COLUMN & NEWS
コラム・ニュース一覧
-
COLUMN/コラム2019.01.01
フロイト的解釈で、良心とセックスを描く『昼顔』。ブニュエル監督曰く、その難解なオチの意味とは!?
スペインを代表する巨匠ルイス・ブニュエル。盟友サルヴァドール・ダリと組んだシュールリアリズム映画の傑作『アンダルシアの犬』(’29)で監督デビューし、社会リアリズム的な『忘れられた人々』(’50)から文芸ドラマ『嵐が丘』(’53)、冒険活劇『ロビンソン漂流記』(’54)、そして『皆殺しの天使』(’62)や『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』(’72)のような不条理劇に至るまで、幅広いジャンルの映画を世に送り出したが、その中でも最も興行的な成功を収めたのが、第28回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を獲得した『昼顔』(’67)である。 原作はフランスの作家ジョゼフ・ケッセルが1928年に発表した同名小説。当時、長年住み慣れたメキシコを離れ、『小間使いの日記』(’63)を機にフランスへ拠点を移していたブニュエルは、『太陽がいっぱい』(’60)や『エヴァの匂い』(’62)で知られる製作者コンビ、アキム兄弟から本作の映画化を打診される。既に何人もの監督に断られた企画だったらしく、ブニュエル自身も全く気に入らなかったらしいのだが、むしろそれゆえ「自分の苦手な作品を好みの作品に仕上げる」ことに興味を惹かれて引き受けることにしたのだそうだ。 そこで、ブニュエルは『小間使いの日記』で既に組んでいた新進気鋭の脚本家ジャン=クロード・カリエールに共同脚本を依頼する。当時、ルイ・マル監督作『パリの大泥棒』(’66)の撮影でサントロペに滞在していたカリエールは、ブニュエルから「『昼顔』の映画化に興味はないか」との電話連絡を受けて、「あんな下らない凡作を映画にするんですか?」と違う意味で驚いたらしい(笑)。しかし、「原作にフロイト的な解釈を加えて、良心とセックスの関係性を描く」というブニュエルのコンセプトに関心を持ち、協力することを承諾したという。 主人公はパリに住むブルジョワ階級の人妻セヴリーヌ(カトリーヌ・ドヌーヴ)。医者である夫ピエール(ジャン・ソレル)を心から愛している彼女だが、この仲睦まじい夫婦は重大な問題を抱えていた。セヴリーヌがいわゆる不感症で、夜の性生活が皆無に等しかったのである。そんなある日、女友達ルネ(マーシャ・メリル)から共通の知人が陰で売春をしているとの噂を耳にして関心を持ったセヴリーヌは、夫の親友ユッソン(ミシェル・ピッコリ)に場所を教えてもらった売春宿を訪れる。そして、マダムのアナイス(ジュヌヴィエーヴ・パージェ)から「昼顔」という源氏名を与えられ、午後の2時から5時までという条件で働くことになるのだった。 舞台を制作当時の現代へ移しているものの、基本的なプロットは原作とほぼ同じ。しかし、ブニュエルはそこへフロイト的な精神分析学の要素を加える。どういうことかというと、主人公セヴリーヌの深層心理を表すドリーム・シークエンスを随所に挿入しているのだ。それはいきなりストーリーの冒頭から描かれる。馬車に乗ったセヴリーヌとピエール。妻の不感症を責めるピエールは、2人の御者に命じてセヴリーヌを馬車から引きずり降ろし、激しく鞭で打ったうえにレイプさせる。夫の許しを請い抵抗しつつも、しまいには恍惚の表情を浮かべるセヴリーヌ。次の瞬間、シーンは寝室で語らう夫婦の様子へと切り替わり、以上がセヴリーヌの妄想であったことに観客は気付く。ここでハッキリと示されるのは、夫の性的な期待に応えられないことに対するセヴリーヌの罪悪感と、本当は強引に組み伏せられて凌辱されたいというマゾヒスティックな彼女の性的願望だ。 これはある意味、セックスの不条理を描いた作品といえるだろう。心では紳士的で優しい夫ピエールを愛するセヴリーヌだが、しかし彼女の体は暴力的で屈辱的な快楽を求めており、それゆえに温厚なピエールが相手では決して満たされることがない。しかも、彼女は自分のそうした淫らな欲望(ひいてはセックスそのもの)を「汚らわしい」ものと恥じており、こんな私はピエールの妻として失格だと考えているふしがある。彼を受け入れたら私の本性がバレてしまうかもしれない。だからこそ、夜の営みを拒絶してしまうのだ。 でも他の女性はどうなのだろう?みんなはどんなセックスをしているのか?そんな折、自分と身近なブルジョワ女性が売春をしているとの噂を耳にして、彼女はいてもたってもいられなくなる。しばしば、セヴリーヌがアナイスの売春宿で働き始めたのは、不感症を克服して夫の期待に応えるためと解釈されるが、それはちょっと違うのではないだろうか。まあ、結果的にそうなることは確かなのだが、むしろ己の不条理な性的欲望の正体を確かめるための探求心が原動力だったのではないかと思うのだ。 と同時に、本作は「女性の性」にまつわる「神話」を破壊するものでもある。ピエールはセヴリーヌに決してセックスを強要しない。拒絶されるたびに我慢して受け入れる。それはそれで良識的な行動であることは間違いないのだが、恐らくその根底には自分の愛する女性は純粋であって欲しい、貞淑な良妻賢母であって欲しいという願望があることは間違いないだろう。彼女に秘めたる欲望があるとは想像もしていない。つまり、セヴリーヌを勝手に美化しているのである。これは多かれ少なかれ男性が陥る罠みたいなものだ。彼が本来すべきは、何が問題なのかを彼女と話し合って解決していく姿勢なのだが、「男性と同じく女性にも性的欲求がある」という認識が欠如しているため、なかなかそこまで至らない。そういう意味では、セヴリーヌ自身も道徳的な「女性神話」に縛られている。だから自分の願望を口にすることが出来ず、愛しあいながらも夫婦の溝が深まってしまうのだ。 かくして、昼間は不特定多数の男を相手にする売春婦、夜は貞淑なブルジョワ妻という二重生活を送ることになるセヴリーヌ。最初のうちこそ強い抵抗感を覚えていたものの、様々な変わった性癖を持つ男性客や自由奔放な同僚女性たちと接するうち、次第に淫らな性の快楽を受け入れていく。女性に凌辱されて悶える中年男を見て「おぞましい」と言っていたくせに、大柄な東洋人男性から乱暴に扱われて恍惚の表情を浮かべるセヴリーヌ。それはさながら「女性神話」の呪縛からの解放であり、「私は決しておかしいわけじゃない」と彼女が己のマゾヒスティックな性欲を肯定した瞬間だ。そうやって徐々に自信を強めるに従って、それまでどこか他者に対して冷たかった彼女の態度は明らかに柔和となり、ピエールとの夫婦関係も格段に改善していく。ある意味、ようやく自分の人生を取り戻したのだ。 面白いのは、セヴリーヌがそうやって自信を付けていく過程で、現実と妄想の境界線もどんどんと曖昧になっていく点だ。例えば、カフェでお茶をしていたセヴリーヌが謎めいた貴族男性(ジョルジュ・マルシャル)に誘われ、彼の豪邸で喪服(といっても全裸にシースルー)に着替えて死んだ娘を演じるというシーンなどは、現実に起きたことともセヴリーヌの白日夢とも受け取れる。これはブニュエル自身があえて狙った演出だ。そもそも、セヴリーヌにとって貞淑な妻でいなくてはならない現実は悪夢みたいなもの。むしろ、己の性的願望を投影した妄想の世界こそが彼女にとってのリアルだ。なので、自己肯定を強めていくに従い、その境界線が曖昧になっていくのは必然とも言えるだろう。 ところが、やがてセヴリーヌにとって想定外の事態が起きる。横柄で乱暴なチンピラ、マルセル(ピエール・クレマンティ)との出会いだ。兄貴分のイポリート(フランシスコ・ラバル)に誘われ売春宿を訪れたマルセルは一目でセヴリーヌを気に入り、彼女もまた激しく暴力的に抱いてくれるマルセルの肉体に溺れる。といっても、もちろん愛しているわけじゃない。セックスの相性が抜群なのだ。しかし、単細胞なマルセルは勘違いしてしまう。次第にストーカーと化し、足を洗ったセヴリーヌの自宅を突き止めて押し入るマルセル。その結果、夫ピエールはマルセルに銃撃され、その後遺症で全身が麻痺してしまう。 この終盤のベタベタにメロドラマチックな展開も原作とほぼ同様。恐らく、原作を読んだブニュエルが「まるでソープオペラだ」と揶揄していた部分と思われる。だからなのだろう、最後の最後に彼は冗談なのか真面目なのか分からないオチを用意し、観客を大いに戸惑わせる。これもまたセヴリーヌの妄想なのか?それとも、ここへたどり着くまでの全てが彼女の思い描いた夢物語だったのか?見る人によって様々な解釈の出来るラストだが、ある種の爽快感すら覚えるシュールな幕引きは、本作が女性の魂の解放をテーマにした不条理劇であることを伺わせる。シュールリアリストたるブニュエルの面目躍如といったところだろう。 ちなみに、劇中で東洋人男性(日本人とも受け取れる描写があるものの、脚本家カリエールは中国人だと言っている)が、売春婦たちに見せて回るブンブンと音が鳴る箱。あの中身が何なのか?と疑問に思う観客も多いことだろう。中身を見たマチルダ(マリア・ラトゥール)は嫌な顔をして目を背けるが、しかしセヴリーヌは興味深げにのぞき込む。観客には一切見せてくれない。実はブニュエルもカリエールも、あの中身については全く考えていなかったらしく、見る者の想像に任せるとのこと。そういえば、ブニュエルは本作のラストについても「自分でもよく意味が分からない」と言っていたそうだ。なんとも人を食っている(笑)。 また、本作は主演のカトリーヌ・ドヌーヴとブニュエルの折り合いが悪かったとも伝えられているが、カリエールによると実際に険悪なムードになったことはあったそうだ。そもそもの発端は、撮影が始まって2~3日目に、ドヌーヴと夫役ジャン・ソレルが脚本のセリフに異議を唱えたこと。ちょっとセリフが陳腐じゃないか?と感じた2人は、自分たちで書き直したセリフを現場に持ち込んでブニュエルに変更を申し出たのだ。それを読んだブニュエルは、その場でにべもなく提案を却下。ドヌーヴとソレルは納得がいかない様子だったらしい。だからなのか、ドヌーヴは全裸でベッドに座って振り返るシーンの撮影で脱ぐことを断固として拒否。これにはブニュエルも激しく怒り、ドヌーヴがショックで気を失うほど怒鳴り散らしたという。結局、その日の撮影はそのまま中止に。しかし、翌日ドヌーヴはちゃんとセットに現れ、言い過ぎたことを反省したブニュエルがさりげなく声をかけると、それ以降は監督の指示に素直に従うようになり、撮影が終わる頃には強い信頼関係で結ばれていたそうだ。 なお、本作はドヌーヴをはじめとする女優陣がとにかく魅力的だ。セヴリーヌの女友達ルネには、『サスペリアPART2』(’75)の霊媒師ヘルガ・ウルマン役でもお馴染みのマーシャ・メリル、売春宿の女将アナイスには『エル・シド』(’61)などハリウッド映画でも活躍した名女優ジュヌヴィエーヴ・パージェ、気の強い売春婦シャルロット役には『マダム・クロード』(’77)で高級売春組織の元締マダム・クロードを演じたフランソワーズ・ファビアン。豪華な美女たちを眺めているだけでも楽しい。■ © Investing Establishment/Plaza Production International/Comstock Group
-
NEWS/ニュース2019.01.01
【TV初】『(吹)LIFE!/ライフ[ザ・シネマ新録版]』制作&放送!主演ベン・スティラー役に堀内賢雄さんが決定!
ザ・シネマは、新たな声優を迎えた新録吹き替え版を制作、2月に『(吹)LIFE!/ライフ[ザ・シネマ新録版]』として放送します。そして、主演のベン・スティラー役に堀内賢雄さんが決定しました! ザ・シネマでは、過去に民放TVの洋画番組を見て育った洋画のファンの方に向けた「この俳優にはこの声優」というこだわりの吹き替え版の放送に力を入れています。2011年の『ブレードランナー ファイナル・カット [日本語版]』、2017年の「エイリアン」シリ―ズ第5作『(吹)プロメテウス[ザ・シネマ新録版] 』に続き、三度目の新録版は、TV初の『(吹)LIFE!/ライフ[ザ・シネマ新録版]』(2019年2月24日(日)21時~放送)を制作・放送します。本作は、ジェームズ・サーバー氏の短編小説の映画化『虹を掴む男』をベン・スティラー監督・主演でリメイクした人気作。リストラ対象とされた中年男性が、自分の人生を強く掴みなおすまでを描いた感動の人間ドラマです。ザ・シネマでは、主演のベン・スティラー(ウォルター・ミティ役)の吹き替えに堀内賢雄さんを起用。堀内さんはこれまでに『ナイト ミュージアム/エジプト王の秘密』や『ズーランダー』などでベン・スティラーの吹き替えを担当されてきました。堀内さんが主人公の心の機微をどのように演じるのか、期待が高まります。その他のキャスト情報は随時、発表いたします。ご期待ください! <ザ・シネマの視聴方法はコチラ> 【TV初】2月放送番組『(吹)LIFE!/ライフ[ザ・シネマ新録版]』放送日:2月24日(日)21:00~/2月28日(木)10:45~ 空想癖のサエない男が本物の冒険に飛び出す!ベン・スティラーが監督・主演を兼任して描く人生賛歌<解説>ダニー・ケイ主演作『虹を掴む男』をベン・スティラー監督&主演でリメイク。空想癖を持つ主人公の冒険世界をVFXアクション満載に描く一方、本物の冒険シーンは壮大な自然をバックに生命力豊かに映し出す。<あらすじ>雑誌『LIFE』のネガ管理部に勤めるウォルターは、空想の世界で冒険を繰り広げることで退屈な人生から現実逃避していた。しかし自分を変える勇気はなく、想いを寄せる同僚シェリルにも話しかけられない始末。そんなある日、経営陣の交代に伴って『LIFE』の廃刊が決まり、ウォルターは写真家ショーンから最終号の表紙を飾るネガを受け取る。ところが大事なネガが行方不明となり、ウォルターはショーンを捜すため冒険の旅に出る。2013/アメリカ/監督・製作:ベン・スティラー/出演:ベン・スティラー、クリステン・ウィグ、アダム・スコット、キャスリン・ハーンほか 番組情報はコチラ ★主演ベン・スティラー役:堀内賢雄さんプロフィール★ 7月30日生まれ。静岡県出身。洋画吹き替えを中心に活躍しており、ブラッド・ピットやベン・スティラーの吹き替えで知られる。主な出演作に、「フラーハウス」(ジェシー)、「シャークネード」シリーズ(フィン)、「マリアンヌ」(マックス・ヴァタン)、アニメ「ジョーカーゲーム」(結城中佐)、「鬼平」(長谷川平蔵〈鬼平〉)、ONEPIECE(錦えもん)ゲーム「グランブルーファンタジー」(ウリエル、ハクタク)、「メタルギア ライジング リベンジェンス」(雷電)など。 <ザ・シネマの視聴方法はコチラ>
-
COLUMN/コラム2018.12.29
反ナチスに身を捧げた女性闘士ジュリアは本当に存在したのか、それとも…!?『ジュリア』
「反骨の劇作家」とも呼ばれたアメリカの女流劇作家リリアン・ヘルマン。’30年代に『子供の時間』や『子狐たち』といったブロードウェイの舞台戯曲を大ヒットさせて有名人となり、『ラインの監視』(’40)や『逃亡地帯』(’66)など映画の脚本家としても活躍。『子供の時間』は『噂の二人』(’61)として、『子狐たち』は『偽りの花園』(’42)として映画化もされた。そんな彼女の名声を一層のこと高めたのが、1952年5月21日に開かれた下院非米活動委員会の公聴会で読み上げた声明文だ。 第二次世界大戦前の一時期アメリカ共産党に加入し、ソビエトのスターリン政権を強く支持していたリリアン。長年のパートナーであるミステリ作家ダシール・ハメットも共産党員で、労働者運動や公民権運動の熱心な活動家だった。なので、おのずと赤狩りの時代になると反米的な要注意人物としてマークされ、下院非米活動委員会の公聴会へ呼び出されることとなる。友人・知人の共産主義者を告発しろというのだ。しかし、リリアンはこれを断固として拒否。「たとえ自分を守るためでも友人を売り渡すことは出来ない」「社会の風潮に迎合して良心を捨てることは出来ない」との声明文を読み上げたのだ。その結果、ハリウッドのブラックリスト入りし、しばらく映画界での仕事を出来なかったリリアンだが、一方でその高潔で勇気ある行動により、多くの人々から尊敬を集めることとなった。まあ、そもそも彼女の主戦場はブロードウェイの演劇界であるため、ハリウッド映画界のブラックリスト入りはさほど大きなダメージでもなかったのだが。 そんな女傑リリアンは、生涯で3冊の自伝本を出版している。『未完の女』(‘69年刊)、『ペンティメント(邦題:ジュリア)』(‘73年刊)、そして『眠れない時代』(’76年刊)だ。その中の『ペンティメント』は、リリアンが自らの人生で出会った様々な人々についての想い出を綴った短編集。そこに登場したリリアンの幼馴染とされる女性ジュリアのエピソードを映画化したのが、巨匠フレッド・ジネマン監督のアカデミー賞3部門受賞作『ジュリア』(‘77)だった。ここであえて「とされる」と表現したことの意味は、後ほど詳しく説明させて頂こう。 物語の舞台は1930年代。同居する恋人ハメット(ジェイソン・ロバーズ)の勧めで戯曲を書き始めたリリアン(ジェーン・フォンダ)だが、スランプに陥って執筆がなかなか進まなかった(当時のリリアンは映画会社MGMで、映画化候補の小説や文学のあらすじを要約する仕事をしていた)。そんな彼女が思い出すのは、幼なじみの大親友ジュリア(ヴァネッサ・レッドグレーヴ)のこと。大富豪の令嬢として生まれ育ったジュリアは、少女時代から聡明で知的で意志が強く、引っ込み思案なリリアンにとって憧れの女性像そのものだった。 長じてイギリスのオックスフォード大学で医学生となったジュリアは、労働者の人権や貧困などの社会問題に強い関心を持つようになり、やがてフロイトに学ぶためウィーンの医大へ転入すると反ナチスの地下運動に傾倒していく。一方、ハメットの勧めで作品を仕上げるためパリへ赴いたリリアンは、そこでジュリアの医大がナチスに襲撃されて多数の死傷者が出たとの報道を知り、急いでウィーンへと駆け付ける。そこで彼女が見たのは、大怪我をして病院のベッドに横たわるジュリアの姿。ところが、すぐにジュリアは手術のため病院から移送され、そのままプッツリと消息を絶ってしまった。 その後、戯曲『子供の時間』の大ヒットで一躍有名人となったリリアンは、モスクワで開催される演劇祭へ招待され、パリからウィーン経由でソビエト入りすることとなる。ところが、パリのホテルでジュリアの同志ヨハン(マクシミリアン・シェル)がリリアンに接触し、経由地をウィーンではなくベルリンに変更して欲しいと申し出る。反ナチ組織の活動資金5万ドルをベルリンにいるジュリアへ届けるためだ。ユダヤ人であるリリアンにとって必ずしも安全とは言えないが、しかし彼女は最愛の親友のため、意を決して運び屋役を引き受けることにする。かくして、厳しい監視体制の敷かれたナチス支配下のベルリンへと夜行列車で向かうリリアンだったが…。 年老いたリリアンの回想形式で描かれる、リリアンとジュリアの瑞々しくも切なく哀しい友情ドラマ、そして激動する戦前ヨーロッパを舞台にした緊迫のサスペンス。リリアン役のジェーン・フォンダは、最初の夫ロジェ・ヴァディムとの間に出来た長女にヴァネッサと名付けるほど、ジュリア役のヴァネッサ・レッドグレーヴに憧れて崇拝していたらしく、それがそのまま劇中のリリアンとジュリアの関係に重ね合わせることが出来て興味深い。ハメット役ジェイソン・ロバーズの渋い枯れた味わいも素晴らしいし、フレッド・ジンマン監督の折り目正しい演出にも風格がある。リリアンの軽薄な友人アン・マリー役のメリル・ストリープ、少女時代のジュリア役リサ・ペリカンと、これが映画デビューだった女優2人も印象深い。しかし何よりも、マッカーシズムに対抗した女性闘士リリアン・ヘルマンが、活動家の友人のためとはいえ、実は反ナチ活動にも貢献していたというエピソードは少なからぬ驚きであろう。
-
COLUMN/コラム2018.12.22
「ビルとテッド」シリーズのアレックス・ウィンター初監督作はマニア泣かせの“ホラー・ギャグ”満載!
最近は、犬しか友だちがいない殺し屋とか、ハリウッドで一人寂しくたたずむフィギュアとか、鬱なイメージのキアヌ・リーヴスだが、最初にブレイクした『ビルとテッドの大冒険』(89 年)では、陽気でカラッポな高校生テッド役だった。続編『ビルとテッドの地獄旅行』(91年)もヒットし、3本目が期待されていた93年にひっそりアメリカで公開されたのが、ビル役のアレックス・ウィンターが脚本・監督・主演の『ミュータント・フリークス』だった。フリークスとはトッド・ブラウニング監督『フリークス』(32年)のフリークス。というか、石井輝男監督『恐怖奇形人間』(69年)のお笑い版。こりゃ、ひっそり公開するしかないわな。 ウィンター扮する映画俳優が、ランディ・クエイド扮するマッド・サイエンティストによって奇形人間に改造されてサーカスの見世物にされる、という話だが、中身は徹底的にデタラメ。フロッグマン(カエル男)という名で出てくるのは潜水夫(フロッグマン)だし、5秒ごとにくーだらないギャグの連続で最後までぶっ飛ばす。当時は世界最高の美女だったブルック・シールズが本人役で出ているが、これがまあトンデモない役で……。 でも、スタッフは無意味に豪華。特殊メイクはスクリーミング・マッド・ジョージだったり、ストップ・モーション・アニメがデヴィッド・アレンだったり、主題歌はバットホールサーファーズやヘンリー・ロリンズやジョージ・クリントンやビル・ラズウェルだったり……。 クレジットされてないが、相棒のキアヌもちゃんと出ている。犬少年役でずっと画面に映ってた。最後まで特殊メイクのままだが。それに、カウボーイ役で『ウィンターズ・ボーン』や『スリー・ビルボード』の渋いオヤジ役のジョン・ホークスも出ている。カウボーイといっても牛人間なのでやっぱりずっとメイクのままだが。 今回、見直して驚いたのは、ロブ・ゾンビ監督の『マーダー・ライド・ショー』(03年)の舞台設定などに大きな影響を与えていること。それに、ミスターT扮するヒゲ令嬢が「これが私 This is me」と力強く言うシーン。そう、『グレイテスト・ショーマン』のヒゲ令嬢が歌う「ディス・イズ・ミー」はこれが原点だったのだ!絶対!いや、きっと、たぶん。 『ミュータント・フリークス』は長い間プリントが失われ、DVD出なかったが、最近発見されてカルト映画になった。アレックス・ウィンターは『ビルとテッド』3作目の製作を宣言。大スターになったキアヌは必ず出演すると誓っている。いい奴。■ (文/町山智浩) © 1993 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.
-
NEWS/ニュース2018.12.20
★本日★動画公開!東京コミコン公開収録『町山智浩のVIDEO SHOP UFO in 東京コミコン』&プレゼント応募開始!
「町山智浩のVIDEO SHOP UFO」の東京コミコンでの公開収録の動画を本日公開しました! 当日の模様を臨場感たっぷりにお届け! 『ミュータント・フリークス【町山智浩撰】』本日の深夜 01:15~に放送の前にぜひ、ご覧ください! また、放送にあわせ、『町山智浩のVIDEO SHOP UFO』プレゼントキャンペーン実施! ◎町山さん直筆サイン入りの番組特製「クリアファイル」を3名様◎ザ・シネマのチャンネル特製「サコッシュ(肩かけトートバック)」を5名様 詳しくはコチラをご確認ください。 ★予習&復習に関連ニュース★ 町山さん自身が披露@コミコン! 来年1月〜3月の『VIDEO SHOP UFO』ラインナップ ★イベントレポート★『町山智浩のVIDEO SHOP UFO in 東京コミコン』映画『ミュータント・フリークス』を徹底解説! 『ミュータント・フリークス【町山智浩撰】』番組情報はコチラ初回放送:12月20日(木) 深夜 01:15~再放送:12月24日(月) 深夜 01:00 - 03:15再放送:12月29日(土) 深夜 02:00 - 04:15 『町山智浩のVIDEO SHOP UFO』の番組情報はコチラ ザ・シネマの視聴方法はコチラ 『ミュータント・フリークス【町山智浩撰】』© 1993 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.
-
COLUMN/コラム2018.12.19
“映画史”の転換点に立ち会った2人…“スライ”と“ボブ”がスクリーン上で邂逅『コップランド』
「スタローン壮絶。デ・ニーロ超然。」 これが本作『コップランド』が、1998年2月に日本公開された際のキャッチフレーズ。そこからわかる通り、本作最大の売りは、シルベスター・スタローンとロバート・デ・ニーロ、2大スターの“初共演”だった。 そもそもこの2人、同時代のアメリカ映画を牽引して来た存在ながら、共演など「ありえない」ことと、長らく思われてきた。それは偏に、スターとしての、それぞれの歩みの違いによるものだった。 シルベスター・スタローン、通称“スライ” 。スターとしての全盛期=1980年代から90年代に掛けては、鍛え上げたムキムキの肉体で、ボディビルダー出身のアーノルド・シュワルツェネッガーと、“アクションスターNo1”の座を争っていたイメージが強い。 そんな中でも代表作はと問われれば、誰もがまずは『ロッキー』(1976~ )シリーズ、続いて『ランボー』(1982~ )シリーズを挙げるであろう。特にプロボクサーのロッキー・バルボア役は、スタローンが最初に演じてから40年以上経った今も、『ロッキー』のスピンオフである『クリード』シリーズに、登場し続けている。 一方のロバート・デ・ニーロ、愛称“ボブ”の場合は、“デ・ニーロ・アプローチ”という言葉が一般化するほどに、徹底した役作りを行う“演技派”といったイメージが、まずは浮かぶ。 “デ・ニーロ・アプローチ”の具体例は、枚挙に暇がない。出世作『ゴッドファーザーPARTII』(1974)では、前作でマーロン・ブランドが演じたドン・ヴィトー・コルレオーネの若き日を演じるため、コルレオーネの出身地という設定のイタリア・シチリア島に住み、その訛りが入ったイタリア語をマスター。その上で、ブランドのしゃがれ声を完コピした。 『タクシードライバー』(1976)の撮影前には、ニューヨークで実際にタクシー運転手として勤務したデ・ニーロ。街を流して乗客を乗せたりもした。 特に有名なのが、実在のプロボクシングミドル級チャンピオン、ジェイク・ラモッタを演じた『レイジング・ブル』(1980)での役作り。まずトレーニングで鋼のような肉体を作ってボクサーを演じた後、引退後に太った様を表現するため、短期間に体重を27キロ増やすという荒業をやってのけた。 そんなこんなで、パブリックイメージとしては、マッチョなアクションスターのスライと、全身全霊賭けて役になり切るボブ。そんな2人の共演など、「ありえない」ことになっていたわけである。 しかしこの2人の俳優の歩みを振り返ると、スタートの時点では、そんなに縁遠いところに居たわけではない。 その起点は、1976年。 まずはマーティン・スコセッシ監督の『タクシードライバー』が、2月にアメリカで公開された。主演のデ・ニーロが演じたのは、「ベトナム帰りの元海兵隊員」を名乗る、不眠症の孤独なタクシー運転手トラヴィス。彼はニューヨークの夜の街を走り続ける内に、次第に狂気を募らせて、やがて銃を携帯。過激で異常な行動へと、走るようになる…。 デ・ニーロは、この2年前の『ゴッドファーザーPARTⅡ』でアカデミー賞助演男優賞を受賞して、「最も期待される若手俳優」という位置を既に占めていたが、『タクシー…』はメジャー作品としては、初の主演作。公開後の5月には『タクシー…』が、「カンヌ映画祭」の最高賞である“パルム・ドール”を受賞したことなどもあり、その評価を更に高めることとなった。 同じ年の11月に公開されたのが、スタローンが脚本を書き主演を務めた、『ロッキー』である。うだつの上がらない30代の三流ボクサーであるロッキーが、世界チャンピオンから“咬ませ犬”として指名され、挑戦することになる。とても勝ち目がない勝負と思われたが、「もし最終ラウンドまでリングの上に立っていられたら、自分がただのゴロツキではないことが証明できる」と、愛する女性に告げて、ファイトに挑んでいく…。 この作品が製作され公開に至るまでの経緯は、もはやハリウッドの伝説になっている。ある時、プロボクシングの世界ヘビー級タイトルマッチを、偶然に視聴したスタローン。偉大なチャンピオン=モハメド・アリに、ノーマークのロートルボクサー=チャック・ウェプナーが挑んで、大善戦したのを目の当たりにして感動。3日間で『ロッキー』の脚本を書き上げた。持ち込まれたプロダクション側は、スター俳優の起用を前提に、脚本に数千万円の値を付けた。しかし当時まったく無名の存在だったスタローンは、自らが主演することを最後まで譲らず、結局は最低ランクの資金で製作されることとなった。 そうして完成した『ロッキー』は、公開されるや誰もが予想しなかったほどの大ヒットに!正に、“アメリカン・ドリーム”を体現する作品となった。 デ・ニーロとスタローンにとって、“主演スター”としての第一歩になった、『タクシードライバー』と『ロッキー』は、その年の賞レースを席捲。翌77年の3月に開催されたアカデミー賞で、2人は“主演男優賞”部門で覇を競うこととなった。 両作は“作品賞”部門にも、共にノミネート。この激突はいま振り返れば、映画史的に非常に興味深い。 1967年の『俺たちに明日はない』以来、70年代前半まで映画シーンをリードしてきたのが、“アメリカン・ニューシネマ”というムーブメント。ベトナム戦争の泥沼化やウォーターゲート事件などで、アメリカの若者たちの間で自国への信頼が崩壊する中で、アンチヒーローが主人公で、アンチハッピーエンドが特徴的な作品が、次々と作られていった。 『タクシー…』は、そんな夢も希望もない内容の、“アメリカン・ニューシネマ”最後の作品と位置付けられている。 一方で『ロッキー』は、当初は“ニューシネマ”さながらに、主人公が試合を途中で投げ出す展開も考えられていたというが、結局は、“アメリカン・ドリーム”を高らかに歌い上げる結末を迎える。今では、翌年の『スター・ウォーズ』第1作(1977)と合わせて、“ニューシネマ”に引導を渡す役割を果たしたと言われている。 そんな因縁はさて置き、1976年度のアカデミー賞“主演男優賞”部門に、話を戻す。海外のニュースがネットで瞬時に伝わる今とは違って当時は、アカデミー賞の戦前予想は、月刊の“映画雑誌”などで読む他はなかった。それによると、“主演男優賞”はデ・ニーロ本命、対抗がスタローンといった雰囲気が伝わってきた。 ところが、ところがである。蓋を開けてみると、“主演男優賞”を獲得したのは、『ネットワーク』に出演したピーター・フィンチだった。 シドニー・ルメット監督が、視聴率獲得競争を描いてメディア批判を行ったこの作品に於いて、徐々に狂気に蝕まれていく報道キャスターを演じたフィンチは、役どころ的には、本来は“助演”ノミネートが相応しいと言われていた。しかしノミネート発表直後に、心不全で急死。同情票を集めることとなり、アカデミー賞の演技部門史上初めて、死後にオスカー像が贈られることとなったのである。 『ネットワーク』もフィンチの演技も、腐す気はまったくない。しかし40余年経った今、この結果と関係なく、『タクシー…』のデ・ニーロや『ロッキー』のスタローンの方が、未だに熱く語られる存在であることを考えると、賞など正に水物であることが、よくわかる。 とはいえ“アカデミー賞”が、映画人にとって最大の栄誉の一つであることには、疑いもない。『タクシー…』で本命と目されながらも逃したデ・ニーロは、1978年度にマイケル・チミノ監督の『ディア・ハンター』での2度目のノミネートを経て、80年度にスコセッシ監督の『レイジング・ブル』で、遂に“主演男優賞”のオスカー像を手にすることとなる。 これ以降もデ・ニーロは、名コンビとなったスコセッシ監督作品他で、多くの者がお手本にするような俳優として、キャリアを積み重ねていく。そしてアカデミー賞にも、度々ノミネートされることとなる。 一方のスタローン。『ロッキー』では“主演男優賞”に加えて、“脚本賞”にもノミネートされていたが、こちらも『ネットワーク』脚本のパディ・チャイエフスキーに攫われてしまった。『ロッキー』自体は、“作品賞”、“監督賞”、“編集賞”の3部門を制覇。『タクシードライバー』が無冠に終わったのに対し、大勝利と言える成果を収めたが、以降スタローンとアカデミー賞は、長く疎遠な関係となる。 『ロッキー』で大成功を収めた後の主演作となったのが、『フィスト』(1978)。スタローンは、労働組合の大物指導者でありながら、マフィアとの癒着が噂され、最終的には謎の失踪を遂げた実在の人物、ジミー・ホッファをモデルにした主人公を演じた。監督に起用されたのは、『夜の大捜査線』(1967)でアカデミー賞監督賞を受賞し、他にも『屋根の上のバイオリン弾き』(1971)『ジーザス・クライスト・スーパースター』(1973)などの作品を手掛けてきた、ノーマン・ジュイスン。 明らかに賞狙いの作品であった『フィスト』だが、大きな話題になることもない失敗作に終わった。同じ1978年には、スタローンが初監督もした主演作『パラダイス・アレイ』も公開されたが、『ロッキー』に続くスタローン主演作のヒットは、翌79年の続編、『ロッキー2』まで待たねばならなかった。 このように、暫しは『ロッキー』シリーズ以外のヒットがなかったスタローンだが、1980年代に、ベトナムから帰還したスーパーソルジャーを主人公にした、『ランボー』シリーズがスタート!スタローンは、アクションスターとしての地位を確立していくと同時に、1984年以降は、毎年アカデミー賞授賞式の前夜に「最低」の映画を選んで表彰する、“ゴールデンラズベリー賞=ラジ―賞”受賞の常連となっていった…。 “マネーメイキングスター”としては、常にTOPの座を争いながらも、その“演技”が評価されることは、まず「ない」存在となったスタローン。しかし彼もスタート時点は、マーロン・ブランドのような性格俳優に憧れて、初主演作では“アカデミー賞”にノミネートされた、立派な“俳優”である。アクションではない“演技”で注目されたいという気持ちは、常にあったものと思われる。 そんな彼が、50代を迎えて主演作に選んだのが、本作『コップランド』であった。ニューヨーク市警の警官が多く住むため、“コップランド”と呼ばれる郊外の町ギャリソンを舞台にしたこの作品で、スタローンが演じたのは、落ちこぼれでやる気のない中年保安官。しかし、殺人まで絡んだ警察内の不正に目を瞑ることが出来なくなり、遂には孤高の戦いを繰り広げることとなる。 スタローンは、低予算ながらドラマ性の高い本作への出演を、ほぼノーギャラで受けた。そして主人公の保安官の愚鈍さを表すために、15キロも体重を増やす、“デ・ニーロ・アプローチ”ばりの役作りを行ったという。 一方本作でのデ・ニーロは、ニューヨーク市警の内務調査官役。コップランドの警官たちの不正を暴こうとする中で、スタローンの正義感を利用する、狡猾な役どころである。とはいえ、「2大スター共演」を売りにした割りには、登場シーンもさほど多くはない、ゲスト的な出演の仕方と言える。劇場公開時には、その辺りが何とも物足りなかったが、いま見返すと、短い出番ながらさすがに的確で印象的な演技をしていることに、感心する。 余談だが、スタローンとデ・ニーロは、『コップランド』から16年後に、『リベンジ・マッチ』(2013)という作品で再共演を果たしている。こちらは本格的なW主演作品で、2人の役どころは、30年前の遺恨のために、リング上で対戦する老齢のボクサー。作品的な評価は高くないが、2人の若き日が、『ロッキー』シリーズや『レイジング・ブル』のファイトシーンから抜き出されてコラージュされている辺りが、“楽屋落ち”のように楽しめる作品ではあった。 さて本作『コップランド』の話に戻ると、公開時に“俳優”スタローンの挑戦は、それなりに高く評価はされた。しかしその演技が、賞レースなどに絡むことはなかった。 スタローンとアカデミー賞との関わりは、2016年度の『クリード チャンプを継ぐ男』で“助演男優賞”にノミネートされるまで、『ロッキー』第1作以来、実に40年ものブランクを空けることとなる。候補となったのが40年前と同じく、ロッキー・バルボア役だったというのは、逆に特筆すべきことだと思うが…。◼︎ © 1997 Miramax, LLC. All Rights Reserved.
-
COLUMN/コラム2018.12.13
燎原の火の如く燃え広がった「Me Too」運動の中で、私は『トッツィー』を思い出していた…。
2017年秋、ハリウッドの大物映画プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタインが、長年に亘って何人もの女優らに、セクハラや性的暴行を行っていたことが判明。それがきっかけとなって火が付いたのが、「Me Too」ムーブメントだった。 今まで沈黙を強いられてきた、性的な“虐待”や“嫌がらせ”の被害者たちの口から、数多の有名映画人の名が、“加害者”として挙げられていく。ケヴィン・スぺイシ―、ビル・コスビー、ロマン・ポランスキー、モーガン・フリーマン…。錚々たる顔触れの中でも、私が特にショックを受けたのは、“ダスティン・ホフマン”だった。 ホフマンと言えば、アクターズ・スタジオ仕込みの演技で、“アメリカン・ニューシネマ”の寵児となった俳優。マイク・二コルズ監督の『卒業』(1967)で一躍脚光を浴び、その後も『真夜中のカーボーイ』(1969)『小さな巨人』(1970)『わらの犬』(1971)『大統領の陰謀』(1976)等々、映画史に残る作品に次々と出演した。 そして“ニューシネマ”の時代が去った後には、『クレイマー、クレイマー』(1979)と『レインマン』(1988)で、アカデミー賞主演男優賞を2度手にしている。押しも押されぬ、名優にして大スターである。 日本の観客からも、ホフマンは長く絶大な人気を誇った。大塚博堂の「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」(1976)など、彼をモチーフにした有名曲まで存在するほどだ。 そんなホフマンからの“性的嫌がらせ”を最初に告白したのは、ロサンゼルスに住む女性作家。彼女は1985年、17歳の時にインターンのスタッフとして参加したTVドラマ「セールスマンの死」の現場で、ホフマンからお尻を掴まれたり、卑猥な言葉を掛けられたりしたという。 これに対してホフマンはすぐに、「女性を尊敬する私らしくない行為だ。本当に申し訳ない」などと、正式に謝罪を行った。ところがその後も、女性プロデューサーや舞台で共演した女優などから、「彼から“性的虐待”を受けた」という告発が相次いだのである。 いずれも30年前後のタイムラグがあっての訴えで、真相を究明するのはもはや困難である。またワインスタインのように、権威を笠に着て“強姦”紛いのことを行ったわけではない。とはいえ今日の時勢では、「許されない」ことであり、今や80歳を超えたホフマンのキャリアに、少なからずダメージを与えたのは、間違いないようである。 繰り返しになるが、私は「Me Too」ムーブメントの中でも、青春期から親しんだ大スターであるホフマンの名前が挙がったことに、特に大きなショックを受けた。それは、彼のフィルモグラフィーの中に、本作『トッツィー』があることも大きい。 シドニー・ポラック監督による『トッツィー』の主人公は、ホフマンが演じる、売れない中年俳優のマイケル・ドーシ―。演技には定評があるものの、うるさ型の完璧主義者のため、誰も彼を起用しようとはしない。エージェント(ポラック監督自らが好演)からも、見放される始末である。 そんな鬱々とした日々の中でマイケルは、芝居仲間の女優サンディ(演;テリー・ガー)がTVの昼ドラ「病院物語」のオーディションを受けるのに付き合った際、自分より実力が劣る俳優が持て囃されている現実に直面する。そこで彼は、その翌日に何と女装して、そのドラマのオーディションへと乗り込むという暴挙に出る。 演出家のロン(演;ダブニー・コールマン)には相手にされなかったマイケルだが、その場で女性差別を指摘する啖呵を切ったところ、番組の女性プロデューサーのお眼鏡にかない、病院の経営者エミリー・キンバリーという重要な役どころを見事にゲット。その日からマイケル・ドーシ―変じて、女優ドロシー・マイケルズとしての日々が始まる。 エミリーを演じるに当たってドロシーは、セリフにアドリブをふんだんに盛り込んで、女性の権利を主張。自立した強い女性像を打ち出して、スタッフやキャストを驚かせる。それが視聴者にも大いに受け、“彼女”は注目の存在として、「TIME」や「LIFE」などの一流誌の表紙を飾るまでになる。 また撮影現場では、「ハニー」「トッツィー(かわい子ちゃん)」などと呼び掛けてくる演出家のロンに対して、「ちゃんと名前で呼んで」と毅然として反発。その姿勢が、後輩の女優たちからの尊敬を集めることにもなる。 そんな中でドロシーならぬマイケルは、共演者で看護師役のジュリー(演;ジェシカ・ラング)に恋をする。しかしジュリーにとってのドロシーは、先輩の“女優”としてあくまでも尊敬の対象に過ぎない。そのため、やもめ暮らしのジュリーの父親(演;チャールズ・ダーニング)の再婚相手にと、請われるようにまでなる。 どうにもならない想いに、身を引き裂かれそうになるマイケル。ある時ジュリーに対して衝動的にキスをしようとしたことから、レズビアンと勘違いされ、彼女から敬遠されるように。更には病院長役の老優ジョン(演;ジョージ・ゲインズ)に強姦されかけたりなどの憂き目に遭い、アイデンティティー崩壊の危機に陥る。 遂にはドロシーを捨て、本来の自分に戻る決断をしたマイケル。そのために彼は、衆目の集まるドラマの生放送中に、驚くべき行動を取るが…。 『クレイマー、クレイマー』で初のオスカーを得たキャリアの絶頂時に、次回作としてホフマンがチョイスしたのが、本作『トッツィー』である。本作の企画は、ホフマンがポラック監督らに投げ掛けた、次のような問いからスタートしたという。 「ねえ、ぼくが女だったらどうだろう?どんな人生になるのかな?」 役にのめり込むことで知られるホフマンは、特殊メークの力も借りながら、女性になり切ろうとした。ホントに男とバレないかをリサーチするために、女装のままレストランに出掛けたりもした。その際に、『真夜中のカーボーイ』で共演したジョン・ボイトにばったり会ったのだが、ボイトは、自分に話し掛けてきた女性ファンがホフマンだとは、まったく気付かなかったという。 そこまでして、リアルに作り上げたキャラクター。それが、売れない俳優のマイケル・ド―シーが、職を得るために女装したという設定の、女優ドロシー・マイケルズである。マイケルはドロシーを通じて、体毛の手入れやメイクなど日々の装いの煩雑さから、仕事の現場で受ける差別的な扱いまで、男社会の中で女性が生きていくことの大変さや不公平さを体験。それまでの己の傲岸不遜さにも、気付かされていく…。 『トッツィー』以前、アメリカ映画に於ける代表的な“女装もの”と言えば、ビリー・ワイルダー監督の『お熱いのがお好き』(1959)が挙げられる。この作品の中でも、ギャングから逃亡するために“女装”したジャック・レモンが、大富豪の老人に迫られている内に、段々と変な気持ちになっていくという描写はある。しかしこちらの“女装”は、あくまでもシチュエーションとしての面白さを追求した側面が強い。 それに対して『トッツィー』は、大いに笑わせる展開の中で、1970年代の“ウーマン・リブ”運動を経ても、未だ止まない女性差別の実状まで抉り出してもいる。2018年の今日見ると、LGBTの扱いなどで至らない描写も散見されるが、公開された1982年は、“セクハラ”などという言葉が一般化するよりも、遥かに以前。当時としては、実に革新的なコメディだったのである。 ホフマンは本作の演技で、この年度のアカデミー賞主演男優賞にもノミネート。ライバルに『ガンジー』(1982)のベン・キングスレーが居なかったら、2作続けてオスカーを手にする結果となっても、まったくおかしくない状況だった。 「Me Too」ムーブメントの中で、ホフマンに降りかかった火の粉に対して、「まさか!?」「あの『トッツィー』のホフマンが!?」。そんな思いを抱いた、私と同年代の映画ファンは、決して少なくなかったのでは、ないだろうか?◾︎ © 1982 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.
-
COLUMN/コラム2018.12.10
『スモール・タウン・イン・テキサス』でセリフでのみ言及される「ブラック・アイド・ピーズ」&「コーン・ブレッド」のレシピ。そしてヒーハー!あこがれのレッドネック。
写真/studio louise このところ放送しておりますウルトラ激レア映画『スモール・タウン・イン・テキサス』、お楽しみいただけてますでしょうか? 多くの方にとって、まったく聞いたこともない謎の映画ですよね?なので「よく分かんないや」と見逃してません?ナメたらいかんぜよ!これはウチでの放送が本邦初公開となっているはずの、1976年の映画で、ソフトにも何にもなったことがなく(のはず)、この機会を逃すと次に機会がめぐってくるかどうか不明なため、とりあえずは見ておくべきかと。 あらすじを作品情報からコピペします。 地元高校フットボールの元スター選手ポークは、ムショを出所した足で酔っ払いから拳銃を借り、ボロ車を蜂の巣にして喜ぶ。自分を逮捕した保安官に出会えば「お礼参りを覚悟しとけ!」と脅す。その保安官、ポークの子の母親である若いシングルマザーに横恋慕しており、女を盗られたと酒場で聞いたポークは逆上して彼女の家に向かう。後日、保安官は議員立候補者の警護を任命されるが、選挙運動の会場にポークが姿を現し絡み始め…。 というお話でして、ウチでは「ニューシネマ風味の効いた典型的70’sアクション」とも謳っております。 それと、これについて映画ライターのなかざわひでゆきさんと1時間ばかり熱く語り倒した「男たちのシネマ愛」というトーク音声番組もYouTubeの方に上げております。通勤・通学、運転のお供として、お時間ある時に是非!(俺は町山さんのTBSラジオのやつとかは毎週末クッキングパパしてる最中に聴いてる) 舞台はテキサスのド田舎で、あまり法治が確立されてないような、“フロンティアの正義”が1976年になってもまだ罷り通っているような保守的お土地柄。ここでムショ帰りのポークvs保安官の“漢の対決”が繰り広げられます。2人が奪い合うのが、ポークの元カノで保安官の今カノであるスーザン・ジョージなのです!この作品、彼女の出演作ということで中身もよく知らずに買ったのですが、フタを開けてみるとあまり出番は無く、彼女にしては露出度も低めで、そこは期待外れだったんですが、 ①漢の対決モノとして普通に手に汗握る佳作だった②ニューシネマ風味も美味だった(内容的には単純明快アクションなんですがね)③70'sファッションもオールドスクールアメカジ系で超カッコ良かった そして ④スタントがヤバかった!ひと死にが出なかったのが奇跡なレベル!! という、予期せぬ見所のいっぱい詰まった、結構な拾い物でした。 それと、出てくる奴出てくる奴がどいつもこいつも、いわゆる「レッドネック」という愛すべき田舎者の皆さんでして、それもまた大いに魅力的なのです。田舎の低所得白人労働者階級のことで、白人で肉体労働だから首が日焼けしちゃうんで「レッドネック」と呼ばれている。今だと典型的なトランプさんの支持層ですな。テキサスは南部で、キリスト教保守層が多く暮らすバイブル・ベルトにも一応含まれます(テキサスが西の端に当たる。州の人口比ではカトリック系の方が多い。これはカトリックのメキシコ系移民(ってか元メキシコ領だし)が多いからで、生粋の「レッドネック」の方達は、非カトリックの、全力でガチなキリスト教保守のはず)。 最近だとトランプさんを熱狂的に支持してる人たちなのかぁ…銃も好きなのかぁ…レイプだろうがなんだろうが中絶は絶対認めないって言ってるのかぁ…ゲイは地獄に落ちるって言ってるのかぁ…、う~ん、Let’s be キングスマン!日本とはかな~り価値観が違うんじゃなかろかと想像され、日本人としては最近のレッドネックの方達のご乱行には若干引き気味でもある訳ですが、そしてアメリカ本国では“ダサい田舎者”扱いされてんだろなぁとも思うのですが…(ってかWikiにモロにそう書かれちゃってるしね。失礼だろコレ!)。 いやいやいやいや!90年代アメカジ・ブームの洗礼を受けた世代の目から見ると、レッドネックこそが見た目的には一番カッコいいアメリカ人ですから!思想信条はともかくとして。 NYとかLAとかで着飾ってるオシャレ気取りの奴らなんて「ケっ」って感じですよ。あんなもんは日本人でもやろうと思ったら簡単にできるんだ。ストリート・ファッションのぶっとんでる感なら原宿だって負けちゃいない、ってか逆に勝ってるし。 アメリカ人にしか真似できないラフ&タフなカッコ良さに憧れるんだよ、俺たちの世代は。そしてそれは何かと問われれば、レッドネック・カジュアルっしょやっぱ!略して「レッカジ」?「レネカジ」? そして、そんな南部レッドネックの皆さんの定番ご当地グルメ、っていうか元々は黒人奴隷たちの食べ物で、黒人にとっての「ソウル(魂の)フード」でもある2品というのが、この映画の中で台詞でだけ登場しますんで、今回はそのレシピをやります。 どういうシーンでその2つの話が出てくるかというと、劇中、ポークと保安官の抗争が勃発し、保安官はポークとド派手なチェイスを演じた挙句に逃げられてしまい、映画中盤で、ポークの居場所をポークのダチの自動車整備工(この人は黒人ではなくレッドネックの人)を締め上げ聞き出そうとする展開になります。 ダチ公が働くガレージに来た保安官。そこには美麗な赤の1939年型シボレー・マスターDXが停めてある。そこでおそらく彼が時間かけコツコツとフルレストアしオールペンした、その時点で40年ほど昔の戦前のクラシック・カーであります。そのほとんど文化財級の車のボンネットとヘッドライトを、角材でベっコンベコンのバリんバリんに叩き壊してダチ公をビビり上がらせる保安官。「ポークの共犯者としてお前もパクってブタ箱送りにしたろか!?」と脅します。 しかし直後、急に笑顔になり猫なで声で「俺が何をするか教えよう。前のヘッドライトとへこんだ部分を直して、お前を家に送る。お前はママと食事を楽しむ。豆とコーンブレッドのな。(ここで声のトーンを落とし凄んで)で、ポークの居場所は?」と、ひとり“グッド・コップ/バッド・コップ”尋問を始めるのです。 この翻訳、字幕ですから字数の関係で端折られてます。以下ちょっと余談。字幕は1秒4文字とだいたい決まっていて、その字数制限を大幅にフライングすると客が読みきる前に次の字幕に移っちゃうという最悪の事態(もはや放送事故)になります。だから字幕翻訳のテクニックは要約のテクニックも問われ、要約するにはボキャブラが豊富じゃないと言葉の選択肢が少ないと無理なので、英語力だけでなく逆に日本語の国語力・語彙力も高い偏差値で求められる、という、高度プロフェッショナルなお仕事が字幕翻訳なのです。ここらへんの話は、“字幕の女王”こと最高権威・戸田奈津子先生によるこの講義が大変わかりやすい(ってことで、そんな大人の事情も知らずに女王をディスる無知蒙昧なローカルの星人みたいな輩を見つけたら、「バカこくな」「誤訳じゃないかもだ」「おっちねプッシー野郎」などと、やんわり意味不明に諭してやるとともに、直訳気味で長すぎる下手クソな字幕を見つけ時には「♪やややケッタイな 誰を呼ぼう ナッチを!」と、女神召喚の歌をみんなで歌おうではありませんか!「ナッチを!」のところで是非ご唱和を)。 閑話休題。先ほどの“グッド・コップ/バッド・コップ”台詞ですが、字数制限なしで訳すと、 「で、ウチに帰らせてやっからよ、おめえはママと一緒によ、デっケぇ鉢いっぱいのブラック・アイド・ピーズだとか、温けえコーン・ブレッドの二、三切れでも食ってろよ、な?…で(キリッ)ポークはどこなんだ?」 ってな感じになります。ブラック・アイド・ピーズ山盛りのデっカいボウルを豊満な母ちゃんがキッチンから捧げ持って来てダイニングテーブルに置きに来るという、ポポラマーマ的お袋さん像、あるいはレッドネック版ハウスシチュー的ほっこり世界観を描写しながら、「白状すれば家に帰らせてやる。何事も無かったようにポポラマーマと一緒にハウスシチュー感にひたれるぞ」と脅す、きわめて高等な心理戦術、テキサス版カツ丼尋問法ですな、これは。 ではブラック・アイド・ピーズとはなんぞや?さらにはコーン・ブレッドとはなんぞや?ですが、まずブラック・アイド・ピーズってのは豆の煮込み料理です。ブラック・アイド・ピーは日本語で「ささげ」または直訳で「黒目豆」と訳され、文字通りセンターに黒目があって可愛い、アズキぐらいのサイズの豆です。この煮込み料理、味はいたって素朴。タバスコなどの各種ソースをテーブルに取り揃えておいて、後から各自でお好みの味付けをする、家族全員が同じ味付けで食べるのではない、というのが個人主義・自由主義の米国リバタリアン流“食卓の情景”だと言われているので、我が家でもそうしてます。カブれてますから自分。 一方のコーン・ブレッドとはなんぞや?というと、実はブレッドでもなんでもありません。コーン粉(超アメリカ大陸らしい食材!)と小麦粉をベイキングソーダで膨らませただけの“なんちゃってパン”的なものです。コーン粉の挽き加減にもよりますが、キツネ色のトップ面はジャリっと砂を噛む食感(を大幅に気持ちよくしたもの。砂糖を噛む感とでも言おうか)があり、中はしっとりスポンジケーキ状。で基本、甘い!ブレッドと呼ぶには甘すぎる、というしろものです。ま、位置付けとしてはパン代わりではありますけどな。 どちらとも、黒人奴隷の食文化にルーツを持つソウルフード(黒人のソウルフルな食べ物)で、我らがレッドネック達もよく食べてる、という、あまり豪華なディナーって感じはしない、むしろちょっと貧乏なイメージの食べ物なんですが、美味いんですわ、こういうのこそが!ってかミシュラン何個星とかヌーベルキュイジーヌとかまるっきし興味ないんでね。そういうのはLAとかNYのオシャレ気取りの連中に任せて、レッドネックに憧れるアメカジ世代は、この下流フーズこそを食すべし! それでは、いってみましょうか。 【ブラック・アイド・ピーズの材料(2人分)】 ・ブラック・アイド・ピー×1カップ※日本では滅多に売ってません。ワタクシは我が心のふるさとアメ横に月一で軍モノ×食材をアメ横買い出し紀行に行く際、切らしてたら「豆のダイマス」にて買い求めてます。ネット通販もあり。 ・玉ねぎ×・吊るしベーコン×半本・チキンコンソメの素・ベイリーフ×1枚・ケイジャン・シーズニングMIX×大さじ1・ガーリック・パウダー×小さじ1 ※以下はお好みで ・タバスコ(チポートレイ) 【ブラック・アイド・ピーズの作り方】 ① 節分の豆を歳の数だけポリポリと食う時に「あんま得意な味じゃないかなぁ…ちょっとエグいかも」と感じる人(俺だ!)は、豆を前夜のうちに水煮にすることをお奨めします。これでエグい節分風味は消えます。水煮缶があればもっといいのだけれど…。豆のエグみが苦手な人には豆類は水煮缶の方が断然お奨めです。 ② 鍋に水煮した豆を入れ、それがヒタヒタになるぐらい水で浸したら、そこにタマネギみじん切り、ベイリーフ、チキンコンソメの素、ケイジャン・シーズニングMIX、ガーリック・パウダーを全部ブチ込んでただ中火で煮込むだけ。汁気がほぼほぼ無くなるまで。1時間ってとこか? ③ 伊藤ハムとか日本ハムの「吊るしベーコン」という50cmぐらいある商品を使いたい。が、この日、近所のスーパーで売ってなかった!仕方なく急遽そこらのブロックベーコンに燻製をかけて急場をしのぐ。有れば是非「吊るしベーコン」で。燻香と厚みある食感が不可欠だから。よくある普通の紙みたいなぺらっぺらのスライスベーコンはNG。で、この写真ぐらいに切って弱火で脂を引き出します(呼び水としてちょっとサラダ油かけること。じゃないとフライパンに焦げ付いちゃう)。 ④ 脂が出て、小一時間たって鍋の方の汁気もだいぶ無くなってきたら、脂ごとベーコンを鍋に投入し、混ぜて、塩(材料外)で味を整え、完成!食べる際はお好みでタバスコを。ベーコンの燻香にマッチするタバスコ・チポートレイ(燻製タバスコ)が相性よろし。 【続いて、コーン・ブレッドの材料(4人分)】 ・コーンミール×1カップ※コーンミールは、どことは言いませんがオシャレ輸入食材屋とかで買うと小さなパックに入ったものでも結構します。が、アメ横とかの中華食材屋だと、おんなじ物でもっと大きいやつが驚くほど安く袋売りしてたりする!これは横浜中華街にある「中國超級市場」というお店でヨコハマ買い出し紀行中に買ったもの。 ・強力粉×1カップ・ベーキング・パウダー×小さじ2・砂糖×大さじ4(ヤベ写真撮り忘れた!)・塩×小さじ1(ヤベ写真撮り忘れた!) 以上が粉類。 ・玉子×1(ヤベ写真撮り忘れた!)・サラダ油×大さじ1(ヤベ写真撮り忘れた!)・牛乳×1カップ※写真なくてもわかりますよね?普通の砂糖と塩と玉子とサラダ油ですよ。家にあるでしょ? 【コーン・ブレッドの作り方】 ① 全粉類をふるいに入れてボウルにふるい入れる。 ② 真ん中に玉子を割り入れる。 ③ 牛乳入れる。サラダ油大さじ1も入れる。 ④ 混ぜる。 ⑤ 焼き型にサラダ油(分量外)をまんべんなく塗る。 ⑥ 生地を流し込み、200℃に余熱したオーブンで20分以上焼く。焼き上がったと思ったらナイフ等をブッ刺し、中心部の生地が生焼けじゃなければOK。ってことで超簡単!ほとんどホットケーキ級にちょろいぜ!なお保安官が脅迫の中で「温けえコーン・ブレッド」と言っていた通り、焼きたてのうちにお召し上がりを。冷めると台無しです。 【実食】 うん、ブラック・アイド・ピーズ、地味に旨えな!たいそう素朴な味わいでして、わりと似た系統の、前回やったチリコンカンというテックス・メックス料理(あれもテキサスの食いもんだったな)みたく派手な、子供好きのする、ミートソースみたいな分っかりやすい味ではありません。豆×塩ですから超素朴。ワタクシのレシピは南部といってもおそらくテキサスより右側の州(ディープ・サウス地方)に住んでいそうな黒人オバチャンのレシピを参考にしているため、ケイジャン・シーズニングMIXも材料に入ってますので、多少は味が付いてますが、それでも素朴。真のテキサン(テキサスっ子)ならケイジャン風(ルイジアナ風)にはしないはずなので、ケイジャン・シーズニングMIXは入れず味付けは本当に塩だけで、もっと極限までシンプルなはず。さすがに味気なさそうなのでワタクシはケイジャン味にしてますが。あとのもう一味はお好みのタバスコでプラス、ってことですな。タバスコってのは本来こういう使い方をするために開発された南部の調味料ですからね。素朴な南部料理に一味パンチを効かせるためのもので、ピザとかスパゲティにかけるのは日本の独自解釈らしいです。 あとコーン・ブレッドね。これは逆に、味が派手やな~!ってか甘いよ!ってことでウチの子供たちは全員好きなんですが、大人的にはビックリするぐらい甘い。もう、ほとんどケーキの域。ケーキならいいけど“ブレッド”と詐称してオカズと一緒に主食で食うにしちゃ、これ、甘すぎだろ!? これはいかがなものかと、一度ためしに分量の半分しか砂糖を使わなかったことがあるのですが、そうすると妙に不味くなっちゃうのだから不思議なものです。まぁ、南部の人は紅茶に砂糖を尋常じゃない量入れて「美味い美味い」と喜んでガブ飲みするそうなので、やっぱり、日本とはかな~り価値観違うのでは!?とも重ねて感じる次第なのですが、そこが異国情緒を感じさせる良いところでもあるんですな。LAやNYとはやっぱ違う。そういやコカ・コーラも南部の飲み物で、あれって確かに南部料理とは相性抜群なんですけど、聞くところによると1缶に角砂糖にして10個分ぐらい入ってるんでしょ?相当な甘いもの好きですな、南部の皆さんは。 そろそろ〆ましょうか。南部の黒人や南米各国の人たちの間では、黒目豆は正月の縁起物となっており、米南部でも正月にブラック・アイド・ピーズを喰う習慣があるそうですから、今の時期、特にトライしたいレシピ、食べるべき料理なのです。おせちや雑煮をやめて、あえてブラック・アイド・ピーズで初春を迎えるという、骨の髄までカブれきった年越しなど、いかがでしょうか。■ © 1976 ORION PICTURES CORPORATION.. All Rights Reserved
-
COLUMN/コラム2018.12.10
『コンタクト』と『コスモス(宇宙)』の間にあるもの(ネタバレあり)
■科学と信仰の融和をうながす高度なSF映画 1997年に公開された『コンタクト』は、我々が地球外知的生命体と接触したときに起こりうる事態に熟考を巡らせ、科学と信仰というテーマを尊重して扱ったハイブロウなSF映画だ(それはSFという言葉ですらも陳腐に感じさせる)。『2001年宇宙の旅』(1968)と同様、膨大な科学的根拠に基づく構築がなされ、このジャンルに知性を回復させている。その価値は公開から20年の間にスペースサイエンスが更新され、同テーマを受け継ぐ優れた後継作(『インターステラー』(2014)『メッセージ』(2016))があらわれようとも、まったく色褪せることはない。 ジョディ・フォスター演じるエリナー"エリー"・アロウェイは「我々は宇宙で一人ではない」という信念のもと、SETI(地球外知的生命体探査)計画を推進する電波天文学者。彼女は文明を持つエイリアンの存在に確信を抱いており、その実証を得るべく地球外からの信号をスキャンし、メッセージの受信を待機している。 そしてある日、ついに彼女は26万光年彼方のヴェガから発信される素数信号をキャッチし、信号は解読へと運び込まれていく。電波の中には惑星間航行を可能にするポッドの設計図が仕込まれており、それを建造してエイリアンとのコンタクトを図ることになるのだ。だがこうした行為が、世界における科学と信仰の議論を活性化させていくのである。 ■カール・セーガン博士の信念 物語の最後、エリーは子ども時代からのクセだった膝をかかえて座る姿勢をやめ、足を伸ばしてグランドキャニオンの岩場に座っていることに観る者は気づかされるだろう。彼女のこのクセは幼少時代、父親の葬儀のときから兆候を見せている。つまり父の死は神のみぞ知る運命ではなく、過失なのだというエリーの宗教的懐疑論者としての立場を体現するものだ。プロローグでその座りかたをしなくなったということは、彼女の心境の変化を暗示している。 ポッドに乗り込んだエリーは知的生命体の存在を示す驚異的な体験によって、科学者としての合理性だけでなく神秘主義を受け容れていく。そして「真理を求める」という点において科学と信仰は共通なのだと、映画は両者の融和を唱えて終わるのである。 『コンタクト』の物語が美しいのは、こうして映画が広大な宇宙への探求や、宗教科学の論議といった大きな物語を、主人公の「自己探求」というミニマルな主題ヘと換言していく点にある。物語の冒頭、無限に拡がる宇宙が幼少時代のエリーの瞳へとシームレスに重なるシーンで、物語は先述の要素を早い段階から示しているが、それを布石として最後を締める円環構造がきわめて美しく、そして洗練されている。 なによりもこの「自己探求」は、原作者であるカール・セーガンが強く唱えていた信念でもある。自身が構成し進行を務めた宇宙科学ドキュメンタリー『コスモス(宇宙)』(1980)を筆頭に、メディアを通じて地球外知的生命体の推測にあらんかぎりの可能性を感じさせてくれた稀代の天文学者は、自身の原作小説をもとにしたこの映画にアドバイザーとして関わっている(セーガン博士は本作公開前の1996年に死去)。 『コスモス』は氏の天体的な理想や理論を拡げ、それを観ている視聴者に宇宙に対する目を見開かせたテレビ番組だ。恥ずかしながら少年時代の筆者もそのひとりだが、そうした種の人間にとって『コンタクト』は、エリーの「自己探求」を、より感動的なものとして捉えさせてくれる。 というのも、この番組の最終章となる「地球の運命」の中で、セーガン博士は地球外知的生命体の可能性について、 「宇宙では化学元素や量子力学の法則も共通であり、生物はその同じ法則のもとに生息しているはずだ」 と仮定し、生物構造や言語が異なる宇宙人のメッセージを解読する方法として、そこには科学という共通の言語があると雄弁に語っている。そして知性を持つ生命体の誕生を探求することは、ひいては地球人の存在を紐解くことへとつながるとセーガン博士は結ぶ。 すなわち知的文明を探す旅は、私たち自身を探す旅でもあるのだ、と——。 『コンタクト』は、このようにセーガン博士の原作を元にしながら、同時に氏の信念に基づく製作がなされ、偉大な天文学者へのあらん限りの賛辞にあふれている。ちなみに映画の最後にエリーが砂を手にするが、これは「宇宙への探求は、広大な砂場のたった一粒を探すようなもの」という『コスモス』の作中で幾度となく繰り返されたメッセージの暗喩だ。 ただ本作について語るとき、劇中に出てくる奇異な日本描写などの瑣末に目を奪われ、我が国ではいまひとつ肯定的な意見に乏しい印象がある。また同時期の公開作に『ロストワールド/ジュラシック・パーク』や『タイタニック』(1997)といった話題作が目白押しだったことから、これらの間に埋もれたようにも感じられ、正当な掘り起こしも浅いまま現在に至っている。加えて後年、本作の映画化初期プロジェクトに関わっていたジョージ・ミラー(『マッドマックス』シリーズ)が「わたしのやろうとしていたものよりもワーナーは安全な製作をとった」とする発言などもあり、風向きもいまひとつ良好とは言えない。なので、自分こそが本作最大の理解者であると主張するつもりは毛頭ないものの、ゼメキス版『コンタクト』の復権に少しでも貢献できればさいわいである。 ■他作に散見される『コンタクト』の影響 そんな『コンタクト』だが、個人的には経年をへて、その価値を実感することがある。それは本作を構成する要素が、後続作品にエッセンスとして流用されているところだ。 実近だと2016年に公開され、怪獣ゴジラをハードに再定義した傑作『シン・ゴジラ』にそれを見いだすことができる。たとえば同作の劇中、ゴジラの擁護を唱えるデモ団体が官邸前で反対派と対立するシーンは、『コンタクト』でVLA(超大型干渉電波望遠鏡群)に押し寄せる運動団体の描写や、ひいては科学者と宗教家の対立を彷彿とさせるものだし、矢口(長谷川博己)に会いに来た米国特使のカヨコ・パターソン(石原さとみ)が着替えをせずに横田基地に来たのだと告げ「ZARAはどこ?」とファッションブランドを訊ねるシーンは、同作で政府と顧問団との懇親パーティに出るため、エリーがコンスタンティン調査委員(アンジェラ・バセット)に「素敵なドレスを売っているブティックを知らない?」と訊ねるシチュエーションからの影響が指摘できる。 なにより受信電波から抽出された装置の設計図が、平面ではなく立体で構成されるものだったという設定は、ゴジラの構造レイヤーの解析表が立体によって解読がなされたところと瓜二つだ。それらをもって『シン・ゴジラ』が『コンタクト』からエッセンスを拝借したと主張するのは短絡的だが、数多くのクラシック映画からの引用が見られる『シン・ゴジラ』だけに、『コンタクト』もそれらのひとつとしてあるのを否定することはできない。 しかし、こうしたアイディアの共有はとりもなおさず同作の価値を立証するもので、むしろ『コンタクト』が他者に影響を及ぼす優れた作品だという論を補強するうえで心強い。庵野秀明総監督は、とりわけ強力な支援者として賛辞を贈りたい気分だ。『コンタクト』の劇中「わたしたちは孤独ではない」と唱えたエリーのように。◾︎ © Warner Bros. Entertainment Inc.
-
NEWS/ニュース2018.12.09
町山さん自身が披露@コミコン! 来年1月〜3月の『VIDEO SHOP UFO』ラインナップ
先週12月1日、東京コミコンのメインステージにて『町山智浩のVIDEO SHOP UFO』の公開収録が行われました。12月のセレクト・タイトル『ミュータント・フリークス』の映画本編前解説と、映画本編後用の解説をあわせて収録。ステージは立ち見の盛況っぷりでした。視聴者の皆様は12月20日からの放送回でその模様はお楽しみください。 その収録終了後、会場の別のミニステージに場所を移して(ここも立錐の余地なしでした。ご来場の皆様、ありがとうございました!)、来年1月以降のラインナップも解禁。3月までの3本についても町山さんにご紹介いただきましたので、その模様をこの場でもご披露します。 ちなみに『VIDEO SHOP UFO』とは番組名。LAに超マニア向けビデオ店があり、そこの店長が町山さんという設定。町山店長が激レア映画(ソフトになってなくて見られないとか、完全に忘れ去られちゃってる、とか)を毎月1本お薦めしてくれる、たっぷり解説も付けて、という趣旨の、映画本編の前と後をサンドイッチして付く、古き良き民放TV洋画劇場形式の映画解説番組です。月々の該当作品にはタイトルに【町山智浩撰】と付けてます。バックナンバーはこちら。 さあ、ここからがトークショーの模様です。お相手はVIDEO SHOP UFOのバイト君です。では、どうぞ! ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ ◾︎ 町山店長「どうもよろしくお願いします。お客さん多すぎですね。トムヒ※と間違えてませんか? こっちは トモヒロですよ」 (※コミコンの来日ゲストとしてトム・ヒドルストンが来場中で、向かいのサインコーナーで撮影会などをしていた) バイト君「メインステージお疲れ様でした。『ミュータント・フリークス』は今月後半にやりますが、その先のラインナップを3ヶ月分、この場では発表していただきましょう。まず1月が『哀しみの街かど』ですね」 町山店長「主演はアル・パシーノですけど、彼の初主演作なんです。この映画、僕が子供の頃はTVで何回も何回も放送してたんですが、今では地上波ではとても放送不可能な内容ですね」 バイト君「なのでザ・シネマでは今回、R15相当に指定して放送するんですよ。15歳未満の方は視聴禁止です」 町山店長「タイトルも『哀しみの街かど』なんていうとラブストーリーみたいですけど、原題は『パニック・イン・ニードルパーク』というんですよ。『針公園』というのは、1960年代にニューヨークに実際にあった公園で、そこにはいつも麻薬中毒患者が集まっていて、ヘロインを打つ注射器の針がいっぱい落ちてたんですね。『パニック』というのは麻薬の供給が切れて売人が麻薬を売らなくなると、中毒者たちが禁断症状でパニックに陥ることを意味しています。どこが『哀しみの街かど』やねん!っていう内容なんですよ(笑)。これ凄いのは、麻薬を注射するディテールを緻密に撮影してるんですよ」 バイト君「でも結局、この人たちって、堕ちるところまで堕ちていくじゃないですか。だからやっぱり、“ダメ。ゼッタイ。”っていうのがこの映画のメッセージですよ」 町山店長「まぁ、そりゃあそうなんですが、全部演技ですからね。ヘロインじゃなくてブドウ糖を打っているらしいんですが、肌がボロボロになって、目が虚ろになっていくリアリティが凄いです。これでアル・パシーノは物凄く評価されて、『ゴッドファーザー』の主演にいきなり抜擢されることになったんです。 この映画は本当に辛い辛い映画で、何も良いことが無いんですが、麻薬中毒の悲惨さをこれほど詳細に描いた映画も珍しいですよ。麻薬中毒とは一体何か、それ自体がテーマで、一切オブラートに包まないで、真正面から現実を見せます。音楽すらまったく無くて、演出もザックリと甘さがなく、ドキュメンタリーにしか見えない。 キティ・ウィン扮するヒロインが途中で真面目になろうと思ってコーヒーショップで働き始めるんだけれど、麻薬でボロボロになっているから、勘定ができなかったり、注文を覚えられなくて、結局麻薬中毒に戻っていったり。で、お金がないから体を売るんですが、最初、アル・パシーノは「俺という男がいるのに!」と怒るんですが、だんだんと麻薬のほうが大事になってきて、自分から彼女を売るようになって、彼女の方も彼を売って、どん底に落ちていくんですよ。 あと、ラウル・ジュリアが出ていますね。『アダムス・ファミリー』のお父さんですけど、デビュー作に近いですね、彼もこの映画が」 バイト君「彼女が最初に付き合ってたのがラウル・ジュリアなんですよね」 町山店長「この映画は今では忘れられていますが、マニアの間では物凄く人気があって、中古ビデオにはプレミアがついてたりしますね。ザ・シネマで観た方が安く済むと思います(笑)」 バイト君「次の2月が『モンキーボーン』です」 町山店長「これ、ヘンリー・セリックという、ストップモーション・アニメの巨匠の唯一の実写作品なんです。ただ、闇に葬り去られてしまって、ほとんど見ている人いないと思います。 ヘンリー・セリックは、ティム・バートンが製作した『ジャイアント・ピーチ』や、『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』の本当の監督ですね。その後『コララインとボタンの魔女』でアカデミー賞にノミネートされます。 ただ、この『モンキーボーン』は、製作会社の20世紀FOXの経営体制が変わる時にちょうど当たってしまって、撮影中にセリックは監督をクビになり、ロクに宣伝されないまま公開されたんで、あまり観ている人はいないんですけれども、凄い面白い映画なんですよ。 ブレンダン・フレイザー扮する漫画家が、モンキーボーンという猿の形をしたキャラクターの漫画を描いたらアニメ化されて大ヒットします。フレイザーは真面目で気の弱い漫画家なんですけども、彼の中に秘めている暴力性とか性的な欲望をモンキーボーンに託して表現していたんですね。ところがモンキーボーンが暴走して、作者フレイザーの肉体を乗っ取って、フレイザー自身の人格を『ダークタウン』という名前の地獄のような世界に閉じ込めてしまう。だから、彼はそこから脱出して、自らの欲望の具現化であるモンキーボーンと戦わなければならないっていう話なんです。そうしないと、婚約者のブリジット・フォンダをモンキーボーンに盗られちゃう訳ですよ。モンキーボーンっていうのは、英語のスラングでチン×ンのことです」 バイト君「ち×ちん?」 町山店長「つまり、彼自身のペニスの象徴であるモンキーボーン君に、恋人を寝取られるという、非常に象徴的な、面白い話なんですよ。 途中で監督が替わっているから、ぎこちないところもあるにはあるんですが、クライマックスのドタバタシーンはめちゃくちゃおかしくて、死ぬほど笑いますよ」 バイト君「ちょっと『ミュータント・フリークス』と似た雰囲気もありますよね」 町山店長「FOXって、途中まで変な映画を作らせておいて、『やっぱりこれはダメだ!』って、お蔵入りにしちゃうことがよくあるんですね。でも、『ダークタウン』のピカソの絵のようなシュールなビジュアルは本当に素晴らしいし、そこで主人公を助けるローズ・マッゴーワンの演じる猫娘がまた健気で可愛いいんですよ。ケモナーの人も是非見ていただきたい映画ですね」 バイト君「そして3月が『かわいい毒草』です。これは目玉タイトルですね」 町山店長「でもこの画像、ちょっと画質悪いよ?」 バイト君「悪いんです…」 町山店長「これしか無かったの?」 バイト君「それぐらい激レアな作品ってことです」 町山店長「川喜多映画財団とかでちゃんと当時のスチルを買ってくださいよ。それはともかく、これは本当に珍しい映画ですよ。日本ではDVDはもちろんVHSも出てません。劇場公開時もさっと消えてしまって、テレビの日曜洋画劇場で1971、2年に1回放送したきりです。僕はたまたまそれを観て、一生忘れられない映画になりました。アメリカでも実はずっと幻の映画で、10年くらい前にやっとDVDになって、奇跡と言われたんですよ。 これもまた20世紀FOXの作品なんですが(笑)、この時は経営難にありまして、せっかく作ったんだけど配給や宣伝するお金がなくて、消えちゃった映画なんです。でも、これが大変な傑作。主役はアンソニー・パーキンスなんですが、彼は『サイコ』というヒッチコックの映画で… ↓↓↓↓↓↓↓↓この後『サイコ』のネタバレに言及します↓↓↓↓↓↓↓↓ 二重人格の殺人鬼を演じたんですね。って『サイコ』のネタバレしてますけど(笑)、あの役が強烈すぎて、演じたパーキンスまで変態じゃないかと思われて、ハリウッドで仕事が無くなって、ヨーロッパ映画に出ていたんですね。で、10年ぐらい経って、そろそろいいんじゃないかと思ってハリウッドに帰ってきて撮った映画がこの『かわいい毒草』なんです。が、役がいきなり、精神病院から出てきた青年という役で、何のためにヨーロッパに行ってたのかわからない(笑)。『サイコ』の続編みたいな話なんです。 パーキンスは誇大妄想症で、放火事件を起こして精神病院に入っていて、だいぶ良くなってきただろうということで退院して、働き始めたところで、チューズデイ・ウェルド扮する美少女と出会います。で、パーキンスは、彼女にいいところ見せようとして、僕は実はCIAのスパイなんだ、国を守るミッションに協力して欲しいんだと言うんですが、何と彼女の方が100倍上手の、“基地の外”に出ちゃった人だった。で、大変な連続殺人に発展していくという話なんです」 バイト君「これ、この写真が悪すぎるんですけど、チューズデイ・ウェルドって凄い可愛いんですよね」 町山店長「物凄い可愛いんです。実は当時25歳で1人の子持ちなんですが、童顔なので高校生役でも違和感ないです。チューズデイ・ウェルドは少女モデル出身で、アメリカでは1950年代にセブンアップの広告に出て大変な人気になったんですが、本人はステージママにコキ使われて、グレて、中学生くらいの年齢からセックスやアルコールで大変なことになっていました。子役の転落をそのまま絵に描いたような人で、最終的には母親と決別するんですが、そういった本人のドロドロの人生をそのまま反映したような怖い話なんですよ。 監督はノエル・ブラックという人で、残念なことにこれ1本なんですよ。今では天才と言われているんですけどね。単なるサスペンス映画ではなく、チューズデイ・ウェルドという『かわいい毒草』を、アメリカのポップカルチャーや、環境破壊の問題にまで広げている刺激的な作品です。これが今回の目玉です」 バイト君「で、この番組ですけど、前解説というのがあって、だいたいこんな映画ですよ、っていう、今いただいたお話のようなものが映画の前に付いて、そこから本編をご覧いただいて、本編が終わった後には後解説というのもあるんですよね」 町山店長「やっぱりネタバレになるから、映画の後半部についての解説は普通できないんですよね。映画の紹介は山ほどあるけど、ほとんど映画を見てない人向けの記事ですよね。でも、見た後の解説のほうが本当は重要なんですよ。映画の結末に作り手のテーマがあるわけだし。昔はテレビの映画劇場で、映画が終わった後、評論家が解説してくれましたが、今はそれがなくなっちゃいましたからね。だから、この番組ではそれを復活させようと。「で、この映画は何だったの!?」という疑問に答えていこうと思いますので、是非ご覧ください!」■