フェリーニを観るという粋な贅沢について― フェデリコ・フェリーニ特集に寄せて

LETTERS ザ・シネマメンバーズ 榎本 豊
フェリーニを観るという粋な贅沢について― フェデリコ・フェリーニ特集に寄せて

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  1. ささやかな気づきの瞬間
  2. その言葉は遠く、聞こえない。
  3. 粋な嗜好品
 映画を観るというのは、つくづくコストパフォーマンスの良い愉しみだと思う。フェリーニの一連の作品を観なおして殊更に感じたのは、こんなにも贅を凝らしてつくられたものが、同じ価格だということだ。もちろん、映画というものが複製流通の作品であり、何回も再生可能な大衆芸術であることを前提にしてもだ。モノを所有することや食事をすることなどとは全く別物であることはわかっていながらも、やはり、職人が作る名靴や丁寧な仕事が施された料理がそれなりのお値段がするのに対して、映画というのはなんと簡単に一級品に触れられることだろうか。J.M.WESTONの靴はそうそう気軽に買えるものではないし、職人によるピッツアだってワンコインというわけにはいかないのだ。だが、フェリーニは気が向けばいつだって観ることができる。

 今回特集としてお届けするのは、フェリーニが初めて世界的評価を得た作品である「青春群像」、一大センセーションを巻き起こした代表作「甘い生活」、作風のターニングポイントとなった作品であり、映画史的にも重要作である「8 1/2」とそれに対をなすような作品であり、初のカラー作品となった「魂のジュリエッタ」の4本。(※「8 1/2」は、すでに配信中)

ささやかな気づきの瞬間

 初めて観る方は、「青春群像」というキラキラしたタイトルからは程遠い空虚に面食らうことになるだろう。邦題こそ“青春”だが、30歳にもなる男たちが定職にもつかず毎日を過ごす様が描かれる。決して裕福であるわけでもない彼らは、人生でスタックしてしまっており、その状態から抜け出そうとすらしない。自由でいることを求め彷徨うのではない、漠然とした憂鬱さと虚無感が漂う。
 祭り、カフェ、波止場でたむろし、から騒ぎに興じ、浮気を改める様子もない仲間。空虚で享楽的な毎日が淡々と映し出されていく。そのなかで、深夜に散歩していたモラルドが早朝の仕事へと向かう少年グイドに出会う。駅での仕事に向かうのだと快活に話す純粋な少年をみたときのモラルドの表情。ささやかだが、決定的にその後を変えることになる瞬間というものが映っている。自分が受けた気づきの感覚がなんだったのかを確かめようとするかのように、モラルドは少年を引き留めようとするが、話す言葉がみつからない。そして、少年は仕事だからと去っていく。

その言葉は遠く、聞こえない。

 「甘い生活」は、冒頭のイエス・キリストの像が空を運ばれていく圧巻のシーン、ロックンロールを演奏する楽団とともに踊り、練り歩く女優の躍動、トレビの泉、数々のパーティー、祝祭的な社交空間と同じ数だけある虚無が織りなす、まさに一大絵巻。

 そのためだけにあつらえなければ実現不可能な贅沢なシーンの数々は、上流階級の社会風刺、キリスト教批判というより、ただただ眼福として見ていたい。まさに映画でしか味わえない快楽に満ちた時間の連なり、それを縦の糸とするなら、享楽的な人々に対する疲れと嫌悪が横の糸として編み込まれ映画という織物になっているような、そんな究極の嗜好品としての作品と言えるだろう。
 話しかけるが聞こえないという状況はフェリーニの映画に散見される。「甘い生活」では、冒頭でもプールサイドの女性たちの声とヘリコプターから話しかけるマルチェロの声はさえぎられて聞こえないという状況が描かれるが、ラストの海辺でのシーンでも、少女の声は聞こえず、マルチェロの声も彼女には聞こえない。少女の無垢な笑顔に見送られながら、疲れた顔で遠ざかっていくマルチェロ。それを見ている少女を捉えたカメラがわずかに動き、少女の視線が我々観客と交わるかどうかという、その瞬間で映画は終わる。「青春群像」での少年グイドの純真さに打たれたモラルドと同じように、我々観客もなにか名づけることのできない感覚をその瞬間味わうことになる。退廃や絢爛豪華なシーンとその美しさに気を取られがちだが、それらを通過したのちに最後に抱くこの感覚にこそ、本作の描く“何か”は収斂してきているのではないか。

粋な嗜好品

 その後、フェリーニはイマジネーションの世界を撮るようになる。それも実験的な手法など使わずに、クラシカルな映画の話法でそれをすることがフェリーニの世界を独自なものにしているのだと思う。職人の手によってシーンがしっかりと撮られているというか、破綻しないところで、映画という時間は保たれている。そして、明確な意味づけをするような象徴の使い方やカットつなぎによって映像の持つ意味の特定をしない。あくまでもシークエンスとして撮られたそれらは、シナリオによるストーリーとしての連結をどんどん弱めながらも映画を形成していく。だから我々が「8 1/2」や「魂のジュリエッタ」といった作品を観るとき、意味が分からないといいながらも、その映画としての骨格や作品の塊は受け取った感覚を持つのだろう。
 ちなみに日本でフェリーニを語る上でどうしても寺山修司を避けて通れないところがあると思うが、「8 1/2」の砂浜で踊る大女、「魂のジュリエッタ」で登場する飛行機は、「書を捨てよ町へ出よう」でモチーフとして登場する。寺山作品は、フェリーニよりも見世物としての意識や、自分の人生を生きなおし、自ら人に語りなおすという欲求が強いように思うが、イマジネーションの飛躍をそのまま眼前に作り出して撮るということで共感したのだろう。

 ただ、フェリーニは、全盛期のイタリア映画のスタジオと人材を贅沢に使い、圧倒的な上質さでもって、自己の内面的な世界そのものを出現させてそれを撮った。それがフェリーニをフェリーニたらしめているのだ。演劇の舞台を撮るようなやり方ではなく、あくまでもその世界を目の前に作り出したうえで、実験映画やアヴァンギャルド映画の手法ではない、伝統的な映画の手法によって撮る。それはなんという贅沢さだろうか。

 心理的投影、メタフィクション、象徴など、フェリーニに付随する様々な研究的な要素は一旦置いておいて、粋な嗜好品としてその世界を味わおう。家でゆったりとフェリーニの映画を観るという贅沢な愉しみ、試してみませんか?


「青春群像」 © RIZZOLI 1953
「甘い生活」 © Rizzoli 1960
「魂のジュリエッタ」 ©1965 RIZZOLI

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この記事のライター

ザ・シネマメンバーズ 榎本  豊
ザ・シネマメンバーズ 榎本 豊
レトロスペクティブ:エリック・ロメールを皮切りにした2020年4月のザ・シネマメンバーズのリニューアルローンチから、ザ・シネマメンバーズにおける作品選定、キュレーションを担当。動画やチラシその他、宣伝物のクリエイティブなども手掛ける。

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