが強かった。しかしそれと同時に、クエンティン・タランティーノの出世作『パルプ・フィクション』(94)に出演するなど、有望な新人監督の作品をチョイスする、目利きの側面もあったのだ。 1年前にシャマランの予言を鼻で笑った、件のスタッフは、ブルース・ウィリスが主演に決まった旨の連絡を受けて、ビックリ仰天することとなった。 この頃1本の出演料が2,000万㌦にも達していたウィリスの主演にも拘わらず、『シックス・センス』の製作費は、4,000万㌦程度に抑えられている。それはウィリスが、出演料を100万ドル以下にディスカウントしてくれたからである。その代わりに、映画がヒットして利益が出た場合には、歩合を貰う条件が付いた。結果的にウィリスの懐には、1億㌦以上が転がり込むこととなる。 ウィリスが演じるマルコムと並んで重要だったのは、コール少年役。シャマランは、オーディションで数多くの子役と面会したが、なかなかピンとくるものがなかった。 そんな時にシャマランの前に現れたのが、『フォレスト・ガンプ/一期一会』(94)で主人公の息子を演じたことで知られていた、ハーレイ・ジョエル・オスメント。シャマランはその演技を見て、すぐにOKを出した。『シックス・センス』の撮影は、シャマランの生まれ故郷で、アマチュア時代からずっと映画の舞台にしてきたフィラデルフィアで、42日間のスケジュールで行われた。市内の古い市民センターを拠点に、この地区の主な展示施設に、7つのオープンセットが組まれた。 オスメント演じるコールは、己の持つ“シックス・センス”のせいで、不幸でいつも暗い表情。笑顔は見せない。 これまでの作品では、自分の体験との共通項を見出して役を演じてきたというオスメントだったが、本作ではそれが不可能だった。そのため役作りとしては、「脚本を何度も読み返すしかなかった」という。 そこからが、さすが“天才子役”。オスメントは脚本を何度も読み返す内に、コールの考え方が理解できるようになっていった。そして撮影時には、スイッチをON・OFFするかのように、コールになったり自分に戻ったりできるようになったという。普段は普通の10歳の少年であるオスメントが、「“あと5分”で本番の声がかかったとたん、コールになりきってしまう」と、ウィリスも感心しきりだった。 因みにウィリスは撮影中、自分が映ってないショットでも、オスメントの見える所に居て、演技しやすいように協力したという。 さて本作は、1999年8月6日にアメリカで公開されると、5週連続で興行成績TOPを記録。全米で300億円、全世界で700億円稼ぎ出す、特大ヒットとなった。 アカデミー賞でも、作品、監督、脚本、助演男優(オスメント)、助演女優(トニー・コレット)、編集の計6部門でノミネート。“ホラー映画”というジャンルとしては、快挙と言える成果を上げた。 ブルース・ウィリスは本作がメガヒットとなったことについて、その第一の理由として、「ハリウッド映画の90%が何らかのかたちで“原作もの”であるなか、『シックス・センス』は完全に“オリジナル”なストーリーである…」ことを挙げている。しかし本作が、“オリジナル”と言い切れるかどうかは、実は微妙なのである。 さてここからは、日本公開版冒頭で謳われた、“ある秘密”に関わる話となってしまう。本作は非常に有名な作品なので、その“ある秘密=オチ”をご存知の方も多いであろうが、もしもまだ知らないのであれば、この後を読み進むのは、本作鑑賞後にした方が良いかも知れない。 『シックス・センス』の“ある秘密”は、ラストで明かされる。それはマルコムが、実は冒頭で腹を撃たれた時に死んでおり、それを本人が気づいていないということ…。 このプロットはシャマラン自身、TVの子ども向けホラー・シリーズから戴いたことを認めている。しかしそれ以上に、『恐怖の足跡』(62)という、それほど有名ではないホラー作品と「そっくり」であることが、指摘されている。 シャマラン作品はこの後暫し、「実は死んでいた」のバリエーションの如く、“ある秘密”が、物語のクライマックスで明かされるパターンが続いていく。「実は“不死身”だった」「実は“宇宙人”の仕業だった」「実は“現代”だった」等々。 どの作品も、「サプライズなオチ」目掛けて、ストーリーが進んでいく。そしてそれぞれが、元ネタと思しき、先行するB級作品を、識者から指摘されるところまで、同じ轍を踏んでいく。 そうこうする内に、段々とその展開に、強引さや無理矢理な部分が目立つようになっていく。やがてシャマランも、方針転換を余儀なくされ、現在に至るわけだが…。 何はともかく、シャマランの“ある秘密”路線の第一弾だった本作『シックス・センス』。その初公開時の衝撃は、当時の観客にとって、凄まじいものであった。それだけは、紛れもない事実である。■ 『シックス・センス』© Buena Vista Pictures Distribution and Spyglass Entertainment Group, LP. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2020.10.09
無敵のサイキック美少女の壮絶リベンジを描く韓流SFアクション!『The Witch/魔女』
徹底した娯楽精神と惜しみないサービス精神は韓国映画の強み さながら韓国版『ストレンジャー・シングス』もしくは『エルフェンリノート』である。『パラサイト 半地下の家族』(’19)がカンヌ国際映画祭のパルムドールとアカデミー賞の作品賞をダブルで制し、今や紛れもないアジア最大の映画大国となった韓国。その成功の秘訣は高い芸術性や自由で豊かな創造力など幾つも挙げられると思うが、中でも大きな強みとして欠かせないのは徹底した娯楽精神と惜しみないサービス精神だ。 近年のヒット作『新感染 ファイナル・エクスプレス』(’17)や『EXIT イグジット』(’19)、『エクストリーム・ジョブ』(’19)にしても、実はジャンルやプロットそのものは決して目新しくない。むしろ散々使い古されてきたものと言っても差し支えないだろう。しかし、韓国映画はそこに独自の視点で新たな“ひねり”を加え、アクションありユーモアありサスペンスありバイオレンスありの大盤振る舞いによって、極上のエンターテインメント作品へと昇華させるのが非常に上手い。このサイキック美少女アクション『The Witch/魔女』(’18)もまた同様だ。 先述した『ストレンジャー・シングス』や『エルフェンリノート』はもとより、『AKIRA』や『炎の少女チャーリー』、『スキャナーズ』などなど、似たような題材の映画やコミック、テレビシリーズを挙げればきりがないのだが、しかし「おっと、そうきますか!」というユニークな着眼点にワクワクさせられ、中盤のアッと驚くような“ひねり”に大興奮させられ、畳みかけるようなスリルとアクションとバイオレンスに圧倒される。これぞ韓国映画の醍醐味と言えるだろう。 謎の施設から脱走した少女の正体とは…? 物語の始まりは森に囲まれた謎の施設。責任者らしき女性ドクター・ペク(チョ・ミンス)が到着すると、そこは一面が血の海となっている。夜の闇に紛れて逃走する幼い少女。ドクター・ペクの手下ミスター・チェ(パク・ヒスン)率いる捜索隊が少女を追跡するも取り逃がしてしまう。どのみち少女は死んでしまうと言い残して去っていくドクター・ペク。その頃、森を抜けた少女は農場へとたどり着き、その姿を見かけた酪農家ク夫婦によって助けられる。 それから10年後。ジャユン(キム・ダミ)と名付けられた少女はク夫婦に育てられ、どこにでもいる平凡な女子高生として暮らしている。かつてアメリカ在住の建築家だった養父と養母は、交通事故で子供と孫を失っていたため、ジャユンには惜しみない愛情を注いできた。農場へ来る以前の記憶が一切ないジャユンだが、養父母だけでなく地元の住民たちからも可愛がられ、口が悪いけど気は優しい親友ミョンヒ(コ・ミンシ)と幸せで楽しい青春を謳歌しているようだ。 しかし、そんな彼女にも大きな悩みがあった。養父母の経営する農場が財政難に陥っていたのだ。そればかりか、ジャユンは定期的に起きる原因不明の激しい片頭痛に苦しみ、すぐに骨髄移植をしなくては余命2~3カ月だと医師に宣告される。だが、これ以上養父母に心配をかけるわけにはいかないと、ジャユンは病気のことを周囲には隠していた。なんとかして両親を楽にさせてあげたい。そう考えていたところ、ミョンヒからテレビのオーディション番組「スター誕生」の存在を知らされたジャユンは出場を決意。賞金を獲得して農場の借金返済へ充てることに望みを賭けたのだ。 愛らしい容姿と歌の上手さを活かして、見事に地方予選を勝ち抜いてソウルで行われる本選への出場を決めたジャユン。しかし、地方予選のテレビ放送を見た養父母は困惑する。というのも、審査員から特技を見せてくれと言われたジャユンは、マイクを宙に浮かせる“マジック”を披露したのだ。だが、これはマジックなどではなかった。幼少期から不思議な超能力を備えていたジャユンは、それを決して人前で見せてはいけないと養父母から固く注意されていた。世間は自分たちと違う人間を放っておかないから…と。 その頃、同じ放送を見ていたドクター・ペクとミスター・チェは驚く。これはあの逃げた少女に違いない、まだ生きていたのか!と。10年前に事件の起きた施設は、とある巨大企業の生物学研究所だった。そこでドクター・ペクは、遺伝子操作によるミュータントを生み育てることに成功していたのだ。ジャユンはその中のひとりだった。しかも、彼女には他の実験体とは比較にならないほどの優れた知能と超能力と残酷性が備わっており、“怪物”とまで呼ばれる最強のサイキック少女だったのである。 この日を境として、ジャユンの周辺で怪しげな人物が次々と暗躍する。ソウルへ向かう列車でジャユンとミョンヒの前に姿を現す若い男性(チェ・ウシク)、テレビ局の前で待ち伏せていた芸能事務所社長を名乗る男とボディガードたち。最高の実験体を自らの手元に取り戻したいドクター・ペクと、ジャユンを脅威と考える会社の指示で動くミスター・チェ、それぞれが追手を差し向けていたのだ。自分の正体を知らないジャユンは困惑して恐怖に怯えるものの、しかし愛する養父母やミョンヒに危険が迫った時、長く眠っていた彼女の凄まじい能力が一気に覚醒する…。 主演は『梨泰院クラス』のキム・ダミ! ネタバレするわけにはいかないため、残念ながらこれ以上多くは語れないものの、しかしヒロインのジャユンが“生みの親”たるドクター・ペクと対面し、ある衝撃的な真実が明かされる中盤にこそ、本作の核心的なテーマが秘められていると言えるだろう。果たしてジャユンの正体は善なのか悪なのか。そもそも、絶対的な悪=殺人兵器として生を受けた者が、その成長過程によって善へと生まれ変わることは可能なのか。人格形成のプロセスには遺伝子や家庭環境の影響など諸説あるものの、本作は善悪の境界線を曖昧にすることで、その答えを観客の想像と判断に委ねつつ、いったいジャユンの本性はどちらなのか?超能力者として覚醒した彼女は次に何をするのか?というサスペンスを盛り上げる。 もちろん、最強の殺人者としてのポテンシャルをフルに発揮していくジャユンの無双ぶりも大きな見どころだろう。なにしろ、それまでごく普通のか弱い女の子にしか見えなかった彼女が、不敵な笑顔を浮かべながら圧倒的な破壊力を駆使し、次々と悪人どもをなぎ倒していくのだから、そのカタルシスたるやハンパがない。もはやサイキック・バトルというよりも一方的な大虐殺。CGやワイヤーワークを全面に出し過ぎないスタント・アクションも完成度が高い。 監督と脚本を手掛けたのは、『悪魔を見た』(’10)の脚本家として注目され、『新しき世界』(’13)や『V.I.P.修羅の獣たち』(’17)などの韓流バイオレンスをヒットさせて来たパク・フンジョン。これまでハードボイルドな男性映画ばかり撮ってきた彼にとって、本作は珍しいSFアクション系の作品であり、同時に初めて“強い女性”をメインに据えた映画でもある。ヒロインのジャユンは勿論のこと、男社会たる組織での不満を抱えたマッド・サイエンティストのドクター・ペクもまた、ままならぬ人生を自分の思い通りに切り拓こうと闘うタフな女性だ。こうした、ある種のフェミニズム的な傾向もまた本作の意外な要素であり、パク・フンジョン監督の成長と変化を如実に感じさせる。 ジャユン役を演じるのは、参加者1500人のオーディションを勝ち抜いた新人キム・ダミ。日本で大ヒットしたばかりのテレビドラマ『梨泰院クラス』(’20)でもお馴染みの女優だ。これが初の大役だった彼女は韓国内の新人賞を総なめにし、たちまちトップスターの座へと躍り出た。それもそのはず、とにかく恐ろしいくらいに演技が上手い。しかも、あどけない少女の面影を残す無垢な存在感が、天使と悪魔の顔を併せ持つジャユンの得体の知れなさを引き立てる。対する悪女ドクター・ペク役のチョ・ミンスは、キム・ギドク監督の『嘆きのピエタ』(’12)で大絶賛された女優。また、『パラサイト 半地下の家族』の息子役で知られる純朴系俳優チェ・ウシクが、珍しくクールな悪役を演じているのも要注目だ。 なお、数々の謎を残して終わるエンディングをご覧になれば分かるように、本作はシリーズ映画の第1作目に当たる。一説によると三部作になるとも言われているが、最新の情報によると新型コロナのため第二弾の制作はスケジュールを調整中のようだ。■ 『The Witch/魔女』© 2018 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2025.06.03
オカルト映画ブームを盛り上げたリチャード・ドナー監督の記念すべき出世作『オーメン』
時代の世相を如実に映し出していた’70年代のオカルト映画人気 ‘70年代のオカルト映画ブームを代表する名作である。アカデミー賞で作品賞を含む計10部門にノミネート(受賞は脚色賞と音響賞)されたウィリアム・フリードキン監督の『エクソシスト』(’73)の大ヒットをきっかけに、たちまち世界中で巻き起こったオカルト映画ブーム。ただし、そのルーツはロマン・ポランスキー監督の『ローズマリーの赤ちゃん』(’68)と言われており、実際に『エクソシスト』も同作の影響を抜きに語ることは出来ない。アルフレッド・ヒッチコック監督の『サイコ』(’60)と並んで、いわゆるモダン・ホラーの金字塔とも称される『ローズマリーの赤ちゃん』だが、しかし公開当時はその成功が大きなムーブメントへと繋がることはなかった。これはひとえにタイミングの問題であろう。 カルト集団マンソン・ファミリーによる残忍な連続殺人事件が、全米はもとより世界中に大きな衝撃を与えたのは’69年夏のこと。折しも’60年代末から’70年代にかけて、アメリカではアントン・ラヴェイ率いるサタン教会が設立されるなどサブカルチャーの一環としてサタニズム(悪魔崇拝)が注目され、’73年には超能力者を自称するユリ・ゲラーがアメリカの国民的トーク番組「トゥナイト・ショー」への出演を機に欧米で大変なブームを巻き起こす。このユリ・ゲラー人気はほどなくして日本へも上陸。奇しくも同じ頃、日本でもベストセラー本「ノストラダムスの大予言」をきっかけに空前のオカルト・ブームが到来していた。ベトナム戦争やオイルショックによる世界的な経済不況、各国で頻発する過激派テロや犯罪増加による治安の悪化、ウォーターゲート事件に代表される権力の腐敗などなど、混沌とする国際情勢への漠然とした不安が、こうしたオカルトへ対する関心を世界中で高める要因になったのかもしれない。いずれにせよ、そういう時代だったのだ。 まさに機は熟した’70年代半ば。ホラー映画としては異例中の異例であるアカデミー作品賞ノミネートを果たし、全米年間興収ランキングでも『スティング』に次いで2位という大ヒットを記録した『エクソシスト』。これを皮切りに『魔鬼雨』(’75)や『悪魔の追跡』(’75)、『家』(’76)に『オードリー・ローズ』(’77)に『センチネル』(’77)に『マニトウ』(’78)に『悪魔の棲む家』(’79)にと、それこそ数えきれないほどのオカルト映画が作られたほか、イタリアの『デアボリカ』(’74)や『レディ・イポリタの恋人/夢魔』(’74)、日本の『犬神の悪霊(たたり)』(’77)にドイツの『ヘルスネーク』(’74)などなど、『エクソシスト』を露骨にパクったエピゴーネン作品も世界中で量産されることに。中には、脚本からカメラワークに至るまで『エクソシスト』を丸ごと完コピ(ただし製作費は本家の1/100くらい)したトルコ映画『Şeytan(悪魔)』(’74・日本未公開)なんて珍品もあった。そんな空前のオカルト映画ブームの真打として登場し、『エクソシスト』にも負けず劣らずの大成功を収めた作品がこの『オーメン』(’76)だった。 この世に恐怖と混乱をもたらす悪魔の子ダミアン それは6月6日午前6時のこと。ローマのアメリカ大使館に勤務するエリート外交官ロバート・ソーン(グレゴリー・ペック)は、出産のために妻キャサリン(リー・レミック)が入院するカトリック系病院へと駆けつける。付き添いのスピレット神父(マーティン・ベンソン)から死産だったことを告げられ、深くうなだれるロバート。長いこと子宝に恵まれなかったソーン夫妻にとって、まさしく待望の初産だったのである。しかも、キャサリンはもう2度と妊娠できない体だという。どうやって妻に伝えればいいのか…。ショックと失望で混乱するロバートに、スピレット神父が養子縁組を持ち掛ける。実は同じ時刻に同じ病院で生まれたものの、母親が死亡して身寄りのなくなった男児がいるというのだ。なんという偶然。これは神の思し召しかもしれない。養子であることを妻に隠して赤ん坊を引き取ったロバートは、この息子をダミアンと名付けて大切に育てるのだった。 それから5年後。ダミアン(ハーヴェイ・スペンサー・スティーヴンス)はいたずらっ子の可愛い少年へと成長し、ソーン家には明るい笑い声が響き渡っていた。そこへロバートの昇進の朗報が。駐英アメリカ大使に任命されてロンドンへ栄転することとなったのだ。このまま順調に行けば、いずれアメリカ合衆国大統領になることも夢ではないかもしれない。ところが、この頃からソーン夫妻とダミアンの周辺で不穏な出来事が重なっていく。盛大に行われたダミアンの5歳の誕生パーティ。そこで若い乳母(ホリー・パランス)が突然「ダミアン、全てはあなたのためよ」と叫び、公衆の面前で首つり自殺を遂げる。屋敷の周辺を徘徊する怪しげなロットワイラー犬。代わりにベイロック夫人(ビリー・ホワイトロー)というベテラン乳母が赴任してくるものの、しかしロバートもキャサリンも新しい乳母を依頼した覚えなどなかった。ソーン夫妻に隠れて「あなたをお守りするために来ました」とダミアンに告げるベイロック夫人、その言葉を聞いて不気味な笑みを浮かべるダミアン。息子の周辺を独断で仕切っていくベイロック夫人にソーン夫妻は困惑する。 一方その頃、ローマからやって来たブレナン神父(パトリック・トラウトン)がアメリカ大使館を訪れ、ダミアンの忌まわしき出生の秘密を知っているとロバートに警告する。当初は狂人の戯言と片付けていたロバートだったが、しかし教会へ向かったダミアンが恐怖のあまりパニックに陥る、動物園の動物たちがダミアンの存在を脅威に感じて暴れるなどの不可解な事件が相次いだため、改めてブレナン神父から話を聞いたところ、彼によればダミアンは悪魔の子供だという。しかも、キャサリンが第二子を妊娠しており、ダミアンと悪魔崇拝者たちは母子共に葬り去るつもりらしい。なんとバカげたことを!そもそも妻はもう妊娠できない体だ!デタラメを言うんじゃない!二度と我々に近づくな!怒りを露わにしたロバートだったが、その直後にブレナン神父は教会の屋根から落ちてきた避雷針が体を貫通して即死。そのうえ、妻キャサリンが本当に妊娠していたことも発覚する。 そんな折、以前より顔見知りだった報道写真家ジェニングス(デヴィッド・ワーナー)からコンタクトがある。首つり自殺をした若い乳母、避雷針が突き刺さったブレナン神父、それぞれ生前の写真に死の「予兆」を示すような影が写っているというのだ。不気味な影はジェニングス自身の写真にも写り込んでいた。まるで彼の死を預言するように。その頃、身重の妻キャサリンが大使公邸の吹抜け2階から転落する。辛うじてキャサリンは一命をとりとめたが、お腹の中の子は流産してしまった。やはりダミアンは本当に悪魔の子なのか。いったいソーン家の周辺で何が起きているのか。真相を確かめるべくローマへ向かったロバートとジェニングス。そこで亡きブレナン神父から聞かされた専門家ブーゲンハーゲン(レオ・マッカーン)に会った彼らは、もはや疑いようのない驚愕の事実と向き合うことになる…。 『オーメン』に成功をもたらした脚本と演出の妙とは? 劇中でも言及される新約聖書の預言書「ヨハネの黙示録」をヒントに、人間として地上に生まれた悪魔の子供が不思議な力と崇拝者たちによって守られ、世の中の混沌に乗じて超大国アメリカの権力中枢へ食い込もうと画策する…というお話。’70年代当時の不穏な世相を背景にした陰謀論的な筋書きは、それゆえ荒唐無稽でありながらどこか奇妙な説得力を持っている。そのうえで、本作はオカルト映画にありがちな超常現象やモンスターの類を一切排除し、徹底したリアリズムを貫くことで物語に信憑性を与えているのだ。ポランスキーが『ローズマリーの赤ちゃん』で採った手法と同じである。 ダミアンの周辺で起きる怪事件の数々は、なるほど確かに悪魔の仕業と言われればそうかもしれないが、しかし単に不幸な偶然が重なっただけとも受け取れる。その結果、ロバートもジェニングスも精神を病んだブレナン神父の妄想をうっかり信じ込んでしまい、不幸な結末へ向けて勝手に暴走してしまった…と解釈することも可能であろう。ローマで発覚する衝撃的な事実の数々だって、実のところ悪魔ではなく悪魔崇拝カルト集団の陰謀に過ぎないと考えることも出来る。もちろん、そうではないことも随所でしっかりと暗示されるわけだが、いずれにせよこのファンタジーとリアルの境界線ギリギリを狙った語り口が非常に上手い。ブームによって数多のオカルト映画が量産される中、本作が『エクソシスト』に匹敵するほどの支持を観客から得ることが出来たのは、この「世相を投影した脚本」と「リアリズムに徹した演出」があったからこそであろう。 本作の生みの親はドキュメンタリー畑出身の映画製作者ハーヴェイ・バーンハード。友人ボブ・マンガーとハリウッドのレストランで食事をしたところ、「もしヨハネの黙示録に出てくる反キリストが幼い少年だったら?」という話題になったという。これは映画のネタになる!と直感したバーンハードは、すぐさまアイディアを10ページほどの企画書にまとめ、ドキュメンタリー時代からの知人であるデヴィッド・セルツァーに脚本を依頼する。実は劇映画の脚本を書いた経験が乏しかったという当時のセルツァー。ドキュメンタリー作家として家族を養うことが厳しくなったため、脚本家としての実績を偽って周囲に売り込みをかけたところ、原作者ロアルド・ダールが降板した『夢のチョコレート工場』(’71)の脚本改訂版をノークレジットで担当したばかりだった。恐らく、バーンハードもその売り込みを信じたのかもしれない。それが結果として吉と出たのだから、まさしく「Fake It Till You Make It(本当に成功するまで成功したふりをしろ)」を地で行くような話ですな(笑)。 当初、主人公ロバート・ソーン役にチャールズ・ブロンソン、監督には『激走!5000キロ』(’76)などのB級アクション映画で知られるスタントマン出身のチャック・ベイルという顔合わせで、『エクソシスト』のワーナー・ブラザーズが出資することになっていたという『オーメン』。スイスでのロケハンも行われていたらしい。ベイル監督がカーチェイス・シーンの話ばかりするため、「一体どんな映画になるのか心配だった」というセルツァー。ところが、当時ワーナーで同時進行していた『エクソシスト2』(’77)に予算がどんどん持っていかれてしまい、最終的に本作の企画自体が暗礁へ乗り上げてしまった。そこで救いの手を差し伸べたのが20世紀フォックスのアラン・ラッド・ジュニア。このラッド・ジュニアの要望で監督がリチャード・ドナーに交代し、主演俳優にも天下の名優グレゴリー・ペックが起用されることとなったというわけだ。 それまで劇場用映画では全くヒットに恵まれず、主にテレビドラマの演出家として活躍していたドナー監督。本作における徹底したリアリズム路線を打ち出したのは彼だったという。実は、もともとセルツァーの書いたオリジナル脚本には超常現象やら魔女やらが登場し、ローマ郊外の墓地のシーンでは半人半獣のモンスターも出てくるはずだったらしい。しかし、物語に説得力を持たせることを最優先に考えたドナー監督は、脚本にあった非現実的な要素を極力排除することに。監督自身は本作をホラー映画ではなく、ヒッチコック・スタイルのサスペンス・スリラーと考えて取り組んだと振り返っている。 また、ベイロック夫人もオリジナル脚本では、一見したところ温厚そうな女性という設定だったが、しかしオーディションを受けた女優ビリー・ホワイトローの芝居に強い感銘を受けたドナー監督の判断で、本作における「悪の権化」を一手に担うようなキャラに変更。そのおかげで、普段は無邪気な少年にしか見えないダミアンの秘められた二面性が、ベイロック夫人の邪悪な存在によって引き出されていくという効果が生まれたようにも思う。そのベイロック夫人の台詞は演じるホワイトロー自身が書き直したとのこと。そうした大胆な路線変更の結果、脚本家のセルツァーをして「出来上がった映画は脚本よりも遥かに素晴らしかった」と言わしめるような作品に仕上がったのだ。 あのSFブロックバスター映画の成功も実は本作のおかげ…? ハリウッド史上屈指の大スターに数えられるオスカー俳優グレゴリー・ペックに、『酒とバラの日々』(’62)でオスカー候補になった名女優リー・レミックという主演陣の顔合わせも功を奏した。当時はまだまだ、ホラー映画がB級C級のジャンルと見做されていた時代である。出演する役者もジャンル系専門のB級スターか、もしくは落ち目の元人気スターと相場は決まっていた。それだけに、グレゴリー・ペックにリー・レミックという超一流キャストは興行的な理由ばかりでなく、観客を登場人物に感情移入させて物語に説得力を持たせるという意味においても効果は絶大だったと言えよう。脇を固めるのもデヴィッド・ワーナーにビリー・ホワイトロー、レオ・マッカーンなど、いずれも知る人ぞ知る英国演劇界の名優ばかり。演出だけでなく役者の芝居にも嘘くささがない。 なお、ホラー映画史上最もショッキングな名場面とも言われる首吊りシーンで強烈な印象を残す、若い乳母役のホリー・パランスは往年の名優ジャック・パランスの愛娘。実は、本作の以前にドナー監督はジャック・パランスとテレビで仕事をしたことがあり、その際に「何か機会があれば娘をよろしく頼む」と言われたそうで、その約束を果たすために声をかけたという。当時まだ駆け出しだったホリーはそのことを全く知らなかったそうで、エージェントの指示でドナー監督と会いに行ったところ、オーディションもカメラテストもなしで採用されたためビックリしたらしい。 一流と言えば、撮影監督を任されたカメラマン、ギルバート・テイラーの存在も忘れてはなるまい。ロマン・ポランスキーやリチャード・レスターとのコラボレーションで知られ、スタンリー・キューブリックの『博士の異常な愛情』(’64)やヒッチコックの『フレンジー』(’72)でも高く評価されたテイラー。当時は映画界からセミ・リタイアして、自身がロンドン郊外に所有する農場で酪農に従事していたそうだが、その農場へ出向いたドナー監督が根気よく口説き落として現役復帰することに。空間のバランスと奥行きを細部まで計算し尽くした画面構図の美しさは、間違いなくテイラーの功績であろう。この極めてスタイリッシュなビジュアルが、映画全体の風格を高めたとも言える。そういえば、スティーブン・スピルバーグの『ジョーズ』(’75)やジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ』(’77)あたりを契機に、かつてはBクラス扱いされていたホラーやSFなどのジャンル系映画を、メジャー・スタジオがAクラスの予算と人材を投じて作るようになったわけだが、本作や『エクソシスト』もその流れ作りに大きく貢献したのではないかと思う。 ちなみに、もともと本来のクライマックスではロバートのみならずダミアンも死亡し、エンディングはソーン親子3人全員の葬儀という設定だったのだが、撮影終了後にラフカット版を見たアラン・ラッド・ジュニアが「子供だけ生き残るってのはどうだろう?」と提案。これにドナー監督が同意したことから大急ぎで追加撮影が行われ、あの衝撃的なラストシーンが生まれたのである。ダミアン役のハーヴェイ・スペンサー・スティーヴンス少年は演技未経験の素人。それゆえドナー監督は、演技をさせるのではなく素のリアクションを引き出すことに腐心したそうなのだが、このラストシーンの撮影では「笑っちゃだめだからね!笑うんじゃないよ、笑うんじゃないよ、ぜーったいに笑うんじゃないよ!」とカメラの後ろからわざと煽りまくり、我慢しきれなくなったハーヴェイ少年が思わず笑みをこぼしたところでジ・エンドとなったわけだ。 かくして’76年6月6日に全米主要都市でプレミア上映が行われ、6月25日よりロードショー公開されて爆発的なヒットを記録した『オーメン』。キリスト教において「666」が獣(=悪魔)の数字であることを、世界中で広く知らしめたのは本作の功績のひとつである。脚本家セルツァー自身が書き下ろしたノベライズ本も、劇場公開に先駆けて出版されベストセラーに。2本の続編映画と1本のテレビ用スピンオフ映画、さらには1作目のリメイク版映画や2本のテレビ・シリーズも作られるなどフランチャイズ化され、最近ではダミアンの誕生に至る前日譚を描いた映画『オーメン:ザ・ファースト』(’24)も話題となった。そういえば’06年のリメイク版には、すっかり大人になったハーヴェイ・スペンサー・スティーヴンス(1作目のダミアン役)が取材レポーター役で顔を出していましたな。 本作で初めて劇場用映画の代表作に恵まれたドナー監督は、封切からほどなくして大物製作者アレクサンダー・サルキンドから映画『スーパーマン』(’78)のオファーを受け、そこからさらに『グーニーズ』(’85)や『リーサル・ウェポン』(’87)シリーズの成功へと繋がっていく。また、当時『スター・ウォーズ』の撮影監督ジェフリー・アンスワースが降板してカメラマンを探していたジョージ・ルーカスから問い合わせがあり、ドナー監督は後任として本作のギルバート・テイラーを推薦したという。ただし、テイラーからは「なんてことに巻き込んでくれたんだ!あの若者たちは何も分かっていない!まるでマンガみたいな映画じゃないか!」と文句を言われたのだとか(笑)。さらに、20世紀フォックスのアラン・ラッド・ジュニアは膨れ上がっていく『スター・ウォーズ』の予算を、『オーメン』の莫大な興行収入で賄ったとも言われている。もしかすると、本作の成功がなければ『スター・ウォーズ』も世に出ていなかったかも…?■
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COLUMN/コラム2025.05.26
パク・フンジョン監督が、3大スターと切り開いた、“韓国ノワール”の『新しき世界』
高校時代に映画好きになったという、1974年生まれのパク・フンジョン監督。映画学校などに通うことはなく、「映画を見て書き起こす」ことで、脚本を学んだという。 ゲームや漫画のシナリオなどを経て、2010年にキム・ジウン監督の『悪魔を見た』、リュ・スンワン監督の『生き残るための3つの取引』という2作の脚本で注目を集める。翌11年にはサスペンス時代劇『血闘』で、念願の監督デビューを果した。 監督第2作となる本作『新しき世界』(2013)は、そんなパク・フンジョンの、“ギャング映画への憧れ”から始まった企画。『ゴッドファーザー』『インファナル・アフェア』『エレクション』等々、洋の東西を問わず、白黒や善悪がはっきり分けられるような単純な世界観ではない、“ノワール映画”が大好きだった彼が、積年の夢を果した監督作品である。 ***** 韓国の巨大犯罪組織ゴールド・ムーン。そのTOPが、謎めいた交通事故で急死した。組織の幹部であるチョンチョンとイ・ジュングの、後継者争いが始まる。 チョンチョンの右腕イ・ジャソンは、実は潜入捜査官。カン課長の命を受け、組織に送り込まれて8年。警察に戻る日を心待ちにしていた。 しかしTOP不在の混乱を機に、組織を壊滅しようと目論んだカン課長が、「新世界プロジェクト」を発動。新たな指令を受けたジャソンは反発するが、逆らう術はなかった。 ジャソンの言葉に決して耳を傾けない、カン課長。それに対しチョンチョンは、同じ“韓国華僑”という出自のジャソンを「ブラザー」と呼び、信頼を寄せていた。任務と友情の板挟みとなったジャソンの苦悩は、日々深まっていく…。 カン課長は、一触即発状態のチョンチョンとイ・ジュングそれぞれに接触。2人の対立を煽る。チョンチョンは、組織に内通者が居ることを直感。その正体を探る。 チョンチョンから人目につかない倉庫に呼び出されたジャソンは、連絡係の女性刑事が瀕死の状態でドラム缶に詰められているのを見て、正体がバレたことを覚悟した。しかしチョンチョンが始末したのは、ジャソンも知らなかった、別の潜入捜査官だった。 本当に気付かれていないのか?ジャソンは、身も心も張り裂けそうになる。 警察の介入で、ゴールド・ムーンの跡目争いはエスカレートしていく。ジャソン、カン課長、チョンチョン…3人の男の運命は!?そして訪れる、“新しき世界”とは!? ***** 数々の“ノワール”の影響が見て取れる本作であるが、特に大きかったと思われるのが、香港作品の『インファナル・アフェア』シリーズ(2002~03)と、フランシス・フォード・コッポラ監督の『ゴッドファーザー』シリーズ(1972~90)。『インファナル・アフェア』3部作は、潜入捜査官のヤンと、逆に警察組織に送り込まれた、覆面マフィアのラウを主人公にした、香港ノワールの代表的な作品。2006年にはマーティン・スコセッシ監督により、ハリウッドで『ディパーテッド』としてリメイクされ、アカデミー賞の作品賞や監督賞などを受賞している。 イ・ジャソンの、正体は警察官ながら、マフィアに長年身を置いたことで、その仲間に友情やシンパシーを抱き、苦悩を深めるという人物像は、『インファナル・アフェア』でトニー・レオンが演じたヤンにカブるところがある。こうした主人公の中の“二律背反”は、チョウ・ユンファ主演の香港作品『友は風の彼方に』(1987)や、それをパクったタランティーノの監督デビュー作『レザボア・ドッグス』(92)、ジョニー・デップ主演の『フェイク』(97)等々、“潜入捜査官もの”では、定番とも言えるが。 実は『新しき世界』以前は、“潜入捜査官”という設定は、“韓国ノワール”には、ほとんどなかったのだという。そうした意味でも直近の傑作、『インファナル・アフェア』の存在は、大きかったと言える。 一方でそれ以上に色濃く感じられるのが、『ゴッドファーザー』の影響。巨大犯罪組織の跡目争いに、心ならずも巻き込まれていく主人公の苦悩は、『ゴッドファーザー』シリーズでアル・パチーノが演じた、マイケルと重なる。 また『ゴッドファーザー』が、イタリア移民によって構成された“ファミリー”の物語であったのと同様、『新しき世界』では、ジャソンとチョンチョンに、“韓国華僑”という少数派の設定を与えている。“韓国華僑”は韓国内に永住している、唯一の外国籍民族集団で、長らく差別的な扱いを受けてきた歴史がある。 パク・フンジョンは本作に関して、「ファミリーの歴史を叙事詩のように描く“エピック・ノワール”をやってみたかった」と語っているが、これは言い換えれば、自分なりの『ゴッドファーザー』を作ってみたかったということであろう。ネタバレになるので詳しくは述べないが、クライマックスにすべてが決着する“大殺戮”が展開する辺り、監督の「これがやりたかった!」感が、至極伝わってくる。 因みに『新しき世界』は、元は警察と巨大犯罪組織を巡る長いストーリーの構想から成り立っていた。それは「企業型の犯罪組織ゴールド・ムーンの誕生まで」から始まり、「新しいボスを迎えたゴールド・ムーンの内幕と警察の反撃」で終幕を迎える。映画化に当たって、最も商業的に適する部分として、その中間パートを抜き出して脚本化し、1本の作品に仕上げたのだという。 本作の肝となる3人の男、ジャソン、カン課長、チョンチョン。この3人のバランスをどう取るかが、作品の完成度に大きく関わってくる。結果的に、監督が構想していたキャラクターと、「ほぼ100パーセント、シンクロ」するキャスティングが行われた。 カン課長を演じたチェ・ミンシクは、シリアルキラーを演じた『悪魔を見た』で、脚本を担当していたパク・フンジョンと出会った。その際に沢山話をして、「何かを持っている」と感じたミンシクは、フンジョンと連絡を取り続けていた。 そして本作の「土台となる人物」ながら、「目立ってはいけない」黒幕的存在の、カン課長役のオファーを受ける。ミンシクの長いキャリアの中で、映画で警官を演じたのは、「初めて」だったという。 ミンシクは自らの出演が決まると、イ・ジョンジョに直接電話を掛けた。大先輩からの「映画に出ないか?」との誘いに乗って、それまでラブストーリーなどの出演が多かったジョンジェが、ジャソンを演じることとなった。 潜入捜査官のジャソンは、ほとんどのシーンで感情を隠さなければならない役どころ。ジョンジェは、「立っている」「苦悩に満ちる」などとしか書かれていない脚本を徹底的に分析し、監督言うところの「深みのある内面の演技」を見せた。 “静的”なジャソンとは対照的に、極めて“動的”なキャラクターであるチョンチョン役を引き受けたのは、監督の脚本作『生き残るための3つの取引』の主演だった、ファン・ジョンミン。 ソウルで上演中のミュージカル「ラ・マンチャの男」で主演を務めていたジョンミンは、公演のスケジュールと本作の撮影が丸かぶり。芝居が終わると深夜の高速バスで、ロケ地の仁川まで移動し、日中の撮影を終えると、高速鉄道でソウルまで戻って舞台に立つという、ハードな日々を送ることとなった。 イ・ジョンジェ曰く、最初の読み合わせの際に、ファン・ジョンミンの脚本は、もうボロボロになっていたという。ジョンミンは、ヘアスタイルから衣裳、セリフまで、アイディア出しを行い、撮影現場では、アドリブを多用した。 象徴的と言えるのが、チョンチョンの初登場シーン。中国の取引先から戻った彼は、飛行機のスリッパを履いたまま、到着ロビーに現れる。気ままで勝手放題なチョンチョンのキャラクターを表わすこのシーンは、まさにジョンミンのアイディアが元となっている。 チョンチョンは全羅道訛りで、常に悪態をつき続けるが、ジョンミンは脚本を貰った段階で監督に、自分でセリフを全部直すことを申し入れたという。具体的には、その地域の方言を話す者の力を借り、更には、悪口の数をぐっと増やして、最終的には自分の口に馴染むよう、書き直したのだという。 ジャソンが「正体がバレたか?」と震え上がる、裏切者の粛正シーンでは、雨垂れで血が付いた手を洗い、口をすすぐ演技を見せる。これも脚本上では、「後ろ姿を見せる」としか書かれておらず、100%ジョンミンのアドリブだった。 これらのアドリブはもちろん、ジョンミンが悪目立ちするためにやったものではない。チョンチョンがいくら暴れても、主役はジャソンである。助演のチョンチョンがエネルギッシュであればあるほど、静的なジャソンが立つという計算の元に行われた。 本作のラストシーンでは、時代を遡って、イ・ジャソンとチョンチョンの6年前の出会いが描かれるが、実はこちらも脚本には存在しなかった。2人の“絆”を描くために、ジョンジェとジョンミンで話し合って、監督とも相談。クランクアップを迎える日に、急遽撮影されたものだったという。メインキャストの2人が、自分たちなりの“プリクエル=前日譚”を作ってみようと考えて、実現したものだった。 イ・ジョンジェ、チェ・ミンシク、ファン・ジョンミンという3大スターの出演がトントン拍子に決まった際は、「かなり当惑」し、「恐れさえ」感じたというパク・フンジョン監督。しかしキャラクターと「ほぼ100パーセント、シンクロ」する、3人のキャスティングは、最高の化学反応を見せたのである。『新しき世界』は、2013年2月に韓国で公開。すでに旬を過ぎたジャンルと思われていた“ヤクザ映画”が新たな展開を見せたと評価され、470万人を動員する大ヒットを記録した。 ファン・ジョンミンは韓国3大映画祭のひとつ、「青龍芸術大賞」で主演男優賞を受賞。イ・ジョンジェは「大鐘賞」の人気賞に輝いた。 当時ソニー・ピクチャーズによるハリウッドリメイクが決定とのニュースが流れた。しかしこれはご多分に漏れず、その後実現したとの報はない。 それよりも気掛かりなのは、パク・フンジョンが当時語っていた“3部作”構想。先に挙げた通り、本作の“前日譚”として、「企業型の犯罪組織ゴールド・ムーンの誕生まで」、後日談として、「新しいボスを迎えたゴールド・ムーンの内幕と警察の反撃」が存在した筈だったが、いつの間にか立ち消えとなってしまったようだ。 歳月が流れる中、『The Witch 魔女』シリーズ(2018~)で、女性アクションの新生面を開いた、パク・フンジョン監督。メインキャストは男・男・男の、『新しき世界』のシリーズ化は、時勢もあって、もはや関心外なのだろうか?■ 『新しき世界』© 2012 NEXT ENTERTAINMENT WORLD Inc. & SANAI PICTURES Co. Ltd. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2025.05.03
壮大なスケールと奇想天外なストーリー展開で普遍的な家族愛を描いたオスカー7部門制覇の大傑作!『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』
独創的で型破りな演出はインディーズ映画の鬼才ダニエルズの十八番 『ムーンライト』(’16)や『ミッドサマー』(’19)、『関心領域』(’23)などの話題作・問題作で高い評価を受ける製作会社A24にとって、同社史上最高額の興行収入(1億4340億ドル)を稼ぎ出す大ヒットを記録し、’23年の第95回アカデミー賞では最多となる11部門にノミネート、そのうち作品賞以下7部門で受賞するという快挙を成し遂げた傑作である。中でも特に授賞式で注目を集めたのは、名もなき平凡な中国系アメリカ人の夫婦を演じたミシェル・ヨー(主演女優賞)とキー・ホイ・クァン(助演男優賞)の2人だ。 香港アクション映画のスーパースターとして活躍した’80年代より、40年に及ぶ輝かしいキャリアを誇ってきたマレーシア出身のベテラン女優ヨーと、ベトナム難民として渡ったアメリカで『インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説』(’84)と『グーニーズ』(’85)に出演して人気が爆発したものの、しかし当時のハリウッドではアジア系の役柄が極めて少なかったために後が続かず、本作が実に20年以上ぶりのカムバック作品となった元名子役クァン。どちらも人生と業界の荒波を乗り越えてきたサバイバーである2人が、ハリウッドにおける年齢や性別や人種の見えない壁を見事に打ち破り、文字通り奇跡のようなオスカー初ノミネート&初受賞を果たしたのだから、本人たちだけでなく映画ファンとしても大いに感慨深いものがあったと言えよう。 なおかつ、これが長編劇映画2作目だった若手監督コンビ、ダニエルズ(ダニエル・クワンとダニエル・シャイナート)による、あまりにも自由で斬新で独創的かつ画期的なストーリーテリング術も多くの映画ファンを驚かせた。無人島で遭難した青年が海岸で発見した死体と共に我が家を目指して大冒険を繰り広げるという、処女作『スイス・アーミー・マン』(’16)も相当にシュールでヘンテコな映画だったが、本作はそれを遥かに上回る奇妙奇天烈なハチャメチャさが際立つ。不条理コメディにSFにホラーにカンフー・アクションにと数多のジャンルをクロスオーバーし、目まぐるしいスピードで縦横無尽にマルチバースを飛び回る天衣無縫なストーリーは一見したところ意味不明で難解だが、しかしその荒唐無稽と混沌の中から「私の人生、本当にこれで良かったのか?」という疑問を抱えたヒロインの様々な想いが走馬灯のように浮かび上がり、慌ただしい日常の中ですれ違う親子や夫婦の愛情と絆を描いた普遍的なファミリー・ドラマへと昇華される。その大胆不敵かつ巧妙な脚本と演出には、恐らく観客の誰もが舌を巻くはずだ。 忙しい日常に疲れ切った平凡な主婦が全宇宙の危機を救う!? ひとまず、なるべく分かりやすく整理しながらストーリーを解説してみたい。主人公はコインランドリーを経営する中国系アメリカ人の中年女性エヴリン(ミシェル・ヨー)。20年前に親の反対を押し切って、夫ウェイモンド(キー・ホイ・クァン)と駆け落ち同然で結婚して渡米し、ひとり娘ジョイ(ステファニー・スー)をもうけたエヴリンだったが、しかし移民一世としての生活はまさに苦労の連続。辛うじてビジネスは軌道に乗ってきたものの、しかし忙しくて慌ただしい毎日の中で家族との溝は深まるばかり。優しくてお人好しなウェイモンドはいまひとつ頼りにならず、最近では交わす会話も殆んどなくなっている。娘ジョイとはさらに微妙で気まずい間柄。アメリカで生まれ育った移民二世のジョイとはカルチャーギャップがあり、なおかつ彼女がレズビアンであることを頭では分かっても心情的に受け入れられないエヴリンは、たまに娘が恋人ベッキー(タリー・メデル)を連れて実家へ顔を出しても素っ気ない態度を取ってしまう。ジョイもそんな母親に愛憎入り交じる感情を抱いており、あまり実家へ寄り付かなくなっていた。 そんな、ただでさえ訳ありの家族にさらなる問題が発生。コインランドリーが国税庁の監査対象になってしまい、膨大な資料をまとめた書類を提出せねばならなくなったのだ。折しも、高齢で介護の必要になった父親ゴンゴン(ジェームズ・ホン)が中国から来たばかり。本当は息子の欲しかった父親は、幼い頃からエヴリンに対して非常に厳しかった。エヴリンが必死になって働いてきたのは、そんな父親に認めて欲しいという想いもあったからなのだが、しかしいまだ家父長気分の抜けない父親は偉そうにふんぞり返るばかり。税金の申告書作成に加えて、英語も全く話せない我がまま老人の父親の世話、さらには店の切り盛りもせねばならないエヴリンは、もはやストレスと疲労で崩壊寸前だった。 監査官ディアドレ(ジェイミー・リー・カーティス)と面談して書類をチェックしてもらうため、ウェイモンドとゴンゴンを連れて国税庁へとやってきたエヴリン。すると、いきなり豹変したウェイモンドが不可解なことを口走る。自分はアルファバースからやって来たアルファ・ウェイモンド。アルファバースのエヴリンが生んでしまった強大な悪の化身ジョブ・トゥパキが、多元宇宙(マルチバース)の全てにカオスをもたらそうとしている。それを止めることが出来るのは、この世界のエヴリン、つまり君しかいない!というのだ。 なんのことだかさっぱり分からず困惑するエヴリンだったが、しかしそんな彼女の前に別の宇宙から来たジョブ・トゥパキの刺客たちが次々と襲いかかる。これに対抗して全宇宙を救うためには「バース・ジャンプ」が必要だ。これまでの人生で目標を立てては挫折し、夢を抱いては諦めてきたエヴリン。そのたびに枝分かれした「別の人生」の数だけマルチバースが存在する。ある世界ではカンフーの達人、ある世界では映画スター、ある世界では歌手など、様々な才能を開花させている別バージョンのエヴリンたち。何も持たない最低の自分を生きている現世界のエヴリンは、バース・ジャンプによって別世界のエヴリンたちと繋がり、それぞれの特技を自分のモノにしていく必要があるのだが、しかし「最強の変なこと」をしなくてはジャンプすることが出来ない。ありったけの知恵を絞って突拍子もないバカなことを繰り出し、マルチバースを飛び回りながら別世界の自分たちを体験していくエヴリン。そんな彼女の前に現れた邪悪な宿敵ジョブ・トゥパキをひと目見て、エヴリンは思わず愕然とする。それはほかでもない、アルファバースの我が娘ジョイだったからだ…! エヴリン役はミシェル・ヨーにとってキャリアの集大成 親の愛情を得るため期待に応えねばとの重圧に苦しみ、それゆえ夢を諦めて挫折ばかりしてきた現世界のエヴリンが、親の愛情と期待に応えようとして限界まで精神を追い込まれた結果、冷酷で虚無的な怪物ジョブ・トゥパキと化してしまった別世界のジョイと対峙することで、現世界の我が娘ジョイの抱えた孤独や痛みをようやく理解し、断絶していた親子の絆を取り戻していく。と同時に、様々な別世界の「成功した自分」を体験したエヴリンは、結局のところ「理想通りの完璧な人生」などあり得ないことを知り、さらには優しいだけが取り柄の夫ウェイモンドの秘めた「真の強さ」に気付かされ、過去の選択や挫折、果たせなかった夢や希望を悔やむよりも、今ある生活と家族・友人を慈しみ大切にすべきであることに思い至る。奇想天外でぶっ飛んだ壮大なスケールのアクション・エンターテインメントは、実のところ平凡でささやかな日常の有難さを謳いあげた、微笑ましくも心温まるファミリー・ドラマなのだ。 そもそもの発端は、ダニエル・クワン監督が『マトリックス』(’99)と『ファイト・クラブ』(’99)をヒントにして、独自のマルチバース企画を思いついたことだったのだとか。そこへ、自身が中国系アメリカ人であるクワン監督の個人的な経験を基にした、アジア系移民家庭アルアルを詰め込んだ家族のドラマが加わったというわけだ。それにしても、一見したところ脈絡のない展開や意味不明のシュールなギャグ、目まぐるしく変化するスピーディで複雑な編集に困惑させられる観客も多かろうと思うが、しかしよくよく見ていると細かいカットのひとつひとつまで入念に計算されていることが分かる。 実際、脚本にはその場面で使用する全てのカットが詳細に記入されていたらしい。そのうえで、異なるバースをクロスカットで繋ぐなどの工夫を凝らすことで、脈絡のないように見える混沌とした展開の中から、言わんとすることの意味を観客が直感的に汲み取れるよう導いていくのだ。実に巧妙。映像言語をフル稼働した独創的な語り口は本作の醍醐味と言えよう。しかも、ウォン・カーワイやジャッキー・チェン、ガイ・リッチーといったダニエルズが敬愛する映画人や、小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』や映画『カンフーハッスル』(’04)、『ジュラシック・パーク』(’90)に『2001年宇宙の旅』(’68)などへのオマージュも盛りだくさん。とりあえず、決して頭で理解しようとせず、映像の流れに身を委ねて感じ取るべし。それが本作の正しい鑑賞法である。 もちろん、主人公エヴリンを演じるミシェル・ヨーも圧倒的に素晴らしい。忙しい日常に疲れ果て、家族との不和に悩まされる平凡な主婦が、バース・ジャンプによって体得した様々な特技を駆使して世界を救わんと戦う。笑いあり涙ありシリアスあり、カンフー・アクションにサスペンスもあり。喜怒哀楽、静と動の全てをいっぺんに詰め込んだエヴリンというキャラクターは、「40年間のキャリアはこの作品のためのリハーサルだった」とミシェル本人が語るように、文字通り役者人生の集大成的な難役だったと言えよう。もともとこの役は男性という設定で、当初はジャッキー・チェンにオファーされたらしい。モデルだった彼女が女優デビューするきっかけとなったのが、ジャッキーと共演したテレビCMだったことを考えると数奇な巡り会わせと言えよう。 ちなみに、バース・ジャンプ中の格闘技大会シーンでミシェル・ヨーに顔を蹴り飛ばされ、続くアクション映画の撮影シーンで同じくミシェルに顔をパンチされる女性は西脇美智子。かつて’80年代に「ボディビル界の百恵ちゃん」として人気を博した日本の元ボディビルダーで、一時期は香港のカンフー映画スターとして活躍したこともあった。’90年代末からはハリウッドを拠点にスタントウーマンとして活動しているが、本作ではミシェルのスタンドイン(撮影準備の代役)を兼ねていたそうだ。■ 『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』© 2022 A24 Distribution, LLC. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2025.04.21
「SHOGUN 将軍」への道は、ハリウッド製“忠臣蔵”映画『47RONIN』が開いた!?
日本人にはなじみ深い物語である、「忠臣蔵」。当然ご存じの方が多数であろうが、18世紀はじめ=江戸時代中期に実際に起こった、“赤穂事件”がベースとなっている。 江戸城は松の廊下で、赤穂藩主・浅野内匠頭が吉良上野介への刃傷沙汰に及び、即日切腹となった。こうしたトラブルは「両成敗」が旨である筈なのに、吉良へはお咎めのないまま、赤穂藩はお取り潰しに。 この処断を不服に感じた、赤穂藩家老の大石内蔵助をはじめ47人の浪士が、雌伏の時を経て、事件から1年9ヶ月後に、江戸本所の吉良邸に討ち入り。上野介の首を刎ねて主君の仇を取り、本懐を遂げるというのが、大体のあらましである。 この“赤穂事件”の顛末を基に大幅な脚色を加えた、「仮名手本忠臣蔵」が、文楽や歌舞伎の演目として確立して以来、「忠臣蔵」は今日まで、映画、演劇、TVドラマ等々の格好の題材となってきた。亡君への忠義を果し武士の意地を通すといったテーマが、日本人の心に響きやすかったのであろう。NHKの大河ドラマやテレビ東京の12時間ドラマなどでも繰り返し取り上げられ、20~30年前までは、年末年始の風物詩とも言えた。 また折りに触れて、現代物に翻案。『サラリーマン忠臣蔵』(1960)『OL忠臣蔵』(97)『なにわ忠臣蔵』(97)等々の作品では、武家社会を企業や極道の世界に置き換えて、「忠臣蔵」の“仇討ち”の世界が展開された。 映画でもTVでも、時代劇の製作本数がすっかり減ってしまった近年になると、以前ほどは「お馴染み」とは言えなくなってきた。それでも赤穂浪士の討ち入りを、その予算面から取り上げた『決算!忠臣蔵』(2019)や、吉良上野介の弟が替え玉に仕立て上げられる『身代わり忠臣蔵』(2024)といった、“曲球”のような映画作品が、時折登場している。 そんな「忠臣蔵」であるが、当然のように日本以外の人々には未知の物語である。ところが“日本通”を自認する者によって、突然「忠臣蔵」を題材にした外国映画が、製作されることがある。 筆者の古い記憶にあるのは、『ベルリン忠臣蔵』(1985)。40年前、統一前の西ドイツで製作された作品である。 筆者はこの作品、未見でありながら、タイトルだけは矢鱈と印象に残っていた。今回鑑賞を試みたが、配信は当然されておらず、ソフトなども入手困難。そのため作品データや実際に観た者の話頼りになってしまう点は、ご容赦願いたい。 ストーリーは、ハンブルグに“大石内蔵助”を名乗る怪人が現れ、悪徳企業を成敗するというもの。舞台は記した通り、ハンブルグであり、ベルリンは邦題だけ。本篇には一切登場しないという。 鑑賞者によると、監督のハンス・クリストフ・ブルーメンブルグはじめ製作サイドは、「忠臣蔵」についてそれなりにリサーチをした努力は感じられたが、内蔵助の正体が、日本で“柔道”を修行したドイツ人。更には内蔵助抹殺のために、日本から“忍者”がやってくるという、トンデモ展開である。しかしながらドイツ人気質というか、コメディ仕立てなどではなく、至極生真面目で退屈な作品に仕上がっているという。 2010年代に入って、本作『47RONIN』(2013)製作の報が聞こえてきた際、まず浮かんだのは、この『ベルリン忠臣蔵』だった。主演はキアヌ・リーヴスで、四十七士の1人を演じるという設定を聞いて、思った。これは「ヤバい」と。 日本人キャストとしては、真田広之、浅野忠信、菊地凛子というハリウッド経験組。更にオーディションなどを経て選ばれた、柴咲コウ、赤西仁、田中泯といった有名どころが出演すると聞いても、その危惧は全然薄れることはなかった。 監督に選ばれたのは、カール・リンシュ。CM業界では実績を残しているクリエイターだが、長編映画を手掛けるのは、初めて。 リンシュは11歳の頃に、「少しの間だけ」日本に住んだことがあった。そして、四十七士の物語について、「少しは知っていた」という。 本作については、細々とストーリーなど説明しても仕方ない。とりあえず観て、それぞれに感想を抱いて欲しいと思うので、「少しだけ」日本に住んでいて、「少しは」四十七士の物語を知っていたリンシュによって、どんな構想の下で、いかなる映像世界がクリエイトされたかを、挙げていこう。 リンシュが本作のオファーを受けた時に考えたのは、「綿密な時代考証による大河ドラマではなく、よりファンタジーに使い映画を作るチャンス」ということだった。 そんな彼が、特殊効果スーパーバイザーのクリスチャン・マンツと話し合った際に、度々名前が挙がった、偉大な日本人アーティストが2人居る。それは、リンシュが子ども心に魅了されていたという、「葛飾北斎」。そしてもう1人は、「宮崎駿」。リンシュとマンツは、「宮崎駿のアニメの実写版のような映画」「北斎の版画の中にしか存在しないような日本」を目指すことで、一致したのである。 リンシュはシナリオハンティングで、日本の30都市を10日間くらいかけて回ったというが、こだわったのは、「日本文化のひとつの解釈」。画面に登場する、建物と屋根の組み合わせなどが、日本にはないものであったり、衣裳のデザインが、“着物”と似て非なるものになったのは、すべてそうした“こだわり”から生じたと言って、差し支えなかろう。 またリンシュらが、日本の民話などを詳しくリサーチした結果も、然り。四十七士の物語の舞台は、天狗や魔女の龍、出島の鬼といった、クリーチャーたちが跋扈する世界となってしまった。中国の神話由来の筈の麒麟も含めて…。 因みに本作の主役で、四十七士の仲間になる、キアヌ・リーヴス演じるカイは、天狗に拾われ、剣術や妖術、この世の理などを教わったという設定。しかしカイの育ての親である天狗は、我々が“天狗”と聞いてイメージするそれとは、ヴィジュアル的にはまったくの異物であることを付け加えておく。 本作は、2011年3月14日にブダペストでクランクイン。続いて、イギリスのシェパートンスタジオで、撮影が行われた。 当初は翌2012年の11月公開予定だったが、撮り直し(!)や視覚効果のためにスケジュールが遅れ、まず2013年の2月に延期。それもリスケジュールされ、12月まで延ばされた。 当時流行りの3Dでの製作だったこともあって、製作費は当初の予算を大きくオーバーし、一説には、2億2,500万㌦まで膨れ上がったと言われる。これだと全世界で4~5億㌦以上の興行収入を上げるメガヒットにならないと、大赤字になってしまう。 危機感を持った製作のユニバーサル・ピクチャーズは、ポストプロダクションの段階で、ある決定を行う。カール・リンシュ監督を、編集作業から外したのである。 そんなスッタモンダを経て、ようやく完成した本作は、まずは日本、続けてアメリカで公開。結果的には、日本での興行収入が5億円を切ったことに象徴されるように、世界的にも損益分岐点どころか、製作費にも達しない結果となった。 さて本作『47RONIN』を、日本人キャストは、どのように思っていたのだろうか?それは公開当時よりも、ごく最近「エミー賞」で作品賞をはじめ14冠、「ゴールデングローブ賞」で4部門を制覇するという、赫々たる成果を上げたドラマシリーズ、「SHOGUN 将軍」(2024)に関連するインタビューから、窺い知れる。『47RONIN』で大石内蔵助を演じた真田広之は、2003年の『ラスト サムライ』で、ハリウッド映画に初出演。それ以来居をアメリカに移して20年余、実績を積み上げてきた。 彼はハリウッドに渡った時から、例えば着物の着方や武器の扱い方、特殊な歩き方等々、日本文化の描写について、現場で意見を言い、間違っている部分があれば、直すように申し入れてきた。時には無償で監修を行うほど、熱心に。『ラスト サムライ』のエドワード・ズウィック監督には、「影の監督」とまで言われている。 しかしそんな真田も、「俳優として物申せることには限界がある」と、長くもどかしさや悔しさを感じてきた。またハリウッドでの経験を重ねる内に、各部門のトップに修正や調整を依頼することにためらいを感じるようにもなった。曰く、「彼らにはプライドがあり、多くを指摘するのは難しいから」である。 そうした真田が、積み重ねてきたキャリアで得た信頼を軸に、無念を晴らしたと言えるのが、「SHOGUN 将軍」だった。アメリカのディズニー系の製作ながら、プロデューサーとして、シナリオ作り、スタッフやキャスト選びから撮影現場、ポストプロダクションまで隈なく眼を光らせた。そして、主要なセリフは“日本語”で、アメリカの視聴者は字幕を読むという、前代未聞の時代劇ドラマシリーズを作り上げたのである。 そんな真田が、ハリウッドでのキャリアのちょうど中間点に出演した、『47RONIN』に関しては、こんな風に語っている。「僕は全員日本人俳優を雇うならこの役をお引き受けしましょうと伝えましたが、その時にはもうスタッフィングは決まっていたので、そこまでは条件に出せませんでした」。 結果として、全員が日本人俳優ではない上に、日本人であり侍なのに全編英語で撮るということになってしまったという。 真田は「SHOGUN 将軍」のVFXについて、「こんなに高い建物がここにあってはいけない、屋根の色が違う、五重塔はここにはない、安土城がカラフルすぎて中国系に見えてしまう……」等々、細々と指摘を行ったという。これはどう考えても、『47RONIN』のVFXを踏まえてのこととしか思えない。 しかしながら真田は、こんなことも言っている。「日本の赤穂事件を題材にした映画が、ハリウッドで大予算で作られるということそのものが大事だと、その時は思ったんですね。興行的には厳しかったですが実績としては残った。ハリウッドのなかで一つの布石になったと思っています」『47RONIN』「SHOGUN 将軍」の両作に出演。共に真田に対するヴィラン的な役柄を演じた浅野忠信も、「SHOGUN 将軍」で、「…リベンジが果たせたのかもしれない」旨のコメントを発している。 本作『47RONIN』がなければ、「SHOGUN 将軍」の成功はなかった!それが最大に前向きに、本作の存在意義を語る言葉なのかも知れない。■ 『47RONIN』© 2013 Universal City Studios Productions LLLP. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2025.04.18
陰鬱な物語が、ジュリア・ロバーツの出世作、リチャード・ギアの代表作『プリティ・ウーマン』に変身した経緯
1980年代の終わり頃、J・F・ロートンという名の、当時まだ20代だった脚本家が書いた、その作品のタイトルは、『3000』。 リッチなビジネスマンが、コカイン中毒の娼婦を、ロサンゼルスはハリウッド・ブルバードの街角で拾うのが、物語の発端となる。ビジネスマンは娼婦と、1週間の契約を結ぶ。その間は高級品を買い与えるなど贅沢三昧をさせるが、最後には同じ街角で、彼女のことを棄ててしまう…。 タイトルは、1週間の契約金として、ビジネスマンが娼婦に払う、“3,000㌦”に由来。何とも暗いお話で、リライトが重ねられたこの脚本の、何稿目であるかは定かでないが、娼婦が薬物の過剰摂取で死んでしまうという、救いのないラストを迎えるバージョンもあったという。 この脚本を、ある映画会社が買い取り、製作を進めることとなった。ところがその会社が潰れてしまったため、冷徹なビジネスマンと哀れなジャンキー娼婦の陰鬱な物語は、雲散霧消…と思いきや、何とディズニー・スタジオの手に渡り、その子会社であるタッチストーン・ピクチャーズで映画化されることとなる。 『3000』の主役である、娼婦のヴィヴィアンと、ビジネスマンのエドワード。誰が演じるか?共に数多くのスターの名前が、取り沙汰された。 ミシェル・ファイファー、サンドラ・ブロック、メグ・ライアン、マドンナ、クリスティン・デイヴィス、サラ・ジェシカ・パーカー、ドリュー・バリモア、カレン・アレン、ダイアン・レイン、モリー・リングウォルド、ウィノナ・ライダー、ジェニファー・コネリー…。単に名前が挙がっただけの者から、実際にオーディションを受けた者、オファーされながらもセックス・ワーカー役を演じることに難色を示した者まで、当時のハリウッド若手女優ほぼすべてが、ヴィヴィアンの候補だったとも言える。 そんな中で、ディズニーに企画が渡る前から有力候補としてピックアップされ、本人も強い意欲を示していたのが、ジュリア・ロバーツ。とはいえ67年生まれのジュリアは、87年に映画デビューしたばかり。サリー・フィールドやドリー・パートン、シャーリー・マクレーンといったベテラン勢と共演して、ゴールデングローブの助演女優賞を獲得し、初めてオスカーの候補にもなった、『マグノリアの花たち』(89)も、まだ世に出る前。即ち、「駆け出し」だった。 当然製作陣からは、もっと著名なスター女優を求める声が出た。そのためジュリアのヴィヴィアン役にGOサインが出るまでには、短くない時を要したという。 ヴィヴィアンより年上であるエドワード役には、多くの中堅俳優が擬せられた。クリストファー・リーヴやダニエル・デイ=ルイス、ケヴィン・クライン、バート・レイノルズ、シルヴェスター・スタローン、アルバート・ブルックス、ジョン・トラヴォルタ、ショーン・コネリー、トム・セレック、スティング…。アル・パチーノは、ジュリア・ロバーツとセリフの読み合わせまで行い、サム・ニール、トム・コンティ、チャールズ・グローディンといった辺りも、ジュリアとスクリーンテストを行っているが、決定に至らなかった。 そんな中で監督を引き受けたのは、ゲイリー・マーシャル。ヴィヴィアン役にジュリア・ロバーツが正式に決まった辺りで、彼はこう考えたという。~100%「ビューティフル」な人たちを起用したい~。 そこで白羽の矢が立ったのが、リチャード・ギアだった。『ミスター・グッドバーを探して』(77)『天国の日々』(78)といった作品で注目を集め、『アメリカン・ジゴロ』(80)そして『愛と青春の旅立ち』(82)で決定的な人気を得たギアだったが、80年代後半、アラフォーを迎えた頃には、ダライ・ラマ14世によるチベット仏教の教えに傾倒。そんなこともあって、出演作が少なくなっていた。 ギアの元に届けられた脚本は、企画のスタート時よりは、暗さを軽減。ジェントルマンが、貧しく教養のない女性を拾って、淑女に育て上げるという、「マイ・フェア・レディ」「ピグマリオン」風味が、強くなっていたと言われる。しかしながらギアにとってこの時点でのエドワードのキャラは、コミュ障の上、セクシャルな快楽だけ求めるような、冷酷で自分本位な男と映った。そんな役だったら、やりたくはない。 監督のゲイリー・マーシャルとは、初対面から意気投合。ダライ・ラマやドストエフスキーの話で盛り上がったというギアは、自分が脚本に感じた不満を、マーシャルにぶつけたという。またギアは、相手役が「ほぼ新人」のジュリアだったことにも、不安を抱いていた。 そこでマーシャルは、ジュリアの初主演作『ミスティック・ピザ』(88)のビデオをギアに見せて、彼女の演技が「素晴らしい」ことを、認識させた。その上でジュリアを引き連れ、ニューヨークに住む、ギアの元へと向かった。 まだまだ出演を断る意向の方が勝っていたというギアだったが、ジュリアとの初対面の際に、彼の心変わりを誘うアクションがあった。後年ギアの語ったところによると、テーブルの向かいに座ったジュリアが、手に取ったポストイットを裏返して、彼に渡してきたのだという。そこには「『お願い、イエスと言って』と書いてあった」。18歳年下のジュリアのこの哀願を、とても可愛らしく思ったギアは、出演をOKし、数週間後に正式な契約書を交わすこととなったのである。 ギアとジュリア、マーシャルの3人はミーティングを行い、様々なアイディアを出し合った。そして打合せの後の脚本の手直しでは、ギアの意見が全面的に取り入れられることになった。 ヴィヴィアンからは、ジャンキーの設定をカット。もっと知的で、やむにやまれず娼婦の仕事をしている女性となった。因みに、ヴィヴィアンが「生まれ落ちた時と場所が悪かった」というのは、ジュリアの考えを監督が採用したものである。またジョージア州出身のジュリアに訛りが残っていたことから、ヴィヴィアンを同じ地の出身としたのも、監督の気遣いだった。 エドワードは、クールさを保ち続けるキャラだったのを変更。偶然拾ったヴィヴィアンを本物のレディに仕立てようとする中で、やがて彼女に夢中になっていく。お互いがそれぞれが属する世界から飛び出し、その世界を広げていくのである。 ヴィヴィアンに感化されたエドワードは、企業を乗っ取っては解体する、情け容赦のない実業家から変身。思いやりのある経営者へと、成長を遂げる。 作品タイトルが『3000』から、劇中に流れるロイ・オービソンの楽曲に因んだ『プリティ・ウーマン』に正式に変わったのが、いつの時点かは判然としない。しかし内容的にも、登場人物と大まかな筋書きだけ残して、この改題に沿ったような、変更が行われたわけである。 因みに、3人のミーティングが行われた時点でのエンディングは、エドワードに棄てられたヴィヴィアンが、娼婦仲間の親友とバスでディズニーランドに向かうというもの。親友がはしゃぐ横で、ヴィヴィアンは虚ろな瞳で窓の外を見て、「The End」となる…。 これがどのような形の“ハッピーエンド”に変わったかは、未見の方には、観てのお楽しみとしておく。 2人の主役が固まった後、ジュリアは役作りとして、実際に身体を売っている女性たちに、リサーチを行うことにした。マーシャル監督の妻バーバラは看護師で、ロスの無料クリニックでボランティアを行っていた関係で、そこによく来るセックスワーカーの若い女性たちと知り合いだった。彼女たちをバーバラに紹介されたジュリアは、一緒にドライヴに出掛けるなど時間を取って親しくなり、なぜその仕事を選んだのかや、どんな暮らしを送ってるかなどを、詳しく聞き込んだ。 そして本作『プリティ・ウーマン』は、1989年7月24日にクランク・インを迎えた。エドワードとヴィヴィアンが過ごすメインの舞台は、実在の超高級ホテル「リージェント・ビバリー・ウィルシャー」の1泊4,000㌦のスイートルーム。しかし娼婦が主人公の話ということもあってか、ロケの許可は下りず、ホテルは外景しか使えなかった。そのため実際は、すでに営業を停止しているホテルの中に作ったセットで、メインの撮影が行われた。 エドワードがヴィヴィアンと遭遇するシーンで運転している車は、イギリスの「ロータス・エスプリ」。これもまた、「フェラーリ」や「ポルシェ」に協力を断られたが故の、苦肉の策であったという。 撮影中も随時、セリフの書き換えなどが行われたというが、声を荒げたり等はしないマーシャル監督の演出の下、ギアとジュリアの関係も良好だった。 本作中で有名な、エドワードがダイアモンドとルビーの詰まった宝石箱をヴィヴィアンに見せるシーン。彼女の手が宝石箱に触れた瞬間、彼がふたを閉めるシーンは、ギアによるアドリブだった。吃驚したジュリアは、甲高い声で思わず笑い出してしまう。この“笑い”が、後々彼女のトレードマークとなっていったのは、ご存じの方も多いだろう。 ギアとのラブシーンには、「おじけづいて緊張した」というジュリア。ナーバスになり過ぎて、蕁麻疹が出たのに加え、額に血管が浮き出てしまった。それを監督とギアが、マッサージして沈めてくれた。 撮影で疲れ切って帰宅すると、留守番電話には、ギアからの伝言が入っている。「きょうはお疲れさま。じゃあ、またあす」 ジュリアはギアが、エドワード役を一歩下がって演じ、演技面での静の部分を受け持ってくれたことに対して。「…彼のおかげでヴィヴィアンが面白いキャラクターに仕上がった…」と、深く感謝。ギアがそうしてくれなかったら、「彼女はいかれた女の子で終わったかもしれない…」と、後に述懐している。 本作には、ホテルの支配人役で、マーシャル組の常連俳優、ギアとの共演経験もあるヘクター・エリゾンドが、出演している。劇中でヴィヴィアンのレディへの成長をサポートする役回りの彼の存在は、ジュリア本人の助けともなった。演技のことから詩のことまで、2人で色々なことを話したという。 やがてクランクアップを迎え、打上げパーティ。ドラムを叩ける監督と、本作劇中でも披露した通りのピアノの名手ギアに、ギターの弾けるスタッフ2人、そしてコントラバスが弾けるジュリアでクインテットを組んで、様々な曲を演奏した。大いにパーティが盛り上がる様は、今でもYouTubeでご覧いただける。 さて1990年3月。『プリティ・ウーマン』が全米で公開されると、この年の№1ヒットとなった。12月公開の日本でも、配給収入30億を突破!今で言えば50億興行となるなど、全世界での興行成績は、4億5,000万㌦にも達した。 ジュリア・ロバーツは、一躍スターの仲間入り。リチャード・ギアも、TOPスターに返り咲くこととなった。 これほどのメガヒットを記録したこともあり、本作の続編を望む声は絶えなかったが、結局製作されることはなかった。監督と主演2人の組合せが実現しない限り、PART2を作ることはないというのが、3人の間での共通認識であった。マーシャル監督が2016年に亡くなったことにより、その機会は永久に失われたのである。 その代わりというわけでもないが、99年には、同じ座組。ゲイリー・マーシャル監督にリチャード・ギア、ジュリア・ロバーツ、更に脇をヘクター・エリゾンドが固めるラブコメ『プリティ・ブライド』が製作され、スマッシュヒットを飛ばしている。 ジュリアは2019年のインタビューで本作について、こんな風に語っている。「今、あの映画を作ることができるとは思えない」。娼婦を主人公とした、男性優位のシンデレラストーリー。それは現代の基準で考えると、批判が避けられない。至極もっともなコメントである。 しかしその上でジュリアは、付け加えている。「だからと言って、みんなが楽しむことができなくなるとは思いません」 1990年の本作『プリティ・ウーマン』に於ける、ジュリア・ロバーツの清新な輝きと、リチャード・ギアの円熟味は、決して失われることはない。それがまた、映画の醍醐味とも言えるだろう。■ 『プリティ・ウーマン』© 1990 Touchstone Pictures. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2025.04.03
香港アクション映画の伝統に対するリスペクトが込められた、ドニー・イェン主演の猟奇犯罪カンフー・スリラー!『カンフー・ジャングル』
武術の達人ばかりを狙った連続殺人鬼の正体とは!? どちらも香港電影金像奨の最優秀作品賞に輝く『イップ・マン 序章』(’08)と『孫文の義士団』(’09)の大ヒットで名実ともにアジアを代表するトップスターとなり、幼少期から訓練を積んだ中国武術に裏打ちされた圧倒的な身体能力で「宇宙最強」とも呼ばれるようになったアクション俳優ドニー・イェンが、その『孫文の義士団』のテディ・チャン監督と再びタッグを組んだ本格的なカンフー映画である。 なおかつ、エンディングに表示される「アクション映画の出演者とスタッフに敬意を表して」とのテロップ通り、全編に渡って香港アクション映画の新旧レジェンドたちがゲスト出演および裏方スタッフとして携わっており、長きに渡って香港映画界を支えてきた武侠映画やカンフー映画の伝統に対するオマージュが捧げれている。巨匠ツイ・ハークが製作した『ガンメン/狼たちのバラッド』(’88)や『チャイニーズ・ゴースト・ストーリーⅡ』(’90)などで助監督を務め、香港版『ミッション・インポッシブル』と呼ばれた『ダウンタウン・シャドー』(’97)やジャッキー・チェン主演の『アクシデンタル・スパイ』(’01)などのアクション映画を手掛けてきたチャン監督の、偉大なる先輩や仲間たちへの大いなる愛情とリスペクトが詰め込まれた作品とも言えよう。 香港の中区警察本部に大怪我をした男性がひとりで訪れる。男性の名前はハーハウ・モウ(ドニー・イェン)。中国本土出身のハーハウは広東省仏山にある武術館・合一門(ごういつもん)の館主で、今は香港で警察学校の教官をしているのだが、一門の名声をあげるため他流派の武術家に試合を挑んだところ誤って相手を殺してしまい、自ら警察に自首してきたのである。裁判で有罪判決を受けたハーハウは、5年の懲役刑に服すこととなった。 それから3年後、拳術の達人マック・ウィンヤンが殺される。現場の状況から当初は交通事故だと思われたのだが、しかし検視の結果、マックは全身を素手で殴られて撲殺されたことが判明。この謎めいた事件に世間は騒然とする。その頃、刑務所のテレビでニュースを見たハーハウは、事件捜査を担当するロク警部(チャーリー・ヤン)に連絡したいと看守に訴えるも、無視されたことから刑務所内で大乱闘を起こす。3年間ずっと模範囚だったハーハウが、なぜ乱闘騒ぎを起こしてまで会いたがっているのか。面会に訪れたロク警部とタイ刑事(ディープ・ン)に、ハーハウは「犯人は必ずまた人を殺す」「7人の武術家たちが危ない」「捜査に協力させてくれ」と言って釈放を求めるが、ロウ警部は犯罪者の戯言だと考えて相手にしなかった。 ところがその直後、ハーハウが名前を挙げていた7人の武術家のひとり、脚技の達人タム・キンイウ(シー・シンユー)の死体が発見される。今度は蹴り殺されていた。拳術の達人が殴り殺され、脚技の達人が蹴り殺される。決して偶然ではなかろう。恐らく同一人物の犯行だ。警察の捜査に協力するため仮釈放されたハーハウは、「犯人が狙う順番はカンフーの決まり文句通り」「拳術、脚技、擒拿(きんな)術、武器、内家、五門合など」「各技のトップを殺していく」と連続殺人犯の犯行動機を分析し、次のターゲットは擒拿術の達人ワン・チー(ユー・カン)と推理するが、一歩遅くワンの職場に駆け付けると既に殺された後だった。ところが、そこでハーハウは犯人と思しき怪しげな男を発見。懸命に追いかけるも逃がしてしまい、そのままハーハウ自身も忽然と行方をくらましてしまう。 ハーハウは故郷の仏山を訪れていた。武術館をひとりで守っている亡き師匠の娘で妹弟子のシン・イン(ミシェル・バイ)に会うためだ。ふと見ると、連続殺人犯が現場に残した武器と同じものがあった。それは清代の武術対決にて、敗者に送られた恩賞「堂前の燕」のレプリカ。数か月前に武術館へ来た男が残していったという。男の名前はフォン・ユィシウ(ワン・バオチャン)。果たして、なぜフォンは武術の達人ばかり狙って人殺しを繰り返すのか。大きな手掛かりを得たハーハウは妹弟子シンを伴ってロク警部と合流し、連続殺人を食い止めるためフォンを捕らえようとするも、犠牲者はさらに増えていく…。 そこかしこに顔を出す香港アクションのレジェンドたちも見逃すな! 功名心のあまり対戦相手を殺してしまった無敵の武術家の前に立ちはだかる連続殺人鬼が、武術を殺すか殺されるかの真剣勝負だと信じて疑わず、武術界を勝ち抜いて頂点を極めるという妄執に取り憑かれたモンスターだったという皮肉な話。原題の「一個人的武林」の武林とは武侠小説に出てくる言葉で、いわゆる「武術界」のことを指す。タイトル全体の日本語訳は「ひとりで向き合う武術界」。そもそも「武林」とは武術家ひとりひとりの心の中にあるべきもの、つまり武術家それぞれに己の理想世界があることを意味するのだが、しかし自信過剰で慢心した者は最強の武術家である自分が文字通りの武術界をひとりで制しようと考えるわけで、その心の持ちようによって「ひとりで向き合う」の意味が大きく変わってしまう。現在のフォンが後者であるように、かつてのハーハウも後者だった。これは、大きな過ちを犯したことで「勝つことが全てじゃない」「名を成すことなど重要じゃない」と気付き、人生にはもっと大切なものがあると悟ったベテラン武術家が、過去の自分を怪物化したような強敵に立ち向かうことで、己の罪に決着をつけて心の平安を得る物語だと言えよう。 『孫文の義士団』の大成功を受けて、引き続き歴史劇アクションに挑もうと考えたというテディ・チャン監督。しかし脚本の執筆に時間がかかってしまい、その間に同種の作品が次々と公開されたため、当初の構想をそのまま現代劇に移し替えることにしたという。その結果生まれたのが、武侠物的な概念や精神を21世紀に落としこんだカンフー・アクション『カンフー・ジャングル』だったというわけだ。彼がそこまで武侠物やカンフーに強くこだわったのは、長らく香港映画の屋台骨を支えたそれらのジャンルがすっかり衰退してしまったから。かつて’60~’80年代にかけて、ショウ・ブラザーズの武侠アクションやゴールデン・ハーヴェストのカンフー・アクション、ジョン・ウー監督らによるノワール映画などで黄金時代を築いた香港映画界。しかし’90年代に入ってジャッキー・チェンやチョウ・ユンファ、ジョン・ウー監督にリンゴ・ラム監督など、優秀な人材が次々にハリウッドへ流出すると斜陽の時代へ突入し、さらには香港の中国返還と中国本土の経済成長によって規模の小さな香港映画界は巨大な中国映画市場へ呑み込まれ、香港独自のアクション映画の伝統ももはや風前の灯となった。そんな現状に対する忸怩たる思いと、それでもなお伝統の灯を絶やさんとする仲間たちや偉大なる先輩たちに対する深い尊敬の念が、恐らくチャン監督を突き動かしたのかもしれない。 冒頭でも言及したように、本作にはそんな香港アクション映画の新旧レジェンドたちが大挙して参加。中でも古くからの香港映画ファンにとって感慨深いのは、’70年代ショウ・ブラザーズの看板スターにして「アジアの映画王」とも呼ばれた伝説のアクション俳優デヴィッド・チャンが屋台のオヤジさん役を演じ、屋台の常連客にふんしたゴールデン・ハーヴェストの創業社長レイモンド・チョウと顔を合わせる場面であろう。他にも、『インファナル・アフェア』(’02)シリーズのアンドリュー・ラウ監督や『新ポリス・ストーリー Pom Pom』('84)や『チョウ・ユンファのマカオ極道ブルース』('87)のジョー・チョン監督、『マトリックス』('99)シリーズの武術指導でも有名なディオン・ラムに『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ』('91)や『チャーリーズ・エンジェル』('00)の武術指導で知られるユエン・チュンヤン、『ワイルド・ブリット』('90)や『狼たちの絆』('91)などジョン・ウー作品でもお馴染みのカースタント監督ブルース・ローなどが登場。本編のラストに全員紹介されるので要チェックだ。 もちろん、主人公ハーハウを演じるドニー・イェンと狂気に取り憑かれた殺人犯フォン役のワン・バオチャンによる、もはや壮絶としか言いようのない圧巻のカンフー・バトルも見逃せない。シリアスからコメディまで幅広くこなせる芸達者な中国本土出身の俳優で、当時はアクション映画のイメージなどほぼなかったワン・バオチャンだが、実は幼少期から少林寺に入門して訓練を積んだという本格的な武術家。『イノセントワールド-天下無賊-』('04)のプロモーションで香港を訪れた際に憧れのドニー・イェンと初対面し、是非一緒にアクション映画をやりたいと猛アピールしていたらしい。念願叶って前作『アイスマン』(’14)でドニーと初共演。続く本作で敵役としてガッツリと全面対決することとなったのだ。 そのドニー・イェン自身がアクション監督を担当。当初の構想ではドニーがひとりで全てのアクションを振りつけるつもりだったが、しかし別の作品とスケジュールが被ったため不可能となり、代わりに香港アクション協会の会長でもある『男たちの挽歌』(’86)や『チャイニーズ・ウォリアーズ』(’87)のトン・ワイ、『ドラゴン・イン/新龍門客棧』(’92)や『ドラゴンゲート 空飛ぶ剣と幻の秘宝』(’11)のユン・ブンなど超一流の武術指導者たちが、それぞれの持ち味を生かした振り付けを担当。おかげでバラエティも個性も豊かなカンフー・アクションを存分に楽しむことが出来る。中でも、車やトラックの行き交う公道を舞台にして繰り広げられるクライマックスの頂上決戦は手に汗握る迫力だ。■ 『カンフー・ジャングル』© 2014 Emperor Film Production Company Limited Sun Entertainment Culture Limited All Rights Reserved