ザ・シネマ なかざわひでゆき
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COLUMN/コラム2022.12.29
見る者によって様々な感想と解釈を許容するショッキングな恋愛サスペンス『危険な情事』
※注:以下のレビューには部分的なネタバレが含まれます。 公開当時に様々な論議を呼んだ理由とは? 今からおよそ35年前、世界中で物議を醸した問題作である。どこにでもいる平凡な既婚男性が一夜限りのつもりで浮気をしたところ、相手の女性から執拗に付きまとわれて家庭崩壊の危機に瀕するという衝撃の恋愛サスペンス。妻子のいる身でありながら別の女に手を出した男の自業自得なのか、それとも男の浮気を本気に受け取ってしまった無粋な女が悪いのか。当時を知る筆者の記憶だと、劇場公開時の日本では主人公の浮気男に同情する声が多かったように思う。もちろん、それだけ真に迫った映画だったからこそ世間をざわつかせたわけだが、同時に「浮気は男の甲斐性」などと言われた昭和の日本にあって、単なる出来心では済まされない不倫の恐ろしい顛末を描いた本作は、ある意味でカルチャーショックのようなものだったのかもしれない。 かたや海外でも「不倫は恐ろしい!」との反応が大きかったらしく、エイドリアン・ライン監督は映画を見たという男性たちからたびたび「浮気をする気が失せた」などと声をかけられたそうだ。振り返ってみれば、不倫や浮気を題材にした映画は世の東西を問わず数多いが、それを「良くないこと」とする大前提がありつつも、しかしどこか「禁断の甘い果実」のように美化されてきたことは否めないだろう。ところが、本作では軽い気持ちで浮気をしてしまった男が、それゆえに悪夢のような地獄へと突き落とされ、あまりにも大きな代償を支払わされることになる。確かに、これを見てゾッとしてしまう男性も多かろう。 その一方で、本作はストーカー化する浮気相手の女性を独身のキャリアウーマンと設定したことで、フェミニストを中心とする一部の女性たちから猛反発を受けてしまう。結婚よりも仕事を選んだ女性を、まるで孤独なサイコパスのように描いたことを問題視されたのだ。もちろん、作り手側にそのような意図は全くなく、たまたま浮気した相手がバリバリ働く独身女性で、なおかつサイコパス的な気質の持ち主だったというだけなのだが、しかし不評を買ってしまった理由も分からなくはない。 これは海外も日本も同じだと思うが、なにしろ「結婚して家庭に入って子供を産み育てることこそ女性の幸せ」と考えられた時代が長かった。それゆえ、結婚もせず子供も作らない女性は孤独で不幸せ、いつまでも独身でいる女性は人間的に問題がある、キャリアウーマンは男にモテないから仕事を選んだなどと、あからさまな偏見の目を向けられる女性もかつては少なくなかった。’70年代に世界各地で盛り上がったウーマンリブの運動は、まさにそのような家父長制的な男社会で培われた女性への悪しき偏見と闘ってきたわけだ。なので、本作に反発を覚える女性がいたとしても全く不思議はないだろう。 しかも、よくよく考えてみれば「一夜限りの関係」だと考えていたのは男の方だけで、相手にその旨をきちんと伝えたわけでもない。「大人なんだから言わずとも分かるだろう」はまことに身勝手な言い分である。確かに既婚者であることは最初に明かしているものの、しかし優柔不断で中途半端な優しさは相手を勘違いさせて当たり前だ。その優しさだって、結局は「セックスをしたい」という下心からくるもの。なので、一度コトが終われば瞬時に醒めてしまう。今風に言えば「賢者タイム」だが、要するに体の良い「やり逃げ」である。「人間扱いされてない」と女性が感じたとしても仕方あるまい。女性側に立ってみれば酷い侮辱である。自分が誰かの妻でも母親でもない独身の女だから、あと腐れなく簡単にやれると思ったのか。実際、そう考えて不倫をする既婚男性も少なくなかろう。家父長制的な男社会では、家庭に属さない女性はなにかと軽んじられがちだ。本作のヒロインの怒りも当然である。 もちろん、だからと言ってストーカー行為に走ることは許されないが、しかし見方によっては同情の余地も十分にあるだろう。そんな女性を、本作では凶暴なモンスターのように描く。それもまた、公開当時にフェミニストから批判された理由のひとつだったと思う。いずれにせよ、見る者の立場や考え方によって、受ける印象も抱く感想も全く変わる作品であることは間違いない。 実は2種類あったエンディング 舞台は大都会ニューヨーク。優しくてしっかり者の妻ベス(アン・アーチャー)と可愛い娘エレン(エレン・ハミルトン)に恵まれた弁護士ダン・ギャラガー(マイケル・ダグラス)は、顧問を務める出版社のパーティで同社の女性編集者アレックス(グレン・クローズ)と知り合う。後日、会社の会議で再会した2人は意気投合。ちょうどその週末、妻が娘を連れて実家へ帰省していたこともあって、独身気分のダンはつい魔がさしてアレックスと寝てしまう。誰もいない我が家へと朝帰りするダン。すると、そこへアレックスから電話がかかり、なにも告げずにさっさと帰ってしまったことをなじられる。冷たくしてしまった負い目もあって、アレックスから求められるがまま再会するダンだったが、その優柔不断な態度が裏目に出てしまう。アレックスに「私は愛されている」と勘違いさせてしまったのだ。 帰省していた妻子が週明けに戻ってきたことから、アレックスとの関係をなかったものにしようとするダン。しかし、彼女を避けようとすればするほど、アレックスのダンに対する執着心は増して行き、遂には彼の目の前で手首を切って自殺未遂をはかる。とんでもない相手と関わってしまった。後悔したダンは自宅の電話番号を変更し、妻が希望していた郊外の一軒家へ引っ越しを決めるのだが、しかしアレックスの常軌を逸した付きまといはどんどんとエスカレート。やがて、愛する家族の身まで危険に晒すこととなってしまう…。 実は本作、元になった作品が存在する。それが、イギリスの映像作家ジェームズ・ディアデン(父親は往年の巨匠ベイジル・ディアデン)が監督・脚本を務めたテレビ向けの短編映画『Diversion』(’79)だ。主人公はロンドン在住の作家ガイ・ブルックス。妻アニーが子供を連れて実家へ戻った週末、原稿の執筆に行き詰まった彼は、先日のパーティで知り合った独身女性エリカを気晴らしのため食事に誘い、そのまま彼女の自宅でベッドインしてしまう。一度きりの関係で終わらせるつもりだったガイだが、しかしやり逃げ同然の扱いを彼女に責められ、罪滅ぼしのため再会に応じたところ泥沼にハマっていく…というストーリー展開は『危険な情事』とほぼ同じ。ただし、こちらではダンとの不倫関係に執着するようになったエリカが、彼の自宅へ電話をかけるところでジ・エンドとなり、その後ストーカー行為へ発展するであろうことを示唆するにとどめている。 この50分にも満たない短編映画に注目したのが、夫婦の離婚問題に斬り込んだ『クレイマー、クレイマー』(’79)やレイプ問題を正面から描いた『告発の行方』(’88)など、数々の問題作を世に送り出してきた映画プロデューサーのスタンリー・ジャッフェと、当時のビジネス・パートナーだったシェリー・ランシング。これを長編にしたら面白いと考えた2人は、作者のディアデンをロンドンからカリフォルニアへ招き、早々に出演の内定したマイケル・ダグラスも交えつつ、およそ半年間に渡って協議を重ねながら脚本を練り上げたという。ただし、そのディアデンが後に語ったところによると、実際の脚本執筆期間は4年にも及んだそうで、しかも当初の段階ではアレックスにもっと同情的な内容となるはずだったという。そこでネックになったのが、主人公ダン役のマイケル・ダグラスだったらしい。ハリウッドのトップスターであるダグラスが演じるからには、観客が共感できるキャラクターでなくてはならない。製作会社のパラマウントからそのような要求があったため、幾度となく脚本の書き直しを進めるうち、どんどんとアレックスが怪物化してしまったのだそうだ。 そんな本作には、実は2通りのエンディングが存在する。全米での封切直前にお蔵入りしたオリジナル版エンディングと、その代わりに差し替えられた劇場公開版エンディングだ。先述したように、本来であればアレックスに同情的な内容となるはずだった本作。その名残りなのか、オリジナル版エンディングでは絶望の淵に追いやられたアレックスが自殺を遂げ、これを他殺と疑った警察によって浮気相手のダンが逮捕されてしまう。結局、無実である証拠が見つかって終わるのだが、そこにはそもそもの原因を作ったダンに対して、それ相応の罰を与えようという作り手側の意図が垣間見える。実にフェアな結末だと思うのだが、しかしこれが一般試写では観客から大変な不評だったらしい。というのも、映画がクライマックスへ差し掛かる頃になると観客はすっかりダンに感情移入してしまい、平和で幸福な家庭を壊す悪女アレックスに対して強い怒りを覚えていたことから、彼女が自ら死を選ぶという結末に釈然としなかったのだ。要するに、観客はダンではなくアレックスを罰したかったのである。 そこで、監督やプロデューサー陣はエンディングを丸ごと撮り直すことに。みんなオリジナル版エンディングで満足していたのだが、しかし観客の反応は興行成績にも結び付くため無視できない。苦渋の決断だった。新たなエンディングの執筆には、『スタートレック』シリーズの監督や脚本で知られるニコラス・メイヤーが起用された。復讐の鬼と化したアレックスがダンの自宅へと乗り込み、バスルームで妻ベスに襲いかかるという有名なエンディングは、こうして誕生したのである。だが、この撮り直しにアレックス役のグレン・クローズが猛反対した。なぜなら、新たな結末だとアレックスが同情の余地のない悪魔となってしまいかねないからだ。頑として首を縦に振らないクローズを脚本家のディアデンが説得したそうなのだが、どうしても納得できない彼女は涙を流しながら必死に抗議したという。結局、このままでは映画に関わった全ての人に迷惑がかかるとエージェントに諭され、渋々ながらも撮り直しに応じたクローズだったが、恐らく彼女にしてみれば不本意な譲歩だったに違いない。 とはいえ、最終的に出来上がった劇場公開版を見ると、確かにこちらのエンディングの方がショッキングだし、なにより映画的にも大いに盛り上がる。オリジナル版の方が現実的であることは間違いないが、しかし地味過ぎてカタルシスに欠けることも否めないだろう。この新たなエンディングがあったからこそ、本作は様々な論議を巻き起こして大ヒットしたのだと思う。果たして、あなたは迂闊な浮気男ダンに我が身を重ねて震えあがるのか、それとも愛に飢えた孤独な女性アレックスに同情して復讐を望むのか。見る者の価値観や道徳意識が問われる映画でもある。■ 『危険な情事』COPYRIGHT © 2022 BY PARAMOUNT PICTURES CORPORATION. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2022.12.26
‘60年代の「スウィンギング・ロンドン」を’90年代に甦らせた爆笑スパイ・コメディ!『オースティン・パワーズ』
日本でも世界でも60年代リバイバルがトレンドだった’90年代 ‘60年代後半に世界を席巻した英国発祥の若者文化「スウィンギング・ロンドン」。ミニスカートに厚底ブーツにベルボトムといったカーナビー・ストリート・ファッション、ビーハイブにボブカットなどのヘアスタイル、ビートルズやローリング・ストーンズに代表されるポップ・ミュージック(通称「ブリティッシュ・インベージョン」)、ジェームズ・ボンド・シリーズに端を発するお洒落なスパイ映画、カラフルでサイケデリックなポップアートなどが流行し、ドラッグとフリーセックスとウーマンリブのリベラルな気運が社会に広がった。そんな「スウィンギング・ロンドン」時代のトレンドを’90年代に甦らせて大ヒットしたのが、マイク・マイヤーズ主演のスパイ・コメディ映画『オースティン・パワーズ』(’97)だった。 そもそも’90年代を振り返ってみると、世界中で「スウィンギング・ロンドン」的な’60年代カルチャーがリバイバルした時代だったと言えよう。それがいつ頃始まったのかは定かでないが、トム・ジョーンズやダスティ・スプリングフィールドがヒットチャートに復活し、B-52’sのアルバムがバカ売れした’80年代末には、すでにその下地が出来ていたのかもしれない。筆者が’60年代リバイバルをハッキリと意識するようになったのは、恐らくディーライトのデビュー曲「グルーヴ・イズ・イン・ザ・ハート」が大ヒットした’90~’91年頃だろうか。カラフルでサイケなカーナビー・ストリート・ファッションに身を包み、当時最先端のハウス・ミュージックに’60年代末~’70年代初頭のR&Bやファンクを取り入れた彼らのルックスとサウンドは、まさしく「スウィンギング・ロンドン」の’90年代的アップデートに他ならなかった。その後もレニー・クラヴィッツやジャミロクワイ、カーディガンズなど’60年代カルチャーの影響を受けたアーティストが次々と台頭し、ベルボトムや厚底ブーツを筆頭とする’60年代風ファッションも流行。特に『オースティン・パワーズ』が公開された’90年代後半はそのピークだったかもしれない。 時を同じくして、ここ日本でも独自の60’sリバイバルが巻き起こっていた。その引き金となったのは「渋谷系」ブームだ。ピチカート・ファイヴやフリッパーズ・ギターといったお洒落な渋谷系アーティストの人気は、彼らが影響を受けた海外の’60年代カルチャーにまで広がり、バート・バカラックやクインシー・ジョーンズなどのラウンジ・ミュージック、ロジャー・ニコルズやクロディーヌ・ロンジェなどのサンシャイン・ポップス、セルジュ・ゲンズブールやフランス・ギャルなどのフレンチ・ポップス、エンニオ・モリコーネやアルマンド・トロヴァヨーリなどのイタリア映画音楽が、渋谷を発信源として流行に敏感な当時の若者たちに次々と再発見されたのだ。そのトレンドはファッションや映画などにも波及。『黄金の七人』シリーズやカトリーヌ・スパーク主演作などを、映画館のリバイバル上映で追体験できたのは、それこそ「渋谷系」ブームのもたらした恩恵だったと言えよう。こうした日本ならではの少々マニアックな60’sリバイバルも、海外のムーブメントと呼応するようにして世界へと広がっていったのである。思い返せば、当時の東京はロンドンやニューヨークと並ぶ世界的な若者トレンドの発信地でもあった。なんとも文化的に豊かで幸福な時代だったと思う。 さらに、『オースティン・パワーズ』が大成功した背景には、ジェームズ・ボンド映画の人気復活も影響していたように思われる。’60年代スパイ映画ブームの起爆剤であり、「スウィンギング・ロンドン」時代の象徴のひとつでもあったジェームズ・ボンド映画シリーズ。しかし、3代目ロジャー・ムーアの後期作品『007 オクトパシー』(’83)辺りから人気に陰りが見え始め、続く4代目ティモシー・ダルトンの『007 リビング・デイライツ』(’87)と『007 消されたライセンス』(’89)は、地味なシリアス路線が災いしてか興行的に不発。おかげで、それまで2~3年毎のペースで作られてきたシリーズが、初めて6年という長いブランクを開けることとなる。だが、軽妙洒脱で荒唐無稽でお洒落な往時のボンド映画スタイルを取り戻した、5代目ピアース・ブロスナンのお披露目作『007 ゴールデンアイ』(’95)が久々の大ヒットを記録。再びジェームズ・ボンド映画は世界的なドル箱シリーズへと復活を遂げたのだ。『オースティン・パワーズ』がブロスナン版第2弾『007 トゥモロー・ネバー・ダイ』(’97)と同じ年に公開されたのは、もしかすると偶然などではなかったのかもしれない。 現代に蘇った伝説のチャラ男スパイが巻き起こす珍騒動! 物語の始まりは1967年のロンドン。普段は女性にモテモテのトレンディなファッション・フォトグラファー、しかしその素顔は世界を股にかける凄腕の英国諜報員というオースティン・パワーズ(マイク・マイヤーズ)は、相棒のセクシーな女性スパイ、ミセス・ケンジントン(ミミ・ロジャース)と共に、国際的な犯罪組織ヴァーチュコンを率いる宿敵Dr.イーヴル(マイク・マイヤーズ2役)を追いつめるものの、しかしあと一歩のところで取り逃がしてしまう。人気ファミレス・チェーン「ビッグ・ボーイ」のマスコット人形の形をしたロケットで宇宙へ逃亡したDr.イーヴルは、近い将来の復活を予言して自身と愛猫ビグルスワースを冷凍保存。そこで、オースティンも同じく自信を冷凍保存し、来るべきDr.イーヴルの復活に備えるのだった。 それから30年後の1997年。あのビッグ・ボーイ人形が大気圏に突入したことから、米軍より緊急連絡を受けたイギリス国防省は、極秘施設で冷凍睡眠に入っていたオースティン・パワーズを解凍させる。新たな相棒となったのは、ミス・ケンジントンの娘である見習い諜報員ヴァネッサ(エリザベス・ハーリー)。母親から常々聞かされていた伝説の大物スパイとの対面に胸を躍らせるヴァネッサだが、しかし仕事よりも夜遊びやセックスのことで頭がいっぱい、スウィンギング・ロンドンそのままのド派手なファッションで闊歩するお気楽なプレイボーイ、オースティンの破天荒すぎる言動に目を丸くするのだった。 一方、同じく30年ぶりに冷凍から目覚めたDr.イーヴルは、その間にヴァーチュコンを巨大企業へと成長させた腹心Mr.ナンバー・ツー(ロバート・ワグナー)やドイツ人の女性幹部フラウ・ファービッシナ(ミンディ・スターリング)、さらに人工授精で生まれた息子スコット(セス・グリーン)などを招集。物価や国際情勢などの大きな変化に戸惑いつつ、核弾頭を奪って世界の平和を脅かすという昔ならではの手法で、国連に莫大な金を要求することにする。その頃、ヴァーチュコンの幹部が入り浸っているという、ラスヴェガスのカジノへと乗り込んだオースティンとヴァネッサ。そこでMr.ナンバー・ツーの愛人アロッタ・ファジャイナ(ファビアナ・ウーデニオ)とムフフな関係になったオースティンは、Dr.イーヴルが邪悪な計画を企んでいると知る。懐かしの上司バジル(マイケル・ヨーク)の指示のもと、世界を救うためDr.イーヴルの野望を打ち砕こうとするオースティンとヴァネッサだったが…!? マイク・マイヤーズの好きなものが目いっぱい詰まったおもちゃ箱 オースティン・パワーズの元ネタとなったのは、主演のマイク・マイヤーズがレギュラー番組「サタデー・ナイト・ライヴ」の中で’91年に結成した’60年代英国風ロックバンド、ミン・ティー(本作のエンドロールにも登場)。このバンドには元バングルズのスザンナ・ホフスやマシュー・スウィートなどが参加し、マイヤーズはリードボーカルとギターを担当したのだが、そのキャラクター名がオースティン・パワーズだったのだ。このオースティンを主人公に映画を作ったらどうか?と妻に勧められた彼は、自ら書いた脚本をホフスの旦那であるジェイ・ローチ監督に持ち込んだことから本作が生まれたのである。 映画そのもののベースは、もちろん’60年代のジェームズ・ボンド映画シリーズ。Dr.イーヴルは明らかに『007は二度死ぬ』(’67)でドナルド・プレザンスが演じたブロフェルドをモデルにしているし、A Lotta Vagina(ワギナがたくさん)をもじった悪女アロッタ・ファジャイナの名前は『007 ゴールドフィンガー』(’64)のボンドガール、プッシー・ガロア(プッシーがいっぱい)のパロディだ。黒の眼帯をしたMr.ナンバー・ツーは『007 サンダーボール作戦』(’65)のエミリオ・ラーゴ、強面オバサンのフラウ・ファービッシナは『007 ロシアより愛をこめて』(’63)のローザ・クレッブが元ネタであろう。 ただし、主人公オースティン・パワーズはジェームズ・ボンドよりも、その影響下で作られた’60年代スパイ映画『サイレンサー』シリーズの軽薄なチャラ男スパイ、マット・ヘルム(ディーン・マーティン)に近い。劇中のカラフルでスウィンギンでサイケデリックなファッションや美術セットも、『サイレンサー』シリーズや『黄金の眼』(’68)などの影響が色濃いように思う。また、黒縁メガネをかけたオースティンのルックスは、マイケル・ケインが演じた『国際諜報局』シリーズの主人公ハリー・パーマーをモデルにしたそうだ。 そのほか、’60年代のオースティンの相棒ミセス・ケンジントンは英国ドラマ『おしゃれ(秘)探偵』でダイアナ・リッグが演じた、黒革のジャンプスーツ姿で空手技を操る女スパイ、エマ・ピールが元ネタだし、オースティンが女性ファンから追いかけられるオープニング・クレジットは『ビートルズがやって来る ヤア!ヤア!ヤア!』(’64)へのオマージュだし、エンド・クレジットのフォトセッション・シーンはミケランジェロ・アントニオーニ監督のイギリス映画『欲望』(’66)のパロディ。劇中で随所に差し込まれる、オースティンとバックダンサーたちが決めポーズを取るシーン・ブレイクは、’60年代末に人気を博したお笑い番組『Rowan & Martin’s Laugh-In』のパロディである。また、おっぱいから銃口が飛び出す女性型ロボット軍団「フェムボット」は、『華麗なる殺人』(’65)でブラジャーに拳銃を仕込んだグラマー美女ウルスラ・アンドレス、もしくはヴィンセント・プライス主演の『ビキニマシン』(’65)に登場するビキニ姿のロボット美女軍団をヒントにしたものと思われる。 生まれも育ちもカナダのマイク・マイヤーズだが、両親はリヴァプール出身のイギリス人で、幼少期から英国文化に親しんで育ったという。中でも、’60年代当時の映画や音楽を愛した父親からの影響は大きく、マイヤーズが本作のために設立した自身の製作会社Eric’s Boyは、’91年に亡くなった父親エリックの名前から取られている。恐らく、彼が子供の頃から大好きだったものを目いっぱい詰め込んだ、おもちゃ箱のような映画が『オースティン・パワーズ』だったのであろう。■ 『オースティン・パワーズ』© MCMXCVII New Line Productions, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2022.12.02
ジョン・ヒューズ監督が高校生たちの忘れられない1日を描いた青春群像劇『ブレックファスト・クラブ』
土曜日の補習授業で何かが起こる…? 処女作『すてきな片想い』(’84)で16歳の誕生日を迎えた女子高生の1日を通して、思春期の少女とその友達の揺れ動く多感な心情や自我の目覚めを鮮やかに浮き彫りにしたジョン・ヒューズが、今度は土曜日の補習授業に呼び出された高校生たちの1日を描いた監督2作目である。青春映画の黄金期と呼ばれる’80年代において、まさに時代の象徴的な存在だった巨匠ジョン・ヒューズ。特に本作と『フェリスはある朝突然に』(’86)の2本は、’80年代青春映画を語るうえでも絶対に外すことの出来ない傑作と言えよう。 それは1984年3月24日の土曜日のこと。イリノイ州のシャーマー高校では、ひとけのない閑散とした校舎に5名の生徒たちが集まってくる。レスリング部の花形選手である体育会系のアンドリュー(エミリオ・エステベス)、お高くとまった金持ちのお嬢さまクレア(モリー・リングウォルド)、成績はトップだが見た目の冴えないガリ勉くんブライアン(アンソニー・マイケル・ホール)、奇行を繰り返して周囲をドン引きさせる不思議ちゃんアリソン(アリー・シーディ)、そして口が悪くて反抗的な不良少年ベンダー(ジャッド・ネルソン)。普段の学校生活では決して交わることのない彼らは、それぞれ問題行動を起こした罰として、休日の朝7時から補習授業を受けることになったのだ。 学校の図書館に集まった生徒たちを待ち受けていたのは、口うるさくて厳しい副校長のヴァーノン先生(ポール・グリーソン)。勝手に喋るな、席を移動するな、居眠りをするなと注意された彼らは、午後4時までに作文を書き上げるよう指示される。テーマは「自分とは何か」。ウンザリとした表情を浮かべる生徒たち。仕方なしに作文を書こうとするものの、みんな一向にペンが進まない。図書館に漂う沈黙と退屈。口火を切ったのは、ルール無視など日常茶飯事のベンダーだ。ほかの4人がなぜ補修の罰を受けたのか、しつこく聞き出そうとするベンダー。その無神経な態度にはじめは苛ついていたアンドリューたちだったが、しかしこれをきっかけに段々と打ち解けるようになる。 ヴァーノン先生がトイレに行った隙を見計らって、こっそり図書館を抜け出す生徒たち。ベンダーはロッカーに隠していたマリファナを回収する。ところが、図書館への帰り道を間違えて危機一髪。ヴァーノン先生に見つかったら大目玉を食らってしまう。そこで言い出しっぺのベンダーが先生の注意を惹きつけ、仲間を救って自分だけが罰を受けることに。反省するまで物置に閉じ込められたベンダーだが、性懲りもなく通気口から逃げ出して図書館へ無事に帰還。物音に気付いたヴァーノン先生が駆け込んでくるものの、4人はベンダーを匿って守り通す。ささやかな友情の絆が芽生え始めた生徒たち。マリファナを吸って解放感に浸った彼らは、やがてそれぞれが学校や家庭で抱える悩みや不安、怒りや不満などの本音を打ち明けるのだった…。 ハリウッドで初めてスクールカーストを真正面から描いた作品 前作『すてきな片想い』に続いて、ヒューズ監督の故郷であるイリノイ州を舞台にした本作。主人公たちにとって「忘れられない1日」の出来事を描くというプロットは、『すてきな片想い』だけでなく『フェリスはある朝突然に』とも共通した点だが、しかし高校の図書館という限定された空間をメインにして展開する会話劇スタイルは、それこそヨーロッパ映画やインディーズ映画を彷彿とさせるものがあり、当時のハリウッド産青春映画においては画期的な手法だったと言えよう。中でも、当時の若者特有のスラングを盛り込んだ活きの良いセリフがユニーク。大人が作った青春映画にありがちな不自然さがないのだ。 実は『すてきな片想い』よりも前に脚本が出来上がっていたという本作だが、しかしアート映画的な実験性の強い内容ゆえなのか資金がなかなか集まらず、そのため後回しにされたという経緯があったらしい。ヒューズ監督が真っ先にやったのは、メインの若手キャストを集めたリハーサル。ハリウッドだと事前の準備は会議室での読み合わせ程度、リハーサルは現場で撮影と並行しながらというケースも少なくないが、本作の場合は1週間以上に渡ってみっちりとリハーサルを重ね、物語の進行とお互いのキャラクターの特徴を頭に叩き込んだという。そのうえで、撮影に入るとヒューズ監督は若い役者たちの好きなように演じさせたのだそうだ。ノリに応じてセリフやリアクションを変えるなどのアドリブもオッケー。本作の会話劇に噓がないのは、このように若い俳優たちの主体性を尊重した演出の賜物だったのかもしれない。 だが、この映画が劇場公開時において最も画期的だったのは、アメリカの学園生活を構成するクリーク、すなわち日本で言いうところの「スクールカースト」の存在をテーマに据えたことであろう。ジョックス(体育会系)のアンドリュー、ミーン・ガールズ(女王様集団)のクレア、ナード(オタク)のブライアン、ゴス系(もしくはエモ・キッズ)のアリソン、グリーザーズ(ヤンキー系)のベンダーと、本作に登場する5人の高校生たちは、そのいずれもがスクールカーストの代表的な集団を象徴している。 同じ学校に通いながらもそれぞれ別の集団に所属し、お互いに相手のことをバカにしたり敬遠したり無視したり。普段なら決して相交わることのない彼らが、いざ腹を割って話をしてみると、親からのプレッシャーや将来への不安など、みんな同じような悩みを抱えていることを知り、お互いに友情や親近感を覚えるようになる。いつもは「キャラ」という名の鎧を身にまとっている彼らも、一皮むけばどこにでもいる普通の高校生なのだ。それまでも学園内のスクールカーストを背景にした青春映画は存在したものの、それをメインテーマとして扱った作品は恐らくこれが初めて。なおかつ、社会の縮図とも言えるその集団構造を通して、今も昔も変わらぬ等身大のティーンエージャー像を描く。それこそが、本作の持つ揺るぎない普遍性であり、その後のハリウッド産青春映画および青春ドラマに多大な影響を及ぼした理由であろう。 かつて子供だった大人と、いずれ大人になる子供 加えて、本作ではそこに大人たちの視点もさらりと盛り込まれる。最近の子供たちは不真面目で弛んでいる、昔の学生とはすっかり変わってしまった!と嘆く副校長ヴァーノン先生に、いや、変わってしまったのはお前だよ、自分が16歳の頃を思い出してみろと釘をさす用務員のカール(ジョン・カペロス)。今の子供は理解できないと大人から言われた子供が、大人になると全く同じことを子供に言う。いつの時代も変わらぬ光景だ。それは逆もまた然り。大人を自分とは別の生き物みたいに思って、なにかと反抗したりバカにしたりする子供たちも、いずれ自分もその大人になってしまうことを分かっていない。冒頭で校内に掲げられた歴代の優等卒業生写真の中央に、溌溂とした笑顔で映っている人気者の若者が、実は高校生時代のカールであることに、果たしてどれだけの学生が気付いているだろうか。 また、’90年代のグランジ・ルックを先取りしたようなベンダーのファッション、青白い顔に黒のアイラインを強調したゴス系のルーツみたいなアリソンの個性的なメイクなども興味深いところ。本作の時代を先駆けた先見性はもちろんのこと、トレンドというものがある日突然出現するのではなく、時間をかけて徐々に浸透・拡大していくものだということが分かるだろう。 トレンドといえば、ジョン・ヒューズ監督作品に欠かせないのがポップ・ミュージック。前作『すてきな片想い』ではトレンドのヒットソングをこれでもかと詰め込んでいたが、本作では曲数を最小限に絞り込んでいる。中でも印象的なのは、全米チャートでナンバーワンに輝いたシンプル・マインズのテーマ曲「ドント・ユー?」。挿入曲の大半を手掛けたソングライターのキース・フォーシーは、ジョルジオ・モロダーの重要ブレーンとしてドナ・サマーやアイリーン・キャラ、スリー・ディグリーズなどのヒット曲を書いた人で、本作では音楽スコアも担当している。『フラッシュダンス』(’83)や『ネバーエンディング・ストーリー』(’84)、『ビバリーヒルズ・コップ』(’84)などのテーマ曲も彼の仕事だ。 主人公の高校生役を演じているのは、ブラット・パック(悪ガキ集団)と呼ばれた当時の青春映画スターたち。『すてきな片想い』に引き続いて起用されたモリー・リングウォルドとアンソニー・マイケル・ホールは、実際に撮影時16歳の高校生だったが、それ以外の3人はいずれも20代(最年長は25歳のジャッド・ネルソン)である。最初にオファーされたのは、ヒューズ監督が自分の分身として贔屓にしていたアンソニー。モリーは当初アリソン役に予定されていたそうだが、本人の希望でクレア役を演じることになった。エミリオももともとはベンダー役だったが、キャスティングに難航したアンドリュー役を与えられることに。その代わりとして、オーディションで役になりきって臨んだジャッドがベンダー役を任された。ジャッドとアリソン役のアリー・シーディは、その後も『セント・エルモス・ファイアー』(’85)や『ブルー・シティ/非情の街』(’86)でも共演している。それぞれの役柄に自身の一部を投影したというヒューズ監督だが、見ている観客も5人のうち誰かに自分を重ねることが出来るというのも本作の魅力だろう。 ヴァーノン先生役のポール・グリーソンは、『ダイ・ハード』(’88)の居丈高なロス市警副本部長役でもお馴染み。用務員カールを演じているジョン・カペロスは、ロケ地でもあるシカゴの有名な即興喜劇集団セカンド・シティ(出身者はジョン・ベルーシ、ダン・エイクロイド、ジョン・キャンディ、マイク・マイヤーズ、キャサリン・オハラなど)のメンバーで、当時は同郷の仲間であるヒューズ監督作品の常連俳優だった。ちなみに、クレアの父親が運転しているBMWはヒューズ監督の私物。ラストシーンではブライアンの父親役として、ヒューズ監督がチラリと顔を見せている。■ 『ブレックファスト・クラブ』© 1985 Universal City Studios, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2022.11.30
ジョン・カーペンターが西部劇にオマージュを捧げたヴァンパイア・アクション!『ヴァンパイア/最期の聖戦』
大の西部劇ファンだったカーペンター 『ハロウィン』(’78)や『遊星からの物体X』(’82)などで知られるホラー&SF映画の巨匠ジョン・カーペンター。幼少期に映画館で見たSFホラー『遊星よりの物体X』(’51)に強い衝撃を受け、自分もああいう映画を作ってみたい!と感化されて映画監督を目指したという彼は、しかしその一方でサスペンスからコメディまで幅広いジャンルの映画をどん欲に吸収して育ったシネフィルでもあり、中でも「映画監督になった本当の理由は西部劇を撮ること」と発言したこともあるほど大の西部劇映画ファンだった。 実際、例えば『ジョン・カーペンターの要塞警察』(’76)がハワード・ホークス監督作『リオ・ブラボー』(’59)へのオマージュであることは有名な逸話だし、『ニューヨーク1997』(’81)や『ゴースト・ハンターズ』(’86)などでも西部劇映画からの影響が随所に散見される。ただ、本人が「誰も自分に西部劇を撮らせてくれない」とぼやいて(?)いたように、ホラー映画やSF映画のエキスパートというイメージが災いしたせいか、カーペンターに西部劇を撮らせようと考えるプロデューサーがついぞ現れなかったのである。もちろん、彼が頭角を現した’70年代末~’80年代の当時、既に西部劇というジャンル自体が衰退の一途を辿っていたという事情もあろう。そんな西部劇マニアのカーペンター監督が、十八番であるホラー映画に西部劇テイストを融合させてしまった作品。それがこの『ヴァンパイア/最後の聖戦』(’98)だった。 舞台はアメリカ南部のニューメキシコ州。とある寂れた田舎のあばら屋に、武器を手にした屈強な男たちが集まってくる。彼らの正体は吸血鬼ハンターの傭兵部隊。両親を吸血鬼に殺されたリーダーのジャック・クロウ(ジェームズ・ウッズ)は、バチカンが秘かに支援する吸血鬼ハンター組織スレイヤーズのメンバーとなり、部下を率いて全米各地の吸血鬼を討伐していたのである。あばら屋に潜んでいた吸血鬼集団を全滅させたスレイヤーズ。吸血鬼の巣窟に必ずいるはずのボスが不在なのは気になったものの、ひと仕事を終えた彼らはモーテルに娼婦たちを呼んで祝杯をあげる。 ところが、そこへ吸血鬼のボス、ヴァレック(トーマス・イアン・ハンター)が乱入。これまで見たこともないほど強力なパワーを持つヴァレクは、予期せぬ敵の来襲に混乱するスレイヤーズと娼婦たちを片っ端から皆殺しにしてしまう。辛うじて生き残ったのは、ジャックとその右腕トニー(ダニエル・ボールドウィン)、そしてヴァレックに血を吸われた娼婦カトリーナ(シェリル・リー)の3人だけだ。血を吸われた人間と吸血鬼はテレパシーでお互いに繋がる。仲間を殺された復讐に燃えるジャックは、ヴァレックをおびき寄せるエサとしてカトリーナを連れて脱出するのだった。 バチカン側の窓口であるアルバ枢機卿(マクシミリアン・シェル)と合流したジャックたち。そこで彼らは、スレイヤーズのヨーロッパ支部が全滅したことを知らされる。犯人はヴァレック。14世紀にプラハで生まれた彼は全ての吸血鬼のルーツ、つまり史上最初にして最強のヴァンパイアだったのだ。その彼がなぜ今、アメリカに出現したのか。カトリーナにヴァレックの動向を透視させたジャックは、彼がバチカンによって隠された伝説の十字架を探し求めていることを知る。アルバ枢機卿にチームの監視役を任されたアダム神父(ティム・ギニー)によると、その十字架を儀式に用いることで、明るい昼間でも吸血鬼が外を歩けるようになるらしい。そうなれば、ヴァレックは文字通り無敵となってしまう。なんとしてでも阻止せねばならない。すぐさま敵の行方を追うジャックだったが、しかし時すでに遅く、ヴァレックは十字架の隠し場所を突き止めていた…。 あのフランク・ダラボン監督もカメオ出演!? 原作はジョン・スティークレイの小説「ヴァンパイア・バスターズ」。トビー・フーパー監督の『スペースバンパイア』(’85)や『スペースインベーダー』(’86)で知られ、カーペンターがプロデュースした『フィラデルフィア・エクスペリメント』(’84)の原案にも参加したドン・ジャコビーが脚本を手掛けているが、主人公ジャックのキャラや基本設定のほかはだいぶ脚色されている。もともと本作は『ハイランダー 悪魔の戦士』(’86)のラッセル・マルケイ監督が演出する予定で、ドルフ・ラングレンも主演に決まっていたが、製作会社との対立でマルケイがプロジェクトを降板したことから、ジョン・カーペンターに白羽の矢が立ったという。ちなみに、マルケイ監督とラングレンは本作の代わりに『スナイパー/狙撃』(’96)でタッグを組んでいる。 当時のカーペンターは興行的な失敗が続いて、本人も引退を考えるほどキャリアに行き詰まっていた時期。起死回生として挑んだ『ニューヨーク1997』の続編『エスケープ・フロム・L.A.』(’96)も、莫大な予算をかけたにも関わらず結果はパッとしなかった。ただ、予てから西部劇とホラーの融合に興味を持っていた彼は、舞台がアメリカ南部で主人公は殺し屋という、まるで西部劇みたいな本作の設定に創作意欲を掻き立てられたようだ。結果的にこの目論見は大当たり。具体的な世界興収の数字は不明だが、本作はカーペンター監督にとって久々のヒット作となる。 あばら屋の前にスレイヤーズが集結する冒頭シーンの、ジャックとあばら屋の扉を交互に接写していく演出は、クローズアップ・ショットがトレードマークだったセルジオ・レオーネ監督作品へのオマージュ。口より先に手が出る粗暴なタフガイ・ヒーロー、ジャックのキャラクターは、ハワード・ホークス作品におけるジョン・ウェインをイメージしたという。主人公たちの別れを描いたクライマックスは、ホークス監督×ウェイン主演の名作『赤い河』(’48)にインスパイアされたそうだ。さらに、カーペンター監督自身の手掛けた音楽スコアは、いかにもアメリカ南部らしいカントリー&ウェスタンやブルースを基調としつつ、一部では『リオ・ブラボー』のディミトリ・ティオムキンの音楽も参考にしている。 ただし、映画全体としてはサム・ペキンパーの『ワイルド・バンチ』(’69)からの影響が濃厚。赤褐色を基調としたカラートーンやスタイリッシュなカメラワーク、ハードなバイオレンス描写はもちろんのこと、モーテルでのスレイヤーズ虐殺シーンをあえてスローモーションで見せるあたりなども『ワイルド・バンチ』っぽい。なお、通常の映画フィルムが毎秒24コマで再生されるのに対し、スローモーションは60コマとか72コマあたりが一般的なのだが、本作は34~36コマというイレギュラーなフレーム数を採用。この微妙なサジ加減が、大殺戮のパニックとアクションを際立たせている。ちなみに、娼婦役のエキストラにはロケ地ニューメキシコでスカウトしたストリッパーたちが混じっているそうだ。 吸血鬼ハンターと最強吸血鬼のバトルを軸としたプロットは非常にシンプル。残念ながら十字架もニンニクも全く効果なし、吸血鬼を殺すならば太陽のもとへ晒さねばならない、なので陽が沈んだ夜は非常に危険!という基本設定も単純明快で、古き良きB級西部劇映画のごとくアクションとガンプレイにフォーカスしたカーペンター監督の演出が活きている。ホラー映画ならではの血しぶき描写は控えめであるものの、ここぞという場面ではしっかりと人体破壊スプラッターも披露。吸血鬼がウィルス感染するという設定については、リチャード・マシスンの小説「アイ・アム・レジェンド」を元ネタにしたそうだ。カーペンター作品としては、全盛期だった80年代のような冴えこそ影を潜めているものの、それでも理屈抜きに楽しめるアクション・エンターテインメントに仕上がっている。 主人公ジャック・クロウを演じているのは、予てよりアクション映画のヒーローをやってみたかったというジェームズ・ウッズ。相棒トニーには当初アレック・ボールドウィンが指名されていたが、諸事情で出演が叶わなかったことから、本人から弟ダニエルを推薦されたらしい。ヒロインの娼婦カトリーナにはテレビ『ツイン・ピークス』のシェリル・リー。次第に吸血鬼へと変貌していく過程で、徐々に野獣本能に目覚めていく芝居がとても巧い。アルバ枢機卿にはオスカー俳優マクシミリアン・シェル。最強吸血鬼ヴァレック役のトーマス・イアン・グリフィスのロングヘア―はエクステンションだったそうだ。モーテルで殺されるスレイヤーズの中には、日系人俳優ケリー・ヒロユキ・タガワも含まれている。 ちなみに、モーテルを脱出したジャックたちは、たまたま通りがかったキャデラックを奪って逃走を続けるわけだが、このキャデラックのドライバー役で顔を出しているのがフランク・ダラボン。そう、『ショーシャンクの空に』(’94)や『グリーンマイル』(’99)の監督である。もともとホラー映画畑出身のダラボン監督はカーペンター監督とも親しく、どうしても本作に出演したいと懇願されたのだそうだ。■ 『ヴァンパイア/最期の聖戦』© 1998 LARGO ENTERTAINMENT., INC. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2022.11.04
華やかなスウィンギン・ロンドンの光と影を映し出すフリー・シネマの名作『ダーリング』
刹那的な時代の世相を切り取った名匠ジョン・シュレシンジャー 当サイトで以前にご紹介したイギリス映画『ナック』(’65)が、スウィンギン・ロンドン時代の自由な空気を明るくポジティブに活写していたのに対し、こちらはその光と影をシニカルなタッチで見つめた作品である。第二次世界大戦後の荒廃と再建を経て、高度経済成長期に突入した’60年代半ばのイギリス。その中心地であるロンドンではベビーブーマー世代の若者文化が花開き、長らくイギリスを支配した保守的な風土へ反発するようにリベラルな価値観が広まり、経済の活性化によって本格的な消費社会が到来する。いわゆるスウィンギン(イケている)・ロンドン時代の幕開けだ。 そんな世相の申し子的な若くて美しい自由奔放な女性が、好奇心と欲望の赴くままにリッチな男性たちを渡り歩き、華やかな上流階級の世界で刹那的な快楽に身を委ねるも、その刺激的で享楽的な日々の中で虚無感と孤独に苛まれていく。さながらイギリス版『甘い生活』(’60)。それがアカデミー作品賞を含む5部門にノミネートされ、主演女優賞など3部門に輝いた名作『ダーリング』(’65)である。 監督はトニー・リチャードソンやリンゼイ・アンダーソンと並ぶ英国フリー・シネマの旗手ジョン・シュレシンジャー。BBCテレビのドキュメンタリーで頭角を現したシュレシンジャーは、劇映画処女作『ある種の愛情』(’62)でベルリン国際映画祭グランプリ(金熊賞)に輝いて注目されたばかりだった。2作目『Billy Liar』(’63)を撮り終えた彼は、同作にカメオ出演した人気ラジオDJ、ゴッドフリー・ウィンから興味深い話を聞く。それはウィンの知人だった若い女性モデルのこと。社交界の名士たちと浮名を流していた彼女は、複数の愛人男性から籠の中の鳥のように扱われ、与えられた高級アパートのバルコニーから投身自殺してしまったというのだ。 これは映画の題材に適していると考えたシュレシンジャーと同席した製作者ジョセフ・ジャンニは、新進気鋭の脚本家フレデリク・ラファエルに脚色を依頼するものの、出来上がった脚本は全くリアリティのない代物だったという。そこで製作者のジャンニが提案をする。最後に自殺を選んでしまう女性の話ではなく、なんの決断をすることも出来ない優柔不断な女性、もっといいことがあるんじゃないかと期待して男から男へ渡り歩いてしまう女性の話にすべきだと。劇中でも「最近は楽をして何かを得ようとする人間ばかりだ」というセリフが出てくるが、そのような浮ついた時代の空気を象徴するようなヒロイン像を描こうというのだ。 ジャンニには心当たりがあった。それが、贅沢な暮らしを求めて裕福な銀行家と結婚した知人女性。その女性を紹介してもらったシュレシンジャーとラファエルは、彼女の案内で上流階級御用達の高級レストランやパーティなどを訪れ、ジェットセッターたちの豪奢なライフスタイルの赤裸々な裏側を垣間見ていく。それが最終的に映画『ダーリング』のベースとなったわけだ。ただし、脚本の執筆途中でその女性が旦那から離縁を突きつけられ、協議で不利になる恐れがあるという理由から、彼女の私生活をモデルにした部分の書き直しを迫られたという。とはいえ、本作がスウィンギン・ロンドン時代のリアルな舞台裏を切り取った映画であることに間違いはないだろう。 刺激を求めて快楽に溺れ、孤独を深めていくヒロイン 舞台は現代の大都会ロンドン。アフリカの飢餓問題を訴える意見広告が、美しい女性モデルの微笑むラジオ番組「Ideal Woman(理想の女性)」のポスターに貼り変えられる。その女性モデルの名前はダイアナ・スコット(ジュリー・クリスティ)。物語はラジオのインタビューに答える彼女のフラッシュバックとして描かれていく。幼い頃から愛くるしい容姿と社交的な性格で周囲に「Darling(かわいい子)」と呼ばれて愛され、どこにいても目立つ美しい女性へと成長したダイアナ。保守的なアッパーミドル・クラス出身の彼女は、年の離れた姉と同じように若くして結婚したものの、しかし子供じみた旦那との生活は退屈そのものだった。 そんなある日、テレビの街頭インタビューを受けた彼女は、番組の司会を務める有名ジャーナリスト、ロバート(ダーク・ボガード)と親しくなり、彼の取材先へ同行するようになる。教養があって落ち着いた大人の男性ロバートに惹かれ、彼の友人であるマスコミ関係者や芸術家などのインテリ・コミュニティに刺激を受けるダイアナ。やがてお互いに愛し合うようになった既婚者の2人は、ロンドンの高級住宅街のアパートで同居するようになった。自身もモデルとして活動を始めたダイアナは、大手化粧品会社のキャンペーンガールに起用され、同社宣伝部の責任者マイルズ(ローレンス・ハーヴェイ)の紹介で映画デビューまで果たす。 こうして華やかな社交界に足を踏み入れたわけだが、しかしそれゆえ真面目なロバートとの安定した生活に飽きてしまったダイアナは、彼に隠れてプレイボーイのマイルズと浮気をするように。さらに、映画のオーディションを偽ってマイルズとパリへ出かけ、パーティ三昧の享楽的な生活にうつつを抜かす。だが、この浮気旅行はすぐにバレてしまい、憤慨したロバートはアパートを出て行ってしまった。すっかり気落ちしたダイアナは親友となったゲイの写真家マルコム(ローランド・カラム)に慰められ、テレビCM撮影のついでにイタリアでバカンスを過ごすことに。そこで彼女は、中世の時代にローマ法王を輩出したこともある名門貴族のプリンス、チェザーレ(ホセ・ルイス・デ・ヴィラロンガ)に見初められる。 妻に先立たれた男やもめのチェザーレは7人の子持ち。まだ結婚して家庭に入るつもりなどなかったダイアナは、彼からのプロポーズを断ってロンドンへ戻るものの、パーティとセックスに明け暮れるだけの生活に嫌気がさしてしまう。今さえ楽しければそれでいいと考えていた彼女だが、しかしそれだけでは心が満たされなかったのだ。結局、チェザーレのプロポーズを受け入れ、めでたく結婚することとなったダイアナ。「イギリス出身のイタリアン・プリンセス」としてマスコミに騒がれ、現地でも大歓迎された彼女だったが、しかし外からは華やかに見えるイタリア貴族の生活も、実際は伝統としきたりに縛られて非常に窮屈なものだった。夫のチェザーレは仕事で出張することが多く、広い大豪邸の中で孤独を深めていくダイアナ。やはり私のことを本当に愛してくれるのはロバートだけ。ようやく気付いた彼女は、ロバートと会うため着の身着のままでロンドンへ向かうのだが…。 アメリカでは大好評、モスクワでは大ブーイング? 恵まれない人々のための慈善活動をお題目に掲げながら、宮廷召使いの格好をした黒人の子供たちに給仕をさせ、豪華に着飾った金持ちの紳士淑女が贅沢なグルメや下世話なゴシップを楽しむチャリティー・イベント。絵画の芸術的な価値など分からない富裕層が、有り余る金にものを言わせて愛好家を気取るアート・ギャラリー。パリの怪しげな娼館でセックスを実演する生板ショーを鑑賞し、ジャズのビートに乗せて半裸の男女が踊り狂うジェットセッターたちの乱痴気パーティ。そんな虚飾と虚栄と偽善に満ちた狂乱の上流社会を、快楽と刺激と贅沢を求める自由気ままな現代娘ダイアナが、若さと美貌だけを武器に男たちを利用して闊歩する。 といっても、恵まれた中産階級の家庭に育った彼女には、男を踏み台にしてのし上がろうなどという野心は微塵もない。気の向くまま足の向くまま、もっと面白いことがないかとフラフラしているだけ。飽きっぽくて移り気な彼女は、人生の目的など何もない空っぽな根無し草だ。まさに、華やかで享楽的なスウィンギン・ロンドンが生み出した新人類と言えるだろう。ただただ楽しい時間を過ごしたいがため、男から男へ、パーティからパーティへ渡り歩いていくわけだが、しかし刹那的な快楽に溺れれば溺れるほど、虚しさと孤独が募っていく。周囲の人々が彼女に求めるのは若さと美貌とセックスだけ。綺麗なお人形さんの中身など誰も気にかけない。恐らくシュレシンジャーとラファエルは、その混沌と狂騒と軽薄の中に時代の実相を見出そうとしたのだろう。 そんなスウィンギン・ロンドン時代のミューズ、ダイアナを演じるジュリー・クリスティが素晴らしい。本作が映画初主演だった彼女は、このダイアナ役で見事にアカデミー主演女優賞を獲得し、たちまち世界的なトップスターへと躍り出る。シュレシンジャーの前作『Billy Liar』にも小さな役で出ていたクリスティ。製作会社はこのダイアナ役にシャーリー・マクレーンを推したそうだが、しかしシュレシンジャーは最初からクリスティを念頭に置いていた。当時の彼女はシェイクスピア劇の公演ツアーで渡米しており、シュレシンジャーはフィラデルフィアまで行って出演を交渉したという。その際に彼はニューヨークまで足を延ばし、モンゴメリー・クリフトやポール・ニューマン、クリフ・ロバートソンにロバート役をオファーしたが、いずれも断られてしまったらしい。また、アメリカの映画会社に出資を相談したものの、脚本の内容が不道徳だとして一蹴されたそうだ。 結局、ロバート役に起用されたのは、二枚目のマチネー・アイドルからジョセフ・ロージー監督の『召使』(’63)で性格俳優として開花したイギリスのトップスター、ダーク・ボガード。ハンサムでナルシストなプレイボーイのマイルズには、『年上の女』(’58)でアカデミー主演男優賞候補となったローレンス・ハーヴェイが決まり、英国人キャストばかりの本作にとってアメリカ市場でのセールス・ポイントとなった。 また、ストーリー後半のイタリア・ロケでは、『ティファニーで朝食を』(’61)の南米大富豪役や『魂のジュリエッタ』(’65)のハンサムな友人役で知られるスペイン俳優ホセ・ルイス・デ・ヴィラロンガがイタリア貴族チェザーレ役で登場。実は彼自身もスペインの由緒正しい貴族の御曹司だった。その長男役には『ガラスの部屋』(’69)で日本でもブレイクするレイモンド・ラヴロック、長女役には後にラヴロックと『バニシング』(’76)で共演するイタリアのセックス・シンボル、シルヴィア・ディオニジオ、秘書役には『歓びの毒牙』(’69)などのイタリアン・ホラーで知られるウンベルト・ラホーも顔を出している。そういえば、パリでの乱痴気パーティ・シーンには『遠い夜明け』(’87)の黒人俳優ゼイクス・モカエ、アート・ギャラリー・シーンには『007/私を愛したスパイ』(’77)のヴァーノン・ドブチェフと、無名時代の名脇役俳優たちの姿を確認することもできる。 先述したように、ハリウッドの映画会社からは「不道徳だ」として出資を断られた本作だが、蓋を開けてみればイギリスよりもアメリカで大ヒットを記録。モスクワ国際映画祭にも出品されたが、ソヴィエトのマスコミや批評家からは大不評だったそうだ。ただし、アメリカでもロシアでも本編の同じ個所が不適切だとしてカットされたらしく、シュレシンジャー本人は潔癖な点において両国は似ているとも話している。ダイアナ役でオスカーに輝いたジュリー・クリスティは、本作を見たデヴィッド・リーン監督から『ドクトル・ジバゴ』(’65)のララ役に起用され、押しも押されもせぬ大女優へと成長。惜しくも監督賞の受賞を逃したシュレシンジャーも、本作および再度クリスティと組んだ『遥か群衆を離れて』(’67)で名匠の地位を確立し、アメリカで撮った『真夜中のカーボーイ』(’69)で念願のオスカーを手にする。■ 『ダーリング』© 1965 STUDIOCANAL
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COLUMN/コラム2022.11.02
あなたもまんまと騙される!? 詐欺師たちの逆転リベンジを描いた痛快な傑作コメディ『スティング』
詐欺師コンビによる大胆不敵なハッタリ計画とは? 創業から110年の歴史を誇るハリウッドで最古のメジャー映画スタジオ、ユニバーサル。主に低予算のB級映画を量産していた同社は、それまでに幾度となく浮き沈みを経験してきたわけだが、’50年代に入ってスタジオシステムが崩壊すると倒産寸前の経営危機に陥り、大手タレント・エージェントから総合エンタメ企業へと成長したMCAに買収される。このMCAによるテコ入れで事業を拡大したユニバーサルだが、しかし本業の映画部門は20世紀フォックスやパラマウントなどの他社に後れを取ってしまい、主に『ヒッチコック劇場』や『ララミー牧場』、『刑事コロンボ』といったテレビ・ドラマで稼ぐようになる。 そんな老舗ユニバーサルに『西部戦線異状なし』(’30)以来の43年ぶりとなるアカデミー作品賞(合計7部門獲得)をもたらし、同年に公開されたジョージ・ルーカスの『アメリカン・グラフィティ』(’73)と共に興行的にも大ヒットを記録。ユニバーサル映画部門の本格的な復興に一役買うことになった名作が、痛快軽妙に詐欺師の世界を描いた傑作コメディ『スティング』(’73)だった。 舞台は1936年9月、米国民が未曽有の経済不況に喘いだ大恐慌下のシカゴ。詐欺で日銭を稼ぐ貧しい若者ジョニー・フッカー(ロバート・レッドフォード)は、師匠であるベテラン詐欺師のルーサー(ロバート・アール・ジョーンズ)と組んで、違法賭博の売上金をまんまと騙し取ることに成功する。これまで見たことのない大金を手にして浮かれるフッカー。恋人のストリッパー、クリスタル(サリー・カークランド)を誘って意気揚々と夜遊びに出かけたフッカーだが、しかし欲を出して場末のカジノでひと儲けようとしたところ、騙されて有り金を全てスってしまう。 その帰り道、天敵である悪徳刑事スナイダー(チャールズ・ダーニング)から、違法賭博の元締めがドイル・ロネガン(ロバート・ショー)だと知らされる。表向きは裕福な銀行家のロネガンだが、その裏の顔は裏社会を牛耳る冷酷非情な大物ギャング。これはヤバイ!と慌てるも時すでに遅く、師匠ルーサーはロネガンの差し向けた殺し屋に殺害され、自らも命を狙われるフッカーは逃亡せねばならなくなる。 そんなフッカーが転がり込んだのは、ルーサーの古い仲間ヘンリー・ゴンドーフ(ポール・ニューマン)。その世界では名の知られた伝説的な凄腕詐欺師だったが、ある事件でヘマをしたことから一線を退き、今は遊園地や酒場を経営する女性ビリー(アイリーン・ブレナン)のヒモをしていた。なんとしてでもロネガンに復讐し、ルーサーの仇を取りたいと鼻息を荒くするフッカー。その心意気を買ったゴンドーフは、ロネガンを騙して大金を巻き上げるべくひと肌脱ぐことにする。 すぐさま詐欺計画のブレインを招集したゴンドーフ。業界に顔の広い策略家キッド・ツイスト(ハロルド・グールド)に裏社会の情報収集に長けたJ.J.(レイ・ウォルストン)、普段は銀行員として働くエディ(ジョン・ヘフマン)が集まり、大勢の詐欺師仲間を動員した大規模な劇場型のイカサマを計画することとなる。その一方、事件の匂いを嗅ぎつけたFBI捜査官ポーク(ダナ・エルカー)がスナイダー刑事と組んで、ゴンドーフとフッカーの周辺を探り始める。果たして、一世一代の詐欺計画は成功するのだろうか…!? 実在した詐欺師たちからヒントを得たストーリー 才能はずば抜けているものの人間的に未熟な駆け出しの詐欺師と、頭脳明晰で手練手管に長けたベテラン詐欺師がコンビを組み、悪事の限りを尽くす強欲な大物ギャングから大金を巻き上げてギャフンと言わせるというお話。軽妙洒脱でユーモラスなジョージ・ロイ・ヒル監督の職人技的な演出も然ることながら、細部まで入念に計算されたデヴィッド・S・ウォードの脚本が文句なしに素晴らしく、悪漢ロネガンばかりか観客までもがまんまと騙されてしまう。社会のはみ出し者である詐欺師たちが力を合わせ、大物ギャングや警察など権力者たちの鼻を明かすという筋書きもスッキリ爽快。この負け犬の意地を賭けた逆転勝負というのは、監督・脚本を兼ねた『メジャーリーグ』(’89)にも通じるウォードの持ち味だが、中でも本作はアカデミー脚本賞に輝いたのも大いに納得の見事な出来栄えである。 そのウォードが本作のアイディアを思いついたのは、処女作『Steelyard Blues』(’73)の脚本を書くためのリサーチをしていた時のこと。同作で描かれるスリ犯罪について調べていた彼は、資料の中に出てくる実在した往年の詐欺師たちに魅了されたという。暴力もせず盗みを働くわけでもない詐欺師は、カモ自身の金銭欲を逆手に取って金をかすめ取る。彼らの多くは貧困層の出身で、騙す相手は基本的に金持ちばかりだ。まるでロビン・フッドみたいじゃないか!とウォードは考えた。 中でも、’30~’40年代に活躍した詐欺師たちは、大金を騙すために偽の証券取引所や賭博場などを実際に作ってしまい、綿密に練られたシナリオのもとで組織的に役割分担をしてターゲットを信用させ、相手が騙されたことにすら気付かないうちに大金を巻き上げるという、なんとも大掛かりで大胆な手段を用いていた。これを映画にすれば絶対に面白いはず!そう確信したウォードは、およそ1年がかりで書き上げた脚本を、俳優からプロデューサーに転身したばかりの友人トニー・ビルのもとに持ち込み、そのビルがマイケルとジュリアのフィリップス夫妻に声をかける。 本作のオスカー受賞でプロデューサーとしての地位を築き、マーティン・スコセッシの『タクシー・ドライバー』(’76)やスティーブン・スピルバーグの『未知との遭遇』(’77)を世に送り出すフィリップス夫妻。当時まだ無名の映画製作者だった2人は、ロサンゼルス西部マリブのビーチハウスに居を構えていたのだが、そこでたまたま隣人だった女優マーゴット・キダーとジェニファー・ソルトの2人と意気投合し、やがて彼らの周囲にはスコセッシやスピルバーグ、フランシス・フォード・コッポラ、ブライアン・デ・パルマ、ロバート・デ・ニーロ、ハーヴェイ・カイテルといった当時の若い才能が集まり、ハリウッドで燻っている無名や駆け出しの映画人たちの社交場と化していく。トニー・ビルやデヴィッド・S・ウォードもそこに出入りしていたのである。 そのビルから紹介された『スティング』の脚本を気に入ったフィリップス夫妻は、彼と3人で本作のプロデュースを手掛けることに同意。エージェント事務所に送られたウォードの脚本は、当時の事務所スタッフで後に映画監督となるロブ・コーエン(『ワイルド・スピード』)の目に留まり、大手スタジオのユニバーサルに売り込まれたというわけだ。 ニューマン演じるゴンドーフは「くたびれた大柄の中年男」だった!? ポール・ニューマンにロバート・レッドフォードが主演、監督はジョージ・ロイ・ヒルという『明日に向って撃て』の黄金トリオが再集結したことでも話題となった本作だが、当初はもっと小規模な映画になるはずだったという。製作陣が最初に声をかけたのはレッドフォード。というのも、ウォードは彼を念頭に置いて主人公フッカーのキャラを描いていたからだ。脚本の面白さに興味を惹かれたレッドフォードだったが、しかし脚本家のウォードが監督を兼ねる予定だと聞いて躊躇する。これだけ込み入った内容の脚本を映像化するには、ベテラン監督の職人技が求められるからだ。すると、それからほどなくしてレッドフォードはジョージ・ロイ・ヒル監督から連絡を受ける。当時、ユニバーサルで『スローターハウス5』(’72)を撮っていたヒル監督は、たまたま見かけて読んだ『スティング』の脚本を気に入り、次回作としてレッドフォード主演で監督したいという。こうして、本作の企画が本格始動することになったのだが、しかしこの時点ではまだニューマンは関わっていなかった。 かつて『明日に向って撃て』の撮影中、ニューマンがビバリーヒルズに所有する邸宅に滞在していたヒル監督。『スティング』の制作に取り掛かるにあたって、またあの屋敷を貸してもらおうと考えたヒル監督は、その交渉のためにニューマンへ連絡したところ、反対に「自分に出来るような役はないのか?」と尋ねられたという。そこで彼のもとへ脚本を送ったところ、若干の紆余曲折を経ながらもベテラン詐欺師ゴンドーフを演じることに。ただし、当初の脚本におけるゴンドーフは「くたびれた大柄の中年男」という設定で、なおかつ脇役のひとりに過ぎなかった。そのため、ヒル監督とウォードはニューマンの個性に合わせてキャラ設定を変更し、なおかつレッドフォードとの二枚看板となるよう役割も大きくしたのである。 それだけでなく、当初は全体的にシリアスなトーンだったストーリーのタッチも、一転して明るくてユーモラスなものへと変更。ロネガン役にはニューマンの推薦でロバート・ショーが起用され、レイ・ウォルストンやチャールズ・ダーニング、アイリーン・ブレナン、ハロルド・グールドといった名脇役俳優たちがキャスティングされた。フッカーといい仲になるダイナーのウェイトレス、ロレッタ役には、当時まだ無名だったディミトラ・アーリスを抜擢。ある重大な秘密を隠したロレッタを演じる女優が、顔や名前の知れた有名人だと観客が先入観を持ってしまうからという理由だったそうだ。スタジオ側は「もっと綺麗な女優を」と難色を示したそうだが、ヒル監督は頑として譲らなかったという。なぜなら、そんな目立つ美人が場末のダイナーなんかで働いているはずがないから。これは確かに正しい。そういえば、アイリーン・ブレナンにしろ、サリー・カークランドにしろ、本作に登場する女優たちは、いずれも色っぽいけど美人過ぎない。いかにも、いかがわしい酒場やストリップ小屋にいそうな、それらしいリアルな存在感を醸し出しているのがいい。 さらに、’30年代のシカゴを舞台にした本作を映像化するにあたって、ヒル監督は当時の街並みや風俗を忠実に再現するだけでなく、作品そのものの演出にも’30年代の犯罪映画のスタイルを取り入れることに。オープニングに出てくるユニバーサルの社名ロゴからして、’30年代当時の古いものを使用している。撮影監督のロバート・サーティーズと美術監督のヘンリー・バムステッドは、作品全体のカラー・トーンや照明を工夫することで、’30年代のモノクロ映画に近いような雰囲気を再現。’30年代当時から活躍するイーディス・ヘッドが衣装デザインを手掛け、イラストレーターのヤロスラフ・ゲブルが’30年代に人気だった雑誌「サタデー・イヴニング・ポスト」の表紙を真似たタイトルカードのイラストを描いた。そのスタイリッシュなビジュアルがまた大変魅力的だ。 また、本作はかつてアメリカの大衆に愛された音楽ジャンル、ラグタイムを’70年代に復活させたことでも話題を呼んだ。実際にラグタイムが流行ったのは20世紀初頭であるため、’30年代を舞台にした本作で使うのは時代考証的に間違いなのだが、ヒル監督は「そんなことに気付く観客なんていない」と一笑に付したという。使用されている楽曲の数々は、「ラグタイムの王様」として活躍した黒人作曲家スコット・ジョプリンのもの。息子とその従兄弟が自宅のピアノで演奏していたジョプリンの楽曲を聞いたヒル監督は、その軽快で陽気なタッチが『スティング』の雰囲気にピッタリだと考えたらしい。友人でもある作曲家マーヴィン・ハムリッシュに映画用のアレンジを依頼。テーマ曲となった「ジ・エンターテイナー」はビルボードの全米シングル・チャートで4位をマークし、サントラ・アルバムも全米ナンバー・ワンに輝いた。’17年に48歳の若さで死去したジョプリンは、ラグタイムの衰退と共に忘れ去られていたものの、本作をきっかけに再評価の気運が高まり、’76年にはその功績に対してピューリッツァー賞を授与されている。■ 『スティング』© 1973 Universal Pictures. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2022.10.11
カトリック牧師のストイックな信念にレジスタンス精神を投影したメルヴィルの異色作『モラン神父』
若き牧師の道義心に共鳴し、やがて惹かれていく未亡人の葛藤 フレンチ・ノワールの巨匠ジャン=ピエール・メルヴィル。マフィアや殺し屋、詐欺師など裏社会で生きる男たちの友情と裏切りと道義心をテーマに、『いぬ』(’63)や『ギャング』(’66)、『サムライ』(’67)、『仁義』(’70)といったノワール映画の名作を世に送り出したわけだが、そんなメルヴィルが第二次世界大戦下のフランスの田舎を舞台に、若い牧師に恋をした女性の戸惑いと葛藤を描いた異色作が、ジャン=ポール・ベルモンドとの初コンビ作ともなった『モラン牧師』(’61)である。 ナチス・ドイツ占領下のフランス。アルプスの麓の小さな田舎町に住む女性バルニー(エマニュエル・リヴァ)は、ユダヤ人の夫を戦場で亡くして幼い娘をひとりで育てる未亡人だ。町に駐留しているイタリア兵は住民に対して友好的ではあるものの、しかし戦時下の日常には様々な不安がつきまとう。女性ばかりの職場で働いている彼女は、美人でやり手の女性上司サビーヌ(ミコル・ミレル)に淡い恋心を寄せることで、日々のストレスを紛らわせていた。 やがて町にドイツ軍がやって来る。最愛の娘にはユダヤ人の血が流れているし、自身も共産主義者であるバルニーは、同じように子供を持つ同志の女性たちと相談し、万が一のことを考えて子供たちにカトリック教会の洗礼を受けさせる。もちろん、あくまでもドイツ軍から我が子を守るためであり、バルニー自身は神の存在など信じていない。自分でも牧師の告解を受けようと考えた彼女は、そこで同世代の若い牧師レオン・モラン(ジャン=ポール・ベルモンド)と知り合う。無神論者であることを隠すことなく、神の存在やカトリック教会への疑問を問いただすバルニー。反発や批判を受けると思った彼女だが、しかしモラン神父はバルニーの疑問のひとつひとつを真摯に受け止め、参考になる本を貸しましょうと彼女を司祭館へと招待する。 振り返って、カトリックの司祭でありながら「宗教はブルジョワの利益のために歪められている」と本音を吐露し、常に弱者の側に立って自らの道義心に従い行動する本作のモラン神父もまた、紛れもないレジスタンス精神の持ち主であると言えよう。それを強く浮き彫りにするのが、ヒロインであるバルニーの存在だ。神の存在を否定する共産主義者であり、娘の安全を守ることが常に最優先だった彼女だが、しかしモラン神父との対話と交流を通じて宗教への理解を深め、我が身の危険も顧みず他者へ手を差し伸べていく。それは恐らく、モラン神父がその言葉と行動で示す「人としての正しさ」、すなわち彼の道義心に強く感化されたのだろう。 さらにモラン神父は自らの美しい容姿や知性によって、バルニーら様々な問題を抱えた女性たちを性的に惹きつける。メルヴィル監督曰く、「レオン・モランはドン・ファン」である。劇中でバルニーやクリスティーヌが察したように、彼は自らが男性として魅力的であることを自覚しており、それを用いて女性たちを夢中にさせるのだが、しかし決して彼女らの期待には応えない。それは聖職者としての節度をわきまえているからというよりも、まるで女性たちへ「誘惑に抵抗して克服する」ための試練を与えているかのようだ。そう考えると、バルニーを特別扱いしているように思えたモラン神父が、いきなり理由もなく彼女を突き放してみせる行動の不可解さも理解できよう。恐らく、他の女性にも同様のことをしているはずだ。これは、政治や思想に左右されることのない道義心を持つ聖職者が、その揺るぎなきレジスタンス精神をもって迷える子羊たちを教え導いていく物語。そういう意味で、やはりメルヴィル監督らしい映画と言えるだろう。 フランス文学界の権威ゴンクール賞に輝くベアトリス・ベックスの原作本に感銘を受け、当時ヨーロッパで最も影響力のある映画製作者のひとりだったカルロ・ポンティに映画化企画を持ち込んだメルヴィル監督。そこでポンティからモラン神父役に勧められたのがジャン=ポール・ベルモンドだった。ご存知の通り、ベルモンドとメルヴィルはジャン=リュック・ゴダール監督の出世作『勝手にしやがれ』(’60)で共演したことのある仲だ。当時、イタリアでポンティが製作するヴィットリオ・デ・シーカ監督の『ふたりの女』(’60)を撮影中だったベルモンドは、現場へ足を運んだメルヴィル監督から直接オファーを受けたものの、当初は出演に後ろ向きだったという。やはり、自分のイメージが聖職者役に合うかどうか懐疑的だったようだ。 『モラン神父』© 1961 STUDIOCANAL - Concordia Compagnia Cinematografica S.P.A. - Tous Droits Reserves
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COLUMN/コラム2022.10.06
‘80年代青春映画の巨匠ジョン・ヒューズのこだわりが詰まった原点!『すてきな片想い』
平凡なティーンの平凡な日常を鮮やかに描いたジョン・ヒューズ ティーン向けの青春映画が黄金時代を迎えた’80年代のハリウッド。レーガン政権下における経済回復の影響はもちろんのこと、折からのMTVブームを意識して映画と最新ポップスを抱き合わせで売るマーケティング戦略、ショッピングモールに併設された大型シネコンの普及などが功を奏し、当時のアメリカでは若年層の映画観客人口が急速に増加。おのずと若者にターゲットを定めた青春映画が人気を集めるようになった。そうした中から、エイミー・ヘッカリング監督の『初体験リッジモント・ハイ』(’82)やフランシス・フォード・コッポラ監督の『アウトサイダー』(’83)に『ランブル・フィッシュ』(’83)、ジョエル・シューマカー監督の『セント・エルモス・ファイアー』(’85)など数々の名作が生まれたわけだが、当時の青春映画を語るうえで絶対に欠かせない映像作家と言えば、間違いなくジョン・ヒューズ監督であろう。 日本ではどうしても『ホーム・アローン』(’90)シリーズの生みの親という印象が強いジョン・ヒューズだが、しかしアメリカでは社会現象にもなった『ブレックファスト・クラブ』(’85)や『フェリスはある朝突然に』(’86)で若者のハートをガッチリと捉え、プロデュースを手掛けた『プリティ・イン・ピンク/恋人たちの街角』(’86)や『恋しくて』(’87)なども大ヒットさせた’80年代青春映画の巨匠として伝説的な存在。アメリカのどこにでもいる平凡なティーンエージャーたちの平凡な日常を鮮やかに切り取り、思春期ならではの恋愛やセックス、スクールカーストなどの切実な問題を等身大に描いた彼の作品群は、ケヴィン・スミスやジャド・アパトー、アダム・リフキンなど数多くの映像作家たちに多大な影響を与えた。その原点とも言える監督デビュー作が、この『すてきな片想い』(’84)である。 主人公はシカゴ郊外の閑静な住宅街に暮らす高校2年生の女の子サマンサ(モリー・リングウォルド)。16歳の誕生日を迎えたばかりの彼女は、朝から鏡に向かって深いため息をつく。なにしろ、世間で16歳といえば大人への階段をのぼり始める節目の年齢。ところが、鏡には昨日までと何一つ変わらない平凡な自分が映っている。美人じゃないけどブスでもない、学園の人気者でもなければ負け組でもない、成績だって優等生ではないけど落第生でもない、なにもかもが平均値のフツーな私に嫌気がさしていたサマンサは、16歳になれば何かが変わるんじゃないかと期待していたのだが、残念ながら現実はそう甘く(?)なかった。 しかし、それ以上にサマンサがショックだったのは、家族の誰一人として今日が彼女の誕生日であることに気付いていないこと。というのも、明日は姉ジニー(ブランチ・ベイカー)の結婚式。父親ジム(ポール・ドゥーリ―)も母親ブレンダ(カーリン・グリン)も婚礼準備で大忙しだし、イタズラ盛りの弟マイク(ジャスティン・ヘンリー)ははしゃいでいるし、結婚するジニーはやたらとナーバスになっている。もはや誕生日どころの騒ぎではなかったのである。 あー!人生で最悪の誕生日だわ!と朝からご機嫌ななめで登校するサマンサ。そんな彼女にも、実は秘かに意中の男子がいる。1学年先輩の上級生ジェイク・ライアン(マイケル・シューフリング)だ。しかしハンサムで運動神経抜群のジェイクは、文字通り全校女子が恋焦がれる最強のモテ男。そのうえ、美人で大人っぽい学園の女王様キャロライン(ハヴィランド・モリス)という恋人までいる。話しかけるどころか近寄ることさえできない。っていうか、そもそも私の存在すら気付かれていないはず。募る恋心と無力感に悶々とするサマンサだが、そんな彼女に追いうち(?)をかけるのが新入生のオタク男子テッド(アンソニー・マイケル・ホール)だ。 どこから湧き出るのか理解不能な根拠なき自信に満ち溢れ、キザなプレイボーイを気取ってサマンサを口説こうとし、断っても断ってもしつこく言い寄ってくるウルトラKYな童貞少年テッド。同級生の男子ですらガキみたいで嫌なのに、ましてや年下のオタクなんて眼中になし!なんとかテッドの猛アタックをかわし、無事に家へ帰り着いたサマンサだったが、結婚式に参列する父方と母方の祖父母が泊まりに来て家の中は大騒ぎ。そのうえ、祖父母の連れてきた中国人留学生ロン(ゲディ・ワタナベ)にベッドを取られて居場所がない。そこで彼女は参加を迷っていた学校のダンスパーティへ行くことに。親友ランディ(リアン・カーティス)と落ち合ったサマンサだったが、しかし相変わらずテッドはしつこいし、目の前でジェイクとキャロラインのチークダンスを見せつけられるしと良いことなし。ところが、そのジェイクが実は自分のことを気にしているらしいとテッドから聞いたサマンサは、なんとか勇気を奮い起こして彼に話しかけようとするのだが…? ‘80年代ティーン・アイドルの女王モリー・リングウォルド ということで、16歳の誕生日を迎えた多感な少女の目まぐるしい1日を描いた小品。ノリとしては、当時人気だった『初体験リッジモント・ハイ』や『ポーキーズ』(’80)などの青春セックス・コメディの延長線上にあるものの、しかしそれらの多くが男性ホルモンを持て余したエッチな童貞男子のドタバタ騒動を描いていたのに対し、本作では未熟だが繊細で思慮深い普通のティーン女子を主人公に据えることで、恋愛やセックスに揺れ動く思春期の少女の精神的な成長にフォーカスした瑞々しい青春ロマンティック・コメディへと昇華している。 キラキラとは程遠い平凡で退屈な学園生活。もう子供ではないけれど、かといってまだ大人でもない。それゆえ、学校でも家庭でもどことなく居心地が悪い。中途半端で宙ぶらりんな自分自身や周りの環境に不満を抱き、年上のイケメン男子との恋愛に憧れを抱きつつ、しかし一歩を踏み出すような勇気もない。そんなシャイで自己肯定感低めな主人公サマンサの心情に寄り添いながら、なにも急いで焦って大人になる必要などない、ありのままのあなたで十分に魅力的なのだから、それを理解してくれる相手がいずれきっと現れると、むしろ彼女のコンプレックスである平凡さや未熟さを肯定する。当時の青春映画に出てくるヒロインと言えば、ニューヨークやロサンゼルスなどの大都会に住む「自由奔放で進んだ女の子」が定番で、なおかつティーン女子を主人公にした青春映画そのものがまだ希少だったことを考えれば、これは極めて画期的かつ革命的なヒロイン像だったと思うし、ある意味で『JUNO/ジュノ』(’07)や『レディバード』(’17)、『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー』(’18)などの等身大ヒロインの先駆者だったとも言えよう。 そんな主人公サマンサを演じているのが、撮影当時まだ15歳の女子高生だったモリー・リングウォルド。彼女に惚れ込んだジョン・ヒューズ監督が、モリーの主演を大前提に脚本を書いたというだけあって、これ以上ないくらいの当たり役だ。とびぬけた美人ではないし愛嬌があるとも言えないけれど、ちょっと可愛くて芯が強そうで聡明な女の子。このフツーっぽさが実にいい。これを機に彼女はジョン・ヒューズ映画のミューズとして、『ブレックファスト・クラブ』や『プリティ・イン・ピンク/恋人たちの街角』にも主演。フィービー・ケイツやダイアン・レインなどの美形スターが人気だった日本ではイマイチだったと記憶しているが、アメリカではリングレッツと呼ばれる同世代の熱狂的ファンが急増し、’80年代のユース・カルチャーを象徴するティーン・アイコンとなった。 そもそも本作は、現実のリアルなティーン像に限りなく近い登場人物と、彼らを活き活きと演じるフレッシュなキャストの魅力に支えられている部分が大きい。世の東西を問わずティーン映画のキャラクターと言えば、実際には10代ではない大人の役者が演じるというのが定石だが、本作はジェイク役のマイケル・シューフリングとキャロライン役のハヴィランド・モリス、ロン役のゲディ・ワタナベなど一部を除いて、大半の高校生役を本物の高校生たちが演じている。シカゴ近辺の高校から大量にエキストラが募集され、その中には後に青春映画『デトロイト・ロック・シティ』(’99)を撮るアダム・リフキン監督も含まれている。 劇中で細長のニューウェーブ・サングラスをかけている男子が幾度となく出てくるが、あれが高校生時代のアダム・リフキン。当時すでに映画監督志望だった彼は、ヒューズ監督に頼み込んで非公式の製作助手を務め、映画撮影のノウハウを実際に見て学んだのだそうだ。そのリフキン曰く、当時30代だったヒューズ監督も中身は男子高校生そのままで、撮影の合間にはエキストラの高校生たちと一緒になってはしゃぐくらい溶け込んでいたという。だからこそ、彼の描くティーン像に作り物ではない説得力があったのかもしれない。 そのヒューズ監督が自分自身を投影したとされているのが、恋愛やセックスの知識だけは豊富な頭でっかちの童貞オタク少年テッドである。意中の年上女子サマンサに正面から猛アタックし、何度撃沈してもへこたれない強靭な精神力(?)の持ち主。その空気の読めなさと根拠のないビッグマウスには呆れるばかりだが、しかし物語がどんどんと進むにつれて、それが本質的な自信のなさの裏返しであることが分かってくる。彼もまた、早く大人になりたくて焦っているのだ。しかも、異性やセックスに興味津々な年頃。普段から男性ホルモン過多なオタク仲間たちに御高説を垂れているがゆえ、サマンサをモノにしないとメンツが立たない。ホモソーシャルな空間における男らしさのマウント合戦というのは、一般的な青春映画だと学園の花形であるジョック(体育会系男子)・グループの特性として描かれがちだが、本作では負け犬のオタク男子グループも何ら変わらないことが示唆される。 そういう意味で興味深いのは、そのジョック・グループの頂点に君臨する学園のイケメン・キング、ジェイクが、実際は真面目で理知的で繊細な若者として描かれていることだろう。学校で一番のモテ男という立場もあって、女子で人気ナンバーワンのパーティガール、キャロラインとなんとなく付き合ってはいるものの、本音では地に足の付いた真面目なフツーの女の子とフツーの恋愛がしたい。それゆえ、実はサマンサのことが前から気になっているのだが、複雑な女心をいまひとつ理解していないため、視線を合わせるとドギマギして目を逸らしてしまうサマンサのリアクションに戸惑ってしまう。この相思相愛な2人の些細なすれ違いが、なんとも微笑ましいというかヤキモキするというか(笑)。 もちろん、テッド役のアンソニー・マイケル・ホール、ジェイク役のマイケル・シューフリングというキャスティングも抜群に良い。特にモリーと同じく撮影当時15歳だったアンソニーの絶妙な挙動不審ぶりときたら!今ではすっかりコワモテのマッチョガイになったアンソニーだが、当時はまだあどけない顔立ちでガリガリ&ヒョロヒョロのモヤシっ子少年。もともと彼はジョン・ヒューズが脚本を手掛けた『ホリデーロード4000キロ』(’83)からの付き合いなのだが、本作を機にヒューズ監督作品の常連スターとなった。一方のマイケル・シュールフィングはこれが映画初出演だった元ファッションモデル。キャスティング・ディレクターのジャッキー・バーチによると、本人もジェイクと同様にシャイで控えめな好青年だったそうで、『ビジョン・クエスト/青春の賭け』(’85)や『恋する人魚たち』(‘90)などで順調にキャリアを重ねたが、しかし映画界の水が合わなかったらしく突然引退。木製家具の職人になったそうだ。 全編を彩るポップ・ソングの数々にも要注目! 脇役キャラで特に印象的だったのは、おかしな英語を喋る変わり者の中国人留学生ロン。演じるゲディ・ワタナベは日系人俳優だが、生まれも育ちもユタ州という生粋のアメリカ人。もちろん英語はペラペラで、むしろ中国語はおろか日本語すら喋れないらしく、ロン役のキャラ作りにはバイト先の友だちだった韓国人を参考にしたという。一部ではアジア人のステレオタイプをバカにしていると批判されがちな役柄だが、これが実に愉快でチャーミング。ダンスパーティで知り合った巨体マッチョ女子マーリーン(デボラ・ポラック)との、文字通り破壊力抜群なラブラブぶりも楽しい。ちなみに、劇中では身長差のある凸凹カップルのロンとマーリーンだが、実は演じるゲディとデボラは同じくらいの身長。なので、撮影の際にはデボラが木箱の上に乗ったり、つま先立ちをしながら演じたのだそうだ。 一方、サマンサの家族を演じるのは名のあるベテラン俳優たち。父親役にはロバート・アルトマン作品に欠かせない名脇役ポール・ドゥーリ―。母親役のカーリン・グリンはトニー賞の主演女優賞に輝くブロードウェイの名女優で、ジョン・ヒューズ製作の『恋しくて』でブレイクしたメアリー・スチュアート・マスターソンの実母だ。祖父母役にはアメリカ人なら誰もが知る往年のバイプレイヤーが勢揃い。中でもお色気ムンムンでちょっとズレ気味な母方の祖母ヘレンを演じるキャロル・クックは、あのアメリカン・コメディの女王ルシール・ボールの愛弟子にして秘蔵っ子だったコメディエンヌだ。 そのほか、テッドの子分ブライスには撮影当時17歳のジョン・キューザック、その姉ジョーン・キューザックも首にハーネスを付けたオタク女子役で登場。2人ともロケ地シカゴの出身で、ジョンはアダム・リフキン監督のクラスメートだった。キャロラインの取り巻き女子ロビンを演じているジャミー・ガーツは、その後『クロスロード』(’86)や『レス・ザン・ゼロ』(’87)などで青春映画スターとなったが、彼女もまたシカゴ出身でキューザック姉弟やリフキンと顔馴染みだったという。サマンサの生意気な弟マイクには、『クレイマー・クレイマー』(’79)で有名になった子役スター、ジャスティン・ヘンリー。また、『ポルターガイスト』(’82)シリーズの霊媒師役でお馴染みのゼルダ・ルービンシュタインが、結婚式場のコーディネーター役で顔を出している。 そして、『すてきな片想い』を語るうえで欠かせないのが音楽。ジョン・ヒューズ監督自身が大のポップ・ミュージック・マニアで、彼の作品では必ず音楽が大きな役割を果たしているのだが、本作ではなんと合計で32曲ものポップ・ソングが全編に渡って散りばめられている。全米にサントラ・ブームが吹き荒れた’80年代。若者向けの映画に人気アーティストの楽曲を盛り込むのは定番だったが、しかしこれだけ多くの楽曲を使用した映画は他になかなかないだろう。オープニングで流れるカジャグーグーを筆頭に、ビリー・アイドルにワム!、トンプソン・ツインズ、パティ・スミス、ナイト・レンジャー、デヴィッド・ボウイ、ニック・ヘイワード、オインゴ・ボインゴ、ポール・ヤングなどなど、UKニューウェーヴからアメリカン・ロックまで幅広いアーティストのナンバーが選曲されている。そもそも、主人公のサマンサ自身が、自室にカルチャー・クラブやストレイ・キャッツのポスターを貼っているくらいの音楽好きである。ダンスパーティのチークタイムに流れるスパンダー・バレエの名曲「トゥルー」は特に印象的だ。 ジョン・ヒューズ監督と共にこれらのBGMを選曲したのが、後にインタースコープ・レコードの創業社長となるミュージック・スーパーバイザーのジミー・アイオヴィーン。ブルース・スプリングスティーンやパティ・スミス、スティーヴィー・ニックス、U2などのプロデューサーとしても有名なアイオヴィーンは、本作のためのオリジナル・ソング2曲もプロデュースしている。それがアニー・ゴールデンの「Hang Up The Phone」とストレイ・キャッツの「16 Candles」。「Hang Up The Phone」は60年代のガールズ・グループを意識した作品だったため、ザ・ロネッツやザ・シャングリラスのヒット曲を書いた女性作曲家エレン・グリーンウィッチに相談したところ、当時エレンの伝記ミュージカル「The Leader of the Pack」の舞台に主演していたアニー・ゴールデンを紹介されたという。一方の「16 Candles」は往年のドゥーワップ・グループ、ザ・クレスツが’58年にヒットさせた名曲のカバーで、当時ドゥーワップ風のシングル「I Won’t Stand in Your Way」が話題となっていたストレイ・キャッツに白羽の矢が立てられたのだそうだ。 また、テッドが最初に登場するシーンでは『ドラグネット』、自宅に戻ったサマンサが祖父母と遭遇するシーンでは『ミステリー・ゾーン』、オタク男子たちが群れを成すシーンでは『ピーター・ガン』といった具合に、懐かしのテレビ・ドラマのテーマ曲がキューサウンドとして使用されるなど、音楽にも細部までこだわりが詰まっている。かつてのビデオ発売時には著作権問題でBGMが一部差し換えられ、ファンから大ブーイングを喰らったこともあるが、現在ではライセンスもすべてクリアして元通りになっている。ジョン・ヒューズ映画では、音楽もまた重要なメイン要素のひとつなのだ。■ 『すてきな片想い』© 1984 Universal City Studios, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2022.09.08
オードリー・ヘプバーンの転機となった傑作ロマンティック・コメディ『ティファニーで朝食を』
初めて「大人の女性」役に挑戦したオードリー ハリウッドの妖精、オードリー・ヘプバーンの転機ともなった不朽の名作である。ヨーロッパ某国の王女様を演じた初主演作『ローマの休日』(’53)でいきなりアカデミー主演女優賞を獲得し、その知性と気品に溢れる美しさと少女のように天真爛漫で無垢な愛らしさで、たちまち世界中の映画ファンを虜にしてしまったオードリー。以降も『麗しのサブリナ』(’54)や『昼下がりの情事』(’57)などの名作に次々と主演し、清楚で可憐で初々しい処女を演じ続けた彼女が、初めて色っぽい大人の女性役に挑んだ作品。それが作家トルーマン・カポーティの小説を映画化した『ティファニーで朝食を』(’61)だった。 オードリーが演じるのは、大都会ニューヨークの洒落たアパートメントに暮らす自由気ままな女性ホリー・ゴライトリー。高級宝石店ティファニーをこよなく愛し、夜な夜な街へ繰り出しては朝帰りする毎日。ニューヨークの社交界でも顔が広い彼女は、金持ち男性とレストランやナイトクラブに同伴することで生計を立てている。昔から映画解説などで娼婦と紹介されることの多いホリーだが、しかし正確を期すならば男性のデート相手を務めて高額ギャラを稼ぐエスコートレディ。もしかしたらクライアントと寝ることもあるかもしれないが、劇中でもその辺はあえて曖昧にされている。現代風に言うならばフリーランスのキャバ嬢、原作者カポーティに言わせると「アメリカ版の芸者」である。 そんな彼女が明け方のニューヨーク五番街へとタクシーで乗り付け、まだ開店前のティファニー本店のショーウィンドーを眺めながら、コーヒーとデニッシュの軽い朝食を取るところから物語は始まる。アパートの鍵をなくしたため玄関のブザーを鳴らし、日本人の大家ユニヨシ氏(ミッキー・ルーニー)に朝からこっぴどく怒られるものの、全く気にする様子のないホリー。すると今度はお昼過ぎ、寝ていた彼女自身が玄関のブザーで起こされる。アパートの新たな住人ポール(ジョージ・ペパード)が引っ越して来たのだ。 ちょうど良かったわ、これからシンシン刑務所に入っているマフィア、サリー・トマトと面会するの、彼から教えてもらった天気予報を弁護士に伝えるだけで100ドルも貰えるのよ!というホリーの話に困惑しながらも、陽気で無邪気であっけらかんとした彼女に惹かれるポール。ホリーもどことなく兄と雰囲気が似ているポールに親近感を覚えるが、しかし恋愛感情を抱くようなことはなかった。なぜなら、彼女の目標は大富豪と結婚して玉の輿に乗ること。エスコートの仕事もそのためのコネ作りだ。一方のポールもまた、実は本職の小説家では全く食えないため、年上の裕福な人妻2E(パトリシア・ニール)のヒモをしている。上昇志向の強いパーティガールに、甲斐性なしの二枚目ジゴロ。とても結ばれそうにはない2人だ。 ある日、ポールはアパートの前で見張る中年紳士を見かける。2Eの夫が差し向けた私立探偵かと思いきや、なんとホリーの夫ドク・ゴライトリー(バディ・イブセン)だった。テキサスの田舎で生まれた孤児ホリーは、生活のために親子ほど年の離れたドクと14歳で結婚。しかし貧乏暮らしに嫌気がさして家出し、兵隊に行った唯一の肉親である兄を養うため、一獲千金の夢を追い求めてニューヨークへやって来たのだ。ポールの親身な支えもあって、夫ドクにハッキリと別れを告げるホリー。これを機に彼女との仲が深まったポールは、ようやく作家としてのキャリアも上向きになってきたことから、2Eとの愛人関係を解消してホリーにプロポーズしようとするものの、しかし愛よりも経済的な安定を望むホリーの決意は固かった…。 原作者カポーティは大いに不満だった!? 原作はトルーマン・カポーティが’58年に発表し、全米に一大センセーションを巻き起こした同名の中編小説。カポーティのもとにはハリウッドの各スタジオから映画化のオファーが殺到したそうだが、その中から彼が選んだのはパラマウントだった。プロデューサーのマーティン・ジュロウとリチャード・シェファードは、マリリン・モンロー主演のコメディ『七年目の浮気』(’55)や『バス停留所』(’56)で有名なジョージ・アクセルロッドに脚色を任せ、パラマウントの看板スターだったオードリーにホリー役をオファー。娼婦まがいの仕事をする女性の役など、オードリーが引き受けるとは思えなかったが、しかし当時32歳でキャリアの新たな方向性を模索していた彼女は、一抹の不安を抱えつつもこのチャンスに賭けることにする。ところが、原作者カポーティは映画版の出来栄えに不満で、中でも特にオードリーのキャスティングにはひどく憤慨していたという。 もともとカポーティが小説のインスピレーションにしたのは、ニューヨークのカフェ・ソサエティ(社交界)に出入りしていた彼自身が、実際に身近で目の当たりにした若い女性たち。アメリカ経済の中心地であるニューヨークには、豊かな生活を夢見て全米各地から大勢の女性が集まり、その若さと美貌でリッチな男性をゲットすべく社交界に入り浸っていたが、しかしその多くは一時チヤホヤされただけで姿を消してしまう。主人公ホリーはそうした女性たちの象徴であり、語り部である名無しの作家はカポーティ自身であった。 ホリーのモデルは複数存在するが、その中のひとりには息子をアメリカ南部の親戚に預け、ニューヨークの男たちを渡り歩いたカポーティの母親リリー・メイも含まれていたという。また、そうした恵まれない出自でありながら生来の社交性と巧みな話術を駆使し、当時はまだ珍しいオープンリー・ゲイだったことから上流階級のマダムたちに気に入られ、カフェ・ソサエティの一員に食い込んだカポーティ自身の半生も、ホリーの人物像に色濃く投影されていると見て間違いないだろう。いずれにせよ、原作ではそうした華やかなニューヨークのシビアな光と影が映し出され、ホリーのキャラクターも未熟だがシニカルでタフな女性として描かれていた。 しかし、アクセルロッドの脚色では小説版のダークな面が一掃され、主人公ホリーも無邪気でナイーブな愛くるしい女性へと変身。さらに、原作では同性愛者と思しき語り部の作家を、ハンサムで颯爽としたシスジェンダー男性ポールとして書き換え、2人の恋愛模様を軸としたロマンティック・コメディに仕上げている。なので、原作者カポーティが本作を見て憤慨したというのも無理はなかろう。 さらに、倫理や道徳の表現に厳しいヘイズコードの検閲をパスするため、いかがわしい仕事をするホリーの日常生活からセクシャルな要素をそっくり取り除いたことから、ストーリー自体が現実を都合よくシュガーコーティングした夢物語と化してしまったことは否定できまい。ただ、その決定的な弱点を大いに補って余りあるのが、ホリーを演じるオードリー・ヘプバーンその人である。性的な魅力を武器に男たちを手玉に取りながらも、決して清らかさや純粋さを失わないホリーという非現実的なキャラは、むしろ性的な魅力に乏しい永遠の妖精オードリーが演じてこそ初めて説得力を持つ。カポーティは友人でもあったマリリン・モンローをホリー役に想定していたそうだが、少なくともこの映画版に関して言えばオードリーで大正解。もし仮にこれがモンローだったら、映画そのものがコメディというよりもジョークとなってしまったはずだ。 「ムーン・リバー」なくして本作は語れない! もちろん、軽妙洒脱で洗練されたブレイク・エドワーズの演出も功を奏している。大人向けの荒唐無稽なユーモアを基調としつつ、同時にそこはかとない切なさや哀しみを漂わせた語り口が実に味わい深いのだ。この絶妙なセンチメンタリズムを盛り上げるのが、エドワーズ監督とはテレビ『ピーター・ガン』(‘58~’61)以来の欠かせないパートナーである作曲家ヘンリー・マンシーニが手掛けたテーマ曲「ムーン・リバー」。人気のない早朝のニューヨーク五番街で、ジヴァンシーのデザインした黒いドレスに身を包んだオードリーがティファニー本店の前に降り立ち、「ムーン・リバー」の甘く切ないメロディが流れるオープニング・シーンなどは、本作が現代のおとぎ話であることを強く印象付ける。アパートの非常用階段でオードリーが「ムーン・リバー」を弾き語りするシーンも最高。決して歌の上手い人ではないのだが、だからこそプロの歌手では表現できない情感を醸し出す。これぞ女優の歌だ。 そんなエドワーズ監督のコメディ演出が際立つのは、ホリーがカフェ・ソサエティの友人たちを自宅へ招いたパーティ・シーン。脚本では主なセリフ以外に具体的な描写がなかったため、エドワーズ監督はスタッフやキャストと撮影現場で相談しながら、あの「奇人変人の大饗宴」とも呼ぶべきクレイジーなパーティを作り上げたのだ。パーティ客として集められたのは、普段から監督とは気心の知れた友人ばかり。衣装や小道具もキャストが私物を持ち寄り、撮影では本物のシャンパンが振る舞われたという。この賑やかな演出が評判となったことから、ならばパーティ・シーンだけで映画を作ってしまおうと考えたエドワーズ監督。そこから生まれたのが、ピーター・セラーズを主演に迎えた『パーティ』(’68)だったのである。 その一方、後に批判されるようになったのはミッキー・ルーニー演じる日本人の大家ユニヨシ氏。白人がアジア人を演じること自体が「イエローフェイス」と呼ばれて現代ではNGなのだが、加えて「眼鏡をかけたチビで出っ歯の日本人」というユニヨシ氏の外見は、敵国日本を貶めるため戦前・戦中のアメリカで流布された醜い日本人像そのもので、今となって見れば非常に差別的だ。当時はこれを「面白い」と思ったというエドワーズ監督だが、後に「酷い過ちだった」と認めている。また、演じるミッキー・ルーニー自身も、自伝の中でユニヨシ役を後悔していると告白。かつてハリウッドで最も稼ぐスーパースターだったルーニーだが、しかし本作の当時はすっかり落ち目で仕事にあぶれていた。それゆえ、違和感を覚えつつも断るに断れなかったようだ。 オードリーの相手役に起用されたのは、当時新進の若手スターだったジョージ・ペパード。アクターズ・スタジオで修業を積んだ彼は、本作にもメソッド演技を持ち込もうとしたため、撮影現場ではエドワーズ監督と対立することが多かったと伝えられる。これには主演のオードリーも困惑したらしい。そもそもオードリーは直感で芝居をする女優で、役柄を自分の個性に近づけるタイプの人。役柄に自分を寄せてなりきるメソッド演技とは正反対であるため、ペパードとは水と油だったようだ。 しかも、その後のフィルモグラフィーを見ても分かるように、ペパードは男臭いタフガイ役を好む俳優である。そのため、リッチな中年女性の尻に敷かれる男というポール役の設定に不満があり、名女優パトリシア・ニール演じる愛人2Eの強気なセリフを大幅に削らせてしまったらしい。アクターズ・スタジオ時代にはペパードと親しかったというパトリシア曰く、「彼はすっかり自分を大物だと勘違いしていた」とのこと。おかげで撮影現場では彼ひとりだけ浮いてしまい、後にキャリアが低迷すると辛酸を舐めることとなる。 ちなみにニューヨークを舞台とした本作だが、実際にニューヨークでロケされたのは10日間程度だけ。大半がハリウッドのパラマウント・スタジオで撮影されている。例えば、ホリーとポールが五番街のティファニー本店を訪れるシーン。入り口から店に足を踏み入れた2人が、ショーケースに飾られた豪華なイエローダイヤに息を呑む場面まではティファニー本店でのロケだが、2人の顔をクロースアップで映したカットバック以降は全てスタジオに再現されたセットを使用。雨の降りしきるクライマックスのニューヨーク路上シーンも、パラマウント・スタジオに常設されたニューヨーク・セットで撮影されている。 かくして、およそ250万ドルの予算に対して、興行収入1400万ドルという空前の大ヒットを記録した本作。アカデミー賞ではヘンリー・マンシーニが最優秀作曲賞と最優秀歌曲賞の2部門を獲得。サントラ盤アルバムも映画音楽としては異例の大ヒットを記録した。それまでハリウッド映画において音楽は、なるべく目立たないようにストーリーを盛り上げる脇役だったが、しかしテーマ曲「ムーン・リバー」のメロディを様々なアレンジで使った本作のポップでキャッチーな音楽スコアは、アルフレッド・ニューマンの『慕情』(’55)やマックス・スタイナーの『避暑地の出来事』(’59)と並んで、映画音楽の概念と役割を変えるうえで大きな役割を果たしたと言えよう。 もちろん、本作で大人の女優への新規路線開拓に成功したオードリーも、『噂の二人』(’61)や『マイ・フェア・レディ』(’64)、『暗くなるまで待って』(’67)などの難役へ積極的に挑戦するように。中でも、『シャレード』(’63)や『パリで一緒に』(’64)、『おしゃれ泥棒』(’66)などは、本作のホリー役なくしては生まれなかったのではないかとも思われる。■ 『ティファニーで朝食を』© 2022 BY PARAMOUNT PICTURES CORPORATION. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2022.09.05
平凡な兵士の勇気と戦場の悪夢を全編ノンストップで描いた戦争映画大作『1917 命をかけた伝令』
サム・メンデス監督の祖父の記憶をヒントに生まれたストーリー 処女作『アメリカン・ビューティ』(’99)がオスカーの作品賞や監督賞など主要5部門を独占し、以降も『ロード・トゥ・パーディション』(’02)や『レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで』(’08)などで賞レースを賑わせた名匠サム・メンデス。さらに、『007 スカイフォール』(’12)に『007 スペクター』(’15)と、立て続けに2本のジェームズ・ボンド映画をメガヒットさせたわけだが、しかしそれっきり撮りたいと思うような作品がなくなったという。どの脚本を読んでも、いまひとつ気に入らなかったメンデス監督。そんな折、プロデューサーのピッパ・ハリスから「それなら自分で脚本を書いてみたら?」と勧められ、真っ先に思い浮かんだのが、子供の頃より祖父から聞いていた第一次世界大戦の思い出話だったという。 サム・メンデス監督の祖父とは、トリニダード・トバゴ出身の作家アルフレッド・ヒューバート・メンデス。15歳でイギリスへ渡って教育を受けた祖父アルフレッドは、1917年に19歳で第一次世界大戦へ出征し、キングス・ロイヤル・ライフル連隊の第1大隊に配属されている。その任務は各指揮所に指示を伝える伝令役。身長163センチと非常に小柄だったため、敵に見つかることなく無人地帯を駆け抜けることが出来たらしい。その当時の様々な思い出話を、祖父の膝の上で聞いて育ったというメンデス監督。いずれは映画化したいと考えていたそうだが、今まさにそのタイミングが訪れたというわけだ。 ただし、それまで映画の脚本を手掛けたことがなかった彼は、自身が製作総指揮を務めたテレビシリーズ『ペニー・ドレッドフル 〜ナイトメア 血塗られた秘密〜』(‘14~’16)のスタッフライターだったクリスティ・ウィルソン=ケアンズに執筆協力を依頼。早くから彼女の才能を高く買っていたメンデスは、それまでにも幾度となく共同プロジェクトを準備していたが、しかし実現にまで至ったのは本作が初めてだった。メンデスが祖父から聞いた逸話の断片と、クリスティが膨大な資料の中から選んだ複数のエピソードを繋ぎ合わせ、ひとつの脚本にまとめあげたという。それがアカデミー賞10部門にノミネートされ、撮影賞など3部門に輝いた戦争映画『1917 命をかけた伝令』だった。 仲間の命を救うため戦場を駆け抜けた若者たち 時は1917年4月6日。フランスの西部戦線ではドイツ軍が後退し、連合国軍はこの機に乗じて総攻撃を仕掛けるつもりだったが、しかしこれはドイツ軍による巧妙な罠だった。航空写真によって、敵が秘かに待ち伏せしていることを確認したイギリス陸軍。明朝に突撃する予定のデヴォンシャー連隊第2大隊に一刻も早く伝えねばならないが、しかし肝心の電話線がドイツ軍によって切断されていた。そこで指揮官のエリンモア将軍(コリン・ファース)は、14.5キロ先の第2大隊へ伝令役を派遣することを決める。 この大役を任せられたのが若き下士官のスコフィールド(ジョージ・マッケイ)とブレイク(ディーン=チャールズ・チャップマン)。実際に指名されたのは、兄ジョセフ(リチャード・マッデン)が第2大隊に所属するブレイクで、スコフィールドは彼の親友であることから同行することになった。第2大隊の指揮官マッケンジー中佐(ベネディクト・カンバーバッチ)に作戦中止の命令を伝え、兵士1600名の命を救わねばならない。タイムリミットは明朝。そこかしこに遺体の散らばった無人地帯を乗り越え、いつどこで敵兵と遭遇するか分からない戦場を突き進むスコフィールドとブレイク。だが、そんな彼らの前に次々と過酷な試練や困難が待ち受ける…。 味方の部隊に重大な指令を伝えるため、2人の若い兵士が命がけで戦場を駆け抜けるという極めてシンプルなプロット。そんな彼らが行く先々で目の当たりにする光景や、敵味方を含めた人々との遭遇を通じて、あまりにも不条理であまりにも残酷な戦争の現実が、まるで悪夢のように描かれていく。ストーリーそのものはフィクションだが、そこに散りばめられた逸話の数々は、メンデス監督の祖父をはじめとする当事者たちの実体験に基づいているのだ。 第二次世界大戦に比べると、映画の題材となることの少ない第一次世界大戦。その理由のひとつは恐らく、悪の権化たるナチスや大日本帝国を倒すという人類共通の大義名分があった第二次世界大戦に対して、第一次世界大戦にはそうした純然たる悪が存在しなかったからなのだろう。しかし見方を変えれば、だからこそ戦争の愚かさがよりハッキリと浮き彫りになる。要するに、未来ある若者を戦地へ送り込んだ各国リーダーの罪深さ、それこそが第一次世界大戦における本質的な悪だったとも言えるのだ。 それゆえ、本作では敵のドイツ軍兵士も残虐非道な悪人などではなく、放り込まれた戦場での殺し合いに右往左往し、直面する死に恐れおののく平凡な人間として描かれる。「自分がたまたまイギリス人だから主人公も英国兵だけれど、実際はどこの国の兵士が主人公でも通用する物語だ」というメンデス監督。きっとイギリスだけではなく、ドイツにもフランスにもロシアにも、彼らのように仲間を救うため命をかける兵士たちがいたに違いない。この時代も国境も越えた揺るぎない普遍性こそが、この映画に備わった真の強みなのであろう。 細部まで計算し尽くされた疑似ワンカット演出 劇場公開時には、全編ワンカットの臨場感あふれる映像が大きな話題となった本作。観客に戦争を追体験させることで、人類の負の歴史を次世代へ語り継ぎたいと考えたメンデス監督と製作陣。そのために最も有効な手法と考えられたのが、カメラが最初から最後まで切れ目なく主人公と一緒に戦場を疾走するワンカット演出だったのである。ただし、実際は複数の長回しショットをつなぎ目が分からないように編集した疑似ワンカット。例えば、ドイツ軍塹壕の室内はスタジオセットだが、実は出口の直前で屋外セットのロケ映像に切り替わっている。また、スコフィールドが川へ飛び込んでからの映像も、激流に呑み込まれるシーンはラフティング施設で撮影されているが、滝に落ちてから先はティーズ川でロケされている(ちなみにロケ地は全てイギリス国内)。 とはいえ、シークエンスによっては10分~20分もノンストップでカメラを回さねばならず、なおかつ被写体を後ろから追ったかと思えば前方に回ったり、クロースアップのため接近したかと思えば引きのロングショットで背景を捉えたりと、カメラワークも流動的で非常に複雑。そればかりか、クレーンショットにステディカムショット、ジープやバイクを使った移動ショットなど、ひとつのシークエンスで幾つものカメラ技法を駆使している。そのため、撮影に際しては一連のカメラや役者の動きを具体的に細かく指示した図面を作成。それを基に入念なリハーサルを繰り返したという。 さらに、リハーサルでは移動やセリフにかかる時間も細かく記録し、それに合わせてセットの寸法サイズなどを決定。例えば冒頭の塹壕シーン。まずは何もない平地で役者とカメラを動かして何度もリハーサルを行い、シークエンス全体に必要な通路の長さや避難壕の広さを計算している。その際、ハプニングが起きる場所ごとに立ち位置をマーキング。それらの記録をベースにして、塹壕セットを建設したのだそうだ。もちろん、果樹園と農家のセットなども同様の方法で建設。そう、まるで100年以上もそこに建っているかのような生活感の漂う農家も、実は本作の撮影のため更地に作られたセットだったのである。 このようにして、まるで観客自身がその場に居合わせているような、臨場感と没入感のある映像を作り上げていったサム・メンデスと撮影監督のロジャー・ディーキンス。ただ、この手法には大きな弊害もあった。照明を使えなかったのである。なにしろ、カメラは絶え間なく移動しているうえ、縦横無尽に向きを変えるため、現場に余計な機材を置くとカメラに映り込んでしまう。それでも屋外シーンでは自然光を使えるが、問題は室内シーンと夜間シーンである。そのため、ドイツ軍塹壕の室内では懐中電灯を照明代わりに使用。また、戦火に見舞われた町エクーストを舞台にした夜間シーンでは、燃え盛る教会の炎(実は巨大照明が仕込まれている)と照明弾が暗闇を明るく照らしている。 このエク―ストの巨大セットがまた素晴らしい出来栄え!もともとは破壊される前の街並みを丸ごとセットとして建設。それを撮影のためにわざわざ壊したのだそうだ。なんとも贅沢な話である。しかも、ただ照明弾を打ち上げてセットを照らすのではなく、俳優やカメラの動きと調和するようにタイミングを計算して発射。その甲斐あって、まるで夢とも現実ともつかぬ幻想的で神秘的なシーンに仕上がっている。 さらに本作は、主人公スコフィールドとブレイクのキャスティングも良かった。観客がすんなりと感情移入できるよう、メンデス監督はあえて一般的な知名度の低い若手俳優を起用。スコフィールド役のジョージ・マッケイにブレイク役のディーン=チャールズ・チャップマンと、どちらも子役時代から活躍している優れた役者だが、しかし本作以前は決してメジャーな存在とは言えなかった。中でも、古風な顔立ちと素朴な佇まいのマッケイは、100年前の若者を演じるにはピッタリ。繊細で内向的な個性と少年のように無垢な表情が、ナイーブで実直なスコフィールドの苦悩と哀しみと勇気を見事に体現している。一方のチャップマンも鬼気迫るような大熱演を披露。ブレイクがドイツ兵に腹を刺され、段々と血の気が引いて顔が青ざめていくシーンは、メイクでも加工でもなく純然たる演技だというのだから驚く。 かくして、全編ワンカットという映像的な技巧に甘んずることも頼ることもなく、悪夢のような戦争の記憶を未来へと語り継ぐ力強い反戦映画を作り上げたサム・メンデス監督。’22年12月に全米封切り予定の次回作『Empire of Light』(’22)は、’80年代を舞台にした恋愛映画とのことだが、初めて単独でオリジナル脚本を手掛けているのは、恐らくこの『1917 命をかけた伝令』で培った経験と自信あってこそなのだろう。■ 『1917 命をかけた伝令』© 2019 Storyteller Distribution Co., LLC and NR 1917 Film Holdings LLC. All Rights Reserved.