【特別記事】志磨遼平×宇野維正×森直人が語り合う、ヴィム・ヴェンダース、ミニシアターブームとその時代(前編)

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【特別記事】志磨遼平×宇野維正×森直人が語り合う、ヴィム・ヴェンダース、ミニシアターブームとその時代(前編)
 ザ・シネマメンバーズでは、ヴィム・ヴェンダースの「夢の涯てまでも」【ディレクターズカット版】を日本初配信するとともに、代表作「パリ、テキサス」「ベルリン・天使の詩」、「時の翼にのって/ファラウェイ・ソー・クロース!」を加えた合計4作品を特集する。

 今回、リアルサウンド映画部とのタイアップによって、80年代生まれのドレスコーズ:志磨遼平、ミニシアターブームを通過してきた映画・音楽ジャーナリストの宇野維正、映画ライター:森直人が鼎談。90年前後の日本でのヴェンダースの位置づけ、「ミニシアターブーム」とは何だったのか、U2との蜜月や、『夢の涯てまでも』の魅力など、多岐にわたって当時の時代背景を交えながら語り合った。

提供:リアルサウンド映画部
取材・文=麦倉正樹 写真=池村隆司


――まず、1982年生まれの志磨さんは、ヴィム・ヴェンダース監督の作品に、いつ頃どんなふうに出会ったのでしょう?


志磨遼平(以下、志磨):僕が初めてヴェンダース監督の作品を観たのは、多分『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』(1999年)になると思うんですけど、当時僕はまだ和歌山にいて。ヴェンダースの作品というよりも、あくまでワールド・ミュージックのドキュメンタリーとしての興味で観に行ったはずです。僕の世代は多分、そういう人が多いんじゃないかな。

――『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』は、ライ・クーダーがキューバのミュージシャンたちと組んだ同名バンドの活動を追ったドキュメンタリー映画ですよね。日本でも大ヒットを記録しました。

志磨:当時の和歌山なんて陸の孤島ですからね。そんな場所まで評判が届いていたというのは、ものすごい大ヒットだったと思います。実際にヴェンダースの名前を意識して作品を観たのは、『ベルリン・天使の詩』(1987年)がいちばん最初だったと思います。20代の頃、年上の映画好きの方が勧めてくれたんです。「なんか志磨くんってさ、あの天使なんだよね」って言われて(笑)。

――(笑)。

志磨:「だから、絶対観たほうがいいよ」って言われて観たんですけど、最初はよくわからなかったです。「天使、めちゃくちゃおっさんやな……」って思いながら観てました(笑)。印象に残ったのは、やっぱりニック・ケイヴのライブシーンでした。でも、その次に観た『パリ、テキサス』(1984年)が素晴らしかったんですよ。ものすごく感動して。

――『パリ、テキサス』の、どのあたりに感動したのですか?

志磨:前半の、白昼夢の中をずっとさまよっているような主人公が、徐々に世界との接点を取り戻していく過程、特にあのマジックミラー越しに顔が重なるシーンなんかは鳥肌が立つほど綺麗でしたね。哀愁漂うラストまで、ずっと感動の波が引かない名作というか。
――確かに。ちなみにその段階で、監督自身に対しては、どんなイメージを持ちましたか?

志磨:(マーティン・)スコセッシじゃないですけど、音楽ファンを唸らせる作品を撮る監督というイメージがありました。『ベルリン・天使の詩』のニック・ケイヴのシーンもそうだし、『パリ、テキサス』のライ・クーダーが担当したサウンドトラックもそうだし。最初に観たのが『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』だったというのもあると思いますが。

――なるほど。ここからは、1970年生まれの宇野さんと1971年生まれの森さんにお聞きしたいのですが、おふたりが20歳前後だった頃、90年前後の日本におけるヴェンダースの位置付けは、どういうものだったのでしょう?

宇野維正(以下、宇野):ヴェンダースに関しては、今回取り上げる4作品も含めて、当時一般的な場所では2つのキーワードで語られることが多かったんです。ひとつは、ニック・ケイヴだったりルー・リードだったりU2だったり、ミュージシャンと近いところにいる監督ということ。もうひとつは、これはちょうどタイミング的には『ベルリン・天使の詩』の前後になるんだけど、『東京画』(1985年)と『都市とモードのビデオノート』(1989年)という2つのドキュメンタリー映画をヴェンダースは撮っていて。前者が小津安二郎、後者が山本耀司に関するドキュメンタリーで、どちらも日本のクリエイターを扱っている。つまり、日本のカルチャー全般に対する良き理解者である監督というイメージです。

志磨:なるほど。

宇野:で、それにあてはまる映画監督が、当時もう一人いて、それがジム・ジャームッシュなんですよね。彼も、ジョン・ルーリーとかトム・ウェイツとか音楽畑の人を役者として使っていたし、日本の文化に関しても非常に関心が高かった。というか、彼も小津の影響みたいなことは、当時からよく口にしていて……。

森直人(以下、森):『ストレンジャー・ザン・パラダイス』(1984年)に出てくる競走馬の名前が、「トーキョー・ストーリー(『東京物語』の英語タイトル)」だったりするんですよね。

宇野:そうそう。で、これは追って話そうとも思ってるんだけど、そういう日本文化に対する親近感みたいなものもきっかけとなって、この2人の監督の作品には――ヴェンダースは『夢の涯てまでも』(1991年)から、ジャームッシュは『ミステリートレイン』(1989年)から、日本の資本が入ってくるようになる。

志磨:あ、どちらも日本の役者さんが起用されてますね。

宇野:というところも含めて、この2人は80年代から90年代にかけて日本で起こった「ミニシアターブーム」の立役者だったんですよね。ドイツ人とアメリカ人で、まったく作風も違うんだけど、わりと近い場所にいる存在として、その頃の日本では語られていた。当時のざっくりとした概況はそんな感じだったという記憶があります。
森:今、宇野さんがおっしゃられた、ジャームッシュとの比較というのは、結構面白くて。この2人は日本の「ミニシアターブーム」の双璧として語られてきた監督なんですけど、実際彼ら2人の間にも親交があったんです。これは有名な話ですけど、『ニックス・ムービー/水上の稲妻』(1980年)というドキュメンタリー映画でヴェンダースと共同監督を務めていて、ヴェンダースの映画にも役者として出演していたりするニコラス・レイ監督は、ジャームッシュがニューヨーク大学で映画の勉強をしていたときの師匠で、彼を通じてヴェンダースと知り合っているんですよね。で、ヴェンダースが撮った『ことの次第』(1982年)の余りフィルムをもらって、ジャームッシュは『ストレンジャー・ザン・パラダイス』のパイロット版というか、第一章に当たる部分を撮ったという。

志磨:そのエピソード、なにかで読んだおぼえがあります。

森:だから、年齢的には同世代と言うにはちょっと離れているーーヴェンダースが1945年生まれで、ジャームッシュが1953年生まれーーけど付き合い自体は結構長いんですよね。あと、ヴェンダースには『ゴールキーパーの不安』(1972年)など初期の頃からずっと組んでいる、ロビー・ミューラーというオランダ人の撮影監督がいるじゃないですか。それこそ彼は、『ダウン・バイ・ロー』(1986年)以降、ジャームッシュとも、よく一緒に仕事をするようになった。
――スタッフ的な共通点もあると。先ほど日本の「ミニシアターブーム」の話が出ましたけど、ヴェンダースの『ベルリン・天使の詩』は、1988年の4月に日比谷のシャンテシネで公開され、その後30週のロングラン上映を記録するなど、ブームの象徴とも言える作品になりました。
志磨:『ベルリン・天使の詩』は、当時の日本でなんでそこまでヒットしたんですか?

宇野:それこそ、そのちょっと前にジャームッシュの『ストレンジャー・ザン・パラダイス』(※日本では1986年4月、有楽町スバル座で公開された)が話題になっていたし、『ベルリン・天使の詩』に関しては、当たる要素が全部あったんですよ。その当時は、銀座とか日比谷に出かけて、ミニシアターでモノクロのアート作品を観るという行動様式自体が新しかったというか、すごくイケてたわけで(笑)。あと『ベルリン・天使の詩』には、ピーター・フォークも出ていたじゃないですか。当時の日本人は、みんな『刑事コロンボ』のことを知っていた。だから、若者やシネフィルだけではなく、中高年にもわかるようなフックもありつつ、しかも『ストレンジャー・ザン・パラダイス』よりも、全然わかりやすい映画だったという(笑)。そういうバランスが、奇跡的に取れていた作品だったんですよね。

森:ヴェンダースって、フィルモグラフィーを俯瞰で見てみると、実は結構変な監督じゃないですか。ドキュメンタリーも含めて、70年代から本当にいろんな映画を撮っている。そんな彼の「作家性」みたいなものがむき出しになっているのは、むしろその後の『夢の涯てまでも』や『時の翼にのって/ファラウェイ・ソー・クロース!』(1993年)のほうかもしれないですよね。僕は若い頃に初めて『パリ、テキサス』と『ベルリン・天使の詩』を観たとき、前者がジョン・フォードで、後者がフランク・キャプラだなって思ったんですけど、この2本の映画は、ヴェンダースの作品の中では、ちょっとよくできすぎているというか。ウェルメイドなヒット作としての洗練があるのって、実はこの2本ぐらいじゃないですか。

宇野:まあ、そうですよね。

森:あと、ドキュメンタリーだけど『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』か。この3つが、やたらとよくできているという。『パリ、テキサス』は、カンヌでパルムドールを獲った映画だし、それこそ『ベルリン・天使の詩』は、ハリウッドでリメイクもされたじゃないですか。

――ニコラス・ケイジとメグ・ライアン主演の映画『シティ・オブ・エンジェル』(1998年)として、アメリカでリメイクされました。

志磨:へーっ! 知りませんでした……。その80年代の終わりから90年代にかけての「ミニシアターブーム」というのは、日本だけの局地的なものだったんですか? それとも世界的にそういう動きがあったんですか?

森:当時の「ミニシアターブーム」というのは、日本独特の文化であってーーもちろん、海外にはアートハウスと呼ばれる映画館、フランスだったらシネマテークという言い方をされるものがあるんですけどーー日本の場合は、そのバックにセゾングループがいたり、そういう資本関係によって、ちょっと独特の文化体系ができあがったところがあるんですよね。

宇野:そもそも「ミニシアターとは何か?」という定義は、日本においては非常に難しいところがあって。その言葉が意味するものは、東京と地方では違うし、もっと言ったら、80年代〜90年代のミニシアターと今のミニシアターでは、そのバックグラウンドがあまりにも違うんですよね。
志磨:どう違うんでしょうか?

宇野:すごく簡単に言うと、さっき森さんが言ったセゾングループをはじめ、いわゆる「企業メセナ(※企業が文化芸術活動を支援すること)」としてのミニシアターの時代が、80年代〜90年代なんですよね。そういう文化芸術に関する支援というのは、それこそフランスのシネマテークに代表されるように、海外だとわりと国の機関が担っていることが多い。資本主義の論理とは別のところで、映画を文化として保持しよう、旧作も含めて映画をちゃんと観られる環境を作ろうという姿勢が、いわゆる「映画大国」と呼ばれる国ではあるんだけど、日本の場合、その役割を当時バブルで羽振りが良かった企業グループが担っていたという。

――シネマスクエアとうきゅう(1981年~2014年)、日比谷シャンテシネ(1987年開業。2009年より「TOHO シネマズ シャンテ」に館名変更)、シネセゾン渋谷(1985年~2011年)、シネ・ヴィヴァン・六本木(1983年~1999年)……当時のミニシアターブームの中心にあった映画館は、いずれも百貨店グループが母体になっていました。

宇野:そう。そういった企業が、ある種の文化事業として、ヨーロッパとかアメリカのインディーズ映画を観る機会を作っていて、それがバーッと増えたのが、あの時代のミニシアターだったんですけど、今のミニシアターって、基本的にインディペンデント経営じゃないですか。だから、実は当時と今のミニシアターの資本の形態は真逆なんですよね。めちゃめちゃお金を持っていた企業が余興でやっていた文化と、インディペンデントの人たちがギリギリの労働環境でやっている文化。で、ヴェンダースやジャームッシュは、まさに前者ーー企業メセナの時代のミニシアターーーの寵児だった。

志磨:なるほど。僕らの世代のミニシアター系映画というと、多分『トレインスポッティング』(1996年)や『バッファロー’66』(1998年)が代表的なものになると思うんですけど、その頃の日本のミニシアターの状況はどうでしたか?

宇野:『トレインスポッティング』は渋谷のシネマライズ(1986年~2016年)で、『バッファロー‘66』は渋谷のシネクイント(1999年開館。2016年に休館したのち、2018年に場所を移して再開業)のこけら落とし上映だったかな? シネマライズの場合、当時の渋谷という街のパワーみたいなものを、うまい具合に取り込んでいったところがあると思うんですよね。

森:当時、渋谷PARCO part3の中にあったシネクイントも含めて、渋谷のあの界隈がすごく盛り上がっていたんですよね。
志磨:ちょうど、ミニシアターブームの過渡期ぐらいになるんですかね?

宇野:そうかもしれない。だから、企業メセナ文化としてのミニシアターと、そうではないインディペンデント系のミニシアターの狭間にいるのがシネマライズだったと言えるのかもしれないですよね。まあ、今も渋谷には、Bunkamura ル・シネマだったり、メセナ文化としてのミニシアターが細々と残ってはいるんだけど、かつての「渋谷カルチャー」的なものは、もう完全に無くなったと言っていいんじゃないかな。

森:「ミニシアターブーム」という言い方をしたときに、宇野さんや僕らぐらいの世代だと、80年代の終わりぐらいからの「第一次ミニシアターブーム」を想起するけど、志磨さんをはじめとする80年代生まれ以降の世代になると、『トレインスポッティング』とか、90年代の半ばから終わりにかけて渋谷の街を中心とした「第二次ミニシアターブーム」を想起すると思うんですよね。シネマライズで上映していた『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』も日本公開は2000年だから、そっちのラインですよね。

志磨:そうですね。地方では「オシャレ映画でしょ?」ってひとくくりに揶揄されたようなラインというか(笑)。

森:まあ、僕は志磨さんと同じ和歌山の出身で、1990年に大阪に出てきて、そのあと1997年から東京なので、今言った「第一次ミニシアターブーム」の頃は、大阪にいたんですけど。

志磨:あ、その当時は、東京だけじゃなくて大阪にも、そういうミニシアターがたくさんあったんですか?

森:いっぱいありましたね。当時は大阪でも、新旧問わず、映画館でめちゃめちゃいろんな映画を観ることができたので。あと、当時はレンタルビデオもすごい充実していた。「ミニシアターブーム」は、実はレンタルビデオ文化ともパラレルな関係にあったんですよね。バブルの影響もあったんでしょうけど、結構マイナーなタイトルもレンタルビデオに出ていたから、地方の映画ファンは、レンタルビデオでそれらの作品をフォローすることができたんです。それこそ『パリ、テキサス』と『ベルリン・天使の詩』を僕が初めて観たのは、レンタルビデオでしたから(笑)。
志磨:なるほど……。

森:あと、それで思い出しましたけど、僕がヴェンダースの映画を初めてリアルタイムで映画館で観たのは『夢の涯てまでも』(1991年)で……これ、すごく明確に覚えているんですけど、『夢の涯てまでも』と『都市とモードのビデオノート』の公開日が一緒だったんですよね。

――あ、ちょうど同じ日だったんですね。1992年の3月28日……。

志磨:それは大阪で観られたんですか?

森:そうですね。東京より公開日は遅れていたはずだけど、その2本を同じ日にハシゴして観たのを覚えています(笑)。

宇野:あ、そっか……その頃には、ヴェンダースはもうすっかり人気の映画監督になっていたし、『夢の涯てまでも』はミニシアター系の上映ではなく、結構な規模で上映したんですよね。

森:まさに『ベルリン・天使の詩』のヒットを受けて、大規模な新作と小規模なドキュメンタリー作品が同時公開された。これは当時の日本におけるヴェンダース人気の勢いを象徴的に示しているかもしれませんね。『夢の涯てまでも』は、今回配信されるディレクターズカット版ではなく、158分のバージョンでしたけど。

宇野:そうでした。で、ちょっと話を戻しちゃって悪いんだけど、さっき志磨さんが言っていた「ミニシアターブームは、日本だけの局地的な盛り上がりだったのか?」ということについてだけど、ヴェンダースに関して言うのであれば、今回の4作品――カンヌでパルムドールを獲った『パリ、テキサス』は、不朽の名作として世界の映画ファンのあいだで認知されていると思うし、『ベルリン・天使の詩』も、ある種の共通言語として、日本だけではなく世界の映画ファンのあいだで、今も認知されていると思います。Netflixで『ハーフ・オブ・イット:面白いのはこれから』(2020年)という映画があるじゃないですか?

――そういえば、あの映画の中に『ベルリン・天使の詩』の話が出てきましたね。

宇野:出てきたというか、主人公の彼女が告白するときの台詞が、丸ごと『ベルリン・天使の詩』の台詞からとっている(笑)。そのぐらいやっぱり、世界の映画好きにとっての基礎教養にはなっていると思うんですよね。ジャーナリズム的には『パリ、テキサス』の評価は確定しているし、ポップカルチャー的には『ベルリン・天使の詩』も、やっぱり評価が確立している感じがあって……思えば、日本の資本が入ってから、ちょっとおかしくなったという(笑)。

――具体的には『夢の涯てまでも』のことを指していると思うのですが、それと『時の翼にのって/ファラウェイ・ソー・クロース!』の2作品については、後半ゆっくり聞くことにしたいと思います(笑)。
 
【後編へ続く】


「ベルリン・天使の詩」
© 1987 REVERSE ANGLE LIBRARY GMBH and ARGOS FILMS S.A.

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