青野賢一 連載:パサージュ #1 吊り状態のさなかで溺れる──『へカテ』

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青野賢一 連載:パサージュ #1 吊り状態のさなかで溺れる──『へカテ』

目次[非表示]

  1. 「扱いやすい理想の女性」との出会い
  2. 地獄の番犬を従えるへカテ
  3. 自らを追い詰め、勝手に壊れてゆく男
  4. 鉤括弧つきの「日常」のなかで
  5. 浮世離れした時間、場所にふさわしい服
 1942年、スイス・ベルン。生演奏による室内楽の調べも優雅な晩餐会が開催されている。テーブルを囲んだ人々の話によれば、ドイツ軍は東部戦線で苦戦しており、どうやらモスクワを目指すようだ。そのことについて「大使のご意見は?」と問われる男性。心ここにあらずといった面持ちの彼は無言でグラスに目を遣ると、そのグラスにシャンパンが注がれる。きめ細かい泡を立ててグラスを満たすシャンパン。それにオーバーラップする、船の航行によって波立つ海面──。ダニエル・シュミット監督『ヘカテ』(1982)は、静かだが実にスタイリッシュなこのシークエンスで幕を開ける。
 海を進む船の上には、冒頭で「大使」と呼びかけられた男性がいる。リネンであろうか、ダブル・ブレストの白いスーツに小ぶりな襟のクリーム色のシャツとシャンパンのような色合いのストライプ・タイ。スーツの上にはベージュのコートを羽織り、足元は白と茶のコンビのオックスフォード・シューズという洒落たいでたちのこの男性は、本作の主人公のひとり、ジュリアン・ロシェル(ベルナール・ジロドー)。当時フランスの植民地であったマグレブ(モロッコ、アルジェリアなどの北アフリカ諸国)に外交官として本国から送り込まれたのである。以後、この物語はロシェルの回想というかたちをとって進んでゆく。

「ヘカテ」©1982/2004 T&C FILM AG, Zuerich © 2020 FRENETIC FILMS AG.

「扱いやすい理想の女性」との出会い

 船を降りると、身なりの整った男性がロシェルを迎えに来ていた。ヴォーダブルという名のこの男性(ジャン・ブイーズ)は外務省関係の役人で、ロシェルよりも早い時期にこの地に赴任している。彼は車のなかでロシェルにいう。「ここは地の果てだ 退屈するぞ」。実際、使用人つきの家、書斎、秘書などすべてが用意されており、本国から着任した身分の者にとっては取り立てて治安が悪いわけでもないここでの暮らしは、単調で退屈なものだろう。ところが、ある女性と出会ったことでロシェルの人生の歯車は着実に狂ってゆくのだった。
 赴任してすぐの晩餐会。ロシェルは夜空を見上げているひとりの女性に興味を惹かれ話かけた。彼女の名はクロチルド(ローレン・ハットン)。少しの会話ののち、スウィートなジャズが流れるなか、手に手をとってダンスに興じる二人。すっかりクロチルドの虜となったロシェルは仕事そっちのけで彼女との時間を楽しむようになる。「扱いやすい理想の女性」「エゴイストにはぴったりの女だった」などと、はじめは余裕を見せていたロシェルだったが、自分でも気づかないうちにクロチルドから離れられなくなっていた。加えて、いくら逢瀬を重ね、身体を重ねても何を考えているかわからない。シベリアにいるという彼女の夫について尋ねても要領を得ず、やがてロシェルの心に忍び寄る不安、猜疑心、嫉妬、支配欲──。

地獄の番犬を従えるへカテ

 本作のタイトルおよびポール・モランによる原作『へカテとその犬たち』にある「へカテ」とはギリシャ神話の女神のこと。ゼウスが滅ぼしたティタン神族の出自ではあるが、天と地と海における特権を剥奪されることなく、ゆえに彼女を信奉する人間にあらゆる恩恵を授けるとされた。のちにヘカテは冥府および夜の世界に属する亡霊や魔術の守護神と考えられるようになり、松明を手に、地獄の番犬を従えて夜の三叉路などに出現すると信じられ、そうしたことから道辻に三面三体像が置かれることもあったという。映画と原作において、クロチルドにへカテのこうした性質が投影されているのはいうまでもないだろう。英文学者の由良君美は、へカテとクロチルドを重ねたうえでロシェルの運命をこう述べている。「彼女が全能である以上、彼女のすべてを知ることはできず、知れば知るほど謎は深まり、多様なその顔に翻弄され嫉妬に狂い、みずからを地獄に堕し、文字どおり、彼女の犬となってその一つの頭と化するほかはない」(文遊社刊『セルロイド・ロマンティシズム』所収「神話と現実を二重に映して──『へカテ』」)。
 また、女神へカテは月神のセレネ、アルテミスと同一視されることもあり、それゆえ「月」と関連づけられることも少なくない。自ら発光することはなく太陽の光を反射して輝く月。物語の中盤、「君は何者だ」と問うロシェルに対して、クロチルドはこう答える。「あなたが望む女よ」。そうなのだ。かつてロシェルが「扱いやすい理想の女」といったクロチルドは、まさにロシェルの狂気ともいえる嫉妬心や不安から「謎の女」へと見え方を変えたに過ぎない。先の問答に続いて、クロチルドは「何でもあげるわ 私にないものも」と、これまたヘカテの恩恵のごとき態度をロシェルに示す。それを聞いて頭を垂れかしずくロシェルと、その頭をまるで飼い犬にするように撫で回すクロチルド。月の光が差し込んで、陰影の際立った夜の顔を表すクロチルドの部屋での見事な一場面である。

「ヘカテ」©1982/2004 T&C FILM AG, Zuerich © 2020 FRENETIC FILMS AG.

自らを追い詰め、勝手に壊れてゆく男

 ロシェルの心の影が彼にとってのクロチルドのあり方を変えてゆく──このことは我々にエドガー・アラン・ポーの「大鴉」を思い出させはしないだろうか。レノアという女性を失って悲しみに沈む男。真夜中、それを紛らわすべく読書に耽るうちにうたた寝しかけてしまった男の部屋に一羽の大鴉が入り込んで、扉の上にある女神パラスの胸像の上にとまった。その姿を見て気まぐれに名を問うと、大鴉は“Nevermore.”と答えた。言葉を話すことに驚きつつ、この悲しみを紛らわすにはちょうどいいと思った男は質問を重ねるが、返ってくるのは“Nevermore.”だけ。なぜ“Nevermore.”としかいわないのかと考えを巡らせ、預言者ではないかという結論に達する男。さらに大鴉に問いかけてみるが、やはり返事は“Nevermore.”ばかり。やがて苛立ちをおぼえた男は、立ち去れと命令をするも、大鴉は胸像の上にじっと留まっている。やがて恐怖と絶望に見舞われた男の精神が再起することは、またとはなかった。
 大鴉が発する“Nevermore.”という言葉を、男は自身の都合で解釈し自ら壊れてゆく。つまり男はひとり相撲よろしく裡なる声にどんどん追い詰められていったのである。男のこうした様子と『へカテ』のロシェルのそれは同質なもののように思われるが、いかがだろうか。

鉤括弧つきの「日常」のなかで

 ところで冒頭に「1942年」と書いたが、ロシェルが北アフリカに赴任するのはそれよりも前のことだ。おそらくは両大戦のあいだ、退屈な平和がつかの間訪れている頃だろう。そんなこともあって、ロシェルが北アフリカにいる期間(彼はのちに解任されシベリアへと赴くことになる)は戦争の影をそれほど感じることはない。
 規則正しく祈りを捧げるアラブ人、マグレブ音楽が溢れる路地裏で交錯する現地の人とヨーロッパ人、22歳から毎日同じ道を歩き職場とカフェを往復するヴォーダブル──本作では人々のそうした「日常」もさりげなく描かれているが、この「日常」はいわば宙吊り状態における「日常」である。どういうことか? 大戦前のかりそめの平和、植民地などはまさしく宙ぶらりんな状態であるし、ひとたび勃発すれば主権や領土がどうなるかもわからない戦争などは究極の宙吊り状態であり、本作における日常とは、そうしたなかでの鉤括弧つき「日常」だからである。そして、そんな「日常」から戦争に突入した頃までの宙吊りの時間において、信仰を忘れずに祈るアラブ人と怠惰で退廃的なヨーロッパ人、あるいは眩しく照り返す日差しを感じる平穏な北アフリカと凍てつく寒さの戦争中のシベリアといった対比を光と影のごとく描いているのは実に興味深いところだ。

浮世離れした時間、場所にふさわしい服

 ロシェルがクロチルドに溺れて勝手に破滅へと向かう地である北アフリカは、先に記した宙吊り状態のなかでの平穏という状況に強い日差しも相まって、どこか白昼夢的な浮世離れした印象がある。この土地でのロシェルは白もしくは生成りを基調としたスーツやジャケットを着ているのだが、実は、というか当然ながら白いスーツやジャケットというのは実務的なビジネスウエアの対極にあるもの。ようはリアリティの世界からは程遠い服であり、白昼夢的な北アフリカでの日差しに映え、なおかつハレーション気味に溶けてゆくものなのである。もちろん北アフリカの気候を考慮すればダークカラーのスーツやジャケットは避けられてしかるべき、という常識も織り込んだうえで選ばれているこのコスチュームは〈Christian Dior Monsieur〉のものであることを申し添えておこう。*

「ヘカテ」©1982/2004 T&C FILM AG, Zuerich © 2020 FRENETIC FILMS AG.


*〈Christian Dior Monsieur〉はかつて存在していた〈Christian Dior〉のメンズライン。『へカテ』でのベルナール・ジロドーのコスチュームは当時〈Christian Dior Monsieur〉を手がけていたGérard Pennerouxがデザインを担当し、〈Christian Dior Monsieur〉で製造したのではと思われる。このほか、ラゲッジについては〈Hermès〉と〈Louis Vuitton〉が、コスチュームについては〈Lacoste〉や〈Marcel Lassance〉などがクレジットされている。映画の序盤、車のなかでロシェルとヴォーダブルが会話するシーンでの「スザンヌ・ランランがまた優勝した」というセリフは〈Lacoste〉への目配せ、ちょっとした洒落っ気だろうかとニヤリとさせられた(〈Lacoste〉の創業者でテニス・プレイヤーのルネ・ラコステは「テニスの女神」ことスザンヌ・ランランを大変尊敬していたといわれている)

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この記事のライター

青野賢一
青野賢一
1968年東京生まれ。株式会社ビームスにてプレス、クリエイティブディレクターや音楽部門〈BEAMS RECORDS〉のディレクターなどを務め、2021年10月に退社、独立。現在は映画、音楽、ファッション、文学などを横断的に論ずるライターとしてさまざまな媒体に寄稿している。また、DJ、選曲家としても30年を超えるキャリアを持つ。

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