【特別寄稿】作曲家ヴェルディの最高傑作とは──「トスカの接吻」に寄せて

FEATURES 特別企画
【特別寄稿】作曲家ヴェルディの最高傑作とは──「トスカの接吻」に寄せて
 「トスカの接吻」は、ドキュメンタリーでありながらも、「映画」として撮られている作品であり、クラシックの素養抜きに観ても十分に楽しむことができるのですが、ヴェルディという作曲家の人物像や映画の下敷きとなっている背景、使われている曲、映し出される歌い手たちについて知っておくと、より深い楽しみ方ができるのではないか―。そんな想いから今回は、オペラやクラシック音楽全般だけでなく、幅広い知識と経験をもつ音楽・舞踊ナビゲーター石川了氏に、本作のために特別寄稿いただきました。クラシックファンはもちろん、映画作品だけ楽しみたいという方も必読のサブテキストになっていると思いますので、是非併せてお楽しみください。

文・撮影写真/石川了

目次[非表示]

  1. 音楽家のための憩いの家
  2. 知られざるヴェルディの一面
  3. 民衆に愛される人間性
  4. 名曲とともに活写されるオペラスターたち
  5. ヴェルディの最高傑作

音楽家のための憩いの家

 ダニエル・シュミット監督のドキュメンタリー映画《トスカの接吻》の舞台となる「音楽家のための憩いの家」に伺ったのは、2012年10月、翌年のヴェルディ生誕200年記念番組のための取材ロケであった。
 オペラ《椿姫》や《アイーダ》で知られるイタリアの作曲家ジュゼッペ・ヴェルディ(1813~1901)がミラノ郊外に作った「音楽家のための憩いの家」は、引退した音楽家のための高齢者施設である。入居条件は、音楽関係者であること。年金の80%を払えば、貧富を問わず入居が可能だ。これまで1,000人ほどの音楽家がここで余生を送り、2012年の取材当時は、75名ほどの高齢者が入居していた。
 1990年代からは、経済的に厳しい音楽家志望の学生も同居し、彼らは大先輩たちからアドバイスを受けたり、一緒に演奏したりしながら勉学に励んでいる。かつてのプロの音楽家たちも、若い音大生たちから大いに刺激を受けていることだろう。
 ヴェルディは、著名な音楽家でも引退後は生活に困窮する人が多い実情に心を痛め、私財を投じて、音楽家の老後の安心のために「音楽家のための憩いの家」を建設した。設計は、建築家のカミッロ・ボーイト(1836~1914)。ヴェルディのオペラ《オテロ》《ファルスタッフ》の台本作家で、オペラ《メフィスト―フェレ》の作曲家として知られるアッリーゴ・ボーイトの兄である。彼は当初、施設の名称を《Ricovero di Musicisti》(音楽家の養老院)としていたが、ヴェルディの「ここは収容所(Ricovero)ではない。入居する人たちはみな私の客人だ」という意思を受けて、《Casa di Riposo per Musicisti》(音楽家のための憩いの家)と命名されたという。
 建物は1899年12月に完成したが、ヴェルディの遺言どおり、入居は生前には行われず、彼が亡くなった翌年の1902年10月10日(ヴェルディの誕生日)に最初の入居が行われた。人々から感謝されることが苦手なヴェルディらしいエピソードだ。

音楽家のための憩いの家とその前に立つヴェルディ像
撮影:筆者

知られざるヴェルディの一面

 19世紀半ばのイタリア王国統一運動の波に乗って、3作目のオペラ《ナブッコ》が熱狂的支持を受けたヴェルディは、その後、統一イタリアの国会議員に推挙されるなど、国民的な作曲家として尊敬を集めた。
 彼は実務にも長けた人物で、例えば、現代では当然である音楽著作権ビジネスを実践した。それまでの一作あたりの作曲料収入ではなく、新作オペラの上演から10年間にわたり楽譜レンタル料(上演料)の30%と楽譜売上の40%を支払ってもらうという契約を、音楽出版社のリコルディ社と交わしたのだ。その後、ヴェルディの死後50年間の著作権料は、「音楽家のための憩いの家」の運営資金となった。なお、著作権が切れた以降の運営資金は、施設の理念に共鳴する多くの篤志家からの寄付で賄われている。
 オペラの成功で、ヴェルディは、パダノ=ヴェネタ平野の村サンターガタに、670ヘクタール(東京ドーム143個分に相当)の広大な農地を購入し、そこに住居を構えた。ここでも、農業機械の導入や流通の合理化、水路の開拓など、農場経営者としての才能を発揮したヴェルディは、質の良い小麦やとうもろこしを収穫し、大勢の小作人を雇えるまで順調に収益を上げながら、毎日の農作業を楽しんでいたという。
 取材で初めて知ったのだが、裏庭に植えられていた大きな木は、ヴェルディが植えた銀杏の木で、樹齢が160年とのこと。庭にはヴェルディが愛用した洞窟の冷蔵庫もあり、冬には池の氷を入れて食品を保管し、夏にはその氷でシャーベットを食べ、時には怪我人や病人用の氷としても使用していたそうだ。
 余談だが、ヴェルディが育ったパルマ近郊の田舎町ブッセートには、ヴェルディ行きつけの老舗レストラン「バラッタ」が現在も営業している。彼がこよなく愛した一品は、スパラコッタというハム。脂が少ない豚の肩肉部分を白ワインでローリエと一緒に5時間煮込み、それを冷ました後に薄切りにして食べる。バラッタのご主人の話では、ヴェルディは家で食べるときのみならず、友人の贈答品や海外公演の持参品としても、スパラコッタを当店に買いに来ていたとのこと。何かヴェルディが身近に感じられませんか。

イーゼルに立て掛けられたヴェルディの肖像画
撮影:筆者

民衆に愛される人間性

 ヴェルディは20代で、長女、長男、妻マルガレータと立て続けに家族全員を亡くし、その後、オペラ《ナブッコ》でアビガイッレを歌ったソプラノ歌手ジュゼッピーナ・ストレッポーニと親密になる。しかし、彼女が3人の私生児を持つ母であったため、カトリックの強いイタリアで、二人は教会や世間からの冷たい視線を浴び、10年以上の長い同棲期間を経て、ようやく結婚にこぎつけた。そのような悲しみや苦しみ、痛みを経験したからこそ、《リゴレット》(主役は背にこぶを持った道化で、ラストに最愛の娘を亡くす)や《椿姫》(主役が高級娼婦で、原題の《La Traviata》は「道を踏み外した女」の意味)といった社会的弱者を描くオペラを書き、病院や「音楽家のための憩いの家」も建設したのだろう。
 イタリアのヴェルディ・バリトンとして世界的に活躍したレオ・ヌッチは、ヴェルディについて、取材当時の筆者のインタビューで次のように語っている。
 「ヴェルディと同時代に活躍したワーグナーの音楽は、その管弦楽法など比較する相手がいないほど壮大なものですが、特にモダンというわけではない。じゃあ、ヴェルディがモダンなのか?あのズンパッパ、ズンパッパの音楽が?」
 「ヴェルディがモダンなのは、その人間性です。彼は自分のための劇場など建設させたりしなかった(ワーグナーは自分の作品を上演するバイロイト祝祭劇場をルートヴィヒ2世に建ててもらった)。自分の名前がついた劇場(ブッセートにある「ヴェルディ劇場」)には、建設資金は提供したが、生涯一度も足を踏み入れたことがなかった。その代わり、ヴェルディは病院を建て、「音楽家のための憩いの家」を建てた。彼は、常に私たち民衆のことを思っていたのです。これこそがヴェルディなのです。他の作曲家は音楽の天才です。でも、私が興味があるのは、人間性です。だから今はヴェルディしか歌わないのです。」
 21世紀を担うイタリアの若き指揮者アンドレア・バッティストーニは、ヴェルディの音楽の魅力を、“言葉と演劇、音楽の融合”と解説する。
 「ヴェルディの音楽は、舞台で歌われる言葉を強調し、伴奏し、補強し、その言葉を支えています。彼の音楽は、台本より前には生まれず、台本と共に生まれるのです。台本に書かれた物語と言葉のニュアンス、言葉の詩情を伝えるために、ヴェルディは言葉のアクセントと音楽のアクセントを結び付け、生き生きとした劇場音楽を生み出しました。」
 「そのようにして、ヴェルディはどれほどの多くの人に芸術を伝えてきたのか。大衆出身のヴェルディのオペラは、貴族といった裕福な階級ではなく、自分たちと同じ目線を持った大衆の音楽でした。だから、オペラに詳しい人のみならず、万人に受け入れられてきた。彼のオペラは、当時イタリアを抑圧する外国への抵抗心や祖国の誇りをよみがえらせましたが、すべての人が理解できる平易な内容も併せ持っているため、彼の合唱曲やアリアは今なお国歌のようにイタリア国民に親しまれています。」
 二人の言葉は、まさにヴェルディの本質を端的に言い表していていると思う。

 「音楽家のための憩いの家」を訪問したとき、どこかの部屋から、カタラーニのオペラ《ラ・ワリ―》のアリア「さようなら故郷の家よ」(故ジャン=ジャック・ベネックス監督の映画《ディーヴァ》でおなじみの曲)とショパンの《スケルツォ第2番》が聞こえていた。
 このように、施設内には音楽共用スペースが多く用意されている。《トスカの接吻》にも度々登場する2階のコンサートホールには、イーゼルに立て掛けられたヴェルディの肖像画とヴェルディが使用したピアノが設置されていた。

コンサートホールのピアノ
撮影:筆者

名曲とともに活写されるオペラスターたち

 この映画では、1930~40年代に活躍したソプラノ、サラ・スクデーリ(1906~1987)に焦点が当てられている。彼女はシチリアのカターニャ出身のドラマティック・ソプラノで、《仮面舞踏会》のアメリアや《エルナーニ》のエルヴィーラ、《道化師》のネッダ、《アンドレア・シェニエ》のマッダレーナ、《カヴァレリア・ルスティカーナ》のサントゥッツァ、《ラ・ボエーム》のミミなどをレパートリーにキャリアを築いたが、当たり役は何といってもプッチーニの《トスカ》のタイトルロール。映画の中で、スクデーリがトスカのアリア「歌に生き、恋に生き」を聴くレコードは、彼女が歌った1948年録音のもの。終盤、スクデーリはバリトン歌手サルヴァトーレ・ロカーポを相手に、《トスカ》第2幕のスカルピア殺害シーンを演じる。ローマを牛耳る警視総監スカルピアに体を求められたトスカは、ナイフで彼を刺し、「これがトスカの接吻よ。死ね!」と叫ぶ。その台詞が、この映画のタイトルになっている。
 いつもパワフルに歌っているテノール歌手は、ヴィンチェンツァ出身のレオニーダ・ベロン(1905~1987)。《アンドレア・シェニエ》のタイトルロールを得意とし、同役でミラノ・スカラ座デビュー。《マノン・レスコー》のデ・グリューや《アイーダ》のラダメス、《イル・トロヴァトーレ》のマンリーコ、《ラ・ボエーム》のロドルフォ、《カヴァレリア・ルスティカーナ》のトゥリッドゥ、《ランメルモールのルチア》のエドガルドなどをレパートリーに、1930~50年代に活躍したリリコスピントだ。
 かつての舞台衣裳を取り出しながら、その全盛期の姿を思い返すシーンが印象的なジュゼッペ・マナキーニ(1902~1990)は、イタリアの戦中戦後にリゴレット歌いとして活躍したバリトンだ。主なレパートリーに、《カヴァレリア・ルスティカーナ》のアルフィオや《運命の力》のドン・カルロ、《仮面舞踏会》のレナート、《道化師》のトニオ、《アンドレア・シェニエ》のジェラール、《ランメルモールのルチア》のエンリーコなどがある。
 彼らのレパートリーを概観すると、ヴェルディやプッチーニが亡くなって数十年しか経っていない、1930~50年代イタリアの歌劇場の演目が見えてくるのが興味深い。また、映画でもたびたびブエノスアイレスの話が出てくるが、19世紀末から20世紀半ばにかけて多くのイタリア人がアルゼンチンに移住した歴史を考えると、当時のイタリアとアルゼンチンの人的・文化的なつながりを、映画からも見て取れるだろう。
 監督のダニエル・シュミットは、オペラ演出家としても名高く、ジュネーヴ歌劇場でのオッフェンバック《青ひげ》(1984)やベルク《ルル》(1985)、エディタ・グルベローヴァが主演したチューリヒ歌劇場のドニゼッティ《シャモニーのリンダ》は、音楽ファンにも特に知られているプロダクションだ。
 この映画では、名手レナート・ベルタのカメラによる独特な映像美とシュミット監督の音楽センスを存分に味わいながら、クラシックの名曲の数々もぜひお楽しみいただきたい。《椿姫》《リゴレット》《オテロ》《運命の力》の序曲/前奏曲や名場面での音楽、入居者たちが歌う《ナブッコ》の合唱曲「行け、わが想いよ、黄金の翼に乗って」(イタリア第2の国歌とも言われている)、ドニゼッティ《アンナ・ボレーナ》の二重唱やロッシーニ《ウィリアム・テル》のアリア、トスティ《アヴェ・マリア》や《オー・ソレ・ミオ》といった歌曲、そしてマスネ《タイスの瞑想曲》(元々はオペラ《タイス》の間奏曲)など、誰もが耳にしたことがある名旋律が満載だ。

「トスカの接吻」© 1984, T&C Film Zurich, Switzerland

ヴェルディの最高傑作

 晩年に「あなたの最高傑作は?」と聞かれたヴェルディは、出世作の《ナブッコ》でもなく、《リゴレット》や《椿姫》でもなく、後期の傑作として名高い《アイーダ》《オテロ》《ファルスタッフ》でもなく、この「音楽家のための憩いの家」と答えたという。その最高傑作の中庭に、ヴェルディは2番目の妻ストレッポーニと共に眠っている。
 その墓には、イタリアの国民的詩人ガブリエーレ・ダヌンツィオがヴェルディ死去の際に贈った言葉が刻まれている。

 “すべての人のために涙し、すべての人に愛を捧げた”

 前述のバリトン歌手レオ・ヌッチが、その意味を教えてくれた。
「この言葉の前文は、“ヴェルディは苦しい吐息をもらす群衆から音楽を創りだした”。苦悩を抱えている人々のために、という意味です。ヴェルディは、民衆の希望と悲しみのために作曲し、人々に愛を捧げたのです。」

ヴェルディの墓
撮影:筆者

 劇場のみならず、レストランやバール、ホテルや広場など、街中至るところで、「Viva Verdi !(ヴェルディ万歳!」の声が聞こえてくるイタリア。ドキュメンタリー映画《トスカの接吻》から40年、筆者の取材から10年経った現在、コロナ禍を生きる「音楽家のための憩いの家」の入居者と職員たちに想いを馳せている。

この記事をシェアする

関連する記事

注目のキーワード

バックナンバー