ザ・シネマメンバーズが、その映画作家のフィルモグラフィにおいて外せない作品群をセレクトする特集、“エッセンシャル”シリーズ。第一弾:ジム・ジャームッシュ、第二弾:ウォン・カーウァイに続いてお送りするのは、アッバス・キアロスタミ。
劇場においては、監督生誕81年、没後5年を記念して『そしてキアロスタミはつづく デジタル・リマスター版特集上映』が、2021年10月16日(土)よりユーロスペースほか全国順次公開する。ザ・シネマメンバーズでは、この上映企画と連動して、7作品の中から、エッセンシャルな5作品をお届けする。
キアロスタミの名が日本で初めて広く認知されたのは、「友だちのうちはどこ?」だ。1987年に制作されたこの映画が日本で初めて公開されたのはミニシアターブームの1993年のことだ。後にジグザグ道三部作と呼ばれる作品群となっていく1作目の本作の紹介からキアロスタミの作風に関して書いていこう。
劇場においては、監督生誕81年、没後5年を記念して『そしてキアロスタミはつづく デジタル・リマスター版特集上映』が、2021年10月16日(土)よりユーロスペースほか全国順次公開する。ザ・シネマメンバーズでは、この上映企画と連動して、7作品の中から、エッセンシャルな5作品をお届けする。
キアロスタミの名が日本で初めて広く認知されたのは、「友だちのうちはどこ?」だ。1987年に制作されたこの映画が日本で初めて公開されたのはミニシアターブームの1993年のことだ。後にジグザグ道三部作と呼ばれる作品群となっていく1作目の本作の紹介からキアロスタミの作風に関して書いていこう。
映画の内と外
3回宿題を忘れて怒られ、先生に目の前で紙をビリビリに破られて、泣き出してしまうネマツァデ。それを心配そうに見るアハマッド。先生は、しつこく問いただす。何回忘れたのか、なぜ忘れたのか、聞こえない、もう一度…。ついには、今度ノートに書かなかったら退学にするとまで言う。暴力的で緊張感のあるこのシーンは、アハマッドが友だちのうちをどうしても探さなくてはならないという切羽詰まった気持ちを作り出し、この映画のストーリーが動いていくための強力な動機となる。
キアロスタミはこのシーンを撮るために、素人の子供であるネマツァデが泣き出してしまうような“仕込み”をして撮影している。その詳細は今のコレクトネスの世の中では、もしかしたら許されないようなことだったりするのだが、映画撮影ではしばしばそういった逸話はあり、日本でも相米慎二監督がヒロインが泣き出すシーンを撮るためにしたことも今では書くのが憚られることだったりもする。
程度の良し悪しこそあれ、生のリアクションを引き出すためにするちょっとしたことは数多くあり、例えば、ゴダールが初期の作品において、俳優の目線を自然に動かしたり、微妙な表情を引き出したりするために、しばしばカメラの後ろから不意に声をかけたというのは有名な話だ。
キアロスタミの作品、特にジグザク道三部作では、フィクションと現実の境界線があいまいで、映画の中のことと外のことが互いに影響しあうことで成立しているように見える。
程度の良し悪しこそあれ、生のリアクションを引き出すためにするちょっとしたことは数多くあり、例えば、ゴダールが初期の作品において、俳優の目線を自然に動かしたり、微妙な表情を引き出したりするために、しばしばカメラの後ろから不意に声をかけたというのは有名な話だ。
キアロスタミの作品、特にジグザク道三部作では、フィクションと現実の境界線があいまいで、映画の中のことと外のことが互いに影響しあうことで成立しているように見える。
“本当らしさ”について
リアリズムについては、これまでもこのザ・シネマメンバーズの記事ページ:LETTERSでダルデンヌ兄弟の作品や、『悪魔のいけにえ』、『ピクニック』、『ラ・ジュテ』の3作をあえて並べた特集の時にも書いてきたことだが、物語/フィクションであることを前提としている「映画」の場合、そのなかで表現されていることは、本当に起きている訳ではない。その一連の出来事が現実そっくりであること、その“本当らしさ”を「リアリズム」と呼ぶのだと思う。そして、その「リアリズム」に対してのアプローチの仕方が、作家性につながっているのだと考えている。
キアロスタミの場合、この“本当らしさ”というのは、映画のためにフィクションとしてそこに起こす出来事をカメラで記録するという非常にシンプルかつ映画の原点的なことに基づいていると思うのだが、実際には、複数のトリックが組み合わさって出来ていることに彼の独自性があるのだと思う。そこに必然性がないとその動き、その表情が出てこない素人を起用し、必然性自体はフィクションのために現実の方で仕込む。カメラの外側/スクリーンの外側の現実を映画の中に影響をおよぼさせる要素として取り入れる。
例えば、ダルデンヌ兄弟は、まるでドキュメンタリーのように見えるのに、ドキュメンタリーでは実現し得ない「物語=映画」を作り出すことをしているが、キアロスタミは、それとも少し違っていて、村を訪れ、村人を起用し、その場所でフィクションを立ち上げて、そこに生きている人々に「物語=映画」の一部になってもらう。
例えば、ダルデンヌ兄弟は、まるでドキュメンタリーのように見えるのに、ドキュメンタリーでは実現し得ない「物語=映画」を作り出すことをしているが、キアロスタミは、それとも少し違っていて、村を訪れ、村人を起用し、その場所でフィクションを立ち上げて、そこに生きている人々に「物語=映画」の一部になってもらう。
そうして撮られた『友だちのうちはどこ?』は、泣き出してしまうネマツァデを容赦なく詰める教師のシーンがフリとして強烈に効いており、そのことによって、友だちのノートを持って帰ってきてしまったアハマッドの本物の困惑、どうしよう?と真剣に考えている表情を捉え、それから素直な行動を起こしていく、それ自体がストーリーとなっていく。そしてそれは、“スクリーンに起きていることを見て心を動かされる”という映画の原始的な喜びとなる。
ジグザグ道三部作へ
そして、この『友だちのうちはどこ?』から数年後、撮影地の村を襲った大地震をきっかけにして作られた『そして人生はつづく』では、映画に出演した男の子を探しに行く監督と息子という設定を使いながら、現地での取材のように見えるが、ささやかなマジックのような偶然などが用意され、映画に織り込まれる。さらにこの作品での裏話を基にして、今度は映画撮影自体をも物語に組み込みながら純粋な恋物語にしてみせる『オリーブの林をぬけて』。“ジグザグ道三部作”と呼ばれるこの3つの物語は、作品を重ねるにつれ多層的なメタ構造になっていく面白さがありつつも、なにか絵本のような、シンプルな“お話”としてのまとまりが1本1本にあり、心が気持ちよく揺さぶられるのが魅力だ。
物語の萌芽
今回、ザ・シネマメンバーズでは、長編第一作目の『トラベラー』と、『友だちのうちはどこ?』の後に撮られたドキュメンタリー『ホームワーク』を加えた5作品のラインナップとなっているが、『トラベラー』は、ロベルト・ロッセリーニの系譜というか、イタリアのネオレアリズモ直系の仕上がりといった趣だ。そして、少年がカメラで人々を撮影するシーンでは、アウグスト・ザンダーの『20世紀の人間たち』のポートレイトを見ているような気分になる。
『トラベラー』でも『友だちのうちはどこ?』でもそうなのだが、子供たちにとって宿題がいつだって問題だ。読んでいることを書き取らせることを徹底させる学校教育は、同時に親の識字率の低さを浮き彫りにしてしまう。それらのことが子供たちの口から語られる『ホームワーク』は、リサーチの形をとったドキュメンタリーだが、大人が怖くて泣きじゃくり、友だちにそばに居てもらいながらインタビューを受ける子供が詩を暗唱する。その姿とその詩の美しさに、何度見ても新鮮な感動をおぼえる。
そして、この『ホームワーク』では、キアロスタミが道端で撮影中に話しかけられ、それに応えるシーンがあるのだが、「劇映画ですか?」と訊かれ、キアロスタミは、「さあ、今はまだわからないが―」「劇映画にはならないだろう」と話す。何気ないやり取りではあるのだが、リサーチ型のドキュメンタリーを撮影しているのだけれども、もしもその中に“物語”の萌芽をみつけたら、それを劇映画にするかもしれないといったキアロスタミの現実、フィクション、映画に対する姿勢のようなものが感じられる一言だと思うのは考えが過ぎるだろうか。
そして、この『ホームワーク』では、キアロスタミが道端で撮影中に話しかけられ、それに応えるシーンがあるのだが、「劇映画ですか?」と訊かれ、キアロスタミは、「さあ、今はまだわからないが―」「劇映画にはならないだろう」と話す。何気ないやり取りではあるのだが、リサーチ型のドキュメンタリーを撮影しているのだけれども、もしもその中に“物語”の萌芽をみつけたら、それを劇映画にするかもしれないといったキアロスタミの現実、フィクション、映画に対する姿勢のようなものが感じられる一言だと思うのは考えが過ぎるだろうか。
もし気が向いたら、『トラベラー』、『友だちのうちはどこ?』、『ホームワーク』の順で観ていただけると、キアロスタミの作品のエッセンシャルな部分を、より感じ取っていただけることと思う。
「友だちのうちはどこ?」
© 1987 KANOON
「オリーブの林をぬけて」
© 1994 Ciby 2000 – Abbas Kiarostami
「トラベラー」
© 1974 KANOON